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歴史掲示板

1管理人:2012/01/12(木) 17:24:57
古代史掲示板を新設しました
古代史掲示板を新設しました。画像・動画等の投稿も可能です。古代史関連の投稿をお待ちしています。

9393荊の紀氏:2019/10/10(木) 05:48:52
C1a1は、その系統樹上の位置づけと、その親類の分布状況から世界の注目を浴びている。
問題のD仲間のチベット人が、高地の低酸素状態に順応する変異した遺伝子(スーパーアスリート遺伝子とも表現される)を、化石人類のデニソワ人から貰ったという、特殊な高地適応能力を持つ人々だという話題は知っておくべきところか。
チベットの人々が持つEPAS1の変異は、デニソワ人のサンプルで見つかった変異とほぼ同じものだった。
 だがこの変異の痕跡は、漢民族以外の、デニソワ人の名残を受け継ぐとされる他の民族集団には全く存在しない。デニソワ人由来のゲノムの割合が5%と民族の中で最も高いメラネシア人にも、その痕跡はみられない。
 アフリカを出たホモサピエンスのグループは、中国へ向かう途中でアジア中部を通過した際にデニソワ人と交配したとの説を論文は提唱している。
 中国に移住したホモサピエンスのグループは、その後2つに分裂した。一つはチベットに移動し、もう一つは低地に残り今日の漢民族となった。
 研究によると、種族間で交配を重ねた結果、チベット人の87%がEPAS1の貴重な変異を獲得するに至ったという。それに対し漢民族は、共通の祖先を持っているにもかかわらず、全体の9%しかこの変異を持っていない。
ちなみに日本人もこの変異はあまり持っていない。またチベット人には、男も女も漢民族に通じる染色体が混在している。

Y染色体で探る日本人の起源 4−2.氷河期が終わるまでにやってきた人々2 C1
日本人
C1a1は、その系統樹上の位置づけと、その親類の分布状況から世界の注目を浴びている。
 非常に古いがC1a1の近い親戚C1a2(旧表記C6)は、極めて少数だがヨーロッパ(Ray Banks先生によればイギリス・ハンガリー・ウクライナ・ギリシャ・スペイン・ポーランド。ここに記述はないがネパールにもいるとか)で見つかっていて、しかも7000年前の人骨「La Brana」(青い目に褐色の肌の狩猟民だそうな)も西の最果てスペイン(「(c)19-8kya」の地図のちょうどバスクの位置にR1bが書いてあるが、そのバスク系R1b居住地域より外側の、スペインがポルトガルの北側に飛び出してるあたり)で発掘されているのだ。

 La branaのC6ってオーストラリア原住民C4の親戚なん?→インドのC5にも見える→いや実は今はC1a2→これ日本の縄文人C1a1の親戚やで→マジで!?(超意訳)、という展開。旧ラベルの段階でこんな予測をした者はいなかっただろう。(ここまでの地図はこのヨーロッパの親戚C1a2を考慮していないから予想外っぷりも伺える。まあ、縄文人でもアイヌとは違う系統やでとツッコミ入れなきゃならんところ。実は結構昔から、どうも日本人はモンゴロイドっぽくなくてなんか違うと言われていた(この掲示板にも書かれてる)話はある。実際CやDは古い出アフリカ民直系で、最初はアジア人的特徴も持っていなかったと考えられる)

CとDは最初の現生東アジア人なのだ。(他に滅んだ化石人類もいるが) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fdigx.hatenablog.com%2Fentry%2Fj-origin4-2
Cには、中国(特に少数民族)から東南アジアにかけて、未だにC*とされる未分類集団が多く残っていて、彼らもほとんどはどこかの分類に繋がるはずなのだ。
 ちなみにオーストラリア原住民などは2006年のHammer論文の時点では未分類C*だったが、その後ちゃんと分類され、現在ではC1b2bという分類に落ち着いているわけである。


9394山田:2019/10/12(土) 03:35:28
(無題)
>・・しかも7000年前の人骨「La Brana」(青い目に褐色の肌の狩猟民だそうな)も西の最果てスペイン(「(c)19-8kya」の地図のちょうどバスクの位置にR1bが書いてあるが、そのバスク系R1b居住地域より外側の、スペインがポルトガルの北側に飛び出してるあたり)で発掘されているのだ。

これってどの辺りでしょう。バスク地方は少し歩いた記憶がある。北バスクならBIARRITZとかはしっとり沈静した海辺がある。南のポルトガルの境はなんか通過しただけ。旅先でバスクの若者といっしょになって、どうぞバスク語を!頼んだら重い発音だった。
この辺り洞窟壁画の多いところではなかったかな。
・・


9395管理人:2019/10/12(土) 03:45:23
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
>
> > > この「研究」に管理人さんは、学問的に何もケチを付けられません。篠田くんや斎藤くんでも無理だろうw
> > > 管理人さんは「学問的にいくらでも反論できる」と嘯きましたが、それなりの根拠を提示して反論して頂きたい。
> > > ↓
> >

あくまでルーツさんへの主張へことだったとおもいますが。 ただ、ひとつ問題点があるとすると、ルーツさんのオリジナルと、借り物の研究の区別がつかなくて、批評しようがないということが多いですね。

まず、論じるならば、〜説という先行研究がある。その〜説とそれに反論する〜説がある。そのうえで私は〜説を支持する、その上でこうこうこういう根拠を今回私のオリジナルとして提示したい!それに関して、管理人さん、みなさん、どう批評していただけますか?・・・というふうに書いてくれれば、すぐ批評してあげるんですけどね。

ただ、私個人としては、自身にとって価値があること以外、あまり口出ししたくないんです。無駄な労力を費やしたくない。批評してあげることで相手を育て上げたいとか・・、いわゆる教育者でないので・・・。

>
>
> 管理人さんが篠田や斎藤に反論なんてできるわけがないでしょ。笑
> そもそも、管理人さんは、彼らの本読んでないでしょう?読んでないこと明明白白です!
>
> 3ー4冊読み込めば、この遺伝人類学という分野の可能性と限界が見えてきます。
> 特に篠田の本は「出来るだけ分かりやすく書いて下さい」と編集からシツコク言われていたそうで、理解するのが容易です。そのくらい最低限読んでから、モノを言って下さい。
>

何冊か買って読んでるんだけど、昔、引っ越すときにもう読まないと思って古本屋に出してしまったようです(汗)もったいないことした・・!


> で、もちろん "私の説" に反論できるなら、して見て下さいと言ってるんです。
> 前投稿に書いたとおり。
>
> 私の説と言っても「羌族とはDNA人類学的に誰か?」という設問を立て、
> DNA人類学・考古学・文献その他の成果を総合して結論しているだけですがね。
> それでも、資料収集と読み込み、理解という営為が入ります。
> ウィキでハプロの比率だけ調べて勝手解釈してるわけではないのですよ。
>

ルーツさんさんが、ここで何をしたいのかが、いまいち見えてこないんですよね。
なんでだろう・・・。言語学的に羌族の言語と日本語を比較研究したいんじゃなかったの?その副証でハプロやっているのかとおもってたんですが・・。


> ま、勉強しながら取り組んで下さい。
>
> あ、そうだ、チンコのサイズは日本人のOでもDでも変わらないですよ。Dの日本人はネグリートではないですからね。
> 男性不妊症や前立腺がんが多いというだけで、Dのチンコが小さいだなんて聞いたことないです。笑
>
>

ご自分でY-Dのあれのサイズ小さい!と馬鹿にしていたくせに・・・(^^)

9396管理人:2019/10/20(日) 00:01:20
Re: C1a1は、その系統樹上の位置づけと、その親類の分布状況から世界の注目を浴びている。
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 問題のD仲間のチベット人が、高地の低酸素状態に順応する変異した遺伝子(スーパーアスリート遺伝子とも表現される)を、化石人類のデニソワ人から貰ったという、特殊な高地適応能力を持つ人々だという話題は知っておくべきところか。
> チベットの人々が持つEPAS1の変異は、デニソワ人のサンプルで見つかった変異とほぼ同じものだった。
>  だがこの変異の痕跡は、漢民族以外の、デニソワ人の名残を受け継ぐとされる他の民族集団には全く存在しない。デニソワ人由来のゲノムの割合が5%と民族の中で最も高いメラネシア人にも、その痕跡はみられない。


珍しく紀氏さん、興味深いお話もってこられましたね!


>  アフリカを出たホモサピエンスのグループは、中国へ向かう途中でアジア中部を通過した際にデニソワ人と交配したとの説を論文は提唱している。
>  中国に移住したホモサピエンスのグループは、その後2つに分裂した。一つはチベットに移動し、もう一つは低地に残り今日の漢民族となった。
>  研究によると、種族間で交配を重ねた結果、チベット人の87%がEPAS1の貴重な変異を獲得するに至ったという。それに対し漢民族は、共通の祖先を持っているにもかかわらず、全体の9%しかこの変異を持っていない。
> ちなみに日本人もこの変異はあまり持っていない。またチベット人には、男も女も漢民族に通じる染色体が混在している。
>

これはまさにY-D系統の移動を示してますね。中国におけるそのパーセンテージから言っても。チベットあたりでデニソワ人とその一部が交雑したということなのかな。日本人がそれをあまりもってないのは、チベットと同じD系統でも別の系統であったからと考えると理解しやすいですね。

> Y染色体で探る日本人の起源 4−2.氷河期が終わるまでにやってきた人々2 C1
> 日本人
> C1a1は、その系統樹上の位置づけと、その親類の分布状況から世界の注目を浴びている。
>  非常に古いがC1a1の近い親戚C1a2(旧表記C6)は、極めて少数だがヨーロッパ(Ray Banks先生によればイギリス・ハンガリー・ウクライナ・ギリシャ・スペイン・ポーランド。ここに記述はないがネパールにもいるとか)で見つかっていて、しかも7000年前の人骨「La Brana」(青い目に褐色の肌の狩猟民だそうな)も西の最果てスペイン(「(c)19-8kya」の地図のちょうどバスクの位置にR1bが書いてあるが、そのバスク系R1b居住地域より外側の、スペインがポルトガルの北側に飛び出してるあたり)で発掘されているのだ。
>

昨晩のC1系統の件ですね。クロマニヨン人のC系統ともかかわるのかな。






9397管理人:2019/10/20(日) 00:27:33
先行研究
あと、先行研究については、オーソドックスな教育法しては、まず研究テーマを決めて、最初にその分野の先行研究を調べてから、それから関連資料をもとに持論を立てるように勧めることが多いのですが、あまりこれはいい教育法だと思わないんですよね。

発想力のある生徒を育てるならば、まず資料に当たらせて、そこから何を見出せるかを自力で頑張らせる。その後、その資料から見出してきた結果について、先行研究でそれを取り上げている人がいないかどうかを調べさせる。結果として、先行研究者がいれば、それがその先行研究者と同じレベルまでの発想・理論構築ができたと評価すべきですし、誰も先行研究者がいないならば、それはオリジナルとしてさらに評価すべきでしょう。

逆に資料群を見ても何も見えてこないようなら、それは研究適性がないと判断して、教育分野とか他の適性がないかどうかを考えさせる、そういうシステムを文系でも取り入れるべきだと思うんですね。

だから、この掲示板では、無理に先行研究を集めてから、そこから持論を出すような過程はは省きたいと考えてます。まず現資料に当たって、そこから何を見出してきたのか?ここが知りたいところです。

そしてそのオリジナリティについて、補足的にこういう先行研究で同じことをやっているとか、あるいはどこにもそういう先行研究はないから、もっとこういうところでこういう研究者と組んで研究・発表してみるべきだとかアドバイスしていくとよいのかもしれません。

日本の文科系の学会は、物知り博士を尊重しすぎる傾向があるのですが、それでは世界には通用しないでしょう。そのうちにパソコンが取って代わってしまう。これから生き残れる研究者を育てるためにも、教育段階における研究スタイルそのものから抜本的に変えていく必要があるでしょう。

9398管理人:2019/10/22(火) 01:37:32
この掲示板について
ま〜そんなにお硬く高いレベルでの論議を求めてる掲示板ではないので、どうぞいままでどおり気軽にわかちあってくださいね。そもそも、目的とかレベルとか講師とか・・・定めた覚えもないですし・・・(^^)

もし、論証レベルでの論議をどうしても行なう場が欲しい方が増えてくるようなら、別に専用の掲示板なりスレッド設けますのでお知らせください・・。というか、スレッドは自由につくっていただいて構いません。

9399これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/22(火) 03:47:13
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
管理人さんへのお返事です。

> > > > この「研究」に管理人さんは、学問的に何もケチを付けられません。篠田くんや斎藤くんでも無理だろうw
> > > > 管理人さんは「学問的にいくらでも反論できる」と嘯きましたが、それなりの根拠を提示して反論して頂きたい。
> > > > ↓
> > >
>
> あくまでルーツさんへの主張へことだったとおもいますが。 ただ、ひとつ問題点があるとすると、ルーツさんのオリジナルと、借り物の研究の区別がつかなくて、批評しようがないということが多いですね。
>
>

まず、自明のことを敢えて説明することは、何も恥ずかしいことではありません。
あなた達に必要なのは、飛躍ではなく、基礎的なことの確認・理解だと思いますね。

私の遺伝人類学分野の知識はすべて論文・書籍からの借り物ですよ。該当論文きちんと示してるでしょ。ただ下らない妄想繰り返すより、そういう姿勢の方が遥かに有り難いと思う。

さらに、私は"遺伝子言語学"のマネをして、言語でも確かめようとしてる。
私が知ってるテュルク・モンゴル語より遥かにチベット・ビルマ語の方が日本語に似ているからね。最近、記述研究が進んで来て伸びしろもある。

で、「論文に書かれた内容」と「自説」を区別してくれってかい?

いいでがんす。誠意見せます。
ただ、あまりに基礎的な事項やもはや通説となって了解済みなことを「ここはどこどこの論文から」ってふうに探すのは面倒で意味がないので、こういう類いのものには【了解済事項】【通説】とでもしておき、必要であれば「( )」とでも説明を加えますよ。

まず、参照論文を3つ挙げておきます。何度も出したのだけどね…
1. Human Migration through Bottlenecks from Southeast Asia into East Asia during Last Glacial Maximum Revealed by Y Chromosomes. (2011)
2. Y‐chromosome O3 Haplogroup Diversity in Sino‐Tibetan Populations Reveals Two Migration Routes into the Eastern Himalayas. (2011)
3. Genetic Structure of Qiangic Populations Residing in the Western Sichuan Corridor, (2014)
ーーーーー
真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方

この分布図は論文が出所なのでとてもしっかりしている。
→【上記論文1の図より】

1. 起源集団・起源地
最大集積地であるヒマラヤ地域については説明する必要もないだろう。しかし、ここが起源地であるとは言えない。
→【了解事項】。
(比率が高いところが即「起源地」とは言えないことくらいは知ってるよね?重要なのは、「当該ハプログループの多様性」で、次に比率・総数が考慮されるってこと。篠田『日本人の祖先になった祖先たち』にも分かりやすく書いてあるでしょ?比率ばかりが気になって覚えてないかな?)

ヒマラヤ地域の色が濃いので目立たないが、甘南チベット族自治州がある甘粛南東部のすぐ下にある集積地、アバ・チベット族チャン族自治州(歴史的呼称ではアムド地方の東南部、南部はカム地方)の人々の祖先が、O-M117の起源集団となる。
→【上記論文1および3より】
(ただし、論文では現代羌族の分布地域をそのまま「起源地」としている。私は「起源集団」は羌族ということで良いが、羌族の伝承をもとに、「起源地」としてはもうちょい北の甘粛・青海じゃないか、と付け加えているわけね。人間集団特に羌族のような遊牧民は移動するでしょ?
羌族の英雄叙事詩によれば甘粛・青海から南下してきたことになっているの)

自治州の冠称民族・チャン族つまり現代羌族におけるO-M117の多様性が最も高いことから、O-M117の「起源集団」はこの民族集団。彼らからO-M117は東西南北に拡散して行く。
→【上記】
(ただ、羌族分布地域を即「起源地」としているが、この業界では、当該ハプロの多様性が最も高い民族集団の分布地域を一応「起源地」としておく慣行があるのかもしれない。)

一方、「起源地」については、現代羌族の英雄叙事詩『羌戈大戦』によると、甘粛・青海から南下して来たそうなので、甘粛辺りとなる。
→【自説・付け足し】

図では、アバ・チベット族チャン族自治州の西隣り、カンゼ・チベット族自治州からチベット高原に2方向で進入すると表現されている。これを採れば、O-M117の起源地は東チベットのカンゼ・チベット族自治州ということになる。
→【上記論文2の図】
(もう、分かりますよね。議論は対話なんです。論文の著者とのね。そして、私は、最近アルナチャル州のハプロを調べた結果、O-F444もいるので、やはり起源地はこの辺り、つまり東チベットかなと結論付けているわけです。)

以下に、私の主張の要点を箇条書きでまとめる。これを引用して、この全てに対して是が非か、非であれば根拠を添えてくれれば良いだろう。私もこうして面倒でも誠意みせてるんだからそちらも応えて下さいよ。:
? 遺伝人類学的に見てO-M117の起源集団は羌族である。

? 起源地は東チベットか甘粛・青海である(実は両者にさほど違いはない)。

? さらに、殷代の生贄羌族の歯(エナメル質)に含まれる放射線量が甘粛東南部のものと一致するので、「羌族」と彫られた生贄人骨の正体は甘粛出身の羌族であり、かつ、甘粛東南部・磨溝遺跡のハプロがO-M117が独占的であることと一致する。

? 磨溝遺跡のすぐ下が四川北西部の羌族地域であり、両者とも「アムド東南部」にあたる。磨溝遺跡人は羌族に他ならない。

? なお、磨溝遺跡には旧表記D1はおろかmt-M9aさえも見られない。

? 以上から、羌族とはO-M117が排他的な集団であったことは確実である。D1も含まれていたとすれば、漢族に羌族由来のD1がもっと含まれているはずだが、含まれていない。

y-Dマニアが多いから、Dについて付け加える。
? チベット・ビルマ系においてはチベット集団と彼らに隣接する集団にのみにしかD1は見られない。

? チベットのD1は既にチベット人の一部となっているが、日本のD2などが関われる世界ではない。D1とD2は分岐してから5万年以上もの開きがあり、移動経路も異なる別集団である。

? 古人骨でも現代人でもD2が大陸に見られないのは、D2が内陸を通って来なかったからに他ならない。古人骨が出ないD1もサルウィン河からの北上で良いだろう。D2はシナ海ランドルートで、良くて華南をかすった。
ここで華南とは狭義の「南嶺山脈以南の狩猟採集民の世界」。

? アフリカで既にDが発生している。東南アジア・フィリピンにD3がいる。Dのまま、東アジアに進んだり、日本で起源したなどあり得ない。そして、y-Dすべてに言えることは、狩猟採集民の言語は農耕民の言語に置き換わる。アンダマン人のように隔絶された環境にいても同じである。

これでも分からない?
...では、反論どうぞ!
いや、違う、日本の旧表記D2をも含むy-Dこそが羌族のハプロだと言い張りたいなら、上記のように根拠・出所きちんと示して下さいネ。)

できないなら、できないで宜しい。「口が滑って反論できるなんて言ってしまいました(汗)」と素直に認めること。
潔い人のことを誰も追い込むようなことはしません。

私は、あなた方の論の進行がオカシイ、あなた方が出す証拠もそもそも間違っていることを指摘してるのですよ。大事なことでしょ。



> ご自分でY-Dのあれのサイズ小さい!と馬鹿にしていたくせに・・・(^^)

チンコの話しなんてしてないよw
y-Dの無精子症と前立腺がんに関する論文なら提示したがね。
前にもそんなこと管理人さんが書いていてウソだろ?って思ったくらい。
なんなら過去の投稿みせて下さい。



9400これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/30(水) 02:50:59
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
追加で指摘します。

どうも、あなた達は勘違いしている。あなた達が出し合うレベルの低い単なる思い付きが、後世誰かの役に、学問の発展に貢献するかのように思ってしまっている。

あなた方が主張することというのはね、ある事実に対して「なるほど、そんな見方も可能ですね!」といった建設的なレベルではないのですよ。すべて勉強不足、または正しく理解する努力を怠っていることに由来します。

あなた達の空想は、法学の議論に当てはめれば、違法でないもの同士の「有効性」についての議論ではなく、「明白に違法」であることが初めから分かっているレベルの話しなのです。役に立つどころか、正直に言えば、有害です。

ここで「あなた方が主張すること」というのには、管理人さんのトカラ人?スキタイ人?が日本にやって来て古代日本の国家建設に大いに貢献したという空想もそうだし(日本語が印欧語と関係するかのようなクダラナイことも含めてね)、他の連中の、y-Dはユダヤうんたらとかy-Dはチベットうんたらとかいう妄想もそうです。
こんなこと「意見の尊重」とかいう話しではないはずです。

間違っているものは間違っていると確たる根拠を持ってハッキリ指摘し合う、こんなこと当たり前でしょ?


9401これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/30(水) 04:56:03
Re: 先行研究
管理人さんへのお返事です。


> 日本の文科系の学会は、物知り博士を尊重しすぎる傾向があるのですが、それでは世界には通用しないでしょう。そのうちにパソコンが取って代わってしまう。これから生き残れる研究者を育てるためにも、教育段階における研究スタイルそのものから抜本的に変えていく必要があるでしょう。
>


それは逆。学際的なことを好まないのが学会。
方法論の話であれば、学会はストイックですよ。それで良いと思います。よく知らず学者を批判しとけばいいって姿勢はいただきませんね。ただの自己満ですよ。

学会には紹介者がいなくても事務局の誰かが代理でなってくれる。実際に入ってみて発表してみたら?
日本の学会はダメでクズと言うなら、翻訳会社に翻訳させて海外の学術誌にでも送り付けて見たらいい。
反応は同じだとおもいますがね。

9402荊の紀氏:2019/10/30(水) 07:32:24
「起源地」甘粛・青海から南下…
> (ただし、論文では現代羌族の分布地域をそのまま「起源地」としている。私は「起源集団」は羌族ということで良いが、羌族の伝承をもとに、「起源地」としてはもうちょい北の甘粛・青海じゃないか、と付け加えているわけね。人間集団特に羌族のような遊牧民は移動するでしょ?
> 羌族の英雄叙事詩によれば甘粛・青海から南下してきたことになっているの)
>
> 自治州の冠称民族・チャン族つまり現代羌族におけるO-M117の多様性が最も高いことから、O-M117の「起源集団」はこの民族集団。彼らからO-M117は東西南北に拡散して行く。
> →【とくに上記論文2および3】
> (ただ、羌族分布地域を即「起源地」としているが、この業界では、当該ハプロの多様性が最も高い民族集団の分布地域を一応「起源地」としておく慣行があるのかもしれない。)
>
> 一方、「起源地」については、現代羌族の英雄叙事詩『羌戈大戦』によると、甘粛・青海から南下して来たそうなので、甘粛辺りとなる。
> →【自説・付け足し】

甘粛省
実際に甘粛省の永昌県には、古代ローマ兵を先祖に持つと言われるワシ鼻の人々が多く存在します。
ローマ兵うんぬんの真偽はともかく、彼らが遺伝子レベルで、中央アジア、地中海人、或いは白人種の特徴を受け継いでいるのは事実なのです。
また、始皇帝兵馬俑には、民族的に異なる容貌を持つ秦兵が存在し、これも秦が漢民族のみならず、多くの民族を受け入れた多民族国家であったという一つの根拠なのです。
秦が置かれた甘粛省は、西域民族との文化の十字路 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fhajimete-sangokushi.com%2F2016%2F09%2F06%2F

研究では、4000年前には、東西の民族はタリム盆地で出会い、そして、混血が生じたと結論づけています。
タリム盆地が勢力範囲だった匈奴は、秦にも攻め込んで、被害をもたらし、始皇帝は、蒙恬(もうてん)将軍に万里の長城を築かせて、匈奴を防ぐように指示しています。
それは、匈奴の略奪の結果、混血が生じ、秦にも白人の血が混ざった人々がいた事の一つの証拠にならないでしょうか?

始皇帝がユダヤ人というとギャップから、ゲッと思いますが、2200年前のユダヤ人は、民族離散の前で、今のような混血が進んでいないので、中央アジアの人とそんなに顔つきが変わらなかったりします。
エジプトというと、私達はハリウッドの影響で、白人種のクレオパトラをイメージしますが、彼女はギリシャ系であり、古代エジプト人は、白人種もアジア人種も黒人種も存在します。
元々エジプト自体が、西洋、中近東、東洋が混じる場所にあり、人種の混合が早くから進んでいたからなのです。
そもそも、当時、肌の色がどうのこうのという差別は無かったので自分が白人、黄色人種、黒人種なんて意識する事も無かったのでしょう。
ちなみに、私達の感覚では、仏像からアジア人のようなイメージの釈迦は白人であると主張する人もいますよ。

【衝撃】中国・四川のチャン族は古代イスラエル「失われた10支族」の末裔で日本人の兄弟だった! 日ユ同祖論の核心に迫る! /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftocana.jp%2F2018%2F07%2Fpost_17482_entry.html


9403荊の紀氏:2019/10/30(水) 07:46:12
古代に起きた「M1」と定義される変異の痕跡(SNP)…
ハプログルーDEはYAPという変異で定義される。YAP (ヤップ、Y-chromosome Alu Polymorphism)とは、Y染色体の長腕部「DYS287 Yq11」上にある約300塩基からなるAlu配列(Alu sequence)の挿入多型。この古代に起きた「M1」と定義される変異の痕跡(SNP)をY染色体上に持つのは、本来ならばtRNA、rRNAなどの核内低分子RNAに転写されるべきものが、何らかの要因によってY染色体上のDNA配列に挿入されてしまったもので、生体内での働きについては未解明である。Alu配列とは蛋白質をコードする配列を全く含まず、制限酵素Aluで認識されるためこの名がつけられた。YAP変異をもつ系統はハプログループEとハプログループDに限られる[1]。
【 YAP 古代の突然変異 】 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkuhuu.info%2F2017%2F10%2F30%2Fyap%2F
祖先系統:アダム→Y168→YAP アダムというように男性だけに伝わる遺伝子です。
Y染色体上のAIu配列挿入型(YAIu Polymorphism) 略してYAPは、 AIu挿入として知られる突然変異を特徴としています。
AIu配列とは三00塩基対の長さを持つDNA断片で、細胞複製中 ごくまれにヒト遺伝子のさまざまな部分に挿入されます。
五万年ほど前に生きていた一人の男性は、Y染色体上にこのDNA断片を 所有し、子孫へと伝えていったといえます。
YAPはアフリカ北東部辺りで発生した集団に確認され、サハラ以南の アフリカに見られる古代三系統の中では最も一般的です。
やがてYAP系統は、二つの異なるグループに枝分かれします。
一つはハプログループのDで、アジアに見つかりM174という 突然変異マーカーに定義つけられています。もう一つはハプログループEで
主にアフリカや地中海地域に存在し、遺伝子マーカーM96を特徴としています。

祖先系統:アダム→Y168→YAP アダムというように男性だけに伝わる遺伝子です。
Y染色体上のAIu配列挿入型(YAIu Polymorphism) 略してYAPは、 AIu挿入として知られる突然変異を特徴としています。
AIu配列とは三00塩基対の長さを持つDNA断片で、細胞複製中 ごくまれにヒト遺伝子のさまざまな部分に挿入されます。
五万年ほど前に生きていた一人の男性は、Y染色体上にこのDNA断片を 所有し、子孫へと伝えていったといえます。
YAPはアフリカ北東部辺りで発生した集団に確認され、サハラ以南の アフリカに見られる古代三系統の中では最も一般的です。
やがてYAP系統は、二つの異なるグループに枝分かれします。
一つはハプログループのDで、アジアに見つかりM174という 突然変異マーカーに定義つけられています。もう一つはハプログループEで


9404荊の紀氏:2019/10/30(水) 08:00:07
(無題)
おさらいしていくと、 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2Fpost%2Findex%2Fcomm_id%2F5015%2F%3F
ハプログループC と日本人 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fshosuzki.blog.jp%2Farchives%2F64984158.html
> C1a1は、謎の種で、日本で生まれた。
> 近いタイプは、石器時代のハンガリーやスペインに見られ、僅かに現代のヨーロッパとネパールで見られる
> インド・アラビア・インドネシアで見られるC1bと同じ祖先と見られている
> 日本最古の種か縄文人の一部とみられている
>
> >夏:O-M34
> >殷:O-JST002611
> >周・秦:O-M117
> >漢:O-JST002611
>
> 研究ノート12-4
> チベット人の集団と日本人の集団は、主要な東アジアに特有のY染色体系統-OハプログループとDハプログループ-をもつ、二つの古代の集団が混交したものである。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fikoh12%2Fkennkyuuno_to%2F012_4Y_chromosome_no_kennkyuu.html
> D系統の範疇にあるとはいえ、日本人は何回もの突然変異(たとえばマーカーM55,M57,M64など)によっていくつものサブ系統に分かれているし、一方チベット人のサブ系統はまた異なっており、それは、日本人との間に遠い昔の深い分岐が関与していることを推測させる。
>  東アジアにおけるD系統の分断化された分布は、ほかの東アジアに特有の系統のパターンーたとえばハプログループOの下位にO3,O1,O2が繋がるーとは無関係に見える。
> チベット人と日本人に加えて、D系統は、東アジアのいくつかの南方系少数民族集団にも認められる。それらは、たとえば南西中国の雲南省のチベット・ビルマ語を使う民族(14.0-72.3%)、中国南部の広西チワン族自治区の モン・ミエン族(30%)、タイのダイック語族(10%)など、ごく最近の民族混交で説明できる民族が含まれる。
> 最近の研究では、アンダマン諸島の人々に高い頻度(56.25%)でD系統が認められることが報告されている。彼らは、インド洋の離島に住んでおり、東南アジアに最も早い時期に移り住んだアフリカ起源の現生人類のひとつだと考えられている。
>  アンダーヒル等による別の研究では、D系統は、約50,000年前に東アジアに到達した可能性が高いことが示唆されている。
>  これは、東アジアのYAP系統の起源がまさに、非常に古いことを意味している。
>  東アジアに特有で且つ支配的なY染色体ハプログループ、O系統(平均の頻度44.3%)は、ことによると東アジアで最も早期の現生人類の拡散を反映している可能性を示していた。
>  東アジアの集団のほとんどにO系統が広がっているのに反して、D系統を比較的高い頻度で保持する集団は、ほとんど東アジアの大陸部の周辺地域に、分断化された形で分布している。このことは、人類の先史に関して二つの解釈が出来ることを意味している。
>  まずひとつのシナリオは、O系統と同様に、D系統もまた、東アジアにおける現生人類の旧石器時代の移動に関し、北向きに行動した系統の、まさに一つであった可能性がある。
>  次いで、(最終氷河期がひとつのキー・ファクターとなった可能性が高いが)集団の下部構造(基本構成)が形成され、そこへ最近の漢文化の拡張の影響が加わり、D系統の分布は、現在の地理的パターンに分断化されてしまったと考えることである。
>  もう一つのシナリオは、われわれのこれまで提唱してきたシナリオと違って、まったく独自の早い時期の移動があったと考えることである。
>  D系統は大部分が、西部中国と南部中国および日本に分布している。
>  Y染色体Dの下位系統の分岐の年代を推測しようとした。
>  コアレンシエンス(合体)分析は、D*、D3、D1の年代が順に最も古いことを示している。(それぞれ66,392 ± 1,466, 52,103 ± 1,327 , 51,640 ± 2,563 年).
>  日本人に特有の系統であるD2の分岐年代は、最も若い年代である。(37,678 ± 2,216 年)
>  これらD系統の推定分岐年代は、以前にリポートしたもう一つの東アジアに特有のハプログループ、O3の分岐年代(25,000-30,000 年)よりかなり古いのである。
>  アンダマン島民は、他の東南アジアの集団と遺伝子の表現型が違うけれども、彼等は、D系統、O3系統、O2系統−これらは、旧石器時代の遺物のような集団であることを強く示すが、主要な東アジア特有のY染色体の系統のほとんどを保持している。
>  また、ダイック語やモン・ミエン語を使う集団は、言語学や考古学的な証拠に照らして古代の南方系集団といえる。
>  北アジアでYAP+が欠落していること、中央アジアでD系統が散発的にしか出現しないことを考慮すると、D系統の北方起源説を説明する代わりの言い方はありそうにない。
>  それから導かれる結論は、D系統が南方起源であることに導く。それは、現生人類が最初、東南アジアの大陸部に移住し、それからほかのY染色体の系統も移住してきたという考えと一致する。
> O3系統がD系統より遅れて北方へ移動し、新石器時代になると漢民族(O3が中心)が膨張したことにより、東アジアの中心地域のD系統の痕跡は、遅れてやってきた、おそらく非常に大きな規模のO3系統の移動によって、一掃されたのである。
>  東アジアのD系統の現在の周辺地域への分布パターンは、以上の考えと一致する。
>  また、その推定される年代は、D系統の北方への移動が、O3の移動より年代的に遡りうることを支持する。
>  古モンゴロイド(アイノイド)の分布と相関しているようである。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
>  80,000-10,000年前に起こった最終氷河期に、D系統が北向きの移動を始めたという事は、現生人類がマンモス草原の食料を求めて起こした行動であるという考えに一致する。
>  後世の人口膨張以外に、最終氷河期の間にあった特に寒い気候が、D系統の現在見られる分布の断片化をもたらしたのかもしれない。


9405荊の紀氏:2019/10/30(水) 08:13:35
(無題)
Y染色体で探る日本人の起源 4−2.氷河期が終わるまでにやってきた人々2 C1 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fdigx.hatenablog.com%2Fentry%2Fj-origin4-2
このC1a1、誕生年代は古く、isoggにも41900±16600年前という推測値が記されている。しかし日本へやってきた登場年代がいつかと言えば、それははっきりしない。
 ほぼ日本にしかいない日本固有の人々なのだが、分岐年代に気になるギャップが存在していて、どうも縄文時代初頭あたりに、数の少ない状態があったと考えられるのだ。
C1a1こそが、鬼界カルデラ大噴火(約7300年前)の直撃を受けた、南九州貝文土器文化の集団かもしれないのだ。
 まず、他地域に拡がる縄文土器文化の担い手は、古くからいる多数派のDと考えることができ、次にC1a1は南の海を隔てた沖縄にもっとも高比率で存在し、またC1系統の親類の分布(後述)から見ても南から来た集団と考えられるため、南九州にいたのはC1a1だという推測が成り立つわけである。(だから南九州のデータも欲しいのだ。もちろん現在の状況は噴火後の移住者によってその基礎が作られていて、噴火前の状況とは異なるけれど、痕跡は見える可能性がある)

浅黒い肌に青い目の狩人 7000年前のDNA /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.cnn.co.jp%2Ffringe%2F35043128.html
アフリカ系の濃い色の肌に、北欧系の青い目――。スペイン北部で発掘された男性の遺骨のDNAから、こんな想像図が浮かび上がった。

C1a系統は、ユーラシア大陸の両端という非常に極端な場所(つまり、まず最初期に拡がった集団だと予感させるシンボリックな場所)で見いだせる、遺跡で見つかった、起源も古い系統であり、しかもヨーロッパの現生の先住民集団である(滅んだネアンデルタールでなくクロマニョン)とも考えられるため、D1b以上に海外からの注目を集める存在なのである。
 Eupediaのヨーロッパ古代史にもちゃんとC1a2は見えている。

たまたまC系統が両方ともいる日本もまた確実にその世界全体に拡がる謎の一部となっており、それもあって日本の先史時代は注目されているのである。
 特に中国などアジアではDまで含めて注目している。CとDは最初の現生東アジア人なのだ。(他に滅んだ化石人類もいるが)
・・・


9406山田:2019/10/31(木) 03:31:10
Re: 鈴木遺跡
y-Dを相対化するy-Cって、おもしろそう。

武蔵野の旧石器鈴木遺跡で書き忘れたの一つ。
ローム層の年代測定の基準となるAT層(姶良Tn火山灰層)2.1-2.2万年前の前後の層で遺物の種類が変わります。AT層の下約3万年前では黒曜石の石器は見えません。めずらしいのは局部磨製石斧という部分的に磨きをかけた石器が出てます。およそ3万年前。
AT層より上の層から黒曜石の石器が出はじめる。産地の調査では信州霧が峰、伊豆箱根、それに神津島のものもあり、かなり広範囲の交易があったよう。

岩宿遺跡もAT層の上下の調査で、鈴木遺跡の遺物出土と似てるようです。

9407秦野北斗:2019/10/31(木) 07:49:48
Re: 鈴木遺跡
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009919M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/局部磨製石斧



9408管理人:2019/10/03(木) 23:16:05
Re: 先行研究
これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> > 日本の文科系の学会は、物知り博士を尊重しすぎる傾向があるのですが、それでは世界には通用しないでしょう。そのうちにパソコンが取って代わってしまう。これから生き残れる研究者を育てるためにも、教育段階における研究スタイルそのものから抜本的に変えていく必要があるでしょう。
> >
>
>
> それは逆。学際的なことを好まないのが学会。
> 方法論の話であれば、学会はストイックですよ。それで良いと思います。よく知らず学者を批判しとけばいいって姿勢はいただきませんね。ただの自己満ですよ。
>
> 学会には紹介者がいなくても事務局の誰かが代理でなってくれる。実際に入ってみて発表してみたら?
> 日本の学会はダメでクズと言うなら、翻訳会社に翻訳させて海外の学術誌にでも送り付けて見たらいい。
> 反応は同じだとおもいますがね。


