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歴史掲示板
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Re: シュメール文明の少年事件について
秦野北斗さんへのお返事です。
古代メソポタミアにも教育パパや非行少年がいた!初めて文字を発明し、最初の都市社会に生きた人々の生活は、どのようなものだったのか?膨大な粘土板に刻まれた楔形文字を読み解き、自意識過剰の王様、赤ん坊に子守歌を作ったお妃、手強い敵を前にして王に泣きつく将軍、夫の家庭内暴力から逃れた妻など、人間くさい古代人の喜怒哀楽を浮き彫りにする。
五〇〇〇年前の日常 : シュメル人たちの物語 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fci.nii.ac.jp%2Fncid%2FBA81054600
小林登志子著
(新潮選書)
新潮社, 2007.2
タイトル別名
五〇〇〇年前の日常 : シュメル人たちの物語
5000年前の日常 : シュメル人たちの物語
タイトル読み
ゴセンネンマエ ノ ニチジョウ : シュメルジン タチ ノ モノガタリ
> 勉強中さんへのお返事です。
>
> > 大学のの授業で少年事件がシュメール社会に与えた影響についてとゆう課題が出ましたしかし調べましたが少年事件についての記事を見つけることは出来ませんでした。知っている方がいれば教えていただけたら幸いです
>
> シュメールの文献は在りません、シュメール語すごいですな。日本の古代でも少年が何歳か不明です。
> 力になれませんな、・・・
>
> シュメール人と日本人、 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DPWWHx51XOXs
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DZfowvrYqSH8
> youtubeに騙されないように・・・
>
> 日本の始まりは、史記から読み取れる。紀元前500年
>
> 中国文明が早いだろう・・・2000年
>
> ノアの洪水 紀元前2800年 エジプト文明 シュメール、アトランテス文明
>
>
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物部氏の東遷3
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011064M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011064_2M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011064_3M.png
https://ja.wikipedia.org/wiki/倭迹迹日百襲姫命
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夜麻登登母母曽毘売
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011065M.jpg
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_08.html
http://
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Re: シュメール文明の少年事件について
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011066M.jpg
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA81054600
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倭迹迹日百襲姫命
秦野さん、お返事ありがとうございます。ヤマトトトビモモソヒメの件ですが、オオヤマトとヤマトの相違が気になりますね。
ご紹介あった下記の文面で行くと、
孝霊天皇
大倭根子日子賦斗邇命、坐?田廬戸宮、治天下也。此天皇、娶十市縣主之?大目之女・名細比賣命、生御子、大倭根子日子國玖琉命。一柱。玖琉二字以音。又娶春日之千千速眞若比賣、生御子、千千速比賣命。一柱又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命、次日子刺肩別命、次比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命、次倭飛羽矢若屋比賣。四柱。又娶其阿禮比賣命之弟・蠅
春日之千千速眞若比賣の子が、千千速比賣命で、千千速を親子で継承してますよね。
同様に、意富夜麻登玖邇阿禮比賣命の子が、その夜麻登登母母曾毘賣命や倭飛羽矢若屋比賣で、倭・夜麻登を継承しているのですが、意富は子には受け継がれていない・・・・。その毘賣、比賣の相違は底本の相違によるもので、もとは同じでしょう。
夜麻登登母母曾毘賣命(ヤマト・ト・モモソ・ヒメ)と倭飛羽矢若屋比賣(ヤマト・トビヤ・ワカヤ・ヒメ)とが別系統の写本に記された同一人物だとすると、モモソヒメはトビつまりニギハヤヒの妻のトビヤヒメと同一とのことで、昨晩の推測のとおりになるわけです。
そういう意味では日本書紀の倭迹迹日百襲姫命(ヤマト・ト・トビ・モモソ・ヒメ)は上記の2者を融合したような名に仕上がっているといえますね。ト+トビ+モモソです。
この3者は同一人物なのですが、写本系統の相違で、異なる表記になったのではないでしょうか。
その原型はトビヤかモモソか・・・。
あと、母には大がつき、娘にはそれがつかないこと、子には若が付くことなども、大きいをもって親とか祖とか年長・権威者を意味し、若は若い=子の意味で名付けたと考えると理解しやすくなるでしょう。
その孝霊天皇ですが、『古事記』には大吉備津日子命と若建吉備津日子命による吉備平定が簡潔に書かれている。 蓬莱身山(ハラミ山)を富士山と名付けること、これが外来系を示すのではないでしょうか。
大と若の親子もしくは兄弟によって吉備を平定したのちに、畿内はと進出したのが正解ではないですかね。
この親子・兄弟の征伐伝承は、オオヒコと子のタケヌテガワワケのそれや、オオタラシヒコと子のヤマトタケルの話とも構造的に同じですね。神武と子の東征伝承も同じ構造で、これら3つはもとは一つの伝承だったのでしょう。
孝霊天皇と吉備津彦・桃太郎のそれですね、ある時期に吉備経由で畿内へと進出した集団の長を想起させますが、桃というのが、キーワードになりそうです。
また、蓬莱身山(ハラミ山)を富士山と名付けたというのは、徐福伝承などにみえる山海経にも記された当時の蓬莱観念の世界に、同じく山海経に北朝鮮の白頭山を示す不威山つまりフジサンの名称をもたらしていったと解釈すると、この集団は後漢時代に、楽浪郡あたりを経由して、吉備を経て、畿内に入り、最終的に東海の富士山あたりまで東征を行ったということなのではないでしょうか。中国的な観念をもともと有しているわけですね。
纒向遺跡で大量に見つかった桃の種の件は案外その中国的な観念に関係しているのではないでしょうか。
その中国の桃の観念については下記のサイトから引用しますね。
孫悟空のお話にも出てくる「西王母」という人物をご存じですか?
彼女は玉皇大帝(ぎょっこうたいてい)という道教の最高位の神様の奥さんであり、女神の中では最高位の神様で、長寿の神様なんです。
彼女は多くの伝説に名前を残しており、漢の武帝が天界で桃を賜った話や、西遊記のなかで孫悟空は西王母の桃を盗むなど、数えれば切りがないらしいです。
それだけ人気のある神様だというわけですね。
西王母を描いた絵にはたいてい桃が描かれており、古来中国では、桃は魔よけの力があるといわれ、仙人の杖に使われたり、お札に使われたりしてきましたが、崑崙山(中国古代の伝説上の山岳)には王母桃または蟠桃といわれる桃があるといわれていました。
(日本でも古事記で、イザナキノミコトが現世に帰ろうとする時に雷神に桃を投げつけ退散させることに成功し、桃にオホカムズミノミコトの名前が付いていますよね。)
この桃が不老長寿の桃なのです。
伝説に出てくるこの桃はとても小さく、銃の玉ほどの大きさしかないと言われています。
そして3000年に一度しか実らないのだそうです。
西王母が、この桃が実ったのをお祝いして「蟠桃宴」を開きます。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.kannonyama.com%2Fshopdetail%2F044000000002%2F
桃が魔除けであり、不老長寿の観念とも関わっているわけですが、西王母は三角縁神獣鏡に描かれているとおり、鏡作り職人にはよく知られた存在だったでしょう。当然に日本の鏡職人、おそらくは物部氏の祖も理解していたはずです。
蓬莱山自体が不老長寿の観念と結びついてますし、それを富士山と改めたというところにも中国・大陸的な要素が見て取れるわけです。
孝霊天皇の黒田庵戸宮のそばには鏡作神社があり、これが後漢の宮廷工房に対応する位置にあたるわけですね。
モモソヒメをあえて、古事記では、母母曽ヒメと記した背景にも、あるいは西王母の母を充てた可能性も考慮すべきかもしれません。
モモに百を用いた日本書紀とは違う見方をしているのかな?
