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歴史掲示板

1管理人:2012/01/12(木) 17:24:57
古代史掲示板を新設しました
古代史掲示板を新設しました。画像・動画等の投稿も可能です。古代史関連の投稿をお待ちしています。

1001管理人:2013/01/07(月) 16:28:28
Re: 年始の挨拶
秦野北斗さんへのお返事です。

> 棘の紀氏さんへのお返事です。
>
> 棘の紀氏さんへ 今年も宜しくお願い致します。
>
> 倶利伽羅峠で越と平氏がぶつかりましたか。越は倭(夷)になるが・・。
> まあ言える事は、白村江の戦い以後の領地争いですな。古代の日本を2分する。日本の日本海側が越、太平洋側が平氏が取った模様。倭国と日本の中央は土着の者こと源氏ですな。
>
> > 源氏ヶ嶺城は加賀と越中の国境で、古来より街道があった倶利伽羅峠から南東1km程 の源氏ヶ嶺山頂に築かれている。
>
> 呉の太伯と源氏は後日ですな。ヘブル語でハラは怒るこーる、怒る・・・起る?
> 腹が立つのはら(腹)はヘブル語のハラかも知れませんな。
>
> >
> > 平 清盛と縁の深い広島県呉市>
> > 呉の太伯はこの家の出であり姫氏と思われていた。
> > 越は禹の苗裔で夏后帝少康の後裔と称した。ともに「夷」であるが「華」の後裔を称した。
> >  我が倭も「夷」である。
> > 源  水源のこと
> > 会意兼形声。泉は、いずみから水の流れ出るさまを描いた象形文字。原は「厂(がけ)+泉」の会意文字で、がけ下の泉から水の流れ出るさま。水源のこと。源は「水+(音符)原」で、原のもとの意味をあらわす。まるい穴がほげて水のうずまく水源で、まるくうずまいてまわる意を含む。
> > 原
> > ヘブル語でハラは怒るこーる
>

秦野さん、きしさん、今年もよろしくです。

ちょっと源氏の起源についても、気になってます。水源や江南との関係は重要です。

清和源氏の祖がいた兵庫の河辺郡というのが、どうも例の呉系大彦系集団の本拠で、航海集団やその港と関わる地です。坂合部や久々知など、神八井耳と連なる九州多氏系の集団ともつらなる関係で、多田源氏が出てきた可能性を感じます。

水軍や大陸系交易のバックボーンもあったのではないでしょうか。伊豆鎌倉も関係してくるかもしれません。
九州系の八幡信仰も、応神との兼ね合いで、九州と関係してくる。

この大彦系が、呉系の軍事航海集団と連なるのではないかと考え始めてます。
大彦系の基盤は、北陸や関東・東北にもありましたから、阿部氏がそれを受け継ぎますが、武蔵にも基盤があって、そこでその西方の飯能方面にいた高麗氏との対峙が気になってきます。高麗系は新漢人との兼ね合いで、つながって天智・桓武とかかわっていくわけですが、それで坂東平氏との兼ね合いですね。平将門がでる930年代までには、関東で相当な発展があったようにみえます。

元は東漢氏の首長・坂上田村麻呂の遠征から始まるのでしょうけど、さらにその前に高麗人や渡来人の入植があって、平氏がその高麗系の領地をもっているのも、関東高麗氏との関わりを感じます。

もともと東漢氏の基盤は利根川沿いに広がっていて、奥州を治めた際に、製鉄関連の拠点も手にいれたはずで、武具を作るには事欠かなかったでしょう。

将門の配下に、坂上氏がいますね。後に三春に入る平姓田村の祖かもしれません。多治氏もおそらく上野の精銅と関係した多治比氏の子孫ではないでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

源護の拠点の真壁郡も製鉄関連ですね。

平氏の厳島神社というのは、伊都岐島神社で、斎島とのことですが、佐伯氏の神主がいたようですね。
先の伊都国の関連で、武庫、紀伊兵庫とならぶ、先の呉系集団の航海拠点との見方はできないでしょうか。

安芸の清盛の配下に佐伯がいたとすると、豊後佐伯氏と関係して、宮中や地方の護衛兵を配下に入れたとのことでしょうか。


また、猪名県の佐伯部の者が、仁徳天皇が秘かに愛でていた鹿をそれとは知らずに狩って献上したため、恨めしく思った天皇によって安芸国渟田(ぬた)に移されたのが「(安芸国)渟田の佐伯部」であるとも伝えている[2]。これらの伝承の史実性はともかくとして、古墳時代の中頃(5-6世紀)には、東国人の捕虜を上記5ヶ国に移住させ、佐伯部と

平安時代以来、「叫ぶ」に由来するとされてきたが[3]、『常陸国風土記』茨城郡条には、土着民である「山の佐伯、野の佐伯」が王権に反抗したことが記されているので、「障(さへ)ぎる者(き)」で、朝廷の命に反抗する者の意味と説くものもあり[4]、別に上記景行天皇紀に「騒い」だとあることに着目し、「大声を発して邪霊や邪力を追いはらったり、相手を威嚇するといった呪術的儀礼に従事」するのが彼らの職掌で、佐伯部は「サハグ部」であるとの説もある[5]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

将門の基盤が茨城方面というのが気になりますね。

やはり佐伯は隼人などの呉系の航海集団とも関わっていたでしょうから、なんとなく見えてくるものがあります。

先の高句麗系が、シルクローと交易と接点を持つとすると、渤海が重要になってきますね。

唐代にはかなり安定した航海ルートが北陸方面とあったようです。

そうすると、926年の渤海が滅んだのち、一部が日本にも来た可能性を感じますね。
サハリンルートと、ダイレクトな北陸ルート。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

いずれにせよ、強いバックボーンがないと、政治的にもうまくいかないはずで、今年はこの辺の源平のバックボーンをもう少し整理してみたいところです。


1002秦野北斗:2013/01/07(月) 20:52:42
Re: 年始の挨拶
管理人さんへのお返事です。

どうも扶桑国が浮び上がってきましたな。

平将門、佐伯部、渤海_(国)に共通する。平氏は扶桑、弓月君(月氏)?

謡曲 「桜川」

常陸、九州、相馬の国司となると云うことで纏められている

http://sakuragaworld.com/modules/tiny01/index.php?id=11

> ちょっと源氏の起源についても、気になってます。水源や江南との関係は重要です。
>
> 清和源氏の祖がいた兵庫の河辺郡というのが、どうも例の呉系大彦系集団の本拠で、航海集団やその港と関わる地です。坂合部や久々知など、神八井耳と連なる九州多氏系の集団ともつらなる関係で、多田源氏が出てきた可能性を感じます。
>
> 水軍や大陸系交易のバックボーンもあったのではないでしょうか。伊豆鎌倉も関係してくるかもしれません。
> 九州系の八幡信仰も、応神との兼ね合いで、九州と関係してくる。
>
> この大彦系が、呉系の軍事航海集団と連なるのではないかと考え始めてます。
> 大彦系の基盤は、北陸や関東・東北にもありましたから、阿部氏がそれを受け継ぎますが、武蔵にも基盤があって、そこでその西方の飯能方面にいた高麗氏との対峙が気になってきます。高麗系は新漢人との兼ね合いで、つながって天智・桓武とかかわっていくわけですが、それで坂東平氏との兼ね合いですね。平将門がでる930年代までには、関東で相当な発展があったようにみえます。
>
>


1003管理人:2013/01/08(火) 14:22:58
Re: 年始の挨拶
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> どうも扶桑国が浮び上がってきましたな。
>
> 平将門、佐伯部、渤海_(国)に共通する。平氏は扶桑、弓月君(月氏)?
>
> 謡曲 「桜川」
>
> 常陸、九州、相馬の国司となると云うことで纏められている
>
> http://sakuragaworld.com/modules/tiny01/index.php?id=11
>
> > ちょっと源氏の起源についても、気になってます。水源や江南との関係は重要です。



国司というのは、結構もともと親族の縁があるところに派遣されるケースも多いんですよね。
常陸、九州、相場、 日高見国でしょうか。

奥州日高に平氏が派遣されてますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


日高の語にみえる「高」の意味が気になります。高木神だとおもうのですが、つまり例の扶桑木伝承です。

それで興味深いのが、坂東平氏の妙見信仰ですね。将門を救った伝承があるのですが、元はペルシャから中国へ流れたもので、北極星、つまり測量関係です。天皇大帝を拝んでます。

おそらく先日はなした天智のときの日本号成立に際して、日高身、扶桑、そしてプレ妙見系の測量関連ですね、ここで天常立神と関係してきます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/

たぶん天皇号も関係し、新皇の語源に影響したかもしれません。

http://amanohitukukami.blog28.fc2.com/blog-entry-119.html

きしさん大好きな修験道ですね。

それで駒形神社がその神を祀るのも、高麗軍のその駒形神社の例のように「高麗」と関係してくるでしょう。
新漢人系ですね。

結局、九州、常陸、相馬の横穴墓の流れと関係してくるのかもしれません。ペルシャ系ですね。
ペルシャの大食調の楽器がでてくるのが、その横穴墓で、元は秦野さんご指摘の舞・桜川との関わってくるでしょう。


それで問題は、独立指向の強かった高望王時代からの、高麗との関わりが、実際渤海時代までつづいていたか?が課題です。高野媛以前の(日)氷高内親王、さらにはもっと前の元明ころには、すでに高麗系遺民の基盤が関東に整理されていて、しばらくまだ高句麗とのアイデンティティーが持続していたのですが、その後弱まっているようにみえるんですね。

渤海市の多さが気になりますね。何しにきたんだろうという感じですが、北陸東北方面でお互い利益があったのではないでしょうか。

それに対して新羅と接点があったのが、多田源氏という線でどうでしょうか。
大彦系は吉士を取り込んだ時代から新羅と接点があります。

新羅三郎

http://ja.wikipedia.org/wiki/

新羅明神のいた三井寺に由来するのですが、近江朝の大友皇子、つまり大伴氏の配下にいた新漢人と関係しそうですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新漢人系は、磐井ー近江臣の関係で、新羅とはもともと接点があったのですが、当時の政権の事情で微妙な立場にあったようです。元は高句麗に流れ込んだ北燕遺民で、さらには後趙のコーカソイド系羯族かもしれません。


妙見信仰は、石窟寺院から高句麗古墳、横穴墓に流れ込んだ、西域系仏教信仰とも関係あるのではないでしょうか。
http://www1a.biglobe.ne.jp/hoshida/kika.htm



1004秦野北斗:2013/01/08(火) 20:33:27
Re: 年始の挨拶
管理人さんへのお返事です。

「大倭日高見国」
大漢国(やまと)の倭国に在った1国が日高見国と理解できる。
日高見国の日高に着目すると、武蔵国にやけに高句麗が出てくる。

716年に設置された武蔵国高麗郡高麗郷の地で、当時高麗郡大領に任命された高句麗王族・高麗若光を祭る高麗神社が鎮座する。高麗郡は668年に唐に滅ぼされた高句麗の亡命者を収容した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/日高見国

「常陸、九州、相場」
相場は常陸の国になる。桜児は父将平。平氏の平で九州に着目すると、現在の九州の地名は筑前、筑後の前後で分け9つに分かれる。本来は9つの地名が存在したと思われる。注意は筑紫は韓半島にあり、現在の筑紫は阿蘇のようだ。

桜児は平良文の四男四郎将平の子なり(将平は平将門の弟)、父将平九州肥後筑紫の国司にて二万八千余町を領す。晩年に及ぶも子なし。御台と共に氏神木花開耶姫命に祈り一子を授けられる。将平に異母弟将俊あり、桜児七才の折父将平を失う。将俊所領の押領を計り、母子をなきものにせんとす。忠臣木王丸、母、櫻児、乳母三人を芦屋の浦に隠棲す。母苦悩を訴ふ。偶々出羽の人商人その地を訪ふ。櫻児身を売り関東に下る。人商人鹿島社に詣んとし礒部社に至る。礒部寺の住僧専徳法師櫻児を認め、黄金十両錦百疋にて買求め養育十九才に及ぶ。その頃常陸、相馬の国司平真家も子なく、社参の折櫻子を知り、法師に乞い嗣子となす。母櫻児を慕ひ狂人となる。菊地、亀川、小嶺の三忠臣、行方を尋ね関東に下り、遂に櫻児を探しあて目出度母子対面を得たり。深く御神徳を敬す。櫻児将家と称し叔父将俊を討ち、筑紫常陸の両国の国司を命ぜらる。

http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1363

> 国司というのは、結構もともと親族の縁があるところに派遣されるケースも多いんですよね。
> 常陸、九州、相場、 日高見国でしょうか。


1005棘の紀氏:2013/01/09(水) 07:18:46
羅神=「まさに、北極星は女神様でんな」
摩多羅神=非北極星説を唱えている。どちらが正しいのだろうか。 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/maramyo02.html
星宿(星宿神=北極星)

あみぼし【網星】とは。意味や解説。二十八宿の一、亢宿(こうしゅく)の和名。→亢(こう)
こう〔カウ〕【×亢】
二十八宿の一。東方の第二宿。乙女座中の東部の四星をさす。あみぼし。亢宿。 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/71441/m0u/
反抗の星
(秤宮四足)乙女座に属し、東方を守護す、星象は火珠 http://www5b.biglobe.ne.jp/~masamasa/uranai.html/syuku17.htm
 この宿に生まれし人、権威や既成に反抗するレジスタンス
 自分の主義主張を押し通そうとする強情さは27宿中でも1・2を争う星。
 自分なりの理想や価値基準があり、それを高く掲げて、どんな相手にもどんな状況にもそれを変える事は絶対にありません。

 真面目で善良、曲がった事が大嫌い。悪、不正、虚偽を嫌い、真実とか正義を愛し、 そうした自分に対してバカ正直な程、忠実です。
 プライドが高い為、なかなか信念を変えられず、自分の信念と現実での行動の間で微妙なバランスをとりながら生きている人が多いようです。
 人間関係の中で揉まれ、多少逆風を受ける方が生き生きと自分を出す事ができます。
 生来の強情さと多少シニカルな性格から自然と、伝統や権威というものに抵抗してしまう。
 性格は内向的で、内にこもる抵抗を示し、傍若無人のゴリ押しといったタイプではありません。
 反骨精神は強いが、日頃は無口で、むしろ目立たない人が多い。
 反骨精神が良い方に作用すれば、陽気で社交的、雄弁で自然と人の中心となる人が多い。
 悪い方に作用すると、あれこれと自分の無力さを思い悩むあまり、酒や目先の快楽に溺れて退廃的な生活に身を置くようになります。
 元来、反逆の星で自分の身を守る為なら手段を選びません。気が小さい分、追い詰められると「窮鼠、猫をかむ」ような思いがけない行動をやってのけます。

亢宿の北にひときわ目立つ「大角」がある。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/101

亢宿 こうしゅく. 和名は「あみぼし」「網星」。東方の第二宿で青竜の頸 にあたる。おとめ座中の東部の4星をさす。 http://whatsinaname.wiki.fc2.com/wiki/二十八宿の名前?sid=ce1e376e6ed26aac2f01fec026f2166f
中国では蒼竜(青竜)(東)・玄武(北)・白虎(西)・朱雀(南)の4つの方角(四神)で7宿ごとにまとめられている。各宿には比較的明るい星が西端にあり、これを距星という。
きょせい【距星】 二十八宿の各宿の基準点となる星。
名称:角
星数:2
距星:おとめ座(Vir)α・・・スピカ
該当星:Virα,Virζ
乙女の麦の穂を持つ手と手を結んだ宿

名称:亢
星数:4
距星:おとめ座(Vir)κ
該当星:Virκ,Virλ,Virι,Virφ
おとめ座の羽根と足の部分

名称:
星数:4
距星:てんびん座(Lib)α
該当星:Libα,Libι,Libγ,Libβ
天秤座の形に近い

名称:房
星数:4
距星:さそり座(Sco)π
該当星:Scoπ,Scoβ,Scoδ,Scoρ
蠍の両前足と頭の部分

名称:心
星数:3
距星:さそり座(Sco)σ
該当星:Scoσ,Scoα(アンタレス),Scoτ
蠍の心臓の部分

名称:尾
星数:9
距星:さそり座(Sco)μ
該当星:Scoμ,Scoυ,Scoλ,Scoκ,Scoι,Scoθ,Scoη,Scoζ,Scoε
蠍の尾の部分(針なし)

名称:箕
星数:4
距星:いて座(Sgr)γ
該当星:Sgrγ,Sgrδ,Sgrε,Sgrη
射手の弓と矢の部分

アルファベットの「y」
スピカから、西に向ってθ、γ、η、βとつなぐとおとめの身体。γから、δ、εとつなぐと右腕。その先ζは、乙女が右手に持つ羽ペンです。プラネタリウムでおとめ座の探し方を紹介するときは、スピカから西に星をつないでβまで、途中γからεへと伸ばして、アルファベットの「y」を描くように、とお話していました。
右手に羽ペン、左手に麦の穂を持つこのおとめ、ギリシャ神話では、正義の女神アストレイアと、農業の女神の姿に見ます。大昔は、人も神も地上で平和に暮らしていたのですが、時代が下るにつれて人間に悪い知恵がつき始め、神々は次第に天へ帰っていきます。正義を司る女神アストレイアは最後まで人間に正義を説きますが、人間が互いに憎みあい、親兄弟同士でまで争うになって、ついにあきらめ、天へ戻っていったといいます。
γ・ポリマです。白い星が寄り添っている様子が見られるのですが、離角が小さいので、小さい望遠鏡ではなかなか見ることができない星です。

・γ星(2.8等)ポリマ - Porrima
 ローマ神話に出てくる予言と出産のニンフの名前です。 連星系で、黄色い3.5等星の二重星です。 http://yumis.net/space/star/greece/vir-g3.htm

ニンフは古代ギリシアで各種の自然物に宿っていると信じられていた若く美しい女性の 精霊。 http://www1.icnet.ne.jp/take/3.html

ギリシア語のnymphe、ラテン語のnymphaは花嫁、あるいは結婚適齢期の若い女性を意味する。同じ語が、ハスの花、ヒツジグサ、あるいは貝殻のような女性生殖器のシンボルにも適用された。「ニンフたち」は女神の古代神殿において、とくに性的儀式のとき、巫女として仕えた。儀式では彼女たちは花咲ける豊穣の神聖なる原理を表し、ときには「神の花嫁」として知られた。Virgin Birth.
 中世時代、ニンフという語は、魔女や妖精fairyに対して用いられた。ともに前キリスト教時代の巫女の系統を引いているからである。自然の精として「ニンフたち」は、太古の時代には女神が支配していた自然界のどこかに、自分たちの霊魂を永遠に埋め込んだと信じられていた。したがって水のニンフ、木のニンフ、山のニンフ、地の中、海、「妖精の国」に住むニンフたちがいた。古代ではニンフと性欲は結びつけて考えられたが、この考え方は、多かれ少なかれその後も引き続き保持された。月の狂気が交合の季節の古代のニンフたちに刺激を与えたと考えられたように、今日でも「ニンフォマニア(nymphomania)」〔女性の色情狂〕は、性的妄想、を意味する語である。 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/nymph.html
〔ギリシア・神話〕 清流や水源、泉の神々の総称である。その中には、ネーレーイスたちNhrhivdeV(海のニンフ)、ナーイアスたちNai&;avdeV(泉・河川のニンフ)、オーケアニスたち=WkeanivdeV(大洋の神オケアノスの娘)、テティスの姉妹たちがいる。
 ニンフたちは、英雄を生み育てる。彼女たちは洞穴や湿った場所に住む。このことから、恐ろしい冥界的な側面を持つことになる。もともと、どんな誕生も、死と関係があるものだし、死も誕生と関係がある。彼女たちの特性が、だんだんと発展していって、無意識中の女性的な側面を代表するようになった。
 誕生の神、とくに英雄たちの誕生の神であるが、やがて恐怖心のまじった崇敬の念を起こさせるようになる。彼女たちは、子供を盗んだり、出会った人々の精神を狂わせたりするようになる。「日中は、ニンフたちの出現する時間である。彼女たちに会ったものは、ニンフにあてられて興奮状態に陥る。……だから日中は水源、泉、木陰に近づかない方がよいといわれる。のちに出来上がった迷信によると、水から出てくる彼女らの姿を見たものは、狂気に陥るという。恐怖と魅惑の入りまじった感情にとらわれるからである。ニンフに魅惑されると、狂気にいたり、自己破戒につながるという」(ELIT、178)。
 ニンフたちは、英雄的な狂気への誘惑を象徴する。こうした狂気は、戦功や肉欲、その他どんなレヴェルのことがらにおいても起こってくるものである。
 (『世界シンボル大事典』)

キリスト教の「父と子と精霊」とは何でしょうか? http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1729995.html
神=イエス=聖霊ですね。
神は私たちを創造され、救いのためにイエスをこの世に送り、そして
天に召され、その代わりに聖霊を送った。
この3つが一つになり、切り離す事もできないし、また除く事も出来ない
この3つ(3人)を含めてキリスト教と言っています
(キリスト教でも色々な見方があります。エホバの証人の人たちは聖霊を認めていませんと聞いた事があります)
まあ概念的に言葉が違うだけで同じように考えてください。

ダフニス【Daphnis】
ギリシャ神話で、シシリアの羊飼い。ヘルメスとニンフの子。その美貌で、神々やニンフに愛された。牧歌の創始者とされる。
土星の第35衛星。2005年に発見。名はに由来。公転軌道が2番目に土星に近く、環の「キーラーのすき間」にある。非球形で平均直径は約7キロ。

盲人】より
…片目一つ目【小田 亮】 http://kotobank.jp/word/Aipytos
[伝承と寓意]
 西洋では,盲目になることは,通常は見ることを許されぬものを見た人や誓いを破った人に下される神罰と考えることが多かった。ギリシアの神話や伝説には,いっさいの立入りが許されないポセイドンの聖域に侵入したアルカディアの英雄アイピュトスAipytos,ほかの乙女とは恋をしないというニンフとの誓いを破ったダフニス等が盲目とされる話がある。これらの神話や伝説は,見ることが必ずしも知ることにつながらず,かえって傲慢や無知におちいり,罰を受ける結果になることを教えている。…

プシュケ ―チョウという名の王女―
プシュケと神・エロス。
 ギリシャ語でチョウを表す「プシュケ」は、ギリシャ神話の神・エロスに愛された美しい王女の名前である。
 人間だったプシュケは、神である夫・エロスの姿を見ることを許されていなかった。しかしあるとき、夫は恐ろしい怪物かもしれないと不安にかられ、傍らに眠る夫の姿をろうそくの光で照らして見てしまう。夫は美しい神だった。
 その後、プシュケはエロスを追って幾多の困難を乗り越え、最後はエロスと正式に結ばれ神々の仲間に入る。神になったプシュケの背には、チョウのような美しい羽根が生えた。
 「愛を支えるのは見ることでも確かめることでもなく、相手を信じる心なのよ」。プシュケは自らの経験から、そう恋人たちにささやく役割を担うという。
Ψ
プシュケー(希: Ψυχή、アルファベット表記:Psyche)とは、古代ギリシャの言葉で、もともとは息(いき、呼吸)を意味しており、転じて生きること(いのち、生命)、また心や魂を意味するようになった言葉である。
希: Ψυχήはもともと息(呼吸)を意味していた。呼吸は生命のしるしとして最も顕著なものであったので、やがてこのプシュケーという言葉は、生命を意味するようになり、それが転じて、やがて心や魂も意味するようになった[1]。そのような語義になったのも当然[2]と指摘されている。(注※[3])
「プシュケー」という言葉を現代日本語に訳す場合、ひとつの訳語で押し通すことは困難なことが多々ある。同一の文献でも、ある文脈では「いのち」と、ある文脈では「心」あるいは「魂」と訳したほうが適切で、ある文脈ではどちらとも解釈可能、ということもある。古代ギリシャ語と現代語では概念の体系自体が異なっているのである[4]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/プシュケーhttp://ja.wikipedia.org/wiki/プシュケー
プロティノスは、神秘主義的な方向に進み、一者からヌース(知性)が、ヌースからプシュケーが、そしてプシュケーからヒューレー(質料)が流れ出ると述べた。
新約聖書 [編集]
新約聖書における「プシュケー」は、例えば『マルコによる福音書』3:4、8:35、10:45のそれは、日本語では「命」と訳しうる。また、マルコ 14:34、ルカなどでは感情の座である[5]。新約聖書の「プシュケー」という表現は、現代語で言う「精神」と「身体」を合わせた人間を表しているのであって、霊肉二元論ではないので、「人」とか「人々」と訳したほうが自然なくだりも多い[5]。
新約聖書ではプシュケーはプネウマと対比され、プネウマのほうは神から与えられる超自然的賜物とされている[5]。 例えば、パウロ書簡でもそうで、(ロシア語聖書ではプシュケーはドゥシャ、プネウマはドゥーフ、という語に訳し分けられている)、プネウマ(ドゥーフ)はパウロ書簡では、心・魂ではなく、それらを超えたところから外的に働く力、としてしるされている[7]。救済は古代ギリシャやグノーシス主義では「神的プシュケーの罪ある肉体(ソーマ)の牢獄(セーマ)からの解放」であったが、新約聖書ではあくまで体の復活としてとらえられている[5]。
ルター [編集]
ルターは、ギリシャ語のプシュケーをつねに「いのち」と訳していたという[8]。
ヘブライ語聖書の『トーラー』は前3世紀ごろにギリシア語に翻訳(70 人訳)されている。
それを見ると、ヘブライ語「ネフェシュ(  )」はギリシア語「プシュケー(   )」に翻訳されていることを知る。
たとえば剏世記2:7「主なる神は、土の塵で人を形作り、その鼻に命の息(ニシュマット)を吹き入れられた。
人はこうして生きるネフェシュになった」(手島訳)とあるが、その「ネフェシュ」をギリシア語訳者は「プシュケー」と訳する。
レビ記17:11「肉のネフェシュは血の中にある。
そして私はあなた方に対してそれを与え、祭壇の上で、あなた方のネフェシュを贖うことができるようにした。
なぜならそれは血であり、ネフェシュで(人は)贖われるのである」(手島訳)においても同様の対応をギリシア語訳者はしている。
 「ネフェシュ」も「プシュケー」も語源的にも共に「息」から派生した言葉であるから、それらの言葉を、地上で息をしている動物の「生命」の意味と解するのは妥当であり、それはホメロスの用例にも通じるものである(『イリアス』)。
しかし、目には見えない「生命」=「プシュケー」であるがゆえに、この言葉の理解をめぐって古代ユダヤ教の中では論争が起きた、とローマ期のユダヤ人歴史家ヨセフスは伝えている。
つまりファリサイ派は、「プシュケー」は地上の生のみに限られた存在ではなく死後にも続く生命であると主張し、それに対して、サドカイ派は、「プシュケー」は地上の肉体が滅びると同時に滅びる地上的な生命であると反論したという(『ユダヤ古代誌』13:12-16)。
この「プシュケー」不滅の論争は、ギリシア哲学者の間にも確認できる。
それゆえに死後にも滅びない生命「プシュケー」を「魂」・・・anima・・・soulとして区別する。

「プシュケー」を解説文に含む見出し語の検索結果 http://thesaurus.weblio.jp/content_find/text/0/プシュケー
プシケ - 日本語WordNet
意義素類語人の非肉体的部分霊魂 ・ 心霊 ・ 気魂 ・ 性霊 ・ 精神 ・ ソール ・ ソウル ・ プシュケー ・ 魂 ・ 心 ・ プシュケ ・ プシケー ・ 心魂 ・ 魂魄 ・ 霊...

>「プシュケ」は、ギリシャ神話の神・エロスに愛された美しい王女の名前である。

イエスを「主」と呼ぶなら ? ルカ7:46-49
それで、ヘブル語の聖書がギリシャ語に翻訳されたとき、「ヤーウェ」とあるところは ギリシャ語で「キュリオス」(主)となりました。今日の日本語の訳でも文語訳で「エホバ」と なっていたところは「主」となっています。英語の聖書でも「Lord」と訳され ...

霊魂 - Wikipedia
ピラミッド・テキストと呼ばれる初期の死者埋葬のテキストでは、死者が行くのは天の北 にある暗黒の部分であり、そこで北極星のまわりの星とともに、アク(霊)として永遠の命 を生きる、とされた ... 旧約聖書では、ネフェシュ(ヘブライ語で「咽喉」の意)と表現される 。 http://ja.wikipedia.org/wiki/霊魂
霊魂(れいこん、英:Soul、もしくはSpirit)とは、
肉体とは別に精神的実体として存在すると考えられるもの[1]。肉体から離れたり、死後も存続することが可能と考えられている、体とは別にそれだけで一つの実体をもつとされる、非物質的な存在のこと[2]。
人間が生きている間はその体内にあって、生命や精神の原動力となっている存在[2]、人格的・非物質的な存在[3]。個人の肉体や精神をつかさどる人格的存在で、感覚による認識を超えた永遠の存在[4]。
古代エジプトの時代から、人が死ぬと肉体から離れるが、肉体に再び戻ってくる、という考えがあった。
古代エジプト [編集]
『死者の書』に描かれたオシリスの姿
古代エジプトでは、霊魂は不滅とされ、死者は復活するとされていた。オシリスが死と再生を司る神として尊崇された。 自然界のあらゆるものに霊が宿るとされ、霊にも人間と同様に感情や弱点、欠点があると考えられていた[6]。
霊(ヒ)全ての活力の元であり、優れて威力のあるもの。白川静『字訓』によれば、中国で生命の原動力が雨に求められたのに対し(なので雨の字がつく)、日本では太陽光から来ると考えられたので、日と同じヒと呼ばれる。

北極星信仰は妙見信仰などに今日ものこっており、由来をこの ようなものだと知った。オシリス信仰はナイル川が氾濫する時期に重なるからだという。 http://ueshin.blog60.fc2.com/?mode=m&no=1501

北斗七星は、北極星を中心として反時計回りに円を描きながら、季節ごとに 位置を変えていきます。 ... バビロニアでは荷車、エジプトではオシリスの車、イギリス ではアーサー王の車とかチャールズの車、中国の漢の時代には帝車と考えられたそう です ... http://homepage2.nifty.com/turupura/guide/mark/hokutohitisei.htm

エジプト神名リスト:セラピス(サラピス)
ギリシャの最高神であるゼウスと、エジプトで当時、実質の最高神扱いとなっていた オシリスを合体させた神。オシリスが冥界神としての役割ももっていたため、ギリシャの 冥界神ハデスの役割も一部融合していた。信仰の中心地し、プトレマイオス朝の首都で ある ... http://www.moonover.jp/bekkan/god/serapis.htm

ヘルメス文書や、エジプト神 の再構成セラピスの話は、ごっそりふっとばしましたが。 三世紀以降は、西方ミトラ教の ... http://www.mkmogura.com/blog/tag/イルミナティ/page/6
結果から先に言うが、ボルグ派の影響で、このキリスト教の三位一体をトート、ヘルメス、エノクの三神にしてしまうのである。エジ3神で否定したにもかかわらず。
エジプト派の「オシリス・ホルス・イシス」の三位一体と何が違うかと言うと、トート(エジプト神話)、ゾロアスター(ギリシアローマ神話 ゾロアスター)、エノク(エチオピア、イスラーム)、3つで一つのヘルメスにしてしまう。
ここはゼウス=キリストを「子」とは認めないセム系ユダヤ人(セト=ゼウス ホルス=ゼウスではない派)と、東方ミトラ(ゼウス=木星 太陽ではない派=夜=シュメール)と、それぞれの考え方で微妙にずれるのだが。
ボルグの三位一体は、ミトラ(ギリシア神話ローマ神話)、エジプト神話、イスラム神話、全ての宗教の融和である。そこは間違いない。
キリスト教の根幹の教義だったのが、「全ての宗教が一つである」という三位一体に変わったのだ。
気が付けば帰一宗教になるわけで、これは、Zeitgeistが今やってることそのものなわけだ。
それはそのまま、日本でも、大本教で同じ経緯を経て「神道、仏教、キリスト教」は三位一体となり、大本教に言わせると「神道はキリスト者に至る過程」になるわけ。
で、そのキリスト教の先が、帰一教=イルミナティ教。
ボルグの思想だけでなく、やったこと、起きたこと、流れを考えれば、帰一教=イルミナティ教は、100%間違いのないことである。

エジプトがギリシアと繋がるために セラピス神 を新たに作りだした手法が参考になるんじゃないでしょうか? あれは見事な ... で、 御存知だとは思いますが、イシスはエジプト最高の女神様で穀物神、月神、復活神、 医薬神として、 ... http://the-ark-company.com/2012/31.html
「先生、ユダヤ・キリスト教の立場では、古代エジプトと敵対してしまうわけですよね?
 だけど、モーセはエジプト魔術の使い手だったわけですから、偶像崇拝は別として、彼の学んだエジプト魔術は、ユダヤにも伝わってると思うのですが、どうなんでしょう?」
「するどい着眼ですね。 古代エジプトは魔術の故郷なので、ギリシアやローマなど、地中海世界の魔術はエジプトを押さえておけばいいのですが、もう1つ、今あなたが仰ったように、多神教であるエジプトをよしとしなかったユダヤ・キリスト教系にも密儀的なものがありますね。
 これを、伝承してる人もいれば、古代エジプトと対立してるはずの密儀を一緒に伝承してる方も おられるようですが、ちゃんと習合できてないみたいですね、キリスト以前のイスラエルの密儀とは」
「お! ソロモンとかですね?!」

例えば、カトリックの洗礼と聖体拝領という密儀も、生前のキリスト様の血と肉を、パンと葡萄酒という、生々しさを排除した形で摂取するわけですが、これはキリスト様と一体化するという意味において、オシリス密儀と同種の魔術といえるんです」
「なるほど〜」

異端に悩む女性がユダヤ・キリスト教に異端とされた魔女や古代エジプトに惹かれるのは、至極、当然だと私は思います」
「その先に、イシスがいるってことですね。 オシリス神を甦らせてるわけですしね! すごい女性!」

「まさに、女神様でんな」

吉祥天も北天の女神。 菅原道真はどうやら北極星とされていたようなのです。 天満宮は北極星信仰の最後の封印といってもよいかと思います。それは水の女神の 封印と同じ意味を持ちます。 http://lemurian.blog.shinobi.jp/Entry/153/
菅原道真はどうやら北極星とされていたようなのです。天満宮は北極星信仰の最後の封印といってもよいかと思います。それは水の女神の封印と同じ意味を持ちます。
菅原道真の祖父にあたる菅原清公が吉祥天信仰を持っていたようですが、それだけで道真を北極星とする信仰が広がるはずがありません。古来より存在した北極星信仰に菅原道真が習合したと考えるのが自然だと思います。
しかも菅原道真の祟りは雷であらわされますが、それよりも以前、土佐大神が天武天皇に神刀を献上させられた(675年)3年後に賀茂別雷神社(通称上賀茂神社)は創建されています。
若々しい神鳴りということらしいですが、どこからその神鳴りを持ってきたのでしょうか?
天満宮を持ち出せば、雷は北極星の化身なので、北極星信仰のある土地から勧請したと考えるのが理にかなっています。

タナバタは七夕ではなく、棚旗であった可能性があります。棚田の上に旗を掲げることが北極星の女神が降臨することと何か関係があったのです。
源頼朝が日光という北極星を信仰し、熱心に八幡神を拝んだのにも理由があるのです。
ヤハタとは白旗の女神だったのです。八幡神社がこの国に最も多いのはこういう理由があったのです。
八幡神社のヒメ大神とは北極星だったのです。


1006棘の紀氏:2013/01/09(水) 07:40:11
Re: 羅神=「まさに、北極星は女神様でんな」
棘の紀氏からの追伸です。

ごめんなさい、場所をまちがえました。

1007秦野北斗:2013/01/09(水) 08:08:04
Re: 羅神=「まさに、北極星は女神様でんな」
棘の紀氏さんへのお返事です。

摩多羅神は大唐西域記の中印度、東西南北印度のどこかの神ではないか。

『渓嵐拾葉集』第39「常行堂摩多羅神の事」では、天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めたと記されている。

摩多羅神に近い言葉→鬱多羅僧・欝多羅僧|多羅|多羅葉|多羅樹|修多羅|貝多羅葉|鬱多羅僧|七多羅樹|多羅菩薩|修多羅供銭

大唐西域記

中印度
波理夜?羅国(パーリヤートラ)
秣菟羅国(マトゥラー)
薩他泥湿伐羅国(スターネーシヴァラ)
窣禄勤那国(スルグナ)
秣底補羅国(マテプラ)
婆羅吸摩補羅国(ブラフマプラ) - 蘇伐刺拏瞿?羅国(スヴァルナゴートラ、東女国)
瞿?霜那国(ゴヴィシャーナ)
堊醯掣?羅国(アヒチャツトラ)
?羅刪拏国(ヴィラサーナ)
劫比他国(カピタカ)

北印度
濫波国
那掲羅曷国(ナガラハル)
健駄邏国(ガンダーラ)
巻第三
烏仗那国(ウツディヤーナ)
鉢露羅国
?叉始羅国(タクシャシラー)
僧訶補羅国(シンハプラ)
烏剌尸国(ウラシャー)
迦湿弥羅国(個失蜜、カシミール)
半笯蹉国(パルノーツア)
遏羅闍補羅国(ラージャプラ)
巻第四
磔迦国(タツカ)
至那僕底国(チーナブクテイ)
闍爛達羅国(ジャーランダラ)
屈露多国(クルータ)
設多図盧国(シャタドル)


1008荊の紀氏:2013/01/09(水) 11:06:21
ミトラ(弥勒)の奥様は、最高神シヴァ神の妻パールヴァティー
>
摩多羅神は大唐西域記の中印度、東西南北印度のどこかの神ではないか。


アクシャラカーラ aksharakāla(南インド)の数によってターラ http://kotobank.jp/word/ターラ
北インドでは十数種のターラが用いられる。

チベットの仏像 ターラ菩薩像 ガネーシャ像
チベットの仏像やインドのガネーシャ像など人々に愛されるたくさんの神様。 あまり重々 しくなく、なぜか惹かれる魅力的なものを集めました。 緑ターラ菩薩 優しい表情の緑 ターラ菩薩様。蓮の花から生まれた神様です。招福・財運などの願望成就に。 緑ターラ菩薩 ... http://www.phoocha.com/buddha/buddha.html
蓮華から生まれたターラ菩薩
タラは、救いがたき有情(うじょう)をも救わん、と、聖なる女性の姿をとり、顕現した仏母(ぶつも)。
苦しみの中にいる有情のあまりの多さに観世音菩薩が涙を流し、そのしずくから蓮華が咲き出で、そこから生まれたのがターラ菩薩なのです。

ドゥルガー(?????? durgā)は、ヒンドゥー教の女神。その名は「近づき難い者」を意味する。外見は優美で美しいが、実際は恐るべき戦いの女神である。10本あるいは18本の腕にそれぞれ神授の武器を持つ。神々の要請によって魔族と戦った。シヴァ神の神妃とされ、パールヴァティーと同一視された。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ドゥルガー
シヴァ神の神妃とされ、パールヴァティーと同一視された。
ドゥルガーは、魔神ドゥルガーを大戦争の末に滅ぼしたとき、記念としてその魔神の名を自らの名前にしたのだという。 シュムバ、ニシュムバととの戦いでは、怒りによって黒くなったドゥルガーの額から女神カーリーを生み出した。この女神はドゥルガー以上に純粋に戦闘を楽しむ女神とされる。さらにドゥルガーは逆立った髪から7人(あるいは8人)の戦いの女神・マトリカスを生み出している。
10月ごろに行われるドゥルガー・プージャーはドゥルガーを祝う祭であり、とりわけベンガル地方では盛大に執り行われた。

太秦の摩多羅神は唐模様の頭巾をかぶっておられ、その頭巾に北斗七星が描かれる。 http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/1_J.html
ターラーにとっては夜こそふさわしい。
ターラーは救いと夜空に輝く星の意味を併せ持った境界神である。
偉大なる女神ターラー(TARA)にはサンスクリット語で語源的には川を横切る、運ぶ、超越するなど、また、解放する、逃れるなどの意味がある。
そして、ターラーが救度菩薩といわれるのも冥界との境界においてこの女神が援助の手をさしのべてくれると信じられているからである。その意味で、ターラーは純粋な「境界神」であり、両性を併せもつ「超性」の菩薩である。

マ(Ma)はインド・ヨーロッパ諸語で母親を意味する基本的音節で、Ma・Maは母親の乳房をないし、母親を意味している。
摩多羅神は男女二根の一体神
弥勒菩薩とは、マイトレーヤで、ミスラ教の救世主である。
元々、ミトラス神は、古代インド・イランのアーリア人が共通の地域に住んでいた時代までさかのぼる古い神ミスラ(ミトラ)であり、イラン、インドの両地域において重要な神であった。特に『リグ・ヴェーダ』においてはアーディティヤ神群の一柱であり、魔術的なヴァルナ神と対をなす、契約・約束の神だった。アーリア人におけるこの神の重要性をよく示しているのがヒッタイトとミタンニとの間で交わされた条約文であり、そこにはヴァルナ、インドラ、アシュヴィン双神といった神々とともにミスラの名前が挙げられている。ミトラ教の神話体系が仏教では菩薩として受け入れられ、マイトレーヤを軸とした独特の終末論的な「弥勒信仰」が形成されたといわれる。マイトレーヤ信仰または弥勒信仰はのち中国など東アジアに伝わったことは確かだ。なお仏教の弥勒信仰以外にもインドではミトラ信仰・マイトレーヤ信仰があった。

シヴァ神は、美しい妃パールヴァティと神々の歴で百年間、交わってばかりいた。あきれた神々が中止を申し入れると、パールヴァティは神々に喰ってかかった。シヴァとパールヴァティの両質の合体によって、とりまく一切の創造と破壊が生じている。パールヴァティはいろいろと変身(アヴァアタラー)する。あるときは、ドゥルガーと呼ばれる戦士、あるときは、カーリーと呼ばれる残忍な復讐の女神に化身した。このパールヴァティの化身、ドゥルガーは念怒相の”馬頭観音”に似ているとも言われる。カーリーの拳族に、チベットと日本で意外と影響力を持っていたダーキニがいる。ダキーニは恐ろしい姿をしているが、チベットでは内火(内光)を点火するためにダキーニを観想する。内火は、シャクティ(女蛇)のエネルギーそのものだとされているからだ。 なんであれ、歓喜仏とつながるパールヴァティはシャクティー派の絶大な信仰を得ている。また、興味を引くのは、シヴァと、パールヴァティの乗り物は聖牛ナンディンである。牛に坐す神は”牛祭”の様式の原図となっているとも言えよう。(すでに紹介したが、焔摩天もまた水牛に乗っている。) http://wiki.livedoor.jp/niwaka368/d/??¿??????????ΰ??ο?

ちなみにミトラの奥様に当たるミーシャの苗字( パールヴァティー)はインド神話における最高神シヴァ神の妻であり、絶世の美女という ... http://www1.ocn.ne.jp/~delangel/shousetus_omake_mithra-rig-selcyes.htm


1009荊の紀氏:2013/01/09(水) 11:25:42
ミトラ神の謎
ミトラス教がローマに出現した時期とキリスト教がローマに出現した時期が あまりにも近すぎる。こんな近似をいつまでも放っておけるものじゃない。エッセネ派や 死海文書をめぐる原始キリスト教研究が一段落ちつけば、いよいよミトラ信仰とは何だっ たか ... http://1000ya.isis.ne.jp/0445.html
なぜ誰も闘牛のルーツがミトラ神の牡牛殺しだと言わないだろうか。なぜ誰もアンチキリストのモデルがミトラ神にあったという研究に没入しないのだろうか。
ゾロアスター教の神官マゴスの活動とともに、ミトラは小アジアに広まっていく。小アジアにはすでにカルデア人の神官たちがいて、マゴス神官はこれらと交じってカルデア人の占星術をはじめとする密儀をとりいれ、さらにギリシア文化に接してその密儀性を膨らませていった。
 その密儀はギリシアでは太陽神のおもむきをもっていたが、そこには異様な性格も内蔵されていた。
 それが牡牛信仰である。
 小アジアやヨーロッパにおける牡牛信仰=牛角信仰ほど、謎に満ちたものはない。そもそもモーセが闘ったのが異様なバール神という三日月型の牛角をもつ牡牛信仰だった。しかしながら、その牡牛信仰と「牡牛を屠る神」とは、どこか共通するものがありながら、そこには別の立場の強調というものがある。

 太陽と牡牛を秘めたミトラの力にとびついたのは、キリキアの海賊たちである。
 海賊たちはミトラに「牡」の力を見分け、これにあやかった。このころからミトラは戦士神としての色彩を加えていく。プルタークは、かれら海賊たちがリュキアのオリンポス山に風変わりな貢物を持って入り、ある秘密の儀式をしていたが、それはいまも見られるミトラス神の宗門の儀式に近いものだったと書いている。
 ついでミトラ神はローマ帝国領内に入っていく。記録にはっきり残っている事績では、アルメニア王ティリダテスがローマ皇帝ネロの戴冠をうけるためにトラキア、イリュリア、イタリア東岸を通ってローマに入ったとき、ティリダテスがネロにこう言ったというらしい。「いまや私は陛下のもとに来て、陛下にミトラス神に対するのと同様の礼拝を捧げます」。プリニウスはそのあとのことも少しだけだが、書いている。「ティリダテスはネロを魔法の食事の儀式に導き入れた」。

 どうやらネロがミトラ信仰と最初の接触をもった皇帝であることは事実のようだ。
 これが西暦66年のことである。まったく同じころ、原始キリスト教がローマに入っていった。このときローマ人たちはイエスが生まれたときに、東方の三博士がマゴス神官の恰好をしてベツレヘムに到着したという伝承を聞く。そのひとつの証左になるが、マタイ福音書のアラビア語版には、「見よ、マゴス神官たちがエルサレムにやってきた。これはゾロアスターによって予言された通りの出来事である」とある。
 ゾロアスターは土地の言葉ではサオシャントともいう。ローマ市内に出土したラテン語碑文のいくつかには、しばしば「サオシャント万歳」の文字が判読できる。どこかでゾロアスターの神とミトラ神とが習合したにちがいない。
 ともかくも、こうしてしだいにイコンとしてのミトラ神が成長していった。神殿も各地に広まった。そしてその神殿正面には必ずといってよいほどに牛を屠る神像が飾られた。タウロマキアとはその牛屠りを聖化している状態をあらわしている言葉である。この図像を調べることはミトラを解くことであり、ミトラを解くことはのちのキリスト教徒たちがなぜ自分たちのことを兵士ととらえるかという謎を解く。

いまだにミトラ神の謎はその大半を21世紀に残したままなのである。その理由は、多くのミトラ的なるものがキリスト教に融合摂取されてしまい、いまではそのオリジナリティを問うこと自体がキリスト教社会のタブーとなっているからである。
 できることならば、ぼくはミトラをスペインの闘牛場から復活させたいと、21世紀の最初の冬至が近づく夜に呟きたい。


1010荊の紀氏:2013/01/09(水) 11:32:29
コンスタンティヌス帝とキリスト教
前1世紀 [編集]
63 共和政ローマの将軍のポンペイウスがエルサレムに入城する。ユダヤ地方(イスラエルまたはパレスチナともいう)はローマの支配下に入る。
34 ヘロデ大王、ローマからユダヤ人の王に任命される。
29 オクタビアヌス、ローマ初代皇帝となり、ここに帝政ローマが始まる。
7〜4頃 イエスがユダヤ地方(イスラエル)のベツレヘムに降誕する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/キリスト教年表
1世紀 [編集]
27 この頃、洗礼者ヨハネが活動を開始する。イエスはヨハネより洗礼を受け、良き訪れと呼ぶ宣教活動を開始する。
29または30 イエスがエルサレムのゴルゴタの丘で磔刑になり、三日目に復活した。
30 復活の後、イエスが弟子たちに大宣教命令を与えた。
35または36 ステファノが石打ちの刑で死にキリスト教の最初の殉教者(致命者)となる。迫害者パウロ(本名サウロ)がイエスの幻を見て回心する。
46 サウロがバルナバとともに第1回伝道旅行(キプロス・小アジア)に出発し、途中で名をパウロと改める。
4世紀 [編集]
301 アルメニア王国がキリスト教を国教とする。当時のアルメニアは、ローマ帝国の従属国だが、国家の国教としては世界初。
303 皇帝ディオクレティアヌスがキリスト教禁圧令を出し迫害する。
306 この頃、コーモンのアントニウスがエジプトで隠修士を集め、キリスト教最初の修道院を始める。
312 コンスタンティヌス1世、十字架を旗印にしてミルヴィウス橋の戦いに勝利する
313 ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がミラノ寛容令を発しキリスト教を公認する。

ローマの コンスタンティヌス帝は、臨終の床で洗礼を受けるまではキリスト教徒では なかたのです 。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1064
ユスティニアヌス帝の妻であるテオドラ皇后は、最初は神殿娼婦であり[8]、 コンスタンティヌス帝の母である聖ヘレナは、皇后-聖人になる前は娼婦であった http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/prostitution.html

ローマの コンスタンティヌス帝は、臨終の床で洗礼を受けるまではキリスト教徒ではなかたのです 。 http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/rkxmas.htm
当時の最大の宗教勢力はミスラ(ミトラ又はミトラスなど)教でありました。このミスラはもとはゾロアスター教(拝火教)の大天使で、太陽崇拝の象徴でもありました。このミスラは有翼日輪の姿で表されます。


1011管理人:2013/01/09(水) 12:24:56
渤海使
ちょっと渤海使と新羅使を調べてみました。

どうも渤海使というのは、偏西風に乗ってきたようですね。
帰路は南風で帰ったらしいのですが、いまいちルートがよくわかりません。
http://www.shikagen.net/rekisi/bokkai/bokkai.htm


シルクロード系の品物も多くもってきたようで、きしさんや秦野さんご指摘のマタラ神などもその関連で入ってきたのかもしれません。日光にありますね。

光仁・桓武・嵯峨時代に多いのは、先の新漢氏・高句麗系との関係でしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

それで送使もしたわけですが、嵯峨以降はしなくなったようですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

高麗朝臣が送使に見えるのはおもしろいですね。

720年(養老4年)渡嶋津軽津司諸君鞍男が渤海へ送使だとしたら、一度日本海を北上し、津軽方面から渤海に向かった可能性がでてきます。渤海からリマン海流で南下したという線なのでしょうか。

その際に、蝦夷関連とも交易して帰った可能性を感じますね。

それに比して新羅使はまた違う特徴がありますね。桓武・光仁・嵯峨は興味がないようです。天武・持統あたりは逆にですね。

近江系の息長・小野・高向など新漢人がやはり多いのは、元が新羅系だからでしょう。高句麗→新羅へと流れた北燕遺民です。山口忌寸、忌部氏が見えるのは、また何かありますね。新羅経由で入ってきた東欧系の信仰と関わるかもしれません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/

こうみると、やはり桓武平氏は高句麗・渤海あたりに興味がありますね。

初期は軍事同盟、後半は交易関係とのことですが、

奥州藤原関連の交易の話が重要ですね。
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/1-30.htm




1012棘の紀氏:2013/01/09(水) 13:14:48
渤海 安息  関連
渤海 安息  関連
パルティアのことについて少し発表します。
このパルティアは中国表記では安息国と呼ばれ、漢時代には遼東方面に移住したといわれている。さて、この安息氏と思われる人物が登場するのは好太王のときである。
『梁書』高句麗伝
 396年、慕容垂が死に、子の宝が立つ。句驪王の安を平州牧に任じ、遼東と帯方の二國王に封じた。安は長吏、司馬、参軍官を置いた。その後、遼東郡を略取した
詳しくは略すが、このとき高句麗は鮮卑、慕容氏の傀儡であった。この安氏こそスキタイ王なのである。中国史にも登場する安羅国とは、この安息氏の国に違いない。慕容氏は高句麗王に安羅王を指名し、広開土王とも言われるが、倭、百済、新羅の攻撃を防ぎ、高句麗最盛期を築き上げた。私の想像では、彼は応神天皇として九州へ攻め入り、宇佐で秦氏と同盟する。その後、近畿地方まで攻め入り、飛鳥に本拠を構えた。そのとき移住した王族が後の王仁(わに)一族であろう。飛鳥は安氏の住むところで「あすか」である。彼等の東征が神武東征の実態と考えている。

渤海は日本と示しあい、新羅を挟み撃ちにしようと試みる。このときすでに光明子は亡く、吉備氏、弓削氏らにより仲麻呂は亡ぼされ、鮮卑、慕容氏は日本での地位を失ったと考えられる。これ以後、日本と渤海の関係は文化的な方面に限定され、軍事的な同盟関係は失われた。つまり、これから推察するに、渤海の支配層は鮮卑、慕容氏と考えてもよいのではないだろうか。

渤海の支配層は鮮卑、慕容氏と考えてもよいのではないだろうか。もちろんまだまだ確定するべきではないが。
このように、安羅国は相当大きな勢力を持っていたと考えられるが、韓国の歴史書では相当矮小化されており、到底納得できない。おそらく通常の歴史解説書における百済国がそれに相当すると考えても間違いはないと思っている。なぜなら百済王といわれる武寧王の古墳はスキタイ形式であるし、南部方面には前方後円墳が多く見られる。


1013棘の紀氏:2013/01/09(水) 14:23:48
Re: 渤海使
管理人さんへのお返事です。

> ちょっと渤海使と新羅使を調べてみました。
>
> どうも渤海使というのは、偏西風に乗ってきたようですね。
> 帰路は南風で帰ったらしいのですが、いまいちルートがよくわかりません。


渤海の北みち
渤海国建国時も新羅の位置づけは変わっていないので、渤海使も当然このルート をたどっ. て来航することになる。 http://www.sce-net.jp/pdf/mado/e-28.pdf#search='渤海という国名は 当然のことながら残っ'
渤海使の前半は出羽の国、現在の秋田県に到着することが多く、出航地はロシア沿海州南端のグラスキノ付近と目されている
渤海の北みち http://www.sce-net.jp/pdf/mado/e-28.pdf#search='海の北みち 渤海'
石器時代から縄文時代にかけて、アジア大陸と日本列島との間の人と文化の交流は北方ルートを経由してなされていたことが北海道から東北北部にかけて発掘される多くの遺跡が物語る。大陸→間宮海峡→樺太→宗谷海峡→北海道→津軽海峡→本州東北地方とたどるルートは陸地が完全に視認できる距離の範囲でつながっており、古代人でも容易に行き来できる。これを新野直吉元秋田大学学長は「海の北みち」と名づけ、東北地方の北部日本海沿いに北方系の白人種の血がもたらされ、これがこの地に美人が多い理由の一つに挙げているのは興味深い。
時代が下がって渤海使の交流は船と航海術の進歩によりこれほど大回りしなくても日本海を直接横断して行き来できるようになったが、初期の渤海使が秋田県に多く到着したことと関連づけ、大陸との間の人間および文化の交流における海の北みちの重要性を主張されている。


1014管理人:2013/01/09(水) 16:11:43
Re: 渤海使
棘の紀氏さんへのお返事です。


> 渤海の北みち
> 渤海国建国時も新羅の位置づけは変わっていないので、渤海使も当然このルート をたどっ. て来航することになる。

どうも夏は南風で北上したようですね。出雲から出航した記載があるようです。

帆の使い方としては、こういう使い方もあるようです。
http://www.smacj.jp/j146/raceru/ra&ru.htm



1015棘の紀氏:2013/01/09(水) 20:35:29
Re: 渤海使
管理人さんへのお返事です。

構造的に 遣唐使船なみ?
ヨットの様に逆風でも進める揚力が働く構造で有るのに比べ、単なる帆かけ舟であった http://nic.main.jp/?p=7280
渤海使船・遣渤海使船の規模(渤海使船の構造に関する記録は無く遣唐使船からの類推です)全長約30m 幅約8m  乗船人員40〜60人 積載量150tと推測されている。
構造 遣唐使船から江戸時代の北前船まで構造的には進化は見られず、たらいに甲板をつけた様な構造で、完全に海水を遮断出来る甲板構造ではなかった。ヨーロッパの船との構造上の大きな違いは船底部が竜骨を持たない平底構造であった。重心の位置も高く、海が荒れると大きく傾き横転する事も多かった。推進力の要である帆の構造も大きな弱点であった。順風にしか対応できない原始的な帆かけ舟であった。すなわちヨーロッパの帆船がヨットの様に逆風でも進める揚力が働く構造で有るのに比べ、単なる帆かけ舟であった。
航路 朝鮮半島に沿って南下し対馬海流に流され日本海沿岸に達した。東北、北陸、山陰に到着。出発地は図們江の日本海河口であったと思われる。帰路は日本海を縦断するのでは無く、対馬海流に乗り東北地方の沿岸を北東に進み、北海道、サハリンでリマン海流に乗って現ロシア沿海州沿いに南下したと思われる。
渤海国から日本への第一回目の使者が派遣されたのは727年秋のことでしたが、対馬海流や悪天候に流され今の秋田県北部に漂着、24人の使節の内16人が蝦夷により殺害されてしまい、残った8人が渤海王の国書や献上物の貂皮300枚を守って4カ月かかり平城京に到着しました。




1016藤井游惟:2013/01/10(木) 06:08:03
白村江の戦い1350周年
http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/6shou.html

http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1017荊の紀氏:2013/01/10(木) 09:58:18
白村江の敗戦. 帰化人達
天智天皇は白村江の敗戦のあと、唐・新羅による報復と侵攻を怖れて北部九州の 大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海を主とする西日本各地に古代山城などの防衛砦を 築いた。また北部九州沿岸には、防人(さきもり)を配備した。 http://ja.wikipedia.org/wiki/白村江の戦い
新羅は、627年に百済から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。しかし高句麗遠征により、高句麗・百済が唐に対して敵対的になったことで、唐と新羅との関係が親密化した。また、善徳女王(632年〜647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は、積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(〜661年)として即位すると、両国の間はさらに親密化した。『三国史記』新羅本紀によれば、648年ごろより新羅と唐の間で百済攻撃の相談が行われていたとされ、一方649年には新羅から金多遂が倭国に派遣されるなど、倭国に対する外交工作も活発化した。
この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化改新最中の倭国内部でも警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる[1]。白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。白雉4年(653年)・5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたのもこの情勢に対応しようとしたものと考えられている。
660年(斉明天皇6年)、新羅からの救援要請を受けて唐が軍を起こし、同年に唐・新羅連合軍の攻撃によって百済は攻め滅ぼされた。唐は百済の旧領を郡県支配の下に置いたが、すぐに百済遺民による反抗運動が起きた。
、善徳女王(632年〜647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)
金春秋 (武烈王)
新羅は、金春秋を遣わして、孔雀と鸚鵡を献った。よりて春秋を「質むかはり」とした。 春秋は、「 ... 金春秋は、654年新羅29代武烈王となる人で、百済・高句麗の滅亡、 そして統一新羅建国に大きな影響力をもった人である。 http://achikochitazusaete.web.fc2.com/kiki/koutoku/chunchu.html
金春秋が質としてやってきた理由は、『日本書紀』によれば、
562年に任那が滅び、それを奪った新羅が任那に替わって調を貢いできた。
その任那の地が百済に奪われて、こんどは百済が貢いでくるようになったので、新羅は貢がないでよろしい。
その貢物の代わりに質をだしなさいと、646年9月に伝えた。その質が金春秋という。
80年も前に滅んだ任那の税金をもう払わなくていいから、代わりに質という。あきれるような要求である。
そんな税金免除のために、金春秋は倭国にやってきたというのだ。
百済は執拗に新羅に攻めてくるし、こんなときに女王は亡くなるし、唐はお願いした通り高句麗を攻めてくれているし、
身体がいくつあっても足りんというこの時期に、税金の質ですか。平和な倭国です。
・・・
648年閏12月、金春秋は息子金文王も連れて唐に遣わされる。
唐の太宗は、宴を催し、春秋を特進し、息子を左武衛将軍に任じ、まさに厚い待遇で迎える。
この記事は、『旧唐書』・『唐書』・『資治通鑑』・『冊府元龜』という中国の史料に記されるし、
『三国史記』の「新羅本記」にも載る。史実であろう。
金春秋は唐の信頼を得て帰国、以後新羅は唐の礼服を着るようになり、また律令も倣ったという。
金春
こんぱる【金春】とは。意味や解説。能楽師の姓の一。シテ方と太鼓方にこの姓がある。 金春禅竹の曽祖父にあたる26世毘沙王権守(びしゃおうごんのかみ)の童名によった もの。「金春流」または「金春座」の略 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/83966/m0u/

金春流 - シテ方:能楽.net
始祖は泰皮勝(はたかわかつ)とされていますが、「金春」というの姓を使い出した人物は 皮勝から何と53代目も降った金春権守でした。 http://nohgaku.net/2008/06/post_df33.html

金春権守 とは - コトバンク
系図では聖徳太子時代の秦河勝(はたのかわかつ)を遠祖とし,現家元まで79代を 数えるが,猿楽の家としては,南北朝時代の毘沙王権守(びしやおうごんのかみ)(河勝 より53世)あたりを流祖とみてよいであろう http://kotobank.jp/word/金春権守

銅鐸 古墳 寺社 造営 秦氏 国造 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/3267
秦氏は謎の氏族で、日本書紀によれば、応神天皇や仁徳天皇の時代に大挙来日して いる。巨大な応神陵や仁徳陵も秦氏の土木技術の粋をあつめて造営された。百舌鳥 古墳群・古市古墳群一体に本拠地をおく土師氏も秦氏の一族であったかもしれない。 http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/national_history18.html
高野新笠の母は、土師真妹といい百舌鳥を本拠地として古墳造営に関わっていた土師氏の出身である。土師一族は、桓武天皇より、大枝(大江)、菅原、秋篠氏を与えられ平安官僚となってゆく。
 新王朝の樹立にともない桓武天皇は、天武系の皇城である平城京からの遷都を計画した。
こうして784年長岡京への遷都が行われる。ところが、遷都の翌年長岡京造営長官であった藤原種継が暗殺された。背後に桓武天皇廃位計画があることが発覚した。さらに、二度の大洪水に見舞われ桓武天皇は、再遷都を和気清麻呂の建言によって決意する。こうして選ばれたのが、千年の都となる平安京であった。

丹波国造 - Wikipediahttp://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-snvaio&;p=%E7%A7%A6%E6%B2%B3%E5%8B%9D%E3%80%80%E5%9B%BD%E9%80%A0&;ei=UTF-8
丹波国造(たんばのくにのみやつこ)は、後の令制国の丹波国および但馬国と丹後国、 現在の京都府中部および北部から兵庫県北部 ... 真偽は不明だが、5世紀に秦氏が 亀岡市域の桂川の治水工事を行ったため、この辺りの桂川は大堰川と呼ばれている という。


氏(ウヂ)や秦氏(はた)、東漢氏(やまとの あや)、西文氏(かわちのふみ)などの代表的な帰化人達に与えられた氏(ウヂ)がある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/氏姓制度
原始共同体においては、氏族や部族が社会の単位となった。氏姓制度の基盤は、血縁集団としての同族にあったが、それが国家の政治制度として編成し直された。その成立時期は、5〜6世紀をさかのぼらない。同族のなかの特定の者が、臣(おみ)、 連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)、百八十部(ももあまりやそのとも)、県主(あがたぬし)などの地位をあたえられ、それに応ずる氏姓を賜ったところに特色がある。
伴造(とものみやつこ) 連(むらじ)とも重なり合うが、おもにそのもとでヤマト王権の各部司を分掌した豪族である。弓削氏(ゆげ)、矢集氏(やずめ)、服部氏(はとり)、犬養氏(いぬかい)、舂米氏(つきしね)、倭文氏(しとり)などの氏(ウヂ)や秦氏(はた)、東漢氏(やまとのあや)、西文氏(かわちのふみ)などの代表的な帰化人達に与えられた氏(ウヂ)がある。連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓(カバネ)を称した。
大化の改新により、氏姓制度による臣・連・伴造・国造を律令国家の官僚に再編し、部民を公民として、一律に国家のもとに帰属させた。
664年(天智3年)に、「甲子(かつし)の宣」が発せられた。これは、大化以来の官位を改め、大氏(おおうじ)、小氏(こうじ)、伴造氏(とものみやつこうじ)を定め、それぞれの氏上(うじのかみ)と、それに属する氏人(うじびと)の範囲を明確にしようとするものであった。つまり、官位の改定によって、大錦位(大氏)・小錦位(小氏)、つまり律令の四、五位以上に位置づけられる氏上をもつ氏を定めたものであり、これによって朝廷内の官位制度と全国の氏姓制度とを連動させようとした。さらにこのような氏上に属する氏人を父系による直系親族に限ることとし、従来の父系あるいは母系の原理による漠然とした氏の範囲を限定することとした。これにより、物部弓削(もののべゆげ)、阿倍布勢(あべのふせ)、蘇我石川(そがのいしかわ)などの複姓は、これ以後原則として消滅することとなる。

天武朝において氏上に相当する氏が八色の姓に改姓する前段階として、まず連への改姓が行われ、この連=小錦位以上を基点として、忌寸以上の四つの姓へ改められたことと同様の対応である。
氏上である忌寸以上についても、補足的な氏姓の変更が行われている。氏の名において春日より大春日、中臣より大中臣への変更、また宿禰から大宿禰への変更が行われるなどしたため、氏姓の制は、全般的に、より緻密に浸透することになった。
これらの全般的な特徴として、まず首位の昇叙があり、ついでそれに連なる直系親族のみに対し氏姓の変更が行われるといった順序により同族の中から有力な者が抽出されるという点にある。この改賜姓を認可する権限は天皇にあった。

キムヨナって中国人だったんですか? 韓国の最大姓金氏は金海金氏と ... http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1454909569
辰韓とか、もともと、秦と韓からきた難民が作った国で秦韓がなまったんでしょ。 ところで 問題は馬韓なんですが、この馬韓は辰韓とは異民族で、言語が違っていたみたいです
韓国の最大姓金氏は金海金氏と慶州金氏に大別されますネ。
新羅の英雄金庾信は新羅法興王の時、新羅に降った金官国(金海)王の子孫です。
その金庾信碑に、金官国王族と新羅は同姓で、かつ少昊金天を祖とする同族だとある。

大陸から民族移動してきた穢と貊(檀君神話の虎と熊)が混成して古朝鮮社会を形成しました。
殷の末、箕子が東走してきて朝鮮社会の指導者となりました(箕氏朝鮮)。
箕子の後、準の時、燕人衛満に率いられた難民集団が準を騙し討ちして衛氏朝鮮を建国しました。
準は南に逃れて韓王を称した。朝鮮に残った準の親族も韓氏を名乗った。
韓は、中国の春秋戦国時代にあったけど…
韓国人って中国人だったんだ。
ついでに高句麗、百済は、旧満州にあった扶余に出自してましたよね。
新羅は、秦の土木工事を避けてきた難民の辰韓の斯羅国から発展したものですよね。
馬韓の辰王は亡命者だったといいます。
朝鮮半島は大陸からの難民・移住者の吹き溜り、ちゅうか朝鮮民族は大陸からの難民・移民の集合体ですか?

さて古朝鮮族(濊と貊)はどこから来たのだろうか?
ある中国人学者は中国山東省に濊水、濊邑があると指摘している。
箕子朝鮮の伝説地は、直隷省・遼寧省・内モンゴル自治区・平壌などにある。
古朝鮮族のルーツをたどる時、檀君神話の帝釈天の子桓雄が降臨した太伯山(今の妙高山)と高句麗朱蒙神話の天王郎解慕
漱の降臨した扶余が参考になる。なぜなら桓雄と解慕漱は同一神(カムス)だからである。
「三国遺事」北扶余条に引用される古記には天帝解慕漱が大遼医州界に降ったとある。
どうやら古朝鮮族の移動ルートは渤海湾沿いを考えねばいけない。

唐を「隣国」、朝鮮諸国(この時代には新羅と渤海)を「諸蕃」、 蝦夷・隼人・南島人を「夷狄」と規定する「東夷の小帝国」と呼ぶべきものであった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/奈良時代
東夷の小帝国 [編集]
その中にあって日本の律令国家体制では、天皇は中国の皇帝と並ぶものであり、唐と同様、日本を中華とする帝国構造を有していた。それは国家の統治権が及ぶ範囲を「化内」、それが及ばない外部を「化外」と区別すると、さらに化外を区分して唐を「隣国」、朝鮮諸国(この時代には新羅と渤海)を「諸蕃」、蝦夷・隼人・南島人を「夷狄」と規定する「東夷の小帝国」と呼ぶべきものであった[7][8]。律令に規定後、それを自負したり目指したことと、とりわけ唐や朝鮮諸国との関係に実態がともなったかどうかは別の問題である。
渤海 [編集]
713年、靺鞨族や旧高句麗人(狛族)を中心に中国東北部に建国された渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅の対抗上727年(神亀4年)に日本に渤海使を派遣して国交を求め、日本に対し臣従するかたちをとった。日本もこれを「蕃国」高句麗の再来としてその朝貢を歓迎すると[15]、また新羅との対抗関係から、渤海との通交をきわめて重視した後、遣渤海使を派遣した。その渤海も、国力の充実とともに日本に対する「臣従」を必要としなくなり、771年の渤海使は上表文が無礼であることを日本に非難された。その一方で渤海使も交易に比重を置くようになり、来日の頻度も増えていった。平安時代初期には完全に変質したものとなり、824年には右大臣藤原緒嗣が「渤海使は商人であるので、今後は外交使節として扱わないように」と言うほどのものとなった[16


1018荊の紀氏:2013/01/10(木) 10:11:19
沙王権守(びしやおうごんのかみ)河勝
七福神(毘沙門天)
一般に知られる幸福をもたらすとされる七福神のうち毘沙門天を解説する. http://www.geocities.jp/mitaka_makita/kaisetu/bisyamon.html
北方守護の神仏である毘沙門天は、仏教とそれを信じる人々を守る四天王の一人であり、憤怒の相に唐の武人装束をまとい、左手に宝塔、右手に金剛棒(あるいは三叉戟:先が三つになった槍)を持ち、二体の邪鬼を踏みつけている姿で表わされ、古くから武人たちの厚い信仰を得ている。
北方守護の神
 毘沙門天のルーツは、インドの前期ヴェーダ時代(紀元前1500〜紀元前1000頃)からの古い神で、北の方角を守る神ヴァイシュラヴァナで、これが毘沙門天と訳されており、多聞天と呼ばれる場合もある。また、吉祥天は毘沙門天の妻である。

ヴァイシュラヴァナ (Vaisravana)
大海から生まれたもの」の意で、アイラーヴァナとも呼ばれる。神々が不死の霊水を求め て大海をかき回した時に .... ヴァイシュラヴァナ (Vaisravana). 【解説】 クヴェーラの別名 。 http://contest.thinkquest.jp/tqj2000/30256/ethnology/god/india/index.html
神々が不死の霊水を求め て大海をかき回した・・・

インドの神話でも世界軸としての山が攪拌棒として用いられ、蛇をそのマンダラ山に 巻き付け紐の代わりに使って大海をかき回す。日本神話でもイザナギとイザナミが天の 沼矛で原初の海を掻き回す。混ぜ合わしたのち色々な物が生まれる。何かが生まれる ため ...
混ぜ合わしたのち色々な物が生まれる。何かが生まれるためには媒体しかない所をかき混ぜて生み出している。混ぜると混じる、交じるの連想から結局は男女が交じることで何かが生まれるということである。海という女性性を表す対象に、山、矛などの棒状のものや蛇などの長い物が男性性を表しておりまさに男女の交わりを表している。 http://toi-clinic.com/sinwa/21-40/sinwa-34.html


1019秦野北斗:2013/01/10(木) 13:35:07
Re: 白村江の戦い1350周年
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001043_2M.jpg

藤井游惟さんへのお返事です。

質問ですが金属器文明を持つ百済が白村江で日本に逃げた。文章から日本には金属器文明がなく・・。いっそ、百済が日本を攻めれ日本を属国にできますな。
そんな、日本が戦争。唐から見れば、単なる揉め事でしょうな。
真実はもっと大きな物があるのでは。

即ち「白村江敗戦」は、2300〜2500年前の稲作・金属器文明を携えた渡来人の流入による。

そうそう、韓半島から瑞穂の国との交易航路と船の大きさはどれくらい。
大化の改新、白村江敗戦後に屯倉は廃止された模様。疑問ですな。

当時の韓半島の地図を中国史籍から描き起こしましたので参照。

>
> 白村江敗戦による3000人を越える百済帰化人達が、後の日本国家、日本社会を目に見える形で大きく変えたのです。
> 白村江の戦い1350周年にあたり、渡来人研究会の皆様もマクロな目を見開いて、白村江敗戦の意義を論じて行こうではありませんか。
>




1020管理人:2013/01/10(木) 15:23:02
Re: 白村江の戦い1350周年
藤井游惟さんへのお返事です。

> さて、お気づきでない方も多いと思いますが、今年2013年は663年の「白村江の戦い」からちょうど1350年目に当たります。(ちょうど、といっても中途半端な数字ですが)
>
> 1350年前の白村江の戦いは、一般に考えられているようなちっぽけな事件ではありません。
>
> 白村江敗戦により倭(日本)は、倭王朝創始以来300年近く保ち続けてきた半島権益を完全に放棄せざるを得なくなった一方で、白村江敗戦は3000人を越える百済の王族・貴族・官僚の日本への大量亡命をもたらし、この大量の百済教養人が日本に漢字文明と当時の先端科学技術を広め、奈良時代の律令制国家「日本」の建設を陰で支える原動力となったのです。

藤井さん、今年もよろしくお願いします。

またいろいろ今回もご解説ありがとうございました。

また先ほどMLでもお返事しましたが、特に亡命百済人の白鳳・奈良当時の文献への影響はとても重要な課題ですね。

いろいろ興味深い点があるのですが、たとえば、ご指摘の下記の点は、古代史の通説と異なり重要です。

  中国語学者の森博達は『日本書紀の謎を解く』(中公新書 1999)に於いて、正格漢文で書かれたα群は中国人の述作であるとする一方で、残りの非正格漢文で書かれたβ群は倭人(日本人)の述作であるとし、β群のみに見られる「倭習」を指摘している。
  しかし、これらの「倭習」なるものは、全て「朝鮮習」とみなして構わないのである。

1)山田史三方は朝鮮語話者
   まず、森博達は、正格漢文の「α群」の述作者として、660年の百済滅亡の際に、倭に救援を求める百済遺臣によって献上された106名の「唐人俘虜」の中にいた薩弘恪・続守言等の人物であるとし、これらが『日本書紀』完成前の600年代末頃に死去したため、やむなく倭人にその仕事を引き継がせた、としている。
   そして、その仕事を引き継いで『日本書紀』を完成させた倭人として「山田史三方」(山田史御方・山田史三手)という人物を挙げている。

   しかし、「史姓の氏族は100%帰化人氏族とみなして良い」というのは日本史学界の動かし難い定説であり、中国からの帰化人でないなら消去法で朝鮮からの帰化人に決まっており、しかもこの山田史三方という人物は若い頃は僧侶で、新羅に留学していたという経歴まで解っている。
   これは、新羅に留学していたから朝鮮語が出来たのではなく、朝鮮語が出来たから新羅に派遣されて仏教を学んでいたと考えられ、その没年は解らないが721年の日本書紀完成まで生きていたことは確実であるから、寿命から考えると663年の白村江敗戦によって日本に亡命した百済人の日本生まれの二世で日朝バイリンガルに育った者の一人だと考えられる。(これは仮説であるが、この仮説がβ群の「倭習」から言語学的に証明できるのである)

2)語順による誤用
   森博達は、β群の「若急不計」(「もし急いで計らなければ」正格漢文では「若不急計」)といった誤りは、日本語の語順に影響されたもので、「日本人特有の誤用」としているが、朝鮮語と日本語の語順はほぼ同じなのであり、これはそっくり朝鮮語の語順に影響された誤用であると考えて構わない。



個人的にはこの点には共感してます。
山田史が、渡来系であることは確かで、純粋な倭系氏族と中国人との対比として論じるのには問題があるでしょう。

具体的には、山田史については、新羅系と「漢」系があるようにみえます。山田直は葛城系ですが、これは蘇我倉山田石川麻呂との関わりを感じます。蘇我山田石川麻呂が、乙史の変のときに、三韓の宣命を読み上げてますね。呂 http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/11_20/yamada.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/


「漢」は、百済・秦韓系の楽浪漢人系と、百済のもとの扶余系の穢人、さらに別に北燕・大陸系の新漢等を考慮すべきですが、おそらく山田史は前2者の出自ではないかと感じます。

古くは渡来系氏族が称したウヂ名であり、『新撰姓氏録』には、右京の山田宿祢氏(やまたのすくね、周霊王の太子晋の子孫と称する)、同じく山田造(やまたのみやつこ、山田宿祢と同祖)、河内国の山田宿祢(魏の司空王昶の子孫と称する)、同じく山田連(やまたのむらじ、山田宿祢と同祖)、同じく山田造(山田宿祢と同祖)、和泉国の山田造(新羅の天佐疑利命(あまのさぎりのみこと)の子孫を称する)が記録されている。平安時代初期の能吏として知られる山田古嗣(やまたのふるつぐ)もこの山田氏に出自していると見られている。


周防守に710年に山田史御方が向かいますが、周防が以前お話した蘇我氏の拠点で、豊浦宮の語が、蘇我(豊浦大臣)蝦夷と関係してきます。

ここで何をしに周防に山田史が向かったかも気になりますね。

 天皇の詔によると、「周防国の前の国司の従五位上の山田史御方(三方)が、管理すべき官物を盗む罪を犯してしまった。

 法律によれば免職にするべきであるが、恩赦で罪はもう許されている。しかし盗んだものを弁償させようとしたが、家には1尺の布もなかった。
朕が思うに、御方は、遠く新羅まで留学した。帰国してからは、学問を伝授したので、大学の学生は良く文章ができるようになった。誠にこのような人物をあわれまないと、文章の道が廃れてしまうだろう。そこで特に恩寵を与えて、弁償の徴収はしないこととする」
http://ameblo.jp/kodaitantei/entry-10466963271.html



たぶん、山田史の盗もうとした物は、蘇我系の歴史書籍ではなかったでしょうか。乙史の変で、蘇我氏によって過去の皇族系の記録が焼けてますから、それを確認しようとしたのかもしれません。

また周防方面から、新羅や渤海に向かう航海ルートがあったはずです。

新羅に留学僧として御方が向かう背景にも、おそらくは新羅とのつながりをみてよいでしょう。

ただ、蘇我系は百済・秦韓の楽浪漢人系で、おそらく言語系統は、後の新羅と異なるでしょう。



山田史(三方)御方を、三方沙弥という万葉詩人だとする見方があるようです。この歌あたりの語系統を、藤井さんのほうで、分析されればよいのではないでしょうか。

「長歌のもじりと同じ世界を万葉集の歌の中に見つけると、集歌0123の三方沙弥の歌に辿り着きました。ほぼ、もじり歌と集歌0123の歌からの三首が示す世界は同じです。
 さて、ここで示す三方沙弥は、直接に記録としてその人物を紹介するものはありません。このため、歴史書に「三方沙弥」の同名の記述が無いから正体不明の人物と解説する人もいます。一方、集歌4227の歌の左注から藤原房前(総前)との関係を見出し、続日本紀と懐風藻から山田史三方の通称と見る見方があります。このように議論はありますが、私は、三方沙弥を山田史御方三方と同一人物として、ここでの説明を行なっていきます。
山田史三方は仏教僧侶として新羅で学問を修め、後にその学問の才能から還俗し文章学士、博士、大学頭となっています」
http://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/84f8d0c3099c37129df848a7e3970095


三方の語に、三を用いたのが気になりますね。「御」を「三」にするのは、ちょうど御田・屯倉を三宅と後代したような、皇族等を意識した「諱」の関係を感じます。

百済王神社の旧神主家である三松氏は百済王氏の後裔を称した。
なお、俊哲が坂上田村麻呂の副将軍として日高見国へ遠征したことから、百済王氏の一部かその縁者が北上盆地に定住し、岩手県南部各地に現在でも百済姓を名乗る者が散見される。全体としては近畿から福岡にかけての瀬戸内海沿岸に多い。[要出典]
http://ja.wikipedia.org/wiki/

これも「御松」氏だったのはないでしょうか。



蘇我氏・武内宿袮系氏族や秦氏と秦韓、つまりある時期までの百済王族との関わりが重要で、
紀氏が編纂に入ってくるのもその関係でしょう。

山田史については、仮に山田造・後の宿袮と同系だとすると、下記のようになります。

姓氏録で、坂上氏につぐ地位にあります。かなり渡来系としては優遇されていますね。
http://homepage1.nifty.com/k-kitagawa/data/shoji03.html

諸蕃漢志我閉連連山田宿祢同祖王安高之後也  293
825右京諸蕃漢長野連連山田宿祢同祖忠意之後也  293
826右京諸蕃漢山田造造山田宿祢同祖忠意之後也


志我閉連については、正六位上 721年(養老5年)。陰陽暦博士 709年(和銅2年) - 730年(天平2年)。 余秦勝 よのやすかつ ? - ? 百済の亡命王族の子孫。 正六位上 721年(養老5年)。 志 我閇連阿彌陀 しがへのむらじあみだ ? - ? 漢出身。別称「志我閇連阿弥太」とあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


陰陽師というのは、しきりに百済王族系がでてきますので、そこに注目してもよいかと感じます。

そして山田宿袮は「王安高」が祖先となりますが、高句麗つまり楽浪系の王氏が、しばしば日本の古代文献には見えますね。

陰陽史の余秦勝という名も、百済王族と秦韓系の秦氏との兼ね合いでついたような名で、深い意味がありそうです。

こう考えていくと、おそらく山田史は少なくとも、純粋な倭系氏族ではないということが明らかになるでしょう。
さらにいえば、藤井さんご指摘の山東半島と朝鮮語の類似、そこへの楽浪郡との関わりも、考慮すべきと感じます。

あと、ご指摘の呉音の関係が興味深いですね。


1021秦野北斗:2013/01/10(木) 15:57:49
Re: 白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。


「史姓の氏族は100%帰化人氏族とみなして良い」としているが、韓国語にアイヌ語が多く含まれているのはご存知と思います。矛盾しますな?



>    しかし、「史姓の氏族は100%帰化人氏族とみなして良い」というのは日本史学界の動かし難い定説であり、中国からの帰化人でないなら消去法で朝鮮からの帰化人に決まっており、しかもこの山田史三方という人物は若い頃は僧侶で、新羅に留学していたという経歴まで解っている。
>    これは、新羅に留学していたから朝鮮語が出来たのではなく、朝鮮語が出来たから新羅に派遣されて仏教を学んでいたと考えられ、その没年は解らないが721年の日本書紀完成まで生きていたことは確実であるから、寿命から考えると663年の白村江敗戦によって日本に亡命した百済人の日本生まれの二世で日朝バイリンガルに育った者の一人だと考えられる。(これは仮説であるが、この仮説がβ群の「倭習」から言語学的に証明できるのである)


1022管理人:2013/01/10(木) 16:57:27
Re: 白村江の戦い1350周年
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> 「史姓の氏族は100%帰化人氏族とみなして良い」としているが、韓国語にアイヌ語が多く含まれているのはご存知と思います。矛盾しますな?
>
>

上記の「史」の件ですが、これは藤井さんの論説の本題ではないので、特に議論すべきことではないと思うのですが、たとえば、『姓氏録』あたりを見ると「史」のカバネを持つのは、渡来系を示す「諸蕃」に21氏と多く見える意外では「神別」にはみえず上毛野氏・トヨキイリヒコ系の「皇別」にも垂水史と、同じくトヨキイリヒコ系の田辺史、そして御立史だけなんですね。それで最後の御立史は持統朝の話なので除外して、また田辺史も「諸蕃」にもみえるので、除外すると、1氏だけしか見えないことがあります。
http://homepage1.nifty.com/k-kitagawa/data/shoji03.html


その他、記紀関連の記載等を上記に加えて計算して、百分率で割ると、おそらくは95パーセント以上は渡来系氏族で占められるのではないかと感じますから、その辺でそういう「通説」が出てきたんだと思うんですね。

だからおおよそ先の山田史御方も渡来系とみなして、問題はないだろうと感じます。

ただ別にご指摘のように、韓国語とアイヌ語との関係は興味深く感じます。先日のように、アイヌに多いHLA遺伝子が、韓国方面にもみえますし、その辺とも何か関わりがあるかもしれません。

1023秦野北斗:2013/01/10(木) 16:58:44
Re: 渤海使
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001047M.jpg

管理人さんへのお返事です。

渤海使の航海ルートは新羅と同様のルートになる。海流が参考になる。

日本海の海流を見ると新羅から3.北朝寒流2.沿海州寒流になり

渤海使は通常の新羅、対馬ルートになる。


> ちょっと渤海使と新羅使を調べてみました。
>
> 光仁・桓武・嵯峨時代に多いのは、先の新漢氏・高句麗系との関係でしょうか。
> それで送使もしたわけですが、嵯峨以降はしなくなったようですね。

> 高麗朝臣が送使に見えるのはおもしろいですね。
>
> 720年(養老4年)渡嶋津軽津司諸君鞍男が渤海へ送使だとしたら、一度日本海を北上し、津軽方面から渤海に向かった可能性がでてきます。渤海からリマン海流で南下したという線なのでしょうか。
>
> その際に、蝦夷関連とも交易して帰った可能性を感じますね。
>
> それに比して新羅使はまた違う特徴がありますね。桓武・光仁・嵯峨は興味がないようです。天武・持統あたりは逆にですね。
>
> 近江系の息長・小野・高向など新漢人がやはり多いのは、元が新羅系だからでしょう。高句麗→新羅へと流れた北燕遺民です。山口忌寸、忌部氏が見えるのは、また何かありますね。新羅経由で入ってきた東欧系の信仰と関わるかもしれません。
>




1024管理人:2013/01/10(木) 19:44:54
Re: 渤海使
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 渤海使の航海ルートは新羅と同様のルートになる。海流が参考になる。
>
> 日本海の海流を見ると新羅から3.北朝寒流2.沿海州寒流になり
>
> 渤海使は通常の新羅、対馬ルートになる。

確かにご指摘の図をみると、南風だけで北陸方面から渤海に帰れたのかどうかが気になりますね。

出雲から新羅沿岸ルートで帰る手もありますが、渤海船が北陸で待機した記載があるようなので、そうすると、北陸から来たときの船で帰ったケースが多かったのでしょう。

こちらのサイトに、東北・北陸・山陰の風向きと強さが列記されてます。
http://www3.pa.hrr.mlit.go.jp/nihonkaikankyo/shizen/kisyo/kaze/kenbetu.html

こうみると、敦賀から出航すれば、南南東の風にのれそうですが、能登から出航すると、流されて北東へ行ってしまいそうですね。夏は富山からは風が弱くても無理そうですね。


帆の角度を替えて果たして渤海までたどり着けたのか?

また陸地から離れると風の種類も替わるので、正直よくわかんないですね。

海流を利用するなら、渡島沖方面まで一度北上して、そこから渤海方面へ沿岸伝いで逆戻りするケースですね。



1025秦野北斗:2013/01/10(木) 20:15:33
Re: 渤海使
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001049M.jpg

管理人さんへのお返事です。

神武東征、古事記の海幸山幸には亀甲船が出ている。亀甲船は亀で表記される浦島太郎ですな。

海流には本流の横に小さな循環流が存在する。1. 黒潮では本流4ノット(約7.4km/h)に対し3.黒潮再循環流、流速0.3ノット程度の弱い流れがある。

わりと自由になったみたいですな。時間はかかりますが。
航路は出雲以外にもありますから心配なく。

渤海は濊で燕系の阿毎で衛満氏朝鮮になる。毛人(アイヌ)と同族と思われる。蝦夷錦がいい例になる。

蝦夷錦(えぞにしき)・山丹服(さんたんふく)は、江戸時代にアイヌ民族が沿海州の民族との交易で入手した、雲竜(うんりゅう)などを織り出した中国産絹や清朝官服のことである。

濊。南は辰韓、北は高句麗と沃沮に接し、東は大海(日本海)に尽き、今の朝鮮の東は皆、濊の土地である。戸数は二万。昔、箕子が朝鮮に行き着き、八條の教えを作り、これを教えたので、門戸を閉じずとも民衆は盗むことをしない。

> 確かにご指摘の図をみると、南風だけで北陸方面から渤海に帰れたのかどうかが気になりますね。
>




1026管理人:2013/01/11(金) 00:33:00
Re: 渤海使
秦野北斗さんへのお返事です。


> 渤海は濊で燕系の阿毎で衛満氏朝鮮になる。毛人(アイヌ)と同族と思われる。蝦夷錦がいい例になる。
>
> 蝦夷錦(えぞにしき)・山丹服(さんたんふく)は、江戸時代にアイヌ民族が沿海州の民族との交易で入手した、雲竜(うんりゅう)などを織り出した中国産絹や清朝官服のことである。
>
> 濊。南は辰韓、北は高句麗と沃沮に接し、東は大海(日本海)に尽き、今の朝鮮の東は皆、濊の土地である。戸数は二万。昔、箕子が朝鮮に行き着き、八條の教えを作り、これを教えたので、門戸を閉じずとも民衆は盗むことをしない。
>


ちょっと、船は船でも遣唐使と桓武の話になるのですが、上記の「丹服」とも絡んで、唐で見つかった井真成墓誌の件で、おそらく多治比氏が、その「井」姓と関係するのではないかと感じます。

元々この氏族の伝承に井戸の話があるんです。

中、奈良朝以前の宮廷の御産の形式の原形は、次に述べる反正天皇のみあれの際の伝説より来
きた
つてゐる。
瑞歯別天皇。去来穂別ノ天皇ノ同母弟也。去来穂別天皇二年。立為二皇太子一。天皇初生二于淡路宮一。生而歯如二一骨一。容姿美麗。於レ是有レ井。曰二瑞井一。則汲レ之洗二太子一。時多遅花落在二于井中一。因為二太子名一也。多遅花者今虎杖花也。故称謂二多遅比ノ瑞歯別天皇一。
右の日本紀の本文によると、産湯の井の中に、虎杖
イタドリ
の花が散り込んだので、多遅比
タヂヒ
といひ、歯がいかにも瑞々
ミヅ/\
しい若皇子であるから、瑞歯別と称へた事になつてゐる。だが、元来、多遅比の事に就ては、日本紀の伝へが、いさゝか矛盾してゐる。恐らく多遅比の名称は、若皇子を御養育した多遅比氏(丹比
タヂヒ
氏)の名称であつて、つまり、丹比氏が養育し奉つたから、若皇子の御名を多遅比と称へたのであらう。しかしながら、後世には事実をよそにして、産湯の井の中に多遅
タヂヒ
の花が散り込むと云ふ、
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/24433_14216.html


それで、この募碑をみると、「丹旐(たんちょう)」と「丹比」を掛詞にしているんですね。


 開元二十二年正月□日、乃ち官弟(かんだい)に終わる。春秋三十六。 皇上、□く傷みて、追崇するに典有り。 詔して尚衣奉御を贈り、葬は官を令(し)て□せしむ。 即ち其の年二月四日を以て、萬年県の滻水(さんすい)の□原に窆(ほうむ)る。 礼なり。 嗚呼、素車(そしゃ)、暁に引き、丹旐(たんちょう)、哀を行う。 遠□を嗟(なげ)きて暮日に頽(たお)れ、窮郊に指(おもむ)きて夜台に悲しむ。 其の辞に曰く、□は乃ち天常(てんじょう)、哀(かなし)きは茲(こ)れ遠方なること。 形は既に異土に埋もれ、魂は故郷に帰らんことを庶(こいねが)うと。
http://www.muian.com/01seisinnseibosi.htm


おそらくこの死んだ年に来る734年の遣唐使が、大使が多治比真人広成ですが、その前の遣唐使が多治県守なので、その親族で、この多治比真成がいたのではないかと感じます。

多治氏というのが、「成」「真」をつけるケースが多いようです。
下記系譜参照。
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-21.html

広成、貞成、真継、真宗といったところですね。

多治比の「治比」を、先の井戸伝承にかけて「井」と簡略化したのかもしれません。

その碑文を建てたのが、そのときの大使の多治比氏関連だとすれば、碑文の「丹」の意味も理解できそうですし、大使の親族なので、皇帝の側でも特別に官位を授けたようにも見えますね。

それで興味深いのが、桓武妃に、その多治比真宗がでて、そこから先の桓武平氏が出てくることです。

桓武の若い頃の妃が見当たらなく、この真宗がかろうじて見えるというのも、上記サイトで指摘していますが、かなり重要です。

たぶん、真宗の父・多治比長野の長野は信濃・高句麗系の関連のような気がしますね。それで高子が嵯峨天皇に嫁いでいますが、この高も、高望王の高と同じでしょう。

多治比豊継(の子)がまた桓武に嫁いで、(長岡)岡成を産んで、岡成の子が嵯峨に嫁いで、源賢を産みます。

後の武蔵七党の丹党も多治比氏で、『井戸葉栗系図』みたいな「井」とか「丹」の伝承を引き継いでいることがわかります。坂東平氏にも影響しているようです。葉栗は祖先の上殖葉皇子に懸けています。

継体天皇-宣化天皇-上殖葉皇子-十市王-多治比古王-多治比嶋

上殖葉皇子は下記の祖で、「イ」音が見えますね。この「イ」音が、「ゐ」になるのは、なにか藤井さんの説明にあったような語頭の音変化の関連ではないでしょうか。

丹比公(たじひのきみ)、偉那公(いなのきみ)祖(日本書紀)
韋那君(ゐなのきみ)、多治比君(たぢひのきみ)祖(古事記)

それで、聖徳太子の兄弟の殖栗皇子も似たような系統音を持ちますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/

多治は、中国で大食でペルシャの意味がありましたから、穴穂部間人の「ハシ人」の意味にペルシャ人を示す「波斯」人の意味が出てくると、やはり少し関連してくるかなと感じます。

その子の蜷渊(みなぶち)真人が、南淵漢人で、天智と中臣鎌足に教えた遣唐使の南淵靖安・新漢人と関わります。

やはり桓武が新漢氏とか今来神に関わってくるのは、この辺の高句麗経由で渡来した新漢人の流れが背後にあるような気がしますね。だから多治比氏は、もともとバイリンガル的な性格があって、遣唐使にもしきりに選ばれるのでしょう。一方で治金・精銅関連の技術もあって、信濃や関東へ進出していったようにみえます。




1027秦野北斗:2013/01/11(金) 09:13:01
Re: 渤海使
管理人さんへのお返事です。

「おそらく多治比氏が、その「井」姓と関係するのではないかと・・」鋭いですな、「井」は夷と思われる。夷は「夏(か、紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)(B.C.2000頃~B,C.1600とされている意見もある)は、中国最古と伝承される王朝」の夷から来る者。日本神話には呉越の越が敵になっている。この文章から瑞穂の国は呉になる・・・。

整理すると、夏から来たのがアイヌ。次に呉越の呉。次に秦になる。次に・・・
和人はそれ以後の末裔になる。

> ちょっと、船は船でも遣唐使と桓武の話になるのですが、上記の「丹服」とも絡んで、唐で見つかった井真成墓誌の件で、おそらく多治比氏が、その「井」姓と関係するのではないかと感じます。
>

山丹交易でアイヌを訪ねて樺太に来航している。アイヌを遡りますと・・。
アイヌは魏志倭人伝に「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり」から狩猟、航海はアイヌが勝っていると思われる。なぜか「和人よりもたらされた鉄製品、米、酒等・・」で、上から目線で書いている。酒の文章はアイヌでは良く出てくる。アイヌは倭種で先住民でないか。

倭の五王の文章に毛人。また、蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、日本列島の東方、北方に住み、畿内の大和朝廷によって異族視されていた人々に対する呼称である。時代によりその範囲が変化している。アイヌは倭種で先住民だが上から目線で「近世の蝦夷(えぞ)はアイヌ人を指す」。秦野は、そろそろ、アイヌの見方を変えたら・・。アイヌの文章に古代の日本の記録が眠っている可能性がある。

山丹交易(さんたんこうえき)

山丹人は、清朝に貂皮を上納する代わりに下賜された官服や布地、鷲の羽、青玉などを持参して樺太に来航し、アイヌは猟で得た毛皮や、和人よりもたらされた鉄製品、米、酒等を、山丹人が持ち込んだ品と交換した。また、アイヌの中には山丹交易をするばかりではなく、清朝に直接朝貢していたものもいた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/山丹交易

魏志倭人伝

女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。

http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html



1028管理人:2013/01/11(金) 14:03:19
Re: 渤海使
秦野北斗さんへのお返事です。


「夏(か、紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)(B.C.2000頃~B,C.1600とされている意見もある)は、中国最古と伝承される王朝」の夷から来る者。日本神話には呉越の越が敵になっている。この文章から瑞穂の国は呉になる・・・。
>
> 整理すると、夏から来たのがアイヌ。次に呉越の呉。次に秦になる。次に・・・
> 和人はそれ以後の末裔になる。
>
>

アイヌ・靺鞨関連ですが、どうも調べていくと、先の渤海使は航海日数自体は初期の遣使以外は〜10日前後とのことで、ダイレクトに往復していた可能性が高いそうです。

交易目的でお金がかかるので、平安初期に日本からの遣使いは止めになったようですが、嵯峨朝の前後で、外交方針に大きな転機がおこるのがきになっています。蝦夷・渤海への興味も薄れていくのですが、何かもっと大きな背後の動きがあるような気がするんですね。

徳政論争で、桓武と百済系菅野真道に、藤原緒継が勝ったあたりで、蝦夷戦争、渤海使・・・といった百済・高句麗寄りのそれが終わるようです。

何かこの時期に、さらに同様な百済・高句麗系バックボーンの消失があったのではないかとも感じますね。
それで、桓武も認めざるを得なくなった・・・。

たとえば、渤海に出きりしていたウイグル商人の流れがありますね。おそらく840年に滅ぶ前に、彼らのルートは変化したかもしれません。そこに月氏系のゾグド九姓がいます。

彼らのしていた交易というのが、ちょっと興味深いです。

唐との間に毎年馬1〜2万頭⇔絹10〜20万匹の馬絹交易が行われたが、6世紀末における東ローマでの絹の市場価格は概ね絹1匹が金1〜4kgで、唐国内の絹1匹の重さが25両・価格が銀1両、銀10両が金1両に相当した事を考えると、転売による利益は少なくとも250倍に上る。利潤の多くは途中のペルシャ商人やイスラム商人が手にしただろうが、平凡に転売するだけでも大きな利潤があったとされる。それ以外にも東西の交易を積極的に行って商業を営む者も多く、蓄積した資本を元手に唐国内で高利貸や商家などを営みそのまま帰国しない者もいた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


つまり、馬から絹、そして金銀へと変化させながら、利益を高めていったんですね。

渤海交易で日本側が支払ったのは下記のとおりです。

8世紀後半以降はもっぱら北方産の獣皮と日本から繊維製品や金・水銀の交易が主目的、


おそらく、渤海について、彼らはウイグル商人に金・水銀を交換したのでしょう。それで欲しいものを手に入れた。


日本側でもそのうちに、その動きにきづいて損していることを指摘した人がいたのかもしれません。逆に、高句麗・渡来系は、その交易を押していたでしょう。

この辺の構造は、おそらく山丹交易とか、今も同じでしょうね。

それで渤海に入ったウイグル人の関係で、景教とかマニ教とかもいろいろ渤海にも入ってきたので、平安京の祭りにはしきりに、それらの影響が見えてわけです。

やはり日本国内の動きだけで古代史解明しようとしても、あまりバックの動きが見えてこない感じがします。もう少し視野を拡げる必要がありますね。



1029藤井游惟:2013/01/11(金) 17:09:57
Re: 白村江の戦い1350周年
秦野北斗さんへのお返事です。

秦野さん 初めまして。
藤井游惟です。
宜しくお願いいたします。

さて、

> 藤井游惟さんへのお返事です。
>
> 質問ですが金属器文明を持つ百済が白村江で日本に逃げた。文章から日本には金属器文明がなく・・。いっそ、百済が日本を攻めれ日本を属国にできますな。
> そんな、日本が戦争。唐から見れば、単なる揉め事でしょうな。
> 真実はもっと大きな物があるのでは。
>
> 即ち「白村江敗戦」は、2300〜2500年前の稲作・金属器文明を携えた渡来人の流入による。
>

「忌憚なきご意見有り難うございます」と申し上げたいところですが、拙文を何をどう感違いすればこのように読めるのでしょうか?

私の文の構成は、読点によって

?即ち「白村江敗戦」は、
?2300〜2500年前の稲作・金属器文明を携えた渡来人の流入による「弥生時代の開始」(第一次文化大革命)、
?約150年前の西洋近代文明の流入による「明治維新」(第三次文化大革命)に匹敵する、
?外来文明の流入による日本の「第二次文化大革命」の発端となった出来事であり、
?日本史(日本列島人類史)の三大ターニングポイントの一つだといえる事件なのです。

と5つの部分に分かれ、??は?を修飾する挿入文であり、?の主語「白村江敗戦」は?に続くのです。

ご引用では
>2300〜2500年前の稲作・金属器文明を携えた渡来人の流入による。

となっていますが、正しくは

>2300〜2500年前の稲作・金属器文明を携えた渡来人の流入による「弥生時代の開始」(第一次文化大革命)、

であって、私は「渡来人の流入による」の後に句読点は打っておらず、従ってこの文が修飾しているのは後続する

>「弥生時代の開始」(第一次文化大革命)

であることは明らかです。

また、日本語には関係代名詞や関係副詞がないので、文と文の修飾関係などはわかりにくいかも知れませんが、「白村江の戦い1350周年」というテーマの文章で、?が2300〜2500年前のことを言っている?に続くわけがないのは文脈上明らかなはずです。

私も言語学者の端くれ、文章を書く時は、句読点一つ疎かにはしません。

これが質問へのお答えです。







http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1030秦野北斗:2013/01/11(金) 20:35:45
Re: 白村江の戦い1350周年
藤井游惟さんへのお返事です。

実の所、好太王碑の碑文の日本語訳が知りたいのですな。

言語学者とのこと、失礼ですが実力をお見せ頂けますか。
古代史の魏志倭人伝ですが解読できますか。この文章に白村江が出てきています。

從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里至對馬國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乖船南北市糴


好太王碑の碑文

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民

現代の訳は誤訳と思われる。
〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/koutaiou/tokushuuchinretsu.htm

> また、日本語には関係代名詞や関係副詞がないので、文と文の修飾関係などはわかりにくいかも知れませんが、「白村江の戦い1350周年」というテーマの文章で、?が2300〜2500年前のことを言っている?に続くわけがないのは文脈上明らかなはずです。
>
> 私も言語学者の端くれ、文章を書く時は、句読点一つ疎かにはしません。
>
> これが質問へのお答えです。


1031管理人:2013/01/11(金) 21:07:22
Re: 白村江の戦い1350周年
秦野北斗さんへのお返事です。



>
> 好太王碑の碑文
>
> 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
>
> 現代の訳は誤訳と思われる。
> 〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
> http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/koutaiou/tokushuuchinretsu.htm
>

また横入りして申し訳ないのですが、秦野さん、これ面白い資料ですよ。「百残」は、例の秦韓人が呼んだ楽浪遺民・「残阿」のことでしょう!
なるほど、これで百済と楽浪遺民と秦韓が結びつく。情報ありがとうございます・・・。

碑文の写真見ても百残ですね。

あと、ついでですが、扶余系の解氏の件なのですが、これが朝鮮語の接頭辞とか修飾語?の「解」で、解氏じゃないという見方があるんです。つまり、下記の解夫婁、解慕漱の名は、解を抜いたのが正解とのことです。

『三国史記』や『三国遺事』には、解夫婁が治めていたがのちに太陽神の解慕漱が天降ってきたので解夫婁は東に退去して別の国(東夫余)を建てたという。

それでいろいろ後代いじられているらしいんです。

広開土王碑には鄒牟となっていて、まだ解が着いてないんです。


東明聖王(とうめいせいおう、(紀元前58年 - 紀元前19年)は、高句麗の初代(在位:紀元前37年 - 紀元前19年)とされる指導者であり、東明王とも呼ばれる。姓は高、諱は朱蒙(しゅもう、チュムン)または鄒牟(すうむ、??、チュム)、衆解(しゅうかい、??、チュンヘ)とされる[1]。扶余の金蛙王(きんあおう)の庶子とされる。扶余の7人の王子と対立し、卒本(ジョルボン 遼寧省本渓市桓仁)に亡命して高句麗を建国、初代指導者となった。 [2]。


ただ、「解」が本当に接頭辞とか修飾語で、大した意味をもっていなかったのか?解氏なのか?で、その辺ちょっと迷いはじめてます。「解」で朝鮮読みで「へ」もしくは中国語の漢読みで「かい」、呉音だと「け・げ」と読めます。

藤井さんの先の説を参考にすると、呉音に近い読みが正解のように感じるのですが、その辺、どうなんでしょう?


1032秦野北斗:2013/01/12(土) 07:47:05
Re: 白村江の戦い1350周年
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001056M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/武帝_(漢)



1033藤井游惟:2013/01/12(土) 08:54:01
Re: 白村江の戦い1350周年
http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/6shou.html

http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1034秦野北斗:2013/01/12(土) 09:46:00
Re: 白村江の戦い1350周年
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001058_2M.jpg

藤井游惟さんへのお返事です。

だいたいですが解りました。

「『記紀万葉』においては日本語の異音(allophone)が書き分けられていた。従って、『記紀万葉』を書いていたのは言語的外国人である」

この点は同感ですな。どうも、「第一巻 : 大和には群山あれどとりよろふ天の香具山」は白村江(錦江)を唄ったみたいですな。魏志倭人伝の暦韓国。現在の学者は韓国に成っている。
倭国、筑紫、百済、新羅は韓半島に存在し、韓半島こと、大漢国を「やまと」と言った模様。

言語的外国人はユダヤ系。ヘブライ語

白村江の戦いの舞台の地を唄った。

第一巻

大和には、群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ
海原は 鴎(かまめ)立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は

群山:クンサン
天の香具山:母岳山
舒明天皇(じょめいてんのう)



> 「人は母語の異音(allophone)は聞き分けられない。異音を聞き分けられる者がいるとすれば言語的外国人だけ」という「『異音』概念の定義上の自明の理」「人間の言語脳が持つ生物学的法則」に従って、
> 「『記紀万葉』においては日本語の異音(allophone)が書き分けられていた。従って、『記紀万葉』を書いていたのは言語的外国人である」という答えしか出てこないのです。





1035棘の紀氏:2013/01/12(土) 13:55:02
会報第2弾・・・3段?
会報第2弾・・・3段?
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『渡来人研究』第3号
渡来人研究会の会報第2弾です。


1036管理人:2013/01/12(土) 15:25:57
Re: 白村江の戦い1350周年
秦野北斗さんへのお返事です。

> 藤井游惟さんへのお返事です。
>
> だいたいですが解りました。
>
> 「『記紀万葉』においては日本語の異音(allophone)が書き分けられていた。従って、『記紀万葉』を書いていたのは言語的外国人である」
>
> この点は同感ですな。どうも、「第一巻 : 大和には群山あれどとりよろふ天の香具山」は白村江(錦江)を唄ったみたいですな。魏志倭人伝の暦韓国。現在の学者は韓国に成っている。


我々は藤井さんの説を細かく批判するほどのことはできないので、むしろそれを他の分野で活用することによって間接的に藤井さんの説が正しいことを証明できればよいのではないかと感じます。

要するに、倭人(古くは半島・中国系の影響も受けた集団)の細かい発音の相違を、亡命百済人が聞き分けられたということは、藤井さんの説で証明されているわけですから、逆に彼らがその倭人の言葉の一部を「聞き分けられなかった」部分も一緒に証明されれば、さらに説得力が出てくるのかもしれません。

歌会とか、外国からの使者との応答ですが、書記(史)が別にいて、それが渡来系の場合は、上記のように、独特の文字表現になって記される可能性があると思ですね。隋使の話した言葉を、中国書記官が「あわきみ」みたいに記した事例です。

ただ記紀の場合は、元々文字に記した記録がるので、あまりその影響は出にくいようにも感じます。

それで系譜面なのですが、秦氏系譜というのは、ちょっと面白い特徴があるんです。

始祖の「弓月君(ユヅキ・キュウゲッ)」が「融通王(ユヅ)」、さらには「普洞王(フトォ)」とかき分けれていきます。

おそらく系譜面からみると、「普洞王(フトォ)」は後代です。

つまり、もともと「ゲ・ケッ」と発音していたものが、「k/g」がぬけてある時期から「ユ・フ」と変化してしまう。

これが、秦氏がまだ朝鮮にいた時代に起きたとすれば、先に呉音系の楽浪漢人あたりの中国音が、その後コリア語になって、「g」が抜けた経緯と対応してくるようにも感じます。

これと対応するのが、先の呉音の「解(ゲ・ゲ)」が、コリア語で「へ」と読まれるケースですね。「g」がある時期から抜けてしまう。

「木(ボク)」も「朴(ぱく)」と変化していくケースです。

ここで語頭に「g]をつけない習俗を仮定すれば、「解(ゲ・け)」が頭につく場合は、「へ」へと変化した可能性がありますが、また「脱解」みたいな語尾につくケースでは、どうなるかも課題です。

脱解尼師今(だっかい にしきん)は、新羅の第4代の王(在位:57年 - 80年)であり、姓は昔(ソク)、名は脱解(タレ)。吐解尼師今(とかい にしきん、?? ???、トヘ・イサグム)とも記される。第2代の南解次次雄の娘の阿孝(アヒョ)夫人の婿。新羅の王族3姓(朴・昔・金)のうちの昔氏始祖。

発音:タルヘ・イサグム
(タレ・イサグム)
日本語読み:だっかい・にしきん
http://ja.wikipedia.org/wiki/


ここで「ルへ」が「れ」と、略されていますね。語尾に「へ」音がつくばあい、そのまま「へ」音が失われる可能性を感じます。

そこで、この「解」が姓ではなく修飾語であったか?ということなのですが、遊牧民系で親の名を子が受けつぐケースもあって、「解●」→「△解」となった可能性もなくはないので、姓ではなく、集団を象徴する尊称みたいな位置づけだった可能性は感じますね。「月氏」の「げっ」みたいな感じです。

それで百済の「月支国(げっし)」ですが、同時だの同族が建てた扶余系の「曷思国(かっし)」と同様に、もとは「ゲッ・かッ」と呉音に近い形で発音していた可能性を感じます。「し」音があったはずで、

それが、後に「(は)フッシ、」へと変化していき、しまいに『普洞(は)フトォ」『秦(はた・ぱた)』氏となったのかもしれません。


どこか、「g k」音が抜ける背景には、秦氏の祖先が百済から秦韓(新羅)へと移動していく間に、後のコリア語の祖となる半島西部?の民族の発音の影響があったのではないでしょうか。

「kg」が「h」 「ッ」が「ル」になる。

秦韓の首長「蘇馬」「蘇伐」の「ソバッ」も、新羅の国号「ソボル」へと変化していくケースですね。

早口で「っ」としか以前は聞き取れなかったものが、条件異音の逆用で、その後入ってきた違う民族には「タル」としっかり把握されたという線はないでしょうか。言葉を発する時間 dt  を長くするんです。

よく音声の波形を伸ばすと、早口の女性の声から、ゆっくりした男性の声のように変化する際に、「エー、オー」と低く伸びてくケースがあるのを思い出します。高音の「パタ」が伸びると「ホトォー」となる・・・・。

新羅時代とする手もありますが、秦氏が影響を受けたのは、最大で540年前後の最終渡来までで、おそらく新羅は4世紀後半から、北燕遺民の影響で、元々あった辰韓時代の言語から、さらに中国・遊牧民(東欧)系の影響を受けるはずです。「ル」はその辺の遊牧民系の影響ではないでしょうか。

コーカソイド系の羯が後趙をたてて、その後北燕へと王朝交替していくのですが、その羯の位置が、どうも月氏系の白羊羌つまり、西域系のチャン族と重なるようです。そして、穢族とせっしていて、一部は後漢代に扶余へ流れ込んだでしょう。羯は虚勢された羊の意味で、その石勒の石氏は月氏の石氏でしょう。

ただ秦氏の系譜に、後の「ル」音はみえないので、そうすると、「g・k」→「h」までのそれ以前の「秦語」?の影響は受けて渡来した可能性を感じます。

その後、日本に渡来して、さらに変化していくのですが、5世紀後半の雄略朝の記載では、まだ「弓月」を、呉音の「ウヅ・マサ」、すでに「k・g」が抜けたまま、訓読みの「月(ツキ・ヅキ)」、「勝(マサル)」が加わってくるのです。

ただその当時の秦氏の始祖系譜には「功幡・神幡(クーバン)」のように「k」音を記した古い記録系譜を持参していて、公孫氏系の武安君なども系譜に入れてあったはずです。

それで楽浪・呉音の影響をうけて、さらにその後弁・秦韓的?に一部変異した渡来系集団は記した文字記録が、記紀に表記されていったとすると、どうなるか?

単純な百済・南朝系ではなくて、もっと古い時代のそれを引きずっている秦氏系と、さらに別に東晋の影響をうけた東漢系とが、当時の文筆を担当していたところに、さらに高句麗系習俗を理解した王仁系がやってきたりして、そして6世紀に北燕系の新漢人が、彼らに替わって文筆を担当し始めることになったでしょう。

最終的に遣唐使の時代まで新漢人がメインでしたから、そうすると北燕・高句麗系の文筆・言語的な特色を、記紀の継体記紀以降は影響を受けていた可能性がありますが、北燕遺民は三国特に高句麗・新羅南部で1世代分滞在してからきているので、やはり朝鮮的な言語の影響を受けていた可能性があります。

そして彼らが記した記録を、最後に先の山田史、中国人、亡命百済人がどう理解して記録したのか?

これらの渡来系の流れを理解しつくした言語学者の助けを得ないと、おそらくは正しい解釈は無理でしょう。





1037秦野北斗:2013/01/12(土) 17:40:31
Re: 白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。

藤井さんの説が正しいことを証明。

この件は、相当、歴史を掘り下げる必要があります。
どうも、日本の場合は権力者が渡来系で、言葉は民衆と権力者の2通りある模様。
例が民衆と宮中言葉になる。

白村江から来た百済人が京都、滋賀に入ったのは分かるが、方言は調べようがない。
まあ、言える事は天智天皇の宮があった程度ですな。


百済帰化人は2期に別れ、1期は約1万人ぐらいだろう。船の数600艘から推定。
2期は越国、百済、高句麗、倭国の4国が出雲から入っている。数十万人の規模。


藤井さんの一般の説では過小すぎるのではないか。当時の国家組織を知れば明確になるのでは。

『記紀万葉』、特に『日本書紀』は奈良時代律令制国家建設の一環として編纂されたものですが、当時の日本王朝はそのような重要文書すら中国人と百済人の力を借りなければ作成できなかったということであり、まして多数の文書事務官を必要とする律令制の立案・施行は3000人を越える百済帰化人がいなければ不可能な事業だったのです。



> 我々は藤井さんの説を細かく批判するほどのことはできないので、むしろそれを他の分野で活用することによって間接的に藤井さんの説が正しいことを証明できればよいのではないかと感じます。
>
> 要するに、倭人(古くは半島・中国系の影響も受けた集団)の細かい発音の相違を、亡命百済人が聞き分けられたということは、藤井さんの説で証明されているわけですから、逆に彼らがその倭人の言葉の一部を「聞き分けられなかった」部分も一緒に証明されれば、さらに説得力が出てくるのかもしれません。
>
> 歌会とか、外国からの使者との応答ですが、書記(史)が別にいて、それが渡来系の場合は、上記のように、独特の文字表現になって記される可能性があると思ですね。隋使の話した言葉を、中国書記官が「あわきみ」みたいに記した事例です。
>


1038管理人:2013/01/12(土) 20:38:51
Re: 白村江の戦い1350周年
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 藤井さんの説が正しいことを証明。
>
> この件は、相当、歴史を掘り下げる必要があります。
> どうも、日本の場合は権力者が渡来系で、言葉は民衆と権力者の2通りある模様。
> 例が民衆と宮中言葉になる。
>
> 白村江から来た百済人が京都、滋賀に入ったのは分かるが、方言は調べようがない。
> まあ、言える事は天智天皇の宮があった程度ですな。
>
>
> 百済帰化人は2期に別れ、1期は約1万人ぐらいだろう。船の数600艘から推定。
> 2期は越国、百済、高句麗、倭国の4国が出雲から入っている。数十万人の規模。
>
>
> 一般の説とは異なる。過小すぎる。当時の国家組織を知れば明確になるのでは。
>

確かにご指摘のとおり、天智時代の百済人の影響は、近江宮周辺との関わりが重要でしょうね。
天武の時代になると飛鳥に戻って、難波宮を重視しはじめるのですが、その難波宮については、天智系の桓武が廃止しようとしたのではないかという憶測もあったりします。

どういうわけか天武は新羅方面に積極的に外交するんですよね。百済ではないんです。

もしかすると、藤原不比等のケースが天武に抑圧されていたケースと同様に、亡命百済人の待遇がどうなっていたかも課題でしょう。この時代、百済系には忌寸は賜られなかったですね。新漢人にも賜られず、それ以前の古い飛鳥の渡来人、あるいは摂津の吉士集団に賜姓されていきます。

その後、天智の息子との伝承が残り、天智寄りの不比等の時代になってから、ようやくもしかすると高麗・百済系が優遇始めたのではないでしょうか。

確かに百済三書や中国文献との比較みたいな作業は、亡命百済人の影響が大きかったのではないかと感じます。

それで大化の改新と、乙巳の変についての倭習の部分、この辺がちょっと重要ですね。


『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、森博達の研究では、語彙や語法に倭習(和臭。日本語的発想に基づく誤用や奇用[19])が多くみられ、加えて使用されている万葉仮名の音韻の違いなどの研究からα群(巻第十四〜二十一、巻第二十四〜二十七)とβ群(巻第一〜十三、巻第二十二〜二十三、巻第二十八〜二十九)にわかれるとし、倭習のみられない正格漢文のα群を中国人(渡来唐人であり大学の音博士であった続守言と薩弘恪)が、倭習のみられる和化漢文であるβ群を日本人(新羅に留学した学僧山田史御方)が書いたものと推定している[20]。またα群にも一部に倭習がみられるがこれは原資料から直接文章を引用した、もしくは日本人が後から追加・修正を行ったと推定されている。特に巻第二十四、巻第二十五はα群に分類されるにもかかわらず、乙巳の変・大化の改新に関する部分には倭習が頻出しており、蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、元明天皇(天智天皇の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向を受けて大きく「加筆」されたのではないかと考える学者もいる[21]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


逆に言うとあまり不比等の影響はそのくらいしかないということにもなるでしょうか。

お『日本書紀』によれば、推古天皇28年(620年)に聖徳太子や蘇我馬子によって編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより古い史書であるが、皇極天皇4年(645年)の乙巳(いつし)の変とともに焼失した。『日本書紀』は本文に添えられた注の形で多くの異伝、異説を書き留めている。「一書に曰く」の記述は、異伝、異説を記した現存しない書が『日本書紀』の編纂に利用されたことを示すといわれている[18]。また『日本書紀』では既存の書物から記事を引用する場合、「一書曰」、「一書云」、「一本云」、「別本云」、「旧本云」、「或本云」などと書名を明らかにしないことが多い。ただし、一部には書名を明らかにしているものがあり、書名をあげて引用されている文献として次のようなものがあるが、いずれも現存しない。


蘇我・太子の時代となると、秦氏や遣唐使の新漢人系・吉士等の文筆によった部分が多いでしょう。

それを元に、中国人の2人がどういじったか?も気になるところですが、複数の「一書」書籍を総合させる作業は、彼らが行った可能性を感じますね。ただあまりいじれなかった。

それでも倭習のようなミスがなかったとすると、どういうことか。彼らが監修し倭習・ミスを治したからないのか?元々の新漢人の筆文が中国的に完成されていて倭習つまりミスがなかったのか?

あるいは山田史や不比等の意図をうけた筆者がミスったのか?

具体的にみていかないとわからない感じですね。


あと暦の話が面白いですね。



また、小川清彦は中国の元嘉暦[29]と儀鳳暦[30]の2つが用いられていることを明らかにした。神武即位前紀の甲寅年十一月丙戌朔から仁徳八十七年十月癸未(きび)朔までが儀鳳暦、安康紀三年八月甲申(こうしん)朔から天智紀六年閏十一月丁亥(ていがい)朔までが元嘉暦と一致するという。元嘉暦が古く、儀鳳暦が新しいにもかかわらず、『日本書紀』は、新しい儀鳳暦を古い時代に、古い元嘉暦を新しい時代に採用している。これは、二組で撰述したためと推測されている。


日本には朝鮮半島の百済を通じて6世紀頃に伝えられた(『日本書紀』によれば554年)。当初は百済から渡来した暦博士が暦を編纂していたか、百済の暦をそのまま使用していたと考えられる。推古天皇10年(602年)に百済から学僧・観勒が暦本などを携えて来日し、帰化人系の子弟らにこれらを学習させた。平安時代の書物『政事要略』には、推古天皇十二年正月朔日に初めて日本人の手によって作られた暦の頒布を行ったとの記述があり、これは元嘉暦によるものであったと考えられる。

持統天皇6年(692年)から(持統天皇4年(690年)からとの説もある)、中国から輸入した新しい暦である儀鳳暦を試用するため元嘉暦との並用を始め、5年後の文武天皇元年(697年)からは元嘉暦を廃して儀鳳暦を正式に採用することとなった。


天智六年というのがちょっと気になりますね。

後の時代に、2組でやったならば、天智元年で別れていいはずでしょう。

これは通説ではどういう説明となっているのかな?

β群(巻第一〜十三、巻第二十二〜二十三、巻第二十八〜二十九)が、つまり上記の帰化人=山田史とするとどうなるか?

書記十三 が允恭で、反正・履中がその前に入る。
http://j-myth.info/nihongi2/index.html


二十二・二十三が推古・舒明

二十八・二十九が天武

その後三十が持統。

おそらくグループ分けの問題もあるけれど、安康ー天智6年までは、渡来系の御方の影響ではなく、もともとあったのではないかと考えたほうが妥当のようにみえますね。暦部分もいじらなかった。(気付かなかった?)

そうすると、天智6年あたりに編集がなされていて、その後とりあえず完成。それからまた別に奈良時代にやりなおした。


允恭以前の歴史書は、なかったわけではなく、安康の時代には445年から中国ではじまった元嘉暦がダイレクトに伝わって、採用されたということでしょうか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/

あれれ、554年に暦がはじめて伝わった伝承があるので矛盾しますね。

安康の推定年代が454〜56なので、そうすると、倭の五王の

倭王興の時代もしくは、その少し前に伝わったと考えたほうがよいかもしれませんね。

443年宋元嘉20済宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(『宋書』倭国伝)
451年宋元嘉28済宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝)
7月、安東大将軍に進号する。(『宋書』文帝紀)
また、上った23人は、宋朝から軍・郡に関する称号を与えられる。(『宋書』倭国伝)
460年宋大明4済?12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。
462年宋大明6興3月、宋・孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)

倭王済の時代に伝わった可能性があるでしょう。

それで、興が10年安康に遅れるのは、この時期の先日隅田八幡鏡の件で説明した内乱のためかもしれません。

2011年9月21日、福岡市西区の元岡古墳群G6号墳(7世紀中ごろ)で、元嘉暦法による暦日干支推算結果と一致する「大歳庚寅正月六日庚寅(570年1月27日)」と刻まれた象嵌大刀が見つかったと福岡市教育委員会が発表した[1]。この銘文が仮に日本で刻まれたものであるとすれば、元嘉暦使用の実例としては日本最古となる。


その前は、倭には暦がなかったのではなく、景初暦を使っていたのかもしれません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/


景初暦(けいしょれき)とは中国暦の一つで、魏の明帝、景初元年(237年)から晋を経て、劉宋の文帝、元嘉二十一年(444年)まで、また北朝の北魏では道武帝、天興元年(398年)から太武帝、正平元年(451年)まで使用された太陰太陽暦の暦法。後漢・魏・西晋の楊偉(ようい)によって作られた。晋王朝成立後の泰始元年(265年)に泰始暦が行われたとされているが、実際は景初暦と同一のものであった。
19年7閏月の章法を採用し、1太陽年を日(≒365.24688日)、1朔望月を日(≒29.530599日)とする。


でも、あったとすれば、無理に廃止しなくてもよかったでしょう。
おそらく、系譜2干支分伸ばす際に、安康以前のそれを後代どうにかした。


たぶん、景初暦と、その後の元嘉暦との記載法に大きな差があって、後代からも見分けがついたので、そこを区切りとして、景初暦を排して、儀鳳暦をまぜながら、2干支分伸ばした。

後者を使ったのは、奈良時代の唐人で、亡命百済人の影響ではないでしょう。先の中国人の2人とかその辺ですね。

亡命百済人の影響が出てくるとすれば、その安康から天智6年までの記載になるでしょうか。

天智6年がちょうど667年で近江宮へ移動した時期で、整備目的にはいい時期ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/667

ただ、そんなに記紀編纂のような余裕の有る時期でもなく、それ以前にあった焼かれなかった書物をまとめただけだったかもしれません。

天智9年までの3年間、このあたりが、次の天武に入る前の時代ですから、そこで百済人の影響が一度薄れたかどうか・・・。

この手の編纂組織と人種の話はなかなか難しいですね。



1039秦野北斗:2013/01/12(土) 21:33:21
Re: 白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。

『隋書』百済伝に「そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。」
白村江での1期の百済帰化人は貴族で。2期が百済、倭(越を含む)になる。
これだけだと、β群

>百済帰化人は2期に別れ、1期は約1万人ぐらいだろう。船の数600艘から推定。
> 2期は越国、百済、高句麗、倭国の4国が出雲から入っている。数十万人の規模。

α群は弓月君ではないか。のちの平氏。

『日本書紀』
α群(巻第十四〜二十一、巻第二十四〜二十七)
β群(巻第一〜十三、巻第二十二〜二十三、巻第二十八〜二十九)

卷第十四 α群(弓月君と関係のある葛城の一事主。弓月君の歴史?)
大泊瀬幼武天皇(おほはつせのわかたけるのすめらみこと)雄略天皇
眉輪王(まよわのおおきみ)の父の仇
市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)を謀殺
即位と諸妃
吉野の猟と宍人部の貢上
葛城の一事主
嶋王(武寧王)誕生
少子部(ちいさこべ)スガル
吉備臣(きびのおみ)たち
今来(いまき)の才伎(てひと)
高麗軍の撃破
新羅討伐
月夜の埴輪馬
鳥養部(とりかいべ)、韋那部(いなべ)
根使王(ねのおみ)の科(とが)
秦のうずまさ
朝日郎(あさけのいらつこ)
高麗、百済を降ろす
天皇の遺言

『隋書』百済伝

 其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。其衣服與高麗略同。婦人不加粉黛、女辮髮垂後、已出嫁則分為兩道、盤於頭上。俗尚騎射、讀書史、能吏事、亦知醫藥、蓍龜、占相之術。以兩手據地為敬。有僧尼、多寺塔。有鼓角、箜篌、箏、竽、箎、笛之樂、投壺、圍棋、樗蒲、握槊、弄珠之戲。

 そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。そこの衣服は高句麗とほぼ同じ。婦人は粉黛をせず、娘は辮髪を後ろに垂らし、既婚者は両方に分けて頭上に巻く。俗は騎射を善くし、書史を読み、官吏は良く仕え、また医薬、蓍龜、観相術を知っている。両手を地に着けて敬意を示す。僧尼がおり、寺塔が多い。鼓角、箜篌、箏、竽、箎、笛の楽器があり、投壺、囲碁、樗蒲、握槊、弄珠の遊芸がある。



1040管理人:2013/01/13(日) 22:28:31
Re: 白村江の戦い1350周年
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 『隋書』百済伝に「そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。」
> 白村江での1期の百済帰化人は貴族で。2期が百済、倭(越を含む)になる。
> これだけだと、β群
>
> >百済帰化人は2期に別れ、1期は約1万人ぐらいだろう。船の数600艘から推定。
> > 2期は越国、百済、高句麗、倭国の4国が出雲から入っている。数十万人の規模。
>
> α群は弓月君ではないか。のちの平氏。
>
> 『日本書紀』
> α群(巻第十四〜二十一、巻第二十四〜二十七)
> β群(巻第一〜十三、巻第二十二〜二十三、巻第二十八〜二十九)
>


下記の森氏の論部を今読んだのですが、だいたい上記の区別について理解しました。単行本のほうは昔読んだんですけどね・・。

http://ci.nii.ac.jp/els/110002533370.pdf?id=ART0002805194&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1358080237&cp=




もともと秦野さんご指摘のような半島系渡来人による原文があって、それを書記編纂時に中国人が用法の間違っている部分を修正し、またさらに後代の政権の意図によって加筆されたものがあったようです。

仮名文字の羅列からアクセントまで区別できるというのは驚きですが、また中国人には理解できそこなっていた倭人の用法もあったとのことで、双方から中国人の唐代北方音での担当が証明されるようです。


森氏も山田史のことは渡来系とみなしているようですが、彼には中国人ほど正確に訂正することはできなかったようですね。半島系渡来人のミスがそのまま残っているようです。


それで推古紀に関しては、十七条の憲法の他にも、後代の加筆の後があり、これは神功皇后記紀に見える同系の上宮帝説とか、新羅系始祖伝承との関係を会報でもしばしば指摘してきたとおりです。

あと崇峻紀の暗殺部分で、中国人の訂正作業が終わって、別の倭人?に引き継がれている件、ここが中国人が死んだためなのか、別の理由によるのか?が課題です。

蘇我氏が東漢駒に崇峻を殺させる部分ですね。

前例のない天皇殺しの記載で、何か裏がありそうです。重要視されていたはずです。

細かくみていくと、稲荷山鉄剣にもみえる「中」の用法、5・6世紀の高句麗・新羅系の金石文に見えるとのことですが、応神・神功、孝徳記紀に見えるのは、重要です。 新漢人系の高句麗・新羅の流れで、時代的にも一致してくるので、しかも応神・神功は、新羅系の大陸系伝承との影響があり、まず間違いなく新漢人系でしょう。


それで大化元年の詔のそれですから、この改新詔の挿入が、いつおこなれたか?が課題で、先の天智6年とすれば、先の新漢人系の近江朝の時代ですから、ひとつにはあり得そうな気もしますが、ただ、あるいは奈良時代に入っても、新漢氏系が残っていて、その用法を使ったとする件も考慮すべきかもしれません。

又同じく朝鮮俗漢文とされる「之」の用法、これは中国人があえて残した準引用文で、百済本紀の引用と関連づけられていますね。欽明と百済・秦韓系の蘇我・秦氏系の移動、それ以前にすでに渡来していた武内宿袮系同族が迎え入れたりする時代のそれで、よく当時の状況を表した用法だと言えるでしょう。秦野さん注目の弓月君、百済・秦韓系の秦氏です。

ちょっと電車が発車するので、ここまでしか分析できませんが、もっと時間をかければ、いろいろ見えなかったものが出てくるはずです。


1041棘の紀氏:2013/01/14(月) 03:07:12
Re: 白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。

>秦韓系の蘇我・秦氏系の移動、それ以前にすでに渡来していた武内宿袮系同族が迎え入れたりする時代のそれで、よく当時の状況を表した用法だと言えるでしょう。秦野さん注目の弓月君、百済・秦韓系の秦氏です。

395年、王はみずから碑麗(ひれい・沃祖地方)を討伐した。翌396年、王は水軍を率いて百済国を討った。その理由は、百済と新羅はもとから高句麗に隷属し朝貢していたが、倭(注)が辛卯の年(391年)に海を渡り百済などを打ち破って臣下としたためである。王は百済の多くの城を占領したにもかかわらずなお抵抗したので、漢江を渡り、王城を攻めた。百済王は多くの貢物をだし、家臣になることを誓ったので、王の弟などを人質として凱旋した。

秦王朝の末裔や秦王朝の技術者を引き連れて日本に来た事が分かる。 . http://8906.teacup.com/toraijin/bbs




1042秦野北斗:2013/01/14(月) 09:15:16
Re: 白村江の戦い1350周年
棘の紀氏さんへのお返事です。

「秦王国」が登場するのは聖徳太子の文章600年。395年、王はみずから碑麗(ひれい・沃祖地方)を討伐した。約200年差がある。

395年以前に三韓征伐あり、文章に渡来の記録がある。

一言ですが、秦氏は皆さんが考えているほど謎の氏でありません。
古事記と伝説に書いてある。言える事は秦氏の歴史が古代の歴史そのものですな。

藤井游惟さんの実力チェツク出題の文章を読み返しました。
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民

文章を再確認すると、好太王碑の碑文の耒卯(辛卯)年は391年でなく271年の模様。

271年が三韓征伐に成るんですな。
神功皇后(壱輿)当時34歳?が武内宿袮6〜70歳と豊受比売命と共に出航し半年掛け対馬の鰐浦。
鰐浦で風待ち、風(風雷神)に乗り洛東江を遡り新羅へ・・。
注1(日本書記に記録があるが盛栄部隊が参加している)

年代で卑弥呼248年頃と神功皇后(壱輿) 271年が結びつきます、驚きですな。
また、卑弥呼鏡、三角縁神獣鏡が結びつきますな。

卑弥呼鏡、三角縁神獣鏡の銘文から三公は武内宿袮。
母人(おものひと)が卑弥呼になる。
魏志倭人伝:「王位に就いて以来人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。」
卑弥呼の弟(表筒男命)の娘が神功皇后(壱輿)、豊受比売命。
姉:神功皇后(壱輿)、妹:豊受比売命

三角縁神獣鏡の銘文の意味
景初三年陳是作鏡自有経述本是京師杜地命出吏人銘之位至三公母人銘之保子宜孫寿如金石兮
景初三年、陳が自ら経述した鏡を作る。もとは京師(杜)の出、銘は位至三公の吏人、銘は母人(おものひと)、保子(開花天皇)の孫(卑弥呼)、金印(親魏倭王)をもって祝う。

陳:陳寿
母:母屋(おもや)の母(おも)
杜地命出:杜(もり)、地命(地名):地名は杜、杜の出
(鎮守の杜:今は神社の杜になっている。本来は京師の杜駐屯地)
京師:韓半島(開城)の楽浪郡から西に2000里にある。駐屯地
金石:金印(親魏倭王)

畝火山口神社の祭神、気長足姫命(神功皇后)、豊受比売命、表筒男命から邪馬台国。
伊勢神宮の神宮が1700年前の邪馬台国でしょうな。
伊勢神宮の山口祭で子供が参加している、のちの神功皇后(壱輿)。
神功は伊勢神宮の神宮なんですな。

秦野北斗著書、徐福と邪馬台国。魏志倭人伝の行程は正しい。九州に働きかけ空白の伊都国の確認し、卑弥呼の古墳発掘ですな。

住吉大社の「住吉三神」、古事記が読めそうですな。
第一本宮:底筒男命 (そこつつのをのみこと)
第二本宮:中筒男命 (なかつつのをのみこと)
第三本宮:表筒男命 (うはつつのをのみこと)
第四本宮:息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと) - 神功皇后 (じんぐうこうごう)に同じ

http://ja.wikipedia.org/wiki/辛卯

 扶余(ふよ)

286年、再び慕容廆が遼東を侵略するが、王子の依羅が西晋の援助で扶余国を再建した。
 この依羅には日本の王朝に関わる奇妙な伝承がある。「慕容瘣に敗れた扶余王の依羅が、数千の民を率いて海を越え、倭人を平定して王となった」

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus/tungus-5-fuyo.htm

> 395年、王はみずから碑麗(ひれい・沃祖地方)を討伐した。翌396年、王は水軍を率いて百済国を討った。その理由は、百済と新羅はもとから高句麗に隷属し朝貢していたが、倭(注)が辛卯の年(391年)に海を渡り百済などを打ち破って臣下としたためである。王は百済の多くの城を占領したにもかかわらずなお抵抗したので、漢江を渡り、王城を攻めた。百済王は多くの貢物をだし、家臣になることを誓ったので、王の弟などを人質として凱旋した。
>
> 秦王朝の末裔や秦王朝の技術者を引き連れて日本に来た事が分かる。
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs




1043秦野北斗:2013/01/14(月) 09:53:36
Re: 白村江の戦い1350周年
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001067M.jpg

管理人さんへのお返事です。

どうもですが、

古事記は瑞穂の国の倭人が記録。日本書記は韓半島の倭国の倭人、弓月氏が帰化後記録。

「天地開闢 天地(あめつち)の創成、天地の初め」ですが日本書記と古事記を比較すると
倭人、弓月氏の出身地が読み取れそうですな。

粗筋は理解済みですが、詳細に行きましょうか。

藤井游惟さんの白村江後ですがのち城文化を築いたようですな。

白村江ですが百済帰化人の救出作戦で敗戦ではない。
百済帰化人は日本書記を書いていない。
百済帰化人は各地に城を造ったのだろう、彦根城が百済形式の日本最古の城だろう。

彦根は渡来系ですな、家紋も田道間守(たじまもり)ですな。






1044藤井游惟:2013/01/14(月) 15:37:26
Re: 白村江の戦い1350周年
http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/4shou.html

http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1045管理人:2013/01/14(月) 16:58:08
Re: 白村江の戦い1350周年
棘の紀氏さんへのお返事です。


> >秦韓系の蘇我・秦氏系の移動、それ以前にすでに渡来していた武内宿袮系同族が迎え入れたりする時代のそれで、よく当時の状況を表した用法だと言えるでしょう。秦野さん注目の弓月君、百済・秦韓系の秦氏です。
>
> 395年、王はみずから碑麗(ひれい・沃祖地方)を討伐した。翌396年、王は水軍を率いて百済国を討った。その理由は、百済と新羅はもとから高句麗に隷属し朝貢していたが、倭(注)が辛卯の年(391年)に海を渡り百済などを打ち破って臣下としたためである。王は百済の多くの城を占領したにもかかわらずなお抵抗したので、漢江を渡り、王城を攻めた。百済王は多くの貢物をだし、家臣になることを誓ったので、王の弟などを人質として凱旋した。
>
> 秦王朝の末裔や秦王朝の技術者を引き連れて日本に来た事が分かる。 . http://8906.teacup.com/toraijin/bbs
>
>
>

この碑文の件ですが、392年から即位した百済の「阿莘(アシン)王」(392-405)が、高句麗の圧迫に対して、倭のほうに救援を求めていたことがあり、高句麗側からみると、倭が391年に百済を討って配下に入れたので、その報復として百済・倭を征伐したとの内容になってます。

この391年ごろには、辰斯王が日本に対して失礼なことをしたので、武内宿袮系の集団が百済に向かって、結局百済のほうで詫びてその王を殺して、次の阿莘(アシン)王を建てたとの記載があります。

ただ、391年の時点で、高句麗にかなり攻められて領土をとられていた経緯があり、広開土王の碑文は、征伐する名目を示しているように感じますね。

おそらくその前の吉備の造山古墳を残したであろう吉備津彦の時代から、すでに倭に武内宿袮系集団は進出していたのですが、最終的に阿莘(アシン)王も吉備方面に渡来して東漢氏の阿知使主になり、それらの原動力で河内王朝が成立します。

ただ、百済・秦韓系の王族は、しばらくまだ秦韓地域に居続けて、つまりその秦韓の首長氏が蘇我氏だったのですが、最終的に任那滅亡の前後で、540年ごろ秦氏とともに日本に渡って、欽明朝擁立の原動力となります。

武内宿袮系と蘇我系は元は同じなのですが、一部は4世紀後半には渡来し、最後に渡来したのが蘇我氏ということでしょう。

東漢氏は、375年前後から文字文化を百済にもたらした製鉄・乗馬技術者集団で、西晋・もしくは東晋系司馬氏や羯族の末裔ではないかと考えます。彼らも百済・秦韓を経由して日本に渡る際に武内宿袮系の吉備氏や蘇我氏の配下にはいるので、後に蘇我氏が東漢氏をもって、半分蘇我系の崇峻を殺させるわけです。

ここで、崇峻を蘇我が殺すという先の書紀の改ざん部分ですね、実際にはどう記されていたのか、ここが課題です。

秦韓の首長・蘇我氏的には、先の武内宿袮のケース同様に、同族の一人を殺すことくらい大した問題ではなかったはずです。実際、当時の歴史書には平然と記載されてあったわけですね。

ただ、それが後の天皇制が確立してきた奈良時代になってくると大きな問題として取り上げられることになったのでしょう。こちらが崇峻殺害の記録で、次が改ざんが予想される乙史の変の記録。

『日本書紀』の崇峻天皇の五年十一月条に「馬子宿禰、群臣を詐めて曰はく、『今日、東国の調を進る。』という。乃ち東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、天皇を弑せまつらしむ。是の日に、天皇を倉梯岡(くらはし)陵に葬りまつる。」と出ている。

「同年6月12日、三国の調の儀式の儀式が行われ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。入鹿は猜疑心が強く日夜剣を手放さなかったが、俳優(道化)に言い含めて、剣を外させていた。中大兄皇子は衛門府に命じて宮門を閉じさせた。石川麻呂が上表文を読んだ。中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌子は弓矢を取って潜んだ。海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせ佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に与えた。」


ここで、外国もしくは東国からの調の儀式に、天皇が参列する点で共通性がみえます。

天皇をおびき寄せる、という要素が必要だったんですね。

後者は後漢書の引用ですが、清流派の2人とそばに皇太后がいて、蘇康等を殺すことになります。


前者ももしかすると、中国文献の引用からもってきた件も考慮すべきでしょうか。


まず蘇我氏・秦韓・武内宿袮といった半島系勢力の歴史を、どう消すかが課題となったことは理解できます。

実際に天智・藤原側でかなり気になる記載があったので、これらの部分だけ改ざんしたのでしょう。


蘇我系が悪く映ればそれでよかったのでしょうか。

東漢氏は過去の複数の罪について、天武に詰問されたものの、その件に許しが出たとの記載がありますね。壬申の乱の行賞の意味もあったでしょう。


677年40天武天皇の東漢直等に出された詔「七 つの不可」の話。 これは東漢氏は過去に7件の天皇からみて許されない裏切り行為を ...


天武は東漢氏を悪くおもってないし、過去の崇峻殺害他の記録があったことを知ってます。


そうすると崇峻殺害自体は、中国文献引用の物語ではなかった可能性が高いでしょう。

蘇我が東漢氏に命じたのではなく、別の人が命じていた記録を、蘇我にしたてた。・・・。


三韓の調の記載は、この崇峻の記載から発展引用させたようにもみえますね。あるいは逆に三韓の調の記載を転用して、東国の調にして挿入したか。


天智朝は、蘇我系と対立する息長・継体系で、さらに元をたどると大彦系や中臣ともかかわってくるのですが、天智朝時代には、蘇我系の歴史は消したかったでしょう。

それで南淵漢人や新漢人日文氏等の新漢人がもたらした中国系の党錮の禁の伝承をそのまま、乙巳の変のところに挿入する。

ただ、これが先の天智6年におこなわれたならば、新漢人系の執筆の癖が、改ざん部分にみえなければならないのですが、あるいは奈良時代になって天智系の意図を組んだ不比等周辺の新漢人か、あるいは山田史だったかもしれない。

河内の山田宿袮が魏に祖先をもってくるのは、遣唐使の日文氏等が祖を魏の曹植を祖に持ってくるのと似た傾向があります。

魏の王昶 を祖にもってくるのも、「史」ならではで、中国文献をよく読めないと始祖にもってくることは難しかったでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

右京の山田造は周霊王をもってきており、周代の系譜知識がないと無理ですね。

おそらく山田氏が東漢氏や秦氏の同族系譜に入らないことも確かで、百済系・高句麗系だったら、姓氏録でそこに分類されるので、そうすると先の新漢人か、あるいは白猪史系の可能性を感じますね。

遣唐使が圧倒的に新漢人が多いのですが、遣新羅使をみてみると、前半は圧倒的に近江系・新漢人系が多いように見えるですが、後に吉備方面・白猪史などもみえてきます。

蘇我氏のもとで、白猪三宅設置の記載にでてくるのが、田令・葛城山田直で、要するに屯倉の戸籍をつけた渡来系文官です。

郡、置白猪 屯倉 。
ω 敏達紀四年二月壬辰朔条
二月 壬辰朔。馬子宿祢大臣還干京師、復命屯倉之事 。
◎ 欽明紀十七年七月己卯条
秋 七月甲戌朔 己卯。遣蘇我大臣稲目宿祢等、於備前児嶋郡、置 屯 倉 。以葛 城山田直瑞子、為田令。脚蛉臨脳ム
11 欽明紀三〇年正月辛卯朔条


葛井連について

『続日本紀』養老四年五月の条に、「白猪史の氏を改めて葛井の姓を賜ふ」とある。葛井氏はもと白猪史だった。

葛井連の葛井は、河内国志紀郡藤井に由来する。

その白猪史だが、延暦九年七月の津連真道らの上表によれば、

渡来した百済の辰孫王(貴須王の孫)の曾孫午定君の三子が分れて白猪史、船史、津史になったとある。

白猪史がのちの葛井連・葛井宿禰、船史がのちの船連・宮原宿禰、津史がのちの津連・菅野朝臣・津宿禰・中科宿禰となった。

延暦十年正月に、葛井連は葛井宿禰を賜姓とある。
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/manyoutorai/fujii/moroai.html


地理的には先の山田史のところと近いような気もしますね。

近仇首王の孫の(王)辰孫王の子孫になってますが、ここで王姓が出てくる。

そして、その子が先の辰斯王 その子とすると、余姓になりそうですが、王姓。
辰爾がその子になるわけですが、その辺の系譜に疑問も指摘されてますね。
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/kwch/ohsinji.htm

阿知吉士、つまり東漢氏が読んだ王仁は、文忌寸の祖で、百済からきた東漢氏の同系とみて間違いないでしょう。

ただ、それとは別に王辰爾がいたと考えるべきかどうか、その辺が課題ですね。

文宿祢、武生宿祢、桜野首

左京諸蕃漢伊吉 連連出自長安人劉家揚雍也

みたいに、伊吉連氏が遣唐使に乗っていったせいで、長安人に祖を持っていくケースもあり、遣唐使人の知識の広さが伺えます。

伊吉連は、やはり先の山田造と同様に周に祖をもっていきます。
これが書紀に、伊吉博徳の書として引用されていきますが、あまり出来のよくない漢文で、しかしそのまま記録として訂正されずに残された。壱岐の海運関連の氏族でもあり、吉士と同様に遣唐使・新羅使で重宝されたのでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

おおむね近江朝側に着くケースが多かったようですね。

藤原不比等と、先の654年の天智側から派遣された遣唐使人田辺史との関わりも重要で、律令編纂に田辺史が2人も入るには気になるところです。
http://www.geocities.jp/yasuko8787/o-109.htm

ここで白猪史が律令編纂に入ってくることがありますが、



  上毛野朝臣―――下毛野朝臣同祖―多奇波世君の後―――――――左京皇別下
(大泊瀬幼武天皇(雄略)の御世、努賀君の男、百尊は娘の出産のため婿の家に向かい、夜を犯して帰った。応神天皇御陵辺において、馬に乗った人に会い、相共に語り合い、馬を交換して別れた。翌日、換えた馬を見ると土の馬であった。よって、陵辺君の姓を負う。百尊男徳尊、孫斯羅は皇極天皇の御世、河内山下田を賜れ、文書を解くをもって田辺史となる。孝謙天皇の天平勝宝二年、改めて上毛野公を賜う。弘仁元年、改めて朝臣姓を賜う。姓氏録)
  (田辺史伯孫が応神天皇陵付近で馬を交換した=日本書紀)
  (天平勝宝二年、田辺史難波に上毛野君の姓を賜う=続日本紀)


姓氏録は、どういうわけか田辺史の伝承だけは載せているんですよね。
こうみると、応神朝の百済系の漢氏との関わりも感じますが、斯羅というのが、後の新羅のことで、どうも半島を行き来した氏族のようにもみえますね。上毛野氏自身にそういう傾向があるでしょう。

山田史の系統的な位置づけは、上記のように整理すると、旧百済系の史の家柄に生まれながらも、遣新羅使などの留学経験を経て、新漢人と同様に大陸的な知識を仕入れていて、不比等との関係で、編纂に関わることになった。

その辺の影響が、記紀の一部に見えてくるのかもしれません。



1046管理人:2013/01/14(月) 19:26:16
Re: 白村江の戦い1350周年
藤井游惟さんへのお返事です。

さっそくお返事ありがとうございます。

> 皆様、私の説の中核をご理解頂けた様で、幸いです。
>
> 私の「『記紀万葉』言語的外国人記述説」は、歴史学にも考古学にも、そして朝鮮語学にも関係無く、
> 音声学だけで証明できるのであり、この根幹部分の議論に「専門家」として参加できるのは音声学者と国語学者だけ。
>

先ほど再度、第4章から拝読させていただき、ようやく藤井さんのおっしゃりたいことがわかってきたように感じます。


確かに、自分の話す母音の詳細な変化を聞き分けられないのに、聞き分けて書き込んでいる記録があるということは、まったく外国人の筆記官が記していないと無理だということも理解できました。

そして、実質的な外国人や2世がいなくなった奈良末期から平安にかけて、その詳細な変化を記録したものもなくなるということも、そのとおりだと思います。

そして日本語も理解しないと行けないわけですから、外人系でも2世バイリンガルあたりがもっとも有力候補と言えるでしょう。

それで、また細かいアクセントや子音の差については、日本人自身でも理解できているものですが、条件母音のような部分にはまず気付けないということも読んでいてなるほどと感じました。

いわば絶対日本人自身が気付けない部分、この部分を記録した人がいるという点が重要ですね。


> そして、これまで言語学者・国語学者・朝鮮語学者・中国語学者を含め、数百人にこの実験をやらせてみましたが、
> ??を否定した者はただの一人もいません。

たぶん、そうだと思います。


> 何百回実験を繰り返しても同じ結果が出るものを音声学者が否定するわけはなく
> (日本音声学会全国大会でも発表していますが、誰も否定しませんでした)、
> 残る敵は国語学者だけですが、
> 「上代特殊仮名遣い」というテーマの専門家を自他共に認ずる国語学者達が、
> 実験したすべての人間が肯定しているこの2つの法則の一致を否定する方法はただ一つ。
>
> もう一度、『記紀万葉』の資料の山を韻書に照らして分析し直し、
> 橋本進吉以来100年以上に亘って自らの先達達が苦労して蓄積してきた
> 「上代特殊仮名遣いオ段甲乙書き分け」に関するデータの側を自らの手で否定し、
> 「この2つの法則は一致していない。従って藤井の言っていることは誤りである」
> と言うことだけです。(笑)


この手の問題は、実は古代史にもありうることです。ただ幸いにも、データ面での分析は比較的信用に足る形で考証されてきた経緯があり、さすがは日本人だと感じますね。



> 実は、国語学者の中にも拙論を正しく理解し、
> 私に対し個人的には「上代特殊仮名遣いに関する画期的研究」と賞賛してくれている者は沢山いるのですが、
> 一方で、古くからの友人ですら、拙著の書評を書いたり、私を研究会やシンポジウムに招いたりして、
> 拙論を広めることに力を貸してくれようとはせず、公的には無視・黙殺を貫いています。
> (これまでのところ、公式に拙論の支持ないし評価を表明してくれている国語学者は、
> 木簡と漢字音が専門の愛知県立大学教授の犬飼隆氏だけです)


利益にならないことは黙殺するというのは、今の日本社会の常識となっていますが、ただ学問的にはあまりよい傾向ではないですね。利害が自分たちと反しても真実を追求する姿勢のほうが重要です。その辺の純粋なアカデミズムへの志向は一時期合ったように見えるんですけど、権威者が大きくなりすぎている現代では難しいのかもしれませんね。


> 国語学者達が拙論の無視・黙殺を続けている理由は明白、「松本克己の異音説問題」にあります。
> http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/9Matumoto.html
>
> 1975年に発表され、「上代特殊仮名遣い研究の停滞をうち破る画期的新説」
> 「視野の狭い国語学者の世界に、視野の広い言語学者が風穴を開けた」
> ともてはやされ、それから40年近く経った今日でも「有力仮説」として生き残っている
> 言語学者・松本克己氏の「上代特殊仮名遣いオ段甲乙異音説」は、
> 実は「異音(allophone)」という概念の完全なる誤解に基づく「トンデモ説」以外の何者でもありません。
>

ともあれ、藤井さんのおっしゃるように、松本さんも先の森さんも、どこをみても渡来系だとは気付いていても、なかなかおおっぴらに渡来系で押し通そうとしない背景には、別の問題があるように感じます。

特に国語学とか、日本人のアイデンティティーを探求する分野では、結論をより日本的にもっていきたいという思いもあるかもしれませんね。
またそのように「日本人」を刷り込まれてきた教育があるので、なかなか頭が切り替わらないのでしょう。

「視野の狭い国語学者の世界に、視野の広い言語学者が風穴を開けた」という世評に対し猛反発しながら、
> 40年近くに亘ってこれが「トンデモ」であることに気づかない国語学者達。
>
> 松本氏は、??を完全に誤解していますが、他の言語の事例から類推して


あまり国語学会にはかかわらないでまだしばらく10年くらいそっとしておいてあげて、別の考古学とか日本古代史で支持者を集めたほうが得策のように感じますよ。


> 松本異音説は、1980年代以降、上代特殊仮名遣いの概説本には必ず取り上げられており、
> 大学の国文科・日本文学科の授業やゼミでも教えられており、
> いやしくも大学院まで卒業した国語学者・国文学者であるならば、
> 専門分野に関係なく「松本説=異音説」であることぐらいは常識として知っています。
> (今まで「松本説なんて全く知らない」などという国語学者・国文学者に出会ったことはありません)


実のところ、古代史の授業でも、森さんの本をやっと読み始めるくらいで、ぜんぜん藤井さんのおっしゃるような言語体系の話はでてこないんですね。条件異音云々など、いままで思い浮かびすらしないですし、それが自分たちが毎日つかっている記紀や万葉に現れているなんて、まったく驚き以外なにものでもないですよ。

ただ、おそらく欧米系の外国人が、日本語と日本の古代史や国文学の世界を理解できたなら、藤井さんと同様な意見をすぐに指摘するだろうと思います。韓国や中国人の研究者で日本国文学や音声学をしている人はいないのですか?気付かなかったのかな・・・。

ただ確かに気付いても、専門レベルで論議できるのは、ごく一部で、それ以外は万葉集の云々が韓国人説みたいな恣意的な形でしか発表できないのかもしれません。


> 国語学者・国文学者であれば誰でも知っていながら、
> 松本説が「トンデモ」であることを指摘した者は一人もいないばかりか
> 「へえ、『記紀万葉』では異音(allophone)が書き分けられていたんですか?
> てことは、松本さん、あんた『記紀万葉』を書いていたのは、外国人だったって言ってるんですか?
> 外国人だったと言うなら、なに人だったんですか? 中国人ですか? 朝鮮人ですか? それ以外ですか?
> なに人が、自らのどういう音韻体系に照らして、この2つ母音を別の音素と判断したんですか?」
> と追求した人間が「一人もいない」ということは、
> 国語学者・国文学者の中に「異音(allophone)」という概念を
> マトモに理解していた人間は「一人もいなかった」ということになります。
> (実際、これまで出会った国語学者・国文学者の中に
> 私が教えてやるまで、「異音(allophone)」の概念をマトモに理解していた者は、
> 文字通り、一人もいませんでした)


いや、ほんとに驚くべきですが、誰もいないはずです。みなさんびっくりしたでしょう。

何百年何万人が読んでも、みなが同じ視点なら、誰も気付かないということが世の中にはしばしばあります。

条件異音について気付いている日本人は1億人いて、藤井さんともう数人だけかもしれません(笑)

そして気付いても、また疑いはじめて、もとの木阿弥にもどってしまうことでしょう。


> この、国語学(国文学)という学問自体の面目を丸つぶれにする事実を拙論は暴露しているため、
> 内心では拙論を高く評価している国語学者達も、
> 「業界の裏切り者」のレッテルを貼られるのを恐れ、無視・黙殺を貫いているのです。
>
> 例えば、斯界では有名なG学院大学のA.S.教授は、
> 私が2001年に「国語学会春期大会」でこの説を発表した際に拙論を高く評価し、
> その後も私的研究会などでの発表など、色々便宜を図ってくれていたのですが、
> 拙著出版の2007年以降、私の批判は松本氏よりも「国語学」という学問のあり方、国語学者全て向けられた批判であることが解り、
> 最近では拙論普及に力を貸してくれるどころか、露骨に妨害工作までするようになってきました。
>




なんか藤井さんの次に話すことを預言してしまっていますが、結構他人のことというのは、門外漢でもある程度勘のいい人なら、この人の学説はこの辺があっていて、ここがまちがっていて、学会ではこうこう評価されて、こうこうこうなるだろう、という予測がつけやすいものです。ところが自分の専門になると意外にも気付かないでもがくことになりますね。


やはり別の分野から、積極的に評価・批判できるシステムを造らないと、いつまでたっても気付かない、気付けない、気付いても権威が重くてかえられない・・・といった弊害が続くような気もします。


まともな古代史学会ももう10年以上顔出してないですが、報告前から、すでに結果がわかっていたりするものです。だれがどこをどう批判して、どこがどうなって、どう黙殺されていくか・・・。

ただ、そのときは、解明できなくても、10年経てば新しい資料も出てきたりしますし、別の見方も出来ることも多いですね。藤井さんの本ではないですが、一度ミスしたらもう終わりというのも、あまりよくないんです。古代史でもおそらく今通説となっていることの、数分の1はそのうちひっくり返りますよ。

誤植とかミス引用とか小さいミスはしてないんだけど、学会レベルでの大きなミスが起こっていたりする・・・。

特に渡来系の分野はそれが多く起こりえるわけでして、それゆえ、はやい時点で諸外国や諸分野との連携を強化しながら、その是正に努めるべきだと思います。



1047秦野北斗:2013/01/14(月) 19:50:23
Re: 白村江の戦い1350周年
藤井游惟さんへのお返事です。

秦野です。「上代特殊仮名遣いに関する画期的研究」に首を突っ込みましょか。

渡来人の分布と先祖の追跡はできます、知りたい所をお知らせ下さい。
注意することは、日本では過去へ3900年が限界です。
それと、多く混血があるのであしからず。



1048管理人:2013/01/14(月) 21:14:36
Re: 白村江の戦い1350周年
秦野北斗さんへのお返事です。

>
> 古事記は瑞穂の国の倭人が記録。日本書記は韓半島の倭国の倭人、弓月氏が帰化後記録。
>


古事記に、森さんが指摘する書き分けが見えるというのが気になるんですよね。万葉に見えるのは、亡命百済人の件でわかるのですが、古事記に見えるというのが・・。


> 「天地開闢 天地(あめつち)の創成、天地の初め」ですが日本書記と古事記を比較すると
> 倭人、弓月氏の出身地が読み取れそうですな。
>


天地開闢の条はいいところに注目されましたね。
かなり立派な漢文体なのですが、「一書」に天地開闢条の記載に6種もあって、内容が異なるというのがよく考えてみるとおかしな話です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

「常立」とすべきところを、第3書だけ「底立」になってますね。 「トコ」が「ソコ」になっている。
第1もその「底立」を別名で引用してます。

高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が入るのは、新漢人系の扶桑信仰の特徴を持っていて、中臣・大伴とも関わりそうなものですが、第四書だけですね。これはどういうことか。「常立」の語です。

なおタジマモリの話は「常世国」ですね。


それらと古事記の位置づけですね。旧辞記。


古事記が高御産巣日神(たかみむすひのかみ)で入ってますね。
「常」の字を用いてます。

そうすると、藤井さんの本に出ている下記の記載が関係するでしょうか。

0. とこよ(常夜)/とこよ(常代)

常夜行くの話は確か神功関連ですね。新羅始祖伝承関連・新漢氏系か。

こちらも藤井さんの本から。

ところで、この「/O/を明瞭に発音しようという意識が働くと円唇化してしまう」という法則は、常に明瞭に発音しなければならないオ段音の単語の/O/は/o/(甲類)になるということである。

  松本克己氏は上代の自立的単音節語、特に単音節名詞の「子(コ)」「粉(ソ)」「麻(ソ)」「戸(ト)」「野(ノ)」など殆どが甲類であることを指摘しているが、それはこの/O/を明瞭化に伴う円唇化で説明できる。
↓は関西方言話者の、「そこの戸」と「能登半島」(上代に於いて、戸は甲類、能登の「登」は乙類)、「うちの子」と「のこぎり」の発音である。
  特に、関西方言では単音節名詞は、長音化して「子」は/コー/、戸は/トー/、「野」は/ノー/という風に強調して発音されるが、その場合も必ず円唇化して甲類になる。
http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/6shou.html



これは、一書でも、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)を使っていて、先代旧辞でも神皇産霊を使っていることをかんがえると、産巣日神のような「日」「日子」を、「彦」とか「産霊」に統一したのは、記紀編纂時ではなく、その前の天智6年、あるいは蘇我時代の編纂の影響とみなすべきでしょうか。

天御中主が見えるのも、古事記と第四書。

ただ、蘇我時代のは、古事記と関係するような気もしますね。これが、後の第四書と系統を一緒とするならば、

新漢人や渡来系の影響を受けた古事記の成立がまずあって、それからその系統の延長線上に第四書が仕上がる。、そこで一部、文字の統一改変が行われるのですが、日子を彦のようにしてしまう背景には、日本号の成立と関係して、天智・近江朝の関係とみなせれば、やはり天智6年。しかし、第1書がやはり総合的にまとめた経緯があるので、これを天智6年とすべきか、さらに後の天武あたりにもっていくか。

あと、先代旧辞と、古事記の先の類似性は、旧辞とで接点がでてきます。

ところが、記紀の編纂に際して、その第四書、正統だった?第1書以外のものを、複数採用した可能性がありますね。
中には、「底」の音のように、半島系??の撰者によるものもあったりして、それらをまとめる際に、中国人ではなく、神代は山田史等だったので、そのまま見過ごされた・・と見なすべきでしょうか。

ただ、ちょっと神名が変化している、

第1が第3を引用してまとめているんですよね。
第1が、ある時期の公式な記録だった可能性も感じます。これが天智時代のそれとすると、なぜ、それをもとにして記紀を編纂しなかったのか?

天智朝の近江・新漢人が強い時代から、やはり時代が経って、祭祀神の序列や氏族もかわり、さらに書記官も、新漢人主体から、先のとおり不比等と親しかった王辰爾系や、その後の・・・が加わっていき、変化した可能性を感じますね。


> 白村江ですが百済帰化人の救出作戦で敗戦ではない。
> 百済帰化人は日本書記を書いていない。
> 百済帰化人は各地に城を造ったのだろう、彦根城が百済形式の日本最古の城だろう。
>
> 彦根は渡来系ですな、家紋も田道間守(たじまもり)ですな。
>
>


朝鮮式山城の件ですね。関連して大野城とか、菊池城がおもしろいですが、吉備方面にもあります。660年代から、710年代まで40年ありますから、日本語に長けたものもでてきた可能性はありますね。


1049秦野北斗:2013/01/14(月) 23:42:49
Re: 白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。

> 古事記に亡命百済人の件でわかるのですが、古事記に見える。古事記のどの部分を言っているかが問題です。

日本書記の国生み伝説では前半を述べている。古事記国は後半部分。その後、相互に加筆したのではないか。出雲勢と黄泉勢の地域差でしょうな。

> 古事記に、森さんが指摘する書き分けが見えるというのが気になるんですよね。万葉に見えるのは、亡命百済人の件でわかるのですが、古事記に見えるというのが・・。
>

国之常立神は「常立=常陸=日立=常陸国」なんですな。

古事記は国之常立神、日本書記は国常立尊で之の差ですな。

古事記、日本書記は阿毎系が書いた。

蘇我、中臣は阿毎系でないので言葉が言えるが書けない。倭国、弓月君は阿毎系で日本書記。古事記は阿毎系が書いている。方言、表記の差でないか。扶桑国の文章から韓半島の倭国、弓月君も日本の倭国も同一言語だが、筆記は異なると思われる。


>   松本克己氏は上代の自立的単音節語、特に単音節名詞の「子(コ)」「粉(ソ)」「麻(ソ)」「戸(ト)」「野(ノ)」など殆どが甲類であることを指摘しているが、それはこの/O/を明瞭化に伴う円唇化で説明できる。

> ↓は関西方言話者の、「そこの戸」と「能登半島」(上代に於いて、戸は甲類、能登の「登」は乙類)、「うちの子」と「のこぎり」の発音である。
>   特に、関西方言では単音節名詞は、長音化して「子」は/コー/、戸は/トー/、「野」は/ノー/という風に強調して発音されるが、その場合も必ず円唇化して甲類になる。
>
> これは、一書でも、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)を使っていて、先代旧辞でも神皇産霊を使っていることをかんがえると、産巣日神のような「日」「日子」を、「彦」とか「産霊」に統一したのは、記紀編纂時ではなく、その前の天智6年、あるいは蘇我時代の編纂の影響とみなすべきでしょうか。
>

様子を見ます。


>朝鮮式山城の件ですね。関連して大野城とか、菊池城がおもしろいですが、吉備方面にもあります。660年代から、710年代まで40年ありますから、日本語に長けたものもでてきた可能性はありますね。

大野城:千葉県、福井県 、愛知県 。菊池城

気きませんでした。


> ところが、記紀の編纂に際して、その第四書、正統だった?第1書以外のものを、複数採用した可能性がありますね。
> 中には、「底」の音のように、半島系??の撰者によるものもあったりして、それらをまとめる際に、中国人ではなく、神代は山田史等だったので、そのまま見過ごされた・・と見なすべきでしょうか。
>
山田史は秦野の歴史と相当異なる。9〜10割は創作だろう。 古田は10割だが。


1050秦野北斗:2013/01/14(月) 23:52:26
Re: 白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。

一部歴史に矛盾があるので訂正します。これで聖徳太子と俀国の意味が理解できるでしょうな。

391年 高句麗が百済を討って配下に入れたので、その報復として百済・倭を征伐した。

倭の五王
413年、讃
438年、珍
443年、済
478年、武
502年 蘇我 高麗(そが の こま)?
4世紀後半 渡来したのが蘇我氏

498-506年 武烈天皇
507-531年 継体天皇

540年ごろ秦氏とともに日本に渡って、欽明朝擁立の原動力となります。間違い。
539-571年 欽明天皇

391年と540年の間に「倭の五王:413年から502年の約100年間に、中国の南朝と通交した倭(日本)の五人の王者」が存在する。


以上を整理すると韓半島の歴史だが自然に考えると蘇我氏は倭の五王系で武の子供:蘇我 高麗になる。

その後の継体天皇は韓半島の越国だろう。

製鉄文化は紀元前に存在している。技術は秦から渡来する。

継体天皇の住所が韓半島から出雲風土記の綱引き神話後の日本の福井県に成っている。

『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。近江地方説は間違い。万葉集は韓半島の倭国で歌われている。



1051棘の紀氏:2013/01/15(火) 13:01:35
参考になれば、幸いです。
ヘブライ語で神を意味する「ヤ」、「ヨ」という発音 http://www.asyura2.com/10/senkyo90/msg/522.html
18, 古代ヘブライ語に母音がないって本当 ? 19, 母音記号発明の宗教的理由. http://www.h3.dion.ne.jp/~ivrit/Q&A.htm

ヘブライ語で、羅針盤(=コンパス)は何と発音しますか?
羅針盤をヘブライ語で言うと、Matzpen(マツペン)となるそうです。ヘブライ文字で は???? と表記されてます。お示しの MPH??は、古代ヘブライ語には母音がなかったため、そのままをアルファベットに写した字体と発音までを含めた字体とでは、異なるのかも知れません。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1433077804

ワダ ・・・水M・・・マイム 開拓にはげむ喜び http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/355
委陀(ワダ)・南加羅(アリヒシノカラ)・阿羅羅(アララ)の六つの城を 割譲 ... http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage12.htm
日本書紀や他の歌謡との関連で、語られている人は、太子、祟峻天皇(当時はまだ天皇の称号はなかった)、蘇我馬子、祟峻天皇の刺殺者である東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)です。
「記7」と「紀6」の歌謡で、一部の歌詞が重複して他が異なっているのは、一つのヘブライ文をそれぞれで分担した為です。


1052管理人:2013/01/15(火) 13:53:15
Re: 白村江の戦い1350周年
秦野北斗さんへのお返事です。

>
> 国之常立神は「常立=常陸=日立=常陸国」なんですな。
>
> 古事記は国之常立神、日本書記は国常立尊で之の差ですな。
>
> 古事記、日本書記は阿毎系が書いた。
>
> 蘇我、中臣は阿毎系でないので言葉が言えるが書けない。倭国、弓月君は阿毎系で日本書記。古事記は阿毎系が書いている。方言、表記の差でないか。扶桑国の文章から韓半島の倭国、弓月君も日本の倭国も同一言語だが、筆記は異なると思われる。

なるほど、常立国の件は重要ですね。

「底立:は、「常立」の語の意味を理解してない半島渡来後すぐのバイリンガルが、倭人の発音を聴いて、そう記載したとかいう藤井さん的な類推ができるかもしれません。

半島渡来の年代から、2世までの年代を洗い出すとよいかもしれません。

ひとつは375〜420年代、2世の時代はしたがって420〜50年代。
次が530〜40年代、2世の時代は560〜600年代、

さらにいえば、170年、240年代あたりも考慮してもよいかもしれません。

倭王武の文章や、ワカタケル関連もそうですね。


>山田史は秦野の歴史と相当異なる。9〜10割は創作だろう。 古田は10割だが。


F史学の件は、最近になって知ったのですが、試みとしては重要だと思うんですね。
アマチュア方面の意見をまとめて、ひとつの学会としての意見を提出する、過去にない試みだと思います。

ただ、なんというか、秦野さんご指摘のとおり、あまり〜のように見えるのがもったいないですね。

もっと鑑識眼があれば、F史学のまるまる氏の論文からの引用という形で、学会でも採用できるのではないでしょうか。
ただでさえ、学会側もアイデアに枯渇しているわけですし、それでも毎年数千万ももらっていて、何かまともな成果を出さないと、今の原発利権みたいに批判の嵐にさらされる可能性だったありうるわけです。考古ですでにその兆候がみえはじめていて、予算カットが進んでますね。


やはり携帯電話の特許みたいに、アマチュアの特許を、業界人が活用できれば、業界人側も結局は得するわけです。

ただ、あまりにもF史学は・・・、鹿島云々が・・・という先入観が学者側にはびこりすぎて、アマチュアの論文を読むことすらしなくなっているので、結局上記のような結果になっているのでしょう。

その辺の構造的欠陥の是正から始めるべきだと思いますね。

1053管理人:2013/01/15(火) 15:45:23
Re: 白村江の戦い1350周年
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 一部歴史に矛盾があるので訂正します。これで聖徳太子と俀国の意味が理解できるでしょうな。
>
>
> 502年 蘇我 高麗(そが の こま)?
> 4世紀後半 渡来したのが蘇我氏
>
> 498-506年 武烈天皇
> 507-531年 継体天皇
>
> 540年ごろ秦氏とともに日本に渡って、欽明朝擁立の原動力となります。間違い。
> 539-571年 欽明天皇
>

秦氏の問題は重要です。欽明朝のころに、全国から秦氏を集める記載があるのですが、ここに秦韓方面の秦氏もはいっていたであろうと推測します。

逆に応神〜雄略朝とされる百済・秦韓系の秦氏の渡来数が、実際にどのくらいだったか?もいささか疑問をもっています。


結局、後代見える秦氏の数に比して、半島系古墳や遺物が秦氏の本拠からは少ないことがあります。

最近それでも長岡・山城方面から、ローマ系の遺物が出てきてますが、ここに秦氏が関わった可能性を感じます。

たぶん、新羅にローマ系の遺物がはいるのが、5世紀後半でしょうから、するとそれ以後の秦氏の山城への移住を想定すべきで、新漢人等と一緒に渡来したなら、6世紀代が妥当でしょう。

それでそのころの渡来系古墳が、方墳とか円墳で明らかな特徴があるのに比して、それ以前のが前方後円墳であまり日本のそれと変わらないことが指摘されています。

漢氏の渡来は5世紀にもってこれそうですが、はたして秦氏の「大量渡来」が5世紀代にあったのかどうか、ちょっとまだ確信できない感じです。教科書には、秦氏が5世紀にやってきて・・・と記載されているのかもしれませんが・・・。波多氏あたりは、武内宿袮系集団とともに、早めに4−5世紀代には周防方面の秦王国に渡来していただろうと思います。

秦氏と密接な関係があるのは欽明です。この時期に大きな移動の転機があります。


> 『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。近江地方説は間違い。万葉集は韓半島の倭国で歌われている。
>
>

継体がどこから来たかもそうですね。三尾周辺に本拠があり、新漢氏の近江移住とも関わって、関連の墳墓から、新羅・伽耶でみえるような金銀装飾遺物がみえてきます。血縁的には、5世紀代の忍坂宮の王族に関わると思うのですが、文化的には、6世紀代の新漢人の影響がつよいですね。

新漢人の記載は、遣唐使に多く見えますが、おそらく東漢氏等との対比でつけられた名称で、ある時期の帝紀に記されていたものでしょう。

それで秦野さんご指摘の韓半島とのむすびつきですが、継体陵関連で、中国式の排水溝が確認されているそうで、これらが半島にみえないとすると、中国系の渡来人がこの時期にやってきた可能性を感じます。中国系の甲冑が、半島で1世代をおいて、近江の新漢人系の墳墓から見えてくるのも、やはりコーカソイド系の後趙から北燕にかけての製鉄遺民の流れで、東欧系の金属精錬やガラス椀、製鉄技術がそこにもたらせていき、さらに白鳥・ペガサス伝承みたいなものも一緒に渡来して、ヤマトタケル伝承の白鳥伝承等にみえていくのですが、ここで、中国系の土木技術者、特に墳墓制作等にみえる、宮殿内部の宮廷工房にいたような技術者ですね、彼らが一斉に朝鮮に散らばって日本に来た可能性を感じます。

継体のでた高向は、高向漢人の本拠で、後の遣隋使・遣唐使にのっていくのですが、高向玄理あたりは、いわゆるバイリンガル2世ですね。彼ら新漢人が多数乗り込んでいます。

まだかなり言語的には中国系のそれを理解していたはずで、7世紀代前半くらいまでは、新漢人が主体となって遣唐使が派遣されていきます。

ただ。確かに後半になると3世の世代になり、藤井さんのおっしゃるように、言語的能力が足りなくなっていったので、高向玄理などは、老年になっても再派遣されるようなことも起きていたのでしょう。

ここでも藤井さんのバイリンガル理論公式が、古代史解明に役立ってくることがわかりますね。

推古朝は新漢人バイリンガルの全盛期で、そのときに古事記や先代旧辞、書紀の一書等が成立した可能性を感じます。
すると、見方によれば、もっと言語学的に迫れるかもしれません。

ただ、癖がある・・・。北燕遺民には、先のとおりコーカソイド系の羯族等が入っていたとすると、言語的にもラテン語的な部分が出てこないといけないわけですが、ちょうど最近ラテン語と日本語の比較研究がはじまったところで、そこそこ相関性が見え始めていることがありますね。

遺伝子的にはケルト系のHLAが、日本の第3位まで登っていて、北陸系の分布あるので、新漢人系の子孫ではないかと感じてます。

たぶん、6世紀末の金銀装飾遺物が、近江や山城方面の古墳から多く出土する背景には、この1世、もしくは2世の寿命がつきて、埋葬されていく経緯で、一部が埋葬され、また一部は上宮家などに伝来したので、結果としては、分割されていくこととなったのでしょう。

教科書に渡来時のことを載せるなら、不確定な5世紀代の渡来時の影響とは別に、新漢人の話を載せるべきだと思いますね。こちらのほうが、影響力が強いでしょう。

ただ、問題は新羅古墳から日本の新漢人の古墳にみえる東欧系遺物の話ですね。石窟人や高句麗のそれともかかわってきて、ひとつは中国・韓国系の歴史家への配慮、もうひとつは皇室への配慮で、両はさみでわかっていても触れるのをためらっていて、遠回りにしか発言しない実態があります。

もちろんほとんどの古代史家は、そのことにすら気付いてないのですが、一部の人はちゃんと気付いていて、大御所とかも、1文中の「数文字」くらいその辺をぼかしぼかし触れているというところです。藤井さんの大御所のケースと同じです。

結局、その辺のことを大々的に論じると、まず「とりつぶし」にあうでしょうし、マスコミが騒ぎ立てると、学校や研究機関ごととりつぶしにあうかもしれません。

こういう半島とか皇室にダイレクトにかかわる研究分野は、すべての職も肩書きも何もなくなっても構わない人がやるべきで、そうでない人は黙って何も書かない、批判もしないというのがよいように感じますし、実際そうなのではないでしょうか・・・。



1054管理人:2013/01/15(火) 18:16:20
Re: 参考になれば、幸いです。
棘の紀氏さんへのお返事です。

> ヘブライ語で神を意味する「ヤ」、「ヨ」という発音 http://www.asyura2.com/10/senkyo90/msg/522.html
> 18, 古代ヘブライ語に母音がないって本当 ? 19, 母音記号発明の宗教的理由. http://www.h3.dion.ne.jp/~ivrit/Q&A.htm
>
> ヘブライ語で、羅針盤(=コンパス)は何と発音しますか?
> 羅針盤をヘブライ語で言うと、Matzpen(マツペン)となるそうです。ヘブライ文字で は???? と表記されてます。お示しの MPH??は、古代ヘブライ語には母音がなかったため、そのままをアルファベットに写した字体と発音までを


ヘブライ語については、別にイラン系月氏・ヘブライ研究部を研究会の配下につくりたいですね。

どうも、今のヘブライ語はおそらく子音だけあっていて、母音はもしかするとほとんど違うのではないかと感じ始めてます。

それは子音だけ表記して、母音の表記記号なかったことに由来するのですが、旧約聖書が記された紀元前数百年の時代から、ユダヤ人離散の時代に至まるまでに、相当母音の発音が変化しているのではないかと感じます。

その点では、万葉仮名みたいに、日本語の場合は、母音も子音も記録されているのでわかりやすいですよね。

ただ藤井さんのサイトにあったように、母音の詳細な変化を自身で認識できてないとすると、ヘブライ語の母音の変化の実態を追うとすると、「ヤコブ」の記載事例のように、他の民族が記した記録を元に、類推するしかないのかもしれません。

ヘブライ語の文字系統は、アラム文字なのですが、それが後にアラビア文字・シリア文字や、ゾグド文字、ウイグル文字へと変化していきます。景教碑文にも、中国語とアラム文字が併記されていて、
http://ja.wikipedia.org/wiki/

サカ・月氏との関わりでは、ゾグド文字、マニ文字あたりが重要でしょう。

サカ人はスキタイ諸語で、ゾグド語とは兄弟関係にあります。元はイラン語派
http://ja.wikipedia.org/wiki/

サルマタイ語が特にサカ族との関係で重要そうですね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sarmatian_language


ゾグド語というのは、a i u +eばかりのように見えますね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sogdian_language

文字のほうはセム語系のアラム語からのように、母音がないもしくは(' Y w)つまりこれで(あいう)を表す云々と書いてあります。


The Sogdian script is the direct ancestor of the Uyghur script, itself the forerunner of the Mongolian script.
As in other writing systems descended from the Semitic script, there are no special signs for vowels. As in the parent Aramaic system, the consonantal signs ’ y w can stand for the long vowels [a: i: u:] respectively. However, unlike it, these consonant signs would also sometimes serve to express the short vowels (which could also sometimes be left unexpressed, as they always are in the parent systems).[5] To distinguish long vowels from short ones, an additional aleph could be written before the sign denoting the long vowel.[5]
The Sogdian language also used the Manichean script, which consisted of 29 letters.[6]


a i u が主体の言語というのは、たぶん今のヘブライ語もそうでしょうし、沖縄方面とかですね。

ゾグド文字は正倉院にもみえますが、ゾグド人が来たならば、もしかすると、a i u 系の名前とかが表記されていたかもしれません。e o がない。

奈良時代にきたペルシャ人にダラミダーがいますよね。白鳳期の「けんずはしたつあ(だった)」のケースもあります。

ところが、ゾグド語等をつかうサカ・月氏が東遷して半島や日本に至るまでに、現地系の母音、つまり e o を導入したということはないでしょうか。


それを五十音表にすると、まずaiu 系の文字表があって、そこにeo 系の文字を新たに付け加える。

ちょっと時間をかけて分析する必要がありそうです。


1055管理人:2013/01/15(火) 23:21:54
ヘブライ文字・仮名文字対応表
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001079M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001079_2M.jpg

ちょっと先日のヘブライ文字と仮名文字(日文)との比較対応表を作成しなおしてみました。
上・節墨譜文字 下・法隆寺秘蔵文字 です。

こうみると、仮名文字の起源が、アラム語系、特に新・古ヘブライ語によって作成された経緯が明らかになるでしょう。日本語とローマ字の読み書きできる人なら、この対応性が明らかなことはすぐ分かると思います。意外に日本語は遊牧民系(つまりアルファベット)の言語にちかいんです。日本人のDNAで一番多いのも遊牧民系ですから、妥当といえば妥当な結論といえるでしょう。過去の通説にとらわれすぎて信じれないだけです。



1056秦野北斗:2013/01/16(水) 11:33:15
Re: 白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。

F史学?なんですか

> F史学の件は、最近になって知ったのですが、試みとしては重要だと思うんですね。
> アマチュア方面の意見をまとめて、ひとつの学会としての意見を提出する、過去にない試みだと思います。
>
> ただ、なんというか、秦野さんご指摘のとおり、あまり〜のように見えるのがもったいないですね。
>
> もっと鑑識眼があれば、F史学のまるまる氏の論文からの引用という形で、学会でも採用できるのではないでしょうか。

> ただでさえ、学会側もアイデアに枯渇しているわけですし、それでも毎年数千万ももらっていて、何かまともな成果を出さないと、今の原発利権みたいに批判の嵐にさらされる可能性だったありうるわけです。考古ですでにその兆候がみえはじめていて、予算カットが進んでますね。
>
>
> やはり携帯電話の特許みたいに、アマチュアの特許を、業界人が活用できれば、業界人側も結局は得するわけです。
>
> ただ、あまりにもF史学は・・・、鹿島云々が・・・という先入観が学者側にはびこりすぎて、アマチュアの論文を読むことすらしなくなっているので、結局上記のような結果になっているのでしょう。
>
> その辺の構造的欠陥の是正から始めるべきだと思いますね。


1057秦野北斗:2013/01/16(水) 12:48:16
Re: 白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。

そろそろ、秦氏を明確にしましょうか。

秦氏の秦はシンの意味です。徐福の3,000人の童男童女の末裔になる。古事記の国生みは
徐福の航海記録になり、かつ日本の記録に成る。阿毎は秦氏と考えても間違いはない。
5世紀に秦氏の「大量渡来」は韓半島から阿毎が帰国したんですな。
普通なら戦争になり痕跡が残る。尚、(ヒコ、蛭子、日子、彦、)(ヒルメ、日女、比売、)

徐福(じょふく)とは、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の方士。斉国の琅邪の出身

司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。

> 最近それでも長岡・山城方面から、ローマ系の遺物が出てきてますが、ここに秦氏が関わった可能性を感じます。
>
> たぶん、新羅にローマ系の遺物がはいるのが、5世紀後半でしょうから、するとそれ以後の秦氏の山城への移住を想定すべきで、新漢人等と一緒に渡来したなら、6世紀代が妥当でしょう。
>
> それでそのころの渡来系古墳が、方墳とか円墳で明らかな特徴があるのに比して、それ以前のが前方後円墳であまり日本のそれと変わらないことが指摘されています。
>
> 漢氏の渡来は5世紀にもってこれそうですが、はたして秦氏の「大量渡来」が5世紀代にあったのかどうか、ちょっとまだ確信できない感じです。教科書には、秦氏が5世紀にやってきて・・・と記載されているのかもしれませんが・・・。波多氏あたりは、武内宿袮系集団とともに、早めに4−5世紀代には周防方面の秦王国に渡来していただろうと思います。
>


1058棘の紀氏:2013/01/16(水) 13:19:16
辰韓は秦韓
辰韓(しんかん)は、紀元前2世紀末から4世紀にかけて、朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。帯方郡の南、日本海に接し、後の新羅と重なる場所にあった地域である。その境は、南にある弁韓と接しており、入り組んでいた。もともと6国であったが、後に分かれて12国になった。そのうちの斯蘆が後の新羅になった。辰韓人は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/辰韓
『後漢書』辰韓伝[1]、『三国志』魏書辰韓伝[2]、『晋書』辰韓伝[3]によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。そのため、その地の言葉には秦語(陝西方言。長安に都があった頃の標準語で、この亡民が秦代〜前漢代に渡来したことを物語る)が混じり、秦韓とも書いた。秦人は王にはならず、王族は馬韓人であった。
水谷千秋は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、と述べている[4]。
陳勝の農民一揆は、紀元前209年のことである。さらに、『辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を割いたと自言していた。(魏志東夷伝)』朝鮮では、国を割いてまで秦の亡民の建国を許している」と記している[5]。
また、『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人とは言語が異なっていたが、弁韓人とは互いに雑居し、風俗や言語は似通っていたという。『後漢書』弁辰伝によれば辰韓とは城郭や衣服などは同じだが、言語と風俗は異なっていたという[6]。
また、『北史』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。(新羅とは、その先はもとは辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている。)」との記述がある[7]。
中国の歴史学者の李大龍は、新羅の前身である辰韓は秦韓とも呼ばれ、中国の秦の人が建てた国だから、新羅は中国民族が建てた国だと主張している[9]。
チャン・セユン成均館大学教授は「中国の教科書には古朝鮮の歴史についての言及がなく、馬韓,辰韓,弁韓に代表される三韓時代に関しては、中国が自国の影響を多く受けたと主張する辰韓を中心に叙述している」と指摘している[10]。

秦氏系図は仮冒か変造が濃厚であり、本当に始皇帝の裔ならば秦姓でなく嬴姓を名乗るのが自然である。
 出自としては以下の二つが考えられる。 http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/kikajin.htm
 建国前の新羅地域は秦韓(辰韓)と呼ばれ、「魏略」によれば滅亡後に流浪した秦国人末裔の亡命者の多い地域と伝えられ、高句麗や新羅の圧迫から逃れる目的で来朝して養蚕や酒造の技術を日本に伝えたとの説である。
 長曽我部系図によれば、「蓋聞。長曽我部氏者。其始祖従異国来。着船於日本伊勢国桑名浦。浦人以扶之。属居子茲。是浦人者桑名彌次兵衛之遠祖也。長曽我部氏発桑名、以赴土佐国。到本山郷」とある。
 現在、新羅姓が三重県に多く松阪市に集住、また同市に服部(はとりべ)が奉職していた神服織機殿神社、神麻続機殿神社が末社を含めて18社も占めている。 正に伊勢は辰韓系秦氏の上陸地と言える。
 もうひとつ考えられるのは、五胡十六国の一つの前秦で氐族の符健が351年長安に入り国号を大秦として翌年皇帝となり、3代皇帝符堅は次々と諸国を併合して華北全土に大帝国を築き上げる。
 しかし、383年肥水の戦いで大敗北を喫して長安を放棄して衰退に向かい394年後燕に併合される。
 滅亡後に流浪した前秦国人末裔が百済経由で396年の来朝は、氐族が漢土西方出身で年代的にも符合する。

徐福一行は出雲族なり」とする孟憲仁が考証した説がある。また、王輯五は、出雲族は 秦系大陸民族であり、考古学的には銅鐸民族であり、徐福集団に比定している。 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=244018
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=244018

熊野の秦氏について新井白石は1711年の朝鮮通信使に会い,李氏朝鮮と清帝国の 徐福についての質問に熱田神宮に旧文字が,出雲大社に古文尚書が残っていると答え ています。
「元和姓纂」という書物によると徐は瀛姓、伯益の後。とあり徐氏はもともと瀛氏であったことがわかります。秦の始皇帝の姓は瀛であったため,徐福と始皇帝は同族である可能性があるわけです。瀛(えい)姓は,帝舜に賜ったとされ,その後裔は秦,徐,黄,江という。また、趙も瀛姓という。ということです。『説文解字注』によると、春秋時代の諸侯のうち、秦・徐・江・黄はみな瀛姓であったとのことです。
つまり徐福の同族に秦氏,江氏,黄氏がいて彼らも日本にやってきた可能性があります。もしそうなら秦氏の日本における起源は紀元前2世紀にまで遡るということになります。私は紀元前2世紀に滅びた秦を脱出した秦氏が3世紀まで500年間ずっと朝鮮半島に止まっていて,突然やってきたというストーリーに不自然さを感じるのです。もちろん朝鮮半島の秦氏は日本の物部氏と連絡をとりあっていたでしょうが,秦氏自身が物部氏とともに日本にわたって,本隊がやってくる準備をしていたという気がしてならないです。

最近発見された巻向遺跡の建物と出雲大社の造りの共通点が確認されていますから,出雲大社の創建は弥生時代に遡るかもしれません。そうすると秦氏のルーツも弥生時代に遡るかもしれません。


1059棘の紀氏:2013/01/16(水) 13:32:16
スサノヲと徐福
秦の始皇帝の父親は碧眼だったと伝わっています。
つまり西洋人です。 http://ameblo.jp/yippee-happy/entry-11356739541.html
彼の地下帝国はエジプト文明の踏襲です。
ダビデ・モーゼにその元をたどることが出来ます。

モーゼ・ダビデを祖神とする古代ヘブライと繋がりを持つ民は中国では「客家」(はっか)と呼ばれました。
この漢字の意味からも分かるようにもともと中国の土着の民族ではありません。
独自の言葉と文化と土着民族とは交わらない独特の住居の構造を作っていました。

徐福はこの客家の独自の文化を携えて日本にやってきました。
移動することは彼らの得意とするところです。
日本全国を移動しました。その先々で「緑」を増やしていきます。
たくさんの植物の種や苗を中国から持って来たと中国側の記録にあります。
土地の人々に「稲作」を教えます。
植樹と食料の確保・増産は彼らの得意とする所です。
徐福は敵を作りませんでした。それどころか外部からやって来たよそ者にも関わらず日本各地で歓迎されているんです。
それ相応の理由がなければそうはなりません・・・。
徐福が訪れた土地は緑豊かな豊穣の土地に変わって行ったのだと思うのです。
その考えや行動はスサノオによく引き継がれていました。

スサノヲと徐福一行との関係を考えてみましょう。 http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/21544968.html
『日本書紀』によれば、スサノヲは、父神のイザナギから大海原を支配せよと命じられています。さらに、新羅との往還物語もでてきます。スサノヲは、海と深い関係のある神なのです。そして、先にも触れましたが、「船が無いと、この国を治めるのに不便だろう」と言って、船の材料となる樹木を植えさせます。
海の支配とその手段である船の建造、それがスサノヲの役割となっているのです。では、それを支える航海術や、建造技術をスサノヲはどこで、誰から手に入れたのでしょうか。その相手が、出雲に到着した徐福一行だったのです。徐福は霊薬を手に入れると言って東方の海上に船出したのです。当然、船の修復や、帰りの船の建造が予定されています。徐福一行の中には造船技術をもった、腕のいい職人が幾人も乗り込んでいたでしょう。
さらに、古代の航海は陸地の遠影を見ながらの、目視航海が普通でした。しかし、徐福一行が乗り出したのは、陸の見えない東シナ海でした。天測や風や海流によって目指す土地にたどり着く高度な航海術が無くては、ただ無謀なだけです。巨大な財産を投資して送り出す始皇帝に対し、その航海技術力をきちんと説明したはずです。もちろん、その担い手は、中国江南の海人たちでした。彼らは、遠洋航海術に長けていました。あるアメリカの考古学者などは、古代に船を使って南米まで行ったと指摘しています。
スサノヲは、出雲で徐福に巡り会いました。そして、これら二つの技術を習得したのです。ここから、古代出雲人の海上での活躍が始まったのです。『記紀』には、出雲と海、航海、海を使った地域間交流の話がいくつも出てきます。宗像との行き来、越との行き来、新羅との行き来などです。いつも出雲のほうから、出かけて行っているのです。つまり、他の地域からは出雲に来る技術は無く、出雲には出かけて行ける遠洋航海術があったということなのです。ついには、宗像のタギリヒメ、越のヌナカワヒメがオオクニヌシと婚姻関係を結んでいます。この婚姻関係は、徐福一行のおかげで海原(日本海海域)を支配した、古代出雲への服従とも考えられるのです。


1060棘の紀氏:2013/01/16(水) 14:40:50
参考   氐族
氐宿( 音読:ていしゅう(学術的にはていしゅく)、訓読:ともぼし)は、二十八宿の一つで東方 青龍七宿の第三宿。距星はてんびん座α星。 http://ja.wikipedia.org/wiki/テイ宿
>氐族が漢土西方出身


ギリシア神話では、正義と天文の女神アストライアーの所有物で、正義を計る天秤だと される。 http://ja.wikipedia.org/wiki/てんびん座
:「南の爪」を意味する。
由来と歴史 [編集]
元々はさそり座のはさみの部分であったとも考えられている。後に星座として独立した。このため、黄道十二星座の中では最も新しいものと考えられている。
黄道十二星座の1つなので、元々はメソポタミア文明に由来を持つ可能性が高い。
神話 [編集]
ギリシア神話では、正義と天文の女神アストライアーの所有物で、正義を計る天秤だとされる。かつては秋分点がこの星座にあったので、時を計る天秤だったという説もある。なお隣の星座であるおとめ座はアストライアーをかたどったものとする説がある。
なお隣の星座であるおとめ座はアストライアーをかたどったものとする説がある。
アストライアー
「アストラーベ」航海用天体観測機材 http://www.geocities.jp/capten_bobs/astorabe1.html
未開の地を求めたヨーロッパ人は「地理的発見の冒険時代」を歴史に刻んできた。
「クロス・スタフ」はアムステルダム海洋博物館所有、天体高度により三種類のガイドが付属している。
「クロス・スタフ」→「バック・スタフ」→「デーヴィス式四分儀」→「オクタント(八分儀)」

「クロス・スタフ」は、大航海時代きわめて用いられたもの。十字架の様な形から名前が付いています。
 ヤコブの杖とも呼ばれました、観測者は図のように太陽が南中する正午に太陽高度と水平線の位置を あわせる方法で緯度を測りました。

 「バック・スタフ」は太陽を背にしながら、直接太陽を見なくても良いように改良されました。
 眼で水平線と高度軸が作る影で位置を測ります。
 「デーヴィス式四分儀」は16世紀になってイギリスのジョン・デーヴィスが考案した90度の半円を二つ使いより正確な太陽高度を測れるようになりました。

航海用アストロラーベは中世のイスラーム圏で10世紀ころから知られるようになりました。
正確な位置を知るためには精密な時計が必要となり、(マリーン・クロノメータ)をイギリス人のハリソン(1693〜1776)が完成した。

紀元前150年代: アストロラーベ: ヒッパルコス http://ja.wikipedia.org/wiki/ヒッパルコス
ヒッパルコス(Hipparchus、ギリシャ語綴り ?ππαρχος、紀元前190年ごろ - 紀元前120年ごろ)は、古代ギリシアの天文学者。現代にすべてつながる46星座を決定した。
著書が現存せず、どのような説を唱えたのかははっきりしない。トレミーの48星座とかみのけ座の合わせて49星座を決定したのもヒッパルコスだと言われるが、はっきりと分かっている業績は、46星座の決定のみである。
クラウディオス・プトレマイオスの『アルマゲスト』で、最も引用回数の多いのがヒッパルコスであることから、天動説を含む古代の天文学の体系を成立させたのはヒッパルコスであるという説がある。これは広く支持されているが、決定的な証明がなされていない。
年周視差の精密測定を行うため1989年8月8日に打ち上げられた人工衛星は、彼の業績を称えヒッパルコス衛星と名付けられた。ヒッパルコス衛星は予定の静止軌道に乗ることには失敗したものの、1993年6月24日に運用停止するまでに多数の有用なデータを収集した
主な業績 [編集]
恒星を1等星から6等星までの6段階に分けた。これは若干形を変え、視等級として現代でも使われている。
三角法による測量を行った。
歳差による春分点移動を発見した。
メトン周期の改良。
アンティキティラ島の機械はヒッパルコスの理論に基づいているとされる(あるいはヒッパルコス自身がこの装置を発明したのかもしれない)。

氐族 - 中国の民族の一つ。チベット系と いわれて ... 白川静は、氏を小さな把手のある刀の象形と解しており、氐はそれで底を 削って平らにする意としている。 音訓: 音読みはテイ、タイ、 http://dic.nicovideo.jp/a/
〔説文解字〕には「氏に從ひ、下に一を箸く。一、地なり」とある。〔説文〕は氏を崩れかけた崖と解しているので、崖が崩れて地に至ると解している。白川静は、氏を小さな把手のある刀の象形と解しており、氐はそれで底を削って平らにする意としている。

仇池(きゅうち)は、後漢の建安年間に氐人の楊騰率が部衆を率いて樹立した地方政権 。西晋時代の八王の乱期に ... 三国時代、現在の甘肅省一帯に勢力を有した氐王阿貴 匯は、涼州の馬超・韓遂・楊秋らと協力して曹操に対抗していた。しかし相次ぐ敗戦 により ... http://ja.wikipedia.org/wiki/仇池
司馬昭の時代になると、氐人の楊飛龍は西晋より征西将軍に封じられ、部衆を率いて「還居略陽」の故地回復運動を開始した。
楊飛龍の養子になった楊茂搜は296年、西晋が八王の乱で乱れ、また同年に発生した斉万年の乱で関中が乱れると仇池に移り[1]、自ら輔国将軍、右賢王を称し、氐族部衆に擁立され王位に就いたが、これが地方政権としての仇池の建国である[2]。建国後は仇池公を称し、武都、陰平の2郡を統治した。楊茂搜は西晋に服属しながら関中の混乱を避ける流民を吸収して勢力を拡大したため、西晋も左賢王として認めざるを得なくなった[2]。

氐族の滅亡 [編集]
楊茂搜の後裔はその後も武都、武興、陰平などの政権を樹立したが、580年に陰平国王の楊法琛が北周の益州総管王謙の反楊堅の運動に協力したことから楊堅の軍勢により滅亡させられ、部衆は四散、氐の名称は史書から姿を消していくこととなった。

至るなり、氏に従ひ、下に一を箸く、一は地なり、凡そ氐の屬は皆な氐に従ふ。( http://jigen.net/kanji/27664

阿弖利爲(アテルイ) http://ja.wikipedia.org/wiki/アテルイ
阿氐河荘 とは - コトバンク
世界大百科事典 第2版 阿氐河荘の用語解説 - 紀伊国在田郡(現,和歌山県清水町)の 荘園。もと左大臣藤原仲平の遺領で,石垣上荘と称したが,992年(正暦3)右大弁平惟 仲が買得し,1001年(長保3)白川寺喜多院(のち寂楽寺)に寄進。このころより阿氐河の ... http://kotobank.jp/word/阿氐河荘

湯浅宗親(ゆあさ むねちか、生没年未詳)は、鎌倉時代後期の武士・御家人。紀伊国阿氐河荘[1]の地頭となった人物で、著名な紀伊国阿弖河荘百姓訴状(紀伊国阿弖河荘上村百姓等申状)が出された当時の地頭としても知られる。
通称は楠本左衛門尉。湯浅党を形成した湯浅宗重の孫・宗氏(阿弖川[1]宗氏ともいう)の次男。兄は湯浅宗範、子は湯浅宗国。宗国の子が宗藤である。
祖父の湯浅(保田)宗光(通称・七郎左衛門尉、後に出家して浄心と号す)は、宗重の7男として生まれ、父と共に平氏、後に源氏に味方するようになり鎌倉幕府の御家人となった。庶子でありながら、その才覚を父に認められ、紀伊国保田荘を譲られた後は嫡流を凌いで湯浅一族全体の主導的立場に立つ基礎を築いた。また、甥に当たる明恵上人(高弁)の後援者でもあった。
宗光の3男にあたる父の湯浅(阿弖川)宗氏は阿弖川[1]荘の地頭となり、湯浅阿弖川[1]家の祖となった人物である。

解字: 低−イ ( テイ ) (氏部1画/5画)の異体字から 変化したものか。一説に 低−イ の古字ともいう。 熟語:【 弖爾波 < てには > 】 = 弖爾 乎波 ( てにをは ) 【 弖爾乎波 < てにをは > 】 (= 天爾遠波 < てにをは > ) (「 乎古止 ... http://www21.tok2.com/home/toshinopage/kanji/1ji26.html

鴟 氐族. 中国では、悪い鳥の代表が鴟梟(シキョウ/ふくろう や みみずく) ... http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1539
ミミズク. うかく 【羽客】 仙人・道士など空を飛ぶことの できる人。 羽人。 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2268
木兎
「禹」を 含む字からはかすかに「白く丸い」意味が読み取れ(偊、竬、踽、齲とう)、「ウサギ」では ないかと予想されます? http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2762
(鴟) (夷)にして死す http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1423
羽人(仙人)の姿・・・ム(座 巫 ひざまずく)
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/old_site/data7.html

鴟とは?動物名。 (1)タカ目タカ科の鳥。全長約60センチメートルで暗褐色。尾の形がタカ の尾としては珍しく凹形。全国の低山や海岸などに生息し、動物や魚の死骸などを 食べる。ピーヒョロロと鳴きながら輪を描いて滑翔(かつしよ... http://www.weblio.jp/content/

読み方:トビ(tobi)
ワシタカ科の鳥
鷹と鷲(ワシ)には明確な 区別がなく、タカ科の中で比較的小さいものが”鷹”、大きいものが”鷲”と呼ばれています 。 http://park1.wakwak.com/~english/note/name-bird.html
「 わす(輪周)」、「くち(鷹)」など。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1026115730
古事記や日本書紀に「天日鷲命(アメノヒワシノミコト)」という神がいる事から、上代語に「わし」やその語源である「わす(輪過)」はあったようです。
懐古の思念「輪過 里」. 懐古の思念 懐古:昔のことを懐かしく思うこと。
鷹(場合によってはワシ?)を神格化したもの ..
古代名:ヘル、ホル/ギリシア名:ホルス/別称・別綴り:− 性別:男性 ... 力強い猛禽類 である鷹(場合によってはワシ?)を神格化したもの ... http://www.moonover.jp/bekkan/god/horus.htm

27664;族は成漢・前秦・後涼などの国を建てた。 - TeaCup
鴟 氐族. 中国では、悪い鳥の代表が鴟梟(シキョウ/ふくろう や みみずく) ... http://8628. teacup.com/toraijin/bbs/2551 テイ魚ってのは、三国志にも出てくる西方のテイ族の 崇拝していた神の名前ですよ。 羌族の信仰していた禹と同じ神か、似た ...
テイ魚ってのは、三国志にも出てくる西方のテイ族の崇拝していた神の名前ですよ。 羌族の信仰していた禹と同じ神か、似た神ということになりますね。 ...
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1061棘の紀氏:2013/01/16(水) 15:03:29
オアンネスの左手にオクタント(八分儀)?
シュメールの遺跡に発掘された粘土板に記された神話によると、「オアンネス」と呼ばれる海からきた「半魚半人」の生物は、シュメールの人々に農業、都市や神殿の建設、文字、法律、数学、芸術、それに秩序などを、人間の言葉で伝授したという。
 記述によれば、この生物は魚の身体を持ち、その頭の下には人間の頭があり、尾ひれとともに人間の足も持っていたという。
 この生物は水陸両棲類で、昼間は人間とともに過ごし、太陽が沈むと、海へ帰ったという。
 さらに、後のバビロニア時代になると、バビロニアの神官ベロッソスは、神殿に保管されていた楔形文字の文書を利用して、『バビロニア史』という歴史書を編纂したといわれています。それによると、ベロッソスはバビロニア文明の起源について、次のように記述していました。
 「バビロニアにさまざまの国の人たちが盛んに集まり、彼らはカルデアに住み着き、野獣のように無法な生活をしていた。一年目にエリュトレア海のバビロニアに接するあの地方から、名を「オアンネス」という動物が現れたが、その全身は魚の体であって、魚頭の下に人頭、また、人の足に類似した足が魚の尾の内側についていたという。
 その声も言葉もはっきりと聞き取れる人の声で、その再現図は今日にいたるまで保管されている。この『生物』は昼間は人々のなかにあって過ごすことを常としたが、昼間は食べ物を口にせず、あらゆる種類の文字、学問、科学上の識見を人々に授けた。
 都市を築き、神殿を建立し、法典を編むことを教え、幾何学的知識の諸原理を説明した。大地の種子を識別させ、果実の集め方を教えた。要するに、彼は人々の礼儀作法を柔和にし、その生活を人間並みにする上で役立ちうる一切のことを教えたのである。
 その時代以来、物質的なもので彼の教示に勝るものとしては、実質的には何ひとつ加えられてきていない。そして太陽が沈むと、このオアンネスはふたたび海中へ立ち去り、夜は深海で過ごした。両棲類だったからである」
 とかなり具体的に書いていました。
 (アイザック・プレストン・コリー著『古代拾遺』より)
 後の伝承において、オアンネスは「ダゴン」と呼ばれるようになり、聖書にもペリシテ人の崇拝する魚神として登場しています。ダゴンは魚神であるが農耕をつかさどる神として信仰を集めていました。
 また、『知の起源』によれば、
 「バビロニア人はオアンネスを崇拝し、巨大な神殿を建立する一方で、文明を与えてくれた恩人のことを「気味が悪く、嫌悪すべきもの(モサロス)」と呼んでいたのだ。ある意味で、これはバビロニアの伝承の正当性を裏つける証拠と言えよう。なぜなら、創作された伝承において、文明の担い手は常に眉目秀麗かつ威風堂々たる神々か英雄だからである。
 とロバート・テンプルはこのように指摘しています。
 カッシート時代以後、新バビロニア、新アッシリアの美術には魚の皮を被った人の姿が見られます。「アプカルル」といわれ、バビロニアの伝承によれば大洪水以前に生きていた「七賢人」であるという。
 魚の皮を被るアプカルルや鷲頭で有翼のアプカルルなどがあり、知恵の神エアに結びついています。病人のそばに立ち、悪魔祓いの儀式を行う神官の中には、魚の皮を被った姿も見られます。
 魚の皮を被った姿はペルシアにも伝わり、アケメネス朝ペルシア王キュロス二世のパサルガダエの宮殿跡には、人物像の足と被っていた魚の尾の部分が彫られた浮き彫り断片が今でも残っています。
 シュメール都市国家の中ではもっとも南に位置するエリドゥは、神話では「深淵の都」として知られ、水と知恵の神の都とされています。
 発掘調査によると、エリドゥの各神殿層は十八層までたどれるが、その第八層神殿では魚の骨がいっぱい詰まった頸の長い「亀型土器」が発見され、第六層神殿内部にはおびただしい魚類の骨が「至聖所」の一角に積み上げられていたのであります。
 このように、メソポタミア文明全体的に見られる、「魚」を聖なる存在とみなす点においては、ドゴン族の神話との類似性を否定できません。

ドゴン族の神話(ドゴンぞくのしんわ)ではマリ共和国のドゴン族に伝わる神話を解説する 。ドゴン族はニジェール川流域のバンディアガラの断崖において農耕を営む。その独自 の文化、社会制度、木工彫刻には神話の存在が強い影響を与えている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ドゴン族の神話
シリウスが登場する神話はドゴン族の小さな集団にしかなく、シリウスの連星に触れる神話はグリオールの取り上げたオゴトメリのものしかなかった[21]。さらにシリウスの連星に触れる神話の存在が確認されたのは1946年以降の調査のみである[22]ことから、1920年代以降に西洋からもたらされたシリウスの連星の情報が神話に取り入れられた可能性が高いと考えられている。その後もグリオールら人類学者、オーパーツへの興味を持つ者たち[23]が神話の採集を続けたが、グリオールの考えを裏付ける新たな神話は見つかっていない[4]。11年間、ドゴン族と生活を共にしたベルギーのワルター・ヴァン・ビーク、同じく10年間神話の採集をしたジャッキー・ボウジョは「存在しない」と結論づけている[24]。


1062棘の紀氏:2013/01/16(水) 15:20:22
「水の神」オアンネス
「水の神」オアンネス の画像 http://blogs.yahoo.co.jp/sinagawa50/GALLERY/show_image.html?id=13156875&amp;no=0

目の星は人類の母――天狼星信仰之謎 人類に平和をもたらす真実、その鍵は日本に隠されています http://blogs.yahoo.co.jp/sinagawa50/13156875.html

目の星は人類の母――天狼星信仰之謎 - Yahoo!ブログ
フリーメーソンの支配者ロックフェラーもロスチャイルドも最後の晩餐中だ。 ... バビロニア 人はオアンネスを崇拝し、巨大な神殿を建立する一方で、文明を与えてくれた恩人のこと を「気味が悪く、嫌悪すべきもの(モサロス)」と呼んでいたのだ。 http://blogs.yahoo.co.jp/sinagawa50/folder/885590.html
シュメール神話における主神「エンリル」の暗喩名は「五十」という数字であります。「五十」という数字はシリウス星系の周期を意味する数字であります。
 そして時代が下るとバビロニアの星座表記には、「矢」、あるいは「弓」、ともに「大犬座(あるいはその一部)」を表す記号となっています。大犬座の首星といえば、シリウスであります。 このように「En-lil-ti」の意味は「エン・リルは矢の星である」をも意味することになると考えられます。
 もちろん「矢」という星は人類の創造主の居場所として、人生そのものを表すことも理解できます。中国語では漢字の「矢」の音価は〔shi〕であるが、これと同音の字のひとつ「誓」があります。「誓う」を意味する言葉であります。
 上古の時代では、「矢」は「誓」の一番古い形として使われていました。「神に誓うこと」を「矢」をもって表していました。「矢」そのものを「誓う」という「誓約の儀礼」に用いられたのであります。
 「誓」は「矢」を折る形に従い、そして「言」を加えた字形になっています。このように「矢」そのものは「神」と同一視されたのであります。
 信仰の視点からみると、「光陰矢の如し」のもうひとつ別の訳文は「矢(という星)は時を決める」になります。まさに、「矢」は主星を五十年という周期で廻って、「目の星」と呼ばれ、そして「時を決める」役割を果たしているシリウスBをも含めて表しています。

見方を変えてみると、ドゴン族の神話のなかのキーワードとして、「三連星」、「五十」、「目の星」、「半魚人」、「縮退物質」など、同じような概念をシュメール神話のなかに存在することになります。人類最古の文明であるといわれ、メソポタミア文明には「シリウス信仰」の特徴が明らかに含まれています。

シュメール語で「龍」のことを「ウシュムガル」といいます。
 「ウシュム」は「唯一の」、「ガル」は「偉大な」という意味を持つ言葉であります。
 「ウシュムガル」は同時に「独裁者」をも表し、権力と結びついていました。すなわち、シュメール人にとって「龍」とは「唯一の偉大な」存在でありながら、「独裁者」でもあります。

双龍 シュメール ヒッタイト | 世界史掲示板(荊の紀氏)
2012年1月29日 - 禹は竜(水を司る共工) を 討ち、禹の子、啓は二匹の蛇を耳飾りとして、双竜に .... 龍 伝説の源泉を辿ると最終的にシュメールに行き着くが、シュメール語で龍を「 ウシュムガル(唯一の偉大な)」と呼び、シュメール人は「龍」を尊ぶ民族だった。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/853


1063管理人:2013/01/16(水) 16:20:40
Re: 白村江の戦い1350周年
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> F史学?なんですか
>

いや、実は秦野さんには、申し上げるのが遅れて、実に遺憾に感じているのですが、実は私はFujii史学の研究者なのです(笑)



ま、こんな具合で、日本語の動詞が最後に来るのも、ある意味朝鮮語や満州語と一緒で、膠着語云々の件からしても、扶余語の影響が強かったのではないかと感じます。

これらは、扶余系南下の紀元後1世紀ころからはじまったはずで、3世紀中葉あたりから、扶余系の言語に切り替わったのではないかと感じます。これが倭訓の主体となっていったのでしょう。HLAB52/13/44 等の北方遊牧民で現代日本人のメインタイプですね。

それ以前は、江南弥生人の時代ですから、江南系の呉音の中国音で、呉太伯の子孫だと倭人自身が話してますよね。

呉、太伯・・、これはちゃんと中国語で理解していて、それを魏使につたえたことは間違いないでしょう。

2世紀までの中国語は、タイ方面と同じSVO型の孤立語という系統で、その後北朝的な影響で、徐々に変化していったようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


たぶん、弥生人もこの南方系だった可能性を感じますね。ミャオ族の稲作農耕民と一緒でB46あたりです。

それ以前の縄文系の言語は、SVO型で、若干日本語にも影響を与えているようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

扶余系と前後して楽浪系漢人の影響が、日本にも伝わってくるはずですが、渡来人の中に東晋・百済経由で入ってきた呉音を話した集団がいて、それがHLAB54として大きく古墳時代にかかわってくるのですが、沖縄方面にみえず、山東半島経由で百済に渡り、そのまま日本へ渡った可能性が高いでしょう。東漢人等で、応神朝九州・吉備系の文化とかかわっていきます。

彼らの中国語の影響は、漢字文化の流入には貢献しますが、日本語そのものを改変させるほどの影響はなかったのでしょう。

それから、6世紀代に北燕遺民が入ってきて、北朝系、東欧系の文化が流入していったと思います。ケルト系B7の流入で、これが日本第3位を占めるようになります。ここでラテン語の影響は日本語に加わります。高木神・アマテラス・ヤマトタケル・・・。

遣唐使の新漢人の中国語は北朝寄りの言語だったのではないかと感じます。それ以前の南朝系中国語とどこか違っていたでしょう。


これらの北朝系の言語と、先の記紀の継体朝以降の記録を比較すれば、その切り替わりが理解できるかもしれません。

それで秦野さん・きしさんご指摘の秦氏ですね。

楽浪漢人系の秦韓人だと思うのですが、その後の北燕・東欧遺民が新羅・伽耶方面へ流れ込んだ影響も受けた後に渡来したように見えます。5末から6世紀半ばまでの渡来で、広・法隆寺あたりの文化とダイレクトにかかわってくるでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

法隆寺は、高句麗系の新漢人に影響された太子のものでしょうけど、秦氏もそこに深くかかわっていきますね。

先のヘブライ語と比較した法隆寺系の日文は、新漢人つまり新漢人の日文氏や、法隆寺との関わりで入ってきたのではないかと感じます。

法隆寺献物の一つの白檀が、正倉院にありますが。ゾグド文字とパフラヴィー文字が記されてます。
シルクロード商人の名前が刻んであるのですが、もっと西にいくとユダや商人の名前も刻まれていたことでしょう。

ある時期に、これらのペルシア人がやってきて、日本に住み着いた際に、漢字のそばに、自分たちの仮名文字を書き込んで発音記号としていたものを、その後後代仮名文字に採用したという線がひとつ考えうるかもしれません。

もう一つの可能性は、出雲大社や鹿島神宮の5度偏角の方位区画の時代ですね。これもプサン方面から伸びていくのですが、きしさんご指摘のとおり、マキムク遺跡の構造物やその方位ラインとも関わっていきます。

その出雲大社方面からも、先の日文が出てくるとなると、もっと古い時代から、それらの日文があった可能性も感じますが、これはちょっと微妙ですね。




1064秦野北斗:2013/01/16(水) 16:55:47
Re: 白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。

扶余、高句麗は阿残になり。阿毎はアイヌ(三苗族)、呉、越ですな。
穢(わい)は阿毎、燕ですな。言語はアイヌ(三苗族)、呉、越、阿毎、燕、秦の混合語
「やまと」はアイヌ語で表記は大漢国、邪馬台ですな。
現在の日本語はアイヌ(三苗族)、呉、越、阿毎、燕、秦、インド、ユダヤの混合語
良く先祖はこれらの言葉を纏めたものですな。

Fujii史学の研究者は日本の古代語研究ですな。茨城の方言が一致するのではないか。
茨城は扶桑国、平氏なので色濃い・・・。


> いや、実は秦野さんには、申し上げるのが遅れて、実に遺憾に感じているのですが、実は私はFujii史学の研究者なのです(笑)

>
> ま、こんな具合で、日本語の動詞が最後に来るのも、ある意味朝鮮語や満州語と一緒で、膠着語云々の件からしても、扶余語の影響が強かったのではないかと感じます。
>
> これらは、扶余系南下の紀元後1世紀ころからはじまったはずで、3世紀中葉あたりから、扶余系の言語に切り替わったのではないかと感じます。これが倭訓の主体となっていったのでしょう。HLAB52/13/44 等の北方遊牧民で現代日本人のメインタイプですね。
>
> それ以前は、江南弥生人の時代ですから、江南系の呉音の中国音で、呉太伯の子孫だと倭人自身が話してますよね。
>
> 呉、太伯・・、これはちゃんと中国語で理解していて、それを魏使につたえたことは間違いないでしょう。
>
> それ以前の縄文系の言語は、SVO型で、若干日本語にも影響を与えているようです。
>
> 扶余系と前後して楽浪系漢人の影響が、日本にも伝わってくるはずですが、渡来人の中に東晋・百済経由で入ってきた呉音を話した集団がいて、それがHLAB54として大きく古墳時代にかかわってくるのですが、沖縄方面にみえず、山東半島経由で百済に渡り、そのまま日本へ渡った可能性が高いでしょう。東漢人等で、応神朝九州・吉備系の文化とかかわっていきます。
>
> 彼らの中国語の影響は、漢字文化の流入には貢献しますが、日本語そのものを改変させるほどの影響はなかったのでしょう。
>
> ある時期に、これらのペルシア人がやってきて、日本に住み着いた際に、漢字のそばに、自分たちの仮名文字を書き込んで発音記号としていたものを、その後後代仮名文字に採用したという線がひとつ考えうるかもしれません。
>
>


1065管理人:2013/01/16(水) 22:28:48
Re: 白村江の戦い1350周年
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 扶余、高句麗は阿残になり。阿毎はアイヌ(三苗族)、呉、越ですな。
> 穢(わい)は阿毎、燕ですな。言語はアイヌ(三苗族)、呉、越、阿毎、燕、秦の混合語
> 「やまと」はアイヌ語で表記は大漢国、邪馬台ですな。
> 現在の日本語はアイヌ(三苗族)、呉、越、阿毎、燕、秦、インド、ユダヤの混合語
> 良く先祖はこれらの言葉を纏めたものですな。
>


この点は難しいですね。言語的な統一がなされたというよりは、英語みたいな統一の公用語を普及させたというケースはどうでしょうか。要するに現地民はそれぞれの言葉を話させながら、別に扶余系等の言語を統一語として覚えさせる。

年が経つにつれて、その公用語のほうが主流になっていったのではないでしょうか。
名詞や方言に過去の現地語の残存が残るというケースです。

先の比較表をみると、自分たちの言語を主体にしながらも、現地民の語にあわせて、足りない音をさらに文字として新たに造り出した様子がみてとれます。

中には「K」みたいに、音もアルファベットそのままの文字もあります。

祭祀用の古ヘブライ語と新ヘブライ語を目一杯使って、さらに足りない部分に、アルファベット系の別の文字を借用しています。中国語の崩しが入るのは、それでも足りない部分のようです。いろいろ組み合わせ論で文字を苦労して造り出してます。そしてそれが仮名文字へと変化していくのですが、元は外来系の集団が翻訳するために使用して便利だったので、そのまま平安貴族に流用されたケースを感じます。

6世紀の新漢人・秦氏が渡来して継体・欽明朝に入った際に、日本語を覚えるのに使用していたのではないでしょうか。中国語の漢字も彼らは使えたので、それもあわせて利用した仮名文字をつくったという線です。

出雲大社とか法隆寺とか三女神社とか阿波とかの屯倉拠点と関係してこの文字が出てくるのも、派遣された彼らの影響でしょうか。

そうすると、それ以前に扶余系の5母音の世界があって、アラム系の3母音の彼らが入ってきて、全国の屯倉管理や祭祀官になった同族にそれらの仮名文字表を配って、言語的な教育を施したのかもしれません。

ゑ の使い分けはみえるんですよね。lamed の語音を使用しながらも、えを表すbethを下に突っ込んで、変化を出してます。

オとヲの差も書き分けられているのですが、yodを使いつつ、左側に、発音記号としてsamek=mo、lamed =yuとの差でもって、それらの2文字を表現しています。オをモに近い音だと把握して、ヲをヨに近い音として把握してますね。

これが、いわゆる甲乙類の関係で把握していたのか。

ルの文字が、ラ行を表す lesh と う行を表す nunもしくは vav の組み合わせで表現してますね。ルゥーが正解。

ふ の部分に、w アルフェベット=英語音をもってきてます。ヒ や み の発音も イ を表す斜め上から引く線で表されてますね。

それで欽明朝の下記の記載が、これらの漢字以外の文字のことだとされています。


【一書云 其一曰茨城皇子 其二曰泥部穴穗部皇女 其三曰泥部穴穗部皇子 更名住迹皇子 其四曰葛城皇子 其五曰泊瀬部皇子 一書云 其一曰茨城皇子 其二曰住迹皇子 其三曰泥部穴穗部皇女 其四曰泥部穴穗部皇子 更名天香子 其五曰泊瀬部皇子 帝王本紀(すめらみことのふみ) 多(さはに)有古字(ふるきみな) 撰集(えらびさだむ)之人 屡(しばし)經遷易 後人習讀 以意刊(けずり)改 傳冩既多 遂致舛雜(たがひまよふこと) 前後(さきのち)失次(ついで) 兄弟參差(あにおととかたたがひ) 今則考覈(かむがへあなぐる)古今(いにしへいま) 歸其眞正(まこと) 一往(ひとたび)難識者 且(しばらく)依一撰 而註詳(しるす)其異(け) 他(あたし)皆效(なづらふ)此】 次春日日抓臣(かすがのひつめのおみ)女(むすめ)曰糠子(あらこ)。生春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)與橘麻呂皇子(たちばなのまろのみこ)

兄弟の順序が違うのは、帝紀を書写した定本がたくさんあって写し間違ったためだといっているのですが、意図的に削ったりしているとのことも気になりますね。

それで、古字がたくさんあって、後の時代の人が、それを習って、読んだものを、意図的に削って改めた。それで誤写が多くなって・・・。

古字をまず習って読み返す必要があったんですね。漢字なら書記官がたくさんいたので習う必要はなかった。

古字を伝承していたのが、出雲大社とか鹿島神宮とか・・神社系の神官という解釈なのでしょう。それを史が習いに行った。

つまり、漢字の帝紀がひとつあって、それを習って読んで、誤写したという意味ではない。

漢字の帝紀として、古字も漢字で、漢字の種類がたくさんあったというわけでもないでしょう。


天武11年3月、新字1部44巻を作ったとあるので、これらの注釈記載は、「古字」と「新字」の概念を有していた時代の人によるものだったとすれば、天智6年、もしくは天武11年の帝紀編纂時に差し込まれた注釈を、書紀編纂時にそのままいじらず残したというケースもありえますね。

このときの書記官は、天武側についていた東西漢氏・秦氏系だった可能性もあります。

天智のころならば、新漢人系か。

ただどちらにしても、過去にそういう古字があって、先祖がそれを習って読んだということを知っている。

新漢人の日文氏もそのひとつの史だったかもしれませんが・・・日文が古字を意味していたかどうかが課題ですね。

文氏ではない。日+文氏。


44巻は書紀の30巻より多いですね。

天皇1代で1巻とすると天武が40代。4巻は神代ほか。

たぶんこれは帝紀でしょう。すると、この時代にすでに欠史8代は追加されていた。神代の一部も造られはじめていた。

そこで「新字」1巻の意味ですが、要するに、それ以前の帝紀に古字で書かれたものも多くあったので、あらためて「新字」を制定したということでしょうか。

日子→彦みたいな形で漢字を統一したことを意味する可能性もしかしありますね。

ただ、古字がたくさんあったということは、日子、火子みたいにたくさん会ったという意味でしょうか。

あるいは違う文字があったのか。

そのためには、習い読む必要があったということを考慮すると、漢字ではない可能性もある。

江戸時代から論議されてきたこの辺のことを、もう少し解明したいですね。そしてこれらの統一作業の繰り返しで、だんだん日本語が統一されていったのでしょう。



1066秦野北斗:2013/01/16(水) 23:16:45
Re: 白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。

天智、天武は漢人系ですが、まさか日本に居たと考えではないでしょうな。
韓半島と日本を頻繁に往来している。状況は万葉集にみられる。

大伯皇女が総てを握る。太伯、大伯は現在の上海になる。上海から九州の海を太伯海、大伯海が有明海、別名が筑紫海ですな。大伯皇女は筑紫海(奄美大島から済州島)で生まれた。韓半島と日本を頻繁に往来していますな。

大伯皇女:661〜701 天武天皇と大田皇女の子

斉明7年(661)、前年に新羅によって滅ぼされた百済の遺臣を救援するため、時の斉明天皇や中大兄皇子(皇太子。斉明の息子。後の天智天皇)は九州へ向け出陣していました。そして大伯の父である大海人皇子(中大兄の弟。後の天武天皇)と母の大田皇女(中大兄の娘)もまた従軍していました。大伯皇女はその陣中で生まれたのです。

> 天武11年3月、新字1部44巻を作ったとあるので、これらの注釈記載は、「古字」と「新字」の概念を有していた時代の人によるものだったとすれば、天智6年、もしくは天武11年の帝紀編纂時に差し込まれた注釈を、書紀編纂時にそのままいじらず残したというケースもありえますね。
>
> このときの書記官は、天武側についていた東西漢氏・秦氏系だった可能性もあります。
>
> 天智のころならば、新漢人系か。
>


1067管理人:2013/01/17(木) 16:46:15
Re: 白村江の戦い1350周年
秦野北斗さんへのお返事です。


> 大伯皇女が総てを握る。太伯、大伯は現在の上海になる。上海から九州の海を太伯海、大伯海が有明海、別名が筑紫海ですな。大伯皇女は筑紫海(奄美大島から済州島)で生まれた。韓半島と日本を頻繁に往来していますな。
>
> 大伯皇女:661〜701 天武天皇と大田皇女の子
>
> 斉明7年(661)、前年に新羅によって滅ぼされた百済の遺臣を救援するため、時の斉明天皇や中大兄皇子(皇太子。斉明の息子。後の天智天皇)は九州へ向け出陣していました。そして大伯の父である大海人皇子(中大兄の弟。後の天武天皇)と母の大田皇女(中大兄の娘)もまた従軍していました。大伯皇女はその陣中で生まれたのです。
>


天武朝の件はもう少し調べる必要がありそうですね。特に先の日文の関係で、日嗣の件が重要です。


681年(天武天皇10年)より天智天皇2子の川島皇子・忍壁皇子らが勅命により編纂し、皇室の系譜の伝承を記したとされるが、『旧辞』と共に、天武天皇が稗田阿礼に暗誦させたとされ、のちに記紀の基本史料となったとされる。
一般に、帝紀の内容は皇統譜であるとされる。だが、異説も多く、
『古事記』の中・下巻を指すという説
特定の書物を指すのではなく皇室の系譜の伝承を記した書物全般を帝紀と呼ぶとする説
書物になっていない天皇の系譜に関する伝承も帝紀と呼ばれるとの説
帝紀・旧辞は別々の書物ではなく一体のものだったとする学説
などがある。
また、帝紀は一般に、
『古事記』序文に書かれている『帝皇日嗣』・『先紀』
日本書紀欽明天皇2年3月条に記載がある『帝王本紀』
日本書紀持統天皇2年11月条に記載がある「古くは『日嗣』と呼ばれた」との注釈がついた「皇祖等之登極次第」
正倉院文書に現れる『帝紀日本書』、『日本帝紀』
日本書紀私記甲本にある『帝王記』



先に「帝紀」と「古字・新字」、そして「日文」との関係を指摘したとおりですが、「日嗣」がまた「帝紀」と関わってくることがわかります。日に王の意味がある。新漢日文と類似する氏族名に新漢済文が見えます。

百済人味摩之帰化曰学于呉得伎楽舞則安置桜井而集少年令習伎楽儛於是真野首 弟子新漢斉文二人習之傅其儛此今大市首辟田首等祖也

ここに 真野首弟子 まののおびとのでし 、 新漢済文 いまきのあやひとさいもん の二人が 習って、その舞を伝えた。 これは今、 大市首 おほちのおびと 、 辟田首 さきたのおびと たちの祖先である。

この記載はペルシャ系のトカラ人の来朝に関連する斉明朝の記載なのですが、百済系の舞楽を、新漢人等が学ぶ背景には、おそらく踊りを習うという部分とともに、百済語・大陸系言語を学ばせる、解釈するという意味もあったかもしれません。

『新撰姓氏録』によれば左京諸蕃にこれらの清水首・大市首、大和国諸藩に辟田首がいて、ツヌガアラシトの子孫となってます。ツヌガアラシトは、先述のとおり、任那人で蘇我氏と関わってきます。

真野は茨城と滋賀にみえ、製鉄関連です。

「済文」の「済」はおそらく百済の意味で、百済系の文書を読む官人の意味ではないでしょうか。斉を、山東半島方面の国と見なすこともできそうですが、百済の意味そのものが、その山東から遼西経由できたとの意味なので、やはり百済の意味のように感じますね。

そうすると新漢人日文も日も、「日」国の文を読む官人の意味のようにも受け取れます。日高見国、日本国・・・。


あるいは斎宮も斉をもってくるとどうなるか?この場合は、神事系の祝詞に書かれた文のような意味になるかもしれません。

あとご指摘の大伯皇女の件ですね。

斉明天皇7年(661年)に、筑紫に向かう途中の、天智天皇一行の乗った船が、大伯(おおく)の海の上(現岡山県瀬戸内市の沿岸。瀬戸内市はかつての邑久(おく)郡)を通過している時に誕生した。『日本書紀』に、天智天皇6年(667年)の2月27日に斉明天皇と間人皇女を小市岡上陵に合葬し、大田皇女をこの陵の前の墓に埋葬したという記述があるので、2月27日以前には、大来皇女と大津皇子の母の大田皇女は薨去したと思われる。


航海の途中で産まれるのは、神功の応神出産と類似性がありますね。

実質的に身重の女性が外征に共に向かうのはあり得ない話で、これはこの当時の半島経由で伝わったキリスト教の身重のマリア伝承の影響ではないかと思います。上宮帝説とかと関係して、天武10年の帝紀編纂開始までには、神功紀とともに、挿入されていったことでしょう。

それで万葉集に歌が残っているのですが、なんでこんな歌が残っているのかが疑問なんですよね。




『万葉集』に謀反人として倒れた同母弟の大津皇子を想う歌を6首残している。
巻第2 105〜106番(大津皇子がひそかに伊勢神宮に下向してきた時に詠んだ歌)
わが背子を大和に遣るとさ夜深けて 暁(あかとき)露にわが立ち濡れし
吾勢祜乎 倭邊遣登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君が独り越ゆらむ
二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
同163〜164番(大津皇子薨去後、退下・帰京途上で詠んだ歌)
神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに
神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓
見まく欲(ほ)りわがする君もあらなくに なにしか来けむ馬疲るるに
欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓
同165〜166番(大津皇子を二上山に移葬したときの歌)
うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む
宇都曾見乃 人尓有吾哉 從明日者 二上山乎 弟世登吾將見
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありといはなくに
礒之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓



いや、もちろん、歌会の歌なら、そばに百済人とかの筆記官がいて、その読み上げる模様を筆記記録したので残るのでしょうけど、この場合シチュエーションが、戦乱時とかで相違します。

しかし、先の母音を使い分けたような万葉仮名が見えてくるかもしれない点で分析の必要があります。

これは、筆記官が読み取ったケースとは別に、自分で木簡とか紙面に記したケースがあるかもしれません。それを伝えた人が、また歌会で新たに読み上げる。それを渡来系筆記官が読み取る。

その伝達経路がまた不明です。この手のプライベートな女性の歌を、女性だ大々的に歌会で宣伝するというのもおかしな話で、おそらく女性の死後に、遺族がその遺文を見つけて、歌会に提出したとか、斎宮とかに残っていたものを、もってきたとか、従者が提出したとかいうケースでしょう。

その従者が渡来系だと、音韻面でも変化が生じてくるかもしれません。

こちらが万葉がなの一覧表です。
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/kana/home.html

日子と比古は、ともにしっかり甲類でかき分けていることがわかりますね。これが古事記の時代からすでに統一されているということは、おそらく推古朝あたりのその時代の人が、すでに聞き分けていたということでしょう。

先の井真成の「井 ゐ」と、多治比氏の祖先の「井戸」伝承、そしてその系統の「猪名」氏の「ゐ」もやはり、聞き分けているように見えますね。

それで隋書の大王をあらわす「阿毎」氏ですね。この表をみると「あべ」、「阿倍」と同じ「べ」音であることがわかります。ただ本来は「ばい」音。

あと「毎」を呉音では「マイ」 漢音だと「バイ」になり、阿倍「アベ」は漢音、北朝系の発音のようにもみえますね。

万葉がなの「努(ノ)」は呉音で「ヌ」漢音で「ド」です。

でも「男(な)」は、呉音で「ナン」、漢音で「ダン」

奴も、ヌとドの双方つかってますね。

結局、南朝・北朝系の双方を混合して使っていた、のでしょう。

「都鄙之人取常世虫置於清座。歌舞求福。棄捨珍財。都無所益損費極 甚。於是。葛野秦造河勝惡民所惑。打大生 部多。其巫覡等恐休其勸祭。時人便作歌曰 。禹都麻佐波。柯微騰母柯微騰。枳擧曳倶屡。騰擧預能柯微乎。宇智岐多麻須母。」
太秦 は 神とも神と 聞え來る 常世の神を 打ち懲ますも.