まー、私も歴史学会しか知らないから、文科系というと語弊があったかもしれませんけどね。

左翼系の学者さんは、共産圏とはあれこれ交流しあってたみたいですね。逆に資本主義の国には・・だったようですが。

今でもそういう名残あるのかな。日朝・韓関係とか、政治的な利害で、学際的な研究が阻害されることがあれば、それは払しょくしたいですね。どうしても自国に都合のよいように隣国の歴史を紹介されたりすると、それは研究発展に大きな阻害となります。そういう意味で、仮に学会の会報誌とかを翻訳する会社が出てきたとして、公平なスタンスで翻訳できるところがいいのではないかと感じますよ。微妙な表現とかニュアンスの相違で、歴史理解も変わってくるし、そうとう高度な翻訳能力を歴史系のそれについてはしてほしいですね。



9409管理人:2019/10/03(木) 23:19:54
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 追加で指摘します。
>
> どうも、あなた達は勘違いしている。あなた達が出し合うレベルの低い単なる思い付きが、後世誰かの役に、学問の発展に貢献するかのように思ってしまっている。
>
> あなた方が主張することというのはね、ある事実に対して「なるほど、そんな見方も可能ですね!」といった建設的なレベルではないのですよ。すべて勉強不足、または正しく理解する努力を怠っていることに由来します。
>
> あなた達の空想は、法学の議論に当てはめれば、違法でないもの同士の「有効性」についての議論ではなく、「明白に違法」であることが初めから分かっているレベルの話しなのです。役に立つどころか、正直に言えば、有害です。
>

まー、ルーツさんは思ったことをそのまま口に出してしまうので、日本人からは恨まれること多いでしょうね。このルーツさんの指摘は、まさに一般的な日本の学者さんのアマチュアに対する意見を代表されてるご意見だと思います。

アマチュアの歴史研究は本当に有害なのか?この点については、みなさんのご意見もぜひお聞きしたいですね(^^)



9410管理人:2019/10/04(金) 00:44:04
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>>
> まず、自明のことを敢えて説明することは、何も恥ずかしいことではありません。
> あなた達に必要なのは、飛躍ではなく、基礎的なことの確認・理解だと思いますね。
>
> 私の遺伝人類学分野の知識はすべて論文・書籍からの借り物ですよ。該当論文きちんと示してるでしょ。ただ下らない妄想繰り返すより、そういう姿勢の方が遥かに有り難いと思う。
>

ま、確かにごくごく初歩的な基礎がないと、資料も何も理解できないですから、私も最低限の史料の見方とかについては勉強してほしいとは望んでます。運転する際の車の仕組みや標識を覚えるようなものですね。

そこから、先はすぐ路上に出て走りながら経験するか、教習所で長い間訓練するかは、ひとそれぞれの性格とか、環境によって選べばいいのではないでしょうか。結局、行き着くところは同じレベルまでだと思います。


> さらに、私は"遺伝子言語学"のマネをして、言語でも確かめようとしてる。
> 私が知ってるテュルク・モンゴル語より遥かにチベット・ビルマ語の方が日本語に似ているからね。最近、記述研究が進んで来て伸びしろもある。
>

遺伝子言語学・・・??、この辺をまずもっと紹介していただかないと・・・、みなさん何のことやらわからないですからね。

専門家同士でも、日本の古代史と近代史がまったく双方理解できないくらい知識が異なっているように、基本的に他の分野の人に物事説明する際には、相手がずぶの素人だという視点で説明する努力が問われてくるでしょうし、そうでないとうまく協力関係は築けないでしょう。


> で、「論文に書かれた内容」と「自説」を区別してくれってかい?
>
> いいでがんす。誠意見せます。
> ただ、あまりに基礎的な事項やもはや通説となって了解済みなことを「ここはどこどこの論文から」ってふうに探すのは面倒で意味がないので、こういう類いのものには【了解済事項】【通説】とでもしておき、必要であれば「( )」とでも説明を加えますよ。
>
> まず、参照論文を3つ挙げておきます。何度も出したのだけどね…
> 1. Human Migration through Bottlenecks from Southeast Asia into East Asia during Last Glacial Maximum Revealed by Y Chromosomes. (2011)
> 2. Y‐chromosome O3 Haplogroup Diversity in Sino‐Tibetan Populations Reveals Two Migration Routes into the Eastern Himalayas. (2011)
> 3. Genetic Structure of Qiangic Populations Residing in the Western Sichuan Corridor, (2014)
> ーーーーー

参考論文の件ですが、まー通説とのことで、年代も新しいので信用いたします。


> 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方
>
> この分布図は論文が出所なのでとてもしっかりしている。
> →【上記論文1の図より】
>
> 1. 起源集団・起源地
> 最大集積地であるヒマラヤ地域については説明する必要もないだろう。しかし、ここが起源地であるとは言えない。
> →【了解事項】。
> (比率が高いところが即「起源地」とは言えないことくらいは知ってるよね?重要なのは、「当該ハプログループの多様性」で、次に比率・総数が考慮されるってこと。篠田『日本人の祖先になった祖先たち』にも分かりやすく書いてあるでしょ?比率ばかりが気になって覚えてないかな?)
>


確かにこの分布論の件は、しばしば勘違いおこしやすいことですね。


> ヒマラヤ地域の色が濃いので目立たないが、甘南チベット族自治州がある甘粛南東部のすぐ下にある集積地、アバ・チベット族チャン族自治州(歴史的呼称ではアムド地方の東南部、南部はカム地方)の人々の祖先が、O-M117の起源集団となる。
> →【上記論文1および3より】
> (ただし、論文では現代羌族の分布地域をそのまま「起源地」としている。私は「起源集団」は羌族ということで良いが、羌族の伝承をもとに、「起源地」としてはもうちょい北の甘粛・青海じゃないか、と付け加えているわけね。人間集団特に羌族のような遊牧民は移動するでしょ?
> 羌族の英雄叙事詩によれば甘粛・青海から南下してきたことになっているの)
>

ここはルーツさんのオリジナルですね。

> 自治州の冠称民族・チャン族つまり現代羌族におけるO-M117の多様性が最も高いことから、O-M117の「起源集団」はこの民族集団。彼らからO-M117は東西南北に拡散して行く。
> →【上記】
> (ただ、羌族分布地域を即「起源地」としているが、この業界では、当該ハプロの多様性が最も高い民族集団の分布地域を一応「起源地」としておく慣行があるのかもしれない。)
>
> 一方、「起源地」については、現代羌族の英雄叙事詩『羌戈大戦』によると、甘粛・青海から南下して来たそうなので、甘粛辺りとなる。
> →【自説・付け足し】
>

現代羌族の英雄叙事詩『羌戈大戦』、しばしば紹介されるんですが、これがよくわかんないんですよね。どういう文献なんですか??その伝承の信ぴょう性は十分なのかな?可能ならば、その文献の研究史が知りたいところですが、ただ、無理は言いません。


> 図では、アバ・チベット族チャン族自治州の西隣り、カンゼ・チベット族自治州からチベット高原に2方向で進入すると表現されている。これを採れば、O-M117の起源地は東チベットのカンゼ・チベット族自治州ということになる。
> →【上記論文2の図】
> (もう、分かりますよね。議論は対話なんです。論文の著者とのね。そして、私は、最近アルナチャル州のハプロを調べた結果、O-F444もいるので、やはり起源地はこの辺り、つまり東チベットかなと結論付けているわけです。)
>


そうそう、議論もコミュニケーションのひとつですからね。


> 以下に、私の主張の要点を箇条書きでまとめる。これを引用して、この全てに対して是が非か、非であれば根拠を添えてくれれば良いだろう。私もこうして面倒でも誠意みせてるんだからそちらも応えて下さいよ。:
> ? 遺伝人類学的に見てO-M117の起源集団は羌族である。

歴史学的な視点からいくと、まず羌族の初見ですね、この年代がいつごろか?その年代と、M117の分子時計論における分岐年代とが符合するか?ぜんぜんかけ離れているとすると、どちらかの物差しが間違っているとか、羌族という民族集団が仕上がる前のプレ集団、親集団・・と想定すべきかどうかの問題が残りますね。

>
> ? 起源地は東チベットか甘粛・青海である(実は両者にさほど違いはない)。
>

これも、歴史資料という点からいくと、『山海経』だと羌族は華南の苗族の末裔とか記されてなかったでしたっけ・・。雲南から甘粛に移動するルートがなかったかどうか、あるいは移動する過程、その後にチベットとか甘粛でM117が発生したのか?

ただ、その『山海経』の記載とその信ぴょう性については、まだ私も調べてる最中なのではっきりしたことは言えませんけどね。史料批判には時間がかかります。


> ? さらに、殷代の生贄羌族の歯(エナメル質)に含まれる放射線量が甘粛東南部のものと一致するので、「羌族」と彫られた生贄人骨の正体は甘粛出身の羌族であり、かつ、甘粛東南部・磨溝遺跡のハプロがO-M117が独占的であることと一致する。
>

考古学的な視点は、歴史資料より正確な物差しを出してくること多いので、双方の史料が一致するときは、説得力が増しますね。


> ? 磨溝遺跡のすぐ下が四川北西部の羌族地域であり、両者とも「アムド東南部」にあたる。磨溝遺跡人は羌族に他ならない。
>

そうですよね、四川北西部ですよね。


> ? なお、磨溝遺跡には旧表記D1はおろかmt-M9aさえも見られない。
>
> ? 以上から、羌族とはO-M117が排他的な集団であったことは確実である。D1も含まれていたとすれば、漢族に羌族由来のD1がもっと含まれているはずだが、含まれていない。
>

そうすると、M117説への反論として、D1を羌族だと主張する研究者がいるということですか??

> y-Dマニアが多いから、Dについて付け加える。
> ? チベット・ビルマ系においてはチベット集団と彼らに隣接する集団にのみにしかD1は見られない。
>
> ? チベットのD1は既にチベット人の一部となっているが、日本のD2などが関われる世界ではない。D1とD2は分岐してから5万年以上もの開きがあり、移動経路も異なる別集団である。
>
> ? 古人骨でも現代人でもD2が大陸に見られないのは、D2が内陸を通って来なかったからに他ならない。古人骨が出ないD1もサルウィン河からの北上で良いだろう。D2はシナ海ランドルートで、良くて華南をかすった。
> ここで華南とは狭義の「南嶺山脈以南の狩猟採集民の世界」。
>
> ? アフリカで既にDが発生している。東南アジア・フィリピンにD3がいる。Dのまま、東アジアに進んだり、日本で起源したなどあり得ない。そして、y-Dすべてに言えることは、狩猟採集民の言語は農耕民の言語に置き換わる。アンダマン人のように隔絶された環境にいても同じである。
>

まー、D系統の件は、どうしてルーツさんがそこまでこだわるのかわかりませんが、その資料が少ないこともあり、これから明らかにされていくテーマだと思いますね。


旧石器時代人が果たしてD系統だったかどうかが個人的には気になっているわけですが、もう一つ気になっているのが遼河文明期と並行する縄文時代後期前半における環状列石という大陸系文化をもたらした人種です。礼文島の人骨にみえる日本特有のD1系統の分岐が初期段階の分岐に見える点、これがどうしても気になってます。

旧石器時代人がD1系統だったならば、もっと下層の分岐に礼文島の人骨が位置すべきではないかと感じてるわけですが、この辺は遺伝子の研究者に聞かないとわからんかな・・・。

環状列石とか櫛目紋土器の流れが確かに北方遊牧民のルートを通っているようにもみえるから、ここにD1系統が含まれていたとするとどうなるかも課題ですが、遼河文明の遺跡からDは出てなかったようですから、そうすると、むしろ三内丸山に関連するN系統あたりの影響を考慮すべきというのもわかるような気もします。

その遼河文明というのが、やはり日本語の形成にかかわっていることは、ルーツさんの話を聞いていても理解できるような気がします。縄文時代後期から末期にかけて日本語の基となる言語が朝鮮か日本でできていったとすると、その担い主がNなのかDなのか、Оなのかは大きな問題となるでしょう。


ただ、青森、秋田、北海道の縄文人が日本語の基礎となる言語を話していたならば、アイヌ語にもすくなからず、日本語との近似性が見出されるはずなのに、それがほとんど見当たらないということがあり、そうすると、遼河文明が、つまり縄文時代後期の縄文人への言語に大きな影響を与えなかったか、あるいは与えたとしても、その後縄文人の言語がほとんど、現代の日本語に継承されなかったのではないかとの推測も成り立つでしょう。

そうすると、弥生・古墳時代あたりに、ルーツさんの指摘するビルマ・チベット語族の一部の集団が渡来して、それが日本語に大きな影響を与えたという選択肢しかなくなるのか?も課題ですよね。

もっともY-Dがmt−Mと関連することは、その分岐をみても明らかですし、Y-C・Fはmt−Nとではっきり分かれているのですが、そのmt−Mを、後にY-Оのペアとすることによって、その前後でmt-Dなどが生じていったことも以前予想したとおりです。

そのmt−Mは、東アジア人の基層として広く分布しているので、Y-Оが東アジアに出現する以前に
Y-Dが東アジアのどこかに広く分布していたはずで、そのОとDとの接点となるのは、ひとつには華南から東南アジアにかけての領域だろうことも以前も予想したとおりですね。

ともあれ、問題は、礼文島のD1系統の人骨の分岐上での位置、それと分子時計論の推定年代なりが果たして信用に足るのかどうか?ここを明らかにしないかぎり、この問題は私の中では解決しないということであり、こう考えていくと、次にやはりその分子時計論について、もっと調べる必要があるということでしょうね。それ次第で大きく結果が変わってくる・・・。

ルーツさんの研究の批評をしながら、自分の研究の論点がはっきりしてきて・・ともあれ感謝です!!


9411管理人:2019/10/04(金) 01:10:17
Re: 鈴木遺跡
山田さんへのお返事です。

> y-Dを相対化するy-Cって、おもしろそう。
>
> 武蔵野の旧石器鈴木遺跡で書き忘れたの一つ。
> ローム層の年代測定の基準となるAT層(姶良Tn火山灰層)2.1-2.2万年前の前後の層で遺物の種類が変わります。AT層の下約3万年前では黒曜石の石器は見えません。めずらしいのは局部磨製石斧という部分的に磨きをかけた石器が出てます。およそ3万年前。
> AT層より上の層から黒曜石の石器が出はじめる。産地の調査では信州霧が峰、伊豆箱根、それに神津島のものもあり、かなり広範囲の交易があったよう。
>
> 岩宿遺跡もAT層の上下の調査で、鈴木遺跡の遺物出土と似てるようです。

なるほど、旧石器時代でも、そのAT層で入れ替わり?があるのですね。

こういう仮定はどうでしょうか。何度か日本列島のY-Dをメインとする旧石器時代人は災害などに見舞われて絶滅しかけていた。その後、縄文時代になりY-Cも混在するようになり、しかし、その縄文人も何度か絶滅しかけたことがあり、結果として、縄文時代後期の一部の生き残った縄文人(Y-D+C)の子孫が、礼文島のY-D遺骨の主であり、また現在の3系統に分かれるD1系統の日本人の祖先であった・・。


そうすれば、礼文島のY-Dが、比較的D1系統の初期分岐に位置している意味も理解できるようになるかもしれません。

その日本列島全体の旧石器時代人なり縄文人を絶滅させるほどの災害が何なのかと考えると、その
姶良Tn火山灰層とかかわる噴火が、絶滅させるのに十分なものだったと考えうるかが気になるところです。


姶良Tn火山灰層はwikiに下記のようにありますね。

姶良Tn火山灰(あいらてぃーえぬかざんばい)は、約2万9千年前〜2万6千年前に姶良カルデラの巨大噴火で噴出した大量の火山灰である。(以前は約2万5000年前〜2万年と考えられていた。)Tnは丹沢を示す。この大噴火で噴出した火砕流が陸上を流れて堆積したものが入戸火砕流で、「シラス」の通称でよく知られている。同時に噴出した火山灰のうち、空中高く吹き上げられ、偏西風に乗って東方へ飛んでから地上に降下したものが姶良Tn火山灰 (AT) となった。

姶良Tn火山灰は、九州から関東地方まで、直径2000キロにおよぶ卵形の地域に分布する。地層の年代決定における鍵層の一つになっている。地質学ではしばしばATの記号で表される。

火山灰に覆われた面積は約4百万km2、火砕流堆積物を除いた火山灰の全体積は約150km3にもなる。この地層を境にして植物の種類が大きく変化しており、寒冷化の原因になったとも考えられている。

火山灰層の厚さ
50cm以上: 九州南部、高知県西部
80cm以上: 鳥取県の大山付近
40cm以上: 京都市
25cm以上: 琵琶湖
20cm以上: 九州北部、四国、中国地方、近畿地方
10cm以上: 中部地方、関東地方
ミリの単位: 千葉県銚子
5cm以上: 東北地方南部
東北地方北部や朝鮮半島でも確認されている。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A7%25B6%25E8%2589%25AFTn%25E7%2581%25AB%25E5%25B1%25B1%25E7%2581%25B0

火砕流でやられた周辺域とは別に、それにともなう寒冷化や食料不足の飢餓で日本列島全域がやられてしまい、結果として生き残った東北・北海道の旧石器時代人が勢力を増して南下していったとかいう歴史とか関連研究はないでしょうか?

そんな感じの災害が、縄文時代にもあった、これは以前こちらで紹介した平さんたちの縄文大津波説と関連するかもしれません。津波痕跡は縄文時代の地層からも複数確認されてますからね・・・。


9412これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/04(金) 02:32:43
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
管理人さんへのお返事です。


> 遺伝子言語学・・・??、この辺をまずもっと紹介していただかないと・・・、みなさん何のことやらわからないですからね。
>

そんな学問分野が確立しているわけではない。だからカッコ付けて書いたんだよ。管理人さんや私もよくやってる言語とハプログループとの関係について、ですよ。

ただ、元日本言語学会会長(松本正巳)が引退してから研究ノートか試論の形で書いてるね。
九州大学にはやってる人いるらしい。

安心していい。松本は戦前生まれの古い人だし、我々の方が上いってる。笑
そもそも松本は類型論との関係だけで言語系統には言及してない。ニヴフ語・韓国語・日本語の文法の類似を指摘するにとどまっている。C2だね。これには私も賛成。


> 現代羌族の英雄叙事詩『羌戈大戦』、しばしば紹介されるんですが、これがよくわかんないんですよね。どういう文献なんですか??その伝承の信ぴょう性は十分なのかな?可能ならば、その文献の研究史が知りたいところですが、ただ、無理は言いません。
>

これは英雄叙事詩だが、書かれたものではなく、オーラル・ヒストリー。それによると、羌族は甘粛・青海にいたところ、東の集団に襲われて南下した。私は東の集団というのは西戎覇者になる秦だと思うがね。
羌族は南下先でネグリートのような形質(低身長、毛深い、顔幅が広い等の形容)の戈基人に出くわし、これと戦い勝利する、というお話し。早稲田の工藤さんは日本の土蜘蛛や国巣と対比させてる。

まー、議論の主題ではないし、興味あるなら、先行研究は自分で探して下さいよ。工藤という人は口承文化のこと良く知ってそうだね。

主題ではないと書いたのは、O-M117の起源は、現代羌族の分布地域である四川西北部でも先の英雄叙事詩が言う甘粛・青海でも余り変わらくて、要するにチベットの歴史的地域分類での「アムド南東部」と「カム北東部」になりますから。

「アバ・チベット族チャン族自治州」の北部はアムド南東部、南部はカムにあたるので、羌族の故地について考古・DNAと叙事詩の記述は一致しているわけ。ウィキ:
Most of the prefecture lies in the Tibetan cultural and historical region of Amdo, the southern part in Kham.
一応、古人骨では、O-M117が排他的な磨溝遺跡はアムド南東部にあたります。

現代人のO-M117の多様性を重視すれば、それは羌族・ギャロンで、羌族はアムド東南部が中心、ギャロンはカム北東部が中心。それだけのお話。
O-M117の磨溝遺跡人はアムド東南部だがサブグループまで出ていない。



> これも、歴史資料という点からいくと、『山海経』だと羌族は華南の苗族の末裔とか記されてなかったでしたっけ・・。
> ただ、その『山海経』の記載とその信ぴょう性については、まだ私も調べてる最中なのではっきりしたことは言えませんけどね。史料批判には時間がかかります。
>

これは論外。そんな伝説か神話だか妖怪談集だかを持ち出すことは間違っている。使ってるものがダメ。歴史資料として扱えない。あんなの真に受けてる研究者っているんですか?

この点、叙事詩の方がずっとマシでしょう。羌族が甘粛・青海を本拠としていたのは遺跡でもDNAでも確認できる事実だから。

そういえば山海経を地図に落とした画像何度もアップしてましたね。山海経に基づいたとしても正確かどうなんだか、かなり疑問です。狐につままれた感だけです。何をやろうとしているのかずっと疑問でした。ま、こういうのが面白いんでしょうが。
管理人さんの重要なテーマでしょうし、機会があれば、資料の価値・図の精度について明らかにして下さい。

しかし、?史料の古さでも?史料の信頼度でも、山海経なんて、殷代の?甲骨文における「羌」と?生贄羌族に直に刻まれた「羌」の字には遥かに及ばないわけです。さらに、これが、
?考古学
?古人骨DNA
?現代人のDNA
?歯のエナメル質の放射線量測定(エナメル質には幼少期に住んでいた地域の放射線量が閉じ込められるため、生贄羌族の出身地が分かる)によって裏付けられるわけで、「羌族=O-M117」は、東アジア人のルーツ探しのトップランナーですよ。
8つも互いに密接に連関する確かな証拠に支えられてる真理なのだから、このくらい認めないと、もうただの妬みですよ...
ここまで深く詳細にルーツに迫れるハプログループって東アジアにないですよね?


> そうすると、M117説への反論として、D1を羌族だと主張する研究者がいるということですか??
>

そんな研究者いないよw

ただ、えーとえーと、ブログ「羌族とは」のMATさん?笑
IT研究所に勤めていたらしいよw 研究者ではないだろうが、研究所の事務職員?w
羌族で検索かけるとヒットするから管理人さんも知ってるはず。








9413これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/04(金) 03:13:55
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
まー、"学問的に反論"することはできないわけですね。
論文のひとつでも出してくるんじゃないかと少しは期待してたのですが...

しかし、それも当たり前で、「羌族=O-M117」の正当性は最高裁大法廷判決みたいなものですから。あ、違う、そもそもDは議論にもならない。非常識のレベル。


9414これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/04(金) 04:43:59
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
管理人さんへのお返事です。

>
> まー、ルーツさんは思ったことをそのまま口に出してしまうので、日本人からは恨まれること多いでしょうね。
>


この部分は必要ないんじゃないか?wいわゆる議論に関係のないAd hominemってやつ。
そうか、昨日から風邪引いてるんだが、呪いかな...(爆

9415荊の紀氏:2019/10/04(金) 06:17:34
えびす(羌)…『ヘブライ人』 …
 >?史料の古さでも?史料の信頼度でも、山海経なんて、殷代の?甲骨文における「羌」と?生贄羌族に直に刻まれた「羌」の字には遥かに及ばないわけです。さらに、これが、?考古学、?古人骨DNA・?現代人のDNA、?放射線量測定によって裏付けられるわけで、「羌族=O-M117」は、東アジア人のルーツ探しのトップランナーですよ。
「羌」の字・・・

日本では、七福神の『恵比寿(エビス)』さまになっています。 カナン地方に進出したアラ族の別派は、 『ヘブライ人』 と呼ばれました ...
インドのコーサラ国の王族だった『お釈迦(シャカ)』さんも、『サカ族』でした。
地中海のアルワード島(アラド島)を中心に貿易を拡げた『アラ族』は、『フェニキア人』と呼ばれました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.pt-jepun.com%2Fhistory%2Fkiji1932.html

エブス人(恵比須・胡・蛭子・戎・夷)やユダヤ人(大物主命・米俵を担ぐ大黒さん) の商人たちであり、その由来は『エビス・大黒さん』として現在でも各家庭に祭られています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fplaza.rakuten.co.jp%2FPhoenix3%2Fdiary%2F200712200001%2F
これが呼び水となりシュメール人と苗族のグループがオケオ港や海南島からフェニキア人の船で出発し、金属文化を伴う水田稲作農業を持って移住してきました。この時、かれらは有明海から鳥栖へ上陸しています。

茗荷紋 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
戦国時代以後、天台宗の摩多羅神の神紋として用いられた。家紋として用いた文献上(『見聞諸家紋』)の初見は二宮氏である[1]。また、茗荷の音が「冥加」に通じることから、神仏の加護が得られる縁起の良い紋として、神社や寺などで用いられることが多い。
摩多羅神(またらじん)のシンボルが茗荷だという説がある。摩多羅神は天台宗の円仁が唐から持ち帰った神で比叡山延暦寺やその末寺で祀られ神社や寺で祀っている所も多い。(伯耆の大山寺、出雲の鰐淵寺、出雲大社、日光東照宮など。)日光東照宮に摩多羅神が祀られたことから祭礼の御輿にはすべて茗荷紋が付いている。日光東照宮で用いられる前は限られた家が使っているだけだったが、これ以降茗荷紋が広まった。
摩多羅神は秦氏の総鎮守の大酒神社(おおさけじんじゃ)(今は太秦の広隆寺)の祭りの神である。秦氏の所縁が深いせいか、藤原氏系統にこの紋が多い。
マターラ…
サンスクリット語の「マター」“māt?”(母という意味)の複数形「マターラ」“mātara?”からきているとする説がある。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fseesaawiki.jp%2Ftoho-motoneta_2nd%2Fd%2F%25c8%25eb%25bf%25c0%25a5
ギリシャ語やラテン語の起源をサンスクリット ...
トカラ語はインド・ヨーロッパ語族の中で最も東に位置するのにケントゥム語だったのである /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdic.nicovideo.jp%2Fa%2F

ヒッタイト語とトカラ語は、ずいぶん昔に消滅してしまった言語ですが、インド・ヨーロッパ語族の歴史、そしてインド・ヨーロッパ語族と他の言語の関係を考えるうえで、決して外せない言語です。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.jojikanehira.com%2Farchives%2Fdecember2018-5
ヒッタイト語のほうはアナトリア半島(現在のトルコ)、トカラ語のほうはタリム盆地周辺(現在の中国の新疆ウイグル自治区)で使用されていました。タリム盆地はあまりなじみがないかもしれません。Wikipediaから引用した以下の地図は、新疆ウイグル自治区の位置を示したものです。タリム盆地は、新疆ウイグル自治区の下半分ぐらいです。タリム盆地の大部分は、タクラマカン砂漠という砂漠になっています。

羌族の言語はインド・ヨーロッパ語の系統(特にトカラ語)であるという説…
羌族の言語と氐族の言語は似ており、中国(漢語)とは違うことが『魏略』西戎伝に記されている。もし、この言語が現在のチャン語だとすれば、羌族および氐族はチベット系(チベット・ビルマ語派)に分類される。
一方、羌族の言語はインド・ヨーロッパ語の系統(特にトカラ語)であるという説もある。(後述)[3] /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
「羌」は現代中国語で「チャン(qiâng)」と発音され、中期中国語では「k??aŋ」、古代中国語では「klaŋ」となる。クリストファー・ベックウィズは羌族の二輪戦車を操る技術から、トカラ語の「klānk」(二輪馬車で行く、-に乗る)と結び付け、羌族の古代名は「クラン (klānk)族」であり、「二輪馬車の御者」の意味であろうとした。[4]

羌 キョウ・コウ 羊部 解字 甲骨文は羊の頭を持つ人のかたちで、牧羊民族の羌人をさす。金文から「羊+人」の羌になった。羌族は中国の最も古い少数民族のひとつ。
2015年4月3日のブログ記事一覧-漢字の音符 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fd%2F20150403
解字 甲骨文は羊の頭を持つ人のかたちで、牧羊民族の羌人をさす。金文から「羊+人」の羌になった。羌族は中国の最も古い少数民族のひとつ。現在の四川省の羌族自治県や、甘粛省・陝西省などに住み、伝統文化を保持している。
意味 えびす(羌)。中国西部に住んでいた民族の名。五胡のひとつ。現在、四川省・甘粛省・陝西省などに少数民族として続いている。「羌笛キョウテキ」(羌族系の少数民族の使う笛)
姜 キョウ <牧羊民の姓>
解字 羌の下部を女にかえて、姜姓を示した字。同じく女偏の姫キ姓などとともに紀元前二千年以上前の母系氏族社会に起源をもつ姓。
意味 (1)姜姓。中国で最も古い姓氏の一つ。中国古代の伝説上の帝王・炎帝を始祖とする伝承をもつ。(2)川の名。「姜水キョウスイ」(陝西省を流れる川。炎帝がこの川のほとりで生まれたという伝説をもつ)(3)「生姜しょうが」とは、ショウガ科の多年草。根は横に走り数個のかたまりとなり、黄色で辛味があり食用・香辛料とする。正式な名は「生薑ショウキョウ」で、薑キョウ(はじかみ。ショウガ)を同音の姜キョウに置き換えた字。日本では「生姜ショウキョウ」を、なまって「ショウガ」と発音した。「生姜焼き」(ショウガの汁を加えたタレをかけるか、タレに漬けた肉を焼いた料理)

匈奴(えびす)羌族
「羌」 解字:形声。意符の羊(ひつじ)と音符の人(=「儿」。ひとの意)とから成る。 牧羊を業とする西方の強い異民族の意。 「姜」 解字:形声。意符の女(姓)と音符の羊( 牧羊 ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fshoukei.blog65.fc2.com%2Fblog-category-6.html
「羌」=「美−大」+「儿」:=男の正面+垂れ流す幼児=>子供のような正面の男=>つよい部族/つよい=>(漢民族を苦しめた)中国西方の異民族=>えびす(「儿」cf.66)
「姜」=「美−大」+「女」:=男の正面+女=>男の正面のような女=>男勝りな女=>羌姓部族の女(「女」cf.76)
 「羌」と「姜」はえびすの男女を示しているようです。
羌族の「羌」の訓読み は「えびす」ですが、安曇磯良の事を「磯良えびす」とも言うようです。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.mkmogura.com%2Fblog%2F2012%2F04%2F30%2F1110
君が代の「君」とは安曇磯良、筑紫の君、倭国の奴国王、神武天皇の始祖、呉(周)から来た羌族であり、同族の紀氏や(本来の)藤原氏が王朝を復活させたのが明治維新だったのではないでしょうか。
ちなみに羌族の「羌」の訓読みは「えびす」ですが、安曇磯良の事を「磯良えびす」とも言うようです。
・羌族はイスラエル支族か(動画)
ttp://www.youtube.com/watch?v=u4htawuBUoY&;feature=autoplay&;list=FLzpu804njdrvGh12QbngGiw&;playnext=1
・中国開封のユダヤ人がイスラエルに帰還(動画)
ttp://www.youtube.com/watch?v=pKsFuC0yeME&;list=FLzpu804njdrvGh12QbngGiw&;feature=plcp
羌族の住む四川、鹿島の常陸国(当初は福島・宮城・茨城)、Y染色体O2の多いスマトラ、311=11×3=KKK(反ユダヤ)って何か気持ち悪くないですか?
・・・・
日本の国歌「君が代」が実はユダヤのヘブライ語の発音で、このようになります。驚きました。それにしても、この当て字はよく出来ている。橋下大阪市長は日本人にシオンの民を賛美するために起立せよ、と言っているようです。橋下氏が(被差別部落)田布施の人脈(天皇取り替えた人脈)につながるとすればごくごく納得がいきますね。 ご参考→(シオン長老の議定書)(世界シオニスト会議)
・・・・
チベット系の羌族が作った後 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.k2.dion.ne.jp%2F%7Eyohane%2F00000dna6.htm
古代人のミトコンドリアDNAの分析(残念ながら検体数はそれほど多くなく、Y染色体DNAも分からない)では、日本の先住民(縄文人)と後の渡来人(弥生人)の大部分は(Dが無いと思われる)どちらも東アジア系である。ミトコンドリアDNAは変異しやすく配列の変化が激しいので、日本でも中国などでも多様化が進んでいる。したがって、縄文人と弥生人との区別がつかないのである。彼らは少なくともBC2000年以降、ノアの洪水後バベル(バビロン)から中国などに拡散してきた民の一部であるから異常な分布はしていない。
  しかし、現代日本人のミトコンドリアDNA系統分析では、アジア系とは全く異なるアフリカ・中東系のような別のグループが10数%もいることが明らかである。このことは、同じく現代日本人の、より変異の確率が小さいY染色体DNA系統分析において、より明確に現れている。そのため、現在日本に40%もいるD系統の民は、次の2つの段階で大陸から渡来してきたと考えられる。
・・・・


9416荊の紀氏:2019/10/04(金) 06:35:10
「羌」は古代中国語では「klaŋ」…clan(子孫)…
> 「羌」は現代中国語で「チャン(qiâng)」と発音され、中期中国語では「k??aŋ」、古代中国語では「klaŋ」となる。クリストファー・ベックウィズは羌族の二輪戦車を操る技術から、トカラ語の「klānk」(二輪馬車で行く、-に乗る)と結び付け、羌族の古代名は「クラン (klānk)族」であり、「二輪馬車の御者」の意味であろうとした。[4]

クランはケルト語のクランclan(子孫)の転化語。KKKと略称される。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2FKKK-59330

>トカラ語はインド・ヨーロッパ語族の中で最も東に位置するのにケントゥム語だったのである /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdic.nicovideo.jp%2Fa%2F

ケントゥム語とサテム語
ケントゥム語(ケントゥムご)とサテム語(サテムご)はインド・ヨーロッパ語族(印欧語族)に属する言語の、音変化による分類である。しかし現在ではこの区分は系統を反映しているか疑問視されている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.m.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ケントゥム語(ケルト語派、ギリシャ語派、イタリック語派、および東方のトカラ語派、など)
スラヴ語派とバルト語派はどちらもサテム語派に属するものの、同時にケントゥム語派の音声的特徴も残しており、またこのスラヴ語派とバルト語派は文法的にはゲルマン語派(ケントゥム語派に属する)との間で明確な共通性があるため、スラヴ語派、バルト語派、ゲルマン語派の3つの言語の共通祖語(インド・ヨーロッパ祖語の北西語群)を想定する学説も有力となってきている[1][2]。

インド・ヨーロッパ語族に属する諸言語話者を特徴づける遺伝子はハプログループR1b (Y染色体)およびハプログループR1a (Y染色体)[3] [4] であるが、R1bはヨーロッパ西部やアナトリア、ウイグル(旧トカラ語分布域)などケントゥム語話者に高頻度で、R1aはバルト・スラブ語派やインド・イラン語派などサテム語話者に高頻度である[5]。印欧祖語が話されたヤムナ文化の人骨からはハプログループR1b (Y染色体)が91.5%の高頻度で検出されているが、R1aは検出されていない[6]。そのため、元来の印欧語族話者はケントゥム語を話すR1b集団であり、ある時点でR1a集団が新たに印欧語に言語交替を起したものと考えられ、その際にR1a集団の基層言語の特徴がサテム語の特徴として受け継がれたものと思われる。


9417これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/04(金) 23:01:31
Re:D1でさえコレなのだからそれと分岐してから5万年以上の開きのある日本のD2など話しにならない。D2がチベット人と関係するなど、イカレポンチの呟きでしかない。ロマンを語るのさえ許されない。
管理人さんへのお返事です。

> > 遺伝子言語学・・・??、この辺をまずもっと紹介していただかないと・・・、みなさん何のことやらわからないですからね。
> >
>
> そんな学問分野が確立しているわけではない。だからカッコ付けて書いたんだよ。管理人さんや私もよくやってる言語とハプログループとの関係について、ですよ。
>


yDNAハプログループとチベット・ビルマ語族の構造の観点から少し述べよう。
チベット・ビルマ語族全体におけるD1の位置と意義。
これを理解できた時点でも、チベット・ビルマ語族に特徴的なハプログループはO-M117であることが普通分かるはずだ。チベット・ビルマ語族も印欧語族も1万年前以前に遡らない。あたりまえのことだ。

仮に5万年も前にDの言語なるものがあったとしても、狩猟採集民の言語は残らないーこれは「遺伝子言語学」の真理であり、アフリカでもアジアでもD集団はことごとく農耕民の言語に言語転換されている。


旧表記y-D1が多いのは、チベット・ビルマ語族集団の10以上ある語派のうちの「ヒマラヤ語群」のさらにその下位である「チベット・カンナウリ語群」の、さらに下位である「ボド(Bod)語群」のうちさらに下位の「チベット諸語」においてのみ見られる「極々例外的な現象」でしかない。

D1が5割を超えるチベット・ビルマ人はいない。対して、O-M117が5割を超える集団は規模の大小に関わらず有り余る。しかも、古人骨でも出ているのだから決定的だ。

そもそも、チベット人においてもD1は、チベット人(発羌)がチベットに進出した後に吸収した過去の遺物・異物でしかない。

図で表わして、可視的にチベット・ビルマ語集団においてy-D1がいかに些細な集団であるか示して置こう(下図)。

このように広大かつ深遠なこの語族集団において、D1はチベット人およびチベット人に隣接し後にチベット人のヅォン(砦+僧院)が置かれた少数の集団にしか見られない。

チベット・ビルマ語族分類、Matisoff (2015)
?北東インド群
1. Northeast Indian areal group
・“North Assam”
・・Tani
・・Deng
2. Kuki-Chin
3. “Naga” areal group
・・Central Naga (Ao group)
・・Angami?Pochuri group
・・Zeme group
・・Tangkhulic
4. Meithei
5. Mikir / Karbi
6. Mru
7. Sal/Brahmaputran
・Bodo-Garo
・・Western Garo
・・・Rabha, Koch
・・Central
・・・Boro, Mech, Tiwa (Lalung)
・・・Bru
・・・Dimasa
・・・Kokborok
・・Eastern
・・・Deori-Chutia, Moran
----------------------------
?ヒマラヤ語群
・Himalayish
・・Tibeto-Kanauri
・・・Western Himalayish
・・・Bodic
・・・・Tamangish
・・・・Tibetic←←←←コレね。
・・・Dhimal
・・Newar
・・Kiranti
・・・Limbu
・・・東
・・・中央
・・・西
・・Kham-Magar-Chepang
---------------------------------
?タングート・羌語群
・Tangut-Qiang
・・Tangut
・・Qiangic
・・rGyalrongic
-----------------------

?ヌン語群
・Nungic
-------------------
?土家語群
・Tujia
---------------------------
?ロロ・ビルマ語群
・Lolo-Burmese?Naxi
・・Lolo-Burmese
・・Naxi
----------------------
?カレン語群
・Karenic
----------------------
? 未分類
1. Kamengic
・・Bugun (Khowa)
・・Mey (Sherdukpen) of Shergaon
・・Mey (Sherdukpen) of Rupa
・・Sartang
・・Chug and Lish
2. [Northern] Mishmi (Digarish)
・・Idu (Luoba)
・・Taraon (Digaru)
3. Siangic
・・Koro
・・Milang
4. Puroik (Sulung) - East Kameng District
5. Hruso (Aka) - Thrizino Circle, West Kameng District
6. Miji (Sajolang, Dimai, Dhimmai)
7. Miju
------------------------------------------------------------------
? シナ・チベット語族の存在を思わせる言語群(アルナチャルの言語群)
・East Bodish
・・Meyor (Zakhring)
・・Monpa of Tawang - Tawang District
・・Monpa of Kalaktang (Tshangla)
・・Monpa of Zemithang
・・Monpa of Mago-Thingbu
・Tani: Nah

9418これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/04(金) 23:12:14
印欧語系集団における羌族系O-M117の存在感
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009931M.png

管理人さんへのお返事です。

O1bやD集団のうちでO-M117のように印欧語集団と絡む集団は存在しない。C2が2割の印欧語集団も存在しない。N1はロシア人の中で地域によってはかなり多い。

下記論文1の要点
(1) 東インド平野には、タライ(Terai or Tarai)とドゥワール(Dooars or Duars)というヒマラヤ地域の最も外側の地域がある。
O-M117が独占的なヒマラヤ地域とは異なり、これらの地域は、チベット・ビルマ系(TB)、オーストロアジア系(AA)、インド・ヨーロッパ系(IE)、ドラヴィダ系(DR)という4つの異なる語族が存在するユニークで多様な民族構成を有している。

(2) 驚くべきことにO-M117系統は、ネパール・北東インドの印欧語を行う集団においても2番目に多いハプログループ(25%)であることが判明した。

(3) 未分化のO2 * -M122は、東アジアの主要な系統(平均頻度44%)であり、その後、約25,000〜30,000年前に北向きに移動した。

(4) チベット・ビルマ語族集団の起源に関しては、約10000-5000年前に東アジアでproto-Tibeto-Burmanが誕生したという遺伝的証拠が示唆されている。黄河上・中流域が祖地と見なされ、そこから西へ、そして南へ拡散し、ヒマラヤとブータン、ネパール、インド北東部への人口移動を齎した。

(5) なお、D * -M174に基づいて、以前には、チベット遺伝子プールが中央アジア人との親和性を持つとする仮説があったが、これは、東アジアにおけるこのハプログループの南部起源を示す最近の研究によって否定された。チベット・ビルマ語を行うヒマラ地域ではD * -M174は無視できるほど低いが、チベット・ビルマ語を行う集団Mech(5.3%)でD * -M174を検出した。しかしながら、D -M174はチベット・ビルマ系に普遍的に分布してはいない。

【所見】
以上のうち(2)の事実ー「驚くべきことにO-M117系統は、ネパール・北東インドの印欧語を行う集団においても2番目に多いハプログループ(25%)であることが判明した」が興味深い。

チベット・ビルマ人→DNA・外見はチベット・ビルマ系でも印欧語化したチベット・ビルマ人→外見も言語も印欧化した元チベット・ビルマ人というようにContinuumが見られる。

印欧語を行うベンガル人(n=54)にもO-M117が7%見られる(下記論文2)。ネパールのカトマンドゥにおいても言語集団に関わりなく17%見られる(ウィキ英語版O-M117)。

カトマンドゥは歩いたことがあるが、時折モンゴロイド的な人もいたものの、ほとんどインド系の顔立ちが圧倒的であったと記憶している(チベット難民は除いてね)。残念ながら写真のようなネパール人は目撃していない。笑

この人はいい感じの混じり方だね。 旧ソ連中央アジア人にも時折見られるタイプ。モンゴロイドとコーカソイドの混血はたいていコーカソイドが強く出る感じがする。しかも、美人とは限らない。

裏を返せば、印欧集団による同化だが、それにしても、一見インド人そのものの風貌で印欧語話者であっても、ネパール人の5人に1人、ベンガル人の10人に1人が「元チベット・ビルマ」であるという事実。
何となく微笑ましいではないか!

