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短詩人/Hyperion
517
:
秋魚
:2015/04/30(木) 19:30:25
(無題)
・・1793年、芭蕉翁百回忌。全国で華々しく営まれた中でも、本丸は、義仲寺であろう。五升庵蝶夢がしきった。
・・
1786 天明6年、『芭蕉翁俳諧集』(蝶夢編)刊。
1788 天明8年2月26日、木姿を伴い中山道を江戸に下る。重厚とともに江戸に滞在。『富士美行脚』
同年4月9日から加舎白雄は海晏寺で芭蕉百回忌繰上げ法要を行い、蝶夢も法要に参加。
1791 寛政3年梅人『続深川集』刊。蝶夢序。
同年粟津文庫創設。
1792 寛政4年、『芭蕉翁絵詞伝』完成。
1793 寛政5年、芭蕉百回忌法要を営む。
1794 寛政6年、五升庵の号を瓦全に譲る。
1796 寛政7年12月24日、64歳で没。
・・晩年の十年、芭蕉百回忌に向けた生涯の仕事だとわかる。
・・カツゾーの放浪の地平。蕉翁の旅の軌跡を追う。これは弟子のだれかれもやるし、もっとも通俗な想像力だろう。というか、想像がまったくはたらかない時、せっぱつまった時に選択する道だろう。最初の出奔はおそらく越後から山形の方へ向かった。奥の細道を逆コースで歩いた。象潟にもいってるはずです。昔の光景をとどめていなくてもいいのです。たぶん、足早に。東北を大きく迂回して江戸に入った。東北を歩いた痕跡は無くてもいいのです。
・・蕉翁のモニュメントがもっとも見えやすいのは、芭蕉百回忌(1793年)。これはまったく辺鄙な場所でも案内があれば向かったと思います。特に江戸滞在中は。でも、江戸で何をしていたのでしょうね。
・・俳諧三部集「越後獅子」に載る江戸の俳人たち。・・卓郎、不染、春湖、為山、氷壷、見外・・
カツゾーの江戸の消息は、必ずしもこれらの俳人に会うためではなかったはず。正風が第一義。芭蕉のモニュメントには、まず一度は参学しているだろう。・・深川芭蕉庵、臨川寺・・回向院はどうでしょう。これはカツゾー固有の思惑とは思いますが。
貞享四卯の年、春も彌生の空長閑に、うち霞みたる夕暮ならし
花の雲鐘は上野か浅草か
観音のいらかみやりつ花の雲
「かねは上野か浅艸か」と聞えし前の年の春吟也。尤(もつとも)病起の眺望成べし。一聯二句の格也。句ヲ呼テ句とす。『末若葉』(其角編)
・・「鐘は上野か浅草か」とは「上野東叡山寛永寺の鐘か、浅草浅草寺の鐘か。」ということなら、たぶん寛永寺、浅草寺の方にも足を伸ばしただろう。・・「花の雲、雲の花」という入間ことばを知っていたら、隅田川もずっと遡ったと思われます。入間川の方へ。
・・ 「毘沙門堂の花盛、四天王の榮花もこれにはいかでまさるべき。うへなる黒谷、下河原、むかし遍昭僧正のうき世をいとひし花頂山、わしのみやまの花の色、枯にし鶴の林まで、思ひられてあはれ也。」 『俳諧一葉集』
観音の甍見やりつはなの雲
【元慶寺】
京都市山科(やましな)区北花山河原町にある天台宗の寺。山号は華頂山。陽成天皇の出産に際して、貞観11年(869)遍昭が開創。後年、藤原兼家らの策謀によって、花山天皇はこの寺で出家した。花山寺。がんぎょうじ。
・・貞観11年(869)。陸奥海溝地震。大津波があり、先年の東日本陸奥沖地震にもっとも似たものです。
「遍昭僧正のうき世をいとひし」に注目。 遍昭、良岑宗貞といいます。
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