[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
| |
武田信玄
2
:
???
:2025/05/21(水) 00:49:59
1988年のNHK大河ドラマだと第12回「海の北条」で杉良太郎 氏演ずる相模国主・北条氏康が初登場となるわけだけど、、
上田原の戦い(1548年)から1年ほど後のストーリーらしい同回に1540年生まれとされる同家重臣・松田康郷まで成年武将としていきなり登場してくる(OPクレジットに演者・北村総一郎 氏の名有り)のは、制作時点で未だ松田康郷に関わる確度の高い生年の手掛かり無かったから?
1530年出生説が一般的とされるもう1人の重臣・松田憲秀から出さなかったのはどういう事情であったのか・・・。
・・・
3
:
???
:2025/06/07(土) 22:13:26
>
> ttp://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1706404525/337
>
↑歴代大河ドラマのうち翌年以降の再放送が地上波で実現したのって元々「武田信玄」が、いの一番(2000年)だったけどな。
それより前だと大河作品じゃなく新・大型時代劇になるが、1991年秋〜師走に「武蔵坊弁慶( 中村吉右衛門、川野太郎ほか… )」の再放送( 月〜木だが月〜金の日中午後で首都圏ローカル限定だったかもしれない )が行われた程度…。
…
4
:
???
:2025/06/28(土) 17:12:48
>
> ttp://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1706404525/353
>
↑湖衣姫の生前は貴一も未だヒゲ蓄えず現代風の台詞回し混ぜ込んだり、多少明るめの演出入ってたんだよな…。
↑
5
:
???
:2025/06/28(土) 17:34:06
〔 武田信玄
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84
・・・■肖像画
伝吉良頼康像
(九品仏浄真寺蔵)
従来信玄像とされた能登畠山氏像
(模写、原典は成慶院所蔵)
信玄の肖像画は同時代のものが複数存在し、和歌山県持明院所蔵の『絹本著色武田晴信像』、高野山成慶院所蔵の長谷川等伯筆『絹本著色武田信玄像』(重要文化財)が知られる。
前者は信玄の供養のため奉納されたと伝わる肖像画で、青年期の晴信が侍烏帽子に直垂という武家の正装姿で描かれており、直垂には武田家当主・甲斐守護職であることを示す花菱紋が描かれている。後者は、勝頼が武田氏の菩提所である成慶院に奉納したと伝わる肖像画で、壮年期のふっくらとした姿で頭部には髻があり、笄や目貫に足利将軍家家紋「二引両紋」のある脇差が描かれている。
三条家とも関わりのある絵師・長谷川等伯によって描かれ、信玄正室の三条夫人の叔父を描いた『日堯上人像』と同時期に描かれている。また、高野山成慶院には信玄の弟信廉が描き勝頼が奉納したとされる肖像があったとされ、原本は伝存していないが写が現存している。
同時代では、信玄は肖像画以外に不動明王のイメージで自らを描かせているが、イメージは不確定であった。
江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、軍配を持ち赤法衣と諏訪法性(すわほっしょう)の兜に象徴される法師武者姿としてのイメージが確立し、狩野探信や柳沢吉里(柳沢吉保の嫡男)により描かれた信玄個人の肖像画[68]や武田二十四将図、歌舞伎や浄瑠璃の演目『本朝廿四孝』、これを描いた役者絵や武者絵などにおいて定着した。
明治期もこの流れを引き継いでいるが、顔貌の描き方は統一されていなかった。しかし、松平定信編纂の『集古十種』(寛政12年(1800年刊))で既に成慶院本が「武田信玄像」として紹介されており、これが明治40年頃に東京帝国大学が発行した教育用掛図の中に採用されて普及し始め[69]、今なお信玄の一般的なイメージとして知られている。
甲府駅前や塩山駅前に建てられている銅像なども、そのイメージは成慶院本がモデルとされた。ところが、歴史学者の藤本正行は、
〔 勝頼の書状には像の図様が書かれておらず、成慶院本がそれに当たるか判別できない。成慶院本は、『集古十種』以前に信玄像として扱われたことはなく、また『集古十種』にはしばしば誤りがある。信玄の末子信清の家系である米沢武田家の史料に、成慶院の肖像は逍遙軒筆とあり、等伯が描いた現在の成慶院本と矛盾する。
39歳で出家し剃髪したにもかかわらず、後鬢が残されている。服や刀の家紋が武田花菱紋でなく、二引両紋(足利氏や畠山氏)である。旧説支持者は足利将軍家からの下賜品と解釈するが、もしそうならばより権威が高く贈答品に用いられ肖像画の作例も多い桐紋が相応しく、また自家の家紋が全く描かれていないのは不可解である。
(持病の)労咳や癌で死んだと言われる割には、身体がふっくらしている。右側に止まっている鳥は、当時の甲斐ではあまり見られない鳥種であった。
絵師は能登出身の長谷川等伯であることは間違いないが、この時期に能登から出た形跡が無く、信玄との接点は薄い。旧説支持者からは多くの仮説が出されているが、どれも成慶院本を信玄像とすることを前提としており、史料的な裏付けもない。 〕
・・・などの疑問点から、成慶院本の像主は能登・畠山家の誰か、特に畠山義続の可能性が高いという説を出している。そのため、最近の教科書では成慶院本の画像は使われず、もっぱら持明院本の画像が採用されることが多い。
なお藤本によれば、花菱紋が大量に描かれ、具足の描き方などが時代的によく合っているという論拠から、東京都世田谷区の浄真寺所蔵の『伝吉良頼康像』こそが、本来成慶院にあった逍遙軒の描いた信玄像の忠実な模本であるという。
また、江戸期に描かれた他の模本類でも、前述の高野山成慶院にあったという逍遥軒筆の信玄像は、この『伝吉良頼康像』に類似する[70][71]。
更に信玄の法名「徳栄軒」と、畠山義綱の戒名「興禅院華岳徳栄大居士」に注目し、元々成慶院本に付属していた箱書きや讃文に書かれていたであろう「徳栄」の文字が、後世の人々に信玄像と誤認させたのでは、という指摘もある[72][注釈 24]。
しかし美術史家からは、肖像は描かれた状況からどう描いたかを考えるべきで、図像から像主を判断するのは順序が逆だとして、こうした見方に反対する意見も根強い[73]。しかし、こうした反論は説得性を欠き、もはや決着はついたとする研究者もいる[74]。 〕
〕
6
:
???