ヤマト・ト・トビ・モモソ・ヒメ・・・、ニギハヤヒの妻のトビヤヒメからトビを継承したか、あるいはトビヤヒメ自身の名に、さらに上帝の妻であり最上級の女帝としての桃・モモの称号、西王母のそれを取り付けたようにも見えなくもないですね。
三輪山の大物主・三輪神の妻としての位置づけに書紀でされているのもわけがある。大物主の正体の蛇は後漢の外戚氏族の竇(トウ)氏の伝承では竇武の兄弟でしたよね。ここで後漢末期の外戚の伝承をかれらが持参して畿内へと進出していったことがわかるのですが、その際に吉備を通過しているわけですね。
竇の字は、穴+士+四+貝 で、大国主=大穴牟遅=オオ・アナ・ム・ジの穴、シ音、貝に助けられる伝承と関わってくるはずで、昨晩も指摘した箸墓の古墳軸が向いている穴師兵主神社の穴師(アナシ)にかかるわけです。大物主ですね。
後漢末の党錮の禁(176年まで)でその外戚氏族の竇氏は権力を失い追放の憂き目にあうわけです。そののち、縁故を頼って、楽浪郡へ向かい、さらに出雲・吉備経由で畿内へと進出。そこで黒田庵戸宮や鏡作神社といった後漢の洛陽城を模した都を造っていったのだろうと予想します。
岡山の楯築墳丘墓あたりにその名残があるのもそのせいでしょう。
その党錮の禁で敗れた竇武ですが、その娘が竇 妙(とう みょう、? - 172年)は、後漢の桓帝の3番目の皇后で、のちに皇太后となるわけです。
竇武についてはこちらのウィキを参照ください。
後漢の頃、定襄郡の太守竇奉の妻が武(竇武)という男児を産んだとき、一緒に蛇を一匹産んだ。奉(竇奉)はその蛇を野原へ持って行って放した。その後、武は成長して、天下に名の聞こえた人物となった。やがて母が死に、これから埋葬をしようというとき、弔問客がたくさん集まっているところへ、草むらの中から1匹の大蛇が出て来た。そして一目散に棺のところまで来ると、そこにうずくまって天を仰いだりうなだれたりした上、頭を棺に打ちつけて血涙を流し、いかにも悲しみに耐えないという様子であったが、やがて立ち去った。当時の人々は、これは竇家の栄える印だと考えたのであった
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E7%25AB%2587%25E6%25AD%25A6
竇奉の子が武なのですが、ここで親・奉(ホウ)と子・武の構造が出てきます。先のオオヒコと子の武ヌテガワワケ、あるいはオオタラシヒコ(景行天皇)とヤマトタケル(倭武)の親子の構造と比較すると、奉(ホウ)をオオとみなせれば、その子が武になるのも、それと関係するでしょうか・・・。大国主のオオも同じですね。
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Re: 倭迹迹日百襲姫命
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011068M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/水戸黄門
http://
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>ハラミ山
>蓬莱身山(ハラミ山)を富士山と名付けること、
これってどこの典拠でしょう?
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Re: >ハラミ山
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011070M.jpg
山田さんへのお返事です。
> >蓬莱身山(ハラミ山)を富士山と名付けること、
>
> これってどこの典拠でしょう?
『孫権伝』二三〇年、求蓬萊神山及仙藥の蓬萊神山を蓬莱身山(ハラミ山)誤転記&誤読だろう・・・
古代読みは、蓬萊神山(ブ、ライ、ジン、セン)富士山(フ、ジ、セン)共通点ありですな、
典拠: 徹底解説 ホツマツタヱ講座 注、自信はないが、このサイトだろう、
https://gejirin.com/index.html
https://gejirin.com/src/Ha/harami.html
>蓬莱身山(ハラミ山)を富士山と名付けること、典拠、見つけられず
『孫権伝』二三〇年
二年春正月,魏作合肥新城。詔立都講祭酒,以教學諸子。遣將軍衛?、諸葛直將甲士萬人,浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中,長老傳言:秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民。時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在?遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還
夷洲及亶洲:夷洲は阿蘇山、亶洲(泉州)は堺県:堺、奈良 蓬萊神山は富士山になる。
堺県(さかいけん)は、明治元年(1868年)に和泉国(現・大阪府南西部)の旧幕府領・旗本領を管轄するために設置された県。 のちに和泉国、河内国(現・大阪府東部)、大和国(現・奈良県)のそれぞれ全域を管轄した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E7%9C%8C#:~:text=%E5%A0%BA%E7%9C%8C%EF%BC%88%E3%81%95%E3%81%8B%E3%81%84%E3%81%91%E3%82%93%EF%BC%89%E3%81%AF,%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%9E%E3%82%8C%E5%85%A8%E5%9F%9F%E3%82%92%E7%AE%A1%E8%BD%84%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
?
http://
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Re: >ハラミ山
山田さんへのお返事です。
> >蓬莱身山(ハラミ山)を富士山と名付けること、
>
> これってどこの典拠でしょう?
典拠ないですね・・・
調べていくうちに興味深いサイトを見つけました。
記紀系譜で詳細が記されてない人物についても、地方伝承にその詳細が描かれていることがあるようですね。推定年代も含めて参考になります。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmb1527.thick.jp%2FN3-16-9koureiensei.html
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Re: >ハラミ山
管理人さんへのお返事です。
> 山田さんへのお返事です。
>
> > >蓬莱身山(ハラミ山)を富士山と名付けること、
> >
> > これってどこの典拠でしょう?
>
> 典拠ないですね・・・
>
一応、ホツマツタヱみたいです。訳がいくつかあって、孝霊は富士山に登ったとあります。
> 調べていくうちに興味深いサイトを見つけました。
>
> 記紀系譜で詳細が記されてない人物についても、地方伝承にその詳細が描かれていることがあるようですね。推定年代も含めて参考になります。
>
>
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmb1527.thick.jp%2FN3-16-9koureiensei.html
こちらのサイトは、孝霊の出雲遍歴は私も初耳です。
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欠史天皇宮ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011073M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011073_2M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011073_3M.png
https://blog.goo.ne.jp/fineblue7966/e/8a902b18a88e33c0368dca7c7b08894a
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安寧天皇の陵はどちら
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011074_2M.jpg
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_04.html
http://
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欠史天皇宮+陵墓ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011075M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011075_2M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011075_3M.png
秦野さん、お返事ありがとうございます。ご指摘の安寧天皇陵の位置など含めて、欠史天皇陵についても考えなおす必要がありますね。過去に少し欠史天皇の宮と陵墓のラインを作成したことがあるのですが、すでにあれから7年たちますから、ここで再考してみたいところです。
図1は、先日お知らせした欠史・初期の天皇の宮を結ぶ方位ラインとともに、その陵墓を加えたラインになります。図2はその拡大図です。
こう見ると、欠史・初期天皇陵と欠史・初期天皇の宮とがライン面でダイレクトに結合していることがわかりますね。
特に起点として重要になってくるのが孝霊天皇陵、神武天皇の橿原宮、三輪山、開化天皇の率川宮です。
まず、孝霊天皇陵から伸びるラインについて考えていくと、孝霊天皇陵⇔孝霊天皇の黒田庵戸宮⇔三輪山のラインがあり、このラインは図のようにまた、開化天皇の率川宮⇔黒田庵戸宮⇔安寧天皇の片塩浮孔宮⇔綏靖天皇の葛城高岡宮を結ぶラインと直交します。
また孝霊天皇陵⇔神武天皇陵⇔孝元天皇陵があり、さらに孝霊天皇陵⇔橿原宮へのラインは三輪山⇔橿原宮⇔孝昭天皇陵のラインと直交しています。
あと、孝霊天皇陵⇔孝昭天皇陵⇔孝安天皇の室秋津宮を結ぶラインがありますね。
なお孝霊天皇陵⇔黒田庵戸宮⇔三輪山へのライン上に纏向古墳群の矢塚古墳が載ることに留意しておきましょう。
次に図2の神武天皇の橿原宮関連のラインを見ていきたいと思いますが、まず橿原宮⇔安寧天皇陵⇔安寧天皇の片塩浮孔宮へと伸びる20度偏角のラインがあり、また橿原宮⇔神武天皇陵⇔綏靖天皇陵⇔開化天皇の率川宮へと至る10度偏角のラインがあります。ここで綏靖天皇陵の位置が少しずれてますが、これは図のようにもう少し西に是正すべきでしょう。
その綏靖天皇陵⇔片塩浮孔宮の東西ラインがありますから、これも本来の位置を推定する目安となります。
同様に橿原宮⇔懿徳天皇陵を結ぶ東西ラインがあり、関連して片塩浮孔宮⇔懿徳天皇陵⇔孝元天皇陵へと伸びるラインも確認できます。
そして先ほどの三輪山⇔橿原宮⇔孝昭天皇陵を結ぶラインに加えて、また垂仁天皇の纏向珠城宮⇔箸墓古墳⇔橿原宮⇔孝昭天皇の掖上池心宮⇔孝安天皇の室秋津宮:宮山古墳へと至る50度偏角のラインもあります。
ここで箸墓古墳が見えてくる点が重要で、年代推定に役立つかもしれません。
さらに図2でいくと、懿徳天皇の軽曲峡宮:牟佐神社にかかわるラインも多く見え、軽曲峡宮⇔孝安天皇陵⇔掖上池心宮⇔葛城高岡宮へと伸びる30度偏角のラインがあり、また軽曲峡宮⇔孝元天皇陵⇔三輪山へと伸びる45度偏角のラインもあります。このラインは同じく軽曲峡宮⇔懿徳天皇陵へのラインと直角になっていることもわかります。
