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歴史掲示板

9565荊の紀氏:2019/10/25(金) 04:55:18
7000〜8000年前…新石器時代の紀元前約6000年ごろにさかのぼるワイン造りの痕跡…
上川盆地(かみかわぼんち)は、北海道中央部、上川総合振興局中部にある北海道最大の盆地。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
北海道のほぼ中央部に位置する盆地。東は大雪山および石狩山地を望み、北に位置する名寄盆地とは北緯44度付近の塩狩峠で隔てられている。一方、西は天塩山地と南から伸びる夕張山地、南は丘陵地帯を経て富良野盆地とつながる。大雪山系を水源とする石狩川と忠別川、十勝岳を水源とする美瑛川は上川盆地で扇状地を形成した末に合流し、神居古潭の狭窄部を経て石狩平野へと流れ出ていく。

この遺跡からは、既に述べてきた通り、縄文中期以降の各時期の資料が発見されており、鳥沼遺跡と並ぶ、富良野盆地最大の遺跡である
富良野盆地の先史文化 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.town.kamifurano.hokkaido.jp%2Fhp%2Fsaguru%2F100nen%2F2.02.02.htm
先土器時代の富良野盆地
 富良野盆地において先土器時代の遺跡が発掘調査されたのは、昭和61年(1986)の富良野市東麓郷一遺跡及び東麓郷二遺跡(『東麓郷一・二遺跡』昭62)の2カ所だけである。また、上富良野町では、先土器時代の遺物と思われる資料は、草分三遺跡から発見された黒曜石の石核と日の出三遺跡、東中二遺跡から見つかっている有舌尖頭器があるが、耕作中などの採集品なので、どのような石器の組み合わせになるものか詳細はわからない。
 現在まで、富良野盆地内で知られている資料では、北海道で最も古い段階に位置付けられている千歳市祝梅三角山遺跡、河東郡上士幌町嶋木遺跡などに対比されるような古い石器は、まだ発見されていない。
 発掘された東麓郷一遺跡は、先土器時代の最終末に位置付けられている有舌尖頭器の石器群で、掻器・彫器を伴い、細石刃を伴わない石器群として報告されている。これに対して康麓郷二遺跡の方は、「組成は尖頭器・掻器・削器・彫器・石刃・石斧?・細石刃?などで」、先土器時代の遺跡であるが、報告者も「このような石器組成をもつ文化は今のところ見当たらないことを考えると、いくつかのステージがあり、しかも自然の営力や後世の人為的なかく乱によってそれぞれの石器組成に欠落があるとする見方が妥当のようである」と述べているように、明瞭な位置付けがなされていない。
 この発掘によって得られた黒曜石の水和層による年代測定の結果、東麓郷一遺跡の1点は1万700±600年で、もう1点は1万700±700年と同じ年代であった。また、東麓郷二遺跡の1点は1万2000±600年で、もう1点は1万3500±700年と差がある。また、二つの遺跡の間でも2000年前後の年代差が示されている。
 報告書の中では、この二つの遺跡の他に、富良野市内で先土器時代の遺物が発見されている遺跡は、東山七遺跡、南麓郷三遺跡、西麓郷五遺跡、東山一四遺跡、老節布いちい遺跡の5カ所が挙げられている。また、南富良野町落合一遺跡、そして上富良野町草分三遺跡、日の出三遺跡、東中二遺跡でも存在が確認されている。
 これらの遺跡を含めたとしても、10カ所ほどしかない。広大な広さをもつ富良野盆地の面積、及び先の年代測定から例え、富良野盆地の先土器時代を2000年として考えても、あまりにも少ない数字である。

確実に日本列島に人が渡ってきたのは 3 万 7000〜8000 年前だろうというのが現在の定説で、この段階では北海道から九州まで、日 本各地に遺跡が見られるようになる。??その後の人類の発展については、200 年近く前にデンマークのトムセンという考古学者 が石器時代、青銅器時代、鉄器時代という三時代区分法を提唱して、それが定着している。 また、その後、イギリスの考古学者ラボックが石器時代を旧石器時代と新石器時代に分け ることを提唱した。さらに、かつては新石器時代の始まりを 1 万年前としていたが、日本 列島や中国などでは今、1 万 5000 年前ぐらいにその境界を持ってくるようになっている。
「日本海の旧石器考古学―日本海をめぐる旧石器時代の交流―」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.nihonkaigaku.org%2Flibrary%2Flecture%2F

約8000年前…
ジョージア(旧グルジア)で発掘された約8000年前の陶器のつぼを科学分析したところ、世界最古のワイン醸造の痕跡が見つかった /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.afpbb.com%2Farticles%2F-%2F3150409
残留物の分析から、新石器時代の紀元前約6000年ごろにさかのぼるワイン造りの痕跡と判明。論文を執筆した一人、カナダのトロント大学(University of Toronto)のステファン・バティユク(Stephen Batiuk)上級研究員は、発見について「もっぱらワイン生産を目的としてユーラシア産の野生ブドウを栽培化した最古の事例だと確信している」と述べている。
 近東のワイン造りの化学的痕跡としては、イランのザグロス山脈(Zagros Mountains)で見つかった紀元前5400〜同5000年(約7000年前)のものが最古とされていた。
 世界最古の醸造酒は、およそ9000年前にコメを原料として造られた中国の酒とされ、イランのこのワインがそれに続いたと考えられてきた。(c)AFP/Kerry SHERIDAN

シラーズは、イランのワインの聖地。7000年前のワインの器が出土しています。 グルジアも同じく7000年前からのワインの歴史を持っています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fall-things-persian.blogspot.com%2F2011%2F12%2Fblog-post.html