:2025/06/28(土) 17:57:19
>
> ttp://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1706404525/348
>
↑やはり同年秋以降の世情じゃ序盤並みの快活シーン回数を維持し続けるのは無理だったろうな。
星野仙一が初V!の中日ドラゴンズもビール掛けを取り止めに…
〔 井上陽水さんが出ていた、車の宣伝について(約20年前) - 確か...
ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1037322905
CMtod********tod********さん2010/2/27
確かセフィーロとかいう車のCMで「お元気ですか〜♪」というのがあったのですが
あれは苦情で打ち切られたと聞きました
真偽とそのクレームの概要を知っている方教えてください
---
ベストアンサー 2010/2/27
あのCMが放送された1988年(昭和63年)当時は昭○天○の病状が深刻な状況になってきていて、日本全国が自粛ムード一色になってきていました。華やかなイベントも次々中止されて、日本国民全員で○下のご回復を祈る、という雰囲気になってましたね(実際は末期がんで余命いくばくもなかった状況でした)。
その中で陽水さんのコマーシャルのセリフ「みなさ〜ん、お元気ですか〜」が「宮さ〜ん、お元気ですか」に聞こえて、「○下がご病気と闘っていらっしゃるのに、お元気ですか、というのは不謹慎ではないか」というクレームが右翼系の団体を中心に民放テレビ局や日産自動車に多数来たため、
日産および各民放は国民感情に配慮する、という形で「みなさ〜ん、お元気ですか〜〜」の部分の音声を消してそのCMを放送するようになりました。 〕
7
:
???
:2025/07/16(水) 09:39:56
( ttps:// ose .org/novel/118932/57.html
・・・コホンと一つ咳をする奥村助右衛門。 「隆広様、まずは勝頼殿と信勝殿の首を大殿と若殿に」 「そうだったな。では行くか」
水沢隆広と奥村助右衛門が武田親子の首を丁重に持ち、織田本陣にやってきた。本陣にいたのは信長と森蘭丸。そして明智光秀と隆広の知らない武将だった。隆広は信忠がいない事に気付いた。その表情から隆広の疑問を読んだ森蘭丸が答えた。
「若殿様(信忠)は、武田の残党掃討に出陣されている」「そうでござるか」
そして見た事のない一人の武将が床几に座りながら隆広に頭を垂れた。「(それがしは)徳川家康にござる」「こ、これは!」
急ぎ家康に姿勢を正そうとする隆広だが、家康は静かにそれを制した。 「かような気遣いは無用。さ、織田殿に武田親子の首を」「はい」
隆広と助右衛門は信長の前に台座に乗せた二つの首を差し出した。 「白布を取れ」 「ハッ」 武田勝頼と信勝の首であった。 「…梅雪とやら、間違いあらぬか?」
徳川家康の後ろ。そこに座っていた男が首まで歩み寄り「間違いござらぬ」 と、少しの笑みさえ浮かべてそう言った。
(梅雪…? 穴山信君か!?) 目の前にいる男の裏切りが武田滅亡の起因と言っても良い。隆広は信長に頭を垂れながらも激流のごとく湧く怒りを抑えるのがやっとだった。横にいる助右衛門がそれを察し、隆広の腿に手を添えた。
(隆広様なりませぬ。どんなに許せぬ男でも、こやつは徳川様についた者。口惜しいですが今は味方にございます。何一つ罵りを言ってはなりません)(…分かった。でも見たか。勝頼様の首を見たあと…アイツ笑ったぞ! 穴山はクズだ!) (…同感にござる)
穴山信君は武田勝頼、信勝の首を確認すると再び家康の後ろに戻った。そして信長は床几からゆっくり立ち上がり武田親子の首へと歩み、そして「ふん」 ガッ 「な…!?」 信長は勝頼の首を足蹴にしたうえに、転がる首にツバを吐いた。同じ事を信勝にもした。
「何と云う事を! 敵とはいえ同じ戦場を駆けた相手にござ…ッ!」
ゴォンッ! 信長の鉄拳が隆広の顔面に容赦なく叩き込まれた。たまらず隆広は吹っ飛んだ。 「隆広様!」 「大丈夫だ助右衛門…」 倒れつつも信長をキッと見据える隆広。信長は自分に逆らった隆広を特に叱る様子もなく静かに言った。