これぞ!人種・言語を超えたハプログループが齎す一体感!と言えよう Across the borderline!

参照論文
1. Y-chromosome haplogroup diversity in the sub-Himalayan Terai and Duars populations of East India
Monojit Debnath, Malliya G Palanichamy, Bikash Mitra, Jie-Qiong Jin, Tapas K Chaudhuri & Ya-Ping Zhang
Journal of Human Geneticsvolume 56, pages765?771 (2011)

2. Y chromosome haplotypes reveal prehistorical migrations to the Himalayas". Human Genetics. 107 (6) (2000)



9419管理人:2019/10/04(金) 23:19:31
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> > 遺伝子言語学・・・??、この辺をまずもっと紹介していただかないと・・・、みなさん何のことやらわからないですからね。
> >
>
> そんな学問分野が確立しているわけではない。だからカッコ付けて書いたんだよ。管理人さんや私もよくやってる言語とハプログループとの関係について、ですよ。
>
> ただ、元日本言語学会会長(松本正巳)が引退してから研究ノートか試論の形で書いてるね。
> 九州大学にはやってる人いるらしい。
>
> 安心していい。松本は戦前生まれの古い人だし、我々の方が上いってる。笑
> そもそも松本は類型論との関係だけで言語系統には言及してない。ニヴフ語・韓国語・日本語の文法の類似を指摘するにとどまっている。C2だね。これには私も賛成。
>
>

なるほど、いつもやっているあれですね!海外では盛んになされているようですが、日本ではまだ手付かずとのことならば、ルーツさんの研究価値がたかまりますね。

ハプロ研究がここ十数年で飛躍的に発展している現状として、まさに機熟すの感があります。

日本や世界が災害などで不況になる前に可能なかぎりすすめておきましょう。


> > 現代羌族の英雄叙事詩『羌戈大戦』、しばしば紹介されるんですが、これがよくわかんないんですよね。どういう文献なんですか??その伝承の信ぴょう性は十分なのかな?可能ならば、その文献の研究史が知りたいところですが、ただ、無理は言いません。
> >
>
> これは英雄叙事詩だが、書かれたものではなく、オーラル・ヒストリー。それによると、羌族は甘粛・青海にいたところ、東の集団に襲われて南下した。私は東の集団というのは西戎覇者になる秦だと思うがね。
> 羌族は南下先でネグリートのような形質(低身長、毛深い、顔幅が広い等の形容)の戈基人に出くわし、これと戦い勝利する、というお話し。早稲田の工藤さんは日本の土蜘蛛や国巣と対比させてる。
>
> まー、議論の主題ではないし、興味あるなら、先行研究は自分で探して下さいよ。工藤という人は口承文化のこと良く知ってそうだね。
>

なるほど口頭伝承でしたか。口頭伝承がどこまで遡れるかについては、懐疑的にみられそうなところですが、昔、川田順造さんの『無文字社会の歴史』あたりを読んでから、予想以上に古くさかのぼれる可能性を感じました。

ただ、M117の発生年代を考えるにあたっては、前1000~3000年あたりの記録を探る必要があり、困難な課題を抱えていることは確かですが、口頭伝承からの切り口は重要だと感じますよ。

アイヌのユーカラなどの英雄叙事詩も、個人的には読んでみたい気はしてます。

> 主題ではないと書いたのは、O-M117の起源は、現代羌族の分布地域である四川西北部でも先の英雄叙事詩が言う甘粛・青海でも余り変わらくて、要するにチベットの歴史的地域分類での「アムド南東部」と「カム北東部」になりますから。
>
> 「アバ・チベット族チャン族自治州」の北部はアムド南東部、南部はカムにあたるので、羌族の故地について考古・DNAと叙事詩の記述は一致しているわけ。ウィキ:
> Most of the prefecture lies in the Tibetan cultural and historical region of Amdo, the southern part in Kham.
> 一応、古人骨では、O-M117が排他的な磨溝遺跡はアムド南東部にあたります。
>
> 現代人のO-M117の多様性を重視すれば、それは羌族・ギャロンで、羌族はアムド東南部が中心、ギャロンはカム北東部が中心。それだけのお話。
> O-M117の磨溝遺跡人はアムド東南部だがサブグループまで出ていない。
>
>

あまり移動してないなら、M117とチャン族との関連は、すでにどこかの研究者なりが指摘して研究しているでしょうね。もちろん考古学でもやってるでしょうし。

問題は、ルーツさんがそこにどういう切込み視点を入れるかですね。もちろん翻訳して日本の学会にそれらの研究を紹介してくれるだけでも意義深いとは感じますけど。


>
> > これも、歴史資料という点からいくと、『山海経』だと羌族は華南の苗族の末裔とか記されてなかったでしたっけ・・。
> > ただ、その『山海経』の記載とその信ぴょう性については、まだ私も調べてる最中なのではっきりしたことは言えませんけどね。史料批判には時間がかかります。
> >
>
> これは論外。そんな伝説か神話だか妖怪談集だかを持ち出すことは間違っている。使ってるものがダメ。歴史資料として扱えない。あんなの真に受けてる研究者っているんですか?
>
> この点、叙事詩の方がずっとマシでしょう。羌族が甘粛・青海を本拠としていたのは遺跡でもDNAでも確認できる事実だから。
>

『山海経』については、個人的には当時の中国人の周辺民族への真面目な世界観を記していると考えてます。確かに今現代からみると、目が三つの人とか胸に穴が開いた人とかいるわけない!と馬鹿にしたくなるところですが、未開の文明段階では、大真面目にそう信じていた可能性が高いです。戦中の日本人が欧米人を鬼だと真面目に信じていたようなもので、馬鹿にはできませんよ。

そして、その記載が、周辺諸国への実地探索の記録を集めたものであり、そこそこ信ぴょう性があることを、これから学会に提出したいというのが私の主眼です。この点では、ルーツさんとは相いれないことになりますが、それはそれでいいのではないかな。また機会があれば、先日の地図の説明もしなおしたいとは考えてます(^^)


> しかし、?史料の古さでも?史料の信頼度でも、山海経なんて、殷代の?甲骨文における「羌」と?生贄羌族に直に刻まれた「羌」の字には遥かに及ばないわけです。さらに、これが、
> ?考古学
> ?古人骨DNA
> ?現代人のDNA
> ?歯のエナメル質の放射線量測定(エナメル質には幼少期に住んでいた地域の放射線量が閉じ込められるため、生贄羌族の出身地が分かる)によって裏付けられるわけで、「羌族=O-M117」は、東アジア人のルーツ探しのトップランナーですよ。
> 8つも互いに密接に連関する確かな証拠に支えられてる真理なのだから、このくらい認めないと、もうただの妬みですよ...
> ここまで深く詳細にルーツに迫れるハプログループって東アジアにないですよね?
>


考古の件は重要ですね。・・と私もみなさんも、このM117とチャン族との関係性に反論してないとおもいますが・・、昔どなたかから反論でもされたんですか?

>
> > そうすると、M117説への反論として、D1を羌族だと主張する研究者がいるということですか??
> >
>
> そんな研究者いないよw
>
> ただ、えーとえーと、ブログ「羌族とは」のMATさん?笑
> IT研究所に勤めていたらしいよw 研究者ではないだろうが、研究所の事務職員?w
> 羌族で検索かけるとヒットするから管理人さんも知ってるはず。
>


ただ、確かに、自説を主張するにあたっては、あえて仮想敵とでもいうべき反論をいくらか用意しておいて、その反論を論破する形で、相手を説得するとよいこともあります。

だから、チャン族=M117という仮説があったとして、その反論として、チャン族=D1、あるいはもОー×といった複数の有力な可能性を並べ立てて、それに対して、ひとつひとつ否定する展開で自説を主張していくのがよいでしょうし、すでにルーツさんもよくなされているところですね。

私のほうでは、仮に反論するならば、まずチャン族のメインハプロをいくらか並べたてて、そこからこれはどうか?と指摘し、それをクリアできれば良し、できなかればやり直しということくらいはできるかもしれませんが、ただご自身でなされたほうが、お互いにとってもよいでしょうから、あえてそこまでする気にはならないわけです。

私もしばしば飛躍したことを話しますが、常に頭の中では、反証を視野にいれて話をしているので、単なる空想家のおもいつきとは異なるとご理解いただければありがたいです。

確かに、その動機はかなり直感的なものが支配してますし、終始その直感が支えにはなっているのですが、「この三角とあの三角は同じだ」という直感的な把握がないと、論説を進めることは難しいとおもうんですね。

その直感的な把握への感性とか、それからもたらされるビジョンとでもいうべきでしょうか、その部分が、はっきり論の展開に見えてくる人と、いまいち見えてこない人がいて、やはりビジョンが見えない人はリーダーシップは取れないことは、一般社会においても同様です。魅力あるビジョンが見えなければ誰もついてきませんからね。欧米人はその辺は一歩先をいってますね。

もっとも、それはあくまで空想ではなくて、実現可能性のあるビジョンですね、ここを打ち出す人が増えてくることを望んでいますし、そういう人を育て集めていく場も重要かな〜とは感じてます(^^)


9420これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/05(土) 00:17:06
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
管理人さんへのお返事です。

> なるほど、いつもやっているあれですね!海外では盛んになされているようですが、日本ではまだ手付かずとのことならば、ルーツさんの研究価値がたかまりますね。
>
> ハプロ研究がここ十数年で飛躍的に発展している現状として、まさに機熟すの感があります。
>

管理人さんはずっと勘違いしてますが、私の専門は言語ではありませんよ。はは…

> ただ、M117の発生年代を考えるにあたっては、前1000~3000年あたりの記録を探る必要があり、困難な課題を抱えていることは確かですが、口頭伝承からの切り口は重要だと感じますよ。
>

これは、どこからのガセネタでしょうか?出所を示して頂けますか?
その年代ではね、チベット人と私のO-M133は日本で起源して分散したことになっちゃう。明らかに変でしょw
劉邦O-F155も日本で起源?非常識ですよ。

O-M117は1万年以上前、サブグループの分岐時期は1万年前とするのが「普通」。
O-M117直下のサブグループはO-M133を残してほとんどが消滅。O-F444やO-JST002611、またC2についても同じことが起きたので、起源前3000年頃の気候の冷涼寒冷化に伴う生き残りと解されている。
論文:Y Chromosomes of 40% Chinese Descend from Three Neolithic Super-Grandfathers. (2014)

前1000~3000年あたりの年代というのはまさに磨溝遺跡人で、彼らがO-M117の起源集団にして祖語集団ってことになっちゃう。さすがに私はそこまで都合よく考えませんね。磨溝の時代には遼河でもO-M117が見られるのであって、磨溝集団と遼河集団の間にはそれなりの「亀裂」「乖離」があるものと考えてます。


> あまり移動してないなら、M117とチャン族との関連は、すでにどこかの研究者なりが指摘して研究しているでしょうね。もちろん考古学でもやってるでしょうし。
>

だから、中国人もインド人もとっくに書いてるって。R1のサブグループと印欧語族の関係の次に明らかでしょう。印欧語とは話しになりませんが。

> 問題は、ルーツさんがそこにどういう切込み視点を入れるかですね。もちろん翻訳して日本の学会にそれらの研究を紹介してくれるだけでも意義深いとは感じますけど。
>

あはは。それは無理ね。
管理人さんは分からないでしょうが、学会で発表して学会誌に載せるということは、難しいことなのですよ。それも専門外で? 無駄な労力は使いませんw

新潟大の生物学のセンセが定年間際に遺伝人類学の見地からオーストロネシア語とウラル語は同系だって唱えてたらしいけど、学会誌の論文はおろか研究ノートにもなってないよね。生半可な言語の知識じゃ無理なんですよ。

y-NOでNとOの言語が兄弟というのは分かりやすいが、語族形成期無視してるね。実際、ただのコジツケ語呂合わせで終わってるわけです。

> 『山海経』については、個人的には当時の中国人の周辺民族への真面目な世界観を記していると考えてます。確かに今現代からみると、目が三つの人とか胸に穴が開いた人とかいるわけない!と馬鹿にしたくなるところですが、未開の文明段階では、大真面目にそう信じていた可能性が高いです。戦中の日本人が欧米人を鬼だと真面目に信じていたようなもので、馬鹿にはできませんよ。
>

真面目に捉えるのは無理筋。山海経の地理を真面目に捉えている研究者がいるのなら教えて下さい。いないはずです。

> 考古の件は重要ですね。・・と私もみなさんも、このM117とチャン族との関係性に反論してないとおもいますが・・、昔どなたかから反論でもされたんですか?
>

またまたw
でなければ、例えばO-M117の起源時期を紀元前3000ー紀元前1000年に置かないはずでしょ。
同様に旧表記D2の起源時期も極端に最近に見積もることによって、「何か」と結び付けたいという意図みえみえなんですが(汗)
内心では5万年以上前の日本のy-DとチベットのDを結びつけたいんじゃない?
それどころかユダヤとかトカラとかとも?

9421荊の紀氏:2019/10/05(土) 02:34:14
血統の崩壊…近親婚…
次期天皇に女性が許されない真の理由は「神の遺伝子」と ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftocana.jp%2F2019%2F01%2Fpost_19510_entry_3.html
女性天皇と一般男性の間に生まれた子供が天皇に即位できないのは、Y染色体に含まれるYAP遺伝子の継承問題があると思われる。ガド族の末裔であるミカドの血筋が“YAP遺伝子を有さない”などあってはならぬことなのだ。
 女性天皇問題と日ユ同祖論のふたつはYAP遺伝子によって深く結びついているのだ。YAP遺伝子を都合の悪い事だと言って隠蔽してきた欧米の勢力は、そろそろこの問題を認めるべきである。

ユダヤ教 :古代の中近東で始まった唯一神ヤハウェを神とし、選民思想やメシア(救世主)信仰などを特色とするユダヤ人の民族宗教である。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fbbs.jinruisi.net%2Fblog%2F2012%2F08%2F1105.html
彼らにとってはユダヤ教徒だけが人なのであり、それ以外は人非人、大いに騙し、奪うべき存在なのです。したがって、彼らの婚姻・男女関係も同じユダヤ教徒の中だけということになります。

近親相姦 歴史 「血統の崩壊」も参照先史時代2010年にロシアのシベリアで出土した5万年前のネアンデルタール人女性の骨から採取したDNAを解析した結果、両親は近親者同士であることが判明した。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.weblio.jp%2Fwkpja%2Fcontent%2F
ネアンデルタール人はアフリカにいた人類と混血し、ヨーロッパ人や東アジア人などの先祖になったとされるが、彼らのネアンデルタール人由来と見られるDNAは弱い負の自然淘汰を受け続けているとされる。アダム・ラザフォードは、ネアンデルタール人の繁殖集団が小規模だったのが、自然淘汰上今でも不利に働いているのではないかと指摘している[527]。
カムチャツカ人王室、またシャム・ポリネシア・インドシナでは一般的に兄妹姉弟間の結婚が認められていた[528]。バギルミー、ビルマの王家、ワンゴロ人やゴアムにおいても兄妹婚は珍しくなかった。インドネシアのバドウィス族は数百年来近親相姦のみによって存続している[529]。
王家の兄妹婚は、タイ、エラム王国、セイロン島のシンハレーズ族、フェニキア人、カリア人、ヨーロッパのジョルジァ、イベリア人、アフリカのカナリア諸島のガウンチ族、ウルア族、オロモ人、バガンダ王国、バニョロ王国、バヒマ王国、メロエ王国、モノモタバ王国、オセアニアのマルケサス、コロンビアでも行われていた[530]。
イスラエル・ユダヤ
ダビデ王の王子アブサロムの妹タマルを異母兄アムノンが犯してしまう(旧約聖書サムエル記下13章)。ヘブライでは、異母兄妹同士の結婚は許されており、ネルデケは妹のことを花嫁と呼ぶ恋愛詩を紹介している[550]。
古代ユダヤの王族アグリッパ2世とベレニケの兄妹はほとんどの時間を宮殿の中で一緒に過ごした。血を分けた兄妹が常に一緒であることから、近親相姦の関係にあったとされている[551][552]。
また、イエス・キリストを裏切ったユダには、オイディプスそっくりの伝説が存在していたことをオットー・ランクは指摘する。無論事実ではないが、母と寝たために父殺しの運命を背負ったという考えから生まれた風説である。
弥生時代終末期から5世紀代までの古墳時代前半期の被葬者は同世代の血縁者だけで構成されるのが基本で、血縁関係にない配偶者は6世紀まで同じ墓に葬られなかった…
一般的な日本人にも近親婚がみられたことが、『日本書紀』の第15巻の仁賢天皇6年の、国策で夫が高句麗に送られることを嘆く難波(現在の大阪)での女性の逸話に見られる。その記録によれば、その女性の母と母方の祖父は既に死去してはいるのだが、彼女の夫は彼女の父と彼女の母方の祖母との間に生まれた息子であるため、彼女にとって夫は母方の叔父でありかつ異母兄弟なのだということを伝えている。

ユダヤ人は近親婚多いの?
出エジプトの時モーゼがルベンはルベンと。ユダはユダと。ベンジャミンはベンジャミンと、、という風に同族同士結婚するように言います。レビ族は司祭階級だったので12氏族にそれぞれ分け入れました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq11172238691
バビロン捕囚のあとイスラエルに帰国したがイスラエルじゃ自由奔放に結婚はじめ、ラビ司祭さえ異国の女と自由結婚してるのを見てエズラはショックを受けた。
ラビ司祭まで自由結婚してるくらいならその他大勢は想像つく。
抗議して自分と同族結婚するようにいいました。
フェニキア人など周辺民族は美女が多いのでふらふら結婚してたらしい。
近親相姦
遺伝学と生理的反応 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.weblio.jp%2Fwkpja%2Fcontent%2F
自然界でもボトルネック効果が発生した際に、選択的な遺伝的浮動が起こった場合には、有害な劣性遺伝子が除去され近親交配の負の効果が顕在化しない可能性はある。だが、通常は人間以外の動物の場合、近親交配の有害な影響を避けるために人為的な選択管理が必要となる。エルヴィン・シュレーディンガー (1944) は、人間の場合は自然淘汰の機能が損なわれているどころか、優れた人間のほうが殺害されることが多いため、近親交配の弊害にはより一層の注意が必要となると主張している[285]。
2013年9月13日の『日本経済新聞』によれば、アメリカ合衆国では精子バンクの普及により多くの子供が一人の男性の精子から生まれるという事態が発生したが、このままでは子供達が知らないうちに近親相姦関係になってしまい、やがては子孫に先天的に有害な影響がもたらされるのではないかと危惧されているという[288]。

血統の崩壊(けっとうのほうかい、英語: pedigree collapse)は、系譜学における用語で、祖先を共有する2人の個人間の生殖によって生まれた子孫が持つ祖先の数が、祖先を共有しない2人の個人間の生殖によって生まれた子孫が持つ祖先の数より少なくなることを意味する。ロバート・C・ガンダーソンが作った用語であり、同じ概念は系統の喪失(ドイツ語: Ahnenschwund)またはインプレックス(implex)という用語でも知られている[1]。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.weblio.jp%2Fcontent%2F


9422荊の紀氏:2019/10/05(土) 03:02:18
1万年前…ハプログループC1a C1a2
「ハプログループC1a1」の記事。 日本列島固有のハプログループで、誕生は約1万年ちょっと前 と推定される
ハプログループC と日本人
C1aはさらにC1a1とC1a2に分かれるが、C1a2はヨーロッパに僅かに見られるということなので無視して構わない。
ハプログループC1aとしては、アジアで唯一の存在。C1a2がヨーロッパに僅かに存在するという。
ハプログループC1の不確実性を逆に裏付けている。
(祖型の)渡来年代は1.約4万年前、2.約1万年前の2つの説があるが、前者であれば日本列島最古層、後者であれば日本に縄文文化をもたらした集団かもしれない。
日本列島で誕生したことは確実と思われるが、その祖型の移動ルートは謎に包まれている。
イラン付近からアルタイ山脈付近を経由し朝鮮半島経由で日本に到達した都の説(崎谷)がある。

クロマニヨン、ネアンデルタール は、大体同世代(3万5千年前から1万年前)で、違う人種と考えられていました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fotasuke.goo-net.com%2Fqa8907953.html
西欧には、現生人類とネアンデルタールの混血と見られる遺伝子を持つ人も多いとか。比較的最近の研究論文です。
現生人に比べると、体格や膂力ではネアンデルタールの方が勝っていたと言います。
白人にはネアンデルタールのDNAが、東洋人にはデニソワ人のDNAが混ざっており、アフリカ人には混ざりがない、などという話をまことしやかにする人もいるのですが、これらは隠れた人種差別主義者であることも多いので注意が必要です。

クロマニヨン、ネアンデルタール ハプログループC1a2…
2003年のクロマニョン人の遺伝子調査ではハプログループN (mtDNA)(ともに子系統を含む)が確認された[7]。
2015年の遺伝子調査では、13,000年前のスイスのクロマニョン人がハプログループI2a (Y染色体)、ハプログループU5b1h (mtDNA) に属すことがわかった[8]。
また、旧石器時代のチェコ(30,000年前)、ベルギー(35,000年前)、[9] ロシア西部ヴラジーミル州スンギール遺跡(約34,000年前)[10]の人骨はハプログループC1a2 (Y染色体)に属していた。
これによりクロマニョン人は現在のヨーロッパ人の祖先の一部であることが明らかになった。
ヨーロッパ進出の第一波はハプログループC1a2、第二波はハプログループIと考えられる[11]。


9423これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/05(土) 06:18:25
(無題)
日本のy-DがD2でホント残念だよね。
D1なら少しは我々と絆を共有できただろう。
ま、全ゲノムでなら現代D2もちゃんと北東アジア人さ。

9424荊の紀氏:2019/10/05(土) 09:00:43
(無題)
O-M133…C2についても同じことが起きたので、起源前3000年頃の気候の冷涼寒冷化に伴う生き残り…
> これは、どこからのガセネタでしょうか?出所を示して頂けますか?
> その年代ではね、チベット人と私のO-M133は日本で起源して分散したことになっちゃう。明らかに変でしょw
> 劉邦O-F155も日本で起源?非常識ですよ。
>
> O-M117は1万年以上前、サブグループの分岐時期は1万年前とするのが「普通」。
> O-M117直下のサブグループはO-M133を残してほとんどが消滅。O-F444やO-JST002611、またC2についても同じことが起きたので、起源前3000年頃の気候の冷涼寒冷化に伴う生き残りと解されている。
> 論文:Y Chromosomes of 40% Chinese Descend from Three Neolithic Super-Grandfathers. (2014)
>
> 前1000~3000年あたりの年代というのはまさに磨溝遺跡人で、彼らがO-M117の起源集団にして祖語集団ってことになっちゃう。さすがに私はそこまで都合よく考えませんね。磨溝の時代には遼河でもO-M117が見られるのであって、磨溝集団と遼河集団の間にはそれなりの「亀裂」「乖離」があるものと考えてます。
>

秦始皇帝のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1a(O-M133)であると推定される(注1)(注2)(注3)。
徐福のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1(O-M117)であると推定される(注1)。
徐福とその一行が日本人の祖先であるとする説に対し、Y染色体による分析を示して、特殊な例外を除き、大多数の日本人の祖先は徐福とその一行ではないと論破。分子人類学に基づく人類のY染色体ハプログループで分類すると、日本人はハプログループD1bというY染色体を持つグループが日本に渡り、数万年間、独自の発展を遂げた後、東アジアにルーツを持つハプログループO1bの弥生人と融合共生した民族が日本人であると解析した。さらに、徐福とその一行が日本人の祖先であるならば「日本語に中国語の影響が見られなければならない」と指摘し、漢字は日本でも使用されているが「日本語と中国語の文法はまったく異なる」と説明。Y染色体から見ても、言語面から見ても「紀元前3世紀ごろに不老不死の薬を求めて日本に渡った徐福という人物が日本人の祖先だとする説は正しくない」と伝えた。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffamousdna.wiki.fc2.com%2Fwiki%2FY
秦河勝
聖徳太子の側近として活躍した秦河勝のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1a(O-M133)であると推定される(注1)(注2)(注3)。
秦河勝の子孫としては、楽家の東儀家、猿楽の始祖観阿弥・世阿弥親子、四国の戦国大名の長宗我部元親・長宗我部盛親親子などが知られる。

長宗我部氏(ちょうそかべし)は、日本の武家の一つ。平安時代末から戦国時代の武家。戦国時代に土佐を統一し四国に進出した戦国大名、長宗我部元親で有名。長曽我部・長曾我部とも記される。
本姓は秦氏を称した。家紋は「七つ酢漿草かたばみ」。室町時代以降、通字に「親」を用いた。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
秦氏は中国秦王朝の始皇帝の流れを称する古代氏族であり[5]、飛鳥時代に秦氏の繁栄を築いた秦河勝の後裔が長宗我部氏であるとされている[6]。
秦河勝は聖徳太子の信任を受けており、丁未の乱(587年)にて聖徳太子と蘇我馬子が物部守屋を倒した際に功をたて信濃国に領地を与えられたので、子・秦広国を派遣した。これにより信濃秦氏が始まる[4]。後年、信濃更級郡に居住していた秦能俊(初代 長宗我部能俊)が土佐に入ったのが、長宗我部氏の始まりとされる[7]。
家紋
定紋:七つ酢漿草(片喰・鳩酢草、カタバミ) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ほかに、「帆掛船」や「慈姑(クワイ)」を定紋に使用している[4]。家紋にまつわる話として、家臣の福留氏は功績により七つ酢漿草から一つを引いた「六つ酢漿草」を家紋として与えられた話が伝わる。
長宗我部氏に対し三千貫を領知する綸旨が下された際、賜った盃にカタバミの葉が浮かんでいたことから、カタバミを家紋とした[25]とされている。帆掛船は、秦氏が大陸から海を渡って来朝したのに基づくと言われ[4]、盛親が最期の際に帆掛船の家紋をあしらった袴を着ていたとされている。
「帆掛船」
秦氏の子孫の多くは、舟の形のデザインを家の紋章としていた。このことは、イスラエル10部族の一つ、ゼブルン族の紋章が舟であったこと(「イスラエル12支族 」参照)と関係があるのです 。
日本へ向かった10支族 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fseturi.webcrow.jp%2Ffutski%2F2_3_b.html
古代中国での10支族
 タクラマカンの廃墟化は、一挙にというより、ある程度の期間をかけて進んだと思われます。それは中国が「漢」の時代であったとき、すなわち紀元前200年〜紀元後200年くらいに始まりました。湖はしだいに干上がり、川には水がなくなり、果樹園は枯れていったのです。
 水がなくなった人々は、自分たちの家を捨て、しだいに他の地へ移住しなければならなくなりました。やがて多くの人々が、東への移動を開始したため、イスラエル10部族の中にも、移住を開始した者たちがいたのです。移住を決意した彼ら10部族の一部は、まだ中央アジアに残っている10部族の他の者たちに別れを告げ、東方への旅に出発します。彼ら移動する10部族のグループは、しばらくして中国の開封に到着すると、一部の者たちはそこに住み着いたのです。(『日本書紀と日本語のユダヤ起源』より)
 開封に住んだユダヤ人は、自分たちの宗教を「刀筋教(とうきんきょう)」と呼んでいました。ユダヤ人は、父祖ヤコブの時代から、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない(創世記32章32節)という風習があり、「刀筋教」はそのユダヤの慣習に由来する名前と言われています。(『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史』より)
彼らが日本に来たことによって、かつてユダの地のユダヤ人となしていた交信は、以後、途絶えてしまった。そのために彼らは「失われた」10部族と呼ばれるようになったのである。(『日本書紀と日本語のユダヤ起源』より)
 ところで、上記の“アイヌの強い抵抗を受けた”ことが原因となって、飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を行ったこと考えられます。ちなみに、「夷」は、東方の未開人のことであり、「蝦夷(えぞ)」をさす語となりました。また、「征夷」とは、蝦夷を征討することであり、征夷大将軍は、それを指揮する官職だったのです。
「ミロク(メシヤ)思想」は、秦氏の故郷・弓月国でも盛んでした。それで秦氏は、弥勒は日本では仏教のものとして崇められているけれども、もともとは自分たちの信じるメシヤ思想に通じるということで、しだいに仏教に迎合していったのです。(『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史』より)
下鴨神社公式サイト
 日本の天皇は、単なる王ではありません。天皇は、大祭司的王(祭祀王)なのです。そしてそれは日本神道と深いかかわりを持ち、神道の中心的地位を占めています。前ページでは、アフガニスタンや中国等に行ったイスラエル10部族を見てきましたが、彼らの間に祭司はいても、天皇のような大祭司的王はいませんでした。
 なぜ日本に、万世一系の天皇というものが存在するようになったのか、ある研究者は、それは日本に古代イスラエルの王系の人々がやって来たからだと考えました。
 かつて北王国イスラエル初代の王は、エフライム族出身のヤロブアムでした。一方、アッシリヤ捕囚直前の北王国最後の王は、ホセアだったのです。聖書によれば、北王国の王たちはすべて神の教えに背いたのですが、ホセアは、その中でもましな王だったのです。聖書はホセアについて、彼は「彼以前のイスラエルの王のようではなかった」(列王紀下17章2節)と記しています。
 ホセア王や彼の側近たちは、紀元前722年にアッシリヤに連れて行かれました。(「王国の分裂と滅亡」参照)北王国イスラエルの王系は、もともとユダの王系に対する反逆から生まれたものであったため、アッシリヤ捕囚後、再びイスラエルの地に帰るよりはもっと遠い場所に行って、そこで自分たちの国をつくり、やり直そうと計画したのです。(『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史』より)


9425山田:2019/10/05(土) 09:22:53
Re: 1万年前…ハプログループC1a C1a2
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 「ハプログループC1a1」の記事。 日本列島固有のハプログループで、誕生は約1万年ちょっと前 と推定される
> ハプログループC と日本人
> C1aはさらにC1a1とC1a2に分かれるが、C1a2はヨーロッパに僅かに見られるということなので無視して構わない。
> ハプログループC1aとしては、アジアで唯一の存在。C1a2がヨーロッパに僅かに存在するという。
> ハプログループC1の不確実性を逆に裏付けている。
> (祖型の)渡来年代は1.約4万年前、2.約1万年前の2つの説があるが、前者であれば日本列島最古層、後者であれば日本に縄文文化をもたらした集団かもしれない。
> 日本列島で誕生したことは確実と思われるが、その祖型の移動ルートは謎に包まれている。

・・
以前キシさんが紹介されたメコン河畔から情報発信してるHP、おもしろかった。
y-C、y-Dの相性の良いこといってる。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.taizanweb.com%2Fscience%2Fhuman%2Fmovement.php

旧石器遺跡で出る黒曜石の細石刃は、旧石器最後期で、縄文初期でも多く見られる。縄文で弓矢を使うようになって細石刃も使われなくなったようです。旧石器→縄文の移行、まるで別の人種が入れ替わったというのでもないような。

岩宿資料館と鈴木遺跡資料館のパンフでは、AT層2.1−2.2万年前というの、wikiの情報では「約2万9千年前〜2万6千年前」と更新されてるようで、5千年から7千年の誤差がある。科学分析が進んでるといっても古層の話は、いつもアバウトになりますが。

岩宿遺跡調査では、相沢忠洋さん報告(1949年)の後、明大の調査隊(杉原壮介、芹沢長介他)がはじめて旧石器の発掘調査にはいった。AT層前後を対象に文化層が分かれており、黒曜石はAT層下からも若干出土されています。

追記
岩宿遺跡調査時、芹沢長介さんはまだ学生だったそうで、98年4月号「科学」(岩波)では、「1万2000年前に何がおこったか」巻頭言を寄せてます。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.iwanami.co.jp%2Fkagaku%2FKaKa9804.html

追々記
旧石器捏造事件、2000年11月発覚。
・・
芹沢長介 - 日本での前期旧石器の存在をかねてより唱えていた考古学者で、岡村道雄の恩師であり、藤村新一が所属した石器文化談話会・東北旧石器文化研究所とも関係した。

・・東京多摩ニュータウン遺跡約5万年前の旧石器出土。これも心配になってきた(汗)
近年の野川遺跡調査などは、小田静夫さんが調査報告多く、捏造事件に関しては早くより批判。武蔵野の旧石器がおもしろい。

!追々々記
多摩ニュータウンNo.471-B遺跡には、捏造首謀藤村氏が関与している。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.amy.hi-ho.ne.jp%2Fmizuy%2Fzenki%2F471-B-010510.html

この報告書読む限り、約5万年前の旧石器出土はガセ!