そこで最後に開化天皇の率川宮に関するラインを図1で見ていきたいと思いますが、まず化天皇の率川宮⇔黒田庵戸宮⇔安寧天皇の片塩浮孔宮⇔綏靖天皇の葛城高岡宮を結ぶ20度偏角のラインは前述したとおりで、また同じく10度偏角の橿原宮⇔神武天皇陵⇔綏靖天皇陵⇔開化天皇の率川宮のラインも前述したとおりです。ここで10度、20度と半角の関係が見て取れますね。
そして、率川宮⇔垂仁天皇の纏向珠城宮⇔崇神天皇の磯城瑞 宮へと至る10度偏角のラインも先日お知らせしたとおりです。
さらに図のように、率川宮⇔石上神宮外苑公園:古墳状地形⇔三輪山のラインも見え、ここで物部氏・饒速日・台与?のラインとの接点が見えてきそうです。
なお、孝霊天皇陵と開化天皇の率川宮は40度偏角となり、孝霊天皇の黒田庵戸宮との3点で直角三角形を構成するわけですが、この3点+三輪山が橿原宮を含めた各遺跡の相対的な位置関係を決定づけているようにも感じます。絶対的な指標はまず三輪山ですね。それに加えて孝霊天皇陵と橿原宮が生じてくる。
年代的にはそれより新しくなってから、崇神天皇の磯城瑞籬宮⇔景行天皇の纏向日代宮⇔成務天皇の志賀高穴穂宮へと至る南北ラインが生じていったように見えますね。
あわせて、石上神宮外苑公園⇔崇神天皇陵⇔景行天皇陵⇔纏向珠城宮へと至る南北ラインとがそれに並行する形で造営されていったのではないでしょうか。
崇神天皇の磯城瑞籬宮の位置がもう少し北だったとすれば、三輪山⇔橿原宮ラインを意識して設置されたようにも見えるでしょう。
それで、これらのラインが構築された年代をどこにもってくるかが最終課題となるわけですが、これらのラインと関連してくる宮山古墳や牟佐神社、玉手遺跡、珠城山古墳群あたりは5世紀代、渡来人や屯倉制度の時代あたりまでくだりそうな感じですが、ただ、黒田庵戸宮、橿原宮、孝霊天皇陵あたりは、もっと古い可能性があるでしょう。纏向矢塚古墳や箸墓古墳、布留遺跡あたりの年代まで遡る可能性があるかもしれません。
関連して図3の孝元天皇陵あたりは周濠の池も含めてよく当時の原型を残していますが、測量図をみると前方後円墳ではないように見えますね。
孝安天皇陵も同様に楕円形で、孝霊天皇陵も同様に変形した楕円形の丘陵となり、先日、高地性集落とのラインで解析した石上神宮外苑公園の古墳状地形とよく似ています。
これらは九州の弥生遺跡のマウンドや高地性集落のその形状、初期の纏向型前方後円墳の左右不均等な前方部、いびつな突出部を持つ後円部のそれに似ているように感じますが、その辺はまた後日、各天皇陵の測量図などを比較しながら、あきらかにしていきましょう。
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記紀の地名は同一の場所
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011076M.jpg
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_04.html
http://
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欠史天皇宮・陵墓比較図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011077M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011077_2M.png
秦野さん、お返事ありがとうございます。安寧天皇陵の位置は畝山周辺のようですね。位置的には昨晩の図のようにライン面でも綏靖天皇陵の真西に位置し、橿原宮とも関連づけられています。
それでそれらの欠史天皇陵や宮がいつ頃造営されたのかを検証するために、その天皇陵を比較したものが図1です。ここでは測量図と3D写真を載せてます。
図1をみると、まず上からいくと孝元天皇陵は楕円形の後円部に左右不均等な前方部が接続したような形状で、これは九州の津古生掛古墳などにみえるような初期の前方後円墳の特徴に似ている気がします。周壕の形も後代の前方後円墳のような撥型ではなく、尻すぼみになっていますね。
次の孝安天皇陵は双方中円墳のように見えますね。岡山の楯築墳丘墓や櫛山古墳のような形状のようにもみえます。日向の笠置山墳丘墓とも同類の形状でしょう。
次の孝霊天皇陵は前方部が半分住宅街と化してますが、小さな前方部がつく初期の纏向型前方後円墳のような形をしてますね。
次の孝昭天皇陵も同様に円墳に近いですが、小さな前方部があったのではないかと感じます。
次の安寧天皇陵と懿徳天皇陵は双方後代の前方後円墳のように見えますが、ただ懿徳天皇陵の周壕の位置をみると、もっと前方部が短かったものを後代伸ばしたようにもみえるんですね。安寧天皇陵も同様な構造でしょうか。
そのほか神武天皇陵と綏靖天皇陵はすでに丘陵部分がなくなっているようで、道路や川も残ってないので、元の形状が確認できない感じです。この二つは位置的にややズレがあるのは昨晩指摘したとおりです。
次に図2の欠史天皇宮(推測地含む)にある丘陵の測量図と3D写真ですが、まず崇神天皇の磯城瑞牆宮付近ですが、ライン的には現在の推定値より北の神坐日向神社付近に宮地があったのではないかと予想しうることがありました。
それで現在の推定地からその神坐日向神社までの地形を地図と航空写真でみていくと、図のように纏向古墳に似た前方後円墳が存在していたことがわかります。ちょうど志貴御縣坐神社が前方部に載る形になり、神坐日向神社が後円部の上部をかすめています。
直径にして270m前後でこれも箸墓と同サイズです。この古墳状地形と箸墓は50度偏角のラインで接合しますが、この件の詳細は後日に回しましょう。
また次の纏向珠城宮と考えた珠城山古墳群周辺ですが、この古墳群自体が図のように前述した孝安天皇陵や櫛山古墳と同様な双方中円墳ではないかと感じます。
直径にして孝安天皇陵や櫛山古墳と同様な150m、周囲の池が元は周壕だったのではないでしょうか。後代、渡来人がその上に群衆墳を造営したのでしょうね。ということはこの墳丘墓の造営は5世紀代よりずっと古いことになるでしょう。孝安天皇陵⇔珠城山古墳群は50度偏角で距離が13.6?。50度偏角は先の箸墓と崇神宮との関連でも見えてきて留意しておきたいところです。
あと、軽曲狭宮と推定した牟佐坐神社周辺ですが、ここも図のように楕円形の墳丘がありますね。
このようにみていくと、これらの欠史天皇陵や宮の造営は、弥生時代末期の高地性集落や楯築墳丘墓の時代から、初期の纏向型前方後円墳が出てくる時代にあり、その後、箸墓古墳のような撥型に開いた前方後円墳が崇神の宮とかかわりながら三輪山周辺に造営されていったのではないでしょうか。
そして、さらにある時期に渡来人がその周辺に住み着き、群衆墳を造営していったり屯倉といった天皇の宮地の管理に携わったので、珠城山古墳群や宮山古墳、牟佐坐神社(屯倉)といったあたりに渡来人の影響が見えてくるのではないかと予想します。
もともとはこれらも上記の欠史天皇時代からの天皇家の所領だったんでしょうね。
こういうことから、欠史天皇陵と宮は弥生時代末期にまで遡るかなり古いものであった可能性が見えてくるのですが、その年代が実際にいつ頃だったのかについて、またどこから最初の集団がやってきたのかについても、これから少し考えていきましょう。
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Re: 欠史天皇宮・陵墓比較図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011078M.jpg
管理人さんへのお返事です。
> 秦野さん、お返事ありがとうございます。安寧天皇陵の位置は畝山周辺のようですね。位置的には昨晩の図のようにライン面でも綏靖天皇陵の真西に位置し、橿原宮とも関連づけられています。
>
泰始二年に、墳丘は円丘・方丘の2種類ある、円丘は円墳、方丘は前方後円墳になる。
この文章は卑弥呼が埋葬した方丘、埋葬古墳になる、円墳は卑弥呼のもの。図添付
管理人さんへ 欠史天皇陵は全て、方丘(前方後円墳)で卑弥呼からになる。
前方後円墳は今なら軍の慰霊碑。
中国史籍
泰始二年十一月己卯、倭人来献宝物。并円丘・方丘於南北郊、二至之祀合於二郊
意訳、二六六年十一月己(み)卯(う)に倭人が宝物を奉納する。云う、円墳、前方後円墳は南北の効(こう)に至る、東、西の二効を併せ、円丘壇(オタカ古墳)で郊祀(こうし)する。
泰始二年(二六六年)戦死者の冥福を祈った祭殿(箸墓)を、円丘壇(オタカ古墳)に移し、卑弥呼の耳成山(円墳)、王都天地(東西南北の効)を加え祀った模様。詳細は不明。
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孝霊天皇陵・纏向珠城宮ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011079M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011079_2M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011079_3M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/茶臼山古墳_(大阪市)
-
小治田宮
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011080M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011080_2M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=DMDfjs-iGqg
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奈良都城区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011081M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011081_2M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/中山大塚古墳
http://
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堺県
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011082M.jpg
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_02.html
http://
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三角測量と都城区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011083M.png
https://ja.wikipedia.org/wiki/三角測量
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Re: 三角測量と都城区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011085_2M.jpg
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm
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倭人伝の官職・称号
秦野北斗さんへのお返事です。
>
> 魏志倭人伝
>
> 南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
> 「南、投馬国に至る。水行二十日。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。五万余戸ばかり。」
>
秦野さん、お返事ありがとうございます!