「笛吹川の河原に、このバカ親子の首をさらせ」 「なぜ敵将をそこまで辱める必要があるのですか…!」 「聞こえないのか!」 「隆広様…!」
主君隆広の悔しさを助右衛門は痛いほどに分かった。しかし信長には逆らえない。逆らってはいけない。自分とて目の前で主人を殴打されたのである。助右衛門も怒りを抑えるのに懸命だった。明智光秀が床几を立ち、倒れる隆広に歩み腰を下ろして言った。
「隆広殿、転がった二つの首が哀れにございます。ここはお引きなされ」
「明智様…」
光秀の後ろに座っていた斉藤利三や明智秀満も眼で隆広に光秀と同じ事を述べていた。 「分かり申した…」 改めて信長に鎮座し頭を垂れる隆広。
「つつしんで拝命いたします」 と、勝頼と信勝の首を拾い出した隆広に「ネコ」 「は…」 「その陣羽織は何じゃ?」 朱色の、背中に不動明王が描かれている武田勝頼から自刃の前に拝領した陣羽織。
「この陣羽織は武…」 「まあよい、さっさと首を持ち下がれ」「は、はい!」 勝頼と信勝の首を拾い、持っていた手拭で信長のツバを拭き取り隆広と助右衛門は本陣から立ち去った。光秀もホッとして床几に再び腰掛けた。その時… 「若いですなァ」
と、穴山信君が笑って言うと 「穴山っッ!!!」
信長は阿修羅さながらの形相をしていた。徳川家康、明智光秀も背筋が凍りついた。
「お前ごときもッ、あの若僧を笑う資格などないわっッ!!!!!」
穴山信君は震え上がり、床几から降りて平伏した。 「も、申し訳ござりませぬっッ!!」
「三河殿ッ!!(家康)」 「は、ははッ!」 「いかようにこの外道を使うもお手前の自由であるが、二度と余の前に連れてくるまいぞ!」 「しょ、承知いたしましたッ!!」
(ワシとて怒れる織田殿にはこうして怯えるばかりだと云うのに、あの若者の胆力たるや見事なものじゃ。あれでまだ二十か。将来どれほどのものになるかのォ)
・・・隆広は信長の命令である『さらし首』を実行しなかった。武田家十代信満の菩提寺栖雲寺の住職宛てに弔いを丁重に行っていただくよう懇願する書状とその代価。勝頼、信勝、相模の亡骸を埋葬した場所を示す地図。そして丁寧に包んだ勝頼と信勝の首を藤林忍軍に持たせた・・・ )
8
:
???
:2025/07/16(水) 09:40:55
>>7
( ・・・「申し上げます!」 使い番が来た。 「なんだ」 「大殿(信長)より、岩殿城を落とせとの命にございます」 「なにィ? 岩殿の小山田信茂は織田についた武将であろうが」 「はばかりながら…小山田信茂はすでに大殿に捕らえられてございます」 「何だと!?」
それは隆広と助右衛門が織田本陣を去った後の出来事だった。小山田信茂は信長の呼び出しに応じて織田本陣へとやってきた。信茂は武田勝頼を追い返した後に信長に降伏の使者を送り、そして降伏が許されていた。
「我が領地の安堵、恐悦に存じます」
「…ダメだな。気が変わった」
「は…?」
「一度裏切ったものは二度裏切る!」
信長は床几から立ち、信茂を指して命じた。
「小山田信茂を捕らえよ!!」 「「ハッ」」 信長の側近である馬廻りの兵士が信茂と一党を囲んだ。 「信長っッ!! 貴様ぁァァア!」
ザスザスッっ!!! 「ぐあああッッ!!」
小山田信茂は縛り上げられ、信茂についてきた家臣たちは数十本の槍に貫かれた。
「信長キサマぁ!!ァ!」 「勝頼を裏切るなど不届き至極っッ!!! 只で死ねると思うなッ!!!」 「卑怯なり! 一度降伏を受けし者を!」「他所の大名なればいざ知らず、織田家に裏切り者を遇する法はないわっッ!!! 今から貴様の家族を捕らえて皆殺しにしてくれる!!」
同時に陣にいた穴山信君を睨む信長。万一、信君が内通を申し出た対象が家康ではなく信長だったら間違いなく殺されていただろう。
「見せしめの処刑のため、小山田の家族は生け捕りにせよとの事にございます」 「小山田信茂の目の前で殺すためにか…?」 「御意」・・・ )
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板