(陳謝)


9426管理人:2019/10/06(日) 00:09:41
Re: 1万年前…ハプログループC1a C1a2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009939M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009939_2M.jpg

https://www.taizanweb.com/science/human/movement.php



9427管理人:2019/10/06(日) 01:15:06
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>

>
> 管理人さんはずっと勘違いしてますが、私の専門は言語ではありませんよ。はは…
>


え!!!違うんですか??

> > ただ、M117の発生年代を考えるにあたっては、前1000~3000年あたりの記録を探る必要があり、困難な課題を抱えていることは確かですが、口頭伝承からの切り口は重要だと感じますよ。
> >
>
> これは、どこからのガセネタでしょうか?出所を示して頂けますか?
> その年代ではね、チベット人と私のO-M133は日本で起源して分散したことになっちゃう。明らかに変でしょw
> 劉邦O-F155も日本で起源?非常識ですよ。
>


いやいまから1000年前でなくて、紀元前1000〜3000年くらいかなと・・・書き方悪かったかな・・。

> O-M117は1万年以上前、サブグループの分岐時期は1万年前とするのが「普通」。
> O-M117直下のサブグループはO-M133を残してほとんどが消滅。O-F444やO-JST002611、またC2についても同じことが起きたので、起源前3000年頃の気候の冷涼寒冷化に伴う生き残りと解されている。
> 論文:Y Chromosomes of 40% Chinese Descend from Three Neolithic Super-Grandfathers. (2014)
>

O-M117は1万年以上前・・・。先ほどの投稿でミランコビッチサイクルの話をしましたが、1万3000年前以前は極寒の世界で、紀元前3000年ごろのそれとは比較にならないほど、中国北部も厳しい寒さにあったでしょう。今でもモンゴルとか零下40度くらいになるそうですが、それがもっとすごくて60度とかになってたんじゃないでしょうか(汗)

その寒さの中で、長い冬を乗り越えれる集団が、その時期に中国北部とかにいたのか?がまず気になってます。

1万年前も、現代よりははるかに寒い時期ですからね、この時期にM117がチベットとか甘粛で発生したとすると、どうなのかな、すごい寒冷適応能力もっていたんじゃないかな。

サブグループがほとんどいないのは、それに耐えうる集団だけが生き残ったとか、そういう可能性も感じますね。紀元前3000年ごろは、縄文海進の時代で、現代より暖かかった時期なのですが、この時期に中国北部では絶滅させるほどの寒冷化があったのかな?この論文、ちょっと読んでみたいきもする・・・。

> 前1000~3000年あたりの年代というのはまさに磨溝遺跡人で、彼らがO-M117の起源集団にして祖語集団ってことになっちゃう。さすがに私はそこまで都合よく考えませんね。磨溝の時代には遼河でもO-M117が見られるのであって、磨溝集団と遼河集団の間にはそれなりの「亀裂」「乖離」があるものと考えてます。
>

これですね!

趙宝溝文化(ちょうほうこうぶんか、拼音: Zhàobǎogōu wénhuà、Zhaobaogou culture)は、紀元前5400年から紀元前4500年頃に中国の北方で栄えた新石器時代の文化。主に、内モンゴル自治区から河北省北部の灤河流域、およびシラムレン川とラオハ川沿いの地域(遼河上流域)で発見されている。標式遺跡である趙宝溝遺跡は、内モンゴル自治区赤峰市敖漢旗で1986年に発掘された。広さはおよそ9万平方メートルである。

この文化は、興隆窪文化・新楽文化といった中国東北部の遼河流域文化に引き続いて現れた。狩猟・採集・漁労のほか、農耕も行ったとみられる。この文化の末期に、大きな祭祀遺跡を築いた紅山文化が出現した。

この文化の遺跡からは石鋤や石包丁などといった磨製石器や打製石器のほか、幾何学模様やシカ、イノシシといった動物の模様の刻まれた陶器が出土する。また石や土で作った人型も出ている。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E8%25B6%2599%25E5%25AE%259D%25E6%25BA%259D%25E6%2596%2587%25E5%258C%2596


日本でいけば縄文時代後期あたりでしょうか、この時代に後代M117のいたあたりに文化が生じていったことになりますね。遼河文明のそれともかかわりながら・・・。分子時計論だと1万年前の分岐になっているのでしょうけど、実際はその半分の5000年前だった!とか、後年訂正発表されたら、どうします?分子時計論を信用した私がばかだった!と叫びだすかもしれませんが、そういう可能性もなくはないかもしれません。発生時期について不明・保留にしておいたほうが無難な気もしますが・・。

>
> > あまり移動してないなら、M117とチャン族との関連は、すでにどこかの研究者なりが指摘して研究しているでしょうね。もちろん考古学でもやってるでしょうし。
> >
>
> だから、中国人もインド人もとっくに書いてるって。R1のサブグループと印欧語族の関係の次に明らかでしょう。印欧語とは話しになりませんが。
>


ま、そうでしょうね。なんとなく勘で、ここまではすでに他の研究者も気づいてやっているだろうというラインは、よくわかるものです。だからやっているだろうと思うことは、私はしないわけですけどね(笑)

> > 問題は、ルーツさんがそこにどういう切込み視点を入れるかですね。もちろん翻訳して日本の学会にそれらの研究を紹介してくれるだけでも意義深いとは感じますけど。
> >
>
> あはは。それは無理ね。
> 管理人さんは分からないでしょうが、学会で発表して学会誌に載せるということは、難しいことなのですよ。それも専門外で? 無駄な労力は使いませんw
>

歴史学会の学会誌もよく読みましたが、あの閉鎖的な姿勢はなんとかならないかと感じますね。

もう少しアマチュアとか他の分野の専門家からの論説なども掲載するコーナーくらい設けてもいいと思うし、そうしないと、なんというか、これからの時代では発展は見込めないと思うんですよね。

海外の理系雑誌とか学会では、よく小学生の惑星起動計算が正しかったとか、取り上げられてますけど、能力主義の世界では、仮にアマチュアでも、理論的に正しいと認められれば、学会誌にも掲載され報道される、こういう姿勢が日本の文系の学会にあるのかどうか?ここも課題ですよね。特にルーツさんは、かなり多角的な視点からの切込み能力があるので、ご自身の学会でうだつがあがらないと判断されたなら、逆に日本の歴史学会とかその辺に論文投稿してもよいかと思いますよ、そっちのほうが、ずっと歴史学会の将来にとってもよいわけだし。

> 新潟大の生物学のセンセが定年間際に遺伝人類学の見地からオーストロネシア語とウラル語は同系だって唱えてたらしいけど、学会誌の論文はおろか研究ノートにもなってないよね。生半可な言語の知識じゃ無理なんですよ。
>

まー、それも、学会誌の方針が悪いんじゃないですかね。そこそこの実績と経験がある人の意見を、まともに取り扱わないなんて・・・。本当に日本の言語学会は、世界に通用してるんですか??

> y-NOでNとOの言語が兄弟というのは分かりやすいが、語族形成期無視してるね。実際、ただのコジツケ語呂合わせで終わってるわけです。
>
> > 『山海経』については、個人的には当時の中国人の周辺民族への真面目な世界観を記していると
>
> 真面目に捉えるのは無理筋。山海経の地理を真面目に捉えている研究者がいるのなら教えて下さい。いないはずです。
>
直感的にみて、誰もやってなさそうだから、あえて、やるんです(笑)


> > 考古の件は重要ですね。・・と私もみなさんも、このM117とチャン族との関係性に反論してないとおもいますが・・、昔どなたかから反論でもされたんですか?
> >
>
> またまたw
> でなければ、例えばO-M117の起源時期を紀元前3000ー紀元前1000年に置かないはずでしょ。
> 同様に旧表記D2の起源時期も極端に最近に見積もることによって、「何か」と結び付けたいという意図みえみえなんですが(汗)
> 内心では5万年以上前の日本のy-DとチベットのDを結びつけたいんじゃない?
> それどころかユダヤとかトカラとかとも?


いえいえ、さすがに、そういう下心はありませんよ・・(笑)

ただ、ユダヤには確かに興味ありますけどね。さっき、沖縄のグスクとそのグスクらしきものがある海底遺跡の放射性年代とその構造を再度確認していて、妙なことに気づき始めてますが、その件はまた後で・・。






9428管理人:2019/10/06(日) 01:23:08
支石墓と中東
先の話の続きで、かりにフェニキアとかユダヤが東洋にくる可能性があったとすると、海のシルクロードとか支石墓の流れを考える必要があるかもしれませんね。

支石墓についてはこちらのwikiをご参照ください。


ヨーロッパでは、新石器時代から金属器時代初期にかけて支石墓が建造された。その建造範囲は西ヨーロッパにほぼ限定されており、主として大西洋・北海・バルト海沿岸に見られる。紀元前4000年-3000年頃の西ヨーロッパでは、支石墓などの巨石建造物に代表される巨石文化が興っているが、農耕の伝播との関連性を指摘する説が有力である。

東アジア
東アジアの支石墓は、紀元前1500年頃に遼東半島付近で発生し、その周辺(現在の中国吉林省付近)へ広まった。当初は、地上に支石を箱形に並べ、その上に天井石が載るというテーブル状形態を示しており、天井石の下部では葬祀が行なえるようになっていた。中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西北部に分布する。紀元前400年頃から次第に支石が低くなっていき碁盤式といわれ、朝鮮半島西側の中南部と北部九州に見られる。また、青銅器(銅剣など)の副葬も見られ始めた。

朝鮮半島では紀元前500年頃(無文土器時代)に見られ、遺構は半島のほぼ全域で見られ(約4-6万基とされる)、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれている。北方式と南方式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。また、天井石が碁盤状を呈するなど多様な類型を示していることも、朝鮮半島の支石墓の特徴である。紀元前後になると、銅剣(細型銅剣)が副葬されるようになった。 朝鮮半島において、分布が特に顕著なのは半島南西地域(現在の全羅南道)である。同地域ではもっとも多い場所で500-600基の支石墓が群集している。支石墓は朝鮮半島の先史時代を大きく特徴づけており、2000年には高敞、和順、江華の支石墓群が世界遺産に登録された。朝鮮半島の南部には、支石の低いごばん状支石墓(南方式支石墓)があり、北部には支石が高い卓上支石墓(北方式支石墓)が分布している。

日本には縄文時代晩期の長崎県に出現しており(原山支石墓群や大野台支石墓群など)、同県のものに持徴的な屈葬や箱式石棺を伴うことなど、一定の独自性も認められる。日本の支石墓は、弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉を迎えている。

詳細は弥生時代の墓制の項を参照。
朝鮮において水稲作が開始した無文土器時代に支石墓が現れることなどから、支石墓の担い手は日本列島、朝鮮半島へ水稲栽培をもたらした(ハプログループO1b2 (Y染色体))[3]と推定される。

その他の地域
中東
中東では、イラン高原やゴラン高原(現イスラエル)で支石墓が営まれたとされる。

インド
インドには古代の巨石遺跡が約4000箇所ほどあるが、明確に支石墓と見られるものは、紀元前1000年頃の南インドに出現した。

その他
その他、インドネシア・南アメリカ・北部アフリカに見られる。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%2594%25AF%25E7%259F%25B3%25E5%25A2%2593%23%25E3%2582%25A4%25E3%2583%25B3%25E3%2583%2589



難しいのですが、紀元前4000〜1500年ごろにかけての世界に拡散した支石の高い支石墓の集団と、前1000〜前500年ごろの低いそれとは、断絶があるんじゃないでしょうか。

後者は別の集団によるもので、特にイスラエルや南インドに起源があったりすると面白いですかね。海のシルクロード、つまりフェニキア商人とかソロモン王のタルシシュ船の東方進出の記載を想起させます。

朝鮮の数万の支石墓や、弥生時代の九州(+沖縄の海底遺跡)の支石墓が、仮のその系統だったとすると、どうなるかな。

特に朝鮮半島のもので、低いものは、南西部に集中しているそうですから、いよいよ南方からの海のシルクロード経由で、南西諸島、九州、そしてその朝鮮南西部へと伝搬したルートが浮かび上がってきます。

高い支石墓は、無紋土器と関連してますね。

無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。

農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E7%2584%25A1%25E6%2596%2587%25E5%259C%259F%25E5%2599%25A8%25E6%2599%2582%25E4%25BB%25A3

高いものは、欧州のドルメンとかとも関係していて、陸のシルクロード経由で東遷??したのかな。
ストーンヘンジとか、縄文時代後期からの環状列石ともかかわりそう。

低いものは、もっと後の時代の海のシルクロード経由。

どちらも、明確な民族集団の移動がないと起こりえないような気がする。葬送観念は、その集団の宗教観にも結び付いているから、隣接する民族にまじりあうことはあっても、中核となる集団が別にいないと技術継承ができないだろう。

その中核的な集団が隣接する集団と交じり合わない場合は、墓制の違いとして見えてくるはずで、九州北部の甕棺墓と支石墓の相違とか、その辺にも表れてくるのではないでしょうか。

その支石墓が多い地域のパプロとか伝承などを調べることで、元の出自がわかるかもしれませんね。


原山支石墓群

東アジアの支石墓は朝鮮半島に多く、一般にテーブル式(卓子式、北方式)と碁盤式(南方式)に分類されるが、本遺跡では碁盤式が見られる。 支石の下には土壙を持つものと箱式石棺を持つものがあり、更に内部に甕棺を持つものも見られる。箱式石棺には極端に短くて深いものが少なくなく、それらに埋葬された遺体は横たわる姿勢ではなく蹲踞の姿勢で屈葬されたものと考えられている。甕棺には刻目突帯や籾圧痕が認められた。なお副葬品など遺物は乏しいが、縄文時代晩期の土器や石包丁が発見された。縄文文化と稲作の関係を探る上でも注目される遺跡である。

稲作伝来の時期が縄文時代晩期に溯ると推定され、日本における稲作の伝来と開始を示す遺跡として史跡に指定された。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%258E%259F%25E5%25B1%25B1%25E6%2594%25AF%25E7%259F%25B3%25E5%25A2%2593%25E7%25BE%25A4

こんな記載もあります。


S47-5-108原山支石墓群.txt: 島原半島西南部、雲仙岳から連なる高原地帯にこの遺跡はある。繩文時代終末期の共同墓地で、昭和30年代に一部が発掘調査されている。
 支石墓は、数個の支石の上に安山岩の蓋石をのせ、その下に箱式棺または土壙を設けたもので、箱式棺は長さ1メートル前後、幅50センチのものが普通である。支石墓の約半数では、蓋石の下に副葬品として土器を置いており、いずれも繩文時代晩期に属し、副葬品のなかには弥生式土器はまったくない。したがって、この支石墓は繩文文化の伝統のなかで生活した人々の墓制に朝鮮半島からの影響が明らかにあらわれているものとして、繩文時代から弥生時代への転換期の動態を知るうえで重要な遺跡である。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fbunka.nii.ac.jp%2Fheritages%2Fdetail%2F192062



これは、縄文晩期に支石墓をつくる集団が渡来したことに由来するはずですが、いわゆる江南からの稲作をもたらした弥生人ではなく、つまりO1b2ではない、別の系統の人々を想定すべきではないでしょうか。一部は朝鮮南西部の低い支石墓をつくる集団と同族だったはず。


こちらのサイトでは、中国浙江省の支石墓と朝鮮南西部のそれとの類似を指摘してますね。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.sankei.com%2Fregion%2Fnews%2F150807%2Frgn1508070037-n1.html


その支石墓群がある浙江省の瑞安は、海岸沿いですね。

その瑞安市のそばにある温州市の位置と記載はこちら参照。

温州市(おんしゅうし/うんしゅうし、英: Wenzhou、温州語:[y t?i?u])は中華人民共和国浙江省東南沿海に位置する地級市。商才に長けた温州人は「中国のユダヤ人」と称されることがある。

温州は文化絢爛たる東甌の名鎮であり、紀元前192年には東甌王の都となった。323年に建郡して永嘉郡となった。伝説によれば建郡の時に白鹿が花を咥えて城を一周したといい、このため鹿城の異称がある。永嘉郡太守に任命された謝霊運はこの地の山水を歌った詩人として名高い。唐代に入り、675年に初めて温州の名が起った。温州では歴史的に手工業が発達し、陶磁器、造紙、造船、絹、漆器、鞋皮などが発達した。南宋時には対外通商港となり、海上貿易で繁栄している。また、温州の士大夫が南宋初期に金軍に追われた南宋の高宗を助け、温州の知事を務めた秦檜が宰相に就任した事から、南宋の官界で温州出身者が重用されるようになり、それが温州における科挙受験をはじめとする学問の盛行を促し、永嘉学派と呼ばれる学派が形成された[1]。明清時代には温州府が設置され、近代には茶の輸出港となった。1958年9月24日には、温州湾上空で9・24温州湾空戦が発生した。

行政区画
4市轄区・3県級市・5県を管轄する。

市轄区:
鹿城区・竜湾区・甌海区・洞頭区
県級市:
瑞安市・楽清市・竜港市
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%25B8%25A9%25E5%25B7%259E%25E5%25B8%2582


先の九州の支石墓から織物が出土しているのは、この辺の中国系の技術を踏襲した集団の渡来を意味しているのではないですかね。確かに弥生人の祖先の江南の位置とも近いし、時期的にも弥生時代の直前期だから、O1b2との関連性を考えるのもわからなくはない・・・。


紀元前192年の東甌王がそこを支配したとあるけど、これは百越の甌越の支配者だよね。

甌越について。


甌越 (おうえつ、ベトナム語: Âu Vi?t) は、古代の百越の中の一勢力、一部族であり、現在のベトナム北辺、広東西部、広西北部に紀元前3世紀以前から存在した。タイー族の伝説によれば、甌越の西部は南崗王国となり[1]、その首都は現在のカオバン省に置かれたという[2][3][4]。現在の浙江省付近にあたる東方では、甌越は東甌国を建国した[2]。また西部の甌越すなわち西甌は、短髪で入れ墨と歯の黒染を慣習とする部族であったとされている[5][6]。

甌越は貉越や文郎国と交易していた。紀元前257年ごろ、甌越の指導者の蜀泮は文郎国に侵攻して最後の王雄王を滅ぼした。彼は自ら安陽王を称し、甌雒を建国した[2]

紀元前223年、秦が楚を滅ぼし、貴族として残存していた越の王族を一掃した。しばらく後、秦の始皇帝は50万人の軍を西甌に派遣した。秦軍はゲリラ戦を強いられつつ、3年の遠征の末に西甌の指導者を討ち取った[7]。

秦が凋落すると、東西の甌越は独立を回復した。東甌は閩越を攻撃したので、漢の武帝は閩越に長江・淮河間への移住を認めた[8]。一方で西甌は南越に貢納したが、最終的に漢に滅ぼされた[9]。甌越の王の子孫は地位を失ったものの、區、歐、歐陽といった姓を保ち続けた。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E7%2594%258C%25E8%25B6%258A


入れ墨やお歯黒の習俗は弥生人とも関係する。彼らは、海のシルクロードをつかって、そばの台湾とか南西諸島、あるいは朝鮮南西部や九州、そして広東・西、さらにはベトナムやインド方面で交易していたとすれば、何か見えてこないかな?




9429これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/06(日) 02:10:01
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009942M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009942_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009942_3M.png

管理人さんへのお返事です。

> > 管理人さんはずっと勘違いしてますが、私の専門は言語ではありませんよ。はは…
> え!!!違うんですか??
>

ちゃうよ。何度も言ったがね。大学3年次から言語専修じゃなく国際関係専修に進んだからね。修士号は法学、博士号は地域研究。

けど、私は常に言語を意識して見て来たので、下手な地方国立大の言語学科(あるのか知らんが)の修士卒くらいよりはマシだと自負してる。言語学って実際にいくつか生きた言語を習得して見ないことには分からないよ。

> いやいまから1000年前でなくて、紀元前1000〜3000年くらいかなと・・・書き方悪かったかな・・。
>

いや、そのように理解したけど?
その極端に新しい起源時期の出所が知りたかったんだよね。余りにも現実離れしてるので。

その年代とすると、O-M133が生まれるのはずっとあと、その孫の現代チベット・ビルマはずっと後なのですよ。劉邦のO-F155も入るO-Y17728なんて日本で起源することになっちゃうの分からない?
O-M133の他のサブグループが滅んだ理由も"ない"ことになる。うん、だから、出所を示してよw
論文が良い。

> > O-M117は1万年以上前、サブグループの分岐時期は1万年前とするのが「普通」。
> O-M117は1万年以上前・・・。中国北部も厳しい寒さにあったでしょう。今でもモンゴルとか零下40度くらいになるそうですが、それがもっとすごくて60度とかになってたんじゃないでしょうか(汗)
>

それは知ってる。それをもって北方には人は誰も住んでいなかったなんて短絡するシロウトもいるから。考古学無視してるね。少数だが住んでいた形跡はあるんですよ。

「待避地」ってあるの知りませんか?
山間で寒さが軽減されるポイントがある。例えば、チベット高原の南縁であったり、サルウィン河沿いにある。知らない?チベットは乾燥しすぎて氷河も発達してないんだよね。
O-M117はチベット南縁、旧表記D1はサルウィン河北上と言われる。



>1万年前も、現代よりははるかに寒い時期ですからね、この時期にM117がチベットとか甘粛で発生したとすると、どうなのかな、すごい寒冷適応能力もっていたんじゃないかな。
> すごい寒冷適応能力もっていたんじゃないかな。
>

寒冷適応してます。チベット人は、極度の乾燥地なので鼻はツングースより高めだが、一重まぶたは多い。

チベット南東部のN1*とO-M117が五分でいるローバ人なんて、見た感じ極北ウラルですよ。
写真添付するので見てみて。とくに女性ね。
おじいさんは低い鼻が長く伸びてる感じはツングース・モンゴルっぽい。
住まいにしてもネネツとかマンシとかの系統のウラル人でしょ。


シベリアの古人骨なら、マリタはR*だがウスチ・イシム人はNO*〜*K2aです。ウスチ・イシム人には直系の子孫はいないが、彼のゲノムを最も受け継いでいるのがO-M117のチベット人であるわけ。ローバ人はN1*とO-M117ね。
Ancestral Origins and Genetic History of Tibetan Highlanders. The American Journal of Human Genetics.(2016)

ウィキにもちゃんとある。
Relationship with modern human populations
Ust’-Ishim is more closely related to modern East Asian and Oceanian populations than to modern West Eurasian populations, such as the current residents of the Ust’-Ishim area.[3] Modern West Eurasians are more closely related to other ancient remains.[13]

In a 2016 study, modern Tibetans were identified as the modern population that has the most alleles in common with Ust'-Ishim man.[14] According to a 2017 study, "Siberian and East Asian populations shared 38% of their ancestry"[15] to Ust’-Ishim man.

なんとなくウスチ・イシム人やローバ人を介してNとO-M134の接点が見えて来るでしょ?

あとは、昨年発見された天山山脈のクズル・アウズ遺跡もNOの北方系、つまりNとO-M134が遺した遺跡っぽい。


> 歴史学会の学会誌もよく読みましたが、あの閉鎖的な姿勢はなんとかならないかと感じますね。
>

そりゃ知らんが、本気でやるなら歴史学会や考古学会の学会誌くらいはいくつか読んでおく必要はあるね。

> 日本でいけば縄文時代後期あたりでしょうか、この時代に後代M117のいたあたりに文化が生じていったことになりますね。遼河文明のそれともかかわりながら・・・。分子時計論だと1万年前の分岐になっているのでしょうけど、実際はその半分の5000年前だった!とか、後年訂正発表されたら、どうします?分子時計論を信用した私がばかだった!と叫びだすかもしれませんが、そういう可能性もなくはないかもしれません。発生時期について不明・保留にしておいたほうが無難な気もしますが・・。
>

管理人さん、斉家文化や遼河文明のO-M117というのは、サブグループを検出できなかったというだけなのですよ。祖型ってわけじゃないんです。

紀元前3000年の起源だったら、ちょうど磨溝遺跡が〜紀元前2500年なんで都合は良いですよ。そのすぐ下にあるアバ・チベット族チャン族自治州でO-M117の多様性が最も高いことと併せて、磨溝遺跡人がチベット・ビルマ系の起源集団ってことになる。

あの辺り偶然行ってるんでDNAの故地、遠い御先祖のお墓参りも済ませちゃった。笑
甘南チベット族自治州の夏河という所です。


> ただ、ユダヤには確かに興味ありますけどね。さっき、沖縄のグスクとそのグスクらしきものがある海底遺跡の放射性年代とその構造を再度確認していて、妙なことに気づき始めてますが、その件はまた後で・・。
>

無理筋。




9430これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/06(日) 04:12:29
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
管理人さんへのお返事です。


> まー、それも、学会誌の方針が悪いんじゃないですかね。そこそこの実績と経験がある人の意見を、まともに取り扱わないなんて・・・。本当に日本の言語学会は、世界に通用してるんですか??
>

言語学会に入ったことがないから分からないが、通用してるんじゃないですか?前の新潟大のマッドサイエンティストの論文載せないだけレベル保ってるでしょう。
どんな言語のどんな方言の専門家も日本にはいると言うし。
逆に、海外では、遺伝子言語学が良く研究されていると言いますが、どこで見たんですか?

私は、ケット語とナ・デネ語の系統関係解明において、ワイダという人がmt-Fに目を付けたってことくらいしか知らないけど。あと、ワイダは服ね。彼によるとケット人は雲南から行ったらしい。

サピアみたいにチベット・ビルマとナ・デネの系統も視野に入れてるらしい。サピアは友人宛に「馬鹿だと思って聞いて下さい、私はインディアンの言語もチベット・ビルマ語も、そしてシナ語も同一の源から発したと思われてならないのです・・・」とか書いたらしいよ。

語族はともかく、O-M134とNとQは深く関係するでしょうね。K2ではR1が特殊ってだけで。
R1って中東の言語の影響うけたんじゃないかと感じてる。また、Qとy-DとかQとO1が共存する集団ていないよね。O-M134だけがNやQ、またRとさえも共存するので、東アジア人としてはちょっと毛並みがアチラ寄りとして特別視してるわけ。

もうひとつ違う意味で毛並みが違うのはやはりy-Dね。笑
アフリカで起原してるし。アフリカにピグミーに対して屈強なバントゥーがいるのと同じに、アジアでもネグリートに対してパプア人を対比できる。縄文人はパプア人の後に分岐。



> 直感的にみて、誰もやってなさそうだから、あえて、やるんです(笑)
>

参考文献がないということですかね。その場合、真に価値のあるものなのか、やる価値のないものなのかを見極める力が必要ですね。卒論レベルだと、誰もやっていないものをしたくなるものです。

私は、日本の学者のレベルより、トンデモばっかりに飛び付く日本のシロウトのレベルの方に問題あると思うな。日本のネットの情報って海外と比べて酷いと思うし。

直感といっても、学者のそれはシロウトの単なる思い込みとは違うでしょうね。天才的な子どもの例を出しましたが、それも同じです。知性と経験に支えられている直感であって、少なくとも奇をてらってやろうとかトンデモレベルではないです。



9431荊の紀氏:2019/10/06(日) 10:31:04
「ケット」が「羯」の発音に近い…
> 私は、ケット語とナ・デネ語の系統関係解明において、ワイダという人がmt-Fに目を付けたってことくらいしか知らないけど。あと、ワイダは服ね。彼によるとケット人は雲南から行ったらしい。
>

ケット語(Ket language)はシベリア中央部に住む少数民族ケット人の固有言語。 現在ケット人は千数百人いるが、ケット語話者は600人ほどに減り、この言語は絶滅の危機に瀕している。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
便宜上「古シベリア諸語」に含めることもあるが、他のシベリアの言語とは大きく異なる。ただしテュルク諸語からの借用語と見られるものは多い。
抱合語・能格言語的な特徴や、人称代名詞などに関して、北米先住民のナ・デネ語族や、ヒマラヤ西側のブルシャスキー語などに似た点もあり、これらと同系統とする説もあったが、言語学的に広く認められたものではなかった。
しかし、2008年にエドワード・ヴァイダによりエニセイ語族とナ・デネ語族が同系統であるという仮説が提唱された。これは動詞形態論や音韻の比較による厳密な方法論に基づくもので、多くの言語学者から支持を得ている。この2つの語族を合わせてデネ・エニセイ語族という呼称が提案されている。

新潟県中魚沼郡の山間に、土俗ケット或いはケットウと呼ばれる部落がある。またそれに対して別にマットと呼ばれる村民があって、ケットの者はそのマットの者を目してマット狢ムジナと称し、人を騙すものとして恐れていたというのである。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.aozora.gr.jp%2Fcards%2F001344%2Ffiles%2F49804_44333.html
ケットの人の風采について、かつて親しくこの地を踏査した医師の某君は、身体長大、色白く、眼は青味を帯び、毛多く、頬骨が秀でていると語った。承和元年の太政官符に、飛騨の人は言語容貌すでに他国人に異なりと言われた程度のものが、ここにおいても認められるものらしい。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.aozora.gr.jp%2Fcards%2F001344%2Ffiles%2F49804_44333.html
「ケット」今は「穴藤」または「結東」などと書く。陸地測量部五万分一図を案ずるに、中津川の上流秋成村の中に、村役場所在地より上る事一里余にして字穴藤ケットウがあり、さらに上る事一里余にして字結東ケットウがある。発音は同一でも、部落によって文字を異にしているのである。けだしもと普通名詞として、この山奥の住民を一般的に呼んだものが、やがて部落名となり、部落を異にするが為に、その文字をも異にするに至ったものであろう。
「ケット」の語義について、自分にこの事を話してくれた某君は、かつて自分が何かに書いたものからヒントを得て、ケビトすなわち毛人の義であろうと解すると説明した。
 言うまでもなく毛人とは蝦夷の事で、東方において殆ど唯一の毛髪鬚髯の濃厚な人種であることからこの名を得たのであった。その存在は早く支那人に知られて、山海経に毛民国の名があり、唐人は正に「毛人」の二字を以てこれを表わし、日本紀以下我が国でも往々この文字を採用し、その勇猛純樸であることから、奈良朝前後の人名に、甚だ多くこれが呼ばれているのである。およそ東亜の諸人種諸民族中において、かくの如き毛深いものは他に殆どこれを見ない。漢人、満人、蒙古人、朝鮮人、乃至台湾、馬来マレーの人々に至るまで、僅かに鼻下と下顎とに少量の鬚を有するを常とするにかかわらず、今の北海道のアイヌには甚だそれが多い。歴史上の蝦夷また同様で、為に毛人と呼ばれ、我が日本民族中にもまたこれに類したものが多い。これは石器時代以来そのまま各地に遺存したもの、または歴史時代に奥羽地方から、俘囚の名を以て盛んに内地諸国に移された蝦夷の血が、日本民族中に行き渡って存在しているが為であると解せられる。そしてこの秋山地方において、特にケットすなわち毛人と呼ばれて差別的の眼を以て見られた山間住民の保存された事は、里の民衆が早く日本民族に同化融合した後に至っても、なお交通不便なこの仙境に、先住民族の旧態が久しく保持された為であろう。

ケット人…「?特人」もしくは「愒人」…羯? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%3F
氐(てい、拼音:Dī/Dǐ)は、かつて中国の青海湖(現在の青海省)周辺に存在した民族。チベット系というのが有力で、紀元前2世紀ごろから青海で遊牧生活を営んでいた。
氐(てい)族 は、自らを古の槃瓠(ばんこ)の末裔と称していました。 槃瓠は、中国の帝王に仕えた犬で、手柄を立てて皇帝の娘を嫁にして それが、氐族の先祖になったという伝承があるようです。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fhajimete-sangokushi.com%2F2015%2F07%2F12%2Fpost-4152%2F

羯という名称については、『魏書』列伝第八十三にて「その先は匈奴の別部で、分散して上党武郷の羯室に住んだので、羯胡と号した」とあり、『晋書』載記第四(石勒載記上)では「その先は匈奴の別部羌渠の胄(ちゅう:子孫)である」とあるように、かつて南匈奴に属した羌渠種の子孫が上党郡武郷県の羯室という地区に移住したため、この名がついたという。
これについて内田吟風は「羯とは中国人がつけた蔑称であり、彼らが羯室に住んだため、そこにちなんで羯(去勢した羊)という意味を含めて、羯と呼んだ。」としている[1]。また、E. G. Pulleyblankは「羯とはエニセイ語(古代テュルク諸語のひとつ)で石を意味するkhes, kitの音訳で、石氏の石はその意訳である可能性が強く、逆に羯室とは彼らが移住したためについた地名である。」とした[2]。
後に羯は匈奴および異民族を指す代名詞となる(羯鼓:かっこ)。
羯族 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
羯(けつ)は、4世紀の中国北部の山西に存在した小部族。その派生については匈奴の他、小月氏であるとも言われる。五胡十六国時代に石勒の統治によって後趙を建てた。羯人は後趙が滅んだ350年頃の漢人の冉閔の大虐殺によりほぼ歴史から姿を消した。
五胡十六国時代の319年、羯族の石勒が匈奴の前趙(304年 - 329年)から独立して後趙を建てた。350年頃に後趙が衰退して漢人の冉閔が冉魏を建国したとき、羯人の殲滅を命じた。その後、羯族はほぼ中国史に姿を現さなくなるが、南北朝時代の爾朱栄が契胡、侯景が羌胡と言われており羯族との関連性も考えられている[3]。
羯族の起源については様々な説が存在する。『晋書』「石勒載記上」には「その先は匈奴の別部羌渠の胄(ちゅう:子孫)」とあり、羯族はかつて南匈奴単于羌渠に服属した羌渠種の子孫が上党郡武郷県の羯室という地区に移住したものだという。
しかしE. G. Pulleyblankは、羌渠とはソグディアナの康居出身であるとしている。また、康居人を東イラン系とする説が多い中、その起源がトハラ人であると主張した[2]。他にも羯族の石氏と「石国」(現在のタシュケント)や、ソグドの血を引く唐代の部将安禄山が羯胡と呼ばれていたことに着目する見方もある。また、匈奴に服属していた小月氏に由来を見出す説[4][5]や、ケット系とする説がある。これは、「ケット」が「羯」の発音に近いことを基にしている。


9432荊の紀氏:2019/10/06(日) 18:05:40
「石 」 「趙」…ユダヤ人の氏族の姓
石氏の「石 」 後「趙」…これらの姓は本来のユダヤ人の氏族の姓
ユダヤ人は皇帝から 艾、石 、高、金、李、張、趙 の7つの姓を授けられ、これらは今日でも見識することが出来る。これらの姓は本来のユダヤ人の氏族の姓 ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

> これについて内田吟風は「羯とは中国人がつけた蔑称であり、彼らが羯室に住んだため、そこにちなんで羯(去勢した羊)という意味を含めて、羯と呼んだ。」としている[1]。また、E. G. Pulleyblankは「羯とはエニセイ語(古代テュルク諸語のひとつ)で石を意味するkhes, kitの音訳で、石氏の石はその意訳である可能性が強く、逆に羯室とは彼らが移住したためについた地名である。」とした[2]。
> 後に羯は匈奴および異民族を指す代名詞となる(羯鼓:かっこ)。
> 羯族 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
> 羯(けつ)は、4世紀の中国北部の山西に存在した小部族。その派生については匈奴の他、小月氏であるとも言われる。五胡十六国時代に石勒の統治によって後趙を建てた。羯人は後趙が滅んだ350年頃の漢人の冉閔の大虐殺によりほぼ歴史から姿を消した。