「禹」は呉音も漢音もそうほう「う」

「都」は呉音で「つ」漢音で「と」

「佐」は双方「さ」

「波」は双方「は」

「微」は呉音の「み」ですね。漢音だと「び」

「騰」は呉音で「どぅ」、漢音で「トゥ」

「柯」は双方「か」

「枳」も双方「き」

「擧」は呉音で「こ」漢音で「きょ」

「曳」も双方「えい」

「倶」も双方「く」

「屡」も双方「る」

「預」も双方「よ」

「能」は呉音で「ない・の」 漢音で「だい・ど」

「智」は双方「ち」

「岐」呉音で「ぎ」漢音で「き」


「麻」呉音で「め」漢音で「ば」

「須」呉音で「す」漢音で「しゅ」

「母」も呉音で「も」 漢音で「ぼう」


この歌は、秦氏とつながりの深い歌で、皇極朝時代(644)の秦氏の活躍を記したものです。

万葉がなではないものも多くみえるので、当時の書記官のものではないかと思います。

α群の中でも、正格漢文ではなく変体漢文という人がいますね。
http://bian.in/manase8775/taikarefom.html

「α群」では、当時の唐の首都長安を中心とする北方音(漢音)にしたがって、(倭語の 発音)正確に写し取りました。しかも音だけでなくアクセントまで当時の倭語を正確に写し ています。 つまり「α群」の万葉仮名を中国人が漢音にしたがって発音 ...


難しいのですが、全体的には、後代の万葉仮名に共通する文字も多く、呉・漢の双方で共通した音を拾って統一したようにもみえますが、一方で呉音がまだ多く残っていて、唐代のそれを取り込んでない、そんな感じでしょう。

新漢人や王辰爾系の書紀がメインの時代ですが、あるいはまだ秦・漢・文氏系の書記官もいたかもしれず、なんともいえない感じですが、当時の書記官の癖や能力をみるのにいい歌ですね。

これらを「古字」と見なすか、その辺の是非も微妙です。





1068秦野北斗:2013/01/17(木) 20:39:52
Re: 白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。

(倭語の発音)正確に写し取りました。

邪馬台:やまと、ですかな。陳寿が音表記したものですな。陳寿は漢人ですかな。

> 『万葉集』に謀反人として倒れた同母弟の大津皇子を想う歌を6首残している。
> 巻第2 105〜106番(大津皇子がひそかに伊勢神宮に下向してきた時に詠んだ歌)
> わが背子を大和に遣るとさ夜深けて 暁(あかとき)露にわが立ち濡れし
> 吾勢祜乎 倭邊遣登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
> 二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君が独り越ゆらむ
> 二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
> 同163〜164番(大津皇子薨去後、退下・帰京途上で詠んだ歌)
> 神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに
> 神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓
> 見まく欲(ほ)りわがする君もあらなくに なにしか来けむ馬疲るるに
> 欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓
> 同165〜166番(大津皇子を二上山に移葬したときの歌)
> うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む
> 宇都曾見乃 人尓有吾哉 從明日者 二上山乎 弟世登吾將見
> 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありといはなくに
> 礒之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓
>
> 万葉がなではないものも多くみえるので、当時の書記官のものではないかと思います。
>
> α群の中でも、正格漢文ではなく変体漢文という人がいますね。
>
> 「α群」では、当時の唐の首都長安を中心とする北方音(漢音)にしたがって、(倭語の 発音)正確に写し取りました。しかも音だけでなくアクセントまで当時の倭語を正確に写し ています。 つまり「α群」の万葉仮名を中国人が漢音にしたがって発音 ...
>
>


1069管理人:2013/01/18(金) 15:39:13
Re: 白村江の戦い1350周年
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001093M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/



1070秦野北斗:2013/01/18(金) 17:12:51
Re: 白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。

魏志倭人伝は言語の入門書にみえますな。陳寿は漢人。

「やまと」は呉音の漢音表記ようだ。また、クムガン(錦江、金剛山)は漢音:(クムガン)、呉音:(クムゴン)
錦江、金剛山はクム(?)ゴン(厳:神聖)で(?)神聖。

クム(?)に心当たりがあるので意味を後日機会があれば確認する。

魏志倭人伝に戻ります。名曰瀚海、定説で訳は名は瀚海(カンカイ)。

この位置は玄海灘になる。対馬に厳原、広島に厳島

対馬に厳原(いづはら)の厳海「神聖な海」、広島に厳島(いつくしま)「神聖な島」になる。
対馬は呉音系になるので。厳海は呉音(ゴンカイ)。
陳寿には厳海、呉音:(ゴンカイ)、漢音:(ゲンカイ)を瀚海と記録している。
瀚海には呉音:(ガンカイ)、漢音:(カンカイ)で呉音:(ガンカイ)になるはず。
後世が呉音を漢音:(カンカイ)読みとし、厳海(ゲンカイ)を玄海としたようだな。
陳寿の魏志倭人伝は呉音を漢音表記したと考えられる。
現在の瀚海は玄海なので漢音(ゲンカイ)に成っているな。


名詞
(いつ) 神聖なこと。斎み清められていること。
(いつ) 勢いの激しいこと。威力が強いこと。
形容動詞
(げん) 態度や処置がきびしい。厳格。
(げん) 動かしがたい。

呉音 : ゴン(ゴム)
漢音 : ゲン(ゲム)


呉音 : ガン
漢音 : カン




又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

 また、南に一海を渡ること千余里、名を瀚海という、一大国に至る。官もまた卑狗、副は卑奴母離という。四方は三百里ほど。竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、また南北に物々交換に出かける。


>
> だからカミヤマトイワレヒコも、ト音が、もっとツとかタ(イ)に近かった可能性もありますね。つまりヒコも魏志倭人伝の「ヒク」。
>
> それで秦野さんが「やまと」は、漢人の発音とした点はある意味あってるかもしれません。
>

1071管理人:2013/01/19(土) 16:04:15
Re: 白村江の戦い1350周年
秦野北斗さんへのお返事です。

> 魏志倭人伝は言語の入門書にみえますな。陳寿は漢人。
>
> 「やまと」は呉音の漢音表記ようだ。また、クムガン(錦江、金剛山)は漢音:(クムガン)、呉音:(クムゴン)
> 錦江、金剛山はクム(?)ゴン(厳:神聖)で(?)神聖。
>
> クム(?)に心当たりがあるので意味を後日機会があれば確認する。
>
> 魏志倭人伝に戻ります。名曰瀚海、定説で訳は名は瀚海(カンカイ)。
>
> この位置は玄海灘になる。対馬に厳原、広島に厳島
>
> 対馬に厳原(いづはら)の厳海「神聖な海」、広島に厳島(いつくしま)「神聖な島」になる。
> 対馬は呉音系になるので。厳海は呉音(ゴンカイ)。


なるほど瀚海の発音の件は、そう考えてみると面白いですね。

個人的には、ちょっと投馬国と出雲と神八井耳等にみえるその官職「みみ」との関わりを考えはじめてます。

神八井耳の子孫は、おおむね「君」がついて新漢人系と見えます。後に「公」「真人」になります。

ある時期に九州・山陰、丹波方面に入っていきます。

おそらく阿蘇氏等の中に入り込みながら、在地の称号「耳」を系譜に取り入れたのではないでしょうか。

問題は薩摩か出雲か・・。

「みみ」というのは、同じ音の連続で、ちょっと異質な感じがします。

どうも耳はオーストロネシア語のようです。
江南系弥生人の系統もしくは、古墳時代前に入った越に近い文化をもった半島系渡来人でしょうか。
http://homepage3.nifty.com/rosetta_stone/wissenshaft/AN_2/AN_JP_37_43.htm

百済方面からしきりに南朝の技術者が日本に派遣された記載があります。
その一環で、南朝系の書記官も渡来した可能性があります。


それで先の三母音説なのですが、先のとおり高句麗諸語やそれに対応する倭訓が、三母音主体に見えることについて、考えを進めてみました。

おそらく母音数が減れば、それだけ表現の幅が狭まるので、音の羅列を長くする必要があったのではないかと感じます。

極端な例が2進数で、01001100といった具合で長くなっていきます。

逆に漢字文化圏では、漢字が意味をもっていて、それを理解する人の間では、前後の文脈だけで、あるいはそれがなくても、一文字で意味が理解できたでしょう。「吾」「五」のようなケースですね。きわめて短い文字文書ですむので、漢文は英語に比べてずっと短いですよね。同音異義語の世界です。

それで、「かみやまといわれひこ」とか「すめらみこと」「かみあがりましぬ」みたいな文章をみると、一般的には後代の装飾で名前がどんどん長くなったと考えられがちですが、もともと長かった可能性も考慮すべきかもしれません。

つまり母音数が少ないので、その分、説明文が長くなるわけです。神の子孫で岩のように・・なえらい人。

みたいな意味を3母音で早口で羅列する。漢字世界なら、曹操・関羽・殺 くらいの長さの文章が、上記のように永遠と長くなるわけです。

そうすると、倭訓導入当初は、扶余・高句麗系の三母音で、早口で三母音でまくしたてるような話し方をしたような気がします。口もあまり大きくあけず、e oといった言葉はほとんど使わず、文脈の前後の解釈で、子音のみで文字記載するアラム語系の世界に近いでしょう。アラビア語には現在も3母音しかないようですね。

そしてもし扶余・高句麗系の文字があったとしたら、シルクロードのアラム文字系も考慮すべきでしょう。

ここで、シルクロード商人の論理というのを考える必要があります。

この手の交易商人は、交通の要所に構えるだけでなく、より遠いところに拠点を造りたがったようです。というのも、遠くのものほど、価値があがるんですね。ローマのものを中国で紹介すると、皇帝は珍しがって喜ぶわけです。

ソロモン朝がアフリカや中国のものを仕入れたり、フェニキア商人がアイルランドまで行ったのも、おそらく遠くの拠点ほど、利益があがることを知っていたからかもしれません。

その論理でいけば、中国という国があると知った時点で、すぐに中国、さらには朝鮮、日本まで交易拠点を造ろうとしたことは想像に難くないでしょう。楽浪郡から四川のものが多く出てくるのも、その遠いものほど価値があるという論理によるような気がします。後代渤海使が日本にしきりにくる理由もその一つかもしれません。

だから、まずシルクロード商人は一気に東の端まで移動するんです。トカラ人なども突然やってきます。

秦氏の大津父が、山城から伊勢まで商売しにいくのも、同じ原理で、交易ネットワークで商売できることを知っています。彼がオオカミの絡み合うシーンを目撃するのも、スキタイ紋様の世界で、そのバックルなどを日本にもたらしていたことと関係するかもしれません。

それで、出雲から鹿島まで天孫が飛んでいったり、古墳や方位区画の成立も一気にまず東端までいってしまうんですね。それから間を埋めていく。


だから、扶余系、さらにはそれ以前の月氏系のネットワークの延長線上に、弥生末期に流入した集団がいたならば、やはり、まず一気に行けるところまで南・東へ開拓した可能性を感じます。地道に農地を拡げていく弥生人の考え方とは違います。

おそらくニギハヤヒとか、神武東征の考え方もそれに近く、あまり地道じゃないですね。

その論理で、女王国とか投馬国の位置や領域の広がりを考えると、もしかれらが遊牧民系ならば、その領域がはるかに遠く広がっていた可能性を感じます。まずは遠くでありかつわかりやすいところに拠点を置く。測量し、開拓します。

それから、双方から間にある国を攻撃・併合していくのでしょう。おそらく航海民の交易商人でも同じ論理があったはずですね。

1072秦野北斗:2013/01/19(土) 20:07:08
Re: 白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。

彌彌那利は総て呉音になる。漢人は呉音が何を示すか知らないと思われる。
また、漢に成ると、呉の字も失われた可能性がある。

現在の翻訳。
南へ水行20日で投馬国に至る(「南至投馬國水行二十日」)。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。

重可千斤=重さはおよそ1000斤(500キロ).を元に翻訳する。
南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌、那利可五萬餘戸
元文の重に那利が入ると。那:それ、利:聞くから翻訳は

南へ水行20日で投馬国に至る。官、副官の彌彌(みみ)にそれを聞くとおよそ5万戸余。

彌彌は役職になる?。奈良の耳成山が気になる。彌彌=耳


呉音 : ミ
漢音 : ビ
訓読み
わた-る、ひさ-しい、ひさし、とおい、いよいよ、あまねし、や、いや、ゆ


呉音 : ナ
漢音 : ダ(表外)
訓読み
常用漢字表内
常用漢字表内の訓読みはありません。
常用漢字表外
なに、なんぞ、いかん、やす、とも


音読み
呉音 : リ
漢音 : リ
訓読み
常用漢字表内
き-く
常用漢字表外
と、とし、のり、み、りい、かが


耳の名字

耳浦    港
みみうら
味水   祭事
みみず
耳塚    墓
みみずか
耳道    街道
みみどう



1073管理人:2013/01/19(土) 22:55:13
Re: 白村江の戦い1350周年
秦野北斗さんへのお返事です。

> 彌彌那利は総て呉音になる。漢人は呉音が何を示すか知らないと思われる。
> また、漢人に成ると、呉の字も失われた可能性がある。
>
> 現在の翻訳。
> 南へ水行20日で投馬国に至る(「南至投馬國水行二十日」)。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
>
> 重可千斤=重さはおよそ1000斤(500キロ).を元に翻訳する。
> 南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌、那利可五萬餘戸
> 元文の重に那利が入ると。那:それ、利:聞くから翻訳は
>
> 南へ水行20日で投馬国に至る。官、副官の彌彌(みみ)にそれを聞くとおよそ5万戸余。
>
> 彌彌は役職になる?。奈良の耳成山が気になる。彌彌=耳
>
> 彌
> 呉音 : ミ
> 漢音 : ビ
> 訓読み
> わた-る、ひさ-しい、ひさし、とおい、いよいよ、あまねし、や、いや、ゆ
>


ううん、正副同じというのは、ちょっと苦しい感じがしますね。

神八井耳の場合は、別、尊と互換性があるので、君に似た称号ではなかったかとも感じます。

筑紫米多君などは、百済王族の末多王とかに比する見方もありますね。

436年から、高句麗・百済に北燕遺民が流入します。
5世紀後半になると、百済は段姓の博士などを送り、さらに継体朝になって漢高安茂を送りますが、この「漢」は、つまり当時百済に流入していた北燕・後趙系の中国人、穢人の意味で、段もやはり中国系ですが、後にすぐ東漢人の組織に入ったか、もともと東漢人自体が百済王族系だったので、その流れとも関係してくるでしょう。数段階に渡って漢人が渡来してきます。渡来の場所も元は同族でありながら、百済・高句麗・新羅と変化していくようです。

君については、おそらく烏孫等にみえる昆彌とも関わって、中国系の「大公」の意味を持ちながらも、キミと読ませた経緯の流れで、九州にそれが伝わっていったのではないかと感じます。穢系の遊牧民の称号と中国系のそれが混じっていたのでしょう。

半島系の九州・吉備津彦勢力が河内王朝へと至る過程で、神武東征神話と関連して「耳」が導入されるのでしょうけど、でもそれならば、「君」「公」と素直に記されていいものが、なぜか「耳」を使用した背景には、やはり別の起源があるとみるべきでしょうか。

神八井耳の墓は畝傍山北にあるというので、秦野さん注目の耳成山周辺にあるのではないでしょうか。

ここが難しいところで、この東征伝承の成立自体は、4世紀以降だったと思うのですが、欠史の始祖廟観念は2世紀からあって、墳墓の位置はそれに関係していた可能性を感じます。始祖病はあの辺ないといけなかったのでしょう。

それで魏志の投馬国の「ミミ」ですが、下記の説明にちょっと注目したいと思います。

天皇(神武天皇)にはヒメタタライスケヨリヒメ(ヒメタタライスズヒメ)との間の子、カムヤイミミ(神八井耳命)、ヒコヤイ(日子八井命)、カムヌナカワミミ(神沼河耳命)の他に、日向にいたころにアヒラヒメ(阿比良比売)との間にタギシミミ(多芸志美美命)、キスミミ(岐須美美命)の二柱の子をもうけていた。天皇が崩御した後、タギシミミはヒメタタライスケヨリヒメを妻にし、その3人の御子を殺そうと計画していた。

ここでも「美美」と書いているのは、もとは音だけが伝わっていて、漢字が後からくっついた可能性を示すでしょう。
神八井と武ヌテがわは、後代のヤマトタケルとかその辺のそれを、後からここに入れたためのもので、もとはこの日向系の「美美」と関わるのではないでしょうか。

「美美」は呉音だと「みみ」漢音だと「びび」。後者だと、先のオースとネシア系のそれと対応してきますよね。

ところが倭人は呉音だったのでミミになった??

魏志倭人伝の官職は下記のとおりです。


伊都國に到る。そこの長官を爾支(にし、じき)といい、副官は泄謨觚(せつもこ、せつぼこ)・柄渠觚(ひょうごこ、へいきょこ)という。

東南の奴国まで百里ある。そこの長官を兕馬觚(じまこ、じばこ)といい、副官は卑奴母離(ひなもり)という。二万余戸がある。

名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離

官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

ここで、長官のヒク、副官のヒナ(ヌ)+モリ(守)がみえますが、おそらく語尾がア行に変化するか、あるいは「k
」音が抜けて接続するタイプの言語とみえます。

膠着語は、語音が変化せず云々。朝鮮語・日本語もそのひとつ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

文法的機能を表す形態素が、語の内部に分割できない形で埋め込まれる言語のことをいう。英語とかアラム語ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


、時制や格・数などによって語の形が変わっていないことが分かる。例えば「私は」も「私の」も、単語の形は両方とも tôi であり、意味の違いは語順によって表されている。このように、孤立語に分類される言語は接辞の付加やその他の手段による語形変化の体系を持たず、総合的言語において一般に語形変化で示されるさまざまな文法範疇が、文脈・語順・接置詞などによって表現される  ベトナム語、シナ・チベット語
http://ja.wikipedia.org/wiki/


それで先の長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)を考えると、ナリがついても、その語形そのものが変化してないので、最後の孤立語のようにもみえますね。

ヒナモリのケースは、中国語の尊称「彦(ヒク)」に「守(モリ)」が着く際に、語形や語音が変化していることがわかります。

たぶん、「K」音がぬける。

なにか早口言葉のような感じがしますね。ゆっくり「ひくもり」と話さずに「ひっもり」になる。
でも後代見える「ひなもり」が正解だとすると、「ひ・ぬ+もり」が、膠着語のように語尾が変化していった。


後代の

たりね(根)、フリね イリね すくね

ね(根)が、ひこ(彦)と互換します。

もり(守)も、同系等か。

開化天皇

若倭根子日子大毘々命

先の「美美」とちょっと「毘々」が近いですね。後の書紀では「日日」に改められます。

そこで、先の邪馬台国の官職をみると、
官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

長官が「伊支馬」(一大率・伊都国)の長官、副が「彌馬」がミマ地域の長、「獲支」がワケでその親族。

「升」は倭王の師升や難升のそれで長官職。
「奴佳鞮」も「奴」(国)+「佳鞮」の支配者

大夫が難升の米 副使が都市の牛利(グリ)

都市を、大和国の十市郡とするとどうなるか。

わかんなくなってきた・・。



1074秦野北斗:2013/01/20(日) 00:33:33
Re: 白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。

436年から、高句麗・百済に北燕遺民が流入します。年代が合わない。

建安年間(196年−220年)、公孫康により、馬韓、弁韓、辰韓、倭国を討伐される。
3韓と倭国は無くなり、その後、魏の景初三年(239年)、公孫淵が誅殺された後、
百済、高句麗、新羅、倭国が現れる。倭国は卑弥呼が奪還した模様。奪還後に上陸したのは壱輿(神功皇后)になる。

魏志倭人伝は景初三年(239年)に陳寿が来て書いた。古事記の記録によると、韓半島、瑞穂の国(日本)で呉越音、燕音、が話されていたのだろうな。言える事は、日本語の辞書に呉越音、燕音が残るが、専門家でも越音、燕音は知らないだろうな。

『三国志魏書』馬韓伝
桓、靈之末、韓濊彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模、張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。

 桓帝と霊帝の末(146年−189年)、韓と濊が強勢となり、郡県では制することができず、多くの民が韓国に流入した。
 建安年間(196年−220年)、公孫康、屯有県以南の荒野を分けて帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して後漢の遺民を集めるため、兵を挙げて韓と濊を討伐したが、旧民は少ししか見出せなかった。この後、倭と韓を帯方に帰属させた。

『梁書』倭国伝
 至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遣使朝貢、魏以為親魏王、假金印紫綬。
 正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受中國爵命。

 魏の景初三年(239年)、公孫淵が誅殺された後、卑彌呼は初めて遣使を以て朝貢し、魏は親魏王と為し、仮の金印紫綬を授けた。
 正始中(240−249年)、卑彌呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあったので、再び卑彌呼の宗女「臺與」を王として立てた。
 その後、また男の王が立った、いずれも中国の爵命を拝受した。


> 436年から、高句麗・百済に北燕遺民が流入します。
> 5世紀後半になると、百済は段姓の博士などを送り、さらに継体朝になって漢高安茂を送りますが、この「漢」は、つまり当時百済に流入していた北燕・後趙系の中国人、穢人の意味で、段もやはり中国系ですが、後にすぐ東漢人の組織に入ったか、もともと東漢人自体が百済王族系だったので、その流れとも関係してくるでしょう。数段階に渡って漢人が渡来してきます。渡来の場所も元は同族でありながら、百済・高句麗・新羅と変化していくようです。


1075棘の紀氏:2013/01/20(日) 00:59:33
彌彌は「投馬国」の官名です。
>彌彌は役職になる?。奈良の耳成山が気になる。彌彌=耳
オシホミミ命とは、「投馬国」=「元祖大和」の官名です。

応神天皇は、騎馬民族の大王であると同時に秦氏(イスラエル10 支族にしてユダヤ人キリスト教徒)だったのである。応神天皇が朝鮮半島から渡来してき た4世紀の畿内には邪馬台国と投馬国が平和的な併合を果たした ... http://ameblo.jp/cpa-togo/page-14.html

2012年お社巡り(特)生田裔神八社
祭神は 天忍穂耳 ( あめのおしほみみ ) 尊ならびに応神天皇。 http://www.geocities.jp/saeranosushi/hiking2012/2012oyashiro_t/oyashiro_t.html


1076藤井游惟:2013/01/20(日) 09:35:43
Re: 白村江の戦い1350周年
http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/6shou.html

http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1077管理人:2013/01/20(日) 13:25:29
Re: 白村江の戦い1350周年
藤井游惟さんへのお返事です。


藤井さん、さっそくご意見ありがとうございます。おかげさまで、いろいろ言語学的な入れ知恵をさせていただき、個人的にはかなり感謝しています。枝葉末節の論議はともあれ、ご指摘のように問題は下記の部分ですよね。

> 「白村江の戦い1350周年」を機に、渡来人研究会の皆様にお願いしたいのは、
>
> ●藤井説の中核を為す「上代特殊仮名遣い(記紀万葉)言語的外国人記述説」は、純粋な言語学説であって、
> 歴史学者や考古学者に口を差し挟む余地はない
>
> ●一方で、藤井説の中核は第六章にあり
> http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/6shou.html
> その内容は同じ発音実験を自ら行ってみれば、
> 「専門分野などに関係なく、日本人(日本語ネイティブスピーカー)であれば誰でも理解できる」
>
> ということを広め「騒ぎを起こす」のを手伝ってほしい、と言うことです。
>


やはり、私自身も第6章が何度読んでも理解できてないんですよね。一瞬理解できるのですが、その後すぐ忘れてしまう・・・・。「ウオウオ」の動画部分だけ記憶に残って、本題がなんだったかわからなくなってしまうんですよね・・・。藤井さんの論点を私が理解した範囲で整理すると、


万葉仮名が八母音で記されている。

日本人は白鳳・奈良当時も現在もずっと八母音を発している。

しかし、日本人自身は5母音しかないと考えている(た)。実際平安以降になると5母音しか記さなくなった。

しかし、渡来人を含めて外国人は今も昔も日本人が8母音で発音していることに気付いて(記して)いる。

こういう結果になるのはなぜか?

それは生物学的な条件異音のためである。「ウオウオ」「トコトコ」実験動画参照。

言語学会の〜の定説は、これらのことによって証明・覆される。


> 第四章〜第八章、特に肝心の第六章を全く理解せずに、
> くだらない論評・批判・反論をしてくる、というのがこれまでのパターンでした。
>

おそらく、上記の論点が理解できず、枝葉末節だけが記憶に残るので、そういうことになるのかもしれません。

何か上記のような論の流れを示す流れ図とか紙を挟んでおくとよいのではないでしょうか。


> それによって、日本・朝鮮・中国の古代史と言語史は革命的に進化し、
> そして何より一番得をするのは国語学者なのです。
>
> 宜しくお願い申し上げます。
>


そうですね、自分たちが毎日に話している言葉の問題なので、もっと専門家だけではなく、一般人も理解してもよい内容かと感じます。

あと、特に古代史面については、その古代史面での条件異音の応用方法をもっと確立しないといけませんね。何か藤井さんのほうでも気付いた点を、古代史学会の雑誌とかに投稿してみてはどうでしょうか?非常に短いものでいいと思います。


たとえば、「卑狗(ヒク)+守(マモリ)」を、早口で話してみる。

すると条件異音で??「K」音が抜けて「ヒナモリ」に近い発音になる。

それが魏志倭人伝では「卑奴母利」と記されることとなり、さらにその語が記紀にも「ヒナモリ」見られることとなった。



という用なケースだった場合、生物学的な問題で、早口で話す際に「K+M」の発音が「N」に近い音に変化するためにこうなる・・。

そこで藤井説の条件異音論によって、ここに導入すると云々という結果がでて、藤井説を使用することは、魏志倭人伝研究においても、重要である・・・。

とかいう形で説明できると、藤井さんの理論を勉強すべきことに気付く研究者が出てくるかもしれませんね。

すぐには、理解されないかもしれませんが、こちらでも、広まるよう努力してみます。

1078管理人:2013/01/20(日) 15:46:57
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
> オシホミミ命とは、「投馬国」=「元祖大和」の官名です。
>
> 応神天皇は、騎馬民族の大王であると同時に秦氏(イスラエル10 支族にしてユダヤ人キリスト教徒)だったのである。応神天皇が朝鮮半島から渡来してき た4世紀の畿内には邪馬台国と投馬国が平和的な併合を果たした ... http://ameblo.jp/cpa-togo/page-14.html
> 祭神は 天忍穂耳 ( あめのおしほみみ ) 尊ならびに応神天皇。 http://www.geocities.jp/saeranosushi/hiking2012/2012oyashiro_t/oyashiro_t.html
>


オシホミミの名は、息長氏つまり新漢氏系のそれですね。オシ、アナホ、穴日・・といった語に特徴があります。

ミミは、日向系の系譜を導入した際に変更したのではないでしょうか。新漢氏が帝紀編纂に際して、彼らの地盤のある阿蘇・日向方面の系譜を持ち出して、そこに記されていた美美を耳に変更して、系図を作り上げたという線でどうでしょうか。

おそらく、神武東征、ヤマトタケル、神功・応神記紀あたりをある時期に新漢氏系の撰者がいろいろ編集して差し入れたように感じます。これはさらにいえば半島から入ってきた聖書伝承です。

もっとも応神・仲哀は系譜的には存在していたと思います。神功はあったかどうか微妙ですね。息長氏系の創作系譜のように見えます。

ただ、年代だけが卑弥呼とイヨに合わせているのには、別の卑弥呼関連の年代史料を用いた可能性を感じます。
170〜269年ですね。この辺は秦野さんの注目されているところですが、確かに2人〜3人分の年代を記録した書物があって、それを引用して合わせたことがわかります。先の韓苑に引用された物部系の卑弥呼関連の書ではないでしょうか。

266年のイヨの記載を269年前後に持ってきているか、やはり269年にイヨが死んだのか。

三国史記の173年の卑弥呼の新羅への朝貢記載がありますが、これに合わせたのでしょうか。
ただ、この記載は、もしかすると干支がひとつあがって233年あたりに持っていくという手もありますね。

確かに3年ずれてますね。暦の問題でしょうか。


桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。『後漢書』
光和年間(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁書』

184年前後で卑弥呼が政治をとり始めたとすると、170年前後の生まれというのは妥当な線かもしれません。

ただ神功は201年から政治をとりますね。ここで仲哀が死んだことになっていて、

孝元天皇が古事記だと57歳で死亡、書紀は2倍にして116歳で死亡。

父の孝霊の事例をみると、30歳を立太子年齢と考えていた節がありますね。


あと、皇后の姉妹に虚空津比売命(そらつひめのみこと)がいますが、つまり架空の女性だとなぞっているのがわかります。






1079秦野北斗:2013/01/20(日) 19:52:37
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
管理人さんへのお返事です。

神功皇后の存在を否定したいのですな。

碑文は神功皇后の三韓征伐
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民

好太王碑の碑文の辛卯年の候補は211、271、331、391年になるがこの文章が
神功皇后の三韓征伐であれば、辛卯年は271年になる。
この年代が特定できれば、日本書記等の曖昧な年代の補正ができる。

正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去する。
卑弥呼の親族で13歳の少女の壹與が王に立てられ国は治まった。
倭が辛卯年(271年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。
壹與(神功皇后)37〜38才
日本 応神天皇2年

「日本学会による通説により校訂し訳す。」どうも、年代に問題がある。

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民

〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
しかし、韓国の学会では異説が主
http://ja.wikipedia.org/wiki/好太王碑

辛卯の年
151年
211年
271年
331年
391年
451年

正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。その後男王が立てられるが人々はこれに服さず内乱となり1000余人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女の壹與が王に立てられ国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。


辛卯年(271年)応神天皇2年ですな。神功は201年はて70年の差は・・。
正始8年(247年)神功皇后摂政47年、学者さん卑弥呼と神功皇后を取り間違えているな。

> ただ神功は201年から政治をとりますね。ここで仲哀が死んだことになっていて、



> 桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。『後漢書』
> 光和年間(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁書』
>
> 184年前後で卑弥呼が政治をとり始めたとすると、170年前後の生まれというのは妥当な線かもしれません。
>
> ただ神功は201年から政治をとりますね。ここで仲哀が死んだことになっていて、
>
> 孝元天皇が古事記だと57歳で死亡、書紀は2倍にして116歳で死亡。
>
> 父の孝霊の事例をみると、30歳を立太子年齢と考えていた節がありますね。
>
>
> あと、皇后の姉妹に虚空津比売命(そらつひめのみこと)がいますが、つまり架空の女性だとなぞっているのがわかります。


1080管理人:2013/01/21(月) 00:35:50
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
秦野北斗さんへのお返事です。

> 碑文は神功皇后の三韓征伐
> 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
>
> 好太王碑の碑文の辛卯年の候補は211、271、331、391年になるがこの文章が
> 神功皇后の三韓征伐であれば、辛卯年は271年になる。
> この年代が特定できれば、日本書記等の曖昧な年代の補正ができる。

ひとつは、実際に息長帯媛が、391年前後にいたとする可能性ですね。

ただ、やはり息長系の時代はもっと後のような気がします。

やはり、年代を伸ばす際に、架空の女帝を入れる必要があったとするべきかもしれませんが、ただ皇后のままで女帝ではなかったのが疑問です。卑弥呼なら女帝、持統や斉明でも女帝。

あくまで、蘇我氏の祖の武内が活躍して、皇后を擁護する形にしないといけなかったのでしょう。

仲哀ー神功ー応神というのは、神を信じぬ駄目な旦那・出来のいい神に謙虚な奥さん、聖人君子の息子という組み合わせで、聖書時代のままの構造をとってます。


おそらくこの3位一体のまま物語性をあまり崩さず挟み込みたかったのでしょう。ヤマトタケルの白鳥神話と同類の構造です。

ただ、その際に、卑弥呼とイヨの年代にかけることを思いついた。

それで、卑弥呼関連の書籍にあたった結果、170年、201年、269年という年が目についた。

当時百済三書は応神朝時代に仕入れた経緯があって、新羅本紀の173年の卑弥呼記載まで目を通していた。

266年のイヨの派遣記載も目についた。

3年のズレがでてきます。

応神3年(392年)が、百済との関係で重要な年になります。百済で辰斯王を殺して阿花王とたてますが、ここに日本の介入があったことになってます。

おそらく3年引くと、応神元年なのですが、応神と阿花王即位が同年だと何か都合がわるかったので、3年足した。
よって、神功の年も3年加算され、266年のイヨ記載が、269年のことになった。
そうすると、201年から政治をとり始めた記載も、198年だった可能性がでてきます。


そこで広開土王碑の391年ですね。

確かに三韓征伐をどこかの記録から持ってきた可能性を感じます。


> 正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去する。
> 卑弥呼の親族で13歳の少女の壹與が王に立てられ国は治まった。
> 倭が辛卯年(271年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。
> 壹與(神功皇后)37〜38才
> 日本 応神天皇2年

ただ確かに卑弥呼の本来年代をあわせるべきなのに、イヨの年代に合わせているのがおかしいですね。

卑弥呼の年代はある意味曖昧に無視されているようにも見えます。本来なら神功+男王+神功+応神の組み合わせにすべきところをそうしなかったのは、また何か意味が有りますね。卑弥呼=神功だと中国側に説明しても、卑弥呼とイヨが2人いたことを向こうはしっているのですぐにバレてしまう。

仲哀が8年なのは、何かその辺と意味があるのでしょうか。

247年に卑弥呼が死んで、255年まで男王、次がイヨという認識があったとしても、どうかな。


大水口宿袮の孝霊妃・ウツシコを卑弥呼と見なす件は先日のとおりですが、次の孝元・開化妃のイカガシコは、よく系図をみると親子じゃないんですよね。叔母と姪の関係で、イヨと卑弥呼の関係と一致します。

そうすると、イヨをイカガシコの年代を参照にしていたとすると、下記の記載から推測してみるとどうなるか。

孝元天皇2年(前213年)、孝元天皇の妃となった。開化天皇6年1月14日(前152年2月25日)、亡夫孝元天皇と叔母(伯母)・皇后欝色謎命の皇子である開化天皇の皇后となった。崇神天皇元年1月13日(前97年2月17日)、崇神天皇の即位と同日に皇太后となった。


彼女は2回別王の妃になっていて、その間が61年ですね。つまり1干支分伸ばしてます。

それから55年後に崇神の皇太后になります。

ついでに、ウツシコの動きもみましょう。


孝元天皇7年2月2日(前208年3月20日)、皇后に立てられた。開化天皇元年1月4日(前157年2月11日)、皇太后となった。

51年後に皇太后になってます。

これを卑弥呼の年代にあわせるとどうなるか?

247年に死んだことになるので、それから51年引いた年から、皇后になった計算とすると、196〜7年前後に皇后になった=記紀の理論上での卑弥呼即位年。
これが、先の神功皇后が政治をとりはじめた198年と重なります。

ちなみに孝霊天皇の即位関連をみると下記のようになります。

孝霊天皇(こうれいてんのう、孝安天皇51年(紀元前342年)- 孝霊天皇76年2月8日(紀元前215年3月27日))は、『古事記』『日本書紀』に記される第7代天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日(紀元前290年2月19日) - 同76年2月8日(紀元前215年3月27日))。大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)・大倭根子日子賦斗邇命(『古事記』)。


在位が76年、ここから1干支をひいて、14年、これが実際の在位年ではないでしょうか。

そうすると、その死後、記紀理論上での卑弥呼が即位したと考えると、先の卑弥呼即位年197年から14をひいた183年前後から、この天皇が即位したことになるでしょう。

この183〜4年が、ちょうど下記の年代にあたります。

桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。『後漢書』
光和年間(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁書』

年代的にはこの孝霊の即位年のほうが、卑弥呼の共立年代にあいますね。

ただ、「共立」ですから、もしかすると、男王と皇后もしくは女王の共立という見方もありますね。

『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭: 「漢靈帝光和中 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子卑彌呼爲王 彌呼無夫壻 挾鬼道 能

通説だと、合議の末に、一人の女子を立てたという解釈ですが、もう一人別にたてたという意味にもとれそうですね。


ここで、何か共立とするならば、大国間等での婚姻、王の共立関係云々といった経緯が見えてくるかもしれません。

難しいのですが、たとえば弁・秦韓の事例だと、馬韓からの派遣王と、祭祀王とが別にいました。卑弥呼のシャーマン性を考えると、あるいはそういう見方もできるかもしれません。住む宮も別だったかもしれない。

おそらくこの辺の天皇の即位年、関連の出来事を記録した書物があって、それが唐代の翰苑に引用され、一部は太宰府に保存されている。梁書もその辺の記録をひいていたとすれば、上記の流れが説明つくかもしれませんね。

やはり神功は、秦野さんご指摘のイヨのみということではなく、卑弥呼+イヨというセットではないでしょうか。



1081秦野北斗:2013/01/21(月) 08:16:33
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
管理人さんへのお返事です。

三韓征伐の年代は仲哀天皇と神功皇后、応神天皇になる。応神天皇元年269年、神功元年200年で70年がある。仲哀天皇と神功皇后の年代は住吉大社から逆算200年付近だな。これは約200年で300年未満と理解するのが良いなでは。
真相は、日本書記に南北の倭が記録されている。瑞穂の国は南倭と考えるべきだな。
三韓征伐で南倭から北倭に渡たり、南倭と北倭の暦に約70年の差を知った。
応神天皇元年から西晋(せいしん)暦269年に訂正した模様。
応神天皇以前の年代は掴んでいる。

好太王碑の碑文
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民

〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(271年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉

住吉神社の総本社
約千八百年前、神功皇后が住吉大神の御加護を得て大いに国威を輝かせられたことにより御鎮祭になりました。

主祭神は以下の4柱で、住吉大神と総称され海の神として信仰される。底筒男命、中筒男命、表筒男命は合わせて「住吉三神」と呼ばれる。
第一本宮:底筒男命 (そこつつのをのみこと)
第二本宮:中筒男命 (なかつつのをのみこと)
第三本宮:表筒男命 (うはつつのをのみこと)
第四本宮:息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと) - 神功皇后 (じんぐうこうごう)に同じ

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)仲哀天皇元192年
成務天皇18年(148年)? - 仲哀天皇9年2月6日(200年3月8日))は、『古事記』『日本書紀』に記される第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日(192年2月11日) - 同9年2月6日(200年3月8日))。

神功皇后(じんぐうこうごう)神功元年200年
成務40年(170年) - 神功69年4月17日(269年6月3日))

応神天皇(おうじんてんのう)応神天皇元年269年
仲哀天皇9年12月14日(201年1月5日) - 応神天皇41年2月15日(310年3月31日))から応神天皇元年269年


>
> おそらくこの辺の天皇の即位年、関連の出来事を記録した書物があって、それが唐代の翰苑に引用され、一部は太宰府に保存されている。梁書もその辺の記録をひいていたとすれば、上記の流れが説明つくかもしれませんね。
>
> やはり神功は、秦野さんご指摘のイヨのみということではなく、卑弥呼+イヨというセットではないでしょうか。


1082管理人:2013/01/21(月) 20:50:36
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 三韓征伐の年代は仲哀天皇と神功皇后、応神天皇になる。応神天皇元年269年、神功元年200年で70年がある。仲哀天皇と神功皇后の年代は住吉大社から逆算200年付近だな。これは約200年で300年未満と理解するのが良いなでは。
> 真相は、日本書記に南北の倭が記録されている。瑞穂の国は南倭と考えるべきだな。
> 三韓征伐で南倭から北倭に渡たり、南倭と北倭の暦に約70年の差を知った。
> 応神天皇元年から西晋(せいしん)暦269年に訂正した模様。
> 応神天皇以前の年代は掴んでいる。
>
>

ちょっと先の投稿で、ウツシコを孝霊妃と書いてしまったのですが、間違いで孝元妃です。孝元7年に皇后になりますが、この7年がつまり仲哀8年の8年間に対応するのではないかと思います。

それで姪のイカガシコのほうが、叔母より早く皇后になり、孝元即位の翌年に皇后になりますので、そうすると、イカガシコの即位年あたりを「共立」年代とすれば、さらに7年くらい早くなり、190年前後までその年代を遡らせうるのではないかと感じます。

197年前後にウツシコが即位。その時点で孝元は死んだ可能性もありますね。孝元57年までありますが、実際は残りの50年はウツシコつまり卑弥呼の時代。

イカガシコ+ウツシコの年代がずっと伸びて神功皇后の年代になったのでしょう。

問題は3年前後の誤差ですね。


神功66年をイヨの266年ともってきて、さらに3年神功の寿命を延ばしている。


景初暦の問題は、3年ではなく3日ずれることは指摘されているのですが・・・・。


確かに、西晋からの景初暦の件は、重要ですね。
先のとおり、445年から元嘉暦になり、さらに天武末期から儀鳳暦になります。

どうもこれらの暦法で数日の誤差ができ、中国の干支との間に相違が見えるので、その暦法が使われたことがわかるということのようです。

ただ570年の刀の件は反論が出てますね。
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2011/09/post-66a2.html


天武朝の帝紀編纂もしくは書紀編纂時に、允恭以前の干支が、当時使われていた元嘉・儀鳳暦とのそれ、もしくは中国史蹟に見える干支との差に気付いた可能性があります。庚寅年で庚寅日が、中国史蹟では、戊寅とかになっていて、両者に差があることに気付くという線でしょうか。

それで暦博士の間で允恭以前の帝紀の干支を直すかどうかの論議がおこって、結果としてついでに1〜2干支伸ばしながら調整することにしたのでしょう。


神武から安康までは儀鳳暦で、特に下記の論文の閏月と「30日」に関する指摘は重要ですね。

http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN10113157/nk_19_37.pdf#search='

ただ、これも儀鳳暦によって、神代から安康までの記載に30日が見えないということのようですが、また暦計算のなされてない段階で30日が設定されていなかったとの話もあり、そうなのかなーと感じるのですが・・・・。


あるいは景初暦にも29までしかなかったか?



閏月を入れたのは、ある時期の長暦編纂によると考えるのは妥当かもしれません。神功紀にもみえますね。


ただ30日が見えない件は、元嘉暦導入前には、29日までしかない暦を使用していた可能性も感じますね。
http://www.massangeana.com/mas/koyomi/koyomi4.txt


景初暦から元嘉暦に変更する際に、3日+で遅れてあって、これは歳差運動の結果なのですが、移行の際に干支も修正したのでしょう。それで後の元嘉暦との間で相違が起こる。

安康以前の帝紀に干支があったのか?そこが課題ですが、隅田八幡鏡を443年と考えていますが、すると、ちょうど干支が見えて、元嘉暦が445年からになるので、その前に別の暦をつかって「癸未年」「八月」を書き込んでいたことがわかります。

ということは、やはり干支を使っていた。
穢人は、北朝系ですが、あるいは南朝系渡来人による影響も考慮すべきでしょう。

景初暦がもっとも可能性としては高いですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

確かに欠史でも前半あたりは、おそらく架空で、後代の儀鳳暦のみで計算された数値がそのまま導入されたとみるべきですが、その以後、安康までの景初暦?の干支をどうあつかったか?ここが難しいですね。

最終的に3日+αずれていたわけですが、それを知らずに無理矢理信じ込んで計算しようとすると、勝手に寿命が1〜2干支分伸びていったという線はどうでしょう・・。1干支伸びると、同じ日付けでどのくらい干支が変わるか?
29歳が、その干支を信じすぎたために、149歳になってしまうとかいうケースです。

先の3年のズレとか入れると、うまく景初暦と元嘉暦の干支がつながるとか、そういうことはないのかな?
ちょっと考えてみたいところです。でもそうすると、神功紀を卑弥呼・イヨ年代に合わせたという仮説が成り立たなくなるので、やはり干支ごとずれたということはなかったのかなと感じます。



1083秦野北斗:2013/01/21(月) 23:46:04
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
管理人さんへのお返事です。

崇神天皇(すじんてんのう、)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日) - 同68年12月5日(紀元前29年1月9日))。

記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。258年没説を採った場合、崇神天皇の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代と重なることになる。

10:崇神天皇前97-前30 /
11:垂仁天皇前29-70 /
12:景行天皇71-130 /
13:成務天皇131-190 /
14:仲哀天皇192-200
15:応神天皇270-310

(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。

戊寅年
138年
198年
258年
318年


1084管理人:2013/01/22(火) 16:18:41
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
秦野北斗さんへのお返事です。

> 崇神天皇(すじんてんのう、)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日) - 同68年12月5日(紀元前29年1月9日))。
>
> 記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。258年没説を採った場合、崇神天皇の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代と重なることになる。
>

> (崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。
>
> 戊寅年
> 138年
> 198年
> 258年
> 318年
>

確かに崇神の件は重要ですね。
倭人伝の女王国からの238年の使者に「難升米」とともに派遣された「都市牛利(ツジギュウリ)」が見えますが、「十市瓊入」の「瓊」は呉音で「ギョウ」とも読め、両者に語的対応性があります。大和の十市郡と関係するでしょう。

さらにいえば、「トヨキイリヒコ」に近い発音です。「遠津、豊城、十市」といった関係ですね。

邪馬台国の「弥馬+升もしくはワクキ」の官職も、崇神・「ミマキイリヒコ」「ワケ」との対応を考えるべきでしょう。
難升の「升」はそこにかかってきます。

そうすると、崇神の年代は258年までのほうが妥当かもしれません。

孝元妃・ヒミコが247年に死んで、その後「男王」・開化がたつも、収まらず、イヨが引き継ぎ269年ごろまで治めたのかもしれません。

開化は統治が60年で、業績なしですが、つまり1干支分だけで1年以内に死んだか排された可能性を感じます。


ただ崇神の年代が重なってくるのが問題ですね。崇神は247年以降、269年ごろまでで、先のヒミコのケースと同様に、イヨとの共立という統治形態をとったとするとどうなるでしょうか。現実的に13歳の少女が政治を司ることは無理で、背後に「男王」が少なくとも10年程度はいないと統治は無理だったでしょう。崇神の統治年代は68年ですが、1干支ひいて8年。

崇神7年にモモソヒメを斎宮に渡して、それ以後、四道将軍派遣くらいしかまともな記録がありません。

そうすると、255年前後にイヨが20歳くらいになり自立して女王として統治しはじめた可能性を感じますね。

その前後で崇神は死ぬか、引退したのでしょう。

イヨ=モモソヒメではないでしょうか。

それで後代、神功紀を差し込む際に、上記の記録をいろいろ伸ばしたりしながら、一人の皇后像を造り出していったわけです。

そうすると、イヨが269年に死んで、次の垂仁をどう捉えるかですね。99年の在位がありますが、1干支ひいて39年の在位とするか、この天皇はいなかったとみるべきか。99年というのが嘘っぽいですね。

つぎの景行天皇も在位60年で、これも1干支引いて、1年以内に死んでいる計算です。
この天皇を大(帯)彦つまりオオヒコとみるのですが、たぶんすぐに次の成務(吉備津彦=武内宿袮)に殺されたでしょう。

でも次の成務も在位60年で子孫を残してないので、これも1年以内に殺された可能性を感じますね。

それで先の仲哀にいたるのですが、在位が9年で神功皇后の時代へと引き継がれます。


先のイヨ死後の269年から、垂仁の39年足して310年で、あとそこでストップしたとすると、応神の年代まで空白になってしまうでしょう。

おそらく、上記の天皇の年代記録はなかったかもしれませんね。かなりアバウトな系譜伝承しかなかった。そこで武内宿袮や神功で埋めることになる。

ただ崇神の干支だけはどこかに記録されていて、先の258年だったという線です。

それでどうして干支が4世紀代に記録されなくなったのか?も課題ですが、崇神あたりまでは、中国系の孝霊・元朝の影響で、まだ渡来系2世記録者が残存していたものの、3世くらいになってその辺の細かい暦・文字関連の技術が継承されなくなったという線はどうでしょうか。

4世紀大はおそらく鎖国文化で、あまり大きな変動もない時代です。

1085秦野北斗:2013/01/22(火) 23:52:48
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001109M.jpg

管理人さんへのお返事です。

(247年)頃に卑弥呼が死去、後に「男王が立てられる」は崇神天皇でないか。
崇神の年代は258年まで

泰始元年(265年) - 倭の遣使が重ねて入貢。『晋書』邪馬台国からの最後の入貢。
臺與30歳

倭が辛卯年(271年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。
壹與(神功皇后)37〜38歳
日本 応神天皇2年

正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。その後男王が立てられるが人々はこれに服さず内乱となり1000余人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女の壹與が王に立てられ国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。

魏志倭人伝によると、
女王卑弥呼が死ぬと男子の王が立てられた。邪馬壹國の人々はこれに服さず、内乱状態になり1000人が死んだ。このため再び女王が立てられることになり、卑弥呼の親族の13歳の少女の壹與が王となり、国は治まった。正始8年(248年)に邪馬壹國と狗奴国間の紛争の報告を受けて倭に派遣された帯方郡の塞曹掾史張政は、檄文をもって壹與を諭した。


> 邪馬台国の「弥馬+升もしくはワクキ」の官職も、崇神・「ミマキイリヒコ」「ワケ」との対応を考えるべきでしょう。
> 難升の「升」はそこにかかってきます。
>
> そうすると、崇神の年代は258年までのほうが妥当かもしれません。
>
> 孝元妃・ヒミコが247年に死んで、その後「男王」・開化がたつも、収まらず、イヨが引き継ぎ269年ごろまで治めたのかもしれません。孝元妃?
>
> 開化は統治が60年で、業績なしですが、つまり1干支分だけで1年以内に死んだか排された可能性を感じます。





1086管理人:2013/01/23(水) 03:26:54
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
秦野北斗さんへのお返事です。


> (247年)頃に卑弥呼が死去、後に「男王が立てられる」は崇神天皇でないか。
> 崇神の年代は258年まで
>
> 泰始元年(265年) - 倭の遣使が重ねて入貢。『晋書』邪馬台国からの最後の入貢。
> 臺與30歳

> 魏志倭人伝によると、
> 女王卑弥呼が死ぬと男子の王が立てられた。邪馬壹國の人々はこれに服さず、内乱状態になり1000人が死んだ。このため再び女王が立てられることになり、卑弥呼の親族の13歳の少女の壹與が王となり、国は治まった。正始8年(248年)に邪馬壹國と狗奴国間の紛争の報告を受けて倭に派遣された帯方郡の塞曹掾史張政は、檄文をもって壹與を諭した。
>
>
> > 邪馬台国の「弥馬+升もしくはワクキ」の官職も、崇神・「ミマキイリヒコ」「ワケ」との対応を考えるべきでしょう。
> > 難升の「升」はそこにかかってきます。
> >
> > そうすると、崇神の年代は258年までのほうが妥当かもしれません。
> >
> > 孝元妃・ヒミコが247年に死んで、その後「男王」・開化がたつも、収まらず、イヨが引き継ぎ269年ごろまで治めたのかもしれません。孝元妃?
> >
> > 開化は統治が60年で、業績なしですが、つまり1干支分だけで1年以内に死んだか排された可能性を感じます。
>
>


崇神の件は、先に書いたとおり、崇神は247年以降、269年ごろまでで、先のヒミコのケースと同様に、イヨとの共立という統治形態をとり、「男王」が少なくとも10年程度はいないと統治は無理で、崇神の統治年代は68年ですが、1干支ひいて8年と考えたとおりですが、倭人伝の「男王」は確かに内乱後の248年にイヨがたった記載を考慮すると、開化だった可能性が高くなりますね。

開化も在位60年で信憑性がないのですが、ただ春日宮にワニ氏が移動した件があって、もしかするとイカガシコの再婚やライン面から考えても1年程度、開化の時代があった可能性を感じるんです。その前の王朝を倒した可能性があります。

それで崇神は、「男王」ではなく、先の魏志にみえる次官の「彌馬+升 あるいは 彌馬+ワクキ=ワケ」として摂政のようなシャーマン女王より一段低い身分にあったとみなすべきかもしれません。ただ、実質的には実権を握っていた。

後の中国書籍にもイヨ以後の「男王」が見えますが、これは崇神ではなく、景行、成務あたりではないでしょうか。

それで倭の五王の年代推定を、考え直しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


倭王讃が、仁徳(おおささぎ)とすると、在位87年から1干支60年をひいて27年が在位期間。それで438年に讃が亡くなって珍になった記載があるので、逆算して411年ごろ即位。413年にはじめて朝貢します。

次の珍が438年から443年までの5年間の在位で、これが反正(たじひわけ)の在位5年に対応します。
ただ、次の履中天皇も在位6年で似たような感じですが、名前的には反正の「じ」音が珍に近い。


続く済が允恭天皇で、記紀では453年まで。

460〜62年までに、済の子・興が立ちます。これが允恭の子・安康天皇とされます。ただ記紀では454〜56年までの在位となり、いささか短いですね。

そして477年前後に興の弟・武が立ちますが、同じく允恭の子で安康の弟・雄略天皇がいるので、彼を武とみなす見方が一般的です。

ただ雄略の記紀の456年〜479年までの在位とズレがありますね。

478・9年の武の朝貢には、雄略はギリギリ対応してます。


それで問題は雄略の年代です。雄略の在位年代を477年〜79年の2年前後とするか、502年の武まで伸ばすか・・・。つまり、清寧から武烈までも雄略とする・・・。あるいは記紀のとおり456〜479年にするか。どちらにしても在位は23〜5年前後。

逆に先の讃=仁徳の前の応神の在位が41年ですから、讃の即位予想年411〜13年から41年を引いて370〜72年前後に即位した計算になるでしょう。

百済の(近)照古王(346〜375年)時代に、下記のような応神への献上記載があります。


『古事記』では、応神天皇の治世に百済王照古王が馬1つがいと論語などの書物を応神天皇に献上し、阿知吉師(あちきし)と和邇吉師(わにきし)を使者として日本に遣わした、とされている。この照古王が年代から近肖古王に比定されているが、第5代の肖古王とする説もある。
『日本書紀』にも、肖古王の名があるが、年代からは近肖古王を指すと考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

そうするとやはり応神の即位は370年前後でしょうか。ここで東漢氏・文氏の祖も派遣されてくる。

その前が神功・仲哀で先のとおり、崇神・イヨ(卑弥呼)として省くと、その前の成務天皇が、吉備津彦=武内宿袮で半島系になります。330年〜70年代あたりの歴史でしょうか。三角縁−1度偏角方位区画。天日矛・タジマモリ。

その前が景行天皇=大彦で、大和から北陸・東国に勢力を持ち、先の吉備津彦系の関西・九州勢力と張り合っていたはずです。

230年〜370年代くらいまでの歴史でしょう。南方呉・海人系の集団で、ある時期に大和に入り、しばらく支配していたはずです。呉年号銘・画像鏡方位区画。

その前が先のイヨ・卑弥呼・開化・崇神・垂仁。三角縁(魏年号銘)7度偏角方位区画。240〜270年

その前が孝霊・孝元。三角縁5度偏角方位区画(奈良都城区画)中国系。2世紀末〜240年。

その前が倭奴国王や、孝安・孝昭。奈良・九州弥生正方位方位区画。紀元前後〜2世紀後半まで。


1087秦野北斗:2013/01/23(水) 08:50:26
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
管理人さんへのお返事です。

壱輿が神功皇后とすると。「開化の曾孫娘の神功を王とした。」が気になる。

> 崇神の件は、先に書いたとおり、崇神は247年以降、269年ごろまでで、先のヒミコのケースと同様に、イヨとの共立という統治形態をとり、「男王」が少なくとも10年程度はいないと統治は無理で、崇神の統治年代は68年ですが、1干支ひいて8年と考えたとおりですが、倭人伝の「男王」は確かに内乱後の248年にイヨがたった記載を考慮すると、開化だった可能性が高くなりますね。


『新唐書』日本伝

 仲哀が死に、開化の曾孫娘の神功を王とした。次は應神、次は仁?、次は履中、次は反正、次は允恭、次は安康、次は雄略、次は清寧、次は顕宗、次は仁賢、次は武烈、次は継体、次は安閑、次は宣化、次は欽明。

 欽明之十一年、直梁承聖元年。次海達。次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女雄古立。次舒明、次皇極。
 其俗椎髻、無冠帶、跣以行、幅巾蔽後、貴者冒錦;婦人衣純色裙、長腰襦、結髮于後。至煬帝、賜其民錦線冠、飾以金玉、文布為衣、左右佩銀?、長八寸、以多少明貴賤。


> 開化も在位60年で信憑性がないのですが、ただ春日宮にワニ氏が移動した件があって、もしかするとイカガシコの再婚やライン面から考えても1年程度、開化の時代があった可能性を感じるんです。その前の王朝を倒した可能性があります。
>
> それで崇神は、「男王」ではなく、先の魏志にみえる次官の「彌馬+升 あるいは 彌馬+ワクキ=ワケ」として摂政のようなシャーマン女王より一段低い身分にあったとみなすべきかもしれません。ただ、実質的には実権を握っていた。
>
> 後の中国書籍にもイヨ以後の「男王」が見えますが、これは崇神ではなく、景行、成務あたりではないでしょうか。


1088棘の紀氏:2013/01/23(水) 12:16:53
景 ケイ 景教  景行天皇  圭ケイ 日かげの意
景行天皇(6) 筑後の国・日高見の国. 秋7月4日に、筑紫後国の御木(みけ)に着いて、 高田の行宮に滞在しました。そこに倒れた木がありました。長さは970丈。(1.7m×970= 1649m)群臣はその木を踏んで往来しました。 http://mblog.excite.co.jp/user/himeluna/entry/detail/?id=16438307
朝日が当たるとその影は杵島(きしま)の山に届き、夕日が当たると、阿蘇山に届きました。」と

形声。京とは、高い丘に建てた家を描いた象形文字。。田かう大きい意を含む。景は「日+(音符)京で、大きい意に用いた場合は京と同系。日かげの意に用いるのは、境(けじめ)と同系で、明暗の境界を生じること。 http://homepage3.nifty.com/giboshi/kaijitbl037.htm

かげ【影/景】とは。意味や解説。《「陰」と同語源》1 日・月・星・灯火などの光。「月の― 」「木陰にまたたく灯火(ともしび)の―」2 光が反射して水や鏡などの表面に映った、物の 形や色。「湖面に雲の―を落とす」3 目に見える物の姿や形。「 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/39429/m0u/

「坐」 太陽の光 「|」境(かざる) 影 景教 | 日本古代史掲示板(荊の紀氏) http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2106
【境】 「竟」は言を以て神に祈り、その感応として「音なひ」のあらわれる意で、 . ... 日かげ の意に用いるのは、境(けじめ)と同系で、明暗の境界を生じること。 ... 神を祭った後に 埋納したと思われる大量の璧や圭(末頁の写真9を参照)を発見した。
日影をはかる土圭ドケイ (日時計の柱)

景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年(紀元前13年)- 景行天皇60年11月7日( 130年12月24日)) http://ja.wikipedia.org/wiki/景行天皇
和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)。常陸風土記には大足日足天皇。播磨風土記には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。
「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が出されている。記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在を仮定すれば、その年代は4世紀前半かと考えられている。
4世紀
弓月王国にいたユダヤ人キリスト教徒(景教徒)の秦氏 は、4世紀に来日して赤穂の坂越にまず上陸し、のち京都の太秦に移ったという。 http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/episode17.html
川守田英二によれば、イザヤは、「絹の道」3・4世代かけて、東漸し日本にたどり着いたという。 ケン・ジョセフによれば、弓月王国にいたユダヤ人キリスト教徒(景教徒)の秦氏は、4世紀に来日して赤穂の坂越にまず上陸し、のち京都の太秦に移ったという。

影/景
意味日の光、影、景色、風景、様子、明るい、高尚である、仰ぐ、という意味がある。また慶と通じて、めでたい、幜と通じて、うちかけ、京と通じて大きい、勍と通じて強い、という意味がある。〔説文解字・巻七〕に「光なり」とある。字形形声。声符は京。 http://dic.nicovideo.jp/a/
景を声符とする漢字には、憬、影などがある。景を構成要素とする会意字に顥などがある。

顥?? 訓読み:しろい http://www.weblio.jp/content/
須??漢音 : シュ(表外)・・・主?
?で「口の上の須(ひげ)なり」とある。髭は その俗字。
白須
白須が起源(ルーツ)である、清和天皇の子孫で源姓を 賜った氏(清和源氏)武田氏流がある。ほか頼政流、神保氏などにもみられる。語源は、 白い砂地、鹿児島は火山灰地、奈良は河原からきている。地名としては、山梨などに 存在 ... http://myoji-yurai.net/searchResult.htm;jsessionid=F18003834D53454DFE1F58694F6658B4?myojiKanji=白須
白須八幡宮
縁起祭神 仁徳天皇・応神天皇・神功皇后の三柱若宮白須八幡宮は、伝わるところによりますと、人皇71代後、冷泉天皇の時、甲斐源氏の祖新羅 三郎源義光朝、任に当国に就きし際、祀官石田道麿朝臣も時の祭祀 ... http://blogs.yahoo.co.jp/meisuibnosato/19581194.html
応神天皇・神功皇后
(157)神武天皇の東征、神功皇后の外征、応神天皇の誕生と都遷り. 登場人物: ...神武天皇から景行天皇までの12代は、大和の国の郡に都を建てて、都を他国へ遷す ことはありませんでした。 http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/heike/1/157.html
しかるに、成務天皇元年(景行天皇58年の誤りか)に、近江の国・志賀郡に都が遷りました。
 仲哀天皇2年には長門の国に遷って、豊浦郡に都を建てました。そこ(実は筑紫の行宮)で天皇が死んだので、后の神功皇后が天皇の位につき、女帝として、鬼界が島、朝鮮王朝の高麗、内外モンゴル・中国東北省から朝鮮北部に及んだ国「契丹(けいたん)」までを征服しました。


1089管理人:2013/01/23(水) 18:27:45
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
秦野北斗さんへのお返事です。

> 壱輿が神功皇后とすると。「開化の曾孫娘の神功を王とした。」が気になる。
>
>
> 『新唐書』日本伝
>
>  仲哀が死に、開化の曾孫娘の神功を王とした。次は應神、


おそらく中国側は、神功を皇后ではなく、王とみなしていたので、その出自を記載したのだと思います。
「欽明之孫女雄古立。」のケースと同様ですね。皇后紀で伝わっていたはずなのですけど、王とみなした背景は如何。


神功は近江の息長氏系で開化の子・彦坐王の系譜に加えられていますね。


妃:息長水依比売(おきながのみずよりひめ。天之御影神の女)
丹波道主王(たにわのみちぬしのみこ、旦波比古多多須美知能宇斯王)
  日葉酢媛命(垂仁天皇の皇后(後)・景行天皇の母)の父・三河穂別の祖


この丹波道主王が、先日話したように、タジマモリで、天日矛系です。神功の母も天日矛系で、結局その辺を意識しています。

タジマモリは、垂仁妃を出しますが、垂仁死後にその妃である自分の娘に常世国の長寿の菓子の半分を差し出します。皇帝の不老長寿を願うものです。

ここで、女帝が見えてきます。

先の卑弥呼死後の開化・崇神=垂仁後の女帝、つまりイヨのことです。


そうするとイヨの出自は、開化系だとの認識があったでしょう。これが開化の子孫・神功のモチーフになります。


開化は先日のように「ワカ」王統の創始者です。「天若彦」のことで、中臣氏等の祖。

この天若彦が、大国主の子でアジスキタカヒコの妹・高媛と結婚して復命しなかったので、すぐ殺されることになります。

その若彦=開化の妃が、前王朝の孝元妃だった物部系イカガシコとなります。

そうすると大国主は物部氏あるいは葛城系ワニ氏のこととなり、ニギハヤヒや難升米とも言えるのですが、さらにいえば中国系のトウ氏や配下の月氏です。

それで、開化が新たに半島・帯方郡方面から派遣された派遣官だった可能性を感じます。
そのまま在地に根付いた大国主と結合して復命しなかった。

それでさらに、崇神等が任那方面からやってきて開化を殺し、イヨを女帝として擁立しながら、実権を崇神が握り続ける。


そのうちにイヨが成人したころに崇神=垂仁が死ぬのですが、垂仁死後に、山城の武埴安彦の反乱が起こります。これは崇神・垂仁を暗殺しようとした集団で、神武紀にみえる多芸志比古。出雲・九州風によめば「みみ」がつきます。タギシミミ(多芸志美美命)


★『書紀・旧事』武石彦奇友背命(たけしひこくしともせのみこと)。
★『古事記』第四代懿徳天皇の第二皇子、多芸志比古命(タギシヒコノミコト) は、血沼之別(チヌノワケ)、多遅麻(タヂマ) の竹別(タケノワケ)、葦井(アシヰ) の稲置の祖。
兵庫県城崎郡竹野町竹野馬場町、鷹野 (タカノ) 神社。
http://gejirin.com/src/Ta/tadima.html

武石彦奇友背命・多芸志比古が 武埴安彦となるわけですが、石=埴輪の概念がみえてきます。新漢人系のゾグド文化の石人が人形埴輪となるのは6世紀でしょう。


先の半島系の丹波道主・タジマモリ系の祖になりそうですね。

神武の神話では、天皇死後に反乱したこの半島系タギシミミを、南方航海民・神八井耳系多氏の大彦・子・武ヌテ河=ヤマトタケルが殺す構図です。ヤマトタケルと物部の方位ラインは弥生時代以来の正方位でした。

そして、討伐後に垂仁に続いて景行(大帯彦=大彦)が立ちます。イヨ死後の270年代〜300年ごろでしょうか。するとやはり先日のとおり日向系神武は、神八井耳・大彦系となりますね。

一時期大和に居座って、櫛山古墳とか、鳥の山とか、椿井大塚山の画像鏡とか、いろいろ南方航海民系の遺物を大和に残します。狗奴国の久々知彦の系統ですね。兵庫や伊都を拠点とする。円墳。

その後、再度半島系が大和を奪還して、伊勢・竹内街道を作り、武内宿袮の時代へと移行していくのですが、三角縁−1度偏角方位区画として、東海方面へ伸びるその出土古墳等をみていくと、だいたい4世紀半ば〜後半になるんですね。再度その区画の古墳を列記しておきます。

手古塚古墳(千葉県木更津市 前期 仿製鏡)
造山古墳(島根県 前期)
※上記2古墳は仿製・同笵鏡
真土大塚山古墳(神奈川県平塚市 3世紀末〜4世紀半ば)
甲斐銚子塚古墳(山梨県南部 4世紀後半 仿製鏡)
東之宮古墳(愛知県犬山市 4世紀初頭 前方後方墳 仿製鏡)
花岡山古墳(岐阜県大垣市 4世紀後半 中国鏡)
一輪山古墳(岐阜県 前期 円墳)
円満寺古墳(岐阜県海津市 4世紀中葉〜後半 中国鏡)
赤門上古墳(静岡県 4世紀後半 佐味田宝塚古墳と同笵鏡)
新豊院山2号墳(静岡県 前期 中国鏡 箱型木棺 ラインにズレあり。)
椿井大塚山古墳(京都府 前期)
鴨都波1号墳(奈良県御所市 4世紀中葉 円墳 仿製鏡)
中小田1号墳(広島市東区 前期 中国鏡)
佐味田宝塚古墳(奈良県 4世紀末〜5世紀初 家屋文鏡 三角縁神獣鏡破片 車輪石)
奥津社古墳(愛知県愛西市 中国鏡 西山古墳(香川)と同笵鏡)


その前の7度偏角のときのは、魏年号銘を含めて3世紀後半。

■魏年号銘鏡の出土古墳
神原神社古墳(島根県雲南市加茂町 景初三年銘)
竹島御家老屋敷古墳 (山口県周南市 正始元年)
森尾字市尾・森尾古墳 (兵庫県豊岡市 正始元年)

■年号銘鏡以外の三角縁出土古墳
桜井茶臼山古墳(奈良県 前期前半)
椿井大塚山古墳(奈良県 前期前半)
西山古墳(香川県善通寺市多度津町 前期前半)
白鳥古墳(広島県東広島市高屋町)
西求女塚古墳(兵庫県神戸市灘区 3世紀後半)
赤塚古墳(大分県宇佐市 3世紀前半)
手古塚古墳(千葉県木更津市)

その間に挟まる呉年号銘鏡+半円方形帯・画紋帯神獣鏡の方位区画の出土古墳時期は下記のとおり。

●安倉高塚古墳(兵庫県)(半円方形(格)帯神獣鏡)
この「赤鳥七年」は244年の呉年号です。

●鳥居原狐塚古墳(山梨県)(半円方形帯神獣鏡)


柳本天神山古墳 奈良県天理市     画文帯神獣鏡     ??3世紀後半
椿井大塚山古墳 京都府相楽郡山城町  画文帯対置式神獣鏡  前期
宇那木山2号墳 広島県佐東町     画文帯環状乳神獣鏡  前期(出現期)
外之隈1号墳  福岡県朝倉郡朝倉町  画文帯環状乳神獣鏡  前期(出現期)
迎平6号墳   熊本県一の宮町    画文帯環状乳神獣鏡  後期(円墳)
国越古墳    熊本県不知火町    画文帯環状乳神獣鏡  後期

関連して
櫛山古墳 4世紀後半
鳥の山古墳 4世紀末


ただ、こうみると、呉鏡系の方位区画は、ちょっとスパンが長くて、うまく整理できない感じです。3世紀末に一度大和に進出したようにみえますが、大和を支配するほどの大きな影響力を与えたようにも見えないですね。


大和・柳本古墳群が3世紀前半〜末、佐紀楯列や馬見は4世紀末〜、河内は5世紀〜

その間に挟まるはずの4世紀前半の王族の古墳はどこへいったのでしょうか・・・・。

萱生古墳群あたりか。

ちょっと4世紀前半は、文書記録も古墳も少ないとなると、いよいよ謎が深まりますね。大彦・ヤマトタケルに象徴される時代ではあるのですが、中国文献にもこの時代の記録がほとんどないですね。さきのとおり武内宿袮が入ってくるのが4世紀後半として、イヨの時代が3世紀後半。

その時代の大和の文化に変化が少なく、ほとんど見極めが着かないという線がひとつの理由でしょうか。

土器片年だと布留式の初期になりそうですね。布留1式あたりかと思いますが、検索しても該当古墳がでてきません。1式が箸墓。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html


年代推定がおかしいとすれば、大和・柳本古墳の年代を新しくするとか、佐紀を古くするいう手がありますね。


あるいは遷都したとか、崇神時代の疫病で大和の皇族は死に絶えたとか・・。

西都原古墳群あたりは、ずっと3世紀から6世紀まで継続していた様子が伺える点で重要です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/


その時代を象徴する景行天皇は、婚姻も業績も吉備・日向が主体ですね。最後に近江に入って、次の成務・吉備津彦・武内が近江に構えるのは、全体的には西日本系の話の延長線上にあるといえるでしょう。

あるいは、皇族を四道将軍として、全国に分散したので大和にその時代の大型古墳が見えないという線はどうでしょうか。

「ワケ」や前期屯倉の世界。



1090棘の紀氏:2013/01/23(水) 20:14:28
>「ワケ」や前期屯倉の世界。・・・石と鉱石を分けること
藤原氏、また秦氏と 当初から深い結びつきのある和気氏、 http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/nagasawa/new-13.html
4〜6世紀、朝鮮半島や中国などから渡来し、農耕・土木・養蚕・機織・鉱山・治水・製銅・精錬・冶金・工芸・酒造・製塩・船運等の技術で富を築き、経済力を背景にヤマト王権以降の朝廷や西日本各地の地方豪族に大きな影響力をもった渡来系氏族のサポートがあった。また空海には、彼らがもたらした宗教が日本化するかたちで陰に陽に影響を与えている。
 空海と最も深いかかわりをもったのは渡来系氏族の代表格でもある秦(はた)氏であった。その秦氏とは、空海の時代、婚姻等を通じて親縁の関係にあった藤原氏、また秦氏と当初から深い結びつきのある和気氏、さらに空海の母の出自の阿刀(安斗、阿斗、安刀、安都、あと)氏、そして高野山麓の丹生(にう)氏などとの縁も無視できない。

「弓月」国は、中央アジア、今のカザフスタン東部にあるバルハシ湖の南方に、1〜2世紀に存在したといわれる小さなキリスト教国で、中国語でクンユエといわれる。クンユエには「ヤマトゥ」(「神の民」の意)という地名があり、「ヤマトゥ」が「やまと」になったともいう。この「弓月」国の民が、実は景教徒、すなわち空海が留学先の長安で見聞したはずの大秦寺の、あるいは華厳・密典・サンスクリットの師般若三蔵に聞いたはずの、ネストリウス派キリスト教の信徒たちであったという。
 ネストリウス派は、431年エフェソス公会議で異端とされ、ローマからシリア・ペルシャへ、そしてシルクロードを経て中国に流浪するのだが、ユダヤ教の色彩が濃く、「弓月」国の景教徒は古い頃イスラエルを追われた初期のユダヤ系キリスト教徒ではないかともいわれている。

秦氏の奉ずる八幡神(やはたのかみ)は、後に弓矢神すなわち武神・軍神となったが、その原初は銅や鉄を産する神だった。民俗学者柳田国男はこれを鍛冶の神と言ったが、熊手八幡宮の八幡神は秦氏の治めるこの土地の(領有の)神であるとともにお産の神(産神)であったと思われる。八幡宮はみな応神天皇を主祭神とし神功皇后(応神天皇の后)と比売神(ひめかみ、主祭神の娘等)をともに祀るのだが、神功皇后が応神天皇の母であることから母子神ともいわれる。
 さて秦氏が奉じた八幡神についてである。八幡宮の総本社である宇佐神宮のある大分県宇佐市のあたりは昔の豊前すなわち「秦王国」で、渡来した秦氏の民が多く住むところであった。

「秦王国」には、常世信仰や山岳信仰や弥勒信仰を含む新羅系仏教が伝わっていた。新羅には古くから、熊野信仰につながる擬死再生の常世信仰があった。太子や花郎(ふぁらん)と呼ばれる山岳修行者は神が降臨した依り代とみなされ、鉱脈を探索するために山に入り、洞窟(=穴)などに篭って斎戒修行を行った。そこに仏教の弥勒下生信仰が重なり、彼らに弥勒菩薩が降臨(憑依)することから、彼らは弥勒の化身だといわれるようになった。
 豊前には英彦山という日本の代表的な修験の霊山がある。この英彦山には、弥勒菩薩の浄土(兜率天)内院の四十九院に付会した四十九窟がある。その英彦山と、英彦山で修行し「法医」とまでいわれた法蓮という僧(辛嶋氏系宇佐氏の氏寺・虚空蔵寺の座主や宇佐八幡宮の神宮寺・弥勒寺の別当)と、宇佐八幡宮の八幡大菩薩にかかわる弥勒信仰の伝承には、秦氏がもたらした新羅の仏教が大きく影を落としていた。

和気氏は、河内国内に展開した秦氏の鍛冶・鋳造の神鐸石別命(ぬてしわけのみこと、垂仁天皇の皇子)を祖とする。鐸石別命は死後、信貴生駒山地最南端の鷹巣山(高尾山)に葬られ、河内の秦氏はこれを高尾社として祀った。後に、備前国の磐梨(いわなし)郡石生(いわなし)郷を本拠とする磐梨(いわなし)氏(通称、和気氏)が、これをその地に遷座し氏神とした。
 和気清麻呂は本名を磐梨別公(いわなしわけのきみ)[といい、磐梨(いわなし)氏が本姓、和気清麻呂とは通称である。「わけ」とは「分別する」の意味で、石と鉱石を分けること。その「わけ(和気)」氏の本拠地が石生郷で、石生(いわなし)とは石成とも書き、鉱石が金属に成る(変化する)ことである。通称和気氏は古くからこの地で鍛冶・鋳造(金属の精錬)を得意として栄えていた。明らかに秦氏の技術者集団とのかかわりがそこに見える。秦氏は備前国のこの地域に早くから展開していた。
 ちなみに、清麻呂が、道鏡にからむ宇佐八幡の神託事件で、称徳天皇の勘気に触れて配流された大隈国といい、称徳の死後名誉回復して国司を命ぜられた豊前国といい、いずれもこの国に渡来してほどない秦氏の一族が一番早く勢力を伸ばした九州の拠点地である。しかも清麻呂は、山背国の秦氏がかかわる「高尾山」寺(高雄山寺)を復興している。

「狩場」とは、山の民が狩猟をする場所などと思われがちだが、鉱山とくに銅山のことをいう言葉である。山の民(例えばサンカなど)の隠語だともいう。
 丹生家信は、宣化天皇(467〜539)を祖とする丹治氏から、延暦12年(793)丹生氏に養子として入り丹生総神主家を継いだことが伝えられているが、丹治氏といえば秩父の銅(和銅開珎、708)で知られ、本拠地を河内国丹比郡とし、中央の大伴氏や藤原氏や紀伊国の紀氏にも根を張っていた。今の秩父地方を開墾した「武信」という人は、この家信の子だという説もある。
 狩場明神については従来この地一帯の土豪の首領だという説があった。興味深いのは、その土豪とは坂上(さかのうえ)氏、首領とは犬甘(いぬかいの)蔵吉人のことで、犬甘蔵吉人を犬飼蔵人と読み、坂上氏の先祖である阿智使主(あちのおみ)のあとに蔵人の名が見えるところから、坂上氏の人だという推定である。『紀伊続風土記』には「犬甘蔵吉は阿智使主の後蔵人と見ゆえたる人にて応神天皇廿年阿智使主と共に帰化せしむを同廿二年の事当社へ寄せるたまへるなるへし」という。
 坂上氏といえば、桓武・平城・嵯峨の三天皇政権の軍人のトップとして蝦夷を征伐し「薬子の乱」を鎮圧した征夷大将軍坂上田村麻呂を思い出すが、坂上氏は紀伊国伊都郡から紀ノ川北方の今の橋本市一帯を本拠とし、丹生都比売神社には(氏子長者として)財政や神馬の管理などで信助を惜しまなかったといわれている。ちなみに、空海と坂上田村麻呂は同じく嵯峨天皇のブレーンであった。

「狩場」とは、山の民が狩猟をする場所などと思われがちだが、鉱山とくに銅山のことをいう言葉である。山の民(例えばサンカなど)の隠語だともいう。
 丹生家信は、宣化天皇(467〜539)を祖とする丹治氏から、延暦12年(793)丹生氏に養子として入り丹生総神主家を継いだことが伝えられているが、丹治氏といえば秩父の銅(和銅開珎、708)で知られ、本拠地を河内国丹比郡とし、中央の大伴氏や藤原氏や紀伊国の紀氏にも根を張っていた。今の秩父地方を開墾した「武信」という人は、この家信の子だという説もある。
 狩場明神については従来この地一帯の土豪の首領だという説があった。興味深いのは、その土豪とは坂上(さかのうえ)氏、首領とは犬甘(いぬかいの)蔵吉人のことで、犬甘蔵吉人を犬飼蔵人と読み、坂上氏の先祖である阿智使主(あちのおみ)のあとに蔵人の名が見えるところから、坂上氏の人だという推定である。『紀伊続風土記』には「犬甘蔵吉は阿智使主の後蔵人と見ゆえたる人にて応神天皇廿年阿智使主と共に帰化せしむを同廿二年の事当社へ寄せるたまへるなるへし」という。
 坂上氏といえば、桓武・平城・嵯峨の三天皇政権の軍人のトップとして蝦夷を征伐し「薬子の乱」を鎮圧した征夷大将軍坂上田村麻呂を思い出すが、坂上氏は紀伊国伊都郡から紀ノ川北方の今の橋本市一帯を本拠とし、丹生都比売神社には(氏子長者として)財政や神馬の管理などで信助を惜しまなかったといわれている。ちなみに、空海と坂上田村麻呂は同じく嵯峨天皇のブレーンであった。

丹生一族と秦氏は、表裏一体の関係にあったのではないだろうか。やがて、水銀の鉱床が次第に掘り尽くされ、水銀の需要も減少するにつれて、秦氏は技術力・経済力を背景にさまざまな産業を興し、朝廷の氏族を支える有力なサポーターとなり、山背国太秦に本拠を構えるようになる。


1091棘の紀氏:2013/01/23(水) 20:33:22
鉱山 神社 古墳  礼金として50万円
「古代人がそのような遠距離を測量できたことはとても信じることができない」と未だに考えている人も多いのではないかと危惧しています。しかし、常識をはるかに超えた驚愕する事実にもかかわらず、今のところ、誰も否定することができません。このHPを開設して皆様からご意見を求め、一年半以上経過していますが、未だに何の反論もありません。鼻で笑ってこのページを読もうともしない人が多くいることも良く知っています。そこで、HSCPに対して理論的な反論をいただいた方には礼金として50万円を差し上げることにしました。ぜひ参加してください。もちろん、その反論は正しい理論的な裏付けが必要ですがどなたでも参加できます。(2012.2.13礼金を変更) http://w312.k.fiw-web.net/hscp/

薩摩の場合、大山祇神社と鉱山との 深い関係は、隼人族と鉱山との深い関係が背後にあることをさらに推測することができ ます http://samuraiworld.web.fc2.com/rediscover_ooyamajinja.htm
大山祇神社というのは、瀬戸内海の大三島のものが有名ですが、そもそもこの神は隼人と関係の深い神である事はわかりました。とすると、隼人の地元鹿児島には大山祇神社はないのでしょうか。調べてみますと、霧島市国分の平山近辺には約9つほどの大山祇神社があり、谷山の錫山近くに、宮崎県えびの市のクルソン峡の山の中にもあります。 クルソン峡の場合は別にして、国分の平山、谷山の錫山にしろ、すべて鉱山のあるところが共通しています。私の考えでは宮崎から熊本にかけての《クルソン峡》もなにか鉱山と関係していると思っています

神社配置は表面的に良く見える神社配置と、 その裏に、巧みな神社配置によって鉱山位置も示す二面性を持っている。 http://w312.k.fiw-web.net/hscp/
矢印で印した先が神社の位置です。神社間のほとんどは極めて正確な直角で結ぶことができます。
神社群の持つ基本法則
1.神社群はHSCP(二つの神社のペアが作る線の端末から直角方向に引いた線の多くが同一の収斂点を持つ規則)または直角収斂則と呼ぶ規則で配置されている。(このときの収斂点を神社群中心と呼ぶ)
2..神社群中心には神社が存在する場合が多いが、そこに神社がない場合があり、その代わりに遺跡(立石、いわくらを含む)、水源、尖った山の山頂、洞窟、滝などがある。(近年話題の多くなっているパワースポットと一致する場合もある)。
注;甑岳(宮崎県えびの市)のように、頂上が尖っていない山でも、神社群中心がある場合もある。
3.神社群の配列規則は北海道から沖縄まで同じ規則で配置されている。
4.神社群は互いにHSCP則を満足する線でチエーン状に結ばれていて、北海道から沖縄、島嶼まで切れ目なく結ばれている。
5.神社群は神社間を結んだ線が作る干字状パターンで古富士ポイントまたは野迫川ポイント(奈良県吉野郡野迫川村の山中にある)の一点を指している。富士山や野迫川ポイントを目視できない見通し外距離にある神社群でも同一規則を持つ。
6.神社群の位置を決める角度の精度は1度以下(実力は±0.2度)と高い精度を持っている。
神社配列規則から得られた成果の一部
1.神社の配置からは、現存する神社のほとんどは縄文時代にその位置が決まっていたと考えざるを得ない。しかし、その位置に最初から現在のような神社があったとする証拠はまだ見つかっていない。
2.神社配置規則から見た歴史観は現在の常識的な歴史観から大きく乖離している。しかし、数学的に見ると全く矛盾はない。これはこれまでの文献や発掘による考古学的手法の限界を示している。
3.島根県の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡は神社群中心の位置にあり、古富士線も持つ。
4.日本全国にある鉱山位置の多くは神社配置規則の中に組み込まれている。神社配置は表面的に良く見える神社配置と、その裏に、巧みな神社配置によって鉱山位置も示す二面性を持っている。例えば、島根県の石見銀山大久保間歩の近傍にも神社群中心がある。
注;石見銀山にある神社群中心の位置は世界測地系で表すと(釜谷間歩に近い)

6.東日本にある石器時代住居跡と国から指定されている配石遺構のほとんどは神社群中心の位置にある。したがって、そこは住居跡ではなく古代の祭祀場か鉱山の位置を示す標識であったと断定できる。

ストーンサークルの位置は古富士を基本とした干字状バターンの中心端末でもあるのです。ここからは目視できない古富士の位置を参照しています。信じられないようなことですが、ここでも古富士の位置を基本としています。このような理由から、残念なことに、神社の発祥がどこにあるかについては、まだ決定的な証拠を持ち合わせていません。

、?のストーンサークルの位置は周辺の神社に対して見ると、HSCPの規則が成立し、礼文島にあった知床稲荷神社と同じように神社群中心の位置にあるだけでなく、知床稲荷神社からストーンサークルに引いた線は、後に説明する古富士線を中心とした、干字状パターンの上部左側の線に相当しているのです

「古代人がそのような遠距離を測量できたことはとても信じることができない」と未だに考えている人も多いのではないかと危惧しています。しかし、常識をはるかに超えた驚愕する事実にもかかわらず、今のところ、誰も否定することができません。このHPを開設して皆様からご意見を求め、一年半以上経過していますが、未だに何の反論もありません。鼻で笑ってこのページを読もうともしない人が多くいることも良く知っています。そこで、HSCPに対して理論的な反論をいただいた方には礼金として50万円を差し上げることにしました。ぜひ参加してください。もちろん、その反論は正しい理論的な裏付けが必要ですがどなたでも参加できます。(2012.2.13礼金を変更)


1092管理人:2013/01/23(水) 22:27:57
Re: 鉱山 神社 古墳  礼金として50万円
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001116M.jpg

http://samuraiworld.web.fc2.com/rediscover_ooyamajinja.htm



1093藤井游惟:2013/01/24(木) 00:42:52
Re: 白村江の戦い1350周年
http://www.youtube.com/watch?v=R1EBZ7pYCEE

http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1094棘の紀氏:2013/01/24(木) 04:59:55
Re: 白村江の戦い1350周年
藤井游惟さんへのお返事です。

書いていたのは言語的外国人であると思います。
(日本の文字文化は、渡来人からであると思うからです。)

古事記はいかに読まれてきたか [著]斎藤英喜 http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013012000016.html?ref=chiezou
〈神話〉の変貌
 『日本書紀』が宮中で講義され、正史としてよく読まれてきたのに対し、『古事記』は原本が伝わらず、少ない写本もほとんど読む人がいなかった。いや、読みたい人がいても、伊勢神宮では神道系の古書の閲覧を禁じ、天皇すら読むことができず、文書も櫃(ひつ)に入れられ白蛇に護(まも)られていると噂(うわさ)された。それどころか、『古事記』には長年にわたり偽書疑惑があって、賀茂真淵までが後世の作ではないかと疑っていた。
 だが今読み比べれば、教科書みたいで味も素っ気もない『日本書紀』よりも、歌謡やドラマやファンタジーにあふれた『古事記』のほうが断然面白い。江戸時代にようやく版本が出てだれでも読めるようになった『古事記』を、京都の本屋で購入した本居宣長も、一読してそう思った。
 『源氏物語』を研究して王朝文学のひらがな文章とロマンチシズムに熱中した宣長は、じつは学問オンリーの堅物ではなく、大都市京都の自由かつ享楽的な環境のすばらしさに惚(ほ)れ込んだ人だったからこそ、『古事記』に描かれたおおらかな古代ロマンに反応できたのだ。そこにあふれる「もののあわれ」こそが「理想の日本」の原点である。
 紫式部の感性をもって『古事記』に感動した宣長は、次に、江戸人の合理精神をもって解釈しにかかった。そのポイントは、『古事記』を日本最古の史書と立証すること、同時に江戸時代の人が納得するような自然科学的な読み替えを行うこと。宣長は実際、『古事記』本文に使用された上代特殊仮名遣いに、古代和語が保存されていることを見抜いた。また科学的には、たとえばアマテラスの岩屋籠(こも)りを日食という天文現象と解き、「太陽中心の暦」がすでに古代日本にあったと主張した。『古事記』は宣長が創(つく)ったという意見も、まんざら極論ではない。本書からは、京都と古代の新鮮な風が一緒に吹いてくる。

上代特殊仮名遣 http://ja.wikipedia.org/wiki/上代特殊仮名遣
代日本語の50音のうち、イ段のキ・ヒ・ミ、エ段のケ・へ・メ、オ段のコ・ソ・ト・ノ・(モ)・ヨ・ロの13音について奈良時代以前の上代には甲類と乙類の万葉仮名の書き分けが見られ、両者は厳格に区別されていたことがわかっている。ただし、モの区別は『古事記』のみに見られる。またエにも2種類の書き分けが見られるが、ア行とヤ行の区別と見られ、上代特殊仮名遣には含めないのが一般的になっている[1]。なお、甲乙の区別は濁音のギ・ビ・ゲ・ベ・ゴ・ゾ・ドにもある。
甲乙の差異については、例えば「き」を表す万葉仮名は支・吉・峡・来・棄などの漢字が甲類の「き」とされ、「秋」や「君」「時」「聞く」の「き」を表す。そして己・紀・記・忌・氣などが乙類の「き」とされ、「霧」「岸」「月」「木」などの「き」を表す。上代の文献では一部の例外を除いてこのように整然たる仮名の使い分けが見られる。
こうした甲乙の区別は、一々の単語ごとに習慣的に記憶されて使い分けられたものではなく、上代においては何らかの音韻の区別によるという説が立てられた。例えば母音がアウの2音の他にイエオのみ甲乙の2種類に分かれ、8母音であり、上代日本語は50音でなく87音(あるいは88音)あったとする。そして、平安時代以降になってそのような区別が薄れたため、それぞれ統合されていったと考えるのである。ただし、実際の音価については不明な点も多く、また音素として別だったかについても異論がある[2]。
上代特殊仮名遣が廃れてから「かな」が発達したため、これを表現する仮名文字は存在しない。そのため、文字上で甲乙の区別をする必要がある時は「甲」「乙」と明記するか、右左の傍線、ローマ字のウムラウト、カタカナ化などで対応している。
特殊仮名遣の発見 [編集]
本居宣長・石塚龍麿 [編集]
上代特殊仮名遣はまず本居宣長によって研究の端緒が開かれた。宣長の著した『古事記』の注釈書、『古事記伝』には、第一巻の「仮字の事」ですでに「同じ音の中でも、言葉に応じてそれぞれに当てる仮字が使い分けられている」ことが指摘されている。ただしその指摘はまだ一部に限られており、この宣長の着想をさらに発展させたのが彼の門弟・石塚龍麿による『仮名遣奥山路』(1798年頃発表)である。これは万葉仮名の使われた『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』について、その用字を調査したものである。この中で石塚は万葉仮名においてはエ・キ・ケ・コ・ソ・ト・ヌ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロ・チ・モの15種について用字に使い分けがあると結論づけた。しかし、当時は本文の信憑性に関する批評が盛んでなく、調査に使われたテキストに誤記が含まれていたことや仮名の使い分けが音韻の違いに結びつくという結論付けがなされていなかったこともあり、注目を集めることはなかった。
8母音説 [編集]
橋本進吉・大野晋 [編集]
宣長・石塚によるこの研究は長く評価されずに埋もれていたが橋本進吉によって再発見され、1917年、「帝国文学」に発表された論文「国語仮名遣研究史の一発見――石塚龍麿の仮名遣奥山路について――」で学会に評価されるようになった。なお橋本以後の研究では石塚竜麿が指摘したチの使い分けを認めておらず、エ・キ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロ・モの14種(および濁音がある場合はその濁音)を古代特有の使い分けと見なしている。この使い分けに橋本は「上代特殊仮名遣」と命名した。なお、「モ」の使い分けは古事記にのみ見られ、これは日本書紀などの後世の史料よりもさらに古い時代の使い分けを残存しているものと考えられている。
「野」は万葉集などでかつては「ぬ」と読まれていたが、これは「奴」「怒」などの万葉仮名が用いられているからである。橋本はこれを「ノ」甲類と位置づけ、「ヌ」に2種あるのではなく「ノ」に2種あるものとした。
橋本進吉の弟子に当たる大野晋は、橋本説を受けて上代の母音を8母音であるとし、甲類を i, e, o と、乙類を ï, ë, ö と表記する音標記号上の書き分けを行った[3]。
有坂秀世と「有坂・池上法則」 [編集]
有坂秀世は1934年の論文「古代日本語における音節結合の法則」で、上代特殊仮名遣いに関する次のような法則を発表した。
1.オ列甲類音とオ列乙類音とは、同一結合単位内に共存することはない。
2.ウ列音とオ列乙類音とは、同一結合単位内に共存することが少ない。特に2音節の結合単位については例外がない。
3.ア列音とオ列乙類音とは、同一結合単位内に共存することが少ない。
実際にこの法則が発表されたのは1932年の論文「古事記におけるモの仮名の用法について」であるが、彼がこれに強い確信を持って発表したのは前述の論文である。ほぼ同趣旨の内容をほぼ同時期に池上禎造も発表したため、これは有坂・池上法則と呼ばれる。母音同士が共存しやすいグループを作り、互いに同グループの母音と共存しやすく他グループの母音とは共存しにくいという傾向はトルコ語などアルタイ語族に見られる「母音調和」現象の名残とされ、有坂の法則は日本語がアルタイ語族であることの一つの証左であるとされた。
橋本・有坂らによるこれらの研究により上代特殊仮名遣は国語学における定説となった。当時の学会では古事記が後世に編纂された偽書であると言う説をとる者が少なからずいたが、古事記が他の古史古伝とは違って「上代特殊仮名遣」を有していること、しかも日本書紀編纂の時点では消滅していた古い使い分けであると思われる「モ」の使い分けを残していることが判明し、古事記が偽書ではなく実際に日本書紀より古い書物であることがほぼ確定した[4]。また、いわゆる古史古伝の竹内文書などに使用されている神代文字も、「上代には8母音あったはずなのに、なぜか5母音のままで上代の仮名遣いに配慮していない」ということから、そうした仮名遣いの区別がなくなった後世の偽書として否定された[5]。これに関連し橋本は1942年、第二次天津教弾圧事件裁判の際検察側の証人として出廷した。

松本は有坂の音節結合の法則について、「同一結合単位」という概念の曖昧さを指摘した上で甲乙2種の使い分けがある母音だけではなく全ての母音について結合の法則性を追求すべきだとして、1965年の福田良輔の研究をもとに母音を3グループに分けて検証を行なった。その結果、従来甲乙2種の使い分けがあるとされてきた母音は相補的な分布を示すなどしており、母音の使い分けを行なっていたわけではなく音韻的には同一であったとした[6]。松本はギリシア語での /k/ の表記を引き合いに出し、/k/ について Κ と ? の二種類の文字が使われていたからと言ってそれがギリシア語で2種の子音が意図的に使い分けられていたという事実を示すわけではないことを挙げ、同様に上代特殊仮名遣いについても使い分けがそのまま当時の母音体系を正確に表したものではないことを指摘した。その上で松本は日本語の母音の変遷について、
1.i, a, u の3母音
2.i, a 〜 o, u の4母音
3.i, e, ï, a, o, u の6母音
4.現在の5母音
のような変遷を辿ったとし、上代日本語の母音体系は現代と同じ5母音であったと結論づけた。

森重敏 [編集]
松本克己の論文の発表は1975年3月であるが、それと時を同じくして同年9月、森重敏は「上代特殊仮名遣とは何か」を発表し、松本とは別の観点から上代特殊仮名遣の8母音説に異議を唱えた。発表は9月であるがこれが執筆されたのは同年2月であり、「定説」であった8母音説に対する反論がほぼ同じ時期に執筆されたことになる。
まず森重は、体言において感嘆の際にいかなる助詞も付けないで単語がそのままで使われる時、助詞の代わりのような役目で単語の音韻そのものを「イ」音を加重させることがあると説いた。すなわち、「花」であればそれが「花よ」という形を取るのではなく「ハナィ」あるいは「ハィナ」「ハィナィ」と、母音そのものに「イ」を付け加えることによって表現することがあるというのである。ここからア段音にイを加重させたものがエに、ウ段音にイを加重させたものがイに、オ段音にイを加重させたものがオになり、それぞれ乙類と呼ばれる音になった[7]というのが森重説の要旨である。
森重説でも最終的に日本語の母音体系は5母音であったとしている。すなわち、万葉仮名に見られる用字の使い分けは渡来人が日本語にとって不必要であった音声の違いを音韻として読み取ってしまったものだとするものである。森重はそれをあたかもヘボン式ローマ字が日本語にとって必ずしも必要な聞き分けでないsh, ch, ts, fなどを聞き取ったことになぞらえ、上代特殊仮名遣い中「コ」音のみが平安初期にまで残ったにもかかわらず、ひらがなにその使い分けが存在しなかった[8]ことなどを傍証として挙げている。

上代にはいくつの母音が実際に存在したのか、その具体的な音価は何か、なぜイ段・エ段・オ段の一部のみに使い分けが見られるのかなどについて、今後も様々な分野からのアプローチが待たれている。

5.^ 日本語には清音と濁音の区別があるが、仮名はかつてそれらを書き分けなかった。また、現代日本語には /oR/ (/o/ の長音) と /ou/ の区別がある(「王」と「追う・負う」)が、現代仮名遣いはそれらを書き分けない(ともに「おう」)。音韻的対立が必ず表記に反映されるわけではない。
6.^ 甲乙の母音が、音環境のどのような違いに従って排他的に現れるのかは、十分明らかにされていない。
7.^ 「ハナィ」「ハィナ」「ハィナィ」が「ハネ」「ヘ(乙)ナ」「ヘ(乙)ネ」として定着しなかった原因は不明。
8.^ ヘボン式ローマ字 sh,ch,ts,f が表す [?],[t?],[ts],[?] は、/s/,/t/,/t/,/h/ の条件異音で、現れる音環境は明確である(/s/: [s]~[?],/t/: [t]~[t?]~[ts],/h/: [h]~[ç]~[?] はそれぞれ相補分布)。他方、「コ」の甲類と乙類が現れる音環境の違いは明らかでない。

じょうだいとくしゅかなづかい【上代特殊仮名遣い】?? http://kotobank.jp/word/上代特殊仮名遣い
奈良時代およびそれ以前の万葉仮名の使用に見いだされる,特殊な仮名遣い。平安時代の平仮名,片仮名では区別して書き分けることのない仮名〈き・ひ・み〉〈け・へ・め〉〈こ・そ・と・の・よ・ろ〉(《古事記》では〈も〉も)と〈え〉の13(《古事記》では14)と,それらのうち濁音のあるもの〈ぎ・び〉〈げ・べ〉〈ご・ぞ・ど〉の7に当たる万葉仮名に,甲・乙2類があって,語によってこの2類は厳格に区別して用いられた事実を指す。

生物学的な条件異音
ある言語において互いに対立しない分節音のうち、音声学的類似性によって音韻論的に同一のもの(同一音素の音声実現)と推定されるような一連の分節音を異音。それらのうち音韻環境によって相補分布を示すものが条件異音。それ以外のものが自由異音。で、これは音声学じゃなくて音韻論の問題。

条件異音と自由異音をどうやって見分けるかっていうのも上に述べたとおり。同じ音韻環境にそれ以外の異音が現れなければそれは条件異音で、別の異音が現れるのを許すような異音は自由異音。

結構基本的なことなので、興味・関心の有る方は、まずは教科書とか入門書で調べてみるべきだよね。その上で分かんないことを聞くようにすれば???




1095棘の紀氏:2013/01/24(木) 05:21:53
藤井游惟さんへのお願いです。
藤井さん初めまして 宜しくお願い致します。
「日本は古代ユダヤだけでなく、古代アッシリアなどを合せた現在のイスラエル・イラク・シリア・ヨルダンに相当する領域に日本の原点のかなりの部分があると思います。」
↓ご意見を御願いします。

ヘブライ語と日本語 http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/55524723.html
「大和民族はユダヤ人だった 」の著者であるユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーグは、カタカナとヘブライ語の驚くほどの類似性を指摘していました。
日本語とヘブライ語の類似表にある単語の一部を紹介したいと思いますが、天皇や祭司に関した言葉、日常生活の言葉にも多く類似点が見られます。
日本語(大和言葉)とヘブライ語の単語の発音と意味を下記に紹介します。

ヘブライ語(特にアラム方言)とカタカナの共通点はいずれ時が来れば明らかになると思います。なぜかと言いますと、やまとことば由来の言葉は、漢語由来のものとは規則や性質の違うものであるからです。大きな違いとしてあげられるのは漢語や唐から伝来した漢字経由の単語は音読み主体であるのに対して、やまとことばは訓読みが主であるからです。
また、アルファベットの形や音によく似ているものが多いので、何らかの共通性はあると思います。

ヘブライ文字(ヘブライもじ。ヘブル文字とも)とは、ヘブライ語やイディッシュ語を表記するための文字である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ヘブライ文字
古代のヘブライ語の系統的 な特徴による。/p/,/t/,/k/,/b/,/d/,/g/ の六子音はその位置により異なって発音される(詳細 は複雑なのでここでは概要を述べるにとどめる)。

イディッシュ語会話集 - Wikitravel
??/a: /a/ 日本語のアとほぼ同じ。 ?/e: /e/ 日本語のエとほぼ同じ。 ?,??/i: /i/ 日本語のイと ほぼ同じ。??は?をyの音で発音させる場合に、その前後で用いられる。 ??/o: /o/ 日本 http://wikitravel.org/ja/イディッシュ語会話集

子音だけの ktkr
フェニキア文字をギリシャ語に応用したときとおんなじようなことは イディッシュ語にもある。イディッシュ語はドイツ語の方言みたいなことばで、ヘブライ 文字でかくんだけど、イディッシュ語としては必要ない文字と半母音の文字を母音 ... http://toxa.cocolog-nifty.com/phonetika/2011/06/ktkr-1ab1.html
いまのヘブライ文字のもとになったフェニキア文字(むかしのヘブライ文字ともいえる)からギリシャ文字はつくられた。フェニキア文字をギリシャ文字としてつかうときにギリシャ語としては必要ない文字を母音の文字としてつかうようにした。ギリシャ語をあらわすには母音もかく必要があるからだ。母音をあらわす文字がふくまれるギリシャ文字は、そのあとラテン文字とかキリール文字のもとになったわけだけど、とうぜんラテン文字にもキリール文字にも母音の文字がある。

ドイツ語から見たイディッシュ語の特徴(1) - 福岡大学
(Adobe PDF)
2.イディッシュ語の音声と音韻. イディッシュ語で用いられる音は以下の通り。 母音:5 個. この外、複母音として ai(ay), ei(ey), および i(oy)がある。 子音:23(24)個 ... クは このことを踏まえ、イディッシュ語の母音と子音に関して次のようにまと. めている。 母音 ... http://www.adm.fukuoka-u.ac.jp/fu844/home2/Ronso/Jinbun/L40-3/L4003_0753.pdf#search='イディッシュ語 母音'


1096棘の紀氏:2013/01/24(木) 06:12:56
日本語の起源
- Wikipedia
いずれにしても、数詞に加え、「口(古次)」「海(波且)」「深(伏)」「白(尸臘)」「兎(烏斯含 )」「猪(烏)」「谷(旦)」などの類似は印象的であり、更に興味深いのは、中期朝鮮語より も上代日本語との方が、類似語が見出される割合が大きい(板橋によれば30%と42%) ... http://ja.wikipedia.org/wiki/日本語の起源
中国語(古典中国語)との関係 日本は中国を中心とした漢字文化圏に属しており、中国語(古典中国語)は、古来、漢字・漢語を通じて日本語の表記や、語彙・形態素に強い影響を与え、拗音等の音韻面での影響や、書面語における古典中国語の文法・語法の模倣を通じた文法・語法・文体の影響も見られた。従来、系統的関連性は認められないとされてきた。しかし、身体を表す基本語(目・耳・口などの大和言葉多数)・一部の動詞(倒れる、香る、壊れる等の大和言葉多数)などの基礎語彙が、朝鮮語に比べ有意に一致点が多いこと、朝鮮語には存在しない「声調」「語声調」が日本語には明確に存在し、日本語が他のアルタイ語族などにない広義の声調言語であること、日本語の従来の文法で軽視されていた係助詞「は」のbe動詞との類似性があること、日本語の語尾の「である」「です」「ます」などが省略可能な接尾語であることなど、必ずしも中国語とまったく類似点がないわけではない

古代朝鮮半島から旧南満州における言語分布状況がどのようなものだったかは不明な点が多い。そもそも再構された「高句麗語」が、本当に高句麗の言語だったかについても疑問がある。「魏志東夷伝」や「後漢書」などから推測すると、3世紀後半に鴨緑江以北を本拠地としていた夫余・高句麗の言語がツングース系だった可能性は高いが(村山説: 1979年)、肝心の朝鮮半島北部から中部にかけて、3世紀当時どのような言語が分布していたかについては、「魏志東夷伝」などの「中国史書」には全く言及がないのである(金芳漢: 1985年)。 「高句麗語」と日本語との系統関係についてもいまだ十分に実証されていない。また、高句麗語は中国語、あるいは契丹語等に起源や関連性がある事も考えられるが、実証には至っていない

混合言語説 [編集]
ロシアの言語学者、エフゲニー・ポリワーノフは、特に日本語のアクセント史に関する研究[25]を基に、日本語がオーストロネシア諸語とアルタイ系言語との混合言語であるという説を初めて提唱した。例えば、「朝」のアクセントは京都方言では a_(低)sa^(高低) という形をしているが、後半の特徴的なピッチの下降は、朝鮮語の「朝」 achΛm との比較から語末鼻音 m の痕跡と解釈される事、また「朝顔」(asagawo)のような合成語に見られる連濁現象( k からg への有声音化)も asam+kawo > asaNkawo > asagawo のような過程から生じた語末鼻音の痕跡であるとし、日本語の古形が子音終わりを許すものであったと主張した。更にポリワーノフは、日本語のピッチアクセントを、アルタイ系言語における位置固定のストレスアクセントとは根本的に異なるものと考え、その起源をフィリピン諸語に求めた。また、日本語の「真っ黒」(makkuro < ma+ku+kuro) は、接頭辞 ma を伴う形容詞 kuro の不完全重複形で、同一の形式がフィリピンやメラネシア諸語にも見られる事を指摘し、日本語は起源的に「オーストロネシア要素と大陸的なアルタイ的諸言語との混合物(アマルガム)」であると主張した[26]。
村山七郎はポリワーノフの先駆的研究を再発見し、混合言語説を展開した。村山は元来、アルタイ比較言語学の立場から日本語系統問題を考究していたが、日本語にはアルタイ起源では説明がつかない語彙があまりに多いという見解に達し、南島語と日本語の比較に注目するようになった。村山によれば、いわゆる基礎語彙の約35%、文法要素の一部が南島語起源であり、このような深い浸透は借用と言えるレベルを超えたもので、日本語はアルタイ系言語と南島語の混合言語であると主張した(1973-1988年)。この見解は、南島言語学の崎山理や板橋義三に継承されている。また、オーストロ・タイ語の研究で世界的に知られるP.ベネディクトは、村山とは異なる独自の観点から日本語とオーストロネシア語の関係について論じた(1985年)。
現在、主流の見解は、南島語を基層とし、アルタイ系言語が上層として重なって日本語が形成されたとするものだが、安本美典[27]や川本崇雄(1990年)は、逆にアルタイ系言語が基層で南島語が上層言語であったと主張する。アルタイ単独起源説を主張するS. スタロスティン(2002年)ですら、南島語の基礎語彙への浸透を認めていることから分かるように、古代日本語の形成に南島語が重要な役割を演じたことについては、多くの論者が同意している。しかし、それを単なる借用とみなすのか、系統関係の証拠と見るかについてはまだ合意に至っていない。
この説の最大の理論的争点は、混合言語の存在についてであろう。伝統的な比較言語学は混合言語の存在を認めないが、最近の歴史・比較言語学者、社会言語学者の一部には異なる見解も見られる。これは言語学の基礎理論にも関わる問題である。

発音・音韻の対応 [編集]
北インドの多くの言語が三母音(サンスクリット等で母音/半母音として扱われるrやlを除いて)を基礎としており、またヒンディー語等ではe、oが常に長母音として扱われるのに対して、タミル語の基本はa, i, u, e, oの五母音であり、それに長短の別と二重母音(aiとau)が加わることで計12の母音を区別する。また子音は有気音と無気音を区別しない他、有声音(日本語で言う濁音)と無声音(同じく清音または半濁音)の間の対立もない。ただ単語の先頭や同子音が重なった場合に無声音、単語の中途、同系の鼻音の後などに有声音で発音される傾向があり、これらの点は日本語の連濁と相似である。
日本語との差異は、日本語で「ラ行」にあたる音、英語を含む西洋語なら r や l の流音に相当する音に、五種の区別が存在すること[33]、また、反舌音(舌の先を硬口蓋まで反らせて発音する一連の子音)がある[34]。
大野説のうち、その根幹にあるのが音韻複合対応に関する対応関係の分析であり、大野は音韻複合対応表をつくっている[35]。以下、概要を記す。
タミル語と日本語間の音韻の複合対応については、タミル語内部にa/i、a/u、k/v、v/p、v/m(音価省略)などの交替形が併存する。そうすると、たとえばタミル語ca-に対し、日本語sa-、si-双方の対応が考えられ、またタミル語ka-に対し、日本語ka-、ha-(タミル語va-より日本語*pa->fa->ha-対応)双方の対応が考えられる。同時にタミル語/v/は日本語/w/との対応も考えられる。更には日本語においても「さびしい」と「さみしい」など唇音同士の交替、また「ほどろ」と「はだら」などの交替がある上に、原初の日本語の音韻などを保存していると見られる古代東国方言では「こころ」を「けけれ」と言うなど、活発な交替がみられる。こうしてタミル語内部の交替に影響された音韻対応が見られる。
またタミル語neriという名詞には[(1)規則, 原理、(2)方法、(3)教訓、道徳、(4)宗旨、(5)<馬のごとき>歩み、(6)曲がっている]という六つの意味がある。他方、日本語noriは[(1)規則。法令。法度、(2)方法。例「そのマジナイやむる法(ノリ)を定む」(神代紀)、(3)教化。例「わが風(ノリ)を万国に光(てら)すこと」(継体紀)、(4)仏法、仏の教え。例「仏にあひ奉りてノリを聞くべし」(うつほ物語)、(5)里程。例「道のノリ5里なり」(日葡辞典)。道の「歩み」という意味、(6)伸(の)り(刀の反りのこと)。建築・土木で、垂直を基準にした傾斜の度合。また、その傾斜した面。]という意味がある。タミル語のner-iの意味(1)〜(6)は、日本語nor-iの意味(1)〜(6)に完全に対応するのである。この場合、タミル語-e-はその古形*-a-からa/o対応したと考えられる[36]。
こうしてタミル語と日本語の多義語の間には偶然以上の合致が多く認められる。更には、たとえば倭迹迹日百襲姫(ヤマト・トト・ヒ・モモソ・ヒメ)のような日本の神の名もタミル語で解読できる事例もある。タミル語でツタや蛇瓜の意味を持つ語が日本語では蛇となっている例が多いところから、タミル語で蛇瓜を意味するtatt-anは列島内でtotoに変化し「ヘビ」を意味し、またタミル語maimai[崇拝の意]は日本語mom-oと対応し、日本語に「ももす」という動詞があったと想定し[37]、倭迹迹日百襲姫は、ヤマトの「toto(ヘビ)霊を崇拝する姫」ということになる。そして倭迹迹日百襲姫は日本神話上、ヤマトの蛇巫(へびふ)とされているので、それにふさわしい神名となる。もっともこうした対応は、系統論的観点からは認められない[38]。
音韻複合対応の要因については、日本列島にフィリピンや台湾、朝鮮半島と同様に、複数の異言語話者がいたことが考えられる。たとえば隼人は明らかにヤマト言葉とは異なる言語の話者であったとされる
その他 [編集]
厳密な実証科学によらないほかの仮説としては以下のものがある。
日本語エジプト起源説 明治時代の木村鷹太郎によって唱えられ、日本語はラテン語やギリシャ語などと同系であるという。
日本語ヘブライ語同系論 日ユ同祖論者によって、昭和の初期ごろ。
レプチャ語との関連説 医師の安田徳太郎による。
ラテン語と日本語の語源的関係 近年与謝野達によって唱えられた日本語の語源を古代ラテン語に求める説[57]

古典言語 http://ja.wikipedia.org/wiki/古典言語
古典言語(こてんげんご)とは、古典文学に用いられた言語である。この場合の「古典」とは、年代として古く、亜流ではなく独自の源を持つ伝統を形成し、質量ともに充実したまとまりを擁するものを意味する (カリフォルニア大学バークレー校言語学者George L. Hartによる)[1]。
時代を経るにつれ口語が多様化し古典の文語から変化していった結果として、こうした古典言語は母語話者が存在しないか (w:Language deathを参照) 、高度のダイグロシアを伴うことが多くなっている。

古典ギリシア語は紀元前5世紀から4世紀にかけてのアテナイの言語であり、それ自体はギリシア語全体からみたさまざまな変種の、単なるちいさな部分集合に過ぎない。「古典」期は通例、「古代」の後に続く文学の開花の時期と対応する (たとえば古ラテン語の後に続く古典ラテン語、原シュメール語の後に続く古シュメール語、ヴェーダ語の後に続くサンスクリット、古代ペルシア語の後に続く中世ペルシア語)。これはある程度用語にかかわる問題であり、たとえば上古中国語は古典中国語に先行するものというよりは古典中国語にふくまれるものとして捉えられる。いくつかの事例では、アラビア語やタミル語のように「古典」の段階が最古の文語の資料と一致する場合もある


1097棘の紀氏:2013/01/24(木) 10:00:24
やまとことばは訓読みが主
・・
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1617
日本語(大和言葉)とヘブライ語の単語の発音と意味を下記に紹介します。

ミカド (帝)     − ミガドル (高貴なお方)
ミコト (尊)     − マクト  (王、王国)
ネギ  (神職)    − ナギット (長、司)
ミササギ(陵、墳墓)  − ムトウサガ(死者を閉ざす)
アスカ (飛鳥)    − ハスカ  (ご住所)
ミソギ (禊ぎ)    − ミソグ  (分別・性別)
ヌシ  (主)     − ヌシ   (長)
サムライ(サムライ)  − シャムライ(守る者)
ヤリ  (槍)     − ヤリ   (射る)
ホロブ (滅ぶ)    − ホレブ  (滅ぶ)
イム  (忌む)    − イム   (ひどい)
ダメ  (駄目)    − タメ   (ダメ・汚れている)
ハズカシメル(辱める) − ハデカシェム(名を踏みにじる)
ニクム (憎む)    − ニクム  (憎む)
カバウ (庇う)    − カバア  (隠す)
ユルス (許す)    − ユルス  (取らせる)
コマル (困る)    − コマル  (困る)
スム  (住む)    − スム   (住む)
ツモル (積もる)   − ツモル  (積もる)
コオル (凍る)    − コ−ル  (寒さ、冷たさ)
スワル (座る)    − スワル  (座る)
アルク (歩く)    − ハラク  (歩く)
ハカル (測る)    − ハカル  (測る)
トル  (取る)    − トル   (取る)
カク  (書く)    − カク   (書く)
ナマル (訛る)    − ナマル  (訛る)
アキナウ(商う)    − アキナフ (買う)
アリガトウ(有難う)   − アリ・ガド(私にとって幸福です)
ヤケド (火傷)    − ヤケド  (火傷)
ニオイ (匂い)    − ニホヒ  (匂い)
カタ  (肩)     − カタフ  (肩)
ワラベ (子供)    − ワラッベン(子供)
アタリ (辺り)    − アタリ  (辺り)
オワリ (終わり)   − アハリ  (終わり)
etc.

確かに、これだけ似ていると、ユダヤ人が日本語はヘブライ語に近いと思っても不思議はないと思います。
しかしながら、我々日本人は漢字が導入されるまでは、文字を持っていなかったと学校で習っており、最初に示したカタカナとヘブライ語の類似性は理解不可能となってしまいます。


1098管理人:2013/01/24(木) 18:56:56
Re: 白村江の戦い1350周年
藤井游惟さんへのお返事です。

> そして、仕入れなければならない新たな知識は、
> ●音声学に於ける「条件異音(conditional allophone)」の概念
> (拙著第五章)
> ●国語学に於ける「上代特殊仮名遣いオ段甲乙書き分け法則」
> (拙著第四章)
> の2つだけです。

とりあえず、私も上記の2点はなんとか理解しているようです(汗)


> 私の論旨は
>
> ?現生地球人類は自分の母語の異音(allophone)は聞き分けられない。(もちろん文字で書き分けることなど不可能)
>  異音(allophone)を聞き分けられる者がいるとすれば、自分の母語でそれらを別の音素・音節として区別する言語的な外国人だけである。
> (従って、ある言語の異音を書き分けている文献があれば、それは言語的外国人が書いたものである)
>
> これが、私の説の大前提となる「生物学的法則」です。
> そして
>
> ?『記紀万葉』においては、日本人(日本語ネイティブスピーカー)には聞き分けられない異音(allophone)が書き分けられていた。
>
> ?従って、?の生物学的法則に従って、『記紀万葉』を書いていたのは言語的外国人である。
>  (もし、『記紀万葉』を書いていたのが日本人(日本語しか話せない日本人)だったと言うなら、
>   奈良時代の日本人は現代地球人類とは別種の生き物だった、ということになる)
>
> という実に単純明快なものです。


こちらも、とりあえず理解できているようです・・・。先に書いたとおりですね?



> さて?
> 「異音(allophone)とは、当該言語(方言)の音韻体系において、同一音素(phoneme)の中に包含される異なる単音(phone)」であり、
> 簡単に言えば「発音している母語話者本人にも、聞いている母語話者にも『同じ音』にしか聞こえない範囲内で異なる音」
> 逆に言えば、母語話者の耳に「似てはいるが別の音」に聞こえるものは、定義によって異音(allophone)であることから排除されるのです。
>



ここが、私も含めてみなさん、うまく理解できないのでしょう(大権威?マツモト氏も含めて・・)


そして藤井さんの本来もっとも主張すべき部分もここですね。
だからその「条件異音」についての松本氏の理解が不十分であることを、アピールしないといけない・・。

あくまで、古代史への応用、つまり亡命百済人云々というのは、その説明題材のひとつで、歴史学的に云々と突っ込まれても藤井さんも困るということですよね。


それで、松本氏の条件異音への紹介・提案を発展させるのか、否定して新たに説明しなおすのか?が藤井さんの問われた選択肢だったと理解しています。


個人的にはどちらでもよいと思うのですが、日本人として、毎日使っている言葉なので、それなりにそれを正しく理解しているかどうか、ということも重要で責任ある研究視点とも言えるかもしれません。

ただ、研究会としては、その古代史研究への応用方法が明らかにならないと、目的に合わなくなるので、結局、亡命百済人、渡来人に関する記載に注目が向かうということになります。


亡命百済人云々はともかく、その条件異音の古代史面への理論的な応用ですね、

キシさん紹介の下記の部分は、ちょっと重要と感じてます。

まず森重は、体言において感嘆の際にいかなる助詞も付けないで単語がそのままで使われる時、助詞の代わりのような役目で単語の音韻そのものを「イ」音を加重させることがあると説いた。すなわち、「花」であればそれが「花よ」という形を取るのではなく「ハナィ」あるいは「ハィナ」「ハィナィ」と、母音そのものに「イ」を付け加えることによって表現することがあるというのである。ここからア段音にイを加重させたものがエに、ウ段音にイを加重させたものがイに、オ段音にイを加重させたものがオになり、それぞれ乙類と呼ばれる音になった[7]というのが森重説の要旨である。
森重説でも最終的に日本語の母音体系は5母音であったとしている。すなわち、万葉仮名に見られる用字の使い分けは渡来人が日本語にとって不必要であった音声の違いを音韻として読み取ってしまったものだとするものである。森重はそれをあたかもヘボン式ローマ字が日本語にとって必ずしも必要な聞き分けでないsh, ch, ts, fなどを聞き取ったことになぞらえ、上代特殊仮名遣い中「コ」音のみが平安初期にまで残ったにもかかわらず、ひらがなにその使い分けが存在しなかった[8]ことなどを傍証として挙げている。



1099棘の紀氏:2013/01/24(木) 19:23:35
2月3日(日)東京大学にてWikimedia Conference Japan 2013を開催します。
レイライン
レイライン(ley line)は、古代の遺跡には直線的に並ぶよう建造されたものがあるという仮説のなかで、その遺跡群が描く直線をさす。レイラインが提唱されているケースには古代イギリスの巨石遺跡群などがある。レイラインの存在は1921年にイギリス人のアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンス(en:Alfred Watkins)によって提唱され、その著書『The Old Straight Track』(古い直線路)によって遺跡の直線的配置性が世間一般の注意を引きつけることとなった。
地図を開けば、遺跡が一列に並んでいるように見える直線を見つけることはそう難しいことではない。にもかかわらず、レイラインの存在を認める動きは学術的には主流とは言えない。その理由としては、レイラインが実在するならば、古代の人々がどうしてそのような直線性を持たせたのかが不明であり、さらには存在するかに見えるその直線性はまったくの偶然にでも発生するのではないかという疑いをぬぐえないためである。こうした事態について解釈を試みる領域はいくつかあり、次のとおりである。
考古学: 考古学の新領域である考古測地学は、測地学を有史以前のものに適用し考古学的な知見を得るものである。近代測地学が優位であるのは一面にはその測量技術がある。測地学を用いて解析すると、レイラインと呼ばれるものは古代人が測量し、所有権を主張するために引いたか単に一般的な街道を作ったかしたものであろうと推察される。時代の新古を問わず多くの社会において、重要な地点同士を結ぶまっすぐな線は作られており、考古学者はこうした伝統があることを指摘している。近代的な測量により、地形においてもこうした直線性があることも確認されている。人の建造物と活動拠点の並びが、人が直線というものを利用していたということを反映しているのは妥当だといえる。
文明論: 多くの文化において、特徴的な地形を横切る直線というものは発見できる。南米では山頂を結ぶ直線がしばしば見受けられる。ナスカの地上絵は古代の長大な直線を語る上で有名な例だといえる。このまっすぐな道というのは今日ではメキシコのテオティワカンにある遺跡にも存在する。古代の道の上に作られた近代の道は二つの巨大なピラミッドの間を今は通っていないが。ニューメキシコ州北西のチャコ文明(Chaco Culture)においては、道をまっすぐに作るために砂岩絶壁を階段状に切り開いている。
ニューエイジ: レイラインやレイライン同士の交点は、風水・ダウジング・UFOのようなものを含む神秘的、超自然的なエネルギーに共鳴する地点だと考える人々がいる。およそ、UFOはレイラインに沿って航行する(車が道路を利用するように)、という風に。こうした主張はレイラインが電磁気的なエネルギーを有しているという想像の元に仮定されている。
懐疑派: レイラインの存在に懐疑的な者は往々にしてレイラインを疑似科学に分類する。彼らは古代文明がレイラインというものを意図的に作ったという説に懐疑的であり、レイラインなるものは超科学や疑似科学を必要とすることなしに説明できるだろうと考えている。


1100棘の紀氏:2013/01/24(木) 19:41:36
(無題)
[編集]

レイラインという概念は1921年6月30日、アルフレッド・ワトキンスによって提案された。 ワトキンスはイギリス中部のヘレフォードシャー州にあるブレッドウォーディン(en:Bredwardineを訪れ、近くにある丘陵が連なる地へと車で出かけた。

そのとき、丘の頂上をつなぐ小道同士が一直線につながっているように見えることに気付き、地図を確かめ、それらの場所が一直線に連なっていることを確認した。彼は後に息子にこの体験を「あらゆるものが瞬くように私の中へ入り込んだ」と語った。これを聞いた人の中には、彼の感じた「瞬き」というのはいわゆる神秘的な体験なのだろうと言ったものもいた[要出典]。

しかし、ワトキンスより以前の1870年9月にウィリアム・ヘンリー・ブラック(William Henry Black)がヘレフォードにあるイギリス考古学協会に「Boundaries and Landmarks(大地に引かれた境界と名所旧跡)」という説を主張していた。その中で、彼は「名所旧跡は、西ヨーロッパ全域に巨大な地理的な線を描くような位置に存在している」という仮説を立てた。ワトキンスが上記のように感じたのは、彼がこの仮説を読み、それを頭の片隅においていたからかもしれない。

古代、イギリスがもっと深い森に覆われていた頃、村と村はこの直線状の道が織り成すネットワークによってつながっており、小高い丘は案内板の役目を果たしていたのではないか、とワトキンスは考えた。この考察は1921年9月にヘレフォードのウールホープクラブ(Woolhope Club。ヘレフォードシャー州の郷土史、考古学などへの支援団体)で公に発表された。ワトキンスの功績は後に1882年発行の同クラブ会誌"G.H.Piper's" に取り上げられ、その中で、次のように書かれた。
アスガリッド・ヴァウル山から北のアーサー石までひいた線は、ハタロルの丘、オールドキャッスル村、ロングタウン城、ユリシェイ城跡、スノッドヒル城を通る。これらの線を考え出したと想像される古代の測量士たちはドッドマン dodman(カタツムリの男[1])と呼ばれた。
ワトキンスは自身の考察を『Early British Trackways(古代英国の軌道路)』と『The Old Straight Track(古い直線路)』という本に著した。しかし、考古学学会からは懐疑的な目で見られ一般にはあまり受け入れられなかった。考古学者O.G.S.カウフォード(en:O. G. S. Crawford)は学術誌『Antiquity』にこの本の宣伝を掲載することを拒み、これが一般の学者に受け入れられない事態を助長した。

2004年ジョン・ブルーノ・エア (John Bruno Hare)は次のように記している。「ワトキンスはレイラインと超自然的なものの関わりがあると主張したことはなかった。彼はレイラインが単に交易や記念碑的な意味合いで作られたものだと思っていたし、大変な昔まで遡ることができ、もしかすれば新石器時代、少なくともローマ時代以前に既に存在していたと考えていただけだ。彼のレイラインに対するこだわりも風景写真への興味や、イギリスの片田舎を愛していた心から自然に芽生えたものだ。古代の英知に対しても努めて論理的であろうとしたし、今日レイライン説が晒されている風当たりには少々残念な思いでいるのではないだろうか[2]。

レイライン説に対する批判的な見方が強い一方で、専門家の中にはワトキンスと同じ考えを持つものもいる。巨石文化の研究者であるアレクサンダー・トム(en:Alexander Thom)は、複数の巨石の配置が直線的かどうかを詳細に検討することで、その巨石群を誰が作り上げたかを推し量ることが出来るのではないかと提案している。しかし、トムは巨石群の直線的配置に対しレイラインという用語を使うことは避けている。西欧人が南ペルーで発見した砂で描かれたナスカの地上絵が、巨石群のなす桁外れに長い直線に関する研究の助けとなっている。

ニューエイジ思想的アプローチ: 不可思議で聖性あるライン [編集]

ワトキンスの提唱したレイラインの存在は、次のような作家達に取り上げられていった。

神秘学者のディオン・フォーチュンは1936年に自著である『The Goat-dooted God(山羊足の神)』という小説の中でレイライン説をいくらか紹介した。

大英博物館に所属する二人のイギリス人ダウザー(ダウジングにより地下水脈や鉱脈を探し当てる探求家)ロバート・ブースビー(en:Robert Boothby)とレジナルド・スミス(Reginald Smith)は、レイラインと地下水脈や地磁気の間には関係があるだろうと予想した。ガイ・アンダーウッド(Guy Underwood)は「負」の水の流れとダウジングに影響を与えるアクアスタット(apuastat)との線の交点が聖なる地となるという推論を主張した。彼は2つの線の重なりを聖なる点の上でいくつも発見し、holy lines(聖なるライン)と名付けた。

ナチスドイツの研究者であるヴィルヘルム・トイト (Willhelm Teudt) とヨーゼフ・ハインシュ (Josef Heinsch) らもまた、古代のチュートン民族が聖なる地を結んでできる"Heilige Linien"(聖なるライン)と呼ばれる桁外れに長い直線のネットワークを作り上げたと主張した。トイトはニーダーザクセン州のトイトブルクの森(en:Teutoburger Wald)をドイツの中心として en:Externsteineという特定の位置に巨大石群を配置した。ナチは、考古学的あるいは歴史学的な事実とは無関係に、古代高度文明とその子孫であるアーリア民族を関連付け優越性を観念化しようとした。 詳細は英語版en:Nazi occultism(ナチにおけるオカルト思想)を読まれたい。

1960年代には、まっすぐな線が交差する点があるという考えと世界の様々な地相術的伝統に由来する思想とを関連付けて考えるようになった。ニューエイジ派の地相学者たちによると、レイラインを描くことで大地を"調(ととの)え"られたり、有史以前の交易路を明らかにすることが出来ると言われている。これらの例はジョン・ミッシェルの著作に見ることが出来る。彼は地理的配置に重きを置く風水の考え方に影響を受けていた。ミッシェルは新石器時代の人々は社会の調和が大地の調和に大きく関わっていると考えていたと考えた。その例として、中国や古代ギリシャ、アイルランド、スコットランドの人々は自らの寺院を大地の力が最も強い場所に立てたと主張した。ロスリンにあるロスリン寺院[3]はテンプル騎士団が大地のエネルギーを調整して作った寺院であった。彼らは磁気的な力の分布を的確に把握した人であったし、彼らの残したものの一つとして羅針盤が今も残っている。

懐疑的アプローチ: 確率論的に直線は引けてしまう [編集]

懐疑論者の中には、レイラインというものは存在せず、人間の想像の産物だと主張する者もいる。 ワトキンスがレイラインを発見した時期というのは、イギリス地理院が余暇を楽しむ人たちのために地図を発売し、それまでより地図の値段が安くなり人々が入手しやすくなった時期と重なっている。そのためレイラインの存在が人々の間で広く受け入れられた。





80本の直線がランダムな137点に対して描ける
次のようなことを主張する者もいる。イギリスやその他のヨーロッパ諸国では、有史あるいはそれ以前の史跡が高密度に点在しているため、それらを結ぶ直線が引ける(往々にしてそういうものはわざわざ合うように引かれる)というのはごく当たり前のことであるし、おそらくは単に偶然だといえるだろう、と。

右に示した図は、試しにランダムに点を打ちその近くを通る線を引いていくという作業を行ったものだ。このテストの目的は、ランダムな点の間にでもおよそ”精確な”線を引くことが出来る、ということを示すことだ。ごく自然なこととして、このレイラインというものが人為的でなくとも確率的に発見できるものなのか、それとも確率論を超えた人の意思によって作られたものなのか、これは論議の対象となっている。 (数学的な考察に関しては、ランダムに配した点がなす直線を参照されたい。)

レイラインが交易路だとする説に対しては、山岳や河川があり水路や橋を必要とする場合は特に、目的地間を結ぶ直線状の道というのが必ずしも理想的な経路を描かない、ということを懐疑論者たちは指摘している。

地図に引ける線は全てレイラインと呼べるか [編集]

地図上を眺めればそこにレイラインが浮かび上がってくることは、多くの人が賛同できるだろう。レイラインについて提唱されている古代の魔術的理論の信奉者、そしてそれに対する懐疑派どちらもが巨石群や遺跡をつないだ線が見えうるということには同意している。

懐疑派の多くは、ランダムに点描してもレイラインらしく見える直線が引けるという意見と、地図上に直線が見えることは矛盾しないし、矛盾しないが故にこの直線を別な方法で説明する必要もないと考えている。混沌魔術師にはこの統計学的なアプローチと矛盾しない思想を持ち、自身の自然発生説と調和が取れていると主張する者がいる。しかし、多くは上記のような統計学的アプローチは地図上に見える事実をきちんと説明できなければならないと考えている。詳細な検討は仮説検定、反証可能性、オッカムの剃刀に詳しい。

レイラインという並びの偶然性の真偽を議論するうえで、"直線"というものの定義を精確に行うことは有意義だ。ワトキンスのレイラインの精確な定義として一般に受け入れられているものとして以下が挙げられる[4]。
遺跡などの数地点が少なくとも0.25度の円弧に含まれること
ワトキンスはさらに、ラインの偶然性について、
図中に3点だけ描いたとき、その3点が直線をなしている可能性は1/720である しかし、こうした偶然の一致が起こる確率は打つ点数を増やせば速やかに増大する。ランダムに10点を打ったなら、平均して1本は3点が乗る直線が描けるし、12点打てば2本は引けるようになる。 3点が乗る直線が引けるからといって、それがすぐレイラインの存在を証明できるわけではない。しかし、綺麗に整ったそれらしい線が目の前に存在するではないか。 レイラインの存在は、少なくともそれらしい4点以上をもって確認すべきである。3点だけなら、価値の下がるほかのもの、直交する道やそれらしい街道などとともに確認するのが効果的だろう。
レイラインを地図の上で探していく上では、次のことにも充分注意を払わねばならない。1/10万の縮尺の地図上に幅0.5ミリメートルの線を引いたとして、それは実寸では幅50メートルの線になるのである。また、引いた線が0.25度ずれたとして、その直線を4.5キロ分(すなわち地図上で4.5センチ)延ばせば、地図上では200メートルずれることになる。

論争 [編集]

レイラインと呼ばれているものは遺跡が偶然そう見えるように並んだ結果に過ぎないという、レイラインを認めるうえで否定されなければならないこの仮説を裏付けるために提唱されている前述の理論は、実のところレイライン説を否定する的確な説だというわけではない。しかし、懐疑派の人間に、ランダムに点を打ち直線を引いてみるあのテストに裏付けられた主張は現実に見受けられるレイラインの存在の前に否定されてしまう、と考えさせるにいたってもいない。

懐疑派の大半は、もし伝説や逸話などではなく、物理的な、つまり地磁気の存在だとか考古学的な検証だとかがレイライン上にあるのであれば、自らの懐疑的な立場を再考してもいい、と思っている。しかし懐疑派はこうした疑う余地のない証拠というものをレイラインは持ち合わせていないだろうと考えている。

レイラインについては幅広い信仰や理論があるが、それらの多くは反証可能でなく、基本的に科学的な検証方法に則っていない。中にはレイラインが科学的な根拠をもちうると主張する人もいるが、そうした説は大半がレイラインに関心のない人や積極的に否定説を唱える人々の唱えるものである。

学術調査 [編集]

レイライン説についての検証の中では、レイラインが通る地点のいくつかでは地磁気の影響が平均値よりも強いと言われている。こうした説は『Places of Power(力ある場所)』(en:Paul Devereux著、ブランフォード社1990年発行)と『Lodestone Compass: Chinese or Olmec Primacy?(磁鉄鉱のコンパス:中華文明やオルメカ文明の卓越した技術か?)』(John B. Carlson,サイエンス,1975)に詳しい。


1101管理人:2013/01/24(木) 20:53:57
Re: やまとことばは訓読みが主
棘の紀氏さんへのお返事です。

> ・・
> http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1617
> 日本語(大和言葉)とヘブライ語の単語の発音と意味を下記に紹介します。

>??カク  (書く)    − カク   (書く)
>??ナマル (訛る)    − ナマル  (訛る)
>??アキナウ(商う)    − アキナフ (買う)

こうみると、動詞がおなじという特徴があるようですね。
名刺は高句麗語との対応事例がありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


「入る」は、高句麗語の「ir」ですね。満州語は「ibe」名詞は「イリヒコ」の「イリ」連用形。


約30年の期間を経た後も、大野の主張はほとんど変わっていない。唯一の変化は、下 ニ段の語末母音が ?から ?に変えられたことである。周知のとおり、奈良朝日本語のキ ヒミ(イ列)、ケヘメ(エ列)、コソトノヨロモ(オ列)に母音のちがいによる甲乙の区 別があり、甲類の母音は ?、?、?で表され、乙類の母音は ?、?、?で表されるのが普通で ある。この意味において、大野がエ列乙類の母音を ?あるいは ?としたのは「普通では ない」けれども、これは大した問題ではない。なぜなら音価に甲乙の区別があったこと は知られていても、甲乙の実際の音価、とくに乙類のそれはよく分からないからである。??動詞語幹に??が付いて連用形が成立したという考えは、動詞語幹の何たるかを度外視 すれば、基本的に正しかろう。語幹が子音で終わる動詞の場合、連用形の語末はすべて?? である4。また語幹が母音で終わる動詞の場合も、??と先行母音との結合によって?(?<?? + ????+??)、??(<??+??)、??(<??+??)になったと想定すれば、その本来の語末は??で あったということになる。問題は??の正体である。??はいったい何物なのか。このことに 関して、大野晋(1953)は次のように述べている。
そして今日いふ動詞の活用なるものは、起源に溯つて考察するならば単なる接續のための語形 変化であると見ることは出来ず、終止形の如く動詞の熟合したものがあり、連體形の如く助詞の 附属したものがあり、命令形の如く間投助詞の熟合し又は附属したものが存在する。これらの事 實は動詞の活用と詞辭の論との関係について種々の示唆を與へるものである。それでは未然形に
52
アルタイ系具格接辞 ????の後裔(前編) 於ける ?、?、?連用形に於ける ?は何であるかが問われるが、私は未だそれを何であると斷定す
・・・ ることが出来ない。未然形に於ける ?(その交替形 ?)は、恐らく、つづく形(切れない形)で
・・・
あり、連用形に於ける ?は、恐らく切れる形であつたのではあるまいかと推測するがなほ考究す
べき問題であると思ふ。已然形 ??、????に於ける ??は未然形に ?が附属して成立した形であるが、 これにかん關してもなほ後日を期したい。(5頁)

・・・・

くめ くぶつつ いしつつ や??(25)みつみつし ?久??米?の子が ?頭??推?い 石???推?いもち 撃ちてし?止?まむ みつみつ
くめ こら くぶつつ いしつつ よ し ?久??米?の?子??等?が 頭???推?い ?石??推?いもち 今撃たらば?良?らし(『古事記』中、
神武)
この「い」を筆者は、歌謡の中に生き残った遺物としての具格助詞と見たい。すなわ くぶつつ いしつつ
ち、これはかつて広く用いられた具格助詞「い」の残滓であり、「?頭??推?い 石?推??い?もち」 64
????????
くぶつつ いしつつ は「?頭??推?で、?石??推?でもって」を意味している、と考えたい。ちなみに、「もち」という
こ のは動詞「もつ」の連用形が具格助詞化したもので、「早帰り?来?とま袖持ち涙をのごひ
むせびつつ」(『万葉集』卷20、4398)のように道具・手段を表すのによく用いられた。 これを具格助詞「い」の後ろに付加して具格的意味の強化をはかったと見なすのはきわ めて自然なことである。16
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/23-1/kondo.pdf#search='





日本語の動詞が、う段で終わるのは、四段活用のせいですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
http://okwave.jp/qa/q1049665.html

どうも昔から動詞はう段で終わるようです。今の韓国語の動詞はタらしく、語尾が変わるのは膠着語の特徴。

http://ja.wikipedia.org/wiki/

あと、関連して下記の件が重要です。






神代文字否定派の論拠

神代文字の形を分類すると、だいたい甲骨文字とハングルの二つに大別できるほど良く似ている。ハングルは、朝鮮の京城で一四四三年に創案された表音文字である。神代文字の中で最も有力なものとみなされた日文は、明らかにこのハングルに基づいて作られたものである。
古代に固有の文字がなかったということについては、平安時代の『古語拾遺』に「上古の世、未だ文字あらず」と記載されている。
神代文字で書かれた古い文献のようなものは一つも残っていない。
漢字に先立ってすでに固有の文字があったとすれば、わざわざ漢字を輸入して日本語を写したり、それから仮名を発達させたりする必要は考えがたい。
仮名は音節文字であるのに、神代文字は一種の単音文字であり、神代文字はその構成において、仮名よりも一層進歩した文字とみなされる。
神代文字は四七音ないし五〇音しか書き分けない。奈良時代以前にまでさかのぼると、日本語の音節には「いろは」四七文字では書き分けられない八七種類の音(甲乙二種類の音があり、母音が八つ)があり、それらは五十音図のうちには収められないところの音であった。すなわち、いろは歌や五十音図だけでは示しきれないところの音が上代にはあったのである。これらを「万葉仮名」ではちゃんと書き分けてその区別を守っている以上、もし神代文字が真に仮名以前のものであったとすれば、少なくとも、もっと多くの字体がなければならないのに、いわゆる変体仮名にあたるものさえなく、きわめて整然とした統一をもっているのである。神代文字は多く四七字か五〇字から成っており、それが「いろは歌」や五十音図の影響下に後世偽作されたことを示している。





神代文字肯定派の反論

一方この奈良時代の八母音説に対し反対する意見もある。松本克己は、奈良時代の八母音は、漢字という書記法が日本語の発音を微妙に書き分けたことによる一種の虚像であるとして批判し、また、国語学者の森重敏は文法論と語構成の立場から奈良時代の八母音説を否定している。
また、佐治芳彦は、平田篤胤の門弟たちが収集した岩窟や石窟に残っている神代文字(ペトログリフ)について、山田・大野両氏が言及していないことを批判している。



日本人自身が8母音を認識してないとすれば、あいうえお の5音表しかつくらないでしょうね。

すくなくとも平安時代の仮名文字成立時には、すでにほとんど認識していなかった。




1102秦野北斗:2013/01/24(木) 21:19:25
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
管理人さんへのお返事です。

まあ文章は背景が理解できないと内容も理解できないもんですな。

気になるのは、疫病

> あるいは遷都したとか、崇神時代の疫病で大和の皇族は死に絶えたとか・・。

崇神時代の疫病ですが、ユダヤと切り離せないペストでないか?


> > 『新唐書』日本伝
> >
> >  仲哀が死に、開化の曾孫娘の神功を王とした。次は應神、
>
> おそらく中国側は、神功を皇后ではなく、王とみなしていたので、その出自を記載したのだと思います。
> 「欽明之孫女雄古立。」のケースと同様ですね。皇后紀で伝わっていたはずなのですけど、王とみなした背景は如何。
>
>
> 神功は近江の息長氏系で開化の子・彦坐王の系譜に加えられていますね。
>
> 妃:息長水依比売(おきながのみずよりひめ。天之御影神の女)
> 丹波道主王(たにわのみちぬしのみこ、旦波比古多多須美知能宇斯王)
>   日葉酢媛命(垂仁天皇の皇后(後)・景行天皇の母)の父・三河穂別の祖
>
> この丹波道主王が、先日話したように、タジマモリで、天日矛系です。神功の母も天日矛系で、結局その辺を意識しています。
>
> タジマモリは、垂仁妃を出しますが、垂仁死後にその妃である自分の娘に常世国の長寿の菓子の半分を差し出します。皇帝の不老長寿を願うものです。
>
> ここで、女帝が見えてきます。
>
> 先の卑弥呼死後の開化・崇神=垂仁後の女帝、つまりイヨのことです。

> 年代推定がおかしいとすれば、大和・柳本古墳の年代を新しくするとか、佐紀を古くするいう手がありますね。
>
> あるいは遷都したとか、崇神時代の疫病で大和の皇族は死に絶えたとか・・。
>
> 西都原古墳群あたりは、ずっと3世紀から6世紀まで継続していた様子が伺える点で重要です。


1103管理人:2013/01/24(木) 21:47:45
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
秦野北斗さんへのお返事です。

> 気になるのは、疫病
>
> > あるいは遷都したとか、崇神時代の疫病で大和の皇族は死に絶えたとか・・。
>
> 崇神時代の疫病ですが、ユダヤと切り離せないペストでないか?


『三国史記』の新羅の193年に倭人が飢えてやってきた記載があるそうで、その時代の疫病に結びつけてますね。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5015377.html

http://blog.daum.net/hl2dus/16870533
新羅本紀第二
 「伐休尼師今  十年(193年) 六月倭人大饑。来求食」

193年6月には倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入したという。
在位13年にして196年4月に死去した。埋葬地は伝わらない。

崇神天皇5年(紀元前93年)、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。
崇神天皇6年(紀元前92年)、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。

思うに、1干支遅らせて、253年にすると、248年のイヨ即位から崇神摂政で5年目で、ちょうど崇神5年の疫病記載にあうでしょう。

ある時期の帝紀編纂者が三国史記まで読んでいた可能性はありますね。疫病だったかどうかはなんともいえませんが、伊勢にもいる月読と疫病神(免疫のほう)との関連はよく知られています。

宮中神を外に移動したり、斎宮への派遣関連は、その辺の兼ね合いで生じたのではないでしょうか。
後代の伝承も混じっているような気はしますね。

1104秦野北斗:2013/01/24(木) 23:27:05
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
管理人さんへのお返事です。

疫病は扶余の別種が持込んだもの・・。

名前のイリから、嵩神天皇(みまきいりひこ)ではないかとされる。
イリに付いて述べる。イリは伊里(利)は魏志倭人伝の暦韓国、白村江で群山(クンサン)
に成る。「慕容瘣に敗れた扶余王の依羅が、数千の民を率いて海を越え、倭人を平定して王となった」の倭人を平定して王は誰でしょな。言える事は新漢人(大漢国の人)でしょうな。

百済。元は扶余の別種、「慕容瘣に敗れた扶余王の依羅が、数千の民を率いて海を越え、倭人を平定して王となった」



朝鮮の古代史『三国史記』や漢の元号の異常な変更、確かに関連有りそうですね。
そうすると、中国や韓国で疫病犠牲者の遺体が見つかり、日本書記の記述との関連が
解明されるかも知れませんね。

しかし、崇陣天皇の実在を主張する人は在世が3,4世紀と言う人が多いのも難点です。
紀元後250年の箸墓古墳を卑弥呼=天照大神と主張する人もいるくらいですから。

さて科学的な視点では、遺体からの病原菌の検出は可能か?です。
最近、第一次世界大戦の終結の大きな一因となったインフルエンザのウイルスを
当時の遺体から
検出分析する話を聞きましたがその後何のニュースも有りません。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5015377.html

285年、鮮卑族の慕容廆に来襲され、扶余は国王の依慮が海に投身自殺するという潰滅的な打撃を受け、沃沮に避難する。
 286年、再び慕容廆が遼東を侵略するが、王子の依羅が西晋の援助で扶余国を再建した。
 この依羅には日本の王朝に関わる奇妙な伝承がある。「慕容瘣に敗れた扶余王の依羅が、数千の民を率いて海を越え、倭人を平定して王となった」というもので、名前のイリから、嵩神天皇(みまきいりひこ)ではないかとされる。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus/tungus-5-fuyo.htm

百済。元は扶余の別種。馬韓の故地にいたが、後に仇台は高句麗に国を破られ、百家で海を済(渡)る。ゆえに百済と号する。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus/tungus-5-fuyo.htm


1105管理人:2013/01/25(金) 21:49:02
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
秦野北斗さんへのお返事です。


> 285年、鮮卑族の慕容廆に来襲され、扶余は国王の依慮が海に投身自殺するという潰滅的な打撃を受け、沃沮に避難する。
>  286年、再び慕容廆が遼東を侵略するが、王子の依羅が西晋の援助で扶余国を再建した。
>  この依羅には日本の王朝に関わる奇妙な伝承がある。「慕容瘣に敗れた扶余王の依羅が、数千の民を率いて海を越え、倭人を平定して王となった」というもので、名前のイリから、嵩神天皇(みまきいりひこ)ではないかとされる。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus/tungus-5-fuyo.htm
>



疫病の件はさておき、また扶余の件を調べていくと、興味深いことが多くありますね。


 麻余が死に、その子の依慮(イロ)が六歳で王に立った。
 漢代、扶余王は葬祭に用いる玉匣(宝物箱)を常に玄菟郡に預け、王の葬儀があれば取りに来た。公孫淵が誅伐されたとき、玄菟郡治の庫には、なお玉匣の一具が保管されていた。今の扶余の庫には玉璧・珪・瓚など先祖伝来の遺物があり、伝家の家宝である。古老は、先祖が下賜された印璽には「濊王之印」と彫られているという。国内に濊城という名の古城がある。濊貊の故地で、扶余王は濊城にいると、まるで亡命者のようだと言った。そもそも有りえる話である。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus/tungus-5-fuyo.htm


このいわゆる王が位を継ぐときの「玉璧・珪・瓚」、日本でいえば三種の神器、が、なぜか玄菟郡に預けて、わざわざ王が死ぬたびに取りにきた理由が気になります。これらは、中国の皇帝が諸侯に封じた際に与えるもので、それで中国からの亡命者のようだと表現する意味もわかるでしょう。

この手のものは、墓に葬るケースとそうでないケースがあるようですね。王の継承に深く関係します。
葬儀の際に、とりにきて、正式に「諸侯」であることを、次の王が臣下に見せつけることで、継承が行われたのでしょう。


扶余の習俗をみていくと、日本のそれと明らかに共通性が多いのですが、

夏季は皆、氷で腐敗を防ぎ、人を殺して殉葬する。多いときには百を数える。手厚く葬り、墳墓には槨(木組みの墓室)はあるが棺(かんおけ=石棺)はない。

百の殉死記載が卑弥呼のそれと類似しますね。木槨はあっても、棺桶がないのも、
長期間のモガリの間中、氷で腐らせないで、周囲に見せつづけることと関係するかもしれません。氷を入れる・・・。


殷暦の正月には天を祭り、国中が大いに会し、連日、飲食と歌舞に興じる。

殷暦つまり暦をもっている。周暦のこと。

。戦国時代の各国で独自の四分暦が造られ、これらを戦国四分暦という。この頃、年始について三正(夏正・殷正・周正)という考え方が生まれた。夏暦・殷暦・周暦というものがあったとされ夏暦では年始が冬至の2月後、殷暦では冬至の1月後(つまり夏暦の12月)、周暦では冬至の月(夏暦の11月)とし正月が王朝交替ごとに変更され、夏正→殷正→周正→夏正→…と循環されてきたとした。これを受けて周に次ぐ王朝をめざす戦国各国はほとんどが夏正を採用していたが、秦の顓頊暦のように10月を年始とする暦もあった(ただし、正月・2月・3月といった月の配列は夏暦に従っていた)。秦の中国統一により顓頊暦の10月歳首が採用されたが、漢の太初暦改暦以降、夏正が採用され、現在の旧正月もこれを踏襲している
http://ja.wikipedia.org/wiki/


この暦を、馬韓が、倭も使っていた可能性を感じますね。

殷暦の計算自体は結構複雑で、少なくとも数字と干支を記録する技術が必要。
http://www.massangeana.com/mas/koyomi/koyomi3.txt

紙の発明は漢代でそれ以前は木材等に記録。

問題は、どんな文字をつかっていたかですが、漢字の篆書体が有力でしょう。

ただ上記のように、遊牧民系の文字を使った可能性もある。

匈奴はスキタイ系。

古学による起源 [編集]
スキタイは近年、東方起源説が有力になっている[2]。スキタイと匈奴については、墳墓の出土品(金製品など)から漢(中国)−匈奴(ブリャーチャ)−サルマタイ(西北カフカス)の間に交易が行われていたする[3]。


ただ、日本の日文は、平田篤胤の本によれば、壱岐の卜部氏系や、九州肥人に伝来し、どうも「思兼神」つまり中臣氏の祖の発案の伝承があり、九州の新漢系氏族が持ち込んだようです。後に白鳳時代までに仮名文字として導入されたアラム語系文字のようです。送り仮名などの用法が、アラム語とゾグド語の組み合わせで当時交易商人がもちいていたタイプのそれで、日本にそのまま導入。7世紀前に仮名文字になります。その思兼神が発案したのが、天岩戸祭祀で、おそらくキリスト教の祭祀です。


名を迎鼓といい、この時は法の執行を断ち、囚徒を解く。国に在っては、衣は白を好み、白布の大袂(広袖)の袍(外套)・袴(はかま)、革鞜を履く。国を出るときは、飾りを縫った絹布の錦(にしき)や毛織物を好んで着る。大人は狐狸、狖白(尾長猿?)、黒貂(テン)の皮衣を加え、金銀で帽子を飾る。

恩赦があるのも、法治国家の特徴で、金銀の帽子、つまり冠のようなものを製造できる技術があったでしょう。隣接した洛陽北部の「白羊」が、同様な金冠をもっていたようです。元は西域遊牧民系技術。白装束、袴なども日本と同じですね。



あと、語音的には、扶余王の「尉仇台」は、中国側では「位宮」と記されていますね。「タイ」音が抜けています。
「邪馬台」「一大」 といった「台」は、小さく早口で発せられたのではないでしょうか。
倭語の「イ」が後に抜けるという先の指摘ですね。「ウとかユ」に近くなるのか。
「スキタイ・アオルサイ・ゲッタイ・サウロマタイ」の「タイ」音。


1106秦野:2013/01/26(土) 09:23:20
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
管理人さんへのお返事です。

高句麗、扶余は阿残で遼東に住む許可を得ていた模様。「台」ではない。


「邪馬壱:やまと」と「邪馬台」、「一大」を説明する。今の所ですな。

「邪馬壱:やまと」は扶桑国では大漢国。中国史籍の邪馬台の位置と一致する。これから「大漢国、邪馬壱」は「やまと」。魏志倭人伝の邪馬壱は呉音表記で「やまと」になるが、現在は壱の「と」は失われたのだろう。

「邪馬台」は『隋書』倭国伝では「邪馬台」を「都は邪靡堆(ヤマタイ)、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。」で漢音表記ですな。

「一大」は一大率だろう。言える事は秦野北斗著書、徐福と邪馬台国で説明している。詳細な地図を書いてある。女王国は北方(中部地方)から九州の筑紫、対馬、壱岐に及んでる。
尚、女王国は扶桑国では女国に成っている。

女王国の北方の諸国には「一大率(或るいは一支率)」という官が置かれて国々を監視している。一大率は伊都国にあり、


> あと、語音的には、扶余王の「尉仇台」は、中国側では「位宮」と記されていますね。「タイ」音が抜けています。
> 「邪馬台」「一大」 といった「台」は、小さく早口で発せられたのではないでしょうか。
> 倭語の「イ」が後に抜けるという先の指摘ですね。「ウとかユ」に近くなるのか。
> 「スキタイ・アオルサイ・ゲッタイ・サウロマタイ」の「タイ」音。

 『後漢書』高句麗伝

武帝滅朝鮮、以高句驪為縣、使屬玄菟、賜鼓吹伎人。其俗淫、皆絜淨自喜、暮夜輒男女群聚為倡樂。好祠鬼神、社稷、零星、以十月祭天大會、名曰「東盟」。其國東有大穴、號?神、亦以十月迎而祭之。其公會衣服皆錦繍、金銀以自飾。大加、主簿皆著幘、如冠幘而無後;其小加著折風、形如弁。

 武帝が朝鮮を滅ぼして、高句麗を県とし、玄菟郡に帰属させ、鼓吹の奏者を賜る。
 その風俗は淫、皆が清潔に洗浄することを自らの喜びとし、日が暮れて夜になると男女が集まって歌や音楽に興じる。鬼神、社稷、零星を好んで祀る。十月には大いに会して天を祭る、名を「東盟」という。その国の東に大きな洞窟があり、それを隧神と号し、また十月を迎えると、これを祭る。
 そこの公の会合では衣服に皆、錦糸の刺繍と金銀を飾り付けている。大加と主簿は皆が幘(さく)をかぶる。小加は冠幘(御幘冠)のように後部の飾りがない折風(せっぷう)帽子をかぶるが、形は花弁のごとし。


1107管理人:2013/01/26(土) 21:12:18
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
秦野さんへのお返事です。

ちょっとまた崇神の年代について考えてます。

どうも最近の研究だと、現行の崇神陵あたりは4世紀前半にもっていくようですね。それ以前の大和・柳本古墳群も、3世紀後半へもってきています。

それでその後の4世紀後半からの佐紀・馬見古墳群へ接続し、4末〜5世紀の河内王朝へと移行する流れを想定しているようです。

それで三角縁=大和・柳本、巴型銅器・石訓などの石製品=佐紀、甲冑=河内王朝という比較構図が指摘されています。


そうすると、先の大彦系南方航海集団が大和を占拠したのが、佐紀・馬見の時代で、4世紀中葉ということになるでしょうか。確かに、この佐紀古墳群は、その前後の偏角のある方位区画や方位ラインにはいっさい関係してこないんです。明らかにそれ以前の古墳群とは違う測量方式をとっています。測量道具であった三角縁もこの佐紀からほとんど出てこないのはそのせいでしょう。

日葉酢媛関連の話は、天日矛の関係で、崇神・垂仁の死後に入ってくる神話群ですね。大彦の時代。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

部分的には崇神・垂仁・開化の話もこの4世紀中葉ごろの伝承を含んでいるかもしれません。

ただ、やはり卑弥呼・イヨの時代から大きく空いてしまうんですよね。


その後武内の時代になって、再度三角縁が測量道具として使われ奈良に−1度偏角方位区画をつくり始めるのではないかと感じますが、その後の河内王朝の時代にはもう使われなくなります。ここの時代を武内・仲哀(倭武)・神功の時代とすれば、次の河内王朝の時代の前の伝承となり、整合性がでてきます。

それで、秦野さんご指摘の大漢、つまり穢人の件ですが、半島に5世紀前半に流入してきます。甲冑をつくる技術をもっていて、一部は早めに渡来する。メインは6世紀前半にやってきます。

さきの筒型銅器の半島での出土は、4世紀前半から5世紀初頭までだそうです。巴型銅器をもたらした集団が上位集団で、筒型銅器は下層集団とのこと。

巴型銅器は九州系で、弥生時代から半島と行き来してたでしょう。九州・大彦系の象徴だったかもしれません。天日矛系も間接的にかかわってくるでしょうか。

蓋(きぬがさ)型埴輪というのが日葉酢媛陵から出土してます。

トルほどに土を盛って小さな円形の盛土を造り、その上に7 - 8個のキヌガサ形埴輪と数個の盾形埴輪を立てていた。とくに土檀中央の最高所に立てられたキヌガサ形埴輪は大きく、稀に見る丁寧さで作られていた(高さ1.5メートル、横幅2メートル)。キヌガサの上部には、複雑な直弧文が一周しさらに四個の突出した部分(ヒレ)をも直弧文で飾っていた。盾形埴輪も丁寧な作りで木製の盾を模したものと推測され、周縁全部と中央の二本の横帯をやはり直弧文で飾っていた。なお、盾形埴輪は高さ108センチメートル、最大幅80センチメートルである。これらの一部は石膏模型にされて東京国立博物館(当時は帝室博物館)に残されている[7]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

どこか南方系ですね。

やはり石製腕飾り類は車輪石3、鍬形石3、石釧1があった。

が南方系の感じがします。

衣笠は高貴な人の持ち物とされています。

高句麗古墳群に、似たような笠の絵があります。

乙女山古墳からも蓋型埴輪がでています。

http://74589594.at.webry.info/200808/article_22.html


それで先の筒型銅器ですが、槍を入れる入れ物との見方と、儀丈用の棒の上に取り付けたものとの見方があるそうです。高句麗古墳壁画にみえるような笠ですね。

三角縁の時代だと、黄幢つまり笠松模様でしょう。塩椎、椎根津彦、タケミカ椎の椎で、蓑笠姿の老人の蓑笠か。

下記のサイトに興味深い説明があります。

使持節二千石以下を殺すことを得。つまり、軍の長官の「太守」をも、殺すことができる大きな権限を持つ。
持節官位なき人を殺し、若し軍事ならば使持節と同じきことを得。
仮節唯軍事にのみ軍令を犯す者を殺すことを得。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku245.htm


筒型銅器が、円墳が多く、半島系に加えて、古墳に1〜2本くらいででてくるのは、槍が一緒に出土しないなら、やはり上記の儀丈用具とみるべきかもしれません。

それで身分の高い人は、巴型銅器になるか・・・。

吉野ヶ里から巴型銅器をつくった型がみつかっているので、そうすると、自前で臣下の「持節」たちに配った可能性もありそうですね。

その統率システム下に、上記の日葉酢媛の父・タジマモリや、大彦系の呉・南方航海集団が属していた。

だから日葉酢媛陵から蓋型埴輪が出てくる。やはりタジマモリは崇神王朝の後、新王朝をたてたので、娘の日葉酢媛に不老長寿の薬をさしだし、前王朝の垂仁陵に半分それを貢納した。

しかし、しばらく天日矛系は、畿内に入れず足止めされるので、その間畿内を率いていたのは、そうすると大彦系ではなく、その前の崇神系だったとなるでしょうか。大和に入るのに争いがあったかもしれません。神武の話か。

大彦・武ヌテ河(倭武)・タジマモリつまり丹波道主王はそうすると、あまり双方大差がなく九州・半島系だったということになるのでしょうか・・。カヤや南方呉人系文化と接点がある。

後に別系統の半島系の吉備津彦・武内が彼らを征伐する。彼らも半島系のはずですが、少し異なる。百済・秦韓系。

それらに対して、先に入っていた崇神・垂仁系のイリ王朝があったことになりそうですね。

ただ、このイリ王朝の時代に、5度偏角方位区画と後の7度偏角方位区画との区切り、つまり都城区画の立て直しがあったはずなのですが、この境目の年代となるのが、中山大塚古墳、椿井大塚山古墳で、魏年号銘鏡をしばらく伝世したのち?に、これらの7度偏角に葬ってます。後の崇神陵や乙女山、秋津遺跡あたりは、7度偏角の都城区画の古道にそって構築されたのでしょう

この年代を、いつにもってくるか?が課題ですが、欠史・箸墓・桜井・黒塚・西殿塚・マキムク遺跡の時代までは5度偏角で、その後に転機がきます。

238年に年号銘鏡をもらった世代の墓で、死ぬまでに30年前後あったと仮定しても270年ごろ。
伝世すれば、もっと後でも大丈夫ですね。

記紀的には孝霊・孝元と開化の時代の王朝交替の後、一時、春日にいって、また大和に戻って崇神の時代になる。

垂仁の時代には、もう天日矛もはいってきて、殉死の禁止・円目王がでてきて・伝承的には4世紀中葉。

崇神の伝承も同類で、やはり系譜面でしか、3世紀当時の様子は追えないかもしれませんね。

何かこの間に一つ知られてない転機があったように感じます。それで上記の区切りができる。
同じ系統の測量をする集団でありながら、都を作り直している。

神話で追うべきですね。大国主(孝霊・元)・天穂日・其の子、大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)またの名は武三熊之大人(たけみくまのうし)・天若彦(開化)・味耜高彦根神(あぢすきたかひこねのかみ)・フツヌシ・タケミカヅチ(崇神・垂仁?)・サルタヒコ・アマテラス


味耜高彦根神が、もしかすると、5度偏角と7度偏角の境になるかもしれません。両者よく似ている。

『出雲国風土記』によれば、幼い時、その泣き叫ぶ声が非常に大きかったので、静かになるまで船に乗せて八十島(日本)を巡ったり、高屋を作って梯子をかけそれを上り下りさせたりした。天御梶日女(あめのみかじひめ)との間に雨の神である多伎都比古(たきつひこ)をもうけたとしている。

これはもしかすると、全国を測量しにいったことの暗喩かもしれません。高屋は測量台とか神社。はしごが測量区画。

彼は天若日子の両親がつくった屋を怒って壊します。

鴨氏。御所市のはずれ。

ただちょっとこの辺むずかしいですね。神話解析の必要があります。

1108秦野北斗:2013/01/26(土) 22:06:15
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
管理人さんへのお返事です。

蓋型埴輪には驚きですな。これは、小型の製鐵炉の埴輪で、黒姫山古墳そのものですな。

甲冑、矢、剣の元の鉄は小型製鐵炉で製造していた模様。

炉は須恵器の大きいもので堺で製造されたのでは・・・。



> 蓋(きぬがさ)型埴輪というのが日葉酢媛陵から出土してます。
>
> トルほどに土を盛って小さな円形の盛土を造り、その上に7 - 8個のキヌガサ形埴輪と数個の盾形埴輪を立てていた。とくに土檀中央の最高所に立てられたキヌガサ形埴輪は大きく、稀に見る丁寧さで作られていた(高さ1.5メートル、横幅2メートル)。キヌガサの上部には、複雑な直弧文が一周しさらに四個の突出した部分(ヒレ)をも直弧文で飾っていた。盾形埴輪も丁寧な作りで木製の盾を模したものと推測され、周縁全部と中央の二本の横帯をやはり直弧文で飾っていた。なお、盾形埴輪は高さ108センチメートル、最大幅80センチメートルである。これらの一部は石膏模型にされて東京国立博物館(当時は帝室博物館)に残されている[7]。
>
> どこか南方系ですね。
>
> やはり石製腕飾り類は車輪石3、鍬形石3、石釧1があった。
>
> が南方系の感じがします。
>
> 衣笠は高貴な人の持ち物とされています。
>
> 高句麗古墳群に、似たような笠の絵があります。
>
> 乙女山古墳からも蓋型埴輪がでています。


1109棘の紀氏:2013/01/26(土) 23:28:21
仲哀天皇 4世紀の在位  熊鰐筑紫の 岡県主の祖
熊鰐と神武天皇  http://www.geocities.jp/oden1947/149-1.html
実は、伊那谷、大御食神社の 古代文字で書かれた社伝記にも、
『 ・・・中沢の 熊鰐(くまわに)に 山の 麁物和物(あらもの にぎもの)を菜らしめ・・・ 』とあります。  史郎ホームページ[外部リンク]
もし日本書紀の熊鰐 と 社伝記の熊鰐 に 共通するものがあるとしたら 何だろうと、調べ始めました。
伊那谷には、他にも 九州の神様が多く祀られたり、壬申の乱での存在、また、馬肉を食べる習慣や、古墳から出る馬具が、九州の熊本と 酷似していることなど、興味深い事が多くあります。


1110秦野:2013/01/27(日) 01:29:53
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001134M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001134_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001134_3M.jpg

管理人さんへのお返事です。


蓋型埴輪には驚きですな。これは、小型の製鐵炉の埴輪で、黒姫山古墳そのものですな。

甲冑、矢、剣の元の鉄は小型製鐵炉で製造していた模様。

炉は須恵器の大きいもので堺で製造されたのでは・・・。



> 蓋(きぬがさ)型埴輪というのが日葉酢媛陵から出土してます。
>
> トルほどに土を盛って小さな円形の盛土を造り、その上に7 - 8個のキヌガサ形埴輪と数個の盾形埴輪を立てていた。とくに土檀中央の最高所に立てられたキヌガサ形埴輪は大きく、稀に見る丁寧さで作られていた(高さ1.5メートル、横幅2メートル)。キヌガサの上部には、複雑な直弧文が一周しさらに四個の突出した部分(ヒレ)をも直弧文で飾っていた。盾形埴輪も丁寧な作りで木製の盾を模したものと推測され、周縁全部と中央の二本の横帯をやはり直弧文で飾っていた。なお、盾形埴輪は高さ108センチメートル、最大幅80センチメートルである。これらの一部は石膏模型にされて東京国立博物館(当時は帝室博物館)に残されている[7]。
>
> どこか南方系ですね。
>
> やはり石製腕飾り類は車輪石3、鍬形石3、石釧1があった。
>
> が南方系の感じがします。
>
> 衣笠は高貴な人の持ち物とされています。
>
> 高句麗古墳群に、似たような笠の絵があります。
>
> 乙女山古墳からも蓋型埴輪がでています。




1111藤井游惟:2013/01/27(日) 05:35:20
Re: 白村江の戦い1350周年
http://www.youtube.com/watch?v=R1EBZ7pYCEE

http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1112藤井游惟:2013/01/27(日) 06:32:45
Re: 藤井游惟さんへのお願いです。
棘の紀氏さんへのお返事

棘の紀氏さん、初めまして。
こちらこそ宜しくお願い致します。<(_ _)>

「棘の紀氏」は「イバラノキシ」と読むのでしょうか? すると茨城県か大阪の茨木氏の方?(^^)

> 藤井さん初めまして 宜しくお願い致します。
> 「日本は古代ユダヤだけでなく、古代アッシリアなどを合せた現在のイスラエル・イラク・シリア・ヨルダンに相当する領域に日本の原点のかなりの部分があると思います。」
> ↓ご意見を御願いします。

このところ仕事が忙しく、12日間休みがなかったので、お返事が遅くなり、申し訳ありません。

さて、「日ユ同系説」を言語学の側から立証するのは、
大野晋の「タミル語説」を立証する以上に困難だと思います。

2つの言語が同系かどうかは、言語面だけでなく、
地理・歴史・考古学・遺伝子人類学等のあらゆる角度から検証していかなければなりません。

2つの言語に含まれる単語が表面的に似ていても、それで両言語が同系だということにはなりません。
例えば
「ザ・シュートはラディカルなコンセプトでナウいサウンドをクリエイトするスーパーユニットである」
という文は、単に外来語を多用した「日本語文」であって日本語と英語が同系であることの証明にはなりません。

「日ユ同系説」の最大の問題は、日本人とユダヤ人は遺伝子人類学的に異なるということです。
言語は遺伝形質ではなく獲得形質ですから、遺伝子的に異なる民族が同じ言語を用いていることはありますが
(例えば、アメリカでは白人と黒人が同じ言語を話しています)
遠く離れたところに住む民族が同じ言語を話している歴史的経緯が解っていない場合は、
両者の遺伝子的なつながりが最大の手がかりになります。

例えば、マダガスカル島の北部に「マラガシー」という言語を話す民族がいますが、
このマラガシーは、アフリカ系の言語ではなく、インド洋の対岸のインドネシア系の言語であり、
いまでもインドネシア人と話をしても多少通じるそうです。
そして、インド洋の海流や風向などを調べれば、
インドネシアから出発した船がマダガスカルに漂着する可能性は十分あり、
何より、マラガシー人とインドネシア人は遺伝子的に近いのです。
要するに、マラガシー人は何時の時代かに意図的にか、偶然にか
インドネシアから海流と風に乗ってマダガスカルに漂着したインドネシア人の子孫なのです。

しかし、日本人とユダヤ人は遺伝子的に遠く、
また紀元前2000年頃からユダヤ・イスラエルの歴史は解っていますが(その頃日本は縄文時代)、
日本人とユダヤ人がどこかで大規模に接触したという歴史的・考古学的証拠もありません。

何故遠く離れたところに住み、
遺伝子的にも遠い日本人とユダヤ人が同じ言語を話している理由を説明できない限り、
私は「科学者」として「日ユ同系説」を支持することはできません。
ただ、「事実は小説よりも奇なり」ということがありますので、
今後これらのことが解明される可能性もないとは言えませんので全面否定はしませんが。

むしろ、大野晋のタミル語説の方は、五分五分ぐらいの可能性はあると思っています。

私は、日本語の起源についても独自の仮説を持っており、
日本語は日本に稲作・金属器文明をもたらし、弥生時代を開始した渡来人の言語ではなく、
12000年以前の氷河期に、地続きだった朝鮮半島(朝鮮地峡)経由で日本列島(日本半島)に入ってきて
糸魚川−浜松以西、琉球に至までに広がり、その後の海面上昇によって日本列島に取り残された、
「南方系縄文人」の言語だと考えています。
(糸魚川−浜松以東、北海道までに住んでいたのは、樺太経由で入ってきたアイヌ祖語を話す北方系縄文人)

この説は「考古学を科学する会」等で何度か発表しており、次に出版する予定です。

では、この日本祖語を話す「南方系縄文人」はどこから来たかといえば、
氷河期終結と共に海に沈んだ東南アジアの「スンダランド大陸」ではないかと思われ、
実際、考古学的にも南方系縄文人(特に琉球人)の骨格はスンダランド周辺の人間の骨格に近いといわれています。

このスンダランドに住んでいた同じ言語を話す民族が何らかの理由で分裂し、
一方は北上して日本列島に住み着き、一方は船に乗って西に向かい、南インドに住み着いた、
と考えれば、日本語とタミル語の関係は説明できます。
但し、この仮説も日本人とタミル人が遺伝子的に近い、ということが証明されなければ、
歴史学的・考古学的に検証することはむずかしいので、五分五分程度の可能性だと思います。

ただ、「日ユ同系説」も、宗教用語に限れば、
日本の宗教用語にヘブライ語起源の単語が数多く混じっていることは考えられます。

A.D.1世紀にローマによってパレスチナを追われたユダヤ人の一部が、
どういう経路をたどってか中国から朝鮮半島、日本にやってきた。
当時の日本は弥生時代が始まったばかりの文明後進国、
当時の世界最先端の科学技術を持ったユダヤ人は神様に見えたはずで、
彼らを神様、或いはその代理人と見なし、その宗教用語をとりいれた、
という筋書きです。

とにかく、私は「学者」ではなく「科学者」ですので、
ちゃんとした仮説構成体と、それを立証する客観的証拠がない説に肯首することはできません。



http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1113管理人:2013/01/27(日) 13:56:38
Re: 彌彌は「投馬国」の官名です。
秦野さんへのお返事です。


>??蓋型埴輪には驚きですな。これは、小型の製鐵炉の埴輪で、黒姫山古墳そのものですな。
>
>??甲冑、矢、剣の元の鉄は小型製鐵炉で製造していた模様。
>
>??炉は須恵器の大きいもので堺で製造されたのでは・・・。
>
>
>
なるほど縦型の炉があったとすると面白いですね。

とりあえず、先日の福岡の西新町遺跡の炉ですね、ちょっと報告書を見る機会があったのですが、住居跡から横倒しのような形で伸びているのが確認できます。古墳時だのそれと似たタイプですね。徳島市とマキムク遺跡にもあります。

http://inoues.net/ruins/nishijin.html

西新町遺跡からは、朝鮮各地の土器も見えるそうで、ある種の交易ルート拠点だったようにも見えます。

そう考えていくとマキムクという地域は、ただの東西路にある市ではなくて、やはり唐子・鍵に隣接する黒田宮時代の後の、崇神朝あたりに、宮廷工房た宮殿が置かれていた可能性を感じますが、それ以前の市と炉付き施設との接点が見いだせるかどうかも課題です。

少なくともガラス玉とか、土器は焼けたでしょうから、それをそのまま市で売ったり交易商人がもっていくという具合でしょうか。でも製鉄をした事例も確認されているようで、製鉄となると目的も変わってきますね。

それなりに、マキムク周辺に宮を置いた記載が多いのにも理由があるのかもしれません。三輪山信仰との関わりでしょうか。本来は田原本町あたりに都をおくのがベストのはずですが、どういうわけか開化も崇神も山辺道方面に宮を置くのが気になりますね。水はけの問題とか、信仰上の理由とか・・。後の飛鳥時代になると南に起き始める。



1114管理人:2013/01/27(日) 14:10:46
Re: 仲哀天皇 4世紀の在位  熊鰐筑紫の 岡県主の祖
棘の紀氏さんへのお返事です。

> 熊鰐と神武天皇  http://www.geocities.jp/oden1947/149-1.html
> 実は、伊那谷、大御食神社の 古代文字で書かれた社伝記にも、
> 『 ・・・中沢の 熊鰐(くまわに)に 山の 麁物和物(あらもの にぎもの)を菜らしめ・・・ 』とあります。  史郎ホームページ[外部リンク]
> もし日本書紀の熊鰐 と 社伝記の熊鰐 に 共通するものがあるとしたら 何だろうと、調べ始めました。
> 伊那谷には、他にも 九州の神様が多く祀られたり、壬申の乱での存在、また、馬肉を食べる習慣や、古墳から出る馬具が、九州の熊本と 酷似していることなど、興味深い事が多くあります。
>

先の「天穂日・其の子、大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)またの名は武三熊之大人(たけみくまのうし)」の件ですね。

おそらく「背く」の語からして、忍熊王との関係が気になりますが、タギシミミとか武埴安彦の乱との兼ね合いもあるかと感じます。仲哀も熊襲の矢で殺された話もあって、熊が球磨を意味したかどうかも気になるところですが、同族でありながら、復命しないで反した皇族という構図がみてとれます。「飯」が出雲振根と飯振根の話ともかかわりそうで、飯降根は、出雲降根に殺されますね。航海民系の大彦の大と飯の発音が関係します。


そうすると、この大背飯三熊之大人は、やはり4世紀代の伝承を元にしていると考えるべきでしょうか。


1115管理人:2013/01/27(日) 14:50:57
Re: 白村江の戦い1350周年
藤井游惟さんへのお返事です。

> 松本氏、及び「松本異音説」が「トンデモ」だということが理解できない国語学者達の
> 「条件異音」の理解は「不十分」などという生やさしいものではありません。
> 彼らは、一度もどこかでキチンとこの概念を教わったことがなく、
> 学術用語の「allophone」を「異音」、「conditional allophone」を「条件異音」と漢字で訳すことから、
> 「異音」「条件異音」という言葉が醸し出すイメージから勝手な理解をしているだけです。
>
> 例えば「異音」とは「変な音」「変わった音」だと解釈し
> 江戸っ子が「ベランメエ」と啖呵を切る時に、/ラ/の舌がプルプル震える現象(トリル)
> を異音(allophone)と勘違いしている。
> (当該音素・音節の標準的発音からはみ出した変な音は、
> 文字通り非標準的発音(non-standard pronunciation)、簡単には「訛音」と言います)
>
> 「条件異音」とは「条件的に音が変化する現象」だと解釈し、
> 「アメ+カサ→アマガサ」「シロ+カワ→シラカワ」のような意味の変化を伴わない
> 他の音素・音節への「音韻論的条件的変異現象」(phonemic conditional variation)
> を条件異音(conditional allophone)と勘違いしている。
>
> 「異音(allophone)とは、当該言語のネイティブスピーカーの耳には『同じ音』にしか聞こえない範囲で異なる音」
> ということは、この「キムチ・ムルギムチ」のビデオのようなものを見せて説明すれば
> http://www.youtube.com/watch?v=R1EBZ7pYCEE
> 言語学に関して全くの素人でも「実感として瞬時に理解できる」のであり、
> こんな初歩的概念1つ理解してない言語研究者は、
> 「音声学ちゅうもんを基礎の基礎から勉強し直してこい!」と頭ごなしに怒鳴りつけるだけの問題です。
>
> 「松本氏の条件異音への紹介・提案を発展」などさせたら、私が世間の笑い者になります。
>
>

そう、ここですよね。当事者にはあまりにも当たり前のことが、エリート学者たちにはまったく理解できないという謎のジレンマです。


この辺は、英語の授業にも似てますね。科学英語を理解するくらいのエリート学生が、まったく子供レベルの会話も聞き取れない構造、この辺が藤井さんの事例にも当てはまるのではないでしょうか。

「ドとミの間の音はレ」のような、ミュージシャンなら誰でも理解してあまりにも当たり前すぎて話すのもばからしくなることが、その音の世界を知らない人にとっては、「ドとミの間にある799ヘルツの音域帯にあたる音で云々」という説明になって、それがその世界の通説となってしまう構造、おそらく藤井さん専門の「条件異音」についても、国文学者の理解には、そういう部分があったのではないかと思います。

そして藤井さんの本を、韓国人や中国人の学者に読ませると大絶賛されるのに、日本の学者にはまったく理解されないという具合でしょうか。

この手の話は、それらの学者さんに「〜ヘルツで云々」と100年話しても理解されないことで、実際に自分で1度体験させて納得させるしか方法がないようにも感じます。動画の説明手段はそれに近い方法だと感じますね。

この辺は方位ラインの話でもそうで、こちらは電子地図ソフトで古墳を数メートル単位まで拡大して、角度を正確に計って「正方区画」だとっているのですが、やはりそのような遠い距離を正確にはかれるはずがないという先入観が横たわっていて、「妄想」として排除されることもしばしばです。

さらにいえば、古代日本文化とキリスト教の関わりですね。私も事情あって最大メジャーな教会信徒ですから、数百回となく聖書とか儀式にあたっていて、彼らの考え方なり観念なりがよく理解できているので、記紀伝承や儀式をみると、すぐにその影響を見て取れるのですが、ただ確かにその世界を体験した人でないと、それがどういう風に影響したのかを直感的に把握することは難しいかもしれません。

外国人がこれらを見れば、あまりにも当たり前な部分、それが日本でも藤井さんの説を理解できないような、視野が狭い分野の専門家にとっては、まったく非常識な考え方と理解されてしまうのかもしれません。この辺は、もっと大きな問題、つまり語学教育とか、教員養成の件とも関わってくるでしょう。

最近もわけあって外人と1ヶ月くらい話す機会があったのですが、あっという間に聞き取れるようになって、それまで理解できなかったような英語の構造そのものも理解できるようになったりすることがありました。

それまで数十年と英文読み続けて、英語ニュースとかも聴いたりしたのですが、どうあがいても聞き取れなかったものが、実際に「体験」することで、あっという間に理解できるようになるわけで、この手の音声面での理解を施すには、やはりある程度懇切丁寧に時間をかけて説明する機会が必要ではないかと感じます。

渡来人研究会の役割は、その「日本だけ・特定の専門家だけ」の視点から脱して、より広い視点を提供することに意義があります。そしてより実践的なプラグマティズムを推奨し、その機会を例会や探索会、会報発行を通して提供することにあります。今年は藤井さんの本が理解されるように、さらに効果的な説得方法を模索してみたいと感じますが、やはり地道に支持者を増やしていくのが、結局は近道と感じますので、めげずにがんばりましょう。

それでその後の言語関連のご投稿の件は、またあとで返答いたします。


1116管理人:2013/01/27(日) 23:23:22
Re: 白村江の戦い1350周年
藤井游惟さんへのお返事です。


> 全ての歴史研究者が私の説を確信すれば、歴史学への応用は限りなく広がります。
>
> ?私の「『記紀万葉』外国人記述説」に抵触する歴史学説は全て修正・廃棄を迫られます。
>  例えば「古事記偽書説」は完全に否定されます。


この件は重要です。最近も万葉で古代史本を出している売れっ子作家がたくさんいますから、やはりある人はさらに力を得るでしょうし、またある人は・・・ですね。
藤井さんの本をそういう作家さんのところにもっていってみてはいかがでしょう。

> ?逆に私の説に合致する歴史学説は、その蓋然性が高まります。
>  例えば「日本書紀β群山田史三方記述説」の蓋然性は高まります。

ここも重要です。森さんの本は、すでに古代史学会でも読むことが必須になってきてますし、それなしで記紀を論じるという人ももういないでしょう。そこに藤井さんの新視点が入るということは、ダイレクとに記紀研究に影響するということです。


> ?「日本書紀α群」を書いたのは中国人そのもの(日本語は勉強したとしてもネイティブではない)のに対し
> 「日本書紀β群」を書いたのは(山田史三方かどうかは別として)、
>  日本育ちで、朝鮮語と共に日本語もネイティブとして話せるバイリンガルの人物だったはずであり、
>  故に「β群」の記事は疑ってかかる必要が生じます。
>
>  『日本書紀』の監修者である舎人親王が、政治的理由から記事の捏造や歪曲を執筆者に頼んだとしても
>   日本語を上手く理解できないα群の執筆者には細かいニュアンスまでは伝えられなかったはず。
>   しかし、日本育ちで日本語もネイティブとして話せるβ群の執筆者には以心伝心であり、
>   上手く捏造や歪曲ができたはずです。
>
>   特に聖徳太子関連の巻22はβ群にあり、聖徳太子の実在やその事績、厩戸皇子との関連に付いては疑ってかかる必要があります。
>   (同じことは、森博達氏も言っているようです)
>


ここも重要ですね。聖徳太子で本をだしている人が山といますから、やはり先のとおり藤井さんの見方によっては、大きく影響を受けることでしょう。


> > 亡命百済人云々はともかく、その条件異音の古代史面への理論的な応用ですね、
>
> 「条件異音説」の応用としては次のようなことが考えられます。
>
> ●「邪馬台国」は「ヤマト国」と読んでよい
>
> 古代史学界では、
>
> 「邪馬台」は/ヤマト/とも読めるが、この/ト/は上代特殊仮名遣いでは乙類であるのに対し、
> 「大和」の方の/ト/は甲類であるので、「邪馬台」と「大和」は別の言葉である
>
> という説が広く流布しています。
> 確か、高校時代に読んだ「日本の歴史第一巻」で井上光貞がそういっており、
> 2〜3年前に聞いた、大東文化大学の何とか言う教授の講演でもそういっていました。
>
> (但し、時代別国語学大事典で調べると、「大和」の方の/ト/も乙類であり、
> 国語学者はそんなことは言っていません。
> だれが、井上光貞や歴史学者にそんな説を吹き込んだのでしょうか?
> 上代特殊仮名遣いの研究がまだ進んでいなかった戦前に、
> 国語学者の誰かが「大和」の/ト/は甲類だと勘違いし、それを歴史学者に吹き込んだのかも知れないし、
> 或いは「大和」の/ト/は大概は乙類であるが、これを甲類で書いた資料も少数あるのかもしれません)
>
> いずれにせよ、「大和」の/ト/が甲類であったとしても、
> それを以て「邪馬台」とは別の言葉であるという根拠にはなりません。
>
> これは次のような実験をしてみればすぐ解ります。
>
> まず「大和朝廷」と言う言葉を5回繰り返して発音してください。
> 次に「戦艦大和」と言う言葉を5回繰り返して発音してください。
> (但し、標準語アクセントで)
>
> 「大和朝廷」の「ヤマト」はLHHアクセントとなり、/ト/は唇の開いた乙類となるのに対し、
> 「戦艦大和」の「ヤマト」はHLLアクセントとなり、/ト/は唇の窄まった甲類になります。
>
> つまり、「ヤマト」の/ト/はアクセントの違いで甲類にも乙類にもなるのであり、
> /ト/の甲乙を以て別の言葉と見なすことはできません。
> 歴史学者が言うように、「ヤマト」の/ト/を甲類で書いた資料があるならば、
> それは当時の方言によるアクセントの違いでしょう。
>
> このことは「邪馬台国畿内説」論者を力づけることになるかも知れませんが、
> 私自身は「邪馬台国九州説」であり、「福岡県山門郡」説を支持しています。
> あの辺りの方言では「ヤマト」は語尾上げのLLHアクセントになるはずですから。
>
> ただ、私は「邪馬台国論争」などに深く首をつっこむつもりはありませんので、
> この問題に関してはこれ以上聞かないでください。


これはすごいですね。ほんとにオの音が違う・・、素人でも実感できますね。

この「やまと」の語は、古代史特に魏志倭人伝関係の学会では、数分に1度が出てくる言葉ですから、これが、今までの常識では、まったく気付かない藤井さんの視点にさらされるということは、重要な意味を持ってきます。サポート的な形ででも、ぜひ関係の論議にこれからもご参加いただきたいところです。



> ●魏志倭人伝の地名・人名の問題
>
> 「邪馬台」を魏志倭人伝に出てくる日本語人名・地名の問題ですが、
> 日本語を聞き取り、漢字で音写したのが、中国人であったか、朝鮮人であったかが問題になります。
>
> 邪馬台国に中国語ができる日本人がいたとは考えにくく、
> また邪馬台国に使者を派遣した楽浪郡に日本語ができる中国人がいたとも考えられません。
>
> 但し、半島と頻繁に交流していた邪馬台国には朝鮮語ができる日本人はいたはずであり、
> 楽浪郡にも中国語ができる朝鮮人、朝鮮語ができる中国人ならいたはずで、
> 日本人と中国人の使者の会話は朝鮮語を媒介にして行われたと思われます。
>
> ?「朝鮮語ができる中国人」が自ら日本の人名・地名を聞き取り、漢字を当てたのなら中国式の借音仮名(仮借文字)、
> ?「中国語ができる朝鮮人」が通訳して聞き取り、漢字を当てたのなら朝鮮式の借音仮名です。
>

この辺は、まだ誰も考えたことないのではないでしょうか。考えても技術がないので分析できないですね。
でも誰かがやらないと学問は進まない・・・。


> ↓は、『日本書紀α群』(中国人記述)と『古事記』(朝鮮人記述)の両方に収録されている歌を
> 中国語(山東方言)で発音させたものです。
> http://www.youtube.com/watch?v=GrW9HbymQmo
> http://www.youtube.com/watch?v=SzYpL2HVN7I
>
> ↓は、同じものを朝鮮語話者に発音させたものです。
> http://www.youtube.com/watch?v=iqZJPPst63k
> http://www.youtube.com/watch?v=rxg-RV2OO18
>
> このように同じ日本語でも、朝鮮人と中国人の聞き取り方は異なるので、
> その差を計算に入れないと再現される日本語も異なってきます。
>
> ざっと見た感じでは、『記紀万葉』の借音仮名と魏志倭人伝の借音仮名の用字法はかなり異なるようなので
> 私は?ではないかと思いますが、詳しく調べてないのはっきりしたことは言えません。
>
> ただ、この問題にも私はこれ以上首をつっこむつもりはありませんので、興味があれば自分で調べてください。
> 上のように、中国人と朝鮮人に魏志倭人伝の人名・地名を発音させて比較すれば、案外簡単にわかるでしょう。
>


この件は「重訳」という言葉が、魏志に出てきます。通訳を重ねたという解釈もあるし、別の見方もあるのですが、ともかくどういう風にそれが行われていたかが課題ですね。

この辺の問題は、後代の渡来人、外交儀礼の問題とも関わってきます。

中国系朝鮮人か、朝鮮系中国人が、倭系バイリンガルか、それによって癖がことなり、時に政治を動かすくらいの問題に発展したりするという、その辺の視点も重要だと思いますね。藤井さんくらいしか解析できないでしょう。



> > まず森重は、体言において感嘆の際にいかなる助詞も付けないで単語がそのままで使われる時、助詞の代わりのような役目で単語の音韻そのものを「イ」音を加重させることがあると説いた。すなわち、「花」であればそれが「花よ」という形を取るのではなく「ハナィ」あるいは「ハィナ」「ハィナィ」と、母音そのものに「イ」を付け加えることによって表現することがあるというのである。ここからア段音にイを加重させたものがエに、ウ段音にイを加重させたものがイに、オ段音にイを加重させたものがオになり、それぞれ乙類と呼ばれる音になった[7]というのが森重説の要旨である。
> > 森重説でも最終的に日本語の母音体系は5母音であったとしている。すなわち、万葉仮名に見られる用字の使い分けは渡来人が日本語にとって不必要であった音声の違いを音韻として読み取ってしまったものだとするものである。森重はそれをあたかもヘボン式ローマ字が日本語にとって必ずしも必要な聞き分けでないsh, ch, ts, fなどを聞き取ったことになぞらえ、上代特殊仮名遣い中「コ」音のみが平安初期にまで残ったにもかかわらず、ひらがなにその使い分けが存在しなかった[8]ことなどを傍証として挙げている。
>
> 森重氏の「イ音加重説」はイ・エ段甲乙の説明にはなってもオ段甲乙の説明にはなりません。
> とにかく、拙著の第六章をご理解ください。
> 松本氏が提示したデータは利用していますが、松本氏や森重氏のデータ解釈など全く借用することなく、
> オ段甲乙の書き分けは説明できるのです。


確かにおっしゃるとおりです。

この辺の音の接続や伸ばしの問題は、ちょうどピアノやパイオリンの奏法に例えると、変調とか、打楽器音の追加とか、省略とか、そういうイメージと重なる感じがあります。そして奏法にも意識している場合と、勝手にそうなる場合がありますね。

条件によっては、音を追加しても減らしても似たような音が出るケースもありますが、基礎的な部分がぜんぜん異なるケースもあります。

> とにかく、私の説を歴史研究に応用したいのであれば、
> 歴史学者や考古学者はもとより、他の言語学者・国語学者などの言説に惑わされることなく、
> 私の「上代特殊仮名遣い外国人(百済人)記述説」に「確信」を持って頂くことが先決です。
>
>


ぜひ皆さんにも読んでいただきたいと感じます。

1117管理人:2013/01/28(月) 21:43:35
Re: 藤井游惟さんへのお願いです。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001141M.png

藤井游惟さんへのお返事です。

> 棘の紀氏さんへのお返事
>
> 棘の紀氏さん、初めまして。
> こちらこそ宜しくお願い致します。<(_ _)>
>
> 「棘の紀氏」は「イバラノキシ」と読むのでしょうか? すると茨城県か大阪の茨木氏の方?(^^)
>
> > 藤井さん初めまして 宜しくお願い致します。
> > 「日本は古代ユダヤだけでなく、古代アッシリアなどを合せた現在のイスラエル・イラク・シリア・ヨルダンに相当する領域に日本の原点のかなりの部分があると思います。」
> > ↓ご意見を御願いします。
>
> このところ仕事が忙しく、12日間休みがなかったので、お返事が遅くなり、申し訳ありません。
>
> さて、「日ユ同系説」を言語学の側から立証するのは、
> 大野晋の「タミル語説」を立証する以上に困難だと思います。
>
> 2つの言語が同系かどうかは、言語面だけでなく、
> 地理・歴史・考古学・遺伝子人類学等のあらゆる角度から検証していかなければなりません。
>


ちょっとまた論議に横やりを指すようで申し訳ないのですが、ひとつ面白い図を提供いたします。

こちらは、正距方位図法から、日本や朝鮮と、その他の地域の距離と方位を示した図です。

こうみると、実はゾグディアナから日本語の祖語とされる扶余に至までの距離と、インド・タミールからの距離は変わらないことがわかります。

ただインドの場合はチベット・ヒマラヤやマレー半島を迂回しないとこれないわけですから、むしろ遠いと言えるでしょう。

さらに、ゾグディアナ方面は車馬文化ですから、そのスピードもありますし、方角が一定になりますので、案外はやくスムーズにたどりついたことも予想できます。


そこで、藤井さんご引用の大野さんのタミール語・起源説を考えてみると、(これは藤井さんを批判しているわけではないのであしからず)、大野さんという大学者が、「インド・タミール!!」というと、みんな「いかにもそれはあり得ることだ!」とかんがえてしまうのですが、もし同じ大野さんが「いやゾグデイァナ・月氏説だ!」といえば、どうなるか?という部分があります。


実は、上記のように近いんです。そしてそのアラム語文化のほうが可能性も高く、合理的です。日本で一番多いHLAはプロタイプも、そのゾグディアナ系です。

問題は、要するに、「大学者さんが言っているから、そうに違いない」「もっともらしく聞こえる」というだけのこととだといえるでしょう。

それでキシさんご指摘の日ユ同祖論というのは、前に「悪い評判」が先行しすぎており、それでまず聴いた途端にもう拒否反応がでるようになっています。そしてその延長線上に、先のゾグド・アラム語起源説も、みなされてしまうでしょう。

ただ、実際には、アラム語系統のほうが、合理的で、可能性もあるわけです。

このような心理学的な偏見を、まず取り除くこと、そういうシステムの構築から始めないと、実は正しい論議や研究はできないでしょう。

これは、かつて戦後の先生たちが、皇国史観を打破するために、そういうシステムを構築しようと考えた節があるのですが、合理的・科学的で偏見のない研究をしてきたつもりでも、やはりそうでないことも多かったということが、上記のような件にもよく見られます。

特に日本人は「大教授の意見」に弱い。その辺が、実は藤井さんの研究が広まる際にも大きな障害となっていることに、気付く必要があるでしょう

そういう意味では、多角的な視点からの研究体制に加えて、その前段階としての「心理学的な公平性」について、再度考えなおし、新たな研究システムを構築していくことが先決です。

人間、24時間、常に合理的にロボットのように生きれるわけでもないし、そうなることを制度的に強制されているわけでもありませんが、強制されているように感じさせる何かが、うごめいていていて、その自由性を阻害しているわけです。別に10分くらい非合理的な世界に沈んだって、別にそれは個人の自由と尊厳の中にあります。

むしろ、ひとつの論文や投稿の中に、非合理的なページがすこしくらいあったって構わないわけです。どうせその残りも合ってるかどうかもわからないのが、実のところなわけですし、案外キシさんやみなさんの言っていることのほうが、正しいことも多いわけですから、あその辺のことも考慮しながら、楽しくやっていきましょう。




1118棘の紀氏:2013/01/28(月) 23:19:41
Re: 藤井游惟さんへのお願いです。
管理人さんへのお返事です。ソグディアナ(粟特) 人也因?商和其他原由居留 高昌
ソグディアナ(ラテン語名"トランスオクシアナ"。 中国名"粟特(ぞくとく)")と呼ばれた。 http://www.kobemantoman.jp/sub/152.html

粟特(ぞくとく)")
粟特人 也因?商和其他原由居留 高昌 http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,ezh_ja,bT,uaHR0cDovL3d3dy5oaXN0b3J5dGVhY2hpbmcuY24vbHNqeC9zaG93LmFzcD9pZD0zNjM=

高昌
トルファンのアスターナ古墳から発掘された「伏羲・女媧図」です。 http://blog.canpan.info/sekireki/archive/39
車師前国の王の朝廷がトルファン西方の交河城(ヤール・ホト)に置かれていました。
彼らは天山北部の遊牧民でしたが、その後、コーカソイド種の特徴を有し、その文化にはスキタイ・サカ(紀元前8世紀頃に現われた遊牧騎馬民族)以前に存在していたといわれるサルマタイ系統が入っていることが明らかになったといわれています。

車師とは? 漢代から北魏にかけて、西域にあった国。天山山脈の東部のトルファン盆地 に車師前王国が、その北方に車師後王国があった
紀元前一世紀、漢王朝が車師国と言うオアシス国家があった後に、 高昌壁を築き屯田兵を置いたのが高昌国の起源である。 http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/tabi16.htm
きくし 【麹氏】高昌(こうしよう)国の王家の姓。


>
> こうみると、実はゾグディアナから日本語の祖語とされる扶余に至までの距離と、インド・タミールからの距離は変わらないことがわかります。
>
> ただインドの場合はチベット・ヒマラヤやマレー半島を迂回しないとこれないわけですから、むしろ遠いと言えるでしょう。
>
> さらに、ゾグディアナ方面は車馬文化ですから、そのスピードもありますし、方角が一定になりますので、案外はやくスムーズにたどりついたことも予想できます。
> 実は、上記のように近いんです。そしてそのアラム語文化のほうが可能性も高く、合理的です。日本で一番多いHLAはプロタイプも、そのゾグディアナ系です。
> ただ、実際には、アラム語系統のほうが、合理的で、可能性もあるわけです。

、案外キシさんやみなさんの言っていることのほうが、正しいことも多いわけですから、あその辺のことも考慮しながら、楽しくやっていきましょう。
>

1119棘の紀氏:2013/01/29(火) 10:20:07
高昌人   口中にお金・・・
>粟特人 也因?商和其他原由居留 高昌 http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,ezh_ja,bT,uaHR0cDovL3d3dy5oaXN0b3J5dGVhY2hpbmcuY24vbHNqeC9zaG93LmFzcD9pZD0zNjM=
口中にお金・・・

魚の口から取り出した金貨でペテロにちやんと払わせた。 http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5614/ju9.html
多くの非キリ スト者が考えているようにイエスはユダヤ教から脱皮して世界宗教たるキリスト教を目指したのではない。彼はあくまでユダヤ教の中に止まろうとした。例えば神殿への税金は魚の口から取り出した金貨でペテロにちやんと払わせた。異邦人の女が自分の娘の病気を直してくれと頼んだ時には「子供達のバンを取って子犬になげてやるのはよろしくない」と断った。

「ギリシア神話」では、三途の川の渡し守である「カロン」という老人に銅貨1枚を払って冥界に旅立つとされました。
実際、当時の遺跡からは、口の中に「銅貨」の入った死者の遺骸も発見されたそうです。
アステカでは、死者の口に「翡翠」を含ませてから埋葬したと本で読みました。
もっとも、これは「お金」ではなくて「死者の魂をジャガーに取られないようにするため」だったそうで、たしか『太陽の子エステバン』でも、「インカでは死んだ人の口の中にヒスイの玉を入れる風習があるの」と、シアが言っていたような気がしますが、「インカじゃなくてアステカの風習なんじゃないの?」と疑問に思ったりもしました。
また、韓国かどこかの国では、身内が死んだとき「あの世で裕福に暮らせるように」と玩具のお金を大量に燃やすと聞きました。

「三途の川」→「渡り賃」→「冥界」
というのは「仏教」の考え方にも似ていて不思議ですね。
もともとギリシアかメソポタミアの神話だったものが東西に広がったのかもしれません。

日本書記には、派手な葬儀を戒める埋葬の詔があり、その一文に「珠玉を口に含ませ」とあり、実際に太安万侶の墓から真珠が出土しています。
現在では、志摩地方の葬儀では、今も死者の口の中に真珠を含ませる習慣が残っています。
また、中国では送終口中玉という習慣で、口の中に奇数の真珠を含ませる習慣があります。
さらに、ヒンドゥー教でも、口の中に聖水、金、真珠、薬草等を詰める習慣が残っている地域があるようです。 http://okwave.jp/qa/q6970513.html


1120棘の紀氏:2013/01/29(火) 12:54:08
Re: 高昌人   口中にお金・・・
高昌人   口中にお金・・・シュメール系?
>、ヒンドゥー教でも、口の中に聖水、金、真珠、薬草等を詰める習慣が

『旧約聖書』にコーランを加えたものがイスラム教です。次に仏教とヒンドゥー教を見 て行きましょう。仏教の創始者は釈迦ですが、実は釈迦自身『一切経』の中で自らの 祖先はシュメールだと告白しています。 http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/?mode=m&amp;no=188
シュメールとイスラエルの民が日本に渡来した可能性は多少なりともありそうだ、と思っていただければ幸いです。続いて今回は、宗教や文化の側面からも探っていきます。皆さんもご存じのように、キリスト教はフランシスコ・ザビエルが日本に持ち込んだとされますが、ずっと昔、古代の天皇の時代には我が国に入っていた形跡があります。宗教だけではありません。古代の日本には世界のあらゆるものが流れ込み、溶け合って渾然一体となっているのです。
そこでまず、ユダヤ教を例に取ります。文献が整っているユダヤ教は『旧約聖書』を原典としています。『旧約聖書』にあるノアの方舟は、初回で述べたように、世界最古の文明であるシュメールの洪水伝説が元になっています。そもそもイスラエルは、メソポタミア地方の遊牧民が神に導かれてこの地を強奪し、建国したものです。言い換えれば、『旧約聖書』はシュメールが源となります。
『旧約聖書』にイエスの『新約聖書』を加えたものがキリスト教になります。また『旧約聖書』にコーランを加えたものがイスラム教です。次に仏教とヒンドゥー教を見て行きましょう。仏教の創始者は釈迦ですが、実は釈迦自身『一切経』の中で自らの祖先はシュメールだと告白しています。経典の系図では大須弥小転輪王から五十六代目の浄飯王が釈迦の父に当たるのです。
シュメールはsumerですが、一方、仏教やヒンドゥー教の根本的宇宙観を示す須弥山はsumeruと書きます。この二点から、仏教思想の根本は、実はシュメールにあるとわかります。以上から、世界三大宗教の源流はシュメールとなるのです。 http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/?mode=m&amp;no=188

シュメールの言葉の意味を探ってみましょう。(以下は相撲の関連で既に書いたものです)スやシュは崇高=神を意味しますから、シュメールは崇高なメール族です。そこで、日本の天皇はスメラミコトとも呼びます。崇高な神であるメール族の痕跡は日本にも存在するのです。
しかも、スやシュの意味は日本に入っても変化しませんでした。スやシュに当てはまる文字は、主、朱、首、須などが挙げられ、主は神やイエスを意味しますし、スサノオの命、主人、首長、神社の朱塗りなど、その多くが崇高や至高といった意味を含み、神と関連する言葉となっています。
シュメールの情報は西欧にも伝えられました。ですから英語にも、summit、 super、 supreme、supraなど同様の意味を持った言葉が出現しています。
シュメールに続き旧約の神であるヤハウェ神を見ていきましょう。ヤハウェのヤは、矢幡、八幡、邪馬台国、大和、ヤマタノオロチ、矢、弥など古代の日本にとって重要な地名や事物に当てられています。シュメールに須弥(シュメールに繋がる須とヤハウェに繋がる弥)という漢字が当てられているのには、明確な意味があるのです。

アーリア系とされるミトラ教を見ていきましょう。まず、ミトラ教はキリスト教に大きな影響を与えています。イエスの誕生日は12月25日とされますが、この日は、実はミトラ神の誕生日なのです。イエスの中には、ミトラの神格が流れ込んでいると考えられます。
またこの神はインドに入り、弥勒菩薩に変容しました。さらに謎の神である摩多羅神へと変容を遂げていますし、イエスのみならずアマテラスの神格にもミトラは入り込んでいます。ですからミトラは、自ら変容し、且つ神々の変容を媒介する神とご理解ください。以上のように、シュメール人とアーリア系の宗教や占星術は中国に影響を及ぼし、道教や陰陽道に形を変え、日本もそれらを取り入れていくのです。
世界の三大宗教(キリスト教、イスラム教、仏教)だけでなく、ユダヤ教や中国、日本の宗教もシュメール人とアーリア系が源流になっていました。(アーリア系も巨丹が父祖の地だという説があります)
遠い昔、言葉や宗教のみならず、あらゆる事象が日本にまでなだれ込みました。その結果、日本には古代から現代に至るまで、途方もない謎が仕掛けられているのです。であれば、それらは当然私たち日本人にまで影響を及ぼしていると考えられます。
棘の紀氏さんへのお返事です。



1121管理人:2013/01/29(火) 14:58:00
Re: 藤井游惟さんへのお願いです。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001145M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001145_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001145_3M.jpg

http://www.kobemantoman.jp/sub/152.html

http://



1122管理人:2013/01/29(火) 18:27:59
Re: 高昌人   口中にお金・・・
棘の紀氏さんへのお返事です。

> 高昌人   口中にお金・・・シュメール系?
> >、ヒンドゥー教でも、口の中に聖水、金、真珠、薬草等を詰める習慣が
>
> 『旧約聖書』にコーランを加えたものがイスラム教です。次に仏教とヒンドゥー教を見 て行きましょう。仏教の創始者は釈迦ですが、実は釈迦自身『一切経』の中で自らの 祖先はシュメールだと告白しています。<A H

インド系は、月氏がクシャーナ朝時代に入っているので、その傾向もあるのではないでしょうか。

サカは釈迦族の元だったという見方も有力になってきているようですね。

月氏の語は、以前はイラン系とされていましたが、トカラ語のようです。

シュメールは、遺伝的には一部の日本人とつながると思うのですが、時代が遡りすぎているので、その中間媒体がないと説得力がないでしょう。

4200年前の櫛目紋土器文化の時代は、そのシュメールのご先祖のいたウラル・アルタイ方面から朝鮮・日本へと土器が移動してますから、そのときにシュメール系の膠着語が日本に入った可能性が否定しません。

ただ、あとからまた紀元前500年善後に遺伝的には別系統の縄文人が来ており、それがメインになっているはずで、ごく一部しか継承されなかった可能性を感じます。

ただもしかすると先のタミール語起源説と関係するかもしれませんね。
タミル語も、ウラル・アルタイ語系の日本語、シュメール語と同様膠着語系のようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

アイヌ語のかかり結びあたりが関係するのでしょう。

ただ57577は、もっと後の時代の話ではないかとも感じます。

あと、タミールの交差イトコ婚というのが気になりますね。

関連しレビラト婚は有名です。ユダヤ人とか遊牧民系にみえ、兄の妻を弟が継承しますが、資産継承面でも関係してくるでしょうし、血縁維持の関係もそうですね。

ただケースによっては、宗教・法制度的な禁忌が入ってくるわけでして、考え始めると深いことがあります。

比較宗教学をするなら、まずもっとも近い弁・秦韓の法制度や宗教思想をもっと分析すべきでしょう。

蘇塗にみえるような仏教や旧約聖書に見える罪人をかくまうようなアジール権の発生や、その祭祀官の存在、その辺は突発的に半島南部の天孫たちが創造したものではなく、宗教的にも法制度的にもその当時最も発展したところから導入されたと考えるのが筋でしょう。

今でも日本には死刑や恩赦はあるものの、アジール領域はないですよね。弁辰12国による共同統治システムなんかも、ぜんぜん注目されてませんが、周辺諸国の絶対王政と違って、かなり高度な法制度がないとそのような統治は無理でしょう。

弁秦諸国で祠の「鬼神」が異なるというのも、宗教的な相違を意味していて、関連して卑弥呼の「鬼神」が一様に弥生時代の稲作信仰のみから理解できないことを示しています。

ただのシャーマン祭祀でもないんですね。アジール権施行にも関わるでしょう。

また弁秦で鉄を貨幣のように用いているとの記載もありますが、鉄を貨幣のように用いるということがよく考えてみると不可思議です。

何も倭や楽浪郡と交易するだけなら、鉄テイだけ他のものと交換すればいいだけだったでしょうけど、「貨幣のように」用いているの意味が謎です。

少なくとも鉄を加工して、貨幣サイズ?にして、それを無数に増産して、交換交易に用いた可能性を感じます。
そこで当然経済感覚もアバウトではなく、経理計算の処理ができなければならなかったでしょう。
当然数詞や文字が必要になりますので、それが「秦語」だった可能性もありますね。

それが、対岸の伊都国にも伝わり、倭人伝の文書行政システムへと移行していったのかもしれません。

ここで確実に漢字や木簡が使われていないといけないはずですが、その弁韓系の貨幣代わりに用いた鉄片が、どう倭で用いられていったかも課題ですね。

鉄テイが一番その可能性が高いと思うのですが、少なくとも奈良までは伝わっていたはずで、頻繁に伽耶諸国から海運で、交換交易が行われていたとみるべきかもしれません。

その経緯で先の馬韓系の銅鐸祭祀が畿内にも入っていくわけですが、女王国より北には、上記の文書行政システムを担当する「一大率」がいて、これが中国から諸侯に任じた「率」の称号に由来すると、やはり「大」の統率下に「率」が各地に多くいた可能性もでてくるでしょう。吉野ヶ里から出てくる巴型銅器などもその辺と関わるのではないでしょうか。

おそらく畿内にもその文書行政システムの拠点があったと思いますが、その弥生末期の土器に漢字が見えるのもその一端で、そもそも土器に漢字が記されるということは、原住民が土器に漢字を刻み込んだという意味ではなく、交易商人や上記の在地官が、特定の目的で刻んだと考えるべきでしょう。

それで当然、その文字を読め多筆記官が、弁・秦韓系の秦語や、その系統の漢字なども読めないと仕事にならないはずで、かれらが後の大和の十市郡の物部氏の首長とかになっていくとすると、彼らの系譜なども、もともと漢字で記載されていた可能性もあるのですが、その後、それらの文化が部分的に失われ、再度半島系の武内宿袮の時代を待つことになったのではないかと感じますね。

弥生人は稲作農耕民だったと思うのですが、そこから徐々に貧富の格差が広がって、首長が出現し、縄文シャーマニズムも発展し、さらに城や軍備をしはじめて、後代の在地首長へとなっていった、その後渡来人がやってきて、土器や製鉄、文字文化を伝えて国家が確立していったという今の教科書の記載は、もしかすると、あまり正しくない可能性も出てくるでしょう。



1123棘の紀氏:2013/01/29(火) 22:04:59
四つ目は「アジール(不可侵)の神としての禹」で ある。
>ただのシャーマン祭祀でもないんですね。アジール権施行にも関わるでしょう。


アジールの神
>蘇塗にみえるような仏教や旧約聖書に見える罪人をかくまうようなアジール権の発生や、その祭祀官の存在、その辺は突発的に半島南部の天孫たちが創造したものではなく、宗教的にも法制度的にもその当時最も発展したところから導入されたと考えるのが筋でしょう。
>今でも日本には死刑や恩赦はあるものの、アジール領域はないですよね。弁辰12国による共同統治システムなんかも、ぜんぜん注目されてませんが、周辺諸国の絶対王政と違って、かなり高度な法制度がないとそのような統治は無理でしょう。
>弁秦諸国で祠の「鬼神」が異なるというのも、宗教的な相違を意味していて、関連して卑弥呼の「鬼神」が一様に弥生時代の稲作信仰のみから理解できないことを示しています。
>ただのシャーマン祭祀でもないんですね。アジール権施行にも関わるでしょう。

禹を“アジールの神” として信仰し、罪を犯すと彼らはその石紐邑の“野中”に逃げこんだ。 http://www.littera.waseda.ac.jp/tyoukou/kitakawa/densyou.htm

、禹にはアジール神としての性格もある。アジールとは、聖性によって支えられ た避難場、いわば駆け込み寺である。禹は石のひだから生まれた。その聖なる生地に 逃げ込むと罪をのがれられる、という西南夷とされた後漢時代の羌族に ... http://gownagownaguinkujira.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-e43d.html
「羌の源流は三苗、姜氏の別種」と『後漢書』にあるのならさ、なんとなく、アレ?と思うよね。だって三苗族こそ長江文化の後裔だと言われているじゃない??まあ、これは後漢時代の羌と殷以前の羌が同じ部族だとしたらの話だけど。
馬韓伝で出てくる天君を祭るおまつりってのは、この江南の方の文化を継承しているとも考えられる。けれども、馬韓のすぐ近くには山東半島があるんだよな。斉の影響かもしれないからね。
それに、殷の時代に生け贄狩りから逃げ延びた人々がいてもおかしくないしな。アジールってのもおもしろいね。例えば、現代でいう岩陰祭祀の跡みたいな洞窟みたいなところに逃げて、殷の生け贄狩りから逃れたとかね。まあ、そういう記録はないでしょうけど。
殷以前に羌と言われた人々は、文字通り遊牧民だったんだろう。けれども、殷によって強制的に定住させられたらどうだろう。あるいは、長江文化の人々と同化しながら定住生活を送るようになったとしたら。逆も考えられるよね。もともとは長江文化をになっていた人々の一つだったけれども、遊牧民として生きるようになって、それから「羌」と呼ばれるようになったとかね。
まだ、羌がのっぺりさんだとしてるワケではないけれども、のっぺりしてるから大陸の北の人たちだとは限らないんだよ。東アジア人ってのはスンダランドが源流だとも言うじゃない??マンモスを追って北に行った人々が寒さに適応してのっぺりしたんだろうけど、それだって元は南だということになる。だからさ、関係ないんだよな。興隆窪だって紅山だって元々は南から来た人々だってことになる。
「邪悪な妖魔から旅人の安全を守るのが行神であり、漢代では旅に出る際には、この行神を祭って安全を祈願した。その祈願の儀礼の中に禹歩と称されるものが含まれている。」とも書いてあるけれど、この行神ってのも猿田彦と似てるじゃない??

