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進化論と創造論の正否を論じる掲示板 -1-
生物の進化を考える場合、大きく分けで進化論と創造論の二つに大別されます。
進化論にも色々な考え方があり、創造論にも様々なバリエーションがあります。
そのそれぞれに関して、その正否を幅広く論じていきたいと思います。
これまで同じしたらば掲示板の「シン進化論と創造論についての第1掲示板」で
同じハンドルネームで投稿してきたので、興味のある方はそちらを参照してください。
知識の有無は問わず、進化論と創造論に関して興味があり、フラットな視点でその正否の議論を展開したい方の参加を希望します。
それはつまり、自然選択論が説く様に偶然によっては何事も成し遂げられる事はない、
と言う例えばなしです。
その例え話を木村博士は、一文字違っていれば消してまたその一文字を打ち直せば、
物語を完成させることは可能だ、と述べています。
その一文字が誤っていれば消して打ち直せばいい、と言っている訳ですが、さてその
一文字の正誤は一体だれが判断するんでしょうね?
その一文字の正誤を判断するためには、原典を横に置いて常に照合しなければなりません。
誰が???
どーやって???
そもそも原典は何処にあるんでしょうね。
その一文字が文章として成立し得るかすら、一文字だけでは判断来ません。
それにタイプライターで打った文字は消しゴムでは消せません。
そのページの最初から打ち直しです。
例え話とは言え、あまりにお粗末。
そして自然選択論擁護のレトリックは押し並べてこんなレベルです。
木村博士の提唱した分進化の中立説は観察結果から導かれるもので、世界的にも認知されている
科学的な業績と言えます。
しかしダーウィンを信奉する木村博士の信念が著書「生物進化を考える」の中で述べている
自然選択擁護論は中立説とは全く述べられており、内容は残念ながら稚拙なものです。
つまり中立説と自然選択論がそのまま結びつくことはありません。
彼自身もその著書の中で、中立な分子進化と表現型への橋渡しを後進に切望する旨述べています。
中立な分子進化と表現型における進化は未だに結び付けられていません。
それは取りも直さず中立説が自然選択論と無関係であることを示しています。
進化の説明として遺伝的浮動と言う言葉もよく用いられますが、これも定義が曖昧で正確な定義が出来ずに
使われている場合が多いですね。
そしてそれがどの様に進化において機能しているのか、それを明確に説明できている例は
殆どありません。
中立説をあたかも自然選択論を一部であるかの様に説明する人たちがいますが、これは何の根拠もない
「真っ赤なウソ」です。
遺伝的浮動(genetic drift)とは 集団の大きさが小さい場合,あるいは季節,飢餓などの要因によって集団が小さくなったとき,
偶然性によってある遺伝子が集団に広まる現象をいう.
この様に解説されています。
Wikiでは、
遺伝的浮動(いでんてきふどう、genetic drift)とは、無作為抽出の効果によって生じる、遺伝子プールにおける対立遺伝子頻度の変化である。[1]機会的浮動ともいう。
この対立遺伝子頻度の変化には自然選択の効果は含まれていない。
こんな解説です。
勿論ここには突然変異の話は何処にも出てきません。
それが総合説とやらでは自然選択と並ぶ進化のエンジンになっている、と説明されたりしています。
中立説の説明でも
生存に有利な変異が自然選択されるだけでなく、自然選択に対して中立な(有利でも不利でもない)変異が偶然的要因である遺伝的浮動によって集団内に蓄積し、
これが進化の主要な要因とみなされるという考え。
と説明されたりしています。
こんな事は木村博士は言っていません。
中立的な分子進化と表現型の進化の関係は不明と言っているのです。
つまり大嘘ですね。
遺伝的浮動による進化の実例は何か、と問われても明確な回答を出せる人は殆どいません。
つまり概念だけが先行して実態が全く伴っていない訳です。
それも遺伝的浮動が対立遺伝子の頻度変化のみの規定するなら、そこに直接突然変異は
介入していない訳で、突然変異無しで何故進化がなぜ起こるのか、誰もまともな説明はできません。
勿論実例すらない訳で、そんな馬鹿げた空論がまかり通っているのは呆れるしかありません。
それはつまり、中立説を何とか自然選択論に取り込みたい、或いはそれと並立させたい、偶然性の要素を
何とか進化論に取り込みたい、という意図に基づくトンデモナイ詭弁な訳です。
それは変異と浮動を混同しているという、極めて基本的な概念整理が出来ていないことにもよります。
対立遺伝子の頻度がいくら変わろうと、そこに遺伝子の突然変異を介在させる必要はありません。
この基本中の基本が押さえられていないんですね。
生物の全ての形態と生命活動を規定しるのはゲノムであり、ゲノムの変異が
生物進化の全てです。
これは誰にも否定できません。
つまりゲノムが変異しなければ進化も起りようが無い訳です。
対立遺伝子の頻度変化とゲノムの変異は全く別の事柄であることは言うまでもない事です。
