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歴史掲示板

9996荊の紀氏:2019/12/09(月) 00:48:07
一番最初に日本地図を書いたのが、あの仏教僧の「行基」だと言われています。…
伊能忠敬の測量方法は、「道線法」と呼ばれています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fr-ijin.com%2Finou-tadataka%2F
まず測量する地形に沿って測点を決めます。
測点に杭を打ち梵天と呼ばれるポールのような目印を立て、鉄鎖や間縄を使用し測点と測点の間を測りました。
杖先磁石という今でいう方位磁石のようなもので角度を測り、方位と距離を測りながら前に進み測量していきました。

東京都港区芝公園 4-8 芝丸山古墳の北頂
伊能忠敬遺功表www5a.biglobe.ne.jp/~kaempfer/archive/ac-otona/shiseki-tokyo.pdf
忠敬は各地へ旅立つ以前、ここ黒江町で象限儀によ る天体観測をし、北緯35度40分30秒を得た。これは、 後に陸地測量部が測定した値より、わずか23 秒大きか っただけである。更に、磁針儀により富士山や筑波山 を観測して原方位とした。従って、ここは住居跡とし てより、天文測量と道線法を主体とした、忠敬の全国 測量の出発原点として、さらに近代の日本地図(日本 東半分沿海地図1804 年上程)上で最初に零度の子午線 を通した地点としての意味を持っている。 また、当時浅草にあった天文台(暦局??現台東区浅 草橋 3丁目 19-26)との緯度差から子午線 1度の距離 を得たところでもある

芝丸山古墳
伊能忠敬の功績は誰もがしっている通りです。でもなぜココに建ってるのかがわかりません。測量の基点が芝公園近くで高輪の大木戸でした。それを記念して東京地学協会が建てのですが、何も丸山古墳の上に建てる必要もなかろうに。碑文を読んでも「なぜココなのか」が書かれていませんでした。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.tripadvisor.jp%2FShowUserReviews-g1066451-d10513358-r498738815-Tadataka_Ino_Sokuchi_Ikohyo-Minato_Tokyo_Tokyo_Prefecture_Kanto.html

江戸期の漢学者・地理学者、長久保赤水(1717〜1801)誕生地の石碑。
琵琶墓古墳 茨城県高萩市赤浜
茨城県の古墳、寺社、遺跡、街歩き massneko.hatenablog.com/entry/2019/07/10/000000
前回のつづき、日立駅から4つ北の南中郷駅へ。
琵琶墓古墳は、事前にグーグルマップに「古墳」と入力し目星をつけていた。
長久保赤水は、伊能忠敬(1745〜1818)の実測地図ができる42年前、20余年の歳月をかけてこの赤浜の地で日本で初めて緯線と方角線を記した日本地図を作り大阪で発行(改正日本輿地路程全図:1779年)したそうだ。
伊能地図は明治時代になるまで国家機密とされたのに対し、赤水地図は明治時代までの約100年間に8版を数えるベストセラーになったとのこと。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.city.takahagi.ibaraki.jp%2Fpage%2Fpage002920.html

赤水の制作した日本地図www.nagakubosekisui.com/nippon_map.html
「伊能図」は国家機密とされ、
江戸時代には一般人は見ることが叶わなかった。
ゆえに、江戸時代中期から明治時代まで広く世に使われたのは「赤水図」だった。
幕末の志士吉田松陰も「赤水図」を携えて仙台まで旅し、長州(山口県)への岐路、茨城県高萩市赤浜にある
長久保赤水の墓に参詣している。

安永3年(1774年)、『日本輿地路程全図』(にほんよちろていぜんず)を作成。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
長久保赤水は江戸時代中期頃の地図考証家・森幸安によって描かれた『日本分野図』を参考に、明和5年(1768年)に原図となる「改製扶桑分里図」を作り、安永3年(1774年)に日本地図『日本輿地路程全図』(にほんよちろていぜんず)を作成する。

今日本中には、役行者が来た修行の山というのが沢山ある。これはヤマトタケルに縁の地に負けない位の数に上るに違いない。山岳修行者ある所に役小角伝説ありと言っても過言ではない。www.st.rim.or.jp/~success/ennoozuno_ye.html
山伏(山岳修行者)役小角とは何者か? www.st.rim.or.jp/~success/ennoozuno_ye.html
現在、山伏を糾合する派は、「聖護院を本山とする天台宗本山派と醍醐三宝院を本山とする真言宗当山派に分れる」(岩波日本史辞典)ということになっている。山をネットワークとして存在した神々の祠と社は、次々と仏教に習合をさせられることによって、仏教の教えを根源とする思想に改変させられてしまったのである。
その結果が、最後に山伏もまた天台と真言に分かれることになったと見るべきではないだろうか。今日そのどちら派にしても役小角が山伏の元祖というのであれば、その理由は極めて明解である。すなわち仏教が拡がる以前に、山伏のスタイルで修行をする古神道が、日本の山々をネットワークする形で確立していたとみるべきではないかということになる。

寛政 11 (1799) 年に修験道の開祖と仰がれ,神変大菩薩の勅諡号を受けた。
南北朝時代を経て山伏の活動は一段とさかんになり,室町時代には修験道の組織化が進んだが,各地の山々に割拠し,仏教各宗の寺院に属していた山伏たちは,役行者を開祖としてつながりを持つようになった。《役行者顚末秘蔵記》《役君形生記(えんくんぎようしようき)》《役行者講私記》《役行者本記》をはじめ,役行者に関する数々の書が,修験道の教典として作られ,1799年(寛政11)には,朝廷から役行者に対して神変大菩薩という諡号(しごう)が贈られた。役行者の画像や彫刻は数多く作られたが,その姿は,僧衣に袈裟をまとい,長いひげをたくわえ,手には錫杖を持ち,高下駄をはいて岩に腰かけ,斧を持つ前鬼(ぜんき)と棒を持つ後鬼(ごき)を従えているのが一般である。… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F





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