いよいよ魏志倭人伝ですな・・
ミミは、神八井耳などの耳で、日向系の集団の称号だと言われてますね。
耳の後にナリがつくと副官の称号になる。
つまり、ナリが副とか二番目とかいう意味の方言なり言語をもつ地域を探せばいいわけですよね。
これは邪馬台国の官職にもいえるかもしれません。
官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]、
つまり、長官がイチマ、次官がミマ+ショウ、その次がミマ+ワクキ、次がヌ+カダイ
イチマとミマの間には、イチ、ミマ +馬(マ)とも分解できそうです。
このイチは、伊都国のイトだとおもうんですね。ここに一大率がいましたし。イチダイですね。 ヌカダイともかかわっていて、ダイが長官の称号なんでしょう。高句麗の長官職にもみえるなどでもみえる大と関係するか・・。
ミマは、ミマキイリヒコのミマであり、物部系の三間君や水沼県主のミマ、ミヌマとみてよいでしょう。筑紫川沿いの御井郡あたりに本拠地があります。のちにニギハヤヒとして東遷する。
ミマのマが、イチマ同様に何らかの称号なのでしょう。
ミマキイリヒコのミマキは、上記のミマワクキじゃないですかね。
三間君のミマとワクキがワケだとすると、ミマワケ、ミマ別といった名が文献にみえてくるかもしれません。ミマワケでミワになる。三輪山のミワですね。
ショウは難升米のショウですね。ナンショウのマイと訳してますが、ミマショウのマイだった可能性はないですかね。
M/n音で語頭音は共通する。
似たような皇族としては、豊城イリヒコ・ヒメがいて、豊鍬(トヨスキ)とも記されてますね。
あと、大彦の息子ともいわれる武渟川別(たけぬなかわわけ)、ここでワケが出てくるのですが、ヒコの子・下位の称号として、ワケがでてくるように見えます。
武(タケ)は装飾語として抜かして、ヌナカワワケ、これがもしかすると、上記のヌカダイと関係しないでしょうか。
建沼河別命(タケヌマカワワケ)とも記されていて、ヌナカワ、ヌマカワですね。
このオオヒコ、ヌナカワワケは神武親子とも関係していて、日向系・航海民の可能性があるのですが、その子孫の阿部氏は後代まで航海にたけてましたからね。
それで、先の日向とみなす投馬国の長官ミミですが、これが上記の邪馬台国の次官のミマと関係しないでしょうか。
次官のミミ+ナリは、ミマキイリヒコのイリと関係しないかな?
ただ、ナリとイリを一緒にできるかどうかですが、ナリ、ニリといった具合で、ナ→ニへの変換を適用できないか・・。
つまり、ミマがミミへと変換する背景に、マ⇔ミへのa⇔iの方言があって、それゆえに、ナリもイリ・ニリへと相互変換がおこっていたとか・・・。
ナリがニリだったとすると、二番目のニ音と関係するでしょうか。
邪馬台国の官職でいけばイチマのイチは一、ミマのミは三・・。
伊都国の長官・爾支(ニギ)はニギで二・・・、これがニギハヤヒなりニニギのニギになったか。。。
伊都国の一大率のイチ+ダイも、一番目の大=長官の意味にも取れますね。
率は中国系の官職の率でしょう。
邪馬台国のヌカダイは、ヌカの大=長官。
ヌカは、邪馬台国諸国につく奴(ヌ)のことで、カがそれをまとめるかなにかの意味なのか・・・。後代になって、ヌカをヌマカワとしたりヌナカワとして沼川などを当て字として記していったのでは。
加をつけて長の称号とするのは、朝鮮にあったような気がしますね。
牛加とか、扶余系の称号ですね。ウィキに下記のようにあります。
官職の名称はすべて六畜の名でよんでおり、馬加・牛加・豬加・狗加の諸加があり、諸加はそれぞれ四出道を守り、勢力の大きな者は数千家、勢力の小さな者は数百家を支配していた。諸加の下には大使・大使者・使者の諸使がある
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A4%25AB%25E4%25BD%2599
倭人伝諸国にみえる〜奴国の奴は四道の意味で、その奴加の長官=大が、邪馬台国4番目の官職のヌカダイとかんがえると納得いくでしょう。
その大使者につく大も長とか統率者の意味ですね。これが一大率の大でもあり、率の中国官職の由来は、扶余・楽浪郡あたりにあると考えればよいのでしょう。
ある時期にそれらの官職が朝鮮南部を経由して九州へと伝わっていったわけですね。
扶余の習俗と倭人のそれとには相関性があるのですが、この件についても倭人伝から考えなおしていきましょう。
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無題
諸君の投稿のどこに、私の権利を守り、私への思いやりや温かみなどが示されているのかな?
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Re: 無題
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011088M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=kk3vSbey72Q
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Re: 無題
秦野北斗さんへのお返事です。
> 福永晋三さんへのお返事です。
>
>
福永さん、秦野さん、いつもお世話様です、わかちあいありがとうございます!
ちょっと道東に外出中で詳しいことは対応できませんが、また週末には戻ります。
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新北海道縄文ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011090M.png
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウポポイ
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白村江(はくすきえ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011091M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=I0IVENJ5iTE
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新北海道縄文ライン2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011092M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011092_2M.png
https://ja.wikipedia.org/wiki/北海道神宮#cite_ref-ise-p118_6-2
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藤ノ木古墳
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011093_2M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=y5dMmfnz6o4
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集歌210
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https://www.youtube.com/watch?v=y5dMmfnz6o4
http://
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都道府県
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011095M.jpg
天智天皇の命令で、北海道、東北地方に領地を広げたのはこの頃になる。当時の区割り方法に興味がある、
区割り方法は道に成っている模様、都道府県の道ですな、現在の都道府県とは違うようだ。
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箸墓・天河神社ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011096M.png
https://ja.wikipedia.org/wiki/天河大弁財天社
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和多津美神社(対馬)彦火火出見尊(神武)→天河神社ライン
対馬に存在する数多くの式内社の中でも、圧倒的な存在感を誇るのが、仁位の和多津美神社と木坂の海神神社です。その風格と歴史の重み、美しい境内のレイアウトは、訪れる人を魅了します。和多津美神社は「ワタツミノ」と呼ばれ、837年に授位されて以来、国史にはすべて「和多津美神」と記載されているとおりです。また、対州神社誌(1685年)には、和多津美神社は「渡海宮」と記されており、中世からは頻繁に「渡海」と記載されていることから、「ワタツミ」とも呼ばれていたことがわかります
対馬の神々が証する古代海路とイスラエルのルーツを解明 ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.historyjp.com%2Farticle.asp%3Fkiji%3D148
対馬に存在する数多くの式内社の中でも、圧倒的な存在感を誇るのが、仁位の和多津美神社と木坂の海神神社です。その風格と歴史の重み、美しい境内のレイアウトは、訪れる人を魅了します。和多津美神社は「ワタツミノ」と呼ばれ、837年に授位されて以来、国史にはすべて「和多津美神」と記載されているとおりです。また、対州神社誌(1685年)には、和多津美神社は「渡海宮」と記されており、中世からは頻繁に「渡海」と記載されていることから、「ワタツミ」とも呼ばれていたことがわかります
対馬の神々が証する古代海路とイスラエルのルーツを解明 ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.historyjp.com%2Farticle.asp%3Fkiji%3D148
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Re: 和多津美神社(対馬)彦火火出見尊(神武)→天河神社ライン
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ワタツミ
http://
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伊勢国 采女(うねめ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011099_2M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=hdJVU-xE-TA
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大和郷ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011100M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011100_2M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011100_3M.png
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/yasumotosetu3.htm
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華夏、夷洲、符(わりふ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011101M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=0_5FI4J613M
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華夏・・・蛇目(カカメ)→鏡(カガミ)
華夏・・・カカ 見・・・巳
蛇目(カカメ)→鏡(カガミ) 蛇身(カカミ)→かがみ(蔓状植物
蛇信仰蛇の語の変化蛇目(カカメ)→鏡(カガミ) 蛇身(カカミ)→かがみ(蔓状植物) ... その鏡の裏に現わされてあつた ものがはじめは模様とのみ見られたが それは模様に あらずして 驚くべし,ヘブル語で ある事が 明 ( あきら ) かになつた。
世界史掲示板??投稿日:2014年 4月 7日(月)09時25分4秒
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Re: 華夏・・・蛇目(カカメ)→鏡(カガミ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011103M.jpg
ワープさんへのお返事です。
蛇信仰蛇の訳は(み、まこと、おおせ、み)になる、蛇は御家(みけ)
現代訳:御家は誠である仰せ(お言葉)は御家
ワープさん、頭がワープしてますな、
> 華夏・・・カカ 見・・・巳
> 蛇目(カカメ)→鏡(カガミ) 蛇身(カカミ)→かがみ(蔓状植物
> 蛇信仰蛇の語の変化蛇目(カカメ)→鏡(カガミ) 蛇身(カカミ)→かがみ(蔓状植物) ... その鏡の裏に現わされてあつた ものがはじめは模様とのみ見られたが それは模様に あらずして 驚くべし,ヘブル語で ある事が 明 ( あきら ) かになつた。
> 世界史掲示板??投稿日:2014年 4月 7日(月)09時25分4秒
>
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九州・夜須町ライン
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秦野さん、ワープさん、わかちあいありがとうございます・・・。
蛇神信仰といえば、やはり三輪の大物主の話ですよね。
先日の続きで、安本氏が指摘する大和郷と夜須町周辺の地名の相関性について、今回はその九州の地名を結んだラインを作成してみました。
図1、図2、図3へと夜須町周辺へと拡大していきます。
まず図1をみていくと、笠置山を中心として、平群郷(飯森山・吉武遺跡そば)⇔墨江神社(住吉神社)⇔笠置山⇔田原へと伸びる30度偏角のラインがあります。
また、春日(岡本遺跡)⇔笠置山⇔山田へと伸びる45度偏角のラインがあり、さらに笠置山⇔平塚川添遺跡への南北ラインも見て取れますね。その南北ラインそばに、以前指摘した伊川の古墳状地形も載ってきます。
その平塚川添遺跡については、図のように吉野ケ里遺跡⇔平塚川添遺跡⇔鳥屋山へと伸びる20度偏角のラインがありますね。
また御笠山については、平群郷⇔岡本遺跡⇔御笠山の東西ラインがあり、宇佐方面へと伸びていくことも以前指摘したとおりです。
宇佐方面からは図のように、今任原(赤村の古墳状地形)をかすめて、笠置山へと伸びるラインもありそうです。
その今任原(ヤマト?)から、北九州の山田の字名が南北ラインとなりそうですが、鳥屋山の北にも田原の字名がみえますね。
あと、吉野ケ里⇔久留米⇔鷹取山⇔玖珠に至るライン、また玖珠⇔鳥屋山⇔御笠山へと至る30度偏角のラインなどにも留意すべきでしょう。
そして鳥屋山⇔池田・黒水遺跡⇔平群郷へと至る15度偏角のラインも重要です。
そこでその夜須町周辺についての拡大図をみていくと、まず図2,3のように、夜須郷周辺の三輪の字名を中心としたラインがみえてきます。
まず図2のように、御笠山⇔池田・黒水遺跡⇔三輪⇔高取山を結ぶ60度偏角のラインが見て取れます。
その高取山と女山神籠石が東西ラインで、さらに女山神籠石⇔大穴貴神社⇔長谷山を結ぶ60度ラインがあり、その長谷山は池田・黒水遺跡と東西ラインで接合していますね。
あと、小田⇔池田・黒水遺跡⇔長谷山の50度偏角のラインもあり、そのほか、池田・黒水遺跡⇔大己貴神社⇔香山(高山)への40度偏角のラインも見て取れます。