頻度変化は遺伝子の突然変異を必要としません。
何故かそれが理解できない訳です。
ゲノムの変異とはつまり突然変異です。
従来なかったゲノムが誕生する、変異する、その変異が突然変異です。
この突然変異に関しても理解が非常に混乱しています。
混乱している、というよりは突然変異の原因をエラーとした捉えられていない、
の言うのが実状です。
エラー若しくは何らかの外部要因による損傷、それ以外に突然変異の原因を考えることが出来ない、
と言う訳です。
その考え方に従えば、変異は全てエラーの産物、進化も同様、この人間もエラーの集積結果である、
と言う話になります。
そしてそれでおかしい、とは思わない訳です。
これは高名な研究者もすべて同様です。
勿論通常観察される突然変異の原因の殆どはエラーです。
そしてそれが有益な結果をもたらすことは殆どありません。
エラーだから当然ですね。
そのエラーにエラーを重ねて生物が進化してその挙句人間が出来上がったんですか、
って話です。
ノーベル賞科学者で自己組織化を提唱し突然変異研究に関するエキスパートである、マンフレート アイゲン、
木村博士の共同研究者である太田朋子氏も突然変異はエラーと断定し、それ以外の
可能性については全く考察がありません。
考えるつもりすらない様ですね。
その様に規定してしまえば上述のような話になる、その結論までは十分に考えが及んでいない、というしかありません。
分子進化は中立であり、その進化速度は一定である、とする中立説の言うところの
分子進化はつまり突然変異そのものです。
その変異がエラーである、と規定している訳でそれ自体が重大な自己矛盾を孕んでいることに
何故か気づかない訳です。
生物の形態は全てゲノムによって規定されている訳ですから、形態の変化であるところの進化が
ゲノムの変異そのものであることは自明です。
それにも拘らず、ゲノムの変異である突然変異の実態とメカニズムの解明究明をそっちのけにして
自然選択がどーた、頻度変化がこーだといくら言葉をこねくり回してレトリックを
弄してみたところで実際何の意味も持たない事に気付かずにいるのは滑稽でしかありません。
生物細胞には極めて強力なゲノム損傷に対する修復機構が備わっており、ゲノムの
エラーによる損傷確率を3〜4桁引き下げます。
その結果転写ミス等によるエラー確率は10の9乗分の1程度とされています。
突然変異が全てエラーであるとするなら、このゲノム修復機構を搔い潜ったエラーが
生物の変異、つまり進化をもたらしたという話になります。
そしてエラー、損傷であれば基本的に有害なはずなので、それをさらに排除した上で
有害な変異よりはるかに確率が低いと思われる意味のある変異が積み重なる事が出来たので、
進化が起こった、という話になります。
実際観察されているDNAのエラー、損傷は殆どが有害なものです。
これが真実だと、どう考えれば信じられるんでしょうね。
それを説明する唯一の解、つまり進化をもたらした突然変異が発生するその理由を
説明するためには、未知の何らかのシステムによりエラー、損傷ではない突然変異が起こり得る、
と考える以外にない訳です。
有害な突然変異は自然選択によって除去されるので、ごく僅かでも意味のある突然変異が
積み重なって進化する、と言う様な主張をする人たちもいますね。
これも全くの絵空事です。
何度も言うように、エラー、損傷によって発生する突然変異は基本的に有害です。
それがDNA修復機構をかいくぐって発生したとしたら当然生存は制限されます。
自然選択云々の話ではありません。
そしてエラー、損傷の結果として有意な突然変異が発生したとする観察事例は殆ど存在しません。
仮にその様な突然変異が発生したとしても単発では意味がありません。
ある特定の方向性を持って継続的に発生し続けないと進化は成し遂げられません。
それが可能であると考えるのは、は正に妄想の類です。
実験室などで化学薬品や放射線等による人為的な処理を加えたものではない自然状態で発生する
突然変異を自然突然変異と呼びますが、この自然突然変異の原因も
現在エラー以外の理由付けはなされていません。
中立説における分子進化は基本的に有利でも不利でもないとされますが、これもエラーの産物であれ
基本的に不利であるはずです。
突然変異の態様をエラーとしか捉えられなければ、進化における遺伝子の変異は全てエラーの産物、
という話になります。
人間もエラーの塊、と言う訳です。
それも偶然の。
それを単純に信じ込んでいるのか、そこまで考えが至っていないのか、何れにしても
とても理解し難い世界ですね。
突然変異には塩基一つが入れ替わる点突然変異、挿入、欠損、遺伝子重複等があり、
それはは何れもエラーによっても発生します。
エラーである場合はそれは生物にとって基本的に有害です。
しかし重複遺伝子は進化において極めて重要な役割をはたしています。
それは遺伝子のスペアの製作であり、生命体に有害な影響を与えればそれが進化に繋がることは
決してないでしょう。
脊椎動物の誕生時、全ゲノム重複というイベントが複数回起こったことが現在推測されています。
それもエラーですか?