、三つ目は「治療者の神としての禹」、四つ目は「アジール(不可侵)の神としての禹」で ある。 http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/students/98ohira.htm
、「禹」が『史記』夏本紀で記されているように人民から「山川の神」としてあがめられる存在だったならば、それをかたどった「禹歩」が民間信仰の世界で強い呪術性を持つに至るのは当然、予想されるということである。 http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/students/98ohira.htm

禹を聖域(アジール)の神とする信仰は、羌が岷江上流域に侵入する以前の先住民・戈 人の信仰に関係がある。戈人には、人は石から生まれ、死ぬとまた石にもどるという、 岩石地帯であるこの地域の自然環境から育まれた特殊な観念があっ ... http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2019
禹を"アジールの神"として信仰し、罪を犯すと彼らはその石紐邑の"野中"に逃げこんだ。 ...
http://www.littera.waseda.ac.jp/tyoukou/kitakawa/densyou.htm

アジール - Wikipedia
も、武力を背景とした統治権力に対抗する「自治都市」として強いアジール性が認められた場合がある。 ... 統治権力の側はアジールを否定して支配することに熱意を ... こういった圧力の結果、時代が下るにつれアジールは徐々に狭められていく傾向にあった。 ...

【冉】禹 エッセネ派 | Dr.ヤスダの歴史トピックス
エッセネという名は、「医師」を意味する古代シリア語に由来すると考えられています。 ... エッセネ派 ... 禹を"アジールの神" ... そこは役人といえども入り込めない聖域で、 禹の神霊を恐れるからだという。 ... http: ...
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1563
エッセネ派の人々は、グノーシス主義者たちと同様流出論者と呼ば れます。
彼らの目的のひとつに、彼らの主義に基づいて霊的な秘密の鍵である「モーセの律法」を再解釈することがありました。エッセネ派は、聖書で約束されている「メシア(救い主)の到来」を待ち望む、カバラ主義者であるとも信じられています。

人が、自分自身の本性である無意識(=原人間=クリストス=キリスト)を通じてのみ、再結合が可能となる、天に引き上げられる、救いが完成されることの本来の意味なのではないかと考えるのです。

エッセネとは,「敬虔なもの」あるいは耕を中心として厳格・敬虔な宗教生活を営んでいた。当時には珍しく奴隷制を否定、みずからの労働によって生活の糧を得、それを共有するという共産社会を形成していた。その禁欲的な宗教生活は修道院と同様である。宗教観はサドカイ派よりもパリサイ派に近いが独自の信念と戒律をもっていた。エッセネとは,「敬虔なもの」あるいは「静かなるもの」といった意味と考えられるが語源に関しては諸説がある。1947といった意味と考えられるが語源に関しては諸説がある。 ...
http://www.nishikobe-kyokai.or.jp/terms.htm
農耕を中心として厳格・敬虔な宗教生活を営んでいた。当時には珍しく奴隷制を否定、みずからの労働によって生活の糧を得、それを共有するという共産社会を形成していた。その禁欲的な宗教生活は修道院と同様である。宗教観はサドカイ派よりもパリサイ派に近いが独自の信念と戒律をもっていた。エッセネとは,「敬虔なもの」あるいは「静かなるもの」といった意味と考えられるが語源に関しては諸説がある。1947


1124管理人:2013/01/30(水) 03:36:33
Re: 四つ目は「アジール(不可侵)の神としての禹」で ある。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001148M.png

http://museum.iwatoyama.com/)



1125藤井游惟:2013/01/31(木) 06:11:24
Re: 藤井游惟さんへのお願いです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/スンダランド

http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1126棘の紀氏:2013/01/31(木) 14:17:17
モンゴロイドのルーツ スンダランド・サフルランドが水没した時その大陸にいた人々が世界中に散ったのだ。
中国の文明はメソポタミア文明から伝わって起きたと考えるべきだろう。
初めは黄河文明が主で長江などに見られる文明は黄河文明から派生したものと考えられた。
しかし、長江文明は黄河文明とは違う独特のものだったと判ってきた・
同時に二つの地域で独自の文明を育んだ。
そんな事があるはずが無い。
それはメソポタミア文明から別々のルートでそれぞれに伝わって発展したと考えるべきなのだ。
所が中国の文明はメソポタミアとの関連で語られる事はない。
麦の原産地はトルコの山岳地帯にある。
トルコの山岳地帯に麦の原種があり、そこからチグリス・ユーフラテスの二つの川が流れており、その二つの川がイラ
クのメソポタミアに流れている。
そこは二つの川によって育まれた肥沃な土地があった。
これがメソポタミア文明を発祥させた土台になっている。
この文明は1500年かかって中国まで伝播した。

中国でも南部の長江文明は黄河文明から発祥した殷周などの北方系民族王朝によって蛮族扱いをされた。
だが、4千年前には同じように文明を育んでいた。
それは西方からの青銅文明の伝播によるものである。
中国にも西方を神聖な所とする、漠然とした信仰がある。
西王母信仰である。
対として後に東王父が追加されたが、西王母が主である。
西方からもたらされた、常に文明をもたらしてくれる西方に対する憧れがあったのであろう。
南米ブラジルアマゾンに3000年前に文明があったらしい。
所がその文明は青銅も鉄も持っていなかった。
海を隔てていたから青銅器も鉄も伝わらなかったのだ。
どうも骨格を見ると日本の縄文人に似ていたらしい。
遺体の頭の部分に被せられた土器にヘビが描いてあった。
ヘビを信仰していたかも知れない。縄文人もヘビ信仰を持っていた。
縄文人と同じルーツを持つ人々だとすれば納得がいく。
テレビでドイツの発掘隊が額の上に丸い青銅器の載ったミイラを発掘したと伝えていた。
人骨の遺伝子を調べたら中国東北部の人の遺伝子に似ており、モンゴロイドである事は間違いないとか。
丸い青銅器は鏡のように見えた。
東洋からの渡航者であった事は間違いなく、鏡?を額に載せると言うのも日本の弥生時代や古墳時代の埋葬方式に似ている。
2mを越す巨人もいたらしく、180cmの身長は縄文人のものとすると合わないが、栄養状態がよければ大きくなる可能性も無くはないと言っていた。
孔子が2mを越す巨人だった、と言う例も紹介していた。
モンゴロイドのルーツ。
スンダランド・サフルランドが水没した時その大陸にいた人々が世界中に散ったのだ。
日本に来たサフルランド人は縄文文化を育み、中国長江にいって河母渡文明を作り稲作を発達させ、西方からの青銅
器文明を得て長江文明を築いた。
一方、水没した時、スンダランドから西に行った人々はインドタミル人となった。
太平洋を東に行った人はアマゾン文明を作った。
サフールランドから北上した人は日本に来ただけではない。
朝鮮半島や遼河の奥深くまで渡ったのだ。
紅山文化を作ったのはこの人々。
そして大陸側に渡ったサフールランド人は大陸で複雑な混血をして中国の少数民族になった。
当然西方から青銅文明をもたらした人々とも混血をしている。
日本列島ではこのような弥生時代までは混血は起きず、均質だったと思われる。
そして、シュメール王国から青銅器を伝えられた人が黄河。長江文明を作った。
メソポタミアから中国に文明を伝えたのは遊牧民だ。
その遊牧民が中国の支配者になった可能性は高い。
文明の伝道者が恩寵だけ与えるなら本当の神様ですが、そうはいかなかっただろう。
日本に文化を伝えた弥生人も縄文人の指導的立場になった筈だし、古墳人も同じ。
http://www.geocities.jp/taru638/page021.html


1127管理人:2013/01/31(木) 17:03:47
Re: 藤井游惟さんへのお願いです。
藤井游惟さんへのお返事です。


> 私は、日本祖語を話していた南方系縄文人の祖先は、インド・タミールから来たと言っているのではなく、インドと日本列島の中間にある「スンダランド」からやってきた可能性が高い、と言っているのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


確かに、氷河期時代の南方系縄文人の流れと、スンダランド、インド南部タミール方面との接点はあったと考えるべきかもしれませんね。

> さらに「日本語の祖語とされる扶余」という説は、私は全面的に否定しています。
> 拙著「白村江敗戦と上代特殊仮名遣い」は、日本語と朝鮮語その他の「ウラル・アルタイ系言語との近縁関係」を「積極的に否定」する一環なのです。
> (日本語と朝鮮語は現在「全く別の言語」であるように、1300年前も全く別の言語であったからこそ「上代特殊仮名遣い」と言う現象があらわれたのです)
> 拙著の第一章と終わりにを良く読めばそう書いてあるはずです。

確かに扶余系が入る弥生後半以前の日本語に、扶余系の影響がある可能性は低いでしょうし、むしろ江南弥生人が先の縄文系の影響下で日本語が形成されていったと考えるのが筋でしょう。ただその後の扶余系言語の影響がどのくらいだったか?が課題ですね。


> 世界中の言語で、日本語との近縁関係が証明されている唯一の言語は「琉球語」です。


この点は重要ですね。

> これらのことから、琉球人が何時から日本語(琉球語)を話すようになったかと考えれば、
> 琉球に人が住み着いた2万年前から、ずっと琉球語を話し続けていたと考えるしかありません。
>
> そして、琉球人には扶余系(北東アジア人)系の遺伝子は殆ど混じっておらず
> (多少混じっているとしても、科学技術発達し、日本本土や朝鮮・中国との交流が盛んになった近世・近代に至ってから)
> そして、琉球から発掘された縄文時代及びそれ以前の人骨は、スンダランド周辺から発掘された人骨と酷似しているのです。
>

琉球に扶余系言語が入らないのは納得できますし、縄文系と深く関わることも確かなのですが、
人骨も含めて別の視点からも証明が必要かもしれません。こちらにミトコンドリアDNAにおける北海道(アイヌ)、本土、琉球人の比較表があります。

http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_08_1.mitochondria_karamita_sosennhtml.html

縄文系とおぼしきM7aとは別に琉球には、南方系のB4が見えます。これが本土にも流入しているのですが、北海道アイヌにはほとんど見えないようです。このM7aもしくはBのどちらかが、おそらく藤井さんご指摘のスンダランドあるいはオーストロネシア系言語にかかわっていくと感じます。台湾や広東にもBが多く見えます。

逆にアイヌには、北方系のYが入っています。

ちなみに本土のみ多いのがN9aとGですが、前者は以前からお話しているサカ・月氏系の遊牧民にみえるそれで、いわゆる扶余系言語とのつながりを考えています。


ただ、ひとつ問題なのは、HLAハプロタイプのほうの分析では、上記中国南部に多い南方系の遺伝子として本土に見えるのがB54ですが、これが入ってきたのが古墳時代と推定されている点です。

http://www.pag1u.net/kodai/hla.html
http://blog.livedoor.jp/touxia/archives/50929736.html


そして、このB54が一番世界で比率が高いのが沖縄のようです。そしてインドやマレー方面にはみえず、タイ方面にみえます。下記参照。

http://en.wikipedia.org/wiki/HLA-B54

とすると、おそらく、ミトコンドリアのB系統は、このB54に対応するはずで、古墳時代に南方から入ってきた海人族の影響を考慮しながら、沖縄言語の特徴を洗い出す必要がでてきます。

ただ、それ以前に沖縄にはいっていて、本土、アイヌにみえるM61あたりが、スンダランドとつながる可能性は否定できません。そして、おそらくM7Aといった日本の縄文人のそれとなり、共通した言語的影響を与えたと考えるべきでしょう。

したがって、沖縄と本土の言語を比較する際には、おそらくオーストロネシア系言語とは別に、もうひとつ古墳時代あたりに入った中国江南系の言語の影響とを区別しながら論じる必要があるかもしれません。この辺のDNAトラの巻は、ぜひ藤井さんのような言語の専門家には、いろいろご活用いただきたいですね。

> 松本克己(元日本言語学会会長)の説を「トンデモ」だと公言し、
> それがトンデモだと言うことに気づかない全ての国語学者(大野晋を含む)を徹底的にこき下ろし、
> 場合によっては森博達氏に喧嘩を売るつもりでいる私が
> 「○○大先生の唱える××説は正しい。何となれば××説を唱えているのが○○大先生だからである」
> などと研究者の名声や肩書きなんぞにだまされる人間だとお考えですか?(^^)
>
> 私は「学者」ではなく「科学者」です。

まったくそのとおりです(^^)


> 「ヘブライ語と日本語に類似した単語が多い」という理由だけで、
> 両者が同源である、近縁関係にあるという説に肯首するわけには行きません。
> 現在日本語の「異なり語数」の50%以上を占めるのは「漢語」即ち「中国語」ですが、
> それだけの根拠で日本語と中国語が同系言語だと言えないのと同じです。


これには、やはり上記のような、DNA解析など、別側面からの明確な裏付けが必要だと思います。

今の日本人のほとんどは、縄文系ではなく弥生系以降の子孫だと言われてますが、語彙的には多くても、その基本構造がどうだったのか?は、別問題で今後も課題が多いと思いますね。


1128管理人:2013/01/31(木) 20:04:03
Re: モンゴロイドのルーツ スンダランド・サフルランドが水没した時その大陸にいた人々が世界中に散ったのだ。
棘の紀氏さんへのお返事です。

> 中国の文明はメソポタミア文明から伝わって起きたと考えるべきだろう。
> スンダランド・サフルランドが水没した時その大陸にいた人々が世界中に散ったのだ。
> 日本に来たサフルランド人は縄文文化を育み、中国長江にいって河母渡文明を作り稲作を発達させ、西方からの青銅
> 器文明を得て長江文明を築いた。
> 一方、水没した時、スンダランドから西に行った人々はインドタミル人となった。
> 太平洋を東に行った人はアマゾン文明を作った。
>

あと、沖縄の海底遺跡の件が重要ですね。
地震地盤が傾いて、沿岸沿いが沈んで海底遺跡になったそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

紀元前3000〜2000年前とされますが、
ただ、10−11世紀とする見方や、海岸浸食説もあって、結論がでてないようです。

海進の影響を考慮すべきだと思いますが、東テイ人の20余国、夷州・壇州、数万家の記載を、この琉球とすると、やや大きすぎるようにも感じます。

 會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。

黄龍2年(230年)正月 注:黄龍元年に孫権は皇帝に即位し黄武から年号を改めた。魏は合肥に新城を作った。詔を立て祭酒を重んじ、諸子を教学する。将軍衛温を遣わし、諸葛直は兵万人を海に浮かべ夷と壇州を求む。壇州は海中にありて、長老は秦始皇帝が方士徐福を遣わし童女数千人を入海させ、蓬莱の仙山に仙薬を求め、この洲に止まり帰らずと伝えり。代々相伝え今は数万家あり、その上人民は、時に会稽に至り布を売る、会稽の東県の人海上交易を行い、暴風雨に遭い壇州に流されるものあり。遥か遠くであるので、遂にたどり着くことがなかった。しかし夷州からは数千人が帰りついた。

http://shimajyo.iza.ne.jp/blog/entry/2520880/


ここで、後漢書の記載から、すこし進歩しているんですよね。
夷州からは数千人が帰ったとの記載が加わって、
壇州は、海の中にあって、たどり着けない場所、しかし会稽にはたまに来て、特に布を売る記載が追加してますね。

その壇州のほうに、徐福の子孫がいると考えていて、数万家があると考え始めています。


そうすると、夷州は呉側で見つけていた可能性がありますね。帰還しています。

隋書で九州を夷州とみなしている記載と関係するでしょうか。




1129藤井游惟:2013/02/10(日) 07:05:56
Re: 藤井游惟さんへのお願いです。
http://blogs.yahoo.co.jp/manase8775

http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1130藤井游惟:2013/02/10(日) 07:10:57
Re: 藤井游惟さんへのお願いです。
http://blogs.yahoo.co.jp/manase8775

http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1131管理人:2013/02/22(金) 00:05:23
ユダヤ・キリスト教研究
藤井さん、キシさんご意見ありがとうございます。秦野さんはまたご旅行ですかな?

ところで、日ユ同祖論というのは、ちょっと言葉が悪いようなきがしますね。どうみてもユダヤ人やヘブライ人の子孫の遺伝子は1パーセントにいないはずですし、その1パーセントが少なくとも数十パーセント以上に拡大したという経緯があったケースにしか適用できない概念ではないかと感じます。

現時点では、ヘブライ語・文字借用論とか、そういう名称のほうが偏見を産まなくてよいのではないかなと感じます。

キリスト教研究でも同様なのですが、ただ、それらが日本の言語・文字・祭祀の確信にダイレクとに影響したケースですね。その場合は研究価値も高まると思います。

類似したケースは、トカラ人のもたらした習俗と宮廷庭園や構築物構造の関係、あるいはインド仏教の伝来、天皇号等への影響などのケースがあるかもしれません。インドから日本への距離より、メソポタミアと日本の距離のほうが短いので、そうするとむしろメソポタミア系の宗教や言語に影響のほうを、真面目に研究すべきだともいえるでしょう。

ただ、ローマ・キリスト教文化の影響については、大秦の記載を考慮する必要がありますね。
先日も山城の長岡京あとから、1−4世紀のローマ系遺物がみつかってますが、下記の記載があります。


後漢書 [編集]
「和帝の永元九年(97年)に西域都護の班超が甘英を使者として大秦に派遣した」
大秦の初出である。この後甘英はシリアにまで到達し、地中海を渡って大秦へ赴こうとしたが、パルティア人の船乗りに「大秦までは長ければ二年以上も航海せねばならず、長期間陸地を見ないために心を病んで亡くなる者さえいる」と言われたために大秦に行くことを諦めたとの記述がある[1]。
「桓帝の延憙九年(166年)に大秦国王の安敦(アントン)が遣わした使者が日南郡に訪れて象牙・犀角・玳瑁を献上した。初めて(大秦と漢は)交流を持つことができた[2]。
安敦とはローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(位161年〜180年)、またはその先代皇帝であるアントニヌス・ピウス(位138年〜161年)の「アントニヌス」の音を写したものと考えられる。ただローマ側の史書には使者を派遣したという記述が見られず、また献上品もインドやアフリカの産物であることからローマ帝国の商人が皇帝の使者と偽って中国との貿易を企てたのではないかと考えられる(『後漢書』は献上物に特に珍奇なものは無かった、間違って伝えられたからではないかと書き記している)。なお日南郡とは現在のベトナム社会主義共和国フエ付近に置かれていた後漢の郡である。
魏略 [編集]
「大秦には普段は王はおらず、国に災難があった場合には優れた人物を選んで王とする。災難が終われば王は解雇されるが、王はそれを恨まない」
これは共和政ローマにおける独裁官に関する記述であると考えられる(日本語の『独裁官』は意訳であって、元の言葉を直訳すると『臨時の王』である)[3]。


面白いのは、商人がローマ皇帝の名前を偽って、インド・アフリカ系の商品をもたらして交易したという考え方ですね。

中東商人は、当然ローマも中国のことも知っており、しかも遠い国の宝物のほうが、商品価値があがることも知っているので、それを上手く利用したという線でしょうか。蓬莱や扶桑国の件もそうです。

ただ、上記の魏略のほうに、ローマ独裁官の記載がありますので、やはり公式な使者が届いていたと考えるべきだとおもいますね。

「大秦には普段は王はおらず、国に災難があった場合には優れた人物を選んで王とする。災難が終われば王は解雇されるが、王はそれを恨まない」

これは、ローマの法治方法をよく知る人物が使者になっていないと、なかなか受け答えできる内容ではないでしょう。
中国側から、「王」について問い合わせがあったと考えるべきです。「天皇や人民・公卿はどうしているか?」と同類ですね。

それに対して使者は、彼や臣下・人民は、天皇の徳によって平安元気です。次の王は皇太子のワカミタホトリです、とか返答するわけです。

ただ、「羅馬」を使わず、「大秦」という中国側の呼称を使用していることは、もともと「大秦」についての情報は以前からあって、その後使者がやってきて詳細を説明した経緯が予想できるでしょう。

それで独裁官の件ですが下記です。

ローマにおける行政の長は、毎年2人任命される執政官であった。しかし、外敵の侵入や疫病の流行、政治的混乱など、国家の非常事態が発生した場合、権力が分散されているのは非効率的である。そこでローマは、そういった場合にはただ1人に強大な権限を与えて事態に対処させることとした。これが独裁官が誕生した理由である。ただし、任命された者が無制限に権力を行使しないように、その任期は短期間(通常6ヶ月)とされていた。独裁官は、ローマの元老院が非常事態と認定した時、元老院の要請によって執政官が指名した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

この臨時的な独裁官を王と見なしたことが興味深く感じます。そして普段の2人の執政官は王とはみなしていない。大臣レベルですね。

同様に興味深いのは扶余の政治システムです。


政治体制 [編集]
国には統一的な君王がいる。古い夫余の風俗において、天候が不順で五穀の生育が順調でない時にはその責任を王のせいにし、或いは王を易えるべきだと言い、或いは王を殺すべきだとした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

それで騎兵の記載が重要です。

安帝の永初五年(111年)、扶余王が初めて歩兵と騎兵七、八千人で楽浪郡に侵攻し、官吏や民を殺傷した。後に再び漢に帰服した
 永寧元年(120年)、太子の尉仇台(いきゅうだい)を派遣して王宮に詣でて貢献する。天子は尉仇台に金印を賜る。

弓矢刀矛を武器とし、家々に鎧と武具を備えている。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-fuyo-.htm


ここに出てくる鐙が、戦闘用だとすると、遊牧民系の習俗が伝わったと考えるべきですね。


馬の背に乗る際の足がかりとして使われたものと思われる片鐙は、紀元前の時代からインドや中央アジアのステップ地域にはあったが、 騎乗時の保持を目的としたペアでの使用が確認できる最古の物は、302年・322年に埋葬された鮮卑や東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。5世紀には朝鮮半島や日本でも使用されていた。
欧州では7世紀頃になるまで鐙は確認されなかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


橿原考古学研究所発表時の新聞内容
「奈良県桜井市箸中の前方後円墳、箸墓(はしはか)古墳の周濠(しゅうごう)跡から古墳時代前期(3世紀末―4世紀
初め)の木製輪鐙(わあぶみ)が出土したと、同市教委が30日、発表した。馬具としては国内最古で、現存する鐙では
世界最古と見られる。わが国の乗馬の始まりを100年近くさかのぼらせる発見で、4世紀後半―5世紀初めごろに、朝
鮮半島の騎馬軍団に対抗するため導入したとする通説は見直しを迫られることになりそうだ。」読売新聞12/1
「輪鐙は、長さ16・3センチ、幅2・7―10センチ、厚さ1・6センチのカシ材で、後円部南東側の周濠跡の底近くから出
土した。足を入れる輪の部分が欠けていたが、大阪府四条畷(しじょうなわて)市の蔀屋(しとみや)北遺跡で出土した
木製輪鐙(5世紀後半)に類似していたことから、輪鐙と判断された。」
「二十−三十年にわたってたい積して固く締まった層から四世紀初めの大量の土器とともに出土しており、上の土層か
ら沈み込んだとは考えられないという。 」
http://www.geocities.jp/taru638/page009.html


これも重要ですね。ただ、その前に弁・秦韓・伽耶方面に馬具が入ってないといけないでしょう。下記記載が重要です。


大成洞(daeseong-dong)古墳群と金官伽耶 知見
国立金海博物館の説明などを総合すると色々なことが判る。
丘陵の上部は王や支配者、貴族の墓。8m以上の木槨墓もある。傾斜面は身分の低い者の墓。平地には1〜3世紀の木棺墓と木槨墓が密集している。金官伽耶は4世紀頃全盛期を迎えた。長年大成洞古墳群の発掘調査した韓国慶星大学教授 申敬澈 氏の色々な報告がある。
?紀元前1世紀から紀元2世紀半までの木棺墓には、支配者と一般大衆の墓とで大きさや副葬品に格差はない。
?木槨墓出現以前の木棺墓時代が弁韓(狗耶韓国)時代で環濠集落は共同墓地と隣接している。
?伽耶の首長も王家が万世一系ではなく、狗耶韓国と東ネ(トンネ=今の釜山)居?山国(きょしつやまぐに)が政治統合して金官伽耶になった。 ?
木槨墓時代になると墓地が平地から丘陵に移る。大衆と王族の墓地が分離。支配者の墓が大きくなり副葬品に財産の集中が分かる。陶質土器(日本で言う須恵器=大阪陶邑から発掘された陶質土器)が出現する。 ?初期の
。後期の木槨墓は方形穴に板囲い木槨墓は長方形で深い。四隅に丸木柱を打ち込み、柱の外側に丸太を積み上げて壁を造る。当時は貴重品の鉄てい(鉄地金の延べ板)を敷き詰め被葬者を安置。副葬品を入れ、天板をかぶせ方形(又は長方形)に封土する。金官伽耶以前の王族の墓が方形墓。
?4世紀以後、金官伽耶時代の木槨墓から中国系とは異なる北方農耕遊牧民文化の副葬品が出土する。騎馬用甲冑・馬具・各種鉄製品・蒙古鉢形冑・桂甲・轡・木芯鉄張り輪鐙が出土。初めて殉葬が確認される。北方系の墓制が前時代の墓をつぶして築造したので大成洞遺跡では、重なった墳墓があった。
?伽耶は青銅器の生産が終わり、鉄器文化の実用社会になり銅鏡が太陽信仰の倭国に移動した。
3世紀から4世紀はじめに流入した北方文化の源流は「遼東と高句麗の北方、吉林省北部(現在の黒竜江省)騎馬農耕民族の扶余」と申教授は推定しているが、流入理由には言及していない。この時代地球が寒冷化して、牧草や農耕が出来なくなり遊牧民が南下した。このため各地で紛争が起きている。(五胡の乱)(ゲルマン民族を大移動させた原因のフン族移動も同時代の寒冷化が起因)朝鮮半島の忠清南道に扶余郡等扶余の地名がある。韓半島南部各地に複数移動があったようだ。
http://members3.jcom.home.ne.jp/kofun2-hp/kankknkime2.htm


3末〜4世紀ごろに、遊牧民系集団が降りてきて、そのまま箸墓方面へ向かった可能性を感じますね。

あと、上記の1〜2世紀の墓に、支配層と民衆層との格差が少ないという部分が重要で、原始時代で首長がまあだ出現していなかったという意味ではなく、ローマの事例のように、高度に発達した共同体社会があったので、格差が少なかったとみるのが正解でしょう。この天は以前から話しているとおりです。

「互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。」
「市場での売買では、鉄が交換されており、それは中国での金銭使用のようであった[1]。
また倭人とも習俗が似ており、男女とも入れ墨をしていたとある[1]。武器は馬韓と同じであった[1]。礼儀がよく、道ですれ違うと、すすんで相手に道を譲った」
http://ja.wikipedia.org/wiki/

どちらかというと、推理する歴史学者のほうが、野蛮で遅れているので、結果として弁・秦韓から邪馬台国にかけての高度は法治主義・宗教社会や測量技術等を理解できないのではないかと常々感じてます。

1132棘の紀氏:2013/03/02(土) 01:56:22
景教のことども.
第3章ブッダの囁き11 墨子の生きた時代は、紀元前468年頃―前375 年頃とされている。キュロスの回勅によりユダヤ人のバビロン捕囚解放が行われたのが 紀元前530年頃である。墨子の働き盛りの年齢から遡ることほぼ200年になる。 http://www2.tba.t-com.ne.jp/Temzzin/cnt/bunsho/keikyo/bdh11.html
墨子の生きた時代は、紀元前468年頃―前375年頃とされている。キュロスの回勅によりユダヤ人のバビロン捕囚解放が行われたのが紀元前530年頃である。墨子の働き盛りの年齢から遡ることほぼ200年になる。バビロビアの土木建築技術を修得したユダヤ人が、ペルシャ統治下で職人集団を組織し、乾燥地帯の都市国家を開発整備しながら中国に至るのに十分な時間と言える。
 「墨子」の記述の中には、敗北し国が消滅する悲哀を記した一節がある。曰く「祖先を祀る祭器は敵の手によって破壊されあるいは奪われて、働き手の男達は奴隷として連去られる。崩れた神殿に残された女や子供たちは飢えに泣き離散する他ない…。」まるでバビロン捕囚を彷彿とさせる記述であるが、墨子とユダヤ王国を結びつけることは性急に過ぎるだろうか?墨子の出自についての諸説には、武士階級説、工人職人説、奴隷出身説などがあるが、バビロン捕囚のユダヤ人はそのいずれにも当てはまる。


1133藤井游惟:2013/03/02(土) 05:29:13
白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。

> 大成洞(daeseong-dong)古墳群と金官伽耶 知見
> 国立金海博物館の説明などを総合すると色々なことが判る。
> 丘陵の上部は王や支配者、貴族の墓。8m以上の木槨墓もある。傾斜面は身分の低い者の墓。平地には1〜3世紀の木棺墓と木槨墓が密集している。金官伽耶は4世紀頃全盛期を迎えた。長年大成洞古墳群の発掘調査した韓国慶星大学教授 申敬澈 氏の色々な報告がある。
> ?紀元前1世紀から紀元2世紀半までの木棺墓には、支配者と一般大衆の墓とで大きさや副葬品に格差はない。
> ?木槨墓出現以前の木棺墓時代が弁韓(狗耶韓国)時代で環濠集落は共同墓地と隣接している。
> ?伽耶の首長も王家が万世一系ではなく、狗耶韓国と東ネ(トンネ=今の釜山)居?山国(きょしつやまぐに)が政治統合して金官伽耶になった。 ?
> 木槨墓時代になると墓地が平地から丘陵に移る。大衆と王族の墓地が分離。支配者の墓が大きくなり副葬品に財産の集中が分かる。陶質土器(日本で言う須恵器=大阪陶邑から発掘された陶質土器)が出現する。

ほほう・・・伽耶の古墳から大阪陶村の須恵器が出た(^^)

すると、拙著「白村江敗戦と上代特殊仮名遣い」第一章で述べている倭王朝加羅(伽耶)渡来説を強化する証拠となりますな。

そんなことより、私が生まれて2ヶ月から小学校卒業までを過ごしたのは、何を隠そうこの「陶邑」の跡地で、学校の名前は「東陶器小学校」、学校から200m程度の所に「陶荒田神社」があり、子供のころはごろごろ出てくる須恵器の破片を手裏剣代わりに投げ合って遊んでいたものです。(^^) (拙著P.175の注1参照)

また、日本語教師として百済の首都扶余に近い大田に3年、釜山にも1年住んでおり、金海あたりは空港があるのでどんなところかよく知っています。(^^)

但し、
?陶邑に住んでいたのは父の仕事の関係(両親は東京出身)で地の人間ではなく、そのために標準語と大阪弁を両方話せる

?大学は文学部を選んだのは高校が男子校だったので大学は女の子の多いところへ思っただけで勉強するつもりなど全く無し(卒業に5年かかりました)。
第二外国語に中国語を選んだのは、受験勉強にこりてそれ以上横文字とつきあうのはいやだったという理由だけ。
まあ、割に歴史は好きでしたが早稲田の日本史学科は競争率が高いので、専攻はそれに近い東洋史にしとこう、卒論かかなきゃ卒業できないので、テーマは日本に関係するということで「元の日本来襲の意図と経過」にしましたが、元ネタの多くは元寇の際の高麗の苦悩を描いた井上靖の小説「風濤」・・・なぜかここで朝鮮に関係
「早稲田大学東洋史学科卒業」という経歴が結果的に私の本にハクをつける結果になっていますが、実は勉強など全くしておらず、5年間で「優」はたったの4つ、そのうち2つは「体育」です・・・(^^)

?大学卒業直後に、小室直樹の「アメリカの逆襲」という本を読んで、社会科学のおもしろさに気づき、会社を2年で辞めて、学士入学。
書いた卒論は「宗教としての巨人軍・・巨人ファンに見る日本教の倫理と資本主義の精神」というものですが(但し私は熱狂的なアンチ巨人)、指導教授は現在では韓国経済社会学者として有名な人・・・ここでも何故か朝鮮に関係

?大学院時代に韓国語を勉強しはじめましたが、その理由は朝7〜8時のNHK教育ラジオの語学講座で7時からのフランス語講座と7時40分からのドイツ語講座の間にハングル講座があり、その間に寝てしまわない様についでに聞いていただけ。

?大学院を出て日本語教師になったのは、社会学では食えそうにないので、とりあえず食うための手段として選んだだけ、言語学はそのための日本語教師養成の民間講座で勉強しただけ(但し、今にして思えば、この講座の講師陣は並の大学などより遙かに優れていました)、韓国へ渡ったのは、大学院を出ているということと?の理由で韓国語がある程度できたため、この講座の同級生から「韓国へ行かないか」という話がきて、それに乗っただけ・・・・

?国際交流基金の試験に受かり、香港に派遣されたのも別に自分から希望したわけではなく、私の経歴を見て、基金の方が勝手に決めただけ・・・ところが香港やその後台湾に行ったお陰で、中国語には色んな方言があることを知っていた

このように、私は最初から古代史や朝鮮や言語学に関心を持っていたわけでは全くなく、みんな「たまたま」そうだったというだけですが、このたまたまの経歴が全て拙著「白村江敗戦と上代特殊仮名遣い」に結びついている・・・これは「天命」というものでしょう。(^^)

私は父方も母方も全て明治以前からの日本人ですが、私をみればわかるように、体毛が薄く、のっぺりした弥生人顔、きっと遠い祖先に白村江帰化人が何人もいて、「歴史の中に埋没した俺たちの名誉を回復してくれ」と子孫の私に乗り移ってきたに違いありません。(^^)

私が「天命」を全うできるよう、力を貸してください。<(_ _)>






http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1134秦野:2013/03/03(日) 09:24:32
Re: 白村江の戦い1350周年
藤井游惟さんへのお返事です。

上代特殊仮名遣いには疑問がある。
どうも、(呉)(漢)(古代言語)の三通り読みが存在している。
これをどの様に理解し整理するかですな。

3母音のi, a, u   (古代言語)?
4母音のi, a 〜 o, u  (呉)の混在?
6母音のi, e, ï, a, o, u (呉)(漢)の混在?
5母音の現在

例として魏志倭人伝の瀚海をあげます。

魏志倭人伝で瀚海(かんかい)に注目します。現在の名は玄海灘。

また南に瀚海(かんかい)と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る(「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」)。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000の家族が住める。田畑はあるが足りず、市へいく。

瀚海は当時の音表記で呉音なので、瀚海はガンカイ。似た地名は厳原(いずはら)


呉音 : ガン
漢音 : カン


[音]カイ(呉)(漢)

厳原


呉音 : ゴン(ゴム)
漢音 : ゲン(ゲム)

原(古代言語)?
[音]ゲン(漢)
〈はら(ばら)〉「海原(うなばら)」原=海

瀚海=厳原(厳海)=玄海、ゲン(ゲム) カイ(漢)、ゴン(ゴム) カイ(呉)

言える事は、(呉)(漢)(古代言語)の三通り読みが存在している。


>
> このように、私は最初から古代史や朝鮮や言語学に関心を持っていたわけでは全くなく、みんな「たまたま」そうだったというだけですが、このたまたまの経歴が全て拙著「白村江敗戦と上代特殊仮名遣い」に結びついている・・・これは「天命」というものでしょう。(^^)
>
> 私は父方も母方も全て明治以前からの日本人ですが、私をみればわかるように、体毛が薄く、のっぺりした弥生人顔、きっと遠い祖先に白村江帰化人が何人もいて、「歴史の中に埋没した俺たちの名誉を回復してくれ」と子孫の私に乗り移ってきたに違いありません。(^^)
>
> 私が「天命」を全うできるよう、力を貸してください。<(_ _)>
>


1135藤井游惟:2013/02/03(日) 21:17:41
Re: 白村江の戦い1350周年
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001159M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001159_2M.jpg

http://www.youtube.com/watch?v=XnOY0mt7yV4

http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1136秦野:2013/02/03(日) 23:11:18
Re: 白村江の戦い1350周年
藤井游惟さんへのお返事です。

上代特殊仮名遣いの統一性からすると「広大な中国では方言によって」は矛盾になる。
単に仮名遣いだけで、音は関係しないと理解できる。
因みに、魏志倭人伝は陳寿が書いたものです。

陳 寿(ちん じゅ、建興11年(233年) - 元康7年(297年))は、三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。字は承祚(しょうそ)。巴西郡安漢の人。俗説では、蜀漢の将陳式の末裔と言われているが、根拠は無い。甥に陳符・陳莅(兄の子)・陳階(弟の子)。『三国志』の著者である。自身の伝は『晋書』にある。

漢字の発音は秦時代に始皇帝により統一されたのが一般的。

秦野の認識だと「古代言語」は「古韓音」でなくアイヌ語ですな。
歴史で見ると、韓国は紀元前には原野で統治国が無かったことが中国史籍に書かれている。
「古韓音」はアイヌ語、中国語「呉音、漢音」の複合語した古語でしょうな。

> 楽浪郡で独自に変化した「楽浪方言」

楽浪郡は313年には高句麗に滅ぼされ、後に高句麗は楽浪郡の跡地に遷都した。楽浪・帯方の土着漢人達は高句麗・百済の支配下に入り、これらの王国に中華文明を伝える役割を果たした。この文章の「王国に中華文明を伝える役割・・」を真に受けていないでしょうな。313年に応神天皇と仁徳天皇の世代交代が行われる。この辺の経緯は創作ですな。

応神天皇(おうじんてんのう、第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日(270年2月8日))。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。誉田天皇(ほむたのすめらみこと/ほんだのすめらみこと)、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とも称される。

仁徳天皇(にんとくてんのう、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日(313年2月14日) - 同87年1月16日(399年2月7日))。

「呉音」の認識のズレですが1000年はありますな。「呉音」は呉 (春秋)の頃の「呉音」で、中国では日本人を「呉の太伯の子孫」になる。的外れですな。

> 白村江敗戦によって日本に大量亡命し、日本語しか話せなくなった子孫の「日本語訛りの朝鮮音」が日本でいう「呉音」です。

呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉。

ところで、藤井さんの家紋は文章から柏紋、又は梅鉢でしょうな。


1137管理人:2013/02/04(月) 01:30:05
Re: 白村江の戦い1350周年
藤井游惟さんへのお返事です。

> 秦野さんへのお返事です。
>
> > 藤井游惟さんへのお返事です。

> 470年頃と思われる稲荷山古墳鉄剣に用いられている「弖」/テ/という漢字は中国にはなく、和製漢字だと思われていましたが、実は414年頃に建立されたと見られる高句麗好太王碑文にも用いられています。
>
> 高句麗好太王碑は中国領内にあり、これは「朝鮮語」ではなく「満州語」を音写したもののはずです。
>

>
> 「弖」/テ/という中国にはない特殊な漢字が、日本語・満州語を記述するのに共通に用いられているのがそのなによりの証拠でしょう。


秦野さん、藤井さん、こんにちは。ちょっと面白そうな論議をしてますね。


ひとつは、300年前代前後の遊牧民南下の問題。280年ごろにマキムクへその遊牧民系の流れが入ったとすると秦野さんの扶余王の話がかかわってきそうです。

もうひとつは、ワカタケル鉄剣銘の件ですね。なるほど「弖」の字が好大王碑文にみえ、それがさらに満州方面の言語と関わるとなる面白いですね。

銘文の内容 [編集]

(表)
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
(裏)
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也
書かれている文字を解釈すると、
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表) 其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」


よく考えてみると、いろいろおかしな系譜だともいえそうです。

大彦系で、膳氏、その子孫の高橋氏が出てきていることは、おそらく「加利」の発音が、膳氏系図の「磐鹿六雁命」の「雁(カリ)」と関係するでしょう。系譜はこちら。
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-13.html


「足尼」は、武内宿袮時代の「足尼」の称号で、4世紀半ばとみます。

大彦→大稲興命→磐鹿六雁命(膳氏祖)→佐白米→余磯(高橋氏祖)

これが、上記系譜では、下記のように対応するでしょう。

上祖名意富比垝→其児多加利足尼→其児名弖已(テヨ)加利獲居(稲余・トウヨ)→其児名多加披次(タカハシ)獲居(余磯・高橋氏祖)

「別(ワケ)」というのは、どうもこうみると、分氏の祖の意味がありそうですね。

そこでその後の系譜ですが、たとえば下記のタサキ別も、タサキ氏の祖と見えるかもれません。次は別がついてないのですが、半を「ハン」と読めればテ(トウ)ヒ氏、そして、カサハヨを笠原氏、その後ここでまた分氏の祖となったのが、ヲワケ臣となるでしょうか。

其児名多沙鬼獲居→其児名半弖比→其児名加差披余→其児名乎獲居臣

この「乎」がどうも「コウにちかいオウ」の音のようです。類似した事例で継体系図の「乎非王」がいて、後代「弘斐王」になります。それで横道にそれて、弘計天皇(をけのすめらみこと)の弘計(コケイ)が、もしかすると継体系譜のそれと関わってくる可能性を感じます。袁奚天皇

呉音だと「オ・ヲ・ゴ」になってます。
http://ja.wiktionary.org/wiki/

加差披余を通説どおり、笠原使主とすると、その基盤になる鴻巣にある鴻神社(氷川神社)の「鴻」あたりがちょっと怪しいですね。

確かに武蔵国造の祖が丈部氏で、その子孫がまた笠原氏なので、祖先の時代から丈刀人だという話はよくわかります。

そうすると、笠原の父「其児名半弖比」が、やはり「ハン(テ・トウ)イ」で「ハセツカ」もしくは「馳刀」

丈部氏が、銘文の大彦系で、壬生氏と関わりますが、ここで「仲国造」が壬生氏なので「半」を「ナカ」と読ませるとまたつながってきます、

 丈部は、馳使部(伝令・急使)と言われる職業的部民と解釈されている。東国に多く分布しており平安期以降に氏姓を賜る場合、多くは安倍(阿倍)姓であった。安倍氏は孝元天皇皇子である大彦命を祖としており、その子である建沼河別命と共に四道将軍として崇神十一年に東国に派遣されたとされており氏族の分布もその経路とよく一致している。従って、安倍氏の部民としての丈部氏が建沼河別命の東征に伴って移動土着したものとも推測できる。
 生部は、丈部より新しく日本書紀の仁徳七年に壬部を定むとあり、また推古一五年にも同様に壬部を定むと記されている。その職種は従来の子代・名代(大王や特定の王族に貢納・奉仕する人民(部民)の総称で,国造支配下の人民を割いてこれにあてる。)を再編し皇子の資養の為に設置し経済的軍事的基盤となしたと考えられている。尚、大生部の大は生部の中での本家筋(最有力一族)に与えられたものとする説が有力である。
http://www14.plala.or.jp/nikorobin/torimi6.html


この大生部と、この系譜に見える「多」も間接的に関わるでしょう。



『日本書紀』の記載[1]によると、笠原直(かさはらのあたい)使主(おみ)と笠原直小杵(おき)は武蔵国造の地位をめぐり争っていた。安閑天皇元年(534年)、小杵は上毛野君(かみつけののきみ)小熊(おぐま)の力を借りて、使主を殺害しようとした。使主は大和朝廷に助けを求め、小杵を破った。
この結果、使主は大和朝廷から武蔵国造であることを認知された。使主は横渟(よこぬ)、橘花(たちばな。橘樹郡)、多氷(たひ)、倉樔(くらす。後に久良(くら)郡、さらに久良岐(くらき)郡。)の4ヶ所を屯倉として朝廷に献上した。



ここに出てくる多氷(たひ)、倉樔(くらす。後に久良(くら)郡、さらに久良岐(くらき)郡が、どうも鴻巣周辺の先の久伊豆神社とか氷川あたりとかかってくるようです。

また府中かわ川崎にかけての「橘樹郡」が、系譜の「多沙鬼獲居」に似た音になりますね。

それで「小杵(オ(コ)キ)」が、どうも先の「乎獲居臣」の「コワケ(コ・キョ)」にも似てきます。
この辺は藤井さんのオ音の発音理論で解けないでしょうか。

先の笠原氏の同族にみえる「使主」は渡来系の種族長への称号なので、大彦系膳氏の配下にはいった新漢氏系の首長の系譜の系譜が混じった可能性を感じますね。大彦系に吉士集団が入り込んで難波吉士のケースのように、そのうちに神八井耳の子孫を名乗りだすケースもあって、在来系だったかどうかは微妙な感じがします。

稲荷山にはまだ未発掘の巨大円墳があり、これがどうも新羅系、さらには上記の新漢人系つまり「穢」人とにらんでます。満州に近い地域でしょう。

大彦の年代をこの系譜から推定すると1世代25歳とすると、310年代、30歳とすると260年前後になりそうですが、もしかすると前者の可能性を感じてますが、新漢人の本体が入ったのが530年頃と感じますので、磯城の宮は、どうも「継体最後の526年9月、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す」

および。欽明の別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇の「磯城島金刺宮」ではないかと感じます。

ただ問題は「獲加多支鹵大王寺」の時代に「吾」が「佐治」下との記載で、「吾」を、たとえば、楽浪・秦韓系の自集団の呼称「阿」とか、その系統と類推した三角縁神獣鏡銘文にみえる「吾」氏とすると、「私」の意味ではなく「我ら」と見なし得れば解決できるかもしれません。

武烈天皇8年12月8日(507年1月7日))。 名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと

この雄略、武烈につく長谷部が、つまり丈部なのですが、彼らと武蔵国造の祖・丈部氏の伝承が深く関わっていただろうことはよくわかります。長谷部が、刑部のケースのように入部として全国に展開し、その領地を守る一族もでてきたでしょう。

「臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺」「在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」

で分けるとどうなるか、

臣等は、ワカタケル大王の時(寺)代から今に至る来る(まで)、世世杖刀人の首として、奉事してきた。

磯城宮に在りしときに、吾等は天下をたすけたことを(記念して?)、この百練利刀に、吾等の奉事根源を記し造らしめた。(ことによる刀である)

こんな感じの解釈ではないでしょうか。「寺」は「時」でしょう。


1138藤井游惟:2013/02/04(月) 05:27:20
Re: 白村江の戦い1350周年
http://www.youtube.com/watch?v=GrW9HbymQmo

http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1139秦野:2013/02/04(月) 06:50:11
Re: 白村江の戦い1350周年
藤井游惟さんへのお返事です。

「山東方言音」である根拠は山東から楽浪を通り、日本とでも言いたいのですか。

根拠はともかく、「山東方言音」は遭っている。「古韓音」は別の形で日本に入っている。

注意してください。山東の地は始皇帝の本拠地ですぞ。

「それをCDに録音して中国全土に配ったのですか?」そうです。配ったのですな。


> その朝鮮式漢字音の原型が「楽浪方言音」であり、さらにその原型が「山東方言音」だと言っているのです。
>
> 「山東方言音」と「楽浪方言音」の差が「古韓音」と呼ばれる幾つかの漢字の特殊な発音です。


河内源氏ですか、渡来系ですな。管理人さんと同根ですな。聖徳太子の末裔、ユダヤ系ですな。大秦の一派ですか。

源 義隆(みなもと の よしたか、生年未詳 - 平治元年12月26日(1160年2月5日))は、平安時代末期の河内源氏の武将。
源義家の七男(六男とも)。森冠者、陸奥冠者、陸奥六郎または陸奥七郎などと号した。七男であるが、六郎ともいう。官位は無位無官と看做されるむことが多いが、宮内少大輔従五位下に任ぜられるとも。義家の子の中で一番の長命であり、一族の長老として尊崇を集める。相模国毛利庄を領した。

> > ところで、藤井さんの家紋は文章から柏紋、又は梅鉢でしょうな。
>
> 私の家紋は鶴の丸であり、遠祖は織田信長の重臣だった森可成、さらにその遠祖は八幡太郎義家の六男とも七男とも言われる「陸奥六郎(七郎)義隆」です。


1140藤井游惟:2013/02/04(月) 15:16:28
Re: 白村江の戦い1350周年
秦野さんへのお返事です。

> 「山東方言音」である根拠は山東から楽浪を通り、日本とでも言いたいのですか。

そのとおりです。
日本で言う「呉音」は山東→(遼東)→楽浪郡(狭義の朝鮮)→百済→日本と伝わってきたと言っているのです。

山東方言を話す中国人が遼東半島の原住民(恐らく満州族)を追い払い、そこからこぼれ出た中国人が半島北部の平安道を中心とする狭義の朝鮮地域に植民国家を作った。

『史記』によれば「箕氏朝鮮」の建国は紀元前1122年だと言われていますが、それは疑わしいとしても実在したことは確かで、紀元前194年に燕から亡命してきた衛満という人物に乗っ取られて「衛氏朝鮮」となり、それも紀元前104年に漢の武帝によって滅ぼされ、中国直轄の楽浪郡となったのです。

ここに住む中国人達は、太守などの幹部は長安や洛陽などから派遣されてきたとしても、商人などの一般庶民はその祖先がやってきた山東方言を原型とする中国語を話していたはずであり、また山東・遼東とは盛んに人の往来があったため、山東方言と楽浪方言は大きく乖離することはなかったものの、長い年月の間には方言差が生じ、楽浪独特の発音をする漢字も生じ、また「弖」の様な独自の文字も生まれた・・・・それが「古韓音」の原型だと言っているのです。
アメリカ英語とイギリス英語が違うのと同じです。

楽浪郡が中国の植民地であった時代には中国人と現地人(朝鮮人)の居住地域は明確に分けられ、そこに住む中国人は移住後何世代経ても中国語を話せたはずです。
しかし、楽浪郡は313年に高句麗に滅ぼされ、そこに住んでいた中国人たちで生き残った者は、遼東や山東に逃げたり、南の馬韓(百済)に逃げたり、逃げ遅れて高句麗に捕まったりしたでしょう。
高句麗に捕まったり、百済に逃げたりした中国人の中で読み書きできる者は書記官として採用されたでしょう。

宗主国人であった楽浪郡時代とは異なり、高句麗や百済に逃げた中国人達は、人為的に中国語環境を作ることができなくなり、二世代もすれば高句麗語(満州語の一方言)、百済語(朝鮮語)しか話せなくなったはずであり、この朝鮮語訛りの楽浪方言漢字音が「朝鮮漢字音」

その朝鮮漢字音は日本にももたらされ、稲荷山古墳鉄剣にも「弖」の字が用いられている。
(朝鮮語学者の藤本幸夫氏は、稲荷山古墳鉄剣銘の「中」という文字の使い方は朝鮮漢文独特の用法であり、この文を書いたのは朝鮮人だったと推定しています)

しかし、それが日本に大きく広まったのは、663年の白村江敗戦による百済人大量亡命以降であり、『記紀万葉』に見られる「上代特殊仮名遣い」こそがなによりの証拠。

しかし、日本に来た百済人達も二世代ほどで日本語しか話せなくなり、その証拠に740年頃から「上代特殊仮名遣い」は急激に崩壊してゆく。
日本語しか話せなくなった世代の百済系書記官達の日本語訛りの朝鮮漢字音が、日本でいう「呉音」だと言っているのです。


>
> 「古韓音」は別の形で日本に入っている。

どんな形で入ってきたんですか?
『記紀万葉』以前に日本国内で作られた「文章」と呼べるもので、現存するのは「稲荷山古墳鉄剣銘」と成立年代の疑わしい「推古期遺文」ぐらい。

『記紀万葉』、特に『万葉集』に盛んに用いられているからこそ「古韓音」という変わった発音があったことがわかったのではありませんか?(万葉集には「弖」の字も盛んに用いられています)
>
> 注意してください。山東の地は始皇帝の本拠地ですぞ。

始皇帝の本拠地は黄河最大の支流・渭水流域の「秦」(現在の陝西省)です。
子供の頃は人質として隣の「趙」で過ごしていますが、そこも現在の「山西省」です。
全土統一後も陝西省の長安(現在の西安)に都をおいています。

故に始皇帝が話していた中国語は陝西方言か山西方言であって、山東方言とは何の関係もありません。

> 「それをCDに録音して中国全土に配ったのですか?」そうです。配ったのですな。

あほらし・・・・
じゃあ、そのCDを見せてくださいな(^^)

>??河内源氏ですか、渡来系ですな。管理人さんと同根ですな。聖徳太子の末裔、ユダヤ系ですな。大秦の一派ですか。

弥生人の子孫なら、多かれ少なかれ皆「渡来系」です。
あなたは縄文人の直系子孫なのですか?(^^)

さて「頭のご不自由な方」のお相手をするのは疲れました。

今後のおつきあいはご遠慮させて頂きます。<(_ _)>



http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1141秦野:2013/02/04(月) 19:42:54
Re: 白村江の戦い1350周年
藤井游惟さんへのお返事です。

> さて「頭のご不自由な方」のお相手をするのは疲れました。

暴言を吐く割に歴史では頭の寂しい人ですな。良く見ろ、山東省は「秦の始皇帝はここを治所に琅邪郡・・」琅邪郡があった所だ。常識だぞ。

ろうや【琅邪 Láng yá】

中国の古地名。瑯邪,瑯琊,琅?とも書く。春秋時代越王句践(こうせん)が現在の山東省膠南県南西の地に黄海を望む台館を起こし,諸侯と会盟を行ったという。秦の始皇帝はここを治所に琅邪郡を置き,28年(前219)の泰山封禅ののち琅邪台を設け,秦朝の頌徳碑を建てた(琅邪台刻石)。前漢も今の諸城県を治所に琅邪郡を置き,後漢は今の臨沂(りんぎ)県を中心に琅邪国とした。東晋・南朝で第一流の名族とされた王導一族は,琅邪・臨沂の出身である。

呉音も理解できず、勝手な創作をし「上代特殊仮名遣い」とは、お粗末ですな。


1142棘の紀氏:2013/02/04(月) 19:46:00
Re: 白村江の戦い1350周年
> ここに住む中国人達は、太守などの幹部は長安や洛陽などから派遣されてきたとしても、商人などの一般庶民はその祖先がやってきた山東方言を原型とする中国語を話していたはずであり、また山東・遼東とは盛んに人の往来があったため、山東方言と楽浪方言は大きく乖離することはなかったものの、長い年月の間には方言差が生じ、楽浪独特の発音をする漢字も生じ、また「弖」の様な独自の文字も生まれた・・・・それが「古韓音」の原型だと言っているのです。




弖・[休−木+弖] ・[石+弖]」はそれぞれ「[砥−石]・低・砥」の異体字で、国字ではない。 http://ksbookshelf.com/nozomu-oohara/Waseikanji2/Waseikanji01.htm
弖・・・砥−石=氐

氐(てい、?音:D?/D?)は、かつて中国の青海湖(現在の青海省)周辺に存在した民族 。チベット系というのが有力で、紀元前2世紀ごろから青海で遊牧生活を営んでいた。 近くには同じく遊牧を生業とする羌族がいた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/テイ_(民族)
自らを古の槃瓠の後裔と称し、春秋戦国時代より現在の陝西省から甘粛省南部にあたる地域に暮らし、自らの王を戴いていた。
元鼎6年(前111年)、前漢の武帝によってその地に武都郡が置かれると、氐族は西の青海湖付近に追いやられ、山間部に暮らすようになったが、一方で中原に残って暮らす者もいた。
後漢の建安年間(196年 - 220年)、興国氐王の阿貴、白項氐王の千万にはそれぞれ1万あまりの部族がおり、建安16年(211年)に馬超に従い曹操に対して乱を起こした(潼関の戦い)。その後、阿貴は曹操の部将・夏侯淵に攻め滅ぼされ、千万は西南の蜀へ入ったが、その部族は去ることができず皆曹操に降った。
五胡十六国時代(304年 - 439年)になると、氐族は成漢,前秦,後涼などの国を建てた。中でも前秦の苻堅は他の諸国を次々と傘下に入れて、一時華北を統一した。しかし天下統一を狙って興した南征軍が東晋に大敗し、それがもとで前秦は崩壊してゆき、394年に滅んだ。最後の氐人国家であった仇池が楊堅によって滅ぼされてからは漢人と同化し、史書から姿を消した。
一部の氏族は現在のミャンマーに南下し、パガン王朝を建国したという俗説がある。

習俗 [編集]
氐の種族は一つではなく、青氐・白氐・?氐などに分かれており、彼らの氏族トーテムや、服の色などに基づいて部族名としていた。彼らの自称は“盍稚”(がいち)といい、それぞれ王侯がおり、中国から多くの封拜を受けた。
氐にはそれぞれ姓があり、中国の姓に似ていた。皆髮を編んでおり、衣服の色は青か絳(あか)である。織布ができ、農業もしながら、豚・牛・馬・驢騾を畜養していた。
言語 [編集]
彼らの言語は中国とは異なり、羌や雑胡[1]と同じだが、多くの人々が中国語を理解しており、中国に雑居する者もいた。
結婚 [編集]
婦人は嫁時に衽露を着る。衽露は中国の袍に似ているところがある。多くの点で羌と似ているので、おそらくは両族とも街,冀,?道に在った西戎の子孫だと思われる。

鴟 氐族. 中国では、悪い鳥の代表が鴟梟(シキョウ/ふくろう や みみずく) ... http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1539
木兎
「禹」を 含む字からはかすかに「白く丸い」意味が読み取れ(偊、竬、踽、齲とう)、「ウサギ」では ないかと予想されます? http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2762
(鴟) (夷)にして死す http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1423
羽人(仙人)の姿・・・ム(座 巫 ひざまずく)
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/old_site/data7.html

鴟とは?動物名。 (1)タカ目タカ科の鳥。全長約60センチメートルで暗褐色。尾の形がタカ の尾としては珍しく凹形。全国の低山や海岸などに生息し、動物や魚の死骸などを 食べる。ピーヒョロロと鳴きながら輪を描いて滑翔(かつしよ... http://www.weblio.jp/content/

読み方:トビ(tobi)
ワシタカ科の鳥
鷹と鷲(ワシ)には明確な 区別がなく、タカ科の中で比較的小さいものが”鷹”、大きいものが”鷲”と呼ばれています 。 http://park1.wakwak.com/~english/note/name-bird.html
「 わす(輪周)」、「くち(鷹)」など。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1026115730
古事記や日本書紀に「天日鷲命(アメノヒワシノミコト)」という神がいる事から、上代語に「わし」やその語源である「わす(輪過)」はあったようです。
懐古の思念「輪過 里」. 懐古の思念 懐古:昔のことを懐かしく思うこと。
鷹(場合によってはワシ?)を神格化したもの ..
古代名:ヘル、ホル/ギリシア名:ホルス/別称・別綴り:− 性別:男性 ... 力強い猛禽類 である鷹(場合によってはワシ?)を神格化したもの ... http://www.moonover.jp/bekkan/god/horus.htm

27664;族は成漢・前秦・後涼などの国を建てた。 - TeaCup
鴟 氐族. 中国では、悪い鳥の代表が鴟梟(シキョウ/ふくろう や みみずく) ... http://8628. teacup.com/toraijin/bbs/2551 テイ魚ってのは、三国志にも出てくる西方のテイ族の 崇拝していた神の名前ですよ。 羌族の信仰していた禹と同じ神か、似た ...
テイ魚ってのは、三国志にも出てくる西方のテイ族の崇拝していた神の名前ですよ。 羌族の信仰していた禹と同じ神か、似た神ということになりますね。 ...
http:/
40:巫俊(ふしゅん)
人魚は複数の箇所に筆記されていたと思います。
どこまでを「人魚」の枠に入れるかにも由ると思いますけど。
テイ魚ってのは、三国志にも出てくる西方のテイ族の崇拝していた神の名前ですよ。
羌族の信仰していた禹と同じ神か、似た神ということになりますね。
中国には人面魚を神として崇拝する歴史が新石器時代からあります。

テイ族は低地に住むようになり、遊牧から農耕へと生活をシフトしていった羌族とみられている。 ...
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/cat24/
チベット系
氐(てい、拼音:Dī/Dǐ)は、かつて中国の青海湖(現在の青海省)周辺に存在した民族。チベット系というのが有力で、紀元前2世紀ごろから青海で遊牧生活を営んでいた。近くには同じく遊牧を生業とする羌族がいた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/テイ

古代羌 人(きょうじん)
禹は黄河流域の新石器文化の中で生まれた洪水神を原型とし、その神話は古代羌 人(きょうじん)に受け継がれた。羌はすでに甲骨文に見え、それによる ... http://www.waseda.jp/student/shinsho/html/67/6717.html
洪水神禹の神話、殷代の羌人と四川への移動、石中生誕譚、蜀王蠶叢、三星堆文化、羌戈大戦などが皆1系列の物語へと収斂していくようである。

羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里_人民中国
説文解字』の解釈では、「羌は、西戎の牧羊人で、人と羊からなる」とあり、羌の字は人と 羊の組み合わせと説く。 チャン族 ... ほかの2人は神農と黄帝)の1人目で、「成紀」は 今日の甘粛省南部天水地区、古くは「方羌の地」とされる。 『史記・補三 ... http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-11/09/content_228967.htm
チャン人、秦人は中華の源の一つ


1143棘の紀氏:2013/02/04(月) 20:07:31
氐(てい) 東テイ(魚是※)人?
「東テイ(魚是※)人」、呉の東海域に二十余国あったといいます。楽浪海中倭人百余国とは別表記なので、地理分析からは<東海域の北・倭人/南・東テイ人>となります。※ヒシコ(カタクチイワシ)、中国ではナマズ
また『後漢書』では東テイ人の次に夷州・セン州があって徐福伝説を伝えていることからここは日本列島を指していそうで、ますます<東テイ人=琉球弧諸島人>の可能性が高いと言えます。
その東テイ人国群の北端、世界遺産「屋久島」に上陸しました。図?はそのマップ、南海に浮かぶ標高差2000mの大山塊です。
多量の雨と標高差がもたらす亜熱帯から亜寒帯までの豊かな植生は感動もの、中でも圧巻なのが古代杉の大群生です。
図?はその代表的なウィルソン株と縄文杉、そして宮崎アニメ「もののけ姫」の素材となった白谷雲水峡「苔むす森」。
私は標高1200mのやくすぎランドから麓の安房港まで約1時間、折畳自転車でノーキックの大滑走、まさに「ドリームアイランド」です。
さてその後の東テイ国と倭国の関係はどうなったのでしょうか、再び中国史書を参照してみましょう(図?)。
3世紀『魏志』では既述の如く薩南諸島までは及んでいません。これが5世紀『宋書』になると有名な倭武の上表文には「東征毛人55国/西服衆夷66国」(計121国)とあり、『漢書』の「倭人100余国/東テイ人20余国」(計120余国)との対比が暗示的です。倭武が中国側の認識に合わせて領土を主張したとすれば、「衆夷66国(東テイ20+倭46※魏時での所通倭は九州中北部で30)となります。
これを補強しそうなのが7世紀『隋書』でのタイ(大委)王・多利思北孤の領土主張「東西五月行/南北三月行」で、琉球弧まで含まれそうです。
これらの分析を総まとめにして地図にプロットしたのが図?です。
※なお多利思北孤の主張視点(倭武も同じ)ではその所在が九州北部でなくては成り立たず、彼は大和の聖徳太子ではないことになります。
また書紀には同時期に「掖玖人が帰化した」と記しており、屋久島が大和の領有地ではなかったことを示しています。
さてこの琉球弧東テイ人と列島倭人との関係は古代どうだったのでしょうか。
中国史書には何も記されていませんが、考古学上では弥生・古墳時代は西日本の首長級墓からゴホウラやイモガイといった貝輪加工品が頻出しています(図?)。これらの貝は沖縄海域からでしか採れないもの、驚くべき交易です。墓の主にとってはこの上ない宝物だったことでしょう。
そしてもうひとつが「稲の道」(図?)、列島への稲の伝播は、これまでは「弥生時代に半島経由での伝播」とされてきましたが、近年では「縄文時代から琉球弧経由での伝播」もあって、今のコメはこの熱帯種と半島温帯種のかけ合わせによる寒冷対応米であることがDNA鑑定により解っています。
この交易・伝播の原動力となったのが<黒潮―対馬海流>です(図?参照)。
私たちはつい「陸路での半島経由文化」にしか目を向けない史考をしがちですが、日本文化の源流を探るには「海路での琉球弧文化」視点も欠かせません。
弥生時代の寒冷化による大陸・半島人流入以前に、縄文時代の海洋交流が列島人文化の骨格形成に寄与していること、重要です。
で、明日から東テイ人の本拠地・沖縄本島に旅立ちます。 http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/


1144棘の紀氏:2013/02/04(月) 20:28:35
氐宿
テイ宿 - Wikipedia
氐宿(音読:ていしゅう(学術的にはていしゅく)、訓読:ともぼし)は、二十八宿の一つで 東方青龍七宿の第三宿。距星はてんびん座α星。 [編集] 星官. 星官(星座)の氐はてん びん座α、ι、γ、βの4つの星で構成される。 http://ja.wikipedia.org/wiki/テイ宿
由来と歴史 [編集]
元々はさそり座のはさみの部分であったとも考えられている。後に星座として独立した。このため、黄道十二星座の中では最も新しいものと考えられている。
黄道十二星座の1つなので、元々はメソポタミア文明に由来を持つ可能性が高い。
神話 [編集]
ギリシア神話では、正義と天文の女神アストライアーの所有物で、正義を計る天秤だとされる。かつては秋分点がこの星座にあったので、時を計る天秤だったという説もある。なお隣の星座であるおとめ座はアストライアーをかたどったものとする説がある。

アストライアー (’Αστραία、Astraia)は、ギリシア神話に登場する女神である。神々の王ゼウスとテミス女神のあいだの娘。この名は、「星乙女」の意味である[1]。ホーラ(ホーライ)三女神の一柱で、正義の神格化であるディケー女神と同一視された。有翼の女性として表される事も。
源流はローマ神話で、ほぼ同じ名前で対応する女神が存在しラテン語形ではアストライアー(Astraea)またはアストレアとも。ローマ神話での正義の女神であるユースティティアと同一視された。

アストラ (astra) は、サンスクリットで「飛び道具」「矢」を意味する語。 http://ja.wikipedia.org/wiki/アストラ

アストロラーべ(天体観測儀)、四分儀、詳細な航海図などヨーロッパ人の新大陸発見を 実現させるに至った精巧な機器はいずれも ... 天体観測儀): 近代までヨーロッパで広く 利用されていた最も重要な科学的機器の1つ。ムスリムによって開発された。 アストラー べ ... http://www.islam-guide.com/jp/ch3-9.htm
イスラームは人びとに知性と観察力を駆使するように教えている。それゆえイスラーム拡大期の僅か数年で、偉大な文明や研究施設が隆盛を見た。東洋思想と西洋思想の統合、新旧思想の統合は医学、数学、物理学、天文学、地質学、建築、芸術、文学、歴史などの学問に多大な進歩をもたらした。代数学、アラビア数字(数学の発展に不可欠であった)、ゼロの概念など多くの重要な学問体系がイスラーム世界から中世ヨーロッパに伝えられた。アストロラーべ(天体観測儀)、四分儀、詳細な航海図などヨーロッパ人の新大陸発見を実現させるに至った精巧な機器はいずれもムスリムが開発したものなのである。

アストロラーべ(天体観測儀): 近代までヨーロッパで広く利用されていた最も重要な科学的機器の1つ。ムスリムによって開発された。

ムスリムmuslimとは、元来、「帰依(きえ)する、服従する」を意味するアラビア語の動詞アスラマaslamaから派生した形容詞・名詞で、「帰依者」を意味する。[ http://100.yahoo.co.jp/detail/ムスリム(イスラム教徒)/


1145藤井游惟:2013/02/04(月) 23:24:11
Re: 白村江の戦い1350周年
http://ksbookshelf.com/nozomu-oohara/Waseikanji2/Waseikanji01.htm

http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1146むらかみからむ:2013/02/04(月) 23:59:00
古代史は石渡信一郎からだ
【古代史は石渡信一郎から始まる】
と信じています。ぜひ 以下の文 感想聞かせてください。。

『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 ?実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ?貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ?地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記???を 徹底的に、探究しました。
?古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
?七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
?地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)

今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年〜340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
?草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
?発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
?稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
?少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

古墳−−−−−−年代−−−−被葬者
?箸墓−−−−−385年頃−倭王旨(七支刀)
?渋谷向山古墳−410年頃
?行燈山古墳−−430年頃−倭王讃(宋書)
?五社神古墳−−440年頃−倭国王珍(宋書)
?中ツ山古墳−−450年頃−倭国王済(宋書)
?石津山古墳−−475年頃−倭国王興(宋書)
?誉田山古墳−−510年頃−倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
?大仙古墳−−−520年頃−男弟王(隅田鏡)
?見瀬丸山古墳−570年頃−獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
?太子西山古墳−585年頃
?石舞台古墳−−620年頃−阿毎多利思比孤(隋書)
?天武陵(旧)−645年頃−ワカミタフリ(隋書)
?持統陵(旧)−645年頃

で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳−−−被葬年−本名−書紀の中の名前【家系図】
?箸墓−−−393−旨−ミマキイリヒコ【初代】
?渋谷向山−409−?−イクメイリヒコ【?の子】
?行燈山−−438−讃−イニシキイリイコ【?の子】
?五社神−−442−珍−ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【?の弟】
?中ツ山−−462−済−ホムタノマワカ&尾張連草香【?の孫】
?石津山−−477−興−カワマタナカツヒコ&凡連【?の子】
?誉田山−−507−武・日十・余昆−昆支&ホムタワケ【?の子の婿】
?大仙−−−531−男弟−ヲホト&オホサザキ【?の子の婿。?の弟】
?見瀬丸山−571−ワカタケル−アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【?の子】
?太子西山−585−?−ヌナクラノフトタマシキ【?の子】
?石舞台−−622−アメノタリシホコ−タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【?の子】
?旧天武陵−645−ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【?の子】
?旧持統陵−645−?−蘇我入鹿【?の子】

大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書紀です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書紀編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』


1147秦野北斗:2013/02/05(火) 08:27:25
Re: 古代史は石渡信一郎からだ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001171M.jpg

http://www.geocities.jp/bowel_of_beelzebub/report/teburi.html



1148棘の紀氏:2013/02/05(火) 10:06:29
イエス・キリストの妙法蓮華経
日本語 と ヘブライ語 | Renaissancejapan
大和民族はユダヤ人だった 」の著者であるユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーグは 、 カタカナとヘブライ語の驚くほどの類似 .... 河勝(ハタ カワカツ)の氏寺で、別名 キリスト寺とも呼ばれ、聖徳太子の寄進で建立、聖徳太子自身も 帰依していたと言われ ます! http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/276.html
聖徳太子が良く分からない存在であるのは、彼の神道・ヘブライイズムがほとんど削除され、後に熱心な仏教徒であったが如く書きかえられているからだと思います。

聖徳太子を仏教の偉大な教主として捏造したのが、唐留学から帰国したエリート僧の道慈であったと考えれば、全て説明が出来るのではないでしょうか。
道慈
道慈(どうじ、生年不詳 - 天平16年10月2日(744年11月14日))は、奈良時代の三論宗の僧。俗姓は額田氏。大和国添下郡の出身。
702年(大宝2年)唐へ渡り、西明寺に住して三論に通じて、仁王般若経を講ずる高僧100人のうちに一人に選ばれた。718年(養老2年)帰朝し、日本三論宗の第3伝とされる。翌719年(養老3年)その有徳を賞されて食封50戸を賜った。729年(天平元年)律師に任じられ、大安寺を平城京へ移設することに尽力している。735年(天平8年)扶翼童子6人を付与された。翌736年(天平9年)大安寺大般若経転読会を始め、739年(天平12年)には大極殿最勝王経講説の講師をつとめた。
大宝の遣唐使として43年ぶりに入唐を果たした道慈は、帰国後に『愚志』という書物を著して、唐と異なり教典に従っていないことが多い日本の仏教界を批判し、僧尼の質を向上させるために戒師を唐から招請することを提案した。戒師の招請は天平勝宝の遣唐使が帰還する際に、日本に渡ることを承諾した鑑真の来日によって実現することになる。[1]
また、「日本書紀」の編纂にも関与したという説もある、漢詩にも優れ「懐風藻」に入集している。

聖徳太子(574-622)も羅什訳の『妙法蓮華 経』を読んで有名な『法華義疏』を著作された。 このように羅什訳の『法華経』は中国、 韓国、日本など東アジアに多大な影響を与えるに至った。 鳩 http://www.kosaiji.org/pilgrim/china/raju.htm
鳩摩羅什 (くまらじゅう)
 西暦350頃〜409年。「羅什」とも略称される。中国の南北朝時代初期に仏教経典を訳した僧。インドの貴族の血を引く父と、亀茲(キジ)国の王族の母との間に生れた。7歳のとき母とともに出家した。はじめ原始経典や阿毘達磨仏教を学んだが、大乗に転向した。主に、中観派の諸論書を研究した。384年、亀茲国を攻略した呂光の捕虜となり、以後18年間で涼州での生活を余儀なくされた。のち、401年に後秦の姚興(ヨウコウ)に迎えられて長安に入った。以来、10年足らずの間に精力的に経論の翻訳を行うとともに、多くの門弟を育てた。
 東アジアの仏教は、鳩摩羅什によって基本的に性格づけられ方向づけられたといってよい。主な訳出経論に『坐禅三昧経』3巻、『阿弥陀経』1巻、『大品般若経』24巻、『妙法蓮華経』7巻、『維摩経』3巻、『大智度論』100巻、『中論』4巻などがある。門弟は三千余人に上ったという。

ヤハウェの法を護持し、宣べ伝えよ≪9≫
ヤハウェの法とは、二種類の法華経と南無妙法蓮華経。 すなわち、 《釈迦牟尼仏の 妙法蓮華経》。 《イエス・キリストの妙法蓮華経(これはヨハネの黙示録と呼ばれるもの)》 。 そして、この両者をまとめる 《南無妙法蓮華経》。 この南無妙法蓮華経は、天台大師 が ...
神の名JHVHは、法の名アーメンハレルヤよりも重い。
すなわち、日蓮如来の《人と法に優劣なし》の言葉は予言であり、
今、わたしがこの言葉を成就する。
神の名JHVHと、法の名南無妙法蓮華経は、わたしヤハウェに於いて優劣なし。

「高天原」の謎!
タガーマハランは、約束の地へ向かう途中に存在するアジア大陸の高原であり 、天に近く、そして下界を見下ろすことのできる静かな聖地であった ... そして十数年経っ た後、満を持してアブラハム一家は約束の地へと、タガーマハランから旅立つのです。 http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=52
大和民族の魂の故郷「高天原」の謎! | 日本とユダヤのハーモニー


1149管理人:2013/02/05(火) 19:42:11
Re: 古代史は石渡信一郎からだ
むらかみからむさんへのお返事です。

はじまして?、以前も掲示板でお会いしましたね・・。
石渡さんの本は、以前読んだ覚えがあります。特に鉄剣銘の531年説は斬新でした。
他はちょっと記憶してなかったのですが、下記のご紹介を読むと面白いですね。


> 石渡信一郎は、まず先に、上記???を 徹底的に、探究しました。
> ?古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
>  (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
>  例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
>   及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年

たぶん先のとおりの解釈なら531年製造で問題ないと感じます。

特に弥生時代の年代がやはり問題ですね。

3世紀中葉までの庄内式土器までか、それとも布留0、1式の4世紀初頭まで入ってしまうのか?この辺がよくわかりません。もっとも土器はすぐにパッっと変化するものでもないでしょうし、民衆の生活自体は古墳時代に入ってもあまりすぐには変化なかったかもしれませんね。


> 結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
> 4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。


> では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
> ?草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
> ?発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
> ?稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
> ?少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

この点もそうですね。とくに?は驚きですね。



> 石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
> 典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。


下記の年代は、ちょっとどうかなーと感じるのですが・・・。
>
> 古墳−−−−−−年代−−−−被葬者
> ?箸墓−−−−−385年頃−倭王旨(七支刀)
> ?渋谷向山古墳−410年頃
> ?行燈山古墳−−430年頃−倭王讃(宋書)
> ?五社神古墳−−440年頃−倭国王珍(宋書)
> ?中ツ山古墳−−450年頃−倭国王済(宋書)
> ?石津山古墳−−475年頃−倭国王興(宋書)
> ?誉田山古墳−−510年頃−倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
> ?大仙古墳−−−520年頃−男弟王(隅田鏡)
> ?見瀬丸山古墳−570年頃−獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)

今私のほうで考え始めている年代ですが、下記のような感じです。(また変化するかもしれません・・・)

●奈良・九州正方位区画 AD50〜

唐子・鍵遺跡 楼閣建物を描いた土器 弥生中期後半〜後期初頭 大和?-1式 通説(〜AD50)古墳時代まで継続利用。

マキムク型前方後円墳(前期) 庄内式


●5度偏角方位区画 三角縁時代 240年〜

マキムク型前方後円墳(後期) 布留0式〜

黒塚 難升米  247年

西殿塚   248年
桜井茶臼山
箸墓 布留0/1式 260年


●7度偏角方位区画  260〜300年前後

中山大塚、椿井大塚山、乙女山

崇神陵 宮山古墳

●方位区画不明 南方海人族大彦系の時代

300〜50年

佐紀盾列古墳群

●−1度偏角方位区画 350年〜

佐味田宝塚古墳、鴨都波古墳  メスリ山古墳

造山古墳

応神・仁徳陵・ナガレ山古墳 370〜

●後期屯倉正方位区画 530〜

安閑陵
稲荷山古墳

●方位区画2 7世紀〜


> 私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
> 石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
> 副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』
>

期待してお待ちいたします?

1150管理人:2013/02/05(火) 21:05:36
Re: 白村江の戦い1350周年
藤井游惟さんへのお返事です。

> 棘の紀氏さんへのお返事です。
>
> > 弖・[休−木+弖] ・[石+弖]」はそれぞれ「[砥−石]・低・砥」の異体字で、国字ではない。
> http://ksbookshelf.com/nozomu-oohara/Waseikanji2/Waseikanji01.htm
>
> 「氐」民族、「氐」宿のお話、参考になりました。
>
> それはともかく、「弖」という文字は「氐」を左右反転させた鏡文字だと思われます。
>

なるほど、この件は重要ですね。引用ページの[人+弖]について下記の記載があります。

 W39 230406
苗字に[休−木+弖]田(ひきた)がある。「弖・[休−木+弖]・[石+弖]」はそれぞれ「[砥−石]・低・砥」の異体字で、国字ではない。『色葉字類抄(永禄八年写二巻本)』に「カタフク」また「タル」、『音訓篇立』に「テイ音 チ音 タヒラカニ イタル ヒク カタフク タル ミシカシ タキヒク」とあり、「低」は「タル カタフク」とある。『音訓篇立』の注文からも「低」の異体字であることがうかがえる。「弖」・[休−木+弓]参照。


それで、大彦系膳氏の先の系譜に下記の人名がみえます。

・傾子(かたぶこ)
?父:膳大麿
?子供:菩岐岐美郎女、比里古郎女など
?加夫子とも記す。
?欽明31年北陸に漂着の高句麗の使人を天皇の勅により接待。の記事あり。


先の鉄剣銘に見える、

其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比

のご指摘の「弖」が、上記「カタフク」の意味があって、それをまた当て字で「傾(カタブク)子」とて使用していたとすると、ちょっと重要かもしれません。膳氏が高句麗人を接待するのは、配下の新漢人がその系統だからでしょう。次代が下記ですね。

・菩岐岐美美郎女(ほききみみのいらつめ)
?父:傾子
?夫:聖徳太子
?子供:春来女王、長谷王など多数。
?太子には多数の妃があったが最も愛された妃とされている。


聖徳太子に先の長谷王、つまり馳使い=丈部=丈刀人がでてきます。太子の母の穴穂部間人の間人がまた馳使・丈部・土師氏と関わらせる見方がありますね。

この辺は、半分新漢人だと考えたほうがいいでしょうね。


1151管理人:2013/02/06(水) 02:33:32
佐紀盾列方位ライン、弥生方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001175M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001175_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001175_3M.jpg

ちょっと先に方位測量方式が不明と記した佐紀盾列古墳群の方位測量を洗い出しました。

図のようにこの古墳群の開化天皇陵と、真北の飯岡車塚古墳(京田辺市)、真南に黒田庵戸宮周辺を結ぶ−1度偏角の方位ラインが見えます。各距離は11.7km、15.2kmとなるので、3世紀後半と推定した先の7度偏角方位区画時代の11.1km尺・24.5cm尺(三角縁盤龍鏡径)を引き続き継承利用しています。

その飯岡車塚古墳からも石訓・車輪石の出土が確認され南方系と見えますが、測量方法はその際に−7度偏角から−1度偏角つまり正方位測量を目指したものへと変更された可能性があります。

先の南方海洋民系と推定した画紋帯・半円浮彫神獣鏡方位区画や、弥生方位区画以来の正方位測量との関係を予想しますが、この測量は、4世紀後半以降と推定する河内王朝の方位区画へと継承されていきます。

おそらく屯倉方位区画に時代になって、はじめて完全な正方位測量になるので、そのころに三角縁を使わない別の測量方法へ移行したことが予想できます。

それまでは、どうしても真北を出しているつもりでも、偏角がついてしまうんです。

ただ、そうすると、4世紀前半にはいった海洋系集団、つまり大彦系については、後のタケウチスクネの半島系と測量面ではあまり変わらなかった可能性が出てきますね。距離尺も偏角も同じで、大彦系の技術をそのまま半島系も継承したのでしょう。

それで、弥生末の孝霊朝の黒田宮がまたでてきます。ずっと河内王朝時代も黒田宮を意識して方位区画を構築しているんですね。

その黒田宮の位置が、どうも弥生後期初からの九州・奈良正方位方位区画図にやはり載るようです。再度作成しなおした弥生遺跡の方位区画図を添付します。正方位と5度偏角で、前者に弥生後期の遺跡が載ります。銅鐸拠点がやはりひとつの方位区画の四隅などを決める何かだったようです。5度偏角時代になると、次図のようにマキムク遺跡など弥生末期の遺跡が載ってきます。

紀元50年ごろに奈良に入ってきて、その後ずっと黒田宮周辺、つまり唐子・鍵から保津遺跡周辺に宮殿があったのでしょう。240年代以降の5度偏角方位区画の都城時代になっても、まだ黒田宮周辺に宮殿を置いていたようです。

その後崇神朝になって、ようやくマキムクや磯城や春日へ宮を移動しはじめるようです。

AD44年の楽浪の一時的な滅亡が、やはり何か九州、奈良へと移動した中国系集団の起源になっているようですね。かなりはやい速度で移動しているように感じます。

その後、後漢末の動乱や、卑弥呼の時代にもう一度中国・月氏系集団が入ってきて、奈良に都城を造ったはずです。

4世紀初頭にまた南方系集団が大挙やってきますが、この時期HLA解析だと、韓国にも南方系集団が大挙やってきているはずです。何か中国南方から琉球にかけて海進などの大きな移住をもたらす原因があったように感じます。

530年代は、オーストラリア沖の隕石衝突もしくは火山の噴火で1年以上太陽が出なかったので民族代移動が世界各地で起きてます。おそらくこの影響もあって、新漢人や秦氏がやってきたのでしょう。




1152藤井游惟:2013/02/06(水) 04:55:25
Re: 白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。

ちょっと面白いことに気づきました。
>
> 先の鉄剣銘に見える、
>
> 其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
>
朝鮮漢字音で発音すると「獲居」は/ワケ/ではなく/ワコ/となり、「ワコ(稚子)= 身分の高い人の男の子供」の意味ではないでしょうか。

正確には/huak-kö/ですが、語頭の/h/音はしばしば脱落して/wak/になり、「居」は乙類に相当するので、アクセントはLH(語尾上げ)だったと思われ、関西方言ならそうなる可能性があります。

「ホムタワケ」(応神天皇)が「ホムタワコ」即ち「ホムタ王子」の意味ならば、辻褄が合います。

今まで長く意味のわからなかった「ワケ」が実は「ワコ(稚子)= 身分の高い人の男の子供」のことだったら、古代史学会では「大発見!」ということになり、一気に名声があがるでしょう。
興味があったら、どうぞ自分で研究して論文にし、自分の研究業績にして頂いて結構です。
私の説をパクッたなどとは言いませんから(^^)。

「古漢音楽浪方言音起源説」も実は私が最初に唱えた説であり、これも国語学会その他の関係学界で発表すれば「大発見!」ということになり、名声が一気に上がるでしょうが、興味あったら自分で研究して自分の研究業績にして頂いて結構です。
私の説をパクッたなどとは言いませんから(^^)。

「大和朝廷」「戦艦大和」の発音だけで「邪馬台・大和別語説は否定できる」という説も邪馬台国関係の学会で発表すれば「大発見!」ということになり、一気に名声があがるでしょうが、興味あったら自分で研究して自分の研究業績にして頂いて結構です。
私の説をパクッたなどとは言いませんから(^^)。

私にとって、特定の学問分野でしか評価されないチマチマした研究業績なんぞどうでもいいのです。
『記紀万葉』を書いたのが百済人(及び中国人)だった、ということを完璧に証明しただけで私の名前は歴史に残るはずですから。(^^)

それよりも私の説が早く世間周知の説となるよう、お力を貸してください。<(_ _)>











http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1153管理人:2013/02/06(水) 07:50:51
Re: 白村江の戦い1350周年
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001177M.jpg

藤井游惟さんへのお返事です。


> > 其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
> >
> 朝鮮漢字音で発音すると「獲居」は/ワケ/ではなく/ワコ/となり、「ワコ(稚子)= 身分の高い人の男の子供」の意味ではないでしょうか。
>
> 正確には/huak-kö/ですが、語頭の/h/音はしばしば脱落して/wak/になり、「居」は乙類に相当するので、アクセントはLH(語尾上げ)だったと思われ、関西方言ならそうなる可能性があります。

ちょっとその辺に関係するのですが、先の鉄剣銘の発音を、さらに手を加えて下記のように考えてみました。

特にこの系譜(表)に見える「加利」は、先のとおり大彦系膳氏の系譜にみえる「磐鹿六雁(カリ)命」との関係がすでに指摘されており、膳氏系譜と鉄剣銘系譜は下記のように対比できるでしょう。

大彦/大稲興(トウヨ)命/磐鹿六雁(カリ)命(膳祖)/佐白米/余磯(アレシ・高橋祖)

意富比垝/多加利(タカリ)足尼/弖已加利(テヨカリ)獲居(稲余・トウヨ)/多加披次(タカハシ)獲居(余磯・高橋祖)/多沙鬼(タサキ)獲居(高崎)/半弖比(ハセツカイ・丈刀)/加差披余(カサハヨ)(笠原祖)/乎獲居(コワキョ)臣(笠原直使主(オミ)・小杵(コキ))


で、問題は藤井さんご指摘の「居」なんです。ご指摘のとおり「オ」に近いなら、なんとなくいいような気がするんですけどね・・・。


あと、「使主」は「オミ」と読ませて「臣」と同類です。元は半島系です。笠原直の「小杵」もしくは「使主」=「乎獲居」+「臣」で、その祖父の年代を雄略・丈刀=ハセツカイ=半弖比=仲国造でむすびつけば、ほぼすべて意味がとおります。

> 「ホムタワケ」(応神天皇)が「ホムタワコ」即ち「ホムタ王子」の意味ならば、辻褄が合います。
>
> 今まで長く意味のわからなかった「ワケ」が実は「ワコ(稚子)= 身分の高い人の男の子供」のことだったら、古代史学会では「大発見!」ということになり、一気に名声があがるでしょう。
> 興味があったら、どうぞ自分で研究して論文にし、自分の研究業績にして頂いて結構です。
> 私の説をパクッたなどとは言いませんから(^^)。
>

いやー、ちょっとやはり音声言語学はとても私の手に負えませんね。逆に藤井さんに名をあげてもらいたいところです。近いうちに研究会の方位ラインとか・・云々の資料データをすべて自由に使えるように、HP改良したいと思います。著作権は本研究会にあるとのことで、適当に自己責任で利用してもらったほうが、管理人が下手な文書書くより役に立つでしょう。関連して、またひとつ方位ラインつくりました。会報第3号でもとりあげたのですが、図のような埼玉古墳群と府中国府跡が完全な南北方位ラインです。尺が50.9KMで、28.3cm尺。隋・唐尺の手前になるのですが・・。


> 私にとって、特定の学問分野でしか評価されないチマチマした研究業績なんぞどうでもいいのです。
> 『記紀万葉』を書いたのが百済人(及び中国人)だった、ということを完璧に証明しただけで私の名前は歴史に残るはずですから。(^^)

そう、先の銘文の「弖」が好太王碑に見えるというのは、藤井さんの説ですか?

> それよりも私の説が早く世間周知の説となるよう、お力を貸してください。<(_ _)>

特に鉄剣銘関連は、どうも音声学面では手つかずのようですよ。1本論文かかれてはいかがでしょうか。





1154藤井游惟:2013/02/06(水) 10:22:31
Re: 白村江の戦い1350周年
http://www.youtube.com/watch?v=IwgXLa6UIAE

http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1155棘の紀氏:2013/02/06(水) 11:51:48
Re: 白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。
川島町役場の緯度は36°ジャスト
>またひとつ方位ラインつくりました。会報第3号でもとりあげたのですが、図のような埼玉古墳群と府中国府跡が完全な南北方位ラインです。尺が50.9KMで、28.3cm尺。隋・唐尺の手前になるのですが・・。

埼玉県秩父市吉田町 [緯度:36.003977 経度:139.06716
埋田遺跡
35.497111, 140.354167

位置, 北緯 35度59分59秒 東経139度24分3秒万年 橋緯度: 北緯 35度5701・ 東経 139.度2442. http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/699
大場天神山古墳 水戸市大場町     北緯36度19分11秒 東経140度31分8秒 ...

高坂神社古墳埼玉県東松山市. 位置, 北緯 35度59分59秒 東経139度24分3秒 http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=underbranch&amp;dd=36&amp;re=548
万年 橋緯度:               北緯 35度5701・  東経139.度2442.
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/699

高麗川 - 若宮橋の周辺
万年橋(上流から) 坂戸市菅方 若宮橋から700m上流。万年橋は毛呂山町(左岸)と 坂戸市(右岸)を結ぶ全長250m(歩測)の鋼桁橋。 県道114号線( ... 万年橋の右岸から 300m南東に 鎮座する大塚神社は、旧名が白髭社だったようである。 万年橋から眺め た ...
http://www.geocities.jp/fukadasoft/bridges/komagawa/wakamiya/index2.html
万年橋の右岸から300m南東に鎮座する大塚神社は、旧名が白髭社だったようである。

高麗川 - 高麗川大橋から終点まで
左岸:坂戸市中里、右岸:坂戸市粟生田 高麗川大橋から撮影。粟生田堰は農業用水の 取水堰。 起伏ゲートを2門装備し、右岸へ取水(最大取水量は 約0.6m3/s)している。 建設は大本組。 粟生田堰は過去には堰の設置に関して下流側の 川島町との間に紛糾 が ... http://www.geocities.jp/fukadasoft/bridges/komagawa/river/index.html


万年橋から. 白髭神社由緒. 日枝神社由緒. 高倉の獅子舞 ... 今回は掲示板の紀氏さん の著書にある高麗川にかかる万年橋周辺の遺跡を中心に探索しました。拝島橋を越え て16号に乗り一路北上し入間を抜け、407号に乗り高麗に向かいました。高萩の 交差点 ...
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/koma050326.htm
紀氏さんの著書にある高麗川にかかる万年橋周辺の遺跡を中心に探索しました。拝島橋を越えて16号に乗り一路北上し入間を抜け、407号に乗り高麗に向かいました。高萩の交差点を越えて、すこし走ると高倉天神という交差点があります。そこをすこし行って脚折月待戸の交差点を左折して数分走ると高麗川にかかる万年橋で出くわしました。なぜ万年橋が重要なのかについての詳細は紀氏さんこと保田氏の「古墳のこころ」を読んでいただきたく感じます。そこでは、要点としては真東は香取(鹿嶋)神宮を望む万年橋を測量起点としてカゴメ(六角形)方向に古代の遺跡が造営されていたとのことであります。また籠目の歌を手がかりに、万年橋を中心にそばの鶴舞、鳩山市、滑川町との関連から、いわゆる「籠の中の鳥はいついつ出会う・・鶴と亀が滑った」という歌詞との対応を考えられています。そこから外来文化特に鳩とのイメージからキリスト教とのかかわりをご指摘されているのですが、確かに行ってみると西南の高麗郡方向はもとより、四方よく見渡すことができ、測量起点としても絶好の場所であることがわかりました。




1156棘の紀氏:2013/02/06(水) 12:10:49
川島町三保谷 富田後遺跡
川島町三保谷で発掘調査中の富田後遺跡では、4世紀を中心とするくらしの跡や、ムラの統率者のお墓が数多く見つかっています。 また、6世紀の古墳跡と中世の屋敷堀も折り重なって発見され、当時のこの地の繁栄をしのばせます。 http://www.saimaibun.or.jp/h18/342.htm

富田後遺跡には縄文時代から近世までの人々の生活の跡が残されていますが、 その中でも最もたくさんの遺構が残されているのが、今から1,700年ほど前の古墳時代前期です。 http://www.saimaibun.or.jp/h18/342.htm

越辺川 - Wikipedia
ここより埼玉県道61号越生長沢線に沿い越生梅林を抜け、比企郡鳩山町で鳩川を 合わせる。東へ流れ、坂戸市で高麗川を、比企郡川島町で都幾川をそれぞれ合わせ、 国道254号落合橋を越えた川島町角泉付近で入間川に合流する。 支流、飯盛川が合流 する ... http://ja.wikipedia.org/wiki/越辺川

この越辺川の流域は、古代から渡来系の人々が在住していた場所です。 http://homepage3.nifty.com/opp/timei.htm
?古代この越辺川流域では、古代朝鮮語「オッヒー」が適用される衣一般に強く関係しており、渡来系の人がこの川をそうなずけた。
?古代この越辺川流域では、古代朝鮮語「オッヒー」が転化し和語化していた「おすひ」が意味するところの「頭からかぶって衣類を覆う衣類」に強く関係しており、渡来系の人がこの川をそうなずけた。
?古代この越辺川流域では、古代朝鮮語「オッヒー」が転化し和語化していた「おすひ」が意味するところの「女子専用の白絹でできた頭からかぶって衣類を覆う衣類」に強く関係しており、渡来系の人がこの川をそうなずけた。
私としては、この中では第3説をとりたい。すなわち、キーワードは白絹である。つまり渡来系の人々は、古代この越辺川流域にて養蚕をおこなったと想像します。越辺川周辺の鳩山町などでは、現在でも桑畑を良く見かけます。このような理由において、古代の養蚕技術あるいは養蚕に関係する古代朝鮮語に由来したその他の地名についてさらに調査する必要がでてきます。いずれこの場で明らかにしたいと思います

越辺川右岸 の沖積地を臨む台地の縁に42基の古墳が確認されています。 http://www.town.moroyama.saitama.jp/www/contents/1287035258152/index.html


1157棘の紀氏:2013/02/06(水) 12:20:50
Re: 川島町三保谷 富田後遺跡
棘の紀氏さんの追伸です。

埼玉が呼んでる?
2008.08.07(Thu.)・・・埼玉・常世岐姫神社など http://www.geocities.jp/easyclub_choro/tondeb4.htm
保田篤也著「古墳のこころ 古代日本地図・行基図に秘められた国造り達」という本で、付箋貼ることなく届いたその日に読んでしまったけど、1つだけ気になったのが、「常世岐姫神社」。
本文では、秦氏や行基を藤原氏の系統のように書かれてるけど、神社を検索して、やっぱちゃうやろと確信したような。
常世岐姫神社(八王子神社): http://kamnavi.jp/en/kawati/tokoyoki.htm
八王子神社: http://www.norichan.jp/jinja/kenkou/hachiouji.htm
渡柳常世岐姫神社: http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/5188086.html
荒木常世岐姫神社: http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/4939587.html
樫合常世岐姫神社: http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/5608211.html
石上神宮: http://www1.kcn.ne.jp/~ganes-z/image/tokoyoki.html
著書で書かれてたのは、八尾市にある「常世岐姫神社」だけど、埼玉県にもあるようで、拝見したブログによると、「荒木常世岐姫神社」「渡柳常世岐姫神社」が行田市、「樫合常世岐姫神社」が深谷市だそうで。
そういえば、著書にも埼玉県が出てきてましたね、「籠の中の鳥」が出会ったのは、県道(114号)川越越生線の「万年橋」の上、だとか・・・。
( http://maps.google.co.jp/maps?q=鶴ヶ島市&hl=ja&ie=UTF8&ll=35.946362,139.361143&spn=0.019109,0.026264&z=15)
そういえば・・・籠の鳥「鶴」「鳩」とされているうちの「鶴」にあたる鶴ヶ島市について、伝説が地名の由来であることをお聞きし、とんでもニャ〜で書いたような・・・。
越生といえば、行基ゆかりの「鹿下越生神社」があって・・・。

うーん、埼玉が呼んでる?




1158棘の紀氏:2013/02/06(水) 12:51:14
弖 <夷>は「大(人の意)と弓」
「竆(きわ)むるなり。近きを以て遠きを竆むる者なり」
「極まるなり」 http://dic.nicovideo.jp/a/
意味きわまる、終わる、きわめる、行きつく、行き詰まる、塞がる、不遇、志を遂げられない、貧しい、悪人、という意味がある。〔説文解字〕の本字は竆で〔説文・巻七〕に「極まるなり」とある。
端から端・・・ライン?
極. 出典: フリー多機能辞典『ウィクショナリー日本語版(Wiktionary)』. 移動: 案内、 検索 ... 元来は木材の一種で、「亟」が音符である。もとは、端から端に渡した棟木を意味 した。亟は、両端に線を引いてその間に人を入れた文字で、頭上から足先までを言う。 http://ja.wiktionary.org/wiki/
会意形声。元来は木材の一種で、「亟」が音符である。もとは、端から端に渡した棟木を意味した。亟は、両端に線を引いてその間に人を入れた文字で、頭上から足先までを言う。
きわみ。最も端。
半弖比
漢字に遊ぶ   テヨカリワケ(弖巳加利穫居)と、ハテヒ(半弖比)
わが国では有名な埼玉県・稲荷山古墳の鉄剣銘文に登場したのが最初です。鉄剣の 持ち主であるオワケオミ(呼穫居臣)が先祖八代の人名を列記した中で、三代目 テヨカリワケ(弖巳加利穫居) と、六代目ハテヒ(半弖比)の二人に<弖>の一宇が使 われてい ...
漢字の<夷>は「大(人の意)と弓」で構成されており、もともと<弓に練達>の意味がこめられていた、というのがその根拠でした。
 古代中国が四囲の異民族に東夷・西戎・南蛮・北秋の名を冠して自らの中華思想を誇示したことは広く知られています。中国から見ての東夷が朝鮮半島です。
 李氏は<夷>と呼ばれた歴史的事実を、プラス発想で民族の誇りとして受け止め、アーチェリーの金メダルを「当然の勝利」と述べたわけです。

単にテを表音するだけなら、丁や逞など幾らでもあります。文字を大切にした古代の人々が人名に<弖>を宛てる場合は<弓をよくする勇武の人>という尊称のニュアンスをこめたのではないでしょうか。都の人々はアテルイに<勇武の士>のイメージを重ねていた。


ゆみはず【弓弭/弓筈】とは。意味や解説。弓の両端の、弦の輪をかける部分。弓を射る とき、上になる方を末弭(うらはず)、下になる方を本弭(もとはず)という。銑(つく)。ゆはず。ゆみはずのみつぎ【弓弭の調】上代、男子が奉った貢物(みつぎもの)。 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/225719/m0u/

とどまる。とどめる。とどまって休む。
【弭息】びそく. とどまる。とどめる ... http://www.geocities.jp/growth_dic/honbun/zoukan-5739.html

弓とは http://dic.nicovideo.jp/a/弓(曖昧さ回避)
弓 - 長さの単位。1弓 = 6尺、土地測量では8尺


1159管理人:2013/02/06(水) 18:23:53
Re: 白村江の戦い1350周年
藤井游惟さんへのお返事です。

> >
> > > > 其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
> > > >

> これが朝鮮漢字音なら、日本語では間違いなく「コ乙類」に相当する「?」です。
> http://www.youtube.com/watch?v=IwgXLa6UIAE
>
> さらに、/huak-kö/或いは/uak-kö/には/k/音が2つあり、語源は「ワクコ」(若ク子)ではないでしょうか?

なるほど、k音が連続すると、そういうこともありえるんですね。魏志倭人伝の邪馬台国の官職に「弥馬・獲支」が見えます。これをミマキイリヒコと見なす件を考えるのですが、先のご指摘のようにw音が飛ぶとすると実質的には
「ミマウキ」だった可能性がでてきますね。

あと、倭人伝の書写には「獲」に草冠はついてますね。書写本の成立が遅いのかな?
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html

> > そう、先の銘文の「弖」が好太王碑に見えるというのは、藤井さんの説ですか?
>
> このことを私に教えてくれたのは新井宏氏で、新井氏は自分が最初の発見者だと思って喜んだところ、既に森浩一氏が発見しており、そのことは森博達氏も知っていました。
>
> 私の「新説」は、この「弖」が日本語・高句麗(満州語)の音写に使われていることから、これは楽浪郡中国人が作った文字で、「古韓音」も楽浪郡の中国人独特の発音ではないか、という説です。


ありがとうございます。そういえば、私もその新井さんの講演会にいましたが、そのときですかな・・汗

鉄剣銘の写真をみると、たとえば「寺」は他の文字より細くて感じ的に右に寄ってる感じが有り、やはり後の部分でみえる「時」そっくりですから「時」もしくは「侍」とみなすのが正解だと思うのですが、その辺の文字のバランス論も重要かなと感じました。



> > 特に鉄剣銘関連は、どうも音声学面では手つかずのようですよ。1本論文かかれてはいかがでしょうか。
>
> たかが古代史学会を騒がすだけのくだらない論文(?)に時間を取られたくありません。(^^)
> 私の「『記紀万葉』百済人記述説」が世間周知の定説になれば、そのうち誰かが書くでしょう。
>
> その時までこのHPが残っていれば、「藤井游惟は○○年前に既に同じことを言っていた」という証拠になりますので、自分で書かないなら「歴史の証人」になれるよう、大切のこのHPを守ってください。(_ _)>


そうですね、とりあえず過去ログにはとってありますので、何かあったら参照してみてください。


1160管理人:2013/02/06(水) 18:43:07
Re: 白村江の戦い1350周年
棘の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
> 川島町役場の緯度は36°ジャスト
> >またひとつ方位ラインつくりました。会報第3号でもとりあげたのですが、図のような埼玉古墳群と府中国府跡が完全な南北方位ラインです。尺が50.9KMで、28.3cm尺。隋・唐尺の手前になるのですが・・。
>
> 埼玉県秩父市吉田町 [緯度:36.003977 経度:139.06716
> 埋田遺跡
> 35.497111, 140.354167
>


秩父も重要ですね。昨晩高橋氏文を読んでいたのですが、下記の記載が秩父関連で面白いです。

五十七年丁卯十一月、武蔵国知々夫の大伴部の祖、三宅連意由(みやけのむらじおゆ)、木綿を以て蒲の葉に代へて、美頭良を巻きき。此れより以来、木綿を用て日影等の葛に副へて用るなり。
纒向の朝廷の歳次癸亥、始めて貴き詔勅を奉りて膳部臣(かしはでのおみ)の姓を賜りて、天つ御食をいはひゆまはりて仕へ奉り来ぬ。今の朝廷の歳次壬戌にいたる迄あはせて三十九代、積年六百六十九歳なり。[延暦十一年]

http://mononobe.digiweb.jp/siryou/takahashi.html


ここで延暦11年で669年といってますよね。これが792年なので669年ひくと、AD123年だといってるわけです。1代が17年。
纒向の朝廷が、いつかも気になるのですが、「巻向日代宮(まきむくのひしろのみや)で天下をお治めになった景行天皇」とすると、300年代あたりまで伸ばさないといけないでしょう。

そうすると、240年干支を繰り上げて、363年とすれば、ぴったりくるようです。



> 万年橋から. 白髭神社由緒. 日枝神社由緒. 高倉の獅子舞 ... 今回は掲示板の紀氏さん の著書にある高麗川にかかる万年橋周辺の遺跡を中心に探索しました。拝島橋を越え て16号に乗り一路北上し入間を抜け、407号に乗り高麗に向かいました。高萩の 交差点 ...
>?? http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/koma050326.htm


よくあの辺も見に行きましたね。もう一度機会があればいってみたいですね。上記の鉄剣のでた埼玉古墳群もすぐそばなんですけど、案外近いところに限ってぜんぜん行かないものです?


1161棘の紀氏:2013/02/06(水) 19:31:31
Re: 白村江の戦い1350周年
管理人さんへのお返事です。

> 五十七年丁卯十一月、武蔵国知々夫の大伴部の祖、三宅連意由(みやけのむらじおゆ)、木綿を以て蒲の葉に代へて、美頭良を巻きき。此れより以来、木綿を用て日影等の葛に副へて用るなり。
> 纒向の朝廷の歳次癸亥、始めて貴き詔勅を奉りて膳部臣(かしはでのおみ)の姓を賜りて、天つ御食をいはひゆまはりて仕へ奉り来ぬ。今の朝廷の歳次壬戌にいたる迄あはせて三十九代、積年六百六十九歳なり。[延暦十一年]



美頭良 みとら?・・・髪(神)の形
>美頭良を巻きき。此れより以来、木綿を用て日影等の葛に副へて用るなり。

美頭良」と書いて「みずら」と読みます。 古代〜平安時代にかけて、未成年男子がしてい た髪型だそうです。 ま、要するに、こんな髪型なんですけど。( http://ameblo.jp/nhc-blog/entry-10107161801.html
ミトラ信仰・マイトレーヤ信仰
仏教には、弥勒菩薩が存在し、「弥勒信仰」がある。この弥勒は、サンスクリット語ではマイトレーヤというが、マイトレーヤとは、ミスラの別名またはミスラから転用された神名である。すなわち「マイトレーヤ」は、ミスラ神の名と語源を同じくする。「mitra/miθra」は本来「契約」というほどの意味だが、後には転じて契約によって結ばれた親密な関係にある「盟友」をも意味するようになった。マイトレーヤはその派生形容詞/名詞で「友好的な、友情に厚い、慈悲深い(者)」の意味となる。また、弥勒の字である阿逸多 Ajitaはミトラの母であるアーディティヤが変化したものと言われている。ミスラはクシャーナ朝ではバクトリア語形のミイロ(Miiro)と呼ばれ、この語形が弥勒の語源になったと考えられ[27]、クシャーナ朝での太陽神ミイロは、のちの未来仏弥勒の形成に影響を及ぼす[28]。ミイロの神格は太陽神であるということ以外不明であるが、定方晟はマニ教の影響なども考慮して、救世主的側面があったのではないかと推測している。
このような比較神話学および比較言語学の系統分析によって、ミトラ教の神話体系が仏教では菩薩として受け入れられ、マイトレーヤを軸とした独特の終末論的な「弥勒信仰」が形成されたといわれる[29]。マイトレーヤ信仰または弥勒信仰はのち中国など東アジアに伝わった。
なお仏教の弥勒信仰以外にもインドではミトラ信仰・マイトレーヤ信仰があった。

マイトレーヤーは、地球霊系団の最上位の10体の意識体の1体である。アトランティス において、聖クザーヌスとして生き、理神論を説いた。オリオンから招聘された方である。 天上界では、エル・ランティを補佐して、神の光を分光する役割を担当している。) ... http://lmr.cc/m_Maitreya1.html

サタンがルシファーと呼ばれる前に、ルシフェルと、エルと呼ばれていた、神の光の天使と呼ばれていた、彼が戻って来る日を、わたしたちは、永遠の時の流れの中で、待ちわび、彼を迎え入れていきたいと、その時にみんなで彼が戻って来た時に、抱きしめてやろうと、そのような思いで、みな九次元の者たちは待っているのです。
 それが神の愛なのです。

現世利益?

美頭良 みとら?・・・髪(神)の形
>美頭良を巻きき。此れより以来、木綿を用て日影等の葛に副へて用るなり。

美頭良」と書いて「みずら」と読みます。 古代〜平安時代にかけて、未成年男子がしてい た髪型だそうです。 ま、要するに、こんな髪型なんですけど。( http://ameblo.jp/nhc-blog/entry-10107161801.html
ミトラ信仰・マイトレーヤ信仰
仏教には、弥勒菩薩が存在し、「弥勒信仰」がある。この弥勒は、サンスクリット語ではマイトレーヤというが、マイトレーヤとは、ミスラの別名またはミスラから転用された神名である。すなわち「マイトレーヤ」は、ミスラ神の名と語源を同じくする。「mitra/miθra」は本来「契約」というほどの意味だが、後には転じて契約によって結ばれた親密な関係にある「盟友」をも意味するようになった。マイトレーヤはその派生形容詞/名詞で「友好的な、友情に厚い、慈悲深い(者)」の意味となる。また、弥勒の字である阿逸多 Ajitaはミトラの母であるアーディティヤが変化したものと言われている。ミスラはクシャーナ朝ではバクトリア語形のミイロ(Miiro)と呼ばれ、この語形が弥勒の語源になったと考えられ[27]、クシャーナ朝での太陽神ミイロは、のちの未来仏弥勒の形成に影響を及ぼす[28]。ミイロの神格は太陽神であるということ以外不明であるが、定方晟はマニ教の影響なども考慮して、救世主的側面があったのではないかと推測している。
このような比較神話学および比較言語学の系統分析によって、ミトラ教の神話体系が仏教では菩薩として受け入れられ、マイトレーヤを軸とした独特の終末論的な「弥勒信仰」が形成されたといわれる[29]。マイトレーヤ信仰または弥勒信仰はのち中国など東アジアに伝わった。
なお仏教の弥勒信仰以外にもインドではミトラ信仰・マイトレーヤ信仰があった。

マイトレーヤーは、地球霊系団の最上位の10体の意識体の1体である。アトランティス において、聖クザーヌスとして生き、理神論を説いた。オリオンから招聘された方である。 天上界では、エル・ランティを補佐して、神の光を分光する役割を担当している。) ... http://lmr.cc/m_Maitreya1.html

サタンがルシファーと呼ばれる前に、ルシフェルと、エルと呼ばれていた、神の光の天使と呼ばれていた、彼が戻って来る日を、わたしたちは、永遠の時の流れの中で、待ちわび、彼を迎え入れていきたいと、その時にみんなで彼が戻って来た時に、抱きしめてやろうと、そのような思いで、みな九次元の者たちは待っているのです。
 それが神の愛なのです。

現世利益?


1162秦野北斗:2013/02/06(水) 21:10:02
古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001186M.jpg

万葉集の舞台は韓国の群山(クンサン)の模様、また近くに伊里(利)(イリ)がある。
崇神天皇の和風諡号から「イリ王朝」は二つの「天香久山」「天香具山」を言っている
のでないか。卑弥呼の年代に「天香久山」「天香具山」が存在した。

倭国、筑紫、百済、新羅は韓半島に存在した。
韓半島こと大漢国を「やまと」と言った。
倭国は万葉集の舞台になる。魏志倭人伝では暦韓国。
万葉集に唄われている。白村江の戦いの舞台の地になる。
第一巻 : 大和には群山あれどとりよろふ天の香具山
群山:クンサン
天の香具山:母岳山
舒明天皇(じょめいてんのう)

表記が「天香久山」と「天香具山」の二通りあるが、橿原市では名勝に登録されている「香具山」および地区の名称には「香久山」を、国土地理院の地図では「天香久山」を公式に使用しており、北側約2キロメートルに位置する西日本旅客鉄道の桜井線にある駅も香久山駅である。「天香久山」「天香具山」どちらが韓国か不明

崇神天皇(すじんてんのう)。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまき「いり」びこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。

諡号・追号・異名
御眞木入日子印恵命(みまき「いり」ひこいにえのみこと) - 『古事記』
所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) - 『古事記』
御間城入彦五十瓊殖天皇(みまき「いり」びこいにえのすめらみこと) - 『日本書紀』
御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』
美萬貴天皇(みまきのすめらみこと) - 『常陸国風土記』

記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。258年没説を採った場合、崇神天皇の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代と重なることになる。

崇神天皇の和風諡号は「ミマキイリヒコ」、次の垂仁天皇の和風諡号は「イクメイリヒコ」で、共にイリヒコが共通している。イリヒコ・イリヒメは当時の大王・王族名に現れる特定呼称である。「イリ」が後世の創作とは考えにくいことから、これらの大王・王族は実在の可能性が高まり、崇神天皇を始祖とする「イリ王朝」「三輪王朝」説なども提唱されている

万葉集を年代に並べる。状況が読み取れる。

舒明天皇、柿本人麻呂は倭国(韓国)の香具山を唄っている。天智天皇は香具山を畝傍、耳梨山に例え(韓国)の香具山を唄っている。大伴旅人は(韓国)の香具山の故(ふ)りにし里と懐かしんでいる。持統天皇はいにしへの事は知らぬ。(韓国)の香具山はひさしくない。

舒明天皇の歌
「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は」 (巻1-2)

柿本人麻呂の歌
「久方の 天の香具山 このゆふべ 霞たなびく 春立つらしも」 (巻10-1812)

中大兄皇子の歌 天智天皇
「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」 (巻1-13)

大伴旅人の歌
「わすれ草 わが紐に付く 香具山の 故(ふ)りにし里を 忘れむがため」 (巻3-334)
作者不詳

持統天皇の歌
「春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山」 (巻1-28)
「いにしへの 事は知らぬを われ見ても 久しくなりぬ 天の香具山」 (巻7-1096)






1163管理人:2013/02/06(水) 23:13:51
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
秦野北斗さんへのお返事です。

> 万葉集の舞台は韓国の群山(クンサン)の模様、また近くに伊里(利)(イリ)がある。
> 崇神天皇の和風諡号から「イリ王朝」は二つの「天香久山」「天香具山」を言っている
> のでないか。卑弥呼の年代に「天香久山」「天香具山」が存在した。
>
> 倭国、筑紫、百済、新羅は韓半島に存在した。

全羅北道ですね。全羅南道の前方後円墳とかかわるでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

> 表記が「天香久山」と「天香具山」の二通りあるが、橿原市では名勝に登録されている「香具山」および地区の名称

> 崇神天皇(すじんてんのう)。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまき「いり」びこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。
>
> 諡号・追号・異名
> 御眞木入日子印恵命(みまき「いり」ひこいにえのみこと) - 『古事記』
> 所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) - 『古事記』
> 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまき「いり」びこいにえのすめらみこと) - 『日本書紀』
> 御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』
> 美萬貴天皇(みまきのすめらみこと) - 『常陸国風土記』
>
>


崇神の問題、どうして初めて国を開くとしたのかというと、おそらく欠史が後代挿入される前は、開化か崇神からはじまっていたということですよね。

「初國」の語は、そういう意味ではちょっと記紀時代より古い可能性があります。

「所知」 というのも、ちょっと他の天皇名とは違いますね。

知らしめるところのスメラミコト。。。

倭人伝の魏王が、難升米に向かって、鏡などの賜与品をもってその徳を知らしめるように命じた、そんな文面と類似します。

何かその点の関連文献から抜き出しているのではないでしょうか。



1164管理人:2013/02/07(木) 18:50:42
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
管理人さんへのお返事です。

ちょっと追伸です。

> > 崇神天皇(すじんてんのう)。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまき「いり」びこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。
> >
> > 諡号・追号・異名
> > 御眞木入日子印恵命(みまき「いり」ひこいにえのみこと) - 『古事記』
> > 所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) - 『古事記』
> > 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまき「いり」びこいにえのすめらみこと) - 『日本書紀』

王朝系譜を整理してみました。


神武 神倭伊波礼琵古命   大彦 日向海人系     最終編纂時の始祖。
綏靖 神渟名川耳尊     武ヌテ河・ヤマトタケル
安寧 師木津日子玉手見命  成務・吉備津彦・半島系・「玉手見」・箱(田島守)
懿徳 大倭日子鉏友命    応神・大友別⇔「鉏友」


孝昭 御真津日子訶恵志泥命 崇神「御真木入日子印恵」と同一人物 「訶」は怒る。神の恵みに怒り泥を志す人。⇔仲哀と関係。在位・仲哀8年⇔崇神8年。ある時期の帝紀の始祖。

孝安 大倭帯日子国押人命  「押・忍」春日・和邇氏系の祖
孝霊 大倭根子日子賦斗邇命 「太瓊」⇔「太占」「賦」は歌の意味「斗」(北斗・占術) 物部・卜部氏祖
孝元 大倭根子日子国玖琉命 「国玖琉」→国引き→大国主 出雲臣・三輪・物部系の祖

開化 若倭根子日子大毘々命 「大毘々」→「大毘古」(大彦)系の祖 中臣関連。 ある時期の始祖。

崇神 御真木入日子印恵命  邪馬台国の官「弥馬獲支」  初期の帝紀の始祖。
垂仁 伊久米伊理毘古伊佐知 崇神と同じ、ただ「伊理毘古」は別系統の伝承。「伊久米」→倭人伝の「伊聲耆(イショウギ・イセク)」と「難升・米」を合わせたような名→「銀印」を授かる→「印恵」
「伊久米」⇔扶余・帯方系「(尉)仇」氏 帯方太守「弓」氏・楽浪漢人(扶余系)?
「(120年)夫余王は嫡子の尉仇台を遣わして印闕貢献してきたので、安帝は尉仇台に印綬金綵を賜った」

あるいは「伊理」は秦野さんご紹介の「入(イリ)」王朝・祖「依慮」(もしくは「位居」「麻余」か。)と系譜的にどこか関係するかもしれませんね。



1165秦野北斗:2013/02/07(木) 21:54:37
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001189M.jpg

管理人さんへのお返事です。

> 全羅北道ですね。全羅南道の前方後円墳とかかわるでしょうか。

まあ、羅列しますが、少し難解ですぞ。

魏志倭人伝で短里(秦野距離)で遡ると全羅北道の群山が暦韓国になる。
(暦韓国は一般訳は韓国になる。)秦野北斗著書:徐福と邪馬台国参照

また、白村江が群山の錦江になる。白村江の戦いの粗筋は任那日本府から二千里の筑紫に天智天皇が上陸。二千里の百済の固麻城へ救助部隊を送る。その後、西走し久知下城に避難。「天香具山」都に百済集結し、錦江から船600艘で百済人が脱出した記録。

『隋書』倭国伝の「その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。」
その国の境が群山になる。

万葉集の(むらやま)が群山と一致、舒明天皇の歌で情景も一致する。

「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は」 (巻1-2)

『隋書』倭国伝

 倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。

 倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。
 その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。その地形は東高西低。都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、儋耳と相似するという。

群山の近くに伊利があり、崇神天皇(すじんてんのう)。
和風諡号御眞木入日子印恵命(みまき「いり」ひこいにえのみこと)
が一致。

聖徳太子の本名が奇妙に一致する。
為利歌彌多弗利(伊里(利)、伽耶、多弗利)
伊里(利)、伽耶、多弗利:イリ、カヤ、テフリ

当時の倭国(韓半島)の統治状況が浮かび上がる。

崇神天皇と『後漢書』倭人伝の「王に共立・・」を整理すると、崇神天皇、男王卑弥弓呼は、共立し治めていたが倭国は大乱となり卑彌呼を立てた事になる。
卑弥呼の両親は推測しているので後日。
卑弥呼は開花天皇の孫娘。欠史八代は卑弥呼の祖先になる。初代は神武天皇。

桓霊間倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼。年長不嫁、事神鬼道、能以妖惑衆。於是共立為王。侍婢千人、少有見者。唯有男子一人給飲食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。法俗嚴峻。

 桓帝と霊帝の間(146−189年)、倭国は大乱、互いに攻伐しており、暦年に亘って君主がいなかった。一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。ここにおいて(卑彌呼を)王に共立した。侍婢は千人、会える者は少ない。ただ飲食を給仕し、言葉を伝える一人の男子がいる。暮らしている宮殿、楼観、城柵、いずれも武器を持って守衛する。法俗は峻厳である。

全羅北道の群山が「天香具山」、奈良が「天香久山」の様だな。
神話から全羅北道の群山より奈良が古いのが根拠。

呉音「天香久山」(コウク) amano,kouku,yama
漢音「天香具山」(キョウク) amano,kyouku,yama

久の音は呉音(ク)、漢音で (キュウ)になる。






1166管理人:2013/02/07(木) 21:59:26
Re: 白村江の戦い1350周年
棘の紀氏さんへのお返事です。

>
> 美頭良 みとら?・・・髪(神)の形
> >美頭良を巻きき。此れより以来、木綿を用て日影等の葛に副へて用るなり。
>
> 美頭良」と書いて「みずら」と読みます。 古代〜平安時代にかけて、未成年男子がしてい た髪型だそうです。 ま、要するに、こんな髪型なんですけど。

> ミトラ信仰・マイトレーヤ信仰
> 仏教には、弥勒菩薩が存在し、「弥勒信仰」がある。この弥勒は、サンスクリット語ではマイトレーヤというが、マイトレーヤとは、ミスラの別名またはミスラから転用された神名である。すなわち「マイトレーヤ」は、ミスラ神の名と語源を同じくする。
> 現世利益?
>


ここにみえる「日影」の語も確かにまた先の高橋氏文にみえますね。

インド人の天然パーマが仏像に見えるように、髪型と宗教の関わりというの追求すると面白いかもしれません。

カトリックだと、よくミトラ冠の話がでてきますね。

プロテスタントのことはよくわからないですけど、牧師さんも私服化してるので、あんまりこだわりない系統にも見えますね。


仏教はガンダーラで中東系宗教がかなり混合して成立した経緯があるので、その影響を理解しないと、まともな仏教研究はできないでしょう。

日に関連して、高橋氏文註の下記の記載が重要です。

「次の御代成務天皇の御時に、古事記に、定2賜《サダメタマフ》大國小國之國造《オホグニヲグニノクニノミヤツコ》1、亦定2賜國々之堺、及《マタ》大縣小縣之縣主《オホアガタヲアガタノアガタヌシ》1、書紀に、五年九月、令2諸國1以國郡立2造長《ミヤツコヲサ》1、縣邑置2稻置1云々、則|隔《カギリ》2山河1而分2國縣1隨2阡陌1以定2邑里1、因以2東西1爲《シ》2日縦《ヒノタテト》1南北爲2日横《ヒノヨコ》1云々、など見えたるが如きおほらかなりつる御世のさまにあはせて推《オシ》察るべし、然れば、書紀の此條なるも、【上の條なるも、】此氏文なるも、上總國と書るは、併《トモ》に後に上下と分たれたる上にて、當時の國體《クニガタ》につけて、語傳たるまゝに記せるなり」

成務朝、つまり半島系武内・吉備津彦の時代ですね、ここで日つまり太陽をつかった測量方法に変化していることがわかります。それまではおそらく三角縁の北極星と北斗七星によるタイプの測量で、偏角がありました。この変更で成務朝時代からの方位区画は偏角がほとんどなくなるんですね。ただまだ1度偏角が残るのは、暦計算や倭製三角縁を製造する際の北の出し方に関する問題でしょう。ただ屯倉方位区画時代になるとほぼ偏角も出なくなります。

「日」を新漢人系集団が重視するのも、その辺と関わってくるはずで、またこれらは国造・県主・稲置関連領域の区画境界との関係、つまり先の埼玉古墳群と府中国府を結んだ領域区画の方位ライン等とかかわっていきます。

日の信仰は、確かに先日の扶桑木信仰とか、中東系の信仰、との関わりを考えるべきだと思いますね。



1167青面金剛:2013/02/07(木) 23:51:13
記紀百済人記述説
藤井游惟さんの説に、近い内容を、20年程前に朴炳植(パクビョングシク)が書いています。

「記紀は、百済から逃れてきた学者らの手によって、「漢文」で書かれたものであるから(一部の歌などは吏読《りと》=万葉仮名で書かれている)書名も漢文風に読まなければならない。だが、それに対する『万葉集』は、慶尚道方言(伽耶・新羅方言)、つまり、ヤマト言葉で書かれているものであるから、書名もヤマト言葉で読まなければ理屈にあわないのである。」

(中略)

「万葉集」は「ヨロズハ=多くの言葉」が「集=マトメラレタモノ=マドミ(現代韓国語では「モドゥム」と云う」であり、正しくは「ヨロヅハノマドミ」と訓まなければならないと云うことが明らかになる。」

『出雲族の声なき絶叫《記紀の陰謀と出雲風土記の抵抗》』[朴炳植、P・132、133。新泉社、1991年1月]

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《…、「山」の語源が「ラマ=太陽の住むところ」であり、それが「ラマ→ヤマ」と音変化をしたからで、「山跡=ヤマト」とは「ラマの国があったところ=日本」という意味なのである。

(中略)

「日本」と書いて「ヤマト」と訓むのは、「太陽・日」のことを、古代朝鮮語で「ラ」と称していたからである。(同、P・132)》

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現在の日本語は、白村江以後のものであり、それ以前の原日本語は、北と南へ其々押し遣られて、アイヌ語と琉球語として残っていったのでは、ないのでしょうか。アイヌ語の地名が、日本列島の大部分に分布しているのが、それを物語っていると思われます。

一部の神社に残る神代文字の祝詞や、山の民の存在が、生粋の原日本人と、禁じられた文字文化を顕わしていると考えます。

1168管理人:2013/02/08(金) 06:48:50
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
秦野北斗さんへのお返事です。


> 魏志倭人伝で短里(秦野距離)で遡ると全羅北道の群山が暦韓国になる。
> (暦韓国は一般訳は韓国になる。)秦野北斗著書:徐福と邪馬台国参照
>


そう、秦野距離は53kmとのことで、またこの距離がある時代の半島における「千里」だったと方位区画面からも考えうることは、先日論議したとおりですね。もっとその由来を深める必要があるように感じます。


> 万葉集の(むらやま)が群山と一致、舒明天皇の歌で情景も一致する。
>
> 全羅北道の群山が「天香具山」、奈良が「天香久山」の様だな。
> 神話から全羅北道の群山より奈良が古いのが根拠。
>
> 呉音「天香久山」(コウク) amano,kouku,yama
> 漢音「天香具山」(キョウク) amano,kyouku,yama

その香具山関連ですが、先の成務5年の記載に関連して下記の万葉集の御井の歌があります。

やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 あらたへの 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に 在り立たし 見し給へば 大和の 青香具山は 日の経(タテ)の 大御門に 青山と 繁さび立てり 畝火の この瑞山は 日の緯(ヨコ)の大御門に 瑞山と山さびいます 耳無の 青すが山は 背面(ソトモ)の 大御門に 宣(ヨロ)しなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天のみかげ 天知るや 日のみかげの 水こそは  常にあらめ 御井の清水
http://sylphid.exblog.jp/2890606/

ここでは、「日経・日緯」を東西、「日背・日影」を南北とし、藤原京の周囲の位置関係を示しているのですが、先述の成務朝の記載と、その方位・観念に変化が見えます。作者は人麻呂のようですね。

こちら藤原京と三山の見取り図です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

これらは方位ラインとか方位区画のことでもあるのですが、先のとおり成務五年秋九月条に、「令諸國、以國郡立造長、縣邑置稻置。並賜楯矛以爲表。則隔山河而分國縣、隨阡陌以定邑里。因以東西爲日縱、南北爲日横。山陽曰影面。山陰曰背面。是以、百姓安居。天下無事焉。」と見えることがあり、これはまた国造・稲置の起源潭です。

その「阡・陌」は、どうも空間(南北を指す針の方向)と時間(日出から翌日の日出まで)を示し、それに従って村落を定めたこと、また東西(ライン)を「日縦」とし南北を「日横」とし、さらに立体的に「山」の「影・背」を示し国造等の支配領域を確定する測量地図を作成したことで、人民が安心してくらせるようになった解釈できます。これが先日の国府等を結ぶ南北の方位ライン(区画)の意図と考えうるでしょう。

あと、それでその埼玉古墳群と府中国府跡を結ぶ50.9kmの南北方位ラインの件ですが、その真北に武蔵国分寺があることに気付きました。それでそこまでの距離が48.2kmで、これが26.7cm尺になり、新井さんの古韓尺26.8cmなんです。

武蔵国分寺周辺は、壬生吉士がかかわっていて、いろいろ関東や群馬、山梨を結ぶ八角墳のラインをみると、新漢人と吉士、おそらくは同根が、関東に進出していく過程で、高句麗古墳群の八角形構造とか新羅の八角系関連構造物や東欧・中東宗教との関わりから、これらが宮中に導入されていったと考えるのが筋でしょう。そこに関東に基盤のある中臣氏もかかわっていきます。

ただその八角墳ラインは11.1km尺でちょっと古い5世紀代の測量道具を使っているんですね。やはりその後の新漢人や吉士集団の渡来した530年前後に、古韓尺とか北朝尺への本格的な変化があったように感じます。それでその時代になって埼玉古墳群、たぶん方位ライン面からみるとやや西隣に国府ある、が出てくるように感じますね。

この方位ラインをしっかり勉強すると、いままで見えてこなかった古墳とか遺跡とか距離単位とか、いろいろ証明できたりするのですが、やはり1年くらい基礎から勉強する必要があります。そしてある程度、古代史面から予測をつけてから引かないといいラインは出てこないのですが、その辺の講習会も開くべきかもしれませんね。


1169棘の紀氏:2013/02/08(金) 10:11:34
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
管理人さんへのお返事です。> ここでは、「日経・日緯」を東西、「日背・日影」を南北とし、藤原京の周囲の位置関係を示しているのですが、先述の成務朝の記載と、その方位・観念に変化が見えます。作者は人麻呂のようですね。

日影

日影皇女に関する注とがセットになった暗号
裏鬼門に八幡宮がある5地点
男狭穂塚と女狭穂塚の不思議(データ)
男狭穂塚(おさほづか)は、宮崎県西都市にある日本最大の帆立貝形古墳。 国指定 特別 ..... 各天皇陵の位置は、電子国土ポータルで検索した緯度,経度 .... 女狭穂塚→ 高千穂峰」のヒントは、無名氏の「高千穂峯―男狭穂塚(W0.599km、0.7度)の東北30度 線」 ... http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-90808-d.htm

「上」字型+α

日影皇女に関する注とがセットになった暗号であることの証になる はず ... http://www.geocities.jp/yasuko8787/2-32.htm
応神の胞衣を筥に容れ白砂青松の地に埋めたところという伝承がある、
筑前国一の宮=筥崎宮が、死罪を贖うために筑紫君葛子が献上した糟屋屯倉と同じ福岡県粕屋郡にあることから、筑紫君磐井の斬られた地ににある、格式の高い神社によって、卑弥呼ゆかりの地を示唆しているのではないかと考えられます。

決定的な根拠が景行紀にありました。
景行紀に記された邪馬台国所在地を示唆する直線
高良山神籠石―藤山―歴木

浜島書店の高校生向け日本史図説史料には、邪馬台国について、次のような解説と、邪馬台国の位置ならびに「魏志倭人伝」による邪馬台国の里程が載っています。 http://www.geocities.jp/yasuko8787/0q-4.htm




1170棘の紀氏:2013/02/08(金) 10:21:20
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
棘の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。> ここでは、「日経・日緯」を東西、「日背・日影」を南北とし、藤原京の周囲の位置関係を示しているのですが、先述の成務朝の記載と、その方位・観念に変化が見えます。

>作者は人麻呂のようですね。

柿本人麻呂(=山上憶良)
日本書紀の作者の一人は、柿本人麻呂(=山上憶良). 1.柿本人麻呂の暗号 さて、次 は、日本書紀の作者を探してみましょう。 例によって、迷探偵と智導世津翁の問答で 始まります。 迷探偵: どうやって、そんなことができるのか?誰もそんなことを考えた人 ... http://www.geocities.jp/oden1947/223.html
人麻呂は、秘密を漏らした角で、死を賜ったのです。
山上憶良と柿本人麻呂の共通点の整理

1.資料3に、山上憶良と柿本人麻呂は同時代人である、とある。

2.山上憶良は、「筑豊地方の嘉麻市で、ほとんどの歌を詠んでいる」と、
  資料3にある。
  智導世津翁は、実際に、嘉麻市に行って歌碑を見てきた。
  一方、柿本人麻呂は、筑紫豊人にしか解らない、筑紫豊のマイナーな地名を、
  歌に詠み込んでいる。
  よって、二人は筑紫豊人であるという共通点がある。

3.歌の作風がソックリである。

4.山上憶良は資料3に、伯耆(ホウキ)守であったとある。一方、
  柿本人麻呂は、本説で、五百支国(=五百巳国、イワミ国=石見国、ハハキ国)で死んだと推理した。
  つまり、伯耆国=五百支国(ハハキ国=ホウキ国=イワキ国=イワミ国)である。
  五百支国とは、筑紫博多粕屋〜日向宗像にあった、魏志倭人伝の「己百支國(イワキ国)」であり、
  スサノオ尊が帰りたがっていた、母の伊邪那美命の国「ハハキ国」である。

柿本人麻呂(=山上憶良)
日本書紀の作者の一人は、柿本人麻呂(=山上憶良). 1.柿本人麻呂の暗号 さて、次 は、日本書紀の作者を探してみましょう。 例によって、迷探偵と智導世津翁の問答で 始まります。 迷探偵: どうやって、そんなことができるのか?誰もそんなことを考えた人 ... http://www.geocities.jp/oden1947/223.html
人麻呂は、秘密を漏らした角で、死を賜ったのです。
山上憶良と柿本人麻呂の共通点の整理

1.資料3に、山上憶良と柿本人麻呂は同時代人である、とある。

2.山上憶良は、「筑豊地方の嘉麻市で、ほとんどの歌を詠んでいる」と、
  資料3にある。
  智導世津翁は、実際に、嘉麻市に行って歌碑を見てきた。
  一方、柿本人麻呂は、筑紫豊人にしか解らない、筑紫豊のマイナーな地名を、
  歌に詠み込んでいる。
  よって、二人は筑紫豊人であるという共通点がある。

3.歌の作風がソックリである。

4.山上憶良は資料3に、伯耆(ホウキ)守であったとある。一方、
  柿本人麻呂は、本説で、五百支国(=五百巳国、イワミ国=石見国、ハハキ国)で死んだと推理した。
  つまり、伯耆国=五百支国(ハハキ国=ホウキ国=イワキ国=イワミ国)である。
  五百支国とは、筑紫博多粕屋〜日向宗像にあった、魏志倭人伝の「己百支國(イワキ国)」であり、
  スサノオ尊が帰りたがっていた、母の伊邪那美命の国「ハハキ国」である。


1171棘の紀氏:2013/02/08(金) 10:44:05
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
管理人さんへのお返事です。

>一方、柿本人麻呂は、筑紫豊人にしか解らない、筑紫豊のマイナーな地名を、歌に詠み込んでいる。
筑紫豊
馬子時代に九州の半分、筑紫、豊、日向(宮崎県)、大隅などは蘇我氏の支配 勢力に組み入れられていたからここに追放されても身の危険はなかったはずだ。 http://www5.ocn.ne.jp/~toyokazu/jpn/nswana/nsw-02.html
蘇我氏
飛鳥寺は、この行基上人を至高の例とするように、蘇我氏が滅んでからもかなり 長い間、志ある僧侶にとってわが国第一の学問修行の寺であったのだ。 http://www.ma-frontier.com/2011/04/14/飛鳥寺と蘇我氏/

行基は同時に四面宮を開いたといわれている。祭神は、『古事記』にて筑紫島をあらわす一身四面の神である。この神社は上古には温泉神社、中古には四面宮と称されていたが、の神社改正により筑紫国魂神社と改称され、の県社昇格に際して温泉神社に戻した。島原半島中に10数の分社がある。 http://kentei.cc/q/4663490

雲仙を開山したのは、奈良時代の僧「行基菩薩」(668〜749)だと言われています。高野山や比叡山よりも100年も早く、今から、およそ1300年程前701年(大宝元年)に開山したと言われています。満明寺の上にある公園に、知られることなくひっそりと立ってます http://www.dango.ne.jp/unzenvc/history.html
僧行基は、一切経の地に堂を建て仏道修業の道場と定め、一切経の経文を筆写しこの地に埋めた(滝に流したとの説もある)と伝えられています。当時の苦行の様子は、一切経の滝や行基洞、座禅石などに伺い知ることができます。






1172棘の紀氏:2013/02/08(金) 10:59:03
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
管理人さんへのお返事です。

> あと、それでその埼玉古墳群と府中国府跡を結ぶ50.9kmの南北方位ラインの件ですが、その真北に武蔵国分寺があることに気付きました。それでそこまでの距離が48.2kmで、これが26.7cm尺になり、新井さんの古韓尺26.8cmなんです。
>
> 武蔵国分寺周辺は、壬生吉士がかかわっていて、いろいろ関東や群馬、山梨を結ぶ八角墳のラインをみると、新漢人と吉士、おそらくは同根が、関東に進出していく過程で、高句麗古墳群の八角形構造とか新羅の八角系関連構造物や東欧・中東宗教との関わりから、これらが宮中に導入されていったと考えるのが筋でしょう。そこに関東に基盤のある中臣氏もかかわっていきます。

国分寺

阿波の国分寺として行基菩薩によって開基 http://www.ko-pri.com/88/tokushima/15/15_kokubunji.htm

行基が国分寺に関与したであろうと、前後の事情や業歴から併せて考えられているが、 「続記」にも行基が国分寺創建に関係したとは記されていない。行基の49院はかれの私 的な活動であり、国分寺事業とは別個のものである。もし彼が関与したのであれば、 ... http://bunkazai.hustle.ne.jp/gyouki.htm
行基が出家したのは、天武11年(682年)15歳の時である。律令制では一般の人は容易に僧尼になることは出来ず、出家した者も自由な行動は認められなかった。行基は五位の国守を出している帰化人の中級豪族高志氏に生れたことや、道昭のような有力な僧侶を身近に持っていたことも有り、仏門への道を選んだものと考えられる。 天武9年(680年)薬師寺が建て始められ、200人を得度させたが、行基が出家する2年前であり、その得度者中には行基は入らない。(井上馨氏は行基が薬師寺で得度を受けたと言っているが、道昭のいた飛鳥寺を出家の場所と考えたほうが妥当であろう。) 行基が出家したとき、道昭は54歳で飛鳥寺の禅院で弟子を養成していた事は「続記」道昭伝に、「天下の行業の徒、和尚に従って禅を学ぶ」と記されている。また社会事業にも努め「天下に周遊して路傍に井を穿ち、諸々の津の済の処に船を儲け、橋を造る。乃ち山背の国の宇治橋は和尚の創造する所のものなり」と伝えられている。道昭は、民間伝道と社会事業に活動するという新しいタイプの僧であった。行基はこの道昭に随従して廻り、実地に薫陶を受けたに違いない。道昭は文武4年(700年)7月4日飛鳥寺の禅院で死んだ。




1173棘の紀氏:2013/02/08(金) 11:27:14
井 船 橋・・・ 塞(境)
>「天下に周遊して路傍に井を穿ち、諸々の津の済の処に船を儲け、橋を造る。乃ち山背の国の宇治橋は和尚の創造する所のものなり」 http://kotobank.jp/word/道昭

井戸は前述した風土記の黄泉の穴と同じく古い日本人の他界観念にも繋がっていた 。 http://ja.wikipedia.org/wiki/死生観

うなさか【海境・海界・海坂】 〔補説〕 舟が水平線の彼方に見え なくなるのは、海に傾斜があって他界に至ると考えたからという神話における海神の国と 人の国との境界。― http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0ss/101690500000/

道祖神(塞の神)は、村境にあって 悪霊が外部から侵入してくるのを防ぐ神である。村 外れの地蔵は、このような 神が地蔵に変化したものと考えられる。橋のたもとの地蔵も、 川の両側、つまり 二つの世界の間に立つ地蔵である。峠の地蔵も同様である http://nana-77.sakura.ne.jp/nanawatari/Shrine/dosojin99.html
?塞符 ?塞の神(さえのかみ)。道祖神と同一視される道の安全を確保する神。
天狗の原型とされるサルタヒコも、天孫降臨で道案内したことから、塞の神として祀られている。
?山神(さんじん,やまつみ) ?サルタヒコは山の神とされたりもする。
?渡御(とぎょ) ?神を御輿に宿して巡幸する神幸祭の渡御行列。サルタヒコが先導する。
?天孫降臨(てんそんこうりん) ?天照大神の孫ニニギが地上に降りてきたこと。サルタヒコが導いた。
?天上天下(てんじょうてんげ) ?天界と地上。サルタヒコは天と地を照らしていた。
?照國(てるくに) ?天照國照彦火明(アマテルクニテルヒコホアカリ)。ニニギの兄の「ホアカリ」。
「先代旧事本紀」では、天磐船(あめのいわふね)に乗って高天原から地上に降臨した「ニギハヤヒ」と同一視される。
ニギハヤヒは物部氏の祖神。 http://www.toho-motoneta.net/index.php?cmd=read&amp;page=??????/????&amp;alias[]=??????/?????ŷ??????
諏訪の守屋神社は、洩矢ではなく物部守屋に由来する。
天磐船に乗っていたことから、ニギハヤヒは空の神・飛行機の神ともされる。

謎の磐船伝承地を探る
大きさは共に高さ5m程もある大きな塚といい、幸神塚は塞の神を祀っていた所で、二 つの塚はこ の地を支配した ... 古代の磐船山から高津の一帯は、上町台地上を境に東 は玉造江に臨む東成郡、台地西側は大 阪湾を望む西成郡 ... 橋の地域一帯は、まさに 下照比売伝承の霊地であったといえるでしょう。 比賣許曾神社 ..... 受けて悩亂す、磐船といふ事もいまだしらざりし時なれば、人々驚き恐怖して井を掘る事をそれより 止めしと なん。 http://www.geocities.jp/iko_kan2/nazo-iwafune.html
難波の上町台地と生駒山・葛城の山ろくに伝わる謎の磐船・岩船の伝承地を探ってみることにします。
欽明天皇の代(6世紀)にこの地に岩船があり、三神がその上に出現されたことから、神社として奉祀するようになったといわれます。
謎の岩船については、神社の80m程北側の水田の中に、二つの円い塚が隣接して存在し、東側の塚は「幸神塚」と呼ばれ、西側は「無名塚」でした。
大きさは共に高さ5m程もある大きな塚といい、幸神塚は塞の神を祀っていた所で、二つの塚はこの地を支配した有力者の陵墓だといわれていたようです。
さらにこの塚のまわりを開墾した際、船に似た長大な岩があって、その長さは東塚から西塚まで達する長さ40mほどの巨大な石で、この不思議な巨岩は、古代の岩船が難破して沈没したものだとも伝えられています。
難波・河内一帯と東側に連なる生駒・二上・葛城山系周辺にかけた広大な地域は、古くは物部氏の勢力地域、のちには住吉大社の神領地であり、各地には百済・新羅からの渡来氏族であれていた。
渡来氏族であれていた。磐船などの伝承がどのように各地に残されてきたのか、その謎解きは大きな古代史のロマンといえるでしょう。


1174管理人:2013/02/08(金) 17:47:54
Re: 記紀百済人記述説
青面金剛さんへのお返事です。

> 藤井游惟さんの説に、近い内容を、20年程前に朴炳植(パクビョングシク)が書いています。


> -----------------------------------------------------------------------------------
>
> 《…、「山」の語源が「ラマ=太陽の住むところ」であり、それが「ラマ→ヤマ」と音変化をしたからで、「山跡=ヤマト」とは「ラマの国があったところ=日本」という意味なのである。
>
> (中略)
>
> 「日本」と書いて「ヤマト」と訓むのは、「太陽・日」のことを、古代朝鮮語で「ラ」と称していたからである。(同、P・132)》
>
> -----------------------------------------------------------------------------------

> 一部の神社に残る神代文字の祝詞や、山の民の存在が、生粋の原日本人と、禁じられた文字文化を顕わしていると考えます。


青面さん、こんにちは。山の民と太陽信仰の件は、関連して30年前の小川光三さんの本『大和の現像』に、三輪山等の山岳信仰と、日の出等の太陽の方角と、箸墓等の方位ラインとの関係について述べられてますね。

その言語関連の詳しいことは藤井さんのご回答を待ちたいとおもいますが、それで小川さんの本を読み返していて、興味深くおもったのは、前方後円墳の形状について、晋書(266年)条に、円丘と方丘を(今まで別々だったものを)「并べて」祀った記載があることです。そしてこの条文のすぐ前に倭人貢納記載が続くことから、この件に前方後円墳が由来することを指摘してます。


30年前当時は前方後円墳は200年代初頭とのことで、この指摘は無視されたのではないかと感じるのですが、最近は箸墓も270〜80年とする見方もあり、彼の指摘が30年たって通説となる可能性が出てきているのかもしれません。


写真家としてはプロだった小川氏の指摘、この指摘が最初だったとすれば、今の学会はどう反応するのか?そういうところにもちょっと興味がありますね。

おそらくその前段階のマキムク型前方後円墳は、ちょっと違う経緯、橋梁部分が方形になっていったようにみえるのですが、そこから飛躍した前方後円墳がでてくる背景には、やはりこの晋266年の記載を考えるべきなのかもしれません。

小川氏は太陽の季節別の方角が前方後円墳のバチ型に影響し、先の山立てとの関係で、その古墳軸の向きを推測し、農耕歳時のカレンダーとしての古墳の意味を指摘しているのですが、ただこの点はちょっと古墳軸の向きが多様すぎて、別の意味もあった(あるいは失われた)のではないかと感じます。

ともあれ、専門外の人の意見が、数十年後に的をえていたことが明らかになるケースもあるようなので、ぜひみなさんも多角的な視点から新意見を出して、本にして発表してほしいと感じます。

1175藤井游惟:2013/02/08(金) 20:44:42
Re: 記紀百済人記述説
http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/7shou.html

http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1176秦野北斗:2013/02/08(金) 22:44:21
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
管理人さんへのお返事です。

26.7cm尺の倍数が53.4cmに成りますな。
また、先ほど、古市、百舌鳥古墳で2.62kmの距離を確認しました。
正確に測定すれば2.67kmになりますな。

新井さんの古韓尺26.8cm?

>
> そう、秦野距離は53kmとのことで、またこの距離がある時代の半島における「千里」だったと方位区画面からも考えうることは、先日論議したとおりですね。もっとその由来を深める必要があるように感じます。

> これらは方位ラインとか方位区画のことでもあるのですが、先のとおり成務五年秋九月条に、「令諸國、以國郡立造長、縣邑置稻置。並賜楯矛以爲表。則隔山河而分國縣、隨阡陌以定邑里。因以東西爲日縱、南北爲日横。山陽曰影面。山陰曰背面。是以、百姓安居。天下無事焉。」と見えることがあり、これはまた国造・稲置の起源潭です。
>
> あと、それでその埼玉古墳群と府中国府跡を結ぶ50.9kmの南北方位ラインの件ですが、その真北に武蔵国分寺があることに気付きました。それでそこまでの距離が48.2kmで、これが26.7cm尺になり、新井さんの古韓尺26.8cmなんです。
>


1177管理人:2013/02/08(金) 23:13:10
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
秦野北斗さんへのお返事です。

> 26.7cm尺の倍数が53.4cmに成りますな。
> また、先ほど、古市、百舌鳥古墳で2.62kmの距離を確認しました。
> 正確に測定すれば2.67kmになりますな。
>
> 新井さんの古韓尺26.8cm?

あれ、古墳群間は違う尺だったと思いますが、古墳そのものに使用された尺とか、後代の・・・とかその可能性はありますね。すでにどなたかそれらの古墳と古韓尺の件話していたと思いますよ。


それで、ちょっと気になりはじめたのが、先の小川さん指摘の文面です。
『晋書』泰始二年・266年条に「圓丘方丘を并(ナラ)べ、二至の祀を南北の郊においてす」

これが并(ナラ)べと読んでよいかどうか。よいような気がするのですが。
この前の条文が小川氏指摘のイヨの貢納記載です。



それで、266年以降の前方後円墳(マキムク型除く)成立とすると、黒塚・西殿塚を載せる5度偏角方位区画もそこまでずらす必要がありそうです。

そうすると、卑弥呼の墓はどこいったのか?が課題になりますね。イヨの時代には黒田庵戸宮の都状区画に入っていたはずです。

ただ卑弥呼はもしかすると、まだ大和に入っていなかったか?この辺が課題でしょう。

男狭穂塚を、ちょっと尺度面から再度考えなおすべきかもしれません。先のとおり後円部が132Mになるので、一般的な三角縁を1尺とした場合の100歩=130Mよりやや大きくなります。これが「余歩」とすべきでしょうか。

西殿塚も同様に135Mで大きいのですが、これはおそらく三角縁が年号銘鏡とかで大きいサイズだったので、130歩にしても、少し大きくなったと考えうるかもしれません。

また卑弥呼時代の邪馬台国の位置について考え直す必要がでてきそうですね。再度先日の尺度分析の引用しておきます。


ヒミコの墓の直径「100余歩」が、先述の(三角縁)景初三年鏡・正始元年鏡・盤龍鏡・(一般)鏡、あるいは半円浮彫・画紋帯神獣鏡を使用していたと仮定すると、魏尺で推定する23.7cm:142mよりかなり短くなる可能性があります。下記のとおりです。

魏尺:(三角縁){ 盤龍鏡:景初三年鏡:正始元年鏡:(一般)神獣鏡 }:(半・画)神獣鏡
23.7cm:24.5cm:23.0cm:22.6cm:22cm:21cm =142.2m:147m:138m:135.6m:131m:125m
=35.55:36.75:34.5:33.9:32.75:31.25

またヒミコの墓の推定候補としてあげる古墳の(後円部径)(全長)は下記のとおりです。

桜井茶臼山古墳:(110m=22m×5)(207m=110m+(97m= 32m×3)) 尺 32m or 22m
箸墓古墳:(150m=21.4m×7) (278m=150m+(128m=32m×4)) 尺32m or 21.4m
黒塚古墳:(72m)(130m=72m+58m) 尺 130m
西殿塚古墳:(135m=33.7m×4)(234m=135m+(99m=33m×3)) 尺33.0m or 33.7m
中山大塚古墳:(67m=22.2m×3)(130m=67m+(63m=21m×3)) 尺21 or 22.2m or 130m
椿井大塚山古墳:(110m=22m×5)(175m=110m+(65m=22m×3)) 尺 22m
崇神陵:(158m=31.6m×5) (242m=158m+(84m=21m×4))??尺31.6m or 21m
男狭穂塚:(132m=22m×6)(175m=132m+(43m=21.5m×2) 尺 21.5m or 22m
乙女山古墳:(104m=21m×5)(130m) 尺 21cm or 130m

このように、32〜3m もしくは21〜2(c)mの尺度が共通して多く見え、これらの古墳の尺度が、主に一般的な三角縁神獣鏡の直径によって測量されていたことが予想できます。そして3つの古墳が130m尺を出すことから、「径百余歩」が130m前後であったことも推定できます。

1178秦野北斗:2013/02/09(土) 00:16:01
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
管理人さんへのお返事です。

言っているのは、古市、百舌鳥古墳の間隔距離で大きさではない。
古墳は大きさが目立つが、実のところは、間隔距離なんですよ。
其処が盲点なんですな。

主な古墳と現在は無くなった古墳を含めて4基になる。

埋葬者の可能性は崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、日本武尊、仲哀天皇
日本神話、伝説から日本武尊、仲哀天皇は可能性が低い
4基は崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇でないか?

>『晋書』泰始二年・266年条に「圓丘方丘を并(ナラ)べ、二至の祀を南北の郊においてす」
秦野は266年は正しいと思っている。卑弥呼は(240年 - 249年)年代で円墳になる。

行き着くところ秦野距離も古韓尺も同一なんですな。短里は公開されていなかったのでしょうな。
尺、歩、短里、里、が存在した様ですな。
円墳の直径は秦野距離から178mになる。



1179棘の紀氏:2013/02/09(土) 00:45:28
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
管理人さんへのお返事です。
>『晋書』泰始二年・266年条に「圓丘方丘を并(ナラ)べ、二至の祀を南北の郊においてす」
并。」=「あい従うこと
并」については、『説文解字』で《从(ジュウ=従)部》に分類し、「相從也。从从幵声。一曰 从持二為并。」=「あい従うこと。“从(ジュウ=従)”と“幵(ケン)”から成り立ち、“幵(ケン)” が音。一説に、从(ジュウ)―二人の人が“ニ”を持つのを“并(ヘイ)” ... http://mei2jikai.blog113.fc2.com/?mode=m&amp;no=129
、“幵(ケン)”が音。一説に、从(ジュウ)―二人の人が“ニ”を持つのを“并(ヘイ)”と為す。」と記している。

并」 解字:形声。意符の??(人が二人相 並ぶ)と音符の二(あるいは一。あわせる、つなぐ意)とから成る。二人を並べ合わせる意 。 http://shoukei.blog65.fc2.com/category6-1.html

幵(平らにする意=平)=>埋葬所?=>神社 卯杖祭 | 世界史掲示板 ...
また、○の変形として、円い意味を表わすことも有る。 字義:かこむ。めぐる。 解字:指示 。四面を囲った形により囲む・ .... 幵」は「刑」の偏のように「干」の横棒が融合した融合型 となる場合と、「銒」の偏のように「干」をただ並べただけの並列型の ...
圭・・・土土 △△ 幵(平らにする意=平)=>埋葬所?=>神社
二つの字は、共に祭祀用の祭壇の左右に盛られた“盛土”を象(かたど)ったものであり、盛土が笠ねっているのではなく、二つ並んでいることを表している。
丘と丘との間に位置するばしょを「低い場所」、「低地」として指し示すようになった。

上賀茂神社細殿 立砂の謎 http://www.eonet.ne.jp/~yamauo2005/tatezuna.html
上賀茂神社の二ノ鳥居をくぐると細殿(ほそどの)と呼ばれる拝殿があり、
その前に左右一対の白砂で作られた奇妙な円錐形の盛砂がある。
一体これは何を表しているのだろうか?
神社の案内板には以下の説明がある。
 立砂(たてずな)
 盛砂(もりずな)とも云い、
 「たつ」とは神様のご出現に由来した言葉であり
 神代の昔ご祭神が最初に降臨された
 本殿の後2kmにある
 円錐形の美しい形の神山(こうやま)に因んだもので
 一種の神籬(ひもろぎ)
 即ち神様が降りられる憑代(よりしろ:依代)である。
 鬼門・裏鬼門にお砂を撒き清めるのは
 此の立砂の信仰が起源で
 「清めのお砂」の始まりである。

 立砂と細殿の方位
 立砂と細殿は鬼門に関係すると言われている。図3はそのgoogle航空写真である。
図によれば細殿の参拝方向は、北から時計回りに38度で、鬼門(45度)からかなりはずれていることがわかる。
しかし、磁北を基準にすると、京都市の西偏角は7度であるから、38°+7°=45°となり、ぴったりと鬼門に一致する。
立砂は、都からの方位が鬼門にあたるかどうかではなく、鬼門の方位そのものを対象にしていたことが想定される。

神山の山頂の磐座と本宮とを結ぶ一直線上の丸山(153m)の南麓台地(本宮の後方約八町)に設ける。

御囲には、藤づるの皮で作った径四寸ばかりの円座様のものをとりつける。これを「おすず」と称する。
また、御囲の前面、即ち南庭一間半ばかりの所に、約一間半の間隔を置いて、左右に高さ一尺程度の立砂を二基設ける。
これは白の御影砂を用いる。

立砂は、都からの方位が鬼門にあたるかどうかではなく、鬼門の方位そのものを対象にしていたことが想定される。




1180管理人:2013/02/09(土) 06:17:22
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
棘の紀氏さんへのお返事です。


> >『晋書』泰始二年・266年条に「圓丘方丘を并(ナラ)べ、二至の祀を南北の郊においてす」
> 并。」=「あい従うこと
> 并」については、『説文解字』で《从(ジュウ=従)部》に分類し、「相從也。从从幵声。一曰 从持二為并。」=「あい従うこと。“从(ジュウ=従)”と“幵(ケン)”から成り立ち、“幵(ケン)” が音。一説に、从(ジュウ)―二人の人が“ニ”を持つのを“并(ヘイ)” ... http://mei2jikai.blog113.fc2.com/?mode=m&amp;no=129
> 、“幵(ケン)”が音。一説に、从(ジュウ)―二人の人が“ニ”を持つのを“并(ヘイ)”と為す。」と記している。
>
> 并」 解字:形声。意符の??(人が二人相 並ぶ)と音符の二(あるいは一。あわせる、つなぐ意)とから成る。二人を並べ合わせる意 。 http://shoukei.blog65.fc2.com/category6-1.html
>


ご教授ありがとうございます。参考になりました?

1181管理人:2013/02/09(土) 07:57:43
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001205M.jpg

http://www.geocities.co.jp/Bookend/3106/DIARIES/D0005B/D0005131.html



1182棘の紀氏:2013/02/09(土) 10:29:49
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
管理人さんへのお返事です。

>相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。

「塞曹掾史」は官名であり、「郡の武官であろう」とするとともに、「この官名に類するものは、前漢の元始三年(西紀三年)八月の紀年を記す『居延漢簡』に塞曹史とみえる。 http://www6.ocn.ne.jp/~hiba/hikigaeru/gama/utagenoframe.htm

スキタイの末裔 中国名「塞(さい)」 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs

東東(私的に夏至・冬至・・・)曰(太陽)
曹 〔 つかさ ・ ソウ 〕 - 古代文字字典
曹 〔 つかさ ・ ソウ 〕. sou1.gif. 【解字】会意文字、東東+曰(えつ)。東は槖(たく)の初文 。 裁判の当事者がそれぞれ提供するものを橐(ふくろ)に入れて並べる形。 曰は自己詛 盟としての誓約を入れる器。曹はもと裁判用語。 http://www.kodaimoji.com/dictionary/post-38.html

>「并」 解字:形声。意符の??(人が二人相 並ぶ)と音符の二(あるいは一。あわせる、つなぐ意)とから成る。二人を並べ合わせる意 。 http://shoukei.blog65.fc2.com/category6-1.html
東東・・・並ぶ
司, 会意。「人 +口」。上部は、人の字の変形、下部の口は、穴のこと。小さい穴からのぞくことを あらわす。覗(し)や伺(うかがう)・祠(し、神意をのぞきうかがう→まつる)の原字。転じて 、司 ... http://homepage3.nifty.com/giboshi/kaijitbl025.htm
「東」の解字、日木のことで「木にかかる太陽」を象ったものだ http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/10nen/1107wa6.html
小林説では百済の義慈王であり、幼名の軽皇子の「kwal」は、つまり馬韓だろう。ちなみに皇位を譲った古大兄皇子の「フル」は huru-hune で天理の布留に定着したフン族である。




1183秦野北斗:2013/02/09(土) 10:35:34
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001207_2M.jpg

管理人さんへのお返事です。

まず、古墳の方位から行きましょう。

>『晋書』泰始二年・266年条に「圓丘方丘を并(ナラ)べ、二至の祀を南北の郊においてす」

秦野訳 266年圓丘方丘を並べ、二至(住吉大社、等乃伎神社)を祀る。
南北を郊(茅濡之道、長尾街道)とする。図参照

古墳の配置は竹の内街道沿いに約3.7 km間隔で4基になる。
方位は90度になるので2基あわせて対角線が7.4 kmとすると1辺は5.36 km。

南側と北側に茅濡之道、長尾街道が通る。長尾街道の終点は住吉大社。
茅濡之道は等乃伎神社。等乃伎(とのき)はどうも佐賀県の筑後川の古名のようだ。

筑後川

熊本県阿蘇郡南小国町の阿蘇山の外輪山、瀬の本高原に源を発する。大分県に入り、日田市で玖珠川を併せ西流。福岡県に入り筑紫平野を貫流する。久留米市西部あたりからは福岡県と佐賀県をまたぐように南西方向に流れるが、流路変更の影響で筑後川の北西側であっても福岡県であったり、逆に南東側であっても佐賀県であったりすることも多い。



1184青面金剛:2013/02/09(土) 13:21:15
Re: 記紀百済人記述説
藤井游惟さんへのお返事です。

??藤井游惟さん、初めまして。こちらこそ、 宜しくお願いします。

 先ず、白村江の敗戦の結果、日本列島は西半分が占領下に置かれ、唐兵二千名が進駐軍として入り、694年に占領軍司令部としての藤原京が建てられます。彼らに対して組織的な抵抗を始めた場合は、18万もの唐の大軍が日本列島になだれ込む、という武力的な脅迫が有ったと考えられます。日本原住民は藤原京内で放火を繰り返す、といった、ゲリラ的な抵抗しか、しばらく出来ませんでした。

 それに加えて、唐の進駐軍による行軍・視察と共に、それまでの文字だった神代文字で書かれたものは、古代中国の例の如く、徹底的な焚書に遭ったはずです。


 太平洋戦争の末期に於ける沖縄戦では、「琉球方言を話すものは、敵国のスパイとして処分する。」という
脅迫の下に、1千名を超える琉球人が処刑されたとされます。

 また、戦後のGHQ司令部らによる、英語必修科目化の強制により、僅か数十年で日本語の発音は、大きく乱れて来ています。

 先にNHKで放送された『アテルイ』の戦いの様に、白村江以後大和朝廷の東北蝦夷との戦いは激化して行きました。清水寺が対蝦夷攻略の祈願寺で在った様に、琵琶湖までが、原日本人である、蝦夷の進軍域だったのです。

 敗戦後の占領下に、あからさまに記録を残せるのは戦勝者の側であり、敗者の側は行間に忍ばせる書き方しか出来ません。記紀万葉の編纂と執筆や筆写に関わった人数を合計して見ても、当時の日本人人口の1%にも満たないのでは無いでしょうか。


> 奈良時代の人口は500万人前後と推定されていますが、白村江敗戦で百済人が「大量」に亡命してきたといっても、記録にあるだけで3000人強、記録にないものを含めても1万人に満たなかったはず。500万人の日本語話者の海の中にその0.1%前後の3000〜1万人程度の百済語話者が入って来ても日本語の方はビクともしません。 せいぜい、百済語起源の外来語が増える程度で、2〜3世代で百済人の子孫も日本語に同化し、百済語話者は日本から消え去ってしまいます。その証拠が、「上代特殊仮名遣い」が740年頃から急速に崩壊していくことです。 仮に白村江敗戦後に百済から亡命してきた人間が5000人、日本の人口が500万人とし、その500万人が日本語とは異なる言語を話していたとして、 百済人全員が百済語教師になり、一人が1000人の生徒を相手にして、 全員を短期間の間に百済語、或いは加羅・新羅語話者に変身させることができたとでも言うのでしょうか?(^^)私は、「白村江敗戦と上代特殊仮名遣い」において、言語的な日朝同系説を「積極的に否定」しているのです。


1185藤井游惟:2013/02/09(土) 16:34:02
Re: 記紀百済人記述説
http://www.youtube.com/watch?v=GrW9HbymQmo

http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/Index.html



1186管理人:2013/02/09(土) 22:01:30
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
棘の紀氏さんへのお返事です。

> >相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。
>
> 「塞曹掾史」は官名であり、「郡の武官であろう」とするとともに、「この官名に類するものは、前漢の元始三年(西紀三年)八月の紀年を記す『居延漢簡』に塞曹史とみえる。 http://www6.ocn.ne.jp/~hiba/hikigaeru/gama/utagenoframe.htm
> 塞


『居延漢簡』は確かに敦煌方面のそれでしたね。国境警備関連というのはよくわかります。


> 「東」の解字、日木のことで「木にかかる太陽」を象ったものだ http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/10nen/1107wa6.html


これは面白いですね。「日木」は「日本」の意味にもよく似ている。扶桑木信仰に関係するでしょうか。
東の国の掛詞だった可能性を感じますね。比企。

男衾郡 → 比企郡 : 小川町大字木部、木呂子、勝呂、靱負およびひばり台一 - 三丁目の一部(旧竹沢村の一部)
大里郡 → 比企郡 : 小川町大字西古里、鷹巣
秩父郡 → 比企郡 : ときがわ町大字大野、椚平(旧大椚村)


ここで、男衾郡の木部、木呂子、勝呂、靱負、大里郡の鷹巣、この辺がすべて九州の新漢人と秦氏系の名称ですね。

稲荷木信仰がこの辺にみえます。関係してやはり「日置」郡、日鷹(高)吉士あたりも関わりますね。

鴻巣の埼玉古墳群ですが、鷹巣というのが、地域的に連続する可能性を感じます。
靱負は大伴系で、先に膳氏配下の大伴部と関わるとすると、だんだん見えてくるものがありますね。

その新漢人・吉士集団の「日」に関わる信仰が、後代聖徳太子〜天智朝前後で宮中へと入って行きます。

1187管理人:2013/02/09(土) 22:56:39
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
秦野北斗さんへのお返事です。


> >『晋書』泰始二年・266年条に「圓丘方丘を并(ナラ)べ、二至の祀を南北の郊においてす」
>
> 秦野訳 266年圓丘方丘を並べ、二至(住吉大社、等乃伎神社)を祀る。
> 南北を郊(茅濡之道、長尾街道)とする。図参照

どうも、倭人伝の記載だと、まだ墳墓の段階で、卑弥呼の墓は墳墓だった可能性もあります。カクがない縦穴式でも粘土カクみたいな簡素なものだったかもしれませんね。

それが、その266年を境に、郊祀墳丘・廟と変化したとすると、始祖を祀る神社とかも付随してきそうなものですね。

箸墓になる段階で、かなり前方部が高くなるようですね。四角い方形の祭祀場がその上に見えますが、後円部にはまた別に丸い祭祀壇が見えます。

方位ラインはかならず後円部をとおる鉄則があるのですが、主体はいまだ後円部にあり続けたとみなすべきでしょう。


> 古墳の配置は竹の内街道沿いに約3.7 km間隔で4基になる。
> 方位は90度になるので2基あわせて対角線が7.4 kmとすると1辺は5.36 km。
>
> 南側と北側に茅濡之道、長尾街道が通る。長尾街道の終点は住吉大社。
> 茅濡之道は等乃伎神社。等乃伎(とのき)はどうも佐賀県の筑後川の古名のようだ。
>

等間隔なら何か意味があるかもしれません。

> 熊本県阿蘇郡南小国町の阿蘇山の外輪山、瀬の本高原に源を発する。大分県に入り、日田市で玖珠川を併せ西流。福岡県に入り筑紫平野を貫流する。久留米市西部あたりからは福岡県と佐賀県をまたぐように南西方向に流れるが、流路変更の影響で筑後川の北西側であっても福岡県であったり、逆に南東側であっても佐賀県であったりすることも多い。


この辺の日田関係も重要ですね。

1188秦野北斗:2013/02/09(土) 23:10:56
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
管理人さんへのお返事です。

埼玉県の比企郡(ひきぐん)は東女國の郡

『翰苑』巻三十が引用した『魏略』逸文に倭人は太伯の子孫の文章がある。
「帯方郡から女國に至る距離は1万2000里。」は魏志倭人伝の狗耶韓国になる。
どうも、魏志倭人伝では対馬から女王国になるが、実は女王国は女國の模様。
女国は扶桑国と1千里の位置を考慮すると、埼玉県が女国の扶桑国になる。
扶桑国に女国の郡があり郡名が比企郡。女国は東女國で勢力は中インドに及んだ模様。
東女國は対馬から埼玉県になる。埼玉県から以北が日の出る所であったので統合し倭国から日本国
とした。しかし、ややこしいが日の出る所の国名は日本国らしい。

『唐会要』倭国・日本国伝

咸享元年三月。遣使賀平高麗。爾後繼來朝貢。則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。

 咸享元年(670年)三月。遣使が高句麗平定を祝賀。以後は続いて朝貢に来る。則天武后の時、自ら言うには、その国は日の出る所に近い。故に日本国と号する。思うに、その名が雅でないことを憎み、これを改名したのであろう。


倭人は太伯の子孫
「自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也」

「帯方郡から女國に至る距離は1万2000里。その男子は皆、顔や体に刺青をしている。その旧語(伝承)を聞くに、倭人は自らを太伯の後裔であると言う。昔、夏后小康の子が会稽に封ぜられ、断髪・文身をしてもって蚊龍の害を避けた。今の倭人もまた文身をして、水のなかで害を厭(おさ)えた。」
『翰苑』巻三十が引用した『魏略』逸文

『梁書』によると、僧慧深(けいしん、拼音: Huìshēn ホイシェン)が普通年間 (520年?527年)に扶桑という国から梁へやってきたという。扶桑の所在地については、倭国の東北7000余里に文身国が、その東5000余里に大漢国があり、大漢国の東2万余里に扶桑がある。ただし、倭国・文身国・大漢国までについては地の文で事実として書かれているが、扶桑についてはその位置も含め、慧深の証言という形で書かれている。また、地の文の大漢国と慧深の言う大漢国が同じものかもはっきりしない。
注)秦野距離が一致する。文身国は秦野距離で山東半島になる。




1189秦野北斗:2013/02/10(日) 00:00:47
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
管理人さんへのお返事です。

古市、百舌鳥古墳の被葬者を推定しました。
何かの痕跡が出れば明らかになるでしょうな。

現在の仁徳天皇陵は推定だが成務天皇陵。

成務天皇(せいむてんのう『古事記』『日本書紀』に伝えられる第13代天皇。和風諡号は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみこと、古事記)。

応神天皇陵は崇神天皇陵

崇神天皇(すじんてんのう、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。

大泉緑地は景行天皇陵

大泉緑地(おおいずみりょくち)は、大阪府堺市北区にある大阪府営の緑地。約200種32万本もの樹木が植えられた大森林公園で、巨大な滑り台が目玉となっている。名称の由来となった大泉池や、花壇、大芝生広場などの憩いのゾーンと、スポーツゾーンなどからなる。

景行天皇(けいこうてんのう、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)。常陸風土記には大足日足天皇。播磨風土記には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。

垂仁天皇陵は完全に破壊されている。

垂仁天皇(すいにんてんのう、第11代天皇。活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊等と称され、『古事記』には「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」、『常陸国風土記』には「伊久米天皇」、『令集解』所引「古記」に「生目天皇」、『上宮記』逸文に「伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王」と見える。『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強いとして、その史実性を疑問視する説もある。


1190青面金剛:2013/02/10(日) 05:53:44
Re: 記紀百済人記述説
藤井游惟さんへのお返事です。

【「日本史の宝石箱」オリエントの都アスカへの道】に、藤井游惟さんがコメントとリンクを張って少し後に、貴HPは目を通しましたし、YouTubeにUPされた一連の音声付動画も、一通り見聞きしました。

 先ずは、言葉の定義の問題で、日本語とは、現在私達が話しているものを基準と位置づけ、東北蝦夷の言葉は、原日本語とは見做さないのかを、定める必要が有ります。

 当時の西日本である和(倭)と百済は、軍事的には同盟国であり、緩やかな連邦国家を形成していた事。
また、現代と比べて、国境の意識・概念が希薄で、船を持つ集団にとっては、海流の流れに乗って行き来できる行動圏内が、彼らのグラウンドであった事。

 それに加えて、貴族や官僚・軍人などによる記述が殆どの、時の権力層の言葉を分析したところで、一般庶民の視線からは、上擦った異質な世界に思えます。

 古代に於いては、貴族と庶民の言葉が異なるのは、半島や大陸の国々にも言えることで、現代までに整えられた発音を基準にしても、当時の西日本で生活していた、一般庶民の枠組み全体にまで適用を拡大するには、無理がある、と思います。

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 異俗(あたしくにのひと)も重ねて来(もう)く   [『日本書紀』崇神紀]

 つまり、「風習が異なる人々の言葉が幾重もの通訳を経て、ようやく都の言葉に至る。」という意味で、そのころ日本列島にあった言葉と風習は、徐々に都のものと調整され、統合した日本語が成立したことを示唆する内容です。

【『日本語の正体』金容雲(キム ヨンウン)P・39、三五館、2009年8月】

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『日本列島3人類集団の遺伝的近縁性』2012/11/01
http://www.soken.ac.jp/news_all/2719.html

「 今回の研究では、個人を単位にした解析と集団を単位にした解析を行なった。前者については、多変量解析の標準的な手法である主成分分析、祖先集団を仮定してそれらの遺伝子交流を個人ごとに推定する方法のふたつを用いて解析した結果、アイヌ人からみると、彼らから地理的に大きく離れている琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。

 また、アイヌ集団が本土人およびおそらく北海道よりももっと北方の人類集団と遺伝子交流をしてきたことにより、個体間の多様性がきわめて大きいことがわかった。
 他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本列島人(アイヌ人、琉球人、本土人)の特異性が示された。
  これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している。

 集団を単位とした解析では、アイヌ人と琉球人が統計的にきわめて高い精度でクラスターを形成し、それと本土人、韓国人がそれぞれつながってゆくパターンが同様の高い精度で支持されている。

 以上から、現代日本列島人は、旧石器時代から縄文時代を通じて居住してきた縄文人の系統と、弥生時代以降を中心に日本列島に渡来してきた弥生系渡来人の系統の混血であることがはっきりした。
 また、アイヌ人はこれらとはさらに別の第三の系統(ニブヒなどのオホーツク沿岸居住民)との遺伝子交流があったことがわかった。」

(リンク先のグラフ画像・系統樹、等を参照)

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> 中国の清朝のことを考えてください。 満州族の清朝は明朝を滅ぼして中国全土を支配下におくと、それまで漢民族が野蛮人の風習としバカにしていた弁髪・胡服を漢民族に強制し、「髪を止める者は首を止めず、首を止める者は髪を止めず」とそれを徹底させました。しかし、当時の満州語を話す満州族の人口はたったの100万、中国語を話す漢民族の人口は2億、満州語を漢民族に強制するどころか、中国本土の移住した満州族の方が2〜3世代で満州語を話せなくなり、清朝廃帝溥儀は、満州語など3語しか知らなかったそうです。 現在では、現在満州族の人口は800万、但し、満州族として登録しておけば少数民族としての優遇を受けられるからで大半は中国語しかはなせず、満州語を母語として話せる者は辺境の村々の年寄りだけで、もう20年もすれば消滅するだろうと言われています。そして、この歌を音読している中国人や韓国人は、自分が何を読んでいるのか全く理解できませんが、日本人が聞くとかなり理解できます。 ウソだと思うなら、これらを中国人や韓国人に聞かせてみればわかります。これでも、日本語は白村江以後にできた言語で、中国人や百済人に強制された言語だと仰るのですか?まずは拙著「白村江敗戦と上代特殊仮名遣い」、或いはHPを全部読んで理解してから、意見を言ってください。 琉球語や蝦夷語の問題を含む日本語の形成に関しては次に出版する予定であり、既に原稿は8割方できています。


1191藤井游惟:2013/02/10(日) 07:18:58
Re: 記紀百済人記述説
青面金剛さんへのお返事です。

>
> 『日本列島3人類集団の遺伝的近縁性』2012/11/01
> http://www.soken.ac.jp/news_all/2719.html
>
> 「 今回の研究では、個人を単位にした解析と集団を単位にした解析を行なった。前者については、多変量解析の標準的な手法である主成分分析、祖先集団を仮定してそれらの遺伝子交流を個人ごとに推定する方法のふたつを用いて解析した結果、アイヌ人からみると、彼らから地理的に大きく離れている琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。
>
>  また、アイヌ集団が本土人およびおそらく北海道よりももっと北方の人類集団と遺伝子交流をしてきたことにより、個体間の多様性がきわめて大きいことがわかった。
>  他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本列島人(アイヌ人、琉球人、本土人)の特異性が示された。
>   これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している。
>
>  集団を単位とした解析では、アイヌ人と琉球人が統計的にきわめて高い精度でクラスターを形成し、それと本土人、韓国人がそれぞれつながってゆくパターンが同様の高い精度で支持されている。
>
>  以上から、現代日本列島人は、旧石器時代から縄文時代を通じて居住してきた縄文人の系統と、弥生時代以降を中心に日本列島に渡来してきた弥生系渡来人の系統の混血であることがはっきりした。
>  また、アイヌ人はこれらとはさらに別の第三の系統(ニブヒなどのオホーツク沿岸居住民)との遺伝子交流があったことがわかった。」
>

そんなことはとっくの昔に考慮に入れています。
紀元前3〜5世紀頃に、北九州に稲作・金属器文明を携えた渡来人が流入して弥生時代が始まる以前、縄文人には二系統あり、日本祖語を話す南方系縄文人とアイヌ祖語を話す北方系縄文人糸魚川−浜松ライン(糸浜線)を境界としてすんでおり、北方系は北海道まで、南方系は琉球にまでひろがっていたのです。(但し北方の方は、アイヌ以外に幾つかの異民族もいたようです)

稲作・金属器文明を携えた渡来人が何語を話していたかはわかりませんが、男ばかりでやってきたため、子孫を残すには原住民の女を捕まえて子供を産ませるしかありません。
その北九州の原住民の女が話していたのが日本(祖)語。

?家庭内で父親と母親の言語が異なる場合、子供は接触時間の長い母親の言語の方を強くうけつぐ
?家庭内の言語と社会の言語が異なる場合、子供は同世代の子供とのつきあいから、社会の言語の方を強く受け継ぐ

というのは強固な言語社会学的法則。

渡来人を父、縄文人を母として生まれた混血児(初代弥生人)にはこの両方の法則が働き、父親の言語よりも、母親の日本語を強く受け継いだのです。
生産性の高い稲作農業によって、この日本語を話す混血児の人口が数十年の間に爆発的に増え、この植民地の経営が安定し、女子供を連れた渡来人が三々五々入って来る頃には、その植民地の共通語になっており、渡来人達は政治的には優位でも言語的にはマイノリティー、2〜3世代のうちに日本語に同化してしまい、日本語人口がどんどん拡大再生産されていったというわけです。

この日本祖語を話す南方系縄文人は、糸魚川−浜松から琉球にまで広がっており、渡来系(北方系)の遺伝子が殆ど混じっていない琉球人が、本土日本人(弥生人)との濃密な交流が始まる以前から日本語と同系言語を話していたのが何よりの証拠。

一々説明するのは面倒なので、メールアドレスを教えてくだされば、以前に研究会で発表した際のレジュメをお送りします。






1192藤井游惟:2013/02/10(日) 07:51:19
Re: 記紀百済人記述説
青面金剛さんへのお返事です。

> 藤井游惟さんへのお返事です。
>
> 【「日本史の宝石箱」オリエントの都アスカへの道】に、藤井游惟さんがコメントとリンクを張って少し後に、貴HPは目を通しましたし、YouTubeにUPされた一連の音声付動画も、一通り見聞きしました。
>
私の説をちゃんと理解しているというなら、第六章で述べていることを否定できない限り、私の説は崩せないということはわかっているはずです。

http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/6shou.html

このことを否定する方法は
?国語学者に転向して、橋本・有坂以来100年間蓄積されてきた「上代特殊仮名遣いオ段甲乙書き分け法則」を否定するか、
?生物学者に転向して、奈良時代の人間は、「allophone(異音)」でもなんでも聞き分けられる言語脳をもった現代人とは別種の生物であった、
とうことを証明する以外にはありません。

?か?の方法で否定して見せてください。

1193青面金剛:2013/02/10(日) 09:01:32
Re: 記紀百済人記述説
管理人さんへのお返事です。

 関東の古墳群は金星、明けの明星の方を向いているのに対して、大阪の古墳群は向きがバラバラで、土着の王権では無く、渡来した部族の建てた王権を表しています。

埼 玉 古 墳 群 http://kotora888.art-studio.cc/Sakitama_kohun2/HTML/index.html

出雲では四隅突出型墳丘墓で、古代出雲の王権が長く続いていたことを物語っています。

 古墳の埋葬者については、光学的な最新の画像処理技術により、各、古墳・石棺・埋葬物に標された埋葬者名が明らかにされつつあります。

 纏向石塚古墳は火照命墓、高松塚古墳から発掘された海獣葡萄鏡には忍壁親王、同玄室内にも忍壁親王墓、石舞台古墳には馬子墓、畝傍山山麓の石には神倭伊波禮毘古命、黒塚古墳には大枝王命墓、志賀島出土の金印には常根津日子命、などが判明しています。

学研ムー、2012年11月号、P・73〜83、【古墳には被葬者の名前が書かれていた!!】有賀訓(考古調査士)。



> 青面さん、こんにちは。山の民と太陽信仰の件は、関連して30年前の小川光三さんの本『大和の現像』に、三輪山等の山岳信仰と、日の出等の太陽の方角と、箸墓等の方位ラインとの関係について述べられてますね。
>
> その言語関連の詳しいことは藤井さんのご回答を待ちたいとおもいますが、それで小川さんの本を読み返していて、興味深くおもったのは、前方後円墳の形状について、晋書(266年)条に、円丘と方丘を(今まで別々だったものを)「并べて」祀った記載があることです。そしてこの条文のすぐ前に倭人貢納記載が続くことから、この件に前方後円墳が由来することを指摘してます。
>
> 30年前当時は前方後円墳は200年代初頭とのことで、この指摘は無視されたのではないかと感じるのですが、最近は箸墓も270〜80年とする見方もあり、彼の指摘が30年たって通説となる可能性が出てきているのかもしれません。
>
> 写真家としてはプロだった小川氏の指摘、この指摘が最初だったとすれば、今の学会はどう反応するのか?そういうところにもちょっと興味がありますね。
>
> おそらくその前段階のマキムク型前方後円墳は、ちょっと違う経緯、橋梁部分が方形になっていったようにみえるのですが、そこから飛躍した前方後円墳がでてくる背景には、やはりこの晋266年の記載を考えるべきなのかもしれません。
>
> 小川氏は太陽の季節別の方角が前方後円墳のバチ型に影響し、先の山立てとの関係で、その古墳軸の向きを推測し、農耕歳時のカレンダーとしての古墳の意味を指摘しているのですが、ただこの点はちょっと古墳軸の向きが多様すぎて、別の意味もあった(あるいは失われた)のではないかと感じます。
>
> ともあれ、専門外の人の意見が、数十年後に的をえていたことが明らかになるケースもあるようなので、ぜひみなさんも多角的な視点から新意見を出して、本にして発表してほしいと感じます。

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藤井游惟さんがレジュメを送って頂けるという事で、メールアドレスは管理人さんへメールを送る、方法で宜しいのでしょうか。

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訂正

○ 異俗(あたしくにのひと)も訳(おさ)を重ねて来(もう)く  【『日本書紀』崇神紀】

× 異俗(あたしくにのひと)も重ねて来(もう)く  【『日本書紀』崇神紀】

失礼しました≪(_ _)≫



1194青面金剛:2013/02/10(日) 11:29:00
Re: 記紀百済人記述説
藤井游惟さんへのお返事です。

 再度、第6章を拝見しましたが、 「地域差・時代差・階層差・個人差で済んでしまうだろう。」と繰り返して締めくくられている中で、貴族と庶民との階層差は決定的だと思います。記紀万葉に携わった、当時の西日本人口の0,(コンマ)何%を対象として『上代オ段甲乙書き分け法則』を設定する、との、条件を但し書きで加えるのならば、藤井游惟さんの説は、大筋に於いて、正しい分析だと思います。

 他に出雲や東北地方の所謂ズーズー弁なんかも、出雲の地が物部勢力の侵略に遭い、東北の地に逃げざるを得なかった、民族的な移動の考え方も加えると、より説得力を増すでしょう。白村江の敗戦以後、千三百年もの長い歴史の流れの中で、言葉の違う為政者の下で暮らすより、分かり合える指導者を求めるものだと思いますので。

 私共、北国人は寒さや風による体温の低下を避ける為、口を大きく開けない喋り方、つまり、アをオに近い発音で済ませる傾向が有ります。 また、騎馬民族系の方は、鼻に抜ける発音の特徴を持ちます。

 最近は若い女性の中で、口を横に引く「イ」の発音を「エ」で済ます傾向が有ります。NHKの若い女子アナにも。
 さらに加えてアニメ声やギャル語なんかで話しかけられると頭が痛く成ってしまいます(^^;7

 彼女達は、自分たちの話している言葉こそ、真っ当な日本語だと、言い張ることと思われます。

 何を持って、「正しい」日本語とするのか、その大前提となる定義付けを定めない限り、議論は深まらない、と考えます。


> 私の説をちゃんと理解しているというなら、第六章で述べていることを否定できない限り、私の説は崩せないということはわかっているはずです。
>
> http://music.geocities.jp/konatarosu/Hakusonkou/6shou.html
>
> このことを否定する方法は
> ?国語学者に転向して、橋本・有坂以来100年間蓄積されてきた「上代特殊仮名遣いオ段甲乙書き分け法則」を否定するか、
> ?生物学者に転向して、奈良時代の人間は、「allophone(異音)」でもなんでも聞き分けられる言語脳をもった現代人とは別種の生物であった、
> とうことを証明する以外にはありません。
>
> ?か?の方法で否定して見せてください。

1195棘の紀氏:2013/02/10(日) 12:32:00
四隅突出型墳
>出雲では四隅突出型墳丘墓で、古代出雲の王権が長く続いていたことを物語っています。

玄室の四隅を おとした形。(字通)
亞は墓室の形で凶礼・凶事の意。悪はその心情。
亞の意味と読み方|漢字辞典
備考: #1醜なり、人の局背の形に象る。 賈侍中の?に 以為 ( おも ) へらく、次弟なり、 と。 凡そ亞の屬は皆な亞に従ふ。(説文解字): #2陵墓の墓室の平面形。玄室の四隅を おとした形。(字通): #3建物や墓をつくるために地下に四角く掘った土台を描いたもの http://jigen.net/kanji/20126

四隅突出型墳丘墓の最大の特徴が四方向に張り出した墳丘の張り出しです。 http://www.izumo.ed.jp/otsu-sho/2006hp/beforeh17/study/naruhodo/nishidani/s1/4sumi/htm/s_setumei.htm

 私的に四隅突出型墳は 古代の平板測量の誤差(誤差)の
定位
誤差させる作業である。基準点から既知点を視準して測線を一致させる。
これら三つのいずれかでもきちんとできていないと、図面に誤差が生じてしまう。また、平板測量はその性質上細部測量に適しているため、広範囲の測量を行うために図面を書いている途中で平板を度々移動させることがある。

平面測量と平板測量 - BIGLOBEなんでも相談室
「地球は平ら」と考え、測定結果に対し「地球は丸い」ことに対する補正を行わない測量を 意味します。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4927813.html
特定の地点(地面に杭や鋲を打つ)の平面座標を求めるのが基準点測量(skeleton servey または control point servey)。
その基準点を元に、家や塀などの平面位置を出すのが細部測量(detail servey)。
平板測量は、測量手段による分類で、「平らな板の上でアリダードを動かし測量を行うもの」であり、
専ら細部測量に使われますが基準点測量に使えないわけではないです。(精度が悪いため、トータルステーションが普及した時点で事実上絶滅。)


1196管理人:2013/02/10(日) 16:05:55
Re: 記紀百済人記述説
青面金剛さんへのお返事です。

>
>  古墳の埋葬者については、光学的な最新の画像処理技術により、各、古墳・石棺・埋葬物に標された埋葬者名が明らかにされつつあります。
>
>  纏向石塚古墳は火照命墓、高松塚古墳から発掘された海獣葡萄鏡には忍壁親王、同玄室内にも忍壁親王墓、石舞台古墳には馬子墓、畝傍山山麓の石には神倭伊波禮毘古命、黒塚古墳には大枝王命墓、志賀島出土の金印には常根津日子命、などが判明しています。
>
> 学研ムー、2012年11月号、P・73〜83、【古墳には被葬者の名前が書かれていた!!】有賀訓(考古調査士)。

-------------------------------------------------------------------------------
>
> 藤井游惟さんがレジュメを送って頂けるという事で、メールアドレスは管理人さんへメールを送る、方法で宜しいのでしょうか。
>


藤井さんの本は、うちには在庫はないですが、
掲示板下のメール投稿ボタンにて、お送り下さっても構いません。


あと、上記画像解析の話は興味深いですね。こちらのHPに詳しく載ってました。

http://www11.ocn.ne.jp/~jin/KURO.html

特にこの解析サイトにある黒塚と鏡作神社、つまり黒田庵戸宮は5度偏角方位区画に載りますので、
その年代が知りたいところでしたが、管理人の予想年代と対応してくるのがちょっと気にかかってます。


1197管理人:2013/02/10(日) 16:11:12
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
秦野北斗さんへのお返事です。

> 古市、百舌鳥古墳の被葬者を推定しました。
> 何かの痕跡が出れば明らかになるでしょうな。
>
> 現在の仁徳天皇陵は推定だが成務天皇陵。
>
> 成務天皇(せいむてんのう『古事記』『日本書紀』に伝えられる第13代天皇。和風諡号は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみこと、古事記)。
>
> 応神天皇陵は崇神天皇陵

この辺の年代推定は、確かに先の画像分析サイトの墓誌名分析が、面白い試みだとおもいますね。



1198秦野北斗:2013/02/10(日) 20:18:03
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
管理人さんへのお返事です。

「獲加多支鹵大王」

成務天皇の和風諡号、若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみこと、古事記)。
次が日本武尊になる。成務天皇から若になる模様。日本神話(ヤマトタケル)の地名だが
埼玉県の周辺に多く。また、扶桑国の比企郡から稲荷山古墳の金錯銘鉄剣銘
「獲加多支鹵大王」ワカタケル大王はヤマトタケルの息子ワカタケルが送った褒美
の可能性があるな。梅原猛はヤマトタケルの息子がワカタケルに言っているのは正しい。

諡号で探る。

崇神天皇 和風諡号は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。
御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる
垂仁天皇 活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)活目尊等と称す
「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」、『古事記』
景行天皇 和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)。
成務天皇 和風諡号は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、
若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみこと、古事記)。
日本武尊 諱は小碓尊(命)(おうすのみこと)

日本武尊(ヤマトタケル)の諱は小碓尊(命)(おうすのみこと)は有明海、筑紫海で
古代には太伯海、大伯(おうす)と言っている。
また、古代の九州、韓半島南部、出雲のエリアが若(ワカ)になる。

日本武尊の息子(ワカタケル)は九州、韓半島南部、出雲のエリアのタケルと理解できる。
「タケル」という名の意味は、「猛々しく強い男子」


成務天皇
成務天皇(せいむてんのう、第13代天皇。和風諡号は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみこと、古事記)。

日本武尊
ヤマトタケル(やまとたける、72年頃?113年頃)は、記紀に登場する皇子である。ヤマトタケルノミコト(やまとたけるのみこと)とも呼ばれ、諱は小碓尊(命)(おうすのみこと)。第12代景行天皇の皇子・第14代仲哀天皇の父とされる。『日本書紀』、『先代旧事本紀』では日本武尊、『古事記』では倭建命と書き、またの名を日本童男・倭男具那命(やまとをぐな)ともいった。また、『尾張国風土記』逸文と『古語拾遺』では日本武命、『常陸国風土記』では倭武天皇、『阿波国風土記』逸文では倭健天皇(または倭健天皇命)と書く。

銀象嵌鉄刀銘
倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘や埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘を「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力である。

梅原 猛(うめはら たけし、1925年3月20日 - )
ヤマトタケルは『古事記』では十二代の景行天皇の皇子である。ところが梅原猛『ヤマトタケル』ではヤマトタケルの息子がワカタケルになっている。このワカタケルは二十一代の雄略天皇になる大長谷の若建の命とは別人である。でもワカタケルの名を登場させることで、梅原は、おそらく雄略天皇を連想させようとしたのだろう。雄略天皇は倭の五王の武ということになっており、順帝の昇明二年に書かれた「倭王の武の上表文」(宋書倭国伝)に次のようにあるので、ヤマトタケルの英雄伝にイメージ的につながると梅原は判断したのかもしれない。

筑紫海
「有明海」という呼称は、明治時代の後期ごろから使われるようになったのではないかとされている。それ以前は、「有明の沖」「筑紫潟」「筑紫海」といった呼称が一部で使われていたとされているが、定かではない。




1199管理人:2013/02/10(日) 22:55:21
Re: 四隅突出型墳
棘の紀氏さんへのお返事です。

> >出雲では四隅突出型墳丘墓で、古代出雲の王権が長く続いていたことを物語っています。
>
> 玄室の四隅を おとした形。(字通)
> 亞は墓室の形で凶礼・凶事の意。悪はその心情。
> 亞の意味と読み方|漢字辞典
> 備考: #1醜なり、人の局背の形に象る。 賈侍中の?に 以為 ( おも ) へらく、次弟なり、 と。 凡そ亞の屬は皆な亞に従ふ。(説文解字): #2陵墓の墓室の平面形。玄室の四隅を おとした形。(字通): #3建物や墓をつくるために地下

確かに出雲勢力の進出時期を考える必要がありそうですね。

墓室の件は、下記サイトの楽浪墓室の変遷過程が興味深いところです。この変遷図はAD150年前後から変化があったとみなすべきでしょうか。
http://sucra.saitama-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/KP18A06-424.pdf?file_id=1606


四隅突出型墳丘墓の最盛期がたてつき墳丘墓の時代とすると、その大型化とか、その辺の変化が何に由来したかが課題ですね。


>  私的に四隅突出型墳は 古代の平板測量の誤差(誤差)の
> 定位
> 誤差させる作業である。基準点から既知点を視準して測線を一致させる。
>??これら三つのいずれかでもきちんとできていないと、図面に誤差が生じてしまう。また、平板測量はその性質上細部測量に適しているため、広範囲の測量を行うために図面を書いている途中で平板を度々移動させることがある。
>
> 平面測量と平板測量 - BIGLOBEなんでも相談室
> 「地球は平ら」と考え、測定結果に対し「地球は丸い」ことに対する補正を行わない測量を 意味します。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4927813.html
>


この辺の墳墓と測量との関係も、重要ですね。前方後円墳やそれ以前のたてつき墳丘墓には、すでに測量拠点としての意味があるので、それなりに適した形で造営する必要があったでしょう。特に後円部が測量上で重要で、平面を保つ必要があったといえそうです。

いろいろその時代ごとに、元々基盤にある材料なり建築システムの上に、技術的・宗教的な影響が加わって、日本式の形で加工されていくのですが、その転機を与えたものが何だったのか?その辺が渡来人研究会の課題といえるでしょう。

1200管理人:2013/02/11(月) 00:07:05
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001224M.jpg

http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1996Moji/04/4102.html



1201棘の紀氏:2013/02/11(月) 01:23:56
Re: 四隅突出型墳
管理人さんへのお返事です。
> いろいろその時代ごとに、元々基盤にある材料なり建築システムの上に、技術的・宗教的な影響が加わって、日本式の形で加工されていくのですが、その転機を与えたものが何だったのか?その辺が渡来人研究会の課題といえるでしょう。

2,100年前
四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期の後半(約2,100年前)に、中国地方一の大河、江 . ごう. の. 川をさかのぼった中国山地の山あいで誕生しました。 http://www.pref.tottori.lg.jp/secure/76301/yosumi.pdf#search='四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期の後半('

アンティキティラ島の機械は、今から約2100年前(紀元前)に製作されたと考えられており、発見から1世紀以上も科学界の謎とされており、その秘密はたやすくは明らかにならなかった。 http://karapaia.livedoor.biz/archives/52033213.html
腐食し石化の進んだ81の部品の謎がようやく解明されたのは2006年11月のこと。実際にはかなり複雑で精巧にできており、天体運行を計算するために作られた古代ギリシアの歯車式機械であることが判明したという。

木星の 衛星が木星の表面を通過する時間を異なる2か所で測定して、その時間のずれから 経度を求める。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ラランデ暦書
伊能忠敬の測量と『ラランデ暦書』 [編集]
『ラランデ暦書』から得られた天文知識は、伊能忠敬による日本測量の際に活用された。
忠敬が日本全国を測量しようと考えた当初の目的は、緯度1度に相当する子午線弧長を求めることであった[19]。忠敬は測量中に測定を行い、子午線一度は28里2分という結果を得た。しかし忠敬の師匠である至時は、測量では土地の高低差による誤差が生まれる恐れがあり、自らが書物を元に得た結果とも異なるとして、忠敬の測定値には信頼を置かなかった。だが後に『ラランデ暦書』を手にした至時は、地球は完全な球体ではなく、南北方向につぶれた扁球形であることを知った[注釈 3]。さらに、『ラランデ暦書』に掲載されていた子午線1度の値は忠敬の実測値とほぼ一致しており[20]、このことから忠敬の測定の正確さが確かめられ、忠敬と至時は喜び合った[21]。
また、『ラランデ暦書』には、ガリレオ衛星の食を利用した経度の求め方が記載されていた。木星の衛星が木星の表面を通過する時間を異なる2か所で測定して、その時間のずれから経度を求める。至時はこの方法を理解し、至時の死後は間重富と高橋景保の手によって引き継がれ、食の予報表が作成された[22]。そして文化2年(1805年)から行われた忠敬一行の西日本測量において、この木星の衛星を使った方式や、あるいは月食などを使った方式により観測を行い、経度が求められた[22]。しかし天候や観測技術の問題があり、さらに浅草の天文台の火災により江戸での観測データが失われたこともあって、忠敬らによる経度の算出は成功したとは言い難い[23][24]。そのため忠敬が作成した大日本沿海輿地全図は、現在の地図と比較すると、経度方向に大きなずれが見られる[25

木星の衛星が木星の表面を通過する時間を異なる2か所で測定して、その時間のずれから経度を求める。

イタリア人のガリレオ・ガリレイは、 オランダからの輸入をもとにした望遠鏡を使用して、木星の衛星が軌道を描くことを観測 した。 http://ja.wikipedia.org/wiki/数学史
十進目盛が刻まれ、細かく精細な目盛りのついた正確な定規や、地平座標における角度を40度あるいは360度法で測るために用いられた貝のコンパス、天球を8ないし12分して計測するための貝製の計測器、航法のために星の位置を計測する計測器などがある。

古代中国 でも、天文学者の甘徳が紀元前362年に肉眼で木星の衛星を観察したと席澤宗(Xi Zezong) は主張した。 http://ja.wikipedia.org/wiki/木星
木星は古代から知られ観測されてきた。そして多くの文明で神話や信仰の対象となった。英語 Jupiter は古代ローマ神話の神ユーピテルを語源とする[

中国名で辰星ともよばれる水星は太陽のまわりをめまぐるしく動くので水の要素の星。 http://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/solsys/solsys04.html
木星はそのどっしりと落ち着いた輝きにたいし、神々の王者ジュピター。

北辰妙見信仰の系譜 1
陰陽道における北辰の概念は、中国のものとほぼ同じで、天地草創の中心に位置する 宇宙根元の神とされます。北辰から、日月が生じ、五星(木星、火星、土星、金星、水星) が生まれ、それが五行になったといいます。 http://www.d1.dion.ne.jp/~okmys/myoken1.htm
北極星の特別な地位
 まず、北極星(ポラリス)が、どういう星か、説明しましょう。こぐま座のアルファ星で、ちょうどくまのしっぽの先に当たり、光度2.1等の星です。というよりも、地球の北の地軸の延長線上(天の北極)にあり、一晩中動かない星といえば、誰でも知っていますね?。実際は、天の北極よりも1度近く離れており、小さな半径で日周運動をしているのですが、古来より航海などで北を指す星として、大変重視されてきました。
 日本では、「子(ね)の星」と呼ばれています。子は十二支の最初ですが、方角でいうと北を指す言葉です。ちなみに、「子午線」というのは、子と、南の方角午(うま)を結ぶ線という意味があります。
 見かけ上、すべての星(太陽や月も含む)が北極星を中心に運行するので、昔の人々は、この星に特別な地位を与えました。古代中国では、北極星に対する信仰が生まれ、日本にも入ってきて、これから述べる北辰妙見信仰になったのです。

666年天智天皇
妙見信仰が関東地方に伝わったのは、天智天皇の666年から霊亀(716年)に近畿・駿河・甲斐・相模などに住んでいた渡来人(帰化人)を関東地方に移住させたことで、妙見信仰が文化の一つとして関東地方に伝わったようです。そしてこの妙見信仰と、元々この地にあった八幡信仰とが習合して、北辰妙見菩薩という武士団の守護神となっていったようなのです。 http://blog.livedoor.jp/susanowo/archives/50045217.html

妙見信仰は、縄文・弥生時代の日本列島でのオリジナルな信仰ではなく、中国 などとの関係が深まった時代に遅れて入ってきた「星信仰」であり、「天津甕星」=「天香 香背男」とは別物だといえるのです。 http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/54300329.html
カカ背」と素直に読めば、「カカ=蛇」なので「蛇の背中」となるところが謎を解く鍵のようです。

エジプトのピラミッドの高さを測るのと同じ方法で、木星までの距離が分かるん だ。 http://www.mathforum.jp/mami/summer/summer_3/index.html
物差しは、地球の半径と地平視差と言う角度。地球の半径はおよそ6400km、木星の地平視差が観測から約0.00046度と分かったとして、
(注:地平視差は天頂と地平線上で木星を観測したときの位置角度のずれ。)

夜に北極星の高度を測れば、それがほぼ現在地の緯度を示すことになる。また、太陽の高度を測定しても緯度を求めることができた。さらに、アストロラーベ、十字桿、背面桿、赤緯表といった、緯度を測るための道具も発明されていた[19]。そのためコロンブスは1492年、緯線に沿って西へと移動することで新大陸を発見することができた[20]。ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰に到達した時は、目的地の緯度が分かっていたため、その付近までまっすぐ南に船を動かし、そののちに東へ舵を取るというルートをとることができた[21]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/経度の歴史




1202秦野北斗:2013/02/11(月) 09:41:57
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001226M.jpg

http://kamnavi.jp/mn/osaka/wakae.htm



1203棘の紀氏:2013/02/11(月) 12:29:18
双方中円墳
鏡塚古墳 http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/sinkou/maibun.files/iwaseoyama.files/kagamizuka.htm
古墳時代前期(4世紀前半)
【案内】 摺鉢谷をとりかこむ東側の尾根筋の最も高いところにあります。石船塚古墳から北へ約30mのゆるやかな坂をのぼっていくと古墳が見えてきます。
【外形】 双方中円墳。積石塚。全長は約70m,高さは約3.6mです。
【内部】 かつて6基の石室があったという説もありますが,現在では不明です。
【出土品】 これまでに知られているものは全くありません。
【特徴】 猫塚と同じ双方中円墳で,まわりの古墳より少し古く築かれたと考えられます。石積みは二段築成です。

円丘に2つの方丘(長方形又は台形)をつなぎ合わせた形状をしています。方丘部分は円丘と外部をつなぐ通路が発達したものであると考えられています。 http://kofun.info/type/9

墳丘墓 [編集]
遺体埋葬地に土で塚を築く墳丘墓(ふんきゅうぼ)は、弥生時代前期から見られたが、比較的小規模であった。弥生後期になると墳丘の規模が一気に大きくなり、その後の古墳へとつながっていく。 http://ja.wikipedia.org/wiki/弥生時代の墓制
古墳時代初頭まで続く墓制とされた方形周溝墓について、近年の土器編年などの研究の進展によって、初期古墳や前期群集墳としてとらえる考え方が出てきたのに伴って、方形墳(ほうけいふん)と呼ぶ研究者も現れるようになった。
方形周溝墓は特定の個人墓ではなく、複数の被葬者が見られることから、家族の墓だったと考えられる。しかし、着装品の有無や赤色顔料の使用の有無などから序列化ができあがっていた。また、いくつもの方形周溝墓が密接して営まれることが多かったようである。溝に埋葬されることもある。
弥生中期には、周囲の土を削りだし、山や丘陵、尾根の上に造られた方形台状墓も現れ、中部地方・関東地方へ伝播した。弥生前期の中部・関東では、一度遺体を土壙して骨化させてから小型の甕や壺に埋納する再葬が行われていたが、方形周溝墓が伝わると墓制の主流となった。
墳丘墓は、水稲耕作などと共に朝鮮半島南部から伝えられたものと考えられているが、北部九州では方形周溝墓は極めて少ない。福岡県東小田峰遺跡で弥生時代前期初頭の例がある。

墳丘墓は、弥生中期以前の墳丘墓と規模的に一線を画している。そのため、墳丘墓の呼称を弥生後期の大規模なものに限るべきとする意見が、多数となりつつある。このような墳丘墓は、3世紀中葉過ぎに出現する前方後円墳などの古墳へと発展することになる。墳丘墓にはまだ地域性が見られたが、古墳は全国斉一的であり、大きな差異は見られなくなっている。このことは、3世紀中盤を画期として、九州から東日本にわたる統一的な政権が確立したことを示唆している。


1204棘の紀氏:2013/02/11(月) 12:38:51
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
秦野北斗さんへのお返事です。

>管理人さんの方位ですが古市、百舌鳥古墳の距離を当て嵌めると少しマトモナモノに成りまし たので添付しますな。 http://userimg.teacup.com/userimg/8220.teacup.com/toraijin/img/bbs/0001226.jpg

田亞田?
田三つを「ム」三つに簡化した。
「厽」 雷 かみなり ・・・神〔示申〕
畾>色々櫑:さかだる儡:〜傀儡(カイライ)〜操り人形壘・塁:とりで罍:さかだる疊・疂・ 畳:たたむ、たたみ疉:たたむ、たたみ 纍・累:わずらわせる、かさなる、しきりに 靁・雷: かみなり、いかづち、いかずち 畾 礧 讄 藟 櫐<疉> 氎<纍・累> ... http://blog.goo.ne.jp/kanji-circle/e/9993b409f262d45a7bc2b9d8db6c2bdb

縄文測量 でしょうか?




1205管理人:2013/02/11(月) 22:43:46
Re: 四隅突出型墳
棘の紀氏さんへのお返事です。

> 木星の 衛星が木星の表面を通過する時間を異なる2か所で測定して、その時間のずれから 経度を求める。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ラランデ暦書
> 伊能忠敬の測量と『ラランデ暦書』 [編集]
> 『ラランデ暦書』から得られた天文知識は、伊能忠敬による日本測量の際に活用された。
> 忠敬が日本全国を測量しようと考えた当初の目的は、緯度1度に相当する子午線弧長を求めることであった[19]。忠敬は測量中に測定を行い、子午線一度は28里2分という結果を得た。

ちょっと先ほど図書館にいく機会があり、ちょうどガリレオの描いた太陽の黒点とかのスケッチを集めた新刊が置いてありました。緻密な観察の結果として地動説がでてきたわけですが、古代人が望遠鏡をもっていたかどうか、その辺が課題ですね。太陽黒点の件は、三本足の烏の件で、おそらく理解できていた節がありますが、黒点の見える時間の相違となるでしょうか。

1206管理人:2013/02/11(月) 23:08:22
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
秦野北斗さんへのお返事です。


> 若江鏡神社の由緒に神功皇后四年、大和の鏡作神社の文字がある。古墳の埋葬品の鏡を
> 製作した神社と見るべきだな。
>

ちょっと先の張安と若江造の件で見落としていたことがあります。先のとおり「漢」なのですが、「奈率」が百済の官位です。

したがって、百済系の中国人となります。これが江田船山古墳が出る理由は、その百済王族の遺品と同類である件ともかかわってくるでしょう。再度引用すると、


「治天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□弖、八月中、用大鐵釜、井四尺廷刀、八十練、□十振、三寸上好□刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□、書者張安也」



ここで、伊太□とみえるのが、これが播磨の「(韓国)伊太氏(_が入る)」や「射楯」に見える渡来系製鉄集団と感じます。


「无□弖」も同類の渡来系と感じます。もっとちゃんと文字が見えれば、解読できてくるでしょう。


それで、「不失其所統」の「所統」が、倭の五王上表文の「驅率所統 歸崇天極」になります。よって、武はワカタケル=雄略の可能性が高くなります。

また、「歸崇天極」は、「東西文部の解除」儀の祝詞に見える「三極大君」などの皇帝祭祀用の語に対応してきます。


「謹請皇天上帝。三極大君。日月星辰。八方諸神。司命司籍。左東王父。右西王母。五方五帝。四時四気。捧以銀人。請除禍災。捧以金刀。請延帝昨。呪曰。東至扶桑。西至虞淵。南至炎光。北至弱水。千城百国。精治万歳。万歳万歳。」

これは、延喜式に見えるのですが、実はかなり古くて、上記の百済系中国人書記官がもってきたのかもしれません。

皇帝祭祀なんです。皇帝のそばで、祭祀をしていたので、こういう祝詞とか護身剣を造れるわけでして、どうみても百済や東晋王族、あるいは北朝系王族のそばにいた技術者集団との見方ができるのではないかと考えてます。それを雄略にも適応したんですね。


> 話は変わりますが、古代の韓半島南部(韓国)の地名は現在の日本の地名が相当数使われてい
> た模様。そのままの地名が韓国に対応すると思われるが、漢字表記の地名が残るだけ。
> 日本書記に任那日本府がいい例ですな。
>
> 管理人さんの方位ですが古市、百舌鳥古墳の距離を当て嵌めると少しマトモナモノに成りまし
> たので添付しますな。
>

韓国系の地名が河内方面に見える事例はありうると思います。「百済」などもそうですね。そして、その方角とか配置まで一緒なら、証明も可能になってくるでしょう。


あと、ヒミコの刀とされる中平刀の銘文が、三角縁などの鏡のそれと類似するという指摘があって、楽浪方面が指摘されているのですが、その年代が、中平ではなく、後代の太平だという説があるんです。

http://www.bell.jp/pancho/k_diary-5/2011_07_02.htm

太平元年は中国・呉の年号で、西暦256年ですが、全体的にはこの年代のほうが、この刀の様式には合うと考えられているようです。ただ、下記のサイトの画像をみると「中平」にみえるんでよね。どう思いますか?
http://yamatai.sblo.jp/category/932915-1.html

1207秦野北斗:2013/02/12(火) 00:28:33
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001231M.jpg

管理人さんへのお返事です。


『晋書』泰始二年・266年条に「圓丘方丘を并(ナラ)べ、二至の祀を南北の郊においてす」
と、日本神話の日本武尊、神功皇后三韓征伐の辛卯年(271年)が重なるんですな。

百済系の中国人と言えない。弖は阿毎の文字で倭国製(越国:ワニ)になる。

「治天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□弖、八月中、用大鐵釜、井四尺廷刀、八十練、□十振、三寸上好□刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□、書者張安也」

> > 若江鏡神社の由緒に神功皇后四年、大和の鏡作神社の文字がある。古墳の埋葬品の鏡を
> > 製作した神社と見るべきだな。
>
> ちょっと先の張安と若江造の件で見落としていたことがあります。先のとおり「漢」なのですが、「奈率」が百済の官位です。
>
> したがって、百済系の中国人となります。これが江田船山古墳が出る理由は、その百済王族の遺品と同類である件ともかかわってくるでしょう。再度引用すると、
>

ヒミコの鏡は銘文に陳寿の陳があるので楽浪郡、玄菟群を管理していた京師で造られたものですな。卑弥呼の死後、鏡作神社で複製が造られた模様。共通文字が孫、保子、三公になる。

> あと、ヒミコの刀とされる中平刀の銘文が、三角縁などの鏡のそれと類似するという指摘があって、楽浪方面が指摘されているのですが、その年代が、中平ではなく、後代の太平だという説があるんです。
>

中平元年(184年)、後漢において黄巾の乱が起きる。倭国の大乱ですな、不可能ですな。
>
> 太平元年は中国・呉の年号で、西暦256年ですが、全体的にはこの年代のほうが、この刀の様式には合うと考えられているようです。ただ、下記のサイトの画像をみると「中平」にみえるんでよね。どう思いますか?