9433荊の紀氏:2019/10/06(日) 18:21:06
伊勢(イスラエル)…
ワイスによれば、バビロン捕囚の後紀元前6世紀に、異民族との婚姻を理由に預言者エズラにより追放され、インドの北西部(石碑では「天竺」と記述されている)に移住した支族レヴィ族[要曖昧さ回避]と司祭の一族が、開封のユダヤ人の起源であるという。彼らはそこに何世紀もの間定住していた。 これらのユダヤ人はインド北西部から寧夏(現在の甘粛省)へ移り定住しているところを、紀元前108年より前、西域を平定し漢帝国の版図を広げるためこの地に派遣された前漢の将軍李広により発見された。この時から唐代後期まで、ユダヤ人は徐々に中国国内に広がって行き、土着の漢民族との雑婚や、混血児も増えていった。しかし、唐の皇帝 武宗による「会昌の廃仏」(845年-846年)により、仏教を初めゾロアスター教、マニ教、景教、イスラム教、ユダヤ教などの外来の信仰が弾圧され、これらの寺院も破壊され、中国固有の信仰である儒教や道教の寺院に作り変えられた。
ユダヤ人が中国に再び帰ってきたのは、知識欲旺盛な北宋の太宗がアジア各地から優秀な人材、学者を登用するようになった頃である。上述の石碑には、当時の皇帝がユダヤ人達に語った言葉として、「歸」(「帰」の繁体字)という言葉が出てくるが、従来はこの語は誤って「来る」と訳されていたため、西洋の中国研究者はユダヤ人が中国にやって来たのは宋代になってからだと考えていた。しかし、前述のワイスはこの語を正しく「帰る」と訳しており[19] 、ユダヤ人が以前に中国に居住していたこと皇帝が知っており、彼らの帰還を歓迎していたことを示しているという。それから皇帝は、ユダヤ人が宋王朝の庇護の下に居住し、先祖伝来の信仰を保持することを許した[5]。
開封のユダヤ教徒は、現在の中華人民共和国河南省開封市に数百年間存在したユダヤ人(ユダヤ教徒)のコミュニティー。現代の中国ではユダヤ人を中国語で 犹太(簡体字)・猶太(繁体字)(地名「ユダヤ」 ???????? の音訳)と呼ぶが、 周辺の漢民族からユダヤ教は挑筋教とも呼ばれていた。これは、「腱を取り除く宗教」という意味で、ユダヤ教の食事規定カシュルートで動物の大腿の腱を食べてはいけないと規定されていることに由来する。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
挑筋教
ユダヤ教徒は動物を屠(はふ)る際に血抜きしやすくするために筋を切ることから、ユダヤ教は中国で 「刀筋教」 とも 「挑筋教」 とも呼ばれていた。 ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww1.s-cat.ne.jp%2F0123%2FJew_ronkou%2Fchina%2Fchina_yudayajin.html
ユダヤ商人は紀元前数百年の昔からメソポタミア・中央アジア・チベット・インドなどに多数居住しており、シナにも漢の時代に入り込んでいた。 6世紀の山西省では数ヶ所にユダヤ教会堂があった。 唐の時代にはユダヤ教は危険であるとされ、9世紀の中頃、広東省で4万人のユダヤ人が殺されたと言われている。 一方、元王朝はユダヤ人を厚遇した。 フビライの宮廷にはベネチアの商人マルコ・ポーロが長年逗留していた。 13世紀に北京にやってきたマルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で 「シナ東部の開封(かいほう)には大いに栄えているユダヤ人社会が存在していると聞いた」 と記している。 開封(河南省)はシナで最も歴史の古い都市の一つであり、850年前の北宋時代には首都になり、当時は人口100万人の国際都市だった。
開封(河南省)…カナン…河内は、カワチとよむが、カナンともよめる?
現在のイスラエルと大阪府の形もまた似ており、そしてパレスチナ地方の古代の名称「カナン」と同じ響きの「河南町(かなんちょう)」が大阪にはあります。
また「カナン」については、大阪と同じ漢字で書く「河南省」というのが中国にはありますが、ここは“開封のユダヤ人”と呼ばれた数百年にも渡って存在したユダヤ人コミュニティがあった場所であり、河南省の地図もまた、大阪の河南町を逆さにすると非常に似通っており、古代ユダヤの音と地名に残された不思議なシンクロは世界中に多数あります。

河内は、カワチとよむが、カナンともよめる?その赤色の布は、カナン人やフェニキア人が身につけていたそうだ。
秋田物部氏とアテルイ その4 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Finehapo%2Fe%2Fc8e6fc6557a55be66f125cb8fb4b6f75
そのルーツが秦氏といわれ、戦いの時に赤色の旗をたてたり、確か秦氏が伝えた西陣織もある。
染色技術がなければできない技。
その赤染氏が祀る神社が、河内が本宮で分社が北部埼玉にしかない。
河内は、カワチとよむが、カナンともよめる?
その赤色の布は、カナン人やフェニキア人が身につけていたそうだ。
赤色(紫色)の布をまとう人をフェニキスとよび、カナはヘブライ語で商人の意味。
物部氏が河内国へ降臨した説で、ここは物部氏の本拠地。
また、秋田なまはげ伝承の赤神神社には、漢の武帝が雲にのって
やってきて鳥海山に上陸。そこに赤い旗を置いてきた一族が、自分たちがこの世を創った一人であるといった。



9434これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/06(日) 19:49:45
メガラヤ州は、日本のO1bとO2が朝鮮、ベトナムに次いで大きく共存する集団です。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009947M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009947_2M.png

O1bに言及する人は何故か少ないですね。
日本のy-D神話のクダラナさは十分に立証したので、同じOとしてO1bの「取り込み」にかかります。
O1bは日本人のルーツにおいて重要です。

インド東部にO1bが結構いて言語的にも古い基層になっています。
インド北東部のメガラヤ州はO1b1のカシ(Kasi)人が5割強を占め最大民族。次に、元最恐の首刈り族ガロさんが3割。

「森とともに生きる」カシ人の生きた橋。おもしろそうです!メガラヤ州の人気観光スポットだそうです。カシ人はチベット・ビルマ系ではなくカンボジア人などと同じオーストロアジア系です。

しかし、メガラヤ州は、カシ人・ジャイニタ人以外はチベット・ビルマで、その中には印欧語化したのもいる。
シェイフというのが0.3%いるのが面白い。
ネパール人やベンガル人もいて国際的。ふむふむ
Ethnic groups 2011:[citation needed]
Khasi: 34%
Garo: 30.5%
Jaintia: 18.5%
Bengali: 8.5%
Nepali: 2.5%
Hajong: 1.2%
Biate: 1.1%
Koch: 1.0%
Tiwa (Lalung): 0.9%
Rabha: 0.8%
Kuki: 0.5%
Shaikh: 0.3%
Other: 0.2%

O1bであれば分岐が3万年以降で、日本のO1b2もカシ人などと「ギリ」DNA的絆を感じられるでしょう。O1とO2の開きは4万年近いので無理ですが。

y-D1とD2の5万年以上というのはDNAの絆でも言語の絆でも絶対的に無理です。

カシ人にはO1b1の他にO2も3割いるので、O1bとO2の共存集団とも見なしうると思います。
共通地域としてはメガラヤ州。メガラヤ州は、日本のO1bとO2が朝鮮、ベトナムに次いで大きく共存する集団です。



9435これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/06(日) 20:55:36
私はy-Dに未練なくきちんと成仏してもらえる方法も知っています!ポクポクポクΩ\ζ°)チーンw
【チベット人に含まれるy-D1(旧表記)は、オーストロアジア系に同化された古東南アジア狩猟採集民由来である】

旧表記y-D1やD2の言語を消していったのはチベット系や日本の古墳時代人系O-M117ではないというお話です。
はじめに、この3つの基本事項は知っておいて下さいね。
(1) 語族は1万年以上にまで遡ることはできない。
(2) 狩猟採集民の言語は例外なく農耕民の言語に置き換わる。
(3) 昨年の金沢大・コペンハーゲン大らのクロスチェック分析による研究で、新東南アジア系農耕民と古東南アジア・縄文系狩猟採集民系とは古人骨においても混血したことが明らかになった。( /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.kanazawa-u.ac.jp%2Frd%2F58540%29


この点において、日本語の系統で話しになるのはO-M117のチベット・ビルマ語と、「ギリ」O1b2のオーストロアジア語族です。
(ただし、O1b2が本当に水稲農耕民であったかは不明。ま、O1b2が漁業・園耕民が主流であっても、狩猟採集民よりは随分マシです)

話しをシッキムを含む「インド北東部」に移します。
北東インドにおけるy-D狩猟採集民とO1b農耕民、O-M117チベット・ビルマ系民族の関係について考える際に興味深い集団が2ついます。

1. まず、北東インドのアッサム州の下に位置するメガラヤ州で5割を超える最大民族はカシ(Kasi)系です(カシ人とジャイニタ人)。チベット・ビルマ系が多い北東インドにあって、彼らはオーストロアジア系です。

面白いのは、このカシ人には本来のオーストロアジア系O1b1=41%(Kumar 2007)の他に、 O2(旧O3)も32%と多いこと(Reddy 2007)です。ワ族などにもO2は多いのでそれ程珍しくはありませんが。

しかし、カシ人においてチベット・ビルマ系O-M117は6%にとどまり(Reddy et al. 2007)、メジャーなO-JST002611やO-M134を含むO-M164でもなく、O-F742(O2b)の系統となります。
なので、カシ人のO2はチベット・ビルマ系由来ではなさそうです。

2. もう一つ北東インド部で毛並みが違う集団に、ブータンやシッキムの外来系ブティヤ人の一種ラチュン人がいます。彼らの言語はチベット諸語の一種です。
(なお、ブータンやシッキムの先住はレプチャ人等)

サンプルが11と少ないものの、ラチュン人には上記O2bが45%、また旧表記D1が36%にも上るのです。対して、O- M117は僅かに9%(n=11)で、カシ人同等レベルにとどまっています。
DNA的には明らかに非チベット・ビルマ系で、異民族がチベット・ビルマ語に同化されたものと見ることができるでしょう。

D1やO2bが8割を超えるラチュン人は、チベット語の基層にあるというオーストロアジア系の存在を臭わせます。つまり、オーストロアジア系が言語的にチベット化したものがラチュン人ではないか。そして、D1とO-M117の間にカシ人などのO1bが入ります。チベット人でもラチュン人でもO1bは消えてしまっていますが、言語的には基層にO1bを考えることができるのです。

3. だとすれば、チベット人に含まれるD1は、オーストロアジア系に言語転換した古東南アジア狩猟採集民由来であるとなるでしょう。原則チベットにのみ見られるのD1とチベット・ビルマ系O-M117とは遺伝的に乖離が激し過ぎるので、このように間にO1bを置いて考える必要があるのです。

先般の金沢大・コペンハーゲン大らの研究によって、新東南アジア系O1bと古東南アジア系Dとは古人骨においても混血したことが分かっています。DがO1bに言語的同化されたというのは非常に可能性のあることです。

このように、チベット語の基層におけるO1bのオーストロアジア語の存在とチベット人におけるD1を併せて考えると、オーストロアジア語に言語転換したD1の姿が見えてくるのです。

したがって、y-Dの言語を消したのはオーストロアジア系の農耕民だろうと予想できます。
さらに、そのオーストロアジア集団を同化したのがチベット・ビルマ系ということになります。

4. ついでに、単にyDNAハプログループの割合的には、カシ人とラチュン人を足して割ったようなモノが日本人に最も近いと言えるでしょうか。

計算言語学の結果に照らして日本語の基層にオーストロアジア語があるとすれば、この点においても日本人とチベット人は対称の関係にあります。ただし、日本の場合は、語族形成期から見てD2をオーストロアジア語集団とするのは無理で、その保持者はO1b2となるでしょう。

ただし、G.Jägerらの計算言語学の結果では、アイヌ語もオーストロアジア語と同じクレードに入ることから、あるいはD2の言語も日本に入る前にオーストロアジア語化していた可能性もあります。

次のようになります:
.........日本人..............チベット人
言語系統 O-M117...............O-M117
基層言語 O1b2, (D2)...........O1b1およびオーストロアジア化したD1



・・・と、これでD1には成仏してもらえそうですが、D2には無理でしょうか(((爆)))
まだしばらくD2の悪霊は彷徨い続けることでしょうwww

9436管理人:2019/10/07(月) 02:25:01
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009949M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009949_2M.png

これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > > 管理人さんはずっと勘違いしてますが、私の専門は言語ではありませんよ。はは…
> > え!!!違うんですか??
> >
>
> ちゃうよ。何度も言ったがね。大学3年次から言語専修じゃなく国際関係専修に進んだからね。修士号は法学、博士号は地域研究。
>
> けど、私は常に言語を意識して見て来たので、下手な地方国立大の言語学科(あるのか知らんが)の修士卒くらいよりはマシだと自負してる。言語学って実際にいくつか生きた言語を習得して見ないことには分からないよ。
>

家のストーブつけたら眠くなってしまって、しばし今まで寝てました・・。

あ、そうでしたか、外語大とのことで、ずっと言語学専門でなされていたのかと勘違いしてました・・!でも、むしろ、他の分野を複数専攻されてきたことがプラスになることも多いとおもうんですよね。たとえば考古学一辺倒でやってきた人より日本史をその間にやった人のほうがいい視点を提供できたりするのも見てますし・・。

> > いやいまから1000年前でなくて、紀元前1000〜3000年くらいかなと・・・書き方悪かったかな・・。
> >
>
> いや、そのように理解したけど?
> その極端に新しい起源時期の出所が知りたかったんだよね。余りにも現実離れしてるので。
>
> その年代とすると、O-M133が生まれるのはずっとあと、その孫の現代チベット・ビルマはずっと後なのですよ。劉邦のO-F155も入るO-Y17728なんて日本で起源することになっちゃうの分からない?
> O-M133の他のサブグループが滅んだ理由も"ない"ことになる。うん、だから、出所を示してよw
> 論文が良い。
>

各分岐間の時間差を縮めることになるかな・・。

Yfullで確認してみると、ご指摘のM117は図1のような分岐になってますね。

M117はPAGE23のことなので、formed 17600 ybp, TMRCA 11500 ybpinfoというのが通説なのだとはおもいますが、

実際に、このグループで一番古くみえてるのは、
O-MF1380MF1383 * F19097 * MF1384+22 SNPsformed 11500 ybp, TMRCA 6000 ybpinfo

O-M1706CTS6198/M1633 * F76 * F257/M1591+76 SNPsformed 11500 ybp, TMRCA 7000 ybpinfo
の中国人でしょうから、
そうすると、 TMRCAで、6000〜7000で、紀元前5000〜4000年ごろに、はじめて歴史上に出現してきたグループなのではないでしょうか。

思うに、このグループからそれ以上年代の古い人骨などは出てこないと思いますよ。出てきたらぜひ教えてほしいです・・・。

このformed 1万年のトリックが、私にはいまいちしっくり来てないんですよね。信用できないというか・・。歴史的な事実からみてもそんなわけない・・・。仮に形成期があったとすると、それはそのチベットとかその辺でこのグループが形成されたのではなくて、Оが東南アジアとか中東にまだいたころにできていたということなのではないかな・・・。


> > > O-M117は1万年以上前、サブグループの分岐時期は1万年前とするのが「普通」。
> > O-M117は1万年以上前・・・。中国北部も厳しい寒さにあったでしょう。今でもモンゴルとか零下40度くらいになるそうですが、それがもっとすごくて60度とかになってたんじゃないでしょうか(汗)
> >
>
> それは知ってる。それをもって北方には人は誰も住んでいなかったなんて短絡するシロウトもいるから。考古学無視してるね。少数だが住んでいた形跡はあるんですよ。
>
> 「待避地」ってあるの知りませんか?
> 山間で寒さが軽減されるポイントがある。例えば、チベット高原の南縁であったり、サルウィン河沿いにある。知らない?チベットは乾燥しすぎて氷河も発達してないんだよね。
> O-M117はチベット南縁、旧表記D1はサルウィン河北上と言われる。
>
>

さすがルーツさん、その辺の地理事情はよくご存じですね!そういうお話が出てくるのではないかと期待してました(^^)

なるほど、待避地というのがあるんですね。その待避地こそが、氷河期時代にО系統がそこにいたとすると唯一ありえそうな場所ですし、そこを重点的に遺跡調査とか現地調査することで、起源がみえてくるかもしれません。

>
> >1万年前も、現代よりははるかに寒い時期ですからね、この時期にM117がチベットとか甘粛で発生したとすると、どうなのかな、すごい寒冷適応能力もっていたんじゃないかな。
> > すごい寒冷適応能力もっていたんじゃないかな。
> >
>
> 寒冷適応してます。チベット人は、極度の乾燥地なので鼻はツングースより高めだが、一重まぶたは多い。
>
> チベット南東部のN1*とO-M117が五分でいるローバ人なんて、見た感じ極北ウラルですよ。
> 写真添付するので見てみて。とくに女性ね。
> おじいさんは低い鼻が長く伸びてる感じはツングース・モンゴルっぽい。
> 住まいにしてもネネツとかマンシとかの系統のウラル人でしょ。
>

写真のおじいさんは、まさに寒冷適応顔!という感じですね。北海道住んでると、冬などは目細めてないとやってけないところありますからね。派手な動き身振りは寒くてするきにならないし・・・、脂肪分があるほうが暖かい!東京の夏は逆に辛いですけどね(笑)

>
> シベリアの古人骨なら、マリタはR*だがウスチ・イシム人はNO*〜*K2aです。ウスチ・イシム人には直系の子孫はいないが、彼のゲノムを最も受け継いでいるのがO-M117のチベット人であるわけ。ローバ人はN1*とO-M117ね。

> あとは、昨年発見された天山山脈のクズル・アウズ遺跡もNOの北方系、つまりNとO-M134が遺した遺跡っぽい。
>
>
>
M117の親の134は、確かにもう少し古そうですね。
先のYfullだと、このグループの初期分岐のF1725にベトナム人がみえてる・・・。図2参照。


もともと、その1万年前あたりは、このM134~117のグループはまだ東南アジアとかにいたんじゃないですかね。それで温暖化した前7000年ごろから北上しはじめて、チベット方面に向かったとか、そういう可能性も視野にいれてほいたほうがよいのではないでしょうか。

あえて、まだ極寒の1万年前に、ただでさえ寒冷地のチベット方面へ旅立つ理由がいまいち理解できないし・・。

やはり分子時計論推定の原理が知りたいところですね。どういう根拠でそのformdの年代を示しているのか、その年代を特定集団の実際の移動・分布位置推定に当てはめる上で信用に足るのかどうか・・・。



9437これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/07(月) 03:54:05
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009950M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009950_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009950_3M.png

管理人さんへのお返事です。

> M117はPAGE23のことなので、formed 17600 ybp, TMRCA 11500 ybpinfoというのが通説なのだとはおもいますが、
> 実際に、このグループで一番古くみえてるのは、
> O-MF1380MF1383 * F19097 * MF1384+22 SNPsformed 11500 ybp, TMRCA 6000 ybpinfo
> と
> O-M1706CTS6198/M1633 * F76 * F257/M1591+76 SNPsformed 11500 ybp, TMRCA 7000 ybpinfo
> の中国人でしょうから、
> そうすると、 TMRCAで、6000〜7000で、紀元前5000〜4000年ごろに、はじめて歴史上に出現してきたグループなのではないでしょうか。
>

だって、これ現代人ですよね。O-M117の祖型の中国人なんて生きてるわけないじゃないですか。O-M117*というのは僅かにいますけど。

ちょっとこの辺り、分かりにくいので分かりやすく説明し直して頂けませんか?そういうのが言及されている論文でもあれば示して下さい。


> もともと、その1万年前あたりは、このM134~117のグループはまだ東南アジアとかにいたんじゃないですかね。それで温暖化した前7000年ごろから北上しはじめて、チベット方面に向かったとか、そういう可能性も視野にいれてほいたほうがよいのではないでしょうか。
>

mtDNAの多様性から見ると全て東南アジア発です。
東南アジアでも良いのですよ。中国研究者の諸論文でも東南アジア北上です。ただ、O1とO2の遺伝子の交換が少ないので、O1はベトナムから北上、O2は北東インド・ビルマから北上で別々だと考えられています。

以上が通説で、一方「ワシ説」としては、O2でもO-M134またはO-P201は天山ルートじゃない?となります。

これは、磨溝遺跡にO-JST002611が皆無なのと、現代人にもO-JST002611などは中国西方にいないからです。O-M121とかO2bもいません。ただ、O-M134だけが古人骨でも現代人でもいる。
もちろん、古人骨の蓄積がもっとないと確定ではないですが。

Geno2.0のルートでもイラン辺りから中央アジアに北上してる一派が見えます(図)。これがO-M134だろうとなるわけです。最後の図(Family Tree DNA)の外側の茶色はy-Dのルート。




9438これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/07(月) 04:10:23
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
管理人さんへのお返事です。


> 写真のおじいさんは、まさに寒冷適応顔!という感じですね。北海道住んでると、冬などは目細めてないとやってけないところありますからね。派手な動き身振りは寒くてするきにならないし・・・、脂肪分があるほうが暖かい!東京の夏は逆に辛いですけどね(笑)
>


ちなみに、北海道ってさむいのかなぁ??

札幌で学会があったので冬の北海道に一度行ったことありますが、電車のドアが二重になってて驚きました。寒冷地をフィールドとする私には「甘やかし過ぎだろう!w」と思いましたね。
旭川とかは文句なしに寒いでしょうが。あの時は物好きなのでワザワザ新潟からフェリーで函館経由しましたw
あと印象は、スープカレー、まずい!w

あと小学校の夏休みに家族旅行で連れて行ってもらいましたね。アイヌ人の村も訪問して、日本人とは違う人たちに会う!ってワクワクドキドキしてたんですが、容貌が日本人そのものでガッカリしたのを覚えています。日本語話してるし。服だけ違う。
アイヌ人のおばちゃんたちが日本語で「それ北海道にきんしゃい、それ北海道にきんしゃい」とか言って踊ってました…

9439これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/07(月) 04:34:34
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
でもさー、みんな、これまでやり取りして来て分かったでしょ?

現代日本人のyDNAの7割をD2とO1b2が占めるのは事実だけど、それは後代の社会経済的な要因でそうなったんであって、「日本民族形成の根幹」はO-M134、N、Q、C2だということ。
つまり、遼河四天王w

QとNはすごく少ないけどミトコンドリアのGとかAとか北方タイプはQとNが連れて来たんでしょ。
日本人の4割も占めるmt-Dは巨大だから分からないが、サブグループごとに上記4つのyDNAが齎したってことでいい。

言語はO-M134。O-M134が日本人に1割いるのってサブグループで見たたらすごいことなんだよね。

9440荊の紀氏:2019/10/07(月) 08:51:54
「殷民族」は元から中原に住んでいたのではなく、東夷の一派だったことがわかってきました。…
>言語はO-M134。O-M134が日本人に1割いるのってサブグループで見たたらすごいことなんだよね。

殷(前1600年頃〜前1050年頃)は山東省の沿海民族
殷は山東省から興った国。
寧郷の山の西に、南北に連なる武陵山脈があり、水稲文化を早くからもっていた苗族がいた。古くは南人と呼ばれ、非常に強悍で、殷にとっては恐るべき敵であった。南(右図)は銅鼓の形を示す字。
殷人は西の方の羌(キョウ)族を祭祀の犠牲に用いることが甚だ多く、50羌、百羌、時には300羌を牲殺した。羌は集団で羊を飼い、後頭に辮髪(ベンパツ)の形を加えた字形が多いので(右図)、今のチベット族にあたる。このような大量の人牲はたぶん断首葬に用いられたもので、首祭りの呪的儀礼は、東南アジアから太平洋諸島にわたる未開の社会に残されている。
沿海族はえびす、夷という。夷という字は腰を曲げた字(右図)。普通の人なら直立するが、日本人も沿海の人も、みな夷居(イキョ)してお辞儀をする、それで夷という。

東夷
東夷と中国語の起源 風仙堂(参考)
殷人の末裔は滅びることなく日本列島に渡って来た /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fshimonose9m%2Fentry-12503385529.html
日本列島の旧石器時代から縄文時代の民、すなわち縄文人は東アジアの大陸にも居住したが、この民は漢字のルーツである甲骨文字を発明した殷民族であり、古代の日本語を喋っていた。
この殷民族の末裔の行方については分かっていなかった。実は、春秋戦国時代に漢民族の国々と相争った秦と同族の国々の民であった。そして、後漢が滅んだ後、卑弥呼が朝貢した魏と、その後を継いだ西晋が殷民族の末裔の国であった。
その後の殷民族の末裔の行く末について、Y-DNAハプログループDの男性とパートナーのほぼ全員が日本列島に渡来(帰化)して来たことになる。
最近の研究により「殷民族」は元から中原に住んでいたのではなく、東夷の一派だったことがわかってきました。南蛮、北狄、西戎、東夷の東夷です。
注1 夏王朝は河姆渡遺跡に証拠を残す、稲作農耕民。日本に稲作をもたらした。Y-DNAハプログループO2 (参考)
注2 3800年前の縄文人の遺伝子が中国大陸の人々からも見つかっている(参考)
注3 殷民族は漢民族に全く同化せず、全員、日本列島に渡来(帰化)して現在に至っている。Y-DNAハプログループD1b(旧分類D2)、縄文人と同族(参考)
?-1 殷の漢字(古代中国語)の読みを研究すると、漢字の訓読み(大和言葉)につながっていた(参考)
?-2 殷の甲骨文字には音読みと訓読みがあった(参考)
? 邪馬台国の卑弥呼が朝貢した魏やその後の西晋は日本語を喋っていた(参考)
日本語の起源
春秋戦国時代の末期の秦、斉、宋などの殷の末裔は、矢張り縄文人と同族でY-DNAハプログループD1b(旧分類D2)を持ち、日本語を喋っていた。そして、彼らの末裔達は遂には日本列島に渡来して、現地の縄文人の同居して日本人となった。


9441荊の紀氏:2019/10/07(月) 09:00:28
お辞儀
>沿海族はえびす、夷という。夷という字は腰を曲げた字(右図)。普通の人なら直立するが、日本人も沿海の人も、みな夷居(イキョ)してお辞儀をする、それで夷という。

ユダヤ人のお辞儀 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ユダヤ人の儀式ではお辞儀はキリスト教と同様に尊敬の現われであり、ユダヤ人の礼拝の特定の時に行われる。ユダヤ人のお辞儀はわずかに膝を曲げるものであり、そして膝を伸ばす間に上体を前に曲げる。礼拝のAleinuのところを終えるとき、"V'anachnu korim umishtachavim u'modim,"(「私たちは感謝の意を表すために膝を曲げお辞儀をします」の意)と言いながらお辞儀をする。礼拝の"Bar'chu."の最中にもお辞儀をする。多くの人は"Adonai"(ユダヤ人の尊敬する王)の名が挙がるときにお辞儀を行い、誰かが祈っている間にまだ立っていた場合にもしばしばお辞儀をする。


9442山田:2019/10/07(月) 22:21:19
「岩宿」の発見
「五月二十三日、隣組の人々に送られて集合地高崎にと出発した。いく先々でバンザイ、バンザイの声が耳に入ってきた。
五月二十五日、横須賀武山海兵団に入団した。相模湾に面した入り江の周辺の山を切り崩して埋め立てた所に、新しい兵舎が並び、一部建築中の場所もあった。
入団者は、関東を中心に、東北・甲信越などから集まった、十五歳から十七歳ぐらいまでの者たちであった。
みんな、入団できたことで勇んでいたが、二日、三日と過ぎると、精神棒と呼ばれる一メートル余の丸棒で追い回され、夜になると班ごとに並べられ、「きさまたちは、紙一枚で何人でも集まってくるのだ」と気合をかけられて、すっかり震え上がってしまい、なかには、家に帰りたいと泣き出す者までいた。
はじめは、そのような状態であったが、日が過ぎるにつれて、諦めたのか、兵団の生活に慣れたのか、あいかわらず追い回されながらも、訓練にはげんでいた。
・・
*戦艦「大和」の最期
あくる日から数日間は、東京湾内での速度試験や電信電波探知器の試験がつづいた。
いよいよ訓練地の瀬戸内海へ向って出港することになり、三月の末日、ようやく根拠地の呉に入港した。そこにはいままで見たこともない大小の艦がいた。そのなかには、当時世界最大の戦艦、不沈艦ともいわれていた「大和」の姿もあった。
私は、甲板からこの巨体を見あげた。大和の甲板でもそれぞれの持ち場で私と同じような水兵が、アリのようにまめまめしく働いていた。
四月二日、呉の周辺の山々にもようやく春の日ざしが強くそそがれはじめたころ、大和が出撃していくのが見えた。私たちの艦はさして遠くない所からこれを見送った。巨艦は水面をすべるかのように出航して行った。この大和が私たちの目の前から、そして日本の海面より姿を消そうとする瞬間であると、だれが考えていただろうか。それから数日してこの世界最大の巨艦は、その姿のすべてを消してしまったのだった。」

・・
相沢忠洋さんの「岩宿」の発見」再読してたら、戦争に出兵していた話があり、おもしろかった。最初の調教、訓練というのはベトナム戦争の頃ならフルメタルジャケットみたいになるんでしょう。
戦艦「大和」の目撃もあって、この後、広島の原爆投下も見ているのは、生々しいノスタルジー感じます。

戦後、一気に赤土の誘惑となるようです。

9443管理人:2019/10/08(火) 00:26:56
岩宿遺跡⇔小保戸遺跡ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009956M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009956_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009956_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/岩宿遺跡



9444管理人:2019/10/08(火) 00:34:48
Re: 「殷民族」は元から中原に住んでいたのではなく、東夷の一派だったことがわかってきました。…
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 殷人の末裔は滅びることなく日本列島に渡って来た /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fshimonose9m%2Fentry-12503385529.html
> 日本列島の旧石器時代から縄文時代の民、すなわち縄文人は東アジアの大陸にも居住したが、こ

なんか興味深いお話ですね・・・。

9445管理人:2019/10/08(火) 00:44:02
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> ちなみに、北海道ってさむいのかなぁ??
>
> 札幌で学会があったので冬の北海道に一度行ったことありますが、電車のドアが二重になってて驚きました。寒冷地をフィールドとする私には「甘やかし過ぎだろう!w」と思いましたね。
> 旭川とかは文句なしに寒いでしょうが。あの時は物好きなのでワザワザ新潟からフェリーで函館経由しましたw
>

まー、地域差もありますが、確かに旭川や道東は寒そうですね。函館から伊達の太平洋岸は雪もすくなく、温かいようです。函館から伊達にかけての太平洋岸に縄文遺跡が多いのもその関連じゃないかな。あとは気候的に比較的安定してるのは札幌から千歳にかけてですね。この辺にも縄文遺跡が多いです。彼らは気候のよいところを選んだと思いますよ。そこそこ頭は良い!

室内はむしろ本州より暖かいですよ!断熱材も入っているし、窓も二重構造。東京の板一枚のアパート時代に比べるとずっといいです(笑)


>
> あと小学校の夏休みに家族旅行で連れて行ってもらいましたね。アイヌ人の村も訪問して、日本人とは違う人たちに会う!ってワクワクドキドキしてたんですが、容貌が日本人そのものでガッカリしたのを覚えています。日本語話してるし。服だけ違う。
> アイヌ人のおばちゃんたちが日本語で「それ北海道にきんしゃい、それ北海道にきんしゃい」とか言って踊ってました…


白老で私もアイヌの踊りみたことあります。見た感じちょっと濃い感じというだけで、日本人とさして変わらない感じですよね。テレビで見てもそんなにすごく違う感じがしないのは、混血が進んでいるからではないでしょうか。アイヌ語は絶滅に瀕しているそうなので、ぜひ今のうちにルーツさんの頭脳でどの言語系統なのか解析しておいてほしいですよ!そして保存・継承をしてくれる人が増えるといいですね。

9446荊の紀氏:2019/10/08(火) 07:01:34
岩宿遺跡…筑波山…ユダヤ
岩宿遺跡
北緯36度24分0.2秒 東経139度17分15.0秒
岩宿遺跡(いわじゅくいせき)は、群馬県みどり市[1]にある旧石器時代の遺跡である。1946年(昭和21年)頃、当時在野の考古学者であった相沢忠洋によって発見された。この発見によって、それまで土器時代以前の日本列島に人類は居住していなかったとされた定説を覆し、日本にも旧石器時代が存在したことが証明された。これ以降、日本全国において旧石器時代の遺跡の発見が相次ぐことになる。1979年(昭和54年)8月17日、国の史跡に指定された。

約6000年前の縄文時代、岩屋岩蔭遺跡と筑波山を結ぶ線とから構成されるTの字が、航海に必要な太陽や星空の天体観測施設であった(参考)。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fshimonose9m%2Fentry-12319674223.html
? 伊豆半島あたりは旧石器時代から海人族、すなわち海の民が居住し、神津島の黒曜石を交易していた。また、関東平野は山の民、海の民の混住の地であった。

岩宿遺跡、保渡田古墳群 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmassneko.hatenablog.com%2Fentry%2F2013%2F05%2F07%2F093408
保渡田古墳 北緯 36度22分42秒. 東経138度59分01秒.
36度線上に測量し設定されたレイ・ライン /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F3627

北部に男体山、南東部に筑波山等が見渡せる。特に東部の田園地帯から見る筑波山は大変美しい。
北緯36度23分2.2秒 東経139度52分36.8秒
南河内町(みなみかわちまち)は、栃木県河内郡に属していた町である。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
旧石器時代から先人が住み始めたといわれ、絹板六大遺跡や北原古墳群等が残される。
飛鳥時代後期には、旧東山道が通っており下野薬師寺が建立された。下野薬師寺には、僧侶の修行の場である戒壇院が設けられ、奈良の東大寺・九州の観世音寺の戒壇院と共に日本三戒壇と呼ばれている。現在では近世建立の六角堂のみが残されており、回廊の一部等が復元されている。

筑波山
北緯36度13分31秒 東経140度6分24秒
は古来より農閑期の行事として大規模な歌垣(かがい)が行われ、近隣から多数の男女が集まって歌を交わし、舞い、踊り、性交を楽しむ習慣があった。これは今年の豊穣を喜び祝い、来る年の豊穣を祈る意味があった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
舞い、踊り…
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2014年9月) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
歌垣(うたがき)とは、特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗。現代では主に中国南部からベトナムを経て、インドシナ半島北部の山岳地帯に分布しているほか、フィリピンやインドネシアなどでも類似の風習が見られる。
中国
現在も雲南省のペー族、チンポー族、イ族、貴州省のミャオ族(花山節 Miao Flower Mountain Festival)、広西チワン族自治区のチワン族などで祭事として盛んに行われている。

イスラエルの踊りのタイプ-1 ホラ /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fjuna_0009%2F39687664.html
ユダヤ人の変な踊り /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3D5UL8-jIZRQI

お盆と盆踊りにも、ユダヤとの関係が見られる /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Flightanjel%2Fentry-10480232946.html
日本のお盆は、新暦になった今日では、8月15日に行われる所も多くなった。不思議な事に、10部族のいた北王国イスラエルでは、この収穫祭は、月遅れの8月15日に行われていた。
歌垣は、上代(大和時代)から行われてきたもので、奈良時代にとくに盛んになった。これは、全国の男女の間に流行し、男女はそこで歌い、踊り、見合いなどをして結婚を約束した。
踊りの仕方は、男女が交互になって円形の輪を作り、一人の音頭取りの歌につれて、拍子をとりながら踊り、人数の増加するのに従って、二重、三重の輪を作っていくというものである。
こうした風習は、古代イスラエルにもあった。古代イスラエルにおいては7月15日からの収穫祭(北王国では8月15日から)に、踊り会があり、未婚の娘たちや男子たちは、その夜の踊りと出会いのときを楽しみにしていた
かつて日本では、盆踊りの時に「略奪結婚」をする風習があったとも言われ、とくに九州の大分では、その夜大勢が踊り狂う時に、男子は自分の想う娘を山林に担ぎ去る風習があったとも言う。
しかし、じつは古代イスラエルにも、これと同じ風習があったのである。


9447荊の紀氏:2019/10/08(火) 07:24:53
歌垣…交際を許される?…マオリとユダヤ人の血は日本人に流れている
アイヌ語のtuk-pa(とがった頭)またはtukupa(刻み目)にちなむ。
11歌垣の習慣にちなみ、マオリ語のtuku-pa(交際を許される)に由来する。
茨城の伝説 「筑波山の名前の由来」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblog.livedoor.jp%2Feastasian%2Farchives%2F1933896.html

実は?日本人にとっては案外マオリ語は発音し易かったりしますので…
ニュージーランドの先住民のマオリ。知るべき7つのこと /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnz-lifestyle.com%2Fitself12%2F
因みに・・・ハカも勿論、色々な種類が有りますし
マオリのダンス・踊りというのも、結構いろいろと種類があるようです

古代民族秘史(マオリとユダヤ人の血は日本人に流れている)は、草地農業のドクターである、川瀬勇氏によって書かれた本です。最近は、古代ユダヤ人が、日本のルーツに流れていることが、少しずつ明らかになってきましたが、この本は、1972年に書かれたものですから、驚きです。
ニュージーランドからの「らいふすたいる」提言 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.globalife.jp%2Flife%2Flife114.html
この本に書かれていることは、古代ユダヤが日本に流れたこと、ニュージーランド原住民のマオリが、南方から日本に渡ったか、ユダヤが日本に流れたさいに、ニュージーランドにもマオリとして渡ったかのいずれかで、日本と深い関係があることが書かれています。大学教授らしい分析で、多くの研究からもデータや考え方を引用されていて、説得力があります。最近、船井幸男氏などが紹介しているユダヤと日本の関係を早くから目をつけられていた点で、注目すべき本です。ノアの洪水の話も真実の歴史として伝えられています。
マオリと日本神道
最近、私たちのB&Bに来られたお客様で、日本の神社の神主さんがおられます。京都の亀岡にある、大光宮神法教の天上宮(あえのみや)という神社で、現在ニュージーランドのワナカにも神社があります。さらにオークランドにも支社を建設中とのことです。この神社は、今後日本が沈下し小さくなり、ニュージーランドが浮上し大きくなるので、氏子さんたちにも、ニュージーランドへの移住を勧められています。そのワナカ支部の神主さんが、マオリと日本神道の関係に興味を持たれていて、いろいろ調べられています。ここに来られたときに、私の知っている限りでマオリのさらに先住民であるワイタハ族と関係がありそうだと話をしたところ、向こうもワイタハを調べたいと思われていたらしく、私たちの知人を通じてワイタハの方とも会われました。神道に伝わるマークなどが、ワイタハやマオリと同じであることから、明らかになんらかの関係はありそうです。