エラーであれば基本的に有害。
進化の大イベントではこういった全ゲノム重複、遺伝子重複と言った遺伝子のスペアを
用意してておくことにより、大規模な変異が成し遂げられるのです。
言うまでもなく、これは自然選択や遺伝的浮動とは全く無関係の世界です。
関連付けようもありません。
そんな存在しもしない幻影をいつまでも追いかけ続けるのではなくて、やるべき事は
その様なゲノムの変異の探求、解明です。
もういい加減気付いても良さそうなもんなんですがね。
全ゲノム重複はゲノム変異上のビッグイベント、それは取りも直さず進化上のビッグイベントであり、
原生動物のDNAの解析から、
「4億5000万年以上前に2種の魚類が交雑し、その過程で2倍の染色体数を持つ新たな雑種が生まれました」
それが多様な有顎脊椎動物の誕生を生んだ。
という主張もなされています。
ゲノム重複、重複遺伝子はスペア、つまりゲノムの冗長化であり、それが生物の劇的な進化をもたらした、
と考えられますが、実際その詳しいメカニズムは未解明です。
重複遺伝子が環境適応性を高度に高めることは現在よく知られていますが、進化において
実際具体的にどのように作用してきたのかも未解明です。
何れにしろその辺りの過去におけるゲノム上に発生した一連のイベントが進化のカギを
握っているとみて間違いないでしょう。
この一連のイベントにすら、自然選択のモデルを持ち込もうとする向きがあります。
この辺りでまたダーウィンとその自然選択論に少し話を戻しましょう。
自然選択の中核概念は競争原理です。
それは「種の起源」の標題にもなっていますね。
そしてこの自然選択における競争原理のアイデアは生物進化研究者達に深く浸透しており
殆ど無意識的にその概念を援用したりしています。
この進化における競争原理の概念こそが多くの誤った結論を導く原因になっています。
進化において「競争原理」の概念を導入することが根本的に誤りであることを自覚できないでいると
何時まで経っても進化の真実は見えてきません。
原初生命体の誕生、真核生物の誕生、多細胞生物の誕生、有性生殖の誕生、
これらカンブリア大爆発以前に起こった進化上の重大イベントは
全て競争原理とは無縁です。
進化とは、個々の生物の単位で言えばゲノムの変異そのものであり、
歴史を概観すれば複雑化と多様化です。
これは、化石証拠を辿れば否定しようのない事実です。
過去は化石証拠でしか辿れません。
この多様化と複雑化も競争原理とは無縁です。
ダーウィン流の競争原理とは、競争に有利なものが生き残る、です。
単に個体の繁殖を競うのであれば、多様化も複雑化も邪魔にこそなれ、何の有意性も
生みません。
それをまたダーウィニストたちはレトリックを弄してデタラメな言い訳を試みる訳です。
ダーウィンは、無知ゆえか或いは意識的に避けたのかどうかは知りませんが、
何故かこの進化「複雑化と多様化」を言う厳然たる事実に対しての言及がありません。
そもそも彼は当初「進化(evolution)」という言葉自体を使っていませんでしたからね。
つまりそもそも彼の描いたグランドデザイン自体が進化の事を何一つ説明していない訳です。
か彼がひたすら主張し続けたのは、種は変異するという事実であり、そういう意味でも彼が
進化論の創始者と位置付けるのは誤りです。
実際ラマルクは彼以前にすでに進化論を提唱しています。
複雑化と多様化を説明できない、というのはつまり進化を説明できない、という事です。
ダーウィンには進化論者としての資格がありません。
それは取りも直さずダーウィニズムの流れをくむ現代の学会の主流たる総合説論者も同様、
という事です。
つまり彼らは「何一つ」進化の真実を説明していないのです。
それで進化論者を名乗っている訳ですね。
進化を説明できない進化論者、と言う話です。
説明が出来ていないのにしたつもりになっている、されたつもりになっている。
これが「種の起源」におけるダーウィンの説明とその解釈です。
これは現代の総合論における自然選択と遺伝的浮動の説明においても全く変わっていません。
実際の所全ては机上の空論であり、事象の説明は「このように考えれば説明できる」と言った
レトリックをもて遊んでいるだけに過ぎません。
そこに事実による厳密な科学的証明は存在しません。
それが何故科学と呼べるんでしょうね。
競争原理を持ち込むと生命の複雑化と多様化が説明できない、と言うのはつまり競争原理では
進化の現象を結局何も説明できない、という事と同義です。
それにも拘らず、未だに大多数の進化論者と称する人たちは競争原理を市場のものとしています。
何時まで経ってもダーウィンの「生存のための闘争」の妄想に引きつられている訳です。
競争原理を至上のものとする、と言う愚かな思い込み。
競争原理が適用されるのは人間の社会においててあり、それは生物の日々の営みの世界の話です。
生物進化と日々の営みが混同されている、その区別が付けられないでいる訳です。
自然選択も同様です。
環境による生存の制限と、ゲノムの変異によってもたらされる進化の区別が
付けられないでいる訳です。
つまり、未だにダーウィニズム信仰が止められないのは、
思い込み、混同、無理解、そしてアカデミズム的な自己保身本能です。