高取山⇔香山ラインも50度偏角で、おおむね10度偏角単位でこれらのラインが構成されていることもわかるでしょう。
先日分析した安本氏が指摘する大和郷の字名を結んだラインと、今回の九州のラインを比較していくと、やはり御笠山、笠置山、三輪、山田、田原、池田、長谷山、高取山といった地名を結ぶラインは、かなり厳密の測量されており、双方偶然にその位置にあるわけではないことは間違いないでしょう。計画的配置といっても過言ではありません。
安本先生が言うように、やはりある時代に九州から奈良大和へと東遷した集団がいたのではないでしょうか。
その集団のキーワードとなってくるのが三輪信仰なのではなかったかと感じますが、年代的にいえば、九州の弥生遺跡と上記のラインが接合してくることからみて、九州時代におけるこれらの字名・地名の起源はその時代までさかのぼる可能性を感じますね。
大和へと東遷した時期については、やはり鳥見山あたりがかかわるならば、ニギハヤヒとかかわる物部氏の東遷年代からを視野にいれておくべきでしょうか。布留遺跡の年代だとおもいますが、ただそれ以後の神武東征の年代、あるいはその後のタケウチスクネにかかわるような渡来系集団の東遷によったことも考慮しておくべきかもしれませんね。
複数回の九州勢力の東遷、これらをどう区別していくかも課題ですが、いずれにせよ、測量方式が時代ごとに変化してますから、それを調べることで自ずからあきらかになってくるようなきがします。
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英(はなぶさ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011105M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=sa8WOKjx2_Y
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Re: 九州・夜須町ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011106M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/命名#:~:text=命名(めいめい)、ネーミング(,を与える行為である。
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伊勢神宮創祀
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011107_2M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=SdXHLgZwm8A
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古事記の編纂
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011108M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=eyd5vY6MxBQ
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万葉集、高山波
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011109M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=ybfURmBcDFw
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字難(あざなにくい)
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https://www.youtube.com/watch?v=i9d8D5GAWXc
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併序全文の翻訳完了
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https://www.youtube.com/watch?v=230qT75TTjI
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戻りました!
秦野さん、みなさん、こんばんは。
昨日ようやく九州から帰宅しました。1週間、安本先生の関係所説にもとづいて、奈良、九州を巡ってきたのですが、いろいろ発見もありました。
また機会をみてその様子なども報告していきたいと思います。
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皇極天皇は結構、人騒がせで、わがままな天皇
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011113M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=sFtP-Y9BO78
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平塚川添遺跡⇔小迫辻原遺跡ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011114M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011114_2M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011114_3M.png
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku384.htm
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中学生でも検証できる「日本語の起源」
中学生でも検証できる「日本語の起源」
掲題のタイトルの web ページを作りました。中学生以上への啓蒙ページです。
「日本語の起源」に興味ある方はお読み下さい。
尚、現在は、まだ未完成ですが、追々完成させます。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20_O3.html
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Re: 中学生でも検証できる「日本語の起源」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011116M.jpg
https://ja.wiktionary.org/wiki/蝦
http://
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愛想を尽かされるわ、・・・
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011117M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011117_2M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=RO7W1TQkSJo
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和同開珎
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011118M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=RO7W1TQkSJo
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支石墓群
童子さん、秦野さん、こんばんは。
インドと支石墓・甕棺墓、ジャポニカ米の渡来の件がありましたね。
個人的に、これから再度この辺を解析したいようには感じてます。
今回の九州探索では、支石墓群は回れなかったのですが、後々、また近いうちに巡りたいようには感じますね。コロナ禍がどうなるかが気になるところですが・・・。
支石墓群の動画リスト
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fresults%3Fsearch_query%3D%25E6%2594%25AF%25E7%259F%25B3%25E5%25A2%2593
韓国の支石墓
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fyoutu.be%2Fh4eTYiWI8Mw
韓国の甕棺墓
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fyoutu.be%2FvOCUML91NE8
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好太王碑
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011120M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/好太王碑
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徐福伝説 淮南衡山列伝
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011121M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/徐福
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徐福伝説 淮南衡山列伝2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011122M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/秦
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徐福伝説 淮南衡山列伝3
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011123M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=ciJwE5WLc7M
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広開土王碑の欠字と解釈
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011124M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011124_2M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011124_3M.png
https://ja.wikipedia.org/wiki/好太王
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耒卯年≠辛卯年
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011125_2M.jpg
https://ja.wiktionary.org/wiki/耒
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広開土王碑の欠字と解釈 2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011126M.jpg
管理人さんへのお返事です。
広開土王碑の欠字は、碑文を翻訳して、他の古文書の内容を比較して初めて解釈できる。
他の古文書は結構沢山ある、心配することはない。ただし、苦労するぞ・・・
【第一面】(11行41文字)
惟昔始祖鄒牟王之創基也出自北夫餘天帝之子母河伯女郎剖卵降世生而有聖□□□□□□命駕巡幸南下路由夫餘奄利大水王臨津言曰我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王為我連葭浮龜應聲即為連葭浮龜然後造渡於沸流谷忽本西城山上而建都焉不樂世位天遣黄龍來下迎王王於忽本東岡黄龍負昇天顧命世子儒留王以道興治大朱留王紹承基業□至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王二九登祚號為永樂太王恩澤洽于皇天威武振被四海掃除□□庶寧其業國富民殷五穀豊熟昊天不弔卅有九晏駕棄國以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勳績以示後世焉其辭曰永樂五年歳在乙未王以碑麗不口□人躬率往討過富山負山至鹽水上破其丘部洛六七百営牛馬群羊不可稱數於是旋駕因過襄平道東來候城力城北豊五備海遊觀土境田獵而還百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百殘□□新羅以為臣民以六年丙申王躬率水軍討伐殘國軍□□首攻取壹八城臼模盧城各模盧城幹弖利城□□城閣彌城牟盧城彌沙城□舍蔦城阿旦城古利城□利城雜彌城奧利城勾牟城古須耶羅城莫□城□□城分而能羅城場城於利城農賣城豆奴城沸□□
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古事記1
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011127M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=0hQ_k5w-4vw
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日本語はタイ語にも似ている みたい
Google 翻訳 online tool 辞書等によるスワデシュ207 基本単語の日本語単語のソックリさん単語探しによると、
【サンスクリット語 + タミル語】 100%、に対し、【タイ語】 49% であった。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20.html
-
Re: 日本語はタイ語にも似ている みたい
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011129M.jpg
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20_B.html
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古事記2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011130M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=591Lf5cR56A
-
Re: 日本語はタイ語にも似ている みたい
鳩摩羅童子さんへのお返事です。
> Google 翻訳 online tool 辞書等によるスワデシュ207 基本単語の日本語単語のソックリさん単語探しによると、
> 【サンスクリット語 + タミル語】 100%、に対し、【タイ語】 49% であった。
>
>
> <PRE>賛 民 民' カ タ ベ マ ビ モ ラ
> 90% 76% 28% 20% 49% 37% 21% 21% 15% 36%
> 尼 箍 韓 チベ ネ 羌
> 40% 32% 35% 43% 26% 43%</PRE>
>
> 民 はケルン大学の Tamil 辞書、
> 民' は、Google 翻訳の Tamil 辞書。
>
> ---
童子さん、お知らせありがとうございます!