オーストラロイド(英: Australoid)、またはオーストラロ・メラネシアン(英: Australo-Melanesian)は、人種概念の一つで、コーカソイド、ネグロイド、モンゴロイドと並び四大人種と呼ばれる。オーストラリア大陸、ニューギニア、メラネシアを中心としたオセアニア州及びスンダ列島、フィリピン、タイ、スリランカ、ムンバイを中心としたインド西南部から南部などの東南アジアから南アジアにかけての地域に分布する。
オーストラロイド /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ユーラシア大陸に進出した人類のうち、7 - 5万年前[1]にインド南部の海岸地帯からスリランカ・スンダ列島を経由しサフール大陸(ニューギニア・オーストラリア大陸を中心とした現在のオセアニア地域。サフル大陸とも)に進出した人類の子孫と考えられている[要出典]。
オーストラロイドは一見、地域ごとに人種が枝分かれする以前の、初期ホモ・サピエンスの特徴を残しているようにも見え、しばしば「原始人種」などと呼ばれることがあった[2]。しかし遺伝的には初期人類との隔たりが大きく、かつミトコンドリアDNAや核DNA解析に基づいた分子系統樹では、西ユーラシア人(コーカソイド)から[1]あるいは東ユーラシア人(モンゴロイド)から[3]分岐したことが示されており、過酷な環境への適応によって形成された特殊な文化的なイメージと形質からそのような誤解を持たれているに過ぎない。
遺伝子
オーストラロイドは出アフリカ後にイラン付近からインドを通ってオーストラリアに至る「南ルート」をとった集団である。人種を特徴づけるY染色体ハプログループとしてC1b3、MS、K*などが挙げられる[6]。

マオリ族やハワイ諸島の人々は「ポリネシア」の島から舟で、やってきており、彼らの言語は、「ポリネシア諸語」に属しており、共通のY染色体のハプログループC2が見られる。
『魏志倭人伝』を考える(41) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fyazumichio.blog.fc2.com%2Fblog-entry-1010.html
約6000年前にアジア大陸南部「台湾」に移動したグループが、約5000年前に「台湾」を南下し、フィリッピンなどの諸島に広がり、約1000年かけて、南東の島々に移動して、フィージー・サモア・トンガなどに至り、また約1000年かけて、南洋諸島全域に広がり、マオリ族がニュージーランドに移住したのは700〜800年前らしい。

アイヌ人は東南アジア人や、ニュージーランドのマオリ族に似ている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblog.livedoor.jp%2Fsekaiminzoku%2Farchives%2F50625896.html
日本の人種は・・・
日本人=大和+琉球+アイヌ
大和=弥生
弥生=2300年前に侵略して来た韓国人と中国人と縄文人の混血
琉球=1400年前に縄文人と中国人との混血
アイヌ=1000年、縄文人とニヴフ人とコリャーク人の混血
本来の日本人は縄文人で、縄文人の容姿は古モンゴロイドで容姿は白色系に似ていた



9448荊の紀氏:2019/10/08(火) 08:25:31
後野遺跡…
後野遺跡A地区は、長者久保・神子柴石器群に土器が伴う事例として大きな注目を集めた。表面が撫で調整されただけの無文土器である。1975年には青森県大平山元?遺跡からも無文土器が検出されており、後年に放射性炭素年代測定値の暦年較正で15,500〜16,000年前という年代が推定されている。
 後野遺跡A地区の石器群及び無文土器の層準は、「黄褐色パミス層」と記載されており、このパミス層は今市・七本桜テフラ(Nt-I・S)に相当する。但し、当時の写真を見直してみると、純層ではなく、今市・七本桜テフラの粒子が混じる軟質ローム層中であるらしい。今市・七本桜テフラの噴出年代は放射性炭素年代測定値の暦年較正で14,000〜15,000年前と推定されており、それ以前の年代が考えられるものであろう。
 出土遺物は、茨城県指定文化財に認定され、ひたちなか市埋蔵文化財調査センターに展示されている。
後野遺跡 Ushirono site /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.palaeolithic.jp%2Fsites%2Fushirono%2Findex.htm

11.【県指定考古資料】後野遺跡出土石器及び土器(うしろのいせきしゅつどせっきおよびどき)旧石器時代終末期 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.city.hitachinaka.lg.jp%2Fsoshiki%2F15%2F16%2F1%2F1808.html
後野遺跡(後野1丁目)は,本郷川水系の支谷を望む台地上に位置する遺跡で,昭和50年に発掘調査が行われ,A・B二地区より後期旧石器時代の遺物が層位的に出土しました。A地区は軟質ローム層の上部のパミス層から,大型の石斧と大型石刃から作られた掻器,彫器,削器,槍先形尖頭器からなる石器群に伴って,無文土器が発見されました。日本最古の土器のひとつとして,土器発生の研究に重要な資料となっています。B地区では,A地区より下層の軟質ローム層から,細石刃を主体として細石刃石核,彫器,削器等が出土しています。細石刃は,小さな石核から幅5mm(ミリメートル),長さ3〜5cm(センチメートル)度の小さな石器を作るもので,石核の特徴が東北地方以北の石器文化との共通性を持っています。北方系石器文化の南限資料として重要です。
北緯36度23’22”東経140°33′29″

北緯36度24’44”東経140°1′14″
旧石器時代には東大島地区は海で磯山は島でした。
旧石器時代:磯山遺跡 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.weblio.jp%2Fwkpja%2Fcontent%2F
縄文時代:市内各所に遺跡あり。特に五行川に流れ込む小河川によって形作られる舌状台地上に分布する。
弥生時代:集落遺跡や土器散布地が多数見られる。
古墳時代:瓢箪塚古墳、稲荷山古墳(方形周溝墓が検出、高勢町に公園として整備)、鶏塚古墳
奈良時代:中村廃寺(倉庫址が出土 廃寺ではない)、大内廃寺、かつては中村地区に条里制遺構が残っていた。
所在地:栃木県真岡市東大島字磯山
緯度経度:36.412278, 140.020472

北緯36度22分24.7秒 東経140度34分10.7秒
虎塚古墳(とらづかこふん)は、茨城県ひたちなか市にある前方後円墳である。造られた時期は、7世紀前半頃と推定される。

後野遺跡 - 虎塚古墳
地球の公転軸と地軸(自転軸)では23.4度傾いているんです。つまり、地球は太陽の周りを23.4度傾きながら回っているわけです。?では地軸が太陽光とどのように繋がるかを説明しますね。太陽光は違う場所から見ると当然見える角度が違います /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Flaughshare.co%2Fgesitouji

筑波山から石岡方面に東南方向に23.4度傾けた線を引いたものです。これによると夏至の6月20日頃、高浜の入り江あたりからみて、筑波山に夕日が沈みます。
常陸から見た日本の夜明け /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.rekishinosato.com%2FessayW_15.htm
4世紀中頃に成立したとされる大和朝廷はその成立に関し、未だに謎が多く残されている。邪馬台国との関係も明らかになっていない。今から1660年位前のことである。邪馬台国の女王卑弥呼が死んだのは248年頃と見られている。中国の「魏志倭人伝」に記載された内容から、対馬から水行十日、陸行一月の行程の日数の解釈によりその場所が特定されていない。石岡の歴史を調べていくうちに私は不思議な感覚におそわれた。それは鹿島神宮の創建時期とその建立されている位置についてである。鹿島神宮の創建は神武元年(紀元前660年)とされているが、当然これは神話に基づくもので本当とは思われない。しかし、日本書紀や古事記に書かれた神話の中でも重要な地位を占めている。昔は太陽は絶対的な崇高なものとされていたことは今でも想像するに難くない。太陽が最も力強い生命力を与えてくれる夏至(6月20日頃)の頃の太陽の動きを考えて見よう。(これは間違っていることが判明しました。下記に訂正コメント記載)鹿島神宮より西南23.4度の線(地軸の傾き)を引くと、この下に「皇居」「明治神宮」「富士山」「伊勢神宮」「吉野山」「高野山」「剣山(四国)」「高千穂(宮崎)」とが並ぶのである。高千穂に降り立った神々(人々)は、太陽が昇る日の出の方向に何かを感じたに違いないので、日出る地を求めて夏至の日の出の方向に日本列島を進むのです。まず四国剣山の上から日が昇る。山の上に昇ると、四国は徳島の阿南から一番先に日が昇るのです。さらに阿南に行くとその先の陸地から日が昇ります。そこが吉野山です。吉野山から眺めて日が昇る場所は伊勢です。伊勢にある二見浦の岩の間に富士山から日が昇るのが丁度この夏至の時期です。そして富士山から眺めると日本で最初に日が昇る場所が鹿島なのです。これは偶然の一致でしょうか? もちろん神=天皇の歴史として神話(日本書紀等)は作られてきましたので、高千穂に最初に神が降臨されたというのは、大和朝廷ができた後に作られた物語であることは間違いないと思います。しかし、これは日本全土を統一するために神道を広め、民族の統一を図るために必要な事柄であったものです。この民族の統一に鹿島神宮の役割は大変密接に係わっていたと思われます。下図を見て下さい。昔の人々、特に占いで人民から厚い信頼を得ていた当時の権力者達にとって、この夏至の頃の太陽の昇る方向に何か特別な力があると考えたとしても不思議はありません。今のような明かりのない時代に太陽がどのような存在であったのかを考えるととても興味深いといえるのではないでしょうか。
(訂正(2011.10.29):地球は球体ですので、平面地図に直線を引いても、これだけ長い距離では同じ日の太陽の軌跡にはなりません。また赤道上から角度をあわせていないので、23.4度もこの地図上では意味がありません。最近は写真を撮る人のために日の出、日の入を表示してくれるソフトがあり、これにより、概算の日の出の方向を確認しました。するとこの直線(本当は上に凸の円弧)に近い日の出の日時は、夏至の頃ではなく5月5日〜15日頃になります。これは下記地図上の直線の左(西)側から右(東)側にかけて追いかけて行くと、日の出の日時が少しずつ変わってきます。当然活火山でもあった霊峰富士の上に登って日の出方向を確認したとも思えませんので上記の考えは、このような日の出方向に向かって進んだのではないかとの仮説に過ぎません。
高浜入り江からの筑波山
 右の地図は筑波山から石岡方面に東南方向に23.4度傾けた線を引いたものです。これによると夏至の6月20日頃、高浜の入り江あたりからみて、筑波山に夕日が沈みます。石岡の国府からは筑波山より少し北側の加波山との間に沈み、筑波山に日が沈むのは夏至よりも1月前後ずれた時期になります。茨城百景に「高浜の入り江から見た筑波山」が選ばれています。男体山、女体山の2つの頂の間に沈む夕日は本当に素晴らしい風景です。お勧めポイントは高浜少し手前の恋瀬側に架かる橋上です。日が沈む方向は「死」を示す方向かもしれませんが、死者が眠る方向も尊いのです。参考までに、徳川家康の眠る日光は徳川御三家の水戸藩からみて丁度この方角です。これも方角がたまたま一致しているとばかりは言えないのではないでしょうか。


9449これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/08(火) 22:02:02
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
管理人さんへのお返事です。


> アイヌ語は絶滅に瀕しているそうなので、ぜひ今のうちにルーツさんの頭脳でどの言語系統なのか解析しておいてほしいですよ!そして保存・継承をしてくれる人が増えるといいですね。
>


それは無理ですよ。アイヌ語は孤立的言語Language Isolateです。日本語とも系統は違います。

ただ、Jägerらの計算言語学の結果では、アイヌ語もオーストロアジア語と同じクレードに分類されています。そのことと、チベット語の基層にオーストロアジア語があるという事実から見るに、y-Dは日本に入る前に既にオーストロアジア語化されていたのではないか?と思い付きます。

さらに、アイヌ語の場合は、mtDNAが北方系ということもあり、北方諸言語の影響も強く受けたはずです。

日本語の語彙(特に農耕関連語)でもオーストロアジア語は重要だと思うのですが、比較言語学のプロの学者には誰も言及する人はいないのです。

9450山田:2019/10/09(水) 00:18:18
Re: 岩宿遺跡⇔小保戸遺跡ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009963M.png

管理人さんへのお返事です。

>
> 岩宿遺跡の経度は139度17分20秒
> 小保戸遺跡の経度は139度17分40秒
>

この南北線は、青梅市河辺駅、あきるの市秋川駅をほぼ通過。両地区ともやや近いところに旧石器遺跡があります。

そのうちあきるのは秋川をはさんで雨間地区というところから旧石器が出土。(正確な場所がわからない)
雨間 N35度43分08.49 E139度17分43.98

先日の鈴木遺跡ですが、N35度43分06.65 E139度29分47.48 雨間とは東西線で並びます。

あきるのを秋川に沿ってもう少し上ると網代鉱泉があります。北村透谷というロマン派の詩人がひそかに尋ねたという。いまは幽霊館のごときですが。

網代鉱泉 N35度43分07.17 E139度14分47.73





9451管理人:2019/10/09(水) 01:02:46
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> > アイヌ語は絶滅に瀕しているそうなので、ぜひ今のうちにルーツさんの頭脳でどの言語系統なのか解析しておいてほしいですよ!そして保存・継承をしてくれる人が増えるといいですね。
> >
>
>
> それは無理ですよ。アイヌ語は孤立的言語Language Isolateです。日本語とも系統は違います。
>
> ただ、Jägerらの計算言語学の結果では、アイヌ語もオーストロアジア語と同じクレードに分類されています。そのことと、チベット語の基層にオーストロアジア語があるという事実から見るに、y-Dは日本に入る前に既にオーストロアジア語化されていたのではないか?と思い付きます。
>
> さらに、アイヌ語の場合は、mtDNAが北方系ということもあり、北方諸言語の影響も強く受けたはずです。
>
> 日本語の語彙(特に農耕関連語)でもオーストロアジア語は重要だと思うのですが、比較言語学のプロの学者には誰も言及する人はいないのです。

なるほどですね、Y-Dの言語とその北上過程は、とても重要な気がします!

Y-Dが仮に旧石器時代人だとすると、これからお見せする旧石器時代の遺跡を結ぶラインが、富士山から関東を起点として北上していることと関わってくるかもしれません。彼らが何語を話していたのか?ここがキーポイントになりそうです。

9452管理人:2019/10/09(水) 01:05:20
Re: 岩宿遺跡⇔小保戸遺跡ライン
山田さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> >
> > 岩宿遺跡の経度は139度17分20秒
> > 小保戸遺跡の経度は139度17分40秒
> >
>
> この南北線は、青梅市河辺駅、あきるの市秋川駅をほぼ通過。両地区ともやや近いところに旧石器遺跡があります。
>
> そのうちあきるのは秋川をはさんで雨間地区というところから旧石器が出土。(正確な場所がわからない)
> 雨間 N35度43分08.49 E139度17分43.98
>
> 先日の鈴木遺跡ですが、N35度43分06.65 E139度29分47.48 雨間とは東西線で並びます。
>
> あきるのを秋川に沿ってもう少し上ると網代鉱泉があります。北村透谷というロマン派の詩人がひそかに尋ねたという。いまは幽霊館のごときですが。
>
> 網代鉱泉 N35度43分07.17 E139度14分47.73
>
>


雨宮地区と鈴木遺跡の東西ラインがあるのですね!また後で確認してみますが、どうも旧石器時代の遺跡は、かなりマメに測量した位置にあるようです。追ってラインを投稿いたします。よろしくご参照ください!きっと山田さんご存じの遺跡が多く出てくることでしょう・・。

9453これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/09(水) 01:41:28
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
管理人さんへのお返事です。

> なるほどですね、Y-Dの言語とその北上過程は、とても重要な気がします!
>
> Y-Dが仮に旧石器時代人だとすると、これからお見せする旧石器時代の遺跡を結ぶラインが、富士山から関東を起点として北上していることと関わってくるかもしれません。彼らが何語を話していたのか?ここがキーポイントになりそうです。
>

念のため、私は縄文人の言語が日本語において重要だとは全く言っていません。
そう解されたのなら曲解です。

正確に言うと、日本のD2の言語は消滅したという前提において話しています。
縄文諸語なるものがあったとすれば(多分ないはずです)、D2の本来の言語は消滅してオーストロアジア語化していたかもしれないという話しです。

y-D固有の言語としてはアンダマンのオンゲ語族しかないですが、この言語さえもオーストロネシア化したという説もあります。彼らよりも農耕民との接触度が遥かに多かった縄文人の諸言語は、古い層の言語は残りずらい、狩猟採集民の言語は農耕民の言語に置き換わるという原則通りに「消滅した」と考えるのが普通でしょう。

その後のシナリオとしては、O1b2の進入によって別のオーストロアジア語が縄文人の言語を上書きしたか、もとの縄文人固有の諸言語を消し去ったかです。もっとも、O1b2の素性も不明な点が多く、ヤンフネンらが言うようにO1b2の言語は大陸でオーストロアジア語からシナ語に転換していたのかもしれません。

これも、O1b2固有の言語が現存していないので証明する術が全くありません。日本語にオーストロアジア系の語彙があるのなら少しは分かってきますが、今の所ないです。

なので、きちんとした日本語の系統の議論というものは、過去においても現代においても存在が確認できるO-M134のチベット・ビルマ語やC2のニヴフ語などを基に解明されるはずです。

遼河のN1の言語がディガロ語で日本語にも影響を及ぼした可能性についても気になっています。こんなことを言ってる学者はもちろんいませんが。

9454管理人:2019/10/09(水) 01:49:14
旧石器時代方位ライン01
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009967M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009967_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009967_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/旧石器時代の遺跡一覧



9455荊の紀氏:2019/10/09(水) 04:47:51
小保戸遺跡の北西に起点?
>もう少し小保戸遺跡の北西に起点があるようには感じてますが、何か遺跡があるでしょうか?
神流町の古代遺跡?
恐竜時代の化石の宝庫である神流町。これまでに発見された貴重な化石を標本とパネルで説明します。神流町産の4種類の恐竜化石をはじめ、サメの歯やホプロパリア(エビ)などを展示しています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdino-nakasato.org%2Ffacilities%2F

旧鬼石町から神流町、秩父市(埼玉県)一帯では、古代の石器・石棒が多く発見されている。
境内社と道祖神。
姥神社のご祭神は石凝姥命(いしこりどめのみこと)。石凝姥命は日本神話に登場する神で、天照大神の岩戸隠れの際に八咫鏡を作ったことで知られる。三波川地区と鏡作部の関係はよく分からないが、旧鬼石町から神流町、秩父市(埼玉県)一帯では、古代の石器・石棒が多く発見されている。これは同地域が青石の産地であるためとされる。
三波川流域は三波石(青石の一種)の産地であるので、古代から祭祀にかかわる石器の産地でもあったのかもしれない。石凝姥命を祀るのはその繋がりからかな。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Ftigerdream-no.blog.jp%2Farchives%2F79652549.html

旧石器時代 - 1979年(昭和54年)に国の史跡に指定された岩宿遺跡を始め旧石器時代の遺跡が多い。現在では、150以上の遺跡が発見されている。そのなかの一つ、2千数百年前の下触牛伏(しもふれうしぶせ)遺跡(伊勢崎市)は大規模な集落であり、出土した石器・石材は2000点余りに上った。武井遺跡(桐生市新里町武井)からは10万点余りの槍先尖頭器を中心とする石器やこぶし大の石[32]が大量に発見されている。これらの石器の石材は近くの渡良瀬川や栃木・長野県のものがみられ、この時代には既に人や物の交流・交易が行われていたことが分かる。また食料としては、ナウマンゾウ・オオツノジカなどの大型哺乳動物、シカ・イノシシなどの動物、それにウド・ゼンマイ・ヤマゴボウ・ユリ根・クルミなどであった[33]。
上毛野国(かみつけぬのくに)は古代東国の一大中心地で、4世紀前半から前方後円墳が出現した。前橋天神山古墳(前橋市)、朝子塚古墳(太田市)、浅間山古墳(高崎市)、円福寺茶臼山古墳(太田市)、白石稲荷山古墳(藤岡市)、太田天神山古墳など東日本最大規模の古墳が築かれた。また、太田市飯塚町にて埴輪挂甲(けいこう)の武人が出土し、国宝に指定された。6世紀の中頃に榛名山が大爆発を起こした。その時の爆発で軽石の下敷きになった村がそっくり姿を現した。黒井峯遺跡(子持村)である。そこからは大小の竪穴式住居址、倉庫や納屋、家畜小屋、水田や畑が発掘されている。これまで不明であった古墳時代の集落構造の資料を提供することとなった。
旧石器時代の遺跡が多い。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F


9456荊の紀氏:2019/10/09(水) 05:13:16
新石器時代のユダヤ人…日本とは重要な関わりがあった?
9千年前の古代都市がイスラエルで発掘 従来の説を覆す /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnazology.net%2Farchives%2F41927
新石器時代のユダヤ地域には人が住んでいなかったという従来の常識が覆される大発見である

新石器時代(しんせっきじだい)は、完新世のうちのひとつの区切りである亜旧石器時代に続き、新石器革命を形成する耕作の発展によって開始したとされ、伝統的に石器時代の最後の部分とされる時代である。
名が示すとおり、定義としては完新世に属すること、文化には精巧に制作された打製石器や磨製石器が確認されていることがあり、必ずしも農耕の開始と関連付けるものではない。ただし、西アジア、ヨーロッパ、中国では農耕や牧畜が始まった時期と当てはまり、最古のものは紀元前8世紀、以降でも紀元前6世紀から5世紀までは遡ることができる。アメリカ大陸では紀元前4世紀から中央アメリカやアンデス山脈などで農耕の開始が確認できる。[1]
やがて銅器時代もしくは青銅器時代を経て、地域によってはこれを経ずに直接鉄器時代に入り、冶金術の成立によって金属による道具が広まったときに終了した。ただし、生産段階と道具が対応しない地域も存在する。日本では鉄器は6世紀頃まではもっぱら輸入に頼っており、アメリカ大陸や南洋地域では15世紀以降のヨーロッパの進出でもたらされたものの、製造技術の獲得に至らなかった。
中国における新石器時代
ヨーロッパで確立された遺物考証的な考古学方法論は、ようやく近年になって盛んになってきているが、南部での多湿、北部での戦乱などで散逸している遺跡も多い。しかしながら重要な発見も相次ぎ、最古の水稲栽培が確認された長江中流域の彭頭山文化の発祥は紀元前8千年紀にまで遡り、稲籾が見つかった玉蟾岩遺跡は紀元前1万4000年前まで遡る可能性がある。現在の時代同定ではこれらの長江文明は黄河文明や遼河文明より数千年は先んじている。
DNAの研究からは、紀元前10世紀頃の殷から周への政変の混乱を避けて海洋に逃れた人たちが日本へ漂着し、彼らは渡来人として同時に稲作を中心とした弥生文化を伝えていったとし、後の日本とは重要な関わりがあったとする考え方がある。
日本における新石器時代
日本の縄文時代は縄文海進が進んだおよそ1万3000年前からと定義できる。しかし、温暖化した気候に併せて木の実の採取や植林の痕跡は見られるようになったものの、これを「農耕」としては定義できておらず、また「牧畜」文化も発見されていないため、日本で新石器時代の語を定義するのはふさわしくないともされている[1]。日本では紀元前3世紀頃の青銅器が見つかっているが実用ではなく祭祀用として普及しているのみで、また鉄器についても日本での鋳鉄の技術の確立は6世紀頃まで待たなければならず、次時代の定義が他の地域とはやや異なる。これに代わり、日本での編年には土器がよく利用され、「縄文」「弥生」の名称は土器に因んでいる。石器としては縄文時代では打製石器に加え磨製石器の石斧や石棒が現れている。


9457荊の紀氏:2019/10/09(水) 05:39:32
岩宿遺跡54度  立石遺跡36度…
>旧石器時代の遺跡を結ぶ方位ラインを作成してみました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fuserimg.teacup.com%2Fuserimg%2F8220.teacup.com%2Ftoraijin%2Fimg%2Fbbs%2F0009967_3.png

36度線上に測量し設定されたレイ・ライン /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F3627
・・・縄文人? は、 12進法(60進法) | 古代史掲示板(清談論議)
108度 72度 54度 36度 18度 の 魔星陣 五芒星 ペンタグラム 星形5角形の内角108度 ...
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F1681
そこでこの基本単位36度の2倍の72度、そして3倍の108度について見てみよう。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fhomepage1.nifty.com%2Fmetatron%2Fzone-02%2F253.htm
この2数の変換を、1年を360日から365日に変換したと言われるエジプトの智慧の神トートにちなんでトート変換と呼び、ZONE−6で改めて見ていくことになるだろう。・・・

五芒星 108度 72度 54度 36度 18度 の 魔星陣 五芒 星 ペンタグラム 星形5角形の内角 108度 です。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F2868

54度(五芒星関連角度)
五芒星 六芒星 古墳遺跡 古代測量ライン /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F1906


9458山田:2019/10/09(水) 18:56:33
Re: 旧石器時代方位ライン01
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009971M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009971_2M.jpg

管理人さんへのお返事です。

ひたちなか市
 後野遺跡 北緯36度23’22”東経140°33′29″
みどり市
 岩宿遺跡 北緯36度23’56”東経139°17′07″

後野遺跡は後期旧石器で無文土器が出てるのは、注目です。

東京の旧石器遺跡はどこのスポットでしょう?
茂呂遺跡かな?
?


追記
ひたちなか市から、筑波山とか富士山はよく見えるのでしょうか?
弓張月さん、どうでしょう?



9459荊の紀氏:2019/10/09(水) 23:11:00
Re: 旧石器時代方位ライン01
山田さんへのお返事です。
茨城県東海村から富士山が見える!
茨城県東海村のイオン東海店屋上駐車場より、富士山が頭だけ小さく見えました!イオン東海店近くのJR常磐線東海駅からで富士山頂まで206kmありますので、イオン東海店から富士山も200キロの距離はあるでしょう。そんな遠い距離の富士山が茨城県東海村から見えるのは驚きです! /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3D9Dvi8cyEVD4

大甕日立研究所駐車場下の展望開けた狭い広場(海抜約220m)からの景色です。雲海奥には筑波山の主峰がそびえている。
雲海と筑波山と富士山(?) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.city.hitachi.lg.jp%2Fpicture%2F001%2Fp059610.html




> 管理人さんへのお返事です。
>
> ひたちなか市
>  後野遺跡 北緯36度23’22”東経140°33′29″
> みどり市
>  岩宿遺跡 北緯36度23’56”東経139°17′07″
>
> 後野遺跡は後期旧石器で無文土器が出てるのは、注目です。
>
> 東京の旧石器遺跡はどこのスポットでしょう?
> 茂呂遺跡かな?
> ?
>
>
> 追記
> ひたちなか市から、筑波山とか富士山はよく見えるのでしょうか?
> 弓張月さん、どうでしょう?

9460荊の紀氏:2019/10/09(水) 23:56:04
旧石器時代の遺跡は、大宮台地、武蔵野台地を中心に
御岩神社(おいわじんじゃ)
ある宇宙飛行士が宇宙から地球を眺めた時に、一か所から強い光が見える場所があり、調べてみたらそこが御岩神社だった! と云う凄すぎる逸話を持つ茨城県日立市の御岩神社。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.travel.co.jp%2Fguide%2Farticle%2F12153%2F
祀ってある神様は188柱!日本のほとんどの神様をお参りできます。
創建の時期は不明ですが、721年編集の「常陸国風土記」に「太古よりこのかびれの高峰(御岩山の古称)に天つ神鎮まる」と記され、考古学においても、それを裏付けるように、古代縄文人が神々を祀る祭壇遺跡などが発掘されているそうです。
宇宙から見えた光の元と云われる岩や、高千穂から分けてもらった天岩戸や、日本最古の岩石軍など、みどころがたくさん。ですが、軽い気持ちで登れる山ではありません。
頂上からの眺めも良く、北西には那須連峰を望めます。古くから、この山そのものが信仰の聖地として崇められ、江戸時代には水戸藩主が代々参拝に訪れています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftori-dori.com%2Fkanto%2F2019%2F02%2F01%2F30125%2F

北緯36度38分6.45秒 東経140度35分19.8秒
当社は創建の時期は不明ですが、縄文晩期の祭祀遺跡の発掘や、日本最古の書の1つ「常陸國風土記」(721年)に「浄らかな山かびれの高峰(御岩山の古称)に天つ神鎮まる」とされる事から、古代より信仰の聖地であった事が窺えます。
御祭神は国之常立神 大国主神 伊邪那岐神 伊邪那美神 大山祗神 ほか20柱御岩山総祭神188柱を祀り、中世には山岳信仰とともに神仏混淆の霊場となり、江戸時代に至っては水戸藩初代徳川頼房公により出羽三山を勧請し水戸藩の国峰と位置づけ、徳川光圀公(水戸黄門さま)など藩主代々参拝を常例とする祈願所でありました。
仏像の現存、境内の遺跡、祭事内容など古代信仰(古神道)、神仏習合色が色濃く残り、「神仏を祀る唯一の社」として、他の神社、寺院に見られない独自の信仰を伝えております。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.oiwajinja.jp%2Fjinjasyoukai.html

日本列島は、茨城県から始まった!?
茨城県で発見された、日本で最も古い5億3300万年前の地層 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.pref.ibaraki.jp%2Fbugai%2Fkoho%2Fkenmin%2Fhakase%2Finfo%2F38%2Findex.html
茨城県日立市から常陸太田市にかけての山地で、日本で最も古い約5億年前の地層が発見されています。
日本最古の地層の年代値が更新されました。日立市から常陸太田市にかけての山地には古生代・カンブリア紀の地層が約50平方キロにわたって広がっています。

北緯36度00分
東経139度37分 歴史 町内各地には、旧石器時代から近世までの各時代の遺跡が分布している。土器や石器などの遺物も出土しており、原始から人々が生活の場としていたことがわかる。
伊奈町の概要 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.town.saitama-ina.lg.jp%2F0000000338.html

伊奈町 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.town.saitama-ina.lg.jp%2F0000003723.html
旧石器時代
 旧石器時代の遺跡は、県内では大宮台地、武蔵野台地を中心に数多く見つかっており、伊奈町域にも遺跡が残されています。伊奈町域の北東部に位置する向原遺跡からは、約2万5000年前の石器群が見つかっています。この石器群は大宮台地の中でも古い時期のグループに属する石器群と考えられています。伊奈氏屋敷跡や戸崎前遺跡からはナイフ形石器、角錐状石器などが、久保山遺跡からは小形のナイフ形石器が多く出土しています。大山遺跡からは小型で、形が入念に整えられたナイフ形石器や尖頭器が出土していますが、ナイフ形石器をもつグループの中で最終段階のものと推定されます。原遺跡からは長さ2cmの程の細石刃や細石核が出土しており、大宮台地でも検出例の少ない資料です。
 このように旧石器時代の遺跡から石器以外の資料が見つかることは非常に稀であり、当時の人々の暮らしの様子を知る手掛かりは非常に少ないと言えます。しかし、これらの石器は、紛れもなく人々がこの地域に生活していたことを示しています。
縄文時代
 縄文時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6つに区分されます。伊奈町では早期後半以降の遺跡が綾瀬川や原市沼川によって開析された台地の縁辺部を中心に見つかっています。戸崎前遺跡から出土した撚糸文土器・条痕文土器や炉穴から、縄文時代早期の人々の居住が認められますが、前期・中期のような集中した土地利用は見られず、安定した集落遺跡も見つかっていません。
 前期になると、温暖化に伴い海水面が上昇し、綾瀬川流域で貝塚が形成されるようになります。伊奈町では関山式期の大針貝塚、諸磯式期と推定される小貝戸貝塚(県指定史跡)があります。大針貝塚では、住居内の窪みに貝殻が堆積する小規模の貝塚、いわゆる住居内貝塚が見つかっています。
 中期になると、大きなムラが形成され、町域においても盛んに営まれるようになります。中期の遺跡としては、原遺跡・北遺跡・大山遺跡・志久遺跡・小室天神前遺跡などが挙げられます。特に原遺跡・北遺跡は中期の住居跡が数多く見つかっている大規模な集落遺跡であり、小さな谷を挟んで対峙しています。
 後期になると、町域における遺跡の数は大幅に減少します。戸崎前遺跡や向原遺跡など後期の遺物が見つかっている遺跡はありますが、中期のような大きなムラがつくられることは稀でした。しかし、本上遺跡のような長い期間何世代もの人々が同じ場所に居住し続けた結果つくられた「環状盛土遺構」を持つ集落遺跡も存在します。
 晩期の遺跡としては、後期から続く本上遺跡のほか、伊奈氏屋敷跡や大山遺跡、向原遺跡などで土器片などが見つかっています。
弥生時代
 伊奈町域では、弥生時代遺跡の発掘調査は現在まで行われていません。そのため、縄文時代晩期に属するいくつかの遺跡の調査例のあと、古墳時代初頭の小室天神前遺跡、向原遺跡までは空白の状態です。

縄文海進の最盛期には海がここまで及んでいた。
縄文時代には海面は現代より高く(縄文海進)、現代では海に面していない埼玉にも海が入り込んでおり多くの貝塚が形成されていた[10]。 埼玉の貝塚の数は110か所を越え、とくに縄文海進が進んだ縄文時代前期の貝塚の数は多い。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
埼玉の海
関東では9000年前ごろより海水面は上昇し6500年ほど前には現代より2-3メートルほど海面があがった。この縄文海進のピークは5300年ほど前まで続く[13]。この時期には海は埼玉を越え栃木県西南の渡良瀬遊水地のあたりまで広がっていた。縄文早期後葉から縄文前期後葉の時期まで埼玉の貝塚の数は増える。しかしその後海面は一旦低下して埼玉の地から海は引き、縄文前期末葉には埼玉には貝塚はあまり見られなくなる[14]。その後、縄文中期初頭以降ふたたび海面は広がっている[15]。埼玉全体としては縄文前期の貝塚の数が多いが、国の史跡である岩槻の真福寺貝塚や県史跡である春日部市の神明貝塚、川口市にも県史跡に指定される貝塚群など縄文後期にも複数の貝塚があらわれる[7][14]。3500年ほど前から海は再び後退し始め2000年前には奥東京湾は消滅している[16]。
9000年前…

>9千年前の古代都市がイスラエルで発掘 従来の説を覆す /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnazology.net%2Farchives%2F41927


9461荊の紀氏:2019/10/10(木) 00:27:30
安曇族(海人族)…縄文海進のピークは5300年ほど前まで続く…
旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡はなぜ同じところに集中しているのか?論理的に考えれば、当時はそこが最も暮らしやすい場所だったからでしょう。
旧石器時代に初めてやって来た人は舟で来たのだろうと思うのですが、長野にはいつ頃まで海があったのでしょうね?長野県には旧石器時代や縄文時代の遺跡がたくさんありますし、海ノ口・海尻・塩尻・塩川などの地名がたくさん残っていますから、少なくても縄文時代にはまだ海があったのではないかと思うのですが。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fsweetbasil2007.livedoor.blog%2F%3Fp%3D2
安曇野や諏訪には「御船祭り」があり、海人族の安曇族は九州から船でやって来たようですし(^o^)。
そう言えば国立科学博物館ではフォッサマグナは地面が落ち込んでできたと言っていましたが、
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fsweetbasil2007.livedoor.blog%2Farchives%2F2016-06-27.html
フォッサマグナの地元である長野県や新潟県の博物館には深い海だったとちゃんと記されていました(^_-)。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fsweetbasil2007.livedoor.blog%2Farchives%2F2016-05-05.html
これまで私には、中央よりも地方の資料館や博物館、中央の高名な学者さんの著書よりも「在野の研究者」と言われる方々の著書や推理作家の古代史推理の方がずっと参考になっていたのです\(^o^)/。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fsweetbasil2007.livedoor.blog%2Farchives%2F2017-01-11.html
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fsweetbasil2007.livedoor.blog%2Farchives%2F2019-09-04.html
神職、学者、政治家は、頭脳も人格もあなたより聡明な人がいっぱいいますから」・・・私もそう思っています(^o^)。「日本会議とやらも、神話を史実と受け取っている人はそうそういないでしょう」・・・これもそう思います。でも、それならなぜ「神話」を史実とするような学説を発表したり、不正を犯してまで子供に「国家神道」を刷り込む学校を造ろうとしたりしているのでしょうね?ウソだと知りながらやっているのだとすれば、学究のためや子供のためではないと思いますけれど。
私は「盲目的に地方ばかりを崇拝している」わけではありませんし、「地域の博物館や資料館に行けば本当の歴史がわかる」と考えているわけでもありません。そもそも他人の眼や頭を通して歴史を見るのは止めようと思って始めたことですから(^o^)。
『記紀』のオハナシが史実かどうかを考えるのには、「それぞれの地域の本当のことが分かる」地域資料の方がずっと参考になるということを書いたのです。おっしゃるように中央は予算も人員も豊富でしょうし、立派な肩書や権威もお持ちですが、細かい所には眼が向いていないようですから。


9462管理人:2019/10/10(木) 01:36:58
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>

> 念のため、私は縄文人の言語が日本語において重要だとは全く言っていません。
> そう解されたのなら曲解です。
>
> 正確に言うと、日本のD2の言語は消滅したという前提において話しています。
> 縄文諸語なるものがあったとすれば(多分ないはずです)、D2の本来の言語は消滅してオーストロアジア語化していたかもしれないという話しです。
>
> y-D固有の言語としてはアンダマンのオンゲ語族しかないですが、この言語さえもオーストロネシア化したという説もあります。彼らよりも農耕民との接触度が遥かに多かった縄文人の諸言語は、古い層の言語は残りずらい、狩猟採集民の言語は農耕民の言語に置き換わるという原則通りに「消滅した」と考えるのが普通でしょう。
>

Y-Dの言語・・、個人的にはかなり古い系統、アフリカの言語とかに近いのではないかと予想しますが、ほとんど語彙的にも残ってないのでしょうね。残っているとすると、山間部や田舎の縄文人の末裔が隠れたところの方言とか、声調とか、イントネーション・・といったものなのではないでしょうか。あとはやはりアイヌ語ですね。


> これも、O1b2固有の言語が現存していないので証明する術が全くありません。日本語にオーストロアジア系の語彙があるのなら少しは分かってきますが、今の所ないです。
>
ううん。。。

> なので、きちんとした日本語の系統の議論というものは、過去においても現代においても存在が確認できるO-M134のチベット・ビルマ語やC2のニヴフ語などを基に解明されるはずです。
>
> 遼河のN1の言語がディガロ語で日本語にも影響を及ぼした可能性についても気になっています。こんなことを言ってる学者はもちろんいませんが。

遼河文明の影響は、縄文後期前半あたりから出てくるようですから、その辺は興味深いところです。

9463管理人:2019/10/10(木) 02:20:47
旧石器時代方位ライン02
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009976M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009976_2M.png

また山田さん、紀氏さんお返事ありがとうございます!