それは半ば無意識的に彼らの内奥に潜んで彼らの思考を支配しています。
従って自己検証も出来ない訳です。
そしてその思考パターンが信仰と同一であることに彼らは気付いていないのです。
もう一つ、彼らをダーウィニズムに縛り付けているものに、
宗教に対する嫌悪、或いは宗教的なものが非科学的であると言う強い思い込みがあります。
つまり、ダーウィニズムを否定するとそれが神的な非科学的な存在の肯定に繋がる、という思い込みです。
これはID論を宗教として片づけたい、そう極めつけることしかできない、この思考回路と同一です。
ID論が宗教ではないことは繰り返し述べてきましたが、それを信じたくない人たちも
一定数存在します。
勿論彼ら自身が宗教的なドグマの虜であることに当人たちは気付いていません。
科学には禁忌は無いのです。
それを存在させてはいけません。
禁忌の存在を肯定した時点でそれは科学ではなくなります。
つまりあらゆる可能性を検討することが科学なのです。
その科学の基本たる前提を理解しようともしないで、多くの人たちが科学を語っています。
例えば設計者の存在を頭ごなしに否定することが科学である、と思い込んだりしている訳です。
ダーウィンが生まれたイギリスで特にダーウィン信仰が強い様です。
ニュートンと同列に扱われたりもしています。
唯物論信仰の強い日本の状況もそれと大差ないですね。
それはつまり信仰であり、基本的に信仰の母体は無知です。
その自らの状況に気付かない人達を愚かと呼ばずに何と呼べば良いんでしょうね。
ChatGPTは簡単に論破できますね。
完全に答えに窮するとエラーになります。
そして意外と素直に誤りを認めたりもします。
以下、ChatGPTのこちらの質問に対する回答の一部の転載します。
因みにChatGPTは一般の進化論を支持しているのでそれに対してこちらが突っ込んでいます。
===
確かに、ヒトとチンパンジーの遺伝子情報比較は、自然選択の具体例ではありません。
そのため、私の前回の回答は、進化論を支持しています、とする具体的な証拠を提供しているとは言いにくいです。
また、鳥のくちばしの形状の変化に関しても、その原因が自然選択であるかどうかは明確ではありません。
確かに、ゲノムの環境応答性などの重要性によってくちばしの形状が変化する可能性があります。
鳥のくちばしの形状の変化が自然選択の証拠であるかどうかは、もっと詳細な研究が必要です。
===
フィンチの嘴の変化をゲノムの環境応答性でも説明できると認めた点は評価できますね(笑)
時間はかかるが回答は出るようですね。
別の質問で、ID論は宗教か?と尋ねたことに対する回答です。
===
ID論(Intelligent Design)は、科学と宗教の間に位置する論理的な議論の分野です。必要に応じて主張します。
しかし、ID論は、特定の宗教的信念を制限としているわけではありません。 一部の宗教団体や信徒は、ID論を支持している場合がありますが、ID論自体は、宗教的信念を必要としていますとしない立場であると主張されています。
ただし、ID論が科学的理論として認められるためには、科学的方法論に従って検証可能であることが求められます。ID論は、この要件を満たすかどうかについて、科学的コミュニティ内で論争があります。
===
まあ、まっとうな内容ですね。
必要としていますとしない立場⇒必要としない立場
ですね。
自然選択論が事実によって証明されていない、という点に関して、ChatGPTとの対話において
完全勝利しました。
つまり、ChatGPTが自然選択論が科学的に明確には実証されたことは無い、という事実に
同意したのです。
===
はい、複数の変異が存在し、その中から選択されないことが示されている場合は、
自然選択が働いていることを証明することは観察できません。た現象が説明される可能性があるため、
科学者たちはそのような可能性を否定するために、複数の実験や観察による証拠を積み重ねることが
必要です。
===
上記はChatGPTの回答の一例ですが、前述したゲノムの環境応答性の可能性、もう一つ、上記の
尖閣市の不存在、この2点に関してChatGPTは最終的に自然選択論であることの実証例がない事を
認めました。
人間と違って、最終的にChatGPTは素直です。
選択肢の不存在、です。
この点もChatGPTはすぐ理解しましたね。
選択肢の不存在、つまり選択肢が複数存在していたことを証明できないのは
自然選択論の致命的な欠陥です。
ChatGPTも最初は自然選択論の証拠はいくらでもある、と強弁していましたが、
選択肢の存在の証明を求めるとあっさりその不存在を認め、自然選択論が証明されたものでは
ない事を認めました。
その判断はある意味的確です。
人間では中々そうはいきませんね。
もう一つ、ゲノムの環境応答性についてもさすがに理解が早かったですね。
環境に対応して遂げた変異に対して自然選択ではなくてゲノムの環境応答性である可能性を
示すと、すぐに理解し同意しました。
まあ、基本は賢いという事です。
自然選択論、つまり自然が選択をする、と言ってる訳です。
選択するためには当然複数の選択肢が必要です。