タミル語となると、やはり弥生時代初期の支石墓との兼ね合いですかね。タイ語とのかかわりからいくと、先日お話した熱帯ジャポニカの移動とかかわるでしょうか。
韓国語の一部ともかかわりそうですね。
-
Re: 広開土王碑の欠字と解釈 2
秦野北斗さんへのお返事です。
> 管理人さんへのお返事です。
>
> 広開土王碑の欠字は、碑文を翻訳して、他の古文書の内容を比較して初めて解釈できる。
> 他の古文書は結構沢山ある、心配することはない。ただし、苦労するぞ・・・
>
> 【第一面】(11行41文字)
>
> 惟昔始祖鄒牟王之創基也出自北夫餘天帝之子母河伯女郎剖卵降世生而有
そうですね!この卵生神話と、インド、朝鮮、北九州の甕棺墓の流れですね。でも、高句麗扶余方面まで卵の話が出てくるというのが興味深いところで、支石墓で行けば、先日の支石墓ラインで紹介した吉林省のそれと関係するのかな。
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Re: 広開土王碑の欠字と解釈 2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011133_2M.jpg
管理人さんへのお返事です。
> > 惟昔始祖鄒牟王之創基也出自北夫餘天帝之子母河伯女郎剖卵降世生而有
>
>
> そうですね!この卵生神話と、インド、朝鮮、北九州の甕棺墓の流れですね。でも、高句麗扶余方面まで卵の話が出てくるというのが興味深いところで、支石墓で行けば、先日の支石墓ラインで紹介した吉林省のそれと関係するのかな。
"高句麗扶余方面まで卵の話が出てくる"
韓国人、卵生神話を創造したようですな、漢字、降(ふる)は現代の読み、古代は降(くだる)になる。
女(おんな)郎(おとこ)を卵に、例えた様です。
北夫餘(きた、ふよ)天帝(あま、みかど)之子(これ、こ)母(はは)河伯(こう、はく)女(おんな)郎(おとこ)剖(わける)卵(たまご)降世(くだる、いく)而(しかるに)聖(ひじり)■
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古事記3 国産み
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011134M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=QbX8TDyTkqI
http://
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古事記4 嶋の神々
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011135M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=oX9mwEiPreQ
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日高見国と日本国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011136M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011136_2M.png
秦野さん、お知らせありがとうございます。再度下記の記載を分析する必要があるかもしれませんね・・・。
過去ログからまとめていくとこうなります。
『書紀』景行紀では、武内宿禰が北陸及び東方諸国を視察し「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」とあり
神武紀
「皇輿巡幸 因登腋上嗛間丘 而廻望國?曰 ?哉乎國之獲矣 雖?木綿之眞迮國 猶如蜻蛉(アキツ)之臀呫焉 由是 始有秋津洲之號也。昔伊弉諾尊目此国曰。日本者浦安国。細戈千足国。磯輪上秀真国。復大己貴大神目之曰。玉牆内国。及至饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。故因目之曰虚空見日本国矣。」
饒速日が空飛ぶ磐舟にのって(太)虚空(コク=国)を駆け巡り終えて、睨んで降りた場所=(国見)日本国との観念。
万葉集の舒明天皇の歌として「大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鷗立つ立つ うまし国そ 蜻蛉(アキツ)島 大和の国は」とあり、この歌が上記の神武の国見話に対応。
蜻蛉(アキツ=トンボ)=奈良の秋津=細戈千足国(日本列島の形状)の対応。
秋津の国見山⇔天香久山⇔三輪山(大穴貴の本拠)の45度ラインがある。太陽測量における地図作成の話をもとに上記伝承が成立か。日本とは元は太陽測量の起点を示した用語だったのでは。日高見も測量起点・日本からみて緯度が高い等の意味をもっていたか。
その他、大和(ヤマト)は北朝音で「タイカォ」=太虚(国)≒大化(天智朝の元号)となる。天智の父・舒明が大和にやってきて国見(測量をはじめた)ことを記念して、北朝系の新漢人等が神武の国見譚として書紀に挿入したのでは。
図のように国見山と三輪山を起点として舒明天皇陵が設定されており、その舒明陵と小山田古墳(舒明改葬墓か?)、岩屋山古墳等、後代の皇族墓や遺跡が位置づけられている。
上記が以前考えたことですが、日高見の解釈を再考すべきでしょうね。
まず、
饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之
ニギハヤヒが天かける岩船にのって、この郷をにらんで、その上でそこに降ったので、
故に因るは、之を目して曰はく、虚空見(=国見)+日本の国
というんですよね。
空の上から郷、つまり大和の盆地を睨んだ。ここが重要な視点で国見にかかるわけです。
(ニギハヤヒ=日)が本を見る⇔日が高いのを見る
おもうに、日高は緯度が高いのではなくて、山や丘陵地の上、つまり標高が高いという意味か?
実際、飛騨=日高説だとまさに、飛騨は標高が高いですからね。日高説のある日田も標高は高いですし、同様に埼玉の日高も丘陵地、茨城以北にあった日高見国も同様に山地でしょう。
本はそうすると国見るする際に、標高の低いところで大和・秋津の盆地を示すことになりますね。日本見国が原義かな。
あと、当時の東方にある国の話で、日辺国の話が中国文献にありましたが、日の登る辺りの国の意味で、ある意味、同義なんです。
日辺(ニッペン)=日本(ニッポン)
日高(ニッコウ)とすると、日光(ニッコウ)がありますよね。蝦夷の領域で日高見国となるか。
いずれにせよ、日(饒速日)が高いところを見るの意味から来てるんでしょうね。
低く大和盆地を国見山からみたので、日が本を見る国 で日本号とした。
測量つまり領域支配面における用語で本とか辺とかがあって、日という主語とかけあわせたのではないですかな。
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何を捏造するか注意が必要だ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011137M.jpg
管理人さんへのお返事です。
現在の古事記の文章翻訳に間違いが多い、秦野も洗脳されている、洗脳から抜け出すには、まだ時間が必要。
大己貴大神目之曰。玉牆内国。及至饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。故因目之曰虚空見日本国矣。
訳
大己(もと、おのれ)貴大?(たかい、もと、あまつかみ)目之曰(かしら、これ、いわく)「玉牆(たま、かき)内國(うち、くに)。」及至(すなわ、いたる)饒速日命(ゆたか、まねく、たつ、みこと)乘(のり)天磐船(あま、いわ、ふね)而(しかるに)翔行太(かける、みち、ふとい)?也(うつろ、なり)、睨是(にらむ、これ)?(くに)而(しかるに)降之(くだる、これ)、故因(もと、ちなむ)目之曰(かしら、これ、いわく)「?空(うつろ、うつろ)見(まみえる)日本國矣(にほんくに、だろう)。」蝉(うつ、せみ)、空蝉(うつ、せみ)
日本書紀、神武紀に?蝉、空蝉があるのが不思議です、伊弉諾尊。年代は空蝉三世紀、?蝉7世紀、伊弉諾尊紀元前2世紀、まあ、7世紀に書いたもの、これだから日本書紀は信用できん、何を捏造するか注意が必要だ
> 秦野さん、お知らせありがとうございます。再度下記の記載を分析する必要があるかもしれませんね・・・。
> 神武紀
> 「皇輿巡幸 因登腋上嗛間丘 而廻望國?曰 ?哉乎國之獲矣 雖?木綿之眞迮國 猶如蜻蛉(アキツ)之臀呫焉 由是 始有秋津洲之號也。昔伊弉諾尊目此国曰。日本者浦安国。細戈千足国。磯輪上秀真国。復大己貴大神目之曰。玉牆内国。及至饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。故因目之曰虚空見日本国矣。」
?