富士山がどこまで見えるかは私も以前から興味あるところですが、そうですか、茨城からも見えるんですね。埼玉からはもちろん見えましたよ。

昨晩の旧石器時代の遺跡を結んだラインに遺跡名を記してメッシュを加えてみました。図1は東日本全図、図2は関東です。

この時期の測量法にともなう1度の東偏角があるので、両図ではそれを見やすいように0度へと図を傾けて修正してあります。

両図をみると、まずは昨晩も指摘した茨城の後野遺跡⇔中砂遺跡⇔中東遺跡⇔一杯窪遺跡⇔富士山に至るラインがあります。

また茂呂遺跡⇔小保戸遺跡⇔富士山のライン、あるいは横針前久保遺跡⇔立石遺跡⇔富士山のラインもあり、やはり富士山をダイレクトに見て測量していた可能性が高そうです。

ただ、図1の岩手の金取遺跡⇔花泉遺跡⇔福島の平林遺跡⇔富士山へのライン、あるいは山形の高瀬山遺跡⇔群馬の岩宿遺跡⇔埼玉の末野遺跡⇔富士山のラインもあり、これは富士山が見えるわけない距離からのラインとなるので、富士山の代わりとなる目印を中間地点に立てるなどして測量した可能性が出てきます。

また、岩宿遺跡⇔後野遺跡の東西ラインは、中砂遺跡⇔水久保遺跡⇔成田空港遺跡の東西ラインと並行関係にあり、黒メッシュの方格でいけば、8区画分南北に距離を置いてます。

同様に昨晩も指摘した立石遺跡⇔小保戸遺跡の東西ライン、小保戸遺跡⇔岩宿遺跡の南北ラインがあり直角三角形を構成していますが、これとは別に、岩宿遺跡⇔稲荷台遺跡⇔茂呂遺跡のラインと、茂呂遺跡⇔小保戸遺跡⇔富士山のラインも直角を成しています。

これもこの時代の三角測量の応用事例だといえるでしょう。

おおむね、ほとんどの遺跡は図のように黒メッシュの方格ライン上に位置しており、測量がなされた位置に集落を構築していった様子がうかがえます。

この3万年〜2万年前後までの旧石器時代人の一部が、東日本規模での測量、つまり地図作成をしていたこともわかるのですが、ただひとつだけ気になっているのが、岩手の金取遺跡の年代だけが8-9万年前と大幅に遡ってしまっていることです。

でも確かに図のように、この遺跡もライン上に載ってますから、そうすると、8万年以上前の人類、つまりY-Dではないネアンデルタール人などの旧人?も測量ができるだけの知恵を持っていたのかどうかとの問題に突き当たってしまいます。

ただこの遺跡が後代の旧石器時代の遺跡の下から偶然に、その8万年以上前の地層から発見されたのか、あるいはその8万年前という数値がそもそもおかしいのか、その辺についても考えていく必要があるでしょう。

同様に出雲市多伎町砂原の砂原遺跡も約12.2万年前とされていますから、この遺跡の位置が、九州方面の旧石器時代遺跡との位置関係で明確に測量された位置にあるかどうかを確認することで、その是非が明らかにされてくるかもしれません。

北海道の旧石器時代遺跡についても同様なことが言えそうですが、ただ西日本に遺跡がほとんど見えないのはどういうことなのかな?ちょっと気になってます。

仮に九州と関東・東海、そして北海道方面の3つの旧石器時代人の分布があったとすると、これは先日も指摘したY-Dの三つの大きな枝分かれに対応しそうですね。実際Yfullのサンプルでも、その3つの地域の出身者がそれぞれ3つの枝分かれにみえてましたから、いよいよY-Dと旧石器時代人とが関係づけれるかもしれません。

その後、Y-Cが1万2千年前に渡来してきて縄文時代が始まるわけですが、ここでY-DがCとどのように融合していったかも先日も課題でした。そしてその際の言語的な融合・消滅過程、ここがルーツさんとの議論で先ほどもみえてきた問題点なわけですね。また気づいたことなどございましたら、お気軽にわかちあってください!




9464荊の紀氏:2019/10/10(木) 10:34:47
(無題)
金取遺跡(かなどりいせき)は、岩手県遠野市宮守町に所在し、中期旧石器時代に属する日本列島の遺跡である。
なお2003年7月に報じられたところとして、8-9万年前と見られる土層から石器が出土し、日本国内最古との見方も出た[1]が、2009年9月に出雲市の砂原遺跡で12万年前のものと見られる石器が出土[2]、こちらが日本最古ではないかと報じられている[† 1]。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
出典 ?
^ 「岩手・金取遺跡が国内最古 石器出土層9−8万年前」共同通信 2003年7月6日
^ 「日本最古、12万年前の石器みつかる」読売新聞 2009年9月30日
注釈
^ この問題に関しては、旧石器捏造事件に絡む日本考古学界の混乱に伴い、前・中期旧石器時代のものと見られていた数多くの出土品が否定され、確認された3万5千年-4万年前の石器を最古と見る説が有力視されていたが、本遺跡などから出土の旧石器時代の遺物が確認されたことを受け、捏造問題の影響と混乱から信頼を回復させる兆しを見せている。
金取遺跡 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fhowlingpixel.com%2Fi-ja%2F

岩手県遠野市宮守町にある金取遺跡
アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー博士は、「縄文人の祖先は約5万年前には中央アジアにいた集団であり、彼らが東進を続けた結果、約3万年前に北方オホーツクルートで北海道に到着し、日本列島でD1bが誕生した」とする説を唱えておられます。と
 出雲市多伎町砂原の砂原遺跡から、2009年8月に12万年前の古地層中から1点の小石片が発見された。この小石片が日本で最古の石を打ち砕いてつくられた打製石器です。また、岩手県遠野市宮守町にある金取遺跡からも、8〜9万年前と見られる地層から打製石器が発見されています。すでに、日本でも人類が12万年前から住んでいたことになります。ただ、この砂原遺跡にしても金取遺跡にしても人骨は発見されていません。残念ながら、日本は更新世の火山噴火による火山灰が、瀬戸内、近畿地方を除く日本列島の大部分に降り注いだので骨を分解してしまう酸性土壌の占める地域が多く人骨が発見されないのです。
 この打製石器の材質に適していると言われる黒曜石も花崗岩で、日本は太古の時代から火山活動が盛んな土地柄ですから、世界でも有数の産出国だったのです。3万5,000年前の高原山黒曜石原産地遺跡群もあり、群馬県みどり市の岩宿遺跡でも1946年に赤城山南東の関東ローム層から黒曜石の打製石器が発見されています。ナウマン象とヤベオオツノジカも日本にいた。その遺跡も野尻湖から1948年に発見されています。そのナウマン象の骨は、3万年〜5万年前のものだったらしい。最古の住居の遺跡としては大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡で、3万年〜1万3,000年前の竪穴式住居が1986年に発見されています。高原山黒曜石原産地遺跡群、岩宿遺跡や野尻湖遺跡やはさみ山遺跡で発見された遺産には、その当時の人々の影が見えます。現在の日本人のY染色体のハプログループD1b(D-M64.1)は約35%にみられ、アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー博士は、「縄文人の祖先は約5万年前には中央アジアにいた集団であり、彼らが東進を続けた結果、約3万年前に北方オホーツクルートで北海道に到着し、日本列島でD1bが誕生した」とする説を唱えておられます。とすると。高原山黒曜石原産地遺跡群、岩宿遺跡や野尻湖遺跡やはさみ山遺跡で生活していた人達は、ハプログループD1b(D-M64.1)をもった縄文人の祖先となりますね。また、ミトコンドリアDNAハプログループで日本人に多いのはハプログループM7aで、約4万年以上前に誕生したアジア最大の母系グループ「M」型から分岐したM7より分岐したグループで、約2万5,000年前に「スンダランド」で誕生し北上して日本列島に到達した系統、あるいは、シベリア南部〜極東あたりで発生した系統があります。
 では、砂原遺跡や金取遺跡で生活していた人達はどのような人類だったのでしょうか。Y染色体で人類の移動を説明している学者の人達は、ハプログループDの親グループのハプログループDEが約6万年前にホモ・サピエンスとしては初めて紅海を渡って、アフリカ大陸を脱出した。アラビア半島の南端から海岸沿いに東北に進みイラン付近に至ったと主張しています。では、12万年にいた日本人はホモ・サピエンスではないのでしょうか。ホモ・サピエンスは20万年前から10万年前にかけてアフリカで現生人類に進化し、約6万年前にアジアにやって来た。とすると12万年にいた日本人は、ヨーロッパを中心に西アジアから中央アジアにまで分布しており、旧石器時代の石器の作製技術を有し、火を積極的に使用していたネアンデルタール人だったのか。ネアンデルタール人は、約20万年前から生存し、ホモ・サピエンスが新人として世界に散らばった2万年前には絶滅していた。とすると、やはり12万年前にいた日本人は北京原人やジャワ原人のホモ・エレクトスではなく、ネアンデルタール人だと思う。その日本にいたネアンデルタール人とY染色体のハプログループDのホモ・サピエンスが約3万年前に混血して、現在の日本人がもつハプログループD1b(D-M64.1)と変わっていき、日本人だけがもつハプログループを形成されたのではないでしょうか。そのハプログループD1b(D-M64.1)が縄文人に受け継がれた。
 1880年に創刊され、現在アメリカ科学振興協会 (AAAS)によって発行されている学術雑誌『サイエンス』の2010年5月7日に発刊された記事によると、ホモ・サピエンスのゲノムにネアンデルタール人の遺伝子が数%混入しているとの説を発表している。
12万年前にいた日本人 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fhs_anriver%2F20555225.html


9465荊の紀氏:2019/10/10(木) 11:03:29
富士山  見える 北限…
北限からとらえた 308キロ先、福島・花塚山 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fmainichi.jp%2Farticles%2F20170117%2Fk00%2F00m%2F040%2F029000c
北緯37度39分11.8秒 東経140度40分05.5秒

稜線も巨岩が続く
霊山・女神山・花塚山とも展望があって良い山なんですね 現在の線量もアップしてあるので、参考になった方が大勢いらっしゃるのではと思われます。
堅岩 モアイ像にも似た高さ30メートルの岩塔

旧石器時代 福島盆地(信達地方)に人々が住むようになる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.city.fukushima.fukushima.jp%2Fsoumuka-soumu%2Fshise%2Fgoannai%2Fshokai%2F2013020101.html

会津笹山原遺跡 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.aidu.server-shared.com%2F%7Eishida-a%2Fpage008.html

日本の歴史と会津 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.aidu.server-shared.com%2F%7Eishida-a%2Fpage053.html
旧石器時代の遺跡が、東北地方で最も集中している笹山原遺跡(会津若松市湊町)
 会津地方に人間が住むようになったのは、約3万年前です。市内湊町笹山原にある県「会津レクリェーション公園」周辺には、多数の旧石器時代の遺跡が発掘調査で確認されています。


9466荊の紀氏:2019/10/10(木) 11:16:58
(無題)
遠野 遺跡の画像 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.bing.com%2Fimages%2Fsearch%3Fq%3D%25e9%2581%25a0%25e9%2587%258e%2B%25e9%2581%25ba%25e8%25b7%25a1%26qpvt%3D%25e9%2581%25a0%25e9%2587%258e%25e3%2580%2580%25e3%2580%2580%25e9%2581%25ba%25e8%25b7%25a1%26FORM%3DIGRE

遠野市に合併された旧宮守村達曽部金取にある「金取遺跡」で、中期旧石器時代の8万5000年前の阿蘇山の火山灰層から石斧、掻器など7点の旧石器が発掘されたそうです。
阿蘇山の火山灰層とは、8万5000年前、九州の阿蘇山の巨大噴火によるもので、朝鮮半島から北海道までを火山灰が覆い尽くしたそうです。
旧石器が発掘された「金取遺跡」の火山灰層には木炭片、焼けた礫(れき=石ころ)が多く見られたそうで、旧人がキャンプをした場所と考えられています。
この時代の人類は、「旧人」の段階で、類人猿→原人→旧人と進化し、現代の「新人(ホモ・サピエンス)」に代わる前の時代です。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ftako_888k%2Fe%2F9aa12511e556f8101e2a09b4691156fb
張山遺跡」で発掘された「石製有孔装飾品」です。…
有孔装飾品…
>黒曜石のビーズ / Credit: Israel Antiquities Authority
これまで新石器時代のユダヤ地域には、人は住んでいなかったと考えられてきた。今回の発見は、従来の歴史認識を一変させそうだ。
>9千年前の古代都市がイスラエルで発掘 従来の説を覆す /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnazology.net%2Farchives%2F41927


9467山田:2019/10/10(木) 22:07:42
遠野、他
遠野はおもしろい処だよ。
昔話郷土館みたいな所に入ると、歩いていくとあちこちで昔話の語りがはじまる。話の中身はかなりキチガイじみているから、おもしろいけど、付き合いきれない。あちこちで機械的に語りだす。…そう、まったく自分が相対化されるのがわかる。

先日の投稿で、岩宿⇔小保戸ラインにあきるの雨間地区遺跡が乗るというの、少し訂正。グーグルで雨間検索すると秋川の川向こう、南岸になる。実際、雨間地区というのは北岸の五日市線に近い区域になる。ま、位置的に大きな誤差はありませんが。…それより発見したのは、この雨間地区、筑波ー富士ラインに乗るんですね。このラインは趣味的に追求してるので、発見でした。


9468管理人:2019/10/10(木) 22:46:19
Re: 遠野、他
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009981M.png

山田さんへのお返事です。

> 遠野はおもしろい処だよ。
> 昔話郷土館みたいな所に入ると、歩いていくとあちこちで昔話の語りがはじまる。話の中身はかなりキチガイじみているから、おもしろいけど、付き合いきれない。あちこちで機械的に語りだす。…そう、まったく自分が相対化されるのがわかる。
>
> 先日の投稿で、岩宿⇔小保戸ラインにあきるの雨間地区遺跡が乗るというの、少し訂正。グーグルで雨間検索すると秋川の川向こう、南岸になる。実際、雨間地区というのは北岸の五日市線に近い区域になる。ま、位置的に大きな誤差はありませんが。…それより発見したのは、この雨間地区、筑波ー富士ラインに乗るんですね。このラインは趣味的に追求してるので、発見でした。
>


遅くなりましたが、山田さんから、ご指摘あった雨間地区遺跡と鈴木遺跡の関連のライン図、作成してみましたので添付いたします。

まず、雨間地区遺跡が、岩宿⇔小保戸ライン上にあることは間違いないです。鈴木遺跡と雨間地区遺跡の東西ラインも1度の東偏角を考慮すれば、まず間違いないでしょう。

あとご指摘の筑波山⇔富士山ライン上に雨間地区遺跡が載るかどうかですが、こう見ると微妙ですが、意図的な感じがしますね!鈴木遺跡と雨間地区遺跡の東西ラインとあわせて山田ラインと命名してもよいかと思います(^^)




9469管理人:2019/10/10(木) 22:50:53
Re: 富士山  見える 北限…
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 北限からとらえた 308キロ先、福島・花塚山 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fmainichi.jp%2Farticles%2F20170117%2Fk00%2F00m%2F040%2F029000c
> 北緯37度39分11.8秒 東経140度40分05.5秒
>
>

これは驚きですね。福島まで富士山が見えるとは・・。

富士山は近世に噴火する前はとがってたそうですから、なおさらよく見えたことでしょう。

予想以上に遠くから富士山を目安に測量していた可能性を感じますね。

9470管理人:2019/10/11(金) 01:19:51
日本に旧石器遺跡が少ない理由
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009983M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009983_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/近代以前の日本の人口統計



9471管理人:2019/10/11(金) 01:57:29
九州の旧石器時代の方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009984M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009984_2M.png

先日の東日本の旧石器時代の方位ライン分析に続いて、九州のそれについても方位ラインを作成してみました。図1は九州全域のライン図で、図2は北部九州のその拡大図です。

こうみると、まず気づくことは、桜島と阿蘇山を、目安の測量していることです。噴火で煙があがっていたので、それを目安にしたのではないでしょうか。

具体的には、桜島に関するものとしては、横峯遺跡⇔桜島⇔石飛遺跡⇔百花台遺跡のライン、同じく桜島⇔岩戸遺跡⇔丹生遺跡のラインがあります。

また阿蘇山に関するものとしては、阿蘇山⇔百花台遺跡の東西ライン、早水台⇔阿蘇山(東部)⇔石飛遺跡のラインが見えます。

その他、野岳遺跡⇔岩戸遺跡の東西ライン、ケイマンコー遺跡⇔泉福寺洞窟の南北ライン、泉福寺洞窟⇔丹生洞窟の東西ライン、早水台遺跡⇔岩戸遺跡の南北ライン、野岳遺跡⇔水迫遺跡⇔横峯遺跡のラインもあります。

昨晩の東日本の旧石器時代の方位ラインは、富士山を目安にしていましたが、九州では桜島・阿蘇山といったものを目安にして測量していったことがわかります。

そして九州のラインは図2のように1度前後の西偏角を有していることも特徴的ですが、東日本では同じく1度前後の東偏角を有していることと対照的です。

双方おそらくは同じ測量技術をもっていたはずですが、春分・秋分の暦の取り方か、北極星の位置にかかわる測量問題で東西にそれぞれ1度偏角の相違が生じていった可能性を感じます。

なぜ、そういう目印をもとに住処を決めなければならなかったかについて考えていくと、まず、先の投稿のように、きわめて人口が少ない時代であったことが関係してくるでしょう。

この時代は多くて九州では数千人だったようですから、後代のように道路工事をして街道を整備するだけの人口がいないわけです。道路がないのに、いかにして九州・日本全域を支配し、各地で交易するかを考えると、自然と山などを目安にして移動するようになるでしょう。

その精度を高めるために、簡易的な測量を行って、その特定位置に集落を造って生存をかけたわけですね。

それが方位ラインとか区画として、こうやって地図に現れてくるわけです。このラインがあって、はじめて全国各地での交易が可能になり、各地から黒曜石なりを仕入れることができて、安定して狩猟を行い得たのでしょう。

ただ、数百とか数千人レベルの集団が、はたしてどこまで正確な測量技術を獲得し、交易を行い得たのかを考えていくと、限界点も見えてくるでしょう。

しかし、これだけ正確な測量ができた背景には、この旧石器時代人がかつて住んでいた地域に、そこそこの文明とでもいうべきものが成立しており、その末裔が日本列島へと渡ってきたということを想定すべきなのではないかと感じ始めています。

その文明があった地域については、氷河期ですから、やはり赤道周辺の温暖な地域でしょう。スンダランド方面か中東・インド方面か・・。

特にこの九州の旧石器時代遺跡をみていて気付くのは、東日本のそれよりやや古いことですね。
3〜4万年前の遺跡もあります。東日本では2〜3万年前がメインですから、そうすると、九州の集団が、後に東日本へと拡散していった可能性が見えてくるわけです。

ただ、その件は残りの北海道の旧石器時代の遺跡群をしらべてみないと結論が出せない感じですが、ともあれ、九州と東日本については、おそらくは同じ測量技術をもった集団であったと考えうるでしょう。年代的にも近いですし、強いていればY-Dの可能性がありますね。

ただ、大分の早水台遺跡が約5万年前をはじき出しているのが、やはりきになるところで、Y-Dの拡散時期としては、早すぎるのではないでしょうか。この年代推定が正しいのかどうか、考えものですね。




9472荊の紀氏:2019/10/11(金) 02:57:56
(無題)
 鈴木遺跡
35°43'06.6"N 139°29'47.7"E
東経139度29分48秒
小平市鈴木町1-487-1
武蔵野台地のほぼ中央、東京都小平市の東部、石神井川源流谷頭部を馬蹄形に囲んで形成された後期旧石器時代の遺跡。東京都指定史跡。総面積約22万?と、都内では最大級の面積を有する。標高約73〜75mの武蔵野段丘上に位置し、約2km南には野川流域の遺跡群が展開する。

北緯36度45分54秒
東経139度29分27秒
男体山(なんたいさん)は栃木県日光市にある標高2,486mの火山。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

北緯36度28分27秒
東経139度37分40.5秒
栃木市は、旧石器時代の石器や縄文時代の集落跡が見つかるなど、古くから人が住む地域 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.tochigi-kankou.or.jp%2Ftochigi%2Fhistory
星野遺跡(ほしのいせき)は、栃木県栃木市星野山口付近(栃木市市街地から西北約10キロ、足尾山塊(チャートや珪岩を産する秩父古生物層から成る)から発する永野川左岸の山口台地上にある。)にある縄文海進時代の遺跡である。縄文時代の遺物が、田畑の表面のそこらじゅうにちらばっている。付近は永野川流域にあり、永野川に沿って同様の遺跡が他にも散在している。旧石器時代の石器に似た遺物が、畑を耕していた所から発見されたのをきっかけに、1965年(昭和40)から1978年まで5次にわたって東北大学の芹沢長介教授らにより調査が行なわれ、その後遺跡記念公園・遺跡記念館が作られ、訪れる者も増えた。発掘の結果は原人が活躍した前期旧石器時代で約8万年前の遺跡として発表されたが、多くの問題点が残った。
厳密には旧石器時代の遺跡の新発見がなされた記念の場所ではなく、その探索が初めて行なわれた記念の場所と、現在では考えられている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F


9473荊の紀氏:2019/10/11(金) 03:25:41
(無題)
旧石器時代の遺跡一覧 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
網走支庁遠軽町(旧白滝村)白滝遺跡群
町内、赤石山(1172m)の山頂付近(800m)から無尽蔵(推定60億トンともいわれる)ともいえる黒曜石を採取し、山の上から、粗砕き(700m)を行い、分業で、簡易加工(500m)して各地に運ばれている。採石場の活用は6千年間に及ぶといわれている。白滝の黒曜石は、北海道内はもとよりサハリンやシベリア、縄文時代の青森県三内丸山遺跡にまで及んでいる。白滝遺跡群は90ヶ所以上ある。
渡島支庁今金町美利河(ピリカ)遺跡
昭和58年(1983年)ころ、ダム建設予定地を調査したところ、1585?から11万点にものぼる旧石器時代の石器類が出てきた。ピリカ遺跡の場からは石器類の材料は発見されておらずどこからか運ばれてきたと思われる。頁岩(けつがん)は近くで採石されているが、黒曜石は遠く旧白滝村や十勝三股、余市町赤井川村や置戸町から集められていることを考えれば、幅広いネットワークの存在が浮かび上がってくる。ピリカ遺跡は1万年に渡って石器の加工場であったといわれている。
十勝支庁上士幌町嶋木遺跡(旧石器時代の遺跡は、十勝でおよそ100ヵ所見つかっている)
恵庭岳が約1万8千年前に噴火したとき飛んできた火山灰よりも下の地層から見つかっている上士幌町嶋木遺跡は約1万9千年前と考えられている。石刃などの打製石器が発見されている。
十勝支庁帯広市、新帯広空港建設で発見された遺跡
黒曜石はこの地方では十勝石といわれ、 石刃、尖頭器、石錐、細石刃などの打製石器が発見されている。地層から約2万3千年前と考えられている。
十勝支庁帯広市、暁(あかつき)遺跡
およそ1万6千年前、暁遺跡周辺では、旧石器時代人が細石刃をはじめとする、いろいろな石器を作っていた作業場だったようだ。
網走支庁(旧女満別町)大空町豊里遺跡
北見市常呂遺跡
オホーツク海沿岸に沿って展開する遺跡、旧石器文化から縄文文化(早期・前期・中期・後期・晩期)、続縄文文化、オホーツク文化、擦文文化、アイヌ文化まで幅広い年代・多期にわたっていることも大きな特長である。
岐阜第二遺跡(約2万年前)
サロマ湖東岸に近い標高約10〜15mの台地上にある。小沢の両側には擦文時代を中心に縄文・続縄文時代の住居跡がある。常呂地域の旧石器時代の遺跡は今のところ岐阜第二遺跡だけだが、北海道内でも最古に位置づけられる遺跡として知られている。
千歳市祝梅三角山遺跡
2万年近く前と考えられている。この頃の人々は剥片石器を使用していた。石刃などの打製石器が発見されている。多くの文献に北海道最古と紹介されているが果してそうであろうか?祝梅三角山遺跡より遥かに古い遺跡が発掘されていると見られるからである。
函館市桔梗2遺跡他
約2万年前(洪積世)ウルム氷期に、アイヌの祖先は、今の北シベリアから来たと考えられる。もっとも古い遺跡(函館市桔梗2遺跡他)は、約2万数千年前のものである。
二海郡八雲町上八雲大関遺跡群
昭和34年(1959年)大関小中学校グラウンド整地の際、40数点の石器と石片が採取され、旧石器であることが確認された。その後、次々と遺跡が発見された。
上磯郡知内町湯の里遺跡
湯の里遺跡は旧石器時代から続縄文時代(弥生時代)にまでおよぶ遺跡であることが判明した。旧石器時代に所属する土擴から発見された墓様のものは、現在、日本最古の墓と考えられている。
寿都郡黒松内町中ノ川樽岸の遺物
北海道における旧石器時代の調査は最初の方である。1954年調査、出土の遺物は、全て石器類で、硬質頁岩の一種マールを材料としている。およそ1万年以前のものと推定されている。

おしょろかんじょうれっせき【忍路環状列石】 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
北海道小樽(おたる)市忍路町2丁目の通称「三笠山(みかさやま)」の麓(ふもと)にあるストーン・サークル。幕末ごろよりその存在が知られていた。標高20メートルほどの緩斜面に、大小さまざまな河原石を並べている。規模は南北33メートル、東西22メートルで楕円(だえん)形に並んでおり、中央部西よりに高さ1メートルの角柱状立石が1本立っていた。1880年代に田内捨六(すてろく)によって約33平方メートルほど試掘されたが、浜石が層をなしていただけであった。その後、1949年(昭和24)に本遺跡西方の地鎮山頂上から同様な遺跡が東京大学の駒井和愛(こまいかずちか)によって発掘され、これらの遺構は縄文時代後期の墓と考えられるに至った。

西崎山環状列石
北海道余市郡余市町栄町
ストーンサークルです。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdrive.nissan.co.jp%2FSPOT%2Fdetail.php%3Fspot_id%3D38503
小樽市と余市町の境界線付近の西崎山の海抜約70mの尾根にある縄文時代後期の石造遺構です。
日本海を見渡す山の上に、直径1〜2mの遺構が7箇所密集して、一つの大きなサークルを形成しており、長径17メートル、短径12メートルの楕円形に大小数百個の自然石が並べられています。
小さいサークルの一つ一つは墓穴とされ、土器や石鏃が発見されているそうです。

北海道深川音江の環状列石 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DBPnjLAeE4zU
音江環状列石(おとえかんじょうれっせき)は、北海道深川市音江に所在する縄文時代の環状列石群である。別称は、音江環状石籬である。

外帯と内帯の間には「日時計状組石」が置かれている。
大湯・時計状組石
北海道・北東北の縄文遺跡群( 暫定リスト) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fheiwa-ga-ichiban.jp%2Fsekai%2Fjomon%2Findex.html


9474山田:2019/10/11(金) 11:07:22
武蔵野台地の旧石器遺跡
茂呂遺跡 N35度45分16秒 E139度40分32秒
栗原遺跡 N35度45分17秒 E139度40分21秒

岩宿遺跡発掘の次に東京板橋の茂呂遺跡が旧石器だとわかった(1951)。石神井川沿いにあって、すぐ隣接する栗原遺跡はそれより早く1938年早期縄文式の撚糸文土器と刃部磨製石斧が採集されていた。1951年、55年と栗原遺跡の発掘調査がありソフトローム層とハードローム層の境で礫群や黒曜石剥片が認められた。翌56年第四次調査で、「栗原遺跡は無土器時代、縄文時代、弥生時代、そして奈良・平安時代にかけての大集落遺跡であることが確認された。」
1973年、栗原遺跡の遺物包含層の本格調査が行われた。ソフトローム層から局部磨製石斧の出土、これはさらに数m深い立川ローム第二黒色帯下の「第X層」上部に包含されていることが確認された。
「・・こうして東京・武蔵野台地の関東ローム層中から、原位置でそれも日本最古の確かな年代を示す地層(第X層、約四万〜三万二〇〇〇年前)から、立派な磨製石斧が出土し「無土器文化」の所産であることが確かめられた。」

詳しくは、
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fac.jpn.org%2Fkuroshio%2Fkurihara%2Foda201705.htm
多摩考古 第47号
世界最古の磨製石斧と栗原遺跡
−列島最古の旧石器文化を探る 小田静夫

この「多摩考古 第47号」に羽村山根坂上遺跡のストーンサークルを論じたものが載っているのですが、未見。


追記
岩宿⇔小保戸の南北ライン。遺跡と余り関係ありませんが、北に伸びると只見「手打ちそば処八十里庵」N37度21分36秒 E139度17分37秒、この少し先の塩沢というところで幕末長岡藩家老河井継之助が落命。八十里越えという難所の峠を戸板に載せられて越えたという。

このライン南に伸びて海辺は大磯町郷土館になる。N35度18分19秒 E139度17分27秒、近くに鴫立庵という著名な俳諧道場がある。曾我物語の虎御前は大磯の遊女だったそうです。

9475これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/11(金) 22:01:49
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
管理人さんへのお返事です。

> > y-D固有の言語としてはアンダマンのオンゲ語族しかないですが、この言語さえもオーストロネシア化したという説もあります。彼らよりも農耕民との接触度が遥かに多かった縄文人の諸言語は、古い層の言語は残りずらい、狩猟採集民の言語は農耕民の言語に置き換わるという原則通りに「消滅した」と考えるのが普通でしょう。
> >
>
> Y-Dの言語・・、個人的にはかなり古い系統、アフリカの言語とかに近いのではないかと予想しますが、ほとんど語彙的にも残ってないのでしょうね。残っているとすると、山間部や田舎の縄文人の末裔が隠れたところの方言とか、声調とか、イントネーション・・といったものなのではないでしょうか。あとはやはりアイヌ語ですね。
>


アフリカのy-Dの言語はアフリカとOOA後しばらくはあったでしょうが、すぐ分かれて違う語族になっていったでしょうね。そもそも現存する語族形成時期に重なりません。

それから、日本の田舎の縄文人の言語のトーンが残っている可能性は、こういうものこそすぐ変わったり消え去ったりします。一世紀前の言語学では声調など類型による系統論が行われていたようですが。

やはり、y-Dは、古いことと、狩猟採集民だったことが痛いです。
(でも、日本人の「縄文人崇拝」は変ですねぇ。ヨーロッパの狩猟採集民はK2a〜NOですが、ヨーロッパ人のルーツの議論はどれも農耕牧畜民から始まります。本来、日本人の起源のルーツも農耕民から始めるべきなのでは?)

ところで、
Living DNAのコミュニティーで繋がっている知り合いの女性が家系図を辿っていったところ、遣唐使に名を連ねていた人物に辿り着いたそうです。あと、高句麗かもしれないと。この辺りのことを北燕遺民との関係で管理人さんが触れていましたよね。

これですかね?↓
「それとは別に昨晩もお話した5世紀前半に滅亡した北燕の遺民が、5世紀中葉から6世紀前半にかけて順次、朝鮮から日本へと渡来してきたので、彼らを旧来の漢人と区別して、新(今来)漢人と呼んでいたのですが、彼らの遺伝子に、北方遊牧民やゾグド人、東欧系ケルト人などの遺伝子の痕跡がみられないかどうかが、昨晩も課題となっていたわけですね」。

彼女のルーツは、北縁遺民=新漢人と関わるのでしょうか?
彼女には「地中海病」という持病があって、そこから遺伝人類学に興味が出て、DNAテスト始めたそうです。なんでも、医者に「この病気はシルクロード沿いに運ばれた遺伝病」と言われたそうです。彼女のmtDNAはD4b2で日本には珍しい型です。

これに関して、管理人さんに何か付け足してもらえれば良いのですが。彼女に伝えて人気者になりたいですw

9476管理人:2019/10/12(土) 00:08:49
Re: 武蔵野台地の旧石器遺跡
山田さんへのお返事です。

> 茂呂遺跡 N35度45分16秒 E139度40分32秒
> 栗原遺跡 N35度45分17秒 E139度40分21秒
>
この東西ラインは間違いなさそうですね!


> 岩宿遺跡発掘の次に東京板橋の茂呂遺跡が旧石器だとわかった(1951)。石神井川沿いにあって、すぐ隣接する栗原遺跡はそれより早く1938年早期縄文式の撚糸文土器と刃部磨製石斧が採集されていた。1
> 「・・こうして東京・武蔵野台地の関東ローム層中から、原位置でそれも日本最古の確かな年代を示す地層(第X層、約四万〜三万二〇〇〇年前)から、立派な磨製石斧が出土し「無土器文化」の所産であることが確かめられた。」
>
> 詳しくは、
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fac.jpn.org%2Fkuroshio%2Fkurihara%2Foda201705.htm
> 多摩考古 第47号
> 世界最古の磨製石斧と栗原遺跡
>??−列島最古の旧石器文化を探る 小田静夫
>
> この「多摩考古 第47号」に羽村山根坂上遺跡のストーンサークルを論じたものが載っているのですが、未見。
>

栗原遺跡があるんですね・・!先の旧石器時代の遺跡一覧に載ってない著名な遺跡もまだたくさんあるのですかな??

>
> 追記
> 岩宿⇔小保戸の南北ライン。遺跡と余り関係ありませんが、北に伸びると只見「手打ちそば処八十里庵」

方位ライン遺跡探索ツアーの昼食用によさそう??


9477管理人:2019/10/12(土) 00:20:25
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。

> >
> > Y-Dの言語・・、個人的にはかなり古い系統、アフリカの言語とかに近いのではないかと予想しますが、ほとんど語彙的にも残ってないのでしょうね。残っているとすると、山間部や田舎の縄文人の末裔が隠れたところの方言とか、声調とか、イントネーション・・といったものなのではないでしょうか。あとはやはりアイヌ語ですね。
> >
> >
> アフリカのy-Dの言語はアフリカとOOA後しばらくはあったでしょうが、すぐ分かれて違う語族になっていったでしょうね。そもそも現存する語族形成時期に重なりません。
>

そうですね、かなり早い時期に、DEがおそらくはメインのCFから分かれでたのではないでしょうか・・・。

> それから、日本の田舎の縄文人の言語のトーンが残っている可能性は、こういうものこそすぐ変わったり消え去ったりします。一世紀前の言語学では声調など類型による系統論が行われていたようですが。
>

なるほど、逆に声調などは残りにくいんですね・・。


> やはり、y-Dは、古いことと、狩猟採集民だったことが痛いです。
> (でも、日本人の「縄文人崇拝」は変ですねぇ。ヨーロッパの狩猟採集民はK2a〜NOですが、ヨーロッパ人のルーツの議論はどれも農耕牧畜民から始まります。本来、日本人の起源のルーツも農耕民から始めるべきなのでは?)
>

なるほどですね・・、と、農耕民の言語がなぜ残りやすいのか、実はよく理解できてないんですけど、狩猟民のそれと比して、どの辺がかかわってくるのでしょうか?


> ところで、
> Living DNAのコミュニティーで繋がっている知り合いの女性が家系図を辿っていったところ、遣唐使に名を連ねていた人物に辿り着いたそうです。あと、高句麗かもしれないと。この辺りのことを北燕遺民との関係で管理人さんが触れていましたよね。
>
> これですかね?↓
> 「それとは別に昨晩もお話した5世紀前半に滅亡した北燕の遺民が、5世紀中葉から6世紀前半にかけて順次、朝鮮から日本へと渡来してきたので、彼らを旧来の漢人と区別して、新(今来)漢人と呼んでいたのですが、彼らの遺伝子に、北方遊牧民やゾグド人、東欧系ケルト人などの遺伝子の痕跡がみられないかどうかが、昨晩も課題となっていたわけですね」。
>
> 彼女のルーツは、北縁遺民=新漢人と関わるのでしょうか?
> 彼女には「地中海病」という持病があって、そこから遺伝人類学に興味が出て、DNAテスト始めたそうです。なんでも、医者に「この病気はシルクロード沿いに運ばれた遺伝病」と言われたそうです。彼女のmtDNAはD4b2で日本には珍しい型です。
>
> これに関して、管理人さんに何か付け足してもらえれば良いのですが。彼女に伝えて人気者になりたいですw



実に興味深い話ですね!こちらの疾患でしょうか。
この病気は地中海沿岸域の人々や、中近東(ユダヤ人、トルコ人・アルメニア人)に多い疾患ですが、日本でも患者さんがいることがわかっています。

4. この病気の原因はわかっているのですか
家族性地中海熱はMEFV(familial Mediterranean fever gene)遺伝子と呼ばれる遺伝子の異常が関連しています。この遺伝子は炎症をおさえる蛋白質を作る働きがあり、もしこの遺伝子が変異をおこしたら、適切に炎症を抑える事が出来なくなると考えられています。この病気に関係している分子機構の解明が進んでいるところです。但し、MEFV遺伝子変異が認められない場合もあります。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.nanbyou.or.jp%2Fentry%2F4447


その方のご祖先の家系をたどっていって、やはり同じような病気の記録が残っていたりするといよいよ、興味深いですね。

病気というのが、集団の移動拡散ルーツを探るファクターとなる可能性を感じます。こちらでも関連史料がないか探してみますね!