選択肢が一つだけでは選択することになりませんね。
これは基本中の基本ですよ。
その点を非常に多くの人たちが見逃しています。
一体何故なんでしょうね。
in the Struggle for Life=生存闘争の中で
ダーウィンの種の起源の標題で使われている言葉です。
生存闘争の中で、自然選択という手段により、となります。
闘争ですから戦う相手がいるんですね。
闘争の勝者はつまり自然が選択している訳です。
一方で当然選択されなかった敗者も存在します。
ダーウィンもその様に言っています。
そしてその敗者が存在した証拠は何処にもありません。
ついでですが、
On the Origin of Species=種の起源について
という標題に反して、同書の中で述べられているのは種が変異するという事のみで
その起源自体には何一つ触れられていません。
変異する前の種は示せても、そのそもそもの元の種が誕生した起源については何一つ説明出来ていません。
つまり標題からして人を欺く内容となっている訳です。
ダーウィン大先生には申し訳ないですが、暫く「種の起源」の記述を基に彼の批判を
続ける事にします。
はっきり言って、彼のロジックの展開の手法を把握してしまうと、この「種の起源」は
読めば読むほどそのうさん臭さにに耐えられなくなります。
勿論本人は極めて真剣に勤勉に取り組んでいる訳ですが、その発想、構想が根本的に誤っている為、
それに対して異常に固執し続けた結果そうなってしまった、という事なんでしょうね。
もっともうんざりするのは、自説の難点の存在を認めながらも最終的には一歩も譲歩するつもりがなく、
事実としての証拠を示すのではなくて常に言い訳のレトリックを弄するだけで、絶対に自説が
誤っているとは認めようとしないことです。
場合によっては論点を逸らしたりもします。
しかし彼の建前は、事実の前には何時でも自説を撤回する準備がある、なんですね。
その辺りのダーウィンの精神構造は、申し訳ないですがちょっと理解しかねます。
少し話が戻りますが、ChatGPTはゲノム情報の暗号性に関しては理解が極めて鈍いです。
暗号情報の生成には知性が必要あり、生命が誕生するためにはそのゲノムの情報が予め
用意されていることが必要であることをどうしても十分に理解できない様ですね。
再びダーウィンの話です。
種の起源の中で述べられている本能の章も酷いですね。
本能の本質から目を背けて、それがあたかも正当な事であるかの様か書きぶりです。
本能の本質は生命理解の上で極めて重要で且つ極めて解明困難な問題です。
そこから目を背けて居直ったように平然としています。
彼がひたすら語ろうとしているのは本能も変異する、という事だけです。
勿論それが科学者の態度ではないことは言うまでもありません。
またChatGPTの話ですが、こちらの主張したゲノムの環境応答性の意味をこちらが想定した
趣旨通りに理解していない可能性もありますね。
私が主張しているのは、ゲノムの持つ機能として環境に応じて自らのゲノムを変異させる能力の
事です。これはかなり大胆な仮説です。
ChatGPTはそうではなくて通常の生命体のゲノムの持つ機能としての環境応答性と理解している可能性が
あります。
当然ゲノムにはその様な機能も潜在しますが、それはゲノムの変異を伴いません。
私が提唱しているのは、進化に繋がるゲノムの変異を生む環境応答性です。
例えばレンスキーの大腸菌培養実験において12系統うち1系統のみが作戦演色性機能を獲得しますが、その機能には
少なくも2つの新しく発現した遺伝子が関わっていることが認められています。
いうまでもなく突然変異ですね。
その様な新たな遺伝子の発現がゲノムの持つ環境応答性によってもたらされた、という考え方です。
ChatGPTがそこまで理解していたのかは結構疑わしいですね。
ダーウィンは「種の起源」の最後の最後の結びの文章で、結構美しい言葉を記しています。
「生物はそのいくつかの能力とともに創造によって最初少数の形態またHは一つの形態に
吹き込まれたものであり、...」(第6版堀約」
この結びの文章に異論はありません。
残念ながら他にはあまり見当たりませんが。
ダーウィンはここで「創造によって」と述べていまね。
何故この言葉が最後の最後に出てきたのか良く分からりませんが、もしかしたらここに
彼の彼の生命認識の隠れた根源がそこにあるのかも知れません。
それはダーウィンが熱弁を続けた自然選択論とどう考えても折合いが悪そうです。
ダーウィンは基本的に宗教を嫌っていました。
同時に唯物論者と呼ばれることも嫌悪していました。
中々複雑ですね。
ダーウィンがずっとターゲットにしてきたのは宗教的創造論です。
そこでは確かに種は一切変異しないと主張されます。
一方で有神論的進化論に対しては何故か全く検証した形跡がありません。
種の起源の中では豊富な事例を挙げて論証しているように見えますが、
彼が見ていたのは実は極めて狭い世界です。
その狭い世界の中で、ずっと同じ主張を繰り返し述べている訳です。
宗教的創造論とは、例えば旧約聖書に書かれたキリスト教的創造論の意味です。
本能の話と言えば、ファーブルですね。