http://
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古事記5 堺(さかえ)栄
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011138_2M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=sPv-hzHfaNo
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Re: 日高見国と日本国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011139M.jpg
管理人さんへのお返事です。
近いうちに、 神武紀を YouTube します。
> 秦野さん、お知らせありがとうございます。再度下記の記載を分析する必要があるかもしれませんね・・・。
> 神武紀
> 「皇輿巡幸 因登腋上嗛間丘 而廻望國?曰 ?哉乎國之獲矣 雖?木綿之眞迮國 猶如蜻蛉(アキツ)之臀呫焉 由是 始有秋津洲之號也。昔伊弉諾尊目此国曰。日本者浦安国。細戈千足国。磯輪上秀真国。復大己貴大神目之曰。玉牆内国。及至饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。故因目之曰虚空見日本国矣。」
>
>
> 饒速日が空飛ぶ磐舟にのって(太)虚空(コク=国)を駆け巡り終えて、睨んで降りた場所=(国見)日本国との観念。
>
> 万葉集の舒明天皇の歌として「大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鷗立つ立つ うまし国そ 蜻蛉(アキツ)島 大和の国は」とあり、この歌が上記の神武の国見話に対応。
>
> 蜻蛉(アキツ=トンボ)=奈良の秋津=細戈千足国(日本列島の形状)の対応。
>
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古事記6黄泉(よみ)霞
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011140M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=KklHxx0VFN0
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日本書紀 神武天皇
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011141M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=pQRq4Upinas
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古事記7 住吉三神
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011142M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=AiZudOWBeQo
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古事記8 三貴子
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011143M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=YXwdieh9NvE
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イザナギトとイザナミ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011144M.jpg
古代史も詳細に姿を表して来ました
本居 宣長(もとおり のりなが)の古事記伝は、理解できない・・・
古事記伝
「わたしは、お母さんのいる黄泉の国へ行きたくて、泣いております。」
と答えたので、イザナギノミコトは、たいへんお怒りになり・・・
原文直訳
黄泉の国(住吉)から、知らない国(別の国、韓国)に往くことになる。悪い神に、
別の国の青山(あお、やま)は枯山(かれる、やま)如(ごとし)、河海(かわ、うみ)枯(かれる)・・・
スサノウは、いじめられ泣く。イザナギノミコトは、悪い神を叱る・・・
古事記伝のアマテラスとスサノウは、空想がいっぱい、本居 宣長の頭は狂っている。
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鹿島・諏訪・伊勢・白山・浅間社ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011145M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011145_2M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011145_3M.png
https://ja.wikipedia.org/wiki/富士山本宮浅間大社#創建伝承
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アマテラス、スサノウ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011146M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=yHcukgQpa9s
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Re: 鹿島・諏訪・伊勢・白山・浅間社ライン
管理人さま、古代科学史掲示板へのコメントありがとう御座います^^。
ご多忙のよし、なによりです。こちらへも投稿しておきますね。
<鹿島・浅間・伊勢・>ラインを再考されているのですね。
わたしは、先様方が掲げておられる<ライン>が、恥ずかしながらよく分っていません^^!。
土地の私有化が定まっていない古代に(縄文弥生代〜)、何故「その地、その場所」と定めて "聖地”とするには、何かの由・わけがなければなりません。
その始まり(発端)は、いつ(頃)で、だれ(人間) が、なんで、その場所(聖地と)定めたのか?? 歴史を識らない中坊ですが、挑戦してみます(汗〜^^!)
> 古代史掲示板で、図法の件で投稿してみました。隕石の落下ルート解明の件でも役立つかもしれません・・。
ええ、私は上記の考方法で四千年前の東北に降臨した巨大隕石の軌道を割り出しましたよ^^。地球表面、丸平(まるべた^^)その地を聖地と定めたには大自然への驚愕があった!
イースター島(モアイ)→ナスカ(地上絵)→ドーバー海峡(ストーンヘンジ&カルナック列石)→東北地方・大湯(忍路・竜飛崎・大槌)これ等は、地球儀表面で一直線上にあります!!!
コロナ禍の拡大、心配ですね・・・、どうぞお気をつけて・・・
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html
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アマテラス、スサノウ 折三段、井(イゲタ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011148M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=n2AM4r5Zi-o
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魏志倭人伝の里
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http://www.moonover.jp/bekkan/mania/unit.htm
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魏志倭人伝の里 2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011150_3M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/春秋穀梁伝
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女王(台)の葬儀
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011151M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=8EW9J0mgVUk
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大里、小里
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011152M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=El2Vc01KLkg
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天狗(てんぐ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011153M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=Roga8gv-9yg
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女王(台)祭壇
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011154M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=DSzB2SBU5BA
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アマテラス出産
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011155M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=HJQinwGOl3k
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ヤマタノオロチ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011156M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=mvt6jJ30Jy8
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今年もお世話になりました
秦野さん、みなさん、今年もわかちあいありがとうございました!