まあ、間違いの推理も役に立ちます。古市、百舌鳥古墳の並びが玉手山を基準にすると
逆になり、仁徳天皇陵は崇神天皇になるな。別の方位の基点が天理になり、のこりは継体陵ですな。
天理に何か大きな者が埋葬されている様だな。図添付




1208棘の紀氏:2013/02/12(火) 01:40:24
Re: 四隅突出型墳
管理人さんへのお返事です。

>緻密な観察の結果として地動説がでてきたわけですが、古代人が望遠鏡をもっていたかどうか、その辺が課題ですね。太陽黒点の件は、三本足の烏の件で、おそらく理解できていた節がありますが、黒点の見える時間の相違となるでしょうか。

古代の人達はどのようにして惑星を見つけたのですか | 天文学のQ&;A ...
古代の人達は数ある星の中から、どのようにして木星や土星を見つける事が出来たの でしょうか。 なぜこれらを特別な天体と捉えることができたのでしょうか。 ... 肉眼で観測できる天体の中でも大きさや輝き、あるいは動きが他の天体と違ったからです。 特に 動き ... http://okwave.jp/qa/q7455187.html
毎日夜空を観察していれば、星座を形作っている各恒星に対して、惑星は位置がずれていくのですぐにわかります。だから「惑う星」=惑星と呼ばれます。古くは「遊星」とも呼ばれたようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/惑星
の「惑星・遊星という呼称の由来」参照。

肉眼観察可能な太陽系5惑星 約8年ぶりに同時に夜空へ - 【WRP ...
2012年2月29日 - 今週から数日間にわたり、普段肉眼で観察可能な太陽系の5惑星が一夜に登場する 天体ショーを見ることができます。 太陽系に存在する9個の惑星の中で、水星、金星、 火星、木星、土星の5惑星は肉眼で容易に観察可能なため、古代から ... http://blogs.yahoo.co.jp/watherreportplayer/38776154.html



1209棘の紀氏:2013/02/12(火) 01:42:42
Re: 四隅突出型墳
> 管理人さんへのお返事です。昔の人は、肉眼観察だけで、太陽系の惑星と恒星の区別ができたのですね。どうやった の ... 古代の天文学者はこの動きを説明することができず、これらを通常と違う動きで 我々... http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1417038094

>

1210棘の紀氏:2013/02/12(火) 03:17:28
六芒星と五芒星は鶴と亀。
サイト内リンク 犬夜叉のかごめは六芒星 桔梗は五芒星; 「すべった」は統べると滑るの2 つの解釈があります。 ... この五芒星は、鶴の港を象徴して折り鶴の形を星状に配してい ます。 鶴の折り紙から五 ... 六芒星はダビデの星とも言われ、ユダヤ民族を象徴する。 http://www7a.biglobe.ne.jp/~mkun/nazo/star56.htm
童謡かごめかごめの意味
1.かごめかごめ籠の中の鳥は
「かごめ」がカゴメ籠目の意味だとすると、籠の中には龍がいる。龍は空を飛ぶから、籠の中の鳥と言っても良いだろう。
鳥は→とーりーいは→鳥居→日本を意味するという説もある。
2.いついつ出やる
龍はいつか、籠から開放される。
3.夜明けの晩に
夜明けの晩が、夜明け前の晩という意味だとすると。
暗黒の晩が終わり、希望の夜明けが始まるという事かもしれない。
4.鶴と亀が滑った
この龍が籠の中から出るのは、鶴と亀が統べった夜明けの晩である。鶴と亀は五芒星と六芒星を意味し、アメリカ、中国、ロシアが世界を統べる(支配する)という意味かもしれない。
5.後ろの正面だあれ
この意味は難解である。

数的推理
同様に(2)式よりeは5の倍数、(3)式よりeは2の倍数でもある。つまりeは3×5×2=30の倍数でなければならない。 http://www.koumuin.ne.jp/semener s.html

360の約数 | 数学のQ&;A【OKWave】
360÷1 = 360 ・・・1と360は約数360÷2 = 180 ・・・2と180は約数360÷3 = 120 ・・・3と120は約数360÷4 = 90 ・・・4と90は約数360÷5 = 72 ・・・5と72は約数 360÷6 = 60 ・・・6と60は約数360÷7 どう見ても割り切れない360÷8 = 45 ・・・8 ... http://okwave.jp/qa/q5307100.html
360÷5 = 72 ・・・5と72は約数
360÷6 = 60 ・・・6と60は約数

72は合成数で、約数は1,2,3,4,6,8,9, 12, 18, 24, 36,72の12個である。 □ 72の ... □72度は正5角形の中心角であり、その外角でもある。 □マヤの1 ... 春分点が 1度ずれる(太陽が歳差運動により、黄道に沿って1度移動する)のに72年を要する。 http://homepage3.nifty.com/enoch/fo-number2/num72.htm
<3:4:5>の直角3角形の3数の和と積の和は(3+4+5)+(3×4×5)=72になる。
72はフィボナッチ数列第12項の144、及び12番目の平方数の144の1/2である。
72時間は3日であり、72ヶ月は6年である。
春分点が1度ずれる(太陽が歳差運動により、黄道に沿って1度移動する)のに72年を要する。
72はその5乗数が他の5乗数5個(この場合は19, 43, 46, 47, 67)の和で表せる最小の数である(1934917632=725=195+435+465+475+675=2476099+147008443+205962976+229345007+1530125107)。
6次元空間において1つの球に同じ大きさの球が接することができる数は72である。
イスラム教には全部で72ないし73派があり、その内の1派を除く全部は地獄に堕ちるとされている。
イスラム教の天獄では男性は72人の処女と関係を持つことができるとある。
孔子は72歳まで生きた(BC551〜BC479)。

ソロモン王の鍵には72の悪魔とそれをコントロールさせる術が記されている。

サッカーボールの五角形を五芒星に、六角形を六芒星に変え、隙間を三角形で埋めた ような形をしている。 ... http://www.weblio.jp/content/小変形二十・二十・十二面体

<ペンタクロス>とは、五本の直線をクロスさせて造った五芒星図形のことです。          日本文化のDNAを暗示するこの図形が、秘められた日本史の謎を解明します。 http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/


1211青面金剛:2013/02/12(火) 21:27:54
対蝦夷戦争の真っ最中です
藤井游惟さんへのお返事です。

「東」歌なるものは、作者が一人も不明で、製作年も判っていないのが多い。「東」歌なるものを集めたとされるのは、上総大掾であった準皇族、大原真人今城( おおはらのまひといまき )です。

 当時、対蝦夷戦争の真っ最中で、対蝦夷宣伝プロパガンダ政策の一環として、利用されたものです。大原今城が部下の小役人に命じて、東国人が書いた様に見せかけたフレームアップだと考えます。

 其の証拠に、対蝦夷征服戦争が終わる811 年(弘仁2)と共に、「東」歌なるものは姿を消しています。

対蝦夷政策史略年表 811(弘仁2)年まで
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/emisi.html

 防人歌が編纂されたのは755年。八切止夫が解説していた様に、防人制度とは、北九州防衛なぞ、単なる題目に過ぎず、其の本質は、東国の若者を、強制的な徴兵により、妻から引き離し、東国の人口を抑制するためであった。

 下級兵士が上官の命令無く、歌など書ける訳も無く、書いたものも、太平洋戦争中の兵士の手紙の如く、当たり障りのないものしか、書けない筈です。

>『万葉集』に収録されている東歌・防人歌は「当時の貧しい庶民の言葉」であることをお忘れなく。 但し、これは当時の関東地方の方言であるため、有坂秀世は「有坂三法則」などの考察の対象から外していますが、これらが当時の関西の貴族とは全く通じない「別の言語」であったというなら、ご自分で韓国人を使って朝鮮語漢字音による発音実験をしてみればよろし。 自分で実験してそういう結果がでたら、YOUTUBEにでもアップして見せてください(^^)

>仮に白村江敗戦後に百済から亡命してきた人間が5000人、日本の人口が500万人とし、その500万人が日本語とは異なる言語を話していたとして、 百済人全員が百済語教師になり、一人が1000人の生徒を相手にして、 全員を短期間の間に百済語、或いは加羅・新羅語話者に変身させることができたとでも言うのでしょうか?(^^)

 短期間では無理ですが、数十年という時間枠ならば十分に可能だと考えます。

 一人の百済語教師が、20人程度の寺小屋の様な教室で、午前と午後に読み書き、問答、唱歌などの授業を25年間続けたとすると、

 20×2×25=1000

つまり、千人の教え子を設けることが出来るのです(^^)

1212管理人:2013/02/12(火) 21:36:12
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
秦野北斗さんへのお返事です。


> 百済系の中国人と言えない。弖は阿毎の文字で倭国製(越国:ワニ)になる。
>
> 「治天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□弖、八月中、用大鐵釜、井四尺廷刀、八十練、□十振、三寸上好□刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□、書者張安也」
>
> ヒミコの鏡は銘文に陳寿の陳があるので楽浪郡、玄菟群を管理していた京師で造られたものですな。卑弥呼の死後、鏡作神社で複製が造られた模様。共通文字が孫、保子、三公になる。
>

和邇氏系譜の姥津媛がヒミコだと思うのですが、その和邇氏の本拠の古墳に先の中平刀が出るのは偶然ではないように感じますね。

それで江田船山の鉄剣の件ですが、どうも6世紀前後に後から追葬されたものとの見方が有力のようです。
稲荷山も同様で、そうすると、「治天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□弖」

も、獲□□□鹵大王が天下を治める世より(に)奉事してきた(した)、典曹人の名无□弖となるでしょうか。

ただ前回の銘文と違うのは「時」がないことですね。刀の長さは21cm尺で、画像鏡径か三角縁の小さいサイズの径でしょう。この尺の刀が他にも数本あるようです。柄の長さが1尺なんですね。

確かにご指摘のように、同じ職人系統なら、同じ語を使いそうですね。みなさんご注目の「弖」「人:


>
> 中平元年(184年)、後漢において黄巾の乱が起きる。倭国の大乱ですな、不可能ですな。
> >

倭人作ではないでしょう。いろいろ文字体からみても、半島系が有力なようです。


> まあ、間違いの推理も役に立ちます。古市、百舌鳥古墳の並びが玉手山を基準にすると
> 逆になり、仁徳天皇陵は崇神天皇になるな。別の方位の基点が天理になり、のこりは継体陵ですな。
> 天理に何か大きな者が埋葬されている様だな。図添付
>


玉手山の古墳群関連で下記の横穴がありますね。行基関連です。

「菩提樹蒔絵香筥」は国の重要文化財に指定されている。また、境内には明治時代に玉手山3号墳(勝負山古墳)から出土したとされる「割竹型石棺蓋」が置かれており、かつては手水鉢として使われていた。これも重要文化財に指定されている。
最初の小さな門をくぐるとすぐに参道の両側に安福寺横穴群が広がっている。これら横穴群は、谷間の凝灰岩が露出しているところに掘られており、参道南側、北側に各16基、計32基確認されている。かつては古代人の住居であるといわれていた時期もあったが、石棺や陶質棺、陶器などが見つかっており、中には騎馬人物像などの壁画が描かれたものもあり、古墳時代後期の横穴墓であることがわかっている。大阪府の史跡に指定されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/





1213青面金剛:2013/02/13(水) 06:40:20
後ろの正面
棘の紀氏さんへのお返事です。

後の青面です。北海道の地形も四隅突出型に見えなくもないので、凶相の話を持ち出されるのは、心苦しいのですが。出来ましたら、「末広がり」との言葉を使っていただきたく思います。

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後戸の猿楽はかぐら

 あるいはまた、世阿弥は、こうもいっている。「天鈿女(あめのうずめ)の岩戸での神憑(かみがか)りの舞いを述べ、その時の神楽あそびが、猿楽の始めであり、…。」

後戸(うしろど)の神と戌亥(いぬい)
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ku/usiinui.html

後の正面とは、岩戸の前に置かれた鏡に映つし出されている、アマテラスの御姿。

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精霊の王/中沢新一

「後戸の神である摩多羅神を中心としてうごめき廻っているのは、理知的な仏教の体系をつくりだしているものとはまったく異質な、一種の「古層」に属する思考だ。仏教の歴史はたかだか紀元前数百年を遡るにすぎないが、こちらのほうはその百倍もの長い時間を生きてきた人類の思考である。仏教の中に、そのようなとてつもなく古い思考が生き続けている事実は、隠しておかなければならないことだった。 」

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/seireo07.html

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> 童謡かごめかごめの意味

> 3.夜明けの晩に
>??夜明けの晩が、夜明け前の晩という意味だとすると。
>??暗黒の晩が終わり、希望の夜明けが始まるという事かもしれない。

>??5.後ろの正面だあれ
>??この意味は難解である。


1214秦野北斗:2013/02/13(水) 10:01:17
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001239M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001239_2M.jpg

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管理人さんへのお返事です。

時間軸を合わせる必要がありそうですな。

稲荷山「治天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□弖」の剣、鏡を送る、造る事は何か
祝い事があったと見るべきだな。

『晋書』泰始二年・266年条に「圓丘方丘を并(ナラ)べ、二至の祀を南北の郊においてす」
も同様だな。

好太王碑(こうたいおうひ)の辛卯年(391年)は271年が適当な年代ではないか。

海]を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされ、日本学会の通説では以下のように解釈される。

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民

〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年
(391→271年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉

辛卯年211年271年331年391年


「割竹型石棺蓋」は中近東の石棺でないか。渡来人の影響では・・。
>
> 「菩提樹蒔絵香筥」は国の重要文化財に指定されている。また、境内には明治時代に玉手山3号墳(勝負山古墳)から出土したとされる「割竹型石棺蓋」が置かれており、かつては手水鉢として使われていた。これも重要文化財に指定されている。
> 最初の小さな門をくぐるとすぐに参道の両側に安福寺横穴群が広がっている。これら横穴群は、谷間の凝灰岩が露出しているところに掘られており、参道南側、北側に各16基、計32基確認されている。かつては古代人の住居であるといわれていた時期もあったが、石棺や陶質棺、陶器などが見つかっており、中には騎馬人物像などの壁画が描かれたものもあり、古墳時代後期の横穴墓であることがわかっている。大阪府の史跡に指定されている。




1215秦野北斗:2013/02/13(水) 16:27:52
Re: 後ろの正面
青面金剛さんへのお返事です。

秦野です。宜しく。童謡かごめかごめの意味が、少し見えた様ですな。

古事記のアマテラスは神話の文章から鳥になっているが、どんな鳥か不明。ただ、
『隋書』倭国伝に「號阿輩雞彌」があり「雞:にわとり」と思っていました。
この歌がアマテラスの天岩戸に合うので、読み解くと。確かに「雞:にわとり」

「竹堂随筆」出来るだけ古いのにする。

「かァごめかごめ。かーごのなかの鳥は。いついつでやる。夜あけのばんに。
つるつるつっペぇつた。なべのなべのそこぬけ。そこぬいてーたーァもれ。」

「かァごめかごめ。かーごのなかの鳥は」:アマテラス「雞:にわとり」が天岩戸に隠れる。

「いついつでやる。夜あけのばんに。」:いつ出るの、夜が明け次の日の夜になって出た。

「つるつるつっペぇつた。」:しゃべった。
アメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」

「なべのなべのそこぬけ。」:天岩戸が開いた。

「そこぬいてーたーァもれ。」:アメノタヂカラオが岩戸の外へ引き出した。

「後戸(うしろど)の神と戌亥(いぬい)」から天岩戸は南東方向に向く事になる。

猿楽、日本舞踊、雅楽、祭りに古代の記録が隠されている模様。

また、天岩戸からアマテラスの紋はカゴメ紋の可能性がある。

伊勢神宮のカゴメ紋はアマテラス紋だな。境内に鶏も居るし・・。


> ----------------------------------------------------------------------------------
> 後戸の猿楽はかぐら
>
>  あるいはまた、世阿弥は、こうもいっている。「天鈿女(あめのうずめ)の岩戸での神憑(かみがか)りの舞いを述べ、その時の神楽あそびが、猿楽の始めであり、…。」
>
> 後戸(うしろど)の神と戌亥(いぬい)
>
> 後の正面とは、岩戸の前に置かれた鏡に映つし出されている、アマテラスの御姿。
>
> ---------------------------------------------------------------------------------------

「竹堂随筆」

竹堂随筆(ちくどうずいしゅう):文政3年(1820年)頃に編纂)
浅草覚吽院に住した修験僧「行智」の編んだ童謡集で、宝暦・明和年間(1751年 - 1772年)頃に収録された童謡集
「かァごめかごめ。かーごのなかの鳥は。いついつでやる。夜あけのばんに。
つるつるつっペぇつた。なべのなべのそこぬけ。そこぬいてーたーァもれ。」


『隋書』倭国伝

開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、「號阿輩雞彌」、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。

 開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。

『新唐書』日本伝

 欽明之十一年、直梁承聖元年。次海達。(次用明、亦曰目「多利思比孤」)、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女雄古立。次舒明、次皇極。
 其俗椎髻、無冠帶、跣以行、幅巾蔽後、貴者冒錦;婦人衣純色裙、長腰襦、結髮于後。至煬帝、賜其民錦線冠、飾以金玉、文布為衣、左右佩銀?、長八寸、以多少明貴賤。

 欽明の十一年は、梁の承聖元年(552年)に当たる。次は海達。次は用明、また目多利思比孤といい、隋の開皇末に、初めて中国と通じた。次は崇峻。崇峻か死ぬと、欽明の孫娘の雄古(推古)が立った。次は舒明、次は皇極。
 その俗は椎髻(不明)し、冠帯はなく、裸足で歩き、幅広の巾で後を隠し、貴者は錦の帽子、婦人の衣は純色(鮮明な色)の裙(もすそ)、長い腰襦袢で、髮を後に結う。
 煬帝に至り、その民に錦線冠を賜り、金玉で飾り、文様入りの布を衣と為し、左右に銀?を佩びる、長さ八寸、多少は貴賎が明確となる。

> > 童謡かごめかごめの意味
>
> > 3.夜明けの晩に
> >??夜明けの晩が、夜明け前の晩という意味だとすると。
> >??暗黒の晩が終わり、希望の夜明けが始まるという事かもしれない。
>
> >??5.後ろの正面だあれ
> >??この意味は難解である。
>


1216管理人:2013/02/13(水) 21:24:22
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
秦野北斗さんへのお返事です。


> 時間軸を合わせる必要がありそうですな。
>
> 稲荷山「治天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□弖」の剣、鏡を送る、造る事は何か
> 祝い事があったと見るべきだな。
>
> 『晋書』泰始二年・266年条に「圓丘方丘を并(ナラ)べ、二至の祀を南北の郊においてす」
> も同様だな。
>
> 好太王碑(こうたいおうひ)の辛卯年(391年)は271年が適当な年代ではないか。
>
> 海]を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされ、日本学会の通説では以下のように解釈される。
>
> 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
>


ちょっと高句麗の始祖伝承を調べなおしてますが、どうもユダヤ・キリスト教のような要素が複数みえます。

後漢書の記載の時点で、すでに日光懐胎(マリアと同じ処女懐胎)、その後の馬小屋での王の育成など、この辺はシルクロード系で当時中国に出入りしていたローマ(大秦)系集団との関わりを疑います。扶余人とその系統の弁・秦人はかなり大柄で金属精錬技術に優れていたとありますから、やはりコーカソイド系の可能性があります。

おそらく亀慈国経由で月氏(後のゾグド人)が扶余に移動した経緯で、そのシルクロード系の伝承が流れ込んだのではないでしょうか。ここで、日光受精というのは、「日」に関する信仰へと移行して、ゾグド系の新漢人等が高句麗経由で南下して渡来する際に、その「日鷹・日鷲」信仰に影響していったのかもしれません。

もともとある時期から扶余方面に太陽信仰があったのではないでしょうか。扶余を扶桑とした先日の僧・ケイシンの件がありますね。扶桑木信仰がつまり太陽信仰なのですが、実際にある時期に扶余に扶桑木信仰な流れ込んだ経緯があったのではないでしょうか。楽浪郡時代か、それ以前の秦・燕人流入の時代か。高句麗古墳の三足烏に扶桑木信仰がみえます。

これが後に天岩戸隠れの日神信仰とも関わってくるでしょう。

1217棘の紀氏:2013/02/14(木) 14:43:37
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
管理人さんへのお返事です。
> それ以前の秦・燕人流入の時代か。高句麗古墳の三足烏に扶桑木信仰がみえます。

「燕人=和珥氏」
、「和珥氏のルーツ」は燕人であること、彼らが高句麗を経由して来倭したこと、 その渡来は4段階で把握できることを述べてきました。 ... ?王仁(和邇吉師)が「燕人」で あるとするなら、おそらく彼は後燕建国(384)後の混乱時に、祖国を離れたと思われます 。 http://yumiki.cocolog-nifty.com/nautica/2010/08/102-10ac.html
?「高麗の客」的臣(いくはのおみ)氏の渡来です。
 436滅亡後の「旧燕兵」たちが、高句麗により「客軍」とされ、百済攻略戦に投入されたことは解説しました。もとより彼らは高句麗への忠誠心など持ってないから、自分たちの特技を高く買ってくれる所なら、どこでも喜んで移籍したろう。
 そこで彼らは倭国に乗り込み、允恭大王らの面前で射技を披露、臣下として取り立てられた−と考えます。これが「戸田宿禰の伝承」の真の意味です。
 おそらく允恭大王は、彼らを「南韓守備の傭兵」として雇い入れたはずであり、これから的臣氏の南韓守備は、欽明代まで続きます。
 なお「★89.任那日本府と欽明紀の問題点」では、百済聖王が、倭国の将軍「的臣」の不実を欽明大王に訴えていたことを紹介しました。
「的臣は何もしていないのに、手柄を立てたと倭本国へウソの報告を送っている」
 この非難も、的臣氏が実は「傭兵」だったから−と考えれば理解しやすい。彼らは危険を冒そうとせず、うわべの「点数稼ぎ」に徹しているわけ。これはまったく傭兵らしい行動です。
 さらに允恭大王は、彼らのうちから側近を取り立てたと考えられ、これが「和珥氏の口子臣=的臣氏の口持臣=中臣イカツオミ」に相当します。この三人は同一人物と見て間違いない。
 なおこの後で、的臣氏は、すでに倭国で出世していた同族「王仁/わに」にあやかって「和珥氏」に改名したのだと思います。

「河内馬飼」や、鍛冶集団と思われる「凡河内氏」も、やはり彼らの同族と察せられる。後者は「★国造本紀?」のJグループ(天津彦根系)にあたります。

三河国幡豆郡吉良荘(愛知県幡豆郡吉良町)の前期東条吉良氏の第三代吉良経 家の子で、奥州管領吉良氏の初代となり、陸奥国の南朝(日本)勢力の鎮撫に努めた。

「鹿島の語源は、船をつなぐ杭を打った「かし(「か」は「状」などの字のへんに羊、「し」は哥へんに戈、以下同様。)島」からきているようである。『肥前国風土記』杵島郡の条に、景行天皇が船をとめたとき、船かし(船つなぎの杭)から冷水が自然に湧き出た。または船が泊まったところが、ひとりでに一つの島となったので、天皇はこの郡をかし島の郡とよぶがよい、といった。いま杵島(きしま)の郡とよぶのはカシシマが訛ったのである、とみえる。この地は有明海に面し、杵島郡の南隣が藤津郡鹿島とよばれている。
 したがって、本来は船をつなぎとめる杭を打つ島(場所)を意味するカシシマが、一方はキシマ、他方はカシマに転訛したのである。」
 ・志田諄一『風土記を読む』p 131 http://blog.goo.ne.jp/familyplot1976/e/d9fab6cf06a113969b475b87da9c6b81
「状」などの字のへんに羊、「し」は哥へんに戈
おそらく幡頭神社の沖合に浮かぶ梶島も「かし島」や「か島」の一種なのだろう。梶島は現在、無人島だが、上陸した人のブログを見ると桟橋や古い井戸の跡などが残っているようなので、かつては小さな漁村か何かがあったらしい。ハズ世界が栄えた頃は海民たちの集団がこの島に居住し、浜辺には多くの船が並べられていたのではないか。
牂 哥戈
船牂[哥戈](かし)の穴から冷水が自然に湧き出た。またはこうもいう。船が 泊まった処はひとりでに一つの島となった。天皇はご覧になって群臣たちに仰せられるに は、「この郡は牂[哥戈]島(かししま)の郡と呼ぶがよい」と。 http://www3.kitanet.ne.jp/~nihirata/20120608.html
小値賀島には神社の境内二ヵ所に弥生遺跡があり、壷形土器などが発見されている。興味深いのは、発掘地点は不明だが、この島には戦前に国宝に指定された中国・春秋時代の蜀の作という環頭(かんとう)太刀があったらしい。ところが、敗戦後アメリカ軍に接収され行方不明となっていまだ返還されていないという。

ハズセカイ系とは何か(5)【幡頭神社(愛知県西尾市吉良町宮崎)】 http://blog.goo.ne.jp/familyplot1976/e/71572e77a29df5810480d9f89802390e
大避神社は式外社。社伝によると秦河勝の子孫、赤穂大領秦造のとき河勝を氏神として祀り、天喜三年に正二位、治暦四年に正一位となったという
なお、山城国葛野郡にはやはり秦氏と関係深い式内社の大酒神社がある

現祭神は天照皇大神・春日大神・大避大神の三柱大避大神とは秦河勝のこととされる。
旧祭神は秦河勝と秦酒公だった
 『播磨鑑』(宝暦十二年)によれば、聖徳太子の寵臣として知られる秦河勝は皇極二年九月十二日に蘇我入鹿の乱を避け、難波から生島まで逃れてきた。彼を迎えた坂越の浦人は島に新殿を建てて奉仕し、河勝が没すると亡骸をこの島に葬って祀った。これが大避神社の創祀である。つまり生島は当社の旧社地だったことになる(生島から現在地に社殿が遷ってきた時期は不明)。

ヒョウタンのように2つの丘があるフォルムはベックリンの『死の島』を思わすが、実際にこの島には古墳があり、古代人は冥界として意識していた

生島には円墳があり秦河勝の墳墓として信仰されている円墳があり、築造年代は5C中頃〜6C始めなので河勝とは年代が合わないが、当社の祭祀はそもそもこの古墳へのそれから始まったらしい。『赤穂市史』はその被葬者を地域の生産・交易を支配した津長クラスの人物に求めている。ちなみに後世になって河勝の名前が当社の祭祀と結びついたのは、大避神社のある播磨国赤穂郡に秦氏が多く居住していたことが関係していたと思われる。

幡豆郡(はずぐん)は三河国の郡。 http://ja.wikipedia.org/wiki/幡豆郡
古代律令制の三河国の幡豆郡に端を発する。古くは播豆、波豆、芳豆、芳図、者豆、などと表記した。名前の由来は地域内の式内社幡頭(はず)神社に由来するという説や、域内の礒泊(しはと)郷からハト、ハズに転訛したという説、停泊地を意味する『泊(ハク)』が訛ったという説などがある。
離島の佐久島(古代名:析嶋)、日間賀島(古代名:比莫嶋)、篠島(古代名:篠嶋)は、旧幡豆郡に属する。出土の木簡に多数の表記あるため、現在旧尾張国の知多郡南知多町に属する日間賀島と篠島は、もとは三河国幡豆郡であった。
篠島・析島からは、佐米楚割(さめのすやわり)と呼ばれる、鮫を日干しにして割いた珍味が、朝廷に寄進されていた。

「知多半島の先端部およびその周辺(島々)は奈良の平城京から出した木簡により、古くは幡豆郡に含められていたことがわかっている。〈中略〉伊勢の海を渡る海上ルートは三重県の志摩地域から東に浮かぶ島々を通り、神島・伊良湖岬へ、そこから北上して三河湾を浮かぶ島々をわたり羽豆岬(知多半島最先端)あるいは矢作川河口部へ、というコースが古くから根づよく存在していた。古代の文書資料からも佐久島、日間賀島、篠島もかつて幡豆郡に所属し、また碧南市南部(大浜)、あるいは衣浦(衣ヶ浦)も含めて幡豆郡に含まれていた可能性が考えられている。つまり三河矢作川下流域はもとより、知多半島の三河湾沿岸部および半島先端部、さらに三河湾に浮かぶ島々と渥美半島先端はひとつの世界であった。」 http://blog.goo.ne.jp/familyplot1976/e/ae59889338b46d92c8dd9c7b116b4498
『延喜式』神名帳にはハズ世界の指標となる神社が二社見えている。ひとつは尾張国知多郡の羽豆神社で、これは知多半島の最先端に当たる羽豆岬に鎮座している。

 もうひとつは、三河国幡豆郡の幡頭神社で、これは西尾市東部の小半島、宮崎の先端部に鎮座する。社地ふきんからは前方に佐久、日間賀、篠の三河三島をはじめ、渥美・知多両半島の先端部が、さらに大気の状態がよければその遠方に伊勢・志摩の山並みが望める。ハズ世界を一望できる絶景の地に、この神社は鎮座しているのだ。

社地から北に2.5kmほど離れた場所には正法寺古墳という前方後円墳がある。4C後半〜5C前半に築造されたもので、墳長規模約94mは西三河最大とされる。平成13・14年に行われた墳丘の発掘調査では三段築の墳丘に葺石が施され、円筒埴輪が巡らされている典型的な畿内型の古墳であることが確認された。

正法寺古墳が立地しているのは舌状台地の端部である。築造された当時、この台地の下は海で、すぐ足許まで波が押し寄せていた。つまりその頃の正法寺古墳は三河湾に向かって突き出た岬の先端にあったのだ。明らかに伊勢と三河を結ぶ舟運からのランドマークになることを意識した立地であり、おそらくその被葬者はハズ世界の王であった人物で、そのような舟運を支配して力と富を蓄えるいっぽう、ヤマト王権が伊勢から東国へ進出する際には海上輸送によってそれを支えたのだろう。古代における幡頭神社の祭祀はこの古墳の被葬者と、彼が従えていた海民の集団に密接な関わりがあったに違いない。
 社伝によると、ヤマトタケル尊が東征した際、副将軍としてこれにしたがった建稲種命が駿河湾で逝去し、その遺体が当社の鎮座する宮崎に漂着、里人はこれを手厚く葬った。その後、大宝二年(702)に文武天皇が霊夢によってこの地に建稲種命の墳墓があることを告げられ、勅命によって社殿を造営し矛を納めて神体としたのが当社の創祀であるという。

かつて漁民の間では著名な「流れエビス」の信仰が行われていた。漂流死体を「えびす様」として喜び、それを手厚く葬れば豊漁がもたらされるという信仰である。おそらく幡頭神社や尾崎神社の社伝は、こうした信仰や、半島や岬の先端に航海神を祀るというこれまた全国各地に事例の多い海民のそれから生じたものだろう。そこに見られる建稲種命の名前は後世の附会と考える





1218管理人:2013/02/14(木) 22:37:51
Re: 古代には天の香具山は韓国と奈良に在った。
棘の紀氏さんへのお返事です。

>?? そこで彼らは倭国に乗り込み、允恭大王らの面前で射技を披露、臣下として取り立てられた−と考えます。これが「戸田宿禰の伝承」の真の意味です。
>?? おそらく允恭大王は、彼らを「南韓守備の傭兵」として雇い入れたはずであり、これから的臣氏の南韓守備は、欽明代まで続きます。

的臣の件は重要ですね。九州の石人・楯・的の紋様に関わります。

「「十二年秋七月三日、高麗国が鉄の盾・鉄の的を奉った。
 八月十日、高麗の客を朝廷でもてなされた。この日、群臣百寮を集めて、高麗の奉った鉄の盾・的を試した。多くの人が的を射通すことができなかった。ただ的臣の先祖の盾人宿禰(たてひとのすくね)だけが鉄の的を射通した。高麗の客たちは、その弓射る力のすぐれたのを見て、共に起って拝礼した。翌日盾人宿禰をほめて、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)と名を賜わった。同日小迫瀬造(おはつせのみやつこ)の先祖、宿禰臣(すくねのおみ)に名を賜わって賢遺臣(さかのこりのおみ)といった。」



盾人宿禰というのが、如何にも石人を想起させます。楯を背負う人の姿ですね。
ただ的戸田宿禰は応神時代にすでにみえてますね。

気長足姫尊 摂政六十二年 襲津彦を遣わして新羅を撃たせる。(『百済記』が伝えるところ、貴国は沙至比跪(さちひこ、襲津彦)を使って新羅を撃たせようとしたが、沙至比跪は新羅の美女に心を奪われ矛先を加羅に向け、加羅を滅ぼしてしまう。百済に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、天皇は木羅斤資(もくらこんし)を使わし沙至比跪を攻めさせる。沙至比跪は天皇の怒りが収まらないことを知ると自殺した。)
誉田天皇 十四年 百済の弓月君(ゆつきのきみ)が誉田天皇に対し、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないことを告げる。天皇は襲津彦を加羅に遣わして百済の民を連れ帰るように命令するが、三年なんの音沙汰もなくなった。
誉田天皇 十六年八月、天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)・的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)に「襲津彦が帰ってこないのはきっと新羅が邪魔をしているのに違いない、加羅に赴いて襲津彦を助けろ」といって、加羅に兵を派遣した。新羅の王はその軍勢に怖じけづいて逃げ帰った。そして襲津彦はやっと弓月氏の民を連れて帰国した。
大鷦鷯天皇 四十一年三月 紀角宿禰(きのつのすくね)に無礼をはたらいた百済の王族の酒君(さけのきみ)を、百済王が襲津彦を使って天皇のところへ連行させる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

弓月氏の民は秦氏のことですが、百済王族の酒君は、つまり秦酒公でしょう。下記の記載が見えてきます。

5世紀後半ころの廷臣と伝える人物。《日本書紀》雄略12年10月条に,天皇が木工闘鶏御田(つげのみた)を采女を犯したと疑って処刑しようとしたとき,酒公が琴の歌によって天皇をいさめたという話と,同15年条に秦の民が分散して諸氏のもとに駈使されているのを嘆いて,酒公が天皇に訴えたので,天皇はこれを集めて酒公に賜り,酒公はこれを率いて絹や縑(かとり)を献じたが,その絹・縑が朝廷にうず高く積まれたので,禹豆麻佐(うずまさ)という姓を賜ったという有名な話がみえ,後者は《新撰姓氏録》や《古語拾遺》にもみえるが,どこまで事実か確かではない。
http://kotobank.jp/word/

似たような連行伝承が、木羅斤資の子の木満致にあって、彼が蘇我満智だとされています。つまり先日のとおり、蘇我氏というのは秦氏の首長で、つまり百済・秦韓地域を支配した首長氏の一派なのでしょう。秦韓は新羅慶州ではなく、任那の北にあった百済と新羅の中間域にあったと想います。

弓月君と酒君がいたのですが、前者が月氏系の弓月国出身者、後者が隣の「塞」サカ族出身者で微妙な相違があったかもしれません。




1219棘の紀氏:2013/02/15(金) 03:27:45
黄道座標で経度が同じになる瞬間
新月とは、月と太陽の黄 経の角度差が0度となる瞬間です。 新月は、日の出の頃に昇って、 日の入りの頃に 沈みます。 http://ameblo.jp/notemagic/entry-11404096335.html
月の満ち欠け 望は満月、 朔は新月を意味します。厳密には、満月とは地球の中心から見て月と太陽が反対側に来る瞬間(黄道座標で経度が180度異なる瞬間)、新月とは地球の中心から見て月が太陽と同じ側に来る瞬間(黄道座標で経度が同じになる瞬間)を指します。??上弦の月や??下弦の月も同様です。カレンダーにはこの時刻も記載しています。 http://www.astron.pref.gunma.jp/almanac/almanac.html

夜海上から測量するために天体観測をしようと した時の歌ではないかと想像しました。 ... 潮の干満差の大きい状態で、新月(旧暦の1 日頃)や満月(旧暦の15日頃)の前後数日間のことです。 http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/39542be556af1fb1539f4751f1972c50?fm=entry_awc

『熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな』
これは出陣の歌とされていますが、全く別の状況を歌ったものと考えます。
全く別の状況の歌を、661年斉明天皇の出征の物語を創った後に、万葉集の時に差し入れたのではないでしょうか。
馬鹿馬鹿しいと思われましょうが、これは夜海上から測量するために天体観測をしようとした時の歌ではないかと想像しました。
現代では測量船なるものがありますが、7世紀、8世紀では海上からの測量は難しいと思えます。(陸から海上の船までの距離は三角法で計算できるそうですから、古代でもその程度は可能でしょう)
ですが、藤原広嗣の乱の時の聖武天皇の彷徨とされているのは、実は聖武天皇が測量をしていたものと解釈しています。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/a7ac069c832592714d8467869a087ff6
聖武天皇の東国行幸の目的の推測  2009年02月28日


1220棘の紀氏:2013/02/15(金) 06:26:33
夜海上から測量するために天体観測
日本の京都・奈良や中国の西安(昔の長安)などの緯度
つく‐まい 〔‐まひ〕 【突舞/▽柱舞】
茨城県南部・千葉県北部で行われる神事芸能。雨ごいのためといわれ、高い柱の頂上などで蛙に扮(ふん)した舞人が種々の業を演じる。蜘蛛舞(くもまい)の一種。 http://kotobank.jp/word/突舞

【蜘蛛舞】: 《細い綱を渡る姿をクモ に見立てていう》綱渡りの一種で、室町時代から江戸時代初めにかけて流行したもの。

民話や伝説に登場する鬼や蜘蛛とは、古代王権の支配下に入ることを潔しとしないこの 国の先住民族が一方的に貶められた姿であることは良く知られている ... http://www.geocities.jp/tadatanome/contents/ogre/oni.html
特に、鬼の伝承がある地域には必ず鉱山があり、鉄を御神体とする神社も非常に多いという。

蜘蛛舞(くもまい). 二艘船には、笛 や太鼓の祭囃子が奏じられる中、赤装束の舞人が二本の綱の上での転回を見せます。 http://www.oganavi.com/data/020.php
本祭は7月7日ですが祭事全体は一年をかけて行われている
本祭は7月7日
6月7日(旧暦)
6月7日(旧暦)にくも舞が行われると書いている ので、 ... http://homepage2.nifty.com/deracine/essay/z_cosmo/12akita02.htm
天王伝承館というこれから見る東湖八坂神社祭の行事を紹介する施設があるというではないか。雨でへこみがちの気持ちがいきなり奮い立ってきた。こんな施設があるなんてまったく知らなかった。出戸浜から歩こうなんて思わなければ、出くわさなかったわけである。さっそく行ってみたのだが、無人であたりは真っ暗。どうしたもんかと思ったが、映像の紹介が11時半からあるというので、それまで近くの「スサノオの村」(弥生時代の集落を再現した施設)などがある公園を散策してみる。雨も小降りになってきた感じがする。
 大きな池にはくも舞の船の模型も展示されてあった。牛追いの像もある。ここは八坂神社のお祭を紹介することを大きな目玉にしているようだ。
道の駅にあったくも舞の船の模型 http://homepage2.nifty.com/deracine/photos/cosmo/cosmo12akita10_l.jpg
8月15日(旧暦)
東湖八坂神社は、およそ1200年前に東北を征圧した坂上田村麻呂が創建したといわれる由緒ある神社で、祭神はスサノオ、今日のお祭もスサノオの八岐大蛇退治の神話にちなんでいる。
 まずは神輿巡幸が天王を出発、八郎潟と日本海を結ぶ船越水道に架けられた八竜橋を渡って川向こうの船越を巡幸する。神輿が再び天王に戻る途中、八竜橋で停まると、天王から八竜橋のたもとまで、スサノオに扮した男が牛に乗ってやってくる。また、この水道に浮かべられた舟の上では、赤装束の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)に扮した男が「くも舞(蜘蛛舞)」を演じる。この時神輿は「くも舞」と掛け合うようにお囃子を演奏する、というのが今日の祭のあらましらしい。
文化元年(1804)8月15日(旧暦)早朝土崎を出発した菅江真澄は、この日のうちに天王村に入り、八坂神社に詣でている。そしてこの神社で行われている不思議な祭りについてかなり詳しく書き留めている。6月7日(旧暦)にくも舞が行われると書いているので、この時実際に見たわけではなく神主から聞いた話を書き留めているのか、または真澄は何度か男鹿半島を旅しているので、別の時に実際見た「くも舞」のことをここに書き残しているのか、定かではないのだが、菅江真澄は、この時の旅の記録『男鹿の秋風』のなかで「くも舞」についてこう書いている。
 「湖面には小舟をつなぎあわせて船越の浦の人々が漕いでくる。舟のなかにも屋形山(つくりもの)が飾られ、たいそう賑やかである。神女がひとり、神官が三人乗っている舟のともとへさきには、太く長い柱を二本たて、それに三尺ほどの横木をしばりつけ、ともの柱には白木綿を一反巻き、へさきの柱には赤い木綿をまいて、そのふたつの柱の横木にかけて二本の縄をひきまわしてある。体に赤衣をまとい、さした腕貫き(腕にはめる筒形の布)・脚絆・足袋もみな赤色の木綿で、頭には赤白の麻の糸をふりみだしてかけてかずらとし、顔には黒い網をもって仮面のようにつけた者が、二筋のわら縄の上にのぼって、八つの山、八つの谷の間をはいわたり、八つのかめの酒を飲みにきたように、この湖のゆれる波のなかをのたうちまわるように、のけぞるふるまいをしながら舟を漕ぎめぐってくる。八岐の大蛇のふるまいである。これを土地の人は蜘蛛舞という。」
旧暦では、7月、8月、9月が秋 ですから、8月は仲秋(中秋)
(旧暦8月15日 仲秋の名月 芋名月). 旧暦では、7月、8月、9月が秋 ですから、8月は仲秋(中秋)ということになります。8月15日の満月が仲秋の名月です。 http://www.kuidaore-osaka.com/jp/starting_point/senba/9815.html

新月
黄道と白道とが離れているあたりで新月となっても太陽と月は見かけ上南北にずれて しまうため日食は起こりません。また、同じく満月となってもやはり月は地球の影から 外れてしまうため月食は起こりません。日食や月食が起こるのは、月が黄道と白道の 交点 ... http://eclipse.star.gs/dic/amazon.htm

赤道とか黄道とか白道
これは地球上の南北回帰線の緯度と一致します。 大円同士は必ず球面上の2ヶ所で 交わります。 http://www.ffortune.net/fortune/astro/coordinate.htm
地球の自転軸は公転面に対して約23度26分傾いていますので、赤道と黄道の距離も23度26分あることになります。これは地球上の南北回帰線の緯度と一致します。
大円同士は必ず球面上の2ヶ所で交わります。赤道と黄道の公転は春秋分点(Equinox)と呼ばれ、太陽が3月下旬に通過するポイントが春分点、9月下旬に通過するポイントが秋分点です。黄道と白道の交点は昇降点と呼ばれ、占星術の世界では昔からドラゴンと呼ばれていました。現代では月が昇っていく点を龍頭(Dragon Head)と呼び、降りていく点を龍尾(Dragon Tail)と呼んでいますが、この名称は歴史的に常に混乱していました。詳しいことについては感受点概要の龍頭龍尾のところを参照して下さい。
黄道・白道・赤道のほかに、もうひとつ重要なものは地平線です。星が地平線より上に出ているか下に出ているかは常に重要な問題ですので、天体の位置を考える時にこれは無視できません。赤道と地平線のなす角度は緯度と一致します。
このほか、子午線・卯酉線・寅申線・辰戌線についても触れておくべきでしょう。これらの名前は東洋の方位の名前に由来します。東洋の方位について詳しいことはこの付近を参照して下さい。

日本の京都・奈良や中国の西安(昔の長安)などの緯度では、冬至の太陽は辰の方位から昇って申の方位に沈み、夏至の太陽は寅の方位から昇って戌の方位に沈みます。そこでこの方位はひじょうに重視され、古代から寺社の配置などに使用されてきました。中国・日本ではそのために十二等分の方位が普及したというのもあるのでしょう。

地図で我々が知ることのできるものは地理的緯度(或は測地的緯度)といって、観測点において地球楕円体(*1)に立てた法線が地球の赤道面と為す角度である。
これに対して我々が必要なものは、例えば北極星の南北における子午線通過位置 を観測するなどして実際に天体観測によって得られる緯度で、天文緯度という。
これは地理的緯度と約0.01度以内程度の差がある。
この他に観測点と地球の中心を結ぶ線が赤道面と為す角度を取る地心緯度という緯度の測り方もある。


1221棘の紀氏:2013/02/15(金) 11:12:31
イエス・キリスト(餅)
>陰陽五行説にのっとって、「木気」を害する「金気」を滅することで、間接的に「木気」を助ける呪術であり、木気の春を招く、吉野裕子先生がおっしゃっていた気がします。
鹿が金畜の代用ならば、これを殺して生首にすることに意味があることかと思います。それがなぜ酉の日なのか…しょうしょうわかりかねますが…

御頭祭ではかつて75頭の鹿が供えられた=サマリアではかつて過ぎ越し祭りで75頭の子羊を生贄に捧げた。
 ・御頭祭は、かつては旧暦3月の酉の日(今の4月中旬頃)に行われた。 http://d.hatena.ne.jp/nmomose/19100101/israel
  =過越し(ペサハ)はユダヤ暦のニーサーン(第1月)の15日から21日に行われ、それは西暦の3月から4月にあたる。

キリスト教徒のお祭り、例えば、復活節(イースター)は実は、ユダヤ暦のペサハの日 なのですが、4世紀ごろ、キリスト教の宗教会議でユダヤ人の暦を使うのは沽券に かかわるというわけで、計算式をつくってその日(ほとんど同じ日)を決めることにしたそう です。

過越祭には収穫の「初穂」を献げ、そして五十日後、収穫の季節の終わりにまた感謝の祭を献げたのです。 http://homepage1.nifty.com/sorachik/library/ronbun/pentecost.htm

「酉」は「?({糸酉})」(しゅう:「ちぢむ」の意味)で、果実が 成熟の極限に達した状態を表しているとされる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/

果実は赤く なり, やがて黒く なる。 この頃が成熟期で, 木々に鳥が訪れ. 果実をついばむ光景がみられる。 http://www.foresternet.jp/app/srch3/get_file/4889

申・酉・戌・亥の四宮で、過咎、疑惑、寡少となります。 http://www1.kcn.ne.jp/~wm6y-hrt/kaisetu5.htm
この中味を理解する為には正確な割付と分解が必要です。捉え方としては、全体の81分法の内にさらなる9法、 81法があってその部分にも全体を含むというイレコ状態になっている必要があります。
この原理があって初めてど
の部分を分割拡大しても元の姿を失わない原型が保てるのです。
おそらく、遺伝子の構成も一方が欠けても元の完全体を再生できるような仕組みになっているのだと思います。
エジ プト人の生命の再生にかける情熱はこうした考えが成り立って始めて、骨や皮膚の一部からでも全体を再現せんとする、彼岸にも似た理念によって支えられていたのです。

この見えざる神の手によって成るものか、生命の神秘に触れずして展開することは不可能なのであります。
始まりは終わりなくしては在り得ず、創造が破壊を伴うように、生と再生は死をなくしては意味がなく、これらは一対 のもろ刃の剣のものの如きようです。

一畸は57年で三つに分けて、上元(19年)中元(19年)下元(19年)とします。子〜卯は始まりであり草創の 期、辰〜末は中ほど安定期であり、申〜亥は末、凋落と剥奪の期であります。

いぬ‐い【戌亥/乾】.
戌亥(いぬい)(西北)も重要で,鬼門以前は,この方位が恐れられたらしい。西北風をアナジとかタマカゼと称し,悪霊とともに善神も来る両義的な方位とし,屋敷では稲荷をまつる。… http://kotobank.jp/word/戌亥
悪霊とともに善神も来る両義的な方位

イエス・キリストは 12月25日に誕生して8日後に割礼を受けたとされ、その日を1年の初めをしたものです。
戌亥(西北)
エルサレムの北西・ゴルゴダの丘で、ひとりのユダヤ人が磔の刑に処され ていた。そして、今まさに息を引きとろうとした瞬間―天は闇と化し、稲妻が群衆を直撃 した。この魔の日蝕こそ地獄の到来の第一歩であったのだ…。
http://www.amazon.co.jp/修羅之介斬魔剣〈第1部-江戸編-2〉天下丸襲撃-カドカワノベルズ-鳴海/dp/product-description/404781802X

>悪霊とともに善神も来る両義的な方位とし,屋敷では稲荷をまつる。… http://kotobank.jp/word/戌亥


1222管理人:2013/02/15(金) 21:24:10
Re: 夜海上から測量するために天体観測
棘の紀氏さんへのお返事です。

> 日本の京都・奈良や中国の西安(昔の長安)などの緯度
> つく‐まい 〔‐まひ〕 【突舞/▽柱舞】

> 新月
> 黄道と白道とが離れているあたりで新月となっても太陽と月は見かけ上南北にずれて しまうため日食は起こりません。また、同じく満月となってもやはり月は地球の影から 外れてしまうため月食は起こりません。日食や月食が起こるのは、月が黄道と白道の 交点 ... http://eclipse.star.gs/dic/amazon.htm
>
> 赤道とか黄道とか白道
> これは地球上の南北回帰線の緯度と一致します。 大円同士は必ず球面上の2ヶ所で 交わります。<A


確かに日食・月食の開始時間の差から経度は出せますね。食周期は彼らも理解していたのですが、問題は東西経度が違えば食がはじまる時間が異なることに気付いていたかどうかです。また食がくるまで待つ時間のロスが大きい。


東西距離を出すのに簡単なのは山立ての三角測量ですね。南北の緯度差を周ひ算計(ノーモン)で計って、距離を出し、その距離を山立てで三角測量すれば、同じ距離の東西距離をすぐ出せたはずです。山の上で狼煙を炊けばすぐできます。富士山頂がある時期から測量拠点になってますね。先日のー!度偏角の4世紀後半代からです。太陽測量に変化してます。

あとは、光通信の件ですね。鹿島から出雲まで、狼煙・光通信で瞬時に合図が届ければ、日出の時刻の差で東西距離・経度差が計算できたはずです。

瞬時ではなくても、その通信にかかる時間をあらかじめ計算しておけば、後でその誤差を差し引きして、正しい距離が出せたでしょう。

ただ、その前提として、東のほうが早く日が出ることに気付いている必要があります。

プトレマイオスはローマ時代にすでに気付いてますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

気付いていればちょっと知能指数が高ければ、すぐ上記の件は気付くでしょう。

扶余系の文化が仮に先のようにローマ系ユダヤ人とすれば、ある程度、その辺の知識も理解していたかもしれません。



1223秦野北斗:2013/02/15(金) 22:03:02
天岩戸は大神神社
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001248M.jpg

魏志倭人伝には天岩戸の位置が書かれていたんですな。

女王国から南4000余里は大和葛城山、和泉葛城山を通り土佐の高知までの距離になる。

朱儒國なんですな。

秦野北斗著書、徐福と邪馬台国の秦野距離になる。


後漢書
『後漢書』倭傳では以下のとおり記述される。
女王国から南4000余里の小人国から東南に船で1年で黒歯国に着く。
自女王國南四千餘里至朱儒國人長三四尺 自朱儒東南行船一年 至裸國 ?齒國 使驛所傳 極於此矣
  『後漢書』東夷列傳第七十五倭


大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市にある神社。式内社(名神大社)、大和国一宮、二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称として三輪明神、三輪神社とも呼ばれる。 所在地: 〒633-0001 奈良県桜井市三輪1422







1224管理人:2013/02/15(金) 23:07:59
Re: 天岩戸は大神神社
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001249M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/



1225秦野北斗:2013/02/16(土) 08:46:17
Re: 天岩戸は大神神社
管理人さんへのお返事です。

天岩戸伝承

九州は方位ラインが引きやすい、様ですな。

方位ライン上に天岩戸神社を建てたのでしょな。どうも、古代史学者は日本の地名をそのまま、当て嵌めて、これだと断定している。管理人さんも応神の枯野の伊豆国(伊都国)をと読み伊豆・箱根の伊豆としている。

伊都国、伊豆国から魏志倭人伝の伊都国は呉音表記の「イズ(ヅ)コク」でしょうな。

伊[音]イ(呉)(漢)
都[音]ト(漢) ツ(呉)
豆[音]トウ(漢) ズ(ヅ)(呉)
国[音]コク(呉)(漢)


高千穂宮には木花咲耶姫神社、筑紫,日向が書かれているので、一箇所に在ったと思われる。

謡曲「桜川」
氏神の木花咲耶姫(このはなさくやひめ)に我が子の無事を祈り、その行方を尋ねて旅に出ます。

天岩戸神社|高千穂

天岩戸神社の例祭等
春季大祭 西本宮祭 毎年5月2日〜3日
秋季大祭 東本宮祭 毎年9月22日〜23日
天岩戸夜神楽33番大公開祭(11月3日)
天安河原宮祭 10月21日
国の重要無形民俗文化財である岩戸神楽(高千穂神楽)を奉納。
歴史等
伝承では平安時代に高千穂地方を治めていた、大神太夫惟基(おおがだいたこれもと)が弘仁三年(812年)に悪夢を見て東本宮を建てたという。
以前は西本宮は「天磐戸神社」、東本宮は「氏社」でしたが、明治4年(1871年)にそれぞれ「天岩戸神社」、「氏神社」と改称、その後、昭和45年(1970年)に両社が合併、現在の天岩戸神社東西両本宮を称するようになったようです。
天岩戸
ご神体の「天岩戸」自体は西本宮から岩戸川を隔てた東本宮のある対岸にあります。
昔は洞窟だったようですが、今は窪みのようになり、生い茂る木に隠れて、どんな形かわからないそうです。

天岩戸神社のバリアフリー情報 → 宮崎県のページ
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「大秦」は弓月君の模様。

キリスト教との関連は「大秦」が解けなければ理解できませんな。

月氏(弓月君)が太秦に関係ありですな・・。

日本書記に太伯(たいはく)を大伯と書いている。
大来皇女(おおくのひめみこ)は、天武天皇の皇女。大伯皇女とも書く。

太伯は会稽東冶こと上海ですな。


> つまり中国にあったネストリウスはキリスト教(景教)のイエスが十字架にかかった際の無損傷説と、損傷説との論議と関係するんです。
>
> この点は古代史学会は無視してますが、主神の損傷の是非というのは、西欧ではかなり重要なウエイトを占めるんですね。まだまだ日本の古代史学会はその辺の神道教義の是非について、その本来国際的にみて重要視すべき部分について、十分に論議されてないといえるでしょう。
>
>


1226青面金剛:2013/02/16(土) 12:23:08
Re: 対蝦夷戦争の真っ最中です
藤井游惟さんへのお返事です。

 敗戦国に於ける学校教育の中で、「それまでの母国語の使用を禁じられたり、差別の問題に拠って使用が憚られたり」したかが、重要な差異です。

 北海道では明治新政府による、日本語の標準語を学校教育の基本とする、文化政策によって、一部の学校を除き、アイヌ語の使用は極めて難しい環境に於かれ、それが暫く長期間続いたため、今日では、アイヌ語の日常会話を流暢に話せる方々は、極めて少数に減ってしまっているのが、現状です。

 それに対して、戦後の日本に於ける、学校での英語教育は、必修科目として選択的な強制は、されているものの、一部の進学校やミッション系スクールを除いて、英語の授業以外では、日本語の使用が禁じられている訳では有りません。

 白村江の敗戦後に於ける、占領下に置かれた日本列島の西半分では、それまでの神代文字で書かれた文書に対する、徹底的な焚書に伴ない、それまで話されていた言葉も、次第に口にするのが、難しく成って行った事と思われます。

太平洋戦争後に於ける、アメリカ占領下の日本では、GHQ司令部が日本語の使用を禁じたわけでは、有りません。

この二つの大きく異なる条件を、押さえておく事が重要だと考えます。


> >  短期間では無理ですが、数十年という時間枠ならば十分に可能だと考えます。
> >
> >  一人の百済語教師が、20人程度の寺小屋の様な教室で、午前と午後に読み書き、問答、唱歌などの授業を25年間続けたとすると、
> >
> >  20×2×25=1000
> >
> > つまり、千人の教え子を設けることが出来るのです(^^)
>
> ほーお? 日本では既に義務教育で60年以上も英語を教えており、現在80歳以下の人間で英語を習ったことのない人はいないはずです。
> たかが「学校教育」程度で国民全員の言語を取り替えられるなら、日本はとっくに英語が国語になっているはずです。
> 「寺子屋教育」程度で数百万人の国民の言語を取り替えられたと主張するなら、次回から私への返信は全て英語で書いてください。 それ以外の場合、二度と返信しません。


1227秦野北斗:2013/02/16(土) 17:24:12
蝦夷戦争
蝦夷征討は韓半島の武の話しで、東北の蝦夷とは何の関係もない。どこかの学者が創作したものでしょうな。文章を最後まで読め、また、『宋書』倭国伝は日本に来ていない中国人が書いたもの、真に受けるのもほどほどにしたほうが良い。どうも、古代を研究している人はピント外れが多い。掃き溜めか。

古墳時代
蝦夷についての最も古い言及は、『日本書紀』にあるが、伝説の域を出ないとする考えもある。しかし、5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝には、478年倭王武が宋 (南朝)に提出した上表文の中に以下の記述がある。

「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」

この記述から、この時代には既に蝦夷の存在と、その統治が進んでいた様子を窺い知ることが出来る。日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされているが、これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されている。例えば俘囚の多くが吉弥侯部氏を名乗っているが、吉弥侯部、君子部、公子部は毛野氏の部民に多い姓である。

『宋書』倭国伝

 順帝昇明二年、遣使上表曰:「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道逕百濟、裝治船舫、而句驪無道、圖欲見呑、掠抄邊隸、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風。雖曰進路、或通或不。

 順帝昇明二年(478年)、遣使が上表して曰く「封国は残念ながら遠く、藩を外に作り、昔より祖先は自ら甲冑を着け、山川を跋渉し、安らかに暮らす暇なし。東に毛人を征すること五十五国、西に衆夷を服すること六十六国、(海を)渡り海北を平定すること九十五国。王道は安泰に調和し、国土を拡げ、京畿を遠く離れる。累代に亘って朝廷を尊び、歳を誤らず。臣は下愚といえども、忝くも後裔を先に残し、統べる所を率いて駆け、崇め帰すこと天を極め、道を百済に直行し、船舶を装備する。然るに高句麗は非道にも併呑を欲して謀り、辺境を略奪し隷属させ、(南朝宋の)劉氏を尊重して已まず、(そのために)いつも延滞させられ、(航行の)良風を失する。道を進むといえども、あるいは通じ、あるいは不通。

 臣亡考濟實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大舉、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲、是以偃息未捷。至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。若以帝?覆載、摧此強敵、克靖方難、無替前功。竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節。」
 詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。

 臣の亡き済は、仇敵が天路を塞ぐことを実に憤り、百万の弦を鳴らして訴え、正義の声に感激し、まさに大挙せんと欲するも、突然に父兄が亡くなり、垂成の功をして一簣(モッコ一杯分)も獲れず。諒闇(一年の服喪)に在り、軍装の兵を動かさず、ここに休息するを以て未だ戦勝を得られず。今に至り、甲を練り、兵を治め、父兄の志を述べんと欲し、義士と勇士、文武に功を尽くし、白刃を前に交えるも、また顧みることなし。
 もし帝?の覆戴を以てこの強敵を挫き、勝って方難を鎮めるも、前功に替えることなし。密かに開府儀同三司を自ら仮称し、その余も皆、各々に仮授(して頂ければ)、以て忠節を勧める」。
 詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙爵した。



1228管理人:2013/02/16(土) 18:50:32
Re: 蝦夷戦争
秦野北斗さんへのお返事です。

> 蝦夷征討は韓半島の武の話しで、東北の蝦夷とは何の関係もない。どこかの学者が創作したものでしょうな。文章を

> 古墳時代
> 蝦夷についての最も古い言及は、『日本書紀』にあるが、伝説の域を出ないとする考えもある。しかし、5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝には、478年倭王武が宋 (南朝)に提出した上表文の中に以下の記述がある。
>
> 「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」
>
> この記述から、この時代には既に蝦夷の存在と、その統治が進んでいた様子を窺い知ることが出来る。日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされているが、これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されている。例えば俘囚の多くが吉弥侯部氏を名乗っているが、吉弥侯部、君子部、公子部は毛野氏の部民に多い姓である。
>
> 『宋書』倭国伝
>
>  順帝昇明二年、遣使上表曰:「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道逕百濟、裝治船舫、而句驪無道、圖欲見呑、掠抄邊隸、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風。雖曰進路、或通或不。
>



ちょっとみなさんで興味深い論議をしていたようですね、見落としてました。


やはり北海道式前方後円墳の問題が重要ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

実家にちかいので見に行ったことがあるのですが、ただこれらは7世紀代からとのことで、武の時代とは少し異なるようです。

その前に宮城方面に4世紀代からの前方後円墳があるので、これが倭王武の記載に対応するのでしょう。

北史にも北の境界を海としていて、津軽海峡あたりを示していた可能性を考えてますが、その後、7世紀代になると箱根とか草津、常陸の手前あたりを境界にもってくるんですね。中国側には北の境界は「山」として知らせてます。

その時代、その境界の北東は「日高見国」「日立」だったわけですが、この「日高」は九州の「日高」と関係して、新漢人系多氏等が、関東へ横穴墓を造営しながら移住していったときの名称と考えることは、先日論議したとおりです。

また武蔵国造の乱で負けた笠原直の小杵がやはり栃木方面の壬生へと移動していくのですが、この辺も新漢人との関わりがあって、しかし、7世紀代には境界外となっていたかもしれません。

とすると、日高見国は、蝦夷を主体としながらも、意外にも新漢人といった中国系文化人の影響を受けていた領域だった可能性もでてきます。

それが新漢人の支援を得た天智時代あたりで、その日高見国吸収に際して、日本号が出てくるわけですが、この後、みなさんご指摘の東歌がでてくるわけです。その作者に関係するのがその今城とすると、近江毛野がが磐井との話にでてきたように新漢人と接点が強く、近江から関東に移動する上毛野氏の伝承にも大陸系の伝承があることを考慮すると、その名の「今城」も「新・今来漢人」との関わりで生じて可能性も考慮すべきかもしれません。

彼らは片言なりとも文筆ができるので詩歌が詠めるんですね。

ただ、その東歌自体は、防人の歌だとすれば、その言語がどうであったか?は、もはや言語学者の手に負うしかないわけですが、どのくらい、言語面で蝦夷に倭語や韓・中国語の影響が及ぼされていたか?を考える上で、注目すべき課題かなとは感じます。

1229青面金剛:2013/02/16(土) 20:06:46
ディアスポラ(強制分散移住)
藤井游惟さんへのお返事です。

 先のNHKドラマ『アテルイ』の中でも触れられている様に、投降・帰順した蝦夷を俘囚として、少数の集団に分けて、遠隔地に強制的に移住させる「強制分散移住(ディアスポラ)」の考え方が、藤井さんの第7章には欠落しています。

 西日本を中心に点在する、所謂「被差別」の地が、それに当たります。

「異言語を話す政治的抑圧者(俘囚者)側の人口が、多数派民衆の人口よりも圧倒的に少ない場合は、居住区域を分け、多数派民衆との交流を最小限に押さえて、俘囚地内で自らの言語を保つのが精一杯、それができない場合は、世代交代により俘囚者側が多数派民衆の言語に同化してしまう。」

 藤井さんの理論に、このディアスポラ(強制分散移住) の考え方を取り入れますと、「政治権力が命令すれば民衆の言語は取り替えられる」のです。

 藤井さんの本に、このディアスポラ(強制分散移住)の考え方を取り入れた『改訂版』を出される事を、お薦めします。

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> ↓の様なことは私の本の第七章にちゃんと書いてあります。 買って読んでから言ってください。 私は言語学者である以前に社会学者なのです。 何度も言っているように私は「科学者」です。「科学」を理解できない「頭のご不自由な方」をお世話する介護士やセラピストではありません。 というわけで、今後のおつきあいはご遠慮させて頂きます。<(_ _)>
>
> > 藤井游惟さんへのお返事です。
> >
> >  敗戦国に於ける学校教育の中で、「それまでの母国語の使用を禁じられたり、差別の問題に拠って使用が憚られたり」したかが、重要な差異です。
> >  北海道では明治新政府による、日本語の標準語を学校教育の基本とする、文化政策によって、一部の学校を除き、アイヌ語の使用は極めて難しい環境に於かれ、それが暫く長期間続いたため、今日では、アイヌ語の日常会話を流暢に話せる方々は、極めて少数に減ってしまっているのが、現状です。
> >  それに対して、戦後の日本に於ける、学校での英語教育は、必修科目として選択的な強制は、されているものの、一部の進学校やミッション系スクールを除いて、英語の授業以外では、日本語の使用が禁じられている訳では有りません。
> >  白村江の敗戦後に於ける、占領下に置かれた日本列島の西半分では、それまでの神代文字で書かれた文書に対する、徹底的な焚書に伴ない、それまで話されていた言葉も、次第に口にするのが、難しく成って行った事と思われます。
> > 太平洋戦争後に於ける、アメリカ占領下の日本では、GHQ司令部が日本語の使用を禁じたわけでは、有りません。
> > この二つの大きく異なる条件を、押さえておく事が重要だと考えます。


1230秦野北斗:2013/02/16(土) 21:23:05
瑞穂の国(古代日本は葦原の国)は呉音
「大秦」は弓月君で遥か遠い中近東から韓半島を経由して渡来していますな。
これが平氏になる。

太伯は呉越の呉が会稽東冶から瑞穂の国に直接船で渡来している。

渡来人がいっぱいですな。徐福伝説も同様でしょうな。


瑞穂の国(古代日本は葦原の国)は呉音を使用していた模様。

九州の玄海灘も瀚海を呉音を漢音とし漢音の漢字を当て嵌めている。
対馬の厳原(いずはら)から厳海が魏志の頃の名前て、漢音の玄海にした模様。

同様に太秦は呉音でタイシン、漢音にすると大秦はでタイシン。
太秦、大秦は同音になる。

大[音]ダイ(呉) タイ(漢)
太[音]タイ(呉)(漢)

太伯、大伯は同音になる。

「大秦」は弓月君の模様。

キリスト教との関連は「大秦」が解けなければ理解できませんな。

月氏(弓月君)が太秦に関係ありですな・・。

日本書記に太伯(たいはく)を大伯と書いている。
大来皇女(おおくのひめみこ)は、天武天皇の皇女。大伯皇女とも書く。

太伯は会稽東冶こと上海ですな。


1231棘の紀氏:2013/02/16(土) 21:45:17
奈良時代まで日本語の「イ」「エ」「オ」の母音には甲類 (i, e, o) と乙類 (ï, ë, ö) の音韻があったとい
躬(みずか)ら????窮の異体字。また使役する、体を曲げるという意味がある。
>「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」

「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」

中国の漢代の《説文解字》では〈躬〉を〈躳〉の俗字とするが,唐代の《干禄字書》では,ともに正字とする。《干禄字書》は顔元孫の手になる楷書による字形の正・俗を分けた最初の字書であり,その後の字書はすべてこれによる。今日では過去の俗字も常用漢字として大いに利用されている。… http://kotobank.jp/word/顔元孫

窮とは (キュウとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
2012年5月14日 - 〔説文解字〕の本字は竆で〔説文・巻七〕に「極まるなり」とある。 字形: 躳声の形声説、穴 +躳の会意説がある。躳は身体という意味の字。 音訓: 音読みはキュウ(漢音)、グ、 グウ(呉音)、訓読みは、きわまる、きわめる。 http://dic.nicovideo.jp/a/
意味きわまる、終わる、きわめる、行きつく、行き詰まる、塞がる、不遇、志を遂げられない、貧しい、悪人、という意味がある。〔説文解字〕の本字は竆で〔説文・巻七〕に「極まるなり」とある。字形躳声の形声説、穴+躳の会意説がある。躳は身体という意味の字。音訓音読みはキュウ(漢音)、グ、グウ(呉音)、訓読みは、きわまる、きわめる。
?は、〔漢語大辞典・異体字表〕やUnicodeにある窮の異体字。また使役する、体を曲げるという意味がある。
簡体字は?。

窮の異体字。また使役する、
禹は自然の原理にのっとり、「 疎(通すこと)」と「導」という方法で河川の氾濫を防いだ。 また治水に應龍や息壌、その他様々な龍を使役して工事を行った。 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/5216/kami/a/u.html

体を曲げる
体を曲げてつつむ)とから成る勹(人が体 ... 大禹・・・台禹? http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/961
「句」 字義:くぎり
曲がる
句(曲がる意=曲) http://shoukei.blog65.fc2.com/blog-entry-31.html
せむし
「痀」=「疒」+「句」:=やまい+まるい=>(背中の)丸くなる病=>せむし
「岣」=「山」+「句」:=やま+まるい=>山の丸い所=>山頂
佝」(キョク) 解字:形声。意符の人(ひと)と、音符の句(曲がる意=勾)とから成る。背の曲がった人の意。
※ 脛の曲がった 禹も蛇(竜) ... (曲脛)くぐせ、せむし(僂) 魚あり、扁枯、魚婦 という。 http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/j-keijiban6.htm
禹も蛇(竜) ... (曲脛)くぐせ、せむし(僂) 魚あり、扁枯、魚婦という。 ...

簡体字は?。
【大禹治水】矮?挫的逆?,昨?女神住我家. 楼主:?了那个咪的. ?表??
矮?矬 http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,ezh_ja,bT,uaHR0cDovL2JhaWtlLmJhaWR1LmNvbS92aWV3Lzc5MjE2ODcuaHRt
矮は貧乏に低い??[1]
??[1]
矮??身材矮小,???家庭??,挫???相失?。
低い――身長は矮小で、貧乏な――家庭の貧しさは、――面構えた失敗を挫きます

?. qióng. 貧しい.貧乏; 尽きる.終わる.なくなる; あくまで.徹底的に; 極端に. きわめて; ひっきりなしに.続けざまに; 懸命に(上海語)〈類〉拼命 http://www.ctrans.org/search.php?word=?

矮とは (ワイとは) http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1657
矮星(わい せい)は、恒星あるいはそれに準じる天体でありながら、ごく小さいものをさす。
矮とは (ワイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
2012年2月2日 - 〔説文解字・巻五・新附〕に「短人なり」とある。 字形: 形声で声符は委。 音訓: 音読みは アイ(慣用音)、アイ(漢音)、訓読みは、みじかい、こびと。
声符は委
..... 矮」=「矢」+「委」:=や+背を丸め た食糧管理者=>背を丸めた食糧管理者の矢=>背を丸めて射る矢=>低い位置 から放た ... http://shoukei.blog65.fc2.com/blog-entry-85.html
「矮」 解字:形声。意符の夫(矢は誤り変わった形。一人前の男)と音符の委(曲がって小さい意)とから成る。丈が小さい男、「ひくい」意。
委(曲がって小さい意)

倭」は「委(ゆだねる)」に人が加わった字形。音符の委は、「なよなかな女性」を意味し、 解字は「ゆだねしたがう」「柔順なさま」「つつしむさま」、また「うねって遠いさま」。「委」は 「禾(=粟の穂:米や麦に比べると低い)」+「女(なよなよした様)」で、体の曲がった背の ... http://ja.wikipedia.org/wiki/
倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音))は、
1.紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこく)と自称した。倭の住人を倭人(わじん)という。和、俀とも記す。 ※倭の政治組織・国家については「倭国」、倭の住人・種族については「倭人」をそれぞれ参照のこと。
2.奈良盆地(のちの大和国)の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」とも記す。

奈良時代まで日本語の「イ」「エ」「オ」の母音には甲類 (i, e, o) と乙類 (ï, ë, ö) の音韻があったといわれる(上代特殊仮名遣い)。「邪馬台国」における「邪馬台」は"yamatö"(山のふもと)であり、古代の「大和」と一致する。筑紫の「山門」(山の入り口)は"yamato"であり、音韻のうえでは合致しないので、その点では邪馬台国九州説はやや不利ということになる[3]。

俀国(瑞穂の国)・・・端求・・・台・・・吉(基地?)? http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1525

秦氏 - Wikipedia
隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に「又至竹斯國又東至秦王國 其人同於 華夏 以爲夷州疑不能明也」と風俗が中国と .... 笠井倭人「朝鮮語より見た秦・漢両氏の 始祖名」(『考古学論考』所収); ^ 佐伯好郎「太秦(禹豆麻佐)を論ず」(『地理歴史 百号』 ... http://ja.wikipedia.org/wiki/秦氏
『日本書紀』で応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君[1]を秦氏の祖とする[2]。『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔とされるが[3]、その真実性には疑問が呈せられており[4]、その出自は明らかではない。「弓月」の朝鮮語の音訓が「百済」の和訓である「くだら」と同音であることにより百済の系統とする説[5]、秦の遺民が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)の系統とする説[4]、五胡十六国時代に氐族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族の系統とする説[要出典]などがある。また、佐伯好郎は秦氏は景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人であるとの説をとなえた(日ユ同祖論)[6]。平安京は碁盤の目のような十字路で構成されている為に景教と関連がある、とも言われている[要出典]。
『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に「又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也」と風俗が中国と同じである秦王国なる土地(瀬戸内海沿岸付近?)が紹介されていて、これを秦氏と結び付ける説がある。

隋書 列傳俀國傳の秦王国に記された華夏だったかの夏音の夏も、詳しくは、他日とさせて いただきますが、中原の殷代までの王統の前代、禹の建国した夏に遡ると遠望されます 。 http://e-asia2.board.coocan.jp/?m=reg&amp;q=1&amp;p_id=64_110

矮とは (ワイとは)
俺、私、僕、我、ワイ
穢(ワイ)族系部族の連合体で、獩族(ワイ)・貊族(ハク )・狛族(コマ)などが包含されていたものと想像するが、その連合 ..... ル しんにょうには禹に関係する漢字が沢山有ります 「卯」ウには吾・我・われの意味も禹 . http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/315

躬(みずか)ら
自らを持するの意味 我・吾・自分に関連する慣用句 http://www.weblio.jp/content/自らを持する
我ととは? (副)〔「われ」に助詞「と」の付いたもの〕 (1)みずから。自分で http://www.weblio.jp/content/我と

我 ワに関するQ&Ahttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1042890680

穢(ワイ)族
穢族 と韓(貊)族の連合体であると考えている。日本では、「穢」は「八」「夜」とも表記されたよう である。 禹の後『魏志』には、周代の呉国の始祖「太伯」の長子が、 ... http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/51
「倭」というのは後漢王朝を攻めない種族という意味らしいが、「倭」の音は「 穢」に通じ、汚穢、腐臭の意がある ....
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/1627/gin/3g.htm
倭=穢=八=夜という等式
魚の特産国として中国にも知られていた「邪頭昧」が「穢頭国」とも表記されていることから、「邪」とは「穢」のことであり、「穢」が「穢」であることは、後漢時代の許慎(三〇〜一二四年)が著した『説文解字』という字典に記されている通りである。
 「邪」が「穢」であるなら、邪馬台国の「邪」も「穢」を意味すると考えられる。「馬」は馬韓の「馬」と考えられるから、筆者は、邪馬台国は、朝鮮半島から渡来した穢族と韓(貊)族の連合体であると考えている。日本では、「穢」は「八」「夜」とも表記されたようである。
禹の後
『魏志』には、周代の呉国の始祖「太伯」の長子が、荊蛮の地に行き、文身断髪してその俗にそまったと伝え、あるいは『漢書』が、「其の君は禹の後の帝少康の庶子というもの(越王句践のこと)、会稽に封ぜられ、文身・断髪し、以て蛟竜の害を避く」と記す。

禾 + ム = 私
「倭(イ+禾+女)」の音は「 穢(禾+歳)」に通じ

歳の字の初形は「鉞まさかりエツ」の字の右側エツの字です。 神に奉げるいけにえ・ 犠牲を割〔さ〕く鉞の形をあらわした象形文字です。 のちにエツのマサカリの刃のなか に「歩」の上下に分けて書く字になりました。 『説文解字』2上には「木星なり」つまり ...
http://blogs.yahoo.co.jp/akasakahiro/58690744.html


1232棘の紀氏:2013/02/16(土) 22:04:06
窮とは (キュウとは)
・キュウ 救=禹・・・墨子?牧師?)
漢字の【私】ム=△=禹・・・禾+ム
漢字の【台】△+□=われ
漢字の【和】禾+□=わ・・・◎璧

漢字は 禹の足跡
けものの足跡
「ジュウ」
イソ 10(十) 戎 獣 ジュウ Jew (ユダヤ) | 古代史掲示板(清談論議)

τ星 蒼竜 + Ψ黄竜?=禹 九 キュウ 球 救 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1713
角のあるものをキュウ龍、角の無いものをチ龍、
http://shikoku-net.co.jp/akaboshi/kaisetsu.htm

蛟(みずち)・・・みずから?自ら・・・私
蛟(みずち)は、本来は、竜の一種を表す漢字である。 日本では「みずち」の訓が当てられたが、ミズチ(古語ではミツチ)は本来は、八岐大蛇(八岐大蛇は川の神とされることがある)に代表される日本の水神、蛇神、龍蛇神である。 ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/
水虺は五百年たつと化して蛟となり、蛟は千年で化して龍となり、龍は五百年で角を為し、 ... 宋の洪興祖はこの一節に補注して、「昔、禹が洪水を治めたとき、応竜が尾を引いて、 ... このように、応竜には治水や雨乞いに関連する水神 ...
http://homepage3.nifty.com/kyousen/china/3k5t/connection/3k5t_ouryuu.html

月氏と禹と(う)「鳩」(キュウ)についてですが、例のNHKのDVDの解説書に、月氏が禺( ぐう)氏と記されていることが書いてありました。 ... 「鳩」(キュウ、の音の文字は禹に関係 が深いと考えていますしノア・キリスト教のハトに通じると思います。 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2632
中国で「九」は数字の「9」以外に、古代から占いなどでは0〜9の中の「最大」を意味します。
そのため、時には「無限」の意味で使われます。
【禹】【九】 「九」 字義:きゅう. 解字:象形。 肘を曲げたさまにかたどる。 ... ひいて、水神として祭られた天使禹王の意。 「属」 解字:なし(旧字「屬」の解字) ... 「禹」は「虫+九」です。 虫(き)がオスの竜、九(く)がメスの竜です。 ...
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2583

、「禹 」「正」「台」「久」等諸説あるが、今回は別の近世の反閇資料を参照し「公」としておいた。 http://www7a.biglobe.ne.jp/~jirihon/juhou/henbai.html
四縦五横、禹為除道、蚩尤避兵、令吾周遍天下、帰還故郷、向吾者死、留吾者亡、急々如律令
四縦五横、禹は道を除き蚩尤は兵を避くを為す。吾をして遍く天下を周し、故郷へ帰還せしめよ。
吾に向かうは死し、吾を留むるは亡す。急ぎ急ぐこと律令の如し。

符の上部の格子状の目は所謂「九字法」で知られるものであるが、陰陽道の小反閇ではこの時「朱雀、玄武、白虎、勾陣(陳)」と縦に切り、後に「帝公、文王、三台、玉女、青龍」と横に切ったようである。尚、「帝公」の「公」に当たる文字は判読が難しく、「禹」「正」「台」「久」等諸説あるが、今回は別の近世の反閇資料を参照し「公」としておいた。
「帝公」の「公」=「禹」「正」「台」「久」等諸説ある

公と私 −『説文解字』入門(1) - 今週のコラム|地域情報マガジンWinds ...
2006年11月27日. 公と私 −『説文解字』入門(1)−. 公私の区別は難しい。一人の人間 がそれだけ様々な役割や責任を負って暮しているということだろう。 『説文解字』で「公」( 二篇上013)を引いてみると、「公 平分也 从八厶 八猶背也 韓非曰 背厶爲公」となっ ... http://www.windsnet.ne.jp/column_n/colum.php?day=20061127280
「公」は題字、「平分也」はその意味で、この場合平等に分配するというほどの解である。「从八厶」はまた「从八 从厶」と書かれていることもあり、字の作り方を示している。「从」は見慣れないが、「從」の一部になっている字で、従うという意味。この場合、「八」と「厶」の両方に従うから会意字だ。

台国
「ム」の項には 厷、厺、去、参、私、參、公、牟、台、矣、允 、弁、払、などの字
「ム」の項には 厷、厺、去、参、 私、參、公、牟、台、矣、允、弁、払、 神亀の 背中にあったという文様 ... http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1562
「我」 字義:われ・・・おのれ・・・私・・・台
ム(おのれの意 =自) | 世界史掲示板(荊の紀氏)
2012年6月15日 - 弋」 部首解説:これを部首として、くいを用いた道具の意を表わす文字ができている。 字義:くい、ぼう。 解字:象形。 ... 意符「手+(第二画の横長変形)」と意符と音符を兼ね た「戈」とからなる「我」=「手」+「戈」:=て+武器=>手の武器=>手 ...



1233管理人:2013/02/16(土) 22:51:57
Re: 瑞穂の国(古代日本は葦原の国)は呉音
秦野北斗さんへのお返事です。

> 「大秦」は弓月君で遥か遠い中近東から韓半島を経由して渡来していますな。
> これが平氏になる。
>
> 太伯は呉越の呉が会稽東冶から瑞穂の国に直接船で渡来している。
>
> 渡来人がいっぱいですな。徐福伝説も同様でしょうな。
>

> 「大秦」は弓月君の模様。
>
> キリスト教との関連は「大秦」が解けなければ理解できませんな。
>
> 月氏(弓月君)が太秦に関係ありですな・・。
>
> 日本書記に太伯(たいはく)を大伯と書いている。
> 大来皇女(おおくのひめみこ)は、天武天皇の皇女。大伯皇女とも書く。
>
> 太伯は会稽東冶こと上海ですな。
>

弓月の民という言い方もあったような気がしますね。

天皇は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を遣わして、加羅国の弓月の民を召されたが、 三年を経ても襲津彦は帰らなかっ た。応神天皇十六年、天皇は平群木菟宿禰(へ ぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした

大秦の影響ですが、これはちょっとまだ模索段階なのですが、会報第1号でとりあげた下記の記載があります。


慶雲四年三月廿二日条「庚申。從四位上下毛野朝臣古麻呂。請改下毛野朝臣石代姓爲下毛野川内朝臣。許之。」
慶雲四年三月廿六日「甲子。給鐵印于攝津伊勢等廿三國。使印牧駒犢。」


下毛野河内は、どこの河内かというと、茨城にも河内郡があって、また先日のお話にあった物部河内と会津が常陸国の関係で出てくるのですが、これは確かに河内郡と会津となりそうです。会津あたりまで、日高見国の領域だった可能性を感じるのですが、それはともかく、次の条文にみえる、牛・馬に鉄で刻印するという風習ですね。

23国に官営の牧があって、その馬にたいして焼き印するんです。

盗難防止になるかもしれませんが・・・。

たとえば、キリスト教終末論では、信徒が神の刻印を押されたりするんですね。敵対する獣の民衆も刻印を押される。

いろいろその宗教教義なり、政治理念でかなり大掛かりな強制、あるいは自発的・・・、があって、そういう部分もなくはないですが、問題は他の視点からも裏付けられるか否かによるかもしれません。


1234棘の紀氏:2013/02/16(土) 23:12:47
配石遺構・・・縄文時代の後期前半に作られる   蝦夷塚?
>やはり北海道式前方後円墳の問題が重要ですね。

故伊能先生の話に、石棒の立っている下を掘って、多くの人骨が出た例は小友村の蝦夷塚にもあったという。綾織村でもそういう話が二か所まであった。(大和書房 1972 より)

北海道西南部で作られる。同じ ころ、岩手では石を直線状や弧状に並べるものが作られている。 http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/032_konsei/032.htm

東北地方北部から北海道にかけて、続縄文文化に伴う墳墓が造られていた http://ja.wikipedia.org/wiki/末期古墳
末期古墳の造営が始まる前、東北地方北部から北海道にかけて、続縄文文化に伴う墳墓が造られていた。墳形は楕円形で、周溝のような墳墓と周囲を隔てる区画はなく、墳丘もはっきりとは確認できない程度のもので、墓壙の規模から遺体を折り曲げて葬る屈葬であったとされる。ある程度の規模の墳丘と周溝を伴い、遺体を曲げることなく葬った末期古墳との違いは明らかである。また、北海道では石狩低地帯で末期古墳が造られている間も、続縄文文化の時代と変わらぬ墳墓が造られ続けていた。
一方、末期古墳が造営された地域の南にあたる宮城県中南部では、4世紀頃から7世紀にかけて、前方後円墳をはじめとする古墳が造られており、墳長168メートルの雷神山古墳のような大きな古墳もある。しかし末期古墳が造られた宮城県北部の北上川流域や迫川流域では、古墳時代を通して前方後円墳などのいわゆる古墳の造営は見られない。また、末期古墳の造営が始まったのは古墳の造営が下火になる7世紀以降であり、これらのことから前方後円墳をはじめとする古墳の造営者と末期古墳の造営者が異なった社会集団に属していたことがわかる[要出典]。

牛石遺跡(うしいしいせき)は、山梨県都留市厚原字牛石にある遺跡。縄文時代中期末 葉の曽利式住居跡を伴う配石遺構 http://ja.wikipedia.org/wiki/牛石遺跡
配石(はいせき)とは、表面のなめらかな河原石などの自然石を目的をもって配置したり、組合せたりした遺構である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/配石遺構
配石の全体の形はさまざまあり、その性格も集落内の土地区画など日常生活に関わる標識から、埋葬や祭祀など信仰に関わるものまで多岐にわたると考えられる。単独のものは組石(くみいし)とも呼ぶ。配石のうち、石を円形に(ドーナツ状)に配置させるものは環状配石や環状列石と呼ぶ。立石をともなう場合もある。礫を土坑の中や外に配置した埋葬施設を特に配石墓と呼び、配石によって作られた住居を敷石住居と呼ぶ。
ヨーロッパには巨石を並べた配石遺跡があり、ストーンヘンジはその代表例である。日本では縄文時代前期に顕著となり、中期には急増する。環状列石をともなう著名な遺跡には、秋田県鹿角市の大湯環状列石や青森県青森市の小牧野遺跡、秋田県北秋田市の伊勢堂岱遺跡があり、これらはいずれも縄文時代後期の遺跡である。また、石材資源の豊富な中部地方の山麓地域においても盛んに作られる。

ストーンサークル - Wikipedia
続いて縄文時代の後期前半に秋田県北部や青森県、北海道西南部で作られる。同じ ころ、岩手では石を直線状や弧状に並べるものが作られている。 配石遺構は、縄文 中期後半から後期になると各地で築造され、九州を除いた日本各地で発見例が増え てきて http://ja.wikipedia.org/wiki/ストーンサークルhttp://ja.wikipedia.org/wiki/ストーンサークル...http://ja.wikipedia.org/wiki/ストーンサークル
血縁・地縁をもった氏族の連合が40〜50キロほどの距離をおいた領域を占有し、その中心に祭の場を築造したのではないか、と考えられている。この遺跡が日本ではじめて公表されたのは1886(明治19)年小樽市の忍路環状列石である。
東北地方から北海道にかけてのストーンサークルは縄文時代中期後半から後期にかけて作られている。大きさは直径30m以上のものと直径10m以下のものがあり、大きいものは祭祀の場として作られ、小さいものは竪穴住居の周囲に石を置いたものが多い。直径が30m以上のものは、まず縄文時代中期の終わりごろに静岡県、山梨県、群馬県付近で作られる。続いて縄文時代の後期前半に秋田県北部や青森県、北海道西南部で作られる。同じころ、岩手では石を直線状や弧状に並べるものが作られている。
配石遺構は、縄文中期後半から後期になると各地で築造され、九州を除いた日本各地で発見例が増えてきている。現在までのところ最も古いと考えられているのは長野県諏訪郡原村にある阿久遺跡の配石遺構で、縄文時代前期のものと推定されている。


1235秦野北斗:2013/02/16(土) 23:53:47
Re: 瑞穂の国(古代日本は葦原の国)は呉音
管理人さんへのお返事です。

慶雲四(707年)の文章は合いませんな。

第15代天皇(在位:応神天皇元年(270年2月8日))
弓月は応神天皇十六年286年になる。


>
> 天皇は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を遣わして、加羅国の弓月の民を召されたが、 三年を経ても襲津彦は帰らなかっ た。応神天皇十六年、天皇は平群木菟宿禰(へ ぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした
>
> 大秦の影響ですが、これはちょっとまだ模索段階なのですが、会報第1号でとりあげた下記の記載があります。
>
>
> 慶雲四年三月廿二日条「庚申。從四位上下毛野朝臣古麻呂。請改下毛野朝臣石代姓爲下毛野川内朝臣。許之。」
> 慶雲四年三月廿六日「甲子。給鐵印于攝津伊勢等廿三國。使印牧駒犢。」
>
>
> 下毛野河内は、どこの河内かというと、茨城にも河内郡があって、また先日のお話にあった物部河内と会津が常陸国の関係で出てくるのですが、これは確かに河内郡と会津となりそうです。会津あたりまで、日高見国の領域だった可能性を感じるのですが、それはともかく、次の条文にみえる、牛・馬に鉄で刻印するという風習ですね。
>
> 23国に官営の牧があって、その馬にたいして焼き印するんです。
>
> 盗難防止になるかもしれませんが・・・。
>
> たとえば、キリスト教終末論では、信徒が神の刻印を押されたりするんですね。敵対する獣の民衆も刻印を押される。
>
> いろいろその宗教教義なり、政治理念でかなり大掛かりな強制、あるいは自発的・・・、があって、そういう部分もなくはないですが、問題は他の視点からも裏付けられるか否かによるかもしれません。
>


1236棘の紀氏:2013/02/16(土) 23:58:25
配石遺構・・・縄文時代の後期前半に作られる   蝦夷塚?
>やはり北海道式前方後円墳の問題が重要ですね。

故伊能先生の話に、石棒の立っている下を掘って、多くの人骨が出た例は小友村の蝦夷塚にもあったという。綾織村でもそういう話が二か所まであった。(大和書房 1972 より)

北海道西南部で作られる。同じ ころ、岩手では石を直線状や弧状に並べるものが作られている。 http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/032_konsei/032.htm

東北地方北部から北海道にかけて、続縄文文化に伴う墳墓が造られていた http://ja.wikipedia.org/wiki/末期古墳
末期古墳の造営が始まる前、東北地方北部から北海道にかけて、続縄文文化に伴う墳墓が造られていた。墳形は楕円形で、周溝のような墳墓と周囲を隔てる区画はなく、墳丘もはっきりとは確認できない程度のもので、墓壙の規模から遺体を折り曲げて葬る屈葬であったとされる。ある程度の規模の墳丘と周溝を伴い、遺体を曲げることなく葬った末期古墳との違いは明らかである。また、北海道では石狩低地帯で末期古墳が造られている間も、続縄文文化の時代と変わらぬ墳墓が造られ続けていた。
一方、末期古墳が造営された地域の南にあたる宮城県中南部では、4世紀頃から7世紀にかけて、前方後円墳をはじめとする古墳が造られており、墳長168メートルの雷神山古墳のような大きな古墳もある。しかし末期古墳が造られた宮城県北部の北上川流域や迫川流域では、古墳時代を通して前方後円墳などのいわゆる古墳の造営は見られない。また、末期古墳の造営が始まったのは古墳の造営が下火になる7世紀以降であり、これらのことから前方後円墳をはじめとする古墳の造営者と末期古墳の造営者が異なった社会集団に属していたことがわかる[要出典]。

牛石遺跡(うしいしいせき)は、山梨県都留市厚原字牛石にある遺跡。縄文時代中期末 葉の曽利式住居跡を伴う配石遺構 http://ja.wikipedia.org/wiki/牛石遺跡
配石(はいせき)とは、表面のなめらかな河原石などの自然石を目的をもって配置したり、組合せたりした遺構である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/配石遺構
配石の全体の形はさまざまあり、その性格も集落内の土地区画など日常生活に関わる標識から、埋葬や祭祀など信仰に関わるものまで多岐にわたると考えられる。単独のものは組石(くみいし)とも呼ぶ。配石のうち、石を円形に(ドーナツ状)に配置させるものは環状配石や環状列石と呼ぶ。立石をともなう場合もある。礫を土坑の中や外に配置した埋葬施設を特に配石墓と呼び、配石によって作られた住居を敷石住居と呼ぶ。
ヨーロッパには巨石を並べた配石遺跡があり、ストーンヘンジはその代表例である。日本では縄文時代前期に顕著となり、中期には急増する。環状列石をともなう著名な遺跡には、秋田県鹿角市の大湯環状列石や青森県青森市の小牧野遺跡、秋田県北秋田市の伊勢堂岱遺跡があり、これらはいずれも縄文時代後期の遺跡である。また、石材資源の豊富な中部地方の山麓地域においても盛んに作られる。

ストーンサークル - Wikipedia
続いて縄文時代の後期前半に秋田県北部や青森県、北海道西南部で作られる。同じ ころ、岩手では石を直線状や弧状に並べるものが作られている。 配石遺構は、縄文 中期後半から後期になると各地で築造され、九州を除いた日本各地で発見例が増え てきて http://ja.wikipedia.org/wiki/ストーンサークルhttp://ja.wikipedia.org/wiki/ストーンサークル...http://ja.wikipedia.org/wiki/ストーンサークル
血縁・地縁をもった氏族の連合が40〜50キロほどの距離をおいた領域を占有し、その中心に祭の場を築造したのではないか、と考えられている。この遺跡が日本ではじめて公表されたのは1886(明治19)年小樽市の忍路環状列石である。
東北地方から北海道にかけてのストーンサークルは縄文時代中期後半から後期にかけて作られている。大きさは直径30m以上のものと直径10m以下のものがあり、大きいものは祭祀の場として作られ、小さいものは竪穴住居の周囲に石を置いたものが多い。直径が30m以上のものは、まず縄文時代中期の終わりごろに静岡県、山梨県、群馬県付近で作られる。続いて縄文時代の後期前半に秋田県北部や青森県、北海道西南部で作られる。同じころ、岩手では石を直線状や弧状に並べるものが作られている。
配石遺構は、縄文中期後半から後期になると各地で築造され、九州を除いた日本各地で発見例が増えてきている。現在までのところ最も古いと考えられているのは長野県諏訪郡原村にある阿久遺跡の配石遺構で、縄文時代前期のものと推定されている。

焼印
慶雲4年(707)3月26日【続日本記】《駒、押印》
鉄の印(焼印)を摂津・伊勢など二十三カ国に与え官営の牧馬の駒と小牛に押印した。 http://sky.geocities.jp/sabutyan66/page018.html

焼印の使われ方と歴史
筆記用具や紙が登場する遥か前に、人がすでに焚火の燃えさしで地面や壁に絵や記号を書いていました。
ペンや筆等の筆記用具は、燃えさしの墨の部分を使いやすく変化させた物といえます。
一方、焼印は焦げ跡を強調する方法で、火(熱)の部分を利用する物といえます。

ブランド(Brand)の起源は「焼印を押す」という 意味のburnedから派生した言葉といわれています。 http://www.si.suwa.tus.ac.jp/tame/keiei/011.html

イエスの焼き印 http://blog.livedoor.jp/koichi_uraji/archives/51687798.html
ガラテヤの信徒への手紙6章17節、ガラテヤの手紙の最後の結びの言葉に、パウロは、このように言っています。
 「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」
「焼き印」とは、ギリシャ語で、「スティグマタ」と言います。英語で stigma は、聖痕、十字架の傷痕、さらにそこから汚名、恥辱、不名誉という意味があります。イエスさまの時代には、奴隷制度がありました。戦争に負けた民族や国の民は捕虜とされ、奴隷として働かせられました。また、奴隷の売買もされていました。奴隷が逃げ出したり、奪われたりしないように、その奴隷が、主人の所有物であることを表すしるしとして、焼き印を押したり、入れ墨を入れたりされていました。
 パウロは、「わたしは、目に見えないイエス・キリストの焼き印をこの体に負っているのです」と言います。それは、わたしはイエス・キリストの奴隷です。わたしの所有者は、イエスさまですと言っています。

スティグマ〔ギリシャ語で,奴隷や犯罪者の身体に刻印された徴(しるし)の意〕

スティグマ (ギリシア文字) - ウィキペディア - Wikipedia
?, ?(スティグマ)はギリシア文字の一つでΣ(シグマ)とΤ(タウ)との合字。ギリシア数字 で6を表すのに用いられる。現代ギリシア語では、よく似た文字であるシグマの語末形 "ς " で代用されるが、本来は別の字である。今日の活字体ではスティグマのほうが上の ... http://ja.wikipedia.org/wiki/?

Sはギリシア文字の「スティグマ」[Wikipedia]、最後のAはバビロン文字で6を指す 」だ ...
三井住友VISAカード?
VISAも666とか書いてありますが、「最初のVIがローマ数字、Sは ギリシア文字の「スティグマ」[Wikipedia]、最後のAはバビロン文字で6を指す」だそうです(最後のAについては未確認)。 http://ayiva.sakura.ne.jp/misc/Y200/javascript/12misc/test-gema.html

World of 666 - 嘘がまかり通る世の中 あなたは何を信じますか? http://web177.net/index.php?World of 666
私たちの "w"のヘブライ語に相当する文字 "VAV"または "ワーウ"です。VAVの数値は6です。したがって、ヘブライ語に音訳英語 "www"の数値666は、 "VAV VAV VAV"です。
聖書に記載され男性666コントロールの世界。彼は私たちの日常生活を支配し、彼は私たちを殺しています。このような場合は、なぜこの記事では、探求し、なぜ宗教的な神話は続く?


1237青面金剛:2013/02/17(日) 00:58:24
Re: ディアスポラ(強制分散移住)
藤井游惟さんへのお返事です。

「考古学を科学する会」の「弥生人と日本語の形成-日本語南方系縄文人語起源説-」のレジュメの中で、

 「東北方言はクレオール日本語」とは、書かれていますが、西日本については、[?西九州ライン 倭人(弥生人)と「土蜘蛛」の居住境界線]の中で、長崎県の彼杵半島に朝廷にまつろわない「土蜘蛛」の例だけで、分析されてます。

 藤井さんのお住まいの地の、目と鼻の先と思われる、葛城古道に在る土蜘蛛塚や土蜘蛛窟の存在が示す事より、

[一定の社会状況においては、外部から侵入してきて、先住民を駆逐した征服民に、先住民の言語が「乗り移る」]

との藤井さんの理論によれば、土蜘蛛の言葉が、葛城古道周辺にも残る事にも成ります。

「南河内方言のネイティブスピーカー」との藤井さんも、その先住民の言葉の影響を、ある程度は、受け継いでいる、との事に成ってしまうのでは無いでしょうか。

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> ↓の様なことも、貴方にお送りした「考古学を科学する会」の「弥生人と日本語の形成-日本語南方系縄文人語起源説-」のレジュメの中でとっくの昔に書いてあります。

> >  先のNHKドラマ『アテルイ』の中でも触れられている様に、投降・帰順した蝦夷を俘囚として、少数の集団に分けて、遠隔地に強制的に移住させる「強制分散移住(ディアスポラ)」の考え方が、藤井さんの第7章には欠落しています。
> >
> >  西日本を中心に点在する、所謂「被差別」の地が、それに当たります。
> >
> > 「異言語を話す政治的抑圧者(俘囚者)側の人口が、多数派民衆の人口よりも圧倒的に少ない場合は、居住区域を分け、多数派民衆との交流を最小限に押さえて、俘囚地内で自らの言語を保つのが精一杯、それができない場合は、世代交代により俘囚者側が多数派民衆の言語に同化してしまう。」
> >
> >  藤井さんの理論に、このディアスポラ(強制分散移住) の考え方を取り入れますと、「政治権力が命令すれば民衆の言語は取り替えられる」のです。
> >
> >  藤井さんの本に、このディアスポラ(強制分散移住)の考え方を取り入れた『改訂版』を出される事を、お薦めします。


1238棘の紀氏:2013/02/17(日) 15:58:55
藤原京の謎?
畿内の遺構配置にみる古代の土木技術 (その1) 都市計画基本線の存在 ...
文献「畿内の遺構配置にみる古代の土木技術 (その1) 都市計画基本線の存在」の詳細 情報です。
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1990/10-0307.pdf#search='前方後円墳 來角. に30~ 、 45?'


1239管理人:2013/02/17(日) 23:37:37
Re: 配石遺構・・・縄文時代の後期前半に作られる   蝦夷塚?
棘の紀氏さんへのお返事です。



> 一方、末期古墳が造営された地域の南にあたる宮城県中南部では、4世紀頃から7世紀にかけて、前方後円墳をはじめとする古墳が造られており、墳長168メートルの雷神山古墳のような大きな古墳もある。しかし末期古墳が造られた宮城県北部の北上川流域や迫川流域では、古墳時代を通して前方後円墳などのいわゆる古墳の造営は見られない。また、末期古墳の造営が始まったのは古墳の造営が下火になる7世紀以降であり、これらのことから前方後円墳をはじめとする古墳の造営者と末期古墳の造営者が異なった社会集団に属していたことがわかる[要出典]。
>

この辺の境界がどの時期でどこだったかが重要ですね。


> 焼印
> 慶雲4年(707)3月26日【続日本記】《駒、押印》
> 鉄の印(焼印)を摂津・伊勢など二十三カ国に与え官営の牧馬の駒と小牛に押印した。 http://sky.geocities.jp/sabutyan66/page018.html
>
>
この小牛というのが、気になりますね。「使印牧駒犢」
http://www.geocities.jp/growth_dic/honbun/zoukan-6039.html


先の年表の流れだと、700年前後から牧の増設が進んでいたようですが、それとともに、今度は子牛を飼い始めたように見えます。

これをキリスト教的にみると、神の刻印を押される信徒のことを羊の群れというんですね。
その主人も子羊と象徴されます。

羊がいないので、山背皇子の件では、その詩歌で山羊と岩として表現するのですが、ここでは子牛を代わりも用いたという風にも解釈できるかもしれません。

一方獣の刻印は666で、確かに706年の660人の騎兵と見えなくもないですね。


○慶雲2年(705)11月13日【続日本記】《騎兵》
…新羅からの使者を迎えるために諸国より騎兵を挑発した。

○慶雲3年(706)10月15日【続日本記】《騎兵》
…天皇の乗物に随行した騎兵六百六十人の調庸田租を免除。続日本記

☆元明天皇、在位(707〜715)

○慶雲4年(707)3月26日【続日本記】《駒、押印》
…給鐵印于摂津・伊勢等廿二国使印牧駒犢。
…鉄の印(焼印)を摂津・伊勢など二十三カ国に与え官営の牧馬の駒と小牛に押印した。


元は新羅用の出迎え騎兵として660人を集めたようにも見えますが、当時日本からみて、新羅をどうみていたのか?、この辺も課題です。獣の国に揶揄っていたとか・・・。ところがその後天皇の騎兵になってしまったという結末がまた面白いのですが、いろいろ創造を膨らますとストーリーもできてくるものです。




1240棘の紀氏:2013/02/18(月) 16:47:04
Re: 配石遺構・・・縄文時代の後期前半に作られる   蝦夷塚?
管理人さんへのお返事です。
> 元は新羅用の出迎え騎兵として660人を集めたようにも見えますが、当時日本からみて、新羅をどうみていたのか?、この辺も課題です。獣の国に揶揄っていたとか・・・。ところがその後天皇の騎兵になってしまったという結末がまた面白いのですが、いろいろ創造を膨らますとストーリーもできてくるものです。


羊神
渡来した新羅の神が母子神とすれば、豊比【口羊】(あるいは息長比) ... http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2537
比【口羊】神とは比売神(ひめのかみ)は、神道の神である。
http://m.weblio.jp/c/比咩神
大日孁貴尊(アマテラス)を比売神としている神社もある。

卵から生まれた新羅(シルラ)の始祖.
「口」の右に「羊」
神社の方が元は「姫」の意味だったのかは知りませんが。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2703399.html

天国津彦神社・天国津比【口羊】神社。 祭神は、伊邪那岐尊・伊邪那美尊。 創祀年代は不詳。 ... 往古、天国津彦神社は一之鳥居の西南に、 天国津比神社は一之鳥居の西北に鎮座していたが、 ... 中央にあるのは、天八百萬比神社。 祭神は伊邪那美尊。 ...
www.genbu.net/data/etizen/oosio_body.htm - キャッシュ

菊理媛【白山比【口羊】神社】
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/explain/column/miko/his/his00.htm
理媛神(くくりひめのかみ)は、日本の神。加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比【口羊】神(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。

祭神--豊比【口羊】命 ... ただ、渡来した新羅の神が母子神とすれば、豊比【口羊】(あるいは息長比)とともに母子神として祀られたともとれる。
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/hachiman-kawara.html
豊比【口羊】
 現香春神社の案内には、
 「第三座豊比命は、神武天皇の外祖母、住吉大神の御母にして、第三の峰に鎮座」
とあるという。神武の外祖母とは父・ウガヤフキアヘズを生んだ海神の娘・豊玉姫を指すのだろうが、単なる名前の類似からくる付会であって、トヨタマヒメとトヨヒメを結ぶものはない。また住吉大神の母というのも、住吉三神は黄泉国から帰ったイザナギが筑紫のアワギ浜で禊ぎしたとき生まれたとする出自(記紀神話)からみて、いかに神話伝承の世界とはいえ疑問がある。
 豊比【口羊】とは、字面からみれば“豊国の比売神”を指意味する一般名称であり、それは豊国の地主神”ともいえる。ただ古代の豊国には、渡来人特に新羅系秦氏が盤踞していたから、豊国の地主神を新羅系とみてもおかしくはない(豊国−−福岡県東部から大分県一帯を指す古い国名)。

神の子羊(神の小羊、かみのこひつじ)は、イエス・キリストのことを指す表現のひとつ。 ... http://ja.wikipedia.org/wiki/神の子羊.

「山羊のパーン」
パーン (ギリシア神話) - Wikipedia
恐らく、言語上の誤解はホメーロス風諸神賛歌のなかの『パーン賛歌』(第19編)から 始まったのだろう。『賛歌』によれば、パーンはドリュオプスの娘、あるいはニュムペーと ヘルメースの間に生まれたが、山羊の脚、頭に二本の角を生やすという奇妙な姿をし てい ... http://ja.wikipedia.org/wiki/パーン_(ギリシア神話)
パーンは羊飼いと羊の群れを監視する神で、サテュロスと同じく四足獣のような臀部と脚部、山羊のような角をもつ(→獣人)。何者がパーンの親かは諸説がある。父親はゼウスともヘルメースともいわれ、母親はニュムペーであるといわれている。
実際には古形「パオーン、Παων、Paon」(「牧夫」の意、現代英語のpastureと同じ接頭辞)から名付けられたものだが、ギリシア語の「パン」(「全ての」の意)としばしば誤って同一視された結果、パーン神は性格と名前が誘惑的なものと思われるようになった。

この神は原初に卵より生まれた両性の神で、原初神エロースの別名で、みずからの娘ニュクス(夜)とのあいだに初原の神々、すなわち大地(ガイア)と天(ウーラノス)を生み出した存在である(Protogonus/Phanes)。また「全て」という意味からアレクサンドリアの神話学者、そしてストア派の哲学者たちによって「宇宙全ての神」であると解釈されるようにもなった

卵から生まれた新羅(シルラ)の始祖. パジンチャン http://www.tv-aichi.co.jp/kandora/sondoku/beginner/glossary_1.html

新羅 - Wikipedia
卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越える頃には人となりが優れ ていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであっ たため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。 http://ja.wikipedia.org/wiki/新羅
新羅の前身である辰韓は秦韓とも呼ばれ、中国の秦の人が建てた国だから、新羅は中国民族が建てた国だと主張している

羊,山羊を飼育する畜産民は,子羊が生まれると,一年以内に雄は種付け 用を少し残し,後は殺して食べる。
日本に渡来したイスラエル族 その5 | 掲示板 http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1039
半島南端からの渡来民の総称で、その実体は秦氏と秦人であった。秦氏はイスラエル支族の1支流であり、秦人(ハタビト)とは、その支配下にあった諸民族、すなわち西域民族・ツングース族さらに半島在住の倭人らを含む雑多な人的集団を指したものである。ついでに言えば、月海は「朝鮮との連合国家」というが、国家的状態にない半島からの渡来民と、九州原住民との混住状態を「連合国家」というのは過言で、これも俗語として解すべきである。
羊,山羊を飼育する畜産民は,子羊が生まれると,一年以内に雄は種付け用を少し残し,後は殺して食べる。ごくわずかの雄を去勢して群れの先導役にさせる。それを人間支配の技術に転用するのが去勢の意味。シオン長老の議定書(プロトコール)第18議定書より。これこそがバーディシャー由来の人間家畜の管理術。
『キリスト教は,シリア社会に属していた人々を先祖とする民俗からきたものである。シリア世界の一半を形づくっていたイランは,ミトラ教を提供した。イシス崇拝は,エジプト世界の征服された北半分から来たものである。アナトリアの大母神キュペレの崇拝は,多分,当時,宗教を除く他のすべての社会的活動の面において,死滅してからすでに久しい時を経ていた,ヒッタイト(Hittite)社会からもたらされたものとみなされる』』

キュペレ' セラビスなどを崇拝する 「オ リ エ. ント的諸宗教」 (フランツ ・ キュモン) は: こ では一応, 議論に含めない。 古典期ギリ シ ..... ディ オニュソスは雄牛や若山羊という呼. 称を持ち, 伝承でもそう した姿になるとされ. ている。 ディ オニュソス祭儀では牛や山羊 ... http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/26204/1/rel00610.pdf#search='キュペレ 山羊'

このような角を生やした両性具有の半人半獣崇拝は、ギリシア神話の酒神・ ディオニュソス崇拝、山羊の生殖能力を奉るという自然宗教に端を発するものと考えられ ます。これが当時は、ローマ・カソリック教会から悪魔崇拝であるという非難を受けるよう になり、 ... http://www.nifty.com/nahdia/arcana16.html
ウェイト版の「悪魔」は、頭部と四肢は明らかに毛むくじゃら、ケダモノのそれで、コウモリに似た翼、山羊を思わせる角、ロバのような耳からは「有角神バフォメット」「魔王レオナルド」を彷彿とする人もいるのでは。

比【口羊】 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2537
比【口羊】神とは比売神(ひめのかみ)は、神道の神である。
http://m.weblio.jp/c/比咩神
大日孁貴尊(アマテラス)を比売神としている神社もある。

「口」の右に「羊」
神社の方が元は「姫」の意味だったのかは知りませんが。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2703399.html

山羊神、あるいは、祭司が角のつい た仮面をかぶって獣の扮装をして踊り、豊穣な獲物を願うような素朴なシャーマン信仰 ...
犠牲(生贄)のヤギ [編集]
ヤギは古くから犠牲にささげる獣(生贄)として使われることが多い。古代のユダヤ教では年に1度、2匹の牡ヤギを選び、くじを引いて1匹を生贄とし、もう1匹を「アザゼルのヤギ」(贖罪山羊)と呼んで荒野に放った(旧約聖書 レビ記16章)。贖罪山羊は礼拝者の全ての罪を背負わされ、生きたまま捨てられる点で生け贄と異なる。特定の人間に問題の責任を負わせ犠牲とすることをスケープゴート(scapegoat 生け贄のヤギ)と言うのは、これにちなんだ表現である。

悪魔のイメージとヤギ [編集]
バフォメットのイメージ
新約聖書(マタイによる福音書)では、ヤギを悪しきものの象徴として扱うくだりがある。ヨーロッパのキリスト教文化においては、ヤギには悪魔の象徴としてのイメージが強いが、これは、ギリシャ神話のパンやエジプト神話のアモンのような山羊神、あるいは、祭司が角のついた仮面をかぶって獣の扮装をして踊り、豊穣な獲物を願うような素朴なシャーマン信仰における森林神等、キリスト教の公教化とともに駆逐された先行宗教の、邪神化された“異教”神たちのイメージから来たものであろう。ここからやがて、バフォメットのようなヤギ頭の悪魔が考え出され、悪魔崇拝者が好んでヤギの仮面をかぶったりする。また、中世では、悪魔の化身としてのヤギに乗って空を飛ぶ魔女の版画などもある。
古くはイソップ寓話にも見るように、オオカミなどに食べられる被捕食者としての弱々しいイメージをもつが、その一方で、中国では、角の形から、ねじくれた性格の象徴にもなっている。

五月新羅人 李長行ら、羖轣羊二、白羊四、山羊一、鵞二を進む

故(カレ)ここに、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)に追ひ至りて、遥(ハロハロ)に 望(ミサ)け呼ばひて大穴牟遅神(オホナムヂノカミ) ..... この神は、近つ淡海国( アフミノクニ)の日枝山(ヒエノヤマ)に坐(イマ)し、また葛野(カヅノ)の松尾(マツノヲ)に 坐して、鳴鏑( ... http://kamnavi.jp/link/kojiki.txt

怨霊信仰とサタンの陰謀,穢れの思想,死穢
ところで、すでにシュメル時代に、白魔術と黒魔術が横行しており、法律で取り締まる ほどだった。 ... やはり大国主大神が逆手をして怨霊化するという、記紀の記述は怨霊 信仰を日本に定着させるめに改竄され、ここを基点として聖徳太子を怨霊として封じ、 仲哀 ... http://bewithgods.ddo.jp/hope/doc/2-6.html




1241秦野北斗:2013/02/18(月) 18:47:20
蝦夷塚
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001270M.jpg

蝦夷塚には意味があるが・・

白村江の戦い以後、俀国(瑞穂の国)と日本を統合し名前を日本にしている。

原因は唐に俀国(瑞穂の国)を倭国に改名させられた。もともと、倭国は俀国(瑞穂の国)
の属国の名を押し付けられた。プライドに傷が付いた。

用明天皇は「会稽東冶の恥・・」の言葉を残している。

日本は東北になり、進めたのは平氏だろうな。当時の地図を添付。

まあ、新羅と平氏は良く似た物で新羅建国まで遡れば理解できまっせ。

どこかの偉い人は、百済から文化が来たなどいっているが、属国なんですな。本末転倒。



『唐会要』倭国・日本国伝

 永徽五年十二月。遣使獻琥珀瑪瑙。琥珀大如斗。瑪瑙大如五升器。高宗降書慰撫之。仍云。王國與新羅接近。新羅素為高麗百濟所侵。若有危急。王宜遣兵救之。倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。頗有絲綿。出瑪瑙。有黄白二色。其琥珀好者。云海中湧出。

 永徽五年(654年)十二月。遣使が琥珀(こはく)と瑪瑙(めのう)を献上した。琥珀の大きさは一斗升の如し。瑪瑙の大きさは五升器の如し。高宗は降書を以てこれを慰撫した。
 なお言うには、倭王の国は新羅と近接している。新羅は平素から高句麗や百済を侵略し、もし危急が生じれば、倭王は宜しく派兵してこれを救う。
 倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼の三国がある。いずれも倭に従属している。北は大海が限界、西北は百済と接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相接する。絹糸と綿がよく採れる。瑪瑙を産出し、黄白の二色がある。そこの琥珀は逸品である。雲海の中で湧き出る。
 咸享元年三月。遣使賀平高麗。爾後繼來朝貢。則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。

 咸享元年(670年)三月。遣使が高句麗平定を祝賀。以後は続いて朝貢に来る。則天武后の時、自ら言うには、その国は日の出る所に近い。故に日本国と号する。思うに、その名が雅でないことを憎み、これを改名したのであろう。




1242管理人:2013/02/18(月) 22:06:01
Re: 蝦夷塚
秦野北斗さんへのお返事です。


そう、この「〜へのお返事です」なんですが、キシさんとか、他の人へのお返事も面倒な場合併せていたりするので、あまりきにしないようにしてください。便宜上のものです。

> 蝦夷塚には意味があるが・・
>

> 日本は東北になり、進めたのは平氏だろうな。当時の地図を添付。
>
> まあ、新羅と平氏は良く似た物で新羅建国まで遡れば理解できまっせ。
>
> どこかの偉い人は、百済から文化が来たなどいっているが、属国なんですな。本末転倒。

>  咸享元年三月。遣使賀平高麗。爾後繼來朝貢。則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。
>
>  咸享元年(670年)三月。遣使が高句麗平定を祝賀。以後は続いて朝貢に来る。則天武后の時、自ら言うには、その国は日の出る所に近い。故に日本国と号する。思うに、その名が雅でないことを憎み、これを改名したのであろう。
>



それで、ちょっと今年は日本に移住した高句麗・新羅人の件について考えを進めたいと思います。

美濃の新羅郡、新座や、高倉郡、高麗郡、多胡郡いろいろあります。

それで多胡郡のやや東方を拠点にした羊大夫伝承の件があります。

中臣羽鳥連の子孫で藤原姓を名乗ってますね。
討伐された羊大夫を藤原不比等する説もあります。

http://www2.ocn.ne.jp/~jamesmac/body270.html


この辺は会報第2号で詳しく論じたのですが、群馬の八角墳の方位ラインに関わってくるんです。
八角墳というのは、皇族と中臣鎌足の墓しかないんですね。


もとは高句麗墳墓の八角形構造で、さらに遡ると石窟寺院の八角天井、そしてキリスト教の八角天井へと連なって行く流れなのですが、その群馬に羊大夫の墓という伝承がありまして、そこから遣唐使のものと思われる十字架が出たという話を、江戸時代の平戸藩主松浦静山が2箇所も書いてます。

それで、当時彼らはその十字架を遣唐使人か秦氏が持ってきたものだと推理しているのですが、江戸時代からすでに秦氏がキリスト教徒だと思われていた節があって、広隆寺に黒い十字架があったというマリオマレガ文庫に保存された戦国時代の宣教師の記録もあるんですね。

そういうわけで、羊大夫伝承とか、そばにいた羽の生えた空飛ぶ従者がペガサスだといわれるのも、それなりにつながるところがあるのではないかと考えてます。

ただ、高麗郡の若光が、羊大夫を讒言したという伝承記載があって、この辺はちょっと不可解なのですが、多胡郡と高麗郡が別に設置された理由は、高麗人と多胡(オオコ)人に少し相違があった可能性を感じます。ゾグド人を胡人と中国では呼びましたから、その辺も関係するのかなとも感じるのですが、一方その辺に平氏も関わってくることは、先日お話したとおりです。源氏は新羅に関わる。

高麗郡、多胡郡は、もともと元明・元正時代からすでに関わりがあって、それ以前の不比等時代にも関わりが深いので、多胡碑に不比等が出てきたりするのですが、それが一方で多治比氏と関わりながら、桓武・嵯峨時代まで影響していくのですね。

今年はこの辺の流れの中で、先の関東・東北の古墳や遺跡の関係をまじえて、源平や関東の歴史を追っていきたいと思います。

1243管理人:2013/02/18(月) 23:11:46
Re: 蝦夷塚
管理人さんへのお返事です。

更に言うと、会報第3号でかきましたが「多胡」は北方の「大胡」と方位ライン、つまり区画的に結ばれておりもとは「オオコ」という集団名称だったと考えてます。

どうも大胡方面は、ユダヤ?っぽい遺物が多く出るという噂も多いですね。何がユダヤっぽいのかわからないのですが、ゾグド人が多かったキリスト教と関係するのではないかと感じます。そばにいろいろ宗教的遺跡跡があります。

ただ、なぜゾグド人が「胡」だけではなく「大・多」をつけるのかが、課題なのですが、新漢人系、さらには継体系譜などでもそれらの文字を呼称としてつける傾向が強くみえてきます。「オホ」「オヲ」をなぜその集団は重視するのか?この辺が大きな言語面での課題といえるでしょう。

なおペルシアのことを多治や大食といいます。福島の横穴墓から、その大食調の法器が出ているのですが、横穴墓が吉士や新漢人と関わります。多治比氏やさらには坂東平氏とも関わって行きます。

1244棘の紀氏:2013/02/18(月) 23:50:14
チャン族のトーテムは「羊」
蝦夷 夷エミシ エビス 羌・・・、“上下に假(いた)る。”」

えび#1
音読みカ


叚 ( か ) 。方言、八に北燕・朝鮮の語であるという。
字源
不詳(説文解字等。「又(=手)」は動作を表す意符であり、この他は「二」印のものを覆い隠す様を表す会意文字(藤堂)、山から切り出した磨く前の玉の原石(白川)などの説あり。「覆った」「本物でない」「余分な」「余計な」「一時的な」「(本物より)大きい」の意がある。「借りる・貸す」の意は「一時的にやり取りすることからか。」
[編集] 派生字
「覆った」「本物でない」「余分な」「余計な」「一時的な」「(本物より)大きい」
假(=仮):顔を覆って(=仮面)本物でない人

?:牡おすの豕いのこなり、豕に従ひ、叚を聲とす。 http://jigen.net/kanji/35949


仮(カ、ケ、かり) - 命名字解=めいめい-じかい - FC2http://mei2jikai.blog113.fc2.com/blog-entry-88.html
従人叚声。一曰至也。『虞書』曰:“假于上下。”=真(まこと)に非(あら)ずなり。“人”と“叚 (カ)”から成り立ち、“叚(カ)”を音とする。 ... さて、假という漢字を構成する“叚(カ)”の 成り立ちと字義だが、辞典に記される解釈は大別すると二つに別れる。
、“叚(カ)”を音とする。一つ[の説として]曰く、至るなり。『虞書(グショ)』に曰く、“上下に假(いた)る。”」と記す。
“叚(カ)”の成り立ちと字義だが、辞典に記される解釈は大別すると二つに別れる。
その一つは、岩から切り出した瑕玉(カギョク:きずのある玉石、赤い玉)・璞玉(ハクギョク:あらたま、掘り出したばかりの玉石)で表すとする解釈である。成形前の未完成の玉石ということから、仮の状態を意味するとしている。
二つ目は、上から布や皮を垂らして中の物を被(おお)うさまを表すとする解釈である。

瑕玉(カギョク:きずのある玉石、赤い玉)

赤玉. 舜は、褒美として禹へ玄圭(赤黒い玉)を与えました。 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2455

蝦(カ、えび)は甲殻で中身を被った状態。
瑕(カ、きず)は、玉石本来の輝きを損なっている状態。

[1]かり(仮)。内容が明らかでなかったり定まっていないこと。仮面。仮説。
[2]真実とは違ったもので表面やうわべを取り繕う偽りの状態。仮の姿。
[3]かりる。一時的に借用する。仮に使う。
[4]かす。一時的に貸す。仮に与える。
[5]仮に。一時的に。
[6]いたる。「『虞書(グショ)』に曰く、“上下に假(いた)る。”」が典拠になった。

羊頭の人の象形
羌とは (キョウとは) http://dic.nicovideo.jp/a/
意味西方の異民族である羌族のことをいう。また楚の方言で感動詞として使われる。また、すなわち、という意味がある。〔説文解字・巻四〕に「西戎、牧羊人なり」とある。字形諸説ある。〔説文〕は羊+人の会意で牧羊民族の意としている。ほかに羊頭の人の象形で羌族を表すとする説などがある。羌族は山岳信仰で羊頭の神を祀ったと言われている。〔説文〕は「南方の蠻閩、虫に從ひ、北方の狄は犬に從ふ。東方の貉、豸に從ひ、西方の羌、羊に從ふ」と、異民族の名には獣を表す字を含むとしている。殷の近くにいた民族であり、卜辞には羌族を征伐する、羌族を捕らえる、羌族を生贄に捧げるという文がよく見られる。音訓音読みは、キョウ(漢音)、訓読みは、ああ、えびす。

羗は、〔字彙補〕に羌の俗字とある。日本語では、キョンという意味がある。〔字彙補〕には羐の異体字とある。

求は獣の象 形
救とは (キュウとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
また絇と通用して履の頭の飾りという意味がある。 〔説文解字・巻三〕には「止むるなり」 とある。〔爾雅・釈器〕に「絇を之れ救と謂ふ」とある。 字形: 求+攴の会意。求は獣の象 形で、攴は叩くという意味。白川静は、求は呪霊をもった獣で、これを叩くことで呪詛から ...

羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里_人民中国
説文解字』の解釈では、「羌は、西戎の牧羊人で、人と羊からなる」とあり、羌の字は人と 羊の組み合わせと説く。 チャン族は、長く移動する間に、2大系統に分かれた。1系統は 東へ向かい、東部の先住民と融合し、漢民族文化を開く先駆けとなっ ... http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-11/09/content_228967.htm
羌(チャン)人は、まさに羌笛を吹く人の先祖である。もちろん、2008年、大地震に襲われた阿壩チベット族チャン族自治州のチャン人の先祖でもある。
チャン族は、歴史の極めて長い山地民族であり、紛れもなく華夏族すなわち中華民族の重要な源のひとつであろう。『説文解字』の解釈では、「羌は、西戎の牧羊人で、人と羊からなる」とあり、羌の字は人と羊の組み合わせと説く。
チャン族は、長く移動する間に、2大系統に分かれた。1系統は東へ向かい、東部の先住民と融合し、漢民族文化を開く先駆けとなった。『帝王世紀』には「伏蒙は成紀に生まれる」とある。「伏蒙」は三皇(中国最古の三人の皇帝。ほかの2人は神農と黄帝)の1人目で、「成紀」は今日の甘粛省南部天水地区、古くは「方羌の地」とされる。

「羌」と「姜」が同じ文字であるかを説明している。ここから今日我々がいう炎黄子孫は、実はチャン人の末裔であると分かる。
『史記・六国年表』には「禹は西羌に興る」とあり、また『孟子・離婁下』には「文王は歧周に生まれ、畢郢で没す、西夷の人である」とある。西夷は間違いなく西羌のことである。そこで歴史学者の翦伯賛氏は「炎帝の姓は姜……西戎チャン族の一系統で、西から遊牧して先に中部に入る」という。彼は秦人の源を論証して、秦は東遷したチャン人と中原の人の末裔であると説く。「秦の祖先は戎である」という言い方もここから来ている。
イ族・ダイ族・ハニ族などもチャン族の末裔
チャン族のもう1系統は、西南へ移動した。今日の中国西南部のイ族(彜族)、ダイ族(?族)、ぺー族(白族)、ハニ族(哈尼族)などは、歴史の記載と風習からみて、チャン族の末裔であろう。
イ族は「羅羅」と自称するが、『山海経・海外北経』に「羅羅」の記載がある。『漢書・地理志・張掖郡・番和』ではチャン人を「羅虜」と呼び、『大明一統志』では四川省のイ族を「羅蛮」、雲南省西部のイ族を「羅羅」と呼ぶ。『華陽国志』も『後出師表』も雲南省、四川省、貴州省のイ族を「青羌」と呼ぶ。『蛮書』ではイ族の先祖は「羌虜」であるとさらにはっきりと指摘している。典籍を調べれば、「羌戎」と「羅羅」は実際には同一であることが分かる。

中国の倭人は古代チャン人と中国西南地域の先住民との末裔であると思っている。チャン人の優秀な文化を受け継ぎ、発展させた。日本民族の源流が雲南であるかどうかは、わたしは研究したことがないので、勝手な結論を下せない。ただ、チャン文化は東方の民族に無視できない貢献をしたのは確かだと思う。文化の共通性は、各民族がたえず文化を融合させることによって、歴史を動かし文明社会に向かって発展してきたのである。この点から見れば、中華文化だけではなく、日本文化にもチャン人の知恵が浸透していったと考えている。
徐福と吉野ヶ里とチャン文化

甲骨文字では、「羊」と「羌」は同義語で、チャン族は「羊族」とも言われ、そのトーテムの 中にも羊がある。 http://j.people.com.cn/94475/8073944.html
中国の学者「中国人は『羊の子孫』」と主張
黄教授によると、中華民族の祖先とされている四川省一体に住む少数民族羌(チャン)族に関する記載は、古く殷代(紀元前17世紀頃-紀元前1046年)の甲骨文字の中に見られる。甲骨文字では、「羊」と「羌」は同義語で、チャン族は「羊族」とも言われ、そのトーテムの中にも羊がある。
 さらに、古代中国の「羊」と関係する文献・資料を見てみると、「羊」という文字には豊富で非常に深い文化的意味が付与されていることが分かる。例えば、「美学」の「美」、「吉祥」の「祥」、「榜様(模範の意)」の「様」、「善良」の「善」、「義」などすべてに「羊」という字が含まれている。「義、善、美、吉祥、模範」などの象徴として、文字文化に烙印を押しているのだ。
 黄教授は、「これらの文字は、中国人の哲学において、非常に奥深い意義がある」とし、「義」の中の「羊」は崇高であることを、「善」の中の「羊」は「道?」を、「美」の中の「羊」は「美」を、「様」の中の「羊」は「模範」を、「祥」の中の「羊」は「吉祥」を象徴していると指摘する。

 黄教授はさらに、「様」という文字に対して独自の解釈を持ち、「中国人は積極的に唱道している『榜様』の『様』の木へんは自然界の『十字架』と見ることができる。『十字架の上の子羊』の象徴と見なされたイエスキリストがクリスチャンから『神の子』として敬慕されているのと同じで、我々が見習うべき模範なのだ」と説明。「東洋と西洋の文化にも共通点があるのは、とても興味深い」と語っている。 http://j.people.com.cn/94475/8073945.html

様 佯 さまよう  http://blog.goo.ne.jp/kanji-circle/e/cd59bb18fcb2c9d6c99478ea24a2bf94
氐”は「いたる・行きつく」の意味。・・・氐族
鉄製造技術の伝道と共に渡来した羌族・氐族(現在のチャン族) - いにしえ ... http://blogs.yahoo.co.jp/hs_anriver/10215929.html
戦国時代を統一した秦の始皇帝は、羌族や氐族を優遇していたが、漢の時代になって、弾圧を受けるようになり、その一部は山東半島に移住し、朝鮮半島から鉄製造技術をもって、日本に渡来したと考えられる。


1245管理人:2013/02/19(火) 19:42:15
Re: チャン族のトーテムは「羊」
棘の紀氏さんへのお返事です。

> 蝦夷 夷エミシ エビス 羌・・・、“上下に假(いた)る。”」

>??叚 ( か ) 。方言、八に北燕・朝鮮の語であるという。
> 字源
>??不詳(説文解字等。「又(=手)」は動作を表す意符であり、この他は「二」印のものを覆い隠す様を表す会意文字(藤堂)、山から切り出した磨く前の玉の原石(白川)などの説あり。「覆った」「本物でない」「余分な」「余計な」「一時的な」「(本物より)大きい」の意がある。「借りる・貸す」の意は「一時的にやり取りすることからか。」
>


この「叚 」は、東漢人の配下に入った新漢人の七姓漢人の1姓にみえます。通説では「段」姓だとしているのですが、文字は「叚 」「政とするケースもあります。段姓は高向玄理の祖先です。


調べると具体的には、姓氏録の高向村主の同祖の「郡首」の条文で、「叚姓夫公、一名富等」とあるのですが、この「富等」というのが、おそらく継体系譜の『上宮記』逸文の「乎富等大公王(をほどのおおきみ)」に見えるような、「オド」「オオ」「ヲホ」といった新漢氏特有の音に呼称につながるようにみえますね。


それで新漢氏が北燕遺民であることは明らかなのですが、段姓については、継体朝に百済から派遣された段陽爾や鮮卑段部を考慮する必要がありそうです。


段楊爾 だん-ように

?−? 百済(くだら)(朝鮮)の五経博士。
継体天皇7年(513)百済から来日。任那(みまな)に派遣されていた穂積押山(ほづみの-おしやま)が帰国するときに同行したという。10年漢高安茂(あやの-こうあんも)と交代。百済から日本に交代で赴任した最初の五経博士とされる。


ただ、この段氏は本国に帰国した可能性があるので、高向村主と関係あるかどうか微妙です。

郡首の郡(コオリ)が、半島系とみると、漢高安茂は、その「漢」がつまり「穢」のことで、当時百済に流入していた大漢国の穢人、つまり北燕遺民等と見るべきかと感じます。

そうすると段姓も、その関連になりそうですが「漢」がついてないので、もしかすると違う系統かもしれません。

これらの七姓漢人は東漢氏の中に入るのですが、東漢氏の系譜というのが、興味深くて、その祖先の石秋王というのが、山東半島にいた山陽公の劉秋、つまり後漢献帝の子孫で献帝時代から山陽公です。

劉秋の時代の309年に滅ぼされて、おそらく一時離散するのですが、東晋時代になってその劉秋の子孫を捜索しています。

東晋になる際に、南燕が滅んで山東半島が東晋の支配下に戻ったことがその要因になっているのですが、この前後でおそらく東漢氏の祖先の製鉄集団が、東晋の配下に入り、さらに百済、そして倭へと向かったことでしょう。


http://ja.wikipedia.org/wiki/

それで、東漢氏が遊牧民系の習俗を多く持つ件なのですが、丁零つまりトルコが、中国内陸に入り込んでこのころ活動していることがあります。


丁零族の翟氏は代々康居に住んでいたが、後に中国に移住し、翟斌(てきひん)の代になって後趙に臣従した。前秦の苻堅が華北を統一すると、翟斌ら丁零族は前秦に臣従し、新安郡,澠池郡に移住した。383年12月、前秦の衛軍従事中郎となっていた翟斌は河南で挙兵し、前燕復興を目論む慕容垂らと合流して前秦に反旗を翻した。384年、前秦から独立した慕容垂は後燕を建国し、翟斌を建義大将軍・河南王とした。しかし翟斌はまもなく後燕に対して反乱を起こしたため、慕容垂から斬首された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/

後趙がコーカソイド系集団を多く引き入れていたことも確かで、関係して翟魏の民が見えるのですが、これがまた徐州つまり山東半島南西部と関係してくる。

慕容垂は偽の兵をつかって翟釗の注意を引き、その隙に渡河を成功させた。これを聞いた翟釗は妻子と数百騎を連れて北の白鹿山に奔走した。慕容農はこれを追撃してその衆を捕えたが、翟釗のみは単騎で西燕の長子に奔走した。慕容垂は翟釗の統領していた七郡3万8千戸を以前のように処遇し、徐州の流人7千数戸を黎陽に遷した。翟釗は西燕の君主慕容永に救いを求めて西燕に降り、慕容永から車騎大将軍,東郡王に封ぜられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


丁零族の翟氏は代々康居に住んでいたが、後に中国に移住し、翟斌(てきひん)の代になって後趙に臣従した。前秦の苻堅が華北を統一すると、翟斌ら丁零族は前秦に臣従し、新安郡,澠池郡に移住した。383年12月、前秦の衛軍従事中郎となっていた翟斌は河南で挙兵し、前燕復興を目論む慕容垂らと合流して前秦に反旗を翻した。384年、前秦から独立した慕容垂は後燕を建国し、翟斌を建義大将軍・河南王とした。しかし翟斌はまもなく後燕に対して反乱を起こしたため、慕容垂から斬首された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

後に高車とも呼ばれますが、チャリオット文化のことで、もしかすると一部は月氏系とも関わるかもしれません。

たぶん、この辺の遊牧民系の製鉄・騎馬集団を取り込んで、東晋時代に山東半島経由で百済にわたり、応神朝に国家レベルでの交渉下における軍事技術者の贈与の関係でやってきたのが、東漢氏ではないかと感じます。

1246棘の紀氏:2013/02/20(水) 21:04:20
Re: チャン族のトーテムは「羊」
管理人さんへのお返事です。

>通説では「段」姓だとしているのですが、文字は「叚 」「政とするケースもあります。段姓は高向玄理の祖先です。
高向 玄理(たか むこ の くろまろ、生年不詳 - 白雉5年(654年))は飛鳥時代の学者。高向古足の子。姓 は漢人のち史。冠位は大錦上。 高向氏は魏の曹操の末裔を称する渡来人の子孫。 http://ja.wikipedia.org/wiki/高向玄理
高向氏は高向氏は魏の曹操の末裔を称する渡来人の子孫。の曹操の末裔を称する渡来人の子孫。

段(だん)
1.高低の差があるところ。階段など。
2.区切り、段落。
3.時や、場合。
4.武術などで、技量によって決められる等級。段級位制を参照。
5.近世邦楽、特に三曲の音楽である地歌、箏曲、胡弓楽において(特に段物や手事物)、器楽部分の楽章的区切りをいう。
6.文楽、歌舞伎、及びその伴奏音楽である義太夫節などの浄瑠璃において、一幕を指す。
7.尺貫法における面積の単位。反とも表記する。1段・反 - 10 畝 - 991.7355 m2
8.将棋盤の横の列のこと。上から1段(目)、2段(目)…と数える。縦の列は筋と呼ぶ。
9.カメラにおいて変化させる露出の量。露出 (写真)を参照せよ。

「魏志倭人伝」倭国三十国. 北イスラエル十部族の移住. ガド、ダン、マナセ、ゼブルン. 倭国の大乱. 卑弥呼の女王国. 狗奴国=ガド部族の叛乱. 族長刺青の男. 参考サイト『古代日本とヘブライ一掃政策』へ http://www5b.biglobe.ne.jp/~nshzwtc/framepage50.htm
西澤:取り敢えず、発音の表記が確かなものでない以上、大雑把な仮定ですが、最初の「奴国」は、ダンに充てたものと思われます。
次の「華奴蘇奴」は、カドス・ダンに充てたもの、ダン部族。(後の解読に拠れば、華奴蘇奴は「焼畑」の意味に充てたものと判りました。)
「烏奴」の烏は、漢音ヲですから、「倭奴」と同じか、それに近い音と思われるのでユダに充てた表記かも知れません。(上付記同様に、烏奴は「警邏」の意味。)
当時の言語は、今日の日本語のように、アイウエオの従母音がはっきりしたものではなかったので、現在はユダと、発音していても、当時は、ヲドとも、ウェドとも、ウィド、或いはイウドとも受け取れるような音だったかも知れません。
最後の「狗奴」は、十中八九、ガドに充てたものです。ガド族は、島のユダ王国に敵対した部族として、隠蔽ヘブライ文にもあります。(狗奴は、「ガド」と「攻撃」の両方の意味が込められたもの。)
C:「魏志倭人伝」によると、「狗奴国」とは、卑弥呼の女王国に属さなかった国なんですね。
西澤:島のガド部族が、ユダ王国に敵対したのは、倭国の大乱といわれているその頃のことです。当時、刺青をした男が族長(那古)でした。
紀元前のカナンの地にあった時にも、ガド族は、十二部族中、最も戦闘的な部族だったと言われています。
「魏志倭人伝」の「狗奴国」は、九州にあったと思われますが、ガド族は上野の浅草周辺にも住み着いていたようです。
浅草神社の紋章は、山型に配置された三立網の紋章です。その配置は、ガド族の天幕の三立配置の紋章と酷似しているので、恐らく、ヘブライ一掃政策によって、天幕が網に変えられたものと考えられます。
C:今のお話にある、ガドや、ダン、マナセ、ゼブルンといった部族は、みな古代北イスラエルに属していた部族ですよね。ということは、北イスラエル十部族も移住して来たということですね。

ダン族というのはシンボルが蛇であり、聖書でも「・・・私はあなたの救いを待ち望む」と書 かれている。 基本的にダン族は邪悪で忌み嫌われる存在。 日本がドイツと同盟したの は、「ドイツ=イラン=日本」というライン、つまり秦氏のラインである。 http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-43.html
日本がドイツと同盟したのは、「ドイツ=イラン=日本」というライン、つまり秦氏のラインである。
現在はイランと北朝鮮が繋がっているが、これもダン族=秦氏のラインである。
かつて広島には秦王国があり、太平洋戦争を起こしたのも広島=秦氏。
だから広島に原爆が落とされる。
現在の広島は北朝鮮に支配されているが、秦氏=ダン族のネットワークで支配されている

メルカバ ダン族
七 文字のメタトロン(ミットロン)の秘儀(メルカバの秘儀)を形成した。⇒ダン「ユダヤ神秘 ... http://homepage2.nifty.com/Mithra/Mithraism_Metatron.html
ダン「ユダヤ神秘
ダン「ユダヤ神秘主義−歴史的概観」p130-131;ショーレム『ユダヤ神秘主義』p90-94 このユダヤ秘教派と密接に連動するように、パレスチナからシリア・クルディスタン・イラク にかけてのグノーシス運動の中で、ミトラ=メタトロン=ミカエルを秘 ... http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2850
このユダヤ秘教派と密接に連動するように、パレスチナからシリア・クルディスタン・イラクにかけてのグノーシス運動の中で、ミトラ=メタトロン=ミカエルを秘儀伝授者とする偽典黙示録がつくられた⇒上記「ミトラ、メタトロン、ミカエル、エノクをつなぐ資料」。
http://homepage2.nifty.com/Mithra/Mithraism_Metatron.html


> 段楊爾 だん-ように
>
> ?−? 百済(くだら)(朝鮮)の五経博士。
> 継体天皇7年(513)百済から来日。任那(みまな)に派遣されていた穂積押山(ほづみの-おしやま)が帰国するときに同行したという。10年漢高安茂(あやの-こうあんも)と交代。百済から日本に交代で赴任した最初の五経博士とされる。
>
>
> ただ、この段氏は本国に帰国した可能性があるので、高向村主と関係あるかどうか微妙です。
>
> 郡首の郡(コオリ)が、半島系とみると、漢高安茂は、その「漢」がつまり「穢」のことで、当時百済に流入していた大漢国の穢人、つまり北燕遺民等と見るべきかと感じます。
>
> そうすると段姓も、その関連になりそうですが「漢」がついてないので、もしかすると違う系統かもしれません。
>
> これらの七姓漢人は東漢氏の中に入るのですが、東漢氏の系譜というのが、興味深くて、その祖先の石秋王というのが、山東半島にいた山陽公の劉秋、つまり後漢献帝の子孫で献帝時代から山陽公です。
>
> 劉秋の時代の309年に滅ぼされて、おそらく一時離散するのですが、東晋時代になってその劉秋の子孫を捜索しています。
>
> 東晋になる際に、南燕が滅んで山東半島が東晋の支配下に戻ったことがその要因になっているのですが、この前後でおそらく東漢氏の祖先の製鉄集団が、東晋の配下に入り、さらに百済、そして倭へと向かったことでしょう。


1247管理人:2013/02/20(水) 21:58:35
Re: チャン族のトーテムは「羊」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001278M.jpg

http://www.baike.com/wiki/



1248管理人:2013/02/20(水) 22:14:38
Re: ブラボー  管理人さん
棘の紀氏さんへのお返事です。

> 「渡来人研究 (弟4号l プレ版)」拝読(流し読み デスガ)・・・スバラシイ 論文!


ありがとうございます。たぶん秦野さんの家のポストにも入っているはずです。

他の方にもお贈りしたいのですが、今回は少数印刷だったので、とりあえず今回の会報も含めて、すべての会報は国会図書館のほうに入れてありますので、お手数ですがそちらでご覧下さい。



1249秦野北斗:2013/02/21(木) 00:27:02
仁徳天皇陵は崇神天皇陵
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001280M.jpg

管理人さんへのお返事です。

たしかに、秦野の家のポストに入っていました。

国会図書館ですか、近い将来、大事になりますから賢明ですな。

仁徳天皇陵は崇神天皇陵と思われる。古墳時代の権力者は崇神天皇しかいない。

その他は垂仁、景行天皇、成務天皇が該当する。

方墳のがけ崩れから発見されたものは上の絵に示すように、石棺、鎧、兜、ガラスの器などであった。鎧兜は倭国の4〜5世紀の物とは思えない金属製(鉄か青銅製か定かではない)で、鎧も兜も鋲で繋いで成型されている。鎧はチョウツウガイで開閉して着用できるように工夫されていた。鎧も兜も下の絵が示すように、古代中近東の兵士が着ていた形そのものである。

欠史八代と卑弥呼

魏志倭人伝の女王国は女国の様だ。女王は卑弥呼と読み取れる。

鎧、兜は女国の物で日本国製。ガラスの器は卑弥呼がもたらしたローマガラス。

続けると、卑弥呼は開花天皇の孫で、開花天皇はフン族、匈奴になる。

意外でしょな。欠史八代は総て卑弥呼の家系でフン族、匈奴になり、日本国内に古墳はない。神武天皇も同様。

仁徳、応神天皇も同様と思われる。

> 棘の紀氏さんへのお返事です。
>
> > 「渡来人研究 (弟4号l プレ版)」拝読(流し読み デスガ)・・・スバラシイ 論文!
>
>
> ありがとうございます。たぶん秦野さんの家のポストにも入っているはずです。
>
> 他の方にもお贈りしたいのですが、今回は少数印刷だったので、とりあえず今回の会報も含めて、すべての会報は国会図書館のほうに入れてありますので、お手数ですがそちらでご覧下さい。




1250管理人:2013/02/21(木) 03:54:13
Re: 仁徳天皇陵は崇神天皇陵
秦野北斗さんへのお返事です。


> たしかに、秦野の家のポストに入っていました。

さっそくご確認ありがとうございました。
また秦野さんの次作も楽しみにしています!
こう論議を重ねて行くと原稿も溜まって行くものですね。
秦野さんもぜひ過去ログから次作の原稿に活用くださいね。

>
> 仁徳天皇陵は崇神天皇陵と思われる。古墳時代の権力者は崇神天皇しかいない。
>
> その他は垂仁、景行天皇、成務天皇が該当する。
>
> 方墳のがけ崩れから発見されたものは上の絵に示すように、石棺、鎧、兜、ガラスの器などであった。鎧兜は倭国の4〜5世紀の物とは思えない金属製(鉄か青銅製か定かではない)で、鎧も兜も鋲で繋いで成型されている。鎧はチョウツウガイで開閉して着用できるように工夫されていた。鎧も兜も下の絵が示すように、古代中近東の兵士が着ていた形そのものである。
>
> 欠史八代と卑弥呼
>
> 魏志倭人伝の女王国は女国の様だ。女王は卑弥呼と読み取れる。
>
> 鎧、兜は女国の物で日本国製。ガラスの器は卑弥呼がもたらしたローマガラス。
>
> 続けると、卑弥呼は開花天皇の孫で、開花天皇はフン族、匈奴になる。
>
> 意外でしょな。欠史八代は総て卑弥呼の家系でフン族、匈奴になり、日本国内に古墳はない。神武天皇も同様。
>
> 仁徳、応神天皇も同様と思われる。


応神陵の倍塚から、やはり北燕製の鞍が出ているようです。


龍文透彫鞍 [編集]

近年朝陽市北票県で発掘された喇嘛洞IIM101号墓から出土した龍文透彫鞍は大阪府羽曳野市誉田丸山古墳(応神陵陪塚)出土の2号鞍と細部に至るまでほとんどまったく同一で、丸山2号鞍は北燕の製品である可能性が高いことが判明した(リンク「さわらび通信」参照)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
珠金塚(しゅきんづか)
方墳で、盾塚の西側にある。墳頂には、組合せ木棺を納めた二つの粘土槨があった。一方の棺には、銅鏡、玉類、短甲、衝角付冑、鉄製刀剣、竹櫛、盾などがあり、もう一方の棺にも銅鏡、玉類、短甲、鉄製刀剣などがあった。甲冑はいずれも鋲留式(びょうどめしき)。玉類の中に金製丸玉のものがあった。鋲留めという新しい技術、金製品もそれ以前には稀なものである。
古市丸山古墳(ふるいちまるやまこふん)
円墳で、直径45メートルあり、円墳としては大規模。拝所の直ぐ近くにある。金銅製の鞍金具などの馬具(国宝、誉田八幡宮所蔵)が出土した。木製の鞍に金銅製の金具が綴じ付けてある。古墳出土の鞍の中でも最優秀品。横に連なった竜文の透かし彫りがある。伽耶(かや)高霊の古墳出土の文様に酷似しており、乗馬の道具が朝鮮半島からの舶載品を含んでいる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


ここで気になるのが、前者の鞍が北燕と同一という点です。後者のは大伽耶を経由しているように見えます。

近江の新開古墳のものなどは、朝鮮で1形式を置いた後の改良品とされていて、渡来年代も継体朝ごろと考えてます。

ところが、ダイレクトに来た系統があるとすると、気になるのが年代です。

北燕の年代が407年〜36年で、その遺民が半島に流れ込むのが、36年以降ですから、ダイレクトに南下した系統があるとすると、436年以降になるでしょう。

先の方位ライン面では、造山・応神・仁徳のラインは、それほど時間差がないと見てます。その先のナガレ山も同時代で、その先の崇神はだいぶ前の時代でしょう。

そうすると、少なくとも440〜50年代に、倭に北燕王族の一部が流入したとして、443年前後に倭王・済がたちますが、この済はそれ以前の讃・珍と血縁関係が表記されず、允恭と考えます。宿禰の称号をもち、元は家臣でしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

それで、元嘉暦がここで導入されるのも、中国系の影響だと思うのですが、皇后が意富富杼王の同母妹の忍坂大中姫で、この王朝から後の継体朝の血縁面での前提ができあがります。「オオ・オシ」の系譜です。新漢人、つまり北燕遺民と関わります。神功伝承にも関わるかもしれません。その北燕遺民の王族が、会報第2号で石川氏の北燕遺民説に関連して紹介した北燕王・馮弘の皇子が「王仁」というのですが、この「王」氏との兼ね合いも考慮すべきかと感じます。「ワウ・オウ」。近江系の和邇氏は少しつながりを感じますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/

会報第2号でその王仁の父・馮弘と新羅王墓の遺品に見える馮氏関連の人名について論じたとおり、新羅経由で渡ってきたはずで、それ故に允恭死後に新羅が弔辞を送る記載があるのだと感じます。

1251秦野北斗:2013/02/21(木) 21:41:24
Re: 仁徳天皇陵は崇神天皇陵
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001283M.jpg

管理人さんへのお返事です。

古墳の配置は3.71km間隔になる。時間がかかりましたな。

しかし、古墳距離は何を基準にしているか分からないな。

> 会報第2号でその王仁の父・馮弘と新羅王墓の遺品に見える馮氏関連の人名について論じたとおり、新羅経由で渡ってきたはずで、それ故に允恭死後に新羅が弔辞を送る記載があるのだと感じます。







1252管理人:2013/02/21(木) 22:33:15
Re: 仁徳天皇陵は崇神天皇陵
秦野北斗さんへのお返事です。

> 古墳の配置は3.71km間隔になる。時間がかかりましたな。
>
> しかし、古墳距離は何を基準にしているか分からないな。
>
> > 会報第2号でその王仁の父・馮弘と新羅王墓の遺品に見える馮氏関連の人名について論じたとおり、新羅経由で渡ってきたはずで、それ故に允恭死後に新羅が弔辞を送る記載があるのだと感じます。
>
>


おそらく応神・仁徳陵関連の距離は11.1kmだと思います。3で割ると秦野さんの3.71kmになるでしょう。

この尺は以前お話した三角縁盤龍鏡もしくは晋尺の直径で24.5cmです。
1歩が6尺で1.47m
1里が300歩で441mになります。1000里で441km
それで4で割った短里計算で111kmの10分の1
となるでしょうか。

仮に秦野さんの3.71kmが正しいとすると、さらにそれを3で割った数値になります。

120分の1となりますね。

超短里とされる秦野距離53KM(千里)と関係あるのでしょうか?

秦野距離は、以前お話したように、弥生後期時代の倭・半島尺度の158kmの3分の1で、104~5kmの前漢尺関連の短里尺かと考えてます。



1253青面金剛:2013/02/22(金) 00:20:26
Re: ディアスポラ(強制分散移住)
藤井游惟さんへのお返事です。

藤井さんの理論は、次の三つに大別されます。

1、[一定の社会状況においては、外部から侵入してきて、先住民を駆逐した征服民に、先住民の言語が「乗り移る」]

2、[政治権力者側の言語を話す人口が、先住民よりも圧倒的に多い場合は、「政治権力が命令すれば民衆の言語は取り替えられる」]

3、[政治権力者側の言語を話す人口が、先住民よりも少数ならば、第三の言語「クレオール」化が起こる。]


 神武の東征の際、大阪の地に於いて、長脛彦との大激戦が戦われました。最終的に神武が勝ち、長脛彦の兄・安日彦は津軽へ逃れる。神武天皇の時代には大和と摂津にしか、土蜘蛛は現れていません。

 では、神武による大和政権の樹立以後に、645年の乙巳の変までの期間に、近畿地方から関越線以南までの地域での言語は、上の三つのうち何れに当たるのか、明確にしてください。

 肥沃な平野部では1、俘囚地では2、農耕に適さない山間部では3と分けますか?

----------------------------------------------------------------------------------

 奈良は韓国語(新羅語)のナラ(国)。新羅は国立神宮を奈乙(ナウル)神宮と読んでいました。ナウルがナラに変化し、「ナラ(国)」になったのです。

【金容雲「日本=百済」説、P・38、三五館、2011年4月】

----------------------------------------------------------------------------------

> 私は日本語は稲作・金属器文明をもたらした渡来人の言語ではなく、先住民である南方系縄文人の言語であり、渡来人の父親と縄文人の母親から生まれた「弥生人」が母親の方の言語を受け継いだのだと言っているのであり、南河内方言も「先住民言語の影響を受け継いでいる」のは当たり前です。
>
> しかし、縄文人語を受け継いだ弥生人の言語には、朝鮮や中国から外来語がどんどん入り込んで変化していったのに対し、西九州の「土蜘蛛」、南九州の「熊襲・隼人」は辺境に在ったが故に弥生人との「暴力的同化」を500〜700年間免れ、その間に弥生人達の話す日本語と土蜘蛛や熊襲・隼人の話す日本語の間には一見外国語と思われるぐらいの大きな方言差が生じていた、というだけです。
>
> それは明治初期、琉球語と本土日本語には一見外国語と思われるぐらいの大きな方言差があったのと同じことです。 しかし、土蜘蛛語、熊襲・隼人語、琉球語はもともと日本語と同系言語であったために、中央政府の支配下に入れば、言語的な同化も早かったということです。
>
> >藤井さんの理論に、このディアスポラ(強制分散移住) の考え方を取り入れますと、「政治権力が命令すれば民衆の言語は取り替えられる」のです。
>
> 「政治権力が命令すれば民衆の言語は取り替えられる」のは、明治維新後の北海道のように、政治権力者側の言語を話す人口が、先住民よりも圧倒的に多い場合だけです。
>
> アテルイの降伏後、日高見国の住民数万人を主に西日本に強制連行し、官奴卑・私奴卑とし分散移住させたのは、その何百倍・何千倍もの日本語話者の海の中に蝦夷語話者を放り込み、「日本語が話せなければ生活できない」という環境を作り上げるためです。
>
> しかし、関越線以北の蝦夷の居住地域では、日本語を話す倭人よりも蝦夷語を話す原住民の人口の方が多かったため、何倍もの日本語話者で蝦夷を飲み込んでしまうということができず、故に日本語でもなく蝦夷語でもない第三の言語「クレオール日本語」が発生した・・・それが東北方言です。


1254管理人:2013/02/23(土) 03:45:03
Re: ディアスポラ(強制分散移住)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001286M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001286_2M.jpg

http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn5/005_03nihonngo_no_kigenn.html



1255秦野北斗:2013/02/23(土) 08:55:27
Re: 仁徳天皇陵は崇神天皇陵
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001287M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001287_2M.jpg

管理人さんへのお返事です。

古墳間隔は隋(晋)尺の10小里間隔の模様。

隋尺は晋尺(晉、しん、265年 - 420年)だろうな。
いい例が三角縁盤龍鏡は晋尺の直径で24.5cmだろうな。

魏志倭人伝の地名から当時は呉音が使用されていたので呉尺だろう。
長さは隋尺の1.2倍になる、呉尺の模様。

大宝律令の尺(秦野距離)は呉尺で隋尺の関係は1.2倍になる。

呉尺     隋(晋)尺
35.6 cm÷1.2=29.6 cm(大尺)
29.6 cm÷1.2=24.6 cm(小尺)

呉代、隋代の尺を里に当て嵌めるならば、大里、小里が存在する。

呉尺     隋(晋)尺
533.5 m(里)÷1.2=444 m(大里)
444 m(大里)÷1.2=370m(小里)

古墳は奈良の南別所付近から古墳間隔は3.705km(10小里)で古墳築造
古墳間隔は実側3.71kmとなる。 晋代頃に古墳造営?

『晋書』泰始二年・266年条に「圓丘方丘を并(ナラ)べ、二至の祀を南北の郊においてす」
と、日本神話の日本武尊、神功皇后三韓征伐の辛卯年(271年)が重なるんですな。

隋(晋)尺は古墳造営266年から使われていた模様。魏志倭人伝は呉尺で里を記録している実測。
陳寿は距離を測定していないのではないか。どうも、卑弥呼以前は呉尺で、壱輿から晋尺。
陳寿は卑弥呼に聞いた距離を記録した模様。また、地名は呉音の漢音表記だな。


1里=10短里になる。秦野距離、短里=53m

533.5 m(里)÷1.2=444 m(大里)

大宝律令の大尺
約35.6cm
高麗尺に由来。土地の計量など。
大宝律令の小尺
約29.6cm(小尺一尺二寸=大尺一尺)

漢代の尺
約23.09cm
隋代の大尺
約29.4cm
隋代の小尺
約24.6cm
唐代の大尺
約29.4cm
唐代の小尺
約24.6cm

追加です。弥生後期は(小里)ですな。弥生前期は呉尺だな。

弥生後期時代の倭・半島尺度の158kmの3分の1

158÷3=52.66 kmは(千小短里)斜辺に成っているな。

3.71×1.41=5.25 km (10小里)
52.5 km (千小短里)

弥生後期
3世紀(さんせいき)とは、西暦201年から西暦300年までの100年間を指す。日本では弥生時代末期から古墳時代初期にあたる。

>
> この尺は以前お話した三角縁盤龍鏡もしくは晋尺の直径で24.5cmです。
> 1歩が6尺で1.47m
> 1里が300歩で441mになります。1000里で441km
> それで4で割った短里計算で111kmの10分の1
> となるでしょうか。
>
> 仮に秦野さんの3.71kmが正しいとすると、さらにそれを3で割った数値になります。
>
> 120分の1となりますね。
>
> 超短里とされる秦野距離53KM(千里)と関係あるのでしょうか?
>
> 秦野距離は、以前お話したように、弥生後期時代の倭・半島尺度の158kmの3分の1で、104~5kmの前漢尺関連の短里尺かと考えてます。





1256ワープ:2013/02/23(土) 22:34:01
「天からの恵」
神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの 雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たして くださっているのです。 (使徒言行録 14章17節) http://sskocho.blog89.fc2.com/blog-entry-552.html

サンカラは、サンスクリット語でという意味があり、ここには 自然の恵み、食の恵み、居住空間の恵み、そのすべてが揃っています。 http://www.kumanolife.com/History/kenshi1.html
アサンガ
チベット語訳ではアサンガ(無著)とする。

瑜伽唯識論 アサンガ 無著

略称《瑜伽論》。著者は漢訳ではマイトレーヤ(弥勒),チベット語訳ではアサンガ(無著)と する。 http://kotobank.jp/word/瑜伽師地論

瑜伽 行基
我を瑜伽大権現として 祀るべし」と夢のお告げを受けた行基が、天平5年に開山したとの伝承である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/瑜伽大権現
「此の山は無双の霊地にして、梵刹を開き、三密瑜伽の行を行い、我を瑜伽大権現として祀るべし」と夢のお告げを受けた行基が、天平5年に開山したとの伝承である[1]。行基が阿弥陀如来・薬師如来の二尊を祀ったのが瑜伽大権現信仰の始まりと伝わる[2]。
五流修験道の本山である五流尊瀧院の長床縁由興廃伝によれば、瑜伽山は新熊野那智山とされ、五流尊瀧院(本宮)・諸興寺(新宮)・瑜伽山蓮台寺(那智)を新熊野権現3社としていた。

パキスタンの弥勒菩薩立像 - 熊野三山と熊野別当,そして世界遺産・環境 ...
この仏像は,パキスタンのガンダーラ出土の弥勒菩薩立像です。 クシャーナ王国時代(2 世紀頃)のものです。 弥勒菩薩立像は,失われた純正な仏法を立て直すために,将来, 出現する仏であり,ふだんは兜卒天上に住んでいる菩薩と考えられ ... http://blogs.yahoo.co.jp/shigeyoayumi/39862471.html

弥勒菩薩に興味があります。弥勒信仰には どのような 宗派なのですか ...
西暦300年頃、インドに弥勒という名の仏教学者がいました。 すぐれた大乗仏教僧には 敬称として菩薩号が使われます。 龍樹菩薩、世親菩薩、行基菩薩などなど。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1424606964

弥勒菩薩は、未来に下界に降(くだ)って仏となり、衆生(しゆじよう)を救うとされる菩薩 です。 ... の下で悟りを開き、摩訶迦葉(まかかしよう)から釈尊の衣を受け取り、三度 にわたる法会(ほうえ)で300億近くの人を迷いから救うとされます。 ... 弥勒という名は、 一般にサンスクリット語のマイトレーヤMaitreyaの訳語とされていますが、直接には インドのクシャン朝の貨幣に現れるミイロMiiroに由来すると思われます。 ... 西暦400年 ごろ法顕(ほつけん)はパミール山中で巨大な木造の弥勒像を目撃したことを旅行記に 記しています。 http://www.y-uruwashi.gr.jp/bosatu.html
ミイロはイランの太陽神ミスラMithraの方言的発音です。ミスラはインド古来の神ミトラMitraと起源を同じくし、Mitra(友)の派生語maitreya(情けある)を通じて、「慈氏」菩薩へと転化します。ミイロが貨幣に現れる比率は多く、クシャン朝下のミイロ信仰の隆盛がうかがわれます。ガンダーラで片岩で刻まれた水瓶(すいびよう)をもつ菩薩は弥勒と思われます。西暦400年ごろ法顕(ほつけん)はパミール山中で巨大な木造の弥勒像を目撃したことを旅行記に記しています。敦煌(とんこう)や朝鮮でみられる弥勒の交脚像、思惟(しい)像はすでにガンダーラに祖型があります。日本では中宮寺(奈良)と広隆寺(京都)の弥勒菩薩像が有名です。

ニューエイジとイルミナティー 666 .... この「キリスト」は、同じくユダヤ教徒、イスラム 教徒、仏教徒とヒンズー教信徒によって待ち受けられると言われ、同じくマイトレーヤ卿 として知られています、しかし彼は救世主、イマームマハディ、5番目の ... http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1513612.html
「キリスト」は、同じくユダヤ教徒、イスラム教徒、仏教徒とヒンズー教信徒によって待ち受けられると言われ、同じくマイトレーヤ卿として知られています、しかし彼は救世主、イマームマハディ、5番目の仏陀、あるいはクリシュナとしてそれぞれこれらの信者によって知られています。
ベイリーは世界宗教が始まることを非常に明確にします:「精神は古い宗教から消え、そして本当の精神的な光は、結局は自身を地球上の新しい世界宗教として現れる新しい形式に移しています。
ユダヤ教は古くて時代遅れで、そして分離しやすく、新しい宗教によってキリスト教の信頼が同じくその目的を満たしたとすれば、もっと良くない精神的志向の人たちのために本当のメッセージを持っていません;その創設者は新しい福音書とすべての人たちを啓発しようとする新しいメッセージを持って来ようと努めます」。
「テロリズム&イルミナティ」のカナダの著者、デイビッド・リビングストン自身の、Lucis トラストの役員メンバーは誰を含んでいるかという国際的なボードを通した彼の調査で明らかにしたのは:ジョン・D・ロックフェラー、ノーマン・カズンズ、ロバート・S・マクナマラ、IBMとモスクワへの元アメリカ大使のトーマス・ワトソン・ジュニア、ヘンリー・クローゾン、最高審議会、第33位階、南部 District スコットランド儀式の偉大な海軍中佐と、CFR 、ビルダーバーガーグループと3極委員会を含め、ベイリーの組織化を種々の円卓グループに結び付けているヘンリー・キッシンジャーです。
ニューエイジ運動の主張を調べて研究するとき、懐疑的で、軽べつすることはあまりに簡単過ぎます、しかし(過去の)「ミステリーバビロン」を更新したこの現代のバージョンで、前方へリードしているそれらは偉大で強力な人たちと一緒に機能しています。
ニューエイジ、この「精神的な目覚め」は、1つの世界政府に向かうイルミナティのゴールの1つに過ぎないかもしれません、しかしそれは主要なものであって、そして彼らの計画の中核となる要素であることが分かるかもしれません。


1257管理人:2013/02/23(土) 22:41:25
Re: 仁徳天皇陵は崇神天皇陵
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 古墳間隔は隋(晋)尺の10小里間隔の模様。
>
> 隋尺は晋尺(晉、しん、265年 - 420年)だろうな。
> いい例が三角縁盤龍鏡は晋尺の直径で24.5cmだろうな。
>
> 魏志倭人伝の地名から当時は呉音が使用されていたので呉尺だろう。
> 長さは隋尺の1.2倍になる、呉尺の模様。
>
> 大宝律令の尺(秦野距離)は呉尺で隋尺の関係は1.2倍になる。
>
> 呉尺     隋(晋)尺
> 35.6 cm÷1.2=29.6 cm(大尺)
> 29.6 cm÷1.2=24.6 cm(小尺)
>
> 呉代、隋代の尺を里に当て嵌めるならば、大里、小里が存在する。
>
> 呉尺     隋(晋)尺
> 533.5 m(里)÷1.2=444 m(大里)
> 444 m(大里)÷1.2=370m(小里)
>
>

先の尺が伸びる件がありましたね。この原因が未解明でした。




二、公定尺(曲尺)の導入

 中国で生まれた尺であるが、元々はアタと同様に手幅で計る尺度であった。これが、徐々に伸びて約30cm台の尺になった様である(その辺りの事情に関しては今回は触れない)。この尺を大尺、本来の短い尺を小尺とし、後者を儀礼用の物としていた。
 また土地を計測する為の尺として中国北部には長めの尺が存在し、これが日本では高麗尺と呼ばれたものの様だが、ハッキリはしていない様である。

 この三種類の尺が大陸から渡ってきたのが、いったい何時であったのかは分からないが、701年の『大宝律令』で制度化される。
(即ち「十分為寸」「十寸為尺」「一尺二寸為大尺一尺」「十尺為丈」)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/8740/column/doryoukou/doryoukou01a.htm#2



中国北方のほうが長い尺を使う傾向は、かなり昔からあったようですね。

中国北方のほうが高身長だというのは考慮すべきかもしれません。

先のとおり五胡十六国時代に、コーカソイド系を含めた北方遊牧民が徒民で流入するので、特に後趙のようなコーカソイド系のように、王族を中心に身長が高くなった可能性を感じます。それで手の指の長さが長くなり、尺度が伸びたということも考慮すべきかもしれませんね。

日本人の場合も、鎌足墓の鎌足の身長は結構高かったそうですね。



1258青面金剛:2013/02/24(日) 00:42:43
Re: ディアスポラ(強制分散移住)
管理人さんへのお返事です。

 カタカナはヘブライ語話者が殆ど其のまま読めてしまうことから、秦氏の考案によるものだと思われます。ひらがなは、「漢字の草書体から採った」と見せかけて、それまでの神代文字の特徴である、丸みを帯びた字体を残しています。これが当時の日本先住民の知恵でしょうか。

 蘇我大王家の時代には、銅鐸などに絵文字で標す記録方法も用いられました。

「秋津真神原入鹿高御座位」=飛鳥の宮殿にて宗我入鹿が大君(おおきみ)として即位された。

 【大羽弘道『飛鳥王朝の悲劇』p・161、光文社、昭和52年1月31日】


 蘇我大王家が倒された2年後、新潟に渟足柵(ぬたりのき)が造られます。つまり、それまでの蘇我大王家は、東国と友好的な交易を深めていた、と考えられます。

 篠田謙一氏は、古代に於いて、中部地方までが、蝦夷の勢力圏だったとされ、また安本氏は古日本語系は半島南部から由来しているとの考察です。


 神武の時代、飛騨や熊野にも、大和朝廷に抵抗を続けた先住民が居たとされます。新たな占領者は、ゲリラ戦を仕掛けられやすい山岳地を避けるものです。そのため、奥飛騨や奥熊野では、先住民の比率が高くなり、藤井さんの第3理論によると、クレオール化が起こる筈なのですが、現実にそうだと言えますでしょうか?

 また、大きな町を中心に据えた広域文化・経済圏を想定しますと、大きな町の中心部に於いては、2が適用され、中心部は政治権力者側の言語が支配します(中心部にも、河原沿いに先住民が住む場合がある)。

 ところが、其の周辺部に於いては、1の先住民の言語が乗り移り、さらに其の又、外側の山沿いでは、先住民の人口の方が多い事より、3のクレオール化が起ってしまう。そして、中心部の人口は次第に増加していく事から、言語のドーナッツ化現象が起きてしまう事に成りますが、果たして其の通りでしょうか?

 不動産市場に於けるドーナッツ化現象で、安い物件を求める若者の言葉がドーナッツ化する場合は有り得ますが、大きな都市の中心部と周辺部で、言語が食い違う、と言った例は、極めて少ないと思います。


 最新の遺伝子学では、父親のY染色体は、其れほど大きな役割は果たしていない、そうです。但し、現在の遺伝子学では、DNAの25%程度しか解明できて無く、残り75%を占めるジャンクDNAは未解明です。

 そのジャンクDNAの中に、人類が地球外に居た時代の記憶が残されているとも、黄泉の世界との交信機能が含まれている、とも言われています。

 密教の真言マントラなんかは、黄泉の世界からの力を引き出すものですから。

----------------------------------------------------------------------------------

> >??藤井さんの理論は、次の三つに大別されます。
> >
> > 1、[一定の社会状況においては、外部から侵入してきて、先住民を駆逐した征服民に、先住民の言語が「乗り移る」]
> >
> > 2、[政治権力者側の言語を話す人口が、先住民よりも圧倒的に多い場合は、「政治権力が命令すれば民衆の言語は取り替えられる」]
> >
> > 3、[政治権力者側の言語を話す人口が、先住民よりも少数ならば、第三の言語「クレオール」化が起こる。]
> >
>
> またまた面白そうな論議をなされていますね。
>
> 征服民がどのくらい被征服民の言語を取り入れたか、押し付けたかは、ひとつには、当て字や仮名文字の関係でわかるのではないでしょうか。
>
> 中国系渡来人が完全に倭人の言語を封殺したとすれば、万葉仮名は生じないはずですね。完全な中国漢文になっていたでしょう。
>
> そうはならなかったので、送り仮名とかいろいろ和風のそれ以前のものが残ってます。
>
> 同様な構造が風土記や東歌、あるいは記紀に引用された地方伝承の語彙から、わかってくるかもしれません。
> 日向神話には多くの南方系の習俗がそのまま記載されてますね。
>
> そういう意味では安本さんの語彙比較と分布や比率に関する研究は興味深いですね。
>
> http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn5/005_03nihonngo_no_kigenn.html
>
> 個人的には、やはり扶余語やその親元の遊牧民言語の影響が、もう少しあるんではないかなと感じますが、ただそれを解析するための方法の確立が課題ですね。
>
> 遺伝子との比較は、最も重要と思うのですが、言語の養育に際して、母系や父系の可能性をさぐるべきではないかと感じます。
>
> たとえば、乳児の言語教育は、おそらく母親のそれを学ぶでしょうから、文法構造などは特に母系になる可能性を感じます。
>
> 父親はあまり家にいませんが、言葉使いに関してある種の権限はあるかもしれませんね。
>
> 父系で考えるなら、父系継承のY染色体の比率が重要で、これはD系統が大半を占めており、ちょっと日本の場合は、異常なんです。縄文時代後期から末期に入ってきた新縄文人の遺伝子でしょう。次が江南系弥生人のそれで、遊牧民系に多いN、Q系統は若干数です。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>
> 母系で考えるなら、母系継承のミトコンドリアDNAの分布ですね。
> http://en.wikipedia.org/wiki/Human_mitochondrial_DNA_haplogroups
> http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_M_(mtDNA)
>
> 母系のミトコンドリアDNAは、原住民と渡来人の流入比率を比較的よく残しています。
> http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_08_1.mitochondria_karamita_sosennhtml.html
>
> おそらく下図のD系統が江南系弥生人、M系統が後期の大陸系縄文人、B・F系統が前期と思しき南方系縄文人+後にきた南方海洋民、N系統が遊牧民系でしょう。
>
> 図の引用元。
> http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_08_1.mitochondria_karamita_sosennhtml.html
>
> こうみると、2種の縄文人をプラスしたものが半数、弥生・渡来系が3分の1、遊牧民系が1割くらいでしょうか。
>
> 仮に先のとおり母系で言語が継承されるなら、上記の比率で言語の語彙も見えてくるかもしれません。
> ある意味安本氏のデータに近くなりますね。
>
> ただ、官人層の家系はいわゆる寺子屋教育的な部分があって、ぜんぜん異なっていた可能性も感じます。
> 特に近江周辺の新漢人の渡来人が遣隋・唐使で圧倒的な背景には、バイリンガル的な育ち方をしたこともあるでしょうし、中国語を交えた言語を話す特殊な地域だったかもしれません。奈良方面はどうだったんでしょうね。

1259管理人:2013/02/24(日) 02:32:01
Re: ディアスポラ(強制分散移住)
青面金剛さんへのお返事です。

>  カタカナはヘブライ語話者が殆ど其のまま読めてしまうことから、秦氏の考案によるものだと思われます。ひらがなは、「漢字の草書体から採った」と見せかけて、それまでの神代文字の特徴である、丸みを帯びた字体を残しています。これが当時の日本先住民の知恵でしょうか。
>
>  蘇我大王家の時代には、銅鐸などに絵文字で標す記録方法も用いられました。
>
> 「秋津真神原入鹿高御座位」=飛鳥の宮殿にて宗我入鹿が大君(おおきみ)として即位された。
>
>  【大羽弘道『飛鳥王朝の悲劇』p・161、光文社、昭和52年1月31日】
>

そうですね、仮名文字はどう見てもアラム系・ヘブライ文字でしょう。
アラム語とゾフド語にみえる送り仮名理論の応用だと思います。

蘇我・秦氏がもたらした可能性が高いですね。ゾグド系の流民が混じった弁・秦韓人の首長でしょう。
蘇我氏は半島の王族でしょうから、本来は日本の大王と対等な扱いをうけるべきだと考えていたはずです。
欽明・継体の正体も知っていて、今我々が思い描くような皇国史観で彼らを論じると蘇我氏の行動を理解できなくなります。幕府政治みたいな非常に無礼な家臣としか見えないでしょう。これも小学校時代からの皇国史観を前提として考えるという洗脳が抜けきってない証拠なんです。


>  蘇我大王家が倒された2年後、新潟に渟足柵(ぬたりのき)が造られます。つまり、それまでの蘇我大王家は、東国と友好的な交易を深めていた、と考えられます。
>
>  篠田謙一氏は、古代に於いて、中部地方までが、蝦夷の勢力圏だったとされ、また安本氏は古日本語系は半島南部から由来しているとの考察です。
>

遺伝子学者の意見が入り始めているのはいいことなのですが、ただそれに日本古代史が着いて行けてないのではないでしょうか。遊牧民系、欧米系の遺伝子が多いのに、古代史ではその辺に触れた研究がほとんどないので、遺伝子学者もその辺を迂回させて説明せざるをえないというのが実情でしょう。

縄文や蝦夷の歴史についても同様だと思いますね。蝦夷と本土人、弥生人、渡来人のDNAについて、古代史学会レベルで論議して古代史側の一般的な見解をださないと、遺伝子学者のほうが、先に見越して説明した結果、やや不完全なものが出来てくる可能性があります。ただ、古代史の研究をするのと同様に、遺伝子の研究を初歩から学んでそれを理解・応用するまでには、かなりの時間がかかるのが課題でしょう。


>  神武の時代、飛騨や熊野にも、大和朝廷に抵抗を続けた先住民が居たとされます。新たな占領者は、ゲリラ戦を仕掛けられやすい山岳地を避けるものです。そのため、奥飛騨や奥熊野では、先住民の比率が高くなり、藤井さんの第3理論によると、クレオール化が起こる筈なのですが、現実にそうだと言えますでしょうか?


縄文人の遺伝子が山間部に多い事は確かでしょう。ただ、クレオール化が起きるかどうかは、きっと藤井さんや、青面さんのような言語の専門家にしか解決できないことかと感じます。世界的な同様な事例を抽出しながら、推測するしかないのではないでしょうか。


>  また、大きな町を中心に据えた広域文化・経済圏を想定しますと、大きな町の中心部に於いては、2が適用され、中心部は政治権力者側の言語が支配します(中心部にも、河原沿いに先住民が住む場合がある)。
>
>  ところが、其の周辺部に於いては、1の先住民の言語が乗り移り、さらに其の又、外側の山沿いでは、先住民の人口の方が多い事より、3のクレオール化が起ってしまう。そして、中心部の人口は次第に増加していく事から、言語のドーナッツ化現象が起きてしまう事に成りますが、果たして其の通りでしょうか?
>
>  不動産市場に於けるドーナッツ化現象で、安い物件を求める若者の言葉がドーナッツ化する場合は有り得ますが、大きな都市の中心部と周辺部で、言語が食い違う、と言った例は、極めて少ないと思います。
>

私の地元の札幌や北海道の事例は面白いですよ。アイヌ語の影響はほとんどないですね。完全にテレビと学校教育で、東京方言と変わりません。訛りもほとんどないですよ。ただ、祖父の年代になると、東北からの移民が多いので、ズーズー弁になり、聞き取りにくくなります。その祖父の代と、先代あたりが入植者なのですが、彼らもアイヌの影響はあまり受けないようです。

おそらく人口比率や接する機会も少なかったのではないでしょうか。
むしろアイヌ側で、クレオール化が起こっていた可能性を感じます。なんというか、多数者側はあまり少数者側に考慮しない、少数者側のほうで影響を受けやすい、そんな予想を感じます。

だから、山間部でも強者側の集落では、平地部と同じで、弱者側は強者側の影響を被ったかもしれません。ただ、婚姻関係が両者に成立していったならば、そうではないケースが生じるような気がしますね。婚姻関係が、古代の両者においてどのようになっていたか?この辺ももっと明確に古代史側で提示しないといけないでしょう。


>  最新の遺伝子学では、父親のY染色体は、其れほど大きな役割は果たしていない、そうです。但し、現在の遺伝子学では、DNAの25%程度しか解明できて無く、残り75%を占めるジャンクDNAは未解明です。
>
>  そのジャンクDNAの中に、人類が地球外に居た時代の記憶が残されているとも、黄泉の世界との交信機能が含まれている、とも言われています。
>
>  密教の真言マントラなんかは、黄泉の世界からの力を引き出すものですから。


ジャンク部分には、人類の記憶があるという話を聴きますね。おそらくそのうちにに科学的に解明されるでしょう。シャーマン的な実験で、古代の人類の記憶を思い出すという話も聴きますが、今の遺伝子学では、自分の記憶は遺伝子に保存できても、親や祖先の記憶は遺伝されないという常識があって、それがつまり染色体のジャンク部分に、記憶を刻み付けれなかった場合の仮定なのですが、この辺は何とも言えない感じがしますね。案外「絶対」という理論はすくなもので、「例外的」なこともしばしばあるので、何につけても、のらりくらりと言い抜けるのが、今の時点ではベストな回答ではないかと考えてます。

シャーマン的な世界は、忌部の麻のケースみたいに、しばしばあったことで、おそらくは世界各地でシャーマンが見たものと同じものを、部分的には日本的な習俗に影響されながら、神話世界に体現している可能性も否定はできません。
それはもちろん縄文人や弥生人、渡来人においても、その遺伝子系統が同じ時点まで遡れば、どのシャーマンも同じものをみるはずで、少ないとは思いますが、たとえば天地開闢神話あたりに、出てくる可能性もなくはないですが、ただ、大陸系宗教文化の影響を、管理人的には重視してますけどね。実際はどうなんでしょうね。


1260秦野北斗:2013/02/24(日) 07:43:26
Re: ディアスポラ(強制分散移住)
青面金剛さんへのお返事です。

ところで、ディアスポラ(強制分散移住)させることが出来る権力者が居たのですか。
ジンギスカンでもできないな。無理、不可能。

カタカナはヘブライ語話者が殆ど其のまま読めてしまうことから、秦氏の考案によるものだと思われます。ひらがなは、「漢字の草書体から採った」と見せかけて、それまでの神代文字の特徴である、丸みを帯びた字体を残しています。これが当時の日本先住民の知恵でしょうか。
> > こうみると、2種の縄文人をプラスしたものが半数、弥生・渡来系が3分の1、遊牧民系が1割くらいでしょうか。
> >
> > 仮に先のとおり母系で言語が継承されるなら、上記の比率で言語の語彙も見えてくるかもしれません。
> > ある意味安本氏のデータに近くなりますね。
> >
> > ただ、官人層の家系はいわゆる寺子屋教育的な部分があって、ぜんぜん異なっていた可能性も感じます。
> > 特に近江周辺の新漢人の渡来人が遣隋・唐使で圧倒的な背景には、バイリンガル的な育ち方をしたこともあるでしょうし、中国語を交えた言語を話す特殊な地域だったかもしれません。奈良方面はどうだったんでしょうね。


1261秦野北斗:2013/02/24(日) 08:29:15
Re: 「天からの恵」
ワープさんへのお返事です。


この辺りの議論は後半になる。なんせ、今は韓半島でウロウロしているのが現状だな。

フン族、キリスト、密教、聖徳太子がからみますぞ。

> 神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの 雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たして くださっているのです。 (使徒言行録 14章17節)

>
> サンカラは、サンスクリット語でという意味があり、ここには 自然の恵み、食の恵み、居住空間の恵み、そのすべてが揃っています

> アサンガ
> チベット語訳ではアサンガ(無著)とする。
>
> 瑜伽唯識論 アサンガ 無著
>
> 略称《瑜伽論》。著者は漢訳ではマイトレーヤ(弥勒),チベット語訳ではアサンガ(無著)と する>
> 瑜伽 行基
> 我を瑜伽大権現として 祀るべし」と夢のお告げを受けた行基が、天平5年に開山したとの伝承である
> 「此の山は無双の霊地にして、梵刹を開き、三密瑜伽の行を行い、我を瑜伽大権現として祀るべし」と夢のお告げを受けた行基が、天平5年に開山したとの伝承である[1]。行基が阿弥陀如来・薬師如来の二尊を祀ったのが瑜伽大権現信仰の始まりと伝わる[2]。
> 五流修験道の本山である五流尊瀧院の長床縁由興廃伝によれば、瑜伽山は新熊野那智山とされ、五流尊瀧院(本宮)・諸興寺(新宮)・瑜伽山蓮台寺(那智)を新熊野権現3社としていた。
>
> パキスタンの弥勒菩薩立像 - 熊野三山と熊野別当,そして世界遺産・環境 ...
> この仏像は,パキスタンのガンダーラ出土の弥勒菩薩立像です。 クシャーナ王国時代(2 世紀頃)のものです。 弥勒菩薩立像は,失われた純正な仏法を立て直すために,将来, 出現する仏であり,ふだんは兜卒天上に住んでいる菩薩と考えられ
>
> 弥勒菩薩に興味があります。弥勒信仰には どのような 宗派なのですか ...
> 西暦300年頃、インドに弥勒という名の仏教学者がいました。 すぐれた大乗仏教僧には 敬称として菩薩号が使われます。 龍樹菩薩、世親菩薩、行基菩薩などなど>
> 弥勒菩薩は、未来に下界に降(くだ)って仏となり、衆生(しゆじよう)を救うとされる菩薩 です。 ... の下で悟りを開き、摩訶迦葉(まかかしよう)から釈尊の衣を受け取り、三度 にわたる法会(ほうえ)で300億近くの人を迷いから救うとされます。 ... 弥勒という名は、 一般にサンスクリット語のマイトレーヤMaitreyaの訳語とされていますが、直接には インドのクシャン朝の貨幣に現れるミイロMiiroに由来すると思われます。 ... 西暦400年 ごろ法顕(ほつけん)はパミール山中で巨大な木造の弥勒像を目撃したことを旅行記に 記しています
> ミイロはイランの太陽神ミスラMithraの方言的発音です。ミスラはインド古来の神ミトラMitraと起源を同じくし、Mitra(友)の派生語maitreya(情けある)を通じて、「慈氏」菩薩へと転化します。ミイロが貨幣に現れる比率は多く、クシャン朝下のミイロ信仰の隆盛がうかがわれます。ガンダーラで片岩で刻まれた水瓶(すいびよう)をもつ菩薩は弥勒と思われます。西暦400年ごろ法顕(ほつけん)はパミール山中で巨大な木造の弥勒像を目撃したことを旅行記に記しています。敦煌(とんこう)や朝鮮でみられる弥勒の交脚像、思惟(しい)像はすでにガンダーラに祖型があります。日本では中宮寺(奈良)と広隆寺(京都)の弥勒菩薩像が有名です。
>
> ニューエイジとイルミナティー 666 .... この「キリスト」は、同じくユダヤ教徒、イスラム 教徒、仏教徒とヒンズー教信徒によって待ち受けられると言われ、同じくマイトレーヤ卿 として知られています、しかし彼は救世主、イマームマハディ、5番目の
> 「キリスト」は、同じくユダヤ教徒、イスラム教徒、仏教徒とヒンズー教信徒によって待ち受けられると言われ、同じくマイトレーヤ卿として知られています、しかし彼は救世主、イマームマハディ、5番目の仏陀、あるいはクリシュナとしてそれぞれこれらの信者によって知られています。
> ベイリーは世界宗教が始まることを非常に明確にします:「精神は古い宗教から消え、そして本当の精神的な光は、結局は自身を地球上の新しい世界宗教として現れる新しい形式に移しています。
> ユダヤ教は古くて時代遅れで、そして分離しやすく、新しい宗教によってキリスト教の信頼が同じくその目的を満たしたとすれば、もっと良くない精神的志向の人たちのために本当のメッセージを持っていません;その創設者は新しい福音書とすべての人たちを啓発しようとする新しいメッセージを持って来ようと努めます」。
> 「テロリズム&イルミナティ」のカナダの著者、デイビッド・リビングストン自身の、Lucis トラストの役員メンバーは誰を含んでいるかという国際的なボードを通した彼の調査で明らかにしたのは:ジョン・D・ロックフェラー、ノーマン・カズンズ、ロバート・S・マクナマラ、IBMとモスクワへの元アメリカ大使のトーマス・ワトソン・ジュニア、ヘンリー・クローゾン、最高審議会、第33位階、南部 District スコットランド儀式の偉大な海軍中佐と、CFR 、ビルダーバーガーグループと3極委員会を含め、ベイリーの組織化を種々の円卓グループに結び付けているヘンリー・キッシンジャーです。
> ニューエイジ運動の主張を調べて研究するとき、懐疑的で、軽べつすることはあまりに簡単過ぎます、しかし(過去の)「ミステリーバビロン」を更新したこの現代のバージョンで、前方へリードしているそれらは偉大で強力な人たちと一緒に機能しています。
> ニューエイジ、この「精神的な目覚め」は、1つの世界政府に向かうイルミナティのゴールの1つに過ぎないかもしれません、しかしそれは主要なものであって、そして彼らの計画の中核となる要素であることが分かるかもしれません。
>

1262秦野北斗:2013/02/24(日) 08:31:28
Re: 仁徳天皇陵は崇神天皇陵
管理人さんへのお返事です。

五胡十六国時代に、コーカソイド系を含めた北方遊牧民・・尺度が伸びたということも・
これは、弥生後期の部族を意味している。五胡十六国時代は燕、秦、夏の国名が目立つ
夏は紀元前1900年。秦、燕は紀元前200年になる。後は呉越の紀元前500年になる。
言えることは日本の縄文、弥生部族の末裔だろうな。大宝律令、呉尺の復活になる様だな。
言語も同様のルートを通過したと思われる。技術集団、民族の移動になる。

弥生後期は(小里)ですな。弥生前期は呉尺だな。
弥生後期時代の倭・半島尺度の158kmの3分の1
158÷3=52.66 kmは(千小短里)斜辺に成っているな。
3.71×1.41=5.25 km (10小里)
52.5 km (千小短里)

弥生後期
3世紀(さんせいき)とは、西暦201年から西暦300年までの100年間を指す。日本では弥生時代末期から古墳時代初期にあたる。

>  この三種類の尺が大陸から渡ってきたのが、いったい何時であったのかは分からないが、701年の『大宝律令』で制度化される。
> (即ち「十分為寸」「十寸為尺」「一尺二寸為大尺一尺」「十尺為丈」)
>
> 中国北方のほうが長い尺を使う傾向は、かなり昔からあったようですね。
>
> 中国北方のほうが高身長だというのは考慮すべきかもしれません。
>
> 先のとおり五胡十六国時代に、コーカソイド系を含めた北方遊牧民が徒民で流入するので、特に後趙のようなコーカソイド系のように、王族を中心に身長が高くなった可能性を感じます。それで手の指の長さが長くなり、尺度が伸びたということも考慮すべきかもしれませんね。
>
> 日本人の場合も、鎌足墓の鎌足の身長は結構高かったそうですね。
>
>


1263秦野北斗:2013/02/24(日) 19:32:54
Re: 仁徳天皇陵は崇神天皇陵
管理人さんへのお返事です。

一寸千里の法

古代里には里は呉尺と隋(晋)尺があり、各々2種あり、計4種になる。
当時の里は444 m(大里)で短里は1/10里になる。短里=44.4m

短里=44.4mから地球の半径R=3700kmになる。
現在の半径の58%になる。

呉代、隋代の尺を里に当て嵌めるならば、大里、小里が存在する。

呉尺     隋(晋)尺
533.5 m(里)÷1.2=444 m(大里)
444 m(大里)÷1.2=370m(小里)

一寸千里の法で注意する事は地球の半径Rは何処にもない。谷本茂は
仮定で6357kmを使用して短里を76〜77mとしている。

古田武彦・谷本茂の間違いを訂正して貰いたいものだ。

古代史の「ゆがみ」を正す 古田武彦・谷本茂 より
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page010.html


1264青面金剛:2013/02/24(日) 20:29:13
Re: ディアスポラ(強制分散移住)
秦野北斗さんへのお返事です。

 当時、天皇自身は都と、其の周辺しか巡幸されませんので、東国へ出る事は有りません。そのため、前線へ派遣される征夷大将軍、陸奥鎮守府将軍、征夷大使,征東使,征東大使などに、強力な権限を与えて、討伐と支配を行わせました。

代々の将軍達は、ディアスポラ(強制分散移住)を含めた、東北支配のノウハウを継承していったのだと思われます。

 俘囚の姓としては、空海の父も佐伯で、先住民の血脈です。

 投降・帰順した蝦夷を以って、対蝦夷討伐の先陣として蝦夷同士を戦わせる「夷をもって、夷を制す。」の狡猾な手法も用いられました。


征夷大将軍【せいいたいしょうぐん】

http://kotobank.jp/word/征夷大将軍

> ところで、ディアスポラ(強制分散移住)させることが出来る権力者が居たのですか。
> ジンギスカンでもできないな。無理、不可能。

ディアスポラ(強制分散移住)は旧ソビエト時代のスターリンの圧制の折にも見られました。


 当時、天皇自身は都と、其の周辺しか巡幸されませんので、東国へ出る事は有りません。そのため、前線へ派遣される征夷大将軍、陸奥鎮守府将軍、征夷大使,征東使,征東大使などに、強力な権限を与えて、討伐と支配を行わせました。

 代々の将軍達は、ディアスポラ(強制分散移住)を含めた、東北支配のノウハウを継承していったのだと思われます。

 俘囚の姓としては、空海の父も佐伯で、先住民の血脈です。

 投降・帰順した蝦夷を以って、対蝦夷討伐の先陣として蝦夷同士を戦わせる「夷をもって、夷を制す。」の狡猾な手法も用いられました。


征夷大将軍【せいいたいしょうぐん】

http://kotobank.jp/word/征夷大将軍

> ところで、ディアスポラ(強制分散移住)させることが出来る権力者が居たのですか。
> ジンギスカンでもできないな。無理、不可能。

チンギスハンは、ディアスポラ(強制分散移住)こそ無いものの、馬上からの投げ縄を用いた、「奴隷狩り」は行っていたそうです。

1265秦野北斗:2013/02/24(日) 20:53:10
Re: ディアスポラ(強制分散移住)
青面金剛さんへのお返事です。


『宋書』倭国伝の倭の五王の項です。これが、ディアスポラ(強制分散移住)なのかどうかです。

・・・詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、
倭王に叙爵した。

なにか、大きな者の存在を感じる。日ユ同祖論も同様でないか。


『宋書』倭国伝

臣亡考濟實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大舉、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲、是以偃息未捷。至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。若以帝?覆載、摧此強敵、克靖方難、無替前功。竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節。」
 詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。

 臣の亡き済は、仇敵が天路を塞ぐことを実に憤り、百万の弦を鳴らして訴え、正義の声に感激し、まさに大挙せんと欲するも、突然に父兄が亡くなり、垂成の功をして一簣(モッコ一杯分)も獲れず。諒闇(一年の服喪)に在り、軍装の兵を動かさず、ここに休息するを以て未だ戦勝を得られず。今に至り、甲を練り、兵を治め、父兄の志を述べんと欲し、義士と勇士、文武に功を尽くし、白刃を前に交えるも、また顧みることなし。

 もし帝?の覆戴を以てこの強敵を挫き、勝って方難を鎮めるも、前功に替えることなし。密かに開府儀同三司を自ら仮称し、その余も皆、各々に仮授(して頂ければ)、以て忠節を勧める」。
 詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙爵した。


>
>  当時、天皇自身は都と、其の周辺しか巡幸されませんので、東国へ出る事は有りません。そのため、前線へ派遣される征夷大将軍、陸奥鎮守府将軍、征夷大使,征東使,征東大使などに、強力な権限を与えて、討伐と支配を行わせました。
>
> 代々の将軍達は、ディアスポラ(強制分散移住)を含めた、東北支配のノウハウを継承していったのだと思われます。
>
>  俘囚の姓としては、空海の父も佐伯で、先住民の血脈です。
>
>  投降・帰順した蝦夷を以って、対蝦夷討伐の先陣として蝦夷同士を戦わせる「夷をもって、夷を制す。」の狡猾な手法も用いられました。
>
>
> 征夷大将軍【せいいたいしょうぐん】
>
>


1266管理人:2013/02/24(日) 23:43:02
Re: 仁徳天皇陵は崇神天皇陵
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001299M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001299_2M.jpg

http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page010.html

http://



1267青面金剛:2013/02/25(月) 06:30:03
Re: ディアスポラ(強制分散移住)
秦野北斗さんへのお返事です。

 安東将軍は中国の官職名です。倭王・武は雄略天皇とされます。雄略天皇は吉備・播磨・伊勢を始め、中部・関東地方にも東征していますので、記録には残されていませんが、当時既にディアスポラ(強制分散移住)を用いていた可能性は有ると思われます。


「478年 昇明2年  5月戌午。倭国王武が使いを遣わし方物を献じた。武をもって安東大将軍とした(倭国王武をもって安東大将軍とした)。 『宋書』「順帝紀」(『南史』「宋本紀下」)」

「 東は毛人を(蝦夷、アイヌか)を征すること55国。西は衆夷(熊襲、隼人などか)を服すること66国。渡って海北を平らげること95国。王道は融泰であって、土をひらき、幾をはるかにした。 」

「 梁の武帝即位の際に、倭王武を征東大将軍に昇進させたと記されているが、『日本書紀』によれば、このときすでに倭王武は亡くなっている。」

邪馬台国の会

倭王武と雄略天皇  稲荷山古墳出土鉄剣銘文

http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku246.htm

> 『宋書』倭国伝の倭の五王の項です。これが、ディアスポラ(強制分散移住)なのかどうかです。
>
> ・・・詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、
> 倭王に叙爵した。

1268秦野北斗:2013/02/25(月) 07:09:51
Re: ディアスポラ(強制分散移住)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001302_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001302_3M.jpg

青面金剛さんへのお返事です。

倭王・武は雄略天皇説ですな。この説を秦野は疑っています。

魏志倭人伝を解読で秦野距離で地図を起こすと添付になったのですな。

雄略天皇の雄略天皇は吉備・播磨・伊勢を始め、中部・関東地方にも東征の見方も変わる。
秦野北斗著書、徐福と邪馬台国より

「 東は毛人を(蝦夷、アイヌか)を征すること55国。西は衆夷(熊襲、隼人などか)を服すること66国。渡って海北を平らげること95国。王道は融泰であって、土をひらき、幾をはるかにした。 」

おまけに、東は55国。西は衆夷(熊襲、隼人などか)を服すること66国。渡って海北を平らげること95国の地図を添付します。


『新唐書』日本伝

 仲哀死、以開化曾孫女神功為王。次應神、次仁?、次履中、次反正、次允恭、次安康、次雄略、次清寧、次顯宗、次仁賢、次武烈、次繼體、次安閑、次宣化、次欽明。

 仲哀が死に、開化の曾孫娘の神功を王とした。次は應神、次は仁?、次は履中、次は反正、次は允恭、次は安康、次は雄略、次は清寧、次は顕宗、次は仁賢、次は武烈、次は継体、次は安閑、次は宣化、次は欽明。


>
>  安東将軍は中国の官職名です。倭王・武は雄略天皇とされます。雄略天皇は吉備・播磨・伊勢を始め、中部・関東地方にも東征していますので、記録には残されていませんが、当時既にディアスポラ(強制分散移住)を用いていた可能性は有ると思われます。
>
>
> 「478年 昇明2年  5月戌午。倭国王武が使いを遣わし方物を献じた。武をもって安東大将軍とした(倭国王武をもって安東大将軍とした)。 『宋書』「順帝紀」(『南史』「宋本紀下」)」
>
> 「 東は毛人を(蝦夷、アイヌか)を征すること55国。西は衆夷(熊襲、隼人などか)を服すること66国。渡って海北を平らげること95国。王道は融泰であって、土をひらき、幾をはるかにした。 」
>
> 「 梁の武帝即位の際に、倭王武を征東大将軍に昇進させたと記されているが、『日本書紀』によれば、このときすでに倭王武は亡くなっている。」
>
> 邪馬台国の会
>




1269秦野北斗:2013/02/25(月) 07:32:13
Re: 仁徳天皇陵は崇神天皇陵
管理人さんへのお返事です。

距離が明確に成ると方位も精度がでましな。

これから、隠れたところが明らかになりますな。

方位は存在した。ですな。


>
>
> たぶん、中国の測量は、通常の長里の4分の1、もしくは8分の1を短里や超短里としたのでしょう。
>
> なぜ短里をつくったかというと、土地が狭いと長里計算では長過ぎたのかもしれません。
>
> 1里を1800尺とするわけですが、これを450尺、あるいは225尺とするわけですね。
>
>
> おそらく、 一寸千里の法で千里を出すとどのくらい、実際の千里と異なるか、当時からしっかり把握していたはずと感じます。
>
>
> 後漢尺の時代で、超短里52.5m 短里105m、超短里の3倍尺158mの半分で79m前後を、その計測上での千里の中間尺単位として理解していた可能性はありますが、
>
> あまりその中間尺自体は使わなかったのではないかなーと感じます。使ったとすれば、1里=300歩の部分ですね。
>
> 6尺=1歩 300歩=1里ですから、
>
> 計測的に79mを計り出して、それを1度2倍して158mを出す。長里421mの3分の1=140mと近似するので、計算上6分の1尺とみなす。
>
> それで、6尺を1歩としていた部分を、1尺1歩と換算しなおすことなのですが、
>
> そこでさらに200歩と直すことで、先の超短里の52.5mにたどり着くはずです。
>
> もっと便利なのは、半分の100歩にしてしまうことで、そうすると26.25mですね。それを里単位とすれば、100尺で済むので、理解しやすくなったでしょう。27KM前後の単位がしきりに九州方面の尺度にでてくる件は以前お話したとおりです。
>
> 追記
>
> ただ、後漢尺の23.4cm尺より長い26.25cm尺となりますね。
>
> あったとすれば便宜尺でしょう。数値的には古韓尺の26.8cmにも近いかもしれません。
>
> 秦野さんご指摘の(即ち「十分為寸」「十寸為尺」「一尺二寸為大尺一尺」「十尺為丈」)関連の大尺のひとつでしょうか。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>
> で、1.12倍〜前後でしょうか。時代の尺長変化によって便宜尺も少し伸びたかもしれません。
>
>

1270青面金剛:2013/02/25(月) 22:03:20
Re: ディアスポラ(強制分散移住)
藤井游惟さんへのお返事です。


> 私は日本語は稲作・金属器文明をもたらした渡来人の言語ではなく、先住民である南方系縄文人の言語であり、渡来人の父親と縄文人の母親から生まれた「弥生人」が母親の方の言語を受け継いだのだと言っているのであり、南河内方言も「先住民言語の影響を受け継いでいる」のは当たり前です。

> 「考古学を科学する会」の「弥生人と日本語の形成-日本語南方系縄文人語起源説-」
  ?糸魚川−浜松ライン(糸浜線)??南方系縄文人と北方系縄文人の居住境界線
 紀元前3〜5世紀に渡来人が侵入してきて、日本(祖)語を話す南方系縄文人を駆逐しつつ同化して形成された日本語を話す「弥生人」は、稲作農業によって急激に人口を増やし、100〜300年後にはそのフロンティアは糸魚川−浜名湖ラインを越えてアイヌ(祖)語を話す北方系縄文人の居住地域に侵入する。
 その頃には、弥生人の人口の方が多く、占領が終わればすぐに家族連れの移民が入ってくるため、男は皆殺し(或いは捕まえて奴隷として売る)、女は捕まえて慰み者にということを行っても、「言語乗り移り現象」は起こらない。
 しかし、地名・動植物名などにアイヌ語の影響がのこり、また捕まえた北方系縄文人達の話す「変な日本語」の影響で、発音やアクセント、文法などにも変化が起こる。


☆南河内方言が「先住民言語の影響を受け継いでいる」と一方で言い、

☆糸魚川−浜名湖ラインを越えた地域では、「言語乗り移り現象」は起こらない、と、また一方で言い張るのであれば、

南河内と長野・静岡・南関東では、言葉が全く通じないほどの異言語同士と成るじゃ有りませんか(笑)。


> >??藤井さんの理論は、次の三つに大別されます。
> >
> > 1、[一定の社会状況においては、外部から侵入してきて、先住民を駆逐した征服民に、先住民の言語が「乗り移る」]
> >
> > 2、[政治権力者側の言語を話す人口が、先住民よりも圧倒的に多い場合は、「政治権力が命令すれば民衆の言語は取り替えられる」]
> >
> > 3、[政治権力者側の言語を話す人口が、先住民よりも少数ならば、第三の言語「クレオール」化が起こる。]
>
> 但し、3も「一定の社会状況に於いては」です。
> このことも「考古学を科学する会」のレジュメに書いてあるはずです。

----------------------------------------------------------------------------------

河内「かうち、こうち」

河内…カウリは、カ(カウンデ)…中・真ん中、ウリ…うち(内・氏・国)

河内は「かう(わ)ち」でもあり、百済語の「カウリ」でもあるため、「中つ国」を指します。

初めて河内王朝を開いた者にとって、その地は、『中つ国』(中心)であったのです。

百済、伽耶系は、それぞれ河内や奈良の地名を残しました。地名は、扶余系の民族移動の経路をよく表しているのです。

【金容雲(キム・ヨンウン)『「日本=百済」説』P・41、三五館、2011年4月】

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自説に自信の無い研究者程、権威を振りかざし、品格を欠く言葉を乱発するもの。藤井さんの本の改訂の際には、大幅な書き直しが必要とされるでしょう。


1271管理人:2013/02/26(火) 22:20:20
ホームページリニューアル
管理人です。

ちょっと暇ができたので、研究会のホームページをリニューアルしました。
会報の電子ブック販売も開始しています。
よろしくご参照ください。

http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/


1272管理人:2013/02/27(水) 22:45:11
Re: 仁徳天皇陵は崇神天皇陵
秦野北斗さんへのお返事です。

> 距離が明確に成ると方位も精度がでましな。
>
> これから、隠れたところが明らかになりますな。
>
> 方位は存在した。ですな。
>


あと、ニューアルに関して追加し忘れていた秦野さんのHPリンクさせていただきました。

http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/

ただ新刊紹介ページは、リニューアルにともない下記の電子ブック販売ページに変更になりましたので、秦野さんのご本の紹介はできなくなったのですが、ただ電子ブックとして、PDF原稿をアップして販売したいという希望がございましたら、お気軽にお知らせください。
http://forkn.jp/user/shimoeda/books


1273秦野北斗:2013/02/28(木) 01:13:43
Re: 仁徳天皇陵は崇神天皇陵
管理人さんへのお返事です。

了解です。
ところで、方位ですが関東の古墳に対応しないかと考えている。


>
> ただ新刊紹介ページは、リニューアルにともない下記の電子ブック販売ページに変更になりましたので、秦野さんのご本の紹介はできなくなったのですが、ただ電子ブックとして、PDF原稿をアップして販売したいという希望がございましたら、お気軽にお知らせください。


1274管理人:2013/02/28(木) 05:50:39
東北・北海道方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001310M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/



1275秦野北斗:2013/02/28(木) 11:45:23
Re: 東北・北海道方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001311_2M.jpg

管理人さんへのお返事です。

関東の古墳は群馬から茨城まで延びている模様

女国、扶桑国の位置がほぼ定まるが扶桑は群馬と茨城に跨るようだな。
距離は奈良の8倍の約30km間隔になる、恐れいりました。

図の左下に比企郡がありますな。



1276管理人:2013/02/28(木) 23:12:32
群馬・埼玉方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001312_2M.jpg

秦野北斗さんへのお返事です。

> 関東の古墳は群馬から茨城まで延びている模様
>
> 女国、扶桑国の位置がほぼ定まるが扶桑は群馬と茨城に跨るようだな。
> 距離は奈良の8倍の約30km間隔になる、恐れいりました。
>
> 図の左下に比企郡がありますな。

なるほど、なかなかいいラインついているかもしれませんね。

とりあえず、こちらも会報第2〜4号の図をさらに詳細にして方位区画推定してみました。

まだかなり大雑把ですが、下図のとおりです。

6〜7世紀頃の区画ですね。尺度は11,1kmが多いように見えますが、まだなんともいえません。

正方区画でないようです。南北の方が長いタイプで、多胡三碑のように三角測量の痕跡が見えます。

方位区画の交点に、古墳がない場合でも「〜塚」「国領」とか、痕跡が残っています。

南に伸ばして行くと、秦野の大山社や二宮方面に向かうのですが、ある時期の関東の国造・国府・郡府関係を結んだ方位区画なんです。詳細は会報を読んでいただきたいのですが、未推定の国・郡府とかいろいろわかってきます。




1277青面金剛:2013/02/28(木) 23:27:38
Re: ディアスポラ(強制分散移住)
藤井游惟さんへのお返事です。

「同系言語の方言差」と言われる一方で、「蝦夷は倭人にとって言語の通じない全くの異民族だった」と、本州に於ける先住民である、蝦夷の存在を認められている訳ですね。

では南河内方言が先住民の言語を受け継いでいる、と言われるのであれば、その先住民が、何れの流れに属する人達なのかを、示す必要が有るでしょう。

富田林市宮町の美具久留御魂神社や、葛城古道の一言主神社の存在が示す様に、出雲系の人達なのか。

さらに、出雲と東北弁に共通するズーズー弁の特徴、及び、長脛彦の兄・安日彦が東北の地へ逃れ、東北の蝦夷を統率していった事から、出雲と蝦夷は同じ流れの民族ではないかと。

出雲連邦王国の最盛期には、北は新潟・石川、東は福島・関東、南は伊豆・三河・伊勢・熊野、西は北九州まで含みました。

「権威を振りかざしていない」と主張されるのであれば、貴HPの「4度に亘って正統なアカデミズムの学会で発表している」の宣伝文句を削除してから言ってください。


> 南河内と長野・静岡・南関東では、言葉が「すぐには」全く通じなかったのは当たり前です。(^^)
>
> 貴方がどこの方言を母語としているかは知りませんが、遠く離れた地方の山間僻地に住むその土地の方言しか話せない年寄り達の話しを全て理解できるのですか?
>
> 日本では明治以降、標準語(東京方言)による義務教育が始まり、大正時代には標準語によるラジオ放送が始まり、そして1960年代にテレビが完全普及したことにより、北海道から沖縄までの全ての日本人が言語形成期から標準語を耳にして育つようになったため、現在の55歳以下ぐらいの世代なら東北方言話者と九州方言話者が話しても一応話は通じます。
>
> しかし、テレビが普及する以前に言語形成期を終えしまい、しかも生まれ育った土地から離れたことのないお年寄りの中には、その土地の方言しか話せない人が沢山います。
>
> 最近では少なくなりましたが、ほんの20〜30年前まで、関西方言圏や標準語圏以外の地方を旅行すると、食堂の隣の席の人々の話が「一言も理解できない」ことがしょっちゅうありました。
>
> まして、テレビ・ラジオ・義務教育はおろか文字すらなかった古代に、南河内方言話者と長野・静岡・南関東の方言話者が初めて話をして、すぐに通じるわけがありません。
>
> しかし、同系言語の方言差であれば、最初はお互い全く理解できなくても、基本単語が明確に音韻対応しており、半年・一年と一緒に過ごす時間が長くなれば、イモヅル式に理解できるようになってきます。
> 一見外国語としか思えない琉球語の話者が、明治以降、簡単に本土日本語に同化できたのもその理由によります。

> 私が自説に自信を持っていない?・・・・ほほう、元に本言語学会会長の説を「トンデモ」だと公言し、それがトンデモであることに気づかない全ての国語学者を敵にまわして喧嘩を売っている私が、自信を持っていない?
>
> 権威を振りかざし・・・・現在「一日本国民」以外の肩書きを一切持ってない私になんの権威があるのですか?
> 「金容雲」だの何だのの「大先生方」の権威を振りかざしているのは貴方の方でしょう?

1278秦野北斗:2013/02/28(木) 23:47:38
Re: 群馬・埼玉方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001314M.jpg

管理人さんへのお返事です。

方位区画は3.71kmが単位でその倍数になる。

呉尺     隋(晋)尺
533.5 m(里)÷1.2=444 m(大里)
444 m(大里)÷1.2=370m(小里)


> 6〜7世紀頃の区画ですね。尺度は11,1kmが多いように見えますが、まだなんともいえません。

3.71×3=11.1km

> とりあえず、こちらも会報第2〜4号の図をさらに詳細にして方位区画推定してみました。
>
> まだかなり大雑把ですが、下図のとおりです。
>
>
> 正方区画でないようです。南北の方が長いタイプで、多胡三碑のように三角測量の痕跡が見えます。
>
> 方位区画の交点に、古墳がない場合でも「〜塚」「国領」とか、痕跡が残っています。
>
> 南に伸ばして行くと、秦野の大山社や二宮方面に向かうのですが、ある時期の関東の国造・国府・郡府関係を結んだ方位区画なんです。詳細は会報を読んでいただきたいのですが、未推定の国・郡府とかいろいろわかってきます。
>




1279管理人:2013/03/12(火) 03:12:58
関東方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001315M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001315_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001315_3M.jpg

秦野北斗さんへのお返事です。

> 方位区画は3.71kmが単位でその倍数になる。
>
> 呉尺     隋(晋)尺
> 533.5 m(里)÷1.2=444 m(大里)
> 444 m(大里)÷1.2=370m(小里)
>
>
> > 6〜7世紀頃の区画ですね。尺度は11,1kmが多いように見えますが、まだなんともいえません。
>
> 3.71×3=11.1km
>

そこで続いて、関東の主に5〜6世紀代の古墳を結んだ方位区画を作成してみました。
すでに以前の会報で論じたラインですが、再度確認すると、会報第4号でとりあげた(三角縁)−1度偏角方位区画と同じ11.1km尺のようです。まだ大雑把なものですが、両図を添付します。





1280秦野北斗:2013/03/20(水) 07:07:17
Re: 関東方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001316_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001316_3M.jpg

管理人さんへのお返事です。

方位ラインですが秦野の引き方

?大型古墳を探す
?川の河口(何かあるな)を基点に古墳を繋ぐ(注、河口はもう少し検討が必要)
?大型古墳間距離3.71を単位に間隔を等倍に合わせる

以上

古墳には上下関係がありそうだ。

地方の古墳は耳成山、畝傍山の東北ライン?