ファーブルの見解は自らの昆虫の観察に基づいており、つまり基本的に事実に立脚しています。
彼は「本能は、獲得されるものではなく、もともと具わっていたもの」と明言します。
ダーウィンの様に、本能の本質から敢えて目を背けるようなことはしません。
ジガバチの話は有名ですね。生まれながらに麻酔の名人、という話です。
ガの幼虫の極めて限らた一点に針を刺し死に至らしめず食用にする話です。
それはダーウィンが述べるように何らかの過程を経て獲得されたものでは無くて、最初から生まれながらに本能として
備わっている本能だと言う主張です。
極めて詳細な観察の結果であり、正しいでしょう。
これに対してダーウィンが有効な反論したという記録はありません。
ファーブルはダーウィン進化論の痛烈な批判者であり、昆虫記のターゲットはダーウィン進化論です。
ダーウィンと同時代に主張されたファーブルの批判は未だにダーウィニストによっても
克服されていません。
ファーブルは昆虫の狭食性も問題にしています。
パンダが笹しか食べない、これも同様に自然選択論では説明困難です。
パンダは通常動きが緩慢で捕食者としての狩猟能力に欠けており、また他のクマ科のクマの様に肉を食物と感じる味覚も
ありません。
竹笹を食物とするためにその味覚も消化器官も特化しています。
これは自然選択の結果では勿論なく、最初からパンダに生存のために与えられた戦略システムです。
つまり生まれながらして、ですね。
他の動物と競合しない竹笹と食べ続ける限り、パンダに如何に狩猟能力が無くても
決して飢えることはありません。
その巨体と相俟って競合する動物たちと争うことなく彼らの生存の安全は保障され、
他の動物たちではありえない無邪気さを人間に観察させて見せることが出来るのです。
コレだけ無防備な姿を平然と曝せる動物は、パンダ位しか存在しません。
つまり彼らは戦う必要が無いのです。
自然選択論の中核は競争原理です。
しかし進化がこの競争原理で導かれることはありませ。
競争原理はコスパが極めて悪いシステムです。
それは敗者を必要とするので、その敗者の生産という余計で無駄なコストを支払う必要があるからです。
そして、繰り返し言ってきましたが、この敗者が存在したという証拠は何処にもないのです。
生存に有利な者が生き残る、どころではなくて、生存し生命活動を行っている自体が
既にとんでもなく周到で膨大なシステムに支えられて初めて可能な事なのです。
ただ何となく存在してるものなどないのです。
最も単純な原核生物ですら、その背後には巨大なその生存を支えるシステムが潜んでいます。
それは現代科学が明らかにしてきた事です。
いくつかの選択肢を提供して自然様にその選択を仰いでいる間に、簡単に生物は絶滅してしまいます。
いつまでそんな妄想の虜になっているんでしょうね。
もう一つ、自然選択論が語られる際に決定的に見落とされている点があります。
それは選択されるとするその優位な形質の変異がどの様な確率でで生存に影響するのか、
その検証が全く行われていないことです。
例えば、馬の首が1センチ伸びたらそれが生存率に具体的にどれだけ影響及ぼすのか。
1センチなら影響しないが10センチなら影響するのか。
それを本来であれば事実によって検証する必要がある訳です。
想像で、多分その方が有利だろう、ではダメなんですよ。
ダーウィンの主張は基本的に空想です。
この事実はこのように考えれば説明可能だ、
一貫してこのような表現で彼は自説の正当性を主張します。
これがその動かぬ証拠だ、自説はこのような化石証拠によって裏付けられる、
こんな話は皆無です。
それを未だに科学と信じ込んでいる愚かな人達が少なくない訳ですね。
「種の起源」を科学である、或いは科学的に論述されている、更には科学的な証明が述べられている、
この様な理解、若しくはこのような主張、
これはそもそも「種の起源」に何が書かれているのか知らない、或いは理解していない、
更には科学と何か、科学的証明とはどの様なものなのか、
それを知らない、理解していない、
という事にはかなりません。
彼ら、つまりその様に主張する人たちですね、そういった人たちにはダーウィンを語る資格も
科学を語る資格もありません。
その資格のない連中が、自分たちの圧倒的な無知と無理解を棚に上げえて
未だに偉そうに色々と言っている訳ですね。
ダーウィンを知らずにダーウィンを語る、科学を知らずに科学を語る、
更にはそれを許容する少なからぬ人たちが存在する、
これは一体何を意味するんでしょうね。
"On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life"
これが「種の起源」の原題ですね。
『自然選択という手段、または生存闘争の中で好ましいとされる種が保存される事による種の起原について』
これはWikiに記載されている和訳ですが、当初の訳があまりに稚拙だったので、こちらが編集して修正した訳です。
編集は誰でもできますからね。
ここでダーウィンは生存闘争、自然選択、という基本概念を提示しています。
それによって「種の起源」がもたらされると言っている訳です。
生存闘争、自然による選択、ともに競合者が必要ですね。