なかなかコロナの件もあり、かえって私のほうは多忙だったりして、なかなか更新できてない感じですが、また正月休みもどうぞわかちあいしてくださいね。
お話にあった長里・身里説の件は別件で調べているところで、明確化する必要がありそうですね。
どういう里を使っていたかを特定するには、まず尺度を確定しないといけませんね。つまりどの里をつかったかは、それに影響をあたえている尺度を探すことからはじめねばならないでしょう。
里と歩、丈、尺はセットですからね。
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Re: 今年もお世話になりました
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011158M.jpg
https://komonjyo.net/nagasanotani.html#syousai
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黒柏鶏と高志之八俣遠呂智
明けまして、おめでとうございます。善き年に成ります様に。長鳴き鶏は、山口県防府発祥の鶏で、天然記念物の黒柏鶏(くろかしわけい)を意味します。周防国一之宮である、玉租神社(山口県防府市大字大崎1690)の社務所前の鶏小屋で飼われています。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fxn--n8ja1ax8hx09vzyhxtan6s.club%2F2019%2F10%2F25%2Fhoufu-tamanooyajinja%2F
12世紀に成立したとされる「今昔物語」に「今ハ昔シ周防ノ国ノ一宮ニ、玉祖ノ大明神ト申ス神在ス」との記述があり、周防国でもっとも社格の高い一ノ宮として崇敬を受けていたと書かれています。
神社の創建についてはあまりにも古くはっきりしませんが、日本最古の正史『日本書紀』に、景行天皇12年に九州の熊襲(くまそ)征伐に戦勝祈願のために宝剣を奉納したとの記載が残っています。
大変由緒ある玉祖神社の御祭神は、玉祖命(たまのおやのみこと)です。
玉祖命は三種の神器のひとつである「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」を作った神とされています。
「 天孫降臨と共に地上に来た鶏で、原産は佐波(山口県)が中心。玉祖命(タマノオヤノミコト)がこの地にとどまられた昔は沢山いて、神々の御心を慰め奉ったと伝えられており、一名長鳴き鳥とも言われておりました。昭和26年6月9日天然記念物に指定されました。(玉祖神社社務所)」
黒柏鶏の長鳴き音声 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnihonsinwa.com%2Fpage%2F747.html
大阪府八尾市にある、玉祖(たまおや)神社は、和銅三(七一〇)年周防国から分霊を勧請したものです。境内を黒柏鶏が散歩しています。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsupercub-c125.com%2Ftamaoya%2F
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高志之八俣遠呂智の意味するところは、出雲と高志(古志)は友好国同士で、治水の土木事業や古墳の造営の際に、お互いに人手を出し合い、助け合ったと伝えられます。高志は糸魚川の翡翠の産地で、翡翠の加工技術も伝わったものと思われます。
「八俣遠呂智」は、幾つもの意味を重ねて描いている、と思われます。斐伊川の氾濫を意味したり、大山祇神の子供である、足名椎(アシナヅチ・アシナズチ)と、その嫁である、手名椎・手摩乳(テナヅチ)を意味します。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnihonsinwa.com%2Fpage%2F2047.html
更に、加茂岩倉遺跡の南側にある、布須神社 ( 島根県雲南市加茂町延野251番地)には、スサノオノミコトが「八塩折の酒」を造らせた釜石が残されています。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fosyaberi35%2Fentry-12641475210.html
また、布須神社の西約1キロには、ホオリとトヨタマヒメが神武天皇の父神を養育された。阿吾神社
: 旧名称:阿具社(あぐのやしろ)が有ります。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww5.hp-ez.com%2Fhp%2Fnakasa%2Fpage139
記紀では、物部勢力の出雲への進駐の後、
「 天照大神(卑弥呼)の次男の天穂日に下賜された。その御子の天夷鳥が出雲大神の宮に神宝として祭り、出雲振根に伝えていた。それを崇神天皇が所望したのである。もちろん、崇神天皇は天叢雲剣の名前を知って興味を覚えたのであろう。その剣を振根の弟の飯入根(いひいりね)がやすやすと崇神天皇に献上してしまった。天叢雲剣は崇神天皇が宮殿で飾った。出雲では、飯入根の軽率な行為に不満を抱く振根と飯入根の間に兄弟喧嘩がおこり、飯入根は謀殺された。また殺した振根も、崇神天皇が派遣した二人の将軍の吉備津彦と武渟川別により誅された。」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.kunakoku.info%2Fsub-05%2Fsub-05-11.html
と記されていますが、出雲王家の弟君が大事な神宝を渡す訳も無く、実際は、飯入根が物部方との和議の席上で、強い酒である「八塩折の酒」を勧められた後、剣を抜かれて誅殺され、布須神社の南東約600メートルにある、神原(神財)神社から、神宝が強奪された、と推察できます。
神原(神財)神社の西約100メートルには、飯入根の墓と思われる、「すくも塚」が残されています(案内板も石碑も有りません。)
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Re: 黒柏鶏と高志之八俣遠呂智
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011160M.jpg
https://xn--n8ja1ax8hx09vzyhxtan6s.club/2019/10/25/houfu-tamanooyajinja/
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ヤマタノオロチ2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011161M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=FqNUONHa0CQ
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尺貫法と倭人伝
皆さん今年もよろしくお願いします!また青面さん、秦野さんわかちあいありがとうございます。
それでまず秦野さんご指摘の尺貫法の件ですが、ウィキによると下記のようになりますね。
里は元々は古代中国の周代における面積の単位であり、300歩四方の面積を表していた[1][2]。のちにこの1辺の長さが距離の単位となった。
周・漢の1歩は1.3m余りであったと推定され、したがって1里の長さは400mほどであった。のちに1歩を5尺、360歩(=1800尺)を1里とし、この関係が清まで続いたが、時代によって1尺の長さが変動したため、1里の長さもそれにしたがって変化した。清の営造尺とメートル法の関係は清朝滅亡後の1915年に定義され、1尺=32cmであったため、1里は576mだった。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E9%2587%258C%23%25E4%25B8%25AD%25E5%259B%25BD
つまり、1尺×5=1歩 1歩×360=1里 よって、1里=1800尺となるわけですが、ここで、1町、1間という単位が挟まってくるかどうか、つまり、1町=60間1間= 6尺よって1町=360尺ですね。
したがって、1歩×1町=1里となるわけです。
ちなみに倭人伝の時代とされる三角縁神獣鏡の平均直径が約23cm前後ですから、つまり漢の1尺で、この1800倍が1里ですから、414m前後、23.5cmで考えると423mですから、いよいよ後漢尺に近いと考えうるでしょう。
この尺度を用いた銅鏡制作集団は、魏尺は用いてなくて、楽浪・帯方郡あるいはその南の朝鮮南部から日本のあたりで後漢尺をそのまま継承していたのではないでしょうかね。
それで話は戻して1町、1間が当時用いられていたかどうかが課題なのですが、おそらく、間、町の導入は後代のもので、1歩×360=1里との単位がまず弥生時代から倭人伝の時代にあったはずです。
その360倍が重要な単位なのですが、まず23・5cm×5=117.5?の歩の単位を基礎として、そこから、90×4=360の単位を考えていたのではないでしょうか。
つまり、117.5cm×90=105.75mですね。その半分の52.875m単位も使用してます。
この倍数単位で九州の弥生時代の遺跡の距離が出てくることは以前お話したとおりです。
平原⇔宇佐間の105?、宇佐⇔西都原間の158=105+53km、釜山⇔帯方郡、帯方郡⇔楽浪郡、にも158?が出てくる。
この53?の1000分の1の53mが倭人伝の里の基礎単位で、秦野さんのおっしゃる超短里なわけです。
だから、先の1町=360=45×8歩の計算をしているのですが、45歩、あるいは90歩を示す単位がなかったかどうか・・・。1部の短里説にあわせるなら、90歩=短里でしょうね。
また一部の短里説の短里だと、360=72×5の計算をしないといけないくて、つまり、72mもしくは36m前後を単位としていた可能性もあります。
ここで、また青面さんのお話にもあった八尺瓊勾玉とか八岐大蛇の八ですね、八咫(アタ)も関係するでしょう。
この8が上記の45×8の8単位とかかわるか・・・。
この単位の起源が楽浪郡・帯方郡、あるいはそこから南下した秦韓の集団、つまり後代そこからさらに天孫降臨、あるいは秦氏の渡来から周防国の秦王国・・・への流れともかかわってくるんですが、かれらの基礎単位としてでてくる八尺の意味を解明すべきでしょう。
咫については、こちらにウィキの記載を引用しておきますね。
中国
「咫」(シ、zhǐ) は古代の長さの単位である。 『説文解字』九、尺部「咫」に、「中婦人手長八寸、謂之咫。周尺也。」とある。一般にはこの文章は「周代の尺で8寸を咫という」という意味に解釈されている。「尺」字の説解にも「周制、寸・尺・咫・尋・常・仞諸度量、皆以人之体為法。」とある。
日本
「あた」は動詞「あつ(当)」を名詞化したもので、手を開いて測ることを意味する。具体的には手を開いたときの中指の先から親指の先までの長さを咫としており、これは尺の元々の定義と同じである。実際、日本書紀では「咫」と書いているものを、古事記では「尺」の字で書いているもの(八尺鏡など)がある。日本神話では、八咫鏡、八咫烏など「八咫」という長さがよく登場する。
「あた」は「さか」とも言う。八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も、「尺」の字が宛てられているが本来は「あた」である。
八咫鏡に関する特殊な説
上記『説文解字』にいう「周」を円周と解釈して、咫とは円周の単位であり、円周率は約 3.14 であるが、これを 3.2 で近似すると、径 1 尺の円の円周は 3.2 尺となり、これを 4 咫としたという説がある[1]。この説によれば、日本の八咫鏡は円周 8 咫、すなわち径 2 尺という意味である。後漢の尺は 23.04cm であるから、直径 46cm 前後の円鏡を指し、福岡県糸島市の平原遺跡から現在5面の大型内行花文鏡が出土している。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%2592%25AB
ここで、なんで咫という単位が必要だったかと理解する必要があるんですが、これは以前三輪山神話の件でに話しした測量用の糸をまくリール、つまり三輪の輪ですね、これにかかわる単位でしょう。
大物主がモモソヒメのいた箸墓あたりから三輪山まで戻っていったときにその糸の長さがちょうどリール用の輪の3倍だったから三輪といったわけですが、箸墓古墳から三輪山までが2420mですから、その3分の1は806mです。
これが1つの距離単位となっていたと考えると、806m。
これをまたここで上記の咫にかかわる円周率の単位で割っていくと、まず八咫=2尺×3.14=147.58cmで1咫=18.45cmです。
それで806mを、18.45?で割ると、4368咫になるのですが、これを八咫単位で割ると、546倍となるわけです。
つまり八咫の鏡をリール替わりにしたとすれば、これを546回回転させた長さの糸なり、その回転ローラーの長さが箸墓⇔三輪山間の距離の3分の1となるでしょう。
とりあえず、眠くなってきたので、この続きはまた後日に。
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大国主
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https://www.youtube.com/watch?v=hgQJw-CKyDk
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