9478これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/12(土) 00:36:00
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

管理人さん過去投稿を再掲

「日本人のルーツさんの家系の遺伝子には、アジア以外の欧州系の遺伝子も見られるとのことで、その新漢人の家系と、なんらかの接点がないかどうかお尋ねしたいところです。ご先祖の出身地域が解れば、渡来系集団ならば、ある程度、私のほうでも割り出せるかもしれません・・・」。

ー福井と佐渡にルーツがあることは言いました。はよ割り出しておくれ!笑

↓以下、過去投稿引用。
日本人のルーツさんのご家系は、580年代に中国、朝鮮経緯で北陸方面へ渡来したとの結果になるのでしょうか。

奇しくも、それは、先述した新漢人等の渡来ルート推定に近いものがあります。年代はやや遡りますが、この集団は北朝の北燕の遺民で、北燕が滅んだ400年代から朝鮮へ数十万単位で流れ込み、各国とも対応に困っている記載がありました。

それでその一部が、500年代前半に、九州や、滋賀、北陸方面へと渡来・移住していった経緯を予想しています。そして彼らの首長が、北陸から出てくる継体天皇となったことを考えるわけですが、その新(いまき)漢人等は、当時最新の大陸系技術、中国文化に精通していたことから、後々まで遣隋・唐使に乗ってバイリンガル的な活躍を見せていく一方で、九州では豪族磐井のような新進気鋭の豪族となり、また関東では藤原氏の元となる那珂臣、中臣氏として勢力をつけていったようです。

それで、その九州の磐井は岩戸山古墳に残した石人文化にみられるように、かれらは北燕時代にシルクロード交易をして中国に出入りしていたゾグド人等と交流があったようで、また当時シルクロードで往来していたガラス・金銀装飾品などを、北燕や北魏王朝へともたらしていた集団の末裔にあたるようです。

それゆえ、5〜6世紀代の天皇陵や渡来系新漢人等の古墳から、それらの装飾品が出土するのですが、また同時期の新羅などの古墳からも、多数のガラス・金銀装飾品が出土しており、かれらがもたらしたものと個人的には考えています。こちらのサイトに、新羅の古墳から出土した金銀装飾遺物の写真が掲載されています。

その中には、ケルト黄金剣など、あきらかに東欧系と思われる意匠も多くみられ、それらの金属精錬技術が、北燕の甲冑制作技術などともにも、滋賀・北陸方面へと流れ込んだ形跡が見られますので、2世、3世といった形で、ゾグド人、また東欧系職人集団の子孫が、彼らに混じっていたことを予想しています。

その点で、日本人のルーツさんの家系の遺伝子には、アジア以外の欧州系の遺伝子も見られるとのことで、その新漢人の家系と、なんらかの接点がないかどうかお尋ねしたいところです。ご先祖の出身地域が解れば、渡来系集団ならば、ある程度、私のほうでも割り出せるかもしれません・・・。

9479これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/12(土) 00:41:13
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
管理人さんへのお返事です。


> 4. この病気の原因はわかっているのですか
> 家族性地中海熱はMEFV(familial Mediterranean fever gene)遺伝子と呼ばれる遺伝子の異常が関連しています。この遺伝子は炎症をおさえる蛋白質を作る働きがあり、もしこの遺伝子が変異をおこしたら、適切に炎症を抑える事が出来なくなると考えられています。この病気に関係している分子機構の解明が進んでいるところです。但し、MEFV遺伝子変異が認められない場合もあります。
> 病気というのが、集団の移動拡散ルーツを探るファクターとなる可能性を感じます。こちらでも関連史料がないか探してみますね!
>


難病なので分かってないと思いますが、地中海病とは言うものの、多いのは中東だそうです。

この彼女の闘病歴には涙が出ます。
日本では珍しいため最近まで「地中海病」だと診断が付かず、怠けてるだの仮病だの言われたそうだ。子供時代には「大人はみんな自分と同じ痛みを乗り越えた」と信じ、大人を尊敬していたという…


9480荊の紀氏:2019/10/12(土) 00:51:19
(無題)
> しかし、これだけ正確な測量ができた背景には、この旧石器時代人がかつて住んでいた地域に、そこそこの文明とでもいうべきものが成立しており、その末裔が日本列島へと渡ってきたということを想定すべきなのではないかと感じ始めています。
>
> その文明があった地域については、氷河期ですから、やはり赤道周辺の温暖な地域でしょう。スンダランド方面か中東・インド方面か・・。
氷河期…
中東地域に現れた最初の人間と考えられるケバラン人が姿を現すのがBC1万8000年頃。 それは、ヨ−ロッパの氷河期の最盛期に当たっていました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fplaza.rakuten.co.jp%2FPhoenix3%2Fdiary%2F201006160001%2F

BC1万1000年頃、地球的規模の寒気の揺り戻しがあり、旧モンゴロイドから新モンゴロイド誕生。
BC9500年頃、遊牧民のウラル・アルタイ語族【ツラン族】が、西シベリアのオビ河とイエニセイ河の上流域に発生し、後に、ツングース、蒙古、サモエード、フィノウグリア、チュルクの五族が生まれました。
BC3700年頃、バビロンのジクラットにいた、シュメール系エジプト族、インドに南下したシュメール系ドラヴィダ人、チュルク族が移動を始めこの4氏族の長である苗族とナーガ族が真っ先に移動を開始。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fplaza.rakuten.co.jp%2FPhoenix3%2Fdiary%2F200903280000%2F
エラム族は、インドのドラヴィダ族と共に、地中海からインダスに至る広範囲な地域を移動し、その一部はアルメノイドと混じりながらシュメール人となってBC3500年頃、古代ウバイド人(苗族)を征服し、バビロンの地に侵入しました。【史記】の伏犠氏は、この人々です。
シュメールの【ウル第一王朝】始まります。…

環状列石 シュメール人 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F1885
緯度 042°04′′ 経度 140°35′ 浜町(はまちょう) A遺跡縄文時代後期のストーン・ サークルや 甕棺墓 ( かめかんぼ ) など様々な形態の墓が発見されたことです。 函館市 (旧戸井町北緯41度46分 東経140度44分 大森勝山遺跡環状列石 ...
サークルストーンや遺跡など、世界中に残された20万を超える共通記号の秘密に迫る。 ...
甲骨文字、楔形文字など、人類は数多くの文字を使ってきた。しかし、1万年以上前、実は世界中で同じ文字が使われていた!?
サークルストーンや遺跡など、世界中に残された20万を超える共通記号の秘密に迫る。そして、その記号が日本では北九州に集中していることに注目。北九州に巨大文明が存在していたのではないか?沖ノ島にそれを裏付ける海底神殿の遺跡を発見。
なんと、そこには神を模したと思われる両性具有の2体の金属製の像が!緻密な造りで高度な製作技術を伺わせる謎の神像がスタジオで披露される!
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.tv-tokyo.co.jp%2Fnihonmystery2%2F

鷲ノ木5遺跡から出土した道内最大の環状列石(ストーンサークル)
緯度 42°04′′ 経度 140°35′

ユリゲラーの聖数11の関係性を考える /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F1848
甲骨文字、楔形文字など、人類は数多くの文字を使ってきた。しかし、1万年以上前、実は世界中で同じ文字が使われていた!?
サークルストーンや遺跡など、世界中に残された20万を超える共通記号の秘密に迫る。そして、その記号が日本では北九州に集中していることに注目。 北九州に巨大文明が存在していたのではないか?沖ノ島にそれを裏付ける海底神殿の遺跡を発見。
なんと、そこには神を模したと思われる両性具有の2体の金属製の像が! 緻密な造りで高度な製作技術を伺わせる謎の神像がスタジオで披露される!

4万年前に世界中で使用された「32の幾何学文字」が存在したと判明! データ分析でガチ判明、学者戦慄(最新研究)
世界各地の洞窟で、古代人が壁に刻んだ模様や図画は“ロック・アート”や“洞窟壁画”と呼ばれて歴史ミステリ―としての側面でも注目を集めているが、ある古人類学者は、はるか太古の我々の祖先が石や岩肌に刻んだ幾何学的な模様の中に、32の“世界共通文字”がある可能性を指摘している。世界最古の書き文字は全世界で通じる共通語なのかもしれないというのだ。
3万年もの間に描かれ続けた32の“幾何学記号” /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftocana.jp%2F2019%2F08%2Fpost_104546_entry.html

「人類発祥の地であるアフリカにこの(幾何学記号の)起源がある可能性はますます高まっています」(ペッツィンガー氏)
 幾何学記号は、話し言葉をそのまま示した表現ではなく、人々が身の回りで見たものを様式化した抽象的な表現であると考えられるという。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftocana.jp%2F2019%2F08%2Fpost_104546_entry_2.html


9481管理人:2019/10/12(土) 00:51:21
北海道の旧石器時代遺跡方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009994M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/旧石器時代の遺跡一覧#北海道・東北地方



9482荊の紀氏:2019/10/12(土) 02:03:11
2万年前…BC1万8000年頃…それは、ヨ−ロッパの氷河期の最盛期
> いずれにしても、この氷河期の極寒の世界で、少人数でこれだけの精度の測量ができたというのは驚きに値するとおもいますし、2万年前の旧石器時代ですからね、彼らがどこからきて何を考えて生活してたのかもっと知りたいところです。

BC1万8000年頃
中東地域に現れた最初の人間と考えられるケバラン人が姿を現すのがBC1万8000年頃。
ケバラン人から
テーマ:日本人のルーツ(515) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fplaza.rakuten.co.jp%2Fphoenix3%2Fdiary%2F201403090001%2F
ケバラン人
BC1万年より少し下がった頃、ケバラン人系譜のナトウフ人が、カルメル山の山麓から パレスチナのエリコの町にやって来ます。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fplaza.rakuten.co.jp%2FPhoenix3%2Fdiary%2F200903280000%2F

イベリア人【イベリアじん】
前6世紀ごろのイベリア半島の住民。白色人種群のうちの地中海人種に属す。後にケルト族,ゲルマン族と混血。現代スペイン人の人種的・文化的形成に重要な要素を占める。新石器〜鉄器時代にわたるアルメリア文化を残す。歴史的にみてバスク人と関連が深い。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F

アメン神の象徴は羊…??2019年10月12日(土)01時31分20秒 https://8906.teacup.com/toraijin/bbs
ローマのファウヌスや、ケルトのケルヌンノス…

クロマニョン人がゲルマン人、スラブ人、ケルト人イタリック人、イベリア人等になったのですかNo2です。
いまの有力な説では、人類はアフリカで進化してクロマニヨン人となり、10数万年〜数万年前にアフリカから中近東、ヨーロッパにわたって現生人類となったといわれています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Foshiete.goo.ne.jp%2Fqa%2F11040394.html
ですから、ゲルマン人、スラブ人、ケルト人、イタリック人、イベリア人はもちろん、黒人や黄色人種もすべてクロマニヨン人から進化しました。

ケルトっていうのは、ギリシア人が彼らのことを、「ケルトイ」(よそ者って意味)と呼んでいたことに由来するんだ。ローマ人は彼らのことを、「ガリ」と呼び、彼らの住む地を「ガリア」と呼んでいた。
最後の氷河期が終わって、ヨーロッパの原野に人が住めるようになると、いろんな民族がぼつぼつ移り住むようになって、その中にケルト人もいたらしい。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.script1.sakura.ne.jp%2Fessey_h%2Fe083.htm
いわゆる、インド・ヨーロッパ語族って人たち。

ケルトにおける狩猟と動物たちの神で、冥府神(死神)としての顔も持つ。角を持ち、角の形はメイン画像のような鹿角が代表的だが牛角であることもある。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fcall-of-history.com%2Farchives%2F20558


9483これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/12(土) 02:36:23
私は、前述のD4b2bの女性に敬意を表して、彼女のルーツを私と同じ「匈奴」に認定しようと思う!彼女のD4b2bは、AやGとは異なり、前匈奴には見られないが、匈奴で出て来る。地中海病は中東人由来なれど、彼女の我慢強い性格はまさに匈奴に由来するだろう!さらに
基本に立ち返ろう!

個体において、yDNAや核のゲノムより「ミトコンドリアDNA」の方が重要だというお話。
次いで、核ゲノム。yDNAは言語系統と親和性があるものの、3番手だ。

核DNAは細胞の中に2セットしか存在しないところ、mtDNAはひとつのミトコンドリアに複数個含まれる。
さらに、ミトコンドリア自体も1つの細胞に数百、心臓の筋肉細胞や肝臓のように大量のエネルギーが必要な細胞だと数千個も含まれている。なので、一個人の体の中には核のDNAより遙かに多くのコピーが存在している。体質や疾病にも関わるとされる。男女ともが持っているという点でも重要だ。

そこで、私は、前述のD4b2bの女性に敬意を表して、彼女のルーツを私と同じ「匈奴」に認定しようと思う!彼女のD4b2bは、AやGとは異なり、前匈奴には見られないが、匈奴で出て来る。地中海病は中東人由来なれど、彼女の我慢強い性格はまさに匈奴のミトコンドリアに由来する!
さらに、baGatur(英雄)の称号も授与したい。

以下、前匈奴・匈奴およびShirenzigou遺跡人の東ユーラシア系mtDNAハプログループを復習しよう。
ーーーーーーーーーーーーーーー
前匈奴および匈奴のmtDNA
1. 前匈奴の後期青銅器フブスグル人(〜紀元前1300年、西北モンゴル)では、D4j5、D4e1、A、【G3a】、G2aが出ている。20人中Cが7名で最多。
西ユーラシア系は1体のみである。
C(7/20)(C,C4a), D(5/20)(D4,D4j5,D4e1,D5a2a), A(2/20), G(2/20)(G3a,G2a), B5b1(1/20), F2a(1/20), U5(1/20), データなし(1/20)

D4j5とD4e1は、北アジアおよび新大陸に汎く出る。
・D4j5:イタリア、オーストリア、チェコ、ドイツ、イラン、ウイグル、クルグズ、内蒙古、ブリャート、
ユカギール、サハ、エヴェンキ、エヴェン。

・D4e1:D4e1aが東アジア、タイ、チベット・ビルマ。D2が中央アジア、アレウト、古代カナダ、チュクチ、シベリア・エスキモー、ユカギール等。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2. 匈奴
モンゴル西北部
(1) DA41, XiongNu, 紀元前350ー紀元前150年 (モンゴル西北部・フヴスグル県) mtDNA: 【G3a3】、Y-DNA: R1b(R-PH200 ?)
(2) 紀元前160年ー紀元前130年の匈奴で【D4b2b2b】が出ている。DA45, XiongNu, 紀元前160ー紀元前130 BCE (ウムヌゴビ県)、mtDNA: D4b2b2b
, Y-DNA: O3a3b2(O-P164〔O-M134の親〕)

・D4b2b2bはロシア。その親D4b2b2は中国 、姉妹が中国、日本、ブリャート、ロシア。D4b2b2a3は日本、D4b2b2a4は北東インド、トゥヴァ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
3. 鉄器時代Shirenzigou遺跡(トカラ語集団と匈奴の混血。新疆北東端、紀元前200年頃)
mtDNAで7割と支配的だったのは現代および古代の西ユーラシア人集団に一般的なものだったが、東ユーラシア由来のmtDNAも3割含む。東ユーラシア由来のmtDNAは、【G3b】, D4j1b ,A17が各1個体づつ。

・G3bはチベット系の型。
・D4j1bもチベット人やワンチョ人(北東インド北端・アルナチャル州)、ネパールにいることから、チベット・ビルマ系。その姉妹ハプロD4j1aもチベット・ビルマ系が独占している。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【まとめ】
こうして見ると、前匈奴・匈奴・Sirenzigouに共通して現れる東ユーラシアmtDNAは、M8(C)、G3、D4j、Aの4つということになる。本拠としては南シベリア〜西北モンゴル。

全ゲノム的には、前匈奴人はトゥヴァ人とアルタイ人に最も近く、次いでケット人と近い。トゥヴァ人については、GのうちG3aが40%を占めている。アルタイ共和国のカザフ人とブリャート人で50%。ハカス人およびブリャート共和国のエヴェンキ人で100%。G3においては、mtDNAと全ゲノムが一致する。

嗚呼、「DNA人類学」って、なんて良いんだろう、なんて素晴らしいいんだろう!!!笑

9484山田:2019/10/12(土) 12:48:50
←岩宿⇔後野
>ひたちなか市
 後野遺跡 北緯36度23’22”東経140°33′29″
>みどり市
 岩宿遺跡 北緯36度23’56”東経139°17′07″

浅間山火口外輪の南縁 N36度24分03秒 E138度31分08秒
上田城址公園 N36度24分16秒 E138度14分34秒
石川県小松市   N36度24分30秒 E136度26分45秒

上田城址公園の句碑
ひと恋し火とぼしころを桜ちる
   白雄 (自筆)
ふるさとや梅に柳にはなしあり
   白雄 揮毫者 矢羽勝幸

金澤 途中吟
あか/\と日は難面もあきの風
小松と云所にて
しほらしき名や小松吹萩すゝき
           「おくのほそ道」

・・
台風19号、岩宿⇔小保戸ライン南端あたり狙ってるかな?


9485荊の紀氏:2019/10/12(土) 15:19:08
匈奴はハプロで言うアメリカ先住民に多いQが多い。…
R1
ノース人とアイルランドケルト人の混血
サマーレッド・マクギレブリデ /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffamousdna.wiki.fc2.com%2Fwiki%2FY
ヴァイキングを討伐したスコットランドの英雄・サマーレッド・マクギレブリデ(Somerled MacGillebride, 1100-1164)のY染色体は、ハプログループR1a1a1b1a3a1a1(R-L176.1/S179.1)である(注1)(注2)(注3)。サマーレッドは、ノース人とアイルランドケルト人の混血として生まれ、スコットランド南西のアーガイル領の豪族であったが、1156年1月6日、マン島の領主でノルウェー王の配下のオラフ1世の率いるヴァイキングの軍勢をアイラ島北岸で打ち破り、当時、ヴァイキングに統治されていた、ヘブリディーズ諸島からヴァイキングを撤退させた(注4)。この功績によって、サマーレッドは、ヘブリディーズ諸島南部の島嶼(アイラ島、ジュラ島、マル島など)の領主となった。サマーレッドの孫、ドナルドの一族は、スコットランドの有力氏族として代々アイラ島を治め、「島嶼卿(ロード・オブ・ジ・アイルズ)」と称して繁栄した。サマーレッドの子孫はマクドナルド家、マクドゥーガル家、マカリスター家など、現在50万人を数える(注5)。アイラ島は、スコッチ・ウィスキーのアイラ・モルトの産地として名高く、マクドナルド家の末裔・マクドナルド兄弟は、アメリカ合衆国に本社を置く大手ハンバーガーチェーン店の創始者として著名である(注6)。
ノース人
ノース人という名称の由来は「北方からやってきた人々」で、彼らはフィンランドをはじめ、西はカナダやグリーンランド、東はウクライナやエストニアにまで進出し、各地でノース人の国を作った。特にスコットランドに渡ったノース人はケルト系民族と混合して、独自の氏族社会をつくった。フランスのノルマンディーは、ここに、フランス国王より土地を与えられたヴァイキングの呼称、ノルマン人に由来する。
ノース人は北ゲルマン語に属する古ノルド語を使っていた。古ノルド語は、のちにデンマーク語やアイスランド語、ノルウェー語、スウェーデン語へ分岐する。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

ヴァイキングが活躍していた時代、古ノルド語はスカンジナヴィアと海を隔てた植民地でノース人によって話されていた言葉です。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Forigine-mundi.xyz%2Fabout-old-norse-1%2F
古ノルド語
古ノルド語の"hallr"「平らな石」と北欧神話の男神トールから。 名前の意味はだいたい古ノルド語のもので書きましたが、ノルド祖語やゲルマン祖語まで遡れるものも多かくありました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fkajakas%2Fentry-12232426409.html
ゲルマン祖語
古ノルド語(こノルドご、 norrønt mál 、 英語: Old Norse,ON )とは、インド・ヨーロッパ語族 ゲルマン語派 北ゲルマン語群に属する言語である。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwpedia.goo.ne.jp%2Fwiki%2F
ゲルマン
色白、碧眼、大型化(北欧、ゲルマン人)が、ネアンデルタール人の影響であると、最近の研究で考えられているのだ。

ネアンデルタール人や北京原人と交雑
ハプログループCの親戚にあたるこのグループはフィン人、サーミ人、ロシア人、ハザーラ人などの北方で検出されるほか、朝鮮半島や日本人からも検出されます。https://遺伝子検査キット.com/mitocondrial-haplo/
進化の過程で当時存在していたネアンデルタール人や北京原人と交雑し、そのDNAが受け継がれたものもあります。
そのため様々な枝分かれを遂げ、ハプログループというものが生まれました。
もちろん日本人も様々なハプログループに分類され、日本人が該当するのはなんと12種類もあります。
mtDNAハプログループZは極北地域を中心にサーミ人、フィン人、シベリア、北東アジア、中央アジア、朝鮮、日本などで観察されており[3]、Y染色体ハプログループN1と同じような流れが想定され、ウラル語族の拡散との関連を示唆するものと考えられる。
ヘルシンキ大学法医学部は、北ユーラシアのフィン・ウゴル語系に対する集団遺伝学の研究を2002年から2008年にかけて実施した。その結果、フィン・ウゴル語系集団のほとんどが、西ユーラシアおよび東ユーラシアの遺伝子プール、遺伝的浮動、連続創始者効果の混合を有していることが明らかになった。北ユーラシアのフィン・ウゴル語系集団は南の集団よりも遺伝的に下のハプロタイプの多様性を示す異種群であることが判明した。北ユーラシアのフィン・ウゴル語系集団には、分子集団遺伝および北ユーラシアの北方、北極の領域への順応によって形作られた複雑な遺伝的変化により、固有の遺伝子的特徴がある[4]。

4万〜3万年前になると、ネアンデルタール人と現生人類はヨーロッパで共存していた。 ハプロ・グループMはアジアだけに、Nはアジアとヨーロッパにひろがった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fcyrus2%2Fentry-11380096260.html
エチオピア〜アラビア半島〜南アジア〜4万年以上前にはオーストラリアというルートが想定されている。
スンダランドからサフールランドに渡った。
サフル人(アボリジニとニューギニアの高地の人々)、マレーシア先住民、アンダマン諸島の人々が
最初に出アフリカを果たしたMグループの人々の直系と考えられている。
この時期は氷河期の海水面が低下した時期なので、当時の海岸線は海底に没している。
オーストラリアのQはMから、ニューギニアとオーストラリアのPはNから派生している。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fcyrus2%2Fentry-11380096260.html
M2はドラヴィダ語族に多い。
母系のミトコンドリアDNAだけで見ると、インドの人々の60%はMに属し、15%がN〜Rと派生したUに属する。
北方のスキタイの中でも、ヨーロッパ系の形態を持つ人骨からも東アジア系のDNAが検出されている。
(カザフスタンやアルタイ共和国での話。G,N9a,D,Fなど。M10は中妻と同じ配列だった)
Uは後からインドに入ったのではなく、出アフリカ直後に分岐して古くから存在している。
R7は分布の中心をインド東部に持ち、オーストロアジア集団の分布と重なる。
古くからインドにいると仮定しがちだが、考古学では稲作と共にインドに来たとされる。
Mは北方でなく南アジアを経由したグループ。
N、R、A、U、Y、B、Fはアーリア系からの派生なのだから、
スキタイ、月氏、真の漢人(単なる中国人という意味でなく)、真の韓人、新羅人、そして出雲人、倭人、ニギハヤヒ朝ヒノモトの東北人、あるいは 関東の中期(倭系)縄文人に追われて北上した古くからの縄文人 といった人々が考えられるわけです。
アーリア系からの派生…
インド・アーリア系(注1)シャーキャ族(注2)の尊者である ガウタマ・シッダールタ (注3)のY染色体は、 ハプログループR1a1a1b1a2 (R-S466/Z280)(注4)であると推定されている(注5)(注6)。
ハプログループR-S116

ケルト人に関連する遺伝子としてハプログループR-S116が挙げられる。 https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/5188

現在狭義におけるアーリア人は消滅したと考えられているが、「イラン」という国名自体ペルシア語で「アーリア人の国」を意味し、イラン最後の皇帝であるモハンマド・レザー・パフラヴィー(1979年にイラン革命による失脚で廃位)は自らの称号を「アーリア人の栄光」を意味する「アーリヤー・メヘル」に定めるなど、現在もペルシア人は自らをアーリア人であると自認する者が多い。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

古代の遊牧民、例えば鮮卑や契丹などは縄文人の末裔だった /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fshimonose9m%2Fentry-12519406748.html
? 日本語の起源(参考)、、、日本語は中国大陸で広く喋られていた。
? 契丹古伝によると、契丹や鮮卑など多くの非漢民族が殷人をルーツとして、古代中国大陸に活躍して原日本語を喋っていた(参考)
? 縄文人は中国大陸にも生活して、殷王朝を樹立して、漢字のルーツの甲骨文字を発明したが、秦などの末裔は結局のところ日本に渡来した

Y染色体ハプログループQ1a2系統
殷・帝辛紂王 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffamousdna.wiki.fc2.com%2Fwiki%2FY
古代中国・殷の末代王である帝辛紂王(在位:BC1075-BC1046)のY染色体は、ハプログループQ1a2(Q-M346)であると推定される(注1)(注2)。

Y染色体ハプログループR1a1系統 【スキタイ系】
シベリアで出土した北方アジアの騎馬遊牧民族・スキタイ人の男性ミイラ(約2,500年前)18体のY染色体を解析した結果、17体がヨーロッパ系のハプログループR1a1(R-M459)で、1体がアジア系のハプログループC(C-M130)に属することが明らかとなった(注1)(注2)。これらのミイラは、金髪碧眼で刺青の特徴があった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffamousdna.wiki.fc2.com%2Fwiki%2FY


9486荊の紀氏:2019/10/12(土) 15:46:35
アーリア人…
アーリア人は現代日本人に進化してきたのだ。(参考HP)
日本人の遺伝子はユダヤ系?ルーツや由来に関する海外の反応まとめ /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsoma-kaeru.com%2F8847%2F

アジアに限らずゲルマン人の南下やアーリア人の南下が起きている。万里の長城は紀元前214年に秦の始皇帝によって建設されたというが、これも匈奴のような北方の異民族の侵攻に対抗するためだ。
日本人の起源:ブリヤート人が日本の祖先なのか /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fhiroshi-kizaki.hatenablog.com%2Fentry%2F2017%2F09%2F19%2F125647
20万年前にアフリカで「新人」が発生し、ヒマラヤ山脈を北上したグループがさらに日本列島に流れてきたという。
Wiki(参考3)によると、Dタイプには、竹村健一や堀江貴文、Eタイプにはアインシュタインやオバマ、ヒットラー、ナポレオン、マンデラ、ライト兄弟が列挙されている。
日本人の起源は今後のDNAやRNA分析によって、もっと正確な系統がきっと究明されるだろう。正しい歴史観を持つことは日本人としてのアイデンティティを確立することにつながる。日本語とヘブライ語の共通点などの理由も明らかになるだろう。以前、国際会議に参加した時に、各国の代表者が国名のABC順に座った。東アジアからの参加者は日本だけだったので、Japanの隣に座ったJordanからの代表者に仲良くしてもらった。ゲルマン系とラテン系が喧々諤々に議論する様子を見ながら通信の標準化は実質的にこの欧米での議論がリードしているのだというのを痛感するとともにイスラエル系の人との遺伝子的な距離の近さを感じた。

インド・ヨーロッパ語族に属する人々は、紀元前2000年頃から大規模な移動を開始
ヒトラーはアーリア人こそが優越民族だと唱えましたがこのアーリア人というのは人種的にどういった人たちですか? アーリア人とは元々、中央アジアからイラン高原付近に住んでいた遊牧民族です。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq1224549022
アーリア人(Aryan)はユーラシア中央部を出自とし、主にインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派(アーリア語派)に属する言語を話す人々。 民族的にはアーリア民族、人種的にはコーカソイド(白人)である。
ヒトラーが想定していたのは、ゲルマンやアングロサクソンのようですね。インド北部やチベット辺りの民族をアーリア人の祖とみていたようです。
アーリア人の概念を否定する説も有力です。

ローマ人とラテン人の起源は、インド・ヨーロッパ語族に属するイタリック人のイタリア半島への移動と定住化に求めることができる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Finformation-station.xyz%2F3254.html
インド・ヨーロッパ語族とは、古くは、紀元前6000年頃に、黒海・カスピ海周辺の草原地帯(中央アジア西部から現在のウクライナのあたり)で農耕や牧畜、遊牧生活などを営んでいた人々を祖先とする語族(言語系統)であり、インド・ヨーロッパ語族に属する人々は、紀元前2000年頃から大規模な移動を開始し、ヨーロッパから、トルコ、イラン、インドへとわたる広大な地域において現在まで続くそれぞれの民族の祖先となっていきます。
彼らの内の一部は、アーリア人としてインドに侵入し、原住民であったドラヴィダ人を征服してカースト制(ヴァルナ・ジャーティ制)に基づく身分制度社会を形成し、別の一派は、小アジアやイラン高原へと南下してヒッタイト帝国やペルシア帝国を築いていくことになりますが、そのインド・ヨーロッパ語族の内で、西へ西へと進んでいった部族の一派が、イタリア半島へとたどり着くことになるのです。


9487管理人:2019/10/13(日) 00:12:33
Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)
これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>

> 難病なので分かってないと思いますが、地中海病とは言うものの、多いのは中東だそうです。
>
> この彼女の闘病歴には涙が出ます。
> 日本では珍しいため最近まで「地中海病」だと診断が付かず、怠けてるだの仮病だの言われたそうだ。子供時代には「大人はみんな自分と同じ痛みを乗り越えた」と信じ、大人を尊敬していたという…
>

そうですね、私の知り合いにも難病患者が数人いますが、遺伝病が多いようですね。その難病患者の当事者で遺伝病理にも詳しい知り合いが言うには、彼と同じ病気になる人はみんな同じ顏してることが多いらしく、同じ人種だ!と話していたのが印象的でした。

その病気が多い地域ではよく知られる病気も、遠く離れていると発見しづらいといったケースもあるのかもしれませんね。



9488管理人:2019/10/13(日) 00:15:39
Re: ←岩宿⇔後野
山田さんへのお返事です。

> 上田城址公園の句碑
> ひと恋し火とぼしころを桜ちる
>    白雄 (自筆)
> ふるさとや梅に柳にはなしあり
>    白雄 揮毫者 矢羽勝幸
>
> 金澤 途中吟
> あか/\と日は難面もあきの風
> 小松と云所にて
> しほらしき名や小松吹萩すゝき
>            「おくのほそ道」
>
> ・・
> 台風19号、岩宿⇔小保戸ライン南端あたり狙ってるかな?


今回は、群馬と神奈川の相模川沿いがひどいですね。これからの時間、多摩川・荒川・利根川・相模川などの下流域へ水が押し寄せるので注意が必要です。古代だとすでに氾濫してたんでしょうね。彼らはそういうところには、住まないようにしていたのかな・・。今夜も皆さん気をつけてお過ごしください。


9489これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/13(日) 00:57:13
訂正:写真2の童たちが本物のケット人です。 何のことはない普通の北方モンゴロイドですねw
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010002M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010002_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010002_3M.jpg

訂正

このちょっと濃い顔した人たち、南シベリアのケット人だと思ってたんですが、ケット人じゃなかったです。Ketって検索するとこれ出てきちゃうんですよ。インパクト強かったんで、つい。

で、これ、カフカスのダゲスタンだそうです・・・
お詫びして訂正(汗)。良く考えればシベリアにこんなの住んでません(汗)。

写真2の童たちが本物のケット人です。
何のことはない普通の北方モンゴロイドですねw
ケット人には新大陸に多いQ1a2が多いので、写真3(北米インディアン)のようなエキゾチックな感じかなとちょっと期待してたんですが・・・まー、写真3も典型的な米先住民じゃないですね。

私のmt-G3aも出た紀元前1300年以前の前匈奴人フブスグル人(西北モンゴル)のゲノムは、トゥヴァ人、アルタイ人、次いでケット人に近いのですが、フブスグル人は、西ユーラシア・ステップ人と余り混血せずに遊牧文化を受け入れたことも分かってるんで、エキゾチックな感じは期待できないでしょう。



9490これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ):2019/10/13(日) 00:59:06
Re: 訂正:写真2の童たちが本物のケット人です。 何のことはない普通の北方モンゴロイドですねw
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010003M.jpg

間違えた。
写真3はこれに置き換えて下さいw



9491荊の紀氏:2019/10/13(日) 09:52:19
富士を繞るストーンサークル…
Re: 富士を繞るストーンサークル 2019年10月13日(日)09時36分43秒 https://8628.teacup.com/toraijin/bbs
5万年前…
ミトコンドリアDNAの ハプログループF は、中央アジアで、約5万年前にハプログループRから分岐したと考えられている。
ミトコンドリアDNAハプログループF系統 【南方系・アスリート型】
ミトコンドリアDNAのハプログループFは、中央アジアで、約5万年前にハプログループRから分岐したと考えられている。それ以来、その分布は拡散して、東アジア、東南アジア、南マレー諸島、フィリピン、インドネシア、マレーシア、ニューギニア沿岸に広がった種類。特に東南アジアで顕著に見られる(注1)。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffamousdna.wiki.fc2.com%2Fwiki%2FmtDNA%2520F
青谷上寺地遺跡(鳥取県鳥取市青谷町青谷)から出土した弥生人(BC200〜AD200)の古人骨をDNA解析したところ、ミトコンドリアDNAを抽出できたものが10体あり、ハプログループD4が2体、D4*が4体で、ハプログループD4系統が計6体(60%)、ハプログループF*が1体、FまたはF2とみられるものが1体で、ハプログループF系統が計2体(20%)、ハプログループNが2体(20%)ということが明らかとなった(注1)。
琉球・尚寧王陵4号石棺の人骨のミトコンドリアDNAは、ハプログループFである(注1)。
明治天皇の高祖父で古今伝授伝承者、能書家・閑院宮典仁親王(諡号:慶光天皇, 1733-1794)のミトコンドリアDNAは、ハプログループF1bである。これは、同母妹にあたる倫子女王の遺体をDNA型鑑定した結果に基づくものである。慶光天皇の実母は、家女房の左衛門佐讃岐(伊藤一中娘)である(注1)(注2)。

約4〜5万年前…
ハプログループB
ハプログループBは先程のハプログループDについで2番目に大きい集団で、日本人の約15%がこのグループです。
約4〜5万年前にアジアで分岐し、新天地を求めて東南アジアへと広まっていきます。
大陸から離れた島々へも広く分布し、優れた航海技術を持っていたことが伺えます。
その凄さはハワイの先住民であるポリネシア人が証明しています。
このポリネシア人の約9割がこのハプログループBで、海を渡ってハワイ島へたどり着いたことが推察できます。
さらにアメリカの先住民からも検出されているので、アジアから太平洋を横断し、アメリカ大陸へたどり着いたことになります。
ハプログループM7
4〜5万年前に東中国で誕生したグループで、地殻変動で沈んだ「スンダランド」と呼ばれる陸地を起源としています。
氷河期に海の水が凍り、地続きになったことで台湾や、インドネシア、フィリピンに広がったと考えられています。
日本へは沖縄や北海道を通ったと考えられており、本州7%、北海道(アイヌ人)16%、沖縄23%の割合となっています。
このM7グループは日本以外では朝鮮半島周辺でしか確認されておらず、日本固有のグループという見解です。
ハプログループA
北アジアで3〜5万年前に誕生したグループです。
アジア地域では少数派で、シベリアや北アメリカでは過半数を占めています。
旧石器時代はシベリアなど極寒の地域でマンモスを主食とする優秀な狩猟民族だったのではないかと推察されています。
誕生場所として最も有力なのは生物進化の博物館とも称されるロシアのバイカル湖です。

古代イスラエルから日本へ
3度に渡ってたどり着いた /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnote.mu%2Fhirokaichi%2Fn%2Fn67d2310dce3e
・一度目日本人のルーツとなる縄文人が日本に定着。彼らは中近東から比較的早い段階で来たと思われる。人類のグレートジャーニーの動き、人種が別れたばかりのセム系直系の遺伝子的に色濃い人々が日本を目指して移動したことがわかる。

人類の起源地 4万7千年前 3千年前 2万年前 4万年前 4万-2万5千年前 7万-6万年前 ミトコンドリアDNAと考古学的な証拠から見た 人類の世界拡散の経路
[PDF]
DNAから見た日本人の起源 - 雲南懇話会-ホーム /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.yunnan-k.jp%2Fyunnan-k%2Fattachments%2Farticle%2F893%2F20160319-36-05-shinoda-slide.pdf

約5万年前に絶滅したデニソワ(Denisovan)人の姿は長らく謎のままだった。…


9492管理人:2019/10/13(日) 22:57:33
Re: 訂正:写真2の童たちが本物のケット人です。 何のことはない普通の北方モンゴロイドですねw
これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 間違えた。
> 写真3はこれに置き換えて下さいw

これがケットなら、ケットファンになっちゃうかも?

写真2をみると確かに北方モンゴロイドの影響が強そうですね!




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