1281秦野北斗:2013/03/21(木) 01:32:43
Re: 関東方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001317M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001317_2M.jpg

管理人さんへのお返事です。

管理人さんの方位ラインを秦野の方位図で確認すると狭いですぞ。

白線の囲いになる。



> そこで続いて、関東の主に5〜6世紀代の古墳を結んだ方位区画を作成してみました。
> すでに以前の会報で論じたラインですが、再度確認すると、会報第4号でとりあげた(三角縁)−1度偏角方位区画と同じ11.1km尺のようです。まだ大雑把なものですが、両図を添付します。
>
>



1282棘の紀氏:2013/03/21(木) 03:44:32
Re: 関東方位区画
秦野北斗さんへのお返事です。

>管理人さんの方位ラインを秦野の方位図で確認すると狭いですぞ。白の囲いになる。

行基図 http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&amp;ei=UTF-8&amp;p=行基図

行基図と呼ばれる日本国図 では、陸奥・出羽二国の北が津軽大里となっています。その境界線ぞいに「壺石踏(つぼ のいしぶみ)」と書き込みのある、なんとも不思議な感じの古地図 ... http://tohokujomon.blogspot.jp/2009/07/blog-post.html
いわゆる行基図(ぎょうきず)。行基式日本図は、国々を丸みをおびた俵の形とし、これを積み重ね、かつ山城から諸国への経路を示すことで日本を表現することを特色とする。奈良時代の高僧行基により作成されたと伝えられ、現存する多くの行基図にもその旨記載されているが、もとより後世の仮託。ただしなぜそのように伝えられるようになったかには諸説がある。江戸時代初期まで作成された。本図においても「夫図行基菩薩所図也」との記載が序文にある。明暦2年板は最後に印刷された行基図とされるが、そのものは現存していないため、その写図である本図は貴重である。各国色別に着色し、上部を東,右を南とする。2本線で五畿七道を描く。安房の南方に「らせんこく」(羅刹国)の記載がある。

メルカトル図法(メルカトルずほう)
この図法は地球儀を円筒に投影したもので、地軸と円筒の芯を一致させ投影するため経線は平行直線に、緯線は経線に直交する平行直線になる。ところで正角性を維持するには、横方向・縦方向の拡大率を一致させる必要がある。緯線はすべて赤道と同じ長さになるので、高緯度地方に向かうにつれて実際の長さ(地球儀上の長さ)より横方向に拡大される。それに応じて縦方向(経線方向)にも拡大させるので、高緯度に向かうにつれ距離や面積が拡大されることになる。例えば緯度60度では、本来の緯線の長さは赤道の半分なので2倍に拡大され、したがって経線も2倍に拡大されるので、面積は4倍に拡大される。より高緯度のグリーンランドの面積は実際より17倍も拡大されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/メルカトル図法
メルカトル図法の大きな特徴は角度が正しい、すなわち十分狭い範囲だけを見ると形が正しい事である。一方で緯度によって縮尺が変化し、特に高緯度地方は著しく拡大されてしまう。そのため、広い範囲での角度、距離、面積比は正しくない。また極においては、極も赤道と同じ長さで表現されるので横方向に無限大に拡大され、正角性を維持するため縦方向も無限大に拡大しなければならない。これは実際には不可能なので、極を表現できない。よってメルカトル図法では原理的に世界全図を描けない。




1283管理人:2013/03/22(金) 03:02:55
Re: 関東方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001319M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001319_2M.jpg

http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&amp;ei=UTF-8&amp;p=行基図



1284秦野北斗:2013/03/22(金) 03:34:31
Re: 関東方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001320M.jpg

管理人さんへのお返事です。

そう気を落とさずに、河口や平地など住みやすいところに人が・・読みが甘いですぞ。

韓半島との関係が深そうですぞ、日高見国らしきものが出てきましたぞ。図参照。

中国史籍を整理すると、釜山に邪馬台国が存在している。また、扶桑国も秦野距離で
茨城に存在する。扶桑と邪馬台国(大漢国:やまと国)の距離は一致する。

日高見国は御坊だろうな。御坊の遺跡と古墳が何かを指し示すが不明。

> 確かに秦野さんのおっしゃるように、河口や平地など住みやすいところに人が住んだのは、縄文時代以来、常に考慮すべきなのですが、ただ日本の場合はそれとは別に各種の方位区画があり、その方位区画の拠点を重視するので、かならずしも住みやすくないところにも、古墳や遺跡が出てくるのが特徴なんですね。
>
> この件もすでに会報で以前からお話してますが、いろいろ会報を大教授とか研究者に送っても、また研究会内でもまったく空想としか捉えてもらえないようで、興味なさそうなのが残念ですね。宝の持ち腐れのような気もしますが、我々だけでも、地道に研究進めていきましょう。数十年後には理解してもらえる日も来るかもしれません。
>





1285棘の紀氏:2013/03/31(日) 02:57:01
Re: 関東方位区画
管理人さんへのお返事です。

関東以北の群集墓を造営のあり方によって類型化した山田俊輔は、 古墳時代中期後半 に造営を. 開始する群集墓と、 前代からの伝統的墓域を継承する群集墓の存在を提示 した (山田200ー)。 http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/32280/1/BungakuKenkyukaKiyo_54_04_Onomoto.pdf#search='関東以北 古墳'

古墳時代中期(5世紀)は、飛躍的に墳丘が大型化した時代で、巨大な前方後円墳が 数多く造られるようになりました。 ... 製のものに変わり、副葬品も呪術的(じゅじゅつてき )なものから甲冑(かっちゅう)や馬具(ばぐ)といった軍事的なものに変化していきました 。 http://www.city.habikino.lg.jp/10kakuka/34shakaikyoiku/03bunkazai/04isekishokai/04chuki/t_c_chuuki.html
古墳に納められる棺(ひつぎ)も木製から石製のものに変わり、副葬品も呪術的(じゅじゅつてき)なものから甲冑(かっちゅう)や馬具(ばぐ)といった軍事的なものに変化していきました。

エミシとその時代 1 景行天皇40年(110)〜持統天皇6年(692) - kominato ...
朝廷による蝦夷出兵は「日本書紀」によれば、弥生時代の12代・景行(けいこう)天皇の代から古墳時代の16代・仁徳(にんとく)天皇、30代・敏達(びだつ)天皇、32代・崇峻(すしゅん)天皇、飛鳥時代の34代・舒明(じょめい)天皇の代にかけて記録されています。 http://kominato-kataumi.jimdo.com/エミシとその時代-1-景行天皇40年-110-持統天皇6年-692/

『魏志倭人伝』に記された里程に従い、魏の時代の1里=434.16mでたどると、朝鮮半島は台湾近くまで垂れ下がり、邪馬台国は日本列島からはるか離れた海の上になってしまう。 http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku275.htm
ところが、対馬と壱岐など、地域が特定できるところで、『魏志倭人伝』の里程と実際の距離を比較すると、1里=100mくらいであり、魏の時代の1里の長さの1/4になってしまう。 http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku275.htm
藤田氏は、
「道里というものは、いったん定まると容易にかわらないといえる。したがって、『魏志』の道里なども無闇に記したものではなく、おそらく魏以前のよほど古い時代の言い伝えではなかったかと考える。
漢代の一里は、およそ400メートルである。しかし、日本は遠い国であって、漢代では中国本土の尺よりも、さらに古い尺を用いていたのではなかったか。漢尺よりも古い尺は周尺である。」

「魏略時代に書き記された多くの倭韓の里は、すべて今の日本里(一里=約4km)の1/40という古周尺の尺度(一里=約100m)で、全部明瞭に説明がつく」

中国最古の天文算術書といわれている『周髀算経』にのっている「里」の一里が、約76〜77メートルになることについて谷本茂氏の論文がある。(季刊邪馬台国35号)

洛陽晋墓遺物の尺度
西暦300年ごろの洛陽晋墓からモノサシが発見された。これは、1尺が16cmくらいになっていて、魏の1尺=24.12cmの2/3くらいの長さである。周の時代の小尺と思われる。
『日本書紀』に、日本武尊の身長は1丈と書いてある。奈良時代の1尺は30cmなので、1丈=10尺で3mとなり、ありえない身長である。しかし、洛陽晋墓で出土したような周尺ならば、1丈は160cmとなり、普通の人の身長になる。
この他にも身長については、『古事記』の垂仁天皇紀に景行天皇の身長が1丈2寸、反正天皇紀に反正天皇は9尺2寸と記された例がある。これらの数字も周尺で考えれば説明が付く。




1286管理人:2013/03/03(日) 22:50:18
Re: 関東方位区画
秦野北斗さんへのお返事です。

> そう気を落とさずに、河口や平地など住みやすいところに人が・・読みが甘いですぞ。
>
> 韓半島との関係が深そうですぞ、日高見国らしきものが出てきましたぞ。図参照。
>
> 中国史籍を整理すると、釜山に邪馬台国が存在している。また、扶桑国も秦野距離で
> 茨城に存在する。扶桑と邪馬台国(大漢国:やまと国)の距離は一致する。
>
> 日高見国は御坊だろうな。御坊の遺跡と古墳が何かを指し示すが不明。
>


おそらく方位区画上の交点に拠点を造ることのほうが、立地条件より優先したのではないかと感じますが、行田あたりだと、かつては港でしたから、やはり港湾拠点としても重要な意味をもっていたのだろうと思います。

一方、先の5世紀代の−1度偏角の方位区画の拠点に、高崎の保渡田古墳群がありますが、ここは495年と520年の榛名山の噴火で埋まったようです。
http://pringles.blog23.fc2.com/blog-entry-334.html

このことから、その偏角の方位区画が使われた時期が逆算できます。520年以前おそらくは495年より前となりますね。弘法山古墳が出てくるのでもっと以前でしょう。
それで、この方位区画に埼玉古墳群が載らない件について考えて行くと、やはり高崎方面が駄目になって南進したと考える説が妥当かもしれません。

520年の噴火で駄目になって、530年ごろの武蔵国造の乱前後でここに国府を移すんですね。
この辺に環境的な要因が見えてきます。

その後のさらに移動した国府の位置が、先の正方位区画の行田小敷田遺跡周辺ではなかったかと感じます。
ただここも、やはり方位区画上の重要位置にあたったので、このあたりに造営したと考えるべきで、立地的にはもっとよい場所もあったかもしれません。

壬生車塚は、かなり大きな円墳のようで、埼玉古墳群にみえる円墳同様に渡来系の予感がします。

三津屋八角墳はもう少し後の時代で、高句麗系の渡来人(後期の新漢人)が八角形の宗教文化をもって入ってくる560年代以降ではないかと思うのですが、その後7世紀代にはいって、それらの正方位区画上に八角墳や上円下方墳と郡府が造営されていったことでしょう。

ただ、会報第4号で論じたように、7世紀代でまた尺度が変化するので、同じ正方位区画でも前半と後半で、距離が異なる可能性を感じます。先日の上野三碑を結ぶラインもそうですが、6世紀代の区画を使いながら、あるいは微調整した可能性があります。高麗郡や多胡郡の位置、あるいは埼玉古墳群と小敷田遺跡の位置とのズレとか、その辺に影響してくるとすると、その相違を区別していく必要もでてきますね。

論理的に、時代毎に相違する尺度と偏角、測量方法、それらを総括的に分析していかないと、うまく整合性がとれないと思うのですが、その辺も今年は明確にしていきたいところです。

あとキシさん紹介の景行と反正の身長尺の件ですね。
景行の時代より、反正の時代のほうが長い可能性もありますが、21cm前後の画像鏡時代の尺でいくと、2m10cmの大男で、足の長さは80cmとなるので、確かにあり得ない数値ではないですね。

反正は180cmくらいになるでしょうか。

反正履中あたりは、先日のとおりコーカソイド系の軍人の流入を予想しますので、身長的にはコーカソイド系のバジリク古墳群の180cmのケース同様に、その辺の数値が出てくる事自体はおかしくないかもしれません。

鎌足墓は160cm前後だったと思いますが、これでも当時としては高身長ですね。

ともあれ、時代毎に尺度と測量法が変化していくので、もっと精密に出して行く必要がありそうです。本来は大掛かりなプロジェクト組んで、電子測量の講義を数ヶ月してから、全国の古墳と遺跡を網羅しながらやらないといけないのですが、ともあれ、我々数人くらいしか実質的な理解者がいないので、めげずに今年も地道にやっていきましょう。

1287秦野北斗:2013/03/04(月) 13:11:44
Re: 関東方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001323_2M.jpg

管理人さんへのお返事です。

古墳を方位ラインに羅列したら結構なものにりますな。


>
> 壬生車塚は、かなり大きな円墳のようで、埼玉古墳群にみえる円墳同様に渡来系の予感がします。
>
> 三津屋八角墳はもう少し後の時代で、高句麗系の渡来人(後期の新漢人)が八角形の宗教文化をもって入ってくる560年代以降ではないかと思うのですが、その後7世紀代にはいって、それらの正方位区画上に八角墳や上円下方墳と郡府が造営されていったことでしょう。
>
> ただ、会報第4号で論じたように、7世紀代でまた尺度が変化するので、同じ正方位区画でも前半と後半で、距離が異なる可能性を感じます。先日の上野三碑を結ぶラインもそうですが、6世紀代の区画を使いながら、あるいは微調整した可能性があります。高麗郡や多胡郡の位置、あるいは埼玉古墳群と小敷田遺跡の位置とのズレとか、その辺に影響してくるとすると、その相違を区別していく必要もでてきますね。
>
> 論理的に、時代毎に相違する尺度と偏角、測量方法、それらを総括的に分析していかないと、うまく整合性がとれないと思うのですが、その辺も今年は明確にしていきたいところです。
>






1288秦野北斗:2013/03/04(月) 19:32:45
Re: 関東方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001324M.jpg

管理人さんへのお返事です。

管理人さんの九州の方位ですが、西都原、平原、厳原、昌原と原で繋がる。

古代人の遊びか、意味があるのでしょうな。







1289管理人:2013/03/04(月) 22:35:27
方位ライン説明ビデオ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001325M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001325_2M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaisi/kyuusyu-kasima.mov



1290管理人:2013/03/05(火) 23:04:56
方位区画関連動画の追加です。
昨日お知らせしました弥生九州方位区画の動画に加えて、新たに奈良の方位区画の動画も作成してアップしました。

まずこちらは奈良7度偏角方位区画の動画です。この方位区画は4世紀代と7世紀代に2回使用されています。
http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/nara-7dohenkaku.mov

動画で紹介している遺跡順序は下記のとおりです。

多武峰→中山大塚古墳→桜井茶臼山古墳→崇峻天皇陵→秋津遺跡→孝安陵→斉明陵→マルコ山古墳→高松塚古墳→飛鳥板葺宮→多武峰→中山大塚→顕宗天皇陵→中山大塚→椿井大塚山古墳→磐船神社→秋津遺跡→西殿塚古墳→香具山→藤原宮大極殿→宮山古墳→春日神社となります。

次の動画は下記のとおりで、弥生末期から3世紀中葉までの奈良・5度偏角方位区画、マキムク関連の方位区画、崇神陵墓→応神・仁徳陵へと結ぶ方位区画を連続して流しています。

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/nara-5dohenkaku-kawachi.mov

この動画で紹介した遺跡順は下記のとおりです。

多武峰周辺→西殿塚古墳→櫛山古墳→桜井茶臼山古墳→孝安陵→乙女山古墳→西殿塚古墳→孝安陵→欠史天皇陵→マキムク遺跡→黒塚古墳→西殿塚古墳→耳成山周辺→孝元陵→唐子・鍵遺跡→黒田庵戸宮・倭屯倉・鏡作神社周辺

→三輪山→崇神陵・西殿塚・箸墓関連ライン→崇神陵→巣山古墳

→崇神陵→仁徳陵→応神陵→ナガレ山古墳→崇神陵→児島屯倉→造山古墳→春日神社方面

です。ちょっと後半遊びすぎましたので、また成務朝時代のライン動画は造り直します?

おそらくこれらの動画をみると、秦野さんやキシさんもみなさんも今まで思っていたより正確だとお感じになられるのではないかと感じます。藤井さんの動画の件もありますが、動画で説明すると理解しやすくなると思います。
動画を造っている当人は理解しきっているので、次々と遺跡がラインに載る点に不思議はないのですが、初めての方には驚かれるかもしれません。

そのなぜ偏角があるのか?その尺度になるのか?など疑問も多いと思いますが、その測量詳細について説明していますので、ご興味有る方はどうぞ会報第4号のほうをご購入ください。ご意見、ご感想お待ちしています。

1291管理人:2013/03/06(水) 02:37:32
Re: 奈良時代、人工地震と人工火山爆発
ねこさんへのお返事です。

> 奈良時代、人工地震と人工火山爆発
>
> http://book.geocities.jp/japans_conspiracy/02/p005.html#page54
> http://book.geocities.jp/conspiracycalendar/02/Y02/jre024.html#0823
>
> 「大宝律令」は、「大砲律令」に間違いないだろう。


ねこさん、こんにちは。何はともあれ、箱根・富士山噴火は近いようですね。
地震や噴火については、古代史研究者の出番とも言えるかもしれません。


先日の榛名山噴火と埋もれた遺跡のケースもそうですが、富士山頂も若干現在とずれているとのことで、この点は方位ライン面から、逆に古代の噴火口の位置を証明できるかもしれませんが、おそらくライン面では少なくとも5〜6世紀の時点では差して今と変わらなかったのではないかと思います。

こちら箱根・富士山の構造と噴火関連。

http://prepper.blog.fc2.com/blog-entry-266.html


ともあれ、なんとなく3月末までに何かありそうな予感がします。近い将来、箱根噴火、東海地震あたりで、関東・名古屋・関西と駄目になる可能性を感じますね。

特に噴火で一番困るのは、ライフラインの切断で、関越と東名がしばらく使えなくなると、関東人は長期間食料不足に喘ぐことになるかもしれません。原発も安定しないし、中国も武力威嚇してくるというご時勢ですから、みなさんも今3月までにできるうちに研究なり論文なりは完成させておきましょう。


1292秦野北斗:2013/03/06(水) 02:38:45
Re: 方位ライン説明ビデオ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001329_2M.jpg

西表管理人さんへのお返事です。

どうも、古墳からの方位の確定には最低3基は必要だな。

関東は引き直しですな。九州は出雲方向と逆方向に西表島方向に伸びている模様。

まだまだ、推測の域を出ないが・・・



>
> 今回は、秦野さんご興味のある会報第2、3号で紹介した弥生九州方位区画と、プサン→鹿島の5度偏角方位ラインについて説明しています。
>
> この動画前半の弥生九州方位区画で説明した遺跡順は下記のとおりです。
>
> 伊都平原遺跡→宇佐風土記の丘(赤塚古墳)→西都原古墳群→出水方面→伊古遺跡→伊都平原遺跡→須玖岡本遺跡→鎌田原遺跡→伊都平原遺跡→西都原遺跡→吉野ヶ里遺跡→プサン(狗邪韓国)→対馬です。
>
> 後半は古墳時代初期の(三角縁神獣鏡)5度偏角方位区画ですが、下記の順番です。
>
> プサン→出雲大社→鹿島神宮→大宮氷川神社→駒ヶ岳神社です。
>
> このように動画で説明すると、どのくらいの精度を目安にして、管理人がいつも方位ラインの話をしているかがご理解いただけると思います。(東西に長距離になるとキシさんご指摘のように地球球面に関する曲率の関係で南北にズレがでてきます。)で動画の途中で距離の説明もしています。緯度経度も提示しようと思えば可能です。
>
> これらはほんの一例にすぎませんが、このように動画で説明したほうが理解しやすいことも多いと思いますし、ケースによっては直接管理人が講義して現場でみなさんにお見せしながら、これらの電子測量の基礎を説明して、ご自身で実践されるというのも、よいのではないかと考えてます。



1293管理人:2013/03/06(水) 07:55:43
関東方位ライン説明ビデオ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001330M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001330_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001330_3M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kantou01.mov



1294秦野北斗:2013/03/06(水) 13:46:03
Re: 関東方位ライン説明ビデオ
管理人さんへのお返事です。

関東の方位の1辺は33kmより3.71×8=29.68kmが適当でないか。
3.71×9=33.39km?

どうも、継ぎ目が目立ちますな。

九州は53km基準53÷1.2÷1.2=37.1÷10=3.71km
奈良は3.71km基準
関東は3.71×8=29.68km基準?

>
> そうですね、三角測量がキーだと思います。
>
> 関東の方位区画を考える上で出雲まで考慮したほうがよいことも確かです。
>


1295秦野北斗:2013/03/06(水) 22:56:13
Re: 関東方位ライン説明ビデオ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001332M.jpg

管理人さんへのお返事です。

古代人は相当な精度で地球の大きさを知っていたようだな。
出雲までの距離ぐらいなら、お茶の子さいさいですな。

一寸千里の法の別の方法で解くと1里は43mになる。
これを考えると方位ラインの精度はcm単位と思われる。

誤差3%程度

> そうですね、三角測量がキーだと思います。
>
> 関東の方位区画を考える上で出雲まで考慮したほうがよいことも確かです。

> このように、古墳という存在が、通説の首長墓としての機能とともに、測量用の拠点としての機能が同じくらい重要視されていることがわかります。同様に副葬品の銅鏡も王の権力を示すものとは別に測量道具だったことも明らかになるのですが、これらの測量土台として古墳の意味を理解できれば、多くの未発見の古墳や遺跡も見つかるであろうこともお判りいただけるでしょう。





1296管理人:2013/03/06(水) 23:10:22
Re: 関東方位ライン説明ビデオ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001333M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001333_2M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/kantou04.mov



1297秦野北斗:2013/03/06(水) 23:39:31
Re: 関東方位ライン説明ビデオ
管理人さんへのお返事です。

古墳の方位と別に何かの方位がありそうですな。古墳群の方位だったり・・・。
元々、3.71の倍数ですな。古墳の大きさもほぼ倍数なんですな。

3.71×3=11.1km

魏志倭人伝の里は呉尺ですな。議論の尺は隋尺

呉尺:現在の鯨尺は曲尺で1尺2寸5分である。呉服尺は1尺2寸

古墳は隋尺で鏡から見ると晋尺になる。


>
> 宝塚古墳→保渡田古墳群→天川二子山古墳→西山古墳→春日丘古墳群→石塚神社→丸山・犬塚→高城神社→八幡山古墳→宮塚八角墳→弘法山古墳→大歩古墳(香取神社)→武蔵国府(6世紀代?)
>
>
> おそらく5〜6世紀の−1度偏角の時代の方位区画なのですが、11.1km尺です。
>
> それで、最後に武蔵国府のやや東方の日吉神社周辺を拠点に入れたのですが、これはこの武蔵国府の位置がやはり動画のように53~5km尺の位置にあり、11,1km尺の方位区画の一部のように見えるからです。


1298管理人:2013/03/07(木) 07:05:20
緯度方位区画説明ビデオ
秦野北斗さんへのお返事です。


> 古代人は相当な精度で地球の大きさを知っていたようだな。
> 出雲までの距離ぐらいなら、お茶の子さいさいですな。
>
> 一寸千里の法の別の方法で解くと1里は43mになる。
> これを考えると方位ラインの精度はcm単位と思われる。
>
> 誤差3%程度
>

どうもそのようですね。地球球面を理解していたのは、ギリシャ哲学者、ヘレニズム文化に触れている必要がありますが、キリスト教時代でも見られます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

それで緯度1度分の距離は111kmとのことで、日本古代の方位測量で頻繁に出てくる11.1km尺との関わりを考えはじめました。

地球の子午線弧長は約40 008kmである。すなわち、平均的には
緯度1度の長さ 約111 km
緯度1分の長さ 約1.85 km
緯度1秒の長さ 約30.9 m
http://ja.wikipedia.org/wiki/


おそらく北燕・半島経由で東欧系技術職人が入る6世紀代は、またキリスト教徒等も入ってきますから、可能性としてあり得なくないでしょう。

もし仮に地球球体説による測量を理解していたならば、北極星の高度が緯度に比例することを理解していたはずです。それで南北の距離を出したでしょう。東西は45度の三角測量ですぐ同距離が出せたはずです。

そうすると、当時から360度を利用していましたから、36度00分、37度00分といった具合で、整数の緯度数値に古墳や遺跡が並ぶ可能性が出てきます。

そこでその緯度の低い順から関連の遺跡を追った動画を作成してみました。結果としては、やはりあるんです。
http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/ido-houikukaku.mov

遺跡紹介順は、九州の横穴墓群からはじまり、鞠智城、周防の蘇我氏の本拠・長府・忌宮神社、畿内の藤原京、平安京、そして関東の古墳や国府へと続きます。最後は東北の福島の横穴墓のあるあたりですね。

画面右上の緯度・経度数値に注目してください。33度、33度30分、34度、34度30分、35度、35度30分、36度、36度30分、37度、37度30分・・・に、古墳や宮都が見えてきます。

そしてその10分の1の0.1度つまり11.1km間隔ごとに細かい古墳や国府等が見えてきます。

諏訪・鹿島はちょっとずれてますが、もしかしたら、4世紀代あたりからすでに11.1km尺は見えるので、その影響によったかもしれません。

おそらく東欧系技術系譜を引く新漢人の流入とともに、6世紀半ばからこの北極星高度と緯度の関係による測量に切り替わった可能性を感じます。ただ、それ以前にも、同様な流れがあったのでしょう。インド方面でもすでに地球球体説は支持されていたようです。

すくなくとも、彼らは緯度が高くなるとその分北極星の高度が正確に比例して上がることに気付いていたはずです。そしてそれが360度であることもですね。やはり球面であることを理解していたと考えるべきでしょう。

1299秦野北斗:2013/03/07(木) 08:13:10
Re: 緯度方位区画説明ビデオ
管理人さんへのお返事です。

古墳間の距離を測ると、どうも3.71×8=29.9kmではないな。

関東の距離は3.71×9=33.3kmが良さそうですな。

もしかして、3.71×10=37.1km。


緯度1度の長さ 約111 km
3.71×3×10=111km

緯度1分の長さ 約1.85 km
3.71÷2=1.85km

緯度1秒の長さ 約30.9 m
3.71÷2÷60=30.9 m


> どうもそのようですね。地球球面を理解していたのは、ギリシャ哲学者、ヘレニズム文化に触れている必要がありますが、キリスト教時代でも見られます。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>
> それで緯度1度分の距離は111kmとのことで、日本古代の方位測量で頻繁に出てくる11.1km尺との関わりを考えはじめました。
>
> 地球の子午線弧長は約40 008kmである。すなわち、平均的には
> 緯度1度の長さ 約111 km
> 緯度1分の長さ 約1.85 km
緯度1秒の長さ 約30.9 m
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>
>
> おそらく北燕・半島経由で東欧系技術職人が入る6世紀代は、またキリスト教徒等も入ってきますから、可能性としてあり得なくないでしょう。
>
> もし仮に地球球体説による測量を理解していたならば、北極星の高度が緯度に比例することを理解していたはずです。それで南北の距離を出したでしょう。東西は45度の三角測量ですぐ同距離が出せたはずです。
>
> そうすると、当時から360度を利用していましたから、36度00分、37度00分といった具合で、整数の緯度数値に古墳や遺跡が並ぶ可能性が出てきます。
>
> そこでその緯度の低い順から関連の遺跡を追った動画を作成してみました。結果としては、やはりあるんです。
> http://www.michaelbroadcast.net/video/ido-houikukaku.mov
>
> 遺跡紹介順は、九州の横穴墓群からはじまり、鞠智城、周防の蘇我氏の本拠・長府・忌宮神社、畿内の藤原京、平安京、そして関東の古墳や国府へと続きます。最後は東北の福島の横穴墓のあるあたりですね。
>
> 画面右上の緯度・経度数値に注目してください。33度、33度30分、34度、34度30分、35度、35度30分、36度、36度30分、37度、37度30分・・・に、古墳や宮都が見えてきます。
>
> そしてその10分の1の0.1度つまり11.1km間隔ごとに細かい古墳や国府等が見えてきます。
>
> 諏訪・鹿島はちょっとずれてますが、もしかしたら、4世紀代あたりからすでに11.1km尺は見えるので、その影響によったかもしれません。
>
> おそらく東欧系技術系譜を引く新漢人の流入とともに、6世紀半ばからこの北極星高度と緯度の関係による測量に切り替わった可能性を感じます。ただ、それ以前にも、同様な流れがあったのでしょう。インド方面でもすでに地球球体説は支持されていたようです。
>
> すくなくとも、彼らは緯度が高くなるとその分北極星の高度が正確に比例して上がることに気付いていたはずです。そしてそれが360度であることもですね。やはり球面であることを理解していたと考えるべきでしょう。

1300棘の紀氏:2013/03/07(木) 11:57:25
緯度1度が111km
緯度1度が111km
日本で最初に地球の大きさを計算したのが、幕末の頃の伊能忠敬であった。彼は幕府の天文方暦局に入って学問に没頭し、幼い頃からの夢であった天文学の研究にも携わった。
 彼は当初、暦局がある浅草と自分の家がある深川から北極星を観測して、緯度の差が0.1度であることを求め、浅草と深川の間の距離が2kmあったことから地球の円周を計算した。
 ところがその値は誤差が大きくて信頼できないことを知り、江戸と蝦夷くらいに離れた場所で観測しなければ正確な値が得られないであろう、と考えた。そこで忠敬は日本地図を作成するための測量をしながら、江戸から蝦夷地まで行くことを思いたった。
 それから蝦夷まで行って観測を続けて緯度1度が111kmであることを求め、これから地球の大きさを39,960kmと計算した。現在知られている40,000kmに対しての誤差は、僅かに1/1000という驚異的な結果であった。
−yosh’blog 地球の大きさと伊能忠敬−
http://homepage3.nifty.com/morrio/back2/inoutadataka/inou.html
 伊能忠敬とエラトステネスの測定した地球
 BC6世紀、ミレトスのギリシア人、タレス(※)やアナクシマンドロスたちは最初に神を否定した。夜空に浮かぶ無数の星を眺めて、地球がまるいことを悟った。やがて月食の日に、地球のまるさの確証を得た。
※タレスは皆既日食(日)を知っていた。資料・『歴史』(ヘドロトス著)
 ピュタゴラス(※1)は、天球儀(地球と43個の星)をアトラスの巨神に担がせた。エラトステネス(※2)は、地球の大きさを計算した。エラトステネスは、夏至の日のアスワン(エジプト)の井戸を起点(A点)とした。アレキサンドリアをB点として、A点とB点の距離(800km)をラクダで測量した。そして、A点とB点の距離と同日のB点(測量点)の日陰の角度から、地球の大きさを数学的に測定した。その計算値(39690km)と現代科学のそれとの誤差は、わずか300kmであった。−【NHKドキュメンタリー「知への旅」】
※1・BC590〜510年頃
※2・BC284〜192年頃


1301秦野北斗:2013/03/07(木) 13:07:39
Re: 緯度1度が111km
棘の紀氏さんへのお返事です。

地球の大きさは日本では、呉 (春秋) 紀元前585年頃には知っていた模様。
常識がひっくり返るな。またまた、方位ラインに緯度が絡みましたな。

ピュタゴラス(BC590〜510年ごろ)のものか・・。

中国史籍から日本人は「呉の太伯の子孫」

呉 (春秋) - Wikipedia
呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。 ... また、呉越の激しいライバル争いから呉越同舟の言葉が生まれた。 ちなみに中国では日本人を「呉の太伯の子孫」と ...


隋尺と呉尺の関係は隋尺の1尺2寸が呉尺の1尺
鏡の大きさは隋尺で年代は晋になる。正確には晋尺だな。


いま議論中の尺は隋尺。隋尺に小里371mが存在していた。
これが地球の大きさが基準で、古墳は小里の短里、10短里間隔に成っている。


奈良の方位ライン、古墳間の距離(3.71km)が緯度1度(111km)の1/3の倍数
111÷3=37.0km 37÷10=3.71km

地球の大きさ
一寸千里の法で1000里:43.69km
隋尺に換算すると厳密には誤差1.6%
39,360km になる。

魏志倭人伝の行程の距離、測定方法についても議論した。
しかし、陳寿は漢に使えているのに呉尺で記録される。
結論は卑弥呼に聞き記録したのだろう。


> 緯度1度が111km
> 日本で最初に地球の大きさを計算したのが、幕末の頃の伊能忠敬であった。彼は幕府の天文方暦局に入って学問に没頭し、幼い頃からの夢であった天文学の研究にも携わった。
>  彼は当初、暦局がある浅草と自分の家がある深川から北極星を観測して、緯度の差が0.1度であることを求め、浅草と深川の間の距離が2kmあったことから地球の円周を計算した。
>  ところがその値は誤差が大きくて信頼できないことを知り、江戸と蝦夷くらいに離れた場所で観測しなければ正確な値が得られないであろう、と考えた。そこで忠敬は日本地図を作成するための測量をしながら、江戸から蝦夷地まで行くことを思いたった。
>  それから蝦夷まで行って観測を続けて緯度1度が111kmであることを求め、これから地球の大きさを39,960kmと計算した。現在知られている40,000kmに対しての誤差は、僅かに1/1000という驚異的な結果であった。
> −yosh’blog 地球の大きさと伊能忠敬−
> http://homepage3.nifty.com/morrio/back2/inoutadataka/inou.html
>  伊能忠敬とエラトステネスの測定した地球
>  BC6世紀、ミレトスのギリシア人、タレス(※)やアナクシマンドロスたちは最初に神を否定した。夜空に浮かぶ無数の星を眺めて、地球がまるいことを悟った。やがて月食の日に、地球のまるさの確証を得た。
> ※タレスは皆既日食(日)を知っていた。資料・『歴史』(ヘドロトス著)
>  ピュタゴラス(※1)は、天球儀(地球と43個の星)をアトラスの巨神に担がせた。エラトステネス(※2)は、地球の大きさを計算した。エラトステネスは、夏至の日のアスワン(エジプト)の井戸を起点(A点)とした。アレキサンドリアをB点として、A点とB点の距離(800km)をラクダで測量した。そして、A点とB点の距離と同日のB点(測量点)の日陰の角度から、地球の大きさを数学的に測定した。その計算値(39690km)と現代科学のそれとの誤差は、わずか300kmであった。−【NHKドキュメンタリー「知への旅」】
> ※1・BC590〜510年頃
> ※2・BC284〜192年頃
>


1302秦野北斗:2013/03/07(木) 19:11:39
Re: 緯度方位区画説明ビデオ
管理人さんへのお返事です。

スタディオンが何を意味するか不明ですな。

エジプトスタディオン157.5=3.6×43.69m 隋尺?
スタディアムの直線走路の長さは192.27=3.6×53.4m 呉尺?

■地球周長40000kmを365で割ると約109.5kmになる。つまり1時間に4.56km余のペースで立ち止まることなく太陽を追って赤道上をひたすら東進すれば、1年で元の位置に戻るということだ(※1)。古代ギリシアの陸上競技場はこのスタディオンを基準として設計されたことからスタジアムという名前が残っている。

■紀元前450年頃にオリュンピアで作られた長さ211mのスタディアムの直線走路の長さは192.27mだった。またデルポイやアテナイでは178m、エピダウロスでは181.30mと地域によってスタディオンの値が異なっていた。バビロニアのスタディオンは184m、エジプトのそれは平均179mだったことが分かっている。
http://metatron.la.coocan.jp/zone-62/numb202.htm

一寸千里の法で1000里:43.69kmから39,360km、隋尺に換算すると厳密には誤差1.6%
エラトステネスがエジプトスタディオン (157.5m)で39,375km(わずか1%程度の誤差)

元々は、地球の赤道と北極点の間の海抜ゼロにおける子午線弧長を1/10000000倍した長さを意図し、度量衡学(en)の技術発展を反映して何度か更新された。1983年(昭和58年)に基準が見直され、現在は1秒の299792458分の1の時間(約3億分の1秒)に光が真空中を伝わる距離として定義されている。言い換えると、1光秒の299792458分の1である。

この結果は250,000スタディアの地球周長を意味し、単位スタディオンをアッティカスタディオン (185m) と仮定すると、これは46,250kmに相当し、現在の値から約16%大きい。しかし、エラトステネスがエジプトスタディオン (157.5m) を使ったとすれば、彼の測定値は 39,375km(わずか1%程度の誤差)であることが分かる。いずれにしても、幾何設定と古代の状況を斟酌すれば、16%の誤差は称賛に値するものである。

地球の大きさ
一寸千里の法で1000里:43.69km
隋尺に換算すると厳密には誤差1.6%
39,360km になる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/子午線弧


1303棘の紀氏:2013/03/07(木) 20:03:31
Re: 方位ライン説明ビデオ
秦野北斗さんへのお返事です。
日本古代遺跡の謎と驚異???? √πの作図
古墳の設計者がストーンヘンジとの位置関係を考慮していた可能性を示唆します。

「白銀比」:黄金比1対1.6に対して,1対1.4
30度、60度、90度の直角3角形の辺長の比は1:2:√3であり、ベクトル平衡体はこの直角3角形を含む正4角形を4重に内包している。 http://metatron.la.coocan.jp/zone-61/torus-010.htm

西洋の黄金分割比と違い、日本の神聖 比は1対√2の比率だという。 http://blog.chase-dream.com/2013/01/22/3094

万葉集からギリシャ神話、ケルト神話まで自在に題材をとり、日本と世界、古代と現代をひとしく眺めるエッセイ八三篇。著者の目を通せば、数千年の隔たりも遠く離れた土地も、行き来は自在と気づかされる。 http://www.amazon.co.jp/古代往還―文化の普遍に出会う-中公新書-1949-中西-進/dp/4121019490/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1219285525&sr=1-1

黄金比は,正確には1対(1+√5)/2で表され,クフ王のピラミッド,アテネのパルテノン神殿,ミロのヴィーナスなど,古来,多くの建築物や芸術作品に取り入れられてきた.身近なところでは,各種カードや名刺,国旗の縦横比が黄金比になっている.
一方,白銀比は1対√2で表され,著者によると,この白銀比こそが日本の美と心を解読するための鍵となる.白銀比が用いられている身近な例としては,A版やB版といった用紙の縦横比があげられる.1対√2は,正方形の1辺と対角線の長さの比であり,丸太から最も無駄なく角材を切り出すときの断面,平安京のような碁盤の目状の都市の区画,4畳半の茶室,1坪である畳2畳,風呂敷など,いたるところに正方形が登場する日本においては,ひときわ重要な意味を持つ.また,1対√2は,法隆寺や菱川師宣の見返り美人図などにも現れるという.
このように,本書前半は,西洋における黄金比と,日本における白銀比の対比を軸に話が進められていく.黄金比について語るには,もちろんフィボナッチ数列は欠かせない. http://blog.chase-dream.com/2013/01/22/3094

六角形の謎
まず、上下の2方向に作ったとしたら、ただ壁ができるだけで. 小部屋はできません。 正方形の部屋を作る場合は、一定の長さの壁を作り、90度ずつ. 3方向にのばしていき ます。 ?. 六角形の場合は、一定の長さのかべをつくったら、120度づつ、. 2向に伸ばし て ... http://www.nara-wu.ac.jp/fuchuko/curriculum/study/Math/04sousu1/14report/14-22hexagon.htm
四角形の対角線の延び方は、/と\方向は、√2→2  つまり、1.414倍
             ←→↑↓方向は、1→1 つまり、1倍
六角形の対角線の伸び方は、/と\方向は、√3→2 つまり、2/√3=1.155倍
             ←→↑↓方向は、2→3 つまり、1.5倍

「日本古代遺跡の謎と驚異」について3
古代ギリシャに始まる、「与えられた円と等しい面積をもつ正方形を定規とコンパスで 求めよ」という、 幾何学三大問題の一、 ... この作図では、3辺の比が「1:2:√5」と「1: √5:√6」との2つの直角三角形が大きな役割を果たしています。 http://www.geocities.jp/yasuko8787/kyoui3.htm
古代ギリシャに始まる、「与えられた円と等しい面積をもつ正方形を定規とコンパスで求めよ」という、
幾何学三大問題の一、円正方化問題に対し、1882年リンデマンが作図不能という答えを出しました。

この作図では、3辺の比が「1:2:√5」と「1:√5:√6」との2つの直角三角形が大きな役割を果たしています。

そこで、太田氏は、次の資料に示すように、「益田岩船→太郎坊宮」を斜辺とする直角三角形の3辺の比が
「縦 : 横=71.76km: 36.11km=2 : 1.006」より、「2:1:√5」となることと、

「大鳥神社→石宝殿」が斜辺の直角三角形では「縦: 横=27.30km: 61.14km=1 : 2.240(≒√5)」
より、3辺の比が「1:√5:√6」となることを理由に、これらの遺跡が√πの求め方を示すというのです。

その際、「益田岩船→太郎坊宮」の意義は、その斜辺上に太安万侶墓があることによって保証されると見ます。
私は、この「1:2:√5」という捉え方に啓発されて、太安万侶墓の作為を明らかにすることができました。

益田岩船と石宝殿との結び付きは、「播磨国風土記」やその他の文献によって解説していますが、割愛します。
次の資料でいえば、「益田岩船→石宝殿」の斜辺上に来る仁徳陵がその意義を保証しているとると見ています。

なお、大鳥神社を取り込む根拠は、仁徳陵による示唆のほか、水谷氏が「知られざる古代」で、
問題にしている東西の直線の上にあるということや日本武尊を祭る神社だということなどです。

要領を得ぬ紹介ですが、、数学を苦手としない方には、興味を持っていただけるのではないでしょうか。

満月が地球の影に入る月蝕は、地上のどの観測点においても同時進行しているので、目印の星をきめて、月蝕が生ずるときのその星の高さを記録しておけば、二つの地点の経度の違いが求まる。
だから、地球の周囲の長さは、古い時代にすでに正確に計測されていたらしい。
メートル法では、北極から赤道に至る4分円弧の1千万分の1を1mと定めたので、地球の極点周囲は4万kmになる。これは216000(=360x600)オリンピック・スタディオンに等しい。 http://www.geocities.jp/yasuko8787/kyoui.htm

すなわち、600オリンピック・スタディオンが緯度1度に一致するのは、
地球の周囲の長さがに正確に計測されていた証拠である、というわけです。

また、同書では、イギリスの巨大遺跡ストーンヘンジを、エジプト・ピラミッド時代(紀元前3000年頃)の
祭司・科学者たちが、彼らの神学・技術・秘儀・科学を用いて築いたものと見ています。

太田氏は、「序章 人類の歴史は太古のマスタープランに沿ってつくられてきた」において、まず、
大阪府枚方市の牧野車塚古墳(東経135.67度)とイギリスのストーンヘンジ(西経1.84度)との
経度の差「135.67−(−1.84)=137.51」度が円周を黄金分割する角度に一致するといいます。

しかし、牧野車塚古墳は、正確に東西方向に向いている全長107mの前方後円墳というだけで、
特別な古墳ではないので、この段階では、太田氏が都合のよい地点として選んだのではないか感じます。

ところが、牧野車塚古墳がある緯度は北緯34.83度なので、
ストーンヘンジとの経度の差137.51度に対する緯線の長さは、12564.93km となり、
これを4で割ると、12564.93km/4=3.1412x10000km と円周率が出てきます。

これらの事実は、文献からは想像もつかないことですが、牧野車塚古墳の位置と向きをきめる際、
古墳の設計者がストーンヘンジとの位置関係を考慮していた可能性を示唆します。


身で実践されるというのも、よいのではないかと考えてます。

1304管理人:2013/03/07(木) 21:56:18
Re: 緯度1度が111km
秦野北斗さんへのお返事です。

> 棘の紀氏さんへのお返事です。
>
> 地球の大きさは日本では、呉 (春秋) 紀元前585年頃には知っていた模様。
> 常識がひっくり返るな。またまた、方位ラインに緯度が絡みましたな。
>

ご意見ありがとうございます。

思うに、24.5cmの魏年号銘三角縁盤龍鏡の径もしくは晋尺が、先の緯度1度の111km、0.1度で11.1kmに対応するということは、この尺を利用しはじめた7度偏角方位区画の時代、そこから正方区画になるので、変化があったことがわかります。年代的には3世紀後半〜4世紀前半でしょうか。

それ以前は5度偏角で東西10.8km(魏尺23.4~24.1cm)、南北12.1km尺で、さらに九州弥生正方位区画の時代になると、もっと南北が長くなりますね。後漢尺の23cm、10.5kmで158km尺。35度で三角測量した時代で、周ひ算径の中国式測量の可能性があります。

その後に導入された先の111kmの四方区画の中に、10等分した細かい格子状の四方区画があり、その距離が11.1km、さらにその中にまた数等分した格子区画を造ったはずですが、その区画測量は、先の緯度測量によるものではなく、糸や縄を張って距離を計るタイプの記紀の記載どおりのものだったでしょう。

その短い距離や方位出すのに使われたのが、つまり上記の銅鏡つまり分度器や定規の直径だったと思うのですが、尺単位を21~3cmから、上記の緯度計算値にあうように24.5cm尺に変化させた銅鏡を造った可能性を感じます。そのサイズにあたる三角縁盤龍鏡はそういう意味では天文測量用の特注鏡だったと言えるでしょう。

ともあれ、こういうわけで、魏・晋の時代から、中東・欧州系の地球球体説に基づく緯度測量とその道具が導入されて、しばらく7世紀代まで使用され続けたということになりそうですね。

その間に北極星測量による偏角の発生を是正するために、太陽測量へと切り替えつつ、さらに暦を正確にして偏角が生じないように改良を加えていったのでしょう。

おそらく中国や日本での尺の長短の変化も、この辺と関わってくるのかもしれません。

特に船乗りは、南方に航海するたびに北極星の位置が変化することを体感していたでしょうから、インドや南半球のアフリカまで行ったなら、もう地球が球体であることはすぐに気付いたでしょう。南方系航海集団は特に知っていた可能性を感じますね。

ソロモン王時代には、アフリカ・インド方面まで向かってますから、当然その報告もあったでしょう。その北極星緯度の変化を知らないのは中国とかギリシャとかの定地民だけではなかったのではないでしょうか。

ただ、それらを体感的に理解していても、理論化するのに、ギリシャ哲学者やヘレニズムの存在が必要だったのかもしれません。その理論化のもとで情報が整理され、シルクロード経由で入ってきた中東系サカ・月氏・ゾグド人によって、魏晋南北朝時代に半島へともたらされていく、そんな流れがあったのかもしれませんね。

1305秦野北斗:2013/03/08(金) 08:50:02
Re: 方位ライン説明ビデオ
棘の紀氏さんへのお返事です。

この尺のなぞ解けますか。

エジプトスタディオン157.5=3.6×43.69mの3.6は六十進記数法の痕跡のようだな。
六十進記数の下2桁ですな。

A3×60^3 + A2×60^2 + A1×60^1 + A0×60^0 + A-1×60^-1+ A-2×60^-2

エジプトスタディオン157.5=3.6×43.69m 隋尺?
スタディアムの直線走路の長さは192.27=3.6×53.4m 呉尺?

六十進記数法とは、60 を底とする記数法である。真の六十進記数法は60種類の数字を必要とするが、それは多過ぎるため、実際には各桁を十進法で表す方法が普通である。
シュメールおよびその後を継いだバビロニアでは六十進法が用いられた。


1306棘の紀氏:2013/03/08(金) 12:38:09
Re: 方位ライン説明ビデオ
秦野北斗さんへのお返事です。

A3×60^3 ?
例えば 2,15;30 は 2×601 + 15×600 + 30×60-1 であり、135.5 を表す。 http://ja.wikipedia.org/wiki/六十進法


>

1307管理人:2013/03/08(金) 22:14:58
畿内・横穴墓方位区画説明ビデオ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001344M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001344_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/六十進法



1308管理人:2013/03/09(土) 07:45:46
屯倉方位区画説明ビデオ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001345M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/miyake-houikukaku.mov



1309秦野北斗:2013/03/09(土) 14:20:28
Re: 方位ライン説明ビデオ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001346M.jpg

棘の紀氏さんへのお返事です。

答えになるかは不明だが、アッティカスタディオンが対応するな
同様の数値が尺に・・・。

> A3×60^3 ?

アッティカスタディオン185
緯度1度が111km:185.185 ×60
185 ×60×60×60 =39960000

エジプトスタディオン157.5
250,000スタディアの地球周長を意味し
250000×157.5=39375000

殷1尺 ≒ 158 mm
周1尺 ≒ 187 mm





1310秦野北斗:2013/03/09(土) 21:11:26
Re: 屯倉方位区画説明ビデオ
管理人さんへのお返事です。

スタディオンには2種類あり、緯度、行程距離基準の模様。

方位ラインはアッティカスタディオン(緯度基準)
古墳、遺跡距離は185 ×60=11100になる。
百舌鳥、古市古墳は11.1÷3=3.71km
11.1÷3=3.71
3.71×1.2=4.45(4.36)

行程距離はエジプトスタディオン(行程距離基準)
3.71×1.2=4.45(4.36)
4.45×1.2=5.34

アッティカスタディオンとエジプトスタディオンの関係は
185÷157.5=1.175≒1.2

アッティカスタディオンとエジプトスタディオンには紛らわしい関係がある。
3.71×1.2=4.45(4.36)が共通する。

一寸千里の法で1000里:43.69km

アッティカスタディオン185
緯度1度が111km:185.185 ×60
185 ×60×60×60 =39960000

エジプトスタディオン157.5
250,000スタディアの地球周長を意味し
250000×157.5=39375000

> 牟佐屯倉→倭屯倉→平城京大極殿→三奈木(宮津)→三宅八幡社→深草屯倉→茨田屯倉→春日部屯倉→淡路屯倉(屯倉神社)→讃岐国分寺→児島屯倉(郡・倉富二間川)→縮見屯倉(三奈木市志染)→茨田屯倉→三奈木→白猪屯倉(真庭市久世町)→三宅八幡神社→愛知の三宅関連地名など
>
> 25km、37km、73km、116~8kmの距離尺が出てきます。先の11.1km尺かなとも感じるのですが、少し大きいような気もしますね。
>
> 正方位で比較的関連地名(三(宅)・宮・御など)も残っているので、かなり判りやすい方位区画だといえるでしょう。この方位区画上に主な屯倉が載ることは、動画を見ればすぐに理解できるでしょう。
>
> あと、平城京が載ってくるのは、やはりここがもともと皇室領だった可能性を示していますね。秦・蘇我氏関連で開拓してあったところに、藤原・難波宮との南北・東西関係を考慮しながら、ここに都を置いた可能性があります。先の畿内方位区画動画を見ると、そこにさらに中臣・春日系の諸社も関わってきます。
>


1311管理人:2013/03/09(土) 21:44:55
Re: 屯倉方位区画説明ビデオ
秦野北斗さんへのお返事です。


> スタディオンには2種類あり、緯度、行程距離基準の模様。
>
> 方位ラインはアッティカスタディオン(緯度基準)
> 古墳、遺跡距離は185 ×60=11100になる。
> 百舌鳥、古市古墳は11.1÷3=3.71km
> 11.1÷3=3.71
> 3.71×1.2=4.45(4.36)
>
> 行程距離はエジプトスタディオン(行程距離基準)
> 3.71×1.2=4.45(4.36)
> 4.45×1.2=5.34
>
> アッティカスタディオンとエジプトスタディオンの関係は
> 185÷157.5=1.175≒1.2
>
> アッティカスタディオンとエジプトスタディオンには紛らわしい関係がある。
> 3.71×1.2=4.45(4.36)が共通する。
>
> 一寸千里の法で1000里:43.69km
>
> アッティカスタディオン185
> 緯度1度が111km:185.185 ×60
> 185 ×60×60×60 =39960000
>
> エジプトスタディオン157.5
> 250,000スタディアの地球周長を意味し
> 250000×157.5=39375000
>


確かに興味深い考察ですね。数値的にはかなりいい線ついているような気がします。
秦野距離とも関係するのではないですかね。

イラン系・東欧系、どちらの測量にもギリシャ・エジプトの尺度が適用されていたでしょう。
それが古代中国や南北朝時代の東アジア測量にも影響していたとすると面白い話です。

こういうのを、どこかで発表するといいのではないでしょうか。
天文学史みたいな分野になるでしょうか。

こちら天文学会。会員になると雑誌投稿できるようです。
http://www.asj.or.jp/geppou/


こちらは歴史学会ですね。あまりその辺の知識ないのですが、おそらく投稿できるはず??
http://www.yoshikawa-k.co.jp

データ、資料面で必要な情報は、管理人のほうでも提供いたします。


1312秦野北斗:2013/03/09(土) 22:00:50
Re: 屯倉方位区画説明ビデオ
管理人さんへのお返事です。

ところで、屯倉の遺跡は発掘されてますかな。


> この動画における屯倉拠点・遺跡の紹介順は下記のとおりです。
>
> 牟佐屯倉→倭屯倉→平城京大極殿→三奈木(宮津)→三宅八幡社→深草屯倉→茨田屯倉→春日部屯倉→淡路屯倉(屯倉神社)→讃岐国分寺→児島屯倉(郡・倉富二間川)→縮見屯倉(三奈木市志染)→茨田屯倉→三奈木→白猪屯倉(真庭市久世町)→三宅八幡神社→愛知の三宅関連地名など
>
> 25km、37km、73km、116~8kmの距離尺が出てきます。先の11.1km尺かなとも感じるのですが、少し大きいような気もしますね。
>
> 正方位で比較的関連地名(三(宅)・宮・御など)も残っているので、かなり判りやすい方位区画だといえるでしょう。この方位区画上に主な屯倉が載ることは、動画を見ればすぐに理解できるでしょう。
>
> あと、平城京が載ってくるのは、やはりここがもともと皇室領だった可能性を示していますね。秦・蘇我氏関連で開拓してあったところに、藤原・難波宮との南北・東西関係を考慮しながら、ここに都を置いた可能性があります。先の畿内方位区画動画を見ると、そこにさらに中臣・春日系の諸社も関わってきます。
>


1313管理人:2013/03/09(土) 23:01:16
Re: 屯倉方位区画説明ビデオ
秦野北斗さんへのお返事です。


> ところで、屯倉の遺跡は発掘されてますかな。
>

細かい話になると長くなるので、下記ご参照ください。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=屯倉 遺跡&ei=UTF-8&fr=appsfch2

ともあれ、屯倉の場合は遺跡が出土しなくても、三宅など関連の地名や社名だけでもかなり正確な位置がつかめるのが特徴的です。神社だと地域はもう限定されますね。字名だとその地域内で若干の誤差がでてくるでしょう。

先の動画のようにある程度法則性がつかめれば、逆に方位区画から屯倉のあった位置を推定できるでしょう。

歴史学は、あくまで法則性を見つける学問で、ただ資料や知識を収集提示するだけなら、今のパソコン時代にいたっては研究者でなくても可能です。

やはり新しい論文や本を出すということは、新しい理論や視点が提示されてないと、あまり書いてもしょうがないと思うんですが、秦野さんの距離関連の指摘には理論的な部分があるので興味深く感じてます。


1314管理人:2013/03/10(日) 07:05:48
屯倉方位区画動画修正版です。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001354M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/miyake-houikukaku.mov



1315秦野北斗:2013/03/10(日) 08:24:12
Re: 屯倉方位区画動画修正版です。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001355M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001355_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001355_3M.jpg

http://www.asj.or.jp/geppou/



1316荊の紀氏:2013/03/10(日) 17:29:27
Re: 方位ライン説明ビデオ
秦野北斗さんへのお返事です。

> 棘の紀氏さんへのお返事です。
>
> 答えになるかは不明だが、アッティカスタディオンが対応するな
> 同様の数値が尺に・・・。
>
> > A3×60^3 ?
>
> アッティカスタディオン185
> 緯度1度が111km:185.185 ×60
> 185 ×60×60×60 =39960000
>
> エジプトスタディオン157.5
> 250,000スタディアの地球周長を意味し
> 250000×157.5=39375000
>
> 殷1尺 ≒ 158 mm
> 周1尺 ≒ 187 mm
>
>

キュービットを表す象形文字は「肘」・・・ム(私)台

500mm前後になっている。エジプトのキュービットを表す象形文字は「肘」そのもの
肘を曲げたさまにかたどる。 ... ひいて、水神として祭 られた天使禹王の意。 http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1260

太古の人は地球周長の4000万mから40mを引いた3999万9960mに相当する単位系を用いていたらしい。この数は1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,113,14,15、及び18,20,21,22,24,26,27,28,30,33,35,36,37,39,40,42,44,45,52,54,55,56,60…と多数の約数が存在する。
たとえば虚数累乗がi、−1、−i、+1で循環するように、この4色は5以降もずっと 繰り返す。ラジオ体操で「 .... 古代ギリシアの陸上競技場はこのスタディオンを基準として 設計されたことからスタジアムという名前が残っている。 http://metalogue.jugem.jp/?month=201201
地球から見て公転軌道が1つ内側にある金星と1つ外側にある火星を考えれば、地球−金星の会合周期584日と、地球−火星の会合周期780日の比はほぼぴったり3:4である。私たちの聴覚によって成り立つ音楽における4度の音程、たとえばドとファの振動数比もまた3:4になっている。また正6面体と正8面体の中接球を共有させた相貫体で考えれば、この2立体の体積比もまた3:4になっている。

ピラミッドの建設には2種類のキューピッドが用いられていたことをアイザック・ニュートンも認めているが、この463mmと524mmの2つの数値の間には円積問題の関係があることが分かった。つまり図に示したように463mmを1辺にとった正方形の面積と、524mmを直径にとった円の面積と等しいということだ。
1メートル≒ダブルキュービット=60ディジット=3フィート=12ハンド

冪乗(べきじょう)、または累乗(るいじょう)は、ある一つの数同士を繰り返し掛け合わせるという操作のこと、あるいはそれによって得られる数のことである。単に冪(べき)ともいう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/
「冪」の文字はもともと「覆う、覆うもの」という意味の漢字である。江戸時代の和算家は略字として「巾」を用いた[1]。常用漢字・当用漢字に含まれなかったことから1950年代以降、出版物などでは仮名書きまたは「累乗」への書き換えが進められた。結果として初等数学の教科書ではもっぱら「累乗」が用いられ、「冪」や「冪乗」という用語は排除されたが、一方で「降べき順」「昇べき順」というような用語の一部としては残ったままになっている。

地球1周の距離が、 約40000kmですから、. 40000÷360≒111で、. 111kmになります 。 緯線上の距離は、赤道上の距離に対して、 cos(緯度)の関係になります。 赤道上の 経度1°は、緯度1°とほぼ同じですが、日本付近の北緯35°の緯線上の経度1度の距離 ... http://www.geocities.jp/geo_net21/map_fusigi/choriho/ido.htm
赤道上の経度1°は、緯度1°とほぼ同じですが、日本付近の北緯35°の緯線上の経度1度の距離は、
111km×cos35(0.819)で、
約90.9kmとなり、赤道に比べて2割ほど短くなります。


1317秦野北斗:2013/03/10(日) 21:42:29
Re: 方位ライン説明ビデオ
荊の紀氏さんへのお返事です。

古代から長さの単位は絶対を求めたのだろうな。

エジプトスタディオン157.5m
アッティカスタディオン185m

殷1尺 ≒ 158 mm
周1尺 ≒ 187 mm


里も同様に地球周長を90,000で割ったのだろうな。

1里=40,000,000m÷90,000=444m

一寸千里の法で1000里:43,690m
1里=43.69mになるため、里は1/10の短里になる。
短里=44.4m

Wikipediaより

元々は、地球の赤道と北極点の間の海抜ゼロにおける子午線弧長を1/10000000倍した長さを意図し、度量衡学(en)の技術発展を反映して何度か更新された。1983年(昭和58年)に基準が見直され、現在は1秒の299792458分の1の時間(約3億分の1秒)に光が真空中を伝わる距離として定義されている[7]。言い換えると、1光秒の299792458分の1である。



>
> キュービットを表す象形文字は「肘」・・・ム(私)台
>
> 500mm前後になっている。エジプトのキュービットを表す象形文字は「肘」そのもの
> 肘を曲げたさまにかたどる。 ... ひいて、水神として祭 られた天使禹王の意。 http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1260
>
> 太古の人は地球周長の4000万mから40mを引いた3999万9960mに相当する単位系を用いていたらしい。この数は1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,113,14,15、及び18,20,21,22,24,26,27,28,30,33,35,36,37,39,40,42,44,45,52,54,55,56,60…と多数の約数が存在する。
> たとえば虚数累乗がi、−1、−i、+1で循環するように、この4色は5以降もずっと 繰り返す。ラジオ体操で「 .... 古代ギリシアの陸上競技場はこのスタディオンを基準として 設計されたことからスタジアムという名前が残っている。 http://metalogue.jugem.jp/?month=201201
> 地球から見て公転軌道が1つ内側にある金星と1つ外側にある火星を考えれば、地球−金星の会合周期584日と、地球−火星の会合周期780日の比はほぼぴったり3:4である。私たちの聴覚によって成り立つ音楽における4度の音程、たとえばドとファの振動数比もまた3:4になっている。また正6面体と正8面体の中接球を共有させた相貫体で考えれば、この2立体の体積比もまた3:4になっている。
>
> ピラミッドの建設には2種類のキューピッドが用いられていたことをアイザック・ニュートンも認めているが、この463mmと524mmの2つの数値の間には円積問題の関係があることが分かった。つまり図に示したように463mmを1辺にとった正方形の面積と、524mmを直径にとった円の面積と等しいということだ。
> 1メートル≒ダブルキュービット=60ディジット=3フィート=12ハンド
>
> 冪乗(べきじょう)、または累乗(るいじょう)は、ある一つの数同士を繰り返し掛け合わせるという操作のこと、あるいはそれによって得られる数のことである。単に冪(べき)ともいう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/
> 「冪」の文字はもともと「覆う、覆うもの」という意味の漢字である。江戸時代の和算家は略字として「巾」を用いた[1]。常用漢字・当用漢字に含まれなかったことから1950年代以降、出版物などでは仮名書きまたは「累乗」への書き換えが進められた。結果として初等数学の教科書ではもっぱら「累乗」が用いられ、「冪」や「冪乗」という用語は排除されたが、一方で「降べき順」「昇べき順」というような用語の一部としては残ったままになっている。
>
> 地球1周の距離が、 約40000kmですから、. 40000÷360≒111で、. 111kmになります 。 緯線上の距離は、赤道上の距離に対して、 cos(緯度)の関係になります。 赤道上の 経度1°は、緯度1°とほぼ同じですが、日本付近の北緯35°の緯線上の経度1度の距離 ... http://www.geocities.jp/geo_net21/map_fusigi/choriho/ido.htm
> 赤道上の経度1°は、緯度1°とほぼ同じですが、日本付近の北緯35°の緯線上の経度1度の距離は、
> 111km×cos35(0.819)で、
> 約90.9kmとなり、赤道に比べて2割ほど短くなります。
>

1318管理人:2013/03/11(月) 20:22:36
Re: 屯倉方位区画動画修正版です。
秦野北斗さんへのお返事です。


> 方位区画の基点にズレがありますな。74kmで区切ると池上・曽根遺跡が・・・
> 以前から規模から屯倉のようですな。
>
> 方位区画の一つの案ですな。

時代は屯倉の時代からはるか昔の弥生時代ですから、弥生後期の区画に載っても、屯倉方位区画には載らないでしょう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/

方位区画上の遺跡や古墳は時代が揃ってますが、時たま吉野ヶ里や出雲大社のように、過去の古い遺跡が拠点として利用され続けるケースはあります。

逆に言うと、年代の不明だった遺跡や古墳の年代推定も、その方位区画の是非によって判断できる点で便利です。

1319管理人:2013/03/11(月) 23:13:04
マキムク型前方後円墳方位区画動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001360M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001360_3M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/makimukugata-01.mov



1320管理人:2013/03/12(火) 06:48:17
九州マキムク型古墳方位区画動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001361M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/makimukugata-02.mov



1321管理人:2013/03/12(火) 18:45:07
Re: 神風特別攻撃隊の実像
ねこさんへのお返事です。

> 神風特別攻撃隊の実像
>
> http://book.geocities.jp/japan_conspiracy/0202/p003.html#page119
> http://book.geocities.jp/japan_conspiracy/Y02/jrey2028.html#79B
>
> 出撃の前の晩、酒を飲んで暴れる隊員に、憲兵隊さえも手がつけられなかった。
>

さっそくお知らせありがとうございました。
個人的にちょっと勉強になりました。

連合国側の視点というのも、いろいろ考えさせられますね。


1322秦野北斗:2013/03/12(火) 21:09:22
Re: 九州マキムク型古墳方位区画動画
管理人さんへのお返事です。

見方を変えて・・・。

屯倉は日本書紀(継体訓)の文章に「海表の蕃屏(まがき)」・・。

文章から国の境界は海岸線の長さで定まると読める。

国は海岸線の長さで定まり、各国に屯倉が置かれた。だな。

「国毎に初めて―を置きて、海表の蕃屏(まがき)として/日本書紀(継体訓)」

海岸線を測れば100kmぐらいになるか。


みやけ 0 【〈屯倉〉/〈官家〉】
〔「み」は接頭語。「やけ」は「やか(宅・家)」の転。稲穀を納める官の倉の意〕

(1)大化前代、大和政権直轄の田畑。自ら畿内に開発したもの、地方豪族が所領の一部を献上したもの、地方に設定して中央から管理者を派遣して管理したものなどがあった。
(2)(「官家」と書く)日本書紀によれば、大和政権が朝鮮南部の諸国に置いた直轄地。うちつみやけ。
「国毎に初めて―を置きて、海表の蕃屏(まがき)として/日本書紀(継体訓)」
(3)朝廷。
「―の船枯野と名(なづ)くるは伊豆国の貢ぐ所の船なり/日本書紀(応神訓)」





> タテツキ墳丘墓→宮山展望古墳(三輪)→中山茶臼山古墳→開化天皇陵(宮)→椿井大塚山古墳→桜井茶臼山古墳→新宝院山古墳→浅間山古墳→分校マエ山古墳→神戸4号墳(上総国分寺付近)→出雲大社→萩原1号墳→山戸4号墳→愛媛・大久保1号墳
>
> ここで183km尺61km尺が見える事に気付きます。おそらく105kmの後漢尺です。
>
> おおむね正方位ですが、一部椿井大塚山など7度偏角の方位区画と重なります。
>
> そして、春日系の神社や宮が多く関係してきますね。同時に三輪・山戸といった地名とも関わります。
>
> その辺の詳細は昨年論議したとおりで、また会報第4号をご参照いただきたいのですが、九州のマキムク型の方位区画についての動画は、後でまた提示いたします。


1323管理人:2013/03/12(火) 22:09:19
Re: 方位ライン説明ビデオ
秦野北斗さんへのお返事です。

> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> 古代から長さの単位は絶対を求めたのだろうな。
>
> エジプトスタディオン157.5m
> アッティカスタディオン185m
>
> 殷1尺 ≒ 158 mm
> 周1尺 ≒ 187 mm
>
>
>

あと、キュビットの件は下記の記載があります。

それ以外の多くの西洋の文化も、キュビットは使われた。ペルシャのキュビットは 52〜64 cm、古代ギリシャでは π?χυς(pechys; ペーキュス)と呼ばれ約 47.4 cm、古代ローマでは cubitus と呼ばれて約 44.46 cm、アラブでは arsh と呼ばれて 48〜64 cm であった。ユダヤでは ??????(アマ)と呼ばれて 46〜61 cm であるが、これは今日でもユダヤ教で用いられている。
古代イスラエルでは、第一神殿時代のキュビットは 428 mm であった。第二神殿時代には、一般的には 445 mm のキュビットが使われていたが、宗教的な目的には 437 mm のキュビットが使用されて


古代ローマの長さの単位 [編集]

古代ローマの長さの単位(英名)ラテン語名原義ペース換算メートル換算
1 ディジット(digit)digitus指1?160.0185 m
1 インチ(inch)uncia(1単位の)
12分の11?120.0246 m
1 パーム(palm)palmus手のひら(palma)1?40.074 m
1 ペース(foot)pes足10.296 m
1 キュビット(cubit)cubitusひじ(cubitum)1 1?20.444 m
1 ステップ(step)gradus歩み、一歩2 1?20.74 m
1 パッスス(pace)passus歩み51.48 m
1 パーチ(perch)pertica棹102.96 m
1 アルパン(arpent)actus12035.5 m
1 スタディオン(stadium)stadium競走用のトラック625185 m
1 マイル(mile)milliarium(1000パッススごとの)里程標5,0001,480 m
1 リーグ(league)leuga--7,5002,220 m


http://ja.wikipedia.org/wiki/

古墳時代の方位区画にしきりに出てくる11.1km、22.2km尺は、1 リーグ2.22km尺とも対応するでしょう。

また先の動画を見ていただくとわかるように、7.3~4kmも出てきます。上記の1 ステップ(step)つまり歩ですね。

三角縁の平均直径は、21.7~22.2cm前後です。23.7cmというのもあり、測量用の盤龍鏡が24.5cm ですが.


ローマキュビットの半分です。

イスラエルのキュビットは下記のとおりです。


単位メートル法聖書箇所文語訳口語訳新改訳新共同訳備考
アツバオット約1.85cmエレミヤ書52章21節指指指指聖書の中で一番短い長さの単位
アマー約44cm創世記6章などキユビトキュビトキュビトアンマひじを曲げたときの角から中指の先までの長さである
カニイム約300cmエゼキエル書42章16節竿キュビトさおアンマ1「さお」を500キュビトとする説もある
ペーキュス約45cmヨハネの黙示録21章17節など尺キュビトペーキュススタディオン新しいエルサレムの城壁が144ペーキュスであった
スタディオン約18,500cm黙示録14章20節など町丁スタディオンスタディオン「基準」という意味である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


ammah "cubit" ca. 44.63 cm;
http://moziani.tripod.com/home/dr_ed07e.htm




アマーが44,63cmですね。ベーキュスも45cm、144ベーキュスは64.8m

最後の黙示録のステディオンはローマ時代のそれでしょう。


ヤタの鏡は、平原鏡の46.5cmですが、漢尺の2倍長、桜井茶臼山のは、38cmで、19cm尺の2倍になりそうですね。


奈良県桜井市の前方後円墳、桜井茶臼山古墳(全長約200メートル、3世紀末〜4世紀 初め)に副葬された銅鏡が81枚 ... 枚のほか、※製(ぼうせい)(日本製)の大型内行花 文鏡(ないこうかもんきょう)(直径約38センチ)なども含まれていた。
http://blog.livedoor.jp/n2suydof/archives/51311268.html


シュメール
H. 39 cm (15 Â? in.), W. 46.5 cm (18 Â? in.) .... {{Information |Description={{en|1 =Nippur cubit, graduated specimen of an ancient measure from Nippur, Mesopotamia (3rd millennium B.C.) â “ exposed in .... It is a dated and signed receipt written by a scribe called Ur-Amma for the delivery of beer, by a brewer named Alulu.

Ur-Amma(ウル王朝のアマー)が39cm、46.5cmということでしょうか・・。ヤタの鏡と桜井の鏡の直径46.5cm、 38cmに合いそうですね。



1324秦野北斗:2013/03/13(水) 03:10:04
Re: 方位ライン説明ビデオ
管理人さんへのお返事です。

古代史がここまで追及できたのですから専門家に見てもらいたいものですな。
まとめて、PDF原稿をアップして販売しましょうか。


スタディオン、キュビットを比較すると里の存在は民族の移動の歴史のようだな。
スタディオンは殷、周。キュビットは夏、三苗に成る。

殷1尺 ≒ 158 mm エジプトスタディオン
周1尺 ≒ 187 mm アッティカスタディオン

殷、周、以前は夏、三苗から夏、三苗はノアの方舟の末裔の可能性がある。
キュビットと里は同一と思われる。

里も同様に地球周長を90,000で割ったのだろうな。
1里=40,000,000m÷90,000=444m

西洋の文化、古代ギリシャでは π?χυς(pechys; ペーキュス)と呼ばれ約 47.4 cm、古代ローマでは cubitus と呼ばれて約 44.46 cm、アラブでは arsh と呼ばれて 48〜64 cm であった。

古代イスラエルでは、第一神殿時代のキュビットは 428 mm であった。第二神殿時代には、一般的には 445 mm のキュビットが使われていたが、宗教的な目的には 437 mm のキュビットが使用されて

その痕跡が大宝律令の尺(秦野距離)は呉尺で隋尺の関係がものがたり、古墳
方位に影響を残すことに成った。

魏志倭人伝、呉尺の短里、古事記の鏡の大きさは呉尺。
古墳距離は呉尺から隋(晋)尺換算、アッティカスタディオンになる。


キュビットは、紀元前6000年ごろの古代メソポタミアで生まれたとされている。

ノアの方舟(ノアのはこぶね、英語: Noah's Ark)は、旧約聖書の『創世記』(6章-9章)
方舟は「長さ300キュビト、幅50キュビト、高さ30キュビト」で3つのデッキを持っている。

これらは、総てが地球の円周距離が生んだ距離の様ですな。

エジプトスタディオン157.5
250,000スタディアの地球周長を意味し
250000×157.5=39375000

アッティカスタディオン185
緯度1度が111km:185.185 ×60
185 ×60×60×60 =39960000

里も同様に地球周長を90,000で割ったのだろうな。
1里=40,000,000m÷90,000=444m

大宝律令の尺(秦野距離)は呉尺で隋尺の関係は1.2倍になる。

呉尺     隋(晋)尺
35.6 cm÷1.2=29.6 cm(大尺)
29.6 cm÷1.2=24.6 cm(小尺)

呉代、隋代の尺を里に当て嵌めるならば、大里、小里が存在する。

呉尺     隋(晋)尺
533.5 m(里)÷1.2=444 m(大里)
444 m(大里)÷1.2=370m(小里)

アッティカスタディオンとエジプトスタディオンの比
185÷157.5=1.175≒1.2

周と呉の時期に1.2が存在する。何かあったのだろうな。歴史のほころびですな。

> あと、キュビットの件は下記の記載があります。
>
> それ以外の多くの西洋の文化も、キュビットは使われた。ペルシャのキュビットは 52〜64 cm、古代ギリシャでは π?χυς(pechys; ペーキュス)と呼ばれ約 47.4 cm、古代ローマでは cubitus と呼ばれて約 44.46 cm、アラブでは arsh と呼ばれて 48〜64 cm であった。ユダヤでは ??????(アマ)と呼ばれて 46〜61 cm であるが、これは今日でもユダヤ教で用いられている。
> 古代イスラエルでは、第一神殿時代のキュビットは 428 mm であった。第二神殿時代には、一般的には 445 mm のキュビットが使われていたが、宗教的な目的には 437 mm のキュビットが使用されて
>
>
> 古代ローマの長さの単位 [編集]
>
> 古代ローマの長さの単位(英名)ラテン語名原義ペース換算メートル換算
> 1 ディジット(digit)digitus指1?160.0185 m
> 1 インチ(inch)uncia(1単位の)
> 12分の11?120.0246 m
> 1 パーム(palm)palmus手のひら(palma)1?40.074 m
> 1 ペース(foot)pes足10.296 m
> 1 キュビット(cubit)cubitusひじ(cubitum)1 1?20.444 m
> 1 ステップ(step)gradus歩み、一歩2 1?20.74 m
> 1 パッスス(pace)passus歩み51.48 m
> 1 パーチ(perch)pertica棹102.96 m
> 1 アルパン(arpent)actus12035.5 m
> 1 スタディオン(stadium)stadium競走用のトラック625185 m
> 1 マイル(mile)milliarium(1000パッススごとの)里程標5,0001,480 m
> 1 リーグ(league)leuga--7,5002,220 m
>
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>
> 古墳時代の方位区画にしきりに出てくる11.1km、22.2km尺は、1 リーグ2.22km尺とも対応するでしょう。
>
> また先の動画を見ていただくとわかるように、7.3~4kmも出てきます。上記の1 ステップ(step)つまり歩ですね。
>
> 三角縁の平均直径は、21.7~22.2cm前後です。23.7cmというのもあり、測量用の盤龍鏡が24.5cm ですが.
>
>
> ローマキュビットの半分です。
>
> イスラエルのキュビットは下記のとおりです。
>
>
> 単位メートル法聖書箇所文語訳口語訳新改訳新共同訳備考
> アツバオット約1.85cmエレミヤ書52章21節指指指指聖書の中で一番短い長さの単位
> アマー約44cm創世記6章などキユビトキュビトキュビトアンマひじを曲げたときの角から中指の先までの長さである
> カニイム約300cmエゼキエル書42章16節竿キュビトさおアンマ1「さお」を500キュビトとする説もある
> ペーキュス約45cmヨハネの黙示録21章17節など尺キュビトペーキュススタディオン新しいエルサレムの城壁が144ペーキュスであった
> スタディオン約18,500cm黙示録14章20節など町丁スタディオンスタディオン「基準」という意味である。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>
>
> ammah "cubit" ca. 44.63 cm;
> http://moziani.tripod.com/home/dr_ed07e.htm
>
>
>
>
> アマーが44,63cmですね。ベーキュスも45cm、144ベーキュスは64.8m
>
> 最後の黙示録のステディオンはローマ時代のそれでしょう。
>
>
> ヤタの鏡は、平原鏡の46.5cmですが、漢尺の2倍長、桜井茶臼山のは、38cmで、19cm尺の2倍になりそうですね。
>
>
> 奈良県桜井市の前方後円墳、桜井茶臼山古墳(全長約200メートル、3世紀末〜4世紀 初め)に副葬された銅鏡が81枚 ... 枚のほか、※製(ぼうせい)(日本製)の大型内行花 文鏡(ないこうかもんきょう)(直径約38センチ)なども含まれていた。
> http://blog.livedoor.jp/n2suydof/archives/51311268.html
>
>
> シュメール
> H. 39 cm (15 Â? in.), W. 46.5 cm (18 Â? in.) .... {{Information |Description={{en|1 =Nippur cubit, graduated specimen of an ancient measure from Nippur, Mesopotamia (3rd millennium B.C.) â “ exposed in .... It is a dated and signed receipt written by a scribe called Ur-Amma for the delivery of beer, by a brewer named Alulu.
>
> Ur-Amma(ウル王朝のアマー)が39cm、46.5cmということでしょうか・・。ヤタの鏡と桜井の鏡の直径46.5cm、 38cmに合いそうですね。
>
>


1325棘の紀氏:2013/03/13(水) 12:41:46
Re: 方位ライン説明ビデオ
秦野北斗さん管理人さんへのお返事です。

> 周と呉の時期に1.2が存在する。何かあったのだろうな。歴史のほころびですな。

呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉,勾?。 http://ja.wikipedia.org/wiki/呉_(春秋)

周(しゅう、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。また、時代の名前にも使い、「周代(西周、英語:Western Zhou)」と言えば、紀元前1046年頃から、遷都して東周となるまでの紀元前771年の間のことを指す。国姓は姫(き)。周代において中国高文明が成立したとみられる http://ja.wikipedia.org/wiki/

呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)

エゼキエルは紀元前600年頃創造の 神を幻視した時、4つの車輪をみた。 https://twitter.com/onomaro/status/21726782022

紀元前6世紀、ピュタゴラスは2,3,5という数の平方根は全ての形態を創出する根本的特性であるということを発見した。



1326管理人:2013/03/13(水) 20:57:11
三角縁神獣鏡方位区画動画-1
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001367M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001367_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001367_3M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/sankakubuchi-7do-houikukaku.mov



1327管理人:2013/03/13(水) 23:18:26
三角縁神獣鏡方位区画動画-2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001368M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/sankakubuchi-7do-houikukaku.mov



1328秦野北斗:2013/03/14(木) 06:32:07
Re: 三角縁神獣鏡方位区画動画-1
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001369M.jpg

管理人さんへのお返事です。

海表の蕃屏(まがき)、屯倉数500ケ所の確定ですな。

日本地図の海岸線が各県ほぼ同距離に見える。

例外で内陸部があるが後日検討する事で議論したい。


> 屯倉は日本書紀(継体訓)の文章に「海表の蕃屏(まがき)」・・。
>
> 文章から国の境界は海岸線の長さで定まると読める。
>
> 国は海岸線の長さで定まり、各国に屯倉が置かれた。だな。
>
> 「国毎に初めて―を置きて、海表の蕃屏(まがき)として/日本書紀(継体訓)」
>
> 海岸線を測れば100kmぐらいになるか。


> 続いて、年号銘鏡を含んだ三角縁神獣鏡方位区画もアップしました。
>??動画の遺跡紹介順は下記のとおりです。
>
>??神原神社古墳→森尾古墳→西求女塚古墳→椿井大塚山古墳→温江山古墳→宇佐・赤塚古墳→白鳥古墳→多武峰→西山古墳→桜井茶臼山古墳→崇神陵→春日率川宮→椿井大塚山古墳です。
>
> どうも先の方位区画と同じ偏角なので、結局は先の動画や方位区画と同じで、三角縁神獣鏡方位区画の前期は7度に統一できそうですね。そうすると、5度偏角の奈良都城方位区画の時代は、やはり弥生末で三角縁以前となるでしょうか。




1329管理人:2013/03/14(木) 21:59:59
三角縁神獣鏡方位区画動画-3
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001370M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001370_2M.png

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/sankakubuchi-1do-houikukaku.mov



1330管理人:2013/03/14(木) 23:21:08
追伸・三角縁神獣鏡方位区画動画-3
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001371_3M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/sankakubuchi-1do-houikukaku-b.mov



1331管理人:2013/03/15(金) 06:30:51
Re: 方位ライン説明ビデオ
秦野北斗さんへのお返事です。


> 古代史がここまで追及できたのですから専門家に見てもらいたいものですな。
> まとめて、PDF原稿をアップして販売しましょうか。
>


そうですね、ただちょっと改訂版を用意する必要がありそうです。
ページ数が多くなればなるほど、どうしても誤字脱字や補足説明などもでてきますね。

できれば、理系の論文みたいにペーパー1枚で終わらせて、どこかの雑誌に投稿するのがベストです。

ただ、方位区画みたいに、いろいろ長い補足説明がないと理解できないケースではどうしても本や電子ブックにする必要もあるでしょう。特に方位区画の図はカラーで図が拡大できる電子ブックのほうがベストですね。それに加えて、次版は方位区画説明DVDも会報に付属させる予定です。

まだ意見を聴いてないので判らないのですが、たぶん方位区画は動画がないと、その理解や証明は無理ではないかと感じてます。

それをペーパーだけで証明しようとすると、各遺跡の緯度・経度と誤差(%)を付記する必要がありますが、ただ各遺跡間を結ぶ方位区画は南北東西4方向から他の遺跡との兼ね合いで、精度検証しないと行けないので、それをいちいち証明していくと、電話帳サイズになるかもしれません。

その点でやはり動画で直感的に「三辺合同」「二辺挟角」で論理を理解していただくのがベストかもしれません。

今までの古代史で、動画が証明題材になったケースは、先の藤井さんの本に付属している条件異音の際の口の動きを収録した動画CDだけではないでしょうか。

> スタディオン、キュビットを比較すると里の存在は民族の移動の歴史のようだな。
> スタディオンは殷、周。キュビットは夏、三苗に成る。
>
> 殷1尺 ≒ 158 mm エジプトスタディオン
> 周1尺 ≒ 187 mm アッティカスタディオン
>
> 殷、周、以前は夏、三苗から夏、三苗はノアの方舟の末裔の可能性がある。
> キュビットと里は同一と思われる。
>
> 里も同様に地球周長を90,000で割ったのだろうな。
> 1里=40,000,000m÷90,000=444m
>



1332秦野北斗:2013/03/15(金) 14:42:21
Re: 方位ライン説明ビデオ
管理人さんへのお返事です。

了解ですな。

例として、古代史が身近にあることを強調するのはどうですかな。

百舌鳥、古市古墳の間隔距離。3.71km

釜山(フザン、狗耶韓国)対馬と鰐浦の間隔距離。53km
徐福と邪馬台国の秦野距離

管理人さんの九州方位がいいな。これは九州にはインパクトがあるぞ。

上記3件は図とする。簡単な説明をでいいですな。

理系の論文みたいなペーパー1枚+3件の図と簡単な説明


> そうですね、ただちょっと改訂版を用意する必要がありそうです。
> ページ数が多くなればなるほど、どうしても誤字脱字や補足説明などもでてきますね。
>
> できれば、理系の論文みたいにペーパー1枚で終わらせて、どこかの雑誌に投稿するのがベストです。
>
> ただ、方位区画みたいに、いろいろ長い補足説明がないと理解できないケースではどうしても本や電子ブックにする必要もあるでしょう。特に方位区画の図はカラーで図が拡大できる電子ブックのほうがベストですね。それに加えて、次版は方位区画説明DVDも会報に付属させる予定です。
>
> まだ意見を聴いてないので判らないのですが、たぶん方位区画は動画がないと、その理解や証明は無理ではないかと感じてます。
>
> それをペーパーだけで証明しようとすると、各遺跡の緯度・経度と誤差(%)を付記する必要がありますが、ただ各遺跡間を結ぶ方位区画は南北東西4方向から他の遺跡との兼ね合いで、精度検証しないと行けないので、それをいちいち証明していくと、電話帳サイズになるかもしれません。
>
> その点でやはり動画で直感的に「三辺合同」「二辺挟角」で論理を理解していただくのがベストかもしれません。
>
> 今までの古代史で、動画が証明題材になったケースは、先の藤井さんの本に付属している条件異音の際の口の動きを収録した動画CDくらいではないでしょうか。
>
> > スタディオン、キュビットを比較すると里の存在は民族の移動の歴史のようだな。
> > スタディオンは殷、周。キュビットは夏、三苗に成る。
> >
> > 殷1尺 ≒ 158 mm エジプトスタディオン
> > 周1尺 ≒ 187 mm アッティカスタディオン
> >
> > 殷、周、以前は夏、三苗から夏、三苗はノアの方舟の末裔の可能性がある。
> > キュビットと里は同一と思われる。
> >
> > 里も同様に地球周長を90,000で割ったのだろうな。
> > 1里=40,000,000m÷90,000=444m
> >
>
>


1333管理人:2013/03/15(金) 23:13:13
奈良都城区劃説明ビデオ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001374_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001374_3M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/nara-tojyoukukaku.mov

http://



1334棘の紀氏:2013/03/15(金) 23:58:59
最初の日本地図?!
 日本で最初に作成された地図として記録が残っているものは、大化の改新(645年)で土地の測量を行なった時の田や国有地を記したといわれる「田図(でんず)」だといわれていますが、残念ながら実物は残っていません。
 現存しているもので最も古いのは、天平勝宝3(751)年の「東大寺領近江国水沼村墾田図」という地籍図(図1)です。これは絵地図で、必ずしも正確なものではありませんが、以降の村地図に大きな影響を与えたといわれています。
 平安時代になると、「行基図」(図2)と呼ばれる筆で書いた日本地図が作られるようになります。行基は奈良時代の僧で、全国をまわって地域の開発につくした人といわれていますが、彼が本当に行基図を作成したかどうかは証明されていません。
 この行基図は正確な測量に基づいたものではなく、日本列島の形や国の形も非常に大ざっぱです。それでも、それぞれの国の位置関係がわかるだけでなく、一目で日本のどの辺りにあるのかがわかる大変貴重な情報で、江戸時代初期まで何枚も作られました。
(図1)日本最古の地図といわれる開田図
お問い合せはこちら
(図2)行基図の一例
行基図の一部が見られます
  http://users.hoops.ne.jp/a-fujituka/demae2/history-3.htm
「伊能図」以前

日本と韓国が領有権をめぐって対立している竹島(韓国名・独島)問題に絡んで、現在の高萩市で生まれた江戸時代の地理学者・長久保赤水(せきすい)(1717〜 http://www.nagakubosekisui.com/michi.html1801

赤水は、享保二年(一七一七)に水戸領赤浜村(高萩市赤浜)の農家に生れ、享和元年(一八〇一)まで地理学の先駆者として活躍しました。子どもの頃は体が弱く、不運にも弟・母・父にも先立たれてしまいます。その逆境に耐え、赤水が学問に専念できたのは継母の支えによるものです。さらに、地元の鈴木玄淳や柴田平蔵、水戸の名越南渓など良き師友にも恵まれました。
 四十歳半ばには、時代を先取りした研究への批判に遭い、学者の道を絶たれそうになったこともあります。しかし、並外れた努力が報われ、水戸藩第六代藩主徳川治保の侍講(おそばに仕える先生)に抜擢され、江戸小石川の水戸藩邸に住まい、儒学・地理学・天文学などを教授しました。
 そして、当時としては地の果てといってもいい東北や長崎の旅の経験を基に、渋川春海・森幸安らの日本地図を参考にし、奥州道を行きかう旅人や高山彦九郎、木村蒹葭堂、古川古松軒などから得た情報を整合させ、緯線経線を付した新しい日本地図を完成させました。測量することなく情報のみで作成されたこの日本地図は大阪から発刊され、後世、赤水図と呼ばれ、旅人や幕末の志士たちの大いなる道しるべとなったのです。
 侍講として江戸に赴いた翌年六十二歳の時、農民生活の窮状を水戸藩主に命をかけて上奏し、農政や藩政の改善に尽くしました。退官後、八十歳まで藩主の特命を受け、大日本史地理志編纂に専念した後、生まれ故郷の赤浜に隠居しました。
 赤水没後、かのシーボルトも赤水図を海外に持ち出し、今でも欧米の博物館や大学に大切に収められています。
 赤水図の約半世紀後に作成された伊能忠敬の日本地図は幕府が非公開としたため、赤水図が江戸時代から明治時代初期まで広く世に用いられました。幕末の吉田松陰も赤水図を頼りに旅をし、赤水のお墓をお参りしています。 http://www.nagakubosekisui.com/about_sekisui.html

役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。姓は君。修験道の開祖とされている。後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになった。
実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/役小角
役氏(役君)は三輪氏族に属する地祇系氏族で、加茂氏(賀茂氏)から出た氏族であることから、加茂役君(賀茂役君)とも呼ばれる[1]。役民[2]を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏としたという[3]。また、この氏族は大和国・河内国に多く分布していたとされる[
役氏(役君)は三輪氏族に属する地祇系氏族で、加茂氏(賀茂氏)から出た氏族であることから、加茂役君(賀茂役君)とも呼ばれる[1]。役民[2]を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏としたという[3]。また、この氏族は大和国・河内国に多く分布していたとされる[
神変大菩薩 [編集]
寛政11年(1799年)には、聖護院宮盈仁親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表した。同年、正月25日に光格天皇は、烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わして神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡を贈った。
勅書は全文、光格天皇の御真筆による。聖護院に寺宝として残されている。
伝説 [編集]
葛飾北斎『北斎漫画』より、前鬼・後鬼を従えた役小角
役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。
役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれている。
また、ある時、日本から中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいて、道昭に質問したと言う。

行者は全国各地の山々80座以上も開山したと伝えられる修験道の開祖。
江戸後期、朝廷から「神変大菩薩」の称号が送られ、いま大峰山寺わきに「神変大菩薩壹千貳百年御遠忌」の像が建っている。

江戸後期、朝廷から・・・?なぜ


1335秦野北斗:2013/03/16(土) 00:28:36
Re: 奈良都城区劃説明ビデオ
管理人さんへのお返事です。

了解ですな。

これだけのもの、インパクトと専門家の抵抗が大きいでしょうな。

やる、価値はあるな。


> 動画の遺跡紹介順は下記のとおりです。
>
>
> 孝霊天皇黒田庵田宮(倭屯倉)→懿徳天皇陵→孝元天皇陵→唐子・鍵遺跡→鏡作神社→孝元天皇陵→恒例天皇陵→桜井茶臼山古墳→西殿塚古墳(柳本古墳群)→乙女山古墳(馬見古墳群)→三輪山→石上神宮周辺→各種方位区画拠点→穴師兵主神社→マキムク遺跡
>
> 詳細は先述論議したとおりですが、下図も参照ください。特に漢魏洛陽城と重ねた図も添付します。そしてその郊外の王廟祭祀地域に、欠史の陵墓が並んでいることも理解できると思います。先日お話したとおり洛陽城の東西市の部分が、マキムク遺跡の「大市」の地名に、唐子・鍵遺跡、宮古・保津遺跡から黒田庵田宮あたりが、洛陽城の宮殿域になります。
>
>


1336秦野北斗:2013/03/16(土) 01:16:00
Re: 最初の日本地図?!
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001377M.jpg

http://www.city.koga.ibaraki.jp/rekihaku/2001haru/shougaisho.htm



1337秦野北斗:2013/03/16(土) 10:23:54
ストーンヘンジの尺はキュビット
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001378M.jpg

ストーンヘンジの尺はキュビットのようだな。

情景が黙示録のバビロンに似ているな。

馬蹄形に配置された高さ7mほどの巨大な門の形の組石(トリリトン)5組を中心に、直径約100mの円形に高さ4-5mの30個の立石(メンヒル)が配置されている

この石はほぞ穴とほぞの継ぎを加工されてから、30個が直径33mの円陣状に立てられ、上に30個の横石が載せられた。

実測  直径 約110mの円形
直径33mの円陣状

37.1cm×3×1000≒110m
37.1cm×3×10×3×10≒33m

キュビット
西洋の文化も、キュビットは使われた。ペルシャのキュビットは 52〜64 cm、古代ギリシャでは π?χυς(pechys; ペーキュス)と呼ばれ約 47.4 cm、古代ローマでは cubitus と呼ばれて約 44.46 cm、アラブでは arsh と呼ばれて 48〜64 cm であった。ユダヤでは ??????(アマ)と呼ばれて 46〜61 cm であるが、これは今日でもユダヤ教で用いられている。

キュビット

里(呉尺)÷1.2=里(隋(晋)尺)÷1000=キュビット

533.5m÷1000=53.35cm ペルシャ ユダヤ
533.5m÷1.2÷1000=44.4cm (大キュビット)古代ローマ
  44.4cm÷1.2=37.1cm  (小キュビット)

呉尺     隋(晋)尺
35.6 cm÷1.2=29.6 cm(大尺)
29.6 cm÷1.2=24.6 cm(小尺)

呉代、隋代の尺を里に当て嵌めるならば、大里、小里が存在する。

呉尺     隋(晋)尺
533.5 m(里)÷1.2=444 m(大里)
444 m(大里)÷1.2=370m(小里)

アッティカスタディオンとエジプトスタディオンの比
185÷157.5=1.175≒1.2





1338管理人:2013/03/16(土) 23:13:21
Re: 最初の日本地図?!
秦野北斗さんへのお返事です。

> 棘の紀氏さんへのお返事です。
>
> 隋(581年 - 618年)は、中国の王朝。魏晋南北朝時代には東高西低の地形を知っていた模様。
>
> http://www.city.koga.ibaraki.jp/rekihaku/2001haru/shougaisho.htm
>
> 倭国の地図だな、当時は常陸までが倭国で東北は日本でしたな。
>
> 管理人さん屯倉(みやけ)の特定に使えそうですな。
>
> ただし、韓半島南部が無いのが残念ですな。
>
>
>  『隋書』倭国伝
>
>  倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。


この行基図はよく見るといろいろ面白いことがわかりますね。

まず左上に日本の東西の街道長(距離・里数)が記されてますね。

京から陸奥まで3587里 京から長門まで1978里

どうも、この数値は図でいう山陽道と、東海道の長さにみえますね。東山道だともっと短いはずですが、6町を1里とした記載をどう解釈すべきか。

次に、街道のたどっていたルートがわかります。

そして「陸奥」のところに、「夷地」の語がみえ、さらにその奥に別に別の領域がある。

つまり「夷」の意味が、あくまで服属している異民族集団という捉え方をしてるんです。その外は服属してない地域のことでしょう。「出羽」はそういう意味では特殊ですね。地図をみるとちょうど「羽」が伸び「出」るように、細長い地域として認識していたようにも見えます。

陸奥に少し入ったところで街道が切れているのも、意味深です。

あと東京湾が異様に大きいのは、現在より海岸線がはるか内陸まで入り込んでいたことの影響もあるでしょう。さきたま古墳群のある行田あたりまで海が来ていましたからね。

ついでにいうと静岡方面もずいぶん内陸まで浸水している。難しいのですが、白鳳南海地震後の静岡・愛知の海岸線の様子もどのくらい浸水していたかを調べてみたいところです。

そして四国・九州の南部がないのは、これは測量出来なかった地域ではないでしょうか。高知方面へ向かうには、奈良時代でも至難でしたし、鹿児島方面の隼人領域の件もありますね。

九州というのは、こうみると9つ国があるので九州なんですね。阿蘇あたりを中心にして、諸国旋回してます。

四国も4つの国。一度愛媛に抜けてから、高知に入るには、当時徳島方面から高知に抜ける道がなかったことと対応しています。

同様に、九州ルートは豊後から一度日田方面を抜けて熊本にぬけて、そこから薩摩経由で宮崎に向かうんですね。


それで秦野さんご指摘の屯倉関連で重要なのは、五機七道の七道、この地図では八道の、特に美作方面に伸びる街道でしょう。これが縮見・白猪屯倉に向かうラインで、彼らは少なくとも出雲に抜けるライン(道)であることにきづいてますね。

常陸国のところに、わざわざ「鹿島」を別に書きこんでいるのも、鹿島が方位区画の拠点だと理解しているからでしょう。こうみると通説の相模から安房に抜ける街道ルートではないですね。甲斐南部・武蔵経由で常陸にぬけて、房総へ向かってます。

成立年代は山城国から各道がでているので平安京時代以降と考えられているようですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


ある意味、キシさんの本にある行基図の解説のように、方位区画をどこかで意識していた図であった可能性はあるでしょう。行基作というわけではなく、ある時期の測量士の認識を示していた可能性を感じます。




1339管理人:2013/03/16(土) 23:52:30
瀬戸内・河内方位区画動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001380M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001380_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001380_3M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/kawachi-miyake-houikukaku.mov



1340管理人:2013/03/17(日) 13:59:52
九州屯倉方位区画動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001381M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001381_2M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/kyusyu-miyake-houikukaku.mov



1341秦野北斗:2013/03/17(日) 19:12:42
Re: 九州屯倉方位区画動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001382M.jpg

管理人さんへのお返事です。

「大日本国図」と九州の屯倉拠点を結んだ方位区画を対応させる。
何か見えてくる様な。


>
> 遺跡で紹介した拠点の詳細は下図をご参照ください。
>
> 特に屯倉関連地名につく「三(宅)」「倉(蔵)」「宮」「御」「神田」の地名に注目してみてください。関連の方位区画上に、それらの地名が、明らかに多く見られることに気付かれると思います。
>
> 尺度は35〜37kmの距離が多く見えますが、弥生末の九州方位区画の遺跡のラインを流用している模様です。宇佐の事例のように若干、尺度が替り拠点にも変化が生じています。そして先の−1度偏角の方位区画と異なり、ほぼ完全は正方位区画へと変化しています。
>
> その拠点上に古墳はほとんど見えず、その代わりに上記の地名や神社、皇室領が見えてくる点で、その時代の測量拠点の変化がわかります。
>
> あとで、もう少し綺麗なラインを引いた動画を作成しなおしたいと考えてますが、とりあえず地名に注目しながら、ご覧ください。






1342棘の紀氏:2013/03/18(月) 09:42:59
銅鐸 角度 【測距儀】.
袈裟襷文銅鐸/大阪府羽曳野市西浦出土
大阪府羽曳野市西浦小学校の校舎改築現場から見つかり、直ちに市教育委員会が調査した。銅鐸は、幅六五センチ、深さ三五センチの穴に四五度の角度で埋められていた。 http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=202233

斜 45° http://www.geocities.jp/yasuko8787/kunimi.htm

【船】航海(緯度×経度) - 緯度×経度の合体したトコが現在地緯度×経度の基準 航海テキスト 緯度を調べる緯度を調べる道具 緯度の調べ方 ... だからナイジェルやビセンテ にとって、北極星を探す北斗七星(柄杓の先っぽの先に北極星がある)も特別な星座です。 http://www53.atwiki.jp/alonsodeleyva/pages/68.html
緯度は太陽(夜は北極星か南極星)の高さを調べる 天測航法 で分かる。
だからナイジェルやビセンテにとって、北極星を探す北斗七星(柄杓の先っぽの先に北極星がある)も特別な星座です。

銅鐸の内部角度 http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/index98-7.html
「亀甲紋」は正三角形を6個組み合わせたものである。それは「銅鐸が30、60 、90度を測ることができる」と考えれば、正六角形の頂角のある一点からもう二方の点をみる時の角度と一致する。
この亀甲紋がはたして銅鐸の角度を意識して作られらのかどうかは定かではないが、少なくともこのことから出雲に航海文化が花開いていた匂いを感じることはできまいか?

、箸墓に引いた直線の傾斜が45度になることを確め てい る際に、神野山が傾斜45度の位置にあることに気付きました。

水路部の天文観測機器 http://uenishi.on.coocan.jp/n102kaiyoukiki.html
海軍の水路部では海図作成のため古くから天文観測を行い経緯度を決定していました。また自船の位置を知るためにも天文観測は不可欠でした。そのため明治中期には陸軍にさきがけ東京に海軍観象台を設置し現在の国立天文台の基礎を固めました。現在は天文観測の役割は終わり人工衛星を利用した航法測地が主になっています。
写真上はドイツのアスカニア社製の口径90ミリメートル「子午儀」です。製造年は不明ですが1921年(大正10)頃と思われます。主に経度を精密に決定するため使用されました。子午線方向にのみ望遠鏡が回転する構造になっており特定の天体が南中する時刻から経度を求めたり赤経が既知の天体が子午線を通過する時刻を観測して経度を決定します。
写真中は「天測計算器」と呼ばれ1941年(昭和16)測機舎製です。方位角、高度角の観測値をセットして赤緯、時角(天体が日周運動で子午線を通過後に進行した角度)を読みとること、またその逆も可能です。数値を変換するだけでこの機器で観測するわけではありません。第二次大戦末期に潜水艦に配布されました。[朝尾紀幸:観測機器が伝える歴史 天測計算器 季刊「水路」第148号 日本水路協会 2009.1 p19]
写真下は「天文経緯儀」で1970年(昭和45)スイスのケルン社製です。天文経緯儀は測定地点の経緯度を能率的に求めるもので駆動は垂直面、水平面とも可能で水平目盛、高度目盛ともあります。

そっきょ‐ぎ〔ソクキヨ‐〕【測距儀】.
目標までの距離を測る装置。長さのわかっている基線の両端と目標とのなす角度を利用して測る。・・・ポイント の位置(搭載のライン上) 山岩 古墳 寺社 ・・・


1343棘の紀氏:2013/03/18(月) 09:57:47
Re: 銅鐸 角度 【測距儀】.
訂正デス m(_ _)m 、
搭載×→東西○
・ポイント の位置(搭載のライン上) 山岩 古墳 寺社 ・・・m(_@_)m

東西僧房の礎石を一直線に結び、両者の距離の中点をとることで求めた。 http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/ouken/anshoji/survey.html
軒廊は、南面の礎石1カ所を確認し、東西7尺・南北9尺の構造と考えられる。しかし、すでに触れたように、礼仏堂の基壇南端にみられる翼状の張り出しとは位置があわない。図3に見られるとおり、礼仏堂の張り出しが軒廊よりも南に位置しているのである。後世の改作かもしれないが、測量調査だけでは結論は得られない
軒廊の礎石は南北両面を確認し、東西8尺・南北9尺の規模を持つことが判明した。この軒廊の位置についても、東僧房と同様に礼仏堂の基壇南側張り出しとは位置があわない。礼仏堂張り出しが軒廊よりも南に位置している点も東僧房とまったく同じである。
建物規模は、確認した礎石から判断して東西5間・南北4間とみられる。寸法は東西5間が10尺・10尺・9尺・10尺・10尺、南北4間が10尺等間であるから、14.7m×12mと復元できるが、礎石間の精査により若干の変わる可能性がある。

まとめ:715年、16年にかけての時期、席田郡、高麗郡の渡来人移動・配置については、 それぞれ伊勢神宮、諏訪前宮、鹿嶋・香取神宮から緯度・経度、距離において、正確な 三角法測量をもとに計画的になされていました。特に富士山と東西緯線ラインを目印に ... http://www.geocities.co.jp/sundovani/koma/sokuryou.htm


> そっきょ‐ぎ〔ソクキヨ‐〕【測距儀】.
> 目標までの距離を測る装置。長さのわかっている基線の両端と目標とのなす角度を利用して測る。・・・ポイント の位置(搭載のライン上) 山岩 古墳 寺社 ・・・
>

1344秦野北斗:2013/03/18(月) 19:10:14
Re: 銅鐸 角度 【測距儀】.
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001385M.jpg

http://www.geocities.co.jp/sundovani/koma/sokuryou.htm



1345管理人:2013/03/18(月) 20:51:45
平安海進と行基図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001386M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001386_2M.png

http://ja.wikipedia.org/wiki/



1346秦野北斗:2013/03/18(月) 21:34:33
Re: 平安海進と行基図
管理人さんへのお返事です。

地図は823年以降で中心が山城。筒城宮 (京田辺市) - 継体天皇
山城は天智天皇と深い関係があると思われるのですが
667年(天智天皇6年) 天智天皇が近江大津宮に都を定める。
823年との時間軸に矛盾がありますな。


山城国内には、これまでに度々天皇の住居(宮)が構えられている。

筒城宮 (京田辺市) - 継体天皇
弟国宮 (長岡京市) - 継体天皇
恭仁京 (木津川市) - 聖武天皇
長岡京 (向日市・長岡京市・京都市) - 桓武天皇
平安京 (京都市) - 桓武天皇から明治天皇

継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年)? - 継体天皇25年2月7日(531年3月10日))は、日本の第26代天皇。在位は継体天皇元年2月4日(507年3月3日) - 同25年2月7日(531年3月10日)。




>
> ちょっと先の行基図の件で興味深い事に気付き始めてます。
>
> どうもあの図は加賀国が記されていて、823年以降のもののようです。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>
> ただ陸奥の領域、つまり日本の北境がまだ青森方面まで至っておらず、平安中期以前でしょう。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>
> また、図の描き方をみると、道→地形→国名の順で描かれたような気がしますね。道が国境ラインで途切れてないんです。一筆書きのようにして描いてます。国名はどういうわけか東向きに書いているのですが、たぶんこれは地図の東を上に持ってきて、国名を記したせいでしょう。なぜそうしたのかは謎ですが、ちょっと倭人伝同様、方位感覚の狂いも考慮しておくべきかもしれません・・・。
>
> あと四国と九州の南部が小さいのは、紙面に入り切らなかったのではないでしょうか。
>
> それで、児島湾や東京湾、東海のあたりの海水が内陸まで浸水しているのがわかります。
>
> 調べて行くと、平安時代は今より4〜6m海面が高かったという見方もあるようです。
> http://watasumu.blog28.fc2.com/blog-entry-295.html
>
> それで、満潮や黒潮の蛇行による潮位も考慮して、海面を9Mあげた日本地図を下記サイトから産出してみました。
>
> http://flood.firetree.net/?ll=30.7135,134.9121&amp;z=12&amp;m=9
>
> こちらをみると、確かに児島湾は島に分離し、東京湾や東海方面もかなり内陸まで浸水しているのが判ります。
> あと、東海・南海沿岸地域は、いわゆる東海・南海地震を引き起こすプレート沈降の影響であるので、今より若干平野部の標高が変化していた可能性がありますね。
>


1347管理人:2013/03/19(火) 23:08:20
呉年号銘・画紋帯神獣鏡方位区画説明動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001388M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001388_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001388_3M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/go-nengoumeikyou-houiline.mov



1348秦野北斗:2013/03/20(水) 06:51:17
灯籠(サルタヒコ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001389M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001389_2M.jpg

そろそろ、古代の光通信網が見えてきましたな。

カゴメ唄、天岩戸でおなじみの灯籠(サルタヒコ)ですな。

天岩戸は阿毎の岩戸。奈良の灯籠(サルタヒコ)になる。








1349秦野北斗:2013/03/20(水) 06:53:00
灯籠(サルタヒコ)、阿毎の岩戸
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001390_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001390_3M.jpg

そろそろ、古代の光通信網が見えてきましたな。

カゴメ唄、天岩戸でおなじみの灯籠(サルタヒコ)ですな。

天岩戸は阿毎の岩戸。奈良の灯籠(サルタヒコ)になる。








1350秦野北斗:2013/03/20(水) 19:07:04
方位ラインで幻の京?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001391M.jpg

方位ラインを整理すると空白地帯があらわれた。

知られていない京が存在していた模様。

高槻 高月京

富田 屯田(屯倉)

何かありそうだな。





1351管理人:2013/03/20(水) 22:59:49
Re: 灯籠(サルタヒコ)、阿毎の岩戸
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001392M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001392_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/



1352秦野北斗:2013/03/21(木) 03:48:46
Re: 灯籠(サルタヒコ)、阿毎の岩戸
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001393M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/



1353管理人:2013/03/21(木) 06:41:51
宮の変遷方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001394M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001394_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001394_3M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/miya-line01.mov



1354秦野北斗:2013/03/21(木) 12:07:41
Re: 宮の変遷方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001395M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001395_2M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/miya-line01.mov



1355管理人:2013/03/21(木) 23:12:26
Re: 宮の変遷方位ライン
秦野北斗さんへのお返事です。

> 何処に書いてあるのか、神武天皇から開化天皇まで比定しましたな。
>
>
> 歴史学者にはあきれるな。
>
> まあ、名前が残ったので卑弥呼も満足でしょうな。
>
> 古墳の基点ですが奈良の南別所山田になりますな。
>

なんぼか、宮の基準となる中心拠点がありますね。このラインは前回あまり詳しく論じなかったので、少し時間かけて分析しなおしましょう。しばしお待ちください。




1356秦野北斗:2013/03/22(金) 02:01:00
Re: 宮の変遷方位ライン
管理人さんへのお返事です。

方位ラインから神武天皇と欠史八代を外すのが良い。奈良には存在しない天皇。

欠史八代は淡海三船が同年代の天皇(日本根子)から和風諡号を創作したようだな。
三角縁神獣鏡の保子が開花天皇、開花天皇の孫が卑弥呼になる。
欠史八代は紀元前100年から紀元後200年が妥当な年代ですな。

三角縁神獣鏡

景初三年陳是作鏡自有経述本是京師杜地命出吏人銘之位至三公母人銘之保子宜孫
寿如金石兮

景初三年、陳が自ら経述した鏡を作る。もとは京師(杜)の出、銘は位至三公の吏人、
銘は母人(おものひと)、保子(開花天皇)の孫(卑弥呼)、金印(親魏倭王)をもって祝う。

母人(おものひと)は魏志倭人伝に記されている。

既に年長大であったが夫を持たず(年已長大 無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來 少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(唯有男子一人給飮食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設)。

日本根子が共通する。淡海三船の創作。

孝霊天皇 大日本根子彦太瓊尊  (紀元前342年)
孝元天皇 大日本根子彦国牽尊 (紀元前273年)
開化天皇 稚日本根子彦大日日尊 (紀元前208年)

桓武天皇 日本根子皇統弥照尊  天平9年(737年)
平城天皇 日本根子天推国高彦尊??宝亀5年8月15日(774年9月25日)
淳和天皇 日本根子天高譲弥遠尊 延暦5年(786年)
仁明天皇 日本根子天璽豊聡慧尊 弘仁元年(810年)

淡海 三船(おうみ の みふね、養老6年(722年) - 延暦4年7月17日(785年8月30日))は、奈良時代後期の文人。大友皇子の曽孫。式部卿・葛野王の孫、内匠頭・池辺王の子。姓は真人。はじめ御船王。官位は従四位下・刑部卿。

若いときに僧侶であったこともあり、外典・漢詩にも優れていた。『経国集』に漢詩5首を載せ、現存最古の漢詩集『懐風藻』の撰者とする説もある。また、『釈日本紀』所引「私記」には、三船が神武天皇から元正天皇までの全天皇(弘文天皇と文武天皇を除く)の漢風諡号を一括撰進したことが記されている。また、779年(宝亀10年)には鑑真の伝記『唐大和上東征伝』を記した。『続日本紀』前半の編集にも関与したとされる



>
> なんぼか、宮の基準となる中心拠点がありますね。このラインは前回あまり詳しく論じなかったので、少し時間かけて分析しなおしましょう。しばしお待ちください。
>
>
>

1357管理人:2013/03/22(金) 22:07:23
Re: 宮の変遷方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001398M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/miya-line01.mov



1358秦野北斗:2013/03/23(土) 08:21:30
Re: 宮の変遷方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001399M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001399_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/郊祀



1359秦野北斗:2013/03/23(土) 20:21:52
Re: 宮の変遷方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001400M.jpg

管理人さんへのお返事です。

郊外の野原が郊野、同音に高野山の高野(こうや)何か共通するな。
東西の南側の郊外になるな。

高野山

高野山(こうやさん)は、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称。平安時代の弘仁10年(819年)頃より弘法大師空海が修行の場として開いた高野山真言宗、ひいては比叡山と並び日本仏教における聖地である。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)をはじめ117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。

郊祀(こうし)とは、中国において天子が王都の郊外において天地を祀った祭。円丘を築いて併せて皇祖を祀ったことから、円丘祭(えんきゅうさい)とも称する。
冬至の際には天子が自ら王都の南郊に至って天を祀り、夏至の際には天子が自ら北郊に至って地を祀る。大唐開元礼などに詳しい記述が残されている。

こう‐や〔カウ‐〕【郊野】

郊外の野原






1360管理人:2013/03/24(日) 00:25:34
天皇陵方位ライン説明動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001401M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001401_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001401_3M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/tennouryou-line.mov



1361秦野北斗:2013/03/24(日) 07:12:30
Re: 天皇陵方位ライン説明動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001402M.jpg

管理人さんへのお返事です。

方位区画を整理すると平城京、飛鳥、斑鳩に集中しているな。

この辺りが問題になるかな。

継体陵は今城塚古墳、斉明陵と天智陵の間に神功皇后陵、この2つは別物だろうな。


>
> 神武から文武まで歴代順に天皇陵を追いかけています。
>
>
> 意外に気付かなかったのが、河内の陵墓を結ぶ方位区画(並行ライン区画)ですね。下図参照。
>
> それで、こうみると、ほとんどの天皇陵推定はライン的には整合性があることがわかります。
>
> 欽明陵は、今の位置で正解でしょう。見瀬丸山ではない。安閑⇔宣化ラインが正しければそうなります。そして天武陵も欽明陵を意識して東西ラインに作ってますね。
>
> 逆に継体陵は今城塚古墳のほうがライン的には正解のようです。
>
> その他、いろいろ各天皇陵が意識したラインなり先祖の陵墓というのが見えてきます。
>
> 支配領域(都城区画?)の東西南北の2拠点を結ぶ並行線を交互に走らせる傾向もあります。
>
> またやはり宮の変遷方位ライン同様に、正方位、−1度偏角、5度偏角など、時代ごとにそのライン偏角の移り変わりも見えてきます。
>
> あと、斉明陵と天智陵の間に神功皇后陵が入るのも、何らかの意図を感じます。
>
> すこしこの辺も整理する必要がありますね。




1362管理人:2013/03/25(月) 02:33:18
宮・天皇陵方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001403M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001403_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001403_3M.jpg

秦野北斗さんへのお返事です。


> 方位区画を整理すると平城京、飛鳥、斑鳩に集中しているな。
>
> この辺りが問題になるかな。
>
> 継体陵は今城塚古墳、斉明陵と天智陵の間に神功皇后陵、この2つは別物だろうな。
>
>

とりあえず、先日の宮の方位ラインと、天皇陵の方位ラインを重ねた図を作成してみました。
下図の青ラインが宮を結んだ方位ライン、赤ラインが陵墓を結んだ方位ラインです。

アバウトですが、おそらくこの図のような方位区画が古墳時代中期〜にあったはずです。
例の11.1kmの倍数尺の方位区画でしょうか。

当時も多少偏角があったので、実際はさらに細かくずれています。

確かに宮も陵墓も集中地域があります。山野などの立地条件も絡んでいるでしょう。

また、先日お話した弥生末〜古墳時代初期の漢魏洛陽城を燃したと推定した奈良黒田庵戸宮(倭屯倉)の都城区画を参考にして各時代の王朝の都城区画等の推定図も作成してみました。かなりアバウトなものです。

2枚目の図です。赤やミドリで囲んだ部分が都城区画の外郭内部、および郊祀・宗廟区域、黄色が宮殿域です。

河内の場合は宮殿域が反正朝の柴垣宮(依網屯倉)、仁徳の難波高津宮、その後の忍坂宮、宗廟息が古市・百舌古墳群ではなかったでしょうか。

ちょうど石切神社⇔春日大社のラインが河内の都城区劃の外郭北辺になった可能性を感じます。
あと3枚目は先日の忍坂宮関連の方位ラインです。

これらの外郭に囲まれた都城区劃領域内で、宮殿域が王の交替ごとに東西南北隅や中央部へと法則にしたがって占われて移動していったのではないでしょうか。

その他規模の小さい都城区劃は他にも複数あったのではないかと感じます。




1363秦野北斗:2013/03/25(月) 22:10:39
Re: 宮・天皇陵方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001404_2M.jpg

管理人さんへのお返事です。

わりと地名が残っているな。

痕跡を追ってみるか。

比叡山(ひえいざん)とは、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。大比叡の一等三角点は大津市に所在する。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。

> また、先日お話した弥生末〜古墳時代初期の漢魏洛陽城を燃したと推定した奈良黒田庵戸宮(倭屯倉)の都城区画を参考にして各時代の王朝の都城区画等の推定図も作成してみました。かなりアバウトなものです。





1364管理人:2013/03/26(火) 22:52:27
河内方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001405M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001405_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001405_3M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/kinai-houikukaku.mov



1365秦野北斗:2013/03/27(水) 07:30:59
Re: 河内方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001406M.jpg

管理人さんへのお返事です。

推古の大道、地名、等から京はこんなものかな。

推定ありですな。


> おそらく三嶋つまり隅田八幡社鏡銘文の「斯麻」あたりが河内国の北辺だったのでしょう。
> その時代は、倭王武の上表文にでてくる西側の「京畿」領域ですね。
>
> その他「戸」も区画を意味する地名ですね。区画の交点には神社や古墳があります。
> 宮領域は、前後の時代で屯倉になっていることが多いようです。
>



1366管理人:2013/03/27(水) 23:14:37
Re: 河内方位区画
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 推古の大道、地名、等から京はこんなものかな。
>
> 推定ありですな。
>
>
>


推古の宮や陵墓は、欽明・河内王朝のライン上にありますね。斉明のように継体・開化系ではないでしょう。

それで、こちらの元興寺伽藍縁起并流記資財帳が、その推古関係の資料なのですが、

http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/gangoji/gangoji_frame.htm


馬屋門(戸)皇子(うまやとのみこ)とあるのが興味深いところです。

先の奈良・河内方位区画でしきりに皇室陵と関係する四方区画の交点に「戸」が出てくるのですが、どうもこうみると「門」の意味があった可能性を感じますね。

つまり、その四方区画の一部が宮殿域の「門」を示していたのかもしれません。古くは「戸」と記された。

そうすると馬屋門(戸)皇子という名も、どこかの「馬屋」と名付けられた宮の門に関連づけられた名とも解釈できるかもしれません。

もちろん、門の前にはご指摘の「大道」もあったことでしょう。そういう地名が皇子名や字名に今での残っているんですね。

1367秦野北斗:2013/03/27(水) 23:46:52
Re: 河内方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001408_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/竹内街道



1368管理人:2013/03/29(金) 00:42:43
Re: 河内方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001409M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001409_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/竹内街道



1369秦野北斗:2013/03/30(土) 18:44:00
Re: 河内方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001411M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001411_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001411_3M.jpg

http://blog.goo.ne.jp/fineblue7966/e/ffa4f379548be701d54d226a9d722db4



1370管理人:2013/03/31(日) 07:11:25
河内・奈良方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001412M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/kinki-houikukaku.mov



1371秦野北斗:2013/03/31(日) 20:16:54
Re: 河内・奈良方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001413M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001413_2M.jpg

管理人さんへのお返事です。

街道は大きく分けると南北の3道、東西の3道になるな。
難波宮も同様であれば堺は幻の京だな。

藤原京から平城京の南北の道が上ツ道、中ツ道、下ツ道に相当する。
東西の道が丹比郡の丹比道が長尾街道、竹の内街道、茅濡の道に相当する。

丹比郡(たじひのこおり/たぢひのこほり)は、かつて河内国にあった郡である。
『和名抄』には狭山・菅生・黒山・野中・丹上・丹下・田邑・八下・依羅・三宅・土師の11郷が記載されている。
平安時代後期、狭山・菅生・黒山・野中・丹上・丹下・田邑の7郷が丹南郡、八下・依羅・三宅・土師の4郷が丹北郡として分割された。さらに、丹北郡から八下郷が八上郡として割置された。
現在の松原市・大阪狭山市・堺市東区・堺市美原区の各全域と、大阪市東住吉区・大阪市平野区・八尾市・藤井寺市・羽曳野市・堺市北区の各一部に相当する。

郊祀場

隅田八幡社、石切神社には郊祀場はないな。

桓武天皇、文徳天皇の郊祀はどうも、平城京方向の古墳郡と継体天皇方向の古墳を指すと思われる。

桓武天皇
長岡京の南郊にあたる河内国交野郡(寝屋川市付近)の柏原にて郊祀が行われたものである。

文徳天皇
斉衡3年11月22日から翌日にかけて同じく柏原で郊祀が行われている。


郊祀場は河内国交野郡柏原:寝屋古墳(寝屋川市寝屋川公園)


天智天皇の郊祀場も同様に古墳と間違えている模様。

壬申の乱以来の天武天皇系皇統が断絶して天智天皇系皇統が再興されたことを「新王朝」創業に擬え、「新王朝」の都である長岡京で天に対してその事実を報告する意図があったと言われている。







1372管理人:2013/03/31(日) 23:26:13
Re: 河内・奈良方位区画
秦野北斗さんへのお返事です。

> 街道は大きく分けると南北の3道、東西の3道になるな。
> 難波宮も同様であれば堺は幻の京だな。
>
> 藤原京から平城京の南北の道が上ツ道、中ツ道、下ツ道に相当する。
> 東西の道が丹比郡の丹比道が長尾街道、竹の内街道、茅濡の道に相当する。
>
> 丹比郡(たじひのこおり/たぢひのこほり)は、かつて河内国にあった郡である。
>

確かに道の件は重要ですね。地形的条件に左右されつつ、方位区画に沿って造営されたのでしょう。後でそれらの道と方位区画を重ねた図をご提示しましょう。
方位ラインそのものも、縦横に伸びる糸に例えられて道の観念のひとつとして表現されてます。


> 郊祀場
>
> 隅田八幡社、石切神社には郊祀場はないな。
>
> 桓武天皇、文徳天皇の郊祀はどうも、平城京方向の古墳郡と継体天皇方向の古墳を指すと思われる。
>
> 桓武天皇
> 長岡京の南郊にあたる河内国交野郡(寝屋川市付近)の柏原にて郊祀が行われたものである。
>
> 文徳天皇
> 斉衡3年11月22日から翌日にかけて同じく柏原で郊祀が行われている。
>
>
> 郊祀場は河内国交野郡柏原:寝屋古墳(寝屋川市寝屋川公園)
>
>

交野は、推古天皇の領地がありますね。
http://www.47news.jp/CN/200312/CN2003120501000518.html

再度位置確認する必要がありますが、星辰関連の祭祀と関係したでしょう。
そしてダイレクとに方位測量に関わってくるかもしれません。


> 天智天皇の郊祀場も同様に古墳と間違えている模様。
>
> 壬申の乱以来の天武天皇系皇統が断絶して天智天皇系皇統が再興されたことを「新王朝」創業に擬え、「新王朝」の都である長岡京で天に対してその事実を報告する意図があったと言われている。
>
>

桓武朝の郊祀は重要ですね。皇帝祭祀で当時盛んでした。


それで、問題は隅田八幡社鏡銘文の「斯麻念長寿遣開中費直穢人」の部分です。

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟


これは三嶋(斯麻)にて、王の長寿を念じているのですが、隅田八幡の真北にあたる石切神社に本拠をおく「開中費直」つまり河内直の配下の「穢人」つまり漢人に鏡を造らせている件です。

ここで、「西(河内)文史」の存在があります。西(河内)漢氏の配下にいた史系渡来氏族と見えますが、彼ら東西文史が担当する解除(大祓い)儀で、下記の古式の皇帝祭祀用の祝詞を唱えていることです。

「謹請皇天上帝。三極大君。日月星辰。八方諸神。司命司籍。左東王父。右西王母。五方五帝。四時四気。捧以銀人。請除禍災。捧以金刀。請延帝昨。呪曰。東至扶桑。西至虞淵。南至炎光。北至弱水。千城百国。精治万歳。万歳万歳。」
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/bun.htm


平安時代に至るまで、毎年6月と12月晦日に、この祝詞を以てして、天皇の長寿を念じたわけですが、もしかすると、先の河内直配下の漢人の史層によって、古墳時代中期ごろから皇帝祭祀のために導入されていたものだったかもしれません。


倭王武の上表文との文筆的な癖の共通性がないかどうか、再度確認しておくべきかもしれません。

倭王武(雄略天皇)は、宋の昇明2(478年)年5月、宋の皇帝順帝に上表文を奉っている。

「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あやま)らず。」(『宋書』倭国伝)


「東至扶桑。西至虞淵。南至炎光。北至弱水。千城百国。精治万歳。万歳万歳。」あたりに、用語や観念で共通性がみえますね。

「畿を遐(はるか)にす。」は、つまり「京・畿(内)」のような都城・方位区画とその領域を意味しています。

1373秦野北斗:2013/04/10(水) 00:51:55
Re: 河内・奈良方位区画
管理人さんへのお返事です。

> 交野は、推古天皇の領地がありますね。

領地としては小さいな。

年代がずれる。

桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3がつ17日(806年4月9日))。

推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。日本初の女帝である

> > 壬申の乱以来の天武天皇系皇統が断絶して天智天皇系皇統が再興されたことを「新王朝」創業に擬え、「新王朝」の都である長岡京で天に対してその事実を報告する意図があったと言われている。


> >
> >
>
> 桓武朝の郊祀は重要ですね。皇帝祭祀で当時盛んでした。
>
>
> それで、問題は隅田八幡社鏡銘文の「斯麻念長寿遣開中費直穢人」の部分です。
>
> 癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
>
>
> これは三嶋(斯麻)にて、王の長寿を念じているのですが、隅田八幡の真北にあたる石切神社に本拠をおく「開中費直」つまり河内直の配下の「穢人」つまり漢人に鏡を造らせている件です。
>
> ここで、「西(河内)文史」の存在があります。西(河内)漢氏の配下にいた史系渡来氏族と見えますが、彼ら東西文史が担当する解除(大祓い)儀で、下記の古式の皇帝祭祀用の祝詞を唱えていることです。
>
> 「謹請皇天上帝。三極大君。日月星辰。八方諸神。司命司籍。左東王父。右西王母。五方五帝。四時四気。捧以銀人。請除禍災。捧以金刀。請延帝昨。呪曰。東至扶桑。西至虞淵。南至炎光。北至弱水。千城百国。精治万歳。万歳万歳。」
>
>
> 平安時代に至るまで、毎年6月と12月晦日に、この祝詞を以てして、天皇の長寿を念じたわけですが、もしかすると、先の河内直配下の漢人の史層によって、古墳時代中期ごろから皇帝祭祀のために導入されていたものだったかもしれません。
>
>
> 倭王武の上表文との文筆的な癖の共通性がないかどうか、再度確認しておくべきかもしれません。
>
> 倭王武(雄略天皇)は、宋の昇明2(478年)年5月、宋の皇帝順帝に上表文を奉っている。
>
> 「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あやま)らず。」(『宋書』倭国伝)
>
>
> 「東至扶桑。西至虞淵。南至炎光。北至弱水。千城百国。精治万歳。万歳万歳。」あたりに、用語や観念で共通性がみえますね。
>
> 「畿を遐(はるか)にす。」は、つまり「京・畿(内)」のような都城・方位区画とその領域を意味しています。





1374管理人:2013/04/20(土) 00:03:36
継体関連方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001416M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001416_2M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/keitai-houiline.mov



1375秦野北斗:2013/04/20(土) 07:48:12
Re: 河内・奈良方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001417M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001417_2M.jpg

http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/bun.htm



1376管理人:2013/04/22(月) 03:11:22
Re: 河内・奈良方位区画
秦野北斗さんへのお返事です。


> 謹請。皇天上帝。三極大君。日月星辰。・・の文章は「倭の五王」の文章です。
> 『宋書』倭国伝と同一内容になる。
>
> 好太王碑の文章と付き合わせる必要が在る。「倭の五王」は蘇我氏に繋がる。
>
> 『宋書』倭国伝
> 順帝昇明二年(478年)、・、(海を)渡り海北を平定すること九十五国・の文章
>
> 我が国の古典として、我等が最も大切にする祝詩の中にも能く其の意味が表れている。例えば『東文忌寸部、獻横刀時呪』(やまとのふみのいみきべがたちをたてまつるときのじゅ)に、
>
> 謹請。皇天上帝。三極大君。日月星辰。八方諸神。司命司籍。左東王父。右西王母。五方五帝。四時四気。捧以銀人。請除禍災。捧以金刀。請延帝祚。呪日。東至扶桑。西至虞淵。南至炎光。北至弱水。千城百国。精治。万歳万歳万歳。
>
> つつしみてこふ。こうていじょうてい。さんきょくたいくん。じつげつせいしん。はちほうのしょしん。しめいしせき。ひだりはとうおうのふ。みぎはせいおうぼ。ごほうごてい。しじしき。さsぐるにぎんじんをもってし。わざわいをのぞかんことをこふ。ささぐるにきんとうをもってし。ていそをのべんことをこふ。じゅにいわく。ひがしはふそうにいたり。にしはえんにいたる。みなみえんこうにいたり。きたじゃくすいにいたる。せんじょうひゃっこく。せいじ。ばんざいばんざいばんざい。
> とある。

http://asutorumember08.iza.ne.jp/blog/entry/2958531/


↑引用もとのURLのほうは忘れないよう気をつけてくださいね。

ご指摘のように九十五国の表現も、この銘文と同類です。

この祝詞は、かなり古い要素を持っています。
「司命司籍。左東王父。右西王母」

の部分なのですが、「司籍」という神が極めてマイナーです。後代の皇帝祭祀にも出てこない神ですね。
「左東王父。右西王母」は三角縁神獣鏡の銘文と同じで、その半島・大陸系の銅鏡製造職人の系統とも関わっていたかもしれません。

「南至炎光。」も特殊表現で、南=赤=火とする漢代の思想が出てきてます。後代にこの語は出てきません。

「捧以銀人。請除禍災。捧以金刀。」

の「銀人」というのは、後代の大祓儀で小さな木製の人形を使って、罪・災厄とともに水に流すそれの原型です。

「金刀」も天皇の長寿を願うための特殊な刀で、護身剣の思想とも関係するのですが、ともあれ、この手の儀式は、「皇帝」の側に仕えた集団でないと導入することができないものだろうと考えてます。

そしてそれをもたらしたのが、渡来系の東西漢氏です。彼らは百済経由で元は東晋あたりから入ってきた後漢皇帝の末裔を名乗る集団でしたから、それらの儀式を習得することができたのでしょう。

そして、成務・応神朝の時代に、日本へ渡ってきて、皇帝祭祀を執り行ったと考えるべきかもしれません。

同時に各種の儀式道具を造る技術職人でもあったんですね。

おそらく七枝刀を造ったのも彼らでしょう。


先の「金刀」の意味ですが、すべて金で出来た刀というよりは、金製の刺繍や金象嵌の刀の可能性を感じます。

七支刀も金象嵌でした。銘文はこちら。


泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王■■■■作

先世(異体字、ロ人)来未有此刀百済■世■奇生聖(異体字、音又は晋の上に点)故為(異体字、尸二大)王旨造■■■世


その後、頻繁に神功皇后52(372[20])年 秋九月丁卯朔丙子(9月10日)条に、百済の使である久氐(くてい)らが、千熊長彦の引率で来倭し[21]、七枝刀(ななつさやのたち)、七子鏡(ななつこのかがみ)、および種々の重宝を倭国へ奉った。そして『臣(百済)の西に河があり、水源は谷那(こくな)の鉄山(かねのむれ)から出ています。遠く、七日間でも到着できなません。この河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすら聖朝(ひじりのみかど)に奉ります』と言った[22]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/

七子鏡も同類で、思想的には「七」に関わることが、上の文書の「7日間」にも看てとれます。似たような事例で七星剣がありますね。これは北斗七星の「七」です。

「聖朝」の「聖」は、七支刀の「聖(晋?)」に関わります。


百済の王の父子は並んで額を地につけ、
「貴国の恩恵は天地より重いものです。いついかなる時にも決して忘れません。聖王は天上にあって、月や太陽のように輝いておられます。私めは下に侍って、忠誠の心は山のように不動です。永遠に西蕃となって、二心(ふたごころ)は持ちません。」と言いました。
http://himeluna.exblog.jp/16262647/

ここでも「聖王」が出てきます。この条文の原典はつまり先の祝詞の「皇天上帝。三極大君。日月星辰」ですね。

おそらく、その時代の王朝の上表分などの文書表現は、古い中国系の漢文を元に、崩して日本や朝鮮風にアレンジしてて再利用している可能性を感じます。

蘇我氏も後に漢氏を配下に入れますが、間接的には彼らの影響を受けていたはずで、渡来前の半島時代には同様な皇帝祭祀をなされる側にあったかもしれません。

だから日本に来てもなお天皇と同格の祭祀をしようと考えていたのでしょう。亡命王族の意識というのは難しい部分があり、いっしょに渡来してきた臣下たちはまだ王だと考えているわけですから、それ以前の儀式を日本内でも執り行おうとしたでしょう。その辺の儀式が、日本のほうにも導入されて、百済・高句麗王族の儀式が徐々に入ってくるんですね。

大刀契は、百済王族のそれで、これを追求していくと、おそらく深い歴史が出てきます。

 大刀契は通常、宝鏡(八咫鏡)と同じく内裏の温明殿(うんめいでん=賢所)に辛櫃(からびつ)に入れて安置されていたようだ。このことは、『本朝世紀』『日本紀略』などに記されている。また『江家次第』には、大刀契が「伝国璽」と表現され、それが新帝のもとに移る時の様子を、内侍二人が神璽宝剣を採り「少納言二人大舎人、伝国璽櫃を持ち追従」というふうに記している。

 さて、この大刀契の由来についてだが、鎌倉時代、順徳天皇が書き記した『禁秘抄』に「是百済より渡さる所」と明記されている。また右大臣藤原宗忠の『中右記』にも「これもと、百済国献ずる所」と百済伝来であることが記されている。この他、『塵袋』『永和大嘗会記』といった史料にも、百済伝来のことが記されている。


 しかし大刀契がどのようなものであったかは、史料からある程度、推測することはできる。それは「大刀」と「契」から成っており、そのうち契は、「魚符」とか「魚形」と書かれているのをみると、魚の形をした付属品と考えられる。魚形の飾りと剣がセットとなった例では、奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳から、玉纒大刀(たままきのたち)とともに、魚佩(ぎょはい)が出土している。また、伊勢神宮の神宝の玉纒御大刀にもフナ型と呼ばれる二つの金銅製の魚の形をした飾りが付属している。

 大刀の方は、櫃の中に納められていた十柄ほどあった節刀の中の二本の「霊剣」を指すものとみられる。嘉保元年(一〇九四)十月、堀河院の炎上で、大刀契が焼損したときの記録が『中右記』にあり、切鋒の剣様で長さは二尺二寸、峯(みね)に銘文があり、「北斗」や「青竜」「白虎」などの文字ないし、形が認められたと記している。

http://www.worldtimes.co.jp/special/yukari/yu021224.htm



1377秦野北斗:2013/04/30(火) 00:30:04
Re: 河内・奈良方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001419M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001419_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001419_3M.jpg

http://asutorumember08.iza.ne.jp/blog/entry/2958531/



1378楚の紀氏:2013/05/01(水) 00:14:30
Re: 河内・奈良方位区画
秦野北斗さんへのお返事です
> そろそろ、古代史の真実を暴露しそうですな。

イクシュス 金銅双魚佩 キリスト 割符・・・契約
無限記号∞あるいは数字の8・・・ハ∞ー魚の尾=「イクシュス」(=魚) 〆・・・寝た9 古代 史-鹿島町(真野郷)の解読この高島町には継体天皇と縁が深く金銅双魚佩が発見され た。 ... あった人にそれは誰かここに遣わされたものか在地のものか ... http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1722
大伴氏  【伴】〔イ+半〕=イクシュス・・・割符
http://ja.wikipedia.org/wiki/熊本県の歴史
白い亀

中国の律令で定められた魚に似た形の割符
金銅双魚佩の原型の一つだけの魚佩
魚佩
魚佩 (ぎょはい) 腰に下げる魚形の装飾品。 古墳から出土するものは向き合う2匹の魚を表した、板状の金銅製品で、うろこやひれを毛彫りで表しています。 出土例は奈良県藤ノ木ふじのき古墳など数例があるだけで、太刀の飾りと推定されるものもあります。 ...
http://www.city.habikino.osaka.jp/info/115/bunkazai/iseki/kaisetu/k_gyohai.html

日置
魚佩の全長20.5cm,幅6cm。 双竜環頭太刀出土。 長須賀には金鈴塚 ... 魚佩の全長約20cm,幅9.5cm。 ... 【景教」は、古代東方教会の信徒たちがシルクロードを通って【唐代中国に宣教したキリスト教】である。 ...
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1225

魚が好きな者は東に渡って日本人となった。 ... 秦氏は、もともとは、景教徒の拠点であった中央アジアの弓月国に住み、景教(ネストリウス派キリスト教) ...
http://m.webry.info/at/love55555/200806/article_3.htm?i=&amp;p=&amp;c=m&amp;guid=on
キルギス語やさらに東方のモンゴル語では、テングリは「神」「天」という意味になります。

イクシュス」(=魚) http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1723
塩水の中に住む魚が、塩化しないのと同じである。 それは生命を持っているからである。 ... かくしてドル離れが進む。 ... 古代のネストリウス派宣教師たちが、千数百年も前にすでにチベットで福音を宣べ伝えていた痕跡を発見したのです。 ...
http://www.kingdomfellowship.com/cgi-bin/diarypro/diary.cgi?date=200801
インドの聖者サドゥー・サンダー・シング師
イエスの福音を記した巻物を発見します。古代のネストリウス派宣教師たちが、千数百年も前にすでにチベットで福音を宣べ伝えていた痕跡を発見したのです。
そしてついに、ヒマラヤのとある洞穴で、シング師は、クリスチャンの行者に出会います。中近東出身のこの行者は主の召しを受け、世界の屋根である最高峰に登って、全人類の救いを求めて執り成すよう命じられ、長い年月を洞穴にこもって祈り続けて来たのでした。年齢百数十歳を超える行者は、東洋においてひそかに進行しているイエスの救いの計画について、シング師に光を与えたのでした。




1379管理人:2013/04/03(水) 23:11:03
Re: 河内・奈良方位区画
楚の紀氏さんへのお返事です。

> 秦野北斗さんへのお返事です
> > そろそろ、古代史の真実を暴露しそうですな。
>
> イクシュス 金銅双魚佩 キリスト 割符・・・契約
> 無限記号∞あるいは数字の8・・・ハ∞ー魚の尾=「イクシュス」(=魚) 〆・・・寝た9 古代 史-鹿島町(真野郷)の解読この高島町には継体天皇と縁が深く金銅双魚佩が発見され た。 ... あった人にそれは誰かここに遣わされたものか在地のものか ... http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1722


魚ハイは、古墳時代の人形埴輪からみえますが、護身剣思想とも関わります。イクツゥスなど護符の件もそうですね。継体朝時代が重要でしょう。

あと、先の大刀契についてはこの辺が面白いですね。

http://seiwagenjisinjituryu.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-ba87.html

1380秦野北斗:2013/04/04(木) 00:18:50
Re: 河内・奈良方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001422M.jpg

http://kotobank.jp/word/子持ち勾玉



1381管理人:2013/04/04(木) 06:52:39
方位ライン動画ページ
ちょっとお知らせです。先日から論議してきた方位ライン(区画)の説明動画を、下記ページからすべて見れるようにしました。よろしくご参照ください。後日関連画像もあわせてすぐ見れるようにする予定です。

http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/houiline.htm

1382管理人:2013/04/04(木) 22:48:25
玉纒太刀・子持ち勾玉
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001424M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001424_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001424_3M.jpg

http://kotobank.jp/word/子持ち勾玉



1383秦野北斗:2013/04/05(金) 01:38:56
Re: 玉纒太刀・子持ち勾玉
管理人さんへのお返事です。

> あと、秦野さん注目の子持ち勾玉なのですが、下図の宝石をたくさんつけた獅子面のバックルがちょうど剣にもつくようなので、類似しているといえそうですね。

子持ち勾玉を獅子面のバックル同様と考えているのは疑問があるな。
なぜ、獅子面のバックル類似なのかな。

新羅王墓出土の黄金剣は、東欧系系譜を引くケルト黄金剣。

東欧のフン族と匈奴、月氏が新羅を建国し、のちに月氏(弓月君)が日本に渡った。
韓国の国旗の意味は、赤は陽、青は陰の意味、太極すなわち宇宙を表す、統一

実の所はフン族と匈奴、月氏の三つ巴から月氏が抜けた二つ巴に成ったのでしょうな。


黄金剣はフン族のなごりですな。

子持ち勾玉は同族と領土地図を表わすもの。例ですが、扶桑国が兵を女国に送る場合ですが九州(阿蘇)の奴国に渡り、伊都国から韓半島、韓半島から陸路シルクロードを移動する。扶桑国から女国まで13万里の移動になる。移動には同族識別と領土地図が必要になる。


新羅で子持ち土器、七子鏡つか七支刀は同族を表わすシンボルでしょうな。
古事記のヤマタノオロチも同様ですな。七国、在ったのでしょうな

七枝刀(ななつさやのたち)、七子鏡(ななつこのかがみ)、および種々の重宝を倭国へ奉った。

http://ja.wikipedia.org/wiki/七支刀#.E4.B8.83.E5.AD.90.E9.8F.A1.E3.81.A8.E3.83.9C.E3.82.B9.E3.83.88.E3.83.B3.E7.BE.8E.E8.A1.93.E9.A4.A8.E6.89.80.E8.94.B5.E9.8A.85.E9.8F.A1

> 玉纒太刀のスガル太刀とともに、神宝として伝承された続けたのですが、スガルの語源は、腰細のハチの意味で万葉集に歌われました。尾張の小子部スガル(雷)なども、関係して、継体・尾張氏関係の伝承に基づく神宝だろうと考えてます。会報で以前論じたとおりです。
>
> それで、そのハチ型の形状の元が、おそらく新羅の神宝剣にあるのではないかと考えているのですが、その新羅王墓出土の黄金剣は、東欧系系譜を引くケルト黄金剣ではないかと見られています。図を添付します。
>
> 下図の引用元は、由水常雄さんの『ローマ文化王国‐新羅』です。
>
> それで図のように、ローマ系のコーヒカップやリュトンの系譜になるものが、新羅で子持ち土器になっていくわけですが、この辺は先の七子鏡つか七支刀とも関わってくるでしょう。似たような刀に4本に枝分かれした槍があります。これも由水さんの本に載ってますね。
>
> あと、秦野さん注目の子持ち勾玉なのですが、下図の宝石をたくさんつけた獅子面のバックルがちょうど剣にもつくようなので、類似しているといえそうですね。
>
> これらは、古墳時代中期に新羅に流れ込んだ北燕遺民によってもたらされたもので、その中に東欧系の技術職人が多くいたことによるもので、継体や天智の周囲にいた今来漢人の祖先なのですが、その辺はまた会報のほうご参照ください。
>
> いずれにせよ、これから考古学やる人は由水さんの本は買って一度読んでおいたほうがよいでしょう。ちかいうちに由水さんのこのローマと新羅の技術系譜に関する指摘が学会の主流になるはずです。ならないとすると、学会側に問題があるのでしょう。


1384茨の紀氏:2013/04/05(金) 13:22:30
Re: 玉纒太刀・子持ち勾玉
秦野北斗さんへのお返事です。


>七国、在ったのでしょうな

呉・楚を中心に趙(ちょう)・膠西(こうせい)・膠東・川(しせん)・済南の7王国が起こした反乱 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs


1385管理人:2013/04/05(金) 23:04:26
Re: 玉纒太刀・子持ち勾玉
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001427M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001427_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001427_3M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/



1386秦野北斗:2013/04/07(日) 07:37:45
Re: 玉纒太刀・子持ち勾玉
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001428M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001428_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001428_3M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/晋_(王朝)



1387管理人:2013/04/07(日) 23:13:09
Re: 玉纒太刀・子持ち勾玉
秦野北斗さんへのお返事です。

> 仁徳天皇は神宮皇后の孫になる。武内宿禰の年齢から武内宿禰の返し歌
> は不可能なので現在の仁徳陵の埋葬者は神功皇后が韓半島から連れてきた
> 漢人ではないか。大小路鉾用胴掛(右側部分)の人物では。渡来人
>
>
> 武内宿禰は神功皇后の三韓征伐に登場している。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/三韓征伐
>
>
> 仁徳天皇紀を読む
>
> 誕生     父:応神天皇
>        母:ナカツヒメ(景行天皇の曾孫)
>
> 和風諡号  オオサザキ(大鷦鷯)
>
> 宮       高津宮(難波)
>
> 武内宿禰の返し歌
>
> http://kamodoku.dee.cc/nintokuki-wo-yomu.html
>
>


再度武内宿禰について考える必要がありそうですね。



■七十三人いる武内宿禰

武内宿禰は現在までに七十三人いる。そして今のところ、その最後が筆者ということになる。この歴代の中には、天皇になった人物もいる。口伝によれば若子という名の武内宿禰がのちに允恭天皇となり、盟神探湯を行ったとある。この人は、雄略天皇=倭王武の父親だが宋書倭国伝の倭王武の上表文の中になる自ら戦って夷狄を討ったという彼の祖「禰」とは武内宿禰を指しているような気がする。

武内宿禰の称号はこの後平群氏に伝わった。途中「紀」姓を名乗ったことがあったが、奈良時代には平群に戻っている。平安末期に最後の女子が清和源氏の義信と結婚してから源氏に伝わるが、戦国時代に季治という人物が息子の長治と絶縁してのちに、娘を越中国にかくまっていた南朝の皇子と結婚をさせた。これ以後は後醍醐源氏となる。江戸時代は武内宿禰の伝承と後南朝小倉宮家の祭祀を受け継いでいた

http://theoldshinto.web.fc2.com/sukune.html


「若子」というのが、允恭の名に見える点がありましたが、どうも、末子のことを「若子」というとの見方があります。


1 「若子」というのは一般名詞であり、兄弟が何人かいるうちの末子の男子について古代の通称に用いられている。『記・紀』や系譜資料に見える「若子」をあげてみると、
?男浅津間若子宿禰命  仁徳天皇と磐之媛皇后の末男(四男)で、即位して允恭天皇となる(『記・紀』)。
?若子宿祢  武内宿祢の末男(七男)と伝える者で、加賀の江沼臣等の祖とされる(『記』及び「紀氏家牒」逸文)。
?大若子命とその弟・乙若子命  大若子命は垂仁朝に越(北陸道)の賊徒阿彦を討伐する功績があったが、そのときに大いに旗(幡)を挙げて戦い勝ったので、大幡主命(おおはたぬしのみこと)の尊称を与えられたと伝える。その弟・乙若子命は伊勢外宮祠官の度会神主の祖とされ、兄弟は伊勢国造の祖・天日別命の後裔と伝える。
  http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/wakugo1.htm


確かに、「若(稚)」のつく皇子名はどちらかというと末男に近いようですが、例外もありそうです。

開化天皇 若倭根子日子大毘々命(孝元天皇の三(末?)男)
妃・絙某弟の稚武彦命(次男)長男は彦狭島命

成務天皇 若帯日子天皇(八坂入媛命の長男。次男は稚倭根子皇子)

允恭天皇 男浅津間若子宿禰王(仁徳の四男)
雄略天皇 大長谷若建命 (允恭の五男)
清寧天皇 白髪武広国押稚日本根子天皇 (雄略の三男)
星川稚宮皇子 (雄略の次男)
武烈天皇 小長谷若雀命
武烈姉妹 真稚皇女(まわかのひめみこ) - 『古事記』は真若王で男性とする。

継体子:稚子媛(わかこひめ。三尾角折君の妹) 小野稚娘皇女
欽明の子:橘本稚皇子(たちばなのもとのわかみこ)

崇峻天皇:長谷部若雀天皇(欽明第12男)



「若」に対するのが「大兄」とか「日子」になるでしょうか。

「若」の天皇が王統に多い理由のひとつに、末子相続の件がありますね。反対が長子相続。

末子相続と長子相続の相違は、家系や王統的なものか、あるいは別の理由によるかも課題ですね。


中臣系は「若宮」のように開化系や「若」「中・仲」をアイデンティティーを持ちますね。開化系はその後継体系ともむすびついて同様な傾向を受け継ぎます。


それで武内宿禰の末男を若子宿禰とする件ですね。
允恭=男浅津間若子宿禰命

仮に若=末子説が正しいなら、少なくとも、双方は、習俗的に、末男に若をつけ、さらに主に末男継承をする民族系統の大王となるでしょうか。

「大兄」が入ってくるのはもっと後の6世紀の半島系の蘇我・秦・欽明時代でしょう。

これがもし長男相続とすると、その後にまた崇峻で「若」と末男相続の系統が混じるとなると、そのあたりで、王統の変化が生じた可能性を感じますが、若がはたして末子だったのかは、ちょっとまだ判断しがたいですね。王統と関係あるようには感じるのですが。

「ワカミタフリ」ですね。「若」のつく皇子を王につける王統??



1388管理人:2013/04/07(日) 23:39:19
Re: 玉纒太刀・子持ち勾玉
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001430_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/仁徳天皇



1389秦野北斗:2013/04/09(火) 00:41:58
Re: 玉纒太刀・子持ち勾玉
管理人さんへのお返事です。

平安京、難波京は同時代の隋(晋)尺の京になるな。

平城京、藤原京は呉尺の京。


平安京は現在の京都府京都市中心部にあたる、山背国葛野・愛宕両郡にまたがる地に建設され東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城であった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/平安京

大宝律令の尺(秦野距離)は呉尺で隋尺の関係は1.2倍になる。

呉尺     隋(晋)尺
35.6 cm÷1.2=29.6 cm(大尺)
29.6 cm÷1.2=24.6 cm(小尺)

呉代、隋代の尺を里に当て嵌めるならば、大里、小里が存在する。

呉尺     隋(晋)尺
533.5 m(里)÷1.2=444 m(大里)
444 m(大里)÷1.2=370m(小里)

建設され東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城であった。

東西4.5km÷370=12.1 ≒ 12
南北5.2km÷370=14.0 ≒ 14


> 確かに、難波宮の位置は、仁徳・高津宮を意識したようにみえますね。図参照。
> 難波大道は、左から2晩目のミドリ線上の道です。11kmの倍数尺
>
> 諱は軽(かる)。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>
> 父は、オキナガ系の押坂彦人大兄皇子
>
> 蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、忍坂部(刑部氏)・丸子部などの独立した財政基盤を有し、王都を離れて水派宮(みまたのみや、奈良県河合町か)を営んでいた
>
>
> 忍坂宮時代からの河内・三嶋に基盤があるんですね。図参照。
>
> 高津宮のその基盤のひとつで、それでそのあたりに難波宮を建て得たのかもしれません。
>
>
> ただ、そうすると河内王朝時代を、やはり少なくとも2王統で理解する必要がありそうです。


1390管理人:2013/04/09(火) 23:25:14
魏志倭人伝方位区画動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001432M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/gisiwajinden-line-1.mov



1391秦野北斗:2013/04/10(水) 00:34:34
Re: 魏志倭人伝方位区画動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001433M.jpg

管理人さんへのお返事です。

九州の方位も同時代の隋(晋)尺になるな。


>
>
> > 大宝律令の尺(秦野距離)は呉尺で隋尺の関係は1.2倍になる。
> >
> > 呉尺     隋(晋)尺
> > 35.6 cm÷1.2=29.6 cm(大尺)
> > 29.6 cm÷1.2=24.6 cm(小尺)
> >
> > 呉代、隋代の尺を里に当て嵌めるならば、大里、小里が存在する。
> >
> > 呉尺     隋(晋)尺
> > 533.5 m(里)÷1.2=444 m(大里)
> > 444 m(大里)÷1.2=370m(小里)
> >




1392管理人:2013/04/10(水) 20:41:15
魏志倭人伝方位区画・多鈕細紋鏡ライン説明動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001434M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001434_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001434_3M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/gisiwajinden-line-2.mov



1393管理人:2013/04/11(木) 23:07:34
説明動画の画像もアップ
ちょっとお知らせです。
先日お知らせした方位区画動画ページに、方位区画画像もアップしました。
リンクをクリックしてご視聴ください。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/houiline.htm


あと、先日の物部方位区画も追加しています。詳細は上記ページから。

1394秦野北斗:2013/04/12(金) 07:39:44
Re: 説明動画の画像もアップ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001436_2M.jpg

http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/houiline.htm



1395管理人:2013/04/12(金) 22:25:24
Re: 説明動画の画像もアップ
秦野北斗さんへのお返事です。

> 古代の都市の輪郭が出ていますな
>
> 古代の光通信網ですな。方位図が光通信網


ご指摘の呉年号銘・画紋帯神獣鏡の出土地点を結んだ方位区画は、確かに拠点が複数あったようですね。

まず伊都国や九州西部にあり、伊予や兵庫の武庫、淡路島あたりにもあったでしょう。その後4世紀前半代になり景行朝の時代に河内から奈良北部の佐紀楯並方面へと進出します。さらに6世紀にはいって継体朝に尾張や敦賀方面へと進出し、最後に関東へと流れていきます。

それでその時代ごとに中心拠点があって、それがご指摘の都市のような方位ラインが集中する拠点と鳴って行った模様です。またこういう場所は交通の拠点でもありますね。港が多いのは、彼らが海洋民だったこともあります。

志摩とか敦賀あたり、後に伊豆などもそうですね。

ご指摘の光通信網は、特に海洋民にとっては、おそらく生命線を分けたことでしょう。
まず港に入る際に敵か味方かの区別をつけねばなりません。夜間なら船上でのたき火と鏡による光信号ですね。
また灯台側からも返信の信号を送る必要があったでしょう。原の辻に多鈕細紋鏡といった凹面鏡が出土するのも、あるいは高尾山麓から出土するのも、遠隔地からのモールス信号的なサーチライト効果を狙っていたのではないかと考えてます。

ただ、凹面鏡とサーチライト効果については、実際に実験してみないと証明できない感じですね。凹面鏡ほうが、凸面鏡より遠く届くはずですが、凸面鏡ほうが、広角に光反射できるかもしれません。

灯台ならば広角から見れたほうがよいでしょうし、測量・軍事目的なら凹面のほうがピンポイントで正確な角度で光線を届けれるのでベストでしょうか。方位ラインは確かにその辺の精度に関わります。

1396秦野北斗:2013/04/13(土) 00:17:15
Re: 説明動画の画像もアップ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001438M.jpg

http://www15.plala.or.jp/kojiki/kuniyuzuri/kuniyuzuri_06.html



1397管理人:2013/04/13(土) 07:52:45
ヤマトタケル方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001439M.jpg

http://pixta.jp/photo/6756229



1398秦野北斗:2013/04/14(日) 09:41:10
Re: ヤマトタケル方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001440M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/yamatotakeru-line.mov



1399管理人:2013/04/15(月) 21:03:47
物部方位区画?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001441M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001441_2M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/monobe-houikukaku2.mov



1400秦野北斗:2013/04/15(月) 22:00:26
Re: 物部方位区画?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001442M.jpg

管理人さんへのお返事です。

30度角から、後に角度が60度の変化は方位を90度転回した結果に見えますな。

かなり古い弥生末からの区画で、当初の西日本における30度角から、後に角度が60度に変化して東海・関東・東北へと北上していきます。同じ測量方式で、おそらく105km尺の前漢尺を利用してますが、後の11km尺も混入している可能性を感じます。


> 動画の遺跡紹介順は下記のとおりです。
>
> 石船神社(石船柵)→切田岩船→岩水神社(中野市岩船)→伊勢内宮→十二所神社(大子町)→岩倉温泉→日光男体山(二荒神社)→恋路稲荷八角墳→小敷田遺跡(行田)→吉見百穴→岩水神社→宇佐神宮→高知市物部(石船神社)→宇佐→三島→吉備津神社→白山仲居神社→諏訪神宮上社前宮→鹿島神宮→白山仲居社→伊勢内宮→葛城一言主社→磐船神社→高千穂方面→イザナギ神社(淡路島)




1401通りすがり:2013/04/15(月) 22:33:13
Re: 紀氏と岸が同族?
鷹の羽系の家紋という事で阿蘇方面菊地氏との事ですが、実は山形県を元々は「出羽」と言ったのは、朝貢等する鷹の羽の産地だったのが由来のようで、これに因んだものではないでしょうか。
この地方の岸氏と同族とされる事の多い大彦命後裔の阿部氏も多く鷹の羽紋が見られます。
更に出羽は出庭とも作りますが『新撰姓氏録考証』に、北陸遠征の大彦命の弟で彦太忍信命という人の子孫を出庭臣に任じたとあります。
この出羽臣の娶る女系一族が紀氏一族であった事も書かれています。
当時の紀氏一族は殆どが大和の京で中務史生等をして大和朝廷に仕え、神官や地方豪族をしていたようです。当時の地方豪族は自分達の勢力地に自分達の名前を付けました。
何かの理由で本家に遠慮して「紀氏」を「幾志」に変えて更にそれが「岸」になったのでしょう。
彦太忍信命は葛城氏や蘇我臣、紀臣や許勢臣そして平群臣の祖とされています。
また紀氏の方は元々は氏寺は岩清水八幡宮でしたが今は紀氏が神官をしているものの天皇のものとなっているようで、日前神宮・國懸神宮が紀氏の神社じゃないでしょうか。造化三神の神皇産霊尊の子神または5世孫にあたり天津神とされる天道根命を祖神としているようです。
因みに大彦命後裔の北陸東征阿部氏縁の岸氏とは言っても、安倍首相縁の岸信介氏とは家紋が違いますし、岸信介氏は元々は佐藤姓ですから違う系統ではないでしょうか。

1402忠告者:2013/04/15(月) 23:29:25
Re: 紀氏と岸が同族?
日前神宮・國懸神宮の紀氏神主は断絶し、途中から陰明術闇王の藤原氏にすり変わって紀氏やらガド族やら出雲族やらを待ち受けておりますな。
ヤタガラスの旗もはためいている。
ヤタガラスはやーさんみたくヤ(八=8)なんて出雲族やガド族の聖数字つけてその仲間に思わせての、彼等から呪われないためのおまじない。
岩清水八幡宮の方もどうなっているんだかですね。

>通りすがりさんへのお返事です。

> 鷹の羽系の家紋という事で阿蘇方面菊地氏との事ですが、実は山形県を元々は「出羽」と言ったのは、朝貢等する鷹の羽の産地だったのが由来のようで、これに因んだものではないでしょうか。
> この地方の岸氏と同族とされる事の多い大彦命後裔の阿部氏も多く鷹の羽紋が見られます。
> 更に出羽は出庭とも作りますが『新撰姓氏録考証』に、北陸遠征の大彦命の弟で彦太忍信命という人の子孫を出庭臣に任じたとあります。
> この出羽臣の娶る女系一族が紀氏一族であった事も書かれています。
> 当時の紀氏一族は殆どが大和の京で中務史生等をして大和朝廷に仕え、神官や地方豪族をしていたようです。当時の地方豪族は自分達の勢力地に自分達の名前を付けました。
> 何かの理由で本家に遠慮して「紀氏」を「幾志」に変えて更にそれが「岸」になったのでしょう。
> 彦太忍信命は葛城氏や蘇我臣、紀臣や許勢臣そして平群臣の祖とされています。
> また紀氏の方は元々は氏寺は岩清水八幡宮でしたが今は紀氏が神官をしているものの天皇のものとなっているようで、日前神宮・國懸神宮が紀氏の神社じゃないでしょうか。造化三神の神皇産霊尊の子神または5世孫にあたり天津神とされる天道根命を祖神としているようです。
> 因みに大彦命後裔の北陸東征阿部氏縁の岸氏とは言っても、安倍首相縁の岸信介氏とは家紋が違いますし、岸信介氏は元々は佐藤姓ですから違う系統ではないでしょうか。

1403秦野北斗:2013/04/16(火) 00:00:29
Re: 紀氏と岸が同族?
通りすがりさんへのお返事です。

家紋の始まりはどうも、アマテラスになる様ですな。

秦野の調べでは三つ巴、あげは蝶になると神宮皇后の三韓征伐まで遡ることになる。
阿蘇方面菊地氏は弓月君の末裔になり、菊地氏と中臣が平氏になる。
平氏は源氏に対し、後発勢力のため、東北(古代の日本国)を領地に取る。
弓月君は日本書記の著者。弓月君の家紋は鷹の羽になる。定かではないが、
弓月君は大月氏(匈奴)でヨーロッパの紋章に見られる鷲と同族の鷹になっている。

歴史は源平合戦で平氏の家紋は全国に散っている。また、家紋の融合が見られる。
現在では平氏の家紋と名字が一致するのは珍しい。九州、北海道、僻地に落ち延びたようだな。

因みに平の意味はアイヌ語で崖、荒地になる。

通りすがりさんの家紋は鷹の羽系の家紋ですかな。

> 鷹の羽系の家紋という事で阿蘇方面菊地氏との事ですが、実は山形県を元々は「出羽」と言ったのは、朝貢等する鷹の羽の産地だったのが由来のようで、これに因んだものではないでしょうか。
> この地方の岸氏と同族とされる事の多い大彦命後裔の阿部氏も多く鷹の羽紋が見られます。
> 更に出羽は出庭とも作りますが『新撰姓氏録考証』に、北陸遠征の大彦命の弟で彦太忍信命という人の子孫を出庭臣に任じたとあります。
> この出羽臣の娶る女系一族が紀氏一族であった事も書かれています。
> 当時の紀氏一族は殆どが大和の京で中務史生等をして大和朝廷に仕え、神官や地方豪族をしていたようです。当時の地方豪族は自分達の勢力地に自分達の名前を付けました。
> 何かの理由で本家に遠慮して「紀氏」を「幾志」に変えて更にそれが「岸」になったのでしょう。
> 彦太忍信命は葛城氏や蘇我臣、紀臣や許勢臣そして平群臣の祖とされています。
> また紀氏の方は元々は氏寺は岩清水八幡宮でしたが今は紀氏が神官をしているものの天皇のものとなっているようで、日前神宮・國懸神宮が紀氏の神社じゃないでしょうか。造化三神の神皇産霊尊の子神または5世孫にあたり天津神とされる天道根命を祖神としているようです。
> 因みに大彦命後裔の北陸東征阿部氏縁の岸氏とは言っても、安倍首相縁の岸信介氏とは家紋が違いますし、岸信介氏は元々は佐藤姓ですから違う系統ではないでしょうか。



1404管理人:2013/04/16(火) 06:48:48
朝鮮・日本方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001446M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/cyosen-nihon-houikukaku.mov



1405つぶやき:2013/04/16(火) 11:04:40
Re: 紀氏と岸が同族?
葛城氏は加羅王族だった?(箕氏王-シュメール王族だった?)
『複合王朝としてのヤマト---葛城氏の正体』
http://web1.kcn.jp/tkia/mjf/mjf-53.html

雄略天皇は大王家を脅かすとして葛城一族家屋敷郎党の総てを焼き滅ぼした。
その後に復活した葛城一族が蘇我氏(「我」は「蘇」りたり」)。
『葛城氏』
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-2.html

蘇我氏自体が王族だった?『蘇我氏の正体-僕の頭の中にある世界』
http://savage.blog.shinobi.jp/Entry/58/

紀氏の系図は失われてしまっているのですがこのような史実があります→天皇家は都合の悪い有力士族に系図その他を差し出させ史実の抹殺を図った
『【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】18』
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1341536153

『尾張氏葛城氏海部氏紀氏日下部氏草部吉見系阿蘇氏=多氏熊襲...』
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53248202.html

蘇我をサカ(釈迦=ガド族)とする説も。
しかし、聖書の神は、ユダヤ人の救世王はユダ族にすると約束すると言っているのを見ると、本来の人間界の王統であるエンリル系佛教系シュメール王統の紀氏(箕氏)葛城王朝から勝手に自分の都合だけで謂われなく正統な王座権威を奪い肉親の命や富を奪い全てを盗み取って潰して、新らしく自分で作った王統に与えておきながら、ご自身の権威は崇め言う事をよく聞けよなんて、天国で王様やってる聖書の神様というのはまるでマフィアのようで、いやはや救いようもないですな。

1406秦野北斗:2013/04/16(火) 20:32:55
Re: 紀氏と岸が同族?
つぶやきさんへのお返事です。

武内 宿禰が何者かですな。どうも、卑弥呼の三公の様ですな。

三角縁神獣鏡の銘文、秦野北斗訳

景初三年陳是作鏡自有経述本是京師杜地命出吏人銘之位至三公母人銘之保子宜孫寿如金石兮

景初三年、陳が自ら経述した鏡を作る。もとは京師(杜)の出、銘は位至三公の吏人、銘は母人(おものひと)、保子(開花天皇)の孫(卑弥呼)、金印(親魏倭王)をもって祝う。

http://homepage2.nifty.com/watcher/cult8frame.htm

武内 宿禰(たけうちのすくね・たけのうちの−・たけしうちの− 、景行天皇14年(84年) - 仁徳天皇55年(367年)4月?)は、『古事記』『日本書紀』で大和朝廷初期(景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代の天皇の時期)に棟梁之臣・大臣として仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物。建内宿禰とも表記される。紀・巨勢・平群・葛城・蘇我氏などの中央諸豪族の祖とされるが詳細は不明。神号は高良玉垂命とも。

http://ja.wikipedia.org/wiki/武内宿禰


> 葛城氏は加羅王族だった?(箕氏王-シュメール王族だった?)
> 『複合王朝としてのヤマト---葛城氏の正体』
>
> 雄略天皇は大王家を脅かすとして葛城一族家屋敷郎党の総てを焼き滅ぼした。
> その後に復活した葛城一族が蘇我氏(「我」は「蘇」りたり」)。
> 『葛城氏』
>
> 蘇我氏自体が王族だった?『蘇我氏の正体-僕の頭の中にある世界』
>
> 紀氏の系図は失われてしまっているのですがこのような史実があります→天皇家は都合の悪い有力士族に系図その他を差し出させ史実の抹殺を図った
> 『【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】18』
>
> 『尾張氏葛城氏海部氏紀氏日下部氏草部吉見系阿蘇氏=多氏熊襲...』
>
> 蘇我をサカ(釈迦=ガド族)とする説も。
> しかし、聖書の神は、ユダヤ人の救世王はユダ族にすると約束すると言っているのを見ると、本来の人間界の王統であるエンリル系佛教系シュメール王統の紀氏(箕氏)葛城王朝から勝手に自分の都合だけで謂われなく正統な王座権威を奪い肉親の命や富を奪い全てを盗み取って潰して、新らしく自分で作った王統に与えておきながら、ご自身の権威は崇め言う事をよく聞けよなんて、天国で王様やってる聖書の神様というのはまるでマフィアのようで、いやはや救いようもないですな。


1407秦野北斗:2013/04/17(水) 08:02:20
Re: 朝鮮・日本方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001449M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/東山_(京都府)



1408管理人:2013/04/17(水) 23:07:19
Re: 朝鮮・日本方位区画
秦野北斗さん、つぶやきさん、

こんばんは。確かに南方海人系の葛城氏の件は重要ですね。
尾張氏との結びつきも重要。


1409管理人:2013/04/18(木) 05:13:17
東北・北海道方位区画動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001451M.jpg

http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/touhoku-hokkaido-line01.mov



1410秦野:2013/04/18(木) 16:39:23
Re: 朝鮮・日本方位区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001452_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001452_3M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/五山送り火



1411管理人:2013/04/19(金) 20:04:43
盂蘭盆会
秦野さんへのお返事です。

> 大文字の送り火は郊祀(こうし)のなごりか。
>
> 起源・歴史
>
> 山に画かれた字跡に点火する行為の起源については、平安時代とも江戸時代とも言われているが、公式な記録が存在するわけではない。場所と行為を具体的に特定した史料が登場するのは近世に入ってからである。『雍州府志』によると、盂蘭盆会や施餓鬼の行事として行われていたとあり、『花洛細見図』にも「盂蘭盆会の魂祭」として紹介されていることから、江戸時代前期から中期までにはそれに類する性格を持っており、大文字、妙法、舟形、加えて所々の山、原野で火を点けていた。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/五山送り火
>

特に盂蘭盆については、先に会報でトカラ人との兼ね合いで論じましたが、イラン系宗教の影響が指摘されてますね。

盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」の音写語で、古くは「烏藍婆拏」「烏藍婆那」と音写された[1]。「ウランバナ」は「ウド、ランブ」(ud-lamb)の意味があると言われ、これは倒懸(さかさにかかる)という意味である。亡くなった魂は中空に逆さにつり下げられたような苦しい状況にいると考えられていたのである。[要出典]
近年、古代イランの言葉で「霊魂」を意味する「ウルヴァン」(urvan)が語源だとする説が出ている。サンスクリット語の起源から考えると可能性が高い。古代イランでは、祖先のフラワシ(Fravaši、ゾロアスター教における精霊・下級神。この世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在。この「フラワシ」は人間にも宿っており、人間に宿る魂のうち、最も神聖な部分が「フラワシ」なのだと言う。ここから、フラワシ信仰が祖霊信仰と結びついた。)すなわち「祖霊」を迎え入れて祀る宗教行事が行われていた。一説によると、これがインドに伝えられて盂蘭盆の起源になったと言われている。[要出典]

https://ja.wikipedia.org/wiki/

また東方キリスト教の悔過儀との兼ね合いも指摘されていたと思います。
それが中臣・藤原氏の関わる二月堂の修二会などの然灯供養との関わりを考える見方もあって、さらにゾロアスター教の火に関する祭儀と関わりがあるとの見方もあります。

斉明朝のトカラ人渡来の際に、須弥山をつくり、盂蘭盆へ彼らを招待するわけですが、その須弥山に関する伝承としては、推古朝の百済からきた路子工の話があり、「白子」と呼ばれた渡来系石造職人の伝承に関わってきます。

日本書紀によれば、612年に御所に須弥山と唐風の呉橋(屋根、欄干つきの橋)がある庭を建設したことから、路子工と呼ばれるようになったという。当時の日本では、既に庭園建設も盛んに行われていたが、技術者として記録が残る人物としては日本最古である。その後、全国を回り当時の日本を代表する三河の矢引橋、水内の曲橋、木襲の梯橋、遠江の浜名橋、会津の闇川橋、兜岩の猿橋など180もの架橋に携わったとされる[1]。
山梨県猿橋との関連 [編集]

山梨県大月市の猿橋では、志羅呼(しらこ)という百済からの渡来人が建造したと伝えられる。現在の猿橋が、日本書紀にでてくる兜岩の猿橋と同一とは限らないが、路子工の出身地が同一であること、架橋の時期が推古天皇の代と路子工の活動期と重なることから、同一人物の可能性がある[2]。

百済の造園 [編集]

大韓民国忠清南道扶餘郡には、韓国で最初の人工庭園が作られたと伝えられているが、造成された年は634年と路子工が造園した年代より後のものである[3]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/

おそらく、この路子工と推古伝承、トカラ人と斉明の伝承とは、重複しているのではないかと考えたのが数年前に会報で論じたとおりなのですが、上記のように、造園技術と関係して、新羅庭園が、斉明朝に奈良にもたらされる契機と関わってきます。

トカラ人渡来と盂蘭盆会・須弥山に関する伝承、斉明時代のオリエント式のサイフォン管を用いた庭園の造営とは、深くつながっているのではないかと考えているのですが、その背景に藤原氏、さらにいえば新漢人の影響があって、中東系の宗教要素を含んだ仏教を、白鳳時代にもたらしていったのでしょう。それがもしかすると、ご指摘の送り火の儀式にも関わっていたかもしれません。


天智系の桓武は、皇太子時代から今来神つまり、新漢人の神を祀っているわけですが、後に彼の好んだ皇帝祭祀とともに、それらの要素がピックアップされていった可能性もあるかと感じますね。交野の分析も重要。


> 桓武天皇の郊祀は南郊の交野になる。方位から交野は高野山が適切である。
>



1412秦野:2013/04/19(金) 23:35:31
Re: 盂蘭盆会
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001454_3M.jpg

管理人さんへのお返事です。

はて、妙見山ラインを結ぶ継体天皇陵ラインを伸ばせば、神功皇后陵のラインが現れる。



> 特に盂蘭盆については、先に会報でトカラ人との兼ね合いで論じましたが、イラン系宗教の影響が指摘されてますね。
>
> 天智系の桓武は、皇太子時代から今来神つまり、新漢人の神を祀っているわけですが、後に彼の好んだ皇帝祭祀とともに、それらの要素がピックアップされていった可能性もあるかと感じますね。交野の分析も重要。
>
>
> > 桓武天皇の郊祀は南郊の交野になる。方位から交野は高野山が適切である。
> >
>
>




1413管理人:2013/04/20(土) 23:27:08
Re: 盂蘭盆会
秦野さんへのお返事です。


> はて、妙見山ラインを結ぶ継体天皇陵ラインを伸ばせば、神功皇后陵のラインが現れる。
>
>

今確かめてみましたが、確かに現継体陵の100m東を通過するようです。先の私部のそばも通過しますね。
いい線ついているかもしれません。

方位ラインを引くには、勘が重要です。要素や年代、方角などから、だいたい予測をつけて引くと、それなりの遺跡にあたります。

今日は将棋棋士がパソコンに負け越したというニュースがありましたが、パソコンとか最新技術を扱うにしても、まずはその前提条件として勘の鋭さが重要ですね。直感力が上回っていれば、そのパソコンや科学分析も役に立つでしょうし、そうでなく力量が下回っていれば、後からいろんな問題が生じてくるでしょう。



1414管理人:2013/04/21(日) 05:09:20
郊祀
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001456M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001456_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/



1415管理人:2013/04/23(火) 06:22:29
C14法と年輪年代法
ちょっと日曜日にひさしぶりに古代史例会に参加してから、年輪年代法とC14法の科学分析の取り扱いについて、考えを巡らしています。

ただ、両者いろいろ問題があり、すぐに信用できない部分も多いようです。下記ページ参照ください。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/wasi/wasizaki1.htm


特に年輪年代法から出てきた結果については、ある時代以降は案外よく当たっているそうですが、ただやはり弥生〜古墳時代前期の結果が100年ほど古く見積もる結果となり、従来の通説と大幅にズレている原因を確認しておきたいと感じてます。

確かに、そもそも不可能と言われていた領域を可能なラインまで持ってきた努力は評価すべきですし、この手法が完成すれば、暦年単位での年代測定も可能になるかもしれない点で重要です。

普通に素人目で考えれば、外側の樹皮の部分を削って使用したのでその分だけ、古く見積もられたと考えれるように感じますが、調べてみると、古木ほど外側の年輪が密に薄くなるそうで、同じ削り分でも、その換算年数も多くなるわけですよね。
http://dendro.naruto-u.ac.jp/~yn/dendro/opening_j.html

そもそも樹皮部までない辺材だけでどうやって暦年単位の年代決定ができるのかもよくわからないのですが、ただ確かに年輪パターンやその木材の適正から、数百年単位での大まかな木の存在年代は判ることは理解できます。

樹齢500年の木があって、AD0年に植えて、AD300年に切っても、500年に切っても途中までの年輪パターンは同じわけですよね。同じ木目が出てくる。

違うのは、樹皮部分とその近縁部の木目だけとすると、そこの部分が含まれない木材の木目を見ても当てにならないということになるでしょうか。

そうすると樹皮型の結果のみは当たっている可能性が高くなり、結果としては紫香楽宮の結果はドンピシャだったということですね。

池上曾根と二之蛙横枕のそれも樹皮型ですが、他の石塚とかのは、辺材型でおおよそ当てにならないということでしょうか。

その+αのαが、木材や樹齢、気候等で大幅に変化するので、その部分をいかに合理的に推理するかが課題ですね。その推理した理由を、明確に公表しないと、辺材型では説得力がないということになるでしょうか。

素人目ですが、確かにこの辺の公表の是非の部分に問題がありそうですね。科学データの古代史応用はそれなりの力量がないと難しいですね。

方位ラインなんかも同じで、100メートルズレたので、もう間違っていると思いこむケースもあるのですが、それも百分率の問題で、10KMのうちの100Mのズレは100分の1、1KMのうちでは10分の1、100KMでは1000分の1ですから、その相対距離でずいぶん、その精度の高低もかわってきますし、そこに地球球面による東西誤差みたいなキシさん御特異の世界もあるわけでして、なかなかただどれだけズレている、合っているということだけに、惑わされないようにしたいところです。

1416秦野北斗:2013/04/23(火) 06:32:25
Re: 郊祀
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001458_2M.jpg

管理人さんへのお返事です。

お疲れのようですな、これからは万葉集が手がかりになるみたいですな。

暫く、休憩・・。妙見山ラインの古墳分布に護国神社と東大寺がポイントですな。

若草山が郊に・・。休養を兼ね現地調査だな。



> なんだか眠れないので、また調べてみたのですが、ご指摘の郊祀について、先に前方後円墳との関わりを論じましたが、興味深い記載があります。
>
> 下記の神武の記載に出てくる鳥見山は、桜井茶臼山古墳と関係する物部氏の本拠・磐舟神社から富雄丸山古墳を結ぶ『とび』に関わるライン上にあります。神武は南方海人系の大彦系集団と関わりますが、さらにトトビモモソヒメとも関係してきます。
>

> 神武天皇2年、功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。
> 神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。
> 神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名
>
> 秋津遺跡周辺を「州」と読んでますね、一時期、この辺が島地だった可能性を感じます。海進や河川の流域の変化と捉えて、そこからこの伝承の年代を逆算できないでしょうか。
>
> 鳥見と「幸運を呼ぶ鳥」に関係して、鳥トーテムで、仁徳ー雄略・・・崇峻の鳥(ササギ)と関わりそうです。三島・葛城鴨の南方海人族。
>



1417管理人:2013/04/23(火) 23:18:38
Re: 郊祀
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001459_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001459_3M.jpg

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/wasi/wasizaki1.htm



1418秦野:2013/04/26(金) 07:02:04
Re: 郊祀
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001461_3M.jpg

管理人さんへのお返事です。

管理人さんお疲れでした。秦野は連休にハイキングを兼ねて郊でも確認しますかな。

高野(交野、郊野)山、比叡山、妙見山、若草山、護国神社(古墳跡) 、大神神社

紫香楽宮、鳥見山でも登ってみますかな。


> いえ、そんなに疲れてはないのですが、秦野さんもみなさんもまた連休は、家に籠らずどこか遺跡見学にでも出かけたほうがよいように感じます。







1419管理人:2013/04/26(金) 21:01:41
Re: 郊祀
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001462_2M.jpg

http://www.47news.jp/CN/201304/CN2013042501001909.html



1420秦野:2013/04/27(土) 02:13:47
Re: 郊祀
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001463_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001463_3M.jpg

http://homepage2.nifty.com/watcher/hatano29.htm



1421管理人:2013/04/27(土) 23:09:35
Re: 郊祀
秦野さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> マヤの遺跡がC14法でBC1000年ごろ
>
> アトランティス消滅からマヤ遺跡まで長い距離を旅し、記録を残したのがアステカの記録
> ですな。アトランティス、青海省、長江、日本、アステカ・・・。
>
> 紀元前2800年頃 アトランティス消滅(現在名:マダカスカル島)
>


C14法の測定でもいろいろ種類があるようです。2万年を越えると、違う方法も必要かもしれませんね。
http://www.crc-japan.com/data/n-soku.html

地衣計測法というのがあるらしいです。9000年前まで測定可能?
http://home.hiroshima-u.ac.jp/lichen/trend/airpollution.htm
http://wwwearth.ees.hokudai.ac.jp/IAI/swiss12/report/lichen.pdf#search='
http://www.s-yamaga.jp/nanimono/chikyu/nendaisokuteiho-03.htm#?Y?f14?@

この辺も有用か?
http://www.weblio.jp/wkpja/content/

やはり地磁気による年代推定が個人的には興味深いですね。


1422秦野:2013/04/29(月) 07:10:59
Re: 郊祀
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001465M.jpg

管理人さんへのお返事です。

地磁気の性質から古墳の周辺を掘り下げ磁気を層状に測定しなければならないな。
また、基準を何処に取るかだな。

まあ、水道管程度の穴を開ければ地磁気の変化で年代がだせるな。

> やはり地磁気による年代推定が個人的には興味深いですね。
>




1423管理人:2013/04/30(火) 21:34:01
古地磁気測定
秦野さんへのお返事です。

> 地磁気の性質から古墳の周辺を掘り下げ磁気を層状に測定しなければならないな。
> また、基準を何処に取るかだな。
>
> まあ、水道管程度の穴を開ければ地磁気の変化で年代がだせるな。
>

古地磁気学ですが、どうも縄文、弥生、平安、江戸の遺跡ですでに調査されて年代推定がなされているようです。
http://air.lib.akita-u.ac.jp/dspace/bitstream/10295/1114/3/nist8.pdf#search='


土器などの残留磁気も測定できるようなので、そのまま弥生末から古墳時代のそれにも適用すれば、第3の測定手段になるでしょう。もっとも精度の問題もありますが、下記の論文ではC14の発生が、ちょうど磁気強度と逆になる性質を利用する可能性を指摘して興味深いですね。C14法とセットで使えば精度があがるということでしょうか。

http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/13236/1/KJ00000187604.pdf#search='

なぜ管理人が古地磁気の偏角から年代測定をする件に興味をもっているかというと、先日お話した指南魚・方位磁針の導入の件にあります。詳細は会報第3・4号に記したとおりですが、各種科学的年代測定手段とともに、地磁気関連がこれからクローズアップされてくるのではないでしょうか。そして秦野さんご指摘のような、その手段の是非ですね。

1424管理人:2013/04/30(火) 22:22:08
Re: 古地磁気測定
追記

すでに弥生・古墳時代の考古と地磁気編年との共同作業も開始しているようですね。こちら必見。
https://www.cps-jp.org/~mosir/pub/2011/2011-12-21/01_hatakeyama/pub-web/20111221_hatakeyama_01.pdf

1425秦野:2013/05/10(金) 08:44:26
Re: 古地磁気測定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001468M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001468_2M.jpg

管理人さんへのお返事です。

百舌鳥、古市古墳の方角が高確率で一致する。秦野が解いた模様。
どうも、郊祀壇と古墳の方向は、南北の郊に多く見られる。

方向基点は妙見山、大文字、左大文字、南北の郊
郊祀壇は南北の郊、妙見山、高野山のようだな。


地磁気の測定でもしょうかな。バラバラの地磁気を理解するのが最大の問題..。

管理人さんの指南魚・方位磁針は年代の特定になるな。

> > 地磁気の性質から古墳の周辺を掘り下げ磁気を層状に測定しなければならないな。
> > また、基準を何処に取るかだな。
> >
> > まあ、水道管程度の穴を開ければ地磁気の変化で年代がだせるな。
> >
>
> 古地磁気学ですが、どうも縄文、弥生、平安、江戸の遺跡ですでに調査されて年代推定がなされているようです。
>
> なぜ管理人が古地磁気の偏角から年代測定をする件に興味をもっているかというと、先日お話した指南魚・方位磁針の導入の件にあります。詳細は会報第3・4号に記したとおりですが、各種科学的年代測定手段とともに、地磁気関連がこれからクローズアップされてくるのではないでしょうか。そして秦野さんご指摘のような、その手段の是非ですね。




1426管理人:2013/05/12(日) 03:08:22
Re: 古地磁気測定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001469M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001469_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001469_3M.jpg

秦野さんへのお返事です。

> 百舌鳥、古市古墳の方角が高確率で一致する。秦野が解いた模様。
> どうも、郊祀壇と古墳の方向は、南北の郊に多く見られる。
>
>
> 地磁気の測定でもしょうかな。バラバラの地磁気を理解するのが最大の問題..。
>
> 管理人さんの指南魚・方位磁針は年代の特定になるな。
>


古墳軸の方向の問題ですが、確かに百舌・古市古墳群はなんらかの目印や方角を元に方位を決めているように感じます。もちろん道の方角とか、山立ての可能性もありますね。

ただ、真北を向いているはずの古墳軸が、微妙に偏角をもってズレているケースに、指南魚・方位磁針使用の痕跡があるのではないかと、第3・4号では論じたところです。

たとえば、下図の古市古墳群のケースですね。

おそらくこれらはほとんど先の−1度偏角〜正方位測量時代のものですから、本来はほぼ真北に軸を向けて造営することが可能だったはずです。ところが、それぞれ図のように偏角が生じてます。

これは意図的とも言えることで、ひとつには上記のような目印や方角、指南魚・方位磁針を使って磁北を出したことによるものと考えてます。タイの遺跡に方位磁針の磁北に沿って建造物を立てたために、偏角のある北を向いた遺跡群が知られています。

おそらく南方系の航海集団の間では、羅針盤としてすでに古墳時代には方位磁針が利用されていたはずで、その方位磁針の示す向きはある種の神聖な方位だった可能性を考えてます。詳細は山幸神話と古墳葬送儀礼と南方日向系航海民との関係で論じているのでご参照ください。

それでその磁北のズレ、つまり偏角から逆に遺跡の年代を推定しようと考えたのが会報第3号の分析の意図でした。

たとえば下図2の場合では、古い順から
?→?→?→?
の古墳を見ていただくと、
時代とともに、徐々に西に傾いて行くのがわかります。

これは図1の中に挿入したS字型の偏磁曲線をみていただくとわかるように、偏角が東から西に変化するのが、ちょうど450年ごろとなります。

ところが、その東西偏角なしの中間時代は、図でいくと、?から?の時代でやや早いことがわかります。

同様に、?から?にかけての古墳のケースでも、おおむね西に傾いた時代のものだといえそうですが、最後の?が一番傾いていて、偏磁曲線でいえば550年前後になりそうです。

とこの論理でいけば、この応神陵はどの時代か?と15度近く西に傾いているわけだから、550年代だといいたくなるところですが、しかし、これはおそらく別に先のとおり目印なり方位ライン(街道)なりに沿って立てられたので、もともとの偏角(方角)があって、それに沿って造られたと考えるべきでしょう。

図3は西都原の古墳群の向きですが、これは明らかに方位ライン(街道や目印となる方角)に沿って造営されたので、偏角が生じているケースです。ただその方位ラインの向きに+αで磁気偏角が付加している可能性を考えてます。

この辺の磁気偏角と、そうでない偏角との見極め、区別がまず前提としてなければ、これらの測定法はなりたたないわけでして、これも研究を地道に重ねてデータをとっていくしかないかなと感じてます。


http://



1427秦野:2013/05/21(火) 02:49:59
Re: 古地磁気測定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001470M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001470_3M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/七支刀



1428管理人:2013/05/22(水) 03:14:20
Re: 古地磁気測定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001471M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001471_2M.jpg

秦野さんへのお返事です。

> 質問ですが、古墳の年代は何処から出ているのかな。
>
>
> 神功皇后52(372)年、(秦野年は282年) 秋九月丁卯朔丙子(9月10日)条に、百済の使である久氐(くてい)らが、千熊長彦の引率で来倭し、七枝刀(ななつさやのたち)、七子鏡(ななつこのかがみ)、および種々の重宝を倭国へ奉った。そして『臣(百済)の西に河があり、水源は谷那(こくな)の鉄山(かねのむれ)から出ています。遠く、七日間でも到着できなません。この河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすら聖朝(ひじりのみかど)に奉ります』と言った。
>


古墳の年代は、結局先の図のように、考古学会の通説という形になりそうです。

それで、石上神宮関連だと、奈良の古墳も見て行く必要がありますね。
下図が、奈良の古墳群の位置と古墳軸の向き、年代です。


こうみると、図1のように、同じ古墳群では同じ方向に古墳軸を倒す傾向が強いことがわかります。これは通説どおりです。

そして、たとえば景行陵など、先の古市方面の古墳群の古墳軸の向きと同じものも見えてくるので、そこから、その同族系統や時代を探ることが可能になるかもしれません。聖方位が同族や時代によって異なっていた可能性があります。

また以前から論議してきた古墳の向きと街道の向きとの関係ですね。これは秦野さんご指摘の図のような、方位ライン(街道)関係の偏角にも影響されていたことでしょう。

奈良の場合は5度偏角、7度偏角、そして−1度偏角へと街道(方位区画)の偏角が移行していきますが、古墳軸の向きはそれに沿ったものと、そうでないものがあるようです。


また下図の四角で囲んだ同じ古墳群でも、微妙に偏角が異なっており、さらに例えばマキムク古墳群のように、ひとつまったく異なる向きをしているのもありますよね。こういう場合は、時代や系統、信仰が異なったり、外部進出者の古墳だったりして、その相違を確認することで、またその古墳の時代なり系統が理解できるようになるでしょう。

たとえば、?や?の入るカテゴリーですが、これは正方位測量で偏角なしとのことで、あるいは後代の正方位測量の影響なども考慮すべきかもしれません。もっと古い西に偏角がある?、?とかがもともといたところに、新たに進出してきた可能性がありますね。

箸墓の年代なども、そのカテゴリーを見ると、ホケノ山ど同じ向きで、?が近いが、?と?とは異なるようにも見えます。

この微妙な偏角の相違をもっと追求していくことで、その古墳の年代が測定できる可能性があります。そしてその偏角が方位ラインや区画、偏磁曲線の影響の是非などをも特定していくことで、さらに精度があがってくることでしょう。







1429秦野:2013/05/31(金) 09:37:37
Re: 古地磁気測定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001472M.jpg

管理人さんへのお返事です。

偏磁曲線の測定、案ですな。

今回の6古墳ですが、石上神宮関連になる。

?石上神宮から直線を引く(古墳の中心へ)
?古墳の直線部分との角度差を測定
?角度差を偏角へ換算


>
> この微妙な偏角の相違をもっと追求していくことで、その古墳の年代が測定できる可能性があります。そしてその偏角が方位ラインや区画、偏磁曲線の影響の是非などをも特定していくことで、さらに精度があがってくることでしょう。




1430管理人:2013/05/03(金) 23:18:04
Re: 古地磁気測定
秦野さんへのお返事です。

> 偏磁曲線の測定、案ですな。
>
> 今回の6古墳ですが、石上神宮関連になる。
>
> ?石上神宮から直線を引く(古墳の中心へ)
> ?古墳の直線部分との角度差を測定
> ?角度差を偏角へ換算
>


ちょっと古市古墳群の古墳軸の偏角を地図で調べたのですが、残念ながら石上神宮には向いてないようです。

おそらく応神陵と仁徳陵は、先日の河内国域の三島南方の北辺あたりに目がけて向いています。

それで、それぞれの古墳群には主従関係があって、メインの古墳に対して、従者らしき古墳は、同じ角度を向けるか、90度横倒しにした角度に古墳軸をもっていく傾向があります。

その区別をした上で、真東、真西、真北、真南に古墳軸を向けようとしたものの、微妙に東西に偏角がある古墳の分類をしていき、その偏角と偏磁曲線との関係を割り出す必要がありますね。

たとえば、百舌古墳群は微妙に偏角を東にもってきてますが、古市古墳群はその逆で微妙に西に持って行きます。

佐紀楯列は、正方位のものが多いですが、微妙に東西にそれぞれ傾くものもあります。

柳本でも景行陵はかなり西に傾きますね。

西に傾く方を時期的にやや遅いとすると、整合性が出てくるかもしれません。

後でその辺もう少しまとめてみましょう。



1431秦野:2013/05/04(土) 08:35:44
Re: 古地磁気測定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001474M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001474_2M.jpg

管理人さんへのお返事です。

古墳築造した当時は、基点を定め、例えば妙見山(各地に有るな)から光を元に測定し築造した。これも仮定ですがありですな。

古墳の年代ですが築造当時は土の磁極はバラバラのはず、数百年で磁極が固定されるなら痕跡が残るはず。

石上神宮は古市古墳群の応神天皇の小さな古墳ですぞ。

>
> ちょっと古市古墳群の古墳軸の偏角を地図で調べたのですが、残念ながら石上神宮には向いてないようです。
>
> おそらく応神陵と仁徳陵は、先日の河内国域の三島南方の北辺あたりに目がけて向いています。
>




1432秦野:2013/05/04(土) 20:08:08
Re: 古地磁気測定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001475M.jpg

http://kofun.info/kofun/197



1433管理人:2013/05/04(土) 23:02:11
Re: 古地磁気測定
秦野さんへのお返事です。

> 古墳の方向と石上神宮が対応すれば、墓山古墳の年代、及び陪塚でなくなる。定説が崩れるな。似た古墳に仁徳天皇陵は畝傍ライン、大文字ライン。応神天皇陵の妙見山ライン・・。
> 言える事は大文字、妙見山の年代が古墳の年代になるな。
>
> 墓山古墳
>
>


とりあえず、百舌・古市古墳群の古墳軸に関する簡単な動画を作成してみました。


http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/kofunjiku01.mov


詳細は先の書き込みのとおりです。

石上神宮はちょっとやはり北すぎるんですね。強いていえば黒田庵戸宮・倭屯倉あたりでしょうか。

景行陵と息子のヤマトタケルの羽曳野白鳥陵は動画のように、東西ラインです。


1434秦野:2013/05/05(日) 01:09:52
Re: 古地磁気測定
管理人さんへのお返事です。

話しが合わないな、地図の精度に問題ありそうだな。

当方はgoogl Earthを使用している。

通常の地図だと経度、緯度の補正が必要になるな。

> 詳細は先の書き込みのとおりです。
>
> 石上神宮はちょっとやはり北すぎるんですね。強いていえば黒田庵戸宮・倭屯倉あたりでしょうか。
>
> 景行陵と息子のヤマトタケルの羽曳野白鳥陵は動画のように、東西ラインです。
>


1435茨の紀氏:2013/05/05(日) 20:51:47
Re: 古地磁気測定
秦野さんへのお返事です。
> 話しが合わないな、地図の精度に問題ありそうだな。

関連があれば、幸いです。

古墳軸の偏角  利根川あたりから以北 北アメリカプレート
関東山地北縁〜北東縁部の群馬県下仁田地域,埼玉県. 金. カネザワ. 沢地域,および ...... とになるが,実測された残留磁化の偏角20.8°とは約73°. の差がある.この結果は ... 昇は太平洋プレートがユーラシアプレートの東縁に位置. した西南日本に対して直交 ... http://www.chs.nihon-u.ac.jp/institute/nature/kiyou/2012/pdf/2_7.pdf#search='北アメリカプレート 偏角 埼玉'
寄居層の古緯度:寄居層の古地磁気は正磁極に換算すると偏角20.8°,伏角46.0° I=46.0°,D=20.8°,α95=5.6°に対応する古地磁気北極の位置は70.5°N,260.0°E,A95 (dm=5.5°,dp=3.6°) である.この平均伏角から計算で得られる古緯度は28.5°±6.6°Nであり現在の寄居層の位置する緯度36°05′ Nと有意な差がある.寄居層の堆積した緯度は現在より南であったことになる.

.寄居層がナップを形成して中央構造線の海洋側に移動した時期を後述するように50Ma前後以降とし,高木・柴田 (2000) による100〜30Maにおける800 kmを超えないとする総変位量のうち53〜30Maに約370 kmが見積もられていることから,寄居層の50Ma前後以降の変位量はおおよそ約370kmとすると,寄居層が堆積した領家帯は約65Maから50Ma前後にかけて約480 km(=850km−370km) 北上したことになる.



> 管理人さんへのお返事です。
>

>
> 当方はgoogl Earthを使用している。
>
> 通常の地図だと経度、緯度の補正が必要になるな。
>
> > 詳細は先の書き込みのとおりです。
> >
> > 石上神宮はちょっとやはり北すぎるんですね。強いていえば黒田庵戸宮・倭屯倉あたりでしょうか。
> >
> > 景行陵と息子のヤマトタケルの羽曳野白鳥陵は動画のように、東西ラインです。
> >
>

1436秦野:2013/05/06(月) 07:07:26
Re: 古地磁気測定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001479M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/黒姫山古墳



1437管理人:2013/05/06(月) 22:48:30
Re: 古地磁気測定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001480M.jpg

http://www.chs.nihon-u.ac.jp/institute/nature/kiyou/2012/pdf/2_7.pdf#search='北アメリカプレート 偏角 埼玉'



1438秦野北斗:2013/05/07(火) 22:41:23
神功 52年の100年間の解釈エラー
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001481_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001481_3M.jpg

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/siragi-kanbun5-kyutosho.htm



1439管理人:2013/05/07(火) 22:58:20
Re: 古地磁気測定
秦野さんへのお返事です。


> 黒姫山古墳と野中宮山古墳、PL教団敷地に同族の古墳があるな。
> 箸墓古墳の横に国津神社がある。国津神社が黒姫山ラインの基点になるな。

> 古墳の方向と石上神宮が対応すれば、墓山古墳の年代、及び陪塚でなくなる。定説が崩れるな。似た古墳に仁徳天皇陵は畝傍ライン、大文字ライン。応神天皇陵の妙見山ライン・・。
> 言える事は大文字、妙見山の年代が古墳の年代になるな。

下記の記載が古墳の利用法を考える上で、興味深いですね。


周囲には陪墳と見られる5つの方墳(野中古墳、向墓山古墳、浄元寺山古墳、西墓山古墳、西馬塚古墳)が存在している。このうち現在は消滅した1辺18メートルの方墳である西墓山古墳の跡からは、発掘調査の結果大量の鉄器(刀剣200点、農耕具2000点以上)が出土している。人体の埋葬施設は確認できず、副葬品のための陪塚とみられている[1]。
なお、西馬塚古墳は『古事記』に登場する、自分の馬と交換してもらった馬が翌日埴輪の馬になっていたという話の舞台とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


最近、馬の埋葬が確認された話ありましたが、この場合は倉庫とか宝物庫ですね。佐味田・鴨津波古墳を結んだ南北ラインも、それに関係して三角縁などの測量道具を入れた倉庫のような古墳だったのですが、その辺の思想観念との関わりを感じます。

ただ形状が方墳とかになるわけで、前方後円墳の場合は、桜井茶臼山の副室のように、古墳内に別の倉庫や武器庫を造るわけです。

副室や陪塚のようにするケースにも、時代を降るにつれて相違や変化があって、その理由なり起源を考える必要があるでしょう。

バジリク古墳群みたいに、馬の埋葬する遊牧民系が入ってきた時代、たとえば北燕遺民の新漢人の来た5〜6世紀とかですね。彼らは鉄製品を造る技術もありましたが、彼らの故地において、たとえばそういう農具なり武具を、どういうふうに保管・継承していったか?なども気になるところです。

しかし、保管するのに正倉院みたいな高床建築では駄目だったのでしょうか?敵方に見つかるとか、焼かれてしまうとか・・・。

石室内なら、確かに石をこじ開けるのに時間も要するし、開けたところで、ダミー墓で武具がなかったとか、その間に反撃に出るとか、軍略的な部分も推測してみたいところですね。

測量道具や宝物も同様で、錆び付かないとか、次世代に継承しやすいとか、用途に併せて考える必要があったでしょう。

頻繁に使う祭具は、神社の中がベストだったでしょうね。役所の金印などは役所の奥深くとなるでしょう。

石上神宮の七支刀はそういう意味では、顕示する必要があったとか、なにか王と一緒に埋葬してしまっては困る理由もあったのかもしれません。

会報で記したように、神社の霊剣にはノーモン的な尺単位を提供する役割があったと考えてます。

測量道具はやはり測量拠点のそばになければならないでしょう。古墳もその一つですが、神社も然りですね。


1440秦野:2013/05/08(水) 10:00:34
Re: 古地磁気測定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001483M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001483_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/大仙陵古墳



1441管理人:2013/05/08(水) 22:48:03
陵墓治定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001484M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/大仙陵古墳



1442秦野:2013/05/10(金) 20:47:16
Re: 陵墓治定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001485M.jpg

管理人さんへのお返事です。

吉備の造山古墳は妙立寺を基点にする妙立ラインがあるな。
前方後円墳が少ないのでラインが引きにくいな。

>
> その安閑陵と宣化陵、そして欽明陵が方位ラインで結ばれて行きます。ここで欽明陵が見瀬丸山古墳ではなく、現在の欽明陵を意識している点に留意する必要があるでしょう。
>
> これらのことから、河内王朝の古墳の築造の年代や順序が方位ライン面から明らかになっていきます。
>
> あと、応神・仁徳陵の方位ライン自体は、吉備の造山古墳と関係しています。これが吉備津彦=成務天皇といった会報で論じたところとつながって半島系勢力と関わって行くはずです。
>
> ※下図の赤いラインが天皇の陵墓を結んだライン、青がその宮を結んだラインです。




1443管理人:2013/05/10(金) 23:13:30
Re: 陵墓治定
秦野さんへのお返事です。


> 吉備の造山古墳は妙立寺を基点にする妙立ラインがあるな。
> 前方後円墳が少ないのでラインが引きにくいな。

ちょっと妙立寺は、時代が違いすぎるかもしれません。
その周囲や以前に何かがあった可能性はなくないですが・・・。


古墳軸の方位を考える上では、関連する要素の時代背景も考慮する必要があります。

また古墳に関しての葬送観念ですね。これも重要です。

たとえば先の前秦時代のものと予想される北史で、倭人が船のような棺桶を引きずったり担いだりする記載がありますよね。

被葬者を乗せるもの=船(輿)=木棺・石棺とつっかえ棒とする観念があるようですから、古墳の向きにもその船の向かう方向とか、そういうものが影響していた可能性もあります。

その辺は先の会報第3・4号で、山幸神話に見える葬送儀礼と指南魚(方位磁針)と古墳軸の方位に関して論じたとおりですが、古墳軸の方位は山幸が常世国へ向かうための聖方位ではないかと考えてます。

その方位の先に何があるのか?が課題で、たとえば秦野さんご指摘の妙立寺だったのかもしれませんし、あるいは・・だったことでしょう。

ただ、山幸・日向系の葬送儀礼とは別に、黄泉の国みたいな葬送観念もあったことも確かです。後の横穴墓や八角墳の時代になるとまた異なってくるでしょうし、その辺の区別も重要ですね。

特に吉備の石棺・陶棺あたりの葬送観念についても、考えてみたいところです。
造山古墳については、特にこちら参照。
http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/51366874.html


1444秦野北斗:2013/05/11(土) 09:30:23
Re: 陵墓治定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001487_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001487_3M.jpg

管理人さんへのお返事です。

吉備の造山古墳は妙立寺を基点を訂正。龍王ラインに変更

造山古墳の前後に龍王山 、龍王山の横に妙見山

総社市にも同音の作山古墳(つくりやまこふん)があり、地元では造山古墳は「ぞうざん」、作山古墳は「さくざん」と区別して呼んでいる。



> > 吉備の造山古墳は妙立寺を基点にする妙立ラインがあるな。
> > 前方後円墳が少ないのでラインが引きにくいな。
>
> ちょっと妙立寺は、時代が違いすぎるかもしれません。
> その周囲や以前に何かがあった可能性はなくないですが・・・。
>
>
> 古墳軸の方位を考える上では、関連する要素の時代背景も考慮する必要があります。
>
> また古墳に関しての葬送観念ですね。これも重要です。
>
> たとえば先の前秦時代のものと予想される北史で、倭人が船のような棺桶を引きずったり担いだりする記載がありますよね。
>
> 被葬者を乗せるもの=船(輿)=木棺・石棺とつっかえ棒とする観念があるようですから、古墳の向きにもその船の向かう方向とか、そういうものが影響していた可能性もあります。
>
> その辺は先の会報第3・4号で、山幸神話に見える葬送儀礼と指南魚(方位磁針)と古墳軸の方位に関して論じたとおりですが、古墳軸の方位は山幸が常世国へ向かうための聖方位ではないかと考えてます。
>




1445秦野:2013/05/11(土) 21:35:50
Re: 陵墓治定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001488M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/五山送り火



1446管理人:2013/05/11(土) 22:28:34
Re: 陵墓治定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001489M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001489_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/五山送り火



1447管理人:2013/05/12(日) 03:47:51
Re: 陵墓治定
ちょっとまた眠れないので追記ですが、出雲大社の儀式の件が話題になってますね。
これらの神道儀式の持つ意味についても考えてみたいところです。
たとえば、こんな論議もあります。難しいようなことを話しているようですが、そんな大した事は話してません。

http://www.geocities.co.jp/Playtown/4389/history/kodaima.htm


≪雇用の進展≫
★櫛木謙周 『日本古代労働編成の研究』(98)
共同体・支配に還元されない社会関係としての「雇用」の進展は、在地にいかなる変化をもたらしたのか

・かつての初期荘園の労働力を庸役と考える説批判
→雇用であって、「有償労働」を可能とする動産の歴史的性格をいかに解するか?
→自己労働に基づく動産から、私出挙など搾取に基づく動産へ(出挙については後ほど)
・労働力が、「算定」される事の意味→基準化・対象化される“労働力”=共同体の原理とまったく異質
・「魚酒の格」=農繁期に共同体外の労働力を魚酒を提供して集める行為。前代に共同体成員の間で行われていたものの“応用=変質”。但し、対価を蓄積できない(食べるから)。→中間的性格

≪出挙の起源と社首≫

★小口雅史 「日本古代における稲の収取について」(90)
→かつての田租・出挙別起源説(石母田・早川・八木充)から、両者を結び付けて理解する方向へ。
・田租〜初穂貢納儀礼
・出挙〜種稲分与     に、それぞれ起源を持ち、初穂として貢納された稲が出挙されるとする。

これらは今まで、税制として研究されてきたが、
?田租は課役の範囲外であり、負担も税制としては半端に少ない。
?出挙は律令に規定されていない。
?生産物の直接収取の方が手間も掛からないのに税制として不自然。

川原秀夫 「古代稲穀収取制成立試論」(93)
→前代の共同体慣行の残存⇒『チカラ』

《チカラとは?》
・首長の元で、成員が稲を出し合い、それをお互いに出挙する事で利稲を得、その稲を祭祀などの財源とすると共に、リスクの分散・共有を行う互酬的関係。

(税)制度でなく、社会関係としてのあり方が本義。
これは、8世紀の神社()経済のあり方と同じ(ミツキ)
大関邦男 「古代神社経済の構造」(93)




重要なのは、先のとおり、農繁期の労働力、農閑期の労働力と、古墳造営や地溝開発の問題ですね。農繁期の労働力提供は、ある意味収穫の削減にもつながるはずで、強いては首長や王権側でもマイナス効果になりかねない行為だったでしょう。それをあえてしいたとすれば、別の意味を見いだす必要があるかもしれません。

それに比して農閑期の労働力については、搾取でも雇用でも差したる問題が起こらなかったかもしれませんが、古墳造営に対して、それが無償の搾取だったか、あるいは有償の雇用だったか?この辺も、記紀文献や後代の文献から推測して行く必要があるでしょう。

それで、租税の起源についての問題は、やはり渡来人の故地なりを確認しないと、まずいですね、先日お話したとおり新漢人等の祖先は北朝系ですしカバネ・ウジの観念の由来は新羅や半島系の社会組織を考慮しないと話にならないでしょう。

それ以前の旧渡来人、つまり河内王朝で巨大古墳を造営した集団は、又別の半島・南朝系の税制観念を持っていたかもしれません。屯倉制度なんかもその辺と関わってくる。

その前の海人系集団のそれは、またまったく別で魚介類のアクセサリーを古墳に埋葬するくらいですから、これもまた別の起源があったことでしょう。そしてその前の崇神・・・開化やその直前の孝霊朝などでは、これは後漢代の支配システムを考慮しなければならないはずです。

それで公民制ですね、これも天智時代の思想背景を考慮する必要があるのですが、その導入契機は彼らのバックボーンだった新漢人等の渡来系知識を考慮しないといけないわけで、やはり北朝系の当地システムを考慮すべきでしょう。

だから「未開」の話を、この時代に持ってくるのは不適切でしょうし、そもそも彼らは大陸系知識を知り尽くして日本へ導入しているわけですから、渡来系という第3の視点を抜きにして論議するのは無理があると言えそうです。

それで首長がその共同体の云々を体現していたとかいう議論も、そもそもその首長がどこから着たのか?をケースバイケースで分離して論議しないと、体現していたかどうかも不明と言えそうです。ここでやはり渡来系首長あるいは弥生末期ごろから進出してきた皇族系の首長の観点が必要になってきます。

それで、租税の問題で、ひとつ気になるのが、つまり首長層の人口ですね。500万人の当時の人口の内、身分的に農民より上位にいた人々、たとえば首長層、皇族の子孫とか云々がどのくらいいたのか?そして彼らにどのくらいの割合で税を納める必要があったのか?この辺の数値比率を元にしないと、まず租税、労働、傭役などの負担の具合がわからないわけです。

それが西欧の10分の1税とか位ならともかく、100分1かもしれない。つまり、元々は首長層が少なくて、それがだんだん皇族や豪族の子孫が多くなるにつれて、階級分化が大きくなって、租税負担が増えたとかいうカーブ曲線だった可能性もでてくるわけです。概ね、この手のカーブ曲線は、比例曲線を描くケースは少なく、むしろ増減したりサインカーブみたいになっていた時期もあるかもしれません。

その辺の実態数値を律令前期において、どのようにして確認しうるか?ということも一つの問題なのですが、白鳳時代とか蘇我氏の屯倉経営時代の戸籍関連、秦氏の戸籍・・・といった記載から若干の推測は可能とも思えますが、一方で資料的な制約もでてきます、

ただ先の方位区画分析を延長して考えていけば、その区画の交点に各種の屯倉なり宮なりがあり、そこに皇族なり豪族が派遣されていって、特定の方法で、収奪していったと考えて、それがたとえば7053戸の秦氏の戸籍みたいな形で把握できるものならば、正確な数値がはじき出される可能性がでてきます。

それでまた神社への貢納の関係ですね。神社を中心とした宗教共同体と、それを利用・対立する王権や在地首長側とのせめぎ合いの関係もあるのですが、海幸山幸、新嘗の問題にしても、それらの起源が遡れるのがプレ律令・白鳳時代以前までもっていけるのかどうか?という問題があるわけでして、要するに前方後円墳の上に神社があったかどうかということなんですね。

これも先の方位区画分析では、実は神社を拠点とする方位区画と、古墳を拠点とする方位区画には分離があり、さらにいえば、屯倉の方位区画とも相違や、結合・分離があることに注目すれば、それらの支配拠点が、在地の共同体において、どの時代にどの程度影響していたか?も明らかになっていくでしょう。

特に儀礼関連ですが、この辺が先の盂蘭盆会等の変則的な仏教儀礼が導入されていくのが、白鳳時代になるわけですが、放生会などのような地方へ展開したものと、そうでなく畿内に限定されたものとで分離が起こってくることもあります。さらにいえば、横穴墓に関わる外来系アマテラス系の忌部儀式ですね。新嘗・大嘗祭も関係してくるのですが、これも九州・畿内・関東などへの分布は類推できても、そうでない地域にまで、これらの儀礼が分布したかどうかも課題で、ばらつきがあったかもしれない。

特に宗教共同体のあり方についていえば、先日お話して会報に掲載したように、かなり地域差があり、特に伽耶南部の共同体の平等観念、厳格な法治主義、その部族間における首長選出方法などは、ダイレクトに倭の王朝へと受け継がれた可能性もあり、また九州北部に見える宗教共同体のモチの的関連の伝承にみえる儀礼や観念は、後代宮中へと導入されていくこととなります。これがアマテラス系の儀式にも関わってきて、そこでその穀物を捧げるという意味の起源となることも会報で論じたとおりです。

魚酒や煮え、初穂とも関係してきますが、その貢納する収穫物に対する畏敬の観念、それを食するということ、さらにそれをまた分配するとの意味と神との合体がいかにして成立していったかは、やはり外来系の宗教観念なしで論じると片手落ちになるでしょう。

さらにいえば、その収穫物を共有することで成員としての一致や平等感覚をもたらすという部分にいたっては、つまるところ聖書の共産共同体のそれと同じ図式なんですね。マルクス共産主義の起源を考えるときに、それ以前に西欧に存在していたキリスト教社会主義、原始キリスト教共産主義モデル、ユダヤ教社会等を考慮しないと、欧米人との論議でおそらく片手落ちになるだろうことと同様で、古代史面でも東アジア枠に限定されない広い宗教・共同体知識を持って論議しないといけないでしょう。

特に以前はあまり顧みられなかったものの、最近になって注目されはじめている慈愛的な社会奉仕・感情的共感等における共同体・アイデンティティ育成の部分も同様で、仏教・神道系思想だけでそれを理解しようとすると、おそらく無理が生じてくるはずです。

また関係して先の畿内関連の方位区画を見て行くと、結局、郊祀関連や京畿の観念自体はすでに雄略朝時以前の時代からダイレクとに北朝系のそれが導入されているわけですから、これと後代の畿内制の起源とが、結びつくかどうかももっと考える必要があるでしょう。

つまり、方位区画面では連続性があったりするかどうかという問題とも関わってきます。その連続性が、つまり宮の継承という問題ともかかわってきて、皇室財産の継承系統、その現実的な数量とも、方位区画のサイズや拠点分析から明らかになるはずです。

それによって、当時の王権の影響力の強さや、皇族の結合力、そこへ介入してくる前王朝とか豪族層とかとの兼ね合いが図式化して明らかにされていく、それが先の陵墓の移動経路ともかかわってきて、つまり移動構築可能だった地域とそうでなかった影響力を及ぼせなかった地域に色分けされていくはずです。ここで畿内制度の成立の是非も明らかにされるかもしれません。

それで発展的にみていくと、こちらの論文なども、今後の分析の参考になることでしょう。

https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/1517/1/sundaishigaku_103_95.pdf#search='

階級制・国家成立・公地公民といった歴史教科書の最初に出てくる問題についてや、東アジア的な共同体の考え方というのは、上記のような渡来系視点から考えるとどう捉えることができるのか?