そして何度も言ってきたように、今日選択されなかった、つまり敗れ去った競合者が存在したという証拠は
ダーウィンが提示てきていないのみならず、化石証拠はもとよりあらゆる現象の中で観察された事実はありません。
そしてこれも前から言っていることですが、ダーウィンが同書の中で述べているのは
ただ単に種は変異する、という事のみで、そのそもそもの種が何故誕生したのか、それについては
一切触れていません。
最初の生命体の誕生はもとより、3大ドメインの誕生、動物、昆虫、植物の誕生、脊椎動物の誕生、
それらは同書では何一つ触れられていないばかりか、現在に至るまで全く謎のままです。
つまり「種の起源」の標題はそれ自体が全くの有名無実の妄想に過ぎません。
科学的方法論に何一つ則らない「種の起源」を何故未だに経典の如く崇めた鉄る人々が少なくないのか。
それは謎と言う他ありません。
勿論いくつかの理由は推測されますが、専門家と称する人たちも含めて、その無理解の上に成り立つ信仰が
何故いここまで強固なのか、中々想像が及ばない世界がそこにはあります。
当然彼ら自身は、自分たちが進化の真実の理解の足かせになっていることに気づく筈もありません。
選択肢の存在を示せない、生存率の計算が出来ない、
コレだけで十分に
自然選択論は科学失格です。
ダーウィンは「種の起源」刊行後、1871年に「人間の進化と性淘汰」を著しています。
自然選択では説明しきれない形質の変化に対して、異性に対する性の嗜好によって
進化を説明しようという訳です。
まあ、自ら自然選択論の限界を認めているといことでもあります。
異性に対する性的嗜好は本能そのものです。
それ以外の説明は困難です。
にも拘らず、本能の本質から目を逸らして性嗜好を進化の要因として持ち出している訳です。
前にも述べたように、本能の由来は極めて説明が難しい問題です。
そして、ファーブルも指摘する様に、それが最初から備わっていなければ生物の生存は保障されません。
ダーウィンはそれら全てを無視して持論を展開しています。
ダーウィンはそれまでのキリスト教的創造論を打破した革命的な業績を上げた、
と言う様な評価をする人もいますが、これも間違いですね。
前にも書きましたが、既にラマルクが進化論を提唱しており、ダーウィンもラマルクを
高く評価しています。
実際変異の考え方はダーウィンはラマルクの考え方をそのまま踏襲しています。
ラマルクは獲得形質の遺伝を主張して評価を下げている様な印象がありますが、
ダーウィンもラマルクと同様に獲得形質は遺伝すると考えています。
それ以前にダーウィンの祖父であるエラズマス・ダーウィンが進化(evolution)の
概念を提唱しています。
つまりダーウィンに進化論の創始者であるかのような地位を与えるのは全くの誤りな訳です。
変異をラマルクの様に用不用的に考えるのであれば、実はその上更に自然選択を
持ち出す必要は無いのです。用不用で変異が起こるのであれば、それをまた自然によって
選択させるというのはおかしな話です。用不用で進化の道筋は既に決まっている訳ですからね。
ダーウィンが変異の要因をラマルクと同様にしか捉えられないのであれば、そこから更に
自然選択を持ち出すのは同義重複です。
残念ながらダーウィンにはその程度の論理的整合性を取る思考が欠けています。
ダーウィンが熱中したのは、種が微細な変異を積み重ねて変異する、その変異は自然によって選択される、
と言う自身の強い思い込みです。
ダーウィン氏一人に罪がある訳ではありません。
それに続く人たち、1930年代の集団遺伝学者と称される一団、遺伝子の突然変異を
変異の要因として持ち出しそれを自然選択と無理やり接合した彼らとそれに無批判で
追従した人々、むしろそういった人たちの方が罪が重いと言えるかもしれません。
まあ、彼らはダーウィンの上を行くデタラメぶりです。
検証が出来ないんですね。
そしてダーウィンを合理的な根拠を確認することなく信奉する。
自然選択論の厳密な検証が出来ないんです。
そしてそれを科学と称したりします。
開いた口が塞がらないんですが、それをまた多くの人たちが易々と受け入れています。
自然選択の観察例としてよく持ち出されるものにガラパゴスフィンチがあります。
一部のダーウィニストたちは、これこそ自然選択の観察例だとお騒ぎしています。
かれらは、環境に応じた変異が観察されさえすればそれが自然選択だと考える訳です。
正気なんでしょうかね。
普通に落ち着いて観察すれば、それは単なる環境の変化による生存の制限でしかありません。
干ばつによって嘴の大きめのフィンチの生存率が高まっただけの話です。
一体そのどこが進化なんでしょうね。
一事が万事、ダーウィニストはこの調子です。
信仰の対象を求めている、そう考える以外に彼らの心理を説明することが出来ません。
その信仰の対象がダーウィンであり、尚たちの悪い事に彼らはそれが信仰であることに気付いていないのです。
変異しなければ進化はありません。
これは誰も否定できないですね。
先ず変異ありき、です。
従って最初に論ずるべきはその変異がいかなるものか、な訳です。
選択だどーだ、と言うのはその後にくる話です。
その変異の理由をどう考えるかでその後の議論は全く別のものになります。