イランで、1万2千〜9800年前の新石器時代の農耕遺跡
中東のチグリス・ユーフラテス川流域の「肥沃な三日月地帯」東端に位置する現在のイランで、1万2千〜9800年前の新石器時代の農耕遺跡を見つけたとドイツの研究チームが米科学誌サイエンスに4日発表した。
2009〜10年にザグロス山脈の麓にあるイラン西部の遺跡を調査。当時の人々が野生の大麦や小麦などを農作物として利用し、ひき臼やすり鉢を使って食用に加工していたことを遺物やもみ殻などから確認した。定住は2千年以上の長期間に及び、野生種が農耕に適した種に変化していったことも分かった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.nikkei.com%2Farticle%2FDGXNASDG0403Y_U3A700C1CR8000%2F
これまで政治的問題で発掘が難しかったイランで新たな農耕の証拠が見つかったことで、メソポタミア文明につながる農耕技術がどのように発達したかを知る手掛かりが得られそうだ。(ワシントン=共同)
Y染色体
モンゴロイドは出アフリカ後にイラン付近からアルタイ山脈付近に至り東アジアに拡散した、「北ルート」をとった集団である。モンゴロイド人種を特徴づけるY染色体ハプログループとしてC2、D、N、O、Qが挙げられる[7 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

前15世紀以降にイラン集団(イラン・アーリア人)が拡大していったと言われる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
その後はテュルク・モンゴル民族の勃興と中央アジア・北部インド・西アジア 支配によりさらに細かい複数の集団に別れそれぞれが次第に独自の文化を形成していった。
現存する近縁の民族としてはパシュトゥーン人、ペルシア人、タジク人、北部インドの諸民族などがあり[1]、彼らはアーリア人の末裔である。また、広義には現存の彼らを指してアーリア人と呼ぶこともある。
この項では基本的にはイラン・アーリア人、またそれらの最も近縁な共通先祖を、もしくは広義においてはその現存の子孫をアーリア人と呼ぶこととするが、アーリアン学説ではより広い意味でアーリア人という言葉を用いており、インド・ヨーロッパ語族に属する諸語を使う民族全般の祖をなすと想定された民族を指す。アーリアン学説における意味でのこのアーリア人を、この項では、アーリア人と呼ぶのではなく、アーリア人種と呼ぶ事にする。
アーリアン学説によるアーリア人、すなわちアーリア人種は多くの民族を子孫とするとして想定された。このアーリア人種は元々インドに住んでいたが、中央アジアやイランへ広がり、更にロシアや東欧まで拡散したという。[2]
これによると、アーリア人には以下の狭義と広義が存在することになる。
狭義のアーリア人(諸民族に分裂する以前)
イラン・アーリア人
広義のアーリア人(現存の末裔民族も含む概念)
インド・アーリア人
狭義のアーリア人
ペルシア人
パシュトゥーン人
タジク人
北インド諸民族
最広義のアーリア人(アーリアン学説におけるアーリア人種)
インド・ヨーロッパ祖語を話していた民族と、その子孫
広義のアーリア人の内、北インド諸民族のほとんどがインド・アーリア人を祖先に持つものであり、それ以外の上述されている民族はイラン・アーリア人を祖先に持つ。ただし、北インドのアーリア系民族の中にもパールシーなどのように、イラン・アーリア人を祖先とする民族もある。パールシーはサーサーン朝のペルシア帝国滅亡後にインドに移ってきたゾロアスター教を信奉する古代ペルシア人の子孫である。
現在狭義におけるアーリア人は消滅したと考えられているが、「イラン」という国名自体ペルシア語で「アーリア人の国」を意味し、イラン最後の皇帝であるモハンマド・レザー・パフラヴィー(1979年にイラン革命による失脚で廃位)は自らの称号を「アーリア人の栄光」を意味する「アーリヤー・メヘル」に定めるなど、現在もペルシア人は自らをアーリア人であると自認する者が多い。
英語で借用されたアーリア人 Aryan(古くはArianとも)の語源は、サンスクリット語の「アーリヤ (ārya)」とされる[3]。古代イランのアヴェスター語にはairyaがあり[4]、いずれも「高貴な」という意味で、他民族より「高貴な」民族と考えた[要出典]アーリア人が自称した。また、インド・イラン祖語の*arya-か*aryo-に由来する[3][5]。古代ギリシア人のストラボンやエラトステネスがトロス山脈から東はインダス川までをアリアナ地方 (Ariana)と記録しており、その頃には地中海東部地域でも既知の民族名だったと言える。ただし、古代ローマの大プリニウスによる博物誌 6巻23章においてはAriaという古代イランのペルシア王国の統治下にあった[6]現代のアフガニスタンのヘラートに当たる地域と混同されている[7]。
アーリア人はハプログループR1a (Y染色体)が高頻度である。インド北部では48.9%[9]、パシュトゥーン人に51%[10]、タジク人に44.7%[11]みられる。

日本とスキタイとゲルマンはアーリアでつながるか。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fcova-nekosuki.cocolog-nifty.com%2Fblog%2F2011%2F05%2Fpost-aac3.html
スキタイ人は、手が長いのが特徴で、イギリス人は手が長く、スキタイ人の末裔かもしれないとの意見もあるですね。
セム系のユダヤ人がスキタイにいたから、古代イスラエルに似た生活文物を持つアイヌがスキタイ人に見えたなら、ユダヤ人に白人的容貌がいたことになるでしょ。
日本と、イギリスと、ゲルマン人のドイツは、ストーンサークルで繋がるかもしれないですしね。
もし、アーリア人がスキタイとアイヌの共通点と見るなら、アーリア人中東起源説を展開する必要があるかもしれません。





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