これも、渡来系支配層のイデオロギーなり、その故地の制度なりをまず考慮しないと、全体的な話はできないだろうと思います。つまり、後漢系とか北朝系とか南朝系の王族の周辺にいた渡来系集団が、そのまま日本に渡来してきてエリート官人として働いていたわけですから、その成熟度合いで、国家成立への道筋とかも、比例曲線的に発展していくわけないんです。サインカーブみたいに、ある時期に突然発展して、その後衰退して、また別の外来系集団で発展するという繰り返しによって、徐々に国家制度的なものが発展していった可能性のほうが高いでしょう。

決して弥生首長層の独自発展で、国家が自然発生的に成立したなんてことはありえないわけです。弥生時代ごろからずっとに強く支配制度に大陸系知識が日本に影響していったというのが、これまで見てきた研究会の結論なんですね。それがつまり厳密な方位区画とか都城区劃にも体現していくということです。

市の発生なども自然発生的なものもあれば、中国式都城観念の延長上に人工的に出来たものもある。

階級制の成立も同様で、私有・公有の観念も、後漢・呉・魏系の屯田精度から北朝系のそれなどに至るまで、すべて日本の場合は考慮して論議しないと話にならないということでした。

そして頂点にたつ天皇がウジ名を持たないかどうかも、先のとおり中国系の史蹟の分析で、天皇にウジ名らしきものが多く見えるわけですから、やはりその是非も考えて行かないと、白鳳時代の記紀撰者のトリックにごまかされたまま論議を進めることになるでしょう。つまり「帯」を入れたりして、いろいろウジ名を消すんですね。皇子・皇族名にも多く見えることは会報にすでに記したとおりです。

律令前期の国家論については、ある意味非常に難解で簡単に論議できないとは思うのですが、それでも、先日の吉備に関係する死亡人帳簿に記された渡来系組織支配下の収税体系のあり方の分析とか、それに加えて上記のような在地・畿内における方位区画地割り分析等の最新の技術を用いれば、それなりの結果出てくる可能性もあるはずです。

そして、特に東アジア的とか日本的とかいう側面からいえば、弥生末の時点からすでに同じ制度なり技術を、日朝中で共有していた可能性が、以前よりずっと明らかになってきたというのが、ここ数年の会報で論じてきたところだとも言えるでしょう。方位区画は半島を越えて中国まで伸びてますが、この辺に東アジア方面にそれらの技術が導入されるとともに、独自発展した可能性を考慮すべきかと感じます。

屯倉制度などはその最たるもので、そもそもは日本で独自に産まれたものではなく、三国時代に遡るであろう大陸系の軍屯制度などを応用しつつ、方位区画区割りの交点の一部を、皇室領として在地の首長層に差し出させることとともに、その屯倉管轄内の部民については、その収穫のいくらかを貢納させ、それを渡来系氏族がそれを管理し、また管理とともに、おそらくは宗教的な儀礼・祭祀も執り行って、それと同様な祭祀がまた宮中でも執り行われることによって、結果として国家的な統合意識をもたらしたであろうことも予想できます。

それは弥生中期以降から見られる大陸系の支配・測量技術を元に発した方位区画地割りと、それ以降にやってきた渡来系集団の技術・宗教観念、そして皇室や日本特有の農業・祭祀観念が融合して仕上がってきた制度ともいえ、独自的な発展をした一事例だとも言えるでしょう。

屯倉の多い先の吉備の収税帳簿には、渡来系や他の部民など入り乱れながら、伴造・部民制といったこれも日本的に独自変形した社会制度のもので、一定の規則のもとで、貢納がなされていったことを示すものであり、ある意味先の吉備の造山・作山古墳の2大拠点間に挟まれた方位区画区割りの住民も、そのようなシステムもとで、農地の境界領域の目安でもあっただろうそれらの古墳を眺めていたのかもしれません。

とりあえず、こういうちょっと難しい社会制度史的な視点も、頭の隅に入れておくと、案外古墳の意味や、方位ラインの意味とかも理解できるようになってくるかもしれません。参考までです。

1448秦野:2013/05/12(日) 20:01:28
Re: 陵墓治定
管理人さんへのお返事です。

日本古代労働編成の研究もよいが、扶桑国の奴婢制度も検討して貰いたいものだな。

> ≪雇用の進展≫
> ★櫛木謙周 『日本古代労働編成の研究』(98)
> 共同体・支配に還元されない社会関係としての「雇用」の進展は、在地にいかなる変化をもたらしたのか
>

扶桑国

(扶桑国の話は以前はなかったが、普通年間 (520年?527年)、扶桑国から来たと言う者の話を記す。(中略)
永元元年(499年)、扶桑国の僧慧深が荊州に来て言った。
「扶桑国は大漢国の東二万余里、中国の東方にある。「扶桑の木」が多いことからその名がある。扶桑の葉は桐に似て、生え始めはタケノコのようで、扶桑国人は食用にする。実は梨のようで赤く、その皮を績いで布にして衣類や綿にしたり屋根を葺いたりする。文字はあり、扶桑の皮でできた紙に書く。城郭はなく、兵士や武装はなく、戦争をしかけない。
南北2つの監獄があり、軽罪の者は南獄、重罪の者は北獄に入る。南獄には恩赦があるが北獄にはない。北獄では男女を番わせ、生まれた男児は8歳・女児は9歳で奴婢とし、罪人自身は一生出られない。貴人が有罪となれば、穴の中に座らせ、酒宴を開いて処刑し、その上に灰を撒く。初犯なら当人が責を受けるだけだが、再犯なら子と孫、三犯なら7世に及ぶ。
国王の名は乙祁。貴人(「祁貴人」が王の名の可能性あり)の第1位は大対盧、第2位は小対盧、第3位は納咄沙と呼ぶ。国王が行くときには鼓笛を従える。その衣の色は年により変わり、甲乙年は青、丙丁年は赤、戊己年は黄、庚辛年は白、壬癸年は黒である。
牛の角は非常に長く、20斛以上を運ぶ。馬車、牛車にくわえ、鹿車がある。中国人が牛を飼うように、扶桑国人は鹿を飼い、乳から乳製品を作る。桑、梨、フトモモがある。鉄はないが銅(青銅か)はあり、金銀はふんだんにある。市場では税金がかからない。
結婚するときは、婿が女の家へ行き、門外に建物を作り朝夕掃除する。女が喜ばなかったら取り壊し、喜べば成婚となる。結婚式は中国とほぼ同じである。
親の喪には7日間絶食する。祖父母は5日間、兄弟姉妹おじおばは3日間である。死者の霊を神像とし、朝夕拝む。(先王が死んで?)王の跡継ぎが立ったときには、3年間国事に関わらなかった。
かつては仏教はなかったが、大明2年(458年)、罽賓国(ガンダーラ・カシミール近辺)から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した」
また慧深はこうも言った。「扶桑の東1000余里に女国があり、(以下略、一部意訳))
?『梁書』巻54 列伝第48 諸夷 海南 東夷 西北諸戎 扶桑國
?
http://ja.wikipedia.org/wiki/扶桑


1449管理人:2013/05/12(日) 23:24:45
Re: 陵墓治定
秦野さんへのお返事です。


> 日本古代労働編成の研究もよいが、扶桑国の奴婢制度も検討して貰いたいものだな。
>
> > ≪雇用の進展≫
> > ★櫛木謙周 『日本古代労働編成の研究』(98)
> > 共同体・支配に還元されない社会関係としての「雇用」の進展は、在地にいかなる変化をもたらしたのか
> >
>
> 扶桑国

確かに雇用の問題は、現代社会のそれとも関係して重要なテーマですね。
先ほどもちょうどたまたま駅前で倒れていたホームレスを起こして、お金や食物を与える機会があったのですが、その人は、自身が人様のお世話になって迷惑をかけていることに対して、電車にでも飛び込んで死にたいとも感じるが、それをする力すらないと話していたことが印象的でした。いったいどうしたら、この人は生きることの価値を見いだすことができるのだろうか?我々はそれに対して何をすべきだろうかと考えさせられたものです。

ただ彼はその後しばらくして、電車で自殺するのをやめて大きな教会の前に移動して、多くの献金を箱の中に貯めることに成功した様子を後で発見したときに、何か彼がそこにいることの意味を感じた次第です。彼自身もそれらの行為の中で、何かを見いだしたことでしょう。

資本主義自由競争社会の中では、「仕事せざるもの食うべからず」ということが半ば常識と化しており、ある意味人間としての生きる価値、そういうものすら認めないシステムの中で我々サラリーマンは生きているわけです。

それに対して、共産共同体社会というのは、いろいろな形で競争社会では生き延びれないような人をも保護し、何らかの形で自立していけるように共同体として支援していく、いわば貨幣価値による計算世界と人間的な価値、生きる意味という部分において、それを別個にして考えて行く面において、その意義があるとも言えるでしょう。

原始共産社会の間においては、しかしながら、国家的な法制度・支配制度の元で、奴婢にさせられるような階級の構築を行うケースもあり、先の扶桑国の刑罰規定などはそのことよく表しているものでしょう。

刑罰の是非において、恩赦が得られるケース、あるいはそうでなく奴婢として子孫や親族・小共同体にまで、それらの影響を及ぼすケースも見えるわけですが、これらはまた弥生末期に渡来した支配層の実態を考えて行く上で、重要なモデルであることは、以前お話したとおりですね。

この扶桑国の習俗記載は、そのまま扶余・高句麗系の習俗記載と共通し、さらに半島南部へ移動した伽耶諸国の法治主義、さらには弥生後期から末期にその流れで渡来したいわゆる弥生墳丘墓や初期の前方後円墳をもたらした皇族支配層へと受け継がれていくわけです。

したがって、この扶桑国のそれと同様な社会制度を、彼らが渡来した当時に持っていた可能性も考慮すべきかもしれません。その社会制度、ある意味国家的とすらいえる法制度の元で弥生末期から古墳時代初期の共同体社会が構築されていったと考えるときに、このモデルは、何を意味しているのか?ここが古代史研究の課題とも言えるでしょう。

これは魏志倭人伝の奴隷関係記載とも関わってくるでしょうし、古墳時代の葬送祭祀や、階級関係、さらには傭役・雇用の存在の是非ともかかわってきます。

たとえば、上記の記載で刑罰規定で、もっとも重罪のものは、その親族や子孫の七世にまでその刑罰、つまり奴婢としての階級関係が産まれた可能性もありますね。これはローマの敗戦国民を奴隷としたケースなどとも比されるべきで、ともあれ、だんだんその奴婢階級が増えていく可能性、そういう部分も考慮する必要がありそうです。

ただ恩赦規定や、三韓に見えるアジール・蘇塗といった、いわゆる罪人の逃げ込み地域があるケースでは、それは子孫もそこに墨付き、いわゆる罪人の子孫の集団の共同体社会と、そうでない共同体社会とが現れて行くことでしょう。そして、それらが蘇塗と関係した国名をもつような国として成立していくケースもあるわけです。

これは九州北部の阿蘇地域などにもその蘇塗地域、つまりそのシステムがあったであろうことを、会報でも指摘したとおりですが、底や弥生末期九州から畿内にかけての共同体社会の実態というものが、どういうものであったのか?も徐々に具体的に明らかになっていくことでしょう。

結局、扶余や高句麗の当地システムが、その後どうなっていったのか?これもひとつの人類の行動様式を考える上での研究課題で、そのうちに何らかの矛盾がおきて制度的な改変が必要になるようなケースもあったかもしれません。罪人の子孫が多くなりすぎたとか、支配者層が多くなりすぎたとか、いろいろ考えうるでしょう。

そういう意味では、共産社会にもいろんな種類があって、キリスト教共産社会もあれば、マルクス共産主義社会、あるいは今の中国共産主義社会など、いろいろ地域性、在地という言い方は適切かどうかわかりませんが、変質・変遷していったであろうことも確かです。

そういう意味で、秦野さんご指摘の扶桑国の奴婢制度、法治主義社会について、比較研究する意味が大きいと思います。東アジア的といういい方は、やや大げさですが、ともあれ日本人の性質にあった共同体構築がどのようであるべきなのか?、この辺についても、今年は少し考えてみたいところですね。

1450秦野:2013/05/13(月) 18:50:14
Re: 陵墓治定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001493M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001493_2M.jpg

http://kanko-tenri.jp/hiking_course/ryuouzan.html



1451管理人:2013/05/13(月) 22:22:21
Re: 陵墓治定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001494M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001494_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/



1452管理人:2013/05/14(火) 23:12:59
海進地図と古墳・神社
あと、先日の造山古墳と作山古墳の件ですが、海没地図でみると、両者は尾根沿い(島地)に造営された古墳だったようです。

7年くらい前から、古墳時代の海面水位が現在よりずっと高かった件は指摘してきたのですが、なかなかみなさんご理解くださらないんですね。ただ、最近になって下記のGoogleの海没地図が出来て、だいぶその実態がわかるようになりました。
http://flood.firetree.net

その時代の海進関係の科学資料も以前も紹介しましたが、江戸時代の埋め立てによるとかいう話ではないはずです。

たとえば+13mで、地図表示してみてください。
すると、ほとんどすべての大社と大古墳は、海岸沿いに建てられていたことがわかります。
ほぼ例外ないです。

具体的には、鹿島・大宮氷川・熱田・伊勢内宮・外宮・住吉・吉備津・出雲・宇佐神宮といった神社群と、同じく埼玉古墳群、仁徳・応神陵、造山・作山、西都原古墳群、八女古墳群、平原遺跡、宇佐赤塚古墳あたりを確認すれば一目瞭然でしょう。

宮都なども同様で難波宮(京)周辺とか、少し高台になってますよね。

そして、逆に7M以下の地には、弥生・古墳時代の遺跡がほとんどないんです。

おもったより、海人系の文化のもとで、古墳や神社が造営していたことがわかります。
だから船型木棺とか鳥船信仰とかがでてくるんですね。

特に島地に古墳があるということ、これはやはり航海の目印、つまり灯台とか測量拠点、軍事通信拠点だったことを示すものでしょう。同じく埋葬された銅鏡の使用目的もそこに関係していたことでしょう。

やはり、古墳時代の分析をするまず基礎的前提として、「10メートルあげた海進地図をつかう」、おそらくこれは数年以内に教科書に載るレベルの事実だと思います。



1453管理人:2013/05/15(水) 05:20:26
海進と古墳・神社説明動画
追伸です。先にお話した古墳時代にあったと予想する海進と、その時代の古墳・神社に位置に関する説明動画を作成しました。Google海没地図を、録画編集してあります。

この動画をみると、弥生中期から古墳時代、さらには7世紀代あたりまで、現在より9〜13メートルほど、海水面が高かったことが明らかになると思います。標高9〜13メートル前後の「海岸沿い」に、ほとんど例外なく主要な大型古墳や主要な神社が構築されています。

説明動画はこちら。(2.8Gバイトあります)
http://www.michaelbroadcast.net/video/kodaibunka/kaisin.mov

遺跡紹介順は下記のとおりです。

鹿島神宮→大宮氷川神社→さきたま古墳群→寒川神社→三島大社→熱田神宮→伊勢神宮(内宮+外宮)→百舌古墳群→住吉大社→四天王寺→難波宮(京域)→八尾刑部宮・石切神社→三島方面→神戸灘区(東西求女塚)→淡路島イザナギ神宮→児島屯倉(湾)→吉備津神社→作山・造山古墳→出雲大社→籠神社(元伊勢)→宇佐赤塚古墳(風土記の丘)→大野城→吉野ヶ里遺跡→那珂八幡古墳(板付遺跡)→八女神ろう石→八女古墳群→山鹿横穴墓→江田船山古墳→菊池城方面→宇土境目遺跡→出水方面→西都原古墳群→新潟岩船柵(神社)→北海道古墳(江別・恵庭)方面→伊都平原遺跡→壱岐・原の辻遺跡→対馬→プサン(狗邪韓国)→慶州方面→ソウル(漢城)方面→公州・熊津方面→平壌方面→中国→中等・欧州



ただ問題は、縄文海進時代ですら、現在より2〜3メートル高かっただけで、平安海進でも同様に現代より50cm高くなっただけと言われていることです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

なぜ弥生時代から弥生後期・古墳・白鳳時代に、10メートル以上も高くなったのかが、地質学的に証明できてないんですね。

ただ、可能性としては、たとえば、先の東日本大震災の際に、日本の下に潜り込んでいる太平洋プレートが東西に50メートル移動し、7メートル隆起したことが判ってます。
http://sankei.jp.msn.com/science/news/110428/scn11042821520001-n1.htm

この場合、潜り込む側のプレートが隆起しても、日本周辺の海水面は変化しないわけです。それでも数センチは列島全体としては隆起しているようです。
http://www.geocities.jp/beans8055/fuji_hendou.html

そして、もし日本列島を乗せている側にあたるユーラシアプレートや北アメリカプレートの側が沈降したとしたら、日本の陸地がそのくらい沈降(海水面はあがる)したかもしれません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

関連して白鳳大地震などで高知の海岸が水没した記載があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

あとは巨大火山による火山灰体積、下流域への沖積平野の造成、海流変化による海水面変移、そして埋め立てという線もあるかもしれませんが、はたして10メートルも変化するかどうかが疑問ですね。
一応埋め立て関連はこちら。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

ともあれ、鹿島神宮等の立地を考えると、海岸から離れた山奥に建てたというよりは、あきらかに海岸沿いに建てたものの、後の時代に海水が引いたので、そばに大きな海岸浸食の地形の跡だけが残っているということがわかります。

この辺の地質学の成果と、古代史面から推測する地形立地(地名)との間にある矛盾を解く理論が必要だと言えるでしょう。

1454秦野:2013/05/15(水) 06:42:26
Re: 海進と古墳・神社説明動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001497M.jpg

http://gfi402.web.fc2.com/narawalk13.htm



1455秦野:2013/05/15(水) 22:54:22
Re: 海進と古墳・神社説明動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001498M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/神獣鏡



1456管理人:2013/05/16(木) 23:15:47
Re: 海進と古墳・神社説明動画
秦野さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 龍王山の山名は中国にもあるな。
>
> 神獣鏡の中国出土分との関係かな。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/神獣鏡


思うに中国の銅鏡分布地と、先の水没地図で示した日本の古墳(銅鏡出土地)や神社の位置との比較をすれば、その時代の様子が伺えるかもしれません。こちら分布図、
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku290.htm

先の海没地図で13メートルにすると上海方面は水没してしまいますよね。
ところが、その水没水面より低いところから、その時代の遺跡が出ているとしたら、中国史蹟の正確性からいっても、世界規模での海水面の上昇はなかったということになるでしょう。

そうすると日本独自の海水面上昇だったことも推定できるはずで、つまり日本を乗せているユーラシアプレートの沈降による原因とか、日本の火山の噴火などによる影響を考慮すべきなのかもしれません。



1457秦野北斗:2013/05/17(金) 16:08:30
Re: 海進と古墳・神社説明動画
管理人さんへのお返事です。

三角縁神獣鏡の年代の特定方法を思いついたぞ

鋳物には特徴がある。鋳物の収縮を縮みしろといい鋳物の縮みしろは材質、形状、肉厚、鋳込温度、型の種類等によって異なる。一つの鋳物において、肉厚が薄い部分は厚い部分より早く凝固し、薄い部分は早く冷却して肉厚部の収縮を防げる。また鋳型自体も鋳物の収縮を防げるので縮み代

http://www.nbk-okamoto.co.jp/DataBook/d103.htm

三角縁神獣鏡の大きさには規則性を感じるな。前提は三角縁神獣鏡は複製とした場合
同一金型で複製を鋳込みしたと思えない。基本の鏡を1代目とし、2代目を鋳込む、次に
2代目を金型で複製を鋳込む。回数が増えるほど小さくなるな。

基本を隋(晋)尺の24.6 cm(小尺)とすると。黒塚古墳では鏡は4代目になるな。
前提は縮み代を2%とする。

http://wombat.moo.jp/tabikiroku/sinjukyo/sinju.html

大宝律令の尺(秦野距離)は呉尺で隋尺の関係は1.2倍になる。

呉尺     隋(晋)尺
35.6 cm÷1.2=29.6 cm(大尺)
29.6 cm÷1.2=24.6 cm(小尺)

17号鏡:三角縁複波紋帯盤龍鏡(24.7cm) =24.6 cm(小尺)1代目
画文帯神獣鏡(径13.5cm)29.6÷2=14.8 5代目 呉尺

17号鏡:三角縁複波紋帯盤龍鏡(24.7cm) 1代目
24号鏡:三角縁唐草文帯四神四獣鏡 (径23.7cm)  3代目
8号鏡:三角縁神人龍虎画像鏡(径22.3cm) 6代目
15号鏡:三角縁獣帯四神四獣鏡(径22.2cm) 6代目
25号鏡:三角縁銘帯四神四獣鏡(径22.0cm)6代目

「三角形の断面を有する鏡は中国では出土例がない。文様面(鏡の裏側にあたる)の分類により、方格規矩文鏡・内行花文鏡・画文帯神獣鏡・獣帯鏡・神獣鏡など、多くの種類が確認されている。」


1458管理人:2013/05/17(金) 22:44:55
Re: 海進と古墳・神社説明動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001501M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001501_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001501_3M.png

http://www.nbk-okamoto.co.jp/DataBook/d103.htm



1459秦野北斗:2013/05/18(土) 01:21:52
Re: 海進と古墳・神社説明動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001502M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/黒塚古墳



1460管理人:2013/05/18(土) 23:14:43
Re: 海進と古墳・神社説明動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001503M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001503_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001503_3M.png

http://ja.wikipedia.org/wiki/黒塚古墳



1461秦野北斗:2013/05/19(日) 12:16:52
Re: 海進と古墳・神社説明動画
管理人さんへのお返事です。

たしか、韓国では三角縁神獣鏡は出土していないな。

> その後の22cmクラスが楽浪や倭の製造の可能性があるようです。
> ここで尺単位が縮小する件ですが、
> 秦野さんのご指摘の鋳型の縮小の可能性があるかどうかですね。
> 棒をロクロのようにして回して丸い鋳型を作成したという新設を載せたサイトが以前ありましたね。

時間軸を合わせると4世紀から水没地図の50〜60Mまで上昇は不可能ですな。
1600年では無理だな。

> とりあえず、先の水没地図で50〜60Mまで上昇させて、奈良盆地方面の水没具合を確認してみました。下図のとおりです。
>
> 黒塚やマキムクや椿井大塚山、馬見古墳群、桜井茶臼山古墳あたりは、ちょうどそうすると港沿いになり、ここから船が奈良の沼地を漕いで行く形になったかもしれません。
>
> もちろん、実際は飛鳥川や木津川の氾濫のような形になっていたはずですが、確かに古墳時代の遺跡分布をみると、黒塚や、マキムクの西部は、耳成山南方あたりまであまり遺跡がないように見えます。
>
> ご指摘の葦原中津の話も、北九州系の海人安曇族のそれと関係していると思うのですが、山幸・海幸の話には、しばしば海面上昇で農地がなくなったり洪水を思わせるような、それがありますから、そのへんとの兼ね合いも考えてみたいところです。
>
> 海面上昇が起きると、日向や沖縄方面は大幅に農地が少なくなったでしょう。それで日本や韓国南部へ4世紀〜5世紀代になって、南方系渡来人のHLA遺伝子が急にやってきたのではないでしょうか。それが日本や韓国南部の筒型銅器とか関連の海洋民系の遺物の出現になる。
>
> ともかく4世紀代にひとつの海水面上昇があった可能性を考慮すべきかもしれませんね。
>


1462秦野北斗:2013/05/19(日) 21:12:59
Re: 海進と古墳・神社説明動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001505M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001505_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001505_3M.jpg

http://www15.plala.or.jp/kojiki/kuniyuzuri/kuniyuzuri_05.html



1463管理人:2013/05/20(月) 04:30:16
Re: 海進と古墳・神社説明動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001506M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001506_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001506_3M.png

http://web.joumon.jp.net/blog/2008/09/000591.html



1464茨の紀氏:2013/05/20(月) 11:15:02
Re: 海進と古墳・神社説明動画
管理人さんへのお返事です。


>奈良湖があったという説があるようですね。キシさんが昔唱えていたと思います。
こちらのサイトに詳細載ってます。
http://web.joumon.jp.net/blog/2008/09/000591.html

>黒い家マークは縄文集落、白は弥生集落 黄色の円マークは古墳類、逆Uマークは銅鐸出土地。

逆Uマーク銅鐸出土地を線で繋いで角度を計って下さい。・・・五芒星』が浮かぶ カモ?



1465秦野北斗:2013/05/20(月) 15:38:02
Re: 海進と古墳・神社説明動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001508M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001508_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001508_3M.jpg

http://www15.plala.or.jp/kojiki/izanagi_izanami/izanagi_izanami_02.html



1466管理人:2013/05/20(月) 22:37:53
Re: 海進と古墳・神社説明動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001509M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001509_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001509_3M.png

http://www15.plala.or.jp/kojiki/izanagi_izanami/izanagi_izanami_02.html



1467秦野北斗:2013/05/21(火) 07:09:26
Re: 海進と古墳・神社説明動画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001510M.jpg

http://blog.goo.ne.jp/winkshot/e/b0c1c78b3119929fb36d7bf3109939f2



1468管理人:2013/05/21(火) 22:28:39
伊勢関連
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001511M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001511_2M.png

http://blog.goo.ne.jp/winkshot/e/b0c1c78b3119929fb36d7bf3109939f2



1469秦野北斗:2013/05/22(水) 15:32:28
Re: 伊勢関連
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001512M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/仲居



1470管理人:2013/05/22(水) 22:12:27
白山関連
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001513M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001513_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/



1471秦野北斗:2013/05/22(水) 23:11:53
Re: 白山関連
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001514M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001514_2M.jpg

管理人さんへのお返事です。


白山神社。赤ポツが神社。


> 白山信仰の初現は奈良時代初頭の修験道者に起源があるようですが、おそらくそれ以前からの歴史があるのだろうと思います。
>
> 特に、白山信仰で、イザナギ・イザナミを祀る件は、先の淡路島のイザナギ神宮から伊勢内宮へと伸びる東西ライン、そして伊勢からこの白山仲居社を結ぶ南北ラインを考えて行くと、双方に関係してくることがわかります。つまり、ある時期の方位区画測量に関係した信仰を、その方位区画拠点にあたる白山社が有しているということです。
>
> そして、上記二神と一緒に祀られる菊理媛の存在ですね。これが重要です。下記はその説明。
>
> 日本神話においては、『古事記』や『日本書紀』本文には登場せず、『日本書紀』の一書に一度だけ出てくるのみである。
> 【原文】
>  及其与妹相闘於泉平坂也、伊奘諾尊曰、始為族悲、及思哀者、是吾之怯矣。
>  時泉守道者白云、有言矣。曰、吾与汝已生国矣。奈何更求生乎。吾則当留此国、不可共去。
>  是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾尊聞而善之。乃散去矣。
> 【解釈文】
>  その妻(=伊弉冉尊)と泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、伊奘諾尊が言われるのに、「私が始め悲しみ慕ったのは、私が弱かったからだ」と。
>  このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうのに、「伊弉冉尊からのお言葉があります。『私はあなたと、すでに国を生みました。なぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒には還れません』とおっしゃっております」と。 このとき菊理媛神が、申し上げられることがあった。伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。そして、その場を去られた。
> 神産みで伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざなぎ)は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、そこで伊弉冉尊と口論になる。そこに泉守道者が現れ、伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言い、菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれを褒め、帰って行った、とある。菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない。
> この説話から、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている。また、死者(伊弉冉尊)と生者(伊奘諾尊)の間を取り持ったことからシャーマン(巫女)の女神ではないかとも言われている。ケガレを払う神格ともされる。
> 神名の「ククリ」は「括り」の意で、伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持ったことからの神名と考えられる。他に、糸を紡ぐ(括る)ことに関係があるとする説、「潜り」の意で水神であるとする説、「聞き入れる」が転じたものとする説などがある。

> つまり、菊理媛神というのは、仲介役の意味で、ある意味、秦野さんご注目の「仲居」といった女性的な側面とも関わりそうですが、また伊勢やイザナギ神宮を結んでいた方位区画の中間拠点や「交点」にあたる地を暗示しているようにも見えます。ちょっと古い会報第1号に引用した図ですが添付しておきます。その白山仲居社の位置に注目してみてください。
>
> 同様に「泉平坂」とか黄泉平坂というのも、「境界」を意味しているのでして、「菊理媛神」=「くくる」との意味で重なっていたのでしょう。
>
> 先の三輪山神話の件で論じたように、おおよそ記紀の神話は、古代中国伝承のケースと同様、測量支配を背景にしているケースが多く、このケースもその一つだと言えるでしょう。
>
> また「泉守道者」という地主神も出てきてますね。これが先日の方位区画の測量拠点やそこにある屯倉等の皇室領を守り続けていたような、渡来系秦氏などの屯倉管理者、山岳修験道者の祖先、さらには中世・近代の山岳民へとつながっていったのではないでしょうか。
>
> そのことが、下記のサイトがいうように、非差別部落に白山信仰が多く見えるという結果になるのかもしれませんね。
>
> 白山信仰を表し加賀国白山比咩神社を総本社とする白山神社は各地に鎮座し、その多くは祭神を菊理媛神(白山比咩神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊の3柱としている。
> 白山神社は日本各地に2,700社余り鎮座するが、特に石川・新潟・岐阜・静岡・愛知の各県に多く分布する。東日本の被差別地区に白山神社が多く祀られており、その理由については諸説あり未詳であるが、一説には江戸浅草新町の矢野弾左衛門が信仰したことで広がったという[要出典]。



1472管理人:2013/05/23(木) 22:59:31
Re: 白山関連
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001515M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001515_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001515_3M.png

秦野北斗さんへのお返事です。


> 白山神社。赤ポツが神社。
>
>
このyahooの分布地図調査は面白いですね。

下図は、同様に「稲荷神社」と「稲荷社」の分布です。

後者は、どういうわけか特に長野から北へ分布がまっすぐに伸びています。

前者の「稲荷神社」の分布は、かなり古いはずで6世紀代の秦氏や新漢氏らの渡来系集団に由来し、一部は屯倉関連ではないかと感じます。九州北部に最初の渡来地があり、そこから全国へ拡大していったのでしょう。

3つ目は「浅間社」の分布で、これなども東西になんとなく列をなしていることがわかりますね。

富士山を意識しているようにも見えますが、あるいはその南の浅間大社の位置かもしれない、そんな感じです。




1473秦野北斗:2013/05/24(金) 18:07:39
菊理媛神
思わぬ所に、ヒントですな。白山神社と古墳の関係も解けそうですぞ。


【原文】

 及其与妹相闘於泉平坂也、伊奘諾尊曰、始為族悲、及思哀者、是吾之怯矣。
 時泉守道者白云、有言矣。曰、吾与汝已生国矣。奈何更求生乎。吾則当留此国、不可共去。是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾尊聞而善之。乃散去矣。

【解釈文】

 その妻(=伊弉冉尊)と泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、伊奘諾尊が言われるのに、「私が始め悲しみ慕ったのは、私が弱かったからだ」と。
 このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうのに、「伊弉冉尊からのお言葉があります。『私はあなたと、すでに国を生みました。なぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒には還れません』とおっしゃっております」と。 (このとき菊理媛神が、申し上げられることがあった。)伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。そして、その場を去られた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/菊理媛神

【原文】「是時菊理媛神亦有白事。」は神の名でなく、別の意味があるようだな。

秦野訳:ここは葬りまた終わるのが美しい。


 その妻(=伊弉冉尊)と泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、伊奘諾尊が言われるのに、「私が始め悲しみ慕ったのは、私が弱かったからだ」と。
 このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうのに、「伊弉冉尊からのお言葉があります。『私はあなたと、すでに国を生みました。なぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒には還れません』とおっしゃっております」と。「ここは葬りまた終わるのが美しい」と。伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。そして、その場を去られた。


菊理:終わる

菊:「きく」は漢名の「菊」を音読みしたもの。「菊」の漢字は、散らばった米を1カ所に集めるという意があるとされます。 漢名の「菊」は、終わりといった意味から「究極」「最終」を現わし、 一年の一番終わりに咲くことから名付けられたとされています。
http://www1.cnc.jp/mogu/index.fils/kikunohanashi.html

理:[音]リ(呉)(漢) [訓]おさめる きめ ことわり
http://kotobank.jp/word/



媛:美女、美しい
http://dic.nicovideo.jp/a/

亦: 腋、脇の下、という意味がある。また又、有、也と通用し、〜もまた、また、という意味がある。また奕と通じて大いに、という意味がある。
http://dic.nicovideo.jp/a/

有白事:葬り

有:ある,いる
http://cjjc.weblio.jp/content/

白事:葬事,葬式.
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/cj/400/m0u/????/




1474管理人:2013/05/24(金) 22:44:44
Re: 菊理媛神
秦野北斗さんへのお返事です。

> 思わぬ所に、ヒントですな。白山神社と古墳の関係も解けそうですぞ。
>
>
> 【原文】
>
>  及其与妹相闘於泉平坂也、伊奘諾尊曰、始為族悲、及思哀者、是吾之怯矣。
>  時泉守道者白云、有言矣。曰、吾与汝已生国矣。奈何更求生乎。吾則当留此国、不可共去。是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾尊聞而善之。乃散去矣。
>
>



ううん、やはり「白すこと有り」で正解じゃないですかなー・・・・・。「白して云う」というものその前にありますし、「亦」はそれに続く2回目の意味でしょう。


ただ、問題はこのとき菊理媛が、何をしゃべったか?ですね。それをきいてイザナギは満足して立ち去ったわけですが、ご指摘の葬儀に関する事というのは、面白い見方ではありますね。

「泉守道」というのは、山地で開拓した泉や平地つまり「泉平(坂)」や街道を守る人の意味で、その領域の交通の管理者でもあったことでしょう。間接的には屯倉支配とも関わる可能性があります。

「菊理媛」の意味は、「ククル」とする見方が有力なようですが、あるいは秦野さんのおっしゃるような別の意味もあるのかもしれません。「菊」の音意ですね。

白山・伊勢の南北ラインで、その東西の勢力境界と認識していた時期の伝承だった可能性を感じます。

ただ、確かになぜ「白山」なのかは謎ですね。白川郷にも行ったことありますが、秦氏が関係しているようです。

「白」の意味はもっと追求してもよいのかもしれません。

あと、「伊勢」の「伊」は、イザナギの「伊」、さらには淡路島周辺の「伊和、伊邪国」といったあたり、「伊都」、「伊豆」といった、いわゆる弥生後期からの南方海人系の海港拠点とも関わってくることでしょう。それらの地域には、前方後円墳ではなく円墳を残してます。「伊」はおそらく海港の意味ですね。

彼らは、それらの海もしくは水に関する地名に「イ」音をつける民族だった可能性を感じてます。

「泉守」「黄泉」「泉平」も、「イモ」「イヒラ」で、「イ」音をもってきてます。

「守」が先のごとく魏志倭人伝にも見える「ヒナモリ」の「守」で、かなり古い弥生時代からの中国語起源の官職を受け継いだものですね。

そういう論理で、たとえば「白」(ハク)とか、「菊」(クク)とかを分類していくと、おそらく南方海洋民とか、その辺の言語分類と重なってくるかもしれません。

そしてその開拓者の海人系集団の支配に、介入してきた大陸系勢力が別にいるわけです。ここで何らかの仲介や支配領域の設定が必要だったことでしょう。天日矛関連の話もそれと関係してきます。

1475秦野北斗:2013/05/25(土) 01:16:43
Re: 菊理媛神
管理人さんへのお返事です。

白山神社

白事:葬事,葬式.
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/cj/400/m0u/????/

山:山(やま)とは、周囲よりも高く盛り上がった地形や場所のことを言い、平地と比べ、傾斜した地形から成る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

白山神社
葬山=白山=城塚=古墳

今城塚(いましろづか)古墳

菊理媛、塚=山

苗字に「菊」とか「塚」とか付くとエタである可能性
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak45/msg/860.html

エタ=奴婢?

> 「泉守」「黄泉」「泉平」も、「イモ」「イヒラ」で、「イ」音をもってきてます。
>
> 「守」が先のごとく魏志倭人伝にも見える「ヒナモリ」の「守」で、かなり古い弥生時代からの中国語起源の官職を受け継いだものですね。
>
> そういう論理で、たとえば「白」(ハク)とか、「菊」(クク)とかを分類していくと、おそらく南方海洋民とか、その辺の言語分類と重なってくるかもしれません。
>
> そしてその開拓者の海人系集団の支配に、介入してきた大陸系勢力が別にいるわけです。ここで何らかの仲介や支配領域の設定が必要だったことでしょう。天日矛関連の話もそれと関係してきます。


1476茨の紀氏:2013/05/25(土) 09:55:10
Re: 菊理媛神
管理人さんへのお返事です。
>「白」の意味はもっと追求してもよいのかもしれません。
クク(神)  大将軍社、白山三社(越南智社、白山大御前社、別山社)、
インドシナのチャム語のアビ(火)クク(神)やヘブライ語の Abik (我らの先祖たち)があります。 http://www.city.abiko.chiba.jp/mob/index.cfm/mobicontent,2,html
先祖たち
「白い」の意。旧約聖書では、ヤコブ(イスラエル )の義父の名前です。 http://www.asahi-net.or.jp/~wa4k-ngtn/ivrit/names.html
義父の名
雪をいただいたヘルモン山があるからでしょう。
白い骨の象形
「白」の 漢字の成り立ち・由来 象形文字です。頭の白い骨の象形とも日光の象形とも ... http://okcoram.jp/coram382.html
帛(ばく)= 白+巾
【帛】きぬ。(解字)形声。巾+白。音符の白は、しろいの意味。しろぎぬの意味を表す。 【 鐘鼓(しょうこ)】かねとたいこ。 【云】いう。(解字)象形。雲の原字。雲がたちのぼる形に かたどり、くもの意味を表す。借りて、いう・ここにの意味に用いる。 http://plaza.rakuten.co.jp/abehirofumi/diary/200612180000/

   続きを読む・・・ http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?




1477管理人:2013/05/26(日) 22:42:01
Re: 菊理媛神
茨の紀氏さんへのお返事です。
キシさん、ハタのさん
お返事ありがとうございます^ - ^

ちょっと今出先です

白猪ミヤケがありますね

白髭神社もあります

白髪はセイネイ天皇と関係して、先の雄略天皇と伊勢の伝承を想起させます

白鳥伝承はヤマトタケルと新漢人の大陸伝承と関係し、白い馬とペガサス伝承に関係します

白い石と半島系伝承との関係、

ハクは半島系王族に関係しないかな

ある民族集団のしょうたょうてきな色に白があった可能性を感じます


>

1478秦野北斗:2013/05/27(月) 09:50:34
Re: 菊理媛神
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001521M.jpg

http://yoichi1938.sakura.ne.jp/yamanobori/2007/tepekusan/main.html



1479茨の紀氏:2013/05/27(月) 11:58:36
Re: 菊理媛神
秦野北斗さんへのお返事です。

この三つの太白山の位置関係は2012年05月30日に やっています。 大韓民国・テペク(太白)山の位置 ... http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/1d6556a31ce244f48fc809565cfbf702
大韓民国・テペク(太白)山、そして太白山と呼ばれた諸塚山、そして、現在の太白山と呼ばれるのは仙台にあります。
この三つの太白山の位置関係は2012年05月30日にやっています。
大韓民国・テペク(太白)山の位置
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/d499ab223bda91fca2ea1a21d18dd821

二等辺三角形になるのではないかとしましたが、ちょっと苦しいかもしれません。少し変える必要があるかもしれません。
そこは置いといて、テペク(太白)山と鳥上滝、船通山の直線と直角になるのが諸塚山、高千穂峰ではないかと見当がつけられます。
意味があるのかどうかは問題ですが、きっと意味があるのではないかと想像し、ともかく検討してみます。

大韓民国・テペク(太白)山
 北緯37度05分46.75秒、東経128度54分58.26秒
諸塚山
 北緯32度38分03.88秒、東経131度17分14.07秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=323803.88&amp;l=1311714.07
船通山
 北緯35度09分21.15秒、東経133度10分43.60秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=350921.15&amp;l=1331043.60

船通山→諸塚山
 ?212°33′40.48″  ?31°30′21.81″ ?329,881.616(m)
船通山→テペク(太白)山
 ?300°32′33.21″  ?118°01′42.11″ ?439,931.723(m)
諸塚山→テペク(太白)山
 ?337°01′01.73″  ?155°39′38.05″ ?540,337.638(m)

船通山での角度
 300°32′33.21″−212°33′40.48″=87°58′52.73″≒87.9813度
諸塚山での角度
 360°−337°01′01.73″+31°30′21.81″=54°29′19.58″≒54.4888度
テペク(太白)山での角度
 155°39′38.05″−118°01′42.11″=37°37′55.94″≒37.6322度

テペク(太白)山の位置を北緯37度07分16.75秒、東経128度55分39.37秒としてXにすると
船通山→X
 ?300°55′24.90″  ?118°24′55.33″ ?440,349.395(m)
諸塚山→X
 ?337°14′09.09″  ?155°53′07.37″ ?542,451.261(m)
船通山→諸塚山
 ?212°33′40.48″  ?31°30′21.81″ ?329,881.616(m)

船通山での角度
 300°55′24.90″−212°33′40.48″=88°21′44.42″≒88.3623度
諸塚山での角度
 360°−337°14′09.09″+31°30′21.81″=54°16′12.72″≒54.2702度
テペク(太白)山での角度
 155°53′07.37″−118°24′55.33″=37°28′12.04″≒37.4700度

ちょっと90度に足りませんが、この角度は辺の比が5:4;3の直角三角形に似ています。
何度もやっていますが
asin(0.6)=36.86989764584402
asin(0.8)=53.13010235415599




1480秦野北斗:2013/05/27(月) 12:23:57
Re: 菊理媛神
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001523M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/太白山_(中国)



1481秦野北斗:2013/05/27(月) 18:32:13
Re: 菊理媛神
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001524_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/呉_(春秋)



1482管理人:2013/05/27(月) 23:22:08
Re: 菊理媛神
秦野北斗さんへのお返事です。

> 茨の紀氏さんへのお返事です。
>
> 呉の太白が見えてきますな。太白山を結ぶと中国では呉の勢力範囲で、日本は倭人伝から
> 勢力範囲、韓半島は古事記からモッポは越でそれ以外は呉の勢力範囲のようだな。
>
> 龍王山と太白山の関係は呉 (春秋)のようですな。
>
> 呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/呉_(春秋)
>
>


ともあれ、仮に同緯度ラインが見つかっても、その時代背景がまちまちだと説得力を欠きますね。
仙台方面に太白山が出来たのは、いつごろなのか?呉の時代とそれがどう結びつくのか?が課題でしょう。


似たようなケースで、敦煌の石窟と雲崗の石窟が同緯度である件を、会報に掲載したことがあります。
記録によれば、雲崗石窟の造営時に、敦煌から関連の僧侶を招聘したことがありました。

このときの僧侶というのは、西域系の宗教者もいたでしょうし、その影響も考慮したいところです。後に高句麗八角墳や、新羅の八角形の石塔、九州の横穴墓へや、畿内の八角形寺院・古墳建築へと、それらの宗教者・技術者の影響が現れていきます。

関連して観音菩薩の住むボダラク山の形が八角形で、それが上記の石塔などにも見て取れるのですが、そのままこの手の中東系の宗教を含有したものが、飛鳥時代の八角墳造営などにも影響しているのではないかと感じます。


それでその浦堕落山への信仰というのが結構重要で、たとえば同時代の須弥山とか、神仙の住む山、蓬莱山とか、その辺と、白山とか富士山とか、大山とかその辺との兼ね合いをもっと追求できないでしょうか。

確かに半島の太白山と、白頭山とを同一視する見方というのも興味深いですね。
下記の記載は重要。

信仰 [編集]

白頭山は周囲に住む民族から崇拝を受けてきた。文化・信仰としてはまず、韓国でも北朝鮮でも、『三国遺事』が引用する「朝鮮古記」による「檀君神話」が国定教科書で教えられていて、最初期の朝鮮国が白頭山で起こり、その後、平壌に遷都したので、白頭山は朝鮮民族の揺り籠であると多くの人が信じている。しかしその根拠になっている『三国遺事』に登場する山の名前は太伯山で、今(『三国遺事』が書かれた当時の今)の妙香山(北朝鮮の平安道にある山)だと書かれている[11]。なお「三国遺事」の第三巻に含まれる「臺山五萬真身」と「溟州五臺山寶叱徒太子傳記」に白頭山という名称が見受けられ、これが朝鮮の文献における白頭山の初出である。仏教関連の項目に、中国の五臺山などと共に、仏教の修行地として登場している。
白頭山周辺は、もともと濊・貊・粛慎が居住しており、彼らの聖地だった。その後この地における濊貊の勢いは衰え、粛慎の後裔とされる女真(満州族)が霊山としていた。女真の金は、1172年には山に住む神に「興国靈応王」の称号を贈り、1193年には「開天宏聖帝」と改めている。清も金と同様、白頭山に対する毎年の典礼を行った。清朝の歴史書『満洲実録』によると、清朝の皇室愛新覚羅氏の祖先は長白山の湖で水浴びをしていた三姉妹の天女の末の妹が、天の神の使いのカササギが運んできた赤い実を食べて妊娠して生んだ男の子ブクリヨンションである。ブクリヨンションは成長後、母から乱れた女真の国を治める天命を受けて生まれてきたことを聞かされ、白頭山から船に乗って川を下っていき、争っていた女真の人々はブクリヨンション見て争いやめ、王として仰いだ。清朝時代には白頭山は神聖な山としてあがめられ、封禁地とされ一般人が立ち入ることは禁止された[要出典]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


五台山の影響は、日本にも仏教を経由して、全国各地に影響していますね。

穢というと漢氏の故地で、雄略・清寧天皇と関係するでしょうか。白髪部は清寧天皇の部民ですが、全国に分布します。白頭も白髪とちょっと似てますね。

確かに呉の太伯の伝承とは関係しているようです。

1483秦野北斗:2013/05/28(火) 06:23:24
Re: 菊理媛神
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001526M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001526_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/呉_(春秋)



1484茨の紀氏:2013/05/28(火) 21:28:34
Re: 菊理媛神
管理人さんへのお返事です。>敦煌の石窟と雲崗の石窟が同緯度である件を、会報に掲載したことがあります。
記録によれば、雲崗石窟の造営時に、敦煌から関連の僧侶を招聘したことがありました。
このときの僧侶というのは、西域系の宗教者もいたでしょうし、その影響も考慮したいところです。後に高句麗八角墳や、新羅の八角形の石塔、九州の横穴墓へや、畿内の八角形寺院・古墳建築へと、それらの宗教者・技術者の影響が現れていきます。
関連して観音菩薩の住むボダラク山の形が八角形で、それが上記の石塔などにも見て取れるのですが、そのままこの手の中東系の宗教を含有したものが、飛鳥時代の八角墳造営などにも影響しているのではないかと感じます。
それでその浦堕落山への信仰というのが結構重要で、たとえば同時代の須弥山とか、神仙の住む山、蓬莱山とか、その辺と、白山とか富士山とか、大山とかその辺との兼ね合いをもっと追求できないでしょうか。
確かに半島の太白山と、白頭山とを同一視する見方というのも興味深いですね。

、白髭神社、
秦氏が関わったとされる神社は、宗像大社や諏訪大社、大避神社、白髭神社、鹿島神宮、白木神社、兵主神社、出石神社、気比神社・・・・ http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
秦氏と神道
??投稿者:茨の紀氏??投稿日:2013年 5月28日(火)21時21分29秒




1485秦野北斗:2013/05/29(水) 12:32:47
五台山
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001528M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001528_3M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/行基



1486管理人:2013/05/29(水) 23:00:59
Re: 五台山
秦野北斗さん、キシさん情報ありがとうございます。

やはり、ご指摘の白木神社のように、白と新羅との関係を考える必要がありそうですね。
下記のHPの紹介文が参考になります。


忍山神社と新羅の神

 更に、忍山神社の社記によれば、神社は現在地の北東にある押田山(愛宕山)の麓にあり、この山は神山とも呼ばれて、亀山の語源にもなっているが、社記に文明年中(一四七〇年代)の兵火で白木山(新羅山)に逃れたという記述がある。白木山の麓に白木神社が存在する例は亀山市の白木町でも見られると共に、他県(例えば熊本県)でも見られる。加えて、神社の創建が饒速日命の孫であれば出雲に渡来してきた氏族の直系ということになり、白木、新羅とのつながりが一層強くなる。従って、忍山神社の白鬚大明神と布気神社の素盞鳴尊は新羅の神、新羅(白木)神であったと言えるであろう。

もともとあった白鬚神社の白鬚とは新羅ということであり、中島利一郎「日本地名学研究」によると、古い朝鮮語の「クナル・クナラ(白鬚)」からきたものだともいう。クナル・クナラとは「大国」または貴い国という意味の貴国でもある。新羅にしても、その元は「新しい国」ということであったから、新羅系渡来人の住み着いたところとみられる中心地が新羅=白鬚だったとしても不思議はない(金達寿)。日本では新羅系のものが定住地に集団の神を奉祭していたのが、新羅明神や白鬚明神へと変わった(和歌森太郎)という。
http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/154.htm




1487秦野北斗:2013/05/29(水) 23:57:28
Re: 五台山
管理人さんへのお返事です。

新羅ですか。屯倉、三宅ですな。

白鬚神社、白山神社とは別物ですな。

新羅の古墳は辛卯年(271年)からになるな。新羅系の古墳は埋葬品で判別。

おそらく各地に有るな。

神功皇后の三韓征伐、辛卯年(271年)

> 忍山神社と新羅の神
>
>  更に、忍山神社の社記によれば、神社は現在地の北東にある押田山(愛宕山)の麓にあり、この山は神山とも呼ばれて、亀山の語源にもなっているが、社記に文明年中(一四七〇年代)の兵火で白木山(新羅山)に逃れたという記述がある。白木山の麓に白木神社が存在する例は亀山市の白木町でも見られると共に、他県(例えば熊本県)でも見られる。加えて、神社の創建が饒速日命の孫であれば出雲に渡来してきた氏族の直系ということになり、白木、新羅とのつながりが一層強くなる。従って、忍山神社の白鬚大明神と布気神社の素盞鳴尊は新羅の神、新羅(白木)神であったと言えるであろう。
>
> もともとあった白鬚神社の白鬚とは新羅ということであり、中島利一郎「日本地名学研究」によると、古い朝鮮語の「クナル・クナラ(白鬚)」からきたものだともいう。クナル・クナラとは「大国」または貴い国という意味の貴国でもある。新羅にしても、その元は「新しい国」ということであったから、新羅系渡来人の住み着いたところとみられる中心地が新羅=白鬚だったとしても不思議はない(金達寿)。日本では新羅系のものが定住地に集団の神を奉祭していたのが、新羅明神や白鬚明神へと変わった(和歌森太郎)という。
> http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/154.htm
>
>
>


1488管理人:2013/05/30(木) 22:31:28
纒向遺跡:の花粉
秦野北斗さんへのお返事です。


> 新羅ですか。屯倉、三宅ですな。
>
> 白鬚神社、白山神社とは別物ですな。
>
> 新羅の古墳は辛卯年(271年)からになるな。新羅系の古墳は埋葬品で判別。
>
> おそらく各地に有るな。
>
> 神功皇后の三韓征伐、辛卯年(271年)
>
> > 忍山神社と新羅の神



3世紀代の古墳というと、下記のニュースが載りましたね。

http://mainichi.jp/feature/news/20130531k0000m040037000c.html

大和王権発祥の地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、1991年に出土した花粉が3世紀中ごろのバジルとみられるという論文を、金原(かねはら)正明・奈良教育大教授(環境考古学)が30日発表の桜井市纒向学研究センター研究紀要に掲載した。熱帯アジア原産のバジルは、江戸時代に薬用として中国から持ち込まれたとされていた。国内最古例の発見で、女王・卑弥呼(248年ごろ没)の時代の国際交流を物語る貴重な発見と言える。


3世紀の日本について記した「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」には、中国・魏と卑弥呼が都とした邪馬台国などとの交流が記されている。金原教授は「ベニバナと同様、魏を通じてバジルが持ち込まれた可能性がある。纒向遺跡が国際色豊かな特異な地だったことを示している」と話している。【矢追健介】





問題は、交流、交易でもたらされたのか?それとも、中国系の技術者や高官・王族等が移住したから、もたらされたのか?の区別でしょう。


前者の特徴は、両国にとって、それなりに交換して利益のあるもの。

後者の特徴は、中国・朝鮮人の風習・習俗とかによるもっと詳細な部類のもの。


その区別をどこでつけるか?が課題のように感じます。


1489秦野:2013/05/31(金) 06:53:27
Re: 纒向遺跡:の花粉
管理人さんへのお返事です。

紅花、以外にブドウ、さくら、もも・・があるな。
身近にあるな。あまり決定打にはならないな。

纒向遺跡の埋葬品で新羅系の古墳か判別したいな。

纒向は卑弥呼の墓でないのにな。まあ、頑張って・・

どうせ、古墳は調査出来ないから。

紅花、エジプト原産といわれ、古くから世界各地で栽培されている。日本にはシルクロードを経て4 - 5世紀ごろに渡来したといわれている(6世紀伝来説もあり)。古くは和名を「くれのあい(呉藍)」といい、中国伝来の染料との意味

http://ja.wikipedia.org/wiki/ベニバナ

ブドウの栽培化の歴史は古く、紀元前3000年ごろには原産地であるコーカサス地方やカスピ海沿岸ですでにヨーロッパブドウの栽培が開始されていた

https://ja.wikipedia.org/wiki/ブドウ

さくら、ユダヤ教においては、生物の分類のみならず目で見てもサクラに見える扁桃(アーモンド)の花を、その実よりも重要視する。ヘブライ語で花は「???」と綴り、アロンの杖に芽吹いた扁桃(アーモンド)のつぼみもまた同じ綴りで記されている。そしてヘブライ語聖書「????」(出エジプト記25章33、34節、37章19、20節)には、扁桃(アーモンド)のつぼみ「???」の形をした萼と節と花弁を付けた燭台を作るよう定められている。その燭台をメノラーという。7つの扁桃(アーモンド)のつぼみ(???)の形を付けたメノラーは、エルサレム神殿崩壊以降、エルサレムの受難の象徴とされ、イスラエルの国章となった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/サクラ

もも、中国において桃は仙木・仙果(神仙に力を与える樹木・果実の意)と呼ばれ、

http://ja.wikipedia.org/wiki/モモ


> 大和王権発祥の地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、1991年に出土した花粉が3世紀中ごろのバジルとみられるという論文を、金原(かねはら)正明・奈

1490茨の紀氏:2013/05/31(金) 08:56:17
Re: 纒向遺跡:の花粉
管理人さんへのお返事です。

>問題は、交流、交易でもたらされたのか?それとも、中国系の技術者や高官・王族等が移住したから、もたらされたのか?の区別でしょう。
前者の特徴は、両国にとって、それなりに交換して利益のあるもの。
後者の特徴は、中国・朝鮮人の風習・習俗とかによるもっと詳細な部類のもの。
その区別をどこでつけるか?が課題のように感じます。

バジルを中国語で書くと・・・。
○勒叶
http://hanzacademy.net/category.php?cid=flower

勒叶更佳爽口?!
豚肉とバジルの炒め物、Pat muh bai horapaです
料理??家 泰国?勒叶炒猪肉 pat muh bai horapa
竟不是中国人, ??愚蠢的疑?,? ... 勒叶更佳爽口?! こちらでは、今日明日の2日間“ 高考(gao1kao3)”=『全国普通高等学校招生入学考試』の日、 字面だけ見ると、 ... 今日 のご紹介は、豚肉とバジルの炒め物、Pat muh bai horapaです、 ... http://dnyn.blog126.fc2.com/?mode=m&amp;no=198




1491管理人:2013/05/31(金) 23:09:33
Re: 纒向遺跡:の花粉
秦野さんへのお返事です。

> 紅花、以外にブドウ、さくら、もも・・があるな。
> 身近にあるな。あまり決定打にはならないな。
>
> 纒向遺跡の埋葬品で新羅系の古墳か判別したいな。
>


3世紀代は、まだ「新羅」の呼称は使われてないので、あええ記すなら「斯蘆国系」と記すべきでしょうね。
下記参照。 http://ja.wikipedia.org/wiki/


斯蘆国の時代 [編集]
375年頃の半島図
3世紀ごろ、半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国があった。辰韓の「辰」は斯蘆の頭音で、辰韓とは斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられている。新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなしたものと見られている。


『太平御覧』で引用する『秦書』には、377年に前秦に初めて新羅が朝貢したと記されており、382年には新羅王楼寒(ろうかん、ヌハン)の朝貢が行われ、その際に新羅の前身が辰韓の斯盧国であることを前秦に述べたとされる。この「楼寒」については王号の「麻立干」を表すものと見られ、該当する王が奈勿尼師今に比定されている。記述から奈勿尼師今の即位(356年)が新羅の実質上の建国年とも考えられている。


中国政府のシンクタンクである中国社会科学院は新羅について「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している[7]。また、中国の歴史学者の李大龍は、新羅の前身である辰韓は秦韓とも呼ばれ、中国の秦の人が建てた国だから、新羅は中国民族が建てた国だと主張している[8]。




秦韓は会報で記したとおり、後代の新羅やその前身の「斯蘆国」別領域なんですよね。もっと西の大伽耶や金官伽耶の「粗塗」のあった領域に秦韓が存在していたはずです。これは確かに中国・大陸系の移住者の可能性が高いですが、後の新羅とは異なるでしょう。

マキムクの中国系文化についても、楽浪・秦韓・狗邪韓国系の影響はあっても、「斯蘆国」など東岸地域の影響があったかどうかは、土器とかその辺の様子を見て行かないとなんともいえない感じです。

そういう意味では、九州の西新町遺跡のケースが面白いですね。慶州方面も含めて、半島各地の土器が見えるそうです。
http://inoues.net/ruins/nishijin.html



彼らが東遷したとすれば、先のバジルのケースのように、畿内にも半島・大陸文化が入り込む余地があったと思いますが、その辺は細かい部分まで出土遺物を比較検討する必要があるでしょう。

この時代の製鉄炉が北九州から四国、マキムク方面へ移行して行く流れも重要ですね。
製鉄に必要な物資や道具、技術者も移行していかないと、ひとつでも欠けると製鉄はできなかったでしょう。
それらの精錬には高度な知識が必要です。それなりの文化人が移動する必要がありますね。

1492秦野:2013/05/31(金) 23:40:07
Re: 纒向遺跡:の花粉
管理人さんへのお返事です。


王味鄒尼師今の年代が韓国と日本では異なっている。


新羅は「雞林国」

『晋書』辰韓伝
 武帝太康元年、其王遣使獻方物。二年復來朝貢、七年又來。
 武帝の太康元年(280年)、その王は遣使を以て方物を献上した。二年にも再び来朝して貢献、七年(286年)にもまた来た。

 太康七年(286年)の朝貢記録があることから、辰韓の六国は統一して斯盧となったが、中国正史に「六国は十二国に細分された」とあり、斯盧は他の辰韓諸国を統一するまでには至っていなかったのだろう。

「雞林国」
 初め王は雞井で生まれた。それ故、あるいは雞林国ともいう。雞龍が現れたことは祥瑞である。一説には、脱解王の時、金閼智を得た。而して雞は林の中で鳴いたので、国号を雞林と改めた。後世、この号を新羅と定める。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/sinkan-siragi/siragi-sinwa1-rasei.htm


金閼智(きん あっち、65年? - 没年不詳)は新羅の金氏王統の始祖とされる人物。第4代王脱解尼師今のときに神話的出生とともに見出された。7世孫に第13代王味鄒尼師今が出て新羅王として即位し、以後金氏の王統が占めることとなり、始祖として敬われた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/金閼智

味鄒尼師今(みすう にしきん、生年不詳 - 284年)は、新羅の第13代の王(在位:262年 - 284年)であり、姓は金氏。金閼智の7世孫であり、父は葛文王(金)仇道、母は葛文王(朴)伊柒の娘。王妃は第11代助賁尼師今の娘の光明夫人。先代の沾解尼師今が子の ...

http://ja.wikipedia.org/wiki/味鄒尼師今

味鄒尼今紀(?????) (A.D.325 - A.D.349:??25?) ? ???

http://www.coo2.net/bbs/zboard.php?id=con_1&amp;page=1&amp;sn1=on&amp;divpage=1&amp;sn=on&amp;ss=off&amp;sc=off&amp;keyword=??????&amp;select_arrange=reg_date&amp;desc=desc&amp;no=136







>
> 3世紀代は、まだ「新羅」の呼称は使われてないので、あええ記すなら「斯蘆国系」と記すべきでしょうね。
>
>
> 斯蘆国の時代 [編集]
> 375年頃の半島図
> 3世紀ごろ、半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国があった。辰韓の「辰」は斯蘆の頭音で、辰韓とは斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられている。新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなしたものと見られている。
>
>
> 『太平御覧』で引用する『秦書』には、377年に前秦に初めて新羅が朝貢したと記されており、382年には新羅王楼寒(ろうかん、ヌハン)の朝貢が行われ、その際に新羅の前身が辰韓の斯盧国であることを前秦に述べたとされる。この「楼寒」については王号の「麻立干」を表すものと見られ、該当する王が奈勿尼師今に比定されている。記述から奈勿尼師今の即位(356年)が新羅の実質上の建国年とも考えられている。
>
>
> 中国政府のシンクタンクである中国社会科学院は新羅について「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している[7]。また、中国の歴史学者の李大龍は、新羅の前身である辰韓は秦韓とも呼ばれ、中国の秦の人が建てた国だから、新羅は中国民族が建てた国だと主張している[8]。
>



1493秦野:2013/06/11(火) 00:08:04
Re: 纒向遺跡:の花粉
管理人さんへのお返事です。

紅花は「くれない」、呉くれの国から渡来した染料。

どうも、呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)のようだな。
呉の音は漢音:ゴ。呉音: 「グ」、常用漢字表外 く-れる、くれ、ぐ。

韓半島の大漢国(やまと)は一つの産地のようだな。漢【漢紅花:からくれない】
韓【韓紅花:からくれない】加羅【加羅紅花:からくれない】

からくれない【韓紅花】
色名の一つ。唐紅とも書く。JISの色彩規格では「あざやかな赤」としている。一般に、キク科ベニバナを使って繰り返し染めた濃い紅色のこと。深紅しんくと同じ色をさす。深紅とは混じりけのない真の紅染の色を意味する。「くれない」は呉くれの国から渡来した染料のことで、朝鮮または中国から伝えられたことから、この名がついたとされる。「から」は赤を強調する「あから」の略とする説もあるが、定説とはなっていない。
http://kotobank.jp/word/韓紅花

赤は加羅ではないな。アイヌ語だろうな。
http://homepage2.nifty.com/kodaijin-tamat/index.files/N87-91iro.htm



音読み
呉音 : グ(表外)
漢音 : ゴ
訓読み
常用漢字表内
常用漢字表内の訓読みはありません。
常用漢字表外
く-れる、くれ、ぐ
http://ja.wiktionary.org/wiki/


1494管理人:2013/06/12(水) 03:06:38
Re: 纒向遺跡:の花粉
秦野さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> 王味鄒尼師今の年代が韓国と日本では異なっている。
>
>

確かにこの問題は重要ですね。うまくいけば3〜4世紀の日本の初期古墳を残した集団との関わりを見いだせるかもしれません。少し時間をかけて新羅王族の年代と信憑性について考えていきましょう。

1495茨の紀氏:2013/06/22(土) 02:59:55
Re: 纒向遺跡:の花粉
> 管理人さんへの追伸です。
>
> >問題は、交流、交易でもたらされたのか?それとも、中国系の技術者や高官・王族等が移住したから、もたらされたのか?の区別でしょう。
> 前者の特徴は、両国にとって、それなりに交換して利益のあるもの。
> 後者の特徴は、中国・朝鮮人の風習・習俗とかによるもっと詳細な部類のもの。
> その区別をどこでつけるか?が課題のように感じます。


バジリコ(バジル)?勒(?称 九?塔:basil)、
セリ科の一年草です。インド、熱帯アジアを原産地

「今から2千年ほど前、日本にようやく人が住み始めた頃、古代イスラエル人(ユダヤ人)もはるばる日本に渡来し、日本の文化形成に大きな影響を与えた」 http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/032kodai.htm
 とする説が、わが国において、幾人かの学者によって唱えられてきました。
 いわゆる「日本文化=ユダヤ起源論」とか「日本・ユダヤ同祖論」と呼ばれる説ですが、一見奇妙に見えるこの説も、その証拠とされるものの多彩さのゆえに、多くの人々に興味を引き起こしてきました。

ペルシャの一部族の間にも、同様の言い伝えがあります。アフガニスタンのユーフザイ人は、自らを「バニ・イスラエル」 (イスラエルの子孫) と呼んでいます。
 その他、インドやミャンマーの部族の間にも、同様の言い伝えがあります。
 また中国の史書によると、B.C.2世紀(漢の時代)に、中国にイスラエル人がいました。

漢 福州料理???勒(?称 九?塔)

会稽東治県東治県の場所として、現在は福州だと考えられて ... - Teacuphttp://6729.teacup.com/siyujin/bbs/336
漢の武帝は、元封2(B.C.109)年、衛氏朝鮮を滅ぼし、その地を、楽浪郡、臨屯郡、玄菟 郡、真番郡とした。 閩越國が移動してから、東治県とされた。 秦末に東治(福州閩越國) を中心に独立し、漢武帝に滅ぼされるまで独立を保った。
B.C.2世紀(漢の時代)

西暦1〜-100年 は紀元前1世紀(B.C.1世紀)、-101〜-200年は紀元前2世紀(B.C.2世紀)と表します ...

日本へは紀元前2世紀ごろ朝鮮南部から九州北部に伝わりました。弥生時代には近畿 地方から、関東地方、東北地方まで広まりました。 http://historyjapanese.blogspot.jp/2007/11/blog-post_5148.html

ローマでは、キリストが埋葬されたとき、その墓の周りにバジルが 生い茂ったと言われています。 http://www008.upp.so-net.ne.jp/kazt/myhome/basil.htm
また、ローマでは バジルの香りが愛を生むとも考えられ、女性からバジルの小枝を受け取った男性は 彼女の愛を生涯に渡って受けられると 言われました。







1496秦野北斗:2013/06/30(日) 06:48:28
Re: 纒向遺跡:の花粉
茨の紀氏さんへのお返事です。

メボウキ(バジル) 羅勒 (羅勒;E.Basil)

羅が気になるな。

メボウキ属 Ocimum(羅勒屬)。東アジアには自然分布するものはないが、次のものを栽培し、一部野生化しているものがある。

O. americanum(灰羅勒)
   メボウキ(バジル) O. basilicum (羅勒;E.Basil)
     var. pilosum (毛羅勒・矮糠) 『中国本草図録』?/2808・『中国雑草原色図鑑』188
   インドメボウキ(広義) O. gratissimum(丁香羅勒)
     インドメボウキ var. suave(毛葉丁香羅勒)『中国本草図録』?/0300・?/0797
   カミメボウキ O. tenuiflorum(O.sanctum;聖羅勒・?草・零陵香;E.Holy basil)
        インド・東南アジア産。ヒンドゥー教の聖なる草トゥルシー tulsi。

シソ科 LABIATAE(LAMIACEAE;唇形科)については、シソ科を見よ。
後趙の石勒(274-333)の諱を避けて、羅勒を蘭香と改む。
和名メボウキ(目箒)は、その種子を目に入れると、寒天様物質が出て目のごみをぬぐい、かすみ目に効く、ということから。

 小野蘭山『本草綱目啓蒙』22(1806)羅勒に、「メバゝキ」と。
種小名・英名は、ギリシア語の basilikon(高貴な草)に由来、王侯貴族が香水に用いたことから。
 バジリコ basilico は、イタリア語名。
アジア・アフリカの温帯・暖帯に分布し、中国の南部では一部野生化している。

説 日本には江戸時代に入る。

全草を 香辛料・薬用に用いる。
『名医別録』の薫草及び『開宝本草』以下の零陵香はメボウキあるいはカミメボウキだが、今日零陵香の正品は オカトラノオ属 Lysimachia(排草屬)のモロコシソウ L.sikokiana(L.foenum-graecum;排草)である、という。『中薬志?』pp.220-224、『中国本草図録』?/4784

http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower Information by Vps/Flower Albumn/ch4-vegitables/eng-basil.htm

http://www.ootk.net/cgi/shikihtml/shiki_2186.htm

メボウキ【basil】

バジルまたはバジリコと称し,香辛料や香草として知られるシソ科の一年草(イラスト)。メボウキ属Ocimumはアフリカ,東南アジアから太平洋諸島に50〜60種が分布する。そのなかで日本で香辛料として栽培されるのは,本種だけである。高さ40〜50cm,葉は波状の欠刻のある卵状披針形で,強烈な香りがする。夏には茎の先にシソに似た花穂を立て,紫白色の6輪の小花を輪生して咲き上がるが,とくに観賞価値はない。種まきは4〜5月,小鉢で育苗したものを5〜6月に鉢または花壇に植える。

http://kotobank.jp/word/メボウキ

1497管理人:2013/06/03(月) 23:25:43
新羅王族
ちょっと先日の新羅王系譜について考えはじめています。

どうも、扶余系の系譜と王族名が近いことに気付きますね。

『三国史記』新羅本紀・味鄒尼師今紀
金閼智―勢漢―阿道―首留―郁甫―仇道―味鄒

『三国遺事』金閼智脱解王代条
金閼智―熱漢―阿都―首留―郁部―倶道(仇刀)―未鄒

その王族は「葛文王」という別名を継承します。「カツ」音に注目。下記扶余系にも「曷思王(カツシ)」がみえます。

扶余系譜は。
東夫余 [編集]

解夫婁王(在位年不詳) 金蛙王(在位年不詳) 帯素王(?年 - 22年) 曷思王(22年 - ?年 ※夫余王か疑問) 都頭王(?年 - 68年 ※夫余王か疑問)

北夫余 [編集]
夫台王 尉仇台王 簡位居王 麻余王 依慮王 依羅王 蔚王(※夫余王か疑問) 玄王 居王



東扶余の特徴は、金・「タイ」・「カツ」です。「タイ」音は月氏など北方遊牧民系につく「タイ」音を想起させます。サルマタイ・スキタイ・ヤマタイ・・・・・先日の会報で列記して分析したとおりです。

北扶余は 「イ」「キュウ」で、これは百済王族のそれとも関係していきます。


それで新羅系譜にもどり、「仇道」の「キュウ」音は、扶余・百済系のそれです。

また「首留」は、高句麗の朱蒙などの「シュ」音と関係しそうです。金官伽耶の王族に首露王がいます。

首露王(しゅろおう、???)は、金官加羅国の始祖と伝えられている古代朝鮮半島の王で、金海金氏の始祖。首露王は158年間国を治めたとも伝えられている。妃は阿踰陀国の王女と伝わる許黄玉。


こう見て行くと、系譜面では、やはり東扶余の金蛙を始祖とする金氏が、後に半島東海岸の南下したとの記載にあるように、新羅方面へ向かい、東扶余3代目の曷思王にちなんで、新羅王族は別名として「葛文王」の封号を継承した可能性があります。


そしてその一部が金官伽耶方面へ西進し首露王が158年頃にいたという伝承が成立したのかもしれません。

それで、新羅系譜の
熱漢―阿都―首留

なのですが、「阿」を秦韓の民衆自身を指す称号とし、「阿残」を楽浪に残った親族とする魏志の記載を考慮すると、やはり「阿都」あるいは「阿道」の「阿」は、秦韓つまり金官伽耶方面特有の称号に由来した可能性がでてきますね。


その前の「漢」はつまり、漢の楽浪郡時代のこととなるでしょうか。

ここで考慮すべきなのは、後代の東漢氏の系譜ですね。やはり百済王族とも関係しながら。「阿知」王の「阿」音や、穢=大漢国の「漢」にアイデンティティを持つ件です。

この辺は、百済・高句麗・新羅・伽耶・そして穢(大漢)で、ある程度系譜を共有していた可能性があるような気がします。それらは会報に記したように、漢氏や秦氏の系譜にも影響していくわけですが、もっと整理したいですね。


あと、邪馬台国卑弥呼時代と、上記の新羅王族系譜の件ですが、「ヤ」「タイ」音は、以前からお話ししているように扶余系の発音です。元は北方遊牧民系。

女王は再び魏に使者として大夫「伊聲耆、掖邪狗」らを送ります。

ここに「イ・キュウ」音のつく人名がでてきますね。

女王は太守王(斤+頁)に載斯・烏越もつかわしますが、「斯」は伽耶諸国の首長の称号でした。

邪馬台国の高官が、かなり半島的な王族系譜に近い称号をもっていた可能性がでてきます。
彼らは倭に進出してから、まだそれほど時間が経っていなかったのかもしれません。


下記のサイトに、扶余・高句麗系の墓制と前方後円墳の比較が文献や考古面からなされています。

http://www.geocities.jp/taru638/page005.html


こうみると、南韓・北九州を破談だ文化圏に、ある時期に北方から邪馬台国の祖先となるような扶余系集団が南下してきて、その影響でこれらの古墳が出来てきたと考えると理解しやすくなるかもしれませんね。

おそらく始祖系譜にも上記のような特徴があった可能性もあります。日本の皇族、氏族系譜と、上記の王族の特徴となった語音「イ・キュウ」音等について比較する必要がありそうです。イザナミ、イワレヒコ、ミマキイリヒコ、イクメイリヒコ・・・。


1498秦野:2013/06/04(火) 00:55:14
Re: 新羅王族
管理人さんへのお返事です。

大漢国は金印銘文の漢委奴國王。大漢国は現在の大韓国になるな。

漢委奴国王印
http://ja.wikipedia.org/wiki/漢委奴国王印

漢委奴国王印の意味は、大漢国の委奴国王。倭国の王になる。

大漢国(やまと)は韓半島で、馬韓、弁韓、辰韓、倭国と穢、扶余、高句麗。
現在の韓国で馬韓、弁韓、辰韓、倭国。北朝鮮は穢、扶余、高句麗になる。
扶余、高句麗が阿残になる。阿残の歴史は元封三年の武帝から始まるな。

衛氏朝鮮

『通典』邊防
 武帝元封三年、遣樓船將軍楊僕從齊浮渤海、兵五萬、左將軍荀彘出遼東、討之。朝鮮人相與殺 王右渠來降。遂以朝鮮為真蕃、臨屯、樂浪、玄菟四郡。今悉為東夷之地。昭帝時罷臨屯、真蕃以并樂浪、玄菟。

 元封三年(前108年)、楼船將軍の楊僕は斉から渤海を渡り、兵は五万。左將軍の荀彘は遼東から出撃し、右渠を討った。朝鮮人は右渠を殺して降伏してきた。朝鮮を真蕃、臨屯、楽浪、玄菟の四郡となした。今はすべて東夷の地。昭帝の時、臨屯と真蕃を廃して、楽浪と玄菟に併合した。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen4-eisichosen.htm

漢は中国でないぞ。百済・新羅・伽耶・高句麗にも歴史があるな。

新羅が理解できるぞ。
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/3328



> そしてその一部が金官伽耶方面へ西進し首露王が158年頃にいたという伝承が成立したのかもしれません。
>
> それで、新羅系譜の
> 熱漢―阿都―首留
>
> なのですが、「阿」を秦韓の民衆自身を指す称号とし、「阿残」を楽浪に残った親族とする魏志の記載を考慮すると、やはり「阿都」あるいは「阿道」の「阿」は、秦韓つまり金官伽耶方面特有の称号に由来した可能性がでてきますね。
>
>
> その前の「漢」はつまり、漢の楽浪郡時代のこととなるでしょうか。
>
> ここで考慮すべきなのは、後代の東漢氏の系譜ですね。やはり百済王族とも関係しながら。「阿知」王の「阿」音や、穢=大漢国の「漢」にアイデンティティを持つ件です。
>
> この辺は、百済・高句麗・新羅・伽耶・そして穢(大漢)で、ある程度系譜を共有していた可能性があるような気がします。それらは会報に記したように、漢氏や秦氏の系譜にも影響していくわけですが、もっと整理したいですね。
>
>
>


1499秦野北斗:2013/06/04(火) 22:43:41
『日本書紀』卷六 垂仁天皇
気になる文章ですな。

秦野の訳をかきますが、一度、管理人さん訳して貰えないかな。

重大な文章になるぞ。


> ★『日本書紀』卷六 垂仁天皇 二五年(丙辰(236年)前五)二月 甲子(244年)《八》

> 廿五年 春二月 丁巳(237年)朔(ある日)。詔阿倍臣遠祖武渟川別。和珥臣遠祖彦國葺。中臣連遠祖大鹿嶋。物部連遠祖十千根。大伴連遠祖武日。五大夫曰。我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇。惟叡作聖。欽明聰達。深執謙損。志懷沖退。綢繆機衡。禮祭神祇。剋己勤躬。日愼一日。是以人民富足。天下太平也。今當朕世。祭祀神祇。豈得有怠乎。
>
阿倍臣(遠い祖先、武渟川別)、和珥臣(遠い祖先、彦國葺)、中臣連(遠い祖先、大鹿嶋)、
物部連(遠い祖先、十千根)、大伴連(遠い祖先、武日) に詔する。
五大夫に曰く。我先皇(崇神天皇)の思いを明かす。作聖(作成)の出来は謙遜する。
志を持ち韓半島(大漢=大韓:やまと)を退いた。事態はまつわる。
神祇(国津神)をひろく祭り、躬(自ら)勤め己に剋ち。日、気を配る。これゆえ人民は富む。天下太平なり。今、朕世(垂仁天皇)になり、神祇(国津神)をひろく祭る。どうして怠ろうか。

神祇:卑弥呼
志懷沖退:志を持ち韓半島(大漢=大韓:やまと)を退く
沖:広々とした田畑や野原の遠い所。韓半島(大漢=大韓:やまと)


1500管理人:2013/06/04(火) 23:14:05
Re: 『日本書紀』卷六 垂仁天皇
秦野北斗さんへのお返事です。

> 秦野の訳をかきますが、一度、管理人さん訳して貰えないかな。
>
> 重大な文章になるぞ。
>
>
> > ★『日本書紀』卷六 垂仁天皇 二五年(丙辰(236年)前五)二月 甲子(244年)《八》
>
> > 廿五年 春二月 丁巳(237年)朔(ある日)。詔阿倍臣遠祖武渟川別。和珥臣遠祖彦國葺。中臣連遠祖大鹿嶋。物部連遠祖十千根。大伴連遠祖武日。五大夫曰。我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇。惟叡作聖。欽明聰達。深執謙損。志懷沖退。綢繆機衡。禮祭神祇。剋己勤躬。日愼一日。是以人民富足。天下太平也。今當朕世。祭祀神祇。豈得有怠乎。
> >


この文章は、いろいろ確かに興味深い部分がありますね。

たとえば「惟叡作聖」の語ですが、検索すると、唐代の文章に引用されています。下記のサイトのとおりです。。
http://ameblo.jp/gfas-x1/day-20090111.html

『微臣属書東観、預聞前史。
若乃知幾其神、惟叡作聖、玄妙之境、希夷不測。然則[三五迭興、]』

上記の文章はその昔、唐の大宗が学芸振興の為、長安に孔子廟という孔子の霊を祀る建物を再建した際に建てた、『孔子廟堂碑(こうしびょうどうし)』と呼ばれる碑の一部分の文章で、唐の時代、五五八年〜六三八年に生きた『虞世南(ぐせいなん)』という書道家が七十一〜七十三歳頃に書かれた書です。ですが、その碑は突如として火災が起き、唐時代末には失われてしまい、現代までに残る孔子廟堂碑は後に復刻されたものだそうです(*^-^)b

『微 臣 書を東観に属し、預め(あらかじ)前史より聞く。
若(も)し乃(すなわ)ち幾を知るは其れ神、惟(た)だ叡(えい)、聖を作(な)さば、玄妙の境、希夷にして測られず。然(しか)らば則ち[三五 迭ごも興(おこ)り、]





そうすると、この文章は7世紀代の中臣時代、遣唐使の影響で記紀に挿入された可能性も考慮すべきなのかもしれません。孔子廟ということは、儒学者ですね。鎌足の師匠で、遣唐使人の博士・新漢人南淵氏あたりの影響があるとする見方もできそうです。

大伴らの五大夫はみな新漢人の影響下にありますし、「欽明聰達」も、淡海三船の中国知識の一部に、このあたりの文献がった可能性もありますね。7世紀代の遣唐使人がもちかえった中国関連書籍をもとに、天皇の諡を創出・記載したという線はどうでしょうか。

1501秦野:2013/06/06(木) 07:05:56
Re: 『日本書紀』卷六 垂仁天皇
管理人さんへのお返事です。

にがて、ですかな。訳は呉(春秋)まで遡りますな。

若乃知幾其神、惟叡作聖、玄妙之境、希夷不測。然則[三五迭興、]

かく汝、幾らかの神祇(じんぎ)を知る。作聖の思い、玄妙の東夷は希に予測できない。
然則

> 若(も)し乃(すなわ)ち幾を知るは其れ神、惟(た)だ叡(えい)、聖を作(な)さば、玄妙の境、希夷にして測られず。然(しか)らば則ち[三五 迭ごも興(おこ)り、]




> 『微臣属書東観、預聞前史。
> 若乃知幾其神、惟叡作聖、玄妙之境、希夷不測。然則[三五迭興、]』
>
> 上記の文章はその昔、唐の大宗が学芸振興の為、長安に孔子廟という孔子の霊を祀る建物を再建した際に建てた、『孔子廟堂碑(こうしびょうどうし)』と呼ばれる碑の一部分の文章で、唐の時代、五五八年〜六三八年に生きた『虞世南(ぐせいなん)』という書道家が七十一〜七十三歳頃に書かれた書です。ですが、その碑は突如として火災が起き、唐時代末には失われてしまい、現代までに残る孔子廟堂碑は後に復刻されたものだそうです(*^-^)b
>
> 『微 臣 書を東観に属し、預め(あらかじ)前史より聞く。



1502秦野:2013/06/06(木) 21:36:44
Re: 『日本書紀』卷六 垂仁天皇
管理人さんへのお返事です。

どうも、日本書記の原文が間違っていたな。

年代特定は連立方程式になりそうですな。230年だな。

活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇

廿五年春二月丁巳朔甲子、詔阿倍臣遠祖武渟川別・和珥臣遠祖彦國葺・中臣連遠祖大鹿嶋・物部連遠祖十千根・大伴連遠?武日、五大夫曰、我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇、惟叡作聖。欽明聰達。深執謙損、志懷沖退。綢繆機衡、禮祭?祇。剋己勤躬、日愼一日。是以人民富足、天下太平也。今當朕世、祭祀?祇、豈得有怠乎。三月丁亥朔丙申、離天照大?於豐耜入?命、託于倭?命。爰倭?命求鎭坐大?之處、而詣菟田筱幡。筱、此云佐佐。更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。時天照大?誨倭?命曰、是?風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也。傍國可怜國也。欲居是國。故隨大?教。其祠立於伊勢國。因興齋宮于五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大?始自天降之處也。

一云、天皇以倭?命爲御杖、貢奉於天照大?。是以倭?命以天照大?、鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之。然後隨?誨、取丁巳年冬十月甲子、遷于伊勢國渡遇宮。是時倭大?、著穗積臣遠祖大水口宿禰、而誨之曰、太初之時期曰、天照大?悉治天原。皇御孫尊、專治葦原中國之八十魂?。我親治大地官者。言已訖焉。然先皇御間城天皇、雖祭祀?祇、微細未探其源根、以粗留於枝葉。故其天皇短命也。是以、今汝御孫尊、悔先皇之不及而愼祭、則汝尊壽命延長、復天下太平矣。時天皇聞是言、則仰中臣連?探湯主、而卜之。誰人以令祭大倭大?。?渟名城稚?命食卜焉。因以命渟名城稚?命、定?地於穴磯邑、祠於大市長岡岬。然是渟名城稚?命、既身體悉痩弱、以不能祭。是以命大倭直祖長尾市宿禰、令祭矣。


1503管理人:2013/06/06(木) 23:30:04
Re: 『日本書紀』卷六 垂仁天皇
秦野さんへのお返事です。


> どうも、日本書記の原文が間違っていたな。
>
> 年代特定は連立方程式になりそうですな。230年だな。
>
> 活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇
>


下記の伊勢関連の記載はおもしろいですね。

近江、宇田、美濃、伊勢と移動していくわけですが、最終的に五十鈴川の上流の天岩戸神社とか、伊雑宮のある間あたりに斉宮をおいて、落ち着くわけです。

一方物部系穂積氏の一云には、外宮つまり渡会宮が出てくるわけですが、ここで崇神の寿命が短かった理由というのを述べていますね。祀り方を知らなかったためだと。次の垂仁にはその祀り方を教えています。天神・地祇の区別は、後代のものです。

それで、ここから、崇神の寿命というのが、この記載の以前からすでに存在していたことが判るんです。
垂仁の話は、崇神を元にした別系統の伝承が元になっていることは、以前お話したとおりです。

おそらく飛鳥・白鳳時代に、この辺をいじっていたはずですが、その際に崇神の寿命の記録だけが、帝記にあったんでしょう。崇神は一応、この時点では過去にいたことになっている。

もちろん、それが秦野さんのおっしゃるような230年の記録かどうかは、まだここからわ判りませんけど、そういう統治期間を記録したものが、伝わっていた可能性はあると感じてます。




1504秦野:2013/06/07(金) 07:04:46
Re: 『日本書紀』卷六 垂仁天皇
管理人さんへのお返事です。

少し、進みましたな。

御間城入彦五十瓊殖天皇 崇?天皇

元年春正月壬午朔甲午 216年

元年春正月壬午朔甲午、皇太子?天皇位。尊皇后曰皇太后。二月辛亥朔丙寅、立御間城?爲皇后。先是、后生活目入彦五十狹茅天皇・彦五十狹茅命・國方?命・千々衝倭?命・倭彦命・五十日鶴彦命。又妃紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛、一云、大海宿禰女八坂振天某邊。生豐城入彦命・豐鍬入?命。次妃尾張大海媛、生八坂入彦命・淳名城入?命・十市瓊入?命。是年也、太?甲申。

>
> 下記の伊勢関連の記載はおもしろいですね。
>
> 近江、宇田、美濃、伊勢と移動していくわけですが、最終的に五十鈴川の上流の天岩戸神社とか、伊雑宮のある間あたりに斉宮をおいて、落ち着くわけです。
>
> 一方物部系穂積氏の一云には、外宮つまり渡会宮が出てくるわけですが、ここで崇神の寿命が短かった理由というのを述べていますね。祀り方を知らなかったためだと。次の垂仁にはその祀り方を教えています。天神・地祇の区別は、後代のものです。
>
> それで、ここから、崇神の寿命というのが、この記載の以前からすでに存在していたことが判るんです。
> 垂仁の話は、崇神を元にした別系統の伝承が元になっていることは、以前お話したとおりです。
>
> おそらく飛鳥・白鳳時代に、この辺をいじっていたはずですが、その際に崇神の寿命の記録だけが、帝記にあったんでしょう。崇神は一応、この時点では過去にいたことになっている。
>
> もちろん、それが秦野さんのおっしゃるような230年の記録かどうかは、まだここからわ判りませんけど、そういう統治期間を記録したものが、伝わっていた可能性はあると感じてます。
>
>
>

1505管理人:2013/06/07(金) 23:16:47
Re: 『日本書紀』卷六 垂仁天皇
秦野さんへのお返事です。

> 少し、進みましたな。
>
> 御間城入彦五十瓊殖天皇 崇神天皇
>
> 元年春正月壬午朔甲午 216年
>
> 元年春正月壬午朔甲午、皇太子?天皇位。尊皇后曰皇太后。二月辛亥朔丙寅、立御間城?爲皇后。先是、后生活目入彦五十狹茅天皇・彦五十狹茅命・國方?命・千々衝倭?命・倭彦命・五十日鶴彦命。又妃紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛、一云、大海宿禰女八坂振天某邊。生豐城入彦命・豐鍬入?命。次妃尾張大海媛、生八坂入彦命・淳名城入?命・十市瓊入?命。是年也、太?甲申。
>


以前お話して会報にも掲載しましたが、崇神天皇の在位はそこから1干支分の60年を引いた8年だったはずです。短命ですね。だから、先の垂仁の別系統記載にあるように崇神は寿命が短かったと記されているわけです。下記の部分です。

「言已訖焉。然先皇御間城天皇、雖祭祀神祇、微細未探其源根、以粗留於枝葉。故其天皇短命也。是以、今汝御孫尊、悔先皇之不及而愼祭、則汝尊壽命延長、」


度会外宮の祭祀を創始したであろう物部・穂積・尾張といったあたりの別系統文書が、上記にも見える「一云」なのでしょう。

それ以前の記録には、御間城入彦五十瓊殖天皇つまり崇神の在位期間は8年と記載されていたはずです。だから短命だと言うんですね。それを飛鳥・白鳳時代に60年分のばして68年の在位にしたのでした。これは間接的に仲哀の在位期間と神功皇后との関係に対応し、つまり崇神と台与の関係になることは、以前お話したとおりです。

それで問題は、崇神の即位時期ですが、秦野さんご指摘の218年ではなく、258年の没年干支と考えると、卑弥呼死後2年後にあたる250年前後になるはずです。その後、台与の摂政を8年して、何らかの経緯で失脚したか死亡する。

崇神の直前の2年間は、つまり開化のことで在位は1年となります。つまり卑弥呼後の短命の男王のことです。

この記録があるので、7世紀代の編者は崇神は「短命」だし、その息子の垂仁という在位99年のこれまた架空の天皇を崇神の別系統伝承をもとに造りだす際に、いろいろ混ぜ込んだわけですね。


その後、垂仁死後に出てくる景行天皇というのは、310年ごろの南方海人族系の佐紀楯列古墳群を残した首長で、350年ごろになって、半島系のタケウチスクネ系の集団が西日本から徐々に畿内へと進出していきます。

だから崇神318年没説というのも、崇神陵とか業績とかと、海人族系の接点が見えてこないといけないのですが、ちょっと問題があります。

ただ、確かに伊勢というのは先日のとおり海人族系の港湾に沿った場所ではあります。伊勢の先の伝承をみると、宇陀、美濃、近江といった内陸経由で尾張に向かっており、物部・尾張氏系の伝承だとすると、ヤマトタケルと大彦の上記南方海人系の首長伝承に重なってくるようにも見えますね。

崇神没を258とみるか、318とみるか、台与との関わりを考えるなら前者にしなければならないし、伊勢との関係を考え始めると後者も考慮してみたい・・・、頭のひねりどころですね。


1506秦野:2013/06/08(土) 10:47:11
Re: 『日本書紀』卷六 垂仁天皇
管理人さんへのお返事です。

廿五年春二月丁巳朔甲子、230年は間違いでした。243年ですな。

活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇

廿五年春二月丁巳朔甲子、詔阿倍臣遠祖武渟川別・和珥臣遠祖彦國葺・中臣連遠祖大鹿嶋・物部連遠祖十千根・大伴連遠?武日、五大夫曰、我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇、惟叡作聖。欽明聰達。深執謙損、志懷沖退。綢繆機衡、禮祭?祇。剋己勤躬、日愼一日。是以人民富足、天下太平也。今當朕世、祭祀?祇、豈得有怠乎。三月丁亥朔丙申、離天照大?於豐耜入?命、託于倭?命。爰倭?命求鎭坐大?之處、而詣菟田筱幡。筱、此云佐佐。更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。時天照大?誨倭?命曰、是?風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也。傍國可怜國也。欲居是國。故隨大?教。其祠立於伊勢國。因興齋宮于五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大?始自天降之處也。

一云、天皇以倭?命爲御杖、貢奉於天照大?。是以倭?命以天照大?、鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之。然後隨?誨、取丁巳年冬十月甲子、遷于伊勢國渡遇宮。是時倭大?、著穗積臣遠祖大水口宿禰、而誨之曰、太初之時期曰、天照大?悉治天原。皇御孫尊、專治葦原中國之八十魂?。我親治大地官者。言已訖焉。然先皇御間城天皇、雖祭祀?祇、微細未探其源根、以粗留於枝葉。故其天皇短命也。是以、今汝御孫尊、悔先皇之不及而愼祭、則汝尊壽命延長、復天下太平矣。時天皇聞是言、則仰中臣連?探湯主、而卜之。誰人以令祭大倭大?。?渟名城稚?命食卜焉。因以命渟名城稚?命、定?地於穴磯邑、祠於大市長岡岬。然是渟名城稚?命、既身體悉痩弱、以不能祭。是以命大倭直祖長尾市宿禰、令祭矣。


崇神没を258とみるか、318とみるか、


六十五年秋七月、任那國遣蘇那曷叱知、令朝貢也。任那者去筑紫國、二千餘里。北阻海以在鶏林之西南。


天皇踐祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩。 284年

> その後、垂仁死後に出てくる景行天皇というのは、310年ごろの南方海人族系の佐紀楯列古墳群を残した首長で、350年ごろになって、半島系のタケウチスクネ系の集団が西日本から徐々に畿内へと進出していきます。
>
> だから崇神318年没説というのも、崇神陵とか業績とかと、海人族系の接点が見えてこないといけないのですが、ちょっと問題があります。
>
> ただ、確かに伊勢というのは先日のとおり海人族系の港湾に沿った場所ではあります。伊勢の先の伝承をみると、宇陀、美濃、近江といった内陸経由で尾張に向かっており、物部・尾張氏系の伝承だとすると、ヤマトタケルと大彦の上記南方海人系の首長伝承に重なってくるようにも見えますね。
>
> 崇神没を258とみるか、318とみるか、台与との関わりを考えるなら前者にしなければならないし、伊勢との関係を考え始めると後者も考慮してみたい・・・、頭のひねりどころですね。
>

1507秦野:2013/06/09(日) 21:38:56
Re: 『日本書紀』卷六 垂仁天皇
管理人さんへのお返事です。

日本書記の年代から?武天皇東征、是?爲天皇元年を特定。

?日本磐余彦天皇 ?武天皇

其年冬十月丁巳朔辛酉(BC 130年)、天皇親帥諸皇子舟師東征。至速吸之門。時有一漁人、乘艇而至。天皇招之、因問曰、汝誰也。對曰、臣是國?。名曰珍彦。釣魚於曲浦。聞天?子來、故?奉迎。又問之曰、汝能爲我導耶。對曰、導之矣。天皇勅授漁人椎?末、令執而牽納於皇舟、以爲海導者。乃特賜名、爲椎根津彦。椎、此云辭?。此?倭直部始?也。行至筑紫國菟狹。菟狹者地名也。此云宇佐。時有菟狹國造?。號曰菟狹津彦・菟狹津媛。乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉。一柱騰宮、此云阿斯?苔徒鞅餓離能宮。是時、勅以菟狹津媛、賜妻之於侍臣天種子命。天種子命、是中臣氏之遠?也。

十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫國岡水門。

十有二月丙辰朔壬午、至安藝國、居于埃宮。

乙卯年春三月甲寅朔己未(BC 125年)、徙入吉備國。起行?宮以居之。是曰高嶋宮。積三年間、脩舟檝、蓄兵食、將欲以一舉而平天下也。

戊午年春二月丁酉朔丁未(BC 119年)、皇師遂東。舳艫相接。方到難波之碕、會有奔潮太急。因以、名爲浪速國。亦曰浪花。今謂難波訛也。訛、此云與許奈磨盧。

http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_03.html




1508管理人:2013/06/10(月) 02:53:51
Re: 『日本書紀』卷六 垂仁天皇
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001552M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001552_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001552_3M.png

秦野さんへのお返事です。

> 日本書記の年代から神武天皇東征、是?爲天皇元年を特定。
>
> 神日本磐余彦天皇 神武天皇
>
> 其年冬十月丁巳朔辛酉(BC 130年)、天皇親帥諸皇子舟師東征。至速吸之門。時有一漁人、乘艇而至。天皇招之、因問曰、汝誰也。對曰、臣是國神。名曰珍彦。釣魚於曲浦。聞天神子來、故?奉迎。又問之曰、汝能爲我導耶。對曰、導之矣。天皇勅授漁人椎?末、令執而牽納於皇舟、以爲海導者。乃特賜名、爲椎根津彦。椎、此云辭?。此?倭直部始?也。行至筑紫國菟狹。菟狹者地名也。此云宇佐。時有菟狹國造?。號曰菟狹津彦・菟狹津媛。乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉。一柱騰宮、此云阿斯?苔徒鞅餓離能宮。是時、勅以菟狹津媛、賜妻之於侍臣天種子命。天種子命、是中臣氏之遠?也。
>


ちょっと土日外出していました。

神武記載は、おそらく崇神より新しい時代に付加されたものと考えてよいかと思います。

興味深いのは「宇佐」のことを「菟狹」だったと記している点ですね。
同様に、「難波」が「浪速・浪花」だったとも記してます。

6〜7世紀に記されたであろう文献記録を見て、記紀撰者がその古い語源を確認記載しているんです。

ここで漢字の用法が替わっているのですが、たとえば「宇」は新しい用法で、元は「菟」とかを使っていたわけです。
なぜ変化させたのか?が課題ですね。

古いほうは、ちゃんとその地名に語源を現す「意味」が記されている点に注目です。新しくなるにつれ、意味が失われて行く。

「菟」は「(ズ・ツ)、ト」で宇佐の「ウ」じゃないようです。「狹」も「ギョウ・コウ」

これは訓読みとなるでしょう。つまり「ウサギ」の最初の音「う」+「せまい」の最初の音「せ」で「うさ」

元の意味はうさぎとせまいという組み合わせの意義で地名をつけていた可能性があります。

宇佐周辺は、先日の海没地図の件でお話したとおり当時は海岸の入り江となっていて、宇佐神宮の位置は下図のようにその奥地でした。

因幡の白兎の物語も、同様に海没地図では、完全に出雲大社のある側が島となっていて、下図のように大社に向かう小さな島づたいに海をわたらないと出雲大社へは迎えなかったはずです。そこで白兔がワニを騙して対岸へ渡る話とも重なってくるのですが、これは、また高句麗や扶余始祖伝承の並んだスッポンの背中に乗って対岸へ渡る王の話とも関わっているようにもみえます。


同様に「難波」は「浪速」と同義で、波が速いので、船にとっても接岸が難しい港?みたいな意味にもとれます。

ここも、先日の海没地図では、完全な島地に難波宮などの京域を建てていましたね。
やや沖合いであったので、波が現在より速かったのかもしれません。「浪花」の「花」の意味も、波の中に浮かぶ花のような意味だったのでしょうか。

あと、

「造一柱騰宮而奉饗 焉. 【一柱騰宮. 此云阿斯. 苔徒鞅餓離能宮】(あしひとつあがりのみや)

とある件ですが、宇佐の河上に宮を造っているのは、先の伊勢の五十鈴川の河上に斎宮を造っているの同類です。

当時の神殿は、少し高地である必要があったのでしょう。それで上記の宮名を分析すると、

鞅は「オウ・ヨウ」で、「むながい」の意。

徒は「ズ・ト」で「いたずら・あだ・かち」の意。


苔は「ダイ・タイ」で「こけ」の意。

餓は「ガ」で「飢える」の意。


そうすると、呉音でいくと、「アシダイ、ズオウガリ」の宮。

漢音でいくと「アシタイ、トヨウガリ」の宮


別名の「騰」(宮)が「ドウ・トウ」ですから、これは「アガリ」の宮もしくは「ドウ・トウ」の宮です。


だから、おそらく漢音のほうをとって、「トヨウガリ」と「トウガリ」がひとつの読みだったはずです。

それで、モガリの宮という用法が記紀でしばしば出てくるのですが。「モガリ」の「ガリ」が、仮宮、の意味があった可能性を感じます。王の死体を置いておくような仮宮ですね。喪ガリのミヤ

また「アシタイ」も、「ヤマタイ」といった遊牧民・扶余系のアイデンティティを示す語「タイ」と関係するとするばらば、宇佐方面のたとえば赤塚古墳とか風土記の丘の弥生遺跡に関わるような、王都を意味する地名と関係していた可能性も出てきます。

「台与」で「トヨ・タイヨ」と読ませる件tも関係するでしょうか。そうすると女王「台与」の「仮宮」で、「トヨガリ」の宮という感じにもなりそうですね。

あと、「阿斯」なのですが、魏志にでてくる伽耶系諸国の首長(部族)名に「■斯」がつく件は先日お話したとおりで、また楽浪・秦韓系集団は自分ことを「阿」と呼称して記載があるので、「阿斯」にも、あるいは半島系自己集団の呼称と関係していた可能性も感じます。「阿斯台国」

倭人伝でいえば、「都支国」つまり「竹斯国」(福岡方面)と「対蘇国」(大分と阿蘇周辺)の近隣地域となるので、「阿斯」の「台・対」国。「阿蘇」もこの「阿斯」と「蘇塗」地域の近隣地域と理解すればわかりやすいです。

同様に「邪馬台国」も倭人伝の「邪馬国」(八女)と上記「台」地域との近隣地域から発祥して、後に東遷していったと考えれば、元々この辺に語源の由来がっただろうことも予想できます。その辺は先日論議して、会報4号に書いたとおりですね。

だらら「大和・ヤマトウ」も上記の論理で推測すれば。「邪馬」「台・対(タイ)」=「騰(トウ)」で理解できるかもしれません。



1509秦野:2013/06/10(月) 08:15:03
Re: 『日本書紀』卷六 垂仁天皇
管理人さんへのお返事です。

菟狹者地名也。此云宇佐。は日本書記の補足説明ですな。
古名は「菟狹」で、今は「宇佐」

http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_03.html

済州島には「ウサギと亀」の伝承がありそうですな。

[韓国―済州旅行] 1泊2日 グルメ店「ウサギと亀」!

http://blogs.yahoo.co.jp/jejuryoko/225650.html

> 因幡の白兎の物語も、同様に海没地図では、完全に出雲大社のある側が島となっていて、下図のように大社に向かう小さな島づたいに海をわたらないと出雲大社へは迎えなかったはずです。そこで白兔がワニを騙して対岸へ渡る話とも重なってくるのですが、これは、また高句麗や扶余始祖伝承の並んだスッポンの背中に乗って対岸へ渡る王の話とも関わっているようにもみえます。
>


1510茨の紀氏:2013/06/10(月) 09:38:24
Re: 『日本書紀』卷六 垂仁天皇
管理人さんへのお返事です。

>興味深いのは「宇佐」のことを「菟狹」だったと記している点ですね。
菟獣
狭とは (キョウとは) http://dic.nicovideo.jp/a/
せまい、せばめる、心がせまい、(獣と通じて)けもの、という意味がある。
〔説文〕には「?なり」とある

辟(闢)とは。意味や日本語訳。[動]開拓する,開始する新辟了一?菜地新たに 野菜畑を作った.?辟切り開く.( http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/cj/19654/m0u/
切り開く
?. (開). kāi
kāi
ギリシア文字のΧ(キー/ヒ/カイ)?
ヘブル語の「ヴェ」がギリシャ語に訳されると「カイ」καιが使われます。イエスの語った ことばの一つの例として、ルカの福音書16章18節前半の箇所を取り上げると、そこには 「だれでも妻を離別して(カイ)他の女と結婚する者は、姦淫を犯す者で ... http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?目的を表わす接続詞「ヴェ」(そして)」
「カイ」を、ヘブル語の目的を表わす「ヴェ」として解釈
切り開く
人生を切り開く知恵 みなさんは、なぜユダヤ人が非常に優秀な人々である ...
彼らは世界中で迫害されたり、いろいろな困難や障害にあったりしてきたにもかかわらず 、自分たちの道を切り開いて独創的な発明 ... 彼らは聖書を通して、決してあきらめず、 どんな困難な絶体絶命の時でも神に信頼し、最善がなされる希望を持っているのです。 http://www17.ocn.ne.jp/~izhopech/sub6-250.htm

興国 皇国
復興
シオニズム(ヘブライ語: ???????, Zionism)は、イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建 しよう、あるいはユダヤ教、ユダヤ・イディッシュ・イスラエル文化の復興運動(ルネサンス )を興そうとするユダヤ人の近代的運動 http://ja.wikipedia.org/wiki/シオニズム

↓ こちらも、ご覧ください。
菟 寄生植物「菟糸」(ねなしかずら) http://8906.teacup.com/toraijin/bbs




1511管理人:2013/06/10(月) 23:03:53
Re: 『日本書紀』卷六 垂仁天皇
茨の紀氏さんへのお返事です。


> >興味深いのは「宇佐」のことを「菟狹」だったと記している点ですね。
> 菟獣
> 狭とは (キョウとは) http://dic.nicovideo.jp/a/
> せまい、せばめる、心がせまい、(獣と通じて)けもの、という意味がある。
> 〔説文〕には「?なり」とある
>
> 辟(闢)とは。意味や日本語訳。[動]開拓する,開始する新辟了一?菜地新たに 野菜畑を作った.?辟切り開く.( http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/cj/19654/m0u/
> 切り開く
> ?. (開). kāi
> kāi


なるほど、「狭」に開拓の意味があるとすると面白いですね。

屯倉の名前にもたとえば、「牟狭(身狭)」という屯倉があり、渡来系の開拓と深くかかわっていきます。

「タイ」音と「カイ」音が同義かどうかは、なんとも言えませんが。


1512秦野北斗:2013/06/11(火) 17:07:53
Re: 『日本書紀』卷六 垂仁天皇
管理人さんへのお返事です。

?日本磐余彦天皇 ?武天皇
行至筑紫國菟狹。菟狹者地名也。を訳すと

筑紫國の菟狹に至る。菟狹者は地名なり。
内容は神武東征で筑紫海(有明海)の菟狹(済州島)へ道先案内する。
道先案内人が菟狹者で菟狹は地名と記している。

菟狹は?鵜崎で現在の済州島
済州島:竹島、筑紫の宇佐、?淤岐嶋(おきつどり)で表記される。

?.うざき:韓国語→「トッキ」

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1237394722

菟狹は「うさぎ」の狭い(津)ですな。これだけでは理解できないだろうな。
「うさぎ」=うざき=鵜崎(崎:岬:港:津:「トッキ」)



http://ja.wikipedia.org/wiki/


ウガヤフキアエズ(日子波限建鵜草葺不合命・彦波瀲武盧茲草葺不合尊)
日子波限建鵜草葺不合命の「鵜」は「みさご」だろうな。どちらも、魚を取るんですな。


彦火火出見尊(山幸彦)と、海神の娘である豊玉姫の子。『古事記』では天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、『日本書紀』では彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と表記。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ウガヤフキアエズ

漁をする鳥は「鵜」と「みさご」

鸕鶿

http://www.google.co.jp/search?q=鸕鶿&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP458JP458&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=rce2Ud6wBo2mkgWI-oGoCg&ved=0CDQQsAQ&biw=980&bih=815

みさご 【×鶚/雎=鳩】

タカ科の鳥。全長約55センチ。上面は茶褐色で、頭と下面が白い。翼は細長く、短い冠羽をもつ。水辺にすみ、飛びながら魚を探し、水中に突入して足でつかみ取る。極地を除き世界中に分布。雎鳩(しょきゅう)。州鳥(すどり)。うおたか。オスプレイ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ミサゴ

http://www.google.co.jp/search?q=ミサゴ&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP458JP458&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=xfC2UZeNFYaqkAWx_oDQDg&ved=0CDcQsAQ&biw=980&bih=815

現今叫做魚鷹的鳥類有兩種,一種是鸕鶿(鵜形目、鸕鶿科,英名cormorants,學名Phalacrocorax carbo),另一種是鶚(鷲鷹目、鶚科,英名osprey,學名Pandion haliaetus)。鸕鶿身長約80公分,體重約1.7-2.7公斤,在中國南方,漁民常養來捕魚。我到桂林(漓江)、鳳凰(沱江)旅遊時,曾近距離觀察過這種大?鳥。

http://www1.ihns.ac.cn/readers/2004/zhangzhijie5.htm

?因幡の白兎
菟は「私は隠岐の島からこの地に渡ろうと思ったが、渡る手段がありませんでした。そこで、ワニザメ(和邇)を欺いて

http://ja.wikipedia.org/wiki/因幡の白兎

因幡:「稻羽之素菟」では「淤岐嶋」と書き、「淤岐」の文字は「淤岐都登理」(おきつどり)




椎、此云辭?。此?倭直部始?也。行至筑紫國菟狹。菟狹者地名也。此云宇佐。

http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_03.html

発音菟
音読み
呉音 : ズ(ヅ)、ツ
漢音 : ト
訓読み
うさぎ

発音狹
音読み
呉音 : ギョウ(ゲフ)
漢音 : コウ(カフ)
慣用音 : キョウ(ケフ)
訓読み
せま-い、せば-める、せば-まる、さ

>
>
> なるほど、「狭」に開拓の意味があるとすると面白いですね。
>
> 屯倉の名前にもたとえば、「牟狭(身狭)」という屯倉があり、渡来系の開拓と深くかかわっていきます。
>
> 「タイ」音と「カイ」音が同義かどうかは、なんとも言えませんが。
>

1513管理人:2013/06/12(水) 01:56:17
Re: 『日本書紀』卷六 垂仁天皇
秦野北斗さんへのお返事です。

> 神日本磐余彦天皇 神武天皇
> 行至筑紫國菟狹。菟狹者地名也。を訳すと
>
> 筑紫國の菟狹に至る。菟狹者は地名なり。
> 内容は神武東征で筑紫海(有明海)の菟狹(済州島)へ道先案内する。
> 道先案内人が菟狹者で菟狹は地名と記している。
>
> 菟狹は?鵜崎で現在の済州島
> 済州島:竹島、筑紫の宇佐、?淤岐嶋(おきつどり)で表記される。
>
> ?.うざき:韓国語→「トッキ」
>
> http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1237394722
>
> 菟狹は「うさぎ」の狭い(津)ですな。これだけでは理解できないだろうな。
> 「うさぎ」=うざき=鵜崎(崎:岬:港:津:「トッキ」)
>
> 岬
>


なるほど、うさぎとの関わりは興味深いですね。

先の条文の菟狹津姫に関連して、中臣氏の祖先との婚姻関係が記されているわけですが、下記の中臣系譜( http://red.ap.teacup.com/oshika18/11.html


● 天児屋根命の系図

         ┌─高皇産霊尊
         │              (兵主神:ツワモノヌシ)
  天御中主尊──┼─神皇産霊尊        (津波物主尊)
         │              (心瓊産霊尊:ココトムスビ)
         └─津速産霊尊──市千産霊尊──興台産霊尊──┐
                                │
 ┌──────────────────────────────┘
 │
 │(幼名:春日麿)
 └─天児屋根尊
    │   (諱 札兄彦)
    ├────天押雲命───天種子命  (諱 宇佐麿)
    │            │   ┌─宇佐津臣命(三笠臣)鏡の臣
   一人姫(姫神)       ├───┤
                 │   │
                宇佐津姫 └─大御食津命



それで、興味深いのは、「宇佐津臣命」の兄弟?に「大御食津命」が見えることです。これはその別系譜に見えるような、月読、豊受といった保食神と関わってきます。


「トヨウケ」の「トヨ」と、先の条文の【一柱騰宮. 此云阿斯. 苔徒鞅餓離能宮】アシタイ、トヨウガリ」の宮の「トヨ」とが関係してきそうです。間接的には先のとおり伊勢の斎宮とも関係する。

それで、興味深いのが、系譜祖「アマノコヤネ」の父「興台産霊尊」の存在です。
ここにも「台(タイ)」が出てきます。


会報で論じたように、秦氏との関わる系譜なのですが、中臣・秦氏系の北部九州・大陸系伝承と、これらの系譜や伝承とが関係しているようにも見えます。

確かに済州島や半島系のいわゆる白兎神話のモチーフとなる題材についても、さらに追求していく必要があるでしょう。ある時代に半島へ流れ込んでいた伝承が、渡来人の渡来とともに、日本へともたらされていった可能性もあります。そして白鳳時代の中臣氏の進出で記紀に記されて行くわけですね。

1514秦野北斗:2013/06/13(木) 19:13:20
中臣氏
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001558M.jpg

http://www.harimaya.com/o_kamon1/hanasi/kamon_h.html



1515管理人:2013/06/13(木) 23:17:09
Re: 中臣氏
秦野北斗さんへのお返事です。

> 中臣氏の当時の家紋
> 三つ巴:勾玉が三個。
> http://www.harimaya.com/o_kamon1/hanasi/kamon_h.html
>
>
> 六十五年秋七月、任那國遣蘇那曷叱知、令朝貢也。
> 任那者去筑紫國、二千餘里。北阻海以在鶏林之西南。281年


なるほど、巴というのは「鞆絵」なんですね。鞆を象徴する集団といえば、確かにおっしゃるとおり新漢人です。九州各地に彼らの残した鞆の絵を刻んだ横穴墓が残ってます。大伴、中臣もそれと関係しますね。

崇神65年はやはり、60年1干支差し引いて考えるべきですね。60を足したのは年代を合わせるためでもあるのですが、蘇那曷叱知は、つまり先日お話したとおり530〜40年代の蘇我氏のことです。確かにそのころに上記の新漢人等も渡来してきます。

難しいのですが、崇神に60年、次の垂仁の99年加えたときの帝記編纂の状態を再現する必要があります。
ある時期に一気に各天皇の在位に1干支分や99年分などを加えて、年代を合わせたのか?あるいは、段階的に加えて伸ばしていったのか?この辺も課題でしょう。

?まず258年もしくは318年の崇神没年干支を記載した記録があったわけです。

?その後に、垂仁(99年)、景行(60年)、成務(60年)といったその前後の時代を象徴した天皇が挟まれていきます。

?その前後で、1干支、60年分を挿入しているのです。

それで、?が?と同時になされたのか?あるいは後からなのか?ここも見極める必要があります。

ただご指摘のように、崇神65年に、540年代の蘇我・新漢人の渡来記載をもってきたとすると、崇神の年代をある時期には、そこから65年引いた475年前後にしていた時期があり、そこからさらに後になって250年前後まで、伸ばすのに、まず垂仁の99年を入れて、375年、次に景行・成務60年を2回入れて、255年へと移行させた可能性もあるでしょう。

そうするとやはり崇神258年没説が妥当になってくるかもしれません。

崇神と雄略あたりの伝承との類似性が見いだせれば、上記の仮説を証明できるかもしれません。

ううん、難しいなー、ミマキイリヒコは、任那(ミマナ)との関係が指摘されてますよね。
5末〜6前の任那攻防の時代です。

ただ、開化が1年で、ヒミコ以後の男王とみなしうることを考慮すれば、258年没の記録はもともとあった可能性はある。

垂仁つまり活目入彦の子に円目王がいて、それが雄略時代の眉輪王との関係も指摘されてます。

雄略前後の伝承が、崇神・垂仁あたりに被る可能性もあるでしょう。

先の伊勢関連はその可能性があると思うんですね。

ただ、一方で卑弥呼・台与の年代にもあわせようとしている。

崇神の8年在位は台与擁立までの期間で。仲哀8年と神功皇后伝承と相似形で、375年まで。

どう整理すべきでしょうね。


1516秦野北斗:2013/06/13(木) 23:41:34
Re: 中臣氏
管理人さんへのお返事です。

崇神258年没説どこから出た説ですかな。日本書記の年代と合わないな。

日本書記の年代を読み解くと崇?天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇。

御間城入彦五十瓊殖天皇 崇?天皇
元年春正月壬午朔甲午 、皇太子即天皇位。216年
天皇踐祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩。 284年

活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇
元年春正月丁丑朔戊寅、皇太子即天皇位。 218年

大足彦忍代別天皇 景行天皇
元年秋七月己巳朔己卯、太子即天皇位。 236年

卑弥呼(ひみこ、生年不明 - 248年頃)
http://ja.wikipedia.org/wiki/卑弥呼

稚足彦天皇 成務天皇
元年春正月甲申朔戊子、皇太子即位。250年

足仲彦天皇 仲哀天皇
元年春正月庚寅朔庚子、太子即天皇位。262年

譽田天皇 應?天皇
元年春正月丁亥朔、皇太子即位。272年

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
神功皇后の三韓征伐  271年

http://ja.wikipedia.org/wiki/好太王碑

> そうするとやはり崇神258年没説が妥当になってくるかもしれません。
>
> 崇神と雄略あたりの伝承との類似性が見いだせれば、上記の仮説を証明できるかもしれません。
>
> ううん、難しいなー、ミマキイリヒコは、任那(ミマナ)との関係が指摘されてますよね。
> 5末〜6前の任那攻防の時代です。
>
> ただ、開化が1年で、ヒミコ以後の男王とみなしうることを考慮すれば、258年没の記録はもともとあった可能性はある。
>
> 垂仁つまり活目入彦の子に円目王がいて、それが雄略時代の眉輪王との関係も指摘されてます。
>
> 雄略前後の伝承が、崇神・垂仁あたりに被る可能性もあるでしょう。
>
> 先の伊勢関連はその可能性があると思うんですね。
>
> ただ、一方で卑弥呼・台与の年代にもあわせようとしている。
>
> 崇神の8年在位は台与擁立までの期間で。仲哀8年と神功皇后伝承と相似形で、375年まで。
>
> どう整理すべきでしょうね。
>

1517管理人:2013/06/14(金) 23:20:57
Re: 中臣氏
秦野北斗さんへのお返事です。

> 御間城入彦五十瓊殖天皇 崇神天皇
> 元年春正月壬午朔甲午 、皇太子即天皇位。
> 天皇踐祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩。
>
> 活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇
> 元年春正月丁丑朔戊寅、皇太子即天皇位。
>
> 大足彦忍代別天皇 景行天皇
> 元年秋七月己巳朔己卯、太子即天皇位。
>
> 稚足彦天皇 成務天皇
> 元年春正月甲申朔戊子、皇太子即位。
>
> 足仲彦天皇 仲哀天皇
> 元年春正月庚寅朔庚子、太子即天皇位。
>
> 譽田天皇 應神天皇
> 元年春正月丁亥朔、皇太子即位。
>


上記の記載は比較していくと、いろいろ判ってくることがありますね。
「太子即天皇位。」と「皇太子即位。」という2種の用法があります。

前者に仲哀天皇が入ることを考慮すると、どちらかが後から挿入された可能性があります。

景行つまり大足彦=オオヒコは、なぜか秋7月に即位します。

後者にあたる成務と応神は、半島系で共通します。

同様に前者の景行と仲哀も、同系のいわば海人系の血統です。


「太子即天皇位。」という記載は、海人系氏族の文献記録による可能性があります。

「皇太子即位。」は、同様に半島・大陸系。


ここで「即位」という用語をつかってますね。元々は「即ち〜の位につく」。
おそらく、同じ中国系漢文を引用した文献でありながら、その扱い方がちがうんです。
倭製~文というそれでしょうか・・。




御間城入彦五十瓊殖
と、
活目入彦五十狹茅天皇
は、
同じ天皇についての別系統の伝承であることは以前指摘したとおりですが、「瓊殖(イニエ)」と「狹茅(サチ)」とが同義であった時代の名称だといえるでしょう。ニエとサチは、後代の儀礼で重要な意味をもってきます。

贄というのは、捧げ物なのですが、魚や鳥のような動物ですね。

幸は「山幸」で、山野からの野菜などの収穫かもしれません。

「五十」は、イソで、たくさんあるという意味で、これらの天皇は、いわば「海幸」「山幸」といった対比を示している可能性があるわけです。

崇神はうまく祭祀を執り行われなかったので、早死にしたと記載されていましたね。
垂仁は、祭祀の仕方を理解していたという設定です。

海幸と山幸の話で、後者は前者に勝つことになります。

部分的に、内宮と外宮と関係するかもしれません。



1518秦野北斗:2013/06/15(土) 09:58:40
Re: 中臣氏
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001562M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001562_3M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/五十鈴川



1519管理人:2013/06/15(土) 23:21:27
Re: 中臣氏
秦野北斗さんへのお返事です。


> 御間城入彦五十瓊殖天皇 崇神天皇
> 元年春正月壬午朔甲午 、皇太子即天皇位。
> 天皇踐祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩。「時年百廿?」。
>
> 活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇
> 元年春正月丁丑朔戊寅、皇太子即天皇位。
> 九十年春二月庚子朔、天皇命田道間守、遣常世國、令求非時香菓。
> 香菓、此云箇倶能未。今謂橘是也。
> 九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮。「時年百卌?」。
> 冬十二月癸卯朔壬子、葬於菅原伏見陵。
>


そうですね、とくに「天皇崩於纏向宮」が重要かもしれません。

纏向に宮があったことを記しているんですね。
元の記録を再現していくと、〜即位、〜宮、崩。歳。〜陵。

これだけではなかったと感じます。

後からいろいろ後代の伝承が加えられて行く。


崇神と垂仁は、おそらく同一人物で、伝承系統が違うだけだろうと感じますが、崇神は三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)、垂仁が纏向や師木玉垣宮宮に移動するのですが、後に菅原伏見陵という、後代の海人系景行天皇の拠点へと移動していくのが気がかりです。4世紀前半の記録が影響しています。

マキムクの宮伝承は、もともと古くからあった可能性がありそうですね。

1520秦野北斗:2013/06/16(日) 08:54:50
Re: 中臣氏
管理人さんへのお返事です。

日本舞踊で、崇神天皇らしき者が確認できるな。
時期は神功皇后の三韓征伐後の筑紫、木花咲耶姫神社のようだな。

好太王碑の碑文
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
神功皇后の三韓征伐  271年
http://ja.wikipedia.org/wiki/好太王碑

譽田天皇 應?天皇
元年春正月丁亥朔、皇太子即位。272年

御間城入彦五十瓊殖天皇 崇?天皇
元年春正月壬午朔甲午 、皇太子即天皇位。216年
天皇踐祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩。 284年



>
> そうですね、とくに「天皇崩於纏向宮」が重要かもしれません。
>
> 纏向に宮があったことを記しているんですね。
> 元の記録を再現していくと、〜即位、〜宮、崩。歳。〜陵。
>
> これだけではなかったと感じます。
>
> 後からいろいろ後代の伝承が加えられて行く。
>
>
> 崇神と垂仁は、おそらく同一人物で、伝承系統が違うだけだろうと感じますが、崇神は三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)、垂仁が纏向や師木玉垣宮宮に移動するのですが、後に菅原伏見陵という、後代の海人系景行天皇の拠点へと移動していくのが気がかりです。4世紀前半の記録が影響しています。
>
> マキムクの宮伝承は、もともと古くからあった可能性がありそうですね。


1521秦野北斗:2013/06/17(月) 21:22:23
干支カレンダー 60進
そろそろ、日本書紀の年代を明確にしようかな。

干支カレンダー 60進

http://eclips.whoa.jp/kaiun/scalendar.cgi?x_sec=15873&amp;y_sec=15825&amp;pos=-2

うるう年を考慮すると400年周期になるな。

日本書紀  氣長足?尊 ?功皇后

三月壬申朔、皇后選吉日、入齋宮
夏四月壬寅朔甲辰、北到火前國松浦縣
秋九月庚午朔己卯、令諸國、
冬十月己亥朔辛丑、從和珥津發之。

上記は?功皇后の項目、干支カレンダーに当て嵌めれば、一致する年は271年当たりになるな。



1522管理人:2013/06/17(月) 23:21:04
Re: 中臣氏
秦野北斗さんへのお返事です。

> 好太王碑の碑文
> 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
> 神功皇后の三韓征伐  271年
> http://ja.wikipedia.org/wiki/好太王碑
>
> 譽田天皇 應神天皇
> 元年春正月丁亥朔、皇太子即位。272年
>
> 御間城入彦五十瓊殖天皇 崇神天皇
> 元年春正月壬午朔甲午 、皇太子即天皇位。216年
> 天皇踐祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩。 284年
>
>

休日で更新できませんでした。
ま、確かに碑文は399年なので、神功皇后の時代ではありますね。
「百殘」という、楽浪遺民の名称を記しているところが重要です。

秦韓人は自身を「阿」、楽浪人を「残阿」といいましたね。

高句麗人は、その「残阿」を「遼西から渡った百家の残り」の伝承記録によって、「百残」と読んだ。
後に百済となるわけです。

北の穢・扶余・高句麗と百済王族は親戚との見方があり、一方で楽浪人と伽耶方面へ移動した秦韓人も親族。

それらの伝承がすくなくとも、4世紀代まで半島に残存していたということでしょう。漢・秦氏の時代です。
楽浪遺民、その前の遼西遺民の伝承がまだ受け継がれている。




1523秦野北斗:2013/06/18(火) 00:34:23
Re: 中臣氏
管理人さんへのお返事です。

> ま、確かに碑文は399年なので、神功皇后の時代ではありますね。
> 「百殘」という、楽浪遺民の名称を記しているところが重要です。



そのうち、倭に関する記述としては、いわゆる辛卯年条(後述)の他に、以下がある。

399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/好太王碑


好太王碑の碑文は辛卯年ですな。辛卯年条(後述)の他に、・・・。

399年は碑文の辛卯年とは異なるな。399年代から倭の五王ですな。

http://ja.wikipedia.org/wiki/辛卯

好太王碑の碑文
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
神功皇后の三韓征伐  271年

http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1103

干支カレンダー 60進

http://eclips.whoa.jp/kaiun/scalendar.cgi?x_sec=15873&amp;y_sec=15825&amp;pos=-2

日本書紀  氣長足?尊 ?功皇后

三月壬申朔、皇后選吉日、入齋宮
夏四月壬寅朔甲辰、北到火前國松浦縣
秋九月庚午朔己卯、令諸國、
冬十月己亥朔辛丑、從和珥津發之。

?功皇后と干支カレンダー270年当たりが一致するな。

結論は399年は倭の五王ですな。


> 秦韓人は自身を「阿」、楽浪人を「残阿」といいましたね。
> それらの伝承がすくなくとも、4世紀代まで半島に残存していたということでしょう。漢・秦氏の時代です。

残阿または阿残は4世紀代ではないな。元封三年(前108年)の衛氏朝鮮にまで遡る。
何処かの学者の説を真に受けているな。

 衛氏朝鮮

『通典』邊防
 武帝元封三年、遣樓船將軍楊僕從齊浮渤海、兵五萬、左將軍荀彘出遼東、討之。朝鮮人相與殺 王右渠來降。遂以朝鮮為真蕃、臨屯、樂浪、玄菟四郡。今悉為東夷之地。昭帝時罷臨屯、真蕃以并樂浪、玄菟。
 元封三年(前108年)、楼船將軍の楊僕は斉から渤海を渡り、兵は五万。左將軍の荀彘は遼東から出撃し、右渠を討った。朝鮮人は右渠を殺して降伏してきた。朝鮮を真蕃、臨屯、楽浪、玄菟の四郡となした。今はすべて東夷の地。昭帝の時、臨屯と真蕃を廃して、楽浪と玄菟に併合した。

 武帝は衛氏朝鮮が何譙を殺害した罪を責め、水陸あわせて五万の大軍を派遣した。
 衛氏朝鮮の王族や大臣が漢朝に内応し、国王の右渠は殺害された。だが、地方豪族や民衆によって王倹城は、その後も一年以上も死守されたが、結局は漢軍に討滅された。
 衛氏朝鮮は滅び、漢朝は衛氏朝鮮の故地に諸郡を設置して、植民地経営に乗り出した。

『後漢書』高句麗伝

武帝滅朝鮮、以高句驪為縣、使屬玄菟、賜鼓吹伎人。其俗淫、皆絜淨自喜、暮夜輒男女群聚為倡樂。好祠鬼神、社稷、零星、以十月祭天大會、名曰「東盟」。其國東有大穴、號?神、亦以十月迎而祭之。其公會衣服皆錦繍、金銀以自飾。大加、主簿皆著幘、如冠幘而無後;其小加著折風、形如弁。

 武帝が朝鮮を滅ぼして、高句麗を県とし、玄菟郡に帰属させ、鼓吹の奏者を賜る。
 その風俗は淫、皆が清潔に洗浄することを自らの喜びとし、日が暮れて夜になると男女が集まって歌や音楽に興じる。鬼神、社稷、零星を好んで祀る。十月には大いに会して天を祭る、名を「東盟」という。その国の東に大きな洞窟があり、それを隧神と号し、また十月を迎えると、これを祭る。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-kokuri-2gokanjo.htm


> 高句麗人は、その「残阿」を「遼西から渡った百家の残り」の伝承記録によって、「百残」と読んだ。
> 後に百済となるわけです。

 『通典』百濟

 百濟、即後漢末夫餘王尉仇台之後、語魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」初以百家濟海、因號百濟。

 百済、すなわち後漢末の扶余王「尉仇台」の後裔、後の魏の時代に百済王が上表して言うには「臣は高麗の先、扶余より出る」。初め百家で済海(海を渡る)した故に百済と号す。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kudara-kanbun11-tsuden.htm

位置関係の地図あり参照。

http://homepage2.nifty.com/watcher/hatano2.htm

百済とは渡来系の匈奴が設立した国ですな。中国史籍を読めば理解できるが、読みとけて
いないな。現在の歴史は真実とはほぼ遠いのが現実。干支カレンダーが明確に年代を表わすが読みとけていないな。

>
> 北の穢・扶余・高句麗と百済王族は親戚との見方があり、一方で楽浪人と伽耶方面へ移動した秦韓人も親族。
>
> それらの伝承がすくなくとも、4世紀代まで半島に残存していたということでしょう。漢・秦氏の時代です。
> 楽浪遺民、その前の遼西遺民の伝承がまだ受け継がれている。
>
>
>


1524管理人:2013/06/18(火) 23:24:31
Re: 中臣氏
秦野北斗さんへのお返事です。

> そのうち、倭に関する記述としては、いわゆる辛卯年条(後述)の他に、以下がある。
>
> 399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/好太王碑
>
>
> 好太王碑の碑文は辛卯年ですな。辛卯年条(後述)の他に、・・・。
>
> 399年は碑文の辛卯年とは異なるな。399年代から倭の五王ですな。
>
>


たしかに399年ではなく391年ですね。399年ってどこから出てきた年代なのかな?


王の即位年について、好太王碑文では前述の通り辛卯年(391年)とするが、『三国史記』高句麗本紀や同書・年表、また『三国遺事[2]』王暦においては壬辰年(392年)の即位としており、1年の差異が見られる。これにより、治績年や死去年についても1年の差異があるが、本稿においては、干支表記年は好太王碑文によるものとし、干支を伴わない表記年は『三国史記』によるものとする。


治世[編集]

諡が示すとおりに高句麗は領土を拡大させたが、礼成江を境に百済に対しては即位初めから攻勢を取った。壬辰年(392年)には石硯城(黄海北道開豊郡北面青石洞)を含めた10城を奪取し、関彌城[3]を陥落させた。甲午年(394年)には水谷城(黄海北道新渓郡)を築き、乙未年(395年)には現在の礼成江まで反撃する百済軍を撃破して、百済との接境に7城を築いて防備を強化した。丙申年(396年)には漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。
しかし丁酉年(397年)、百済の阿莘王は王子腆支を人質として倭に送り通好する。(399年)庚子年(400年)高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する。このとき新羅の王都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると倭軍は退き、任那・加羅まで後退する。ところが新羅は奈勿尼師今の王子未斯欣を人質として倭に送って通交する。(402年)甲辰年(404年)になると帯方界で倭軍の攻撃を受けるが撃退した。丁未年(407年)には後燕に侵攻して6城を討ち鎧一万領を得た。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


400年前後の倭の動きは重要ですね。


倭の五王の時代としては、仁徳が413年に讃として即位して始まるわけですが、その前の応神が373年頃から即位していたとすると、応神の時代と言えそうですね。


ただ375年ごろ即位とすると、応神16年に、腆支王即位の話がでてくるので、390年即位となるとある時期の帝紀撰者は理解していた可能性があります。

腆支王(てんしおう、生年不詳 - 420年)は百済の第18代の王(在位:405年 - 420年)であり、先代の阿莘王の長男。『梁書』では余映(徐映)(余(徐)は百済王の姓)、『日本書紀』では直支王(ときおう)、『三国遺事』王暦では眞攴王と記される。諱・諡は『三国史記』には伝わらない。また、『翰苑』に引用される『宋書』『通典』では百済王夫餘腆と表記される。ただし汲古閣本『宋書』では余映とある。子に久尓辛王。


373年即位とすると、応神27年前後に新羅包囲の記載がないといけませんが、


《応神天皇二五年(甲寅二九四)》二十五年。百済直支王薨。即子久爾辛立為王。王年幼。大倭木満致執国政。与王母相婬。多行無礼。天皇聞而召之〈 百済記云。木満致者、是木羅斤資討新羅時。娶其国婦而所生也。以其父功、専於任那。来入我国、往還貴国。承制天朝、執我国政。権重当世。然天朝聞其暴召之。 〉
《応神天皇二八年(丁巳二九七)九月》二十八年秋九月。高麗王遣使朝貢。因以上表。其表曰。高麗王教日本国也。時太子菟道稚郎子読其表。怒之責高麗之使。以表状無礼。則破其表。


百済直支王薨となるんですよね。応神の在位年は41年で、413年に仁徳・讃が即位したと考えると、372〜3年の即位になるはず。

上記28年条に高句麗の記載があるのは、ちょっと注目してみてもよいかもしれません。

碑文でいうと400年前後の記載では、下記のとおりです。

399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。


このころ、高句麗王ではなく、百済王から使いが着てます。

25年の記載が新羅に間接的に関わるのですが、「大倭木満致執国政」という記載もきになりますね。
「大倭」は、「大和」という意味か、「大いに」はちょっとおかしい。木満致執は任那と倭の間を行き来していたでしょうから、伽耶や周防から北九州あたりに本拠があったタケウチスクネ系とみるべきかとおもうのですが、「大倭」というのは、「大倭直」の事例のように後代大和国の地名となるわけですよね。

ちょっとこの辺うまく整理できないかな?


1525管理人:2013/06/19(水) 23:14:15
大倭
あと、追記ですが「大倭木満致執国政」の「大倭」は、魏志倭人伝の邪馬台国の官職「大倭」とも同じですね。

「租賦を収む、邸閣あり、國國市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。」

百済系木氏の木満致、一説によれば仁徳朝の蘇我満智ですが、百済系でありながら、新羅もしくは秦韓系の母親をもち、日本と行き来していたことが推測されます。

邪馬台国の「大倭」は、邪馬台国各地において交易を管理をする管理官だったわけですが、また倭人伝では九州や半島南部に、魏使からの手紙や献物を受け取り、それを女王国まで運ぶ管理官がいたことを推測しました。

「女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の 如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣り、おろび郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ」


それらの管理官の名残だとすると、九州から半島南部にいてもおかしくはないかもしれません。

「大倭」は、女王国の北の伊都国あたりにいた武官らしき「一大率」と対照的な官職です。

「大倭」がいた時代というと、おそらく「邪馬台国」の存続時期にあたるかと思いますが、3世紀〜4世紀となるでしょうか。4世紀後半の成務・応神朝まで、なお存在していた可能性も考えてみてもよいかもしれません。

1526秦野北斗:2013/06/20(木) 06:55:28
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。

大倭木満致執国政を訳すと

大倭(やまと:大漢)の木満致(地名)が国政を執り行う。

木満致は?武天皇で「菟狹者」地名也。も「木満致者」も同様だな。
さあ、木満致は何処かな?欠史八代にも「やまと」日本、大日本が出ているな。
時代から「やまと」は大倭=大漢=日本、だな。

即子久爾辛立為王。王年幼。大倭木満致執国政。与王母相婬。多行無礼。天皇聞而召之
〈 百済記云。「木満致者」、是木羅斤資討新羅時。娶其国婦而所生也。
以其父功、専於任那。来入我国、往還貴国。承制天朝、執我国政。権重当世。然天朝聞其暴召之。 〉

?日本磐余彦天皇 ?武天皇
行至筑紫國菟狹。「菟狹者」地名也。を訳すと

筑紫國の菟狹に至る。菟狹者は地名なり。
内容は神武東征で筑紫海(有明海)の菟狹(済州島)へ道先案内する。
道先案内人が菟狹者で菟狹は地名と記している。
http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1555

欠史八代
綏靖天皇 - 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
安寧天皇 - 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
懿徳天皇 - 大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
孝昭天皇 - 観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
孝安天皇 - 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
孝霊天皇 - 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
孝元天皇 - 大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
開化天皇 - 稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらみこと
http://ja.wikipedia.org/wiki/欠史八代

> あと、追記ですが「大倭木満致執国政」の「大倭」は、魏志倭人伝の邪馬台国の官職「大倭」とも同じですね。
>
> 「租賦を収む、邸閣あり、國國市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。」
>
> 百済系木氏の木満致、一説によれば仁徳朝の蘇我満智ですが、百済系でありながら、新羅もしくは秦韓系の母親をもち、日本と行き来していたことが推測されます。
>
> 邪馬台国の「大倭」は、邪馬台国各地において交易を管理をする管理官だったわけですが、また倭人伝では九州や半島南部に、魏使からの手紙や献物を受け取り、それを女王国まで運ぶ管理官がいたことを推測しました。
>
> 「女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の 如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣り、おろび郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ」
>






1527管理人:2013/06/20(木) 23:10:29
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。

> 大倭木満致執国政を訳すと
>
> 大倭(やまと:大漢)の木満致(地名)が国政を執り行う。
>
> 木満致は神武天皇で「菟狹者」地名也。も「木満致者」も同様だな。
> さあ、木満致は何処かな?欠史八代にも「やまと」日本、大日本が出ているな。
> 時代から「やまと」は大倭=大漢=日本、だな。
>
> 即子久爾辛立為王。王年幼。大倭木満致執国政。与王母相婬。多行無礼。天皇聞而召之
> 〈 百済記云。「木満致者」、是木羅斤資討新羅時。娶其国婦而所生也。
> 以其父功、専於任那。来入我国、往還貴国。承制天朝、執我国政。権重当世。然天朝聞其暴召之。 〉
>


「大倭木満致執国政」については、どうも記紀の系統で「大倭」がないものがあるそうです。後から付加されたという見方をしている人がいますね。こちら参照。
http://www.ookuninushiden.com/newpage63.html


ただ、蘇我氏や武内宿根系と関係するだろう「木氏」にわざわざ後代「大倭」をつけるというのも不自然な気がするんですよね。田中本の系統が最も古く、原型だったとも言い切れるわけでもないので、なんともいえない感じです。

「大倭」とついていて天皇名みたいでおかしいので、平安時代に切り取ったとみるほうが、どちらかというと自然なわけですが・・。


「大倭直」の系譜が興味深いですね。
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-39.html


吉備・海部(丹波)方面関連の系図が出てきて、それから仁徳あたりで大和へ進出していったようにも見えます。

特に、倭直吾子籠というのが、仁徳時代に韓国に派遣されているのですが、これが木満致の伽耶・日本を行き来した動きとちょっと類似してます。

応神朝の記載も、やはり九州・吉備を経由すて治世のだいぶ後になって畿内に入って行くようです。

半島系の武内宿袮系集団が吉備経由で畿内に入る時期ですね。

「大倭・大和国」と大倭氏との関わりは切っても切れない関係にあるでしょう。

「大和」という地域に住んでいたので、倭氏を名乗ったのではなくて、大倭氏がいたので、大和になった、とかいうケースも考慮すべきでしょうか。

本来は「山戸」とある時期まで記していた可能性を感じます。吉備のマキムク型古墳のあるところに、三輪とか山戸が見えました。

それが、ある時期から畿内で「大倭」になったのでしょうか。ご指摘の「大日本」の「大」も重要。確かに「大漢国」の「大」の意味と類似しますね。高句麗など半島系官職に「大」をつけるものが多くみえます。


1528秦野北斗:2013/06/21(金) 07:59:34
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。

もう少し掘り下げれば、理解できるな。

秦野は古代の地図、カレンダー、辞書があるので有利ですぞ。

扶桑国は避けられないな。阿蘇の蘇が扶桑の桑になり、阿は阿毎=天で天の香具山でお馴染みですな。天の香具山は2つあるが、今回は魏志倭人伝なので奈良ですな。

魏志倭人伝
女王国の北方の諸国には「一大率(或るいは一支率)」という官が置かれて国々を監視している。一大率は伊都国にあり、魏の刺史のような役目を果たしている。伊都国は外交の中心地で魏や韓の国々の使節はここに停泊して文書や贈物の点検を受けて女王に送っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝

扶桑の所在地については、倭国の東北7000余里に文身国が、その東5000余里に大漢国があり、大漢国の東2万余里に扶桑がある。尚、距離単位は秦野距離(秦野北斗著書:徐福と邪馬台国、参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/扶桑

伊都国と邪馬台国の通信を扶桑国の者が行うとは・・・。

ちなみに、扶桑国は女国で、魏志倭人伝は女王国が出てきますな。


木満致者が地名になり、現在も地名で残っていたな。

木満致(きみつち:君津)

千葉県君津市(扶桑国の一部)

君津の地名の由来 「南房総の地名」
書籍名を忘れましたが、下記の説が有力のようです。
木更津と隣の君津、 共に由来は、日本武尊が詠んだ歌の冒頭の「君さらづ」からきているといわれ ているとありました。

由来の変更が必要ですな。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1313612673


> 「大倭・大和国」と大倭氏との関わりは切っても切れない関係にあるでしょう。
>
> 「大和」という地域に住んでいたので、倭氏を名乗ったのではなくて、大倭氏がいたので、大和になった、とかいうケースも考慮すべきでしょうか。
>
> 本来は「山戸」とある時期まで記していた可能性を感じます。吉備のマキムク型古墳のあるところに、三輪とか山戸が見えました。
>
> それが、ある時期から畿内で「大倭」になったのでしょうか。ご指摘の「大日本」の「大」も重要。確かに「大漢国」の「大」の意味と類似しますね。高句麗など半島系官職に「大」をつけるものが多くみえます。
>管理人さんへのお返事です。



1529茨の紀氏:2013/06/21(金) 08:03:29
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です

「大倭」とついていて天皇名みたいでおかしいので、平安時代に切り取ったとみるほうが、どちらかというと自然なわけですが・・。


参考になれば幸いです。
木氏は宮殿式の屋敷を造営する時、中原地域の「座北面南」の風水理論に従わず、 東方に向かうようにした。 東方は五行の木に属する方角である。太陽と木はナシ族 トンバ教のトーテムとされるものである http://language.ljgc.gov.cn/html/60/n-60.html

羊トーテム【姫姓・氏】 鹿 トーテム 物部氏は扶余人<海人>牛の姫(木)氏なのです。 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1974
物部氏は扶余人
だとすれば、ニギハヤヒは扶余族の王族である可能性が高い。 ... 貊族(ハク)・狛族(コマ)などが包含されていたものと想像するが、その連合体の王を出す主要部族が扶余族であり、扶余とはツングース語の鹿を意味する「プヨ」を漢字にあてたものと思われる。

扶余族もまた<海人>であったという。
http://blogs.yahoo.co.jp/eraser1eraser/53126525.html
都怒我阿羅斯等は、「角がある人」の意で、額に角の生えた牛トーテムを表し、ウシキアリシチカンキという別名がそのことを教えてくれます。牛の姫(木)氏なのです。

古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと( 須明樂美御?)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6954893.html

スメラ山脈の並ぶ今のアブダビ海沿岸は、当時は スメルと呼称[ラテン語読みで『スメル』だそうです]。 http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/sankaseikatu.htm

深沙大王は小野氏が神官を務め た二荒山神社でも星神と一緒に祀られているのですから、ここでも小野氏と丹生の ... 元 の場所は『武蔵風土記』や『和名類聚抄』に爾布田ニフダとあり、爾が取れて布田となった ことは明らかですが、爾布の元は .... 将門は反乱を決意したとき「新皇」と自ら称した という。 http://members3.jcom.home.ne.jp/1446otfh/ban1000/dusto/tan/tan-3.htm

秦氏と物部氏と八咫烏陰陽道というものがある。 ... その賀茂氏の始祖が八咫烏で、 別名を賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)といった。 http://silicon-kid.cocolog-wbs.com/blog/2012/03/15-edc0.html




1530管理人:2013/06/22(土) 22:28:30
Re: 大倭
茨の紀氏さん、秦野さん、情報ありがとうございます。

女王国以北に置かれた「一大率」の「率」は、「魏率」の率で、後代の384年ごろとされる百済の「奈率」「恩率」「達率」などと同じく、おそらくは楽浪・帯方郡時代の賜与官職の名残だろうと思います。日本から進出したバイリンガル氏族がその官職を賜っています。「率」が率いるの意味で、つまり中国系の統治官との意味ではないでしょうか。


同じく邪馬台国に置かれた交易監視官の「大倭」も、「一大率」の「大」で、高句麗の300年〜331年ころの官職にある「大対盧」「大兄」「大使者」といった「大」と関係するかもしれません。扶余では諸加の下には大使,大使者がみえます。ご指摘の「大漢」もその関連で穢・扶余系でしょう。

そうすると、「大倭」という官職そのものは、扶余系の可能性がありますね。
弥生中末期、古墳初期に南下した扶余系集団や、楽浪系集団の中に扶余系の官職をもたらしたものがいて、それで「大倭」が成立したのかもしれません。

楽浪郡の「邪頭マイ」や「レン台」といった地名が、後代カヤ地域にみえてきます。そしてそのまま「邪馬台」になるわけですが、その流れで「大+」の官職も設置されていったとすると、当然カヤ地域にも同類の官職があった可能性がでてきます。

つまり「大倭・木満致」の招待は、百済・カヤ・倭を往復していた「大倭」という扶余・邪馬台国系の交易官だったのではないでしょうか。

一方楽浪・帯方の地に残った百済には、上記のように「魏率」の流れを汲んだ「率」のつく官職がそのまま維持されていったわけですね。「一大率」は、そういう意味では、中国系「率」と扶余系「大」の両方を共有したような複合官職だったようにもみえます。

ともあれ、その「大倭」が「大和」となり、その後「邪馬台」つまり「ヤマタイ」「ヤマトウ」を現す文字として使われるようになるわけです。「倭」の起源は自身でそう呼称したのではなく、中国側がまず「倭」と名付けて、それから「倭」を統率する官職として「大倭」をおそらくは楽浪・扶余系の中国文化圏の人が支配の際に名付けた官職でしょう。

「倭」はおそらく「吾」の意味で、楽浪・秦韓方面へ流れた中国系集団の呼称「阿」でしょう。「阿」「吾」と自分のとを名乗るので、中国側でその音に卑字をつけて「倭」にした。後漢時代かな。楽浪系の「吾作」の銅鏡銘文の主です。技術者集団も多くいて日本列島へ弥生末ごろに渡ったはず。

「大和」になった理由は「倭」の字が卑字だったからかもしれません。後代かなり遅い時期に「和」にした。

その統治官「大倭」が、海人族の進出で以前失ったであろう吉備・畿内の「ヤマト」地域に入ってくるのが、「木満致」の渡来してくる時代とすると、4末〜6世紀の武内宿根系集団の紀(木)氏がやってくる時代、その後の同族蘇我氏が最終的に540年前後にやってくる時代かもしれません。

北九州から周防の秦王国を抜けて、吉備、畿内へと進出していったのでしょう。



1531秦野北斗:2013/06/23(日) 06:45:58
Re: 大倭
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001575_2M.jpg

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm



1532茨の紀氏:2013/06/24(月) 03:08:17
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。

>邪馬台国の年代「249年」とあわないな。

日本の発祥の地とされている邪馬台国が九州説か畿内説かの答えのヒントが旧約聖書にあるわけだ。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?




1533秦野北斗:2013/06/24(月) 09:44:17
Re: 大倭
茨の紀氏さんへのお返事です。

日本書記の垂仁天皇、廿五年春二月丁巳朔甲子243年は卑弥呼が亡くなった年みたいだな。

神祇(国津神)をひろく祭る。これがアマテラスになるな。


卑弥呼が使者を送った相手というのが曹操の孫でした。レッドクリフがどこかで我々と 繋がっているのも不思議です。もし曹操が死んでいれば卑弥呼は誰に使者を送ってい たんでしょうね?

238年(景初2年)に邪馬台国の卑弥呼が朝貢の使者を送ったことは、 『魏書東夷伝倭人条』いわゆる『魏志倭人伝』に記されています。

ただ、この年は、魏VS公孫淵との戦闘の最中で、 朝貢を受け付ける余裕はなく、 魏の二代皇帝「曹叡」自体の体調の問題もあったようなので、 239年(景初3年)の誤りではないかという説が有力です。
239年だったとすると、魏の二代皇帝「曹叡」が1月に早世し、 その後を養子の「曹芳」が三代皇帝についた年です。
わずか7歳の幼帝です。
曹操が亡くなった220年には、既に卑弥呼が共立され(180年頃)倭を治めていた時期といわれます。
以前から、57年に金印を授与されたり、107年倭国王の帥升が安帝に拝謁を願うとの後漢書の記載もありますので、 お付き合いは細々とでしょうが続いていたものと思います。
曹操が亡くなった時期に、弔問の使者を送るほどの親密さがあったと仮定すれば、 当然、魏の初代皇帝である「曹丕」=喪主が相手だったと思います。
曹操が亡くなった220年

建安年間(196年−220年)、公孫康、屯有県以南の荒野を分けて帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して後漢の遺民を集めるため、兵を挙げて韓と濊を討伐したが、旧民は少ししか見出せなかった。
この後、倭と韓を帯方に帰属させた。

〔説文解字(義証)〕に「賜予なり」「此れ予と同じなり」とある。
魏志倭人伝には、「卑弥呼が死んで更に男王が立つ、国中不服、更に相誅殺、当時千人 を殺した。また、卑弥呼の宗女・壱与(台与)、年13才を立て王と為す。国中ついに定まる

http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?


日本書記

活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇

元年春正月丁丑朔戊寅、皇太子?天皇位。218年

廿五年春二月丁巳朔甲子、詔阿倍臣遠?武渟川別・和珥臣遠?彦國葺・中臣連遠?大鹿嶋・物部連遠?十千根・大伴連遠?武日、五大夫曰、我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇、惟叡作聖。欽明聰達。深執謙損、志懷沖退。綢繆機衡、禮祭?祇。剋己勤躬、日愼一日。是以人民富足、天下太平也。今當朕世、祭祀?祇、豈得有怠乎。三月丁亥朔丙申、離天照大?於豐耜入?命、託于倭?命。爰倭?命求鎭坐大?之處、而詣菟田筱幡。筱、此云佐佐。更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。時天照大?誨倭?命曰、是?風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也。傍國可怜國也。欲居是國。故隨大?教。其祠立於伊勢國。因興齋宮于五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大?始自天降之處也。243年


阿倍臣(遠い祖先、武渟川別)、和珥臣(遠い祖先、彦國葺)、中臣連(遠い祖先、大鹿嶋)、
物部連(遠い祖先、十千根)、大伴連(遠い祖先、武日) に詔する。
五大夫に曰く。我先皇(崇神天皇)の思いを明かす。作聖(作成)の出来は謙遜する。
志を持ち韓半島(大漢=大韓:やまと)を退いた。事態はまつわる。
神祇(国津神)をひろく祭り、躬(自ら)勤め己に剋ち。日、気を配る。これゆえ人民は富む。天下太平なり。今、朕世(垂仁天皇)になり、神祇(国津神)をひろく祭る。どうして怠ろうか。

神祇:卑弥呼
志懷沖退:志を持ち韓半島(大漢=大韓:やまと)を退く
沖:広々とした田畑や野原の遠い所。韓半島(大漢=大韓:やまと)

http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1542


> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> >邪馬台国の年代「249年」とあわないな。
>
> 日本の発祥の地とされている邪馬台国が九州説か畿内説かの答えのヒントが旧約聖書にあるわけだ。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
>
>
>

1534管理人:2013/06/24(月) 23:12:17
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。

> 茨の紀氏さんへのお返事です。
>
> 日本書記の垂仁天皇、廿五年春二月丁巳朔甲子243年は卑弥呼が亡くなった年みたいだな。
>
> 神祇(国津神)をひろく祭る。これがアマテラスになるな。
>
>
> 卑弥呼が使者を送った相手というのが曹操の孫でした。レッドクリフがどこかで我々と 繋がっているのも不思議です。もし曹操が死んでいれば卑弥呼は誰に使者を送ってい たんでしょうね?
>
> 238年(景初2年)に邪馬台国の卑弥呼が朝貢の使者を送ったことは、 『魏書東夷伝倭人条』いわゆる『魏志倭人伝』に記されています。
>

卑弥呼死亡はいつなんでしょうね。


これに対し(魏の朝廷は) 塞曹椽史の張政らを派遣した。邪馬台国に赴いた張政らは証書と黄幢を難升米(なしめ) に授け、檄文を作って諭した。して、卑弥呼は死んだ。死後は直径100余歩の大きな塚が作られ、奴婢100余人が殉葬された。 )

この記述は、247年(正始8年)に邪馬台国からの使いが狗奴国との紛争を報告したことに発する一連の記述である。卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。また247年(正始8年)の記述は、240年(正始元年)に梯儁が来てから以降の倭の出来事を伝えたものとし、卑弥呼の死も240年から246年までに起きた出来事とする考えもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/





1535秦野北斗:2013/06/25(火) 08:02:37
Re: 大倭
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001579M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/卑弥呼



1536管理人:2013/06/25(火) 23:13:58
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。

> 小さい文章だが、意味は大きい。付託の意味は、卑弥呼が死に喪にあると思われる。
>
> 正始六年(245年) - 難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。
>
> ふ‐たく 【付託/附託】
> [名](スル)物事の処置などを任せること。特に、議会で、議案の審査を本会議の議決に先だって他の機関に委ねること。「特別委員会に―する」
>
>

ただ、そうすると、こちらの正始8年の卑弥呼の記載はどう解釈しましょうか?

「その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。」
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html

正始8年に張政が着てから、その後次の文書になったと考えるのが自然でしょう。


「卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。

更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。」



1537秦野北斗:2013/06/26(水) 17:02:13
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。

垂仁天皇の文章を243年に入れる。卑弥呼の死後は垂仁天皇が狗奴國と戦闘した模様
狗奴國の男王卑弥弓呼は韓半島への帰還に反対したのが原因の模様だな。
・・・・神祇(国津神)をひろく祭る。

大筋

韓半島から奈良に避難(邪馬台国を立てる:丘)
243年廿五年春二月丁巳朔甲子の文章より
志懷沖退:志を持ち韓半島(大漢=大韓:やまと)を退いた。
御間城入彦五十瓊殖天皇 崇?天皇
活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇
狗奴國の男王卑弥弓呼
卑弥呼と卑弥呼の弟

邪馬台国(都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。)
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm

240年正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。

243年活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇
廿五年春二月丁巳朔甲子、詔阿倍臣遠?武渟川別・和珥臣遠?彦國葺・中臣連遠?大鹿
阿倍臣(遠い祖先、武渟川別)、和珥臣(遠い祖先、彦國葺)、中臣連(遠い祖先、大鹿嶋)、
物部連(遠い祖先、十千根)、大伴連(遠い祖先、武日) に詔する。
五大夫に曰く。我先皇(崇神天皇)の思いを明かす。作聖(作成)の出来は謙遜する。
志を持ち韓半島(大漢=大韓:やまと)を退いた。事態はまつわる。
神祇(国津神)をひろく祭り、躬(自ら)勤め己に剋ち。日、気を配る。これゆえ人民は富む。天下太平なり。今、朕世(垂仁天皇)になり、神祇(国津神)をひろく祭る。どうして怠ろうか
http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1577

244年その四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青ケン・緜衣・帛布・丹・木? ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。

246年その6年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、 郡に付して仮授せしむ。

248年その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。

卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。

更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。

壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。

> ただ、そうすると、こちらの正始8年の卑弥呼の記載はどう解釈しましょうか?
>
> 「その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。」
> http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
>
> 正始8年に張政が着てから、その後次の文書になったと考えるのが自然でしょう。
>
>
> 「卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。
>
> 更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。」
>



1538管理人:2013/06/26(水) 23:20:42
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。

> 垂仁天皇の文章を243年に入れる。卑弥呼の死後は垂仁天皇が狗奴國と戦闘した模様
> 狗奴國の男王卑弥弓呼は韓半島への帰還に反対したのが原因の模様だな。
> ・・・・神祇(国津神)をひろく祭る。
>
>

やはり卑弥呼の死亡年は秦野さんの243年ではなくて、247〜8年ごろではないでしょうか。

次の部分になるわけですが、

「その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。」

ここで「卑弥呼」がまだ出てきています。おそらくは卑弥呼の署名のある手紙が使者とともに送られたはずです。

その後、卑弥呼がなんらかの事情で亡くなり、そして男王(開化)が立ち、1年で台与とその摂政崇神=垂仁の時代へと移行していく、その時期が250年ごろだろうと予想します。258年ごろに崇神が退いて、20歳になった台与の統治がはじまったのでしょう。

あと、「壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。」

これもちょっと解釈が変で、張政等が壱与が献上した〜とを掖邪狗等をもって送らしめたという内容かと感じます。

「壱与」の「壱」を姓と見なしているわけです。「与」が名前。

「壱」は「イチ」で、「一」と同じなのですが、扶余・百済に進出した月氏系の「〜遅・イチ」氏と関係するとおもしろいですね。和邇氏や物部系の血筋にあたるはずですが。




1539秦野北斗:2013/06/26(水) 23:59:20
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。

『隋書』倭国伝に「ただ二人の男性が王の飲食を給仕し、言葉を伝えるため通じる。」
この文章の二人の男性はどうしますか。政治は二人の男性が行っているな。

倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。この表現は第三者ですな。

『隋書』倭国伝

漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。桓、靈之間、其國大亂、遞相攻伐、歴年無主。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是國人共立為王。有男弟、佐卑彌理國。其王有侍婢千人、罕有見其面者、唯有男子二人給王飲食、通傳言語。其王有宮室樓觀、城柵皆持兵守衛、為法甚嚴。自魏至于齊、梁、代與中國相通。

 後漢の光武帝の時(25−57年)、遣使が入朝し、大夫を自称した。
 安帝の時(106−125年)、また遣使が朝貢、これを倭奴国という。
 桓帝と霊帝の間(146−189年)、その国は大いに乱れ、順番に相手を攻伐し、何年もの間、国主がいなかった。卑彌呼という名の女性がおり、鬼道を以てよく大衆を魅惑したが、ここに於いて国人は(卑彌呼を)王に共立した。弟がいて、卑彌呼の国政を補佐した。その王には侍婢が千人、その顔を見た者は極めて少なく、ただ二人の男性が王の飲食を給仕し、言葉を伝えるため通じる。その王の宮室や楼観、城柵には皆、兵が持して守衛しており、法は甚だ厳しい。魏より斉、梁に至るが、代々中国と相通じた。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm

> その後、卑弥呼がなんらかの事情で亡くなり、そして男王(開化)が立ち、1年で台与とその摂政崇神=垂仁の時代へと移行していく、その時期が250年ごろだろうと予想します。258年ごろに崇神が退いて、20歳になった台与の統治がはじまったのでしょう。

古代の成人は13歳ですな。奈良時代以降ですが。

げん‐ぷく 【元服】

[名](スル)《「げんぶく」とも》
1 奈良時代以降、男子が成人になったことを示す儀式。ふつう、11〜16歳の間に行われ、髪を結い、服を改め、堂上家以上は冠、地下(じげ)では冠の代わりに烏帽子(えぼし)を着用した。中世以降は混同されて烏帽子を用いても加冠といい、近世には烏帽子も省略されて月代(さかやき)をそるだけで済ませた。また、これを機に幼名を廃して実名を名のった。加冠。
2 江戸時代、結婚した女性が歯を黒く染め、丸まげを結い、眉をそったこと。
http://kotobank.jp/word/元服

>
> 「その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。」
>
> ここで「卑弥呼」がまだ出てきています。おそらくは卑弥呼の署名のある手紙が使者とともに送られたはずです。
>
> その後、卑弥呼がなんらかの事情で亡くなり、そして男王(開化)が立ち、1年で台与とその摂政崇神=垂仁の時代へと移行していく、その時期が250年ごろだろうと予想します。258年ごろに崇神が退いて、20歳になった台与の統治がはじまったのでしょう。
>
> あと、「壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。」
>


1540管理人:2013/06/27(木) 23:14:12
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。

『隋書』倭国伝に「ただ二人の男性が王の飲食を給仕し、言葉を伝えるため通じる。」
> この文章の二人の男性はどうしますか。政治は二人の男性が行っているな。
>
> 倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。この表現は第三者ですな。
>
> 『隋書』倭国伝
>
> 漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。桓、靈之間、其國大亂、遞相攻伐、歴年無主。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是國人共立為王。有男弟、佐卑彌理國。其王有侍婢千人、罕有見其面者、唯有男子二人給王飲食、通傳言語。其王有宮室樓觀、城柵皆持兵守衛、為法甚嚴。自魏至于齊、梁、代與中國相通。
>
>>
> 古代の成人は13歳ですな。奈良時代以降ですが。
>

2人というのは、ちょっと気になりますね。たとえば、巫女神功皇后と、夫の天皇、そしてサニワ者である中臣氏の男性という組み合わせが後代見えます。

卑弥呼(巫女王)+王+神官?



1541秦野北斗:2013/06/28(金) 00:55:44
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。

魏志倭人伝の陳寿が帰国後に公孫淵が誅殺される。
後は臺與(豊:トヨ)こと、神功皇后の時代になるな。
漢人(中臣氏)は三韓征伐からの登場になる。
三韓征伐には木満致者が関係している模様。

豊の説明をする・・。
豊は韓半島の意味ですな。能の桜川に木花咲耶姫神社が出てくるが、
木花咲耶姫神社は筑紫の神社になり、筑紫は日本書紀の崇?天皇に所在地があるな。
六十五年秋七月、任那國遣蘇那曷叱知、令朝貢也。任那者去筑紫國、二千餘里。北阻海以在鶏林之西南。になる。新羅の北、二千餘里になる。
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_05.html

桜川、常陸国(茨城県)は扶桑国ですな。木満致者の木満致(きみつち:君津)ですな
扶桑国から1千里が東女国ですな。女国は中近東・・。
漢人(中臣氏)が見えてきましたかな。
http://sakuragaworld.com/modules/tiny01/index.php?id=11
http://ja.wikipedia.org/wiki/扶桑

『梁書』倭国伝

 至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遣使朝貢、魏以為親魏王、假金印紫綬。
 正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受中國爵命。

 魏の景初三年(239年)、公孫淵が誅殺された後、卑彌呼は初めて遣使を以て朝貢し、魏は親魏王と為し、仮の金印紫綬を授けた。
 正始中(240−249年)、卑彌呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあったので、再び卑彌呼の宗女「臺與」を王として立てた。
 その後、また男の王が立った、いずれも中国の爵命を拝受した。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun4-ryosho.htm

木満致者が地名になり、現在も地名で残っていたな。

木満致(きみつち:君津)

伊都国と邪馬台国の通信を扶桑国の者が行うとは・・・。

ちなみに、扶桑国は女国で、魏志倭人伝は女王国が出てきますな。

http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1572


1542管理人:2013/06/28(金) 23:21:52
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。

> 魏志倭人伝の陳寿が帰国後に公孫淵が誅殺される。
> 後は臺與(豊:トヨ)こと、神功皇后の時代になるな。
> 漢人(中臣氏)は三韓征伐からの登場になる。
> 三韓征伐には木満致者が関係している模様。

豊と臺與の件は確かに面白いですね。


「臺」は「イチ」で姓との見方を中国撰者がしているのがやはり気になります。中国文献に「臺」をもって姓とみなすような記載があったのでしょうか。

先のとおり、月氏系の尉遅氏がいます。于闐の「尉遅(うっち)」は隋末に出てきますが、鮮卑に尉遅部がみえてきます。桜蘭方面からある時期に東遷している。

扶余、百済に「尉仇台」が見えます。尉氏。

「永寧元年(120年)、夫余王は嫡子の尉仇台を遣わして印闕貢献してきたので、安帝は 尉仇台に印綬金綵を賜った」。


公孫氏の時代になると下記の記載がでてきます。

「公孫度は扶余が二族の間で苦慮させられ たので公孫氏の娘を妻とさせた。 尉仇台が死に簡位居が立った。」

「簡位居(カンイキョ)(ケンイコ)」

どこか「臺興(イチキョウ)(イチコウ)」と似ていると思いませんか?


1543秦野北斗:2013/06/29(土) 03:16:14
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。

> 豊と臺與の件は確かに面白いですね。

まあ、少しずつ明かして行きましょう。

臺與でなく壹與ですな。臺=堆(タイ)、ですな。『隋書』倭国伝で、都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。

壹與の壹は呉音で現存していないと考えるべきもの。奈良のやまと、に当て嵌め邪馬壹を「やまと」、漢字の音部分を発音すると考えるが良いな。

扶桑国の文章に大漢国「やまと」がある、大韓国も「やまと」で、学者が言っている大和「やまと」は日本に存在しないな。日本は瑞穂の国、俀国(タイコク)よわい国。神武東征後から瑞穂の国には「尊」が不在になり政権は無かった。もっぱら、扶桑国が治めていたが、渡来政権になっていた模様。大和政権は大漢国のなごりですな。なお、倭国は「わこく」で大韓国の1国でしかない。日本は瑞穂の国、俀国(タイコク)よわい国ですな。その後、倭国、日本に改名。

政権は『隋書』倭国伝では邪馬壹は帯方郡から一万二千里で、現在の釜山になる。
魏志倭人伝の行程から奈良に落ち延びている。文章は日本書紀の活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇、廿五年春二月丁巳朔甲子に志懷沖退と明記されている。

http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_06.html

『新唐書』日本伝

彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。次曰綏靖、次安寧、次懿?、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀。

 彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。次は綏靖、次は安寧、次は懿?、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀という。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun11-sintosho.htm

『隋書』倭国伝

 倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。

 倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。
 その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。その地形は東高西低。都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、儋耳と相似するという。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm


1544秦野北斗:2013/06/29(土) 21:18:59
魏志倭人伝に瀚海
魏志倭人伝の3.に瀚海と呼ばれる海がある。漢読みでカンカイ。呉読みではケンカイで現在は玄海ゲンカイになる。対馬の港に厳原(いづはら)のいづ(厳)は、日本書紀 応神天皇の処のが出てくる。どうも伊豆国(いづこく)のいづ (伊豆=厳)ようだな。漢読みで伊都国(いとこく)になるな。伊豆国=厳国=伊都国=いづこく、ですな。
玄海灘は厳海=玄海(ゲンカイ)、中国語の呉音:ケンカイと聞こえたのだろうな。

日本書紀 応神天皇の処
五年冬十月伊豆国に命じて船を造らせた。長さ十丈の船ができた。ためしに海に浮かぺると、軽く浮かんで早く行くことは、走るようであった。その船を名づけて枯野といった。
−--船が軽く早く走るのに、枯野と名づけるのは、道理に合わない。もしかすると軽野と
いったのを、後の人がなまったのでなかろうか。

筆者にはわるいが、枯野は烏奴(からぬ)で神武東征のヤタガラスで案内になるな。
奴は兵士で護衛船ですな。ちなみに烏(カラス)神社が船の神様になっているな。
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page410.html

魏志倭人伝
1.帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する(「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」)。

2.始めて海を1000余里渡ると対馬国に至る(「始度一海千餘里、至對馬國」)。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。

3.また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る(「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」)。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000の家族が住める。田畑はあるが足りず、市へいく。

http://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝

邪馬壹国の女王の都に至る。

『新唐書』日本伝

彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。次曰綏靖、次安寧、次懿?、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀。

 彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。次は綏靖、次は安寧、次は懿?、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀という。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun11-sintosho.htm



1545管理人:2013/06/29(土) 23:08:37
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。

> 臺與でなく壹與ですな。臺=堆(タイ)、ですな。『隋書』倭国伝で、都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
>
> 壹與の壹は呉音で現存していないと考えるべきもの。奈良のやまと、に当て嵌め邪馬壹を「やまと」、漢字の音部分を発音すると考えるが良いな。
>
> 扶桑国の文章に大漢国「やまと」がある、大韓国も「やまと」で、学者が言っている大和「やまと」は日本に存在しないな。日本は瑞穂の国、俀国(タイコク)よわい国。神武東征後から瑞穂の国には「尊」が不在になり政権は無かった。もっぱら、扶桑国が治めていたが、渡来政権になっていた模様。大和政権は大漢国のなごりですな。なお、倭国は「わこく」で大韓国の1国でしかない。日本は瑞穂の国、俀国(タイコク)よわい国ですな。その後、倭国、日本に改名。
>
> 政権は『隋書』倭国伝では邪馬壹は帯方郡から一万二千里で、現在の釜山になる。
> 魏志倭人伝の行程から奈良に落ち延びている。文章は日本書紀の活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇、廿五年春二月丁巳朔甲子に志懷沖退と明記されている。
>



やはり「壹與」で「壹(イチ)」が正解のようです。

壹與 [編集]
『三国志』魏書東夷傳の倭人之条、(通称魏志倭人伝、陳寿編纂、3世紀・晋代)では2写本系統とも「壹與」と記載されている。発音は「い(ゐ)よ」か?。代用表記は「壱与」。
臺與 [編集]
『梁書』諸夷伝 倭(姚思廉編纂、636年・唐代)、『北史』東夷伝(李延寿編纂・唐代)などに記述[1]。代用表記は「台与」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/



魏志倭人伝の時点では「壹(イチ=一)」だったものが、後代の書写のミスで「臺(タイ=台)」になったわけです。


だから、トヨではなく、イ(チ)コウが正解でしょう。

以前論じて会報にも記したように、物部氏系の孝霊・開化妃の「伊香(イカガ=イコウ)シコ」、およびその叔母の「鬱(ウツ)シコ」が、つまり上記の「壹與」と「卑弥呼」なわけです。

この「イコウ」の音が正解だと思うのですが、叔母の「ウツシコ」の「ウツ」音にも注目すべきかもしれません。

「イチ」と「ウツ]の関係は、イ行とウ行への変化になります。

先のとおり遊牧民系の「尉遅(イチ・ウッチ)」部(氏)」の発音と関係するかもしれません。
ウにちかいイ音で、そのあとに「チ」と小さく発音するのではないでしょうか。それを聞き取れないと、「イチ」は「イ」と記されます。中国人は聞き取れたので「一大率」とか、「壱岐」と記していたのかもしれません。

ところが、日本人には聞き取れなかったので「伊香」となる。

それで先の扶余・百済系の2〜3世紀の王族、「 尉仇台(イキュウダイ)」「簡位居(ケンイコ・カンイキョ))」を考えて行くと、もしかすると「「尉遅(イチ・ウッチ)」の「チ」音を聞き取れない人が記した可能性もでてきます。

さらにいえば「月氏」「月支国」「秦支」といった遊牧民系の「支(チ)」音は、何かその集団の支族名をしるす称号で、時に省略された可能性もあります。

同様に「台(ダイ)」も関連の称号だったとすると、だんだん、これらの扶余系王族の王号や国名の発音的特徴が明らかになってくるでしょう。もとは「サウロマタイ」といった遊牧民系の「タイ」音。

ご指摘の伊豆(イズ)、伊都(イト)もその延長線上にあるのでしょう。
邪馬台国の「タイ」も同じ論理です。

そうするとある時期に、遊牧民・扶余系集団が、半島南部に流れ込んだのが、後漢初期で、その流れで九州北部にも流れこんできたのが、伊都や邪馬台国。

それで、それらの支配領域ですが、もしかすると完全に半島と日本列島とで、彼らの組織は分離されきっていなかったかもしれないという可能性も出てきますね。民族としては習俗や言語も同じ。

確かに秦野さんの邪馬台国半島説は、それなりに面白い視点を提供しているようにも見えます。

どのくらい、それらが分離していたのか?も課題ですね。

1546秦野北斗:2013/06/30(日) 08:35:29
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。

中国史跡は皇帝でも書換えできないもの。権威がある。中国史跡が理解できず、書き間違えと理解するのは軽率ですな。古田、安田レベルですな。両名はまだ、邪馬台国の位置が読めていない学者ですな。一生かかってもだめですな。

なお、中国史跡と魏志倭人伝は同一内容になっているな。

また、こんな、アジアの島国の僻地に遊牧民が来るかな。日本はすごいと考えているな。世界では日本の位置も知らない人が居る。また、古代600年まで中国史跡を見る限り、日本の存在を知らない、かろうじて、記録に扶桑が出てくるが限界。謎の島ですな。

大和国=大漢国=大韓国=邪馬壱国=やまと、が韓半島である事は一生理解できないな・・・。

>「一大率」とか、「壱岐」と記していたのかもしれません。
>やはり「壹與」で「壹(イチ)」が正解のようです。

古代には現在の博多、北九州辺りを豊国と言っていたのだな。
「一大率」は魏志倭人伝の内容から一大率を置いたとあるな。一大率から一大国・・。
「壱岐」命名は以後に豊国の島とかんがえるのがいいな。
豊を「と」と読む。

http://ja.wiktionary.org/wiki/

古田の亡霊だな・・・。


豊(とよ)

邪馬台国は現在の畝火山口神社(うねびやまぐちじんじゃ、おむねやまじんじゃ)で、奈良県橿原市の畝傍山西麓にある神社である。俗に「お峯山」と呼ばれる。式内社で、旧社格は県社。

気長足姫命(神功皇后)・豊受比売命・表筒男命を祀り、神功皇后が応神天皇を出産した伝承により、安産の神として信仰されている。

気長足姫命が壱輿で豊受比売命の姉
豊受比売命は気長足姫命(神功皇后)の妹
表筒男命は卑弥呼の弟

ここで注意する事はトヨタマヒメ(豊玉比売)、トヨウケビメ(豊受比売命)、推古天皇の名が豊(とよ)になつている。

トヨタマヒメ(豊玉比売)
http://www15.plala.or.jp/kojiki/umisachi_yamasachi/umisachi_yamasachi_03.html

トヨウケビメ(豊受比売命)
http://ja.wikipedia.org/wiki/トヨウケビメ

推古天皇
豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/推古天皇




1547管理人:2013/07/12(金) 02:51:15
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。

>
> 大和国=大漢国=大韓国=邪馬壱国=やまと、が韓半島である事は一生理解できないな・・・。
>
> >「一大率」とか、「壱岐」と記していたのかもしれません。
> >やはり「壹與」で「壹(イチ)」が正解のようです。
>
> 古代には現在の博多、北九州辺りを豊国と言っていたのだな。
> 「一大率」は魏志倭人伝の内容から一大率を置いたとあるな。一大率から一大国・・。
> 「壱岐」命名は以後に豊国の島とかんがえるのがいいな。
> 豊を「と」と読む。
>
> http://ja.wiktionary.org/wiki/
>
> 古田の亡霊だな・・・。
>
>
> 豊(とよ)



ちょっと昨日は出かけてました。やはり、下記の部分の解釈にかかっているかなと感じます。


「壹与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因ってに臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。」
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html


どうも先日の上文の解釈が間違いだったかもしれません。「臺」(たい)は、皇帝の居所とのことで、ここで明確に「壹(いち)」と「臺(たい)」をかき分けているわけですよね。

「率善中郎将の印綬を壹拝す」の部分も、、写真をみるかぎり、「壹(いち)」を使用します。

下記の見解が興味深いですね。




(二)このさい、注目すべき事例が倭人伝に出現しています。
 (1) 壹拝(卑弥呼、正始四年の貢献)
 (2) 臺に詣る(壹與貢献)
 これはいずれも“中国側の事物”であり、佐伯さんに従えば“見まちがいにくい”事例です。また前代の史書と対比しても、 (1)は「壹朝」「壹反」「壹至」といった夷蛮貢献の事例(いずれも漢書 ーー第一書三一五べージ参照)の一つですから、決して「臺拝」のまちがいではありません。いわんや (2)が「壹に詣る」のまちがいでないことは明白です。


一説では、皇帝の居所の「臺(たい)」を、倭の王の名につけるのはおこがましいから「壹(いち)」に書き換えたとのことですが、問題はそういう事例が魏志などに他にあるかどうかかもしれません。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/yamatai/yamatai6.html



ともかく誤写ではないことは、「壹与」がその前後で数回連続的に記されていることからもわかります。

もっとも「邪馬台国」については、「邪馬臺国」の「タイ」音が正解ではないかと感じます。

でも「壹与」については、上記のとおり「壹(いち)」音が正解。

そもそも「豊」については「フ・ブ」音が原音で、「トヨ」と読ませた語源を考える必要がありそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/



1548秦野北斗:2013/07/22(月) 00:45:56
Re: 大倭
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001592_2M.jpg

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/160504/m0u/



1549管理人:2013/07/22(月) 03:18:29
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。

> 豊は古事記まで遡る・・。追跡不可能だな。アイヌ語、越、呉・・?
> とよ‐あしはら【豊葦原】は現在の博多、北九州辺りの豊国の様だな。
> 《豊かに葦の生い茂っている原の意》日本国の美称。
> 「代々絶えず継ぎて久しく栄へなん―の国安くして」〈玉葉集・賀〉
> http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/160504/m0u/
>
> 豊国
> http://ja.wiktionary.org/wiki/
>
> 古事記からトヨクモノカミ(豊雲野神)の領土が出雲になる。
> 豊雲野神の意味は、豊国から雲野=宇野 (岡山市)の地区で筑紫は豊国に属する。
>


豊の語源は難しいですね。おそらく「イヨ」とはダイレクトに関係ないように感じます。

「伊豆」「伊都」のほうが重要。

壱岐のことを「一大國」といい、対馬のことを「対海」と記します。

「壱(イチ)」の発音を中国人はちゃんと「一(イチ)」と聞き取っているようにも見えます。

でも「岐(ギ・キ)」は、「大(タイ・ダ)」になってしまった。


一方で「対馬(ツシマ)」の「馬」のマ・メ音を、「海(カイ)」と中国人は聞き取ったのでしょう。


「対海国」は「タイカイ」。

これらから考えうることは、「タイ」「カイ」のように、地名の最後に「イ」音を、小さくつける習俗があったのではないでしょうか。これは、遊牧民系に多く見えるもので「サウロマタイ」「スキタイ」「アオルサイ」・・・といった「イ」音で、それをどうも聞き分けられない民族があって「イ」音が記されないケースがあるんですね。

同じ理由で、倭人はのちにその語尾の「イ」音を忘れてしまったので、もともとは「一大(イチタイ)」「対海(ツイカイ)」と発音していて魏志にもそのように記されたものが、後代「壱岐(イキ)」「対馬(ツシマ)」と「イ」音がはずされた表示になったのではないでしょうか。


邪馬台国も同じ論理で、もともとは「ヤマタイ」と「イ」音を最後につけていたものの、後代それがぬけて「ヤマタ(八股)」あるいは「ヤマト(山戸・大和)」となった可能性を感じます。


扶余・高句麗系の「邪頭味(ヤトウマイ)」「レン台」「尉キュウ台」の「イ」音も同じ遊牧民系の地名の語尾につく「イ」音ではないかと考えてます。

豊は、確かに倭人系の発音の可能性はありますね。倭人はどうも周代にすでに見えるそうですね。越人と比較されているのは、相関性があるからでしょう。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/sitemap/sitemap.htm#map_3gokushiki

後漢書の倭人習俗記載は、そのまま魏志に挿入されるわけですが、もっと古い時代の南方系の倭人認識のそれをもってきている可能性も感じます。冬でも温暖。百歳を越える長寿・・・云々。


1550秦野北斗:2013/07/30(火) 06:55:14
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。

> 壱岐のことを「一大國」といい、対馬のことを「対海」と記します。
> 「対海国」は「タイカイ」。

気ずきません出したな。

古代の表記でみると。「対海国」は「対馬国」と「?海国」になるな。
候補は厳原で玄海が相当ではないかな。
「対馬国」と「厳海国」
対馬は2つに別れ、2国の可能性がある。


>
> 扶余・高句麗系の「邪頭味(ヤトウマイ)」「レン台」「尉キュウ台」の「イ」音も同じ遊牧民系の地名の語尾につく「イ」音ではないかと考えてます。
>
> 豊は、確かに倭人系の発音の可能性はありますね。倭人はどうも周代にすでに見えるそうですね。越人と比較されているのは、相関性があるからでしょう。
> http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/sitemap/sitemap.htm#map_3gokushiki
>
> 後漢書の倭人習俗記載は、そのまま魏志に挿入されるわけですが、もっと古い時代の南方系の倭人認識のそれをもってきている可能性も感じます。冬でも温暖。百歳を越える長寿・・・云々。
>


1551茨の紀氏:2013/07/03(水) 21:20:14
キリストと サタンの戦いの場
777当麻蹴速(たいまのけはや) 仁天皇(7年7月7日)
当麻蹴速(たいまのけはや、たぎまのけはや、タエマクエハヤ、當麻蹶速、生年不明 - 垂 仁天皇7年7月7日)は、垂仁天皇の時代 ... http://ja.wikipedia.org/wiki/当麻蹴速
『日本書紀』によれば、大和国の当麻邑(たいまのむら、現奈良県葛城市當麻)に住み、強力を誇って生死を問わない勝負をする者を欲していたため、これを聞いた垂仁天皇が出雲国から勇士であると評判の野見宿禰を召し寄せ、捔力(すまひ)で対戦させたところ、互いに蹴り合った後に、腰を踏み折られて死んだといい、蹴速の土地は没収されて、勝者の野見宿禰の土地となったという[1]。
「蹴速」という名前は、蹴り技の名手であったことを示すために名付けられたと推測されている[2]。また、葛城市當麻には蹴速の塚と伝わる蹴速塚がある。
後世野見宿禰と共に相撲の神とされ、両者が相撲を取った地であると伝える奈良県桜井市の穴師坐兵主神社の摂社、相撲神社に野見宿禰とともに祀られている。
地元の奈良県葛城市當麻町には、蹴速の屋敷跡があると言う地元伝承が残っている。

777=十字架=獣666とイエス888の中間=神・天・地=神が天と地を結んだクロス http://www.geocities.co.jp/MusicHall/4053/Kabbale.html

777 は「十字架」を表すらしいのです。 666 はサタンを表しますが、888 はキリストを表し ます。 、「十字架」以外にも、「神・天・地」のギリシア語ゲマトリアが 777 となるそうです。 「十字架(クロス)」とは、「神」が「天」と「地」を結んだもの、つまり、 ... http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1449

十字架」のギリシア語ゲマトリアを見ると、777 となります。これは十字架が、キリストと サタンの戦いの場であったことを表しているのだそうです。キリストはその ... http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/75944/74549/45799298?page=2

111 は 37(六芒星数)の 3 倍です。
111 = 37+37+37
111 はヘブル語では、アレフ(ヘブル語アルファベットの最初の文字の名前)のゲマトリアに等しくなります。

111 は、ギリシア語では「鍵」を意味する言葉のゲマトリアにも等しくなります。111 は、 666 や 888 といった数の神秘を解き明かす鍵となるのです。 さらに、111 は「北斗七星」 のゲマトリアともなります。北斗七星は古来、方角や時刻、季節など ... http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1449
約111km
地球上の計算では40000÷360=約111km1度当たりですが、私が測りましたら 90Km位で結構差がありますがどちらの方が正しいですか。 因みに東経139度から 140度まで直線距離測りましたら90.45kmと111.111kmにはなりませ ... http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1029994330

『日本書紀』の該当部分をよくよく読んでみると,野見 宿禰は当麻蹴速を蹴り殺しているのである。

十字架が、キリスト(当麻蹴速)と サタン(野見 宿禰)の戦いの場 『日本書紀』?


1552茨の紀氏:2013/07/03(水) 21:38:07
Re: キリストと サタンの戦いの場
> 777当麻蹴速(たいまのけはや) 仁天皇(7年7月7日)
> 当麻蹴速(たいまのけはや、たぎまのけはや、タエマクエハヤ、當麻蹶速、生年不明 - 垂 仁天皇7年7月7日)は、垂仁天皇の時代 ... http://ja.wikipedia.org/wiki/当麻蹴速
>??『日本書紀』によれば、大和国の当麻邑(たいまのむら、現奈良県葛城市當麻)に住み、強力を誇って生死を問わない勝負をする者を欲していたため、これを聞いた垂仁天皇が出雲国から勇士であると評判の野見宿禰を召し寄せ、捔力(すまひ)で対戦させたところ、互いに蹴り合った後に、腰を踏み折られて死んだといい、蹴速の土地は没収されて、勝者の野見宿禰の土地となったという[1]。
>??「蹴速」という名前は、蹴り技の名手であったことを示すために名付けられたと推測されている[2]。また、葛城市當麻には蹴速の塚と伝わる蹴速塚がある。
>??後世野見宿禰と共に相撲の神とされ、両者が相撲を取った地であると伝える奈良県桜井市の穴師坐兵主神社の摂社、相撲神社に野見宿禰とともに祀られている。
>??地元の奈良県葛城市當麻町には、蹴速の屋敷跡があると言う地元伝承が残っている。
>
> 777=十字架=獣666とイエス888の中間=神・天・地=神が天と地を結んだクロス http://www.geocities.co.jp/MusicHall/4053/Kabbale.html

北緯35度 東経135 神が天と地を結んだクロス
日本標準時子午線が東経135度ちょうどではないのはなぜ
  日本標準時子午線東経135度上に明石市立天文科学館があります

明石市立天文科学館の緯度経度は,世界測地系で,
東経135度00分05.3秒 (135.001472222)
北緯34度38分57.8秒 (34.649388888)

参考ですが日本測地系で,
東経135度0分15秒 (135.004166666)
北緯34度38分46秒 (34.646111111)

日本標準時子午線は天文経緯度にもとづく東経135度ちょうどなのですが,世界測地系の東経135度より百数十メートルほど東よりにあります。


地図上の不思議な発見(データ)
北西隅 北緯35度4分14秒,東経135度50分26秒 南西隅 北緯35度4分12秒,東経135度50分26秒 北東隅 北緯35度4分14 ... 紀貫之墓, 北緯34度56分36秒,東経135度42分11秒 北緯35度3分48秒,東経135度51分0秒, 45°10′26.81″ 18,898.705( m).http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0husigihakken-d.htm
根本中堂の四隅の緯度、経度
 北西隅   北緯35度4分14秒,東経135度50分26秒
 南西隅   北緯35度4分12秒,東経135度50分26秒
 北東隅   北緯35度4分14秒,東経135度50分28秒
 南東隅   北緯35度4分12秒,東経135度50分28秒

延暦寺根本中堂(えんりゃくじこんぽんちゅうどう)は、比叡山延暦寺の総本堂である。 伝教大師最澄が788年(延暦7年)に、一乗止観院という草庵を建てたのが始まりとされ る。 http://ja.wikipedia.org/wiki/延暦寺根本中堂

此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見である。日枝の山(ひえのやま)と は後の比叡山のことである。 牛尾山(八王子山)山頂に磐座があり、これが元々の信仰 の地であった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/日吉大社
滋賀県大津市坂本5丁目1-1
位置
北緯35度4分24.4秒
東経135度51分53.9秒
主祭神
西本宮:大己貴神
東本宮:大山咋神





1553茨の紀氏:2013/07/03(水) 21:52:39
Re: キリストと サタンの戦いの場
> > 777=十字架=獣666とイエス888の中間=神・天・地=神が天と地を結んだクロス http://www.geocities.co.jp/MusicHall/4053/Kabbale.html
>
> 北緯35度 東経135 神が天と地を結んだクロス
> 日本標準時子午線が東経135度ちょうどではないのはなぜ
>   日本標準時子午線東経135度上に明石市立天文科学館があります
>
> 明石市立天文科学館の緯度経度は,世界測地系で,
> 東経135度00分05.3秒 (135.001472222)
> 北緯34度38分57.8秒 (34.649388888)
>
> 参考ですが日本測地系で,
> 東経135度0分15秒 (135.004166666)
> 北緯34度38分46秒 (34.646111111)
>
> 日本標準時子午線は天文経緯度にもとづく東経135度ちょうどなのですが,世界測地系の東経135度より百数十メートルほど東よりにあります。
>
>
> 地図上の不思議な発見(データ)
> 北西隅 北緯35度4分14秒,東経135度50分26秒 南西隅 北緯35度4分12秒,東経135度50分26秒 北東隅 北緯35度4分14 ... 紀貫之墓, 北緯34度56分36秒,東経135度42分11秒 北緯35度3分48秒,東経135度51分0秒, 45°10′26.81″ 18,898.705( m).http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0husigihakken-d.htm
> 根本中堂の四隅の緯度、経度
>  北西隅   北緯35度4分14秒,東経135度50分26秒
>  南西隅   北緯35度4分12秒,東経135度50分26秒
>  北東隅   北緯35度4分14秒,東経135度50分28秒
>  南東隅   北緯35度4分12秒,東経135度50分28秒
>
> 延暦寺根本中堂(えんりゃくじこんぽんちゅうどう)は、比叡山延暦寺の総本堂である。 伝教大師最澄が788年(延暦7年)に、一乗止観院という草庵を建てたのが始まりとされ る。 http://ja.wikipedia.org/wiki/延暦寺根本中堂
>
> 此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見である。日枝の山(ひえのやま)と は後の比叡山のことである。 牛尾山(八王子山)山頂に磐座があり、これが元々の信仰 の地であった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/日吉大社
> 滋賀県大津市坂本5丁目1-1
> 位置
> 北緯35度4分24.4秒
>??東経135度51分53.9秒
> 主祭神
> 西本宮:大己貴神
>??東本宮:大山咋神
>
??通常ナザレの人とはイエスのことですが
明石市立天文科学館の緯度経度は,世界測地系で,
東経135度00分05.3秒 (135.001472222)
北緯34度38分57.8秒 (34.649388888)

参考ですが日本測地系で,
東経135度0分15秒 (135.004166888)
北緯34度38分46秒 (34.646111888)

222
ゲマトリア数秘術では222はナザレ人を意味 します。 http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/469843/456623/56896365
888
666 はサタンを表しますが 、888 はキリストを表します。 http://apollomanroku.wordpress.com/2007/07/07/777-十字架と六芒星/
666

反キリスト 666 = (6+6+6)x37
十字架   777 = (7+7+7)x37 http://apollomanroku.wordpress.com/2007/07/07/777-十字架と六芒星/
イエス   888 = (8+8+8)x37

>111 は、ギリシア語では「鍵」を意味する言葉のゲマトリアにも等しくなります。111 は、 666 や 888 といった数の神秘を解き明かす鍵となるのです。 さらに、111 は「北斗七星」 のゲマトリアともなります。北斗七星は古来、方角や時刻、季節など ... http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1449


1554秦野北斗:2013/07/03(水) 22:36:56
フン族の王子
キリスト

推測ですが、キリストはフン族の王子でないかな。

フン族(フンぞく、Hun)は、ヴォルガ川東方から現れた遊牧民の集団で、370年頃にヨーロッパへ移住して大帝国を築いた。彼らは恐らく300年程前に中国の北隣に居住していた匈奴の子孫であり。

http://ja.wikipedia.org/wiki/フン族


1555管理人:2013/07/03(水) 23:24:46
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。


> > 壱岐のことを「一大國」といい、対馬のことを「対海」と記します。
> > 「対海国」は「タイカイ」。
>
> 気ずきません出したな。
>
> 古代の表記でみると。「対海国」は「対馬国」と「?海国」になるな。
> 候補は厳原で玄海が相当ではないかな。
> 「対馬国」と「厳海国」
> 対馬は2つに別れ、2国の可能性がある。
>
>

なるほど、両者もしかすると、関係ありそうですね。

壱岐島に「厳原(いづはら)港」というのもあります。おそらく元は「イツキハラ」ではないでしょうか。
つまり「壱岐(イチキ)」と関係して発音されていた可能性を感じます。

同じ九州北部で信仰されている宗像三女神のひとりに「市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)」がいます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

この「市杵嶋(イチキシマ)」が、つまり「壱岐島」のことなんでしょう。通説では「斎き」に解釈してますが、魏志倭人伝の発音だと、昨日お話したとおり「イチタイ」で、それが後代「イチキ(壱岐)」となり、最終的に「イキ」となったものと感じます。

だから、魏志倭人伝での「一」は、そのまま「イチ」と発音していた可能性が高いんです。
後に日本側で、その発音に「壱」の当て字をします。





1556プジョー106:2013/07/04(木) 01:11:26
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1557秦野北斗:2013/07/04(木) 21:43:25
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。

残念だが、「一大國」は存在しないな。
魏志倭人伝の翻訳ミスだな。

「対海国」がヒントになったな。
対馬は対馬国で壱岐が厳海(瀚海)国になるな。

厳原(いづはら)から壱岐(いづ)になり、壱岐(イツキ)漢音

翻訳
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

また、南に一海を渡ること千余里、名を瀚海。一大国の官、卑狗、副は卑奴母離に至る。四方は三百里、竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、また南北に物々交換に出かける。

翻訳ミス『三国志魏書』倭人伝(通称:魏志倭人伝)

又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

 また、南に一海を渡ること千余里、名を瀚海という、一大国に至る。官もまた卑狗、副は卑奴母離という。四方は三百里ほど。竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、また南北に物々交換に出かける。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm


1558管理人:2013/07/04(木) 23:24:43
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。

> 残念だが、「一大國」は存在しないな。
> 魏志倭人伝の翻訳ミスだな。
>
> 「対海国」がヒントになったな。
> 対馬は対馬国で壱岐が厳海(瀚海)国になるな。
>
> 厳原(いづはら)から壱岐(いづ)になり、壱岐(イツキ)漢音
>
> 翻訳
> 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
>



おそらく「瀚海」は、「ガン・カン+カイ」で、今の玄界(ゲンカイ)灘のことではないでしょうか。
「瀚」は「広い、しお」の意味があるそうです。
かなり中国文化圏の影響を受けて成立した名称ですね。



範囲[編集]

最も一般的な範囲として福岡県宗像市の鐘ノ岬から志賀島、糸島半島、唐津湾を経て佐賀県唐津市の東松浦半島までの海岸から、沖合は大島、沖ノ島、長崎県の壱岐、対馬までの海域を指すとされる。東方は響灘に接し、西方は東シナ海、北方は日本海に連なる[3]。一方で、東端を遠賀川河口まで、西端を平戸海峡(平戸瀬戸)までとすることもある
http://ja.wikipedia.org/wiki/



それで宗像の市杵(いつき)嶋姫が、これが、「壱岐(いつき)」嶋姫のことで、「一大(いちだい)国」および「一大率」


「伊都」も「イツ」の可能性がありますね。



先の厳原(いづはら)もそうです。原は西都原同様に九州特有の地名ですね。


「ガン」が「ゲン」に後代なるわけです。そしてそれに「厳・イツキ」という意味をもたせていくのですが、

邪馬台国の長官職も「伊支馬(イチマ)」といいます。対馬が対海となったように、「馬」はしばしば「海」と変換します。

それに対して伊都国の長官職は「爾支(ニギ)」で、いわゆる物部系の祖・ニギハヤヒと関係してきます。
「一」と「二」の関係か?

「ニチ」と発音した可能性もあります。「日(ニチ)」→「速日」

「イチ」⇔「ニチ」の対応も重要ですね。

「イキ」⇔「ニキ」


そこで、物部系の孝元・開化妃のウツ(鬱)シコと姪のイカガ(伊香:イコウ)シコの関係になります。

彼女たちは「石凝姥女(イシコリボメ)」として鏡作神社に祀られるのですが、「石(イシ)」というのが、石切神社のように、物部系のアイデンティティーを現す発音なんです。

「イシ」⇔「イチシ」「イチキ」・・・


「ウツ」と「イコウ」の発音も、これらの物部系の要素と関わってくるとすると、どうなるか?

「ウツ」⇔「イツ」

「イコウ」⇔「イヨ」「イチヨ」「イチコウ」「イシコウ」⇔「シコ」


「伊迦賀色許売(イカガシコメ)命」

許は「コ・キョ」で、コとヨの間くらいの発音だったのではないでしょうか。

そこから類するすると、「壹與(イチヨ)」は「壹興(イチコウ・キョウ」と記されたのでしょう。
「ヨ」「コウ」のどちらかの発音、あるいは中間的な「キョ」に近い音だったか、その辺がどう識別できるかという点が課題です。


1559茨の紀氏:2013/07/05(金) 03:00:47
Re: フン族の王子
秦野北斗さんへのお返事です。

> キリスト
>
> 推測ですが、キリストはフン族の王子でないかな。
>
> フン族(フンぞく、Hun)は、ヴォルガ川東方から現れた遊牧民の集団で、370年頃にヨーロッパへ移住して大帝国を築いた。彼らは恐らく300年程前に中国の北隣に居住していた匈奴の子孫であり。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/フン族
>

フン族??楚(・・・いばら)
匈奴(呉音:くぬ、漢音:きょうど、拼音:Xiōngnú)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/匈奴
壺衍鞮単于(在位:前85年 - 前68年)の代になり、東胡の生き残りで匈奴に臣従していた烏桓族が、歴代単于の墓をあばいて冒頓単于に敗れた時の報復をした。壺衍鞮単于は激怒し、2万騎を発して烏桓を撃った。
匈奴の内紛と呼韓邪単于[編集]
漢に対抗できなくなった匈奴は何度か漢に和親を求め、握衍?鞮単于(在位:前60年 - 前58年)の代にもその弟を漢に入朝させた。しかし一方で、握衍?鞮単于の暴虐殺伐のせいで匈奴内で内紛が起き、先代の虚閭権渠単于の子である呼韓邪単于(在位:前58年 - 前31年)が立てられ、握衍?鞮単于は自殺に追い込まれた。

キリストはアッシリアの言語であるアラム語を話していた http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?


1560秦野北斗:2013/07/05(金) 03:25:55
Re: 大倭
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001604M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝



1561秦野北斗:2013/07/05(金) 03:51:03
Re: フン族の王子
茨の紀氏さんへのお返事です。

匈奴は紀元前からになるな。衛氏朝鮮の正体が問題ですな。

『山海経』海内北経に、「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕。」という一節がある。蓋国の位置について述べた文であるが、蓋国についてはいろいろな説があるため、ここでいう倭の位置については確定しない。また「属する」の意味も、普通に倭は燕の属国だったという一般的な解釈

http://ja.wikipedia.org/wiki/燕_(春秋)

衛氏朝鮮

燕王盧綰反、匈奴、滿亡命、聚黨千餘人、魋結蠻夷服而東出塞、渡?水、居秦故空地上下鄣、稍役屬真番、朝鮮蠻夷及故燕、齊亡命者王之、都王險。

 燕王の盧綰(ロワン)が背き、匈奴に亡命すると、髷(まげ)を結い、蛮夷の衣服を着た満は千余の人々を連れて長城を出て東に逃れ、?水(清川江)を渡り、秦の時代の昔の空地に居を構えて鄣(長城)を出入し、真番に軽く属していた朝鮮蛮夷や、その地に暮らす昔の燕や斉からの亡命者らの王となり、王険城(王倹城とも)を都とした。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen4-eisichosen.htm


>
> フン族??楚(・・・いばら)
> 匈奴(呉音:くぬ、漢音:きょうど、拼音:Xiōngnú)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/匈奴
> 壺衍鞮単于(在位:前85年 - 前68年)の代になり、東胡の生き残りで匈奴に臣従していた烏桓族が、歴代単于の墓をあばいて冒頓単于に敗れた時の報復をした。壺衍鞮単于は激怒し、2万騎を発して烏桓を撃った。
> 匈奴の内紛と呼韓邪単于[編集]
> 漢に対抗できなくなった匈奴は何度か漢に和親を求め、握衍?鞮単于(在位:前60年 - 前58年)の代にもその弟を漢に入朝させた。しかし一方で、握衍?鞮単于の暴虐殺伐のせいで匈奴内で内紛が起き、先代の虚閭権渠単于の子である呼韓邪単于(在位:前58年 - 前31年)が立てられ、握衍?鞮単于は自殺に追い込まれた。
>
> キリストはアッシリアの言語であるアラム語を話していた http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
>

1562管理人:2013/07/05(金) 23:17:42
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。


> 例だが、一大國官亦曰卑狗、一大率であるが一大率は女王国の制度になる。から訳すと
>
> 一大率は国名でない。ゆえ、後者がただしいな。
>
> 一大國の官亦曰卑狗は一大の國官亦曰卑狗になるな。
>

ともあれ「一大」には、別々の語から同じ音を読み取って、同じ文字を当てたというより、同じ意味を持つ同系列の言葉と認識した可能性がありそうですね。




『三国志魏書』倭人伝

從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。始度一海、千餘里至對海國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴。



「始度一海」から、予想できることは、それまでは逆に大きな海峡は渡ってなかったということです。
「對海國」は「対馬国」
「絶島」として、「島」であることを認識しているのにも関わらず「対島」にしなかった理由は、別にあるのかもしれません。現地人の漢字表記ですでに「対海」だったのか。

対海の海に二つの海峡を意味していた可能性もなくはないですが・・・。

「到其北岸狗邪韓國」の意味ですが、おそらく一度済州島方面に南下して、海峡の真ん中の海流の強いところを東北へ北上しながら、プサンつまり狗邪韓国方面へ島伝いに向かうと、「北岸」の表現が正しくなるかもしれません。

陸路で行けば、狗邪韓国は「南岸」なんですけどね。

1563秦野北斗:2013/07/06(土) 01:53:16
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。

> ともあれ「一大」には、別々の語から同じ音を読み取って、同じ文字を当てたというより、同じ意味を持つ同系列の言葉と認識した可能性がありそうですね。
>
> 「始度一海」から、予想できることは、それまでは逆に大きな海峡は渡ってなかったということです。
> 「對海國」は「対馬国」

この辺は過去の誤訳を訂正しなければだめでしょうな。
論理上存在しないものがあるが、先輩には間違いがないですな・・。
ばかげた事・・。

済州島は「筑紫の宇佐」「竹島」になるな。オオクニヌシですな。
また、
済州島は古事記に「筑紫島」、日本書紀に「筑紫洲」で出てくるな。
ちなみに、壱岐島は古事記に「伊岐島」、日本書紀に「億岐洲」になるな。
対馬は古事記に「津島」、日本書紀に「越洲」。


音読み
呉音 漢音 : イ
伊達(だて)


音読み
呉音 : オク
漢音 : ヨク(表外)
訓読み
常用漢字表内
常用漢字表内の訓読みはありません。
常用漢字表外


壱岐島の壱は後世に当てた字ですな。「一大」の意味は見当たらないな。


「到其北岸狗邪韓國」は東北地方の東北の意味は何か・・、南国の南は何か・・
の質問ですな。

> 「絶島」として、「島」であることを認識しているのにも関わらず「対島」にしなかった理由は、別にあるのかもしれません。現地人の漢字表記ですでに「対海」だったのか。
>
> 対海の海に二つの海峡を意味していた可能性もなくはないですが・・・。
>
> 「到其北岸狗邪韓國」の意味ですが、おそらく一度済州島方面に南下して、海峡の真ん中の海流の強いところを東北へ北上しながら、プサンつまり狗邪韓国方面へ島伝いに向かうと、「北岸」の表現が正しくなるかもしれません。
>
> 陸路で行けば、狗邪韓国は「南岸」なんですけどね。

過去ログですな。

【暦韓國(群山、クンサン)をへて、あるいは、南しあるいは東し…】の文の意味は当方は、方向転回した所に倭奴国が存在したと考えています。 狗邪韓國が「倭の北岸」、倭奴国が「倭の南岸」なのですね。

http://9127.teacup.com/19syoucha/bbs/68



1564管理人:2013/07/06(土) 23:05:35
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。


>
> 済州島は「筑紫の宇佐」「竹島」になるな。オオクニヌシですな。
> また、
> 済州島は古事記に「筑紫島」、日本書紀に「筑紫洲」で出てくるな。
> ちなみに、壱岐島は古事記に「伊岐島」、日本書紀に「億岐洲」になるな。
> 対馬は古事記に「津島」、日本書紀に「越洲」。
>


> 過去ログですな。
>
> 【暦韓國(群山、クンサン)をへて、あるいは、南しあるいは東し…】の文の意味は当方は、方向転回した所に倭奴国が存在したと考えています。 狗邪韓國が「倭の北岸」、倭奴国が「倭の南岸」なのですね。
>
> http://9127.teacup.com/19syoucha/bbs/68
>
> 。





「歴韓国」ですが、「歴」は下記のような意味があります。


意義[編集]
へる。順序に従って通る。
歴訪、経歴
順序を経てきたもの。
歴史
http://ja.wiktionary.org/wiki/


順番に海岸沿いの韓国を巡っていったというのが通説ですね。




1565秦野北斗:2013/07/07(日) 20:55:08
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。

『三国志魏書』馬韓伝に桓帝と霊帝の末(146年−189年)、韓と濊が強勢となり、郡県では制することができず、多くの民が韓国に流入した。

(146年−189年)「多くの民が韓国に流入した。」の文章から韓国に流入した。ことになるな。表記の暦韓國は馬韓と韓国を分けると思われる。狗邪韓國もいい例ですな。暦韓國の意味は韓国の暦でレキが地名になるな。同様に考えると狗邪韓國は韓國の狗邪。注意点は当時の韓國の位置が倭国の位置と一致しているな。現在は馬韓と倭国を韓国と言っているな。

また、梁書の扶桑から大漢国(やまと)を推定。大漢国は朝鮮(現在の韓國と北朝鮮)を意味し、志魏の韓国は倭国になるな。

http://ja.wikipedia.org/wiki/扶桑

『三国志魏書』馬韓伝

 桓、靈之末、韓濊彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模、張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。

 桓帝と霊帝の末(146年−189年)、韓と濊が強勢となり、郡県では制することができず、多くの民が韓国に流入した。

 建安年間(196年−220年)、公孫康、屯有県以南の荒野を分けて帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して後漢の遺民を集めるため、兵を挙げて韓と濊を討伐したが、旧民は少ししか見出せなかった。この後、倭と韓を帯方に帰属させた。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm


> > 【暦韓國(群山、クンサン)をへて、あるいは、南しあるいは東し…】の文の意味は当方は、方向転回した所に倭奴国が存在したと考えています。 狗邪韓國が「倭の北岸」、倭奴国が「倭の南岸」なのですね。
>
> 「歴韓国」ですが、「歴」は下記のような意味があります。
>
>
> 意義[編集]
> へる。順序に従って通る。
> 歴訪、経歴
> 順序を経てきたもの。
> 歴史
> 順番に海岸沿いの韓国を巡っていったというのが通説ですね。
>
>


1566管理人:2013/07/08(月) 05:15:40
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。


> 『三国志魏書』馬韓伝に桓帝と霊帝の末(146年−189年)、韓と濊が強勢となり、郡県では制することができず、多くの民が韓国に流入した。
>
> (146年−189年)「多くの民が韓国に流入した。」の文章から韓国に流入した。ことになるな。表記の暦韓國は馬韓と韓国を分けると思われる。狗邪韓國もいい例ですな。

>  桓、靈之末、韓濊彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模、張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。
>
>  桓帝と霊帝の末(146年−189年)、韓と濊が強勢となり、郡県では制することができず、多くの民が韓国に流入した。
>


「韓国」の語に注目すると、確かに「狗邪韓國」の事例は重要ですね。

馬韓、弁韓、辰・秦韓と同列の扱いということになるでしょうか。

「狗邪」が、「馬」、「弁」、「辰・秦」と同義の可能性がでてきます。

すでに会報で記したように、楽浪からみて、「馬」⇔南の方角を「馬韓」、東南→「辰」を「辰韓」としたわけですが、そういう論理からいくと、「狗(戌)」の(西北⇔東南)方角とみてよいかもしれません。当時の用法で、主多雨と客体が入れ替わる言語により、東西南北が逆に記されているんですね。

たとえば、日本からみて西北は韓国なのですが、韓国を主体とする言語では、日本は韓国からみて「東南」にあると話すわけです。

先の北境を「狗邪韓國」としたり、倭人伝でしばしば東西南北が逆に記されていることも、その言語と方角の論理と記載に関係しているかもしれません。

ともあれ、「韓」を、方角で4種類くらいに、楽浪郡がある時期に分割して呼んでいた可能性を感じます。

それで「歴韓国」の意味も、解けてくるでしょう。

1567秦野北斗:2013/07/08(月) 06:52:50
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。

まだ、古代の韓国の地図ができていませんな。

東西南北が合わないには、楽浪郡が平壌(ピョンヤン)にあると考えていますな。
平壌は玄菟郡。

楽浪郡は開城(ケソン)ですぞ。

郡より女王国に至るには一万二千余里である。ここの群は帯方郡ですな。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm

>
> 馬韓、弁韓、辰・秦韓と同列の扱いということになるでしょうか。
>
> 「狗邪」が、「馬」、「弁」、「辰・秦」と同義の可能性がでてきます。
>
> すでに会報で記したように、楽浪からみて、「馬」⇔南の方角を「馬韓」、東南→「辰」を「辰韓」としたわけですが、そういう論理からいくと、「狗(戌)」の(西北⇔東南)方角とみてよいかもしれません。当時の用法で、主多雨と客体が入れ替わる言語により、東西南北が逆に記されているんですね。
>
> たとえば、日本からみて西北は韓国なのですが、韓国を主体とする言語では、日本は韓国からみて「東南」にあると話すわけです。
>
> 先の北境を「狗邪韓國」としたり、倭人伝でしばしば東西南北が逆に記されていることも、その言語と方角の論理と記載に関係しているかもしれません。
>
> ともあれ、「韓」を、方角で4種類くらいに、楽浪郡がある時期に分割して呼んでいた可能性を感じます。
>
> それで「歴韓国」の意味も、解けてくるでしょう。


1568茨の紀氏:2013/07/09(火) 07:19:17
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。

東西南北が逆
> 先の北境を「狗邪韓國」としたり、倭人伝でしばしば東西南北が逆に記されていることも、その言語と方角の論理と記載に関係しているかもしれません。

南北逆
行基図を模写して掲載した現存最古の地図で .... この写図は南北逆の. 原図を忠実に 写し、 ...
kurepo.clib.kindai.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file...
_ー595年刊 ティシェイ ラ 「日本図」(Adobe PDF)

方向誤認の理由 - nifty
ところが、この混一彊理図はもともと中国での地図に日本からもたらされた行基図(飛鳥 〜奈良時代の僧侶・行基――生没668〜749 ... また、旧唐書日本伝(946年作)、宋 史(1345年作)は「東西南北、各数千里」とし、日本が南北列島との認識はありません。 http://homepage3.nifty.com/washizaki/paper/paper19.html
拙著では倭人伝の全ての方向記事17ヶ所(韓国沿岸水行の乍南乍東を除く)について、方向座標軸を65度修正すれば、四大国(伊都・投馬・邪馬台・狗奴)を含む各国の位置関係が矛盾なく説明できることを示しました。
それでは、なぜ60〜70度の方向誤認が起こったのかを以下で説明します。

中国正史25書のうち日本を南北に細長い列島と記述するのは一書として存在しません。逆に、隋書(636年作)、北史(659年作)、通典(801年作)、旧唐書倭国伝(946年作)、新唐書(1060年作)は、日本を「東西五月行」「南北三月行」と東西に細長い島国として記述しています。また、旧唐書日本伝(946年作)、宋史(1345年作)は「東西南北、各数千里」とし、日本が南北列島との認識はありません。すなわち、中国側の日本列島の認識は歴史的にほぼ一貫して「朝鮮半島の東南に連なる東西列島」せいぜい「東南列島」であって、決して「南北列島」ではありません。
なお、「会稽東治」について三国志版本は「東治」とするのに対し、後漢書は「東冶」と記しています。 後漢書の「東冶」とは台湾対岸の福建省東冶(先ほどの地図参照)と言われ、この後漢書を根拠として、古代中国人は日本列島が台湾付近まで南北に延びていると誤認していた、との説がありますが、この説も誤りです。
すなわち、「東冶」とするのは以下のように後漢書・晋書・翰苑の三書に過ぎません。

以上から言えることは、「東治」「東冶」「間川」にこだわるのは危険で、共通するのは「会稽」ということだけです。福建省「東冶」は永安三年(260年)以降は分郡で会稽郡から離れ建安郡に属したので、各時代に共通する「会稽」の概念から外れています。この各時代に共通する「会稽」とは、会稽山(揚子江下流の上海付近)を中心とする会稽郡のことで、古代中国では日本列島を会稽山の東方海上に位置するとして、60〜70度の方向誤認をしていたのが大勢です。

邪馬台国の位置   http://homepage3.nifty.com/washizaki/paper/paper1.html




1569秦野北斗:2013/07/09(火) 20:34:15
Re: 大倭
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001614M.jpg

http://homepage3.nifty.com/washizaki/paper/paper1.html



1570管理人:2013/07/09(火) 23:04:21
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。

> 東西南北が合わないには、楽浪郡が平壌(ピョンヤン)にあると考えていますな。
> 平壌は玄菟郡。
>
> 楽浪郡は開城(ケソン)ですぞ。
>

開城は、ちょっと内陸すぎる感じがしますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/






1571管理人:2013/07/09(火) 23:11:07
Re: 大倭
茨の紀氏さんへのお返事です。


> 方向誤認の理由 - nifty
> ところが、


この問題も要考察ですが、特定の方向が間違っていれば、〜も間違っているということを証明できればいいはずです。

一部だけ間違っているならば、誤写のケースとかもありえます。

全部間違っているのか?

距離は、方向が異なるとどの程度誤差がでるのか、伸びるのか、縮むのか?

その辺を具体的に、証明しないと駄目ですね。

1572茨の紀氏:2013/07/10(水) 11:46:55
東を目指す人々とは異なる考え・・・地球が丸い   東を目指す人々・・・地球が平ら
コロンブスは、東を目指す人々とは異なる考えを持っていました。 http://www.mori7.net/marason/marason_sample.php?id=842819
彼は、地球が丸いことを信じていました。アフリカの南をまわってアジアを目指すよりも、大西洋を西へ進んだほうが、ずっと早くアジアにたどり着けるはずだと考えたのです。

「地球は丸い」と知って いるため、緯度が高くなるにつれて二至の日の出の方位角が変化することは理解出来る 。 http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/index98-8.html
航海文化の果てに
青銅器は風葬の儀式に使われたものであり、その儀式は航海に必要な三角測量を基準に行ったのではないかということをこれまで説明してきた。そしてこれらの文化は農耕民の稲作文化ではなく、航海による交易を職業とする航海民達の航海文化に関係しているということを述べてきた。
それではなぜ彼らはわざわざ方位を定めて青銅器を埋納したり、遺跡を築いていったのだろうか?私はここである種の誘惑に駆られる。それは「彼らの航海文化が発展し続けた場合、その先にあるものは何なのか」という想像である。
船は準構造船から構造船に発展し、港に適した潟湖は大いに発展し、交易は盛んになる。航海技術は、操作技術の向上と測量技術の発展を迎え、そして航海航路が確定すると想像を広げてみる。その場合、その先に一体何が見えるのか。
結論を急ごう。私は「彼らが航海文化の総合芸術ともいうべき「地図」の制作を試みた」と考える。わざわざ三角測量をして青銅器を埋納したり、遺跡を築いたりするのも、彼らが「地形図」を作るためだったと考えると納得がいく。勿論、「地形図」を作るという目的のために三角測量が始まったわけではないだろう。はじめは航海の必要上、海から判別しやすいものを目印としただけだっただろう。そのうち航海技術が発達するにつれて、日本の全体像を把握するために発展した技術を駆使して「地形図」を作ることを試みたのではないか。
測量技術が発達して三角測量が行われたとすれば、それを利用して正確に地形を把握したいと考えないほうが困難である。実際、現在の地図作りも三角測量を用いた放射測量(山当て法)で行われている。ただ現在は天文測量、つまり星の位置を基準に緯度経度を測りつつ三角測量を行うのに対し、(これまで述べてきたように)当時は太陽を基準に角度を決定し三角測量を行うという違いが存在する。これは簡単に言うと「地球は丸いと知っているか、そうでないか」ということである。我々は今では「地球は丸い」と知っているため、緯度が高くなるにつれて二至の日の出の方位角が変化することは理解出来る。

これまで、この「魏志倭人伝」の方位の問題は様々な解釈がなされてきた。そのなかで邪馬台国大和説をとる専門家は、この方位の記述は「混一疆理歴代国都之図」を用いて、当時の人々に地理上の過ちがあり、上図のような位置に日本があると信じていたためと解釈した。それは「魏志倭人伝」に「その道里を計るに、当に会稽の東冶(今の浙江省から江蘇省のあたり)の東にあるべし」というくだりがあるためである。ただ何故このような間違いをおかしたかについては、これまで判然としなかった。しかしその間違いは、太陽を基準にして三角測量を用いた山当て法により地図を作った者達がいたためと考えればつじつまが合う。さらにそれは「魏志倭人伝」が作成される以前であったことは確かである。つまり、卑弥呼以前にこのような地図を作れた者達がいたと考えるべきであろう。


1573秦野北斗:2013/07/10(水) 22:39:24
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。

先入観ですな。

1.始めて海を1000余里渡ると対馬国に至る(「始度一海千餘里、至對馬國」)。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。

2.また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る(「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」)。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000の家族が住める。田畑はあるが足りず、市へいく。注、一大国は誤訳で正しくは瀚海国で国名。

3.また海を1000余里渡ると末廬国に至る(「又渡一海千餘里、至末盧國」)。4000余戸が有る。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚や、アワビを捕るのを好み、皆が潜る。

説明は誤訳のまま行くぞ。

基点は狗邪韓國:フザンの港ですな。

1.狗邪韓國から対馬国まで1000余里
2.対馬国から一大国まで1000余里
3.一大国から末廬国まで1000余里

Google Earthで共通の距離を出せば1里=53mがでる。
秦野著書、徐福と邪馬台国で説明ずみですな。
少し手間を省き先入観がすぎますな。

狗邪韓國(倭国と新羅の境)から帯方郡と楽浪郡の距離は同一距離
1万2千里

実の所、徐福と邪馬台国の筑後川ルートは秦野も驚いているのだ。
魏志倭人伝の記録に従うと九州のど真中に行く、常識では考えられないな
ここに解答があるなだな。

>管理人さんへのお返事です。
> 開城は、ちょっと内陸すぎる感じがしますね。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>


1574管理人:2013/07/11(木) 23:19:36
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。

> 先入観ですな。
>
> 1.始めて海を1000余里渡ると対馬国に至る(「始度一海千餘里、至對馬國」)。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
>


対馬の件がやはりきになりますね。「対海国」と「対馬国」の2種の表記があります。

「紹興本 (1131年〜1162年刊)」では「対馬」、その後の「紹煕本 (1190年〜1194年刊)」では「対海国」となります。書写のミスとの味方があるようですね。

http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/gishi/gishi_shoukou_shouki.htm

もうひとつ気になるのが、「島」の表記です。
これは旧字体の「鳥+山」の表記を使っています。(トウ)

「帯方東南大海之中、依山(鳥+山)、為国邑」

その後「依山島為国邑 旧百余国 漢時有朝見 者 今使訳所通三十国 従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 」

「旧くは百余国があり、漢の時代に朝見するものあり、今使訳通ずるところ三十国、郡より倭に至るに、海岸をめぐって、水行し、順に韓国を歴訪して、乍ら南、乍ら東、其の北岸の狗邪韓国に到る」

正確には帯方郡の東南は大海ではないんですよね。韓国がある。

ところが、当時の認識では、おそらく公孫氏の征伐後で帯方郡の配下に南の諸韓国があったという認識だったのではないでしょうか。

ともあれ、郡の中心地から、東南に海岸沿いに巡航して、「其の」「北岸」にあたる「狗邪韓国に到る」となるわけです。

「其の」が、倭の領域を指し、倭の北岸を意味したのか?あるいは、韓国、さらには帯方郡の領域の北岸を意味したかで、捉え方が異なるでしょう。

倭の領域を、海や対馬のような周辺諸島まで示したのかどうかも課題です。



1575秦野北斗:2013/07/12(金) 06:41:01
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。

何処にも「順に韓国を歴訪して」の文字はないな。
歴韓国は単なる国ですな。

至對馬國で馬鹿な遊びをやるか。
「始度一海千餘里、至對馬國」の至對馬國を訳すと
始めて海を1000余里渡ると「馬に對(あ)いて国に至る。」

漢文の名詞を先入観で分離できないな。

> その後「依山島為国邑 旧百余国 漢時有朝見 者 今使訳所通三十国 従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 」
>
> 「旧くは百余国があり、漢の時代に朝見するものあり、今使訳通ずるところ三十国、郡より倭に至るに、海岸をめぐって、水行し、順に韓国を歴訪して、乍ら南、乍ら東、其の北岸の狗邪韓国に到る」
>
> 正確には帯方郡の東南は大海ではないんですよね。韓国がある。
>
> ところが、当時の認識では、おそらく公孫氏の征伐後で帯方郡の配下に南の諸韓国があったという認識だったのではないでしょうか。
>
> ともあれ、郡の中心地から、東南に海岸沿いに巡航して、「其の」「北岸」にあたる「狗邪韓国に到る」となるわけです。
>
> 「其の」が、倭の領域を指し、倭の北岸を意味したのか?あるいは、韓国、さらには帯方郡の領域の北岸を意味したかで、捉え方が異なるでしょう。
>
> 倭の領域を、海や対馬のような周辺諸島まで示したのかどうかも課題です。
>
>


1576茨の紀氏:2013/07/12(金) 07:56:21
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 何処にも「順に韓国を歴訪して」の文字はないな。
> 歴韓国は単なる国ですな。
>
> 至對馬國で馬鹿な遊びをやるか。
> 「始度一海千餘里、至對馬國」の至對馬國を訳すと
> 始めて海を1000余里渡ると「馬に對(あ)いて国に至る。」


馬に對(あ)いて国に至る。 考  http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
都 「つ」(呉音) - 真説・魏志倭人傳
(Adobe PDF) - htmlで見る http://www.gishiwajinden.net/upfiles/news/20100411_siryou.pdf#search='邑 品 解字'


1577管理人:2013/07/12(金) 23:10:14
Re: 大倭
茨の紀氏さんへのお返事です。

> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> > 管理人さんへのお返事です。
> >
> > 何処にも「順に韓国を歴訪して」の文字はないな。
> > 歴韓国は単なる国ですな。
> >
> > 至對馬國で馬鹿な遊びをやるか。
> > 「始度一海千餘里、至對馬國」の至對馬國を訳すと
> > 始めて海を1000余里渡ると「馬に對(あ)いて国に至る。」
>
>
> 馬に對(あ)いて国に至る。 考  http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?



「馬」は、倭人伝の「邪馬台国」「邪馬国」「斯馬国」の「馬」と同じ音でしょうね。

後に「都斯麻国」と記されていますが、このころには「つしま」の発音が定着しています。

もとは「対馬」(ツイマ)の音でしょう。



1578秦野北斗:2013/07/13(土) 10:19:21
Re: 大倭
茨の紀氏さんへのお返事です。

参考HP 魏使未踏の南海に連なる列島文化の源流「琉球弧」
掘り下げましょか。

『新唐書』日本伝
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun11-sintosho.htm

倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。

韓半島南部と日本、沖縄を含んだ地域ですな。神武天皇が引いた功(郊)ですな。

即位:神武天皇

辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、磐余彦は橿原宮で践祚し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。52歳であった。
神武天皇2年、功(郊)を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。
神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。
神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。
神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/神武天皇

(大委)王・多利思北孤:次用明、亦曰目多利思比孤。日目(にちもく)多利思比孤
次は用明、また僧(そう)多利思比孤(テリシヒコ:照彦)

日目 http://ja.wikipedia.org/wiki/日目

『隋書』倭国伝

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm

聖徳太子:冠位十二階の小徳、用明天皇の太子=小徳太子

倭国伝より
名太子為利歌彌多弗利。
名は為利歌彌多弗利(イリカヤテフリ:伊利、伽耶、照弗利)

倭国伝
古田武彦の解釈とはかけ離れるな。古田説はどうも漢文が読めないみたいだな?


> 興味深い情報が中国史書『漢書・地理誌』に記されています(図?)。
> ★「東テイ(魚是※)人」、呉の東海域に二十余国あったといいます。楽浪海中倭人百余国とは別表記なので、地理分析からは<東海域の北・倭人/南・東テイ人>となります。※ヒシコ(カタクチイワシ)、中国ではナマズ

> ★また『後漢書』では東テイ人の次に夷州・セン州があって徐福伝説を伝えていることからここは日本列島を指していそうで、ますます<東テイ人=琉球弧諸島人>の可能性が高いと言えます。
> ★3世紀『魏志』では既述の如く薩南諸島までは及んでいません。これが5世紀『宋書』になると有名な倭武の上表文には「東征毛人55国/西服衆夷66国」(計121国)とあり、『漢書』の「倭人100余国/東テイ人20余国」(計120余国)との対比が暗示的です。倭武が中国側の認識に合わせて領土を主張したとすれば、「衆夷66国(東テイ20+倭46※魏時での所通倭は九州中北部で30)となります。

> ★これを補強しそうなのが7世紀『隋書』でのタイ(大委)王・多利思北孤の領土主張「東西五月行/南北三月行」で、琉球弧まで含まれそうです。


> ★これらの分析を総まとめにして地図にプロットしたのが図?です。
> ※なお多利思北孤の主張視点(倭武も同じ)ではその所在が九州北部でなくては成り立たず、彼は大和の聖徳太子ではないことになります。

> また書紀には同時期に「掖玖人が帰化した」と記しており、屋久島が大和の領有地ではなかったことを示しています。
> ★さてこの琉球弧東テイ人と列島倭人との関係は古代どうだったのでしょうか。


> ★そしてもうひとつが「稲の道」(図?)、列島への稲の伝播は、これまでは「弥生時代に半島経由での伝播」とされてきましたが、近年では「縄文時代から琉球弧経由での伝播」もあって、今のコメはこの熱帯種と半島温帯種のかけ合わせによる寒冷対応米であることがDNA鑑定により解っています。
>


1579茨の紀氏:2013/07/13(土) 11:07:58
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。


> 「馬」は、倭人伝の「邪馬台国」「邪馬国」「斯馬国」の「馬」と同じ音でしょうね。
>
> 後に「都斯麻国」と記されていますが、このころには「つしま」の発音が定着しています。
>
> もとは「対馬」(ツイマ)の音でしょう。

2つで成り立っている島という 意味
馬マ・馬マの本来の意味が、「母親の乳房」 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
台地と台地の間の谷間(マー)

「対馬(ツシマ)」の語源は韓国語 ...
今では「テマド」(対馬島)と呼ぶが、かつては「トゥシマ」(2つで成り立っている島という 意味)と言った(訳注:韓国語で2は「トゥ」。ちなみに島は「ソム seom」)。日本人が「トゥ」 という音を発音できないために、日本語では今「ツシマ」と言っている。 http://blog.livedoor.jp/ad_mini/archives/51135330.html

>
>

1580秦野北斗:2013/07/13(土) 14:59:21
Re: 大倭
茨の紀氏さんへのお返事です。

少し対馬ですな。それでは。対馬「つしま」は日本語ですな。古事記では港の島、日本書紀では越の島、魏志倭人伝では、對海國は二つの海だな海は玄海(厳海)とガク海(鰐海)だな。厳原、鰐浦は古名のなごりだな。

古事記  津島 (ツシマ)
日本書紀  越洲 (エツシマ)
魏志倭人伝 對海國(タイカイ)(玄海(厳海)とガク海(鰐海))
『隋書』倭国伝 都斯麻国 (ツシマコク)

津  http://ja.wiktionary.org/wiki/
越   http://ja.wiktionary.org/wiki/
對  http://ja.wiktionary.org/wiki/
都  http://ja.wiktionary.org/wiki/
島   http://ja.wiktionary.org/wiki/

韓民族文化研究院学術顧問さん、もう少し知れべたらどうだ。
魏志倭人伝の時代には新羅は影も形もないぞ。
魏志倭人伝の國官は卑狗になるな。
新羅時代に大耶城の提督であった宗貞(チョン・ジョン)・・自国領土だと最近言い張っている日本人・・?

http://blog.livedoor.jp/ad_mini/archives/51135330.html



厳原  http://ja.wikipedia.org/wiki/厳原町
鰐浦  http://ja.wikipedia.org/wiki/上対馬町

鰐  http://ja.wiktionary.org/wiki/

>
> 「対馬(ツシマ)」の語源は韓国語 ...
> 今では「テマド」(対馬島)と呼ぶが、かつては「トゥシマ」(2つで成り立っている島という 意味)と言った(訳注:韓国語で2は「トゥ」。ちなみに島は「ソム seom」)。日本人が「トゥ」 という音を発音できないために、日本語では今「ツシマ」と言っている。 http://blog.livedoor.jp/ad_mini/archives/51135330.html
>


1581管理人:2013/07/14(日) 23:14:15
Re: 大倭
秦野北斗さんへのお返事です。

> 茨の紀氏さんへのお返事です。
>
> 少し対馬ですな。それでは。対馬「つしま」は日本語ですな。古事記では港の島、日本書紀では越の島、魏志倭人伝では、對海國は二つの海だな海は玄海(厳海)とガク海(鰐海)だな。厳原、鰐浦は古名のなごりだな。
>
> 古事記  津島 (ツシマ)
> 日本書紀  越洲 (エツシマ)
> 魏志倭人伝 對海國(タイカイ)(玄海(厳海)とガク海(鰐海))
> 『隋書』倭国伝 都斯麻国 (ツシマコク)
>
>

古事記の「津島」の表記はおもしろいですね。
「対島」の意味と異なってます。

「越州」は確かに「州」で島と読ませているわけですね。

【日本書紀 卷第一 第四段 一書第八 原文】. 一書曰 以 馭慮嶋爲胞 生淡路洲 次大日本豐秋津洲 次伊豫二名洲 次筑紫洲 次吉備子洲 次雙生億岐洲與佐度洲 次越洲. 【日本 書紀 卷第一 第四段 一書第八 読み下し】



この島(州)の並びはなんでしょうね。「馭慮嶋(オノゴロ島)」がどこなのかも興味深いですね。
仁徳の記載に、難波周辺の島としてみえます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

吉備児島のことを子洲と記すんですね。

大日本豐秋津洲は、こう見ると、日本列島全体というよりは、ヤマトの秋津の水没地域みたいな感じでしょうか。

方角別に法則にしたがって記されているようです。河内から大和、それから四国伊予に向かい、筑紫で、山陰へ向かって、隠岐、佐渡、越へと向かう、そういう感じですね。

これは、仁徳時代とかの街道とか何かのルートの優先順位ではないですかね。


1582秦野北斗:2013/07/15(月) 07:50:50
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。

オノゴロ島は2つ存在しますな。『古事記』『日本書紀』はそれぞれ異なる方向から
記録している模様。少し想像力が必要ですな。

自凝島。『古事記』では淤能碁呂島(おのごろじま)、現在の淡路島
http://ja.wikipedia.org/wiki/自凝島神社

磤馭盧島。『日本書紀』では磤馭慮島(おのころじま)「馭慮嶋(オノゴロ島)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/オノゴロ島

> この島(州)の並びはなんでしょうね。「馭慮嶋(オノゴロ島)」がどこなのかも興味深いですね。
> 仁徳の記載に、難波周辺の島としてみえます。?