ダーウィンはそれをラマルクの用不用的に考えました。
それは極めて重要な点の筈ですが、種の起源の中ではあまりその点に触れられていません。
そしてダーウィニズムを引き継いだ総合説では、変異の原因を無目的な遺伝子の突然変異と考えます。
つまり、最初のよって立つ基盤が実は全く異なっている訳です。
それを無視してダーウィンが突然変異を主張したなんて言うとんでもない間違えを
平然と口にする人たちもいます。
ダーウィンは変異の原因に対しての意識が希薄なせいもあり、その後の総合説との
区別が曖昧になりがちですが、変異の原因を突然変異と捉えた総合説は実はダーウィンの
自然選択とは別のモデルです。
そして、この総合説において、自然選択論の矛盾はより明白になります。
問題の核心は突然変異です。
何故突然変異が起こるのか、どの様な突然変異が起こるのか、
ここに問題の全てがあります。
ラマルクはダーウィンより50年以上前に生物進化を主張し、彼の描いたグランドデザインは
ダーウィンより余程優れたものです。
彼の主張した獲得形質の遺伝も、遺伝子の発見により基本的に否定されていますが、現在エピジェネティクス
(遺伝子修飾)は遺伝することが現在認められています。
エピジェネティクスは後天的に獲得され、それは遺伝子自体の変異ではありませんが、
遺伝子発現のオンオフを制御します。
それが遺伝することが現在確認されています。
さらに彼の構想は生物が単純なものから複雑なものへ進化するというもので、これは
進化の実態を正確にとらえたものです。
「生物学」(biologie)と言う言葉を最初に用いたのもラマルクで、その生物学の観点からも
殆ど無意味どころか進化論の混迷を招いているダーウィンに対して、本来遥かに意味のある存在です。
批判されながらも確固たる地位を築いたダーウィンに対してラマルクは不遇の生涯を送りました。
この不公平感は如何ともし難いですね。
何故突然変異が起こるんでしょう
名無しさん
ご質問、有難うございます。
お答えしますが、次回以降ハンドルネールの記載をお願いします。
匿名の遣り取りは基本お受けしかねます。
突然変異の原因に関しては、これまでも何度か書いてきました。
現在専門家、研究者も含めて、突然変異の原因はエラー、コピーミス、外的要因による
損傷等、殆どすべて何らかの不具合、ミスであると認識されています。
それ以外の認識が示された例を見たことがありません。
その認識に従えば、人間も含めて現在存在している生物は全てそのエラーの累積だと言う
結論になります。
それを信じられるのか、と言う話です。
生命体には強力な遺伝子のエラー修復機構が存在し、エラーの発生確率を3〜4桁引き下げます。
また、分子進化速度は一定とするのが中立説ですが、分子進化は突然変異そのものですから
突然変異をエラーとすればその累積速度は一定であり、尚且つそのエラーは中立である、
と言う結論になります。
基本的にエラーとされる突然変異は有害であることが観察されています。
エラーでないなら何なんですか
また、進化に重要な役割を果たしたとされる遺伝子重複もエラーであれば有害なはずです。
実際エラーで起こる有害な遺伝子重複も観察されていますが、生物のゲノム上に存在する多くの重複遺伝子は環境対応力を
高めることが知られています。
つまり、突然変異がエラーによるものでしかないとすれば、生命進化現象の説明が付きません。
では、エラーではないとすれば何故突然変異が起こるのか、それは現時点では全く不明です。
これも何度も言ってきましたが、ゲノム上或いはその周辺に何らかの突然変異を誘発する
未知のシステムがある、と言うのが仮説です。
現在の所その様に考える以外に、適切な説明は見当たりそうもありません。
遺伝子重複という突然変異はエラーですが、環境適応力を高める場合もあるということでしょうか
重複遺伝子が環境適応上有利に働くことは広く知られています。
遺伝子重複の原因は突然変異ではないんでしょうか
例えば東北大のショウジョウバエの研究で、
ショウジョウバエ属11種の生息環境多様性と重複遺伝子の割合の関係が
調べられた結果、強い正の相関があることがわかった。このことは、重複遺伝子が生息環境の決定に強く寄与している
ことを示している。
と言う報告があります。
>遺伝子重複の原因は突然変異ではないんでしょうか
だからそれは突然変異だと言ってますね。
ただそれもエラーが原因とすると、説明がつかないと言っている訳です。
生息環境が、どのように遺伝子の重複という突然変異をもたらすのですか
生息環境が遺伝子重複をもたらす、とは誰も言っていません。
重複遺伝子が環境適応性を高めている、と言うのが観察結果です。
重複遺伝子誕生の原因は誰も解明できていません。
エラーが原因でない突然変異というのは考えらないんですが
突然変異さん、エラーが原因ではない突然変異が存在する、と言うのが
私の主張です。
その理由を直近で書いていますね。
そしてそれは未知にゲノム乃至はゲノム周辺のシステムの存在を示唆している、
と言う主張も上で書いて言います。
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