国産みの島、大日本豐秋津洲は現在の八丈島になるな。位置は扶桑国だな。

国産み(くにうみ)とは日本の国土創世譚を伝える神話である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/国産み


秦野は『古事記』『日本書紀』の島と年代、ルートは読み解いていますぞ。
古代史の楽しみから『日本書紀』の磤馭慮島(おのころじま)はないしょですな。


> 【日本書紀 卷第一 第四段 一書第八 原文】. 一書曰 以 馭慮嶋爲胞 生淡路洲 次大日本豐秋津洲 次伊豫二名洲 次筑紫洲 次吉備子洲 次雙生億岐洲與佐度洲 次越洲. 【日本 書紀 卷第一 第四段 一書第八 読み下し】

>
> 大日本豐秋津洲は、こう見ると、日本列島全体というよりは、ヤマトの秋津の水没地域みたいな感じでしょうか。
>
> 方角別に法則にしたがって記されているようです。河内から大和、それから四国伊予に向かい、筑紫で、山陰へ向かって、隠岐、佐渡、越へと向かう、そういう感じですね。
>
> これは、仁徳時代とかの街道とか何かのルートの優先順位ではないですかね。?


1583茨の紀氏:2013/07/15(月) 11:58:53
Re: 大倭
管理人さんへのお返事です。

> 「越州」は確かに「州」で島と読ませているわけですね。


日本列島・・・努力してある成果を得た 州(島 ) http://8906.teacup.com/toraijin/bbs
中央がまるくふくれ・・・中洲の意味・・・州(島 )
日本列島を指す雅称としては瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)という 徐は瀛姓、伯益の後 秦の始皇帝の姓は瀛
州とは (シュウとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
また醜と通じてケツの穴、聚と通じて、あつまる、という意味がある。 〔説文解字(段注本) 〕には、「水中に居る可き者を州と曰ふ。水、其の旁を?繞す」と中洲の意味があり、〔詩経 ・関雎〕から「河の州に在り」を引用する。また「昔、堯、洪水に遭ふ。 http://dic.nicovideo.jp/a/
意味中洲、陸地、大陸、行政区画、国、古代の戸籍の単位、という意味がある。また醜と通じてケツの穴、聚と通じて、あつまる、という意味がある。〔説文解字(段注本)〕には、「水中に居る可き者を州と曰ふ。水、其の旁を?繞す」と中洲の意味があり、〔詩経・関雎〕から「河の州に在り」を引用する。また「昔、堯、洪水に遭ふ。民、水中の高土に居る。或ひは九州を曰ふ」と水流によって区分けされた地や地域のこと、「一に曰く、州、?なり。各、其の土を?して、生ずるなり」と耕作地のこと、とある。字形中洲の象形。〔説文〕は「川の重ぬるに從ふ」としている。もともと中洲の意味だが行政区画の意味で使われるようになって、区別のために洲の字が造られた。ただ洲は常用外なので、日本だと中洲の意味で州が使われることが多い。音訓音読みはシュウ、訓読みは、す、しま。
参考
一説に州を略して片仮名のツとなった。
 ツ
聿(イチ・・・)+氵=津(ツ)
イチ・・・「臺」
馬台国の章. ... 多くの学者達は、「台」の旧字 である「臺」の誤植であるとして、「邪馬台国」が正しいとしています。 ところがどこにでも .... http://www4.hp-ez.com/hp/picno/page8

シツ(死津?)・・・室 ム+ロ・・・台
>
> 【日本書紀 卷第一 第四段 一書第八 原文】. 一書曰 以 馭慮嶋爲胞 生淡路洲 次大日本豐秋津洲 次伊豫二名洲 次筑紫洲 次吉備子洲 次雙生億岐洲與佐度洲 次越洲. 【日本 書紀 卷第一 第四段 一書第八 読み下し】


1584秦野北斗:2013/07/15(月) 12:36:38
Re: 大倭
茨の紀氏さんへのお返事です。

日本書紀  越洲 (エツシマ)の「洲」を「州」と誤記していますな。

> 「越州」は確かに「州」で島と読ませているわけですね。
http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1627

「州」音読み
呉音 : ス
漢音 : シュウ(シウ)
訓読み : す
(す)主に川の中にある、島上の陸地。中州(なかす)。海にあっても、河口部にあるものをこのように称することがある。
三角州、砂州。
(シュウ)「洲」の代替字。字源は同一である。
(シュウ)行政単位の呼称。
http://ja.wiktionary.org/wiki/

「洲」音読み
呉音 : ス
漢音 : シュウ(シウ)
訓読み
しま
http://ja.wiktionary.org/wiki/



1585秦野北斗:2013/07/15(月) 20:46:06
壱岐島
済州島は古事記に「筑紫島」、日本書紀に「筑紫洲」で出てくるな。
ちなみに、壱岐島は古事記に「伊岐島」、
日本書紀の「億岐洲」は隠岐島で壱岐島は「壹岐洲」ですな。

壹が「イ」なら「やまと」の語源が無くなるぞ。かりに、呉音で漢字の音、豆から「ト」だが
見当たらないな。

1586管理人:2013/07/16(火) 02:27:53
Re: 壱岐島
秦野北斗さんへのお返事です。

> 済州島は古事記に「筑紫島」、日本書紀に「筑紫洲」で出てくるな。
> ちなみに、壱岐島は古事記に「伊岐島」、
> 日本書紀の「億岐洲」は隠岐島で壱岐島は「壹岐洲」ですな。
>
> 壹が「イ」なら「やまと」の語源が無くなるぞ。かりに、呉音で漢字の音、豆から「ト」だが
> 見当たらないな。

オノゴロ島は、なるほど、そうすると「◎豆島」で正解ですね。「オドシマ」

難波から見える淡路島、奥の児島の中間の島という意味でしょうか。



もう一度読み直して行くと、

【日本書紀 卷第一 第四段 一書第八 原文】. 一書曰 以 馭慮嶋爲胞 生淡路洲 次大日本豐秋津洲 次伊豫二名洲 次筑紫洲 次吉備子洲 次雙生億岐洲與佐度洲 次越洲. 【日本 書紀 卷第一 第四段 一書第八 読み下し】


馭慮(オノゴロ)嶋を胞(子宮・体内)となす、ということで、国産みの最大の重要拠点を、瀬戸内中心のここにもってきているわけです。

なぜか?ここが課題ですね。


あと、「伊豫二名洲」の「二名」の意味ですね。「伊予」になるわけですが、先日の「翰苑」でその邪馬台国についての関連記載で、「伊邪国」と「伊邪分国」のふたつをもって四国伊予と淡路島、標語・伊和周辺と見なした視点と関係するかもしれません。

2つの島とか領域として四国周辺を認識しているんですね。

それで越洲(島)ですが、たとえば能登半島あたりは、水没地図をつかうと、微妙に島みたいに分離しますが、その記載にある隠岐→佐渡と北上していくルートから推測すると、水没した能登半島や新潟平野というよりは、北海道を島と見なすと、あるいはルート・方角的にはあってきます。

http://flood.firetree.net

「越の蝦夷」という記載がしばしばみえる。斉明天皇元年七月己卯条に「難波 の朝にして、北北は越ぞ)の蝦夷九十九人、東東は陸奥ぞ)の蝦夷九十五人に饗たまう 」(編七〇)とあり、また同五年三月甲午条に「甘梼丘の東の川上に、須弥山を造りて
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2a3-01-04-04-05.htm


孝徳朝時代は、「越」は、かなり北を意味していた可能性がありそうです。

「蝦夷(エゾ・エミシ)」の発音と、「越(エツ・コシ)」との間に類似性があるのは気のせいでしょうか。

あと、継体はそれ以前に、越からやってきます。

1587秦野北斗:2013/07/16(火) 07:30:36
Re: 壱岐島
管理人さんへのお返事です。

馭慮(オノゴロ)嶋を胞(子宮・体内)・・・。まあ、文字通りの解釈で胞(子宮・体内)
には、無理があるな。

淡路島のオノゴロ嶋は嶋の内陸だな。どうも、嶋でも「州」か「洲」で「洲」の中洲。

自凝島。『古事記』では淤能碁呂島(おのごろじま)、現在の淡路島
http://ja.wikipedia.org/wiki/自凝島神社

> オノゴロ島は、なるほど、そうすると「◎豆島」で正解ですね。「オドシマ」
>
> 難波から見える淡路島、奥の児島の中間の島という意味でしょうか。
>
>
>
> もう一度読み直して行くと、
>
> 【日本書紀 卷第一 第四段 一書第八 原文】. 一書曰 以 馭慮嶋爲胞 生淡路洲 次大日本豐秋津洲 次伊豫二名洲 次筑紫洲 次吉備子洲 次雙生億岐洲與佐度洲 次越洲. 【日本 書紀 卷第一 第四段 一書第八 読み下し】
>
> あと、「伊豫二名洲」の「二名」の意味ですね。「伊予」になるわけですが、先日の「翰苑」でその邪馬台国についての関連記載で、「伊邪国」と「伊邪分国」のふたつをもって四国伊予と淡路島、標語・伊和周辺と見なした視点と関係するかもしれません。
>
> 2つの島とか領域として四国周辺を認識しているんですね。
>
> それで越洲(島)ですが、たとえば能登半島あたりは、水没地図をつかうと、微妙に島みたいに分離しますが、その記載にある隠岐→佐渡と北上していくルートから推測すると、水没した能登半島や新潟平野というよりは、北海道を島と見なすと、あるいはルート・方角的にはあってきます。
>


1588管理人:2013/07/16(火) 23:13:56
Re: 大倭
茨の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > 「越州」は確かに「州」で島と読ませているわけですね。
>
>
意味中洲、陸地、大陸、行政区画、国、古代の戸籍の単位、という意味がある。また醜と通じてケツの穴、聚と通じて、あつまる、という意味がある。〔説文解字(段注本)〕には、「水中に居る可き者を州と曰ふ。水、其の旁を?繞す」と中洲の意味があり、〔詩経・関雎〕から「河の州に在り」を引用する。また「昔、堯、洪水に遭ふ。民、水中の高土に居る。或ひは九州を曰ふ」と水流によって区分けされた地や地域のこと、「一に曰く、州、?なり。各、其の土を?して、生ずるなり」と耕作地のこと、とある。字形中洲の象形。〔説文〕は「川の重ぬるに從ふ」としている。もともと中洲の意味だが行政区画の意味で使われるようになって、区別のために洲の字が造られた。ただ洲は常用外なので、日本だと中洲の意味で州が使われることが多い。音訓音読みはシュウ、訓読みは、す、しま。
> 参考
> 一説に州を略して片仮名のツとなった。
>  ツ
> 聿(イチ・・・)+氵=津(ツ)
> イチ・・・「臺」
> 馬台国の章. ... 多くの学者達は、「台」の旧字 である「臺」の誤植であるとして、「邪馬台国」が正しいとしています。 ところがどこにでも .... http://www4.hp-ez.com/hp/picno/page8


洲の成り立ち、興味深いですね。津が、もしイチの発音を持つとすると、これも面白い。
イツシマ、イチシマ、イツ国、イチタイ率。




1589管理人:2013/07/17(水) 03:33:59
Re: 壱岐島
秦野北斗さんへのお返事です。

> 馭慮(オノゴロ)嶋を胞(子宮・体内)・・・。まあ、文字通りの解釈で胞(子宮・体内)
> には、無理があるな。
>
> 淡路島のオノゴロ嶋は嶋の内陸だな。どうも、嶋でも「州」か「洲」で「洲」の中洲。
>
> 自凝島。『古事記』では淤能碁呂島(おのごろじま)、現在の淡路島
> http://ja.wikipedia.org/wiki/自凝島神社
>
> > オノゴロ島は、なるほど、そうすると「◎豆島」で正解ですね。「オドシマ」
> >
> > 難波から見える淡路島、奥の児島の中間の島という意味でしょうか。


もうひとつ先の条文で注目すべき記載としては、「大日本豊秋津洲(シマ)」の記載ですね。

【日本書紀 卷第一 第四段 一書第八 原文】. 一書曰 以 馭慮嶋爲胞 生淡路洲 次大日本豐秋津洲 次伊豫二名洲 次筑紫洲 次吉備子洲 次雙生億岐洲與佐度洲 次越洲. 【日本 書紀 卷第一 第四段 一書第八 読み下し】
>


これが、室秋津島宮と関わってきます。

『魏志倭人伝』に記される邪馬台国の王宮が第6代孝安天皇の室秋津島宮ではないかとする説[3]があり、その場合、秋津遺跡周辺が邪馬台国の都城の一部であった可能性も指摘されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


おそらく大和地方の西南域の秋津遺跡があるあたりに、「秋津島(洲)」という地名があったはずです。そのそばに「室」「宮」があった。あの辺はかなり低湿地なんですね。元は内陸の水没地域。秋津の津は、大和地方内陸まで入り込んだ河川の港と関係するのではないでしょうか。


「馭慮(ゴロ・ギョロ)嶋」と「室(ムロ)」とはちょっと似てますね。

「秋津」は。「アキツ」→「アキ+イツ」で先の岸さんの指摘にある「津」と「イツ・イチ」の発音対応とも関係しそうです。

後代「高市(タケイチ・タケチ)」の地名も出てきます。


そして最後に「豊」が加わってきます。

「豐葦原中國・豊葦原千五百秋瑞穂國」などと同類です。

ここで「秋瑞穂国」がでてきます。これが「秋津」の「秋」に対応してくるとなると、

ちいおあき【千五百秋】とは。意味や解説。限りなく長い年月。永遠。千歳。千秋。「葦原 の―の瑞穂の国は」〈神代紀・下〉

ということで、千秋万歳などの、渡来系の祝詞に出てくる皇帝祭祀用の祝詞の文面とかと関係してくるでしょう。

ま、中国的な装飾文なわけです。

葦原中国。

秋津に宮を置いた天皇は限定されていて、孝昭・孝安時代、あるいは磐余池辺双槻宮の用明天皇。

橘豊日皇子のことで、ここで「豊」「日」が出てきます。

磐余は、つまり長い年月のことで、上記の通り装飾文ですね。


、磐余池辺双槻宮(いわれいけのべのなみつきのみや)と呼ばれた。ところが、現在この宮跡の所在がはっきりしない。磐余池は磐余の里に造られた大池のことで、『日本書紀』履中天皇2年11月に「磐余池を作る」とある。磐余とは、現在の桜井市南西部の池之内、橋本、阿部から橿原市の東池尻町を含む同市南東部にかけての古地名である
http://bell.jp/pancho/travel/taisi-siseki/miyadokoro/namitukinomiya.htm


池辺は、当時のこの地域が湿地帯だったことによるのでしょう。

類似した皇子名には市辺押磐皇子が見えます。

市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ、? - 安康天皇3年(456年)10月)は、記紀・『風土記』に伝えられる5世紀頃の皇族(王族)。磐坂皇子(いわさかのみこ)・磐坂市辺押羽皇子・天万国万押磐尊(あめよろずくによろずおしはのみこと、以上『日本書紀』)・市辺之忍歯王・市辺忍歯別王(いちのへのおしはわけのみこ、以上『古事記』)・市辺天皇命(いちのへのすめらみこと、『播磨国風土記』)とも。履中天皇の第1皇子で、母は葛城葦田宿禰(あしたのすくね)の女・黒媛である。また、顕宗天皇・仁賢天皇(・飯豊青皇女)の父、安康天皇・雄略天皇の従兄弟に当たる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/

妃:荑媛(はえひめ、荑は[草冠+夷]。葛城蟻臣の女)
居夏姫(いなつひめ)
億計王(おけのみこ、島稚子・大石尊・仁賢天皇)
弘計王(をけのみこ、来目稚子・顕宗天皇)
飯豊女王(いいとよのひめみこ、忍海部女王) 億計・弘計の姉とする方が妥当か。あるいは、叔母と姉の二人が類似した名前を称したとも考えられる。
橘王(たちばなのみこ)


つまり億計王(おけのみこ、島稚子・大石尊・仁賢天皇が、やはり葛城のこの地域と関係するんです。

「島」。

それで「飯豊女王」も、「豊」が「トヨ」ではなく「ホウ」が正解でしょう。

「大石」が、大石村主のそれで、百済系漢人の系統。

そして「橘」が、但馬守の世界で、山陰・吉備系になるわけです。


そうすると、「大日本豊秋津シマ」というのは、オオ、ジツホン(つまり日辺で ヘン)、ホウ、シュウ+イチの島ということで、かなり元々は中国系の名称だった可能性を示してます。

そこで再度「洲」を「島」の代わりに使った意味ですね。

ある時期の中国的な語句用法によった可能性があります。

たとえば先日論議した「越州」が、南北朝時代から隋・唐代にいたるまで、中国のどこを示していたかという変遷の問題もありました。

そしてご指摘の日本のことをしめした(東)エイ州とか、その辺ですね。



1590秦野北斗:2013/07/17(水) 10:48:22
Re: 壱岐島
管理人さんへのお返事です。

「豐葦原中國・豊葦原千五百秋瑞穂國」は、
古事記の第1章 アメノワカヒコとキジ の文章の抜き取りですな。

http://www15.plala.or.jp/kojiki/kuniyuzuri/kuniyuzuri_01.html

> 「豐葦原中國・豊葦原千五百秋瑞穂國」などと同類です。

大日本豊秋津洲(シマ)ですな。

大日本は古代の日本国(東北)、豊は豊国ですな。

大日本豊秋津洲は扶桑国で「アメノトコタチ(天之常立神)」の国ですな。

扶桑国の秋津洲に居た様ですな。洲は中洲。淡路島のオノゴロ嶋と同様。

天之常立神は奈良にも来ていた模様。古事記から読み取れる。

淡路島のオノゴロ嶋は嶋の内陸だな。どうも、嶋でも「州」か「洲」で「洲」の中洲。

http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1635

万葉集

大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は

http://manyou.plabot.michikusa.jp/yamatoniha.html

蜻蛉島(あきづしま)、秋津洲・・?。



>
> もうひとつ先の条文で注目すべき記載としては、「大日本豊秋津洲(シマ)」の記載ですね。
>
> 【日本書紀 卷第一 第四段 一書第八 原文】. 一書曰 以 馭慮嶋爲胞 生淡路洲 次大日本豐秋津洲 次伊豫二名洲 次筑紫洲 次吉備子洲 次雙生億岐洲與佐度洲 次越洲. 【日本 書紀 卷第一 第四段 一書第八 読み下し】
>
> これが、室秋津島宮と関わってきます。
>
> おそらく大和地方の西南域の秋津遺跡があるあたりに、「秋津島(洲)」という地名があったはずです。そのそばに「室」「宮」があった。あの辺はかなり低湿地なんですね。元は内陸の水没地域。秋津の津は、大和地方内陸まで入り込んだ河川の港と関係するのではないでしょうか。
>


1591管理人:2013/07/17(水) 23:16:19
Re: 壱岐島
秦野北斗さんへのお返事です。

> 「豐葦原中國・豊葦原千五百秋瑞穂國」は、
> 古事記の第1章 アメノワカヒコとキジ の文章の抜き取りですな。
>
> http://www15.plala.or.jp/kojiki/kuniyuzuri/kuniyuzuri_01.html
>

> 万葉集
>
> 大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は
>
> http://manyou.plabot.michikusa.jp/yamatoniha.html
>
> 蜻蛉島(あきづしま)、秋津洲・・?。
>


なるほど、 蜻蛉島(あきづしま)は、秋津に関わりそうですね。



■「あきづしま」の表記
 「あきづしま」はヤマトノクニ、ヤマトにかかる枕詞で5首に詠まれている。
用字をみると、主な訓読み表記は「蜻嶋」である。

一字一音首数訓読み首数
安吉豆之萬1蜻嶋3
  秋津嶋1

■「あきづしま」の語源
 「あきづしま」の語源は『日本書紀』の神武紀に、
「内(うつ)木錦(ゆふ)の眞■(まさ)き國と雖(いへど)も、蜻蛉(あきづ)の臀■(となめ)の如(ごと)くにあるかな・・・狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきづ)(とんぼ)がトナメして(交尾して)飛んで行くように、山々がつづいて囲んでいる国」という意で「是に由りて、始めて秋津洲の號有り。」とある。

『日本書紀』神武天皇31年4月の条、原文
三十有一年夏四月乙酉朔。皇輿巡幸。因登腋上口兼間丘。
而廻望国状曰。妍哉乎国之獲矣。妍哉・・・此云鞅奈珥夜。雖内木錦之真■国。
猶如蜻蛉之臀口占焉。由是始有秋津洲之号也。
昔伊弉諾尊目此国曰。日本者浦安国。細戈千足国。磯輪上秀真国。
秀真国。此云袍図莽句爾。復大己貴大神目之曰。玉牆内国。
及至饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。
故因目之曰虚空見日本国矣。
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/105_08.htm


トンボの尻のように、長く連なる国という意味で、先の「千秋万歳」とか「磐余」と同じ「永い」「長寿」といった意味のようにも見えます。

細長い日本列島を示すという見方もできますが、腋上といった大和東南部の秋津の地名にも関わっています。

トンボ・蜻蛉が(アキツ)と後代呼ばれ始めたのは、逆にこの伝承から語源をもってきたものですかね。

日本の別名について、列記して説明している文面がありますね。

昔伊弉諾尊目此国曰。日本者浦安国。細戈千足国。磯輪上秀真国。
秀真国。此云袍図莽句爾。復大己貴大神目之曰。玉牆内国。
及至饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。
故因目之曰虚空見日本国矣。

細戈千足国が、先の蜻蛉=トンボのイメージに近い。

最後にニギハヤヒの話が出てきているのが重要です。
ニギハヤヒが、鳥船で測量しながら駆け巡って、最後に「この」郷にくだった(磐舟神社などの物部氏の拠点の山>あたりか)ので、「虚空見日本国」と言ったというわけですよね。

「虚空」は、仏教とか大陸系の宗教用語でしょう。「コク」の発音で「国」とすれば「国見」で、河内と大和の間の河内磐船〜かいがけのみち〜交野山〜国見山にあたる地域にかかっている可能性を感じます。

そうすると、「国見(イワフネ)の日本国」という意味なんですね。物部氏の測量関係です。

おそらく物部氏系の日本関連の国名由来に関する伝承から、書紀・帝記の撰者が引っ張り出してきたものかもしれません。

「饒速日命」の「日」と、その下った「場所」「本」とかいうあたりのことも、あるいは日本の語源について考慮すべきでしょうか。



1592秦野北斗:2013/07/17(水) 23:50:12
ヤマト
ヤマトは難解だが、発音で解決するな。

邪靡堆(ヤマタイ)yamadui の堆duiの発音に注目すると、

邪靡堆(ヤマタイ)yamadui 邪馬臺
前にdを強く発音するとヤマトゥyamato (ヤマト)
後のi強く発音するとヤマッイ yamayī (ヤマイ)邪馬壹

邪馬台国(都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。)
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/3350


済州島は古事記に「筑紫島」、日本書紀に「筑紫洲」で出てくるな。
ちなみに、壱岐島は古事記に「伊岐島」、
日本書紀の「億岐洲」は隠岐島で壱岐島は「壹岐洲」ですな。
http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1631


1593管理人:2013/07/18(木) 22:31:51
Re: ヤマト
秦野北斗さんへのお返事です。

> ヤマトは難解だが、発音で解決するな。
>
> 邪靡堆(ヤマタイ)yamadui の堆duiの発音に注目すると、
>
> 邪靡堆(ヤマタイ)yamadui 邪馬臺
> 前にdを強く発音するとヤマトゥyamato (ヤマト)
> 後のi強く発音するとヤマッイ yamayī (ヤマイ)邪馬壹
>


なるほど、そうすると、やはり先の神武の歌の「大日本」は、「大和」と同じ意味ですね。
先に紹介いただいた下記の万葉歌は、舒明天皇の時代のものです。


天皇の、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌

大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は

巻一(二)
…………………………………………………………………………………………………
大和には多くの山があるけれど とりわけ立派な天の香具山 その頂に登って大和の国を見渡せば 土地からはご飯を炊く煙がたくさん立っているよ 池には水鳥たちがたくさん飛び交っているよ ほんとうに美しい国だ この蜻蛉島大和の国は
…………………………………………………………………………………………………

万葉集巻一の二番目に収録されている、舒明(じょめい)天皇の国見の歌です。
天の香具山(あまのかぐやま)は大和三山の一つに数えられ、現在では香久山とも書きます。
その昔、天から降りてきた山ともいわれる大和で最も格式の高い山です。
http://manyou.plabot.michikusa.jp/yamatoniha.html

もう一度先の神武の歌と比較するとまったく同じ構造になります。


『日本書紀』神武天皇31年4月の条、原文
三十有一年夏四月乙酉朔。皇輿巡幸。因登腋上口兼間丘。
而廻望国状曰。妍哉乎国之獲矣。妍哉・・・此云鞅奈珥夜。雖内木錦之真■国。
猶如蜻蛉之臀口占焉。由是始有秋津洲之号也。
昔伊弉諾尊目此国曰。日本者浦安国。細戈千足国。磯輪上秀真国。
秀真国。此云袍図莽句爾。復大己貴大神目之曰。玉牆内国。
及至饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。
故因目之曰虚空見日本国矣。




おそらく舒明朝の時代以降に、それをもとにして神武の歌が挿入されたか、その逆かということになるでしょう。
「群山」=「如蜻蛉之臀」「蜻蛉=秋津(掖上)」「大和=大日本」「国見」=「虚空見」

普通にかんがえると、舒明の「大和」のほうが、神武の「大日本」より古いわけです。


おそらく元は「大倭」で、舒明時代には「大和」になって、さらに天智時代ごろに「大日本」となる。

どれも読みはご指摘のとおり「ヤマト」「ヤマタイ」


もともとは、舒明の時代には、天皇が山の上から畿内の大和周辺地域を国見した際に詠んだ歌だったのですが、それが後代、神武伝承となって、「大日本国」つまり列島全体を国見する話に変わったわけですね。

ここで、「大和」も「大日本」になって、読みはダイワ・ヤマトのまま受け継いだのでしょう。


だから、「大倭」から「大和」にかわり、さらに「大日本」に変わって、その後「大」が抜けて、「日本」になる。


上記だと、「国見大和国」の語が、「虚空見日本国」となっていくわけです。仏教的な虚空の語が使用されてます。


「太虚也。睨是郷而降之。故因目之曰、虚空見日本国」

という部分を見ると
「及至饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。とあるとおり、

これが「太虚(タイコ・キョ)」という地域を睨んで、ニギハヤヒ(日)が降り立ったので、


「故因目之曰虚空見日本国矣。」

それを理由にして、「虚空見日本国」つまり、「国見大和国」であると語るんですね。


「睨む=見る」で「国見」にかかるわけですが。睨(ゲ・ゲイ)の発音が重要です。


この「太虚(タイコ・キョ)」というのが、装飾前は「大和(ダイワ・タイカ(キョ))」だったのではないでしょうか。

そう考えて行くと、実は「大和」は、北朝寄りの漢音では「タイカォ」と呼んでいた可能性が出てくるわけです。時代は舒明朝前後で、620年〜40年代。

舒明天皇は、息長系になり、北朝系の新漢人の影響下にあります。蘇我の旧渡来系とは異なるはずです。
この天皇名は「息長足日広額天皇」で「日」がつきはじめます。

次の皇極・斉明は「天豊財重日足姫尊」孝徳が「天豊財重日足姫尊」
遡って、用明が「橘豊日」で、だいたい「日」がつくのは、いわゆる息長系で新漢人よりなんです。聖徳太子とかですね。


それで「大和=タイカォ(キョ)」と呼んでいたものを、皇極・孝徳・斉明・天智の時代に、「ヤマト」「大日本」に変化させていくわけですね。

それ以前は旧渡来人系もつかっていた弥生時代以来の呉音の時代で、「大倭・大和=ダイワ」と呼んでいた。

元は「大倭」だったものの、倭が卑字だったので、和に改めて「大和」と記し「ダイワ」と呼んでいたものの、後に北朝系渡来人がきて「大和」の文字をみて「タイカォ」と発音し始めたのでしょう。これが装飾された「太虚(タイキョ)」になる。

それで、最後に「ダイワ」と同時に「ヤマタイ」とも呼んでいたかどうかが課題になります。
5世紀代の倭の五王の時代は「大+倭(わ)」でした。

随書の時代では「邪靡堆に都する」で「ヤマタイ」と言ってるわけですよね。
都するというのは、隋時代の首都が大和地域にあったことによるならば、7世紀初頭の時点で、大和地域をヤマトと呼んでいた可能性がでてきます。

三国志』より後の5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝 では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』では俀国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者 也」(魏志にいう邪馬臺)、唐代の『北史』四夷伝では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺」


ただ、この辺はちょっと即断しにくいところですね。

1594管理人:2013/07/19(金) 04:32:51
日本号
追記ですが、先の「虚空見大日本国」という名称は、「日(穂)高見国」と関係がありそうです。

先のとおり、神武紀の「虚空見(コクウミ)大日本国」は、つまり舒明紀の「国見(コクミ)・大和国」のことなのですが、「コクミ」の発音が、そのまま「(日・穂)高見」=「(ヒ・ホ)コウミ」と対応することがわかります。

以前お話したように「穴穂」「穴日」と言う語があり、日と穂には、双方相関性があります。
そして「虚空」がまた「穴」にもかかってきますね。

何もない空間、空の意味で、穴日は、その空に浮かぶ日を意味するのですが、ここで先の神武を先導した物部氏の祖・饒速日(ニギハヤヒ)を考えると、饒と穂との間に収穫の豊かさの意味を看てとれます。

それでもどって「大和(倭)」と「大日本」の関係ですが、倭・和を日本に置き換えたようにも見えます。

「大和=タイカォ」で、ニギハヤヒが飛んでいた地域「太虚=タイキョ」のことなのですが、「大日本」が出てくるのが、おそらく天智朝、つまり「大化(タイカ)」の時代とすると、また相関性が出てきます。

「大和・大日」=「タイカ」ともなりそうですが、「大日本」は「タイ・ヒ(ホ・カ)モト」となりますから、ここで「カ(ヒ・ホ)モト」が「ヤマト」と類似性がでてきます。

つまり「大日本=タイ・カモト、カホン」が、「大和=タイカォ(キョ)」と「ヤマトォ」とに掛かっていた可能性もでてきます。

音的には「日的」あるいは「矢的」のほうが「ヤマト」に近かったはずですが、ちょうど半島北部から日神信仰をもたらした新漢人の日信仰に関係して、その横穴墓に描かれた「日(同心円紋)と的」の影響を感じます。

的(イクハ)臣戸田宿禰というのが、彼ら新漢人等と宮中に入り関係してくるのですが、ここで日置、比企や靫負も関係してきます。

彼らの本拠地が、つまり九州の日田で日高見と呼ばれていたわけですね。高木神の世界です。おそらくコウキ神の可能性が出てくるわけですが、つまり高句麗系です。元は高句麗に入った日神信仰と、景教信仰との融合した観音仏教との兼ね合いを考えているわけですが、そこで虚空の仏教用語も関わってくる。

ともあれ、「大倭(ダイワ)=(ヤマタイ)」が、「大和(タイカォ)=(ヤマト)」と変化して、さらに「大日本=タイカ・モト」として、一体化して最後に「大」が抜けて、「日本=カモト」となった可能性も一応考慮すべきでしょうか。

それでもうひとつ注目すべきは、先の「浦安国」との日本を示す別称です。

これは「ウラヤスクニ」で解釈されてますが、実際は「フ(ホ)アン」です。

これがやはり「本(ホン)」にかかってくる。

日本についても、日・浦安国とすれば、なんとなく近くなってきますね。

これが、つまり

「日本者浦安国。」とのことで、ヒ・ホン=ホアンというわけです。


さらに、

「日本者浦安国。細戈千足国。磯輪上秀真国。
秀真国。此云袍図莽句爾。復大己貴大神目之曰。玉牆内国。」

となるわけですが、「秀真国。此云袍図莽句爾」の「ボウズモウ」「ホウトボウ」が、「日本(ヒ(ホ)+ホン)」のことですね。
あるいは「日=穂+本」で「ヒモト・ホモト」

あと「細戈千足国」も、日本列島の細長く、半島がたくさん足にみたいについていることをしめしていえて、ある程度正確な測量地図をもっていたこともわかるのですが、「ホソホコ」も、上記の「ホウ」音と関係してきます。

これが蜻蛉(トンボ=秋津・アキツ)が交尾して重なって飛んでいて、その羽がたくさんある様子を示し、さらに、千秋万歳の「千秋(長い年月)」へとかかっていくわけです。飛ぶはニギハヤヒの虚空の飛翔の件ともかかっていきますね。


1595秦野北斗:2013/07/19(金) 06:29:23
Re: ヤマト
管理人さんへのお返事です。

問題はヤマトの言葉が存在している事だな。また、中国史籍、魏志倭人伝の誤記説。
どちらも、矛盾なく読み解く事ができなく、陥ったと理解する・・。
結論は間違いを認められず深みに嵌っているな。

>
> > ヤマトは難解だが、発音で解決するな。
> >
> > 邪靡堆(ヤマタイ)yamadui の堆duiの発音に注目すると、
> >
> > 邪靡堆(ヤマタイ)yamadui 邪馬臺
> > 前にdを強く発音するとヤマトゥyamato (ヤマト)
> > 後のi強く発音するとヤマッイ yamayī (ヤマイ)邪馬壹
> >
>
>
> なるほど、そうすると、やはり先の神武の歌の「大日本」は、「大和」と同じ意味ですね。
> 先に紹介いただいた下記の万葉歌は、舒明天皇の時代のものです。
>
>
> 天皇の、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌
>
> 大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は
>
> 巻一(二)
> …………………………………………………………………………………………………
> 大和には多くの山があるけれど とりわけ立派な天の香具山 その頂に登って大和の国を見渡せば 土地からはご飯を炊く煙がたくさん立っているよ 池には水鳥たちがたくさん飛び交っているよ ほんとうに美しい国だ この蜻蛉島大和の国は
> …………………………………………………………………………………………………
>
> 万葉集巻一の二番目に収録されている、舒明(じょめい)天皇の国見の歌です。
> 天の香具山(あまのかぐやま)は大和三山の一つに数えられ、現在では香久山とも書きます。
> その昔、天から降りてきた山ともいわれる大和で最も格式の高い山です。

>

「邪靡堆に都する」だが文章から随書の時代には過去に存在した・・。だな。
現在は同和地区で農地・・。魏志倭人伝の伊都国、奴国、・・、も同様だな。


> 随書の時代では「邪靡堆に都する」で「ヤマタイ」と言ってるわけですよね。
> 都するというのは、隋時代の首都が大和地域にあったことによるならば、7世紀初頭の時点で、大和地域をヤマトと呼んでいた可能性がでてきます。
>
> 三国志』より後の5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝 では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』では俀国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者 也」(魏志にいう邪馬臺)、唐代の『北史』四夷伝では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺」
>
>
> ただ、この辺はちょっと即断しにくいところですね。


1596管理人:2013/07/19(金) 23:04:46
Re: ヤマト
秦野北斗さんへのお返事です。

> 問題はヤマトの言葉が存在している事だな。また、中国史籍、魏志倭人伝の誤記説。
> どちらも、矛盾なく読み解く事ができなく、陥ったと理解する・・。
> 結論は間違いを認められず深みに嵌っているな。
>
> > > 邪靡堆(ヤマタイ)yamadui の堆duiの発音に注目すると、
> > >
> > > 邪靡堆(ヤマタイ)yamadui 邪馬臺
> > > 前にdを強く発音するとヤマトゥyamato (ヤマト)
> > > 後のi強く発音するとヤマッイ yamayī (ヤマイ)邪馬壹
> > >
> >

邪靡堆は、(呉:ジャミタイ(テ)、漢:シャビタイ)が正解ですね。

原文は下記のとおり。

隋書:「其の地勢は東高西下、邪靡堆に都す、則ち『魏志』に云うところの邪馬臺なり」(原文=邪 靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」

『三国志』より後の5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』では俀国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(魏志にいう邪馬臺)、唐代の『北史』四夷伝では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」となっている。これらの正史は、現存の宋代の『三国志』より古い写本を引用している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


「祁馬臺国」の「祁」は「ギ・キ」、キマタイ国

先の「邪靡堆」(シャビタイ・ジャミタイ)が正解なら、組み合わせて「ギビタイ国」

7世紀風にいけば、吉備??

ま、普通に考えると「祁」は「邪」の、「靡」は「摩」の誤写だと思うんですけどね。イザナギ神話の始点は先日のとおり小豆島。吉備児島の南ですね。

前からひと気になっているのは、兵庫県姫路市勝原区山戸の山戸4号墳の存在です。

これが3世紀前半のマキムク式古墳になるわけですね。庄内式でかなり古い。

この「山戸」の発音が「ヤマト」


同じく、庄内式のマキムク型古墳で、岡山県総社市三輪の宮山古墳も、「三輪」の地名をもっていて、いわゆる大和地域の古墳と関係しているわけです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/

問題は、大和方面から「三輪・山戸」の地名を、この岡山・姫路方面にもってきたのか?あるいは逆なのか?ですね。

この辺の岡山のマキムク式古墳は、方位ラインでしっかり結ばれていたはずです。
合理的にどちらが古いかもわかってくる。

この辺は、もう少し掘り下げてみてもよいかもしれません。

1597秦野北斗:2013/07/20(土) 01:17:30
Re: ヤマト
管理人さんへのお返事です。

どうも、大日本豐秋津洲の意味が読めないようだな。大日本豐秋津洲が解ければ、マキムク式古墳は理解できるかも・・・。

大日本豐秋津洲はアメノトコタチ(天之常立神)の国だな。


天之常立神、天は高天原(たかまがはら)。常立は常陸(ひたち)まとめると
常立之天:(ひたちのてんし)

常陸国(ひたちのくに)は、日本のかつての行政単位だった国の一つで、東海道の最遠、関東地方の東北端に位置する。常州(じょうしゅう)と呼ぶこともある。『延喜式』での格は大国、遠国。親王任国でもある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/天之常立神


奈良県立橿原考古学研究所の寺沢薫は、1988年(昭和63年)、奈良県桜井市の纒向遺跡に所在する纒向石塚古墳や纒向矢塚古墳、千葉県市原市の神門古墳群中の神門(ごうど)4号墳・5号墳、福岡県小郡市の津古生掛古墳など墳丘形状が前方後円形をとる墳丘墓を「纒向型前方後円墳」として抽出し、これらの墳墓が箸墓古墳や椿井大塚山古墳に代表される定型化した前方後円墳の成立以前および成立期に、「初期ヤマト政権の中枢たる纒向遺跡との政治的、祭祀的関係のもとに成立した」との見解を示した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/纒向型前方後円墳


邪馬臺は呉音で音は失われ、漢字から音を探すのは不可ですな。
はて、文章から「邪靡堆=邪馬臺」だな。発音は関東の語尾を上げる読み、関西の語尾を下げる読みの差だな。

> 隋書:「其の地勢は東高西下、邪靡堆に都す、則ち『魏志』に云うところの邪馬臺なり」(原文=邪 靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」

http://www.21ccs.jp/soso/gyakujun/gyakujijunji_14.html




1598茨の紀氏:2013/07/20(土) 11:45:38
Re: ヤマト
管理人さんへのお返事です。

ヤマ(双子)戸 ユダ族 レビ族  http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?

オオウスノミコト. 大碓命 = ヤマトタケルの双子(ふたご)の兄. http://www15.plala.or.jp/kojiki/yamatotakeru/yamatotakeru.html
クマソタケルの征伐(ヤマトタケルの名の由来) http://www15.plala.or.jp/kojiki/yamatotakeru/yamatotakeru_02.html

瓢箪(2). [ウリ目・うり科・ヒョウタン属].

双子塚古墳と呼ばれていたものです。高さ二間(約 3.6m)、面積が三畆(約300平方メートル)の瓢箪形をした塚であったと言い伝えられ ています。この瓢箪形という形から前方後円墳の可能性が高いようです。 http://www.city.kawachinagano.lg.jp/static/kakuka/kyousha/history-hp/bunkazai/sanpo/rekishi/kofun/kofun5.htm
双子塚古墳のある同じ岩原大地の北側絶壁には、100基以上の横穴があります。まるで 神秘の国へ導いてくれる入り口でもあるかのようにぽっかりと口を開けて並んでいます。 http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage52.htm
双子塚古墳を中心に、周りに9基の円墳
9基の円墳
10支族の行方は文書に残されていないため、2部族によって「失われた10支族」と 呼ばれた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/日ユ同祖論
エズラ書第4書(第2書とも呼ばれる)13:39〜では、「幻に現れたその群集は…九つの部族であった(写本によって、九部族/九部族半/十部族と異なる)。彼らは異教徒の群れを離れ、先祖がいまだかつて住んだことのない土地に行き、自国で守ることのできなかった規則をせめて守るようにとの計画を互いに持ち合って、さらに遠くの国へ向かった。……それはアルザレト(もうひとつの土地あるいは果ての地)という地方であった。彼らは最後までそこに住み…」とされている。
自国で守ることのできなかった規則をせめて守るようにとの計画
規則
戒(いましめ)
「戒」は[戈]+[廾]の会意字 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/181
戒(いましめ)戎(えびす)この二つの文字について - Yahoo!知恵袋
「戒」は[戈]+[廾]の会意字です。 ... zd/zi/ZdicE7Zdic94ZdicB2.htm [字源字形] 甲骨文・金文では[+]の形だったのが、小篆(『説文解字』という最古の完備した字書の見出し字体)でがらりと違う字体に変わっていますね。 ...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1135304166
「戈」は“ほこ”ですね。
アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)は、『古事記』、『日本書紀』に見える新羅の王子。『播磨国風土記』には神として登場する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アメノヒボコ
アメノヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある。(新羅王族であった昔氏は、倭の但馬地域から新羅に渡り王となったとされており。新羅王族であるアメノヒボコは但馬・出石に定着した。ただし、昔氏のもともといた場所についてはこの他に日本の東北、丹波等が上げられている。)


>
> この「山戸」の発音が「ヤマト」
>


1599管理人:2013/07/21(日) 02:41:18
Re: ヤマト
茨の紀氏さんへのお返事です。

> ヤマ(双子)戸 ユダ族 レビ族  http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
>
> オオウスノミコト. 大碓命 = ヤマトタケルの双子(ふたご)の兄. http://www15.plala.or.jp/kojiki/yamatotakeru/yamatotakeru.html
> クマソタケルの征伐(ヤマトタケルの名の由来) http://www15.plala.or.jp/kojiki/yamatotakeru/yamatotakeru_02.html
> 瓜
> 瓢箪(2). [ウリ目・うり科・ヒョウタン属].


確かにヤマトタケルの表記をみると、倭武、日本武で、倭=ヤマトで解釈しているんですよね。
熊襲武は、つまりクマソの領域で、ヤマト=倭の領域ではないとしているわけです。


『日本書紀』、『先代旧事本紀』では日本武尊、『古事記』では倭建命と書き、またの名を日本童男・倭男具那命(やまとをぐな)ともいった。また、『尾張国風土記』逸文と『古語拾遺』では日本武命、『常陸国風土記』では倭武天皇、『阿波国風土記』逸文では倭健天皇(または倭健天皇命)と書く[2]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/



日本は天智以降の表記で、それ以前は倭もしくは大倭・大和。近畿か吉備、北九州の大和地域を示したもので、南九州の熊襲領域と対峙していたのでしょう。

これ、おそらく邪馬(シャマ)と、熊(ク・キュウマ)は、対立する語ですね。

南九州に行くほど、ク・キュウ音が多くなります。クヌ国、宮崎・児湯郡、クウ臣国とか琉球など。

ヤマトタケルのことを、小碓と言ってますね。兄弟に大碓がいます。母は播磨系で先の小豆島とイザナギ神話と関係するか。

碓は「タイ」音。

確かに「邪馬」「熊」の並び立つ「碓」(タイ)と捉えれれば、あるいは「ヤマタイ」の音意も理解できるかもしれませんが、要するに隋書とか北史では、「堆」(タイ)だと指摘しているわけですよね。

山地の堆の部分に都があるのだと言っているわけです。これが「碓(ウス)」の部分を示すとすれば、つまり奈良のような盆地とか、阿蘇山カルデラのような山に囲まれた盆地の中に都があるという意味で解釈できるかもしれません。

この辺の漢字の意味と読みが課題ですね。


1600秦野北斗:2013/07/21(日) 18:28:35
Re: ヤマト
管理人さんへのお返事です。

その国(倭国)の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程が、神武天皇2年、功を定め、・・。
の功と思われるな。大和の首都が倭国に在った模様。首都名:大和州=邪靡堆=邪馬臺

何か卑弥呼さん事情があるな、これが問題で、ヤマトタケルの登場ですな。

大和州=邪靡堆=邪馬臺で、奈良に大和三山、堆がありますな。

> 山地の堆の部分に都があるのだと言っているわけです。これが「碓(ウス)」の部分を示すとすれば、つまり奈良のような盆地とか、阿蘇山カルデラのような山に囲まれた盆地の中に都があるという意味で解釈できるかもしれません。

『新唐書』日本伝には、大和州に移って統治する。ですな。

『隋書』倭国伝には、都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。ですな。

その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程は魏志倭人伝に一カ月の距離があるな。
神武天皇2年、功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、
http://ja.wikipedia.org/wiki/神武天皇


南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る(「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」)。官に伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳鞮があり、推計7万余戸。
http://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝

『新唐書』日本伝

彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。次曰綏靖、次安寧、次懿?、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀。

 彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。次は綏靖、次は安寧、次は懿?、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀という。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun11-sintosho.htm

『隋書』倭国伝

 倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。

 倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。
 その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。その地形は東高西低。都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、儋耳と相似するという。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm


1601管理人:2013/07/22(月) 00:14:00
Re: ヤマト
秦野北斗さんへのお返事です。

> その国(倭国)の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程が、神武天皇2年、功を定め、・・。
> の功と思われるな。大和の首都が倭国に在った模様。首都名:大和州=邪靡堆=邪馬臺
>
> 何か卑弥呼さん事情があるな、これが問題で、ヤマトタケルの登場ですな。
>
> 大和州=邪靡堆=邪馬臺で、奈良に大和三山、堆がありますな。
>
> > 山地の堆の部分に都があるのだと言っているわけです。これが「碓(ウス)」の部分を示すとすれば、つまり奈良のような盆地とか、阿蘇山カルデラのような山に囲まれた盆地の中に都があるという意味で解釈できるかもしれません。
>
> 『新唐書』日本伝には、大和州に移って統治する。ですな。
>
> 『隋書』倭国伝には、都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。ですな。
>



問題はヤマトタケルのヤマトが、別名の小碓の碓(タイ)にどうかかるかです。

ヤマトタケル関連の地名に、碓日峠があります。

かつての倭と、蝦夷?の境界線です。


古来より坂東と信濃国をつなぐ道として使われてきたが、難所としても有名であった。この碓氷坂および駿河・相模国境の足柄坂より東の地域を坂東と呼んだ。『日本書紀』景行紀には、日本武尊(ヤマトタケル)が坂東平定から帰還する際に碓氷坂(碓日坂)にて、安房沖で入水した妻の弟橘媛をしのんで「吾妻(あづま)はや」とうたったとある。なお『古事記』ではこれが足柄坂だったとされ、どちらが正しいかという論争が存在する[9] https://ja.wikipedia.org/wiki/


ここで、碓(タイ)と日とが関係してきます。邪馬台国と倭と日本との関係。

ご引用の隋書倭国伝に、東高西低の記載があります。つまり東を高地としているわけです。おそらく碓氷峠や足柄坂より東に坂東まで領域が伸びてない時代の記載ですね。後に天智ごろになってようやく常陸がはいってきます。


『隋書』倭国伝

 倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。

碓日は、そういう意味で捉えると、日という領域の境界、その地形が碓=堆(山に囲まれた土地)という感じではないでしょうか。


小碓は、ヤマトタケル、兄弟の大碓は、美濃の逃げています。つまり奈良盆地と尾張平野との対比。

その大碓地域の東境界が、もしかすると碓日峠だったのではないでしょうか。日高見国と碓(タイ)との境界??

そして、天智ごろに九州日田(日高見)や、近江・中部(穂高見)、関東常陸(日高見)勢力を味方にした新漢人集団のいわゆる日本国が倭に進出していくわけですね。

1602茨の紀氏:2013/07/22(月) 11:14:27
Re: ヤマト
管理人さんへのお返事です。

>小碓は、ヤマトタケル、兄弟の大碓は、美濃の逃げています。つまり奈良盆地と尾張平野との対比。
>その大碓地域の東境界が、もしかすると碓日峠だったのではないでしょうか。日高見国と碓(タイ)との境界??
碓日峠
碓(タイ)
邪靡堆 泰畤さかい http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/3046
土を盛った状態・・・古墳 胎 タイ 台   ク イ 区異・・・境杭?
隹の字に「土」をつけると、堆積(たいせき)の堆の字となる。ずんぐりと土を盛った状態を表し、下太りにしまった土盛りのことである。
このように、およそ「隹」を含む字はすべて、ずんぐりして、小太りにしまった形をしているという意味を含んでいる。

凷は土+凵(目標)・・・凸、凹
土=至ー云 「矢が下方に進むさま+横線」の会意文字で、矢が目標戦までとどくさまを示す。

隹の原字はタイという音をあらわすとともに、塊の原字でもあって、ク イ ということばをあらわす。後者のク イ系統のことばは、堆積やかたまり、つまり、「まるい、 めぐる、とり巻く」などの意味をあらわす。たとえば、帷(まわりをとり巻く幕) 匯(うずまき)??...
塊の原字 凷
凷は〔説文解字〕に「?(つちくれ)なり」とあり、つき固めた土のこと。経籍では塊字 の方がよく用いられている。 蕢・蒯と通用する。塊は傀と通じて、ひとりのさま、という意味??... http://dic.nicomoba.jp/k/a/
凷は土+凵の会意。

「凾・函=カン、ゴン、はこ」「臽・カン」があり 土あな、方形 の底の深い函の象であるという。凵を部首とする字に「凶・凷(カイ)・凸、凹」などがある。 http://asobimozi.exblog.jp/page/41/

画 手に筆を持って区切るさまをあらわした会意文字で、ある面積を区切って区画を記すこと http://www.harakin.net/education/kanji/kanji.htm
区 古くは區と書いた。「コの反対向き+狭い口三つ」の会意文字で、こまごまして狭い区画を区切るさま。
由 酒や汁をぬきだす口のついたつぼを描いた象形文字で、ある事柄が生じた理由の意となる。

・・・凸、凹
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?


> >
> > 大和州=邪靡堆=邪馬臺で、奈良に大和三山、堆がありますな。
> >
> > > 山地の堆の部分に都があるのだと言っているわけです。これが「碓(ウス)」の部分を示すとすれば、つまり奈良のような盆地とか、阿蘇山カルデラのような山に囲まれた盆地の中に都があるという意味で解釈できるかもしれません。
>

>
> 碓日は、そういう意味で捉えると、日という領域の境界、その地形が碓=堆(山に囲まれた土地)という感じではないでしょうか。
>
>
> 小碓は、ヤマトタケル、兄弟の大碓は、美濃の逃げています。つまり奈良盆地と尾張平野との対比。
>
> その大碓地域の東境界が、もしかすると碓日峠だったのではないでしょうか。日高見国と碓(タイ)との境界??
>


1603管理人:2013/07/23(火) 02:01:23
Re: ヤマト
茨の紀氏さんへのお返事です。


> 碓日峠
> 碓(タイ)
> 邪靡堆 泰畤さかい http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/3046
> 土を盛った状態・・・古墳 胎 タイ 台   ク イ 区異・・・境杭?
> 隹の字に「土」をつけると、堆積(たいせき)の堆の字となる。ずんぐりと土を盛った状態を表し、下太りにしまった土盛りのことである。
> このように、およそ「隹」を含む字はすべて、ずんぐりして、小太りにしまった形をしているという意味を含んでいる。
>
> 凷は土+凵(目標)・・・凸、凹
> 土=至ー云 「矢が下方に進むさま+横線」の会意文字で、矢が目標戦までとどくさまを示す。
>
> 隹の原字はタイという音をあらわすとともに、塊の原字でもあって、ク イ ということばをあらわす。後者のク イ系統のことばは、堆積やかたまり、つまり、「まるい、 めぐる、とり巻く」などの意味をあらわす。たとえば、帷(まわりをとり巻く幕) 匯(うずまき)??...

情報ありがとうございます。
なかなか判断しにくいですね。

碓の由来ですが、まず大碓と小碓は、つまり、先日お話したように「大彦」とその息子「武ヌテ河別」の関係で、さらにいえば「大帯彦(景行天皇)」と息子「倭武」の関係になります。しばしば親子ではなく兄弟ともみなされます。

したがって、大碓の大は「大彦」の「大」に由来するものでしょう。その息子だから「小」碓になった。

伝承的には、仁賢・顕宗兄弟の話ともかかわってきますが、ともあれ、南方海人系の4世紀前半の王朝を象徴した2人の人物となるわけです。

それで、なぜ「碓」と彼らのことを呼んだのか?が課題になりますね。


彼らは、先日お話したとおり、南方系の勢力を味方につけて、大和に入り、佐紀楯列古墳群あたりに海人系の遺物を残していきます。

4世紀代の大和地域は、この大彦と息子の時代だったわけです。その後、4世紀後半から渡来系の武内宿根、応神といった集団が大和に入ってくるわけですが、しばらく大和に入るのを足止めされるんですね。その際に、彼らは大和地域の海人系国家をそもまま「倭」と読んでいて、天日矛やツヌガアラシトの伝承にみられるように、北部の但馬方面にまで手を拡げていく。但馬守。

それで、「倭国の東北千里」に但馬国があるとして、倭つまり河内・難波からみて東北の丹波方面に彼らの拠点が伸びており、そのときに大和にかけての地域について、彼らは「倭」と呼び、自分たちの瀬戸内方面は違う呼び方をしていたのかもしれません。半島系勢力の呼び名で読んでいたはずです。

それで、半島系勢力の伝承では、倭=河内+大和だったものが、受け継がれて、倭=大和なってしまったのでしょうか。

倭=大和に籠っていた海人系勢力の主は、つまり大彦と息子の倭武だったわけですが、元々は倭の勢力範囲は九州まで伸びていたはずです。しかし半島系が強くなって東へと押されていったので、倭の領域も畿内以東へと変化していた。

そのころの様子を描いた記録が、北史の倭国記載で、邪ビ堆に都すという記載になるわけですね。

そこで大碓の碓が、何を示していたかですが、大彦=飯入根であることも、以前お話したとおりで、「オオ」の発音で一致していくのですが、出雲振根との対立関係もありました。

これは、出雲健を、小碓(倭武)が殺す話と関係してきます。大彦・武ヌテ河親子の関連記載なんです。


出雲大社はもともと杵筑大社で、出雲振根は、やはり筑紫国に領土をもっています。大彦系なのですが、大分に臼杵という地名があります。


出雲国造の末裔である出雲大社宮司家の千家(せんげ)家では、その世継の神器 として熊野大社から燧臼(ヒキリウス)・燧杵(ヒキリキネ)を拝受してます。


ここにひとつの碓とか杵を象徴とする集団の影響があって、間接的に大彦つまり景行(大帯彦)と息子倭武の関係してくる可能性を感じます。

そうすると、大碓を継承した小碓は、全国を征伐するのですが、ともあれ、この親子を碓と見なす理由のひとつに、出雲系の伝承の影響もあったのかもしれません。

碓氷峠の話も、ヤマトタケルに氷を降らした岐阜方面の神信仰と関係しているとすると、碓日としている系統と、碓氷としている系統の伝承があって、少し内容が異なっていたはず。日高見国関係の伝承とは別か。


ともあれ、碓に氷を降らすという意味で、小碓を碓と見なす。

小碓は、武ヌテ河で、彼らは会津で親子また合流するわけです。

武ヌテ河は吉備とも関わり、開拓伝承とともに、尾張、鳥トーテムで仁徳とも関わってくる。

それで、邪ビ堆の「堆」が、この「碓」と関わるかどうかですが、やはり十分な証拠が出てこないですね。
難しい。指している相手は、当時の邪馬台国=大彦・大和タケル親子の領地なのですが、何かもうひとつ資料が必要ですね。秦野さん紹介の下記の記録は注目です。

『新唐書』日本伝

彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。次曰綏靖、次安寧、次懿?、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀。


神武親子の伝承というのは、つまり先日お話したとおり、大彦系の南方系集団の伝承を引用して造り出された伝承で、「徙治大和州。」は、ある時期に「大倭」から「大和」に転換して、「日本」にさらに転換する前の記録とも言えそうです。

それで、その文献をみながら、中国人が「大和州」と記しているわけですね。6世紀ごろかな。

まだこの当時、大和で日本全体を意味していなかったはずです。あくまで本州もしくは、その一部のこと。

大和州と対立するのが、九州、夷州、秦王国、越州・・。再度下記を読み返して行くと、

『隋書』倭国伝

 倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。


唐書の日本伝よりは、隋書の倭国伝のほうが古い。


このときには、「大和州」に移動して治めたとはいわずに、「都於邪靡堆」というわけです。

この時点では、東征伝承を知らない。

「邪靡堆(シャビタイ)」の地名に関する音表記が残っていて、それがしばらくたつと「大和(ヤマト)」と表記しはじめる。

邪靡堆が、中国人が音で聴いてそれを漢字にしたものか、倭人が漢字でそう提出したかが課題ですが、前者の可能性がありそうですね。それで其の音が魏志倭人伝の「邪馬台」に似ているので、そう記載したのかもしれません。

「邪馬」に「大」の意味があれば解決するはずなんですよね。

「大彦」のことを、「アビヒコ・アベヒコ」というんですね。阿倍(アバイ)氏になる。「オオ」ではなくて、正確には「アフ」「吾(ア)」とか、楽浪・半島南部系のカヤ・秦韓集団の呼称にも関係してきます。

だから、「アバイヒコ」で、同様に彼らの南方海人+カヤ系集団の呼称では、「大和」は「アバイ」とかなって、全体的には「シャビタイ国」とか「邪馬台国」の発音に近くなる。

ところが、最後にやってきて天智系のバックボーンとなった北朝系の新漢人の読みでは、「大和」は「タイカォ」で「大化」とかに近くなるんですよね。

なんか、その辺の集団同士で同じ国名を、いろいろ違う読み方で呼んでいたのが、そのまま第三者の中国路の耳なり目にはいって、だんだんそうなっていったんじゃないでしょうか。

1604秦野北斗:2013/07/23(火) 07:03:06
Re: 昨日の中国の地震は、ロシアとインドを記念
ねこさんへのお返事です。

ねこさん、この掲示板はSF、予言掲示板ではないぞ。

この掲示板にはあなたのスペースはありませんな。


> 昨日の中国の地震は、ロシアとインドを記念
>
> 二カ国を祝福しながら、同時に他国をいじめる。
> これは幸福度を高める陰謀の特徴だ。
> 普通の人間にはこういった感情は想像もつかない。
> 今日、日本とロシア、そして日本とインドの関係は、ただ事ではない。
> (仮説を含む)


1605茨の紀氏:2013/07/23(火) 11:23:50
Re: ヤマト
管理人さんへのお返事です。

霊魂、サルスベリの木、脱皮、蝶、蛇、蛙、蝉、3月3日の三角形。
>全体的には「シャビタイ国」とか「邪馬台国」の発音に近くなる。
「シャビタイ国」

「チャビ」なんですか? - Yahoo!知恵袋
通常、日本でスペイン語と言うと、このカスティーリャ系統の言語を指しますから、多くの 場合で【シャビ】と発音すします。スペインと言う表現自体が【エスパーニャ】が語源です。 これが、カタルーニャ地方に行くと、【Xa】を【チャ】に近い発音をする ...

【チャビ】語源:バスクの土地の名前Etxaberri、意味は?新しい家? http://favotter.net/status.php?id=184935856241524736
【ダヴィド・ビジャ】語源:David(ヘブライ語)「愛されている」の意味

脱皮、蝶、蛇、蛙、蝉
脱皮
ハビリ 再生
シャビ 脱皮 再生 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs




1606茨の紀氏:2013/07/24(水) 21:44:44
Re: ヤマト
管理人さんへのお返事です。



> それで、なぜ「碓」と彼らのことを呼んだのか?が課題になりますね。
>
碓 ウス(土盛?台・胎) うす【臼/×碓】 からの垂直線
ギリシア語ピュラミスpyramisに由来するが,その語源については古代エジプト語の幾何 学用語ペル・エム・ウスper‐em‐us(〈ウスからの垂直線〉の意),あるいは形が似た ギリシアの菓子の名に基づくなど諸説があって確定できない。 http://kotobank.jp/word/ピラミッド
初期は小石を積んだ古墳でしたが、徐々に大きくなり、あの独特な形も人間が再生するのを助ける力があるとして、王墓であると考えられてきました。しかし後世のピラミッドからは遺体は出てこなく、近年は異なる説も出てきて、今もなお史上最大級の謎の建物なのです。
古代エジプト語の幾何学用語ペル・エム・ウスper‐em‐us(〈ウスからの垂直線〉の意),
垂直
ウス
1ガウスは、磁束の方向に垂直な面 の1平方センチメートル(cm2)につき1マクスウェル(Mx)の磁束密度と定義されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ガウス
一般にはガウスは「磁石の強さ」を表す単位として広く知られていた。

>碓(土盛)=石(神)+隹

碓はkucchi「胎」であり、それが語頭音消失によって「ウス」と発音されたこと が知れるのである。 なお、臼や碓を意味するパーリ語はudukkhala で、ウスという日本 語はその語尾消失(apocope) に対応している可能性もあるが、kucchi もまたウスと ...
子宮
「土堤」
紅臼山とは?隠語辞典。 読み方:べにうすざん,べにうすやま女陰の上部、即ち陰阜を云 ふ。 http://www.weblio.jp/content/紅臼山
うす【臼/×碓】. http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/18716/m0u/
穀物を精白したり、粉にしたり、餅(もち)をついたりする道具。つき臼とひき臼とがある。
臼から杵





1607茨の紀氏:2013/07/24(水) 21:56:06
碓【選民)
碓【選民) ミト達(領民)  臼(選んだ民)から 杵(キネ)「ねたみ」
「キネアー」(???????)で、「熱心、熱愛 、熱意、熱情、ねたみ」を意味します。
「ねたむ」を意味する動詞の「カーナー」(?????)から由来しています。
旧約における神の「憤り、激怒、憤怒」(「ヘーマー」?????)は、神の「熱心、熱意、熱情、ねたみ」(「キネアー」???????)と表裏一体です。キネアーの中にある「ねたみ」は、人を(選んだ民を)深く愛するがゆえに、その不誠実さに対して起こる強い否定感情です。聖書の神はこのような情動表現を通してご自身のかかわりの愛の強さを表わされます。


1608管理人:2013/07/24(水) 22:21:24
Re: ヤマト
茨の紀氏さんへのお返事です。


> >碓(土盛)=石(神)+隹
>
> 碓はkucchi「胎」であり、それが語頭音消失によって「ウス」と発音されたこと が知れるのである。 なお、臼や碓を意味するパーリ語はudukkhala で、ウスという日本 語はその語尾消失(apocope) に対応している可能性もあるが、kucchi もまたウスと ...
> 子宮
> 「土堤」
> 紅臼山とは?隠語辞典。 読み方:べにうすざん,べにうすやま女陰の上部、即ち陰阜を云 ふ。 http://www.weblio.jp/content/紅臼山
> うす【臼/×碓】. http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/18716/m0u/
> 穀物を精白したり、粉にしたり、餅(もち)をついたりする道具。つき臼とひき臼とがある。
> 臼から杵
>
>


碓と子宮の関係はちょっと興味深いですね。碓はそうすると、元々は道具としての碓ではなく、その盛り上がったものがへこんで中が空洞になったような構造を示す語だったということでしょうか。カルデラ、盆地の形状にもあたはまりそうですね。

大碓(タイ)尊で、大きな盆地状の地域を示し、「シャビタイ=邪靡堆」で、大(アビ)+タイですね。=大彦で景行天皇(大帯彦)=阿倍氏の祖。

日本の大王のことを後代「阿毎(アバイ)」というのも、ちょっと関係ありそうです。

タイ(碓・堆)で、王に関する意味はないでしょうか。天皇名につく「帯」がタラシで、タイにちかいですね。

「タイ」音は、遊牧民系の国とか民族を象徴する語ですね。

サウロマタイ、スキタイ、アオルサイ、イキュウタイ、レン台、邪頭バイ、ヤマタイ。




あと、先日お話した、「馭慮嶋爲胞」の「胞」が、子宮の意味でした。

日本書紀 卷第一 第四段 一書第八 原文】. 一書曰 以 馭慮嶋爲胞 生淡路洲 次大日本豐秋津洲 次伊豫二名洲 次筑紫洲 次吉備子洲 次雙生億岐洲與佐度洲 次越洲. 【日本 書紀 卷第一 第四段 一書第八 読み下し】




1609茨の紀氏:2013/07/25(木) 10:47:58
Re: ヤマト
管理人さんへのお返事です。

>「馭慮嶋爲胞」の「胞」が、子宮の意味でした。

え 【▽胞】  「胞衣荒神」 「塞の神」といえば「同祖神?」
胎盤。胞衣(えな)。 http://www.weblio.jp/content/
「同じ―にして双(ふたご)に生(あ)れませり/日本書紀(景行訓)」
同じ胞・・・同胞・・・同邦?

、「同邦」は「同胞 」 http://duan.exblog.jp/6694992/
皆さんのご教示をお願いします。

秦河勝の霊体は「胞衣荒神」となって猛威をふるった。??... http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/enasinko.html
金春禅竹はそれこそが、秦河勝が宿神であり、荒神であり、胞衣であることの、まぎれもない証拠であると書いたのである。

坂越と書かれている地名は、当地では「シャクシ」と発音されていた。もちろんこれはシャグジにちがいない。この地名が中部や関東の各地に、地名や神社の名前として残っているミシャグチの神と同じところから出ていることは、すでに柳田国男が『石神問答』の冒頭に指摘しているとおりで、「シャグジ」の音で表現されるなにかの霊威をもったものへの「野生の思考」が、かつてこの列島のきわめて広範囲にわたって、熱心におこなわれていたことの痕跡をしめしている。

各地に残る「賽の神」も縄文時代から連綿と続く信仰であり、石棒信仰や丸石信仰、あるいは胞衣(えな)信仰と同じ系統のものである。それは、近年に至って、いろいろと変型して道祖神や賽の神の誕生に連なっている。それら全体を私は「和のスピリット」と呼びたいのだが、如何なものであろうか。「和のスピリット」の源流に・・・・石棒信仰や丸石信仰、あるいは胞衣(しんこう)がある。
「賽の神」
「塞」とか「烏孫」
>黄金文化を持つイラン系サルマタイ人、シルクロード交易商人で仏教徒のソグド人もスキタイの末裔である。
中国では「塞」とか「烏孫」の名で呼んだ。この部族の一支流が、アルタイ山脈から敦煌・酒泉を勢力範囲とした「月氏(大月氏)」である。
また、モンゴル草原地帯を勢力範囲とした、アルタイ系の匈奴族、ツングース族の鮮卑族、朝鮮半島北側の烏桓族、トルコ系の突厥族などもスキタイ系民族の末裔だった。
 なおサカは京都の八坂神社の語源ともいわれている。

賽 塞
異教の偶像礼拝者へと身を落としたダン族 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs

垂示の道 風水戦争  http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?




1610管理人:2013/07/25(木) 23:14:46
Re: ヤマト
茨の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> >「馭慮嶋爲胞」の「胞」が、子宮の意味でした。
>
> え 【▽胞】  「胞衣荒神」 「塞の神」といえば「同祖神?」
> 胎盤。胞衣(えな)。 http://www.weblio.jp/content/
> 「同じ―にして双(ふたご)に生(あ)れませり/日本書紀(景行訓)」
> 同じ胞・・・同胞・・・同邦?
>
> 、「同邦」は「同胞 」 http://duan.exblog.jp/6694992/
> 皆さんのご教示をお願いします。
>



なるほど「一日に同じ胞(え)にして双に(ふたご)に生れ(あれ)ませり」は、重要ですね。
大碓と小碓(ヤマトタケル)の双子が産まれたときの記載です。

そうすると、先のオノゴロ島からの国産み記載と、上記海人族系の王族のそれとで、漢字用法が同じ系統ということがわかってきますね。

「馭慮嶋爲胞」の「胞」




1611管理人:2013/07/27(土) 02:27:00
Re: 昨日の中国の地震は、ロシアとインドを記念
秦野北斗さんへのお返事です。

> ねこさんへのお返事です。
>
> ねこさん、この掲示板はSF、予言掲示板ではないぞ。
>
> この掲示板にはあなたのスペースはありませんな。
>
>
> > 昨日の中国の地震は、ロシアとインドを記念
> >
> > 二カ国を祝福しながら、同時に他国をいじめる。
> > これは幸福度を高める陰謀の特徴だ。
> > 普通の人間にはこういった感情は想像もつかない。
> > 今日、日本とロシア、そして日本とインドの関係は、ただ事ではない。
> > (仮説を含む)
>


ま、古代史関連なら何書き込んでもいいですよ。自由にやりましょう・
ただ「十戒」に反するのは、こちらで勝手に削除します。



1612茨の紀氏:2013/07/27(土) 11:23:01
磤磤馭慮島(おのころじま)=石(中心)+殷 の 国家主権の及ぶ地域。国土?
> それで、なぜ「碓」と彼らのことを呼んだのか?が課題になりますね。
>
碓 ウス(土盛?台・胎) うす【臼/×碓】 からの垂直線

碓=隹(私的に測量士)+石(道標)
「石」は交通の要衝にあたる場所であり、賽の神の要素を見ている。大甕神社の前にも「泉川道」の道標が立っている。また境に埋められる伝承を持つ「甕」にちなむ土地であり、大甕山の巨岩もあって、後世に天津甕星神と関連つけられたとの指摘がある。むべなるかな。 http://kamnavi.jp/en/higasi/oomika.htm

淤能碁呂・磤馭慮。(央心・央凝)。
央心。中心。核心。本源。 http://gejirin.com/src/O/onokoro.html
中央部。中国。  都。中央政府。  核。源。種。凝縮。  実心。真心。
核心の影響力がつくるシステム・調和・秩序。(太陽の重力がまとめる太陽系みたいなもの。)
 国家主権の及ぶ地域。国土。
央 (心) の凝り。心の結実。思いの実現。

オノコロという名前は「ホオコホ」という音が訛ったものだともいう。
二神はうきはしに立ち、天 (中央政府) から授けられた経と矛を用いて、退廃した日本に秩序と調和を復興しようと試みる。その努力の結晶 (ホコの雫) がオノコロであり、二神はそれを国家再生の中心基地とする。その場所はオキツの宮に同じ。そこに八紘殿を造り、その御柱を廻ることによって万物を生み、稲作・養蚕の道を教え、ワイタメ(弁別) を回復する。
オノコロは日本 (あるいは世界) の縮図に例えられることもある。

オノコロは「ヱナ(胞衣)」に掛かる。・・・子宮 包ー勹=己(おのれ)

夏帝禹は龍門を開拓して、大夏に通じさせ、九河を切り開き、 曲九防決渟水致之 ... 専( もっぱ)ら天下が己(おのれ)にむかうことを用(もち)いてそれのみであり、これが天下を 有するに於いて貴(とうと)ぶところなのである。 http://blogs.yahoo.co.jp/mirobii/25006370.html
手持臣虜之作哉此不肖人之所勉也
手(て)は家来の臿(土を掘り返す道具 作=臿?)を持(も)つことを欲っすることだろうか。これらは不肖(ふしょう)の人の勉(つと)めるところであり、
臿(土を掘り返す道具 作=臿?)を持(も)つことを欲っすることだろうか。

>隹の原字はタイという音をあらわすとともに、塊の原字でもあって、ク イ ということばをあらわす。後者のク イ系統のことばは、堆積やかたまり、つまり、「まるい、 めぐる、とり巻く」などの意味をあらわす。たとえば、帷(まわりをとり巻く幕) 匯(うずまき)??...
>塊の原字 凷
>凷は〔説文解字〕に「?(つちくれ)なり」とあり、つき固めた土のこと。経籍では塊字 の方がよく用いられている。 蕢・蒯と通用する。塊は傀と通じて、ひとりのさま、という意味??... http://dic.nicomoba.jp/k/a/
>凷は土+凵の会意。

己(おのれ)
專用天下適己而已矣此所貴於有天下也
専(もっぱ)ら天下が己(おのれ)にむかうことを用(もち)いてそれのみであり、これが天下を有するに於いて貴(とうと)ぶところなのである。

己 おのれ=禹 鋤を手にとり http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2618


1613管理人:2013/07/27(土) 23:11:37
Re: 磤磤馭慮島(おのころじま)=石(中心)+殷 の 国家主権の及ぶ地域。国土?
茨の紀氏さんへのお返事です。

> > それで、なぜ「碓」と彼らのことを呼んだのか?が課題になりますね。
>??>
>??碓 ウス(土盛?台・胎) うす【臼/×碓】 からの垂直線
>
>??碓=隹(私的に測量士)+石(道標)
> 「石」は交通の要衝にあたる場所であり、賽の神の要素を見ている。大甕神社の前にも「泉川道」の道標が立っている。また境に埋められる伝承を持つ「甕」にちなむ土地であり、大甕山の巨岩もあって、後世に天津甕星神と関連つけられたとの指摘がある。むべなるかな。 http://kamnavi.jp/en/higasi/oomika.htm
>
> 淤能碁呂・磤馭慮。(央心・央凝)。
> 央心。中心。核心。本源。 http://gejirin.com/src/O/onokoro.html


なるほど日本書紀の磤馭慮の磤は特殊ですね。

発音としては、イン・オン

中国人的に聴くと、磤馭慮(インゴロ・オンギョロ)

「ン」音が、日本語では「ノ・ヌ」になる。

 小豆(オド)島

オノゴロ島つまり小豆島を子宮として、次に淡路島を産んで、大和の秋津地域(本州か)、それから、四国伊予、九州筑紫、吉備に戻って児島、隠岐、佐渡と日本海を北上して、最後に越島(北海道?)に行くわけですよね。

日本書紀 卷第一 第四段 一書第八 原文】. 一書曰 以 馭慮嶋爲胞 生淡路洲 次大日本豐秋津洲 次伊豫二名洲 次筑紫洲 次吉備子洲 次雙生億岐洲與佐度洲 次越洲. 【日本 書紀 卷第一 第四段 一書第八 読み下し】

子宮というのは、先日の臼・碓(タイ)ですよね。確かに甕にも類似性があります。

大碓を大彦、オホ音とすれば、確かにご指摘のオホコオ島と関係してくる。

小碓はヤマトタケル。


淡路から秋津つまり葛城方面は、大彦系の南方海人族の基盤です。これらの伝承は日向伝承とかかわりながら、阿倍氏など大彦系集団の子孫の伝承によるものでしょう。


彼らの中心拠点が、吉備と淡路、伊予の間の交通の要所小豆島にあったとすると、ここを独占し国産みの起点とした意味もわかります。

彼らの葬送観念には、山幸神話のような、子宮に関するものがあるようです。古墳の葬送観念ともかかわっていくわけですが、イザナギ神話にもかかわっていく。

オノゴロというのは、その南方海人族系の言葉ではないでしょうか。ホオにアイデンティティーがある。

中国呉から、インド・中東系にまで広まる、蠍座と乙女座の信仰が、そのまま赤い針を持つ山幸と、水瓶をもつ海神の娘の話となっていった経緯があるのですが、どうようにして、中東・インド系の国土創成神話が、インドシナ・呉経由で、日本へとつたわっていく、その家庭で、国土創成に必要だった子宮なりが、どう呼ばれていたか?が課題でしょう何か似たような物語があるかもしれません。

1614茨の紀氏:2013/07/28(日) 00:37:46
Re: 磤磤馭慮島(おのころじま)=石(中心)+殷 の 国家主権の及ぶ地域。国土?
管理人さんへのお返事です。


「オノ」(都市名)「コロ」(コロサイ地名) http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
ギリシャ語で「オノ」は名前でマトぺは作るで「名前を作る」という意味でもあります。 http://dic.nicovideo.jp/b/a/オノマトペ/61-

オノ. (Ono). エルパアルの「子」であるベニヤミン人シェメドが建てたと思われる都市 http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200003332

ベニヤミン族(南ユダ王国)
パウロは生粋のベニヤミン人。 ... 正統派のユダヤ教に改宗する日本人が まとまって存在するとすれば(当然、すべての日本人がイスラエル(四国ほどの面積)に 移住することは不可能であるから)、それは日本人全体から見てごく限られた人たちであ ろう。 http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/0000isuraeru4.htm

「子宮」
霊魂や聖霊の宿る  「子宮」 を意味する「ラハム」 http://www.rock.sannet.ne.jp/hg31cc/medi.html/md10.html
日本語訳の聖書ではやはり「憐れみ」と訳されてしまうのだが、本来この言葉は「子宮」 を意味する「ラハム」を複数形にしたもので、子宮の痛み、すなわち産みの苦しみを表す 言葉であるらしい。
直訳的には「あなたの子宮が命をもたらしますように」となる。子宮が苦しみ痛みの末に命をもたらすように、子宮をその感情の座とする「ラハミーム=憐れみ」は人に命をもたらす。一つの命を生み出し生かすために、自分自身が痛み苦しむこと。それがヘブライ語のラハミームが意味していることであり、それはギリシャ語のスプランクニゾマイ、沖縄の言葉の「ちむぐりさ」と重なり合う表現だと言えよう。 http://www.ne.jp/asahi/church/sasebo/youshi05'09_18.htm

腹と訳されているギリシャ語「コイリヤ」は腹の他、子宮、心臓の意味があります。新改訳は「心の奥底から」と意訳し、欄外の注に、直訳「腹から」と小さく書き添えていますが、そうではなく、逆に「腹から」を本文に、「心の奥底から」を欄外の注に書き添えて欲しかったと思います。
 霊魂や聖霊の宿る人体の部位として、聖書は腸、心臓、子宮などの内臓を挙げています(エレミヤ31:20;詩篇40:8;創世記43:30;ヨブ32:18,19;1ヨハネ3:17)

メリル・テニーがヨハネ伝注解(聖書図書刊行会版)の中で、天使が墓石を転がして墓の入り口を開けたのは、復活の主を外に出すためでなく(天国のからだを持たれた主は、墓石を通過されたのであり)、復活の証人になるはずの弟子たちを中に招き入れるためであったとし、墓の中に残されていた遺体を巻いた衣はあたかもセミの抜け殻のように置かれていたのだというキリストの復活のからだ観は正解であろうと考えます。

ターミナルドグマも 地下の洞窟にあり、子宮を表わし、ターミナルドグマへの道は産道を表わすと考えられる 。 http://y-honpo.net/EVA/eva24.html
紀元前後は、ミトラス教やミスラ教、バール教、グノーシス主義などがメジャーな宗教であった。
古代ミトラス教の秘儀では、祭壇は地下の洞窟にあり、これは子宮に例えられている。

>
> オノゴロ島つまり小豆島を子宮として、次に淡路島を産んで、大和の秋津地域(本州か)、それから、四国伊予、九州筑紫、吉備に戻って児島、隠岐、佐渡と日本海を北上して、最後に越島(北海道?)に行くわけですよね。
>

>
>> 淡路から秋津つまり葛城方面は、大彦系の南方海人族の基盤です。これらの伝承は日向伝承とかかわりながら、阿倍氏など大彦系集団の子孫の伝承によるものでしょう。
>
>
> 彼らの中心拠点が、吉備と淡路、伊予の間の交通の要所小豆島にあったとすると、ここを独占し国産みの起点とした意味もわかります。
>
> 彼らの葬送観念には、山幸神話のような、子宮に関するものがあるようです。古墳の葬送観念ともかかわっていくわけですが、イザナギ神話にもかかわっていく。
>
> オノゴロというのは、その南方海人族系の言葉ではないでしょうか。ホオにアイデンティティーがある。
>
> 中国呉から、インド・中東系にまで広まる、蠍座と乙女座の信仰が、そのまま赤い針を持つ山幸と、水瓶をもつ海神の娘の話となっていった経緯があるのですが、どうようにして、中東・インド系の国土創成神話が、インドシナ・呉経由で、日本へとつたわっていく、その家庭で、国土創成に必要だった子宮なりが、どう呼ばれていたか?が課題でしょう何か似たような物語があるかもしれません。

1615茨の紀氏:2013/07/28(日) 01:11:03
自凝島(こねまわして)土塊)を
自凝島(こねまわして)土塊)を
淡路島の自凝島(こねまわして)神社で、弥勒大神の出現の神業を行い、翌年に阪神大震災が起きた。 http://tsukioto2011.blog65.fc2.com/page-2.html

10はゲマトリアで1+0=1で、神業が行われた10月17日と震災が起きた1月17日は同日を意味する。
弥勒大神(日の出大神)は太陽神ミトラ(イエス・キリスト)であり、それは「スサノオ=国常立尊」と同一神である。

「ころ」は場所や 位置を表す接尾語 http://gejirin.com/gsrc/ko/koro.html
【(凝)・塊】
凝り固まったもの。凝縮。結晶。塊。
「ころ」は「こる(凝る)」の名詞形。
変態:「くれ(塊)」

アダン(土塊)とイヴ(命)− 旧約聖書勝手訳その2 「元始(はじめ)に神、天地を創造( つくり)たまへり」 「地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黒暗淵(やみわだ)の面に あり。神の霊、水の面を覆いたりき」 「神、光あれと言いたまひければ光 ... http://www.el-saito.co.jp/cafe/cafe.cgi?mode=res&amp;one=1&amp;no=1120
(土塊)をこねまわして人間第一号を創ったわけで、
こねまわして・・・矛を海に下ろしてかき混ぜ(おのころじま)

日本神話ではあまり馴染みのない、天地の始まりの話をしよう。北欧神話やギリシア神話、聖書の記述などにおいて、この世界の始まりはすなわち天空を統べる主神の誕生と深く結びついており、宇宙の誕生はそれぞれ、オーディン、ゼウス、唯一神の存在と深く結びついている。ところが日本神話における主神、天照大神とこの神話は必ずしも結びつくものではない。このあたりが日本神話の特異な点でもあり、この話が人々にあまり知られていない理由ともなっている。また、男女の肉体の相違、さらには性交についてけっこうな描写をしており、書いていて気恥ずかしいものがある。 http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/method/kuniumi.html


1616秦野北斗:2013/07/28(日) 08:12:50
Re: 自凝島(こねまわして)土塊)を
茨の紀氏さんへのお返事です。

自凝島神社(おのころじまじんじゃ)は2つあるようだな。

淤能碁呂島と磤馭盧島神社ですな。

オノゴロ島、又はオノコロ島は、日本神話のイザナギノミコト・イザナミノミコトによる国生み神話に登場する島を言う。 『古事記』では淤能碁呂島(おのごろじま)、『日本書紀』では磤馭慮島(おのころじま、初字は「石殷」で一字)と表記する。


http://ja.wikipedia.org/wiki/オノゴロ島

秦野は「(自凝(オノコロ)島)」ですが、解釈が異なるな。熱中すると理解する。

オノゴロ島は、「自(おの)ずから凝り固まってできた島」「(自凝(オノコロ)島)」という意味である。だが。

秦野は自ずと熱中するだな。祭事に熱中・・・。

こる【凝る】
1.柔らかいものが冷えるなどして固まる。
(趣味や思想などに)熱中する、入れ込む
2.彼は珍しい切手の収集に凝っている。
3.筋肉が疲労などで固くなる。


> 自凝島(こねまわして)土塊)を
> 淡路島の自凝島(こねまわして)神社で、弥勒大神の出現の神業を行い、翌年に阪神大


1617茨の紀氏:2013/07/28(日) 10:41:30
Re: 自凝島(こねまわして)土塊)を
秦野北斗さんへのお返事です。

瓢箪はオノコロ(ころ=葫盧=瓢箪)島
、オノコロ島は日本であり、イスラエルがそのまま日本に接続していくのです。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?




1618秦野北斗:2013/07/28(日) 19:11:47
Re: 自凝島(こねまわして)土塊)を
茨の紀氏さんへのお返事です。

> 瓢箪はオノコロ(ころ=葫盧=瓢箪)島
> 、オノコロ島は日本であり、イスラエルがそのまま日本に接続していくのです。
>

台与(とよ)と天孫降臨 年代があわないぞ。なにか、出鱈目のようですな。

そして、天孫降臨とは、筑紫地方にあった邪馬台国の部民が、日田盆地(ここには日向の地名が多い)を経由し、耶馬溪のある山国川を下り、豊前の中津(仲津)に到着した経緯を描いたものでしょう。天孫が降臨した場所である豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)とは、正しく台与(とよ)が祭祀する中津の国(豊前国=秦氏の国)ではないでしょうか。年代があわないぞ?
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-194.html

オノゴロ島、又はオノコロ島は、日本神話のイザナギノミコト・イザナミノミコトによる国生み神話に登場する島を言う。 『古事記』では淤能碁呂島(おのごろじま)、『日本書紀』では磤馭慮島(おのころじま、初字は「石殷」で一字)と表記する。オノコロ島は日本であり、イスラエルがそのまま日本に接続?
http://ja.wikipedia.org/wiki/オノゴロ島


1619茨の紀氏:2013/07/29(月) 16:38:37
オノコロ島・・・小さな平和の島!ビンゴ?
オノ(小さな平野) コロとはチベット語で『輪』=小さな平『輪』

COLO(コロ)とはチベット語で『輪』を意味します。 http://www.sasaki-kg.co.jp/03iedukuriomoi/post_34.html

オノ(小さな平野) コロ http://8906.teacup.com/toraijin/bbs


1620秦野北斗:2013/07/29(月) 20:28:30
Re: オノコロ島・・・小さな平和の島!ビンゴ?
茨の紀氏さんへのお返事です。

淤能碁呂島の淤能碁呂は呉音読みでオノゴロですな。

磤馭慮島の磤馭慮は呉音読みで?ゴロなので磤はオノですな。

結論は単純で呉音読みだな。

チベット語のCOLO(コロ)は碁石の小さな平『輪』で淤・・
なんだな。結論はないな。


土と水が混じり合って粘性の大きい液体状になったもの。またそれが何かに固着して乾燥したもの。
http://ja.wiktionary.org/wiki/どろ


> オノ(小さな平野) コロとはチベット語で『輪』=小さな平『輪』
>
> COLO(コロ)とはチベット語で『輪』を意味します。 http://www.sasaki-kg.co.jp/03iedukuriomoi/post_34.html
>
> オノ(小さな平野) コロ http://8906.teacup.com/toraijin/bbs
>


1621管理人:2013/07/29(月) 23:05:51
Re: オノコロ島・・・小さな平和の島!ビンゴ?
秦野北斗さんへのお返事です。

> 茨の紀氏さんへのお返事です。
>
> 淤能碁呂島の淤能碁呂は呉音読みでオノゴロですな。
>
> 磤馭慮島の磤馭慮は呉音読みで?ゴロなので磤はオノですな。
>
> 結論は単純で呉音読みだな。
>
>

凝の発音の件ですが、石凝姥女の件を考えはじめています。物部系・卑弥呼か?


イシコリドメ

イシコリドメは、日本神話に登場する神である。作鏡連(かがみづくりのむらじ)らの祖神とされている。『古事記』では伊斯許理度売命、別名 櫛石窓神、豊石窓神、『日本書紀』では石凝姥命と表記されている。
神話での記述[編集]

岩戸隠れの際に八咫鏡を作った。ちなみに日前神宮・國懸神宮(和歌山市)には八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像鏡・日矛鏡(ひがたのかがみ・ひぼこのかがみ)がある。日像鏡は日前神宮の神体、日矛鏡は國懸神宮の神体となっている。
天孫降臨の際瓊瓊杵尊(ににぎ)に附き従って天降るよう命じられ、天児屋命(あめのこやね)、太玉命(ふとだま)、天鈿女命(あめのうずめ)、玉祖命(たまのおや)と共に五伴緒の一人として随伴した。
解説[編集]
http://ja.wikipedia.org/wiki/


ここで「矛」が出てきます。国産みの際に、矛でかき回す記載がありますよね。

凝るには、かき回す、混ぜる、という意味もあるのではないでしょうか。

南方海人系の集団の言語に、「コル」があったのでしょうか。



1622茨の紀氏:2013/07/30(火) 11:22:04
Re: オノコロ島・・・小さな平和の島!ビンゴ?
管理人さんへのお返事です。

>南方海人系の集団の言語に、「コル」があったのでしょうか。

cor コル 「心は」(主格) cordis コルディス 「心の」(属格) cordi コルディー 「心に」(与格 ) cordem コルデム 「心を」(対格) corde コルデ 「心で、心から」(奪格) http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1257694482

田氏作竟 斉国の田氏(田常) cor コル 「心は」 石 コロ http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?




1623茨の紀氏:2013/07/30(火) 23:02:35
Re: オノコロ島・・・小さな平和の島!ビンゴ?
管理人さんへのお返事です。

凝る(こ) る 凝固  こお??り (こお り)
>凝るには、かき回す、混ぜる、という意味もあるのではないでしょうか。
凝るの言い換えや別の言い方。・意義素・用例類語・縁語肩・筋肉などが凝る(肩が) 張る ・ (筋肉が)こわばる ・ 固まる ・ 固くなる ・ こり固まる ・ しこる ・ つっぱる ・ 重くなる ・ (まだ)硬さが残る趣味 http://thesaurus.weblio.jp/content/凝る
凝りに凝る ・ 完全主義(者) ・ 凝り性の ・ 徹底的に ・ 周到に ・ 念入りに ・ (細部についても)手を抜かない ・ 趣味の域をこえた ・ 趣向をこらす ・ 工夫に工夫を重ねた ・ (細部に)こだわる ・ 手が込む ・ 突き詰めて(考える)

冰」,「氷」 の俗字の「凝」 http://tonan.seesaa.net/archives/201002-1.html

ひ【氷/冰】とは。意味や解説。1 水のこおったもの。こおり。「―を、物の蓋に置きて割る とて」〈源・蜻蛉〉2 雹(ひょう)。「いとかく地の底とほるばかりの―降り」〈源・明石〉 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/182256/m0u/



1624管理人:2013/07/30(火) 23:06:34
Re: オノコロ島・・・小さな平和の島!ビンゴ?
茨の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> >南方海人系の集団の言語に、「コル」があったのでしょうか。
>
> cor コル 「心は」(主格) cordis コルディス 「心の」(属格) cordi コルディー 「心に」(与格 ) cordem コルデム 「心を」(対格) corde コルデ 「心で、心から」(奪格) http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1257694482
>

お知らせありがとうございます。
凝は中国音で「ギョゥ」ですね。

先の「淤能碁呂島」の「碁呂(ゴロ)」音と、ギ音で共通します。

「碁」は、ギが正しい発音ですね。

「磤馭盧」の「馭」も、ゴ・ギョ。

ギョ音を、中国系渡来人が聞き取って、漢字を当てたかもしれません。

石凝姥女は、ある意味、磤馭盧ともどこか共通性を持っています。

南方呉系文化の影響でしょうか。

1625茨の紀氏:2013/07/31(水) 00:50:15
似てる?「コヲロコヲロ」 掻き混ぜ 「ンゴロンゴロ」( 大きな穴)
似てる?「コヲロコヲロ」 掻き混ぜ 「ンゴロンゴロ」( 大きな穴)
天の沼矛(瓊矛、玉で飾った矛)で塩(潮)を「コヲロコヲロ」に掻き混ぜてその矛を引き上げた時に矛の先から滴り落ちた塩が累積して島となった。これがオノコロ島で ある。 http://www.dai3gen.net/onokoro.htm
コヲロコヲロ
ンゴロンゴロ
「ンゴロンゴロ」とはマサイの言葉で「 大きな穴」という意味。 http://www.geocities.jp/kozurevacation/afngorongoro.html


1626秦野北斗:2013/07/31(水) 12:26:04
Re: 似てる?「コヲロコヲロ」 掻き混ぜ 「ンゴロンゴロ」( 大きな穴)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001675M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝



1627茨の紀氏:2013/07/31(水) 13:23:34
参考HP??アイヌ民族(アフリカ系ロシア人奴隷)
??投稿者:茨の紀氏??投稿日:2013年 7月31日(水)13時22分0秒
返信・引用







参考HP??
 旧土人保護法の土人 = 奴隷 = Slave = スラブ民族 = The Slavs(英語)
奴隷 = Slave(英語)
        ↓
     スラブ民族 = The Slavs(英語)
        ↑
     アイヌ民族(アフリカ系ロシア人奴隷)

※ スラブ民族とは、
   東欧のロシア、および、「ソ連の権力人種」である、
   東欧のモスクワ民族顔の人種の民族を意味します。

※ アイヌ民族には文字はないが、アフリカ人奴隷の出身地は、アフリカ全土でもあり、さまざまな言語です。
 片言で、親分(奴隷の所有者)のモスクワ民族語を話していたようである。
 モスクワ語をローマ字読みして、奴隷の片言ロシア語に、アフリカ人訛りで発音をすると、アイヌ語である。 http://www.geocities.jp/orionseijin_cacacakah/xoposhow/pu/EroppMasai.html




1628茨の紀氏:2013/08/11(日) 02:17:38
Re: 参考HP??アイヌ民族(アフリカ系ロシア人奴隷)
茨の紀氏さんへのお返事です。

旧約聖書に書かれているアフリカ人   http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1086371180
もちろん、旧約聖書に「アフリカ」という言葉は出てきません。 大洪水を生き延びたノアの 3 人の息子セム、ハム、ヤペテのうち、「ハムの子孫はクシュ(エチオピア人)、ミツライ...
旧約聖書に書かれているアフリカ人ですが、この「アフリカ人」黒人以外の人種、例えば北アフリカの住民(ベルベル人など)を差している言葉だと思いませんか?

アフリカという地名の起源は現在のチュニジアですし
古くは北アフリカのベルベル人やカルタゴ(現:チュニス)を中心に商業を行っていたフェニキア人もいますから?
なにも旧約聖書のアフリカ人=黒人とは限らないと思うのですが?

大洪水を生き延びたノアの 3 人の息子セム、ハム、ヤペテのうち、「ハムの子孫はクシュ(エチオピア人)、ミツライム(エジプト人)、プテ(ベルベル人)、カナン(もともとのイスラエル住民)」とされています。カナン人は、やがてイスラエル人によって滅ぼされます。
エレミヤ書に「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか」という表現があり(13 章 23 節)、少なくともクシュ人は特徴的な肌を持っていたことが伺えます。
とはいえ、現在のエチオピア人を見れば分かるように、どちらかと言えば赤茶けた人々で、南アラビア人に近いです。中央アフリカや西アフリカの黒光りする人々とは違います。
モーセの妻の一人はクシュ人とされ(民数記 12 章 1 節)、イスラエル人にはなじみのある人々でした。一方で、クシュ人が(エジプト人と一緒に)南ユダ王国と戦争をした記録もあります(歴代誌下 12 章)。ユダヤ地方がローマの支配下になっても、エルサレムにやってくるクシュ人もいました(使徒行伝 8 章)。

「リビア(アフリカのこと)
ヤマド」(天壌無窮の意味) http://8906.teacup.com/toraijin/bbs




1629管理人:2013/08/12(月) 03:06:42
Re: 参考HP??アイヌ民族(アフリカ系ロシア人奴隷)
茨の紀氏さんへのお返事です。

> 旧約聖書に書かれているアフリカ人
> 大洪水を生き延びたノアの 3 人の息子セム、ハム、ヤペテのうち、「ハムの子孫はクシュ(エチオピア人)、


旧約聖書の題材については、ちょっと全体的に再度比較検討してみたいところです。

天地創造神話との関係ですね。漂うものが固まっていく過程、そのモチーフがどこから来たのかが重要です。



1630茨の紀氏:2013/08/20(火) 03:16:10
Re: 参考HP??アイヌ民族(アフリカ系ロシア人奴隷)
>
> > 旧約聖書に書かれているアフリカ人
> > 大洪水を生き延びたノアの 3 人の息子セム、ハム、ヤペテのうち、「ハムの子孫はクシュ(エチオピア人)、
>
>
> 旧約聖書の題材については、ちょっと全体的に再度比較検討してみたいところです。


千島アイヌは「クシ(エチオピア?)」と呼ばれた。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?

クシはヘブライ語でエチオピアを意味し、ゼファニヤの家系はエチオピアの出であった http://ja.wikipedia.org/wiki/ゼファニヤ書
『ゼファニヤ書』(ゼファニヤしょ、ゼパニヤ書)は『旧約聖書』文書の1つである。全3章で構成される。ユダヤ教では「後の預言者」、キリスト教では十二小預言書に分類される。『ハバクク書』の後、『ハガイ書』の前、十二小預言書の中では9番目に位置する。伝統的にゼファニヤが筆者とされる。紀元前7世紀後半ないしそれ以降に成立した。


1631茨の紀氏:2013/08/20(火) 03:55:03
Re: 参考HP??アイヌ民族(アフリカ系ロシア人奴隷)
茨の紀氏さんへのお返事です。

> >
> > > 旧約聖書に書かれているアフリカ人
> > > 大洪水を生き延びたノアの 3 人の息子セム、ハム、ヤペテのうち、「ハムの子孫はクシュ(エチオピア人)、
> >
> >
> > 旧約聖書の題材については、ちょっと全体的に再度比較検討してみたいところです。

??ごめんなさい。
とちりました σ(-c_,-´。)……   ようこそ!ミレニアム(小説) のホームページへ! http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?

ロシア (「ゴグ」)・・・「ロシュ(あるいはロシ)」
他の外国語の聖書で調べてもここに「ロシ」という国名が確かにあります。 むかし日本 では古代ロシアのことを「ロシ」と呼ぶことがありました。終末戦争はロシア がイスラエル に侵攻することから勃発します。 http://www.fgtc777.com/n-gaikoku/russian_federation.htm
エゼキエル書38章 「ゴグとマゴグ」
そして、ゴグと連携して、ペルシヤ、クシュ、プテが出陣し、またゴメル、ベテ・トガルマも 参戦します。 http://www.logos-ministries.org/old_b/ezk38.html
出エジプト記において、主はこれでもか、これでもかというばかりにエジプトに災いを下し、最後、紅海を分け、そこを通らせることによって、ご自分がヤハウェであることを示され、イスラエルは神とモーセを信じました。同じように、主は、豊かな地、安全になっているところに、絶体絶命の危機を、ゴグを通して与えられ、そしてゴグを打ち砕かれることによって、イスラエルの民、また諸国の民が、この方こそまことの神、まことの主であることを認めるように仕向けられます。


1632秦野北斗:2013/08/21(水) 09:07:16
古代距離(旧約聖書、魏志倭人伝、中国史籍、・・)
古代距離は、総てが地球の円周距離が生んだ距離の様ですな。

呉尺、隋(晋)尺からペルシャキュビット、古代ローマキュビトが導かれる。ノアの箱舟は
ペルシャキュビットが相当すると思われるな。対応関係は以下
53.35 cm(ペルシャキュビット)÷1.2=44.46 cm(古代ローマキュビト)

ノアの箱舟の形状
方舟は「長さ300キュビト、幅50キュビト、高さ30キュビト」で3つのデッキを持っている。
長さ300×53.35 cm=160.05 m
幅50×53.35 cm=26.67 m
高さ30×53.35 cm=16.00 m

これらは、総てが地球の円周距離が生んだ距離の様ですな。

エジプトスタディオン157.5
250,000スタディアの地球周長を意味し
250000×157.5=39375000

アッティカスタディオン185
緯度1度が111km:185.185 ×60
185 ×60×60×60 =39960000

里も同様に地球周長を90,000で割ったのだろうな。
1里=40,000,000m÷90,000=444m

大宝律令の尺(秦野距離)は呉尺で隋尺の関係は1.2倍になる。

呉尺     隋(晋)尺
35.6 cm÷1.2=29.6 cm(大尺)
29.6 cm÷1.2=24.6 cm(小尺)

呉代、隋代の尺を里に当て嵌めるならば、大里、小里が存在する。

呉尺     隋(晋)尺
533.5 m(里)÷1.2=444 m(大里)
444 m(大里)÷1.2=370m(小里)

アッティカスタディオンとエジプトスタディオンの比
185÷157.5=1.175≒1.2

周と呉の時期に1.2が存在する。何かあったのだろうな。歴史のほころびですな。

http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1365


呉尺     隋(晋)尺
533.5 m(里)÷1.2=444 m(大里)

(里)÷10=(短里)
53.35 m(短里)÷1.2=44.46 m(短里)

キュビト=(里)÷1000=(短里)÷100
53.35 cm(ペルシャキュビット)÷1.2=44.46 cm(古代ローマキュビト)

キュビト
それ以外の多くの西洋の文化も、キュビットは使われた。ペルシャのキュビットは 52〜64 cm、古代ギリシャでは π?χυς(pechys; ペーキュス)と呼ばれ約 47.4 cm、古代ローマでは cubitus と呼ばれて約 44.46 cm、アラブでは arsh と呼ばれて 48〜64 cm であった。ユダヤでは ??????(アマ)と呼ばれて 46〜61 cm であるが、これは今日でもユダヤ教で用いられている。
古代イスラエルでは、第一神殿時代のキュビットは 428 mm であった。第二神殿時代には、一般的には 445 mm のキュビットが使われていたが、宗教的な目的には 437 mm のキュビットが使用されていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/キュビット

ノアの箱舟の形状
方舟は「長さ300キュビト、幅50キュビト、高さ30キュビト」で3つのデッキを持っている。これは、タバナクル(テント式神殿)の3倍の高さであり、タバナクルの前庭の3倍の広さとなっている。この大きさによって、神の考えにおける人類の魂の救済という意味が同時にこめられていることを聖書の著者が念頭においていたことが示唆される??。
さらに長さ300キュビトは60の5倍、高さ30キュビトは60の半分であり、このサイズには、60という数字が根底にあると言われている。(1キュビトを伝統に従って約44.5cmとして換算すると、およそ「長133.5m、幅22.2m、高13.3m」となる。)
またこの「長:幅:高=30:5:3」の比率は、現在のタンカーなどの大型船を造船する際に、最も安定しているといわれる比率とほぼ同じとなる。
キュビットは、紀元前6000年ごろの古代メソポタミアで生まれたとされている。

ノアの方舟(ノアのはこぶね、英語: Noah's Ark)は、旧約聖書の『創世記』(6章-9章)
方舟は「長さ300キュビト、幅50キュビト、高さ30キュビト」で3つのデッキを持っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ノアの方舟


1633管理人:2013/08/03(土) 23:01:47
Re: 参考HP??アイヌ民族(アフリカ系ロシア人奴隷)
茨の紀氏さんへのお返事です。

> >
> > > 旧約聖書に書かれているアフリカ人
> > > 大洪水を生き延びたノアの 3 人の息子セム、ハム、ヤペテのうち、「ハムの子孫はクシュ(エチオピア人)、
> >
> >
> > 旧約聖書の題材については、ちょっと全体的に再度比較検討してみたいところです。
>

問いかけの仕方が悪かったようです。
ご紹介のノアの話じゃなくて、天地開闢神話の件です。

根源神たちの登場[編集]
本文によれば、太古、天地は分かれておらず、互いに混ざり合って混沌としていた。しかし、その混沌の中から、清浄なものは上昇して天となり、重く濁ったものは大地となった。そして、神が生まれる。
天地の中に葦の芽のようなものが生成され、神となる。
国常立尊(くにのとこたちのみこと)
国狭槌尊(くにのさつちのみこと)
豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)
これらの神々には性別がなかった。
第一の一書によれば、天地に生成されたものの形は不明である。しかし、これが神となったことは変わらない。生まれた神々は次の通り。なお、段落を下げて箇条書きされるのは上の神の別名である。
国常立尊(くにのとこたちのみこと)
国底立尊(くにのそこたちのみこと)
国狭槌尊(くにのさつちのみこと)
国狭立尊(くにのさたちのみこと)
・・
第二の一書によれば、天地に葦の芽のようなものが生成された。これが神となったとされる。すなわち、本書と同じであるが、神々の名称が異なる。



アイヌの天地開闢神話はおもしろいですね。

天地(空・島)とカムイの始まり[編集]

昔、この世に国も土地もまだ何もない時、ちょうど青海原の中の浮き油のような物ができ、これがやがて火の燃え上がるように、まるで炎が上がるように、立ち昇って空となった。そして後に残った濁ったものが、次第に固まって島となった。島は長い間に大きく固まって島となったのであるが、その内、モヤモヤとした氣が集まって一柱の神(カムイ)が生まれ出た。一方、炎の立つように高く昇ったという清く明るい空の氣からも一柱の神が生まれ、その神が五色の雲に乗って地上に降って来た。
五色雲による世界の構築[編集]
この二柱の神達が五色の雲の中の青い雲を(現在の)海の方に投げ入れ、「水になれ」と言うと海ができた。そして黄色の雲を投げて、「地上の島を土でおおいつくせ」と言い、赤い雲をまかれて、「金銀珠玉の宝物になれ」、白い雲で、「草木、鳥、獣、魚、虫になれ」と言うと、それぞれのモノができあがった。
多くのカムイの誕生[編集]
その後、天神・地神の二柱の神達は、「この国を統率する神がいなくては困るが、どうしたものだろう」と考えていられるところへ、一羽のフクロウが飛んで来た。神達は「何だろう」と見ると、その鳥が目をパチパチして見せるので、「これは面白い」と二柱の神達が、何かしらをされ、沢山の神々を産まれたという。
日の神と月の神[編集]
沢山の神々が生まれた中で、ペケレチュプ(日の神)、クンネチュプ(月の神)という二柱の光り輝く美しい神々は、この国(タンシリ)の霧(ウララ)の深く暗い所を照らそうと、ペケレチュプはマツネシリ(雌岳)から、クンネチュプはピンネシリ(雄岳)からクンネニシ(黒雲)に乗って天に昇られたのである。また、この濁ったものが固まってできたモシリ(島根)の始まりが、今のシリベシの山(後方羊蹄山)であると言う。 http://ja.wikipedia.org/wiki/


こうみると、日本神話の大地・島の誕生、二柱の神の出現とも共通性があります。

中国の盤古神話は、後代のアマテラス・スサノオの日神・月神との関連で共通しますね。
中国・半島系渡来人の影響でしょうか。


盤古が死ぬと、その死体の
頭は五岳(東岳泰山を筆頭とした北岳恒山、南岳衡山、西岳華山、中岳嵩山の総称)に、その左目は太陽に、その右目は月に、その血液は海に、その毛髪は草木に、その涙が川に、その呼気が風に、その声が雷になった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/


旧約聖書の天地創造は、混沌、闇、水の面から神の霊がでてきて、創造を命じるわけですね。
構造・順番的には、日本神話、アイヌ神話と同じで、命令して地上のものができあがるところは、アイヌ神話と共通します。アイヌの神話は、おそらく紀元前に半島経由でやってきた中東人の遺伝子に近い新縄文系のそれではないでしょうか。琉球、九州方面のそれと関係するか。


初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神 の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ば れた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
神は言われた。「水の中に 大空あれ。水と水を分けよ。」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分 けさせられた。そのようになった。
神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝が あった。第二の日である。
神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾い た所が現れよ。」そのようになった。
神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所 を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
神は言われた。「地は草を 芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生 えさせよ。」そのようになった。
地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、 それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされ た。
夕べがあり、朝があった。第三の日である。
神は言われた。「天の大空に光 る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。
天の大 空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。
神は二つの大きな光 る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。
神 はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、
昼と夜を治めさせ、光と闇を分け させられた。神はこれを見て、良しとされた。
夕べがあり、朝があった。第四 の日である。
神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空 の面を飛べ。」
神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそ れぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとさ れた。
神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ち よ。鳥は地の上に増えよ。」
夕べがあり、朝があった。第五の日である。



http://www12.ocn.ne.jp/~sokkidou/sokkig_01/0101_0131.html

1634茨の紀氏:2013/08/04(日) 12:23:39
Re: 参考HP??アイヌ民族(アフリカ系ロシア人奴隷)
管理人さんへのお返事です。

> 第二の一書によれば、天地に葦の芽のようなものが生成された。これが神となったとされる。すなわち、本書と同じであるが、神々の名称が異なる。

葦から生まれてきた。栽培植物の起源の神話
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
ばん‐こ【盤古/盤固】: 中国神話で、神人の名。天地開闢(かいびゃく)の時初めて出現し 、その死後、からだの各部分が、日月をはじめ、天地の万象... バンコ: (九州地方で) 腰掛け。ベンチ。 バン‐こ【バン湖】: 《Van Gölü》トルコ東部にある同国最大の湖。 http://dictionary.goo.ne.jp/dicindex/jn/ばんこ/u/ば/
バン‐こ【バン湖】.
《Van Gölü》トルコ東部にある同国最大の湖。イランとの国境近くに位置する。塩湖であり、流出河川はない。湖面標高1646メートル。湖に浮かぶアクダマル島には10世紀建造のアルメニア教会が残っている。ワン湖。

ヴァン湖には、ヴィシャップというドラゴンの伝説が、それはそれは古い時代から 伝えられていた。語源から推測されるのは、この怪物の起源がゾロアスター教に さかのぼるというものである。 http://www.toroia.info/dragon/index.php?ヴィシャップ
天と地は産気づいていた、
深紅の海も産気づいていた、
海の陣痛は葦を赤くした。
葦の茎の上から煙が上がった、
葦の茎の上から炎が上がった、
そして、その炎から一人の小さな男が飛び出した。
その男は火の髪をもち、
炎の髭をもち、
その小さい目は太陽であった。

あるときヴィシャップが天から降りてきて人類を滅亡させようとしたとき、神はヴィシャップを石に変えたという。このヴィシャップの石はゲラム山地のふもとに4つある。 http://www.toroia.info/dragon/index.php?ヴィシャップ
アルメニアの翻訳者たちは、ナングの訳語として「河馬」と「ワニ」を使っている。



1635茨の紀氏:2013/08/04(日) 13:34:53
西道に派遣された四道将軍の一人が「黄蕨津彦」
屎で出来た神  突蕨 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2302

古代日本人とトルコ人 (前1200年−5世紀) http://8906.teacup.com/toraijin/bbs


1636管理人:2013/08/05(月) 22:43:28
Re: 参考HP??アイヌ民族(アフリカ系ロシア人奴隷)
茨の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > 第二の一書によれば、天地に葦の芽のようなものが生成された。これが神となったとされる。すなわち、本書と同じであるが、神々の名称が異なる。
>
> 葦から生まれてきた。栽培植物の起源の神話
> http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
> ばん‐こ【盤古/盤固】: 中国神話で、神人の名。天地開闢(かいびゃく)の時初めて出現し 、その死後、からだの各部分が、日月をはじめ、天地の万象... バンコ: (九州地方で) 腰掛け。ベンチ。 バン‐こ【バン湖】: 《Van Gölü》トルコ東部にある同国最大の湖。 http://dictionary.goo.ne.jp/dicindex/jn/ばんこ/u/ば/
> バン‐こ【バン湖】.
> 《Van Gölü》トルコ東部にある同国最大の湖。イランとの国境近くに位置する。塩湖であり、流出河川はない。湖面標高1646メートル。湖に浮かぶアクダマル島には10世紀建造のアルメニア教会が残っている。ワン湖。
>
> ヴァン湖には、ヴィシャップというドラゴンの伝説が、それはそれは古い時代から 伝えられていた。語源から推測されるのは、この怪物の起源がゾロアスター教に さかのぼるというものである。 http://www.toroia.info/dragon/index.php?ヴィシャップ
> 天と地は産気づいていた、
> 深紅の海も産気づいていた、
> 海の陣痛は葦を赤くした。
> 葦の茎の上から煙が上がった、
> 葦の茎の上から炎が上がった、
> そして、その炎から一人の小さな男が飛び出した。
> その男は火の髪をもち、
> 炎の髭をもち、
> その小さい目は太陽であった。
>
> あるときヴィシャップが天から降りてきて人類を滅亡させようとしたとき、神はヴィシャップを石に変えたという。このヴィシャップの石はゲラム山地のふもとに4つある。 http://www.toroia.info/dragon/index.php?ヴィシャップ
> アルメニアの翻訳者たちは、ナングの訳語として「河馬」と「ワニ」を使っている。
>



確かに、アルメニア神話は、日本神話の起源を考える上で欠かせないと思います。イラン系要素も強いわけですが、アマテラス・スサノオ神話とも関係するとの見方がありますね。

この地方の竜泰治伝承は、スサノオの大蛇退治にも影響していくわけですが、途中で遊牧民や半島を経由していきます。


「葦」「目=太陽」「火神」といったあたりが、日本神話との比較要素となるでしょう。

スサノオ・アマテラス神話関連は、比較的新しい渡来人、おそらくは新漢人が半島経由でもたらしたものではないでしょうか。そのころに吉備臣関連で竜退治伝承も入って行きます。

関連の海原を支配させる記載もあったと思いますが、新漢人が、北朝系の中国人とともに、東欧系の人種を含有しながら、新羅・カヤ経由で日本へ渡来していった過程で、その東欧系ガラス製品などともに、白鳥伝承とか、竜退治といった東欧系伝承ももたらしたのではないかと予想してます。

ただ葦原の語ですね、九州筑紫の地名にもあるわけですが、安曇・海人系の先の南方系の山幸・イザナギ神話の影響もあって、安曇氏や阿倍氏といった航海民たちの船にのっかって、後代に新漢人が九州から畿内へと進出していく過程で、これらの神話が、徐々に混じりあい、今の日本神話を形成していった、その中でどう伝承要素を再分離していくかが課題ですね。もっと神話の比較サンプルが必要。



1637茨の紀氏:2013/08/05(月) 23:21:20
Re: 参考HP??アイヌ民族(アフリカ系ロシア人奴隷)
管理人さんへのお返事です。

> ただ葦原の語ですね、九州筑紫の地名にもあるわけですが、安曇・海人系の先の南方系の山幸・イザナギ神話の影響もあって、安曇氏や阿倍氏といった航海民たちの船にのっかって、後代に新漢人が九州から畿内へと進出していく過程で、これらの神話が、徐々に混じりあい、今の日本神話を形成していった、その中でどう伝承要素を再分離していくかが課題ですね。もっと神話の比較サンプルが必要。
>
>


司馬遼太郎が注目した水野祐氏の出雲の民族と文化に関する三層説を紹介している。 http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/korea/japan.htm

これは民族学的な立場から言語・習俗・血液型などについて考察されたものだという。
(1)第一層 北方狩猟民族系の部族 縄文文化の担い手である原日本人
(2)第二層 南方漁労民族系の海人族 インドネシア系・苗族系の漁労航海民
(3)第三層 朝鮮半島系の部族 朝鮮半島南部の新羅人

著者はそれぞれ初期縄文人、晩期縄文人、初期弥生人としている。

「日本神話と中国長江流域神話」 http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f04/suwa30.htm
海幸彦・山幸彦として漁労と狩猟に従事していたホデリとホオリの兄弟が、釣針と弓矢を交換し、弟が兄から借りた釣針をうしなって、竜宮をおとずれる神話は『古事記』と『日本書紀』がつたえている。日本人にもっともなじみのふかい神話の一つである。
 この神話の源流として、これまでに、インドネシアのケイ族の伝承、パラウ島の伝承などが指摘されている。インドネシア方面の「失われた釣針型説話」を原型として、日本の海幸彦・山幸彦の神話が成立したというのが現在の定説である。
 東南アジアの「失われた釣針型説話」の存在を最初に報告したのは、十九世紀以来、この地方に入って調査にしたがったフリードリヒ・ミューラーやフロベニウスといったヨーロッパの研究者たちであった。日本の神話研究はその成果を借用してきたのである。
 しかし、最近、中国の長江南部に海幸彦・山幸彦と類似の話が存在することが報告されている。大林太良氏は、この神話を海の原理と山の原理の闘争ととらえ、江南地方につたえられる呉越の戦いにかかわる伝説を、山を代表する越と海を代表する呉の対立として分析し、日本神話の原型として紹介している(『日本神話の構造』)。
 また、伊藤清司氏は、湖南省のトウチャ族につたわる「格山竜珠を与えられる」という話を紹介し、兄弟の争い、水界訪問、水界の女性との結婚、水界よりの呪宝の将来、呪宝による水の支配、兄への復讐、という六つのモチーフが共通することを説いている(「日本と中国の水界女房譚」)。
 私自身はこのほかに、雲南省のラフ族、貴州省のコーラオ族、四川省のイ族、貴州省のプーイー族などがつたえる二十種を超える異型の水界女房譚を、現時点で発掘している。この数はもっとふえるはずである。これらを総合すると、日本の海幸彦・山幸彦の神話の源流は中国の長江南部であると確信をもって断定することができる。
 もう一例、イザナギ・イザナミの国生み神話について検討する。この神話の原型についてもポリネシア、内陸アジア、インドなどの神話との類似がこれまでに説かれてきた。
 日本の国生み神話は、A洪水で生存した兄妹が結婚する、Bその結婚ははじめうまくゆかず身体不完全な子が誕生したが試行の結果国土と人類などが誕生する、Cしかもそうした行為が神、動物などの指示によっておこなわれる、という三つのモチーフから成る、いわゆる洪水神話の不完全型である。

アマテラスの天石屋戸隠れ」、「天孫降臨」、「オオクニヌシの根の国訪問」など、日本の王権の成立にかかわる神話の重要な骨格部分が、ほとんどすべて、中国の長江流域の稲作民居住地の伝承を源流としていることがあきらかになっている。太陽神・女神・祖先神・稲魂という四つの性格を兼備して、皇室の祖先となったアマテラスと同一神格への信仰もこの地方に存在している。
 このような中国長江流域神話と日本神話の類似という事実はけっして偶然の暗合ではない。アジアの稲作は一万年以前に長江中流域にはじまって、長い年月をかけてアジア各地にひろまっていた。そのときに稲作の技術とともに、稲作にかかわる信仰や民俗、神話伝承もまた伝播していった。その末端が日本に保存されているのである。

沖縄にオナリ神とよばれる、兄弟を守護する姉妹の霊にたいする信仰があることはよく知られています。柳田國男が『妹の力』(1940)収載の論文で先鞭をつけ、伊波普猷がそのあとを受けて解明をすすめた問題でした。
 オナリは、奄美・沖縄・宮古・八重山の諸地域で兄弟から姉妹をさすことばです。姉妹から兄弟をさすときはエケリといいます。オナリ神信仰は、宮古をのぞく前記の各地にみられます。
 オナリ神の働きは呪詛にもしめされますが、多くは兄弟が危機にたったときの守護に力を発揮します。航海や戦争などの出発のさい、姉妹は守護のしるしとして、手ぬぐいや毛髪をもたせ、兄弟が危地におちいったとき、姉妹の霊は白鳥になって現地に飛ぶといいます。
 姉妹は兄弟にたいし霊的守護の役割をはたしますが、同時に兄弟は姉妹にたいし俗的守護の役割をします。しかも家族のレベルを超えたさまざまな上位の祭祀集団にもこの関係をみることができます。根神(ニーガミ)と根人(ニーッチュ)、ノロと按司(アジ)、聞得大君と王の関係などです。
 こうなると、本土古代のヒメ・ヒコ制の関係と完全にかさなります。
 興味ぶかいことは、このヒメ・ヒコ制、オナリ神信仰の源流についても、ポリネシアなどのオセアニアやインドネシアにもとめる説(馬渕東一『馬渕東一著作集3』、鍵谷明子『インドネシアの魔女』、他)が有力であるのにたいし、少数意見として、中国の守護女神媽祖(まそ)信仰との関係をかんがえる説があることです(植松明石「オナリ神」『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社・1983年)。




1638管理人:2013/08/06(火) 22:53:36
Re: 参考HP??アイヌ民族(アフリカ系ロシア人奴隷)
茨の紀氏さんへのお返事です。


>
>
> 司馬遼太郎が注目した水野祐氏の出雲の民族と文化に関する三層説を紹介している。 http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/korea/japan.htm
>
> これは民族学的な立場から言語・習俗・血液型などについて考察されたものだという。
> (1)第一層 北方狩猟民族系の部族 縄文文化の担い手である原日本人
> (2)第二層 南方漁労民族系の海人族 インドネシア系・苗族系の漁労航海民
> (3)第三層 朝鮮半島系の部族 朝鮮半島南部の新羅人
>
> 著者はそれぞれ初期縄文人、晩期縄文人、初期弥生人としている。
>

キシさん、情報ありがとうございます。
どうも、第2層の長江・江南のそれは、半分スキタイ系なんですよね。原住民のミャオ・南方海人系とは異なり、北方イラン・スキタイ民族が、雲南方面へ南下して、イ族等にもたらされたものなので、厳密には2つに分類しないといけないでしょう。

山幸神話とか釣り針神話というのは、旧約に記されたようなメソポタミアのそれです。大国主のそれも同類で、ある時期に中国を経由して、弥生末期に日本へと伝来します。

アマテラス・スサノオ神話は、それからだいぶ後の時代になって、6世紀代に渡来人によってもたらされたものですね。
これは第3層に対応するかもしれません。

それで第1層の縄文系ですね。これは、2種に別れて、hla-62と61、y-dna でDトC、ですね。

新しいほうは中東方面から半島経由で紀元前1〜5世紀くらいに流れ込んでくる、古いのはもっと前で氷河期。一部はベーリング海を超えて、北米へ。

そうすると、アイヌ系の神話は、実は中国雲南・長江方面へ流れ込んだスキタイ系神話と共通項が出てくる可能性があるわけです。

先の分析のとおり、日本の天地開闢神話とアイヌ神話に共通項が多いのですが、イザナギと同様な2柱神の誕生、カムイ=神。

神の命令によって成立する雲・霧、大地、動物の伝承は、旧約聖書同様に、元は中東系のそれでしょう。

この辺のイザナギ系神話は、山幸神話とも共通して、南方海人系要素、さらにいえば、先のスキタイ系・イ族などのそれと関わってくるはずです。

ただ縄文・アイヌ系のほうが、同じ系統でもやや早く日本に入っているはずで、そうすると、そこで神話要素に相違がでてくるはずです。

アイヌ系はダイレクトに日本に渡ってくる、しかし南方海人系は、一度雲南・長江・タイ方面に迂回してから、日本にくるわけです。

そうすると、同じ神話伝承でも、後者には南方系の要素が加わるはずで、それが海の竜宮城関連の話ですね、釣り針神話とかにも、若干影響がある。


しかし問題はいわゆる長江江南からきた弥生系ですね。紀元前10世紀くらいから移動しはじめる。

稲作文化として、全体的に残存しているはずなのですが、しいていれば倭人伝の呉の太ハクの末裔といったごとく、その呉の神話だったはずです。この紀元前10〜5世紀くらいまでの長江流域の中国神話ですね。特に天地開闢神話が、どういうものだったか?盤古神話だったのか?あるいは別の何かだったのか??その辺も気になるところです。洪水神話というのは、ひとつ重要ですね。伏ギ系の神話はどうですか?その洪水・キープ関連の要素は、旧縄文系・北米系に共通しますが、これは弥生よりずっと古い要素です。


1639茨の紀氏:2013/08/07(水) 05:08:04
Re: 参考HP??アイヌ民族(アフリカ系ロシア人奴隷)
管理人さんへのお返事です。


>
> しかし問題はいわゆる長江江南からきた弥生系ですね。紀元前10世紀くらいから移動しはじめる。
>
> 稲作文化として、全体的に残存しているはずなのですが、しいていれば倭人伝の呉の太ハクの末裔といったごとく、その呉の神話だったはずです。この紀元前10〜5世紀くらいまでの長江流域の中国神話ですね。特に天地開闢神話が、どういうものだったか?盤古神話だったのか?あるいは別の何かだったのか??その辺も気になるところです。洪水神話というのは、ひとつ重要ですね。伏ギ系の神話はどうですか?その洪水・キープ関連の要素は、旧縄文系・北米系に共通しますが、これは弥生よりずっと古い要素です。

>約3200年ほど前、古代中国の殷(いん)王朝の武丁という王の時代に文字は生まれました。
特に天地開闢神話が、どういうものだったか?盤古神話だったのか?あるいは別の何かだったのか??その辺も気になるところです。洪水神話というのは、ひとつ重要ですね。伏ギ系の神話はどうですか?その洪水・キープ関連の要素は、旧縄文系・北米系に共通しますが、これは弥生よりずっと古い要素です。

大洪水
(無題)“?(シュウ)”???? 「うわー」、「あー」であり、「天の気」と「地の気」との合一??半人半獣でライオンの頭部を持つ http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?

>

1640管理人:2013/08/08(木) 23:13:54
Re: 参考HP??アイヌ民族(アフリカ系ロシア人奴隷)
茨の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>??>約3200年ほど前、古代中国の殷(いん)王朝の武丁という王の時代に文字は生まれました。
> 特に天地開闢神話が、どういうものだったか?盤古神話だったのか?あるいは別の何かだったのか??その辺も気になるところです。洪水神話というのは、ひとつ重要ですね。伏ギ系の神話はどうですか?その洪水・キープ関連の要素は、旧縄文系・北米系に共通しますが、これは弥生よりずっと古い要素です。
>
> 大洪水
> (無題)“?(シュウ)”???? 「うわー」、「あー」であり、「天の気」と「地の気」との合一??半人半獣でライオンの頭部を持つ http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
>


思うに、倭人伝の呉の太佰の子孫という伝承は、もっと付随した伝承を元にしていた可能性がありますね。それで、その関連伝承が、日本にも残っていた可能性があるでしょう。


まず刺青の風習

。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。
古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。
父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


おそらく倭人は、この伝承を知り尽くしているので、自分たちの刺青の習俗がそれらに由来したと主張するわけです。



つぎに、太伯の3兄弟ですね。


太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉(句呉,勾?)の祖とされる人物。泰伯とも。
虞仲(ぐちゅう)は古公亶父の次男。『史記』「周本紀」では弟が虞仲とあるが、「呉世家」では仲雍とあり、『?越春秋』「?太伯傳」では一名?仲とある。季歴の兄、文王の伯父に当たる。
后稷を始祖とすることから、姓は周宗家と同じ姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。
古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。
父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。


この手の神話としては、山幸3兄弟がちかいでしょうか。


それで興味深いのが、山奥に籠って、民衆がそれをしたってそこに移動して、国?が出来上がった伝承。邪馬台国の記載関連でも、山について政治を行っているようなものがあったと思います。


史記によれば、豳から財物をかすめようとした異民族に侵略される前に与えたが、その上、人や土地を奪おうとしたので民が怒って戦おうとした。しかし、古公は「民が君を立てるのは民の利益のためで、異民族でも利益を図るなら民にとってはそれでかまわないはずだ。自分が必ずしも国を治める必要は無い。民が戦うのは私のためで人の父子を殺して君主であることはできない」と、自分の一族を率いて岐山の麓に逃れた。国人はそれを慕って豳から岐山の麓へと移住した。その後、古公は城郭家屋を築き、村落を分けて民を定住させ、五官の役人を作って政を行った。民は詩を作って、古公の徳を称えたとされる。
詩経の大雅の緜編には、姜族の妻と共に岐山の麓へやってきたこと、住むべき洞窟すらない岐山の麓で古公が一から国を建国する様子、その後の繁栄などがうたわれている。


卑弥呼のいたところは平地だったでしょうかね?あるいは山奥か。半島方面だとシャーマン王は山にいて、世俗王は平地にいるんです。2つの王権が同時に存在する。馬韓の鬼神なども関連するでしょうか。卑弥呼も鬼神崇拝。




1641茨の紀氏:2013/08/09(金) 14:01:11
Re: 参考HP??アイヌ民族(アフリカ系ロシア人奴隷)
管理人さんへのお返事です。


> 思うに、倭人伝の呉の太佰の子孫という伝承は、もっと付随した伝承を元にしていた可能性がありますね。それで、その関連伝承が、日本にも残っていた可能性があるでしょう。
>
>
> まず刺青の風習
>
> 。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。
> 古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。
> 父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
> 太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>

> 太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉(句呉,勾?)の祖とされる人物。泰伯とも。
> 虞仲(ぐちゅう)は古公亶父の次男。『史記』「周本紀」では弟が虞仲とあるが、「呉世家」では仲雍とあり、『?越春秋』「?太伯傳」では一名?仲とある。季歴の兄、文王の伯父に当たる。
> 后稷を始祖とすることから、姓は周宗家と同じ姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。
> 古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。
>
> 卑弥呼のいたところは平地だったでしょうかね?あるいは山奥か。半島方面だとシャーマン王は山にいて、世俗王は平地にいるんです。2つの王権が同時に存在する。馬韓の鬼神なども関連するでしょうか。卑弥呼も鬼神崇拝。
>
>
>

前480頃〜前390頃
上帝鬼神への敬虔な宗教的信仰,および祭祀祈禱?? http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
封建的社会体制の解体過程で結束して作ったギルド的工人集団に由来する。…

墨家の墨は入れ墨の意味
文王 - 国語辞書 - goo辞書
礼楽・制度を定めたと... ご‐せい【五聖】: 中国古代の五人の聖人。尭(ぎょう)・舜(しゅん) ・禹(う)・湯(とう)・文王。 ここう‐たんぽ【古公亶父】: 中国、周の文王の祖父。初め豳( ひん)にあったが、岐山(きざん)のふもとに移り、周を建てたといわれる。太王と諡号(し ごう) ... http://dictionary.goo.ne.jp/srch/jn/文王/m3u/tab/
文王
楚の国の和氏(かし)という人が、楚山で玉=宝石の原石を見つけました。「とても すばらしい玉になるのは間違いない」と思った和氏は、さっそく、厲王(れいおう)に献上 しました。ところがなぜか「どこにでもある石だ」と鑑定されてしまい、だました罰として 左足を斬 ... http://www3.kcn.ne.jp/~jarry/koji/kj010.html

夏 (三代) - Wikipedia
考古学的比定-夏の実在性-二里頭遺跡-建国神話:黄帝の...
夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』など中国の史書には初代の禹から末代の桀 まで14世17代、471年間続いたと記録されている。 .... 一部は周代に華夏民族と同化し 、一部の部族は春秋の強国である楚や呉の建国に関わった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/夏_(三代)
夏・殷・周
入れ墨
楚は古くから蛮夷の国とされ、楚の 人々は中原の人々とは風俗習慣を異にしていたし、後に出てくる越を建てた越人は 入れ墨・ ... http://www.wind.ne.jp/khari/hist/keizu-1,ka,in,syuu.html
儒家の思想を批判し、儒家から攻撃された墨子(前480頃〜前390頃)を祖とする学派が墨家である。 墨子も孔子と同じ魯の国に生まれた。彼も最初は儒家の思想を学んだが満足せず、儒家を去って一派を 開いた。墨家の墨は入れ墨の意味である。古くは入れ墨は刑罰の1つで徒刑者は顔に入れ墨された。 墨家の思想に勤倹節約がある。彼らはぼろをまとい、夜も昼も休まずに働いた。その有様が徒刑者の ような暮らしだと言うことで墨家と呼ばれるようになったと言われている。墨家の思想の中で特に注目 されるのが「兼愛」と「非攻」である。


1642管理人:2013/08/10(土) 22:36:13
Re: 参考HP??アイヌ民族(アフリカ系ロシア人奴隷)
茨の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> > 思うに、倭人伝の呉の太佰の子孫という伝承は、もっと付随した伝承を元にしていた可能性がありますね。それで、その関連伝承が、日本にも残っていた可能性があるでしょう。
> >
> >
> > まず刺青の風習
> >
> > 。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。
> > 古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。
> > 父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
> > 太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。
> > http://ja.wikipedia.org/wiki/



確かに「上帝鬼神」と墨家、刺青との関係は興味深いですね。



天の側は「天命」「上帝」「天」「天之時」「鬼神」などの語で表され一定していないが、 いずれも、「上帝是れ祐く(上帝是祐)」「上帝乃ち怡ぶ(上帝乃怡)」「天之に従う(天從之 )」「鬼神是れ祐く(鬼神是祐)」「上帝之を喜ぶ(上帝喜之)」のように http://www.shutudo.org/in-society/shinsyutsu/shinsyutsu3

1643秦野北斗:2013/08/12(月) 16:39:23
呉 (春秋)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001692M.jpg

http://kotobank.jp/word/



1644茨の紀氏:2013/08/13(火) 00:50:47
Re: 呉 (春秋)
秦野北斗さんへのお返事です。

> 文章もいいが進展がないな。地名ですな。スケールが大きすぎるかな。
>
> 呉 (春秋)の呉が支配したのは蘇州周辺とあるが、古事記、日本書記に呉と越の痕跡が多く見られる。古事記、日本書記には韓半島南部に越国。対馬を越の島。
>
> 『後漢書』『隋書』に夷洲及澶洲の澶洲は周の古公亶父(ここうたんぽ)の亶だな。
> 夷洲は【×夷/×戎】えびす http://kotobank.jp/word/
>
> どうも、呉 (春秋)は蘇州周辺から現在の日本が含まれていたと考えるべきだな。


ばん【蛮〔蠻〕】 ?+虫 エビス 弓月国   http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?

亦とは (エキとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
2012年10月8日 - 〔説文解字・巻十〕には「人の臂亦なり」とある。 字形: 人の正面形に両脇を示す点を加え た指事(または象形)。 ... 符: 亦を声符とする漢字に、奕、弈、帟、夜、迹、跡、などがある 。 参考: 冠としての?を略して亦の形に書くことがある(蛮、弯など)。 http://dic.nicovideo.jp/a/
声符亦を声符とする漢字に、奕、弈、帟、夜、迹、跡、などがある。参考冠としての?を略して亦の形に書くことがある(蛮、弯など)。

変=變《解字》 会意文字。 變の上部は「絲+言」の会意文字で、乱れた糸を解 こうとしても解けないさま。 変にもつれた意を含み、乱と同系の ... http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1119561016
絲+言(ことばでけじめをつける)
もつれた糸にけじめをつけようとしても容易に分けられないこと。
乱(もつれる)と同系のことば。

音は「レン」「ラン」、字義は“みだれる”、“おさめる”、“つながる”
「蠻(蛮)」の場合も発音記号ですが、「變」の[攵]を省いたものと考えられます。




1645管理人:2013/08/13(火) 00:58:43
Re: 呉 (春秋)
秦野北斗さんへのお返事です。

> 呉 (春秋)の呉が支配したのは蘇州周辺とあるが、古事記、日本書記に呉と越の痕跡が多く見られる。古事記、日本書記には韓半島南部に越国。対馬を越の島。
>
>
> どうも、呉 (春秋)は蘇州周辺から現在の日本が含まれていたと考えるべきだな。
> 太白山を繋いだ地図添付。
>
> 『後漢書』『隋書』


なるほど、呉と日本列島との関係は重要ですね。

先の3兄弟の話をまとめると、末子だけが中国の主要な領地を継ぎ、長子(太伯)と次子(呉仲)は、共に刺青をして「荊蛮の地」へと逃れて、それが呉になったということなんですよね。

それで、その長子の子孫だと倭人が語ったわけです。

この構造は、山幸三兄弟の構造とも類似していて、末子が火遠理命(ほおりのみこと)、兄に火照命(ほでりのみこと)(海幸彦)、火須勢理命(ほすせりのみこと)がいます。

末子相続は共通しますね。でも、末子は中国を支配したはずなので、日本とは地理的に逆になっています。

「父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。」

ここで、注目すべきは、キシさんの情報にあるように、素潜り漁をするために、刺青をしたのではなく、「罪人」として、刺青をしたであろうことです。「ふさわしくないもの」の意味でしょう。


倭人伝で刺青を自分たちがしている理由として、刺青をして蛮族の地へと逃げた太伯を持ってくるわけですが、ここで倭人の意図するところは、漁をするために刺青を下という意味ではなく、上記の理由にあると主張した可能性もでてきます。

ところが倭人伝の著者はその意味を後に理解せずに、素潜りのための刺青と解釈したわけです。

「男子は大小と無く、皆黥面(げいめん)文身す」とあるから、当時の 日本人の男は大人も子供も顔や体に入れ墨をしていたらしい。水に潜って魚をとる海人 が大魚の襲撃を防ぐまじないにしたのが、後に飾りとなったのだという

海に入る豊玉姫の姿がワニになってますが、これも隼人の刺青記載と関係しないでしょうか。刺青模様を見てしまったという意味です。


句呉,勾?というのは、勾はカギ・マガリの意味ですよね。鈎と関係させるべきでしょうか。


韓非子和氏 勾踐は三年呉で辱めを受ける楚の昭王は礼をもって孔子を招聘する勾踐 は三度戦い呉を滅ぼす 和氏の璧とは「合致とは総括のこと」璧には、こだわっては、失う としている。 和氏とは天の下の意である。


和(クワ)氏ですね。先の勾・句(ク)音で、ひとつの意味があって、勾呉は太白の字になったりする。

倭の音との関係も課題でしょうか。

なお、越は会稽方面ですね。

1646茨の紀氏:2013/08/13(火) 01:23:27
ローラン(臣民) 楼蘭?
>最近は王国設定がありますので、「国民」また国歌から「ローラン(臣民)」とも言ったり 呼ばれたりします。 どれもファンの事です。

楼蘭 - Wikipedia
歴史-小国は大国の間にあり-鄯善国-西域の動乱
一説にはその原名はインドの地名に由来するとも言われる。 一方漢によって命名された 鄯善という名前は、一説には漢にとって「善い国」という意味で「善善」とし、同じ字が続く のを避けるために新字を作って「鄯善」としたといわれる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/楼蘭
楼蘭と呼ばれる都市、またその名を持つ国家がいつ、どのようにして成立したのかは定かではない。古くは新石器時代から居住が始まったことが考古学的に確認されており、いわゆる「楼蘭の美女」として知られるミイラは、纏っていた衣服の炭素年代測定によって紀元前19世紀頃の人物であると推定されている。しかし、文献史料に楼蘭の名が現れるのは『史記』匈奴列伝に収録された手紙の中で触れられているのが最初(紀元前2世紀)であり、その間の歴史は空白である。その手紙は匈奴の君主である冒頓単于が前漢の文帝に宛てて送ったもので、この中で冒頓単于は月氏に対して勝利し、楼蘭,烏孫,呼掲及び近隣の26国を平定したと宣言している。この手紙は文帝の4年(紀元前176年)に送られたものであるため、楼蘭は少なくとも紀元前176年以前に形成され、月氏の勢力圏にあったこと。そして紀元前176年頃匈奴の支配下に入ったことが推定されうる。『漢書』西域伝によれば、西域をことごとく支配下にいれた匈奴は焉耆、危須、尉黎の間に僮僕都尉を置き、楼蘭を含む西域諸国に賦税し、河西回廊に数万の軍勢を置いてその交易を支配した。

楼蘭が漢の支配下に入って間もなく、匈奴の僮僕都尉であった日逐王が漢に降るという事件が発生した(紀元前60年)。この結果漢は西域南道に加えて西域北道の全域を支配するに至り、新たに西域都護を置いて鄭吉を都護とした。以後漢の西域支配は王莽によって前漢が終焉するまで継続し、鄯善と名を改めた楼蘭も傀儡王国としてその支配下にあり続けたと考えられる。

西暦61年に莎車王賢が于闐国(現在のホータン市)との争いの中で暗殺されると西域の政治情勢は一変した。莎車国の支配下にあった諸国は殆どが独立して相互に争ったが、鄯善国はこの争いの中で数ヶ国を併合して西域の一角に勢力を築くことに成功した。同じ時期に于闐国,車師国(現在のトルファン市),亀茲国(現在のクチャ県),焉耆国(現在の焉耆回族自治県)などが強国として割拠した。この時期に鄯善国で作成された漢文文書には、昔ながらの名前である楼蘭が使用されていることが確認されている。

三国時代の騒乱の間も漢人商人らは鄯善国を訪れて交易に従事していたこともわかる。

ただし、こういった文書書類は商業文書や命令書、徴税記録等が大半で政治的事件の記録は乏しく、3世紀の鄯善国の政治史はあまりわかっていない。わずかに知りうるのは、当時鄯善国は、西隣の于闐(ホータン、当時の文書ではコータンナ)と国境を巡って争っていたことと、チベット系である羌の一派といわれているスピの侵入と略奪に悩まされたことなどである。一方でこういった実用文書類から、鄯善国の国政や社会についての知見は、この時代に関する物が多くを占める。

楼蘭はその記録が残る全時代を通じて国王を頂点とする国家であった。しかし、国王の権力がどの程度強力なものであったのか、又は制約されていたのかはまだ不明な点が多い。少なくとも現存する史料からは、高位役人の人事権を国王が掌握していたらしいことがうかがわれる。王妃はしばしば周辺国との政略結婚によって楼蘭王と結婚した。漢から宮女が与えられて楼蘭王の妻となったことが『漢書』に記録されている他、3世紀頃には隣国の于闐(ホータン、またはコータンナ)の王女が王妃として迎えられた。于闐国と鄯善国は国境を巡って争っていたが、一方で鄯善王妃となった于闐の王女が、故郷へ里帰りした事なども記録にのこっており、当時の外交交渉の複雑さを今に伝える。

臣民(ローラン・ローラン).
臣下であり臣民(ローラン・ローラン). 栄光あれ!嗚呼…栄光あれ!(グロリア! オォ… グロリア!) 地平を駆け巡る我らの移動王国に!(サウンド・ホライズン・キングダム) 栄光あれ!嗚呼…栄光あれ!(グロリア! オォ…グロリア!) 地平を駆け巡る我らの 移動 ...
メイン>創作小説入り口>騎士道物語>ローランの歌  http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/3320/rolan0.html


1647秦野北斗:2013/08/13(火) 11:34:11
Re: 呉 (春秋)
管理人さんへのお返事です。

国引き神話から越は会稽方面ではないな。会稽方面では謎は解けませんな。

八束水臣津野命は、遠く「志羅紀(新羅)」「北門佐岐(隠岐道前)」「北門裏波(隠岐道後)」「高志(越)」の余った土地を裂き・・・。

出雲の対岸ですな。韓国ですな。


国引き神話(くにびきしんわ)は、出雲国に伝わる神話の一つである。『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/国引き神話



> 韓非子和氏 勾踐は三年呉で辱めを受ける楚の昭王は礼をもって孔子を招聘する勾踐 は三度戦い呉を滅ぼす 和氏の璧とは「合致とは総括のこと」璧には、こだわっては、失う としている。 和氏とは天の下の意である。
>
>
> 和(クワ)氏ですね。先の勾・句(ク)音で、ひとつの意味があって、勾呉は太白の字になったりする。
>
> 倭の音との関係も課題でしょうか。
>
> なお、越は会稽方面ですね。

1648茨の紀氏:2013/08/13(火) 20:58:29
ベトナム 「越南」
日本の銅鐸に施されている文様とよく似ている。ベトナムは、漢字の「越南」 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
青銅器文化[編集]
紀元前4世紀頃から北部ベトナムの紅河(ホンハー)流域一帯には東南アジア最古の青銅器文化として知られる東山(ドンソン)文化が広がり、原始的な部族国家群を形成していた。これがいわゆる古越人(後のベト族)である。また現在の中国、紹興一帯を支配した越の末裔が、民族のルーツとの説もある。
秦の始皇帝以後、1000年にわたって中国王朝の郡県支配を受け、中国文化の影響が深く浸透したが、完全に中国化することはなかった。
紀元前207年に南越国成立し、同前111年漢の武帝の遠征により、南越国滅亡している。40年チュン姉妹の叛乱。
一方中部ベトナムではオーストロネシア語族系統の古チャム人(後のチャム族)がインド化されたチャンパ王国を形成していた。

越州(えつしゅう). 日本. 越州 (日本) - 令制国である越後国、越中国、越前国を総称して 、またこれらのいずれかの国を指しての別称。かつての越国。 中国. 越州 (広西チワン 族自治区) - 広西チワン族自治区にかつて存在した州。 http://ja.wikipedia.org/wiki/越州
チワン
中越関係 (中国・ベトナム関係)
中国最大の少数民族チワン族の原住地 。隣の広東省と併せて「両広」と言われることもある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/広西チワン族自治区
地理[編集]
西は雲南省、北は貴州省、湖南省、東は広東省と接し、南はトンキン湾に面する。南西はベトナムと国境を接する。北部には東西に南嶺山脈が走り、湖南省との境をなす。珠江の流域が区の内陸部の多くを占める。
亜熱帯性気候で、二期作、三期作が可能である。

周代の春秋時代には、呉や越の国を構成する。秦の始皇帝の中国統一後は、その帝国の支配下に置かれた。漢代には、2つの越の国が確認できる。1つは中国南部、すなわち現在の広東省、広西、ベトナムにかけて存在した南越、もう1つは、中国の閩江(福建省の川)周辺の閩越(びんえつ)である。この時代、中国の南方を占めた越人は、北方民族による力の支配とぶつかり、しばしば反乱がおきている。チュン姉妹の乱は、現代に伝わる当時の反乱の1つである。
その後は、徐々に北方からの人々の南下とともに、越人の一部は彼らと混じり、また他の一部は山岳の高地や丘陵地帯などに移り貧しく厳しい暮らしに身を投じる人々に分かれるなど、越人の生活圏には変化が起こっていく。北部ベトナムは中国王朝の支配が後退すると、939年に最初の民族王朝である呉朝が呉権により成立している。
「越」の国を失い、次第に「越人」々としてのアイデンティティーを失っていったものの、現在でも広東省一帯の方言である広東語を「粤語」と呼び、広東省の車のナンバープレートには「粤」と記載され、南方のベトナムは漢字で「越南」と書き表す。
文化面では、稲作、断髪、鯨面(入墨)など、百越と倭人の類似点が中国の歴史書に見受けられる。現代の中国では廃れたなれずし(熟鮓)は、百越の間にも存在しており、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられている[2]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/百越


1649管理人:2013/08/13(火) 23:12:55
Re: 呉 (春秋)
秦野北斗さんへのお返事です。

> 国引き神話から越は会稽方面ではないな。会稽方面では謎は解けませんな。
>
> 八束水臣津野命は、遠く「志羅紀(新羅)」「北門佐岐(隠岐道前)」「北門裏波(隠岐道後)」「高志(越)」の余った土地を裂き・・・。
>
> 出雲の対岸ですな。韓国ですな。
>
>
> 国引き神話(くにびきしんわ)は、出雲国に伝わる神話の一つである。『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれている。
>



「越」の語源を考える必要がありそうですね。「高志」(コシ)が、後代「越す」の字を当てて「越」になったのでは。中国の「越」との関係を見いだす接点が見つからない感じです。


日本書紀には一つの地域として越(こし)・越洲(こしのしま)[1]という名が書かれている。表記については、古くは「高志[2]」「古志[3]」などともされたが、7世紀末の分割時かそれに近い時期に「越」にほぼ統一された。ここでは越国と題し、地域独自的な文化形態も確認されてはいるが、統一的な国家の形態を成していたかどうかは現在時点では確認されていない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

古志郡という名称は古く大宝律令の時代からのものである。当初は越中国に属し、刈羽郡、三島郡の地域も含んだ広大な郡であった http://ja.wikipedia.org/wiki/


高志公(こしのきみ)
「高志公」は、越=高志=古志という地域名+公(きみ、カバネの一種)であり、8世紀後半の西大寺文書や木簡出土例などから「高志公」は古代の越後国頸城郡・古志郡など、越後南部に分布したウジ名と考えられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/



1650秦野北斗:2013/08/14(水) 07:04:41
Re: 呉 (春秋)
管理人さんへのお返事です。

八岐大蛇の櫛名田比売も意味があるな。また、蛇紐金印が結び付けるな。
呉越同舟の記録には行き先の地名がないな。

『後漢書』『隋書』に夷洲及澶洲の澶洲は周の古公亶父(ここうたんぽ)の亶だな。

蛇紐金印は呉越の越のシンボルになるな。八岐大蛇は地名が八岐で、大蛇は越になるな。
また、盗賊が蛇頭ですな。

櫛名田比売

櫛:機織りで横糸を通すための道具板で、女陰をついて死んでしまいました。
http://www15.plala.or.jp/kojiki/amaterasu_susanoo/amaterasu_susanoo_02.html
名:(な):ほまれ
田比売:稲(比売:アマテラス):瑞穂の国

須佐之男命(瑞穂の国のほまれ)が越をついて殺した。
http://www15.plala.or.jp/kojiki/amaterasu_susanoo/amaterasu_susanoo_03.html

高天原を追放された須佐之男命は、出雲国の肥河(島根県斐伊川)の上流の鳥髪(現・奥出雲町鳥上)に降り立った。箸が流れてきた川を上ると、美しい娘を間に老夫婦が泣いていた。その夫婦は大山津見神の子の足名椎命と手名椎命であり、娘は櫛名田比売(くしなだひめ)といった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ヤマタノオロチ

漢委奴国王印
紐は身体を捩りながら前進する蛇が頭を持ち上げて振り返る形に作られた蛇紐である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/漢委奴国王印

御史大夫ら二千石以上の官は銀印、諸候王・丞相らは金印であった。さらに皇帝の印は玉を用いた。印の紐の形には亀紐、鼻紐、覆斗紐は最も多く、亀紐は千石以上の官が使ったという。少数民族や外国の君主の印にはラクダ紐や羊紐、蛇紐が多いようである
http://withinc.kobe-yamate.ac.jp/univ/course/kawakami/episode_10.shtml

学会でも定説が無く呉と越(呉越同舟との言葉もある)の戦いの後、越が敗北し大多数が雲南に逃れ、一部が日本に来たとの説と同じ環境からは同じ文化が生まれるとの説である。志賀島の金印とまったく同じ蛇紐金印が雲南からも見つかっている。日本を遠く離れた不思議ともいえる雲南の世界をご覧下さい。
http://www.fsinet.or.jp/~yukio/unnan/unhajimei.htm



1651管理人:2013/08/14(水) 23:01:33
Re: 呉 (春秋)
秦野北斗さんへのお返事です。


> 八岐大蛇の櫛名田比売も意味があるな。また、蛇紐金印が結び付けるな。
> 呉越同舟の記録には行き先の地名がないな。
>
> 『後漢書』『隋書』に夷洲及澶洲の澶洲は周の古公亶父(ここうたんぽ)の亶だな。
>
> 蛇紐金印は呉越の越のシンボルになるな。八岐大蛇は地名が八岐で、大蛇は越になるな。
> また、盗賊が蛇頭ですな。
>
> 櫛名田比売
>


雲南関係の歴史も重要ですね。その「羌族」ですね。雲南方面ですが、元はスキタイ遊牧民系の流れもあります。

それで日本に江南系弥生人が来るにしても、呉の太伯の伝承の出来たすぐの時代に、そのまま日本に渡ったのではなくて、おそらくはその後数百年たってから、半島なり、日本へと移行したことでしょう。

その間に、馬韓にみられるような鬼神信仰も混合したでしょうし、いろいろ複雑かしていきます。

雲南・スキタイ系が入ってくるのは、結構あたらしいと思うのですが、島根方面の銅鐸に刻まれた江南・雲南系の銅鼓にみられるような紋様も、おそらくはそんなに古くないのではないかと感じます。

周の時代に直接日本に伝来した紋様ではなくて、しばらく江南から半島を迂回して日本へと伝わって行くわけですね。

それで、呉の太伯という言い方です。元々は「勾呉」と言っているので、「呉」と言い始めた時代以降になります。

太伯もいつごろからでしょうか。

あと「大夫」ですね。おそらくこれが「太伯」とセットになっていたはずです。

自謂太伯之後、又言上古使詣中國、皆自稱大夫。 倭者、自云太伯之後。


でも「大夫」は周代から春秋戦国時代の名称なので、漢代以前というところまでは限定できます。

スパンがながいですね。どの時代に弥生人?は渡来したのか。




1652茨の紀氏:2013/08/15(木) 06:55:10
Re: 呉 (春秋)
管理人さんへのお返事です。

> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
>
> > 八岐大蛇の櫛名田比売も意味があるな。また、蛇紐金印が結び付けるな。
> > 呉越同舟の記録には行き先の地名がないな。
> >
> > 『後漢書』『隋書』に夷洲及澶洲の澶洲は周の古公亶父(ここうたんぽ)の亶だな。
> >
> > 蛇紐金印は呉越の越のシンボルになるな。八岐大蛇は地名が八岐で、大蛇は越になるな。
> > また、盗賊が蛇頭ですな。
> >
> > 櫛名田比売
> >
>
>
> 雲南関係の歴史も重要ですね。その「羌族」ですね。雲南方面ですが、元はスキタイ遊牧民系の流れもあります。
>
> それで日本に江南系弥生人が来るにしても、呉の太伯の伝承の出来たすぐの時代に、そのまま日本に渡ったのではなくて、おそらくはその後数百年たってから、半島なり、日本へと移行したことでしょう。
>
> その間に、馬韓にみられるような鬼神信仰も混合したでしょうし、いろいろ複雑かしていきます。
>
> 雲南・スキタイ系が入ってくるのは、結構あたらしいと思うのですが、島根方面の銅鐸に刻まれた江南・雲南系の銅鼓にみられるような紋様も、おそらくはそんなに古くないのではないかと感じます。
>
> 周の時代に直接日本に伝来した紋様ではなくて、しばらく江南から半島を迂回して日本へと伝わって行くわけですね。
>
> それで、呉の太伯という言い方です。元々は「勾呉」と言っているので、「呉」と言い始めた時代以降になります。
>
> 太伯もいつごろからでしょうか。
>
> あと「大夫」ですね。おそらくこれが「太伯」とセットになっていたはずです。
>
> 自謂太伯之後、又言上古使詣中國、皆自稱大夫。 倭者、自云太伯之後。
>
>
> でも「大夫」は周代から春秋戦国時代の名称なので、漢代以前というところまでは限定できます。
>
> スパンがながいですね。どの時代に弥生人?は渡来したのか。
>
>

大夫 測量士?   http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
大・天・夫・立・並 ... 説文解字』に「 天は大なり。地は大なり。人も亦(ま)た大なり。故に大は人の形に象(かたど)る」と あります。金文の大保(たいほ)関係の器に、大を特に図象にして、すぐれた体格の形に??... http://www.japanknowledge.com/contents/material/jitsu/html/column/column_jitsu_14.html
天を神聖であるとする考えは殷(いん)の時代にすでにあり、殷(自らは商と名のっていました)は、その都を「天邑商(てんゆうしょう)」とよんでいます。「商の神聖な都」という意味でしょう。天を祀(まつ)る宗教的な儀礼・儀式が行われたことが、周王朝初期の金文によって明らかになっています。

大・夫・立・・・台(☆)形・・・五分割  360度÷5=72度・・・?
72度・・・x 五=360   http://www.lithos-graphics.com/picts/pictintroduction.html
このローマ人が残した「入れ墨をした、野蛮な、好戦的な部族」というイメージが一人歩きし、誇張されて、図のように裸族で体全体が入れ墨で覆われていたかのようなイメージにまで発展した。それ以外にも、ピクト人は母権制社会だったとか、スキチア=中央アジア方面から男だけが移動してきて、アイルランドのスコット族に土地を求めたが叶わず、かわりにスコット族の女性を与えてもらい、スコットランドに住むようになったとか、様々な伝承があるが、いずれにも明確な根拠はない。現在のスコットランド人の祖先であるから小人であるはずはなく、また、寒さの厳しいスコットランドで一年中裸で暮らせるはずもない。スコット族に嫁さんをもらった云々というのもおそらく後に征服者となったスコット族に都合の良いように作られた話だといわれる。ただ、面白いことにスキチア(中央アジアのカルパティア山脈周辺をさすらしい)の名に由来するスキタイの動物を象った金細工にはピクト人が描く足の付け根に螺旋形の模様の入った様式が見られるという。
ケルト系装飾芸術の最高傑作と言われる装飾写本『ケルズの書』には明らかにピクトから影響を受けたと見られる、足の付け根に螺旋状の渦巻き模様がある動物像が現れる。これをみて、『ケルズの書』がピクトの地で作成されたと考える研究者もいるようだが、いずれにしても、ピクトの石碑に現れる様々な美術様式は当時のブリテン島北部における文化的混淆を具体的に示している。

19世紀ころまでピクト人は「地下に住む 小人」だったという伝説が広く信じられてい ... の名に由来するスキタイの動物を象った金 細工にはピクト人が描く足の付け根に螺旋形の模様の入った様式が見られるという。

スキタイ・サカ<秦氏<渡来人<点在する古墳<謎多き群馬と埼玉
鎌足の父は中臣御食子、母は大伴の出とあります。鎌足の母である大伴囓子は、常陸 の国の豪族であったことはわかっています。常陸とは、つまり今で言う鹿島の辺りを言い ます。そして、ここでもまたスキタイ・サカ族がやってきて鹿島神宮を建てたという噂を ... http://www.quickstar4uy.net/kofun/toraijin/sukitai_saka/sukitai_saka.html
多胡碑の多胡とは、胡(外国)人が多く住むことを示唆していると思われます。唐では、胡人と言えばソグド人を指すと言われていますが、ソグドというのは、今のイラン、ペルシャ系民族のことを言います。

653 年 すでに 常陸で測量が 653 年・茨城国造壬生連の麻呂と那珂国造壬生直の夫子 らは高向大夫と中臣幡織田大夫に願って茨城から8里、那珂から7戸を分割し行方郡を 新設した。 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2788
高向大夫と中臣幡織田大夫


>

1653秦野北斗:2013/08/15(木) 07:25:47
Re: 呉 (春秋)
管理人さんへのお返事です。

司馬遷と陳寿が残した歴史だな。
司馬に、その子で五大夫の爵位を得た司馬喜は司馬遷の祖父に当たる。
司馬遷の『史記』「呉太伯世家」、巻百十八「淮南衝山列伝」

司馬氏

http://ja.wikipedia.org/wiki/司馬氏

司馬遼太郎
さらに、ある徐福研究者の情報によると徐福には全部で10人の子女がおり、四男の中国名「福寿」は後に和名「福田」姓を名乗ったという記述がある。ご存知のように司馬さんの本名は「福田」であり、こうした必然とも思えるおもしろいつながりに、ますます、さらに独りよがりの夢がつづくのである。

http://www.ryoma21.jp/member/essay/past/essay101122_01.html

司馬遷(しばせん、紀元前145/135年? ? 紀元前87/86年?)は、中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者。
姓は司馬。名は遷、字は子長。周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談を父に持つ。太初暦の制定や、通史『史記』の執筆などの業績がある。

遠い部分の信憑性には疑問があるが、父・司馬談が亡くなる際の遺言によると、司馬遷の家系は堯・舜の時代に功績を挙げ、代々歴史・天文を司る一族であるという。秦の恵文王らに仕えた司馬錯、その孫で白起の部下として長平の戦いに従軍した司馬靳(中国語版)(しばきん)、さらにその孫である司馬昌は始皇帝時代に鉄鉱を管理する役職にあった。昌の子は毋懌(無澤、むえき)と言い、漢市の長官に就いた。その子で五大夫の爵位を得た司馬喜は司馬遷の祖父に当たる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/司馬遷

徐福、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)
司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/徐福

呉 (春秋) 呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)
呉の成立については詳しいことはわかっていないが、司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/呉_(春秋)


> 雲南関係の歴史も重要ですね。その「羌族」ですね。雲南方面ですが、元はスキタイ遊牧民系の流れもあります。
>
> それで日本に江南系弥生人が来るにしても、呉の太伯の伝承の出来たすぐの時代に、そのまま日本に渡ったのではなくて、おそらくはその後数百年たってから、半島なり、日本へと移行したことでしょう。
>
> その間に、馬韓にみられるような鬼神信仰も混合したでしょうし、いろいろ複雑かしていきます。
>
> 雲南・スキタイ系が入ってくるのは、結構あたらしいと思うのですが、島根方面の銅鐸に刻まれた江南・雲南系の銅鼓にみられるような紋様も、おそらくはそんなに古くないのではないかと感じます。
>
> 周の時代に直接日本に伝来した紋様ではなくて、しばらく江南から半島を迂回して日本へと伝わって行くわけですね。
>
> それで、呉の太伯という言い方です。元々は「勾呉」と言っているので、「呉」と言い始めた時代以降になります。
>
> 太伯もいつごろからでしょうか。
>
> あと「大夫」ですね。おそらくこれが「太伯」とセットになっていたはずです。
>
> 自謂太伯之後、又言上古使詣中國、皆自稱大夫。 倭者、自云太伯之後。
>
>
> でも「大夫」は周代から春秋戦国時代の名称なので、漢代以前というところまでは限定できます。
>
> スパンがながいですね。どの時代に弥生人?は渡来したのか。
>
>
>

1654管理人:2013/08/16(金) 23:04:51
Re: 呉 (春秋)
秦野北斗さんへのお返事です。

> 司馬遷と陳寿が残した歴史だな。
> 司馬に、その子で五大夫の爵位を得た司馬喜は司馬遷の祖父に当たる。
> 司馬遷の『史記』「呉太伯世家」、巻百十八「淮南衝山列伝」
>
> 司馬氏
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/司馬氏
>


ご指摘の五大夫の件ですが、倭人の言う「大夫」とは、どれにあたったのか?が課題ですね。


儒教の経典の主張するところによると夏王朝には公・侯・伯・子・男の五等があり、それが殷代には公・侯・伯の三等となり周代には再び五等となったとされる。


秦・漢の爵位[編集]
秦では商鞅の第一次変法により軍功褒賞制と爵位制が設けられ、二十等爵制として軍功により爵位を与えた。その爵位により、土地の保有量や奴婢数など生活水準が決められていた。
前漢には秦の軍功爵制を改め、軍功に限らず身分に応じて爵位を与えた。更に二十等爵の他に王爵を設けたが、これは次第に皇族に限られることとなった。また、爵位を持つ者は土地の保有を許可された。
二十等爵とは第二十級の徹侯(後に武帝の避諱から通侯・列侯と呼ばれた)を筆頭に第十九級の関内侯、第十八級の大庶長、第十七級の駟車庶長、第十六級の大上造と続き以下少上造、右更、中更、左更、右庶長、左庶長、五大夫と続いた。ここまでが官爵であり十二等に分かれることから十二等爵ともいい、官吏に与えられた。第八級の公乗以下、公大夫、官大夫、大夫、不更、簪裊、上造、公士までを民爵といい民に与えられた。



つまり、周代の五等級の官制の名残だということか、あるいは戦国・秦・漢代のもっと詳細な官位制度をうけついでそういっているのか?、ここが課題でしょう。

「大夫」というのが、おそらくは倭人が勝手に考え出した凡庸な名称ではないことは確かです。呉の太伯と同レベルの相関関係にある官職でしょう。


1655秦野北斗:2013/08/17(土) 20:06:50
Re: 呉 (春秋)
管理人さんへのお返事です。

司馬氏の家系から五大夫は鉄鉱を管理する役職になる。
古代の製鉄、踏鞴製鉄(「鑪(たたら)」では松炭が必須のようだな。
始皇帝は五大夫を製鉄の松炭の意味を込め松と言っているぞ。

徐福、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の一行に居た模様。
踏鞴製鉄(「鑪(たたら)」は司馬氏が・・。
古事記の出雲で製鉄作業中に事故死したイザナミは司馬氏の模様。

家系
遠い部分の信憑性には疑問があるが、父・司馬談が亡くなる際の遺言によると、司馬遷の家系は堯・舜の時代に功績を挙げ、代々歴史・天文を司る一族であるという。秦の恵文王らに仕えた司馬錯、その孫で白起の部下として長平の戦いに従軍した司馬靳(中国語版)(しばきん)、さらにその孫である司馬昌は始皇帝時代に鉄鉱を管理する役職にあった。昌の子は毋懌(無澤、むえき)と言い、漢市の長官に就いた。その子で五大夫の爵位を得た司馬喜は司馬遷の祖父に当たる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/司馬遷

ご‐たいふ【五大夫】
《秦の始皇帝が泰山で雨宿りをした松の木に五大夫の位を授けたという「史記」にある故事から》松の別名。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/79603/m0u/

 《大星が松の木に留まって七昼夜赤く輝いていた》というのはタタラ製鉄のことを表しているのではなかろうか。タタラ製鉄には松炭が最も適しているという。
http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/31176570.html

踏鞴製鉄は大量の木炭を燃料として用いる為、近世以前の中国山地では踏鞴製鉄の為に禿げ山となった地域が珍しくなかった。また原料となる砂鉄の採取(「鉄穴流し」かんなながし)は山間部の渓流を利用して行われた為、流出する土砂によって下流の農業に大きな影響を与えた。この為、鉄山師は操業に先立って流域の農村と環境破壊に対する補償内容を定める契約を交わし、冬のみに実施することとなった。 だが、木を伐採する際は計画的に行っているので、辺りの山すべてを禿山にするわけではない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/踏鞴製鉄


1656管理人:2013/08/19(月) 22:46:19
Re: 呉 (春秋)
秦野北斗さんへのお返事です。

ちょっとお盆休みにつき、変身おくれます。

1657管理人:2013/08/21(水) 22:55:08
Re: 呉 (春秋)
秦野北斗さんへのお返事です。

> 司馬氏の家系から五大夫は鉄鉱を管理する役職になる。
> 古代の製鉄、踏鞴製鉄(「鑪(たたら)」では松炭が必須のようだな。
> 始皇帝は五大夫を製鉄の松炭の意味を込め松と言っているぞ。
>
> 徐福、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の一行に居た模様。
> 踏鞴製鉄(「鑪(たたら)」は司馬氏が・・。
> 古事記の出雲で製鉄作業中に事故死したイザナミは司馬氏の模様。
>
>  《大星が松の木に留まって七昼夜赤く輝いていた》というのはタタラ製鉄のことを表しているのではなかろうか。タタラ製鉄には松炭が最も適しているという。
> http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/31176570.html
>
> 踏鞴製鉄は大量の木炭を燃料として用いる為、近世以前の中国山地では踏鞴製鉄の為に禿げ山となった地域が珍しくなかった。また原料となる砂鉄の採取(「鉄穴流し」かんなながし)は山間部の渓流を利用して行われた為、流出


確かに製鉄職人と「大夫」の関係は興味深いですね。

ただ、魏志倭人伝の「大夫」については、自身を「呉」の「太伯」の子孫で、その「大夫」と名乗っているので、「秦」の「五大夫」の子孫だと名乗っているわけではないところがポイントです。

呉の関連資料の中から、それらを見いだすことはできないでしょうか。




1658秦野北斗:2013/08/22(木) 19:11:13
Re: 呉 (春秋)
管理人さんへのお返事です。

大夫
律令制度における官位の呼称、どんな仕事を行っていたか現在では読み解けないだろうな。
歴史の流れから司馬遷から歴史・天文、鉄鉱を含む技術関係を司る家系だな。日本の弥生時代の技術がこれに当たる模様。弥生時代の技術から逆に中国の五大夫の役割を創作するのが近道だな。秦野は日本では五大夫が細分化され大夫「大夫の身分に相当する者」になったと考えたいな。

家系
遠い部分の信憑性には疑問があるが、父・司馬談が亡くなる際の遺言によると、司馬遷の家系は堯・舜の時代に功績を挙げ、代々歴史・天文を司る一族であるという。秦の恵文王らに仕えた司馬錯、その孫で白起の部下として長平の戦いに従軍した司馬靳(中国語版)(しばきん)、さらにその孫である司馬昌は始皇帝時代に鉄鉱を管理する役職にあった。昌の子は毋懌(無澤、むえき)と言い、漢市の長官に就いた。その子で五大夫の爵位を得た司馬喜は司馬遷の祖父に当たる。

歴史・天文を司る一族
司馬昌は始皇帝時代に鉄鉱を管理する役職


なお『日本書紀』の崇神天皇8年12月20日の条には「大夫」の文字があるが、大夫というのは律令制度における官位の呼称であって、律令制が確立される以前の崇神天皇の代に「大夫」という呼び方や官職があったわけではない。これは『日本書紀』が編纂されたときにその執筆者によって加えられた文飾であり、「大夫の身分に相当する者」すなわち今でいえば大臣や側近というほどの意味で使われたとみられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/大夫


>
> 確かに製鉄職人と「大夫」の関係は興味深いですね。
>
> ただ、魏志倭人伝の「大夫」については、自身を「呉」の「太伯」の子孫で、その「大夫」と名乗っているので、「秦」の「五大夫」の子孫だと名乗っているわけではないところがポイントです。
>
> 呉の関連資料の中から、それらを見いだすことはできないでしょうか。
>
>
>

1659管理人:2013/08/22(木) 23:05:12
Re: 呉 (春秋)
秦野北斗さんへのお返事です。


>
> なお『日本書紀』の崇神天皇8年12月20日の条には「大夫」の文字があるが、大夫というのは律令制度における官位の呼称であって、律令制が確立される以前の崇神天皇の代に「大夫」という呼び方や官職があったわけではない。これは『日本書紀』が編纂されたときにその執筆者によって加えられた文飾であり、「大夫の身分に相当する者」すなわち今でいえば大臣や側近というほどの意味で使われたとみられる。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/大夫
>
>


この件はちょっと興味深いですね。

崇神記の記録した渡来系官人の系統がわかるかもしれません。「大夫」を常識的につかっていた地域、たとえば北朝とか、さらには前述の晋の後裔とかですね。かならずしも律令時代のそれを当てはめたとは言い切れないかもしれません。


ただ魏志倭人伝の「大夫」はやはりかなり古い系統となるでしょうか。


大夫とは、中国の周代から春秋戦国時代にかけての身分を表す言葉で、領地を持った貴族のことであった。大夫は卿の下、士の上に位した。周代、周王室および諸侯に仕える小領主は大夫と呼ばれ、その上級のものが卿と呼ばれ、国政に参加した。諸侯が横暴であった場合、大夫らにより追放されることもあり、主君を脅かし得る地位を得るようになった。後代には大夫や士の中に衰退する者も現れたが、その後、有力農民層が新たに士という階級を形成し、地位を得るようになったといわれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

1660秦野北斗:2013/08/23(金) 15:05:20
Re: 呉 (春秋)
管理人さんへのお返事です。

日本書紀の垂仁天皇に五大夫がありますな。
どうも、崇?天皇の諸大夫は五大夫の簡略した表記だな。

崇?天皇と卑弥呼は同年代である。五大夫が日本書紀に記されているので秦との関係が浮上する。
司馬の五大夫と魏志倭人伝「大夫」は同一だな。接点は徐福になるな。
秦野著書(徐福と邪馬台国)の魏志倭人伝の行程が古代史の解読の手掛かりになるな。
難問ですが、卑弥呼が司馬の五大夫を魏晋南北朝に復活させたと理解できるな。

魏晋南北朝の爵位

曹魏に至ると秦漢以来の十二等爵を廃止して、儒教経典の公・侯・伯・子・男を擬古的に復活させた。文帝の黄初年間に王・公・侯・伯・子・男・県侯・郷侯(最初郷侯の下に亭侯が置かれていたが後に省かれる)・関内侯の九等の爵制が定められた。222年(黄初3年)には皇子を王に封じ、王子を郷公に封じ、王世子の子を郷侯に封じ、公子を亭伯に封じていた。その後224年(黄初5年)には諸王の爵位が皆県王に改められ、明帝の232年(太和6年)に再調整されて郡王となった。以上の九等の外に庶民や兵士に対しての賜爵もあり、関内侯の下には名号侯・関中侯・関外侯・五大夫侯が創立された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/爵位

家系
遠い部分の信憑性には疑問があるが、父・司馬談が亡くなる際の遺言によると、司馬遷の家系は堯・舜の時代に功績を挙げ、代々歴史・天文を司る一族であるという。秦の恵文王らに仕えた司馬錯、その孫で白起の部下として長平の戦いに従軍した司馬靳(中国語版)(しばきん)、さらにその孫である司馬昌は始皇帝時代に鉄鉱を管理する役職にあった。昌の子は毋懌(無澤、むえき)と言い、漢市の長官に就いた。その子で五大夫の爵位を得た司馬喜は司馬遷の祖父に当たる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/司馬遷

御間城入彦五十瓊殖天皇 崇?天皇

八年夏四月庚子朔乙卯、以高橋邑人活日、爲大?之掌酒。掌酒、此云佐介弭苔。冬十二月丙申朔乙卯、天皇、以大田々根子、令祭大?。是日、活日自舉?酒、獻天皇。仍歌之曰、
許能瀰枳破、和餓瀰枳那羅孺、椰磨等那殊、於朋望能農之能、介瀰之瀰枳、伊句臂佐、伊久臂佐。
如此歌之、宴于?宮。?宴竟之、「諸大夫等」歌之曰、
宇磨佐開、瀰和能等能々、阿佐妬珥毛、伊弟氐由介那、瀰和能等能渡塢。
於茲、天皇歌之曰、

http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_05.html


活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇

廿五年春二月丁巳朔甲子、詔阿倍臣遠?武渟川別・和珥臣遠?彦國葺・中臣連遠?大鹿嶋・物部連遠?十千根・大伴連遠?武日、「五大夫」曰、我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇、惟叡作聖。欽明聰達。深執謙損、志懷沖退。綢繆機衡、禮祭?祇。

http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_06.html


> この件はちょっと興味深いですね。
>
> 崇神記の記録した渡来系官人の系統がわかるかもしれません。「大夫」を常識的につかっていた地域、たとえば北朝とか、さらには前述の晋の後裔とかですね。かならずしも律令時代のそれを当てはめたとは言い切れないかもしれません。
>
>
> ただ魏志倭人伝の「大夫」はやはりかなり古い系統となるでしょうか。
>
>
> 大夫とは、中国の周代から春秋戦国時代にかけての身分を表す言葉で、領地を持った貴族のことであった。大夫は卿の下、士の上に位した。周代、周王室および諸侯に仕える小領主は大夫と呼ばれ、その上級のものが卿と呼ばれ、国政に参加した。諸侯が横暴であった場合、大夫らにより追放されることもあり、主君を脅かし得る地位を得るようになった。後代には大夫や士の中に衰退する者も現れたが、その後、有力農民層が新たに士という階級を形成し、地位を得るようになったといわれる。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/

1661管理人:2013/08/25(日) 23:11:59
Re: 呉 (春秋)
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 日本書紀の垂仁天皇に五大夫がありますな。
> どうも、崇神天皇の諸大夫は五大夫の簡略した表記だな。
>
> 崇神天皇と卑弥呼は同年代である。五大夫が日本書紀に記されているので秦との関係が浮上する。
> 司馬の五大夫と魏志倭人伝「大夫」は同一だな。接点は徐福になるな。
> 秦野著書(徐福と邪馬台国)の魏志倭人伝の行程が古代史の解読の手掛かりになるな。
> 難問ですが、卑弥呼が司馬の五大夫を魏晋南北朝に復活させたと理解できるな。
>

ちょっと今関西方面に出張してます。奈良方面も見てきますね。崇神の原点を求めて・・。

1662管理人:2013/08/29(木) 23:09:25
帰宅しました
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001712M.jpg

今朝関西から帰宅しました。東・西求女塚、難波高津宮、柴垣宮、秋津宮(遺跡)、宮山古墳、鴨津波古墳、唐子・鍵遺跡、鏡作神社、馬見古墳群、佐紀盾列古墳群、巻向古墳群、巻向日代宮、穴師兵主神社、孝霊天皇陵といったあたりを巡ってきました。卑弥呼についてはいろいろかんがえさせられましたね。穴師兵主神社、これがどうも大陸・中東系です。ここから、奈良を見渡せます。夕方になると10キロくらい向こうの光も見えました。先日の奈良区画では、巻向古墳そばから伸びる道を伸ばして行ったライン上にあります。同様に孝霊天皇陵、ここも以前から奈良都城区画の西北にあたる重要測量ポイントとして睨んでいたのですが、やはり現地に行くと、丘陵上にあり、はるか奈良を見渡せる場所でした。おそらくは、崇神・垂仁の話にあるように、奈良の丘陵上から縄や灯火を炊いて、昼夜で数キロ単位の測量をしたのでしょう。灯火を正方形に古墳を配置して並べるんです。夜になると、支配地域の様子が一目でわかるんですね。だから、巻向日代宮は、かなり丘陵上にあって、いつでも奈良の様子を瞬時に把握できたことでしょう。その穴師は、会報で記した「穴」関連の中国の高級官僚トウ氏の話です。元は月氏を配下に入れた外戚技術者集団。「相撲」を遊牧民・中東地域から持ち込んだ民です。間接的にオオヒコ系とも関係しますね。大彦は佐紀盾列古墳群の主と関係して、南方海人族。ただ兵主神はその後のタケウチ・ハタ・ソガ氏等の半島系勢力とも関係してきます。この辺の分離が課題です。

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1663秦野北斗:2013/08/29(木) 23:58:06
Re: 帰宅しました
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001713M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001713_2M.jpg

http://kodai.exblog.jp/18004127



1664管理人:2013/08/30(金) 01:07:34
Re: 帰宅しました
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001714M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001714_2M.jpg

http://kodai.exblog.jp/18004127

http://



1665秦野北斗:2013/08/30(金) 19:00:09
Re: 帰宅しました
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001715M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001715_2M.jpg

http://bell.jp/pancho/travel/yamanobe/isonokami.htm



1666管理人:2013/08/30(金) 23:11:40
Re: 帰宅しました
秦野北斗さんへのお返事です。

> 孝安天皇陵は耳成山、畝傍山のつぎですぞ。巻向日代宮のように丘陵上からみわたせるな。
>
> 軍事的・祭祀的意図をもって宮殿を置くケースとの間に、若干の差があるのかもしれません。ですが・・石上神宮(国宝の七支刀)は孝安天皇陵とはまるで反対方向ですな。


確かに石上神宮も丘陵になりますし、意図的なものがありますね。

古墳自体も測量・軍事用の人工的なマウンドとしての可能性を考えているのですが、ただ今回マキムク遺跡の勝山、石塚、矢塚、ホケノ山といった初期のそれに登ってみた感じでは、ちょっと平べったく高さが低すぎる感じがしました。

王墓としても小さすぎる。丘陵上から眺められるべき存在。

後の柳本、馬見古墳群あたりは、かなりマウンドとしても適切な高さがでてきます。

宮山古墳がやはり丘陵上にありましたね。これも方位ライン上に位置していて、奈良西南部を眺めるのにいい位置です。

さらに時代が下って、佐紀楯列古墳群になると、これは海人族系の侵入王朝ですから、ちょっと性格が異なってきます。古墳の作り方も、今回見たところでは、かなり密集していて、また方位ラインもあまり考慮されてないのが特徴的です。それまでの王族の古墳造営の仕方と異なるんですね。

それらの古墳の主が大彦系の海洋民だとおもうのですが、その大彦系の宮が、先の穴師兵主神社そばのマキムク日代宮となるわけです。そのふもとに珠城山古墳や芽原大塚も、見てはきたのですが、かなり後代のもので、渡来系の感じがしました。

穴師坐兵主社の位置自体は、マキムク遺跡にかかるので、もっと古い古墳時代初期に由来する可能性を感じるのですが、後に渡来系集団がそのふもとに進出していく契機があったのかもしれません。渡来系は秦氏に関係する兵主神のほうですね。大彦系は、後代渡来系集団を多く配下に入れていきます。

穴師のほうは、大穴ムジの世界で、もっと古いでしょう。




1667秦野北斗:2013/08/30(金) 23:32:26
Re: 帰宅しました
管理人さんへのお返事です。


大国主(おおくにぬし)は、『古事記』『日本書紀』に登場する神である。ですな。

マキムク遺跡と結び付けるは古事記、第3話 オオクニヌシですな。

http://www15.plala.or.jp/kojiki/index.html

大国主神(おおくにぬしのかみ) - 大国を治める帝王の意
大穴牟遅神(おおなむぢ)・大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち) - 大国主の若い頃の名前
大汝命(おほなむち)-『播磨国風土記』での呼称
大名持神(おおなもち)
八千矛神(やちほこ) - 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す
葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこを) - 「しこを」は強い男の意で、武神としての性格を表す
大物主神(おおものぬし)-古事記においては別の神、日本書紀において別名
大國魂大神(おほくにたま)- 国の魂、国を作った神、開拓者
大國主大神
顕国玉神・宇都志国玉神(うつしくにたま)
国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)- 『出雲国風土記』における尊称
幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)
杵築大神(きづきのおおかみ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/大国主


> 穴師坐兵主社の位置自体は、マキムク遺跡にかかるので、もっと古い古墳時代初期に由来する可能性を感じるのですが、後に渡来系集団がそのふもとに進出していく契機があったのかもしれません。渡来系は秦氏に関係する兵主神のほうですね。大彦系は、後代渡来系集団を多く配下に入れていきます。
>
> 穴師のほうは、大穴ムジの世界で、もっと古いでしょう。



1668茨の紀氏:2013/08/31(土) 00:11:19
Re: 帰宅しました
管理人さんへのお返事です。

お仕事 お疲れ様でした。

>古墳自体も測量・軍事用の人工的なマウンドとしての可能性を考えているのですが、ただ今回マキムク遺跡の勝山、石塚、矢塚、ホケノ山といった初期のそれに登ってみた感じでは、ちょっと平べったく高さが低すぎる感じがしました。

、古墳 時代まで大阪平野は下図のようになっており、現在の大阪市街は、上町台地を除いて ほとんど海か沼であった。沼は河内湖と呼ばれた。今の河内平野の大半を占める。 http://suido-ishizue.jp/nihon/09/03.htmlhttp://suido-ishizue.jp/nihon/09/03.html
大阪平野の河川変遷
『大地への刻印』(公共事業通信社)より転載 http://suido-ishizue.jp/nihon/09/03_1.html

初期古墳は河内湖の水量の多い時代に作られた?(見通しが良かったので高さが低かった)デハ?




1669茨の紀氏:2013/08/31(土) 00:20:07
弓月岳
穴師上社の跡地は「ゲシノオオダイラ=夏至の 大平」と呼ばれ、弓月岳頂上、上社の跡地、現下社、箸墓古墳後円部中心、前方部中心 が一直線に並ぶとの事である。夏至の祭祀の日の太陽はこのラインを照らす。
神奈備さんのHP http://kamnavi.jp/as/yamanobe/anasi.htm
千田稔氏は『鬼神の鎮魂歌』のなかで巻向山説を示されている。
【位置関係】
穴師川川波立ちぬ巻向の弓月が岳に雲居立てるらし   (万葉一〇八七 柿本朝臣人麻呂之歌集)
あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ちわたる(万葉一〇八八 柿本朝臣人麻呂之歌集)
 痛足川は穴師川のことで現在の巻向川、この川は巻向山の頂上近くに源流がある。巻向の弓月が岳というのは巻向山のこと。
 伝崇神陵から南東30度で同じように穴師山頂上が見える。その延長上に巻向山頂上がある。やはり冬至の日出の線。


1670茨の紀氏:2013/08/31(土) 00:35:10
Re: 弓月岳
応神天皇14年(283年)弓月君 河内湖の水抜き?
応神天皇の時に、大勢の百済人が渡来したという記事が「日本書紀」にあります。応神天皇14年(283年)のことです。 http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/fdb80377b9bed555fc89f156c32445cd

日本書紀と古墳が示す年代の矛盾
仁徳天皇は民の竃の煙があがらないのを見て、疲弊していることを知り3年間の無税を決めるなどの徳のある人と描かれており「聖帝」という言葉も使っています。池や堤を構築し治水に努めるとともに、河内湖の水を抜き今の大阪の地の基盤を作った人でもあります。書記の中に書かれた記述量も抜きん出て多く、最大の古墳に埋葬されている人物としては疑うものはありません。ただ、崩御する20年前の記述として「10月5日、河内の石津原においでになり、陵地を定められた。」という記述があり、18日には陵を築いていた時の出来事として、百舌鳥耳原の名前の由来の話が出てきます。そして、その20年後の10月7日百舌鳥野陵に葬ったとあります。この記述を信じるなら、陵墓は生前に既に築かれていることになります。そうなると、仁徳陵は数十年ですが新しすぎます。 http://www.rekitan.co.jp/styled-2/styled-16/styled-18/index.html
履中陵と仁徳陵の築造年代の差は50年。これは二世代違うことになります。書記によれば、仁徳の父は応神、応神の父は日本武尊、その父は仲哀天皇です。応神、日本武尊、仲哀の3名は古市古墳群に埋葬されています。つまり、該当者がいません。当時最大の墓を築いた人物は、日本書記から抹消されてしまった人物ということになります。逆に言えば、応神天皇の前に河内王朝を切り開いた大王が存在していたという証拠でもあるのです。筆者は、神功皇后の事跡を作り出した人物で応神の本当の父の初代ホムタワケ(ホムタワケは応神の名前ですが、応神はイザサワケであってホムタワケを継いだ王です。)の墓であると考えます。


1671秦野北斗:2013/08/31(土) 11:51:36
Re: 弓月岳
茨の紀氏さんへのお返事です。

神功皇后三韓征伐が271年になるので「日本書紀」そこそこ合っているな。

> 応神天皇14年(283年)弓月君 河内湖の水抜き?
> 応神天皇の時に、大勢の百済人が渡来したという記事が「日本書紀」にあります。応神天皇14年(283年)のことです。 http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/fdb80377b9bed555fc89f156c32445cd




1672管理人:2013/08/31(土) 22:58:09
Re: 帰宅しました
茨の紀氏さんへのお返事です。

> >古墳自体も測量・軍事用の人工的なマウンドとしての可能性を考えているのですが、ただ今回マキムク遺跡の勝山、石塚、矢塚、ホケノ山といった初期のそれに登ってみた感じでは、ちょっと平べったく高さが低すぎる感じがしました。
>
> 、古墳 時代まで大阪平野は下図のようになっており、現在の大阪市街は、上町台地を除いて ほとんど海か沼であった。沼は河内湖と呼ばれた。今の河内平野の大半を占める。 http://suido-ishizue.jp/nihon/09/03.htmlhttp://suido-ishizue.jp/nihon/09/03.html
> 大阪平野の河川変遷
> 『大地への刻印』(公共事業通信社)より転載 http://suido-ishizue.jp/nihon/09/03_1.html
>
> 初期古墳は河内湖の水量の多い時代に作られた?(見通しが良かったので高さが低かった)デハ?
>
>
>

河内方面は、先日の水没地図のように、難波高津宮周辺の島地以外は水没していたはずですね。

あとは南部の柴垣宮あたりからの南方地域となるでしょうか。その北部は水没していたはずです。

そもそも水没地域に河内の場合は古墳自体ないですね。

仁徳〜応神ライン以南です。


同様に大和の場合の水没地図でいくと、秋津方面はある時期沈んでいた可能性があって、孝安陵や宮山古墳が高台なのもわかるような気がします。秋津州

ただ鴨津波古墳の周辺は、見た感じそれほど高さはなかったので、水没してない時代、三角縁の末期の時代ですね、このころには、水没状態も改善していたのではないかと感じます。

この辺再度水没予想をしなおす必要がありそうです。




1673管理人:2013/08/31(土) 23:04:42
Re: 弓月岳
茨の紀氏さんへのお返事です。

> 穴師上社の跡地は「ゲシノオオダイラ=夏至の 大平」と呼ばれ、弓月岳頂上、上社の跡地、現下社、箸墓古墳後円部中心、前方部中心 が一直線に並ぶとの事である。夏至の祭祀の日の太陽はこのラインを照らす。
> 神奈備さんのHP http://kamnavi.jp/as/yamanobe/anasi.htm
> 千田稔氏は『鬼神の鎮魂歌』のなかで巻向山説を示されている。
> 【位置関係】
> 穴師川川波立ちぬ巻向の弓月が岳に雲居立てるらし   (万葉一〇八七 柿本朝臣人麻呂之歌集)
> あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ちわたる(万葉一〇八八 柿本朝臣人麻呂之歌集)
>  痛足川は穴師川のことで現在の巻向川、この川は巻向山の頂上近くに源流がある。巻向の弓月が岳というのは巻向山のこと。
>  伝崇神陵から南東30度で同じように穴師山頂上が見える。その延長上に巻向山頂上がある。やはり冬至の日出の線。
>

穴師と方位ラインの関係は、重要ですね。
マキムク遺跡(古墳群)からは、5度偏角になります。これが最初の起点です。
その後、箸墓や崇神の22度(夏至角)のそれが追加されたのでしょう。その前後で西殿塚もラインに関わってくる。




1674茨の紀氏:2013/09/11(水) 00:39:34
Re: 帰宅しました
管理人さんへのお返事です。

> この辺再度水没予想をしなおす必要がありそうです。

[旧河内湖、1] 河内湖1m 現在の地図ですが標高1mに水を置いてみました。 「銅鐸」 茨木市東奈良遺跡(石製銅鐸鋳型) 羽曳野市西浦銅鐸。 四条畷市砂山銅鐸(入れ子で 、河内湖畔) 門真市大和田銅鐸(河内湖畔 ... http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/kasi/kosk_kwtk.htm

写真は、弥生時代の大阪湾岸線と近郊地図及び古墳時代の河内平野。 http://blog.goo.ne.jp/tommz_1938/e/05940e5344f2aa005dc5be29aa8af36f
古墳時代の頃までには、汽水域である河内湖が淀川・大和川系による土砂で埋められつつあり、河内平野の原形が出来つつある。
河内平野は、北から時計回りに千里丘陵・枚方丘陵・生駒山地・羽曳野丘陵と上町台地に囲まれた平坦地を指す。
平野の北東隅からは淀川が、南東隅からは大和川が流れ込み、それらは大阪城の北側で合流し、やがて大阪湾へと流れ出る。




1675管理人:2013/09/22(日) 03:00:18
Re: 帰宅しました
茨の紀氏さんへのお返事です。


> > この辺再度水没予想をしなおす必要がありそうです。
>
> [旧河内湖、1] 河内湖1m 現在の地図ですが標高1mに水を置いてみました。 「銅鐸」 茨木市東奈良遺跡(石製銅鐸鋳型) 羽曳野市西浦銅鐸。 四条畷市砂山銅鐸(入れ子で 、河内湖畔) 門真市大和田銅鐸(河内湖畔 ... http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/kasi/kosk_kwtk.htm
>
> 写真は、弥生時代の大阪湾岸線と近郊地図及び古墳時代の河内平野。 http://blog.goo.ne.jp/tommz_1938/e/05940e5344f2aa005dc5be29aa8af36f
>??古墳時代の頃までには、汽水域である河内湖が淀川・大和川系による土砂で埋められつつあり、河内平野の原形が出来つつある。
>??河内平野は、北から時計回りに千里丘陵・枚方丘陵・生駒山地・羽曳野丘陵と上町台地に囲まれた平坦地を指す。
>??平野の北東隅からは淀川が、南東隅からは大和川が流れ込み、それらは大阪城の北側で合流し、やがて大阪湾へと流れ出る。
>


なるほど、河内湖の実態がわかりますね。

あと、二上山越えは案外、標高差がなかったのが印象的でした。



1676管理人:2013/09/22(日) 03:12:38
Re: 帰宅しました
秦野北斗さんへのお返事です。

> 大国主(おおくにぬし)は、『古事記』『日本書紀』に登場する神である。ですな。
>
> マキムク遺跡と結び付けるは古事記、第3話 オオクニヌシですな。
>
> http://www15.plala.or.jp/kojiki/index.html
>

大国主とマキムク遺跡の伝承は、再考の余地ありですね。


元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3つの説がある。祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られ、鏡を神体とする。神社側では兵主神は御食津神であるとしているが、他に天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命、建御名方命、大己貴神の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説がある。
巻向坐若御魂神社の祭神「若御魂神」は稲田姫命のことであるとされる。現在は右社に祀られ、勾玉と鈴を神体とする。元は巻向山中にあった。若御魂神については、和久産巣日神のことであるとする説もある。
上記の2社は、『正倉院文書』に天平2年(730年)に神祭を行った記録があり、貞観元年(859年)に従五位上の神階が授けられた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

方位ライン面では、マキムク遺跡から5度偏角にあたる現在の位置が正しいとおもいますね。
もともと弥生末から穴師に関する何かがあったはずです。吉備方面に関係する兵主神、八千矛神が入ってくるのは、4世紀前半の大彦の時代でしょうか。

「穴師坐」は、穴師という地域に座した兵主神社の意味で、おそらくそれ以前から穴師という地名があったはずです。兵主神は、どこからからやってきた別系統の大陸系信仰。

マキムクと関係するのは「穴師」で、オオアナムジの世界。三輪の大物主の関係でしょうか。マキムク式古墳の世界ですね。

ホケノ山の位置が、箸墓のライン上にあるのは、もっと注目すべきで、造り的には、おそらくマキムク式の初期のそれに近いように見えました。その辺から箸墓の造営年代もライン面から逆算できるかもしれません。




1677茨の紀氏:2013/09/30(月) 04:57:16
Re: 帰宅しました
管理人さんへのお返事です。


> あと、二上山越えは案外、標高差がなかったのが印象的でした。
>


聖なる山「ふたかみやま」へ http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
>

1678茨の紀氏:2013/09/30(月) 05:22:08
Re: 帰宅しました
> 秦野北斗さんへのお返事です。

> 大国主とマキムク遺跡の伝承は、再考の余地ありですね。

【大歳(饒速日)尊:オオトシ(ニギハヤヒ)】:大国主、大物主、葦原色許男、日本大国魂 大神、布留御魂大神、賀茂別雷、櫛玉、櫛甕玉、鴨大神、事解男命、豊日別、等々で ある。 とにかく、歴史(記紀)に残すと都合の悪い人物に多くの名前を与え、正体を抹殺 する ... http://www.syamashita.net/history/kodaishi/damasareta.html

大歳神. 大年神(おおとしのかみ)。日本神話の神。 太歳神(たいさいしん)。陰陽道の神 。 http://ja.wikipedia.org/wiki/大歳神
年のはじめのお正月は万物が新しく蘇生(そせい)する時でもあり、年神(としがみ)さまを まつることが行事の中心です。 http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/kore_naani/t/f/22.html
「神農膏」は【人体を 蘇生の方向に持っていくもの】 http://www.cosmic-energy.co.jp/lpo/
神農
秦氏への太子の要請によるとされる河勝(秦河勝/香具師・ 神農行商の祖) http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2010

> 元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3つの説がある。祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られ、鏡を神体とする。神社側では兵主神は御食津神であるとしているが、他に天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命、建御名方命、大己貴神の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説がある。

> 「穴師坐」は、穴師という地域に座した兵主神社の意味で、おそらくそれ以前から穴師という地名があったはずです。兵主神は、どこからからやってきた別系統の大陸系信仰。

穴師の「穴」も稲田姫の「稲」も「鉄」の意味で、古代の当地は 製鉄と関係が深い所です。製鉄関連の「稲穂」は「製鉄の火」のことです。 http://enkieden.exblog.jp/19307604/
祭神: 兵主神(中)、大兵主神(左)、若御魂神(右、稲田姫命)
 ご神体:  鏡、      剣、       勾玉と鈴
 創建: 10代祟神天皇の時代(西暦300年前後)

 JR巻向駅の真東1.5km、穴師山の山麓に鎮座。兵主神信仰は中国山東半島からの伝来と言われます。海人族による楽浪郡や山東半島との交易の結果でしょう。製鉄・鍛冶の神です。
 穴師大兵主(あなしおおひょうず)神社に穴師坐兵主神社(弓月岳)と巻向坐若御魂(まきむくにいますわかみたま)神社(巻向山)を合祀して、新神社名が穴師坐兵主神社となっています。従って3社の神様がお祀りされているのですが、合祀された兵主神が中央に祀られているので、主客転倒の形になっています。
 穴師の「穴」も稲田姫の「稲」も「鉄」の意味で、古代の当地は製鉄と関係が深い所です。製鉄関連の「稲穂」は「製鉄の火」のことです。現在の周辺地では果樹園や製麺所(三輪そうめん)などが多いです。
穴師坐兵主神社(弓月岳)
西暦300年前後

応神 天皇14年(283年)のことです。 http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/fdb80377b9bed555fc89f156c32445cd
弓月君が百済からやってきた。奏上して「私は私の国の、百二十県の人民を率いてやってきました。しかし、新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています」といった。そこで葛城襲津彦を遣わして、弓月の民を加羅国によばれた。しかし三年たっても襲津彦は帰ってこなかった。
 p217「日本書紀」上全現代語訳 宇治田猛 講談社学術文庫

280年ごろ卑弥呼臺与(トヨ)は亡くなっているはずです。そして、その後に、スサノヲは卑弥呼臺与(トヨ)の子孫をつれて朝鮮半島に向かっているはずです。
すぐにスサノヲは南朝鮮を制圧したと考えています。その時なら、朝鮮の優れた技術を日本に取り入れようと多くの朝鮮人を日本に送り込むことはありえます。
となると、283年ごろと663年ごろに同じことが起きたことになります。
また、『三代実録』なる本を、名前しか見たことはありませんでしたが、
『巻四十四元慶七年(八八三)』と283年を比べると
883−283=600・・ちょうど600年離れています。
管理人さんへのお返事です。



1679管理人:2013/09/03(火) 23:06:19
Re: 帰宅しました
茨の紀氏さんへのお返事です。

> > 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> > 大国主とマキムク遺跡の伝承は、再考の余地ありですね。
>
> 穴師の「穴」も稲田姫の「稲」も「鉄」の意味で、古代の当地は 製鉄と関係が深い所です。製鉄関連の「稲穂」は「製鉄の火」のことです。 http://enkieden.exblog.jp/19307604/
> 祭神: 兵主神(中)、大兵主神(左)、若御魂神(右、稲田姫命)
>  ご神体:  鏡、      剣、       勾玉と鈴
>  創建: 10代祟神天皇の時代(西暦300年前後)
>
>  JR巻向駅の真東1.5km、穴師山の山麓に鎮座。兵主神信仰は中国山東半島からの伝来と言われます。海人族による楽浪郡や山東半島との交易の結果でしょう。製鉄・鍛冶の神です。
>  穴師大兵主(あなしおおひょうず)神社に穴師坐兵主神社(弓月岳)と巻向坐若御魂(まきむくにいますわかみたま)神社(巻向山)を合祀して、新神社名が穴師坐兵主神社となっています。従って3社の神様がお祀りされているのですが、合祀された兵主神が中央に祀られているので、主客転倒の形になっています。
>  穴師の「穴」も稲田姫の「稲」も「鉄」の意味で、古代の当地は製鉄と関係が深い所です。製鉄関連の「稲穂」は「製鉄の火」のことです。現在の周辺地では果樹園や製麺所(三輪そうめん)などが多いです。
> 穴師坐兵主神社(弓月岳)
> 西暦300年前後
>


「穴」は、製鉄との関わりがあるとの見方も興味深いですが、元は大国主が、スサノオの試練にあったときに、ネズミの教えによって「穴」に落ちて難を逃れたという大陸系伝承によるものだと考えてます。

稲田姫などのスサノオ伝承と「稲」とに、間接的には関係ありそうですね。



1680茨の紀氏:2013/09/05(木) 10:47:37
Re: 帰宅しました
管理人さんへのお返事です。

> 「穴」は、製鉄との関わりがあるとの見方も興味深いですが、元は大国主が、スサノオの試練にあったときに、ネズミの教えによって「穴」に落ちて難を逃れたという大陸系伝承によるものだと考えてます。
>
> 稲田姫などのスサノオ伝承と「稲」とに、間接的には関係ありそうですね。
>
>
穴 万物を生み出した御祖(みおや) http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
紫微垣(しびえん)陰陽道紫微派では北極星を万物を生み出した御祖(みおや)、

「隧穴は大地母神の女陰」に「真名井の御霊水」と言うのが良く 合っている。 ... 韓伝に鬼神が沢山出てくるが、韓伝の方は村落毎に違う神を祭っている ので、むしろ祖先信仰だった可能性もある。 http://www.geocities.jp/taru638/page002.html

隧穴を豊穣を司る大地母神(現在の豊受大神)のホトに見立てて http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1095321700

ネズミを従えています
【 聖天(歓喜天・ガネーシャ、ガナパティ) 】
ヒンドゥー教のシヴァ神の息子で象の姿をした神です。本来は原住民の障碍を起こす神でしたが、障碍を取り除く神、財宝神、学問の神に変化しました。商売繁盛や愛欲の神としても知られています。クベーラと同じく豊穣と暗黒の両面を持っていて、大きなお腹をしていて、ネズミを従えています。日本でも、夫婦和合やどんな願いでもかなえてくれる神とされました。好物とされる大根が捧げられます。後醍醐天皇が倒幕のために修したと言われています。


1681秦野北斗:2013/09/05(木) 21:52:41
クシナダヒメ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001731M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001731_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/クシナダヒメ



1682管理人:2013/09/06(金) 23:17:45
Re: クシナダヒメ
秦野北斗さんへのお返事です。

>
> クシナダヒメは、
> 日本神話に登場する女神。『古事記』では櫛名田比売、『日本書紀』では奇稲田姫と表記する。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/クシナダヒメ
>
>

なるほどですね。スサノオ神話の件、もう少しほりさげたいですね。



1683秦野北斗:2013/09/07(土) 08:16:22
Re: クシナダヒメ
管理人さんへのお返事です。

ナタ (中国神話)の『西遊記』と桃太郎(ももたろう)の登場人物が共通するな。

『西遊記』:唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え

桃太郎:「桃太郎」が、お婆さんから黍団子(きびだんご)を貰って、イヌ、サル、キジを従えて


桃太郎(ももたろう)は、日本のおとぎ話の一つ。
「桃太郎」が、お婆さんから黍団子(きびだんご)を貰って、イヌ、サル、キジを従えて、鬼ヶ島まで鬼を退治しに行く物語。

上流から流れてきた桃を食べて老夫婦が若返ったというくだりには、道教やさまざまな神話が影響しているとみられる。『山海経』や西王母伝説、あるいは日本神話のイザナギの神産み#黄泉の国にみられるように、桃は邪気を祓い不老不死の力を与える霊薬である果実とされている。また、山奥に住む仙人にも桃は欠かせない存在である。桃太郎を齎した桃は、こうした力のある桃が山から流れて来たものとも考えられる。世界的には霊力のある植物は桃とは限らず、古くはギルガメシュ叙事詩での不死の薬草、旧約聖書の『創世記』における生命の樹と知恵の樹、田道間守の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ、橘の実とされる)や徐福伝説の神仙薬などが挙げられる。桃太郎の対的説話としては瓜から生まれた瓜子姫が指摘され、沖縄県久高島には黄金の瓜から生まれた男子が後の琉球王(西威王とされる)となったという伝説のバリエーションもある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/桃太郎

『西遊記』(さいゆうき、繁体字: 西遊記; 簡体字: 西游?; ピン音: Xīyóu Jì; ウェード式: Hsiyu-chi; 粤ピン音: sai1 jau4 gei3)は、中国で16世紀の明の時代に大成した伝奇小説で、唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語。全100回で中国四大奇書に数えられる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/西遊記

哪タ(なた, 英: Nata or Na-zha)は、道教で崇められている少年神、もしくは中国仏教もしくはヒンドゥー教の民話・説話の登場人物である。

托塔天王(毘沙門天)の三男である事から哪タ太子(なたたいし)、あるいは哪タ三太子(なたさんたいし)とも呼ばれる。信仰対象としては太子爺(たいしや)、太子元帥(たいしげんすい)、羅車太子(らしゃたいし)、中壇元帥(ちゅうだんげんすい)などとも呼ばれ、いくつもの尊称がある。

蓮の花や葉の形の衣服を身に着け、乾坤圏(円環状の投擲武器)や混天綾(魔力を秘めた布)、火尖鎗(火を放つ槍)などの武器を持ち、風火二輪(二個の車輪の形をした乗り物。火と風を放ちながら空を飛ぶ)に乗って戦う姿は『封神演義』『西遊記』などの民間説話や小説などでなじみ深く、道教寺院でもこのような姿で表される。

主要な文献とその漢字表記
文献表記
封神演義哪タ
西遊記哪タ
西遊記雑劇那タ
毘沙門儀軌タ
尊容鈔那タ
三教源流捜神大全那タ

http://ja.wikipedia.org/wiki/ナタ_(中国神話)


> >
> > クシナダヒメは、
> > 日本神話に登場する女神。『古事記』では櫛名田比売、『日本書紀』では奇稲田姫と表記する。
> > http://ja.wikipedia.org/wiki/クシナダヒメ
> >
> >
>
> なるほどですね。スサノオ神話の件、もう少しほりさげたいですね。
>
>

1684管理人:2013/09/07(土) 22:13:06
Re: クシナダヒメ
秦野北斗さんへのお返事です。

> ナタ (中国神話)の『西遊記』と桃太郎(ももたろう)の登場人物が共通するな。
>
> 『西遊記』:唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え
>
> 桃太郎:「桃太郎」が、お婆さんから黍団子(きびだんご)を貰って、イヌ、サル、キジを従えて
>
>
> 桃太郎(ももたろう)は、日本のおとぎ話の一つ。
> 「桃太郎」が、お婆さんから黍団子(きびだんご)を貰って、イヌ、サル、キジを従えて、鬼ヶ島まで鬼を退治しに行く物語。
>
> 上流から流れてきた桃を食べて老夫婦が若返ったというくだりには、道教やさまざまな神話が影響しているとみられる。


桃太郎伝説というと、孝霊天皇ですが、先日はその孝霊黒田庵戸宮やそばの鏡作神社、唐子・鍵遺跡も見てきました。奈良の中国的都城区画の中心です。

弥生末から古墳初期に入った中国系集団によってもたらされた伝承でしょう。

唐子・鍵の動画
https://www.youtube.com/watch?v=w379z722tUE
https://www.youtube.com/watch?v=GYLR5L0WDTc

後代、箸墓、マキムク方面へと移動するのですが、三輪・箸墓伝承は、先のヤマタノオロチ伝承と、河・箸の要素で共通してきます。吉備とも関係する。

高天原を追放された須佐之男命は、出雲国の肥河(島根県斐伊川[1])の上流の鳥髪(現・奥出雲町鳥上)に降り立った。箸が流れてきた川を上ると、美しい娘を間に老夫婦が泣いていた。その夫婦は大山津見神の子の足名椎命と手名椎命であり、娘は櫛名田比売(くしなだひめ)といった。

たちどころに湯津爪櫛(ゆつつまぐし)の形に変えてしまった。素戔嗚尊は湯津爪櫛になった少女を御髻(みづら)に挿し、脚摩乳と手摩乳に八回醸した酒を作らせ、八面に塀を立て、各々一つずつ樽を置き、酒を盛らして待った。

http://ja.wikipedia.org/wiki/


ヤマタの件ですが、「八」に固執しています。「八面」というのは、八角形になるでしょうか。八角墳、八角堂となってくると、東欧系新漢人等の世界です。八角墳とかに影響していきます。

オリエント・ケルト・ローマキリスト教的要素が関わってきます。

八面大王

中房山の北、有明山の麓の宮城には「魏石鬼ヶ窟」がある。

八面大王の社と称する祠もあるという。一説には、魏石鬼の首を埋めたのが「塚魔」であり、その上に権現を勧請したのが今の筑摩八幡宮(つかまはちまんぐう)とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

安曇族と新漢人の関係ですね。

坂上氏は漢人集団の首長でした。

聖書のカナの婚礼の話が、多くの酒樽、婚姻で、どこかスサノオ神話と関係してきます。

”1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
6さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、??しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。??彼は、花婿を呼んで、
10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」”



ぶどう酒というのが、つまり樽と血ですね。イエスが母の関係者に酒を用意するように命じる場面が、スサノオが奇稲田姫の両親に酒桶を用意させるシーンへと対応してきます。

稲はモチと的と酒関連の、先の会報で記した九州に入ったミサ伝承ですね。

大蛇退治は、オリエント系の竜退治神話。




1685秦野北斗:2013/09/07(土) 23:12:17
Re: クシナダヒメ
管理人さんへのお返事です。

唐古・鍵遺跡はどうも、古事記の安の河原ですな。古事記の文章を探せば痕跡があるかも。

第2章 天の岩戸
アマテラスオオミカミが作っていた田の畔(あぜ)を踏みつぶし、溝を埋め、大嘗祭を行う神殿に、何と「うんこ」をし散らかしたのです。しかし、アマテラスオオミカミは、・・

http://www15.plala.or.jp/kojiki/amaterasu_susanoo/amaterasu_susanoo_02.html

唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)は奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。

http://ja.wikipedia.org/wiki/唐古・鍵遺跡

>桃太郎伝説というと、孝霊天皇ですが、・・・

孝霊天皇

いわゆる欠史八代の1人で、実在しない天皇と捉える見方が一般的であるが実在説もある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/孝霊天皇#.E8.99.9A.E6.A7.8B.E8.AA.AC


聖書のカナの婚礼ですが、文書に、イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」
とあるが、聖書の一般訳では水をぶどう酒にした様に理解しているが解釈に問題がある。
どこにも、9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、??しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。??彼は、花婿を呼んで、・・。
「水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。」これは水でなく、ぶどう酒を満たした様だな。何か大きな権力者の姿が隠れているな。


聖書のカナの婚礼の話が、多くの酒樽、婚姻で、どこかスサノオ神話と関係してきます。

”1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
6さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、??しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。??彼は、花婿を呼んで、
10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」”


1686管理人:2013/09/09(月) 23:10:15
Re: クシナダヒメ
秦野北斗さんへのお返事です。

> 唐古・鍵遺跡はどうも、古事記の安の河原ですな。古事記の文章を探せば痕跡があるかも。
>
> 第2章 天の岩戸
> アマテラスオオミカミが作っていた田の畔(あぜ)を踏みつぶし、溝を埋め、大嘗祭を行う神殿に、何と「うんこ」をし散らかしたのです。しかし、アマテラスオオミカミは、・・
>
> http://www15.plala.or.jp/kojiki/amaterasu_susanoo/amaterasu_susanoo_02.html
>
> 唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)は奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。


やはり天岩戸関係だと、鏡作神社と石凝姥女の関係でしょう。黒田庵戸宮から東にラインを伸ばしたところに神社があります。

石凝姥女こそが、物部系の孝霊・孝元天皇妃のウツシコとその姪のイカガシコです。卑弥呼と台与ですね。


唐子・鍵遺跡はそのすぐそばなのですが、また宮古の字名が残っています。宮古・保津遺跡です。

孝霊の黒田庵戸宮は後代皇室領として受け継がれ、倭屯倉になります。あの周辺には、先日も訪問しましたが孝霊神社があります。その前に中規模の河川があり、これがおそらく宮の周辺を流れていたはずです。

孝霊神社には、孝霊天皇、桃太郎の話がつたわってます。

鏡作神社の位置は、ちょうど中国の漢魏洛陽城でいうと、宮殿そばの官営工房、つまり鏡職人のいた尚方のあったあたりになるでしょう。だから鏡作の残存がそこにあるんですね。唐子・鍵はやや北東にあたり、そこで宮殿を描いた土器が出てくる理由は、宮が近かったからとおもうのですが、やや黒田宮あたりの宮殿を眺めるには、距離がありすぎる感じを受けました。もう少し近くの宮古・保津遺跡あたりの出土土器からも、そういう宮殿が描かれていたら、おもしろいですね。清水・・遺跡というところからも、同様な土器が出ていたとおもいます。

マキムク方面へ宮が移動する古墳時代初期、4世紀末〜5世紀半以前は、この黒田庵戸宮に中心があったでしょう。

もともとは、この黒田庵戸宮から東に5度偏角で伸びていた道路上にマキムク古墳群、つまり「大市」、中国都城でいう東西交流の市があって、そこで東西の交流があったので、広く東西の土器が出土していたわけですが、ある時期から、マキムク日代宮へと移行して、丘陵上に宮を置くようになります。

ひとつは水没ですね。なにか奈良にそのような水没伝承があるかもしれません。山幸、海幸もそうですし、アマテラス系だと、どうなるか?溝埋めは、ちょっと違うかもしれませんね。馬が出てくるのは、かなり後代の話です。

マキムクから伊勢へと道路が伸びて、神殿が構築されていくのが、竹内街道に関係する半島系武内宿禰の時代で、4世紀後半ですね。

その時代に4世紀前半の佐紀古墳群の海人族の時代が終わって、次に河内王朝へと移行していきます。






1687岩淵國人:2013/09/09(月) 23:33:06
Re: 軌道共鳴とプレートテクトニクス
管理人さんへのお返事です。

> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> > 過去5億年間の気候変化では15000万年周期、4000万年周期過去
> > 45万年間の気候変化と氷床量の変化10万年周期
> > 古代シュメールの記録から気温変化1200年周期は削除。約3,600年周期
> >
> > 一部の書籍に於いて、古代シュメール人が「「ニビル」と呼んだ、約3,600年周期で太陽系と垂直方向の楕円
> > 「ニビル」が正しいなら600〜800年に何かが確認されているはず。大宝律令あたりになる。
> > ニビルの約3,600年周期は歴史上の災害、異常現象から特定する方法しかない。
> > 削除した、候補の1200年周期、・・・を再考か。
> > 次の接近は4200〜4400年になる。寿命がないので確認はあきらめます。
> >
>
>
> ニビルの件ですが、どうもシュメールの粘土板の星は、BC2320年のそれを元にしているとすると、そrはハレー彗星ではないかという感じもします。ちょっと怪しいです・・。
>
> それで再度おうし座流星群の母天体、エンケ彗星を調べてみました。3.3年周期なのですが、木星の周期に軌道共鳴しています。7:2です。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/エンケ彗星
>
> 実質的に木星周期と同じとみなしてよいかと考えました。木星周期は11.86155年です。
> エンケ彗星は、木星と7:2の周期で会合してます。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/木星
>
> それで木星周期と地球の周期の公倍数ですが、130回木星が周回すると、1542.0015年で、地球と会合します。
>
> それで、木星が2回回ると、エンケ彗星が7回回って会合するわけですから、2で割って、
> 771.00075年が、地球とエンケ彗星の会合周期になるかと感じます。
>
> BC2001年の東北大津波をエンケ彗星接近によるものと過程すると、次にBC1230年にまた会合した計算になります。すると、ちょうど出エジプトの年が1230年なので、重なってきますね。
>
> さらに459年は、バビロン捕囚からユダヤ人が帰還した年にあたります。
>
> 次が
> AD312年
> 1083年、富士山噴火
> 1854年 安政東海地震
>
> と続きます。
>
> 逆に、2001年の771年前は、2772年ですが、あるいはこのあたりにノア洪水をもっていく手もあります。
>
> 12930年の衝突についても、下記のサイトでエンケ彗星の母天体となった彗星が、現在のエンケ彗星の軌道に入り込んで、崩壊した後、その残骸が地球に降り注いだ可能性を指摘してます。
>
> http://ameblo.jp/parasaurolophus4u/entry-10602452621.html
>
>
> ただ、このエンケ彗星、つまりおうし座流星群の周期は、だんだん速くなってきているとのことで、当初から一定の周期だったかどうかは微妙です。
>
> あと、軌道共鳴の要素としては、地球の各周期を見ると理解しやすくなりそうです。
>
> 歳差運動 (Precession)の周期は3つあり、それぞれ1万9000年、2万2000年、2万4000年である。
> 自転軸の傾斜角 (Obliquity) の変化は周期4万1000年。
> 公転軌道の離心率 (Eccentricity) 変化は周期9万5000年、12万5000年、40万年。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/ミランコビッチ・サイクル
>
> 太陽の自転周期
>
> 27日6時間36分(赤道)
> 28日4時間48分(緯度30度)
> 30日19時間12分(緯度60度)
> 31日19時間12分(緯度75度
>
> 銀河系を一周する時間 2.2 × 10ー8 年
>
> 月の公転周期
> 27日7時間43.1分
>
>
> 要するに月の公転周期は、太陽の自転周期と共鳴関係にあるようです。
>
> また月の自転周期は地球との共鳴関係。
>
>
>
> 金星と地球の会合周期 583.92 日 ×5 ÷365=7.9998904
>
> となります。地球と金星も重力的に軌道共鳴の関係にあるのでしょう。
>
> 公転周期は224.701 日、自転周期は243.0187 日 で太陽との軌道共鳴関係に近いです。
>
>
> 木星に対するエンケ彗星の関係は、地球に対する金星の関係と共通性があります。
>
> 難しいのですが、捕獲と軌道変化と公転スピードとの関係にあるのではないでしょうか。
>
> 逆に、それをたどれば、どの星はどこからきてどういうふうに捕獲されたかがわかるかもしれません。
>
> 量子力学だと、プランク定数というのがあって、ある一定の整数比で、軌道・周期が徐々に共鳴していく過程が生じます。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/プランク定数
>
> その安定するまでの間に、彗星のごとく火花を散らして余分なエネルギーを発散していくわけです。
>
> 同様にその軌道共鳴で安定するまでの過程を観察することで、いつどこからこの星がきて、まだ安定しきれてないとか、そういうこともわかってくるかもしれません。
>
> エンキ彗星や、月と金星はまだ安定しきってない感じがしますね。
>
>

1688岩淵國人:2013/09/09(月) 23:45:39
BC2001年東北大津波
別件でBC2001年の三陸超々巨大津波を提唱しています。貴研究会では何を根拠にされたのですか?ビックリです。

1689管理人:2013/09/10(火) 04:04:10
Re: BC2001年東北大津波
岩淵國人さんへのお返事です。

> 別件でBC2001年の三陸超々巨大津波を提唱しています。貴研究会では何を根拠にされたのですか?ビックリです。


岩渕さま、はじめまして。

上記の投稿で引用している「BC2001年三陸大津波」の件ですが、それ以前の投稿にあたる下記の4月21日の投稿に、引用元のURLを掲載しています。
http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/421

こちら引用文の一部。

たとえばおうし座流星群の母天体は、BC2000年前後に地球軌道と交差したそうですが、BC2001年に数百メートルの津波を東北にもたらした彗星が推定されてます。
http://iwabuchikunito.jp/archives/88



ただ、すでにリンク切れになっているようですが、おそらくは岩渕さまのほうがよくご存知ではないかと感じます・・・。この津波関連で詳しい情報ございましたら、よろしくお教えくださるとこちらも大変助かります。

1690秦野北斗:2013/09/12(木) 07:12:18
Re: BC2001年東北大津波
岩淵國人さんへのお返事です。

三陸地方津波の痕跡を追い。三陸地方に2000年前の津波は考えずらいな。

「東北地方へ光臨した巨大隕石」

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-8.html

先史時代
紀元前4000年頃・・三陸地方で巨大津波の跡
紀元前1500年頃・・三陸地方で巨大津波の跡
紀元前1000年頃・・三陸地方で巨大津波の跡
紀元前800年頃(BP2860 - 2620)、仙台付近で巨大津波の被害(紀元前1000年頃と同一の可能性)
紀元前100年頃(BP2030 - 2190)、仙台付近で巨大津波の被害。
高知県土佐市蟹ヶ池では、2011年時点の約2000年前の地層から津波による厚さ50cmの堆積物が見つかっており、これは宝永地震(1707年、M8.4 - 8.7、M9説もあり)の津波堆積物の厚さを上回る。

http://ja.wikipedia.org/wiki/歴史的な津波の一覧


> 別件でBC2001年の三陸超々巨大津波を提唱しています。貴研究会では何を根拠にされたのですか?ビックリです。

1691秦野北斗:2013/09/14(土) 09:43:33
Re: BC2001年東北大津波
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001742M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001742_2M.jpg

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun10-kyutosho.htm



1692管理人:2013/09/14(土) 23:06:03
Re: BC2001年東北大津波
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 岩淵國人さん三陸地方津波の痕跡を追い。三陸地方に2000年前の津波は・・。
> 三陸地震は37〜78年周期で発生している模様。1000年にMw9.0は2〜3回
> とすると2000年前の痕跡は目立っただけで騒ぐ代物でないな。今回は隕石落下は
> 考慮していない。ニビルが紀元前3世紀頃と1世紀頃に接近通過しているな。
>
> 『旧唐書』倭国・日本国伝に三陸地方は日本と言われ小国ですな。津波被害で小国
> 荒地だったのでしょうな。
>
> 『旧唐書』倭国・日本国伝
>
> 日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。
>
>  日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun10-kyutosho.htm
>
>


惑星Xの件がありましたね。

津波や地震の影響は、古墳などにもみられます。

東北のはどうかな?

1693秦野北斗:2013/09/14(土) 23:52:03
Re: BC2001年東北大津波
管理人さんへのお返事です。

日本は日本で扶桑でないな。扶桑は常陸ですな。日本は東北で瑞穂の政権の及ばない所。
670年に統合されるまで手付かずですな。津波による堆積物だけで文章はないな。

魏志倭人伝のその他の国

女王国より北方にある、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国の他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、女王国はこれら二十数箇国を支配[要出典]していた。日本列島の全てを支配した訳ではなく連合領域外の国々もあり、特に南の狗奴国の男王卑弥弓呼と不和で戦争状態にあった。狗奴国以外に日本ですな。注)新潟、青森は連合領域にあった模様

http://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝

日本

扶桑は日本の異名の一つとされる。1094年の史書『扶桑略記』のタイトルに初期の用例が見られる。
一方、1712年の類書『和漢三才図会』は「扶桑」の項で、『三才図会』からの引用(『梁書』の要約)の後、注釈で
疑ハクハ是當ルカ二北東ニ一乎誤チ以爲二日本ト一而扶桑ノ爲ル二日本ノ別號一者不レ當タラ
(疑はくはこれ北東に當たるかや、誤ちもつて日本とす。而して、扶桑の日本の別號なるは當たらず)
? 『和漢三才図会』巻之十四 外夷人物「扶桑」
と、日本説を否定している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/扶桑

>
>
> 惑星Xの件がありましたね。
>
> 津波や地震の影響は、古墳などにもみられます。
>
> 東北のはどうかな?

1694管理人:2013/09/16(月) 23:00:49
Re: BC2001年東北大津波
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 日本は日本で扶桑でないな。扶桑は常陸ですな。日本は東北で瑞穂の政権の及ばない所。
> 670年に統合されるまで手付かずですな。津波による堆積物だけで文章はないな。
>
> 魏志倭人伝のその他の国
>
> 女王国より北方にある、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国の他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、女王国はこれら二十数箇国を支配[要出典]していた。日本列島の全てを支配した訳ではなく連合領域外の国々もあり、特に南の狗奴国の男王卑弥弓呼と不和で戦争状態にあった。


東北の歴史を文献から探る件は課題ですね。

特に倭名抄が重要です。

東山道陸奥磐井いはゐいはゐ

http://homepage1.nifty.com/k-kitagawa/data/gunmei3.html


磐井という、磐城と異なる、蝦夷方面の地名が気になりますね。


磐井というと九州の日高見国に関わる新漢人の長で、追放後、関東・東北へと多氏と関係して横穴墓を造営していくナガレでしょう。近江毛野臣も元は同族。

会津の近くに

東山道陸奥耶麻(山)やま


がありますね。

普通「東山道上野山田やまたやまた」

みたいに「山」の字を当てるはずなのですが。
あえて「耶麻」を使っている。


「安蘇」郡というのも興味深いですね。九州の阿蘇と関係するのか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/


先の邪馬台国関連地名ででてくる「蘇」の字が、阿蘇周辺地名だと考えていることは以前お話したとおりです。
「對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国」



1695秦野北斗:2013/09/16(月) 23:41:07
Re: BC2001年東北大津波
管理人さんへのお返事です。

倭名抄は670年以降だな。常陸の奥が陸奥とするならば陸奥は日本になるな。

日本は日本で扶桑でないな。扶桑は常陸ですな。日本は東北で瑞穂の政権の及ばない所。
670年に統合されるまで手付かずですな。

> 東北の歴史を文献から探る件は課題ですね。
>
> 特に倭名抄が重要です。
>
> 東山道陸奥磐井いはゐいはゐ
>
> http://homepage1.nifty.com/k-kitagawa/data/gunmei3.html
>

「對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国」の蘇ですが、扶桑の桑だな。
面白い話しですが、麻生太郎、政治家ですが選挙地盤が福岡で代々の名家ですな。
麻生の元は阿蘇ですな。中国史籍『隋書』倭国伝

死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外、庶人卜日而瘞。及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿。有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。

 死者は棺槨に納める、親しい来客は屍の側で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を作る。貴人の場合、三年間は外で殯(かりもがり=埋葬前に棺桶に安置する)し、庶人は日を占って埋葬する。葬儀に及ぶと、屍を船上に置き、陸地にこれを牽引する、あるいは小さな御輿を以て行なう。阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。如意宝珠があり、その色は青く、雞卵のような大きさで、夜には光り、魚の眼の精霊だという。新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm


> 先の邪馬台国関連地名ででてくる「蘇」の字が、阿蘇周辺地名だと考えていることは以前お話したとおりです。
> 「對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国」
>
>


1696管理人:2013/09/17(火) 23:12:29
Re: BC2001年東北大津波
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 倭名抄は670年以降だな。常陸の奥が陸奥とするならば陸奥は日本になるな。
>
> 日本は日本で扶桑でないな。扶桑は常陸ですな。日本は東北で瑞穂の政権の及ばない所。
>??670年に統合されるまで手付かずですな。
>

> 死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外、庶人卜日而瘞。及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿。有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。
>
>  死者は棺槨に納める、親しい来客は屍の側で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を作る。貴人の場合、三年間は外で殯(かりもがり=埋葬前に棺桶に安置する)し、庶人は日を占って埋葬する。葬儀に及ぶと、屍を船上に置き、陸地にこれを牽引する、あるいは小さな御輿を以て行なう。阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。如意宝珠があり、その色は青く、雞卵のような大きさで、夜には光り、魚の眼の精霊だという。新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm
>
>


この隋書の記載は、古墳の溝で掘り出される舟とか、その埋葬された木棺や石棺など話でしょうね。

刳抜式の石棺の一種であり、身と蓋を合わせた断面は扁円形をしており、同様の方法で作られた割竹形石棺より安定性があり、両端が斜めに切られている形状が船に似ていることからこの名称が付いている。
割竹形石棺の変容形と目されており[1]、縄架け突起が付けられていたり、石枕が作り出されていたりする。
主に4世紀中葉〜6世紀前葉に熊本・佐賀・宮崎・香川・島根・福井・群馬・茨城などの各地で在地の石材を用いて首長の棺として造られ、各地に普及した。[2]
http://ja.wikipedia.org/wiki/

この「縄架け突起」に縄をかけて、ひっぱったり、おろしたりしたんでしょう。

阿蘇山の話がでているので、やはり九州の上記の地域の墓制を垣間みたか聞いた可能性を感じますね。


それで、「小さな御輿」ですね。

屍は、舟に乗せられて引っ張られるか、御輿の乗せられて、墓の前で3年モガリにあって、その後、舟形か組み合わせ式の木棺か石棺に埋葬されたのでしょう。

木棺か石棺かで時代が4世紀半ば以前かそれ以降かで異なるし、その木棺・石棺ごと引きずったとするとどうなるか?


木棺か石棺に引きずった跡が残るでしょう。割れるかもしれない。

長持型石棺の重さが6・8トンだそうですから、これを隋書の「小さな御輿」みなして担ぐとなると、100人前後で1人あたり68キロかつがないといけない計算で無理ですね。

そうすると、屍をのせる木製の御輿がまず先にあって、その後もガリをして、石製の御輿を模した石棺に埋葬するわけです。

木棺のケースも同様で、まず屍を乗せた舟があって、それを古墳の周囲の水溝に捨てる、そして古墳側面のモガリ場で屍を3年放置して、その後、石でできた舟形石棺に埋葬する、そんな感じでしょうか。


たまに古墳の溝から舟が出てくるのもそのせいでしょうか。そうすると、引きずった跡がその木製品にあるかどうかを確認すると面白いかもしれません。

御輿の習俗は華南の石蔡山遺跡の銅鼓の紋様に見えるのですが、中国経由で半島、日本へと向かい、宇佐から御輿が畿内に向かう話が奈良時代にあります。

これらは結局、隋書記載の白服とか禊習俗とかかわって、穢・扶余経由で入った中東遊牧民のそれでしょう。一部は華南にながれる。その辺は会報に記したとおりですね。

あと、阿蘇のピンク石の石棺ですね。これを少し掘り下げる必要があります。


大型の石棺には、石材を刳り抜いたものと組み合わせたものがある。刳抜式の割竹形石棺・舟形形石棺、組合式の箱形石棺が4世紀後半に現れた。
5世紀には組合式の長持形石棺が近畿中央部を中心に広がり、中部九州や山陰・北陸・関東などでは舟形石棺が発達した。
6世紀には、近畿・九州・山陽・山陰・東海・関東の一部に、地方の特色を備えた独自の刳抜式や組合式の家形石棺が盛んに用いられ、7世紀に入っても一部で継続して使用された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

石棺
http://www2.tok2.com/home/sekisitu/sekkan.htm
http://www2.tok2.com/home/sekisitu/iegata.htm



それで先の東北の「安蘇」の地名ですね。そのあたりから、阿蘇ピンク石石棺がでてくると面白い。

先日論議した東北岩手久慈方面のメノウの記載ですね。隋書だったかな?

石にその撰者はやたら拘ってます。

阿蘇山と宝石の話が連続している背景、そこに古墳石棺の話が関わって行くのですが、そこで九州北部と東北方面の日高見国、新漢人や吉士の世界がかかわってきて、特に「安曇」族が彼らを全国に運んで行きます。

ただ倭名抄では、安曇を「あずみ」と読まずに「あつし」と読ますのがきになります。

東山道信濃安曇あつしあつし

阿倍の阿をつかわずに「安」をあてるのが特徴。

「つし」とは?

「吉士」「きし」とか・・・??類似した事例はあります。「津」「士」か?




1697管理人:2013/09/19(木) 02:21:49
Re: 天皇一族はユダヤ人に間違いない
ねこさんへのお返事です。

> 天皇一族はユダヤ人に間違いない
>
> http://book.geocities.jp/japan_conspiracy/0202/p004.html#page131
>

ねこさん、お知らせありがとうございます。
日本人のユダヤ人の受け止め方に関する濃い内容で勉強になりました。




1698管理人:2013/09/19(木) 02:48:08
家形石棺
先日の続きで、隋書の遺体を乗せた舟と御輿の記載について考えてます。

家形石棺というのは、思うに5世紀末〜6世紀半ばあたりから入ってくる新漢人系のそれではないでしょうか。
岩戸山古墳などに典型的に見えるもので、元はローマ・ユダヤ系の墳墓に見える家形石棺を想起させます。

この当時新羅にローマ系遺物が入ってくる過程で、一部が九州北部、先の筑紫君磐井の世界へと受け継がれ、さらに近江毛野君等の近江方面へと流れて行く石人・石馬といったゾグド文化の流れと関係してきます。

それで、隋書の記載は、元々あった南方海人系の葬送儀礼、山幸神話に見えるような舟に関する葬送儀礼と関係する古墳と舟のセットとは別にあった、組み合わせ式の木棺・石棺の世界があって、その技術をそのまま受け継ぐ形で、5末〜6世紀前半あたりに突然家形のそれが導入されたのではないかと感じます。


家形石棺と葬送儀礼の関係は、おそらくはアマテラス・スサノオ神話とか中臣の天児屋根にみえるような、「家」「神殿」に関するものに、残存が見いだせるのかもしれません。

舟系の葬送儀礼は、安曇族とか在来系集団のそれに関係し、家や御輿に関するものは、後者の中臣系祭祀に関係するかもしれません。

彼らの観念では、家=教会・神殿なわけです。

特に刳抜(くりぬ)き式家形石棺を埋納した6世紀代の鴨稲荷山古墳、これが新羅王墓の装飾品と類似していて、ダイレクトに継体と関係していきます。これは私も見たことがあるのですが、後の藤の木古墳のそれとかとも同類です。
http://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/kamo inariyama.htm

だから、家形石棺というのは、やはり東欧系の流れを汲んだ北燕遺民の影響でできた新羅、北九州・近江・常陸へと流れた、そのケルト系のキリスト教系信仰の流れで出来てきたもので、元はl古代ローマ時代のユダヤ墳墓の形態に起源があると考えるべきでしょう。

それで、問題は隋使が見たものというのは、阿蘇山とか、八女のそれらの石棺を埋葬した大型墳墓の儀礼だった可能性があるということです。6世紀中葉から後半にかけてのその地域の風習、それを見ている可能性があります。

白服の僧葬儀礼とか、宇佐八幡に関して出てくるような御輿の習俗、そういうものですね。阿蘇山が火柱をあげて噴火していた時代をもっと限定できれば、この習俗記載の正確な年代が割り出せるかもしれません。


1699秦野北斗:2013/09/19(木) 19:37:54
Re: 家形石棺
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001763M.jpg

http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/753



1700管理人:2013/09/20(金) 23:10:21
Re: 家形石棺
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001764M.jpg

http://2nd.geocities.jp/txinui/kitatouhoku-iseki11b.htm



1701秦野北斗:2013/09/20(金) 23:36:38
Re: 家形石棺
管理人さんへのお返事です。

帯方郡(たいほうぐん)、楽浪郡(らくろうぐん)がありますな。
郡と略記することで会稽郡にはならないな。

http://ja.wikipedia.org/wiki/帯方郡
http://ja.wikipedia.org/wiki/楽浪郡

http://ja.wikipedia.org/wiki/会稽郡

魏志倭人伝に「女王国の北方の諸国には「一大率(或るいは一支率)」という
官が置かれて国々を監視している。」郡の構成に一大率が在るな。

読みが浅いですな。また、年代があわないな。

> ちょっと、会稽郡を、博多に持ってくるのはきつい感じがしますね。

北部に「角塚古墳」は弓月氏の平氏系だな。分かり易く、菊池ですな。
これで、九州と東北が繋がりますな。また、扶桑木からから関東常陸ですな。


> 「郡」というと、思い出すのが先日の阿蘇と石棺の件で論じた「倭名抄」の「磐井郡」の件です。
>
> 一関から気仙沼方面のようですが、北部に「角塚古墳」があります。
>
> これが、5末〜6初の磐井の岩戸山古墳の時代にやや近いんですね。
> 胆沢城と関係するとなると、後代の坂上田村麻呂、つまり東漢氏系の支配地と関係するかもしれません。
> 磐井等の新漢氏は初期は漢氏の配下に入ったものも多かったでしょう。
>
>      角塚古墳 (つのづかこふん) 胆沢郡胆沢町南都田
> 墳丘長46m(総長49m以上)、後円部径30.4m・高4.9m、前方部幅20.4m、くびれ部幅13.6m、後円部三段、前方部二段(?)の前方後円墳。主軸は南北を指す。主体部は未発掘。葺石があり、載頭卵円形の周濠がある。円筒・朝顔形、蓋、動物、人物、家などの埴輪を出土。現時点では、5世紀〜6世紀初めの築造で、最北の前方後円墳である。出土品の埴輪は胆沢町文化創造センター内の郷土資料館で見ることができる。
> http://2nd.geocities.jp/txinui/kitatouhoku-iseki11b.htm


1702管理人:2013/09/23(月) 04:11:39
Re: 家形石棺
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 帯方郡(たいほうぐん)、楽浪郡(らくろうぐん)がありますな。
> 郡と略記することで会稽郡にはならないな。
>


やはり、「率」とう官はあきらかに中国系なんですよね。
「魏率」とか、後代の中国に影響されていた百済の「奈率」とか、その関連です。

ということは、邪馬台国自体も、それらの官を設置した集団に支配されていたので、その北方官職が、中国系の官によって統治されていたということになるでしょうか。

この辺はすでに会報第4号で論じたとおりですが、後漢時代の高級官僚が半島経由で、弥生末期から古墳初期の倭に流れ込んでいるんですね。

その影響で「率」が支配しているわけです。南のほうの「狗奴国」方面は、別系統の呉に支援された南方系集団に影響されていたことでしょう。

「率」というのは漢字表記のままの呼称なので、「一大」も何らかの意味を持つ漢字表記だった可能性を感じます。

「魏率善羌邑長」の印があります。西域から一部は北京北方方面まで伸びていた「羌」集団に与えられた印ですね。
http://museum.city.fukuoka.jp/jg/html/backnumber/shozohin/41.htm

この「羌」の一部は、扶余・高句麗方面へと流れて、日本へ向かってます。


それで「率」の語源を考えると、元々は「一大率〜民族の王」とかいう印やそういう役職に由来していて、それが後に簡略化して、「一大率」になったのではないでしょうか。

ただ、「魏」+「率」の順番なら、「支配国」+「率」+「被支配国」となるかもしれません。


そうすると「一大」が「支配国」になるわけですよね。「一支国」「伊都国」

百済官職に、その名残が見えます。

達率(たつそつ) - 二品官
恩率(おんそつ) - 三品官
徳率(とくそつ) - 四品官
扞率(かんそつ) - 五品官
奈率(なそつ) - 六品官


ただ、この場合、「装飾語」+「率」で、実質的には385年代も東晋などの南朝の影響を受けて成立したものでしょう。


扶余伝に近いものがあります、「大」のつく官職名、扶余・高句麗系の特徴です。


 国には君王がいる。いずれも六畜(ろくちく)の名を官名にしており、馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者などがいる

魏略には、そこの風俗は、服喪の停止は五カ月とし、その期間が永いほど栄誉とする。そこの葬祭は老若を問わない。喪主は速い葬儀を望まず、他人にこれを強い、常に諌められて終えることを節度とする。その喪に居合わせる男女は皆、純白、婦人は顔を覆う布のベールを着て、ベルト状の宝石飾りを外す。大体中国に相通じるものがある


白服で喪を行うのは、先の隋書の倭人の古墳と関係するであろう喪のあり方と同じですね。喪の期間も長いほうが栄誉なのも同じ。元は中国・遊牧民系の習俗でしょう。


公孫淵が誅伐されたとき、玄菟郡治の庫には、なお玉匣一具が保管されていた。今の扶余の庫には玉璧・珪・瓚など先祖伝来の遺物があり、伝家の家宝である。古老は、先祖が下賜された印璽には「濊王之印」と彫られているという。国内に故城あり、名を濊城という。濊貊の故地で、扶余王は濊城にいると、まるで亡命者のようだと言った。そもそも有りえる話である
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-fuyo-.htm


この「濊王之印」と同類の印を、「率」の役職とともに、「一大国」はすでに漢時代、あるいはそれ以前に与えられていた可能性がありますね。


245年に「不耐侯」が出てくるのですが、降伏後の247年の記載では「不耐濊王」になっているですよね。
おそらくこの間に、王印が授けられたか。


 建武六年(紀元前30年)、都尉の官を省き、遂に領東の地を放棄し、ことごとくそこの渠帥(きょすい=部族長)を県侯となし

『通典』辺防(東夷上の一節)
 濊亦朝鮮之地、南與辰韓、北與高句麗、沃沮接、東窮大海、西至樂浪、後漢光武建武六年、悉封其渠帥爲縣侯。皆歳時朝賀。無大君長。自漢以來、其官有侯、邑君、三老、統主下戸。其耆舊自謂與高麗同種、

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-wai-.htm


郡とか都尉を置くのは、前漢ですね。それで、また後漢になって「県侯」とするわけです。

その「県」が、倭で最も古い部類の呼称「県・主」に通じていくわけですが、こう考えて行くと、やはり後漢末期の中国系集団の影響で、「県・主・率」といった中国系の官職が、邪馬台国北方地域へと浸透していった可能性があるでしょう。

「大国主」の中東系月氏を配下にいれた中国系官僚集団の世界で、ニギハヤヒ・ニニギの東遷、その後の孝霊朝、黒田庵戸宮の時代です。その後マキムクの時代となります。




1703茨の紀氏:2013/09/23(月) 10:28:36
Re: 家形石棺
管理人さんへのお返事です。

> やはり、「率」とう官はあきらかに中国系なんですよね。
> 「魏率」とか、後代の中国に影響されていた百済の「奈率」とか、その関連です。
>
> ということは、邪馬台国自体も、それらの官を設置した集団に支配されていたので、その北方官職が、中国系の官によって統治されていたということになるでしょうか。
>
> この辺はすでに会報第4号で論じたとおりですが、後漢時代の高級官僚が半島経由で、弥生末期から古墳初期の倭に流れ込んでいるんですね。
>
> その影響で「率」が支配しているわけです。南のほうの「狗奴国」方面は、別系統の呉に支援された南方系集団に影響されていたことでしょう。
>
> 「率」というのは漢字表記のままの呼称なので、「一大」も何らかの意味を持つ漢字表記だった可能性を感じます。
>
> 「魏率善羌邑長」の印があります。西域から一部は北京北方方面まで伸びていた「羌」集団に与えられた印ですね。
> http://museum.city.fukuoka.jp/jg/html/backnumber/shozohin/41.htm
>
> この「羌」の一部は、扶余・高句麗方面へと流れて、日本へ向かってます。
>
>
> それで「率」の語源を考えると、元々は「一大率〜民族の王」とかいう印やそういう役職に由来していて、それが後に簡略化して、「一大率」になったのではないでしょうか。
>
> ただ、「魏」+「率」の順番なら、「支配国」+「率」+「被支配国」となるかもしれません。
>
>
> そうすると「一大」が「支配国」になるわけですよね。「一支国」「伊都国」
>
> 百済官職に、その名残が見えます。
>
> 達率(たつそつ) - 二品官
> 恩率(おんそつ) - 三品官
> 徳率(とくそつ) - 四品官
> 扞率(かんそつ) - 五品官
> 奈率(なそつ) - 六品官
>
>
> ただ、この場合、「装飾語」+「率」で、実質的には385年代も東晋などの南朝の影響を受けて成立したものでしょう。
>
>
> 扶余伝に近いものがあります、「大」のつく官職名、扶余・高句麗系の特徴です。
>
>
>  国には君王がいる。いずれも六畜(ろくちく)の名を官名にしており、馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者などがいる
>
> 魏略には、そこの風俗は、服喪の停止は五カ月とし、その期間が永いほど栄誉とする。そこの葬祭は老若を問わない。喪主は速い葬儀を望まず、他人にこれを強い、常に諌められて終えることを節度とする。その喪に居合わせる男女は皆、純白、婦人は顔を覆う布のベールを着て、ベルト状の宝石飾りを外す。大体中国に相通じるものがある
>
>
> 白服で喪を行うのは、先の隋書の倭人の古墳と関係するであろう喪のあり方と同じですね。喪の期間も長いほうが栄誉なのも同じ。元は中国・遊牧民系の習俗でしょう。
>
>
> 公孫淵が誅伐されたとき、玄菟郡治の庫には、なお玉匣一具が保管されていた。今の扶余の庫には玉璧・珪・瓚など先祖伝来の遺物があり、伝家の家宝である。古老は、先祖が下賜された印璽には「濊王之印」と彫られているという。国内に故城あり、名を濊城という。濊貊の故地で、扶余王は濊城にいると、まるで亡命者のようだと言った。そもそも有りえる話である
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-fuyo-.htm
>
>
> この「濊王之印」と同類の印を、「率」の役職とともに、「一大国」はすでに漢時代、あるいはそれ以前に与えられていた可能性がありますね。
>
>
> 245年に「不耐侯」が出てくるのですが、降伏後の247年の記載では「不耐濊王」になっているですよね。
> おそらくこの間に、王印が授けられたか。
>
>
>  建武六年(紀元前30年)、都尉の官を省き、遂に領東の地を放棄し、ことごとくそこの渠帥(きょすい=部族長)を県侯となし
>
> 『通典』辺防(東夷上の一節)
>  濊亦朝鮮之地、南與辰韓、北與高句麗、沃沮接、東窮大海、西至樂浪、後漢光武建武六年、悉封其渠帥爲縣侯。皆歳時朝賀。無大君長。自漢以來、其官有侯、邑君、三老、統主下戸。其耆舊自謂與高麗同種、
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-wai-.htm
>
>
> 郡とか都尉を置くのは、前漢ですね。それで、また後漢になって「県侯」とするわけです。
>
> その「県」が、倭で最も古い部類の呼称「県・主」に通じていくわけですが、こう考えて行くと、やはり後漢末期の中国系集団の影響で、「県・主・率」といった中国系の官職が、邪馬台国北方地域へと浸透していった可能性があるでしょう。
>
> 「大国主」の中東系月氏を配下にいれた中国系官僚集団の世界で、ニギハヤヒ・ニニギの東遷、その後の孝霊朝、黒田庵戸宮の時代です。その後マキムクの時代となります。
>
>


壱(位置)台(指南魚)率(民?を率いる)
吉キツは、結と同系
壱何壮也=壱ニナンゾ壮ナルヤ」〔漢書〕 イツニ{副}ひたすら。「子卿壱聴陵言=子卿、 壱ニ陵ノ言ヲ聴ケ」〔漢書〕 《解字》 会意兼形声。吉キツは、結と同系で、口をかたく締め た意を含む。壹はもと「壺(つぼ)+音符吉」で、口を結んで締め、中にいっぱいにつめた??...

結は「糸+(音符)吉」で、糸やひもで入り口をしっかりとくびること。中身が出ないように しめくくる意を含む。 http://homepage3.nifty.com/giboshi/kaijitbl040.htm
紀は「糸+(音符)己」で、糸のはじめを求め、目じるしをつけ、そこから巻く、織るなどの動作をおこすこと。
合(欠けめをふさぐ)」で、織り糸の欠けた所をすぐつぐあわすことを示す。欠けめや、すきを入れずに、くっつくの意を含む。
くっつくの意・・・ライン?

壺嚢 鳥、魚は飛ぶ方向や泳ぐ方向を判断する という ... http://homepage1.nifty.com/PUREPRIZE/seitai-mgt.htm

紿・・・台(たい、人出を加える、使いすぎる)。・・・民を使いすぎる・・・一大

いちだいじ【一大事】とは。意味や解説。1 放置できない重大な出来事。容易でない事態 。「お家の―」2 仏語。仏が衆生救済のためこの世に出現するという重大事。いちだいじ いんねん【一大事因縁】1 仏語。仏がこの世に現れた最も大切な目的。 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/12579/m0u/
最も大切な目的。あらゆる人々を導き、生あるものすべてを救うという目的。
目的
目的を達成するために長い間耐えることという意味の四字熟語またはことわざ臥薪嘗胆 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12108562592

「下を向いている人」皿をのぞき込んでいる様子
臥 - Facebook
西暦100年ごろの後漢の許愼による漢字辞典「説文解字」には、. ・人臣に從ふは、其の 伏するを取るなり. とあり、やはり伏せるという意味と説明されている。頭を下げて従う という感じだ。 「監」という字の上部は「臥」と同じだが、これは皿をのぞき込んでいる様子??... http://www.facebook.com/note.php?note_id=3175166951399
昔中国では、目を潰して神に仕えるということがあったらしく、そこから「仕える人」、「神の奴隷」という意味になったらしい。つまり、「総理大臣」といえども、国家元首たる天皇陛下の前では謙るべき存在ということだ。
ただし、単純に目が下を向いている形とみて「下を向いている人」という説もある。
「臥轍」は車の前に伏して進行を遮ること。

磁石と化すようです。 ちょうど ... 三角縁神獣鏡を、再度よく見直していくと、鏡というよりは、(指南魚を 浮かべるための)水を入れるための深皿、御碗にちかいことがわかります。 http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/248
鏡・・・皿・・・台?
「「皿(台のついた容器)+不(まるくふくらむ)」 の会意形声。まるくふくらんだ皿。 さかずき。 意味 さかずき(盃)。杯の俗字。 坏 ハイ・つき 土部 解字 「土+不(まるく ふくらむ)」 の会意形声。まるくふくらんだ丘や、積み上げた土のやま。(台のついた容器)+不(まるくふくらむ)」 の会意形声。まるくふくらんだ皿。 さかずき。 意味 さかずき(盃)。杯の俗字。 坏 ハイ・つき 土部 解字 「土+不(まるく ふくらむ)」 の会意形声。まるくふくらんだ丘や、積み上げた土のやま。 http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/773980d20e5a6ff7526cdd585672b51d
日本では「杯」に対し土製の器(つき)の意で使われる。
「高坏たかつき」(食物を盛る脚付きの台)

磁器という漢字には磁力の磁が含まれていますが、 実際に磁石にひきつけられるの ですか? http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3713494.html

「慈石召鉄」の記述がある, 中国の本「呂氏春秋」に、「慈石召鉄」と書かれ ている 中国の河北省南端近くに磁県(ツーシエン)ここは昔良質の慈石を産出したことから 慈州と呼ばれていた. http://www.geocities.jp/hiroyuki0620785/timeline.htm
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1143
、「慈石召鉄」の記述がある, 中国の本「 呂氏春秋」に、「慈石召鉄」と書かれ ている 中国の河北省南端近くに ...
魚の耳石
耳石器官は「通嚢」、「小嚢」、「壺嚢」 という袋からできています。 通嚢には耳石のうちの 「礫石」というものが入っており、壺嚢には「星状石」 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1143

櫃(ひつ)の中 (掟コンパス 聖見通す 約指南魚?) http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1844

し‐なん【 指南】: [名](スル)《指南車が常に一定の方位を指示したところから》武術・芸能などを 教え示すこと。指導すること。 ... 指南 zhǐnán: [名] 指針,手引き 行?指南 行動指針. http://dictionary.goo.ne.jp/srch/all/指南/m0u/

ヘブライ語で神を示すエロアーハー (Eloah, ?????) も同 語源と考えられる。エロヒム(?????)はアラハヤム(アラー)とも読める。また、ヘブライ語 ではエジプトの太陽神のことをアラー(??)と表記する。 http://www.islamreligion.com/jp/articles/195/
指針,手引き

人生の指針、道を照らす灯り ...しかしながら、アッラーのしもべはこれらの責任や崇拝行為を異なった方法で理解してい ます。 http://fgulen.com/jp/his-works-jp/know-the-mind/28306-イバーダ、ウブディヤ、ウブダ(崇拝、しもべであること、深い信仰).html
イバーダ(崇拝)は日常の生活の中でアッラーの命令に従い、アッラーのしもべであるための義務を果たすことを意味
指針
アラー鉄?
磁鉱鉄 in English - Japanese-English Dictionary - Glosbe
また 近江 は 、 「 アラ 」 は 鉄 の 古語 で あ る と い う こと と 、 山砂鉄 に よ る 製鉄 や 、 その 他 の 鉱物 採取 を 実態 と し て い た 修験 道 は アラ ハバ キ 信仰 を 取り入れ 、 「 ハバキ 」 は 山伏 が 神聖 視 する 「 脛巾 」 に 通 じ 、 アラ ハバ キ は やがて 「 お ... http://glosbe.com/ja/en/磁鉱鉄


ひきいる【率いる】とは。意味や解説。[動ア上一][文][ワ上一]1 従えて行く。ひきつれ て行く。「学生を―・いて研究旅行に行く」2 多くの人々を指揮する。長として指図する。 統率する。「 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/183641/m0u/

臥 -民?を率いる

支 配・・・長さを記す民?を率いる?
支 シ・ささえる 支部 解字 篆文第1字は、手に竹を支え持つ形で、竹の枝が上と下に 描かれている。第2字は手に一本の竹の枝を持つさま。枝をささえる意と、持っている枝 が、枝分かれしている意を表す。 意味 (1)ささえる(支える)。 http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/62fd0790be2004dbbfe026472562abef
分かれる
枝 シ・えだ  木部
解字 「木+支(わかれる)」 の会意形声。分かれた木、つまり木の枝の意。
意味 えだ(枝)。「枝葉末節シヨウマッセツ」「枝道えだみち」

(1)えだみち。「岐路キロ」 (2)わかれる。枝状にわかれる。「分岐点ブンキテン」「多岐タキ」 (3)地名。「岐阜ギフ」(岐阜県南部、長良川に臨む商業・交通の要地)

>正 ( せい )  政まつりごと。祭り事。祭祀

止 <あし>とめる? 武 戈<ほこ>+止=前進
 意味;足に関連。
 《解字》象形。足の形を描いたもので、足がじっとひと所にとまることを示す。
  趾(シ) (あし)の原字。
 例;正(一+止<あし>=足が目標の線めがけてまっすぐに進むさま)、武(戈<ほこ>+止<あし>=戈をもって足で堂々と前進するさま)

又(手)

氏 うじ支配下におかれる人々、の意
 意味;偏の意としては『民』(支配される人々)を表す。
 《解字》象形。氏はもと、先の鋭いさじを描いたもので、匙(シ) (さじ)と同系。
  ただし古くより伝逓の逓(テイ) (つぎつぎと伝わる)に当て、代々と伝わっていく血統を表す。
 例;民 = ひとみのない目を針で刺すさまを描いたもので、目を針で突いて目を見えなくした奴隷を表す。のち、目の見えない人のように物のわからない多くの人々、支配下におかれる人々、の意となる。
  氓(ボウ) (太古は、目をつぶされた奴隷のこと。のち、無知な人々のこと)

己(糸巻き)」  記 キ・しるす・・・長さを記す民?

?人がひざまずく (配・妃) 音の変化 キ:己・紀・記・杞・起・忌 カイ:改 ハイ:配 ヒ:妃 糸巻き 紀 キ・のり 糸部 解字 「糸+己(糸巻き)」 の会意形声。糸巻きに糸を巻きつけ、 それをたくさん揃えて機織りのたて糸の準備をすること。 http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/074f85880b4746b720cbdd1c0be2eaf0
紀 キ・のり  糸部
解字 「糸+己(糸巻き)」 の会意形声。糸巻きに糸を巻きつけ、それをたくさん揃えて機織りのたて糸の準備をすること。順序よくそろえてまとめる意を表わす。
意味 (1)のり(紀)。きまり。すじみち。「紀綱キコウ」(国を治める制度)「風紀フウキ」「紀律キリツ」「軍紀グンキ」 (2)とし。年代。「紀元前キゲンゼン」「世紀セイキ」 (3)しるす。記録する「紀行文キコウブン」「紀要キヨウ」(研究論文を収載した定期刊行物)
記 キ・しるす 言部

>

1704秦野北斗:2013/09/23(月) 14:17:06
Re: 家形石棺
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001768M.jpg

http://kotobank.jp/word/一大率



1705茨の紀氏:2013/09/23(月) 15:25:46
魏志倭人伝 郭璞
>カクハク
>郭璞(276〜324)
> 『山海経十八巻』という注釈書を残した。山海経の注釈書としては最も古く権威のあるものとされている。 http://www.chinjuh.mydns.jp/sengai/libro/jinmei.htm#01

魏志倭人伝 に倭国のはるか東方にあるとされることから実在の国とする研究者も多い。韓国では黒 歯常之が関係するとの説がある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/黒歯国
黒歯の国がある。俊帝の子孫である。姜姓である。黍を食べ四鳥を使う。

郭璞(かくはく)は『山海経』の「黒齒國在其北爲人黒」の「黒齒國」を注する為に 「東夷伝曰、 倭國東四十餘里有裸國、裸國東南有黒齒國、 船行一年可至也」と記して いる。これは倭人伝の「黒歯国」が『山海経』のそれと同一である見解 ... http://wakokujyoou.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-433a.html
山海経』は言うまでもなく倭人伝より以前に存在した古代中国の神話と地理の書である。元来、禹の治水事業を助けた伯益の著とされてきたが、禹は夏朝の始祖であるから伯益の著であれば、約四千年の昔から存在したことになる。ただ実際は戦国時代から秦漢時代の作と言う。それでも約二千二百年の昔から存在したことになる。
??このことから倭人伝に「裸国」、「黒歯国」の二国名を記入する原作者の作意は、對海國、一大國間の海峡を「瀚海」と呼称することによって倭人の生活領域が古代中国天文地理志上の「北海」の中に存在するという認識を持たせたかったのである。
??倭人伝は卑弥呼の祖を夏后少康のように述べるが、夏后少康の祖は『山海経』には、夏朝の創始者禹の後胤とされている。禹は鯀の子である。鯀は尭の臣顓頊(せんきょく)の子である。顓頊は黄帝の孫である。また『山海経』に「有儋耳國、任姓禺號子食北海之渚中有神、人面鳥身、珥兩青蛇、践兩赤蛇、名曰禺彊」と言う。つまり北海の支配者は禺彊であると言っている。禺彊も黄帝の孫である。儋耳は黄帝の後胤なのでありこのことは黄帝の後胤である夏后少康もまた儋耳であることになる。この中国古代伝説上の系譜を巡り、卑弥呼が夏后少康の胤であり儋耳の子孫であると倭人伝は説いている。
??当時の中国社会には、『山海経』の古代聖王の系譜に対する認識は恐らく常識であったろう。とすれば卑弥呼を夏后少康の後胤の如く記すだけで、卑弥呼が儋耳朱崖の後胤と目される。倭人伝は「所有無與儋耳朱崖同」の論拠を『山海経』等を使って、倭の卑弥呼は「儋耳朱崖」そのものと主張している。

帝俊の妻
羲和 【ぎか】 http://kotobank.jp/word/羲和
中国神話の女神。帝俊の妻で10個の太陽を産み,毎日産湯をつかわせているという。のち太陽の御者とされ,馬または竜の引く車に太陽を載せて天空をかけるとも。なお,《書経》では非神話化され,羲仲・羲叔・和仲・和叔の4人の総称で,天文をつかさどる官吏。

大月氏  羊氏  司馬師  貌族 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs


1706管理人:2013/09/24(火) 23:17:32
Re: 家形石棺
秦野北斗さんへのお返事です。


> 魏志倭人伝の陳寿は「九州の郡は博多で古名が末廬国(魏志倭人伝の地名)に郡が在る」
> 魏志倭人伝から読み取れるな。
>
> 一大の文章を訳す。
>
> 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
>
>  また、南に一海を渡ること千余里、名は瀚海(げんかい:いずはら)という、一大の国官また卑狗、副は卑奴母離に至る。四方は三百里(15.9km)、竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、また南北に物々交換に出かける。
>
> 尚、壱岐は一大(一支)が島の名になったようだな。伊岐島(古事記)、壹岐洲(日本書紀)に残る。
> 瀚海は呉音読み、ガンカイ。壱岐は玄界灘にあり、正式名はゲンカイだろう。
> 倭読みは厳原(いずはら)だろうな。



一大率、一大国の発音ですが、「一」は漢音で「イツ」、呉音で「イチ」です。

「大」は漢音で「タイ」、呉音で「ダイ」です。

魏の北方音で解釈するならば、「イツ・タイ・率」ですね。



「一」の文字をわざわざ借用している理由は、「伊都(イツ・イト)」の発音を、「一(イツ)」に充てたためかもしれません。

「タイ」音は、「台」の「タイ」音と同じですね。「大分」などの「タイ」地域です。「豊(トヨ)」とも呼ばれますが、もとは「タイヨ」ではないでしょうか。

邪馬台国は、邪馬国(八女)国と、その北東方の大分方面・「台」地域のあたりにあったので、邪馬台国だったのでしょう。それが後に東遷して領域を拡張していきます。

やはり伊都国周辺と邪馬台国北東の「台」地域に常駐して治めていたので、「伊都・台率」と呼ばれていたはずのものが、「一大率」と中国風に記される結果となったのでしょうか。

伊都国は、倭の面土(ベンド)の国王、帥升がいたところですね。弁韓+奴国地域の王でもあります。王というのは、昨日の穢侯→(印授与)→穢王の論理からいくと、中国から認められてはじめて「王」と呼ばれる可能性があります。それまでは「帥」の類いです。

あと厳原は、イツキシマの語と関係して、「イツキ」が元の名称でしょう。

「伊都」の分岐した支城、支族の住む地域か。

「一海」も同様に、一つの海を渡るの意味ではなく、「イツ」という地域の海のことかもしれませんが、なんとも証明しにくいですね。

「伊」のつく地名に関わる航海集団が弥生末の倭にいたことは、すでに会報で論じたとおりですが、具体的には「伊都」「伊和」「伊予」「伊勢」「伊豆」「伊邪」・・・といった具合で、地名の最初に「イ」音を入れるのが特徴です。


その「伊」集団の「都」だったので、「伊都」になって、そこに彼らの支配拠点があったのでしょう。平原墓の主ですね。割竹型木棺などの後の畿内に入って行く習俗を有しています。椎根津彦・ニニギ・ニギハヤヒで、物部系です。

石上神宮や石切神社、のように「石」「磐」も彼らの拠点の地名の特徴ですが、「イ」音です。




1707茨の紀氏:2013/09/25(水) 10:56:56
Re: 家形石棺
管理人さんへのお返事です。

>「伊」集団

伊 イ族は中国西部の古羌の子孫 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1713

大昔の石巻一帯には倭人同化が進む最中、姓名の最初にイがつく一族が勢力を誇った 時期がある。 イの漢字は「石」「伊」「井」など。 一般にイ族と言えば中国の少数民族の こと。 (漢民族 ? 倭人は他民族を蔑称で呼ぶのが倣い。 http://ameblo.jp/geneumi/entry-11466198061.html

日本の地名や人名にはなぜ「伊(イ)」が付いていることが多いのでしょうか ...
中国長江流域のイ族と関係があるのでしょうか? ... その内かたかなの「イ」は漢字「伊」 のにんべんから変化したものですひらがなよりもカタカナの方が先に成立しているので、 人名や地名の固有名詞としても成立する確立は高かったのではない ... http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1485955279

「百済人伊志麻呂、姪を福地造と賜ふ」と見ゆ。 川口に存す。伊、井は、飯、伊井、井伊とも称す。飯族は常陸国に多く渡来し、飯島、 飯田、飯塚、飯野、飯山等を名乗る。島、田、塚、山は、同じ意味で、国、村、集落の意味??... http://homepage1.nifty.com/joichi/1-2i.html

福地 造 ( みやつこ ) 百済族にして,天平寶字五年紀に「百済人伊志麻呂に姓福地造と 賜ふ」と見ゆ。 無 尸 ( かばね ) の福智氏 福地造の後なるべし。 山城の福地氏 山城國 住人福地信盛の後と云ふ。 桓武平氏 伊賀國発祥ならん。 http://www.geocities.jp/howard_fkc/fukuchi.html
福地造(みやつこ) 百済族にして,天平寶字五年紀に「百済人伊志麻呂に姓福地造と賜ふ」と見ゆ。
無尸(かばね)の福智氏 福地造の後なるべし。
山城の福地氏 山城國住人福地信盛の後と云ふ。
桓武平氏 伊賀國発祥ならん。柘植(つげ) 弥兵衛宗清の弟宗俊の後也と云ふ。
江戸系図には「柘植弥兵衛尉宗清の子を福地の祖」と載せたり。
勢州四家記に「伊賀の國の住人福地・信長公の幕下に参る」と。瀧川條参照。
和邇部(わにべ)姓 駿河國の豪族にして,駿河郡福知天神(富知神社)と縁故あるか。
浅間富士系図に「大宮司義孝−義勝(富士六郎)−義邦(福地十郎)−義古(福地三郎)」と見ゆ。
富士,不知,福士等皆同姓也,各條参照。
清和源氏武田氏族 甲斐國都留郡福地郷より起る。家紋丸に三條,霞菱。
寛政系譜に「福知市左衛門信定(百五十俵,教順)−助三郎信氏」等見ゆ。
信濃の福地氏 伊那郡福智郷より起る。承久記巻四に「信濃の國の住人福地の十郎俊政」見ゆ。
奥州の福地氏 葛西家臣にて,葛西記に福地下總守見ゆ。陸前國桃生郡福地邑より起りしか。
肥前の福地氏 肥陽軍記,天文三年に「龍造寺家臣福地氏」, 筑後軍記略に「天文廿年,肥前國士福地主計允等,龍造寺隆信に通ず」と。
雑載 その他,東作志に普請奉行福地彌右衛門を載せ,また伯太渡邊藩重臣に福知氏あり。
又京極殿給帳に「五十石,小人頭・福地兵助」を載せ,水戸藩志士福知政次郎廣延(砲術家)は 佐藤重遠の次男,福知家を嗣ぐ。その男勝右衛門道遠と共に難に死す。
又京都の書家に福智白瑛,その他,美濃,摂津,備前,武蔵等に在り。
又福地源一郎(櫻痴居士)は福知苟庵の末子,父はもと長府藩士,長崎に移りて 醫(くすし)となり, 福地嘉昌の嗣となりて,源一郎(八十吉)を生む。 幕臣となり,海外に遊び,明治に入りても功多く,又盛に文筆を振へり。

、「伊」「井」の項では《百済族にて、天平宝字五年三月に「百済人伊志麻呂、姪を 福地造と賜ふ」と見ゆ。川口に存す。伊、井は、飯、伊井、井伊とも称す。飯族は常陸国 に多く渡来し、飯島、飯田、飯塚、飯野、飯山等を名乗る。島、田、塚、山 ... http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/33222940.html
島、田、塚、山は、同じ意味で、国、村、集落の意味なり。》と書いています。

著者の茂木和平氏は、一部分だけ、Web上に公開していますので、ご覧になってみてください。
http://homepage1.nifty.com/joichi/

伊賀氏流飯野氏について読むと、伊賀氏は藤原秀郷の流れを汲むようです。飯野氏の居住地をざっと見ただけでも産鉄地が多いのは明らかです。

茂木氏のいうことが正しいとすると、飯野氏のイは、やはり忌部氏と同様に、鋳のことでしょうか。忌部氏の遠祖が高皇産霊神であることも、それを証明しているように思われます。

山田 案山子(かか氏)
山田の中の一本足のかかし 弓矢 でおどして力んで居れど 山では烏がかあかと笑う 耳が無いのか山田のかかし. http://ja.wikipedia.org/wiki/かかし_(童謡)

華夏族 - かか族?
また夏王朝(紀元前21世紀 - 紀元前16世紀)の創立者の大禹の末裔が「夏族」と称され ていたことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったと言われて いる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/華夏族
華夏文化あるいは華夏文明として近隣の東夷族や北狄族、西戎族、南蛮族に賞され、模倣され、ついに中国大陸の東西南北へと拡大していった。このように数千年間に渡るプロセスにより、華夏系は他の民族系を吸収したり影響したりしながら今日の漢民族を形成してきたのである[1]。




1708秦野北斗:2013/09/25(水) 23:28:39
Re: 家形石棺
管理人さんへのお返事です。

石上神宮、石切神社、伊都国、一大の共通点だな。「伊」集団は?
伊は神の意志を伝える聖職者、軍隊、劔ですな。

石上神宮、石切神社は劔で新羅ですな。神功皇后。
伊都国、一大は軍隊ですな。これは卑弥呼。


会意形声
「人」+音符「尹」。「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、殷初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因み嘉字とされ、人名、地名に用いられる。

http://ja.wiktionary.org/wiki/

> 石上神宮や石切神社、のように「石」「磐」も彼らの拠点の地名の特徴ですが、「イ」音です。

石上神宮は七枝刀
https://www.google.co.jp/search?q=七枝刀&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP458JP458&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=7etCUsXZPM-ZlQW174GACw&ved=0CDwQsAQ&biw=1056&bih=838&dpr=1

石切劔箭神社は劔と矢/×箭ですな。劔神社では神功皇后
http://ja.wikipedia.org/wiki/劔神社

石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

http://ja.wikipedia.org/wiki/石上神宮

石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)は、大阪府東大阪市にある神道石切教の神社。 延喜式神名帳に記載されている河内郡の式内小社(旧社格)。「石切劔箭命神社二座」。

http://ja.wikipedia.org/wiki/石切剣箭神社
>
> 「伊」のつく地名に関わる航海集団が弥生末の倭にいたことは、すでに会報で論じたとおりですが、具体的には「伊都」「伊和」「伊予」「伊勢」「伊豆」「伊邪」・・・といった具合で、地名の最初に「イ」音を入れるのが特徴です。
>
>
> その「伊」集団の「都」だったので、「伊都」になって、そこに彼らの支配拠点があったのでしょう。平原墓の主ですね。割竹型木棺などの後の畿内に入って行く習俗を有しています。椎根津彦・ニニギ・ニギハヤヒで、物部系です。
>
> 石上神宮や石切神社、のように「石」「磐」も彼らの拠点の地名の特徴ですが、「イ」音です。
>
>
>


1709管理人:2013/09/26(木) 23:09:35
Re: 家形石棺
茨の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> >「伊」集団
>
> 伊 イ族は中国西部の古羌の子孫 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1713
>
> 大昔の石巻一帯には倭人同化が進む最中、姓名の最初にイがつく一族が勢力を誇った 時期がある。 イの漢字は「石」「伊」「井」など。 一般にイ族と言えば中国の少数民族の こと。 (漢民族 ? 倭人は他民族を蔑称で呼ぶのが倣い。 http://ameblo.jp/geneumi/entry-11466198061.html
>
> 日本の地名や人名にはなぜ「伊(イ)」が付いていることが多いのでしょうか ...
> 中国長江流域のイ族と関係があるのでしょうか? ... その内かたかなの「イ」は漢字「伊」 のにんべんから変化したものですひらがなよりもカタカナの方が先に成立しているので、 人名や地名の固有名詞としても成立する確立は高かったのではない ... http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1485955279
>

岸さん、秦野さん、ご意見ありがとうございます。

イ族の話は、興味深いですね。
おそらく、この倭の中でイ音を地名につける集団は、南方航海民とも関係しているでしょう。

DNA的には、台湾や華南方面の集団とも関係してくると思うのですが、特に舟の神話ですね。

物部の磐舟、鳥船、日向の山幸神話、伊豆・枯野、

出雲の「イ」は関係あるかな?

「イツ+モ」

先の北九州の「イツ(伊都)」地域の東方「モ」かな?


倭人伝の「対蘇国(タイソ)」「都支国(ツキ)」ですが、これが後代の「大分(タイ・キタ)+阿蘇(アソ)」「竹斯(チク・シ)」に関係してきます。

宇佐方面の「イチキシマヒメ」、壱岐の「イツクハラ」も同系の発音で、「イ」という定冠詞が装飾後のようにしてつけられていきます。


もとは「ツキシマ」「ツクハラ」

そうすると、伊豆は「ズ」、伊和は「ワ」、伊邪ナミは、「ザ+ナミ」、「伊予」も「ヨ」が、本来の地名。




1710秦野北斗:2013/09/27(金) 20:15:35
Re: 家形石棺
管理人さんへのお返事です。

イザナギ、イザナミの伊ですな。地名を拾うと島、海岸ですな。徐福伝説とリンクしそうですな。

> そうすると、伊豆は「ズ」、伊和は「ワ」、伊邪ナミは、「ザ+ナミ」、「伊予」も「ヨ」が、本来の地名。

伊豆:静岡県伊豆市

伊和:福島県いわき市

伊邪:熊野(くまの、ゆや、いや)

伊予:伊予国(いよのくに)

イザナギ(伊弉諾、伊邪那岐、伊耶那岐)
http://ja.wikipedia.org/wiki/イザナギ

イザナミ(伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥)
http://ja.wikipedia.org/wiki/イザナミ


イチキシマヒメ(イツキシマヒメとも)は、日本神話に登場する水の神である。『古事記』では市寸島比売命、『日本書紀』では市杵嶋姫命と表記する。

厳島神社(広島県廿日市市)の祭神ともなっており、「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとされている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/イチキシマヒメ




1711管理人:2013/09/27(金) 23:50:12
Re: 家形石棺
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> イザナギ、イザナミの伊ですな。地名を拾うと島、海岸ですな。徐福伝説とリンクしそうですな。
>
> > そうすると、伊豆は「ズ」、伊和は「ワ」、伊邪ナミは、「ザ+ナミ」、「伊予」も「ヨ」が、本来の地名。
>

> イザナギ(伊弉諾、伊邪那岐、伊耶那岐)
> http://ja.wikipedia.org/wiki/イザナギ
>
> イザナミ(伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥)
> http://ja.wikipedia.org/wiki/イザナミ
>
>
> イチキシマヒメ(イツキシマヒメとも)は、日本神話に登場する水の神である。『古事記』では市寸島比売命、『日本書紀』では市杵嶋姫命と表記する。
>



おそらく、イ+ツキシマなんですよね。「竹斯(国)+島」=「九州」

対馬=「都斯麻国」もやはり同類の名称のように感じます。


九州から壱岐・対馬あたり全体を「ツキ・ツク+シマ」と呼んでいたのではないでしょう。

その首都が「伊+都」「一大(イ+ツ+タイ)」(率)

「率」にあたる日本の古代官職名が見当たらないでしょうか。

「率」

音読み
呉音 : シュチ(表外)、スイ(表外)、ソチ(表外)、リチ(表外)
漢音 : スイ(表外)、ソツ、リツ
訓読み
常用漢字表内
ひき-いる

邪馬台国や倭奴国の官職・王名につく「師(スイ)」ですね。これも関係するでしょう。

「臣智(シンチ)」は弁・辰韓方面の官職。これが「臣(オミ)」に関係していきます。

「タケミカヅチ」「アシナヅチ」等の「ツチ」が、以前お話したように「椎(ツチ)」と書いて、南方海人系・物部系集団の尊称です。

海人族の長・「椎根津彦」にも「椎」の字がつき、後に九州方面から移動して三輪山祭祀へとかかわっていきます。


1712秦野北斗:2013/09/28(土) 07:00:00
Re: 家形石棺
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001776M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/天地開闢_(日本神話)



1713管理人:2013/09/28(土) 23:06:41
Re: 家形石棺
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 物部系集団
>
> 天地開闢 (日本神話)ですな、天地開闢は日本の古代の国の構成と組織だな。
> 後は国生みになる。
>
> 「ツチ」ですが「タケミカヅチ」「アシナヅチ」等は天地開闢から・・。
>
> 文章に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)国狭立尊(くにのさたちのみこと)
> 槌(つち)がある。狭槌は京都、滋賀、福井、岐阜のエリアを指すな。
>
> 槌(つち)系集団
>
> 天地開闢 (日本神話)
> http://ja.wikipedia.org/wiki/天地開闢_(日本神話)
>
> 槌
> 呉音 : ズイ(ヅイ)
> 漢音 : ツイ
> 訓読み
> つち
> http://ja.wiktionary.org/wiki/
>



なるほど、そうすると「率」「鎚」「師」には、音的にかなり有意な相関関係がありますね。再度整理すると、

「率」
音読み
呉音 : シュチ(表外)、スイ(表外)、ソチ(表外)、リチ(表外)
漢音 : スイ(表外)、ソツ、リツ
訓読み
常用漢字表内
ひき-いる

「槌」
呉音 : ズイ(ヅイ)
漢音 : ツイ
訓読み
つち

「師」音読み
呉音 漢音 : シ
訓読み
常用漢字表内
常用漢字表内の訓読みはありません。
常用漢字表外
のり、もろ、のし



こう見ると、漢音に近かった率が、呉音文化圏だった弥生末期の倭の九州世界にとりこまれて、「スイ・ソツ」から「シュチ」「ズイ」へと濁音化して、さらに後代「ヅチ」へと変化していったのではないでしょうか。

だから北方系の漢音だった「一大率」(イチ・タイ・ソツ(スイ))は、倭で呉音化して「伊都台率」(イツ・ダ(イ)・シュチ(スイ・ソチ))となり、さらに後代「伊(五)太槌」(イダヅチ)みたいな名へと変化して行った可能性を感じます。

たとえば、五十猛命 (いたけるのみこと) - 別名:大屋毘古神、がいますね。
これを祀る神社がm伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)

タケミカヅチ(タケミカヅチオ)は、日本神話に登場する神。雷神、かつ剣の神とされる[2]。後述するように相撲の元祖ともされる神である。
『古事記』では建御雷之男神・建御雷神、『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神
http://ja.wikipedia.org/wiki/



「イカヅチ」の発音も(イダヅチ)に少し近い。

火神軻遇突智(カグツチ)もいますね。

天之尾羽張神(あめのおはばりのかみ)という。別名 伊都之尾羽張(いつのおはばり)


これもそうで、いずれも伊邪ナギ系の瀬戸内・南方航海民系の集団。北九州の伊都国に最重要拠点を置いていました。


もともとは「率(ズイ・シュチ)」の意味で伊都周辺で管理していた一族の伝承や末裔、これが「槌」を尊称として受け継ぎ続けた、そんな感じでしょうか。南方海人系で、伊勢、鹿島、尾張・諏訪・出雲・伊豆・・へと全国展開していきます。

彼らは、会報で論じたように、刀をノーモン・測量尺として利用していたのですが、その刀剣関連の伝承が、後代タケミカヅチなどの刀剣伝承へと変化していったことでしょう。一部、そこに東欧系集団を配下いにいていた新漢人等の伝承も影響していきます。

1714ワープ:2013/09/29(日) 02:47:16
Re: 家形石棺
管理人さんへのお返事です。

> 倭人伝の「対蘇国(タイソ)」「都支国(ツキ)」ですが、これが後代の「大分(タイ・キタ)+阿蘇(アソ)」「竹斯(チク・シ)」に関係してきます。


伊都国 「伊蘇国」イスラエル http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?
五十迹手の国が「伊蘇国」と呼ばれるようになったのは、天皇が「伊蘇志」と仰せられ たからですが、その名称に当てられた「蘇」という漢字は、蘇民将来の字にも用いられて いることに注目してみました。日本各地に伝承されてきた蘇民将来の信仰は、主に牛頭??... http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=159

ヤタガラスが言っている「賀茂氏=レビ族」
2013年1月9日 - 鰐族の出自はイスラエルのレビ族新天地に足. を踏み入れる際は誰よりもまず. レビ族が先行して出向き、立地. 条件を 検証して宗教儀式にふさ. わしい神聖な土地を選別し、 そ. こで神を祀ることから移民の 歴 ... http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/3284








1715ワープ:2013/09/29(日) 10:11:10
Re: 家形石棺
管理人さんへのお返事です。

>「槌」・・・ツイ(対)島・・・対岸?
> 呉音 : ズイ(ヅイ)
>漢音 : ツイ

筒 津 津・・・ 両神は対「フツ」断ち切られる様
軻遇突智の血が天の安河のほとりの岩群を染めたために岩裂神・根 裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神が経津主神を生んだとしている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/経津主神
経津主神は武甕槌神と関係が深いとされ、両神は対で扱われることが多い。有名な例としては、経津主神を祀る香取神宮と、武甕槌神を祀る鹿島神宮とが、利根川を挟んで相対するように位置することがあげられる。

>神名の「フツ」は刀剣で物が断ち切られる様を表し、刀剣の威力を神格化した神とする説のほか、「フツ」は「フツフツ」と沸き上がり「フルイ起す」フツであるとする説や[1]。、神武東征で武甕槌神が神武天皇に与えた布都御魂(ふつのみたま)[2]の剣を神格化したとする説がある。なお、『先代旧事本紀』では経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしている。『古事記』では、建御雷之男神の別名が建布都神(たけふつのかみ)または豊布都神(とよふつのかみ)であるとし、建御雷之男神が中心となって葦原中国平定を行うなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるかのように記載している。
「逆しまに立つ剣の形」

>彼らは、会報で論じたように、刀をノーモン・測量尺として利用していたのですが、その刀剣関連の伝承が、後代タケミカヅチなどの刀剣伝承へと変化していったことでしょう。一部、そこに東欧系集団を配下いにいていた新漢人等の伝承も影響していきます。




1716秦野北斗:2013/09/30(月) 21:22:20
Re: 家形石棺
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001780M.jpg

http://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/izumo_fuudo/izumofudoki/fudoki/fudokif/fudo03.html



1717管理人:2013/09/30(月) 22:38:22
Re: 家形石棺
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001781M.jpg

http://kamodoku.dee.cc/chuusiki-wo-yomu.html



1718秦野北斗:2013/10/12(土) 01:03:54
Re: 家形石棺
管理人さんへのお返事です。

「五十」は皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の五十鈴にあたるな。

神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。


媛蹈鞴五十鈴媛命の末裔が崇神天皇、垂仁天皇、・・
崇神天皇:御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)
垂仁天皇:活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)

> 確かに伊蘇国の件は重要です。伊都の語源を、五十(イツト)→(イソ)に筆者は求めているわけですが、これはやはり元々音だけが「イツト」とかいう具合で存在して、それが後に「五十」さらには「伊都」を充てたという形になるのでしょうか。

神武天皇2年、功を定め・・。は検討を付けている。

神功皇后の神功は「神武の功」から来ているな。

http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/mobile/index/list/?page=273&amp;;reverse=1&amp;;TEACUPRBBS=fb0b4c0b07f2d3f717e1023033625b2f


神武天皇2年、功を定め・・。

倭国伝の「その国境は東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程」が功にあたるな。

『北史』倭国伝

其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢、東高西下。居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。又云:去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽東、與儋耳相近。俗皆文身、自云太伯之後。

 その国境は東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程、各々が海に至る。その地形は東が高く西が低い。邪摩堆で暮らす、魏志に則れば、言うところの邪馬臺である。また言う、楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、儋耳と相似する。俗は皆が身体に刺青をし、太伯の後裔だと自称する。


神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。
神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun5-hokusi.htm

即位
辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、磐余彦は橿原宮で践祚し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。52歳であった。
神武天皇2年、功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。
神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。
神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。
神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。
神武天皇76年、127歳にして崩御した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/神武天皇



1719管理人:2013/10/03(木) 22:43:37
Re: 家形石棺
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 「五十」は皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の五十鈴にあたるな。
>
> 神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。
>
>
> 媛蹈鞴五十鈴媛命の末裔が崇神天皇、垂仁天皇、・・
> 崇神天皇:御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)
> 垂仁天皇:活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)
>
>


そういえば、伊勢というと、遷宮がありましたね。伊勢(イセ)と五十(イソ)も、同系統の語源でしょうか。

ただ、上記の「五十」は、おそらく後代編者が使った「たくさんの」の意味でしょうね。八百万と同じ類いです。
このころには、もう「イソ」で読んでいたでしょう。


「五十」が「イツト」=「伊都」「一大(率)(イツタイシュチ)』と呼ばれていたころの記載、これをどこに探し求めるかが課題です。

「五十鈴(イソスズ)」もそういわれてみると「「一大(率)(イツタイシュチ)』にちょっと似てる。

伊勢を考えるときは、確かに崇神・景行にかけてのマキムク方面も意識する必要がありますね。

大国主、大物主の「主・シュ」です。「タイ・クニ・シュチ」

4世紀後半のタケウチ宿禰系集団や、?氏の渡来する時代にかけて、竹内街道が河内から桜井をこえて伊勢へと結ばれていきます。ここで渡来系の発音・語音や文字が充てられていくわけですが、「五十」は、「イツ・トウ」で、この磁気かなー。それ以前は漢字なしで音だけで「イツト・シュチ」だけが残存していて、その前は倭人伝の時代でまた漢字が使われていて「一大率」


1720秦野北斗:2013/10/05(土) 08:27:39
Re: 家形石棺
管理人さんへのお返事です。

「五十鈴(イジッスズ=イスズ)」は古事記の国生み、大八島国の寄港地の川がイスズ川で、所在地は黄泉の国辺りだな。どうも、国生み航海で黄泉に残った船数が川の名前に変化した様だな。

 第2章 日本列島の誕生(1) 国生み
 第3章 日本列島の誕生(2)(大八島国)
http://www15.plala.or.jp/kojiki/

「十」
呉音 : ジュウ(ジフ) 、ジッ
漢音 : シュウ(シフ)(表外)
慣用音 :ジュッ
「十」の伝来時の音は[?ip]と推定され、当時の日本語にない[-p]の音(入声)は「-フ(音は[-?u]と推定されている)」と音写されたため、「十」は「ジフ」として受け入れられ、後に「ジュウ」に変化した。一方、入声はk,s,t,h,pといった無声子音が後続するときは促音便化するという性質(例.合[ガフ]→合算[ガッサン])があったため、「十」も促音便は「ジッ」であり「十本」は「ジッポン」、「十間」は「ジッケン」と発音された。近年になり、「ジュウ」の音に引きずられ、促音便は「ジュッ」が広く受け入れられるようになった。改定常用漢字表では、備考に「『ジュッ』とも。」と注記されている。
十円 (じゅうえん)
十個 (現代の発音: じゅっこ、伝統的な発音: じっこ)
訓読み
常用漢字表内
とお、と
http://ja.wiktionary.org/wiki/

> 「五十」が「イツト」=「伊都」「一大(率)(イツタイシュチ)』と呼ばれていたころの記載、これをどこに探し求めるかが課題です。
>
> 「五十鈴(イソスズ)」もそういわれてみると「「一大(率)(イツタイシュチ)』にちょっと似てる。
>
> 伊勢を考えるときは、確かに崇神・景行にかけてのマキムク方面も意識する必要がありますね。


1721荊の紀氏:2013/10/05(土) 10:01:49
Re: 家形石棺
秦野北斗さんへのお返事です。

> 「五十鈴(イジッスズ=イスズ)」は古事記の国生み、大八島国の寄港地の川がイスズ川で、所在地は黄泉の国辺りだな。どうも、国生み航海で黄泉に残った船数が川の名前に変化した様だな。
>
>  第2章 日本列島の誕生(1) 国生み
>  第3章 日本列島の誕生(2)(大八島国)
> http://www15.plala.or.jp/kojiki/
>
> 「十」
> 呉音 : ジュウ(ジフ) 、ジッ
> 漢音 : シュウ(シフ)(表外)
> 慣用音 :ジュッ
> 「十」の伝来時の音は[?ip]と推定され、当時の日本語にない[-p]の音(入声)は「-フ(音は[-?u]と推定されている)」と音写されたため、「十」は「ジフ」として受け入れられ、後に「ジュウ」に変化した。一方、入声はk,s,t,h,pといった無声子音が後続するときは促音便化するという性質(例.合[ガフ]→合算[ガッサン])があったため、「十」も促音便は「ジッ」であり「十本」は「ジッポン」、「十間」は「ジッケン」と発音された。近年になり、「ジュウ」の音に引きずられ、促音便は「ジュッ」が広く受け入れられるようになった。改定常用漢字表では、備考に「『ジュッ』とも。」と注記されている。
> 十円 (じゅうえん)
> 十個 (現代の発音: じゅっこ、伝統的な発音: じっこ)
> 訓読み
> 常用漢字表内
> とお、と
> http://ja.wiktionary.org/wiki/
>
> > 「五十」が「イツト」=「伊都」「一大(率)(イツタイシュチ)』と呼ばれていたころの記載、これをどこに探し求めるかが課題です。
> >
> > 「五十鈴(イソスズ)」もそういわれてみると「「一大(率)(イツタイシュチ)』にちょっと似てる。
> >
> > 伊勢を考えるときは、確かに崇神・景行にかけてのマキムク方面も意識する必要がありますね。
>

鈴?? すず,りん,れい  了・・・悟る・・・吾(われ)
鈴木 穂積氏はニギハヤヒの命の後物部氏に属す。
                 ・・・  参考になれば、幸いです。

令は神意をうける姿、命は令に 祝詞を収める器の ( さい ) をつけたもので啓示として与えられるものをいい、その神を降 しまた神を送るときに用いるものが鈴。 http://jigen.net/kanji/37428
了とは (リョウとは) http://dic.nicovideo.jp/a/

うける姿・・・五(ゴ・・・吾・・・・呉?)

収める器・・・十(ジュー・・・獣・・・ユダヤ?)

神を降 しまた神を送るときに用いるものが鈴・・・キリスト教徒は木の十字架、ユダヤ教徒は鈴を常に身に付けるよう義務付けた。 http://www.cocorila.jp/article/articles.html?num=2011122701

鈴の音に神秘性を感じたのは日本だけではありません。ユダヤ教やキリスト教の聖典である『旧約聖書』には祭司が着る衣装には鈴をつけるように指示がありますし、ロシアなどで信仰されている正教会の香炉には鈴がつけられて、祈る人の心を神の国へと導いてくれるとされています。
どうしてこんなに鈴の音が神秘的な力を持つのかはわかりませんが、鈴の音にまつわる言い伝えもさまざまなものがあります。例えば、夢の中で鈴の音を聞いたら、それは「霊夢=意味のある夢、高次の存在からのお告げ」であるというものや、霊からのメッセージであるというもの。
ココリラでもお馴染み、オラクルカードのドリーン・バーチューさんによると「アースエンジェル」である人たちは、片方の耳だけに響く鈴の音を聞くということですし、鈴の音というのは高次の世界とのこちら側を繋ぐ架け橋にもなっているのかもしれません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ハーキム

八十(ヤソ)
キリスト教は昔、耶蘇(ヤソ)教だとか基督教と表現されていました。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q127373457

13番目の天使 13は「不可能(未知)の数」 http://ja.wikipedia.org/wiki/13_(忌み数)
古代より暦の必要性から時間や方位などに六十進法が使われており、中でも60の約数の一つである12はそれらを構成する基準の数として、12か月や12時間、12方位などのようにしばしば用いられてきた。生活に広く根付いた基数の12に対し、12より一つ多く素数である13は、その調和を乱すものとして不吉な数と考えられた。
1年を360日にしたら、太陽の南中時刻が12時じゃ なくなるな。 http://koyomi.wafusozai.com/archives/161
360(み・ろく) = http://www.chojin.com/text/ac4s2.htm
トゥシタ天での一年は360×400=144000年(一年を360日とする)。そして天上での寿命が4000年といわれているので、それに4000を掛けて5億7600年となるが、「これを五七億六千万と読み、のちに口調のよいところから五六億七千万と読みならわしたように思われる」と解釈しておられる(『愛と平和の弥勒経』P.263 〜264 )。

ここにも13が隠れている。それは神の名である神聖四文字、ヤハウェ,YHVH(???? )。 合計数は26だが、さらに分解し加算すると、2+6=8になる。数秘術で8は権威・力を 象徴する。また無限大のシンボル。そして8の字母名はヘト(???? )、 http://blogs.yahoo.co.jp/decadent3791711/12266426.html
13はユダヤ教徒の男児にとって「成人」の年齢。そしてユダヤ教では神の属性を13数えている。
ヤハウェ,YHVH(???? )。合計数は26だが、さらに分解し加算すると、2+6=8になる。数秘術で8は権威・力を象徴する。また無限大のシンボル。そして8の字母名はヘト(???? )、この数価は(ヘト・ヨッド・タウ)8+10+400=418 8+1+4=13。
ヘトの13。メタトロンは「契約の天使」「神の代理人」「小YHWH」と呼ばれ、76の異名を持つ。
ヘトとは? ヒッタイト http://www.weblio.jp/content/ヘト

十三
五十(?)(うそ)・・・禹(塢・兎・烏・・・)
十二羽の鷽と十三羽目の?  http://blog.livedoor.jp/aisyunokotatsumikan/archives/27900710.html

?張u2a02f??‐Unihan Database24躻URO範囲外 うつけ愚か者のこと http://shimapucchi.blog93.fc2.com/?mode=m&amp;no=325
愚か者
武器を持つもの=>【私・ム=禹・塢・于・・・】 ... http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/3106

悟り
霊隠山の巣構塢(そうこうう)に至ると、? 光法師はさっと悟り、師匠が語った言葉を思い出しました
塢(う)
益都蓼塢大白山に逃れた。
蓼バラなり
バラの意味では?とも書く。 〔説文解字〕には「薔虞、蓼なり」、〔 http://dic.nicovideo.jp/a/
「蓼の澤に生ずる者なり」

水蓼 【ミズタデ】. 2件の用語解説(水蓼で検索). Tweet. デジタル大辞泉の解説. みず‐ たで 〔みづ‐〕 【水×蓼】 [名]カワタデのこと。ヤナギタデの変種で、水中に生える。 [枕] 穂状に花が咲くところから「穂」または地名の「穂積」にかかる。「
「穂積」にかかる http://kotobank.jp/word/水蓼
穂積鈴木
穂積鈴木氏の本拠地は熊野新宮周辺だが、やがて名草郡藤白湊に移って同地王子社 の神官となり以後発展した。熊野神社の神職として各地熊野神社の勧請による布教 活動あるいは熊野水軍として海上に活躍したことから、全国的に鈴木氏 ... http://akitsuri.exblog.jp/2401980
十二本の榎の木を勧請したので榎本姓を、次男基成は餅を供えて丸子(宇井)姓を、三男基行は稲を献上したので穂積姓を賜わった」とある。
 鈴木氏の本姓が穂積氏であることを伝えているが、穂積氏はニギハヤヒの命の後物部氏に属す。穂積とは積まれた稲穂のことで、熊野地方ではススキと呼んだところから鈴木の漢字を当てたのが鈴木姓の由求である。なおススは聖なる意味をもち、スス・なる木なので神事にも縁がある。


1722秦野北斗:2013/10/05(土) 20:56:02
Re: 家形石棺
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001786M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/五十鈴川



1723荊の紀氏:2013/10/06(日) 01:04:51
Re: 家形石棺
秦野北斗さんへのお返事です。

> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> 鈴木氏、五十鈴は共通点はないな。
>
> 国生み航海で黄泉に残った船数が川の名前に変化した様だな。
>
> 状況は川の津で伊勢神宮の五十鈴川のイメージだな。
>
> 「五十鈴(イジッスズ=イスズ)」は五十津(イスズ=イジッツ)
>
> 五十鈴川(いすずがわ)は、三重県伊勢市を流れる宮川水系の一級河川
> http://ja.wikipedia.org/wiki/五十鈴川
>
>
> 鈴木氏は穂積姓だな。『三国志魏書』馬韓伝に「旧民は少ししか見出せなかった」
> 旧民は卑弥呼、崇神天皇、垂仁天皇を指す模様。旧民以外が穂積姓で三韓征伐後に渡来
> した模様。鈴木氏は中臣だな。以後平氏になる。
>
> 『三国志魏書』馬韓伝
> 桓、靈之末、韓濊彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模、張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。
>
>  桓帝と霊帝の末(146年−189年)、韓と濊が強勢となり、郡県では制することができず、多くの民が韓国に流入した。
>  建安年間(196年−220年)、公孫康、屯有県以南の荒野を分けて帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して後漢の遺民を集めるため、兵を挙げて韓と濊を討伐したが、旧民は少ししか見出せなかった。この後、倭と韓を帯方に帰属させた。
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm
>
> ニギハヤヒノミコトは、日本神話に登場する神。『日本書紀』では饒速日命、『古事記』では邇藝速日命と表記する。
>
> 『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売、日本書紀では三炊屋媛という)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/ニギハヤヒ
>
> 一族には継体朝に百済への使者となり
> 「鈴木氏」の多くが穂積姓の末裔とされている。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/穂積氏
>
>

穂積氏と伊勢神宮の関係は、となると、斎宮のヤマトヒメから草薙の剣を授かった ヤマトタケルに穂積氏の女性であるオトタチバナヒメがつき従った、という、非常に間接的 なものになるのです。 http://blog.goo.ne.jp/sadalon/e/766599d1811e9d18689c1a39f3b320ac
穂積氏は、『古事記』には宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)を始祖とすることが記されていますが、ウマシマジノ ミコトを始祖とする氏族には、穂積氏の他に物部氏、娞氏が 挙げられます。
 婇(うねめ)氏は采女を管轄した氏族であるなどと言われ たりしますが、『日本書紀』には、雄略天皇の時代に采女に関連した記事が多く取り上げられ、そこに婇氏とは同族の物 部氏や職業としての物部も絡んでいます。
しかも、伊勢の采女に関する記事が多く見られることから、やはり伊勢に関係 している氏族と思われます。

穂積氏と伊勢神宮の関係  http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?


1724秦野北斗:2013/10/06(日) 06:57:10
Re: 家形石棺
荊の紀氏さんへのお返事です。

神武天皇と伊勢神宮の年代を比較すると「鈴木氏」は五十鈴川から名前を貰ったな。
伊勢神宮の五十鈴川は港(津)ですな。古事記の背景を読み解かないと理解できないな。後日、徐福と日本神話で説明だな。

「鈴木氏」は五十鈴川から名前を貰った。は共通点かな?

伊勢神宮は磯の宮ですか、イソ 五十 五十鈴川 五十 伊雑宮は苦しいな・・。

伊勢神宮は 磯の宮と呼ばれていたそうだ イソ 五十 五十鈴川 五十 伊雑宮 いざわのみや 地元ではいぞうさん イソ 五十 五十のタブレットがあった。
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?

神武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日 - 神武天皇76年3月11日)は、日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇(古事記、日本書紀による)。
神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命
http://ja.wikipedia.org/wiki/神武天皇

伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。正式名称は地名の付かない「神宮」(じんぐう)。他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。神社本庁の本宗(ほんそう)である。

鈴木氏(すずきし)は、日本の代表的姓氏のひとつ。かつての武家である鈴木氏との関係は諸説あって定まらないが、祭礼の際に祭られる稲穂や神社の本坪鈴に由来した神官の姓氏とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/鈴木氏



1725荊の紀氏:2013/10/06(日) 18:56:34
百済(ほづみ)   タタライスズ
五十鈴川 - 三重県を流れる河川 ?
皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと) - 大物主の女、のち手研耳命の妻

百済(ほづみ)   タタライスズ
ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)は、神武天皇の皇后である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ヒメタタライスズヒメ
神武天皇は、東征以前の日向ですでに吾平津姫を娶り子供も二人いたが、大和征服後、在地の豪族の娘を正妃とすることで、在地豪族を懐柔しようとした。天照大神の子孫である神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛命が結婚することで、天津神系と国津神系に分かれた系譜がまた1つに統合されることになる。
皇后の名の中にある「タタラ」とは、たたら吹き製鉄を指したり、その時に用いられる道具を示す場合もあり、このことは、皇后の出身氏族が、製鉄と深い関係がある出雲(安来市圏域、安来市、横田町、奥出雲町を含む)地域であったことを物語っていると考えられている(加藤義成『古事記参究』素行会(1986年)など)。

『古事記』では、三輪大物主神(スサノオの子孫大国主の和魂とされる)と勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)の娘である。
勢夜陀多良比売が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れした。大物主は赤い矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いた。彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれた。こうして生れた子がヒメタタライスズヒメである。ホトを突かれてびっくりして生まれた子であるということでホトタタライスキヒメと名づけ、後に「ホト」を嫌ってヒメタタライスケヨリヒメに名を変えた。

五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと) これは物部氏の3 人娘のことのようです。

ヒメタタラ五十鈴媛命 (事代主神の娘),

物部氏の 遠祖とされる宇摩志麻治命(事代主神)は十種の瑞宝を献上してニニギに帰順した。 http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-2-4.htm
扶余人
扶余、百済は藤原氏など支配系のルーツだが、大半の日本人は縄文人、海の民(夷、饒 速日、穂積[火の民/鉄の民]、素戔嗚、大国主といった先王朝の子孫)、始皇帝から 逃げた徐福の一団(秦族?)、稲荷社や八幡社、住吉社を創建した秦 ... https://twitter.com/chinshioshoku/statuses/234284440497582080

扶余は南風(ハヤ・ふぇー)。 http://www.asyura2.com/12/cult10/msg/766.html

鉄分が豊富な粘土層にススキなどが生育すると  ススキ 鈴木?
十五が意味するのは金星女神  「ホ(当て字は穂、火)」がつく系譜
十と五の組み合わせが天草とかで見つかってるけど、十五が意味するのは金星女神。十には、○っていう書き方もあって、五○だと天地の子・風神エンリルを意味する。◎だと20で、日神ウツ、別名をバ・バル(輝く神)。そしてフェニキアのバアル神は、このバ・バルがなまったものらしい。 http://www.geocities.jp/kamuiluke/essay/truehistory3.htmlhttp://www.geocities.jp/kamuiluke/essay/truehistory3.html
「倭人」系と思われるのが、天照大御神から始まり、天のオシホミミの命、天のホアカリの命、ホのニニギの命、ホスセリの命、ホヲリの命ホホデミの命と連なる「ホ(当て字は穂、火)」がつく系譜。

ミマキイリヒコ五十ニエ天皇、イクメイリヒコ五十サチ天皇、ヒコ五十サチ命、五十日鶴ヒコ命、五十ニシキイリヒコ命というふうに、イリとか五十(イソ、オシ)がつく。
これは氏族が違うんだな。同じ時代に存在した別々の王朝の系譜を、縦につないでしまうという手法は、シュメールからずっと使われてきている。それで、2つの王朝をつなぐと過去が2倍になるみたいな事があって、「欠史八代(神武天皇と崇神天皇の間の、記述の少なく実在はしなかったと考えられる世代)」みたいなのが生まれてくるわけだ。これは、歴史を実際より古く見せて中国・朝鮮と張り合おうとしたのじゃなくて、別々の氏族の系譜をつないで、「侵略者が土着の王族の系譜に編入される」手法ってわけだ。

垂仁天皇の三十九年天皇は、太刀佩部(当時の軍閥であった物部、大久米部の内から精鋭の一部隊)を創設し、皇子五十瓊敷命(イソタマシキノミコト)を将軍に任じ、さらに大和鍛冶部に属する川上伴に、一千振にも及ぶ大量の剣を造らせて、非常事態に備え、宮中の警備に当らせました。
 これが後世に授刀舎人(ジュトウノトネリ・宮中護衛職)となりました。
これら は伝統の大和鍛冶部を重んじたものであり、まだ外国から鍛冶の移住がほとんどなかったことを意味しています。
  継体天皇の二十一年、筑紫国の国造であった磐井一族が反乱を起した時、天皇は物部麤鹿火 (モノノベノアラカビ)に追討の勅命をくだされ、その出陣の際、剣を授けられました。
これが節刀(将軍が出征の際天皇より賜る刀剣)の始まりです。

呂智伝説が生れるには、いったい何人の技術者がいただろう。鈴や砂鉄炉片で 充満している。 http://books.google.co.jp/books?id=AUAtgjHpeQgC&amp;pg=PA208&amp;lpg=PA208&amp;dq=鈴 タタラ&source=bl&ots=YBSpMoVqx7&sig=0kg9AvVJeWK_9UlJ83WQAwd-DnM#v=onepage&q=鈴 タタラ&f=false

砂鉄による“たたら製鉄”が始まる以前の日本では、高師小僧のような褐鉄鉱を 用いた製鉄が行われていたともいわれます。また、沼沢のアシ原には高師小僧と同じ ような成因で、鳴石(なるいし)とか鈴石(すずいし)と呼ばれる褐鉄鉱が産出します。 http://www.tdk.co.jp/techmag/ninja/daa01030.htm
鉄分が豊富な粘土層にススキなどが生育すると、根の周囲に鉄分が凝集し、根が枯れたあとに褐鉄鉱として残存します。雨水などで表土が取り払われると、これが地表にたくさん顔をのぞかせるので小僧の名がついたようです。

信濃にかかる枕詞である「みすずかる」も、こうした褐鉄鉱と関係するともいわれます。大昔、信濃の地には鳴石・鈴石を原料とする古代製鉄文化があり、のちに砂鉄原料のたたら製鉄文化により駆逐され、「みすずかる」という枕詞として残ったというのです。
「みすずかる」
みすずかる【水篶刈る】とは。意味や解説。[枕]篠竹が信濃(しなの)に多く産するところ から、「信濃」にかかる。「―信濃ゆ甲斐ゆ遠長く」〈賀茂翁家集〉[補説]賀茂真淵が「水薦 苅(みこもかる)」を「水篶苅」の誤りとしたことによる語。→みこもかる http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/211703/m0u/
みこもかる

みすずかる信濃の国の鉄バクテリア http://blog.goo.ne.jp/morimorikids/e/d3e2c7b425365727446f014849fc38d9
すずは鈴であり、水中に含有される鉄分が沈澱し、鉄バクテリア(沼などに石油を流したように漂うもの、写真参照)が自己増殖して細胞分裂を行い、固い外殻を作ったもので、振るとカラカラ音がするものがあります。これを鳴石(なりいわ)、鈴石、壷石、高師小僧などといいます。

信濃に生えているのは「こも」ばかりではない。葦や茅もあり(中略)やはり真淵が訓んだ「すず」が正しいと思う。薦・葦・茅の様な禾本(かほん)植物をひろく「すず」と称したとしてよいであろう。---というような内容です。
 私達が学生の頃は、古墳時代に渡来人がもたらすまでは日本では鉄は作られていなかったと教わりました。その後、褐鉄鋼を利用すると弥生式土器を焼くのと同じ位の低い温度でも鉄を作ることができるという事がわかったのです。日本の神話を象徴する葦原こそが、鉄バクテリアが長い年月をかけて褐鉄鉱を作り出し、古代の鉄の産地となったというわけです。また、信濃、埴科、更級のシナも鉄を意味するそうで、とすればシナノとは、鉄出(いずる)野という意味になります。「みすずかる信濃」という枕詞は、砂鉄から作る「たたら製鉄」がもたらされて、みすずを刈る必要がなくなってもなお、信濃の枕詞としてのみ残ったというわけです。

五十鈴(いすず). 五十鈴川 - 三重県を流れる河川 ?

信濃の古代製鉄 - nifty
伊那の谷から古代が見える. 古代 信濃では、『 みすず = カッ鉄鉱 』 から 鉄が造られ ていた。 信濃では、縄文中期から 製鉄が行われていた。 【南宮の本山は信濃国とぞ 承る さぞ申す 美濃国には中の宮 伊賀国には稚き児の宮 (梁塵秘抄・262)】 蓼科・更級 ( ... http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage11.html

シナには 鉄の意味も あるという。
真弓常忠氏によれば、鉄を意味する多くの古語について次の五つの語群に分けられる。
(1) テツ・タタラ・タタール・韃靼  (2) サヒ・サビ・サム・ソホ・ソブ
(3) サナ・サヌ・サニ・シノ・シナ  (4) ニフ・ニブ・ニビ・ネウ
(5) ヒシ・ヘシ・ベシ・ペシ

豊前の 「犀川」 「佐比川」 には (2)サヒ音=古代産鉄の可能性があり、また「犀川」は、加賀にも信濃にもあり「犀」は産鉄の可能性を示す「サヒ」ではないか? と指摘する。
また、信濃の国にかかる枕詞は 「ミスズカル」 であるが、ミスズと シナの関連を、真弓氏は 「古代の鉄と神々」のなかで、
『ミスズは 「御鈴」 であり、鈴は 「鈴石・鳴石」 などと呼ばれ,水辺の 禾本(カホン)植物の根に形成された褐鉄鉱団塊(高師小僧とも言う)のことだと考える。』 と説明する。
この鈴は古代製鉄の原料となったもので、氏は沼沢から禾科植物を抜き取り鈴石を採取することが、ミスズカルということばで表されていると指摘する。
( 落合直澄は、古代文字の解読時に、『 美鈴刈る 』 と記している )

古代縄文鉄の原料であるカッ鉄鉱(高師小僧)

【 みすずかる信濃の真弓わが引かば 貴人(ウマヒト) さびて いなと言はむかも (万葉集巻2・96) 】

五十鈴川
五十鈴川(いすずがわ)は 、三重県伊勢市を流れる宮川水系の一級河川。


1726管理人:2013/10/06(日) 23:16:16
Re: 家形石棺
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 「五十鈴(イジッスズ=イスズ)」は古事記の国生み、大八島国の寄港地の川がイスズ川で、所在地は黄泉の国辺りだな。どうも、国生み航海で黄泉に残った船数が川の名前に変化した様だな。
>
>  第2章 日本列島の誕生(1) 国生み
>  第3章 日本列島の誕生(2)(大八島国)
> http://www15.plala.or.jp/kojiki/
>
> 「十」
> 呉音 : ジュウ(ジフ) 、ジッ
> 漢音 : シュウ(シフ)(表外)
> 慣用音 :ジュッ
> 「十」の伝来時の音は[?ip]と推定され、当時の日本語にない[-p]の音(入声)は「-フ(音は[-?u]と推定されている)」と音写されたため、「十」は「ジフ」として受け入れられ、後に「ジュウ」に変化した。一方、入声はk,s,t,h,pといった無声子音が後続するときは促音便化するという性質(例.合[ガフ]→合算[ガッサン])があったため、「十」も促音便は「ジッ」であり「十本」は「ジッポン」、「十間」は「ジッケン」と発音された。近年になり、「ジュウ」の音に引きずられ、促音便は「ジュッ」が広く受け入れられるようになった。改定常用漢字表では、備考に「『ジュッ』とも。」と注記されている。



「五十」の発音を再検討する必要がありそうですね。

「五十(いつとお)」=「伊都(いつ)」は、「(五)イツ」も「(十)トウ」訓読みです。

「五十(ゴジュウ)」は中国音。


だから、「一大率(イツタイシュチ)」→(イツタイシュチ)→「五十鈴(いつとおすず)」→「伊都(イツ)」

への流れでは、倭人伝の時代(呉音系の漢字があった時代:3世紀)→(漢字が忘れられて音だけが伝わっていた時代:?〜4世紀前半?」→それを「倭訓」で記し直した時代;4世紀?〜6世紀?→さらに中国音でそれを書き直した時代:6世紀?〜7世紀

となるでしょうか。

倭訓でも、特に「五」などの数詞系統が、扶余・高句麗系・中東系の遊牧民の影響を受けていることは、以前お話したとおりです。アラム語とかに近い。

以前はその倭訓の導入をもっと早く考えていて、3世紀末、4世紀前半とみていたわけですが、もっと遅くするべきか再考すべきかどうかというところですね。


1727秦野北斗:2013/10/07(月) 06:57:40
Re: 家形石棺
管理人さんへのお返事です。

伊都は一大率、厳島:伊都岐島に見られるな。

伊都は古代ローマの体制が共和制の組織だな。
共和制(きょうわせい、英: republic)は、人民または人民の大部分が統治上の最高決定権を持つ政体

http://ja.wikipedia.org/wiki/共和制

まあ、古事記は紀元200年代だな。一大率(イツタイリツ)を遡るなら伊都(イト)の
イ=伊。大(タイ)は大秦。率(リツ)はひき-いる

一大率=伊大(秦)率=伊大利=伊大利亜→ローマ‐ていこく 【ローマ帝国】
http://kotobank.jp/word/ローマ帝国

ローマ帝国(ローマていこく、羅: Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する

http://ja.wikipedia.org/wiki/ローマ帝国


厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。
古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。ユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/厳島神社

共和制(きょうわせい、英: republic)は、人民または人民の大部分が統治上の最高決定権を持つ政体

http://ja.wikipedia.org/wiki/共和制


>「一大率(イツタイシュチ)」→(イツタイシュチ)→「五十鈴(いつとおすず)」→「伊都(イツ)」

> 倭訓でも、特に「五」などの数詞系統が、扶余・高句麗系・中東系の遊牧民の影響を受けていることは、以前お話したとおりです。アラム語とかに近い。
>
> 以前はその倭訓の導入をもっと早く考えていて、3世紀末、4世紀前半とみていたわけですが、もっと遅くするべきか再考すべきかどうかというところですね。
>


1728管理人:2013/10/07(月) 23:23:02
Re: 家形石棺
秦野北斗さんへのお返事です。

伊都は古代ローマの体制が共和制の組織だな。
> 共和制(きょうわせい、英: republic)は、人民または人民の大部分が統治上の最高決定権を持つ政体
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/共和制
>
> まあ、古事記は紀元200年代だな。一大率(イツタイリツ)を遡るなら伊都(イト)の
> イ=伊。大(タイ)は大秦。率(リツ)はひき-いる
>
> 一大率=伊大(秦)率=伊大利=伊大利亜→ローマ‐ていこく 【ローマ帝国】
> http://kotobank.jp/word/ローマ帝国
>


やはり「率」は「ソツ」「シュチ」で、中国系の官職でしょう。



中郎将
中郎将(ちゅうろうしょう)は、中国の前漢以降の官職名。
前漢においては、光禄勲(郎中令)に属し、宮殿の門戸を守り戦時には戦車や騎兵に充てられる中郎(秩比六百石)を統率した。
五官中郎将、左中郎将、右中郎将の3将がおり、また、宣帝の時に羽林を統率する羽林中郎将が、平帝の元始元年(1年)に虎賁郎を統率する虎賁中郎将が置かれた。中郎将は全て秩比二千石であった。
後漢においても光禄勲に属し、五官中郎将、左中郎将、右中郎将、虎賁中郎将、羽林中郎将が引き続き置かれ、いずれも秩比二千石であった。
五官中郎将、左中郎将、右中郎将は中郎(秩比六百石)、侍郎(秩比四百石)、郎中(秩比三百石)を統率した。
虎賁中郎将は宿衛侍従を掌り、属官には左右僕射、左右陛長(秩比六百石)がおり、中郎(秩比六百石)、侍郎(秩比四百石)、郎中(秩比三百石)を統率した。虎賁郎は本人が死んだら子が代わりに就任することとなっていた(『続漢書』劉昭注引荀綽『晋百官表注』)。
羽林中郎将もまた宿衛侍従を掌り、羽林郎(秩比三百石)を統率した。また羽林には羽林左監、羽林右監(秩六百石)がおり、羽林騎を司った。
また後漢末頃には東西南北の方位を付した四中郎将があり、遠征軍の指揮官となった。
後漢末の戦乱の時期には、各軍閥が配下を独自の名を持つ中郎将に任命することがあった(例えば、劉備は諸葛亮を軍師中郎将とした)。
二千石には皇帝の許可なく逮捕できない特権(『漢書』文帝紀、文帝前7年)や、兄弟や子を郎に就けることができる任子(『漢書』哀帝紀注)などの特権があった。比二千石以上の官が持つ印綬は銀印青綬であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


重要なのは、邪馬台国の使者たちに、「率善中郎将」等が賜与されていることです。
「使匈奴中郎将」「五官中郎将」「 左中郎将」などは見えるのですが、問題は「率善」がついたケースがあるかどうかですね。

つまりこの「率」は、「一大率」という、倭に遠く過去に与えられていた官職・称号を、そのまま流用して「善く率いる」の意味にしたというケースも考慮すべきかもしれません。つまり、倭の使者が「大夫」と名乗ると同時に「一大率」という、過去の中国系の官職を持っていると主張したので、それでその「率」をとって「率善」としたという線です。

本来なら「倭中郎将」「南西官・・」となっていてもおかしくないんですね。しかし「率善」とした。

なお彼らも規定どおり「銀印青綬」されています。そうすると逆に、難升米等は、規定どおり2千石とか、「郎」の名前を兄弟・子孫につける権威とかも授けられていた可能性があるわけですね。

似たような事例で邪馬台国の官職には、「升」が多くつきます。またそれは奴国時代の「師升」以来の「升」の字を継承した可能性もあるわけです。

先日お話した神話の神名にでてくる「(槌)ヅチ」も、上記の(一大)「率(シュチ)」由来と推定しましたが、おそらくは、中国系の官職、権限の継承を意味していたのでしょう。兄弟、子孫のみに継承が赦され、支配権を意味していたわけです。

「郎」は「ロウ(ラゥ)」です。物部とか和邇氏系などの氏族名とかに、それらの発音の名前がつく特徴などがあると、難升米の子孫だとか、わかってきますね。


「都尉」も授けられてますが、こちらも調べる必要ありそうですね。

1729秦野北斗:2013/10/08(火) 01:54:08
Re: 家形石棺
管理人さんへのお返事です。


難升米(なしめ、なんしょうまいとも、生没年不詳)は、弥生時代後期、3世紀の人物。邪馬台国の卑弥呼が魏に使わした大夫。

難升米は大夫。まだ大夫が不明ですな。

http://ja.wikipedia.org/wiki/難升米



> やはり「率」は「ソツ」「シュチ」で、中国系の官職でしょう。

>
> 中郎将
> 中郎将(ちゅうろうしょう)は、中国の前漢以降の官職名。
> 前漢においては、光禄勲(郎中令)に属し、宮殿の門戸を守り戦時には戦車や騎兵に充てられる中郎(秩比六百石)を統率した。
> 五官中郎将、左中郎将、右中郎将の3将がおり、また、宣帝の時に羽林を統率する羽林中郎将が、平帝の元始元年(1年)に虎賁郎を統率する虎賁中郎将が置かれた。中郎将は全て秩比二千石であった。
> 後漢においても光禄勲に属し、五官中郎将、左中郎将、右中郎将、虎賁中郎将、羽林中郎将が引き続き置かれ、いずれも秩比二千石であった。
> 五官中郎将、左中郎将、右中郎将は中郎(秩比六百石)、侍郎(秩比四百石)、郎中(秩比三百石)を統率した。
> 虎賁中郎将は宿衛侍従を掌り、属官には左右僕射、左右陛長(秩比六百石)がおり、中郎(秩比六百石)、侍郎(秩比四百石)、郎中(秩比三百石)を統率した。虎賁郎は本人が死んだら子が代わりに就任することとなっていた(『続漢書』劉昭注引荀綽『晋百官表注』)。
> 羽林中郎将もまた宿衛侍従を掌り、羽林郎(秩比三百石)を統率した。また羽林には羽林左監、羽林右監(秩六百石)がおり、羽林騎を司った。
> また後漢末頃には東西南北の方位を付した四中郎将があり、遠征軍の指揮官となった。
> 後漢末の戦乱の時期には、各軍閥が配下を独自の名を持つ中郎将に任命することがあった(例えば、劉備は諸葛亮を軍師中郎将とした)。
> 二千石には皇帝の許可なく逮捕できない特権(『漢書』文帝紀、文帝前7年)や、兄弟や子を郎に就けることができる任子(『漢書』哀帝紀注)などの特権があった。比二千石以上の官が持つ印綬は銀印青綬であった。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>
>
> 重要なのは、邪馬台国の使者たちに、「率善中郎将」等が賜与されていることです。
> 「使匈奴中郎将」「五官中郎将」「 左中郎将」などは見えるのですが、問題は「率善」がついたケースがあるかどうかですね。
>
> つまりこの「率」は、「一大率」という、倭に遠く過去に与えられていた官職・称号を、そのまま流用して「善く率いる」の意味にしたというケースも考慮すべきかもしれません。つまり、倭の使者が「大夫」と名乗ると同時に「一大率」という、過去の中国系の官職を持っていると主張したので、それでその「率」をとって「率善」としたという線です。
>
> 本来なら「倭中郎将」「南西官・・」となっていてもおかしくないんですね。しかし「率善」とした。
>
> なお彼らも規定どおり「銀印青綬」されています。そうすると逆に、難升米等は、規定どおり2千石とか、「郎」の名前を兄弟・子孫につける権威とかも授けられていた可能性があるわけですね。
>
> 似たような事例で邪馬台国の官職には、「升」が多くつきます。またそれは奴国時代の「師升」以来の「升」の字を継承した可能性もあるわけです。
>
> 先日お話した神話の神名にでてくる「(槌)ヅチ」も、上記の(一大)「率(シュチ)」由来と推定しましたが、おそらくは、中国系の官職、権限の継承を意味していたのでしょう。兄弟、子孫のみに継承が赦され、支配権を意味していたわけです。
>
> 「郎」は「ロウ(ラゥ)」です。物部とか和邇氏系などの氏族名とかに、それらの発音の名前がつく特徴などがあると、難升米の子孫だとか、わかってきますね。
>
>
> 「都尉」も授けられてますが、こちらも調べる必要ありそうですね。

1730岩淵國人:2013/10/08(火) 07:51:10
会費の件
前略:貴研究会の会員にしていただき、誠にありがとうございます。貴会運営にはそれなりの経費が掛かりましょう。会費はおいくらを、どちらに、いつ、どのようにして、振り込むのでしょうか?会員数は何人くらいおられますか?(岩淵國人:岩手県奥州市)

1731荊の紀氏:2013/10/08(火) 09:31:52
Re: 家形石棺
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> 難升米(なしめ、なんしょうまいとも、生没年不詳)は、弥生時代後期、3世紀の人物。邪馬台国の卑弥呼が魏に使わした大夫。
>
> 難升米は大夫。まだ大夫が不明ですな。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/難升米
>
>
>
> > やはり「率」は「ソツ」「シュチ」で、中国系の官職でしょう。
>
> >
> > 中郎将
> > 中郎将(ちゅうろうしょう)は、中国の前漢以降の官職名。
> > 前漢においては、光禄勲(郎中令)に属し、宮殿の門戸を守り戦時には戦車や騎兵に充てられる中郎(秩比六百石)を統率した。
> > 五官中郎将、左中郎将、右中郎将の3将がおり、また、宣帝の時に羽林を統率する羽林中郎将が、平帝の元始元年(1年)に虎賁郎を統率する虎賁中郎将が置かれた。中郎将は全て秩比二千石であった。
> > 後漢においても光禄勲に属し、五官中郎将、左中郎将、右中郎将、虎賁中郎将、羽林中郎将が引き続き置かれ、いずれも秩比二千石であった。
> > 五官中郎将、左中郎将、右中郎将は中郎(秩比六百石)、侍郎(秩比四百石)、郎中(秩比三百石)を統率した。
> > 虎賁中郎将は宿衛侍従を掌り、属官には左右僕射、左右陛長(秩比六百石)がおり、中郎(秩比六百石)、侍郎(秩比四百石)、郎中(秩比三百石)を統率した。虎賁郎は本人が死んだら子が代わりに就任することとなっていた(『続漢書』劉昭注引荀綽『晋百官表注』)。
> > 羽林中郎将もまた宿衛侍従を掌り、羽林郎(秩比三百石)を統率した。また羽林には羽林左監、羽林右監(秩六百石)がおり、羽林騎を司った。
> > また後漢末頃には東西南北の方位を付した四中郎将があり、遠征軍の指揮官となった。
> > 後漢末の戦乱の時期には、各軍閥が配下を独自の名を持つ中郎将に任命することがあった(例えば、劉備は諸葛亮を軍師中郎将とした)。
> > 二千石には皇帝の許可なく逮捕できない特権(『漢書』文帝紀、文帝前7年)や、兄弟や子を郎に就けることができる任子(『漢書』哀帝紀注)などの特権があった。比二千石以上の官が持つ印綬は銀印青綬であった。
> > http://ja.wikipedia.org/wiki/
> >
> >
> > 重要なのは、邪馬台国の使者たちに、「率善中郎将」等が賜与されていることです。
> > 「使匈奴中郎将」「五官中郎将」「 左中郎将」などは見えるのですが、問題は「率善」がついたケースがあるかどうかですね。
> >
> > つまりこの「率」は、「一大率」という、倭に遠く過去に与えられていた官職・称号を、そのまま流用して「善く率いる」の意味にしたというケースも考慮すべきかもしれません。つまり、倭の使者が「大夫」と名乗ると同時に「一大率」という、過去の中国系の官職を持っていると主張したので、それでその「率」をとって「率善」としたという線です。
> >
> > 本来なら「倭中郎将」「南西官・・」となっていてもおかしくないんですね。しかし「率善」とした。
> >
> > なお彼らも規定どおり「銀印青綬」されています。そうすると逆に、難升米等は、規定どおり2千石とか、「郎」の名前を兄弟・子孫につける権威とかも授けられていた可能性があるわけですね。
> >
> > 似たような事例で邪馬台国の官職には、「升」が多くつきます。またそれは奴国時代の「師升」以来の「升」の字を継承した可能性もあるわけです。
> >
> > 先日お話した神話の神名にでてくる「(槌)ヅチ」も、上記の(一大)「率(シュチ)」由来と推定しましたが、おそらくは、中国系の官職、権限の継承を意味していたのでしょう。兄弟、子孫のみに継承が赦され、支配権を意味していたわけです。
> >
> > 「郎」は「ロウ(ラゥ)」です。物部とか和邇氏系などの氏族名とかに、それらの発音の名前がつく特徴などがあると、難升米の子孫だとか、わかってきますね。
> >
> >
> > 「都尉」も授けられてますが、こちらも調べる必要ありそうですね。

一大卒 ・・・一大 (近衛団) 異動?
契丹(きったん、キタン、キタイ、英語: Khitan/Khitai、ピンイン: Qìdān)は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。 http://ja.wikipedia.org/wiki/契丹
墓はつくらず、これは室韋や豆莫婁と似ている、と記す。墳墓群も発見されており、多くは火葬された遺骨や遺灰が武具や陶器などと共に土坑へ埋葬されているが、高麗や扶余の影響を受け竪穴や石棺に埋葬されている場合もある。
宗教
遼代に仏教,道教,儒教が流入する以前は、上記の木吐山と魂を司る黒山に神が宿るとして、木吐山神,黒山神,天,地,日を祀り信仰していた。

羽林郎中(近衛団長)
尚書の陸麗・羽林郎中(近衛団長)の劉尼・殿中尚書の源賀らが 立ち上がり、逸早く宗愛を殺害し、亡き皇太子の長男の拓跋濬を擁立した。 即位後は 民力休養を是とし、開墾殖産を奨励した。 http://ja.wikipedia.org/wiki/文成帝_(北魏)
452年、宗愛が太武帝を弑し、さらに皇后令を曲げて、東平林王・拓跋翰(拓跋晃の異母弟)を殺害した。こうして宗愛は、文成帝の季父(末の叔父)の南安王拓跋余を擁立した。だが、8ヶ月後には拓跋余も宗愛に対して辟易し、親政すべく宗愛の誅殺を諮るも、それを敏感に嗅覚し、先手を打った宗愛によって殺害される事件が発生した。これに対して、尚書の陸麗・羽林郎中(近衛団長)の劉尼・殿中尚書の源賀らが立ち上がり、逸早く宗愛を殺害し、亡き皇太子の長男の拓跋濬を擁立した。
即位後は民力休養を是とし、開墾殖産を奨励した。また国内の求心力を高める意味からも仏教弾圧を廃止し、沙門の曇曜に命じて雲崗石窟の造営を始めた。曇曜五窟と言われる巨大な仏像のうち、最大の第20窟の仏像は道武帝の姿を模したものとされ、以下、明元帝・太武帝・景穆帝(拓跋晃)・文成帝の姿を模したとされる(「皇帝即如来」の思想の始まり)。また、曇曜の上奏により僧祇戸や仏図戸を設けた。

九卿は、郎中令・太僕・大理・大農・少府・中尉、奉常・宗正、衛尉
魏公国は、 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11109116361
郎中令・太僕・大理・大農・少府・中尉の六卿です。
奉常・衛尉・大鴻臚・宗正は王国時に設置されて九卿となりました(中尉がおそらく九卿から外れる)。

魏公(王)国では、相国(丞相に相当)、御史大夫(副首相)だけですね。太尉に相当するポジションはありません。

太常、郎中令(建安の終盤あたりまでは光禄勲らしいです。荀爽が光禄勲で、黄初年間にまた光禄勲なので、郎中令は短い復活のようですね)、衛尉、宗正、太僕、大理(郎中令と同じく、建安の終盤。その前も後も廷尉)、大鴻臚、大農(建安の終盤。前後は大司農)、少府、でしょうか・・・。

九卿の1つ。秦において、宮殿における脇の門(「掖門」)の守衛を管轄した郎中令を起源 とする。属官には、大夫、郎、謁者があった。 ... http://ja.wikipedia.org/wiki/光禄勲
秦において、宮殿における脇の門(「掖門」)の守衛を管轄した郎中令を起源とする。属官には、大夫、郎、謁者があった。

前漢でも引き続き置かれ、武帝の太初1年(紀元前104年)に、光禄勲と改称された。属官は、秦代の3属官に加え、期門、羽林が加えられている。
大夫 - 「論議」、すなわち朝廷での政策進言等を管轄。太中大夫(秩禄比千石)、諫大夫(武帝が元狩5年(紀元前118年)に設置。秩禄比八百石)、中大夫(太初1年に光禄大夫と改称。秩禄比二千石)がある。定員は無く、多いときは数十人置かれた。
郎 - 宮門の守衛を管轄し、皇帝の巡幸の際には車騎に乗った。議郎、中郎(秩禄比六百石)、侍郎(秩禄比四百石)、郎中(秩禄比三百石)がある。定員は無く、多いときは千人置かれた。 中郎将 - 五官、左、右の3将がある(いずれも秩禄比二千石)。
郎中将 - 車、戸、騎の3将がある(いずれも秩禄比千石)。

謁者 - 迎賓等を管轄。定員は70人。秩禄比六百石。 謁者僕射 - 秩禄比千石。

期門 - 武帝が建元3年(紀元前138年)に設置。護衛兵を統括。定員は無く、多いときは千人置かれた。僕射も置かれる。地位は郎と同格であった。平帝の元始1年(1年)に虎賁郎と改称された。 虎賁中郎将 - 元始1年設置(秩禄比二千石)。

羽林 - 武帝が太初1年に設置。期門より低位である。皇帝の警護を担当。最初は建章営騎と呼んだが、後に羽林騎と改められた。従軍して戦死した者の子孫を羽林として養成し、5種類の武器(「五兵」)を訓練させ、これを羽林孤児と呼んだ。羽林には、令、丞が置かれた。 羽林中郎将、羽林騎都尉 - 宣帝の時代に設置。羽林を監督。秩禄比二千石。


1732管理人:2013/10/08(火) 21:43:29
Re: 会費の件
岩淵國人さんへのお返事です。

> 前略:貴研究会の会員にしていただき、誠にありがとうございます。貴会運営にはそれなりの経費が掛かりましょう。会費はおいくらを、どちらに、いつ、どのようにして、振り込むのでしょうか?会員数は何人くらいおられますか?(岩淵國人:岩手県奥州市)

岩渕様、こんばんは。会費についてはいただいておりません、現在30人前後が参加しておりますが、主にメーリングリストを通して、情報交換をしています。もしよろしければ、こちらの問い合わせページから、名前など指定の項目を記載・送信いただければ、後日メーリングリストに登録しまして、情報を提供させていただきます。宜しくお願いします。

http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/contact.htm

1733秦野北斗:2013/10/10(木) 20:35:08
Re: 家形石棺
荊の紀氏さんへのお返事です。

一大卒の大は五大夫の大でないか。五十鈴との共通性が出てくる。


『日本書紀』の崇神天皇8年12月20日の条には「大夫」の文字があるが、大夫というのは律令制度における官位の呼称であって、律令制が確立される以前の崇神天皇の代に「大夫」という呼び方や官職があったわけではない。これは『日本書紀』が編纂されたときにその執筆者によって加えられた文飾であり、「大夫の身分に相当する者」すなわち今でいえば大臣や側近というほどの意味で使われたとみられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/大夫


日本書紀の垂仁天皇に五大夫がありますな。
http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1709


建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。 安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。(『後漢書』倭人伝)

 建武中元二年(57年)、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した。使人は大夫を自称する。倭国の極南界なり。光武帝は印綬を賜る。
 安帝の永初元年(107年)、倭国王が帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見(天子に拝謁する)を請い願う。

http://homepage2.nifty.com/watcher/hatano4.htm

1734荊の紀氏:2013/10/10(木) 22:22:19
Re: 家形石棺
秦野北斗さんへのお返事です。

> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> 一大卒の大は五大夫の大でないか。五十鈴との共通性が出てくる。
>
>
> 『日本書紀』の崇神天皇8年12月20日の条には「大夫」の文字があるが、大夫というのは律令制度における官位の呼称であって、律令制が確立される以前の崇神天皇の代に「大夫」という呼び方や官職があったわけではない。これは『日本書紀』が編纂されたときにその執筆者によって加えられた文飾であり、「大夫の身分に相当する者」すなわち今でいえば大臣や側近というほどの意味で使われたとみられる。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/大夫
>
>
> 日本書紀の垂仁天皇に五大夫がありますな。
> http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1709
>
>
> 建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。 安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。(『後漢書』倭人伝)
>
>  建武中元二年(57年)、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した。使人は大夫を自称する。倭国の極南界なり。光武帝は印綬を賜る。
>  安帝の永初元年(107年)、倭国王が帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見(天子に拝謁する)を請い願う。
>
> http://homepage2.nifty.com/watcher/hatano4.htm

日本における大夫
神職でも下位の者である御師を太夫と呼ぶようになった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/大夫
大夫の称は日本の律令制度にも取り入れられ、『公式令』の規定では太政官においては三位以上、寮においては四位以上、中国以下の国司においては五位以上の官吏の称とされた。すなわち、五位以上の男性官吏を指す称号であるといってよい。官職としての大夫はだいぶと読み(「東宮大夫」など)、単に五位を意味する場合にはたいふと読み分ける。また五位以下相当の官職の者が五位に叙せられた時、官職の下に大夫と付記する(例えば六位相当の官職である左衛門尉が五位に昇った際、左衛門大夫と称する)。五位にありながら散位即ち無官の者は無官大夫と称される。また従五位下の者は唐名を朝散大夫と称した。
女官の場合、五位以上の者を命婦という(詳細は命婦の項を参照)。
なお『日本書紀』の崇神天皇8年12月20日の条には「大夫」の文字があるが、大夫というのは律令制度における官位の呼称であって、律令制が確立される以前の崇神天皇の代に「大夫」という呼び方や官職があったわけではない。これは『日本書紀』が編纂されたときにその執筆者によって加えられた文飾であり、「大夫の身分に相当する者」すなわち今でいえば大臣や側近というほどの意味で使われたとみられる。
やがて時代が下ると大夫は五位の通称となり、さらに転じて身分のある者への呼びかけ、または人名の一部として用いられるようになった。五位というのは貴族の位の中では最下の位であったが、地方の大名や侍、また庶民にとってはこれに叙せられるのは名誉なことであった。そこでたとえ朝廷より叙せられなくとも一種の名誉的な称号として、大夫(太夫)を称するようになったのである。以下その例をあげる。ただし「太夫」と表記し「たゆう」と読む例が多い。
神道 伊勢神宮の神職である権禰宜が五位に叙せられていたことから、神職のことをいう。のちに神職でも下位の者である御師を太夫と呼ぶようになった。

伊勢神宮の内宮、外宮とも、神官は忌部氏
豊受大神というと伊勢神宮の外宮の神様ですが、じつは外宮の神官度会氏は忌部氏の末裔。
元々は内宮、外宮とも、神官は忌部氏だったそうです。

紫 青と黄色の舟ルッソ http://8906.teacup.com/toraijin/bbs

三木氏・・・(箕 姫氏)?



1735荊の紀氏:2013/10/10(木) 22:29:30
伊勢の鉱物と五十鈴姫
伊勢の鉱物と五十鈴姫 - 民族学伝承ひろいあげ辞典 - Yahoo!ブログ
2013年5月16日 - 神武天皇の近畿における妻となった五十鈴比売(ひめたたらいすけより・ほとたたら いすず比売)がある。 この比売の父親は淀川 ... 水銀に関しては二大産地として伊勢と、 四国阿波国の忌部氏や紀氏に関わる水生鉱山が有名。 あるいは熊野・ ... http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55566772.html
伊勢の五十鈴川の「いすず」を、この高師小僧由来とする意見もある。
神武天皇の近畿における妻となった五十鈴比売(ひめたたらいすけより・ほとたたらいすず比売)がある。
この比売の父親は淀川中流の摂津三島地方の地主である三島溝咋耳(みしまの・みぞくい・みみ)。
「みみ」は南九州由来を示す官名。
「ほと・たたら」で製鉄や精錬の竈を指す。
※たたら・・・「たた」は一文字で「多」であるので、「たたら」「たた」は火を使う者を指すのだろう。
        同類語に「おおたたねこ」「多氏」「太田命(伊勢地主神で猿田彦後裔を名乗る)」
ちなみにスズの語源は鉱物の錫だとも言われる。スズは精錬途中でチンチンという音をたてる。
五十鈴川と五十鈴姫は遠く離れた場所の名前で、双方の関連があったかどうかは知らない。あるいは三島豪族が伊勢へ鉱物を探しに行っていたか(そもそもが海人由来の氏族ゆえ、伊勢も紀伊も行っておかしくない)?
水銀に関しては二大産地として伊勢と、四国阿波国の忌部氏や紀氏に関わる水生鉱山が有名。
あるいは熊野・紀ノ川沿線に水銀?あるは褐鉄鉱があるために、空海はここに高野山を置いたともいう。
「こうや」もある種の鉱物地名であろうし、空海は最初に丹生川上にいき、そこから狩場明神という地主神に立ち入りを許可してもらったとある。狩場も鉱物開発地名である。
「かる」は「狩る」で、広くものを採集するときに使う言葉。
「かりた」「かんだ」などとなまり、いずれも鉱物地名の場合が多い。
場合によってはさらに「神田」となり、聖地とされた。


1736管理人:2013/10/10(木) 23:21:08
Re: 家形石棺
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> > 管理人さんへのお返事です。
> >
> >
> > 難升米(なしめ、なんしょうまいとも、生没年不詳)は、弥生時代後期、3世紀の人物。邪馬台国の卑弥呼が魏に使わした大夫。
> >
> > 難升米は大夫。まだ大夫が不明ですな。
> >
> > http://ja.wikipedia.org/wiki/難升米
> >
> >
> >
> > > やはり「率」は「ソツ」「シュチ」で、中国系の官職でしょう。
> >
> > >
> > > 中郎将
> > > 中郎将(ちゅうろうしょう)は、中国の前漢以降の官職名。
> > > 前漢においては、光禄勲(郎中令)に属し、宮殿の門戸を守り戦時には戦車や騎兵に充てられる中郎(秩比六百石)を統率した。
> > > 五官中郎将、左中郎将、右中郎将の3将がおり、また、宣帝の時に羽林を統率する羽林中郎将が、平帝の元始元年(1年)に虎賁郎を統率する虎賁中郎将が置かれた。中郎将は全て秩比二千石であった。

> 九卿の1つ。秦において、宮殿における脇の門(「掖門」)の守衛を管轄した郎中令を起源 とする。属官には、大夫、郎、謁者があった。 ... http://ja.wikipedia.org/wiki/光禄勲
> 秦において、宮殿における脇の門(「掖門」)の守衛を管轄した郎中令を起源とする。属官には、大夫、郎、謁者があった。
>
> 前漢でも引き続き置かれ、武帝の太初1年(紀元前104年)に、光禄勲と改称された。属官は、秦代の3属官に加え、期門、羽林が加えられている。
>??大夫 - 「論議」、すなわち朝廷での政策進言等を管轄。太中大夫(秩禄比千石)、諫大夫(武帝が元狩5年(紀元前118年)に設置。秩禄比八百石)、中大夫(太初1年に光禄大夫と改称。秩禄比二千石)がある。定員は無く、多いときは数十人置かれた。
>??郎 - 宮門の守衛を管轄し、皇帝の巡幸の際には車騎に乗った。議郎、中郎(秩禄比六百石)、侍郎(秩禄比四百石)、郎中(秩禄比三百石)がある。定員は無く、多いときは千人置かれた。 中郎将 - 五官、左、右の3将がある(いずれも秩禄比二千石)。
>??郎中将 - 車、戸、騎の3将がある(いずれも秩禄比千石)。
>
>





ううん、なるほど、先日の「郎」とともに、倭の「大夫」も、ただならぬ官職のようですね。秦代から武帝以前の前漢にかけて日本に渡来してきた中国系集団の官職だったのでしょうか。


燕時代に半島に流れ込んだ移民、穢、扶余系集団、その前漢〜後漢初期にかけての南下、その延長線上にある倭の王族ですね。そこで中国系官職を引き継いでいて、それでそれらの官職を継承していたという線になるでしょうか。あるいはそれ以前の江南弥生人が半島経由で流れ込んだ際に、受け継いだ官職、「太伯」の類いと一緒かどうかの見極めが重要です。


1737管理人:2013/10/11(金) 13:58:00
Re: 問い合わせページの件
岩淵國人さんへのお返事です。

> 拝復:ご返事をいただきありがとうございました。「名前など指定の項目を記載・送信いただければ、後日メーリングリストに登録しまして、情報を提供させていただきます。宜しくお願いします。」とありますが、指定の項目が何なのかを見つけかねております。一応私に関するいくつかの情報をお送りいたします。?氏名:岩淵國人。


岩淵様、さっそく詳細についてお知らせいただきありがとうございました。
それでは、こちらにて登録させていただきます。あと、メールアドレスのほうをお持ちでしたら、下記の問い合わせページから、そのメールアドレスと名前とを入力して、「確認画面」ボタンから、送信していただければ、後日メールにて、詳細をお知らせいたします。お手数ですが、宜しくお願いします。

http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/contact.htm

あと、岩淵様の先の書き込みにつきましては、岩淵様のプライバシー情報が列記されておりますので、こちらで念のため削除させていただきます。ご了承ください。

1738管理人:2013/10/12(土) 02:50:40
Re: E-mailアドレス:
岩淵國人さんへのお返事です。

> E-mailアドレス??以上です。

さっそくメールアドレスのほう、お知らせいただきありがとうございました。
それではまたメーリングリスト等で、詳細のお知らせを差し上げたく感じますので、今後とも宜しくお願いいたします。

なお、先のメール情報に関する書き込みのほうも、プライバシー保守の件から削除させていただきましたので、ご了承ください。


1739秦野北斗:2013/10/14(月) 01:25:35
Re: 家形石棺
管理人さんへのお返事です。

「岐」は山道で枝状にわかれたもの。 何を意味するか?

厳島神社(いつくしまじんじゃ)

伊都「岐」島神社

http://ja.wikipedia.org/wiki/厳島神社

伊都国(いとこく)

http://ja.wikipedia.org/wiki/伊都国

厳原町(いづはらまち)

厳=伊都「岐」

http://ja.wikipedia.org/wiki/厳原町

壱「岐」島(いきのしま)

http://ja.wikipedia.org/wiki/壱岐島



会意形声。「山」+音符「支」、「支」は「枝」の原字で、「細かく分かれていく」の意を有する。山道で枝状にわかれたもの。

http://ja.wiktionary.org/wiki/


>
> ううん、なるほど、先日の「郎」とともに、倭の「大夫」も、ただならぬ官職のようですね。秦代から武帝以前の前漢にかけて日本に渡来してきた中国系集団の官職だったのでしょうか。
>
>
> 燕時代に半島に流れ込んだ移民、穢、扶余系集団、その前漢〜後漢初期にかけての南下、その延長線上にある倭の王族ですね。そこで中国系官職を引き継いでいて、それでそれらの官職を継承していたという線になるでしょうか。あるいはそれ以前の江南弥生人が半島経由で流れ込んだ際に、受け継いだ官職、「太伯」の類いと一緒かどうかの見極めが重要です。
>

1740荊の紀氏:2013/10/16(水) 14:31:56
>「岐」は 何を意味するか?
伊岐( いき)の島から出てくる逸脱で、伊耶那岐の神、伊耶那美の神の領域、つまり「母」という のはこの二神のこと、あるいは伊耶那岐の大神のことをさします。 http://blogs.yahoo.co.jp/ieuoa324/9970944.html

天の守護神 アブラクサス 365 契約の神
岐 丰 (杉紋 )・・・古代測量の形。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?

ストーンサークル、ドルメン、メンヒル、磐座(いわくら)は皆、同じような役割 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?


1741管理人:2013/10/16(水) 23:06:35
Re: 家形石棺
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 「岐」は山道で枝状にわかれたもの。 何を意味するか?
>
> 厳島神社(いつくしまじんじゃ)
>
> 伊都「岐」島神社
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/厳島神社
>
> 伊都国(いとこく)
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/伊都国
>
> 厳原町(いづはらまち)
>
> 厳=伊都「岐」
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/厳原町
>
> 壱「岐」島(いきのしま)
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/壱岐島
>
> 岐
>
> 会意形声。「山」+音符「支」、「支」は「枝」の原字で、「細かく分かれていく」の意を有する。山道で枝状にわかれたもの。
>
> http://ja.wiktionary.org/wiki/
>
>


「岐」ですが、「キ・ギ」音ですね。キシさんの用例を見ると、後代の撰者が当て字として使ったようにもみえますが、その場合、呉音なら「ギ」、漢音なら「キ」になります。

秦氏とか東漢氏とかの古い渡来系は南朝呉音系の当て字を使うんですよね。ところがそれ以後の新漢人や唐人らは漢音を使う。

そうすると、前者だと「イギシマ」「イザナギ」となるわけですが、後者だと「イザナキ」と読ませるのが正解。

たぶん「キ」音なんですね。「イキ」が正解。そうすると南朝・呉音系で、秦氏・東漢氏らの古い時代の当て字の可能性がでてきます。

宇佐に「イチキシマヒメ」「市寸嶋比売」とかで、秦氏の本拠だと考えると納得いくような気もします。



1742秦野北斗:2013/10/21(月) 19:30:20
Re: 家形石棺
管理人さんへのお返事です。


秦氏、はて、秦氏の起こりを知りたいが中国五胡十六国時代では・・・年代が新しい。
まだ、まだ、ですな。結論は「イザナギ」の末裔ですな。弓月君は末裔ですな。

弓月君は中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦に由来する。また、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味する。同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す。(田辺尚雄)
弓月の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音であることにより、百済の系統とする。(笠井倭人)
秦の遺民が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)の系統とする。(太田亮)
新羅系の渡来人とする見解が有力といわれる。 聖徳太子に仕えた秦河勝は新羅仏教系統を信奉していた。これは蘇我氏と漢氏が百済仏教を信奉していたのと対照的である。
景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人とする(日ユ同祖論)

http://ja.wikipedia.org/wiki/秦氏


>
> そうすると、前者だと「イギシマ」「イザナギ」となるわけですが、後者だと「イザナキ」と読ませるのが正解。
>
> たぶん「キ」音なんですね。「イキ」が正解。そうすると南朝・呉音系で、秦氏・東漢氏らの古い時代の当て字の可能性がでてきます。
>
> 宇佐に「イチキシマヒメ」「市寸嶋比売」とかで、秦氏の本拠だと考えると納得いくような気もします。
>
>

1743まれびと:2013/10/22(火) 19:46:08
Re: 家形石棺
山形県で丸に違い鷹の羽紋の岸氏なる余りにも漠然とした乏しい情報で(笑)そのルーツについて、以前にこちらでお尋ねさせて頂きました。
どうやら次第に解って参りました。
福島県昭和村で麻のからむし(麻)の植栽地の開拓を始め、「岸の稲荷神社」を創建した岸氏と座間氏の関連について、
福島県昭和村の岸の稲荷神社の本社である岸町王子稲荷神社(旧名は「岸稲荷」。関東の稲荷神社総本社で東京都北区)と岸氏との関係について、
これら岸氏と武蔵・都筑・茅ヶ崎の地や菖家(花菖蒲園「武蔵園」)を巡り繋がる座間氏との関係につきましては下記を。

『カラムシ資料集 その1-008/028page』〔昭和村教育委員会〕
http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db//txt/10068.101.showa/html/00008.html

『座間の森 フラワー』
http://www.ne.jp/asahi/zama/nobi/toppage3.htm


更には、座間氏と佐々木氏との繋がり、その座間氏で都筑・安房など一部の座間氏が丸に(違い)鷹の羽紋を用いている事等につきましてはついては下記を。

『座間の歴史』〔野火のコラム〕小机郷の座間氏
http://www.ne.jp/asahi/zama/nobi/interest.htm

佐々木氏と座間郷との繋がりにつきましては直上記リンク先文中「三つの鐘」の記事および、
下記を挙げさせて頂きます。

『星谷寺。座間市入谷にある真言宗大覚寺派寺院』〔猫の足あと〕
http://www.tesshow.jp/kanagawa/yamatozama/temple_iriya_shokoku.html


佐々木氏の方々は少彦名様を尊崇する沙沙貴神社の氏子になれるようですが、
上記リンク先にもありますように佐々木源氏は本流はむしろ佐々木姓ではなく土着した郷の名前にどんどん変えて行ってしまう。
本流はむしろ上記リンク等のように資料を付き合わせ点と線で浮かび上がるようにして佐々木源氏一族ですので、
私のようなのは、沙沙貴神社よりも星谷寺やら阿波山上神社や酒列磯前神社にでも行くしかありません。
むしろこちらが少彦名命様がいらっしゃり佐々木源氏や秦氏が尊崇すべき場所でしょう。
阿波忌部や秦氏、ヤタガラスや金烏、白鷲や高皇霊産神こと徐福らやら神農やらに関係あるとされる少彦名命様ですが、
父祖神達には彦星だとか海龍王の息子で蛇だとかはたまた鬼だとか天若日子やら迦毛大神(カモノオオカミ)やら天津甕星等諸説で、
私のような者は謎に包まれて行く一方です。

下記を見ますと少彦名様ご本人はアラハバキ信仰という事になりますね。
また少彦名命様ゆかりの地に阿波の名が付くと共に、何やら岩船神社があり、その周辺地に那珂川や那珂氏等、付き纏うナーガ族を匂わせるのが何だか知りませんが興味深いです。
茨城には他に鹿島神社や香取神社の神様でも敵わなかったという天津甕星を建葉槌で封じる大甕倭文神社やら、
鹿島神社と香取神社に挟まれて出雲神(大国主?)を封じているという神栖神社やらでナーガ族大国主様と敵対関係にあり、
しかし鹿島神社の神は蛇神様であり大国主の幸魂である大物主様の子とも云われますしその辺も興味深いです。
大国主様・少彦名命様は出雲王朝、大物主様はそれを乗っ取った三輪王朝という感じが致します。
神棚の鏡や神社のしめ繩も蛇神様の霊力による日本全体に及ぶ目や呪縛を意味しているように思いますし、
今日本は余り良い事になっていないように思いますが、これは果たしてナーガ族大国主様の呪縛のせいなのか大物主様の呪縛のせいなか、それとも逆に大国主様や大物主様の力を封じる呪術なのでしょうか...


『地名の一致は阿波忌部進出の名残か??茨城編』
http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/46964414.html?s=art_cmt

『酒列磯前神社』
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/ibaraki/hitachinaka/sakaretuiso/sakaretuiso.html

1744秦野北斗:2013/10/22(火) 20:53:08
Re: 家形石棺
まれびとさんへのお返事です。

「違い鷹の羽」は弓月君ですな。

使用
藤紋、片喰紋、木瓜紋、桐紋と並んで五大紋のひとつに数えることがある。江戸時代には、安芸浅野氏や備後阿部氏、下総関宿久世氏などの大名や旗本など約120家が鷹の羽紋を用いた。阿蘇神社が、「違い鷹の羽」を神紋として起用している影響により、南九州に多く分布している。また、武士が多く用いた紋であることから、かつて武家政権があった土地に多いのも特徴である(京都や東京、九州の太宰府など)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/鷹の羽


>
> 『地名の一致は阿波忌部進出の名残か??茨城編』
> http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/46964414.html?s=art_cmt
>
> 『酒列磯前神社』
> http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/ibaraki/hitachinaka/sakaretuiso/sakaretuiso.html

1745まれびと:2013/10/23(水) 21:01:22
Re: 家形石棺
秦野北斗さんへのお返事です。

秦野北斗先生、いつもながら私のようなど素人には、後にしてご尤もと解る、無償にしてご善意のご教示恐縮です。

忌部氏の祖は天日鷲で、その鷲は、古代シュメールの女神ニンフルサグ(イムドゥグドゥフ)であるという方もいらっしゃいます。

『「魏志倭人伝」里程記事について 最終章03(完)』〔飛鷹満随想録〕
http://blog.goo.ne.jp/sophia_h/e/17a05b7e78a8ac9b94fad90ad327cec9

『文集:オリエント幻想(2)』
http://www2s.biglobe.ne.jp/~ipsenon/kk2.html

このオリエント幻想様にて、ニンフルサグの使いが鹿であるとありますが、鹿島神社等に鹿がいるのは対応性があるのでしょうか?
扶余も鹿を神の使いと考えていただとか、
鹿は角が七枝の世界樹やメノラーを隠喩するだとか、
新羅王だったかの冠の装飾にも世界樹の意匠が施されていただとか、
そういった事を思い出します。

阿蘇の豪族やら鷹の羽紋を用いる菊池氏も、何れは筑紫君の末裔であり、
筑紫君は阿波忌部氏と同祖とどこかで目にした覚えがあります。


『三日月王国(クルジャ)』〔この世は謎だらけ〕
http://ameblo.jp/tsukioto2011/entry-11497856138.html

1746管理人:2013/10/23(水) 22:56:18
Re: 家形石棺
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> 秦氏、はて、秦氏の起こりを知りたいが中国五胡十六国時代では・・・年代が新しい。
> まだ、まだ、ですな。結論は「イザナギ」の末裔ですな。弓月君は末裔ですな。
>
> 弓月君は中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦に由来する。また、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味する。同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す。(田辺尚雄)
> 弓月の朝鮮語の音訓が、百済の


秦氏は、蘇我氏と一緒に秦韓からやってきた集団でしょう。
欽明と血縁関係にあります。吉士や新漢人等と同時代にやってくるわけですね。

鷹の件はあるいは・・・の可能性はあります。阿蘇周辺調べていくのはよいアイデアだと思いますね。



1747秦野北斗:2013/10/23(水) 23:01:11
Re: 家形石棺
まれびとさんへのお返事です。

まあ、いろんな説がありあすな。

弓月君は月氏で匈奴になるな。

この説の糸口は魏志倭人伝の解読する事で理解できる。

秦野著書:徐福と邪馬台国 で古代220年の韓半島の全景が浮かび上がらせた。

今、古事記を解読している所ですな。

できれば、まれびとさんの地元の祭りを紹介して頂ければ嬉しいですな。

>
> 忌部氏の祖は天日鷲で、その鷲は、古代シュメールの女神ニンフルサグ(イムドゥグドゥフ)であるという方もいらっしゃいます。
>
> 『「魏志倭人伝」里程記事について 最終章03(完)』〔飛鷹満随想録〕
> http://blog.goo.ne.jp/sophia_h/e/17a05b7e78a8ac9b94fad90ad327cec9
>
> 『文集:オリエント幻想(2)』
> http://www2s.biglobe.ne.jp/~ipsenon/kk2.html
>
> このオリエント幻想様にて、ニンフルサグの使いが鹿であるとありますが、鹿島神社等に鹿がいるのは対応性があるのでしょうか?
> 扶余も鹿を神の使いと考えていただとか、
> 鹿は角が七枝の世界樹やメノラーを隠喩するだとか、
> 新羅王だったかの冠の装飾にも世界樹の意匠が施されていただとか、
> そういった事を思い出します。
>
> 阿蘇の豪族やら鷹の羽紋を用いる菊池氏も、何れは筑紫君の末裔であり、
> 筑紫君は阿波忌部氏と同祖とどこかで目にした覚えがあります。
>
>
> 『三日月王国(クルジャ)』〔この世は謎だらけ〕
> http://ameblo.jp/tsukioto2011/entry-11497856138.html


1748秦野北斗:2013/10/23(水) 23:03:43
Re: 家形石棺
管理人さんへのお返事です。

ヨーロッパの紋章に鷲が多く見られるな。

アメリカの白頭鷲はヨーロッパの名残だな。

>
> 秦氏は、蘇我氏と一緒に秦韓からやってきた集団でしょう。
> 欽明と血縁関係にあります。吉士や新漢人等と同時代にやってくるわけですね。
>
> 鷹の件はあるいは・・・の可能性はあります。阿蘇周辺調べていくのはよいアイデアだと思いますね。
>
>

1749荊の紀氏:2013/10/25(金) 22:18:44
Re: 家形石棺
管理人さんへのお返事です。


>
> 鷹の件はあるいは・・・の可能性はあります。阿蘇周辺調べていくのはよいアイデアだと思いますね。
>
>


肉食の掟 猛禽類 と鳩 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs
『ラーは太陽神であり、古代エジプト人は太陽の昇り沈みとともにラー自体も変形すると考えた。日の出のときはタマオシコガネ(フンコロガシ)の姿のケプリとして現れ、日中はハヤブサの姿をして天を舞い、夜は雄羊の姿で夜の船に乗り死の世界(夜)を旅するとされている。これは太陽の動きを神格化したものであるとされている』
 とあった。 ⇒『太陽の船』でなく『夜の船』 トアル。
  『日中は「ハヤブサ」の姿で「天を舞う」とする「日神」』の信仰者があった!! ノダ。
  《ナラバ!! 鹿児島県教育委員会は、『太陽神の信奉者「隼人」』 http://yatusiro.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/index.html
 とする方が「蛮族」とするより ”教育的”ではないか ???》

ユダヤ人はエジプト軍が海に呑み込まれることで、奴隸の状態から逃れることができ しかしここでも、彼ら(隼人の先祖)が日本人ではなくユダヤ人だと考えれば、完全に納得 れるのを喜ぶ理由を説明できない。 http://books.google.co.jp/books?id=3I0aHAoIK3YC&amp;pg=PA80&amp;lpg=PA80&amp;dq=エジプト 隼人&source=bl&ots=_trd0Iqezd&sig=zBn3hgKITwhzhDLNGvFqFmuZDcQ#v=onepage&q=エジプト 隼人&f=false

エジプト神話やシュメール文明以降の西アジアの歴史を取り入れた部分 がある。 http://www010.upp.so-net.ne.jp/fruit-1/omoi_01.html
古事記の編纂者は、イッソスが地名であるとは知らず、人名であると誤解したものと思われる。北アフリカのエジプトは、北九州になってしまっている。
神武天皇が北九州に入ると、その地の住民はこれを歓迎する。エジプト勢は、アレクサンドロス以下のマケドニア・ギリシア同盟軍をペルシア帝国からの解放軍として受け入れる。アレクサンドロス大王は、ここで民心をつかみ、ファラオ(エジプト王)に即位し、「太陽神アモンの子」と呼ばれる。五瀬命は、日の神の御子である。
神武天皇は、中国地方を渡り歩き、速吸門(潮流の速い海峡)で亀の甲に乗った人物に出会う。アレクサンドロス大王は、エジプトを出発してメソポタミアに入り、チグリス川を渡ったところで、再度ペルシア軍と会戦する。この会戦は、ガウガメラの戦いと呼ばれている。亀の甲に乗った者と出会うという表現は、ガウガメラという地名から来ているのであろう。ここでも、地名を人物名と混同している。


1750秦野北斗:2013/10/25(金) 22:41:26
Re: 家形石棺
荊の紀氏さんへのお返事です。

ユダヤ人は中近東ですな。「彼ら(隼人の先祖)が日本人ではなくユダヤ人だと考えれば・・」
どの様に中近東のユダヤ人が日本に来たかが謎ですな。

> ユダヤ人はエジプト軍が海に呑み込まれることで、奴隸の状態から逃れることができ しかしここでも、彼ら(隼人の先祖)が日本人ではなくユダヤ人だと考えれば、完全に納得 れるのを喜ぶ理由を説明できない。 http://books.google.co.jp/books?id=3I0aHAoIK3YC&amp;pg=PA80&amp;lpg=PA80&amp;dq=エジプト 隼人&source=bl&ots=_trd0Iqezd&sig=zBn3hgKITwhzhDLNGvFqFmuZDcQ#v=onepage&q=エジプト 隼人&f=false
>
> エジプト神話やシュメール文明以降の西アジアの歴史を取り入れた部分 がある。 http://www010.upp.so-net.ne.jp/fruit-1/omoi_01.html
>??古事記の編纂者は、イッソスが地名であるとは知らず、人名であると誤解したものと思われる。北アフリカのエジプトは、北九州になってしまっている。
>??神武天皇が北九州に入ると、その地の住民はこれを歓迎する。エジプト勢は、アレクサンドロス以下のマケドニア・ギリシア同盟軍をペルシア帝国からの解放軍として受け入れる。アレクサンドロス大王は、ここで民心をつかみ、ファラオ(エジプト王)に即位し、「太陽神アモンの子」と呼ばれる。五瀬命は、日の神の御子である。
>??神武天皇は、中国地方を渡り歩き、速吸門(潮流の速い海峡)で亀の甲に乗った人物に出会う。アレクサンドロス大王は、エジプトを出発してメソポタミアに入り、チグリス川を渡ったところで、再度ペルシア軍と会戦する。この会戦は、ガウガメラの戦いと呼ばれている。亀の甲に乗った者と出会うという表現は、ガウガメラという地名から来ているのであろう。ここでも、地名を人物名と混同している。
>


1751秦野北斗:2013/10/26(土) 12:14:58
補陀落渡海
補陀落渡海の補陀落は行基が行った五台山(中国)。

説明する。秦野北斗著書(徐福と邪馬台国)魏志倭人伝の行程に侏儒國があるな。
侏儒國は高知に当たる。「五台山」命名者は行基になる。著書の航路をたどれば中国山西省
東北部の五台県、五台山 (中国)が浮かびあがるな。
魏志倭人伝から補陀落渡海だが航海は1年を要するのだ、小型の木造船では自殺行為だな。

補陀落渡海

この行為の基本的な形態は、南方に臨む海岸に渡海船と呼ばれる小型の木造船を浮かべて行者が乗り込み、そのまま沖に出るというものである。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。ただし江戸時代には、既に死んでいる人物の遺体(補陀洛山寺の住職の事例が知られている)を渡海船に乗せて水葬で葬るという形に変化する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/補陀落渡海

五台山 (中国)
五台山(ごだいさん)は、中国山西省東北部の五台県にある古来からの霊山である。標高3,058m。仏教では、文殊菩薩の聖地として、古くから信仰を集めている。旧字表記では、五臺山。別名は、清涼山。2009年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/五台山_(中国)

五台山 (高知市)
高知市街地から国分川を越えた東に位置する。地形が五台山 (中国)に似ている事から、これに肖って「五台山」と命名された。命名者は行基だと言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/五台山_(高知市)



1752管理人:2013/10/26(土) 23:03:29
Re: 家形石棺
秦野北斗さんへのお返事です。

> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> ユダヤ人は中近東ですな。「彼ら(隼人の先祖)が日本人ではなくユダヤ人だと考えれば・・」
> どの様に中近東のユダヤ人が日本に来たかが謎ですな。
>
> > ユダヤ人はエジプト軍が海に呑み込まれることで、奴隸の状態から逃れることができ しかしここでも、彼ら(隼人の先祖)が日本人ではなくユダヤ人だと考えれば、完全に納得 れるのを喜ぶ理由を説明できない。 http://books.google.co.jp/books?id=3I0aHAoIK3YC&amp;pg=PA80&amp;lpg=PA80&amp;dq=エジプト 隼人&source=bl&ots=_trd0Iqezd&sig=zBn3hgKITwhzhDLNGvFqFmuZDcQ#v=onepage&q=エジプト 隼人&f=false
> >


ちょっと多忙で返信できませんでしたが、古代日本・ユダヤ人研究会というのも作ってもいいかもしれませんね。




1753荊の紀氏:2013/10/27(日) 01:39:13
Re: 家形石棺
管理人さんへのお返事です。


> ちょっと多忙で返信できませんでしたが、古代日本・ユダヤ人研究会というのも作ってもいいかもしれませんね。
>

2世紀にはキリスト教徒の巡礼の場所
ヨハネ福音書3章のイエスとニコデモとの対話には、仏教の輪廻転生思想が表われているという説がありま
輪廻転生
ゴホウラ(護法螺) http://kotobank.jp/word/ゴホウラ(護法螺)
…埋葬人骨の例では,男性が貝輪をはめている例も少数あるが,一般的には成人女性の場合が圧倒的に多い。
転生
ゴホウラは中国語 由来だ、ということになります。 http://6009.teacup.com/agenahiroshi/bbs/2149

燕の子安貝 -永命線-」. 燕(つばくらめ、つばめ). ツバメは古代中国の時代から 安産の象徴とされる鳥。 また、殷王の先祖はツバメの子だと言われていた。 http://www.toho-motoneta.net/index.php????????/???????λ?????-?????-??
永「ながい」命
「永」 解字:象形。川の本流から分かれている支流の形にかたどる。支流のある長い革の意。ひいて、「ながい」意に用いる。 http://shoukei.blog65.fc2.com/blog-entry-94.html

>西は衆夷(熊襲、隼人などか)を服すること66国。 ... 雄略天皇は吉備・播磨・伊勢を 始め、中部・関東地方にも東征していますので、記録には残されていませんが、当時 既にディアスポラ(強制分散移住)を用いていた可能性は有ると思われます ... http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1302
>ディアスポラ(強制分散移住)を用いていた可能性は有ると思われます。

隼人研究者としては、沖縄のゴホウラを運ぶのは、隼人、是は森浩一先生の説。鵜飼は 長江上流の蜀由来で吉野の阿多族すなわち隼人の裔も鵜飼をする民、これは早大の 古賀先生の説。 土井が浜にはゴホウラ貝と鵜が出てくる。 この弥生人は隼人と関係が??... http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban13.htm
この弥生人は隼人と関係があるのでしょうかね。

先般、放送大学で鳥取の砂丘の話が出ていました。
弥生時代はこの地も草原であった。中世から砂丘が発達したそうです。

土井が浜と鳥取砂丘は大分離れていますが、同じ山陰の日本海沿いということで、土居が浜も昔は緑の地であったのではありませんか。

サハラ砂漠だって、ゴビ砂漠だって昔は緑の時代があった。
アマゾンも今は緑の地、焼畑が進めば来世紀は砂漠化するといわれていますものね・・・

土井ケ浜遺跡は、山口県の日本海、響灘に面する海岸沿いにある約2300〜2000年 前の弥生時代の埋葬遺跡です。 ... http://www.iokikai.or.jp/kodai.doigahama.html
土井ケ浜遺跡での埋葬方法には、?遺体を入れるための穴を掘るだけの土壙墓、?やや大きな板石を箱型に組み遺体を収納する石棺墓、?遺体の周囲や両側あるいは一部を石で囲った配石(石囲)墓、?遺体の四隅に石を配置する墓などがある。北九州のような甕棺墓はない。この違いは渡来系弥生人のルーツの違いと見られている。土井ケ浜弥生人は大陸辺縁部から、北部九州の甕棺墓の弥生人は中国大陸内陸部にそのルーツがあるようだ。
?遺体の四隅に石を配置する墓

四隅に白い石柱が立ってい ます。 ... http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/john/ch01/04intro4.htm
ヨハネ福音書が書かれる<以前の>ヨハネ共同体には、深刻な内部分裂はまだ見られません。論争は共同体と外部のユダヤ教徒との間で行なわれたからです。したがって、ユダヤ教との論争はヨハネ福音書執筆以前の時期にすでに始まっていたことになります〔Brown. The Community of the Beloved Disciple. 56.〕。共同体のメンバーもユダヤ系がほとんどで、ヨハネ共同体に多くの異邦人キリスト教徒が参入してくるのは、エフェソに移住した後のことです。
 エフェソでの場所は特定できませんが、現在のトルコのセルチュク郊外にあるエフェソの遺跡には、中心にケルススの図書館跡があり、そこから直線距離で北東に2キロほどのところにアヤスルクの丘があります。その丘に、壮麗な聖ヨハネ大聖堂の遺跡があります。遺跡の内部に白い石が一段高く正方形に敷かれていて、四隅に白い石柱が立っています。その石畳には「聖ヨハネの墓」と記された札が置かれていて、その正方形の敷石の下に聖ヨハネの墓があります。その墓を中心に彼の弟子5人の小さな墓が十字架の型に配置されているとガイドブックに記されています〔Naki Keskin. Epehsus. Translated into English by Anita Gillette. Keskin Color Kartpostalcilik A.S. 9-10. 〕。
 この大聖堂は、6世紀に、ユスティニアヌス帝とその后テオドラによって建てられました。そこで2世紀後半の貨幣が発掘されていますから、この墓は、2世紀にはキリスト教徒の巡礼の場所であったことが分かります。墓の側には、巡礼に訪れた人たちのための聖なる井戸の跡があり、これらの遺跡から判断すると、おそらくここが、かつてヨハネ共同体が礼拝を行なっていた場所だと推定できましょう。そうだとすれば、ヨハネ共同体の礼拝は、エフェソの市街からかなり離れた静かな丘の上で行なわれていたことになります。
「地の民」
しかし、ファリサイ派の基準に照らす民が救われ、その他の者は救いから<漏れる>のなら、「地の民」は1世紀のユダヤ人の大多数を含むことになりますから、彼らがすべて契約から<除外される>と見るのは実際的でないでしょう。だから、ラビ的な律法解釈に照らして除外される者を除くなら、「地の民」にも「寛容と赦し」が用意されていました。
 旧約聖書では、神との契約を守り続けた「残りの者」から預言者が出て、民を悔い改めに導いたとありますから、クムラン宗団は、自分たちこそ「真のイスラエル」であり、「残りの者」だと定義しました。だから、異教徒/異邦人を厳しく排除したのです。ところが、ユダヤ人キリスト教徒は、自分たちこそ真のイスラエルであり「残りの者」であると見なし、自分たちこそが終末に救われる者を「体現」するという自己理解に立っていました。しかも彼らは、この自己理解と同時に、異邦人キリスト教徒をも受け容れたのです。だから彼らキリスト教徒は、反ファリサイ的ではあったけれども、反ユダヤ主義ではなかったのです。ファリサイ派はこれに対抗して、自分たちこそ真のイスラエルであるいう自負のもとに、ユダヤ人キリスト教徒は旧約の契約から断絶されていると見なしたのです〔Keener, John (1) 201.〕。

律法に関して言えば、ユダヤ人キリスト教徒は、キリストこそ律法の成就者であると主張します。他方ファリサイ派のほうは、神との契約を遵守するラビと、これを知らない「地の民」、この二つを区別するラインこそが救いを分ける境界だと強調します。こうして、キリスト教のエクレシアとユダヤ教の会堂とは、「神の民」とは何か?をめぐって相対立することになります。だからこの問題が、ファリサイ派とユダヤ人キリスト教徒との間の緊急な課題になったのです〔Keener, John (1) 201.〕。

アジアのユダヤ教とキリスト教徒
 キリスト教に対する弾圧は、90年代に新たな段階を迎えます。ローマ皇帝ドミティアヌス(在位81〜96年)は、己が「主であり神である」と称して皇帝崇拝を強要し、これがキリスト教への弾圧につながったからです。ヨハネ黙示録13章18節にでてくる「獣の数字666」とは、この皇帝の称号を記号化したという説があります。ただし、この弾圧が行なわれたのは彼の治世の末期(95年頃)のことで、それも組織的な弾圧ではなく地域によって差がある散発的なものだったと考えられます。この時期のキリスト教を外から見れば、ユダヤ教との区別がまだ明確ではなく、このためにローマ側も、キリスト教徒をどのように扱うべきかよく分からなかったようです。なおこの時期は、ヨハネ福音書が書かれた90年代ですから、共同体がエフェソへ移住していた頃になります。
 エルサレム滅亡以後のローマの支配下では、ユダヤ戦争以前に認められていたユダヤの神殿税は、皇帝に捧げた社と異教の神殿の維持にまわされました。ドミティアヌス帝は、さらに、異邦人からユダヤ教に改宗した者、割礼を受けていないがユダヤ教を敬う「敬神の異邦人」にもこの税制を適用しました。これは、異邦人からユダヤ教への参入を阻止するねらいがあったからです。アジアのユダヤ教の会堂には、大量の異邦人の改宗者や敬神者たちがいましたから、このような税制はユダヤ教の指導層を困惑させたに違いありません。だから、ラビたちは、ユダヤ教内部の「やっかい者」や、キリスト教徒を含む「メシア主義者」を厳しく取り締まらざるを得なかったのです。
 イエスこそ「ユダヤ人の王」であるというキリスト教の主張は、このようなユダヤ教側の処置に対抗するためだったのかもしれません。ドミティアヌス帝は、「王の死」を預言する占星術者を厳しく罰しましたから、ヨハネ福音書の預言者的で王権的キリスト論は、ローマとキリスト教との板挟みになったユダヤ教の指導層には大きな脅威だったことでしょう。ユダヤ教徒は皇帝崇拝に参与することを免除されていました。このために、少なからぬ異邦人たちが皇帝崇拝からの免除をユダヤ教に求めてきたようです。こういう状況の中で、ユダヤ教の指導者たちは、カリスマ的な預言活動にいかに対応するかが迫られていたのです。
アジアのディアスポラ
 1世紀頃のローマ帝国内で、「ディアスポラ」と呼ばれる離散のユダヤ人たちが住んでいた地域は、ごくおおざっぱに見て、チグリスとユーフラテス河のメソポタミアの地域と、現在の小アジアの西方と、現在のギリシアのコリントスを中心にする地域と、エジプトのナイル川流域でした。その数は、パレスチナに250万、エジプト、シリア、小アジアにそれぞれ100万、メソポタミアに100万ほどで、合計すると750万に達します〔大澤武男『ユダヤ人とローマ帝国』講談社現代新書(2001年)60〜62頁〕。ちなみに1世紀半ばのローマ市内には4万人近いユダヤ人が住んでいたようです〔大澤前掲書62頁〕。
 ユダヤのハスモン朝は、ギリシア系のセレウコス朝の支配下にある時代、その圧迫を逃れるために伝統的にローマと同盟関係を結んできました。また小アジアのポントスの王ミトリダテスがローマに反旗を翻した時(前88〜85年)、ギリシアの諸都市が王に味方した際に、小アジアのユダヤ人はローマ側に付いたのです。このために、アジアのユダヤ人に兵役免除などの特権が与えられました。ローマの元老院でカエサルが暗殺された後、甥のオクタウィアヌスがアントニウスと結んで、元老院のブルートゥスとカッシウスの同盟軍とフィリピで闘い、オクタウィアヌス側がカッシウス側を破りました(前42年)。この際にも、タルソスを始め小アジアのユダヤ人は、初代皇帝となるオクタウィアヌスの側についたのです。このために、カッシウスから手痛い復讐を受けたものの、その代わりこの初代皇帝から、多くのユダヤ人にローマの市民権が与えられ、会堂保有の保証やユダヤ人内の裁判権や安息日の認可などの特権が授与されました〔アラン・ドゥコー『聖パウロ』奈須瑛子訳。女子パウロ会(2006年)18〜21頁〕。
 このように、小アジアのユダヤ人たちはその地位と自由に比較的恵まれていました。アジア州のスミルナの東方にあるサルディスでは、地域の裕福なユダヤ人たちが町の中心地に立派な会堂を持っていました。今に遺るその会堂跡は、市場の通路よりも一段高い場所にあり、立派な体育館と隣接しています。またエフェソの劇場の座席は、座席の中央部の下段を中心に半円形に広がっていて、要(かなめ)となる中心の座席は、総督など行政の最高権力者のためのものでした。この中心部に近い座席に、「神を敬うユダヤ人の席」と刻まれた座席が現在も遺っていて、当時のエフェソの裕福なユダヤ人が、社会の上層を占めていたことを示しています。アジアの地方行政とユダヤ人とのこの関係は、ヨハネ共同体とユダヤ教の会堂との関係を知る上で見逃すことができません。
 このようなユダヤ教と帝国との関係から判断すると、パレスチナのユダヤ人による帝国への反乱は、アジアの裕福な離散のユダヤ人に、彼らの立場へ悪影響を及ぼしかねない深刻な懸念をもたらしたと思われます。だからアジアのユダヤ人たちは、黙示的なメシア運動には用心深かったのです〔Keener, John (1) 176-77.〕。
公認ユダヤ教とキリスト教徒
 ネロ帝(在位54〜68年)によるキリスト教徒への迫害は、キリスト教と「帝国公認の」ユダヤ教とを区分する最初のきっかけになったと言えましょう。公認のユダヤ教から「離反した」と見なされた場合、キリスト教は、皇帝崇拝への強要を免れることができなくなります。トラヤヌス帝によるキリスト教徒への散発的な迫害に続いて、ネルヴァ帝(在位98〜117年)までのローマ帝国は、ユダヤ人を人種的に扱うよりも、むしろ宗教的な側面でユダヤ教徒として扱っていました。
 2世紀前半までのローマ帝国は、キリスト教徒を皇帝に対する「反逆者」としてではなく、一般の「犯罪人」として扱ったようです。使徒言行録で、ルカはイエスの弟子たちと古代イスラエルの宗教との継続を強調していますが、これは、当時置かれていたアジアのキリスト教という観点から見れば、そこにルカの興味深い意図を読み取ることができます。
 一般の離散のユダヤ人がキリスト教徒を直接迫害したとは思えません。しかし彼らは、キリスト教徒が帝国に忠実でないことを知った場合には、自分たちの保身のために、そのキリスト教徒をローマの官憲に引き渡すことがあったと推定されます。アジアでは、皇帝崇拝がかなり早い時期に始まっていました。ティベリウス帝(在位14〜37年)は、初代皇帝アウグストゥスに倣って、その死後に神格化されましたが、アジアでは、皇帝は、その生前から神性を帯びていました。だから、ヨハネ黙示録1〜3章にでてくる諸教会の地域、すなわちアジア州一帯では、皇帝崇拝が強要されていて、エフェソはそのような都市の典型だったのです〔Keener, John (1) 178.〕。今に遺るエフェソの遺跡には、ケルススの図書館からまっすぐ伸びるクレテス通りに沿って、ハドリアヌス帝の社、トラヤヌス帝の泉、ドミティアヌス帝の社などが跡を留めています。
 だから、アジアに限って見るなら、ドミティアヌス帝によるキリスト教徒への1世紀末の圧迫は並々ならぬものがあったでしょう。ユダヤ教という公認宗教から一度(ひとたび)外されたなら、皇帝崇拝を拒否したキリスト教徒に対する圧力はすさまじいものがあったのは想像に難くありません。これに対して、例えばマタイ福音書の教会は、パレスチナに近いシリアのアンティオキアにありましたから、アンティオキアの主教イグナティオス(35頃〜107/117年)の殉教のような特異な例を除くなら、このような圧力に曝されることはなったと思われます〔Keener, John (1) 179.〕。
 このように、アジア州でのヨハネ共同体は、その他のユダヤ教のカリスマ運動共々に、当時のアジアのユダヤ人共同体の安全を脅かすものと見なされたようです。だから、ユダヤの会堂は、ユダヤ教徒やユダヤ人キリスト教徒の預言運動に対して過敏な懸念を抱いていたのです。中でもヨハネ共同体の抱く高度なキリスト観は、皇帝とこの世の秩序に反感を抱くものと見られたのでしょう。
 ユダヤ教徒もユダヤ人キリスト教徒も、異教世界からある程度分離していましたが、それでも彼らの預言スタイルには、異教的な預言スタイルの影響を認めることができます。ローマ帝国への神の裁きを預言する際にも、その預言スタイルは、ヘレニズム化したユダヤ教から生じましたから、意図せずしてギリシア的な傾向を帯びていました。このために、ユダヤ人キリスト教徒もキリスト教への改宗異邦人も、例えばティアティラのイゼベルを真似たのでしょう(ヨハネ黙示録2章20節)。イゼベルのような預言者は、キリスト教に反対するユダヤ教徒やローマ側にまわったために、新約聖書で「大淫婦」の側に与することになったのです(ヨハネ黙示録17章1〜15節/18章3節)。コロサイ人への手紙(2章16〜23節)やガラテヤ人への手紙(1章8節/4章9〜10節)もまた、アジアでのこのような混淆宗教の存在を証ししています。ただし、アジアにおいての混淆やエクスタシー的なヴィジョンは、その程度や性格において多種多様で、ほとんど都市ごとに異なっていたとさえ言えるほどです。
 こういう状況の中で、アジアでのヨハネ共同体は、ユダヤ教側から攻撃に曝されるだけでなく、周囲のヘレニズム世界からも敵視される傾向があったのです。アジアにおけるユダヤ教の会堂がキリスト教徒に向ける拒否は、事情が異なるとは言えパレスチナに比して劣るところがなかったと言えます。非正統的ユダヤ教の中でも、キリスト教徒は、キリストが救いの唯一の道であると公言する(ヨハネ14章6節)セクトだったからです。この対立の起源は、イエスとファリサイ派との対立に求めるべきでしょう。イエスは、彼以後のキリスト教徒に劣らず反体制的だったからです。ただし、2世紀の終わり頃までは、キリスト教に対するユダヤ教の対応は、他のユダヤ教内の異端への対応に比べると、必ずしも一貫性があったわけではありません。
会堂とキリスト教徒
 ユダヤ人キリスト教徒は1世紀の半ば過ぎ近くまで、会堂に留まっていましたが(使徒22章19節/同26章11節)、エフェソにおいては、キリスト教の信者の多くが、1世紀半ば過ぎには会堂を離れていたと思われます(使徒19章8〜9節)。しかし、その後も会堂内にキリスト教への同調者たちが現われたと推定されます。とすれば、当然、会堂内には分裂が生じたでしょう(ヨハネ黙示録2章9節/同3章8〜9節)。パレスチナでは2世紀に入ってからも、ユダヤ人キリスト教徒が、ユダヤ教との連帯を保とうとして会堂に留まろうとしていた形跡があります。離散のユダヤ人の場合も、同様の者たちがいたと思われますが、パレスチナ以外の地域ではその実態が多様でよく分かりません。
 「イエスが受けた迫害が、弟子たちに及ぶ」という出来事は、イエスの真正な言葉に由来するものですが(ヨハネ5章18〜21節/ルカ6章22節)、異端者への呪いを祈る18祈願も同様でした。ただし、この祈りがあらゆる会堂で一様に実行されたとは考えられません。祈りを一人一人が声に出して唱えたのか、一斉に朗唱したかも確かでありません。しかし、離散のユダヤ人の会堂でもヤブネ並みの呪いが祈られたのは、かなり早かったと思われます〔Keener, John (1) 209.〕。
 ヤブネは、統一したハラカーを制定することで、密かなキリスト教徒をあぶり出そうとしました。離散のユダヤ人の会堂でも、パレスチナのヤブネのモデルに従おうとしたでしょう。このような状況が、少なくともヨハネ共同体の周辺で生じていたのは確かです。サタンが、「神の民」からクリスチャンを追い出そうとしたのです(黙示録3章8〜9節)。
 「異端者への呪い」はヨハネ福音書が書かれる以前に起こったと考えられますから、この祈願と、これによって生じた会堂からのキリスト教徒の追放が、ヨハネ福音書に直接反映していると見るのは憶説でしょう。祈願とヨハネ福音書のテキストとの間に直接の関係は見いだせないからです。ヨハネ7章49節/同9章28節も、そうだと思えばそのように読める程度です。パレスチナでの「呪いの祈願」は80年代のことです。これらの呪いは、直接キリスト教徒を追放する目的ではなかったにせよ、ユダヤ人キリスト教徒を居づらくして、会堂から去らせる効果があったでしょう。ヤブネに始まるこの祈願は、東地中海圏の会堂全体に広がった形跡があります。ただし、アジアの諸会堂がどこまでヤブネ(ヤムニア)のモデルに従ったのか確かではありません。パレスチナのラビたちは、理論上は、律法がパレスチナにおいても離散の地域においても同じだと決めていましたが〔Keener, John (1) 212.〕、この祈りがあらゆる地域で実行されたとは考えられません。離散のユダヤ人は、必ずしもユダヤ式の儀礼に固執しなかったからです。
 しかし、アジアの地方行政は、皇帝崇拝を含む地方の宗教行事からユダヤ教徒を免除する点では、パレスチナに比してより厳しい措置をとっていました。だから、皇帝崇拝への免除が与えられるユダヤ教徒も、より厳しく限定されていたと思われます。会堂からの追放は、公式に、あるいは非公式に、局地的に、あるいは全面的に起こったはずですが、実態は明らかでありません。どちらにせよ、追放は直ちにこの免除の特権を失うことを意味しましたから、ユダヤ人キリスト教徒とユダヤ教徒との間に深刻な亀裂が生じたと思われます〔Keener, John (1) 213-14.〕。
ヨハネ福音書とヘレニズム
 ユダヤ人キリスト教徒はヨハネ共同体の核を形成していましたから、共同体の異邦人キリスト教徒は、自分たちがユダヤ教的な信仰へ改宗したことを十分理解していたでしょう。ヨハネ福音書のヘレニズム的な特徴は、ユダヤ教の影響を抜きに理解できません。もっとも、その「ユダヤ教」は、パレスチナ特有のユダヤ教と言うより、パレスチナも離散のユダヤ人も両方を含めた「ユダヤ教」のことです。
 この時期ユダヤ教はヘレニズム化していましたから、神殿崩壊から20年も経つと、異邦人キリスト教徒同様に、離散のユダヤ人向けにもパレスチナ的用語の説明が必要だったでしょう。例えば「ラビ」(ヨハネ1章38節)の説明は、マタイ福音書の聴衆には必要なかったでしょう。「メシア」(ヨハネ1章41節)は、離散のユダヤ人でも全員が理解できたでしょうが、異邦人キリスト教徒には説明が必要だったのです。ギリシア語の「キリスト」でなく、セム語の「メシア」がそのままでてくるのは、新約聖書中でヨハネ福音書だけです(1章41節/4章25節)。
 ギリシア・ローマの古典について言えば、例えばサルディスの上流のユダヤ人の間では、ホメーロスからの引用も理解できたでしょう。しかし、ヨハネ福音書は、ルカ系の文書ほど(使徒17章28節)古典的な世界を反映していません。この福音書は標準的なヘレニズム世界のユダヤ人に宛てられているからです。ヘレニズムの哲学を代表するストア哲学は、ヨハネ福音書の読者が置かれたヘレニズム世界の背景として認められるものの、この福音書には、直接に当時のストア哲学を反映している箇所はありません。この点でパウロ書簡とは異なっています〔Keener, John (1) 157-58.〕。
 ユダヤのヘレニズム化とはむしろ逆に、ヘレニズムそのものはユダヤ化していませんでした。「ユダヤの神観」として広く知られていた「目に見えぬ唯一?」を除くなら、ユダヤ思想はヘレニズムに直接影響を与えていたとは言えません。ユダヤ教に対する理解度は、ヘレニズム世界の地域によって差がありましたが、1世紀末のアジア州の異邦人キリスト教徒なら、改宗の前も後も、ヨハネ福音書のユダヤ思想にそれほど違和感を覚えることがなかったと思われます〔Keener, John (1) 155-56.〕。もっとも、ヨハネ2章6節/7章37〜39節は、ユダヤ的な理解なしにはありえないものです〔Keener, John (1) 172-73.〕。またヨハネ福音書のイエスは、共観福音書に比べると「ユダヤ的な」メシアの特徴を帯びています〔Keener, John (1) 174.〕。
 使徒的な教会を含むキリスト教徒の諸教会が、東地中海圏に国際的な広がりを見せる中で、ヨハネ共同体は、ヨハネ福音書の「高度なキリスト」観を諸教会全体に実現しようとしています。主イエスこそ「イスラエルの王」であり、この王に導かれた「霊によるイスラエルの民」こそが、全世界を「唯一の神の真理」へ導く歴史的役割を担っていると自覚していたからです。だから、異邦人キリスト教徒も、この「ユダヤ的な」運動に参加することになります。ヘレニズム世界を表わす「この世」に向けてユダヤ的な見方を擁護すること、これが異邦人キリスト教徒の役目であったとすれば、この点で、ヨハネ福音書はマタイ福音書に最も近くなります〔Keener, John (1) 175.〕。だから、キリスト教のヘレニズム世界への拡大に伴って、ユダヤのヘレニズム化が進んだのではなく、逆にヘレニズムのユダヤ化が始まったと見ることができます。
ヨハネ共同体と異邦人キリスト教徒
 すでにエフェソ人への手紙において、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との融合が語られ奨励されているように、ヨハネ共同体でも、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒の融合が語られたでしょう。しかし、ヨハネ共同体では、異邦人キリスト教徒は、自分たちがイスラエルの「残りの者」と共にいることを、より強く自覚させられたに違いありません。
 「メシア」や「ラビ」がギリシア語で説明されているという理由で、ヨハネ福音書が異邦人キリスト教徒向けであることを強調する説があります。しかし、離散のユダヤ人のほとんどは、ヘブライ語もアラム語も理解できなかったのです。50年頃のローマのユダヤ人キリスト教徒は、「メシア」ではなくギリシア語の「クリストス」を用いていたことが、クラウディウス帝のユダヤ人追放事件でも理解できます。ヨハネ福音書でも、ギリシア人に言及している箇所がありますが(7章35節/12章20節)、これは、異邦人を受け容れるように奨励する意図があったからでしょう。ヨハネ共同体内では、異邦人キリスト教徒は多数派ではありませんが、彼らはおそらく、ユダヤ教の会堂に属する異邦人と同様に「神を畏れる異邦人」か、これに近い人たちだったのでしょう〔Keener, John (1)158 -159.〕。
ヨハネ福音書と仏教
 仏教の伝来について言えば、ヨハネ福音書3章のイエスとニコデモとの対話には、仏教の輪廻転生思想が表われているという説があります〔Gruber and Kersten. The Original Jesus:The Buddhist Sources of Christianity. English translation. Element (1995). 90-91.〕。この見解は、ヨハネ福音書の知恵思想に注目するところから生じているのでしょう。この説を不可能だと断定することはできないまでも、ヨハネ福音書と仏教との直接の関わりは認められません。ヘレニズム世界と仏教との関わりの中で可能だという意味です。また、ヘレニズム世界の神秘主義もユダヤの知恵思想に入り込んでいた形跡がありますが、この神秘主義も、ヨハネ福音書の背景として間接的に見ることができるだけです〔Keener, John (1) 159-61.参照〕。
ヨハネ福音書のユダヤ的特徴
 近年の傾向として、最初期のユダヤ人キリスト教徒へ注意が向けられるにしたがって、福音書をヘレニズム世界から見る視点が後退し、イエスの思考もユダヤ的だと見なされるようになりました。ヨハネ福音書のヘレニズム的特徴さえも、パレスチナの風土から見直されました。1970年代半ばで、ヨハネ福音書の世界は完全にユダヤ的だと見なされるにいたったのです。これは死海文書による影響が大きかったと言えます。ヨハネ共同体にはエッセネ派がいたと言われたのもこの時期です。ギリシア・ローマ世界に精通した学者までもが、最初期のキリスト教文書にユダヤ的な要素を見出していた頃です。ヨハネ福音書はアジアのギリシア人のために書かれたと唱えたラムゼイでさえ、パレスチナ的な風土の理解なしにはヨハネ福音書を理解できないと考えました〔Keener, John (1) 171-172.〕。
 ヨハネ福音書の旧約からの引用は、ヘブライ語原典と七十人訳に基づいていますが、直接引用するのではなく、内容を汲んだものが多いようです。このような引用の仕方は、ヘブライ語聖書の知識、あるいはパレスチナの伝統を知っている者によるものです。出エジプトのモーセとイエスとのタイポロジー(予型・対型)関係やイザヤ書からの引用など、ユダヤ的思想風土においてのみ理解できる解釈も見られます。


1754秦野北斗:2013/10/28(月) 23:08:28
扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
扶桑国、扶桑木、補陀落渡海の謎が解けたな。

過去には誤訳と思われたが記録を読み返すと正しいのだ。反省して/742訂正する。

扶桑木は応神天皇の枯野:烏奴(からぬ)。補陀落は行基が行った中国の五台山。ですな。

扶桑国は能の桜川だな。

http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/742

枯野:烏奴(からぬ)

http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page410.html

1755管理人:2013/10/29(火) 23:00:02
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
秦野北斗さんへのお返事です。


> 扶桑木は応神天皇の枯野:烏奴(からぬ)。補陀落は行基が行った中国の五台山。ですな。
>
> 扶桑国は能の桜川だな。
>
> http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/742
>
> 枯野:烏奴(からぬ)
>
> http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page410.html


烏奴(国)は、宇土(ウド)ではないですかね?九州西南部に宇土の遺跡があります。


倭の奴の国も、奴=ドです。後に倭の面土国王(師升)が出てきます。この「土」が「奴」で「ド」音となるはずです。

「面」は「ベン」で「弁韓」の弁でしょう。

この国王は、九州の奴国領域と半島南部を支配していた可能性があります。


そして、「升」こそは、邪馬台国の官職に見える「升」なわけです。

邪馬台国の「奴佳デイ」という官職も、奴国領域を治める官のことです。


1756秦野北斗:2013/10/30(水) 16:27:46
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
管理人さんへのお返事です。

「浮土」
土は慣用音なので呉音でなく漢音ですな。「浮土」の命名は聖徳太子600年代辺りだな。
烏奴は300年代・・。

今日の宇土市を含む宇土郡は古代から見られる地名であり、その由来は、宇土半島がもとは島で「浮土」と表したのが転じたという説と、細く長い谷の意味を持つとの説がある。日本の渚100選の1つ御輿来海岸は、4世紀に九州遠征の際に立ち寄った景行天皇が景色の美しさに見惚れて、御輿を止めて、休んだという伝説が名前の由来である。また、網田には景行天皇がその手を洗ったという御手洗(みたらい)があり、現在も澄んだ水が湧き出ている。中世宇土城は1048年に築城されたと考えられている。中世初期に紀氏の一族が宇土氏を名乗る武士団を形成した。やがて、鎌倉時代末期に菊池氏の一族がやはり宇土氏を名乗り、宇土城の城主となった。

景行天皇は250年代なので引用文の年代は疑わしい・・。

http://ja.wikipedia.org/wiki/宇土市


>
> 烏奴(国)は、宇土(ウド)ではないですかね?九州西南部に宇土の遺跡があります。
>
>
> 倭の奴の国も、奴=ドです。後に倭の面土国王(師升)が出てきます。この「土」が「奴」で「ド」音となるはずです。
>
> 「面」は「ベン」で「弁韓」の弁でしょう。
>
> この国王は、九州の奴国領域と半島南部を支配していた可能性があります。
>
>
> そして、「升」こそは、邪馬台国の官職に見える「升」なわけです。
>
> 邪馬台国の「奴佳デイ」という官職も、奴国領域を治める官のことです。
>


1757秦野北斗:2013/10/31(木) 17:13:40
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
管理人さんへのお返事です。

枯野:烏奴(からぬ)は船だな。烏奴(国)は国でないぞ。??

日本書紀 応神天皇の処
五年冬十月伊豆国に命じて船を造らせた。長さ十丈の船ができた。ためしに海に浮かぺると、軽く浮かんで早く行くことは、走るようであった。その船を名づけて枯野といった。


> 烏奴(国)は、宇土(ウド)ではないですかね?九州西南部に宇土の遺跡があります。
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> 倭の奴の国も、奴=ドです。後に倭の面土国王(師升)が出てきます。この「土」が「奴」で「ド」音となるはずです。
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> 「面」は「ベン」で「弁韓」の弁でしょう。
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> この国王は、九州の奴国領域と半島南部を支配していた可能性があります。
>
>
> そして、「升」こそは、邪馬台国の官職に見える「升」なわけです。
>
> 邪馬台国の「奴佳デイ」という官職も、奴国領域を治める官のことです。
>


1758秦野北斗:2013/10/31(木) 21:07:06
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
管理人さんへのお返事です。

面上國王師升(面土国王)だが、筆者は崇神天皇、垂仁天皇だろうな。
卑弥娥(卑弥呼)と臺與が見られるな。

『後漢書』使人自稱大夫こと師升が有?面上國王で朝賀。
有?面上國王だが、國王は?(接)面上に有り。國王を上に面接だな。
単純な誤訳だろうな。

卑弥娥、惑翻叶群情、臺與幼齒、方諧衆望、
後漢書曰。安帝永初元年、有?面上國王師升至。桓遷之間、倭國大乱、更相攻伐、歴年無主。有一女子名曰卑弥呼、死更立男王、國中不服、更相誅攻、復立卑弥呼宗女臺與、年十三爲王、國中遂定。其國官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲、次曰奴佳鞮之也。
http://www.seisaku.bz/rekidai_waden/111_kan-en.html

史料『後漢書』(巻八十五 東夷列伝第七十五)
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。
http://ja.wikipedia.org/wiki/帥升

『梁書』倭国伝
漢靈帝光和中、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿、挾鬼道、能惑衆、故國人立之。有男弟佐治國。自為王、少有見者、以婢千人自侍、唯使一男子出入傳教令。所處宮室、常有兵守衛。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun4-ryosho.htm

>
> 烏奴(国)は、宇土(ウド)ではないですかね?九州西南部に宇土の遺跡があります。
>
>
> 倭の奴の国も、奴=ドです。後に倭の面土国王(師升)が出てきます。この「土」が「奴」で「ド」音となるはずです。
>
> 「面」は「ベン」で「弁韓」の弁でしょう。
>
> この国王は、九州の奴国領域と半島南部を支配していた可能性があります。
>
>
> そして、「升」こそは、邪馬台国の官職に見える「升」なわけです。
>
> 邪馬台国の「奴佳デイ」という官職も、奴国領域を治める官のことです。
>

1759管理人:2013/10/31(木) 23:13:31
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 面上國王師升(面土国王)だが、筆者は崇神天皇、垂仁天皇だろうな。
> 卑弥娥(卑弥呼)と臺與が見られるな。
>
> 『後漢書』使人自稱大夫こと師升が有?面上國王で朝賀。
> 有?面上國王だが、國王は?(接)面上に有り。國王を上に面接だな。
> 単純な誤訳だろうな。大夫なので印は貰えませんな。


こちらのサイトによると、やはり面土国王が正解のようですが、どうでしょうね。
付録11-6-2 倭面土国

 本文の「翰苑」<倭伝>(サ)にある倭面上国は、「通典(北宋版)」<倭伝>(ツ)からもわかるように倭面土国の誤記または誤写であると思われる。つまり、7世紀の「翰苑」と11世紀の「通典(北宋版)」は同じ倭面土国の語句を記しているのである。
 倭面土国の読み方を探るのには、倭面の意味を知る事が重要である。中国史書には、倭に関連した記事の中に委面、黥面などの語句が見られる。
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1106b.htm


ただ問題は上記サイトのように面の意味をどうとるかですね。

1760秦野北斗:2013/10/31(木) 23:50:30
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
管理人さんへのお返事です。

日本書紀ですな。

まあ、崇?天皇、垂仁天皇だの五大夫だのメンバーがいますな。
内容は天照大?を伊勢に祭り、祭りをすれば天下泰平になるらしい。
どうも、この頃の行事が祭りに成っている模様。

五大夫、我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇
更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。?風伊勢國、天照大?

活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇

廿五年春二月丁巳朔甲子、詔阿倍臣遠?武渟川別・和珥臣遠?彦國葺・中臣連遠?大鹿嶋・物部連遠?十千根・大伴連遠?武日、五大夫曰、我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇、惟叡作聖。欽明聰達。深執謙損、志懷沖退。綢繆機衡、禮祭?祇。剋己勤躬、日愼一日。是以人民富足、天下太平也。今當朕世、祭祀?祇、豈得有怠乎。三月丁亥朔丙申、離天照大?於豐耜入?命、託于倭?命。爰倭?命求鎭坐大?之處、而詣菟田筱幡。筱、此云佐佐。更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。時天照大?誨倭?命曰、是?風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也。傍國可怜國也。欲居是國。故隨大?教。其祠立於伊勢國。因興齋宮于五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大?始自天降之處也。

http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_06.html

小平一郎説は理解しがたいですな。古田も同様な誤訳をしているな。

>
> こちらのサイトによると、やはり面土国王が正解のようですが、どうでしょうね。
> 付録11-6-2 倭面土国
>
>  本文の「翰苑」<倭伝>(サ)にある倭面上国は、「通典(北宋版)」<倭伝>(ツ)からもわかるように倭面土国の誤記または誤写であると思われる。つまり、7世紀の「翰苑」と11世紀の「通典(北宋版)」は同じ倭面土国の語句を記しているのである。
>  倭面土国の読み方を探るのには、倭面の意味を知る事が重要である。中国史書には、倭に関連した記事の中に委面、黥面などの語句が見られる。
> http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1106b.htm
>
>
> ただ問題は上記サイトのように面の意味をどうとるかですね。

1761秦野北斗:2013/11/11(月) 09:15:12
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
管理人さんへのお返事です。

師升は古代の意味と読みが残り、現代は師匠(ししょう)

『後漢書』使人自稱大夫は五大夫で鉄、武器に関する技術者でしょうな。
古代の製鉄は松炭を使い精錬した模様。堺の黒姫山古墳に鉄製武具・武器が出土。
精錬に松炭を使用している。司馬氏が五大夫だろうな。

製鉄の師升(師匠)で権力があり、弟子がいたのだろう。この音が残ったのだろう。

《秦の始皇帝が泰山で雨宿りをした松の木に五大夫の位を授けたという「史記」にある故事から》松の別名。

司馬氏の家系
遠い部分の信憑性には疑問があるが、父・司馬談が亡くなる際の遺言によると、司馬遷の家系は堯・舜の時代に功績を挙げ、代々歴史・天文を司る一族であるという。秦の恵文王らに仕えた司馬錯、その孫で白起の部下として長平の戦いに従軍した司馬靳(中国語版)(しばきん)、さらにその孫である司馬昌は始皇帝時代に鉄鉱を管理する役職にあった。昌の子は毋懌(無澤、むえき)と言い、漢市の長官に就いた。その子で五大夫の爵位を得た司馬喜は司馬遷の祖父に当たる
http://ja.wikipedia.org/wiki/司馬遷

師升の読みは(ししょう)だな。
師匠と呼ばれる人たち

新宿の師匠(元新宿駅の駅員)
のっち師匠
平沢進(音楽家)
本田雄(アニメーター)
マサヤング師匠(→小野坂昌也)
松井秀喜
http://dic.nicovideo.jp/a/師匠

現代日本では、熟練芸人や落語家などに対する、また学問や文化を教え伝える人に対する敬称としても使われる。師匠から物を教わったり、お共に使える人は弟子と呼ばれる。

http://thesaurus.weblio.jp/content/師匠


1762秦野北斗:2013/11/12(火) 01:54:19
翰苑(かんえん)偽書
翰苑(かんえん)は間違いが多い偽書でないか疑う。まあ、邪馬台国が明らかになれば
明確になるな。簡単に言いますと、翰苑は偽書ですな。

翰苑(かんえん)

分軄命官、統女王而列部。
魏略曰。從帯方至倭、循海岸水行、暦韓國到构耶韓國七十餘里、始度一海千餘里、至對馬國。其大官曰卑拘、副曰卑奴。無良田、南北布糴。南度海至一支國、置官至對同。地方三百里。又度海千餘里、至末廬國、人善捕魚、能浮沒水取之。東南五東里、到伊都國。戸万餘。置曰爾支、副曰洩渓觚、柄渠觚。其國王皆屬王女也。

http://www.seisaku.bz/rekidai_waden/111_kan-en.html

『三国志魏書』倭人伝(通称:魏志倭人伝)

 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴。

 帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。初めて一海を渡り、千余里で対馬国に至る。そこの大官は卑狗、副は卑奴母離という。極めて険しい島に住み、四方は四百余里ほど。土地は山が険阻で、深い林が多く、道路は獣や鹿の小道(獣道)。千余戸あり、良田は無く、海産物を食べて自活しており、船で南北の市(物々交換の場)に出かけて、糴(てき=穀物を買い求める)する。

又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

 また、南に一海を渡ること千余里、名を瀚海という、一大国に至る。官もまた卑狗、副は卑奴母離という。四方は三百里ほど。竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、また南北に物々交換に出かける。

 又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。

 また別の海を渡り、千余里で末盧国に至る。四千余戸あり、山海に沿って暮らしている。草木が盛に茂っており、前を行く人の姿が見えない。上手に魚や鰒(アワビ)を捕り、水深の深浅にかかわらず、皆が水中に潜って、これを採取する。

 東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。

 東南に陸行すること五百里、伊都国に到る。官は爾支、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸あり、代々王がおり、皆、女王国の統治下に属し、郡使の往来では常にここに逗留する。

 東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。
 東南の奴国に至るには百里、官は兕馬觚、副は卑奴母離といい、二万余戸ある。

 東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。

 東に行き、不彌国に至るには百里、官は多模、副は卑奴母離といい、千余家ある。

 南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。

 南に投馬国に至るには水行二十日、官は彌彌、副は彌彌那利といい、五万余戸ほどか。

 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。

 南に邪馬壹国の女王の都に至るには、水行十日、陸行一ト月。官には伊支馬があり、次を彌馬升といい、その次が彌馬獲支、その次が奴佳鞮という。七万余戸ほどか。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm


1763管理人:2013/11/22(金) 02:20:19
Re: 翰苑(かんえん)偽書
秦野北斗さんへのお返事です。

> 翰苑(かんえん)は間違いが多い偽書でないか疑う。まあ、邪馬台国が明らかになれば
> 明確になるな。簡単に言いますと、翰苑は偽書ですな。
>
> 翰苑(かんえん)
>
> 分軄命官、統女王而列部。
> 魏略曰。從帯方至倭、循海岸水行、暦韓國到构耶韓國七十餘里、始度一海千餘里、至對馬國。其大官曰卑拘、副曰卑奴。無良田、南北布糴。南度海至一支國、置官至對同。地方三百里。又度海千餘里、至末廬國、人善捕魚、能浮沒水取之。東南五東里、到伊都國。戸万餘。置曰爾支、副曰洩渓觚、柄渠觚。其國王皆屬王女也。
>
> http://www.seisaku.bz/rekidai_waden/111_kan-en.html
>


いや、韓苑の中に、邪馬台国時代のデータが多く詰まってます。



>  南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。
>
>  南に邪馬壹国の女王の都に至るには、水行十日、陸行一ト月。官には伊支馬があり、次を彌馬升といい、その次が彌馬獲支、その次が奴佳鞮という。七万余戸ほどか。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm
>

邪馬台国の官職は下記のとおりです。



伊支馬 一大(伊都)国の王「爾支」の「馬」

彌馬+升 任那地域の「升」=王=「面土(弁(韓)・奴)国王」・「師升」の「升」=「ミマキ」「イリ」「ヒク(卑狗)」

彌馬+獲支 任那地域の「獲支」=「別(ワケ)」=王族の別氏族

奴佳鞮(ヌ・ケテイ)(ド・カイダイ)=「奴国」の王、「鞮」は革靴の意味で、遊牧民の王につける蔑称か。


そういえば「額田」(ヌカタ)という発音が後代ありますね。これはどこからくるのかな?

「沼(ヌ)」「渟(テイ)」がつく王統があることは、先日論議したとおりです。大彦系で武+沼河別、つまりヤマトタケルの系統です。元は南方海人系、筑紫に本拠がある。


1764荊の紀氏:2013/12/01(日) 02:12:14
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
秦野北斗さんへのお返事です。


> > こちらのサイトによると、やはり面土国王が正解のようですが、どうでしょうね。
> > 付録11-6-2 倭面土国
> >
> >  本文の「翰苑」<倭伝>(サ)にある倭面上国は、「通典(北宋版)」<倭伝>(ツ)からもわかるように倭面土国の誤記または誤写であると思われる。つまり、7世紀の「翰苑」と11世紀の「通典(北宋版)」は同じ倭面土国の語句を記しているのである。
> >  倭面土国の読み方を探るのには、倭面の意味を知る事が重要である。中国史書には、倭に関連した記事の中に委面、黥面などの語句が見られる。
> > http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1106b.htm

而なんじ倭
>委面、黥面などの語句が見られる。
> http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1106b.htm

而.(二人称代名詞)なんじ。
象形。頬ひげ(説文解字など)、または、結髪をせず髪を振り乱した様をかたどる。巫女が、そのようにして雨乞いをするさまを「需」という(白川)。早くに元の意味は失われ、音を仮借した意味のみ残る。 http://ja.wiktionary.org/wiki/

而倭以耒卯年来渡[海]破百殘□□新羅以爲臣民」) http://ja.wikipedia.org/wiki/好太王碑
好太王碑(こうたいおうひ)は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた石碑である。広開土王碑(こうかいどおうひ)とも言われ、付近には陵墓と見られる将軍塚・大王陵があり、合わせて広開土王陵碑(こうかいどおうりょうひ)とも言われる。
4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史・古代日朝関係史を知る上での貴重な一次史料である。
1961年(昭和36年)、洞溝古墓群の一部として、全国重点文物保護単位に指定される。
好太王碑は現在の吉林省集安市の好太王陵の近くに位置している。碑は、高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の石碑である。その四面に総計1802文字が刻まれ、碑文は純粋な漢文での記述となっている[4]。碑文は風化によって判読不能な箇所も存在する。なお、2010年(平成22年)現在、この碑文は風化・劣化を防ぐためにガラスケースで保護されている。

碑文は三段から構成され、一段目は朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に好太王の業績、三段目に好太王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。

そのうち、倭に関する記述としては、いわゆる辛卯年条(後述)の他に、以下がある。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた[5]。

碑文では好太王の即位を辛卯年(391年)とするなど、干支年が後世の文献資料(『三国史記』『三国遺事』では壬辰年(392年)とする)の紀年との間に1年のずれがある。また、『三国史記』の新羅紀では、「実聖王元年(402年)に倭国と通好す。奈勿王子未斯欣を質となす」と新羅が倭へ人質を送っていた記録等があり、他の史料と碑文の内容がほぼ一致しているところが見られる。
この碑文からは、好太王の時代に永楽という元号が用いられたことが確認された。
碑文では、高句麗と隣接する国・民族はほぼ一度しか出てこず、遠く離れた倭が何度も出てくることから、倭国と高句麗の「17年戦争」と称する研究者も存在している[6]。その一方で、韓国などには高句麗が百済征伐のために倭を「トリックスター」として用いただけであると主張する研究者も存在している。
倭の古代朝鮮半島における戦闘等の活動は、日本の史書『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』、朝鮮の史書『三国史記』『三国遺事』、中国側の史書『宋書』においても記録されている。 また、2011年に発見された職貢図新羅題記にも「或屬倭(或る時は倭に属していた)」という記述があり、議論を呼ぶだろうとした
、「[海]を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされ、日本学会の通説では以下のように解釈される。
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
しかし、韓国の学会では異説が主流である(#韓国・北朝鮮の学会による解釈参照)。 また、倭を大和朝廷とするのか九州の支配者とするのかなど、倭をどう理解するかでも異論が多い。日本の史学者は、日本書紀の神功皇后による、所謂三韓征伐を念頭に入れて理解しているため倭を大和朝廷と理解することが一般的である。


1765秦野北斗:2013/12/01(日) 09:52:16
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
荊の紀氏さんへのお返事です。

少し、算数でもしますかな。現代の古代史が崩れますぞ。

辛卯年の特定方法は日本書紀には三月壬申朔等の暦の記録が複数個存在するな。
暦と辛卯年の交わるところが求める辛卯年になるな。日本書紀は年表記はない。

複数個存在
三月壬申朔、夏四月壬寅朔甲辰、秋九月庚午朔己卯、冬十月己亥朔辛丑、十二月戊戌朔辛亥、三月丙申朔庚子、冬十月癸亥朔甲子、二年冬十一月丁亥朔甲午、十三年春二月丁巳朔甲子、・・

秦野が計算結果は(271年)になる。日本書紀と好太王碑の文章が一致。

氣長足?尊、稚日本根子彦大日々天皇之曾孫、氣長宿禰王之女也。母曰葛城高顙媛。足仲彦天皇二年、立爲皇后。幼而聰明叡智。貌容壯麗。父王異焉。
九年春二月、足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮。時皇后傷天皇不從?教而早崩、以爲、知所崇之?、欲求財寶國。是以、命群臣及百寮、以解罪改過、更造齋宮於小山田邑。
三月壬申朔、皇后選吉日、入齋宮、親爲?主。・・三月壬申朔、夏四月壬寅朔甲辰、秋九月庚午朔己卯、冬十月己亥朔辛丑、十二月戊戌朔辛亥、三月丙申朔庚子、冬十月癸亥朔甲子、二年冬十一月丁亥朔甲午、十三年春二月丁巳朔甲子、・・

http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_09.html


百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年は間違いで271年が正)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
http://ja.wikipedia.org/wiki/好太王碑

卑弥呼(240年 - 249年)死後、宗女「壹與」を13歳で王に立てる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/卑弥呼

辛卯年(271年)には「壹與」(35〜44歳)。壹與と神功皇后が一致。
これが武内宿禰・・の糸口になる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/神功皇后

http://ja.wikipedia.org/wiki/武内宿禰


> 倭の古代朝鮮半島における戦闘等の活動は、日本の史書『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』、朝鮮の史書『三国史記』『三国遺事』、中国側の史書『宋書』においても記録されている。 また、2011年に発見された職貢図新羅題記にも「或屬倭(或る時は倭に属していた)」という記述があり、議論を呼ぶだろうとした
> 、「[海]を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされ、日本学会の通説では以下のように解釈される。
> 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
> 〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
> しかし、韓国の学会では異説が主流である(#韓国・北朝鮮の学会による解釈参照)。 また、倭を大和朝廷とするのか九州の支配者とするのかなど、倭をどう理解するかでも異論が多い。日本の史学者は、日本書紀の神功皇后による、所謂三韓征伐を念頭に入れて理解しているため倭を大和朝廷と理解することが一般的である。
>

1766荊の紀氏:2013/11/04(月) 15:47:41
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
秦野北斗さんへのお返事です。

>秦野が計算結果は(271年)になる。日本書紀と好太王碑の文章が一致。


好太王碑
414に建立。
372七支刀献上:百済から倭国(垂仁天皇)へ。暗記法「皆 に献上七支刀」; 391倭国の高句麗侵攻(高句麗好太王碑文):倭国の侵攻は失敗。 暗記法「作為があるのか好太王碑」。好太王=広開土王。息子の長寿王が414に建立。 http://tbook.net/wiki/index.php????????
391倭国の高句麗侵攻(高句麗好太王碑文):倭国の侵攻は失敗。暗記法「作為があるのか好太王碑」。好太王=広開土王。息子の長寿王が414に建立。

垂仁天皇. (すいにんてんのう 紀元前69年1月27日〜70年8月8日)とは、第11代天皇 である。 治世時には相撲と発祥とされる死闘が行われた他、死後に殉死を禁止して埴輪 を埋めるようにした開明的な人物だったとされている。 http://dic.nicovideo.jp/a/垂仁天皇
治世時には相撲と発祥とされる死闘が行われた他、死後に殉死を禁止して埴輪を埋めるようにした
相撲
大相撲モンゴル帝国に思う ? ...チベットはもとはといえば吐蕃。ラマ教の本山である。かつてはモンゴル ... チベットは 吐蕃だったを参照しているブログ http://jun.typepad.jp/junhara/2008/03/post-f7c1.html
東夷西絨(絨の糸へんは不要)北荻(荻のくさかんむりも不要)南蛮。中国を侵略する外敵のことだ。

記紀の成立した頃、西域の大陸では、吐蕃が元気になり、ターリム盆地侵入の後 バルチスタン(大勃律)へ、722年頃からヤシン(小勃律)までも其の勢力範囲に収めた 。 http://pamir1093.typepad.jp/blog/2008/03/post-0423.html
 天武帝が政権の安定を図るためか、氏姓の尊卑をたてて社会の経緯をまとめようと、帝記・旧辞類の改訂選録をはかり、元明帝の和銅5年(712)献上された古事記、相次いで養老4年(720)に完成されたとする日本書紀には、従って数多くのルーツ物語を含む。其の垂仁記には埴輪を初めて創案して后妃、日葉酢媛命の墓にたてた功により土部(土師(はじ))連(むらじ)を賜った野見宿禰(のみのすくね)をはじめ三宅氏の始祖とされる田道間守の物語が記される。

652 白雉3年. 班田 収授法. 班田収授法を実施・戸籍をつくる.

「垂仁天皇(第11代)の時代に常世の国に使いした田道間守(たじまもり)であろう。」 としている。 ..... 直角の出し方、大矩の作り方、長さを測る間竿直角作りはいずれも ピタゴラスの定理が基本です、現場では必ず道具を水平に扱います 。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1143
直角の出し方、大矩の作り方、長さを測る間竿
直角作りはいずれもピタゴラスの定理が基本です、現場では必ず道具を水平に扱います 。 大矩の作り方(おおがね) 大矩の応用、水盛遣り方 現場で簡単に作るには、一番下の 大矩の作り方図を参考下さい(材は3寸×5分水貫4M程度の板に任意に墨を打ち3対4 ... http://www2u.biglobe.ne.jp/~tyouken/dougu/d-2.htm

チベット(吐蕃) '朝鮮(高麗)を属国としました。 http://books.google.co.jp/books?id=z8_RlxpESvsC&amp;pg=PA45&amp;lpg=PA45&amp;dq=吐蕃 朝鮮&source=bl&ots=dgLhetM7Hf&sig=cZg09jtq0rxvW1OoIdmbPCanScA#v=onepage&q=吐蕃 朝鮮&f=false
朝鮮(高麗)
垂仁天皇の頃の創建で、神皇産霊神、瓊々杵尊、神功皇后、応神天皇を祭神 としているが、実体は高麗若光を祀った高麗一族の氏神ではないかといわれている。 http://books.google.co.jp/books?id=g9zae1iLEPUC&amp;pg=PA158&amp;lpg=PA158&amp;dq=垂仁天皇 高麗&source=bl&ots=8c4BYSGK4U&sig=eam9su1ZBf-WO5COrCS9a7KC-wc#v=onepage&q=垂仁天皇 高麗&f=false

高麗王若光は大磯へ上陸し花水川を り日向に落ち着いたといわれる。日向山に ... は 俗称であって、若光を大明神の名で呼ぶなら本来は「白鬚大明神」が正しい
 白髭神社と白鬚神社と白髯神社 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sirahige2.pdf#search='垂仁天皇 高麗大明神'
関東では、しらひげの神といえば高麗王・若光のことだから白鬚である。
高麗王・若光が大磯に上陸して、やがては高麗(現在の埼玉県入間郡日高町)に落ち着くのだが、一時、日向に住んでいたことがあった。
高麗王若光は大磯へ上陸し花水川を り日向に落ち着いたといわれる。日向山に巡錫 してきた行基が薬師三. 尊を彫ろうとして良材がなく、若光は数尺の香木を与え協力した という。
行基
行基は感謝の しるしに参道入口の近くに日向の鎮守として「白髯神社」を建立して若光を祀り熊野権現 を勧請したのです。 http://blogs.yahoo.co.jp/pokochino6324/62754375.html
霊亀元年(715)、行基が日向薬師を開創するにあたって日向山を訪れました。ところが仏を彫る良材がなくて困っていたのです。その様子を見て日本に亡命し日向付近に住んでいた高麗王若光(じゃこう)が桂の霊木を寄付しました。行基はこの桂の木で薬師三尊を彫ってご本尊としたと伝えられています。行基は感謝のしるしに参道入口の近くに日向の鎮守として「白髯神社」を建立して若光を祀り熊野権現を勧請したのです。このとき若光は行基より熊野権現の修験道について多くを学んだものと考えられます。

若光一族は一時大磯の「もろこしが原」に居を構えました。大陸の治水土木の先進技術集団と治水などを含め社会貢献していた行基との出会いはごく当り前なことだったと考えられます。

高麗若光は国の命で全国に武蔵国高麗郡の技術者を派遣し開拓を進めましたが、これらの人々は「秦氏」を名乗っていました。「秦氏」はすでに百済から帰化した人々も名乗っていたので、渡来人全ての姓となっているようです。


1767秦野北斗:2013/11/04(月) 16:42:29
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
荊の紀氏さんへのお返事です。

どうも内容が時系列でないですな。どこかの誰かが書いた物ばかりで、意味を成さないな。

整理しなければ宝の山がごみの山ですな。

日本書紀の記録も好太王碑と同様だな。韓半島の歴史・・、

最近ですが扶桑の大漢国は邪馬台国(やまと)ですな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/扶桑

まあ、現在の誤記は誤記で修正せず話は進める。


> 372七支刀献上:百済から倭国(垂仁天皇)へ。暗記法「皆 に献上七支刀」; 391倭国の高句麗侵攻(高句麗好太王碑文):倭国の侵攻は失敗。 暗記法「作為があるのか好太王碑」。好太王=広開土王。息子の長寿王が414に建立。 http://tbook.net/wiki/index.php????????
> 391倭国の高句麗侵攻(高句麗好太王碑文):倭国の侵攻は失敗。暗記法「作為があるのか好太王碑」。好太王=広開土王。息子の長寿王が414に建立。
>


1768管理人:2013/11/05(火) 23:09:45
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
秦野北斗さんへのお返事です。

> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> どうも内容が時系列でないですな。どこかの誰かが書いた物ばかりで、意味を成さないな。
>
> 整理しなければ宝の山がごみの山ですな。
>
> 日本書紀の記録も好太王碑と同様だな。韓半島の歴史・・、
>
> 最近ですが扶桑の大漢国は邪馬台国(やまと)ですな。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/扶桑
>
>

大漢国、高句麗・扶余周辺ですね。漢氏の故地でしょう。穢の地域で「アヤ」と読ませるわけですが、書紀を記載した集団の記録と好太王碑との間にもっと接点を見いだして行く必要があります。

1769荊の紀氏:2013/11/06(水) 21:23:00
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
管理人さんへのお返事です。


> 大漢国、高句麗・扶余周辺ですね。漢氏の故地でしょう。穢の地域で「アヤ」と読ませるわけですが、書紀を記載した集団の記録と好太王碑との間にもっと接点を見いだして行く必要があります。

穢・・・「アヤ」・・・月・・・
>大漢国、高句麗・扶余周辺ですね。漢氏の故地でしょう。穢の地域で「アヤ」と読ませるわけですが、書紀を記載した集団の記録と好太王碑との間にもっと接点を見いだして行く必要があります。

「アヤソフィア」は「聖なる叡智」「聖ソフィア」のギリシャ語「アギオス・ ソフィア」から派生したものです。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1421468004
ハギア
ハギア・ソフィア聖堂 - 「聖」を意味する語 を古典ギリシャ語読みで転写し「ハギア」とした表記。 http://ja.wikipedia.org/wiki/聖ソフィア聖堂

ローマ・カトリック教会で教えているように、「ハギアゾー」(?γιάζω hagiazo:ハギオス〔 άγιος、hagios〕の動詞形)は「聖別する」の意味があるが、時代が進むにつれて「 ハギアゾー」に相当するヘブル語は「純化する」という意味も帯びてきた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/聖化_(プロテスタント)
聖化 (プロテスタント)
プロテスタントにおける聖化(Sanctification)とは、ギリシア語のハギアスモス(希: άγιασμος、hagiasmos)の訳語であり、キリストの贖いに依り頼んで、義とされた(義認、成義)信仰者が、聖と義との神の御像に変貌されてゆく、転機をも含む過程である http://ja.wikipedia.org/wiki/聖化_(プロテスタント)
ローマ・カトリック教会で教えているように、「ハギアゾー」(?γιάζω hagiazo:ハギオス〔άγιος、hagios〕の動詞形)は「聖別する」の意味があるが、時代が進むにつれて「ハギアゾー」に相当するヘブル語は「純化する」という意味も帯びてきた。イザヤ書6章などにその面が顕著である。
「ハギアスモス」は「聖化(Sanctification)」と訳されるとともに、「ホーリネス・聖め」(Holiness)とも訳されている。前者のように翻訳する場合は、聖とする過程に強調点が置かれ、後者のように訳すときには、聖とする過程の結果、そこに生じた聖い状態に強調点がある。「ハギアスモス」の語は、この双方の概念を含む。
人にとって「聖」は、「聖化・聖とする過程」の結果生じた状態(ヘブル12:14)であるが、「神の聖」は、本質的なもので「ハギアスモス」ではなく、もう一つの同系語「ハギオテース」(ヘブル12:10)によって表され、区別されている。被造物である人は、どのように聖とされても「神」になることはない。これがキリスト教と他の宗教との大きな分岐点であるとされる。

「全的」とは、アダム以来の課題である生来の罪の腐敗性・「肉」の性質・罪(単数のSIN)が、きよめられた人の心中から放逐されたと言う意味において、アダムの堕罪との関連においてその影響感化を考える時、「全的」なのである。近年、この「全的」、「全き」との語が誤解を与えるとの理由で、転機的なきよめを「全的聖化・Entire Sanctification」と呼ばず「実効的な聖化・Effective Sanctification」と称する聖書学者も出てきている。
人の罪へ傾く性質は、生来の腐敗性から来るのみならず、その個人の過去の生き方、さらに、気質といった面を含めるならば、家系といった家族的な過去にも関わっているとされる。この面での罪への傾き易さを、アダム以来の人類の罪への傾き易さ「生来の罪の腐敗性」と区別して「取得された罪の腐敗性」と呼ぶ。漸進的聖化の過程は、この後者がもたらす課題の「聖化」に関わることであると理解できる。
それは他の表現を用いるならば、人格の歪みからの「きよめ」であり、キリスト教信者が、愛においてイエス・キリストの身の丈までに成長するまで、信仰に応じて継続的になされる聖霊による業である(コリント第二の手紙3:18)。この面での「聖化」は生涯的なもので、地上において完成されることはない。ウェスレアン神学における聖化論の特徴は、この過程と転機的経験との釣り合いにある。

古代ヘブライの神殿と日本の神社の構造は、驚くほど酷似している。 http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb010.html
もともと古代ヘブライの神殿は 「幕屋」と呼ばれる移動式だったが、幕屋はその名の通り、周囲を幕や板で囲み、中で神に捧げる祭祀を行なった。全体ではないが、囲むという概念は日本の神社でも見られ、同様に祭祀は極秘である。
また、幕屋の中の構造は、基本的には聖所・至聖所・拝殿に分かれていて、祭壇には明かりをともす常夜灯があり、脇には手を洗う水盤があった。
また有名な古代ソロモン神殿の前には、お賽銭(さいせん)を入れる箱も置かれていた。

日本史上、最大最強の渡来人でありながら、今なお多くの謎に包まれている「秦氏」は、昔から多くの研究家によって「ヘブライ系渡来人」ではないかと指摘されている。
秦氏は第15代応神天皇のとき、大陸から渡来してきたのだが、この時、10万もの人々が日本に帰化したと伝えられている。その一部は大和の葛城に、多くは山城に住んだのだが、雄略天皇(5世紀半ば)の時に、京都の太秦(ウズマサ)の地に定住するようになったという。
秦家は非常に有力なファミリーで、794年の平安京は秦氏の力によって事実上作られ、仁徳天皇陵のような超巨大古墳建築にも秦氏の力があった。
ちなみに、羽田元首相は遠い親戚に当たるという。

グノーシス研究に携わった多くの者は、国内外を問わず、 プロテスタントの立場にある聖書学者であった。その業績には、もちろん無視しえない 貴重なものがあるが、一つ注意しておくべき点がある。 http://gnosticthinking.nobody.jp/twitter101008.html

「カトリシズムの倫理と資本主義の精神」について - Comments by Dr ...
今日はふと耳にしたことから、ふと思ったことを、宗教のようでもあり宗教のようではない ようなことを書いてみる。標題はもちろんマックス・ウェーバーのもじりだが、プロテスタン ティズムよりも昨今はカトリシズムのほうが合っているような気がする ...

カトリシズムとプロテスタンティズムとの相違 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1436362919
・カトリックは、ローマ帝国が分裂した際に、西ローマ帝国=カトリック、東ローマ帝国=東方正教会、といった形で分裂しました。このため、当然のごとく、正教会系宗派は、ローマ教皇の首位権を認めません(彼らは総主教をTOPと考えます)。カトリックにも諸教団がありますが、根本に教皇首位権があり、全ての教団は教皇で繋がっています(教皇主催の公会議、という会議があり、そこで様々なキリスト教の問題の解決を試みています)。
・プロテスタントは、カトリックのローマ教皇首位権の問題や、教会を絶対的な存在としていることなどに反発して生じました(イメージ的には、教会が力を持ちすぎて、「救い」を与えることを忘れ権力を濫用し始めたことに反発・・といった感じでしょうか)。プロテスタントの語源は「抗議する者」という意味であり、カトリックから分裂した宗派の総称、といった感じです。そのため、カトリック側からすれば「裏切り者」的存在であり、迫害も行われました。しかし、反発しているのは主に上記の二点(教会絶対性と、教皇絶対性)であり、教えとしてはかなり似通った部分もあります。イギリス国教会のように、成立過程的には「プロテスタント」であるが、教団自身は否定しているところもあります。また、各地で同時多発的に反乱のような形で諸派が成立したため、一言にプロテスタント、といっても皆同類、というわけではありません。結構差異がありますが、「聖書を読む」ことにより救われる、とする福音主義は特徴的です。
?性格
・カトリックは上下関係が結構はっきりしています。厳格なイメージです。その組織的な性格は、官僚制や、近代軍隊制の源になった、と考える人もいるくらいです。教皇は絶対唯一の存在として、司教や司祭などの聖職者にも厳格な序列があり、聖職者には結婚が許されていません(ただの信者(平信徒)は教会で認められることにより結婚可能ですが、これは秘蹟の一つであり、神に引き合わされた仲であるため離婚はできません)。ちなみに呼称は神父さんです。
・プロテスタントはそれに比べると自由なイメージです。そもそも総称的な呼称で、一つのまとまった集団ではありませんし。何よりも「救い」に重きをおき、親しみやすいイメージです。牧師さんも、結婚できます。信者も聖職者も神の元に平等なのです。救いのために新約聖書を主に読みますが、「プロテスタント=新約聖書」は偽です。キリスト教である限り、旧約聖書と新約聖書両方使います。
余談ながら、聖書について。カトリックとプロテスタントの共同訳の聖書が出ていますが、こんな聖書が出せるのも、基本的にイエスに対する考え方は一緒だからでしょう。但し、救いの方法や教団組織など具体的な面で異なり、そしてそれはカトリックの方が厳格です。そのため、共同訳聖書はカトリックにとって譲れないところはプロテスタントが譲る、といった感じで作成されたようです。
?マリア
・カトリックでは聖母マリアについて主イエスと共に神扱いされています。原罪を免れるのです。そして、聖母マリア信仰も強いです。聖母マリアについても、公会議で話し合いが持たれたこともあります。その公会議で、マリアも最後の審判で天に昇ることとなったようです。
・プロテスタントはそれにくらべ、マリアについての考え方はばらばらです。何度も言うように、教皇や教会に対し反発し、聖書によって救われる、とした教派の総称だからです。そのため、プロテスタントの中ではマリアについては様々な考え方があります。マリア様信仰、といってもいいくらいの教団もあれば、そもそも処女降誕についての現代の説に不満、みたいな教団もあるようです。
?余談
・キリスト教系の新宗教
プロテスタントがカトリックから分裂した諸宗派の総称である、といっても、いわゆるカルト教団扱いされている「キリスト教系の新宗教」などはプロテスタントに該当しません。プロテスタントが自由なイメージだからといって、そこまで何でもありではありません。キリスト教にとってイエスは不可侵の存在であるし、プロテスタントにとって救いは聖書によってもたらされます。壺とかその他のグッズではすくわれません。

、"aya"はトルコ語で「月(month) 」という意味でした。 http://blog.livedoor.jp/m231dl/archives/1764263.html

『ヤレ』 http://www.bfpj.org/know/teachingletter/?id=37
ヘブル語の動詞『ヤレ』は、正確には「尊敬する」という意味を 持っています。ですから、文字どおり解釈するなら、「両親を尊敬し、うやうやしく恐れる ように」と勧告しています。 http://www.bfpj.org/know/teachingletter/?id=37
「恐れる」と翻訳されているヘブル語の動詞『ヤレ』は、正確には「尊敬する」という意味を持っています。ですから、文字どおり解釈するなら、「両親を尊敬し、うやうやしく恐れるように」と勧告しています。これは決して不安に思って怖がったり、恐れたりしなさいと言っているのではありません。興味深いことに、『ヤレ』という動詞は、聖書の中で、神および両親への尊敬に関してのみ使われています。
ユダヤの儀式「シムハット・トーラー」では、父親と息子が、愛情深い天の父によって聖書が与えられたことを祝う。
ちょうど結婚が神によって計画されるように、「神−親−子ども」の関係は、神に定められたものです。しかし哀しいかな、世の汚れにまみれていく現代の世界においては、どちらの関係も軽視されています。家族は崩壊し、その結果、社会全体も崩壊の一途をたどっています。
「神−親−子ども」の関係が神によって定められているなら、神は、双方がどうあるべきだとお考えになっているのでしょう。

アク(霊)として... http://ja.wikipedia.org/wiki/霊魂
霊魂(れいこん、英:Soul、もしくはSpirit)とは、
肉体とは別に精神的実体として存在すると考えられるもの[1]。肉体から離れたり、死後も存続することが可能と考えられている、体とは別にそれだけで一つの実体をもつとされる、非物質的な存在のこと[2]。
人間が生きている間はその体内にあって、生命や精神の原動力となっている存在[2]、人格的・非物質的な存在[3]。個人の肉体や精神をつかさどる人格的存在で、感覚による認識を超えた永遠の存在[4]。

古代エジプトの時代から、人が死ぬと肉体から離れるが、肉体に再び戻って来る、という考えがあった。 古代インドでは、霊魂は何度もこの世に生まれ変わるという考え方が一般的であった。輪廻転生(転生輪廻)の思想である。  「あの世」(霊界)へ行ったり、「この世」(生者の世界、現世)に影響を及ぼしたりすると考える文化・思想も存在している。人間だけでなく、命あるもの全般、動物や植物に宿ると考えられたり、さらには鉱物にも霊魂が宿る、とされることもある[4]。霊魂を心と同一視することもある[要出典]。「心は霊体、魂は神魂[要出典]」とする、霊魂と心を同一視しない考え方もある。また他方、すでにサンジャヤ・ベーラティプッタが来世に関する問いへの確答を避け、不可知論の立場をとった。 (→宗教などにおける説明 )
霊魂は、生きること、死生観の根源的な解釈のための概念の一つともされる。現代では、霊魂を肯定的にとらえることが、生きがいや健康といったものと深く関係があることが、様々な学者の研究によって明らかにされている。(→霊魂と死生観・全人的健康 )

キリスト教など[編集]
旧約聖書では、ネフェシュ(ヘブライ語で「咽喉」の意)と表現される。これに聖なる霊(ルーアッハ。風、息の意)が入って預言がなされるという思想があった。
欧州においては人間を構成する要素は霊魂(アニマ、ANIMA)、精神 (SPIRITVS) 及び肉体 (CORPVS) であり、錬金術ではこれらは三原質と結び付けられて考えられていた。また、3という数からキリスト教では三位一体に比せられることも多かった。霊魂と精神は肉体に宿り、肉体が滅びると精神と霊魂は分かれると考えられており、霊魂と精神は肉体という泉を泳ぐ二匹の魚に擬せられたこともあった。
ここにおける霊魂は人間の本能のようなものであり、成長することはないと考えられていたのに対し、精神は理性のようなものであって成長するものであるとされていた。

中国の宗教(道教など)[編集]
中国の道教では魂と魄(はく)という二つの異なる存在があると考えられていた。魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気を指した。合わせて魂魄(こんぱく)ともいう。魂と魄は易の思想と結びつき、魂は陽に属して天に帰し、魄は陰に属して地に帰すと考えられていた。
民間では、三魂七魄の数があるとされる。三魂は天魂(死後、天に向かう)、地魂(死後、地に向かう)、人魂(死後、墓場に残る)であり、七魄は喜び、怒り、哀しみ、懼れ、愛、惡しみ、欲望からなる。また、殭屍(キョンシー)は、魂が天に帰り魄のみの存在とされる。(三魂は「胎光・爽霊・幽精」「主魂、覺魂、生魂」「元神、陽神、陰神」「天魂、識魂、人魂」、七魄は「尸狗、伏矢、雀?(陰)、容?(吝賊)、非毒、除?(陰穢)、臭肺」とされることもある。)

ツキミタマ【月霊魂】
月霊魂。 =夜霊波。和魂。 『我が上は 日・月の潤を 下す故 世嗣 生まんと 思ふ時 目の 垢 濯ぎ 朝日 祈り 目より月日の 潤を得て 婚げば背の 潤波が 玉島川の 妹が霊と はらむ 精髄 精の波 穢の和霊と 霊・波 合ひ』14文 『女の子には 女の目より受く 月霊魂 宮を ... http://gejirin.com/src/Tu/tukinomitama.html

グノーシス主義は、個人の霊魂の中に存在しているこの物質世界に属さない神性を 見い出すことで救われると考えました。 「グノーシス」とは ... 特に、アイオーンが30ほど で存在するという点には月神との関連が深いと思われます。 http://morfo.seesaa.net/article/198725247.html
グノーシス主義の成立にはゾロアスター教やズルワン主義の影響を受けながらヘレニズム化したユダヤ教の異端派が主なバックボーンになっていると言われています。
ですが、グノーシス主義はユダヤ教だけでなくて、ヘルメス主義、キリスト教、そしてペルシャ系の宗教など、宗教や民族の枠を越えて生まれました。
グノーシス主義は本来的にハイブリッドなので、様々な地方で様々な派が生れ、変化していきました。
グノーシス主義は、個人の霊魂の中に存在しているこの物質世界に属さない神性を見い出すことで救われると考えました。
「グノーシス」とはこの霊魂の本来的な神性の認識のことです。
人間の中に神性があってこれを認識できるという考えは、秘儀宗教やプラトン主義、ズルワン主義の考えを受け継いだものです。
ですが、プラトン主義は自然の中にある神的なものから出発して霊的な世界を認識することで霊魂が救われると考えたのに対して、グノーシス主義は世界の一切を悪と考えたので、霊魂自身を認識することで救われると考えた点で異なっています。
グノーシス主義はその派によって様々な教義と神話を持っていましたが、全体的な特徴としては、宇宙の創造神話を人格神ではなくて抽象的な対になった男性/女性原理の系譜として表現しました。
そして、堕落するのは原人間アントロポスではなくて、多くの場合は「知恵(ソフィア)」や「思考(エンノイア)」などの女性原理なのです。
ただ、「言葉(ロゴス)」のような男性原理の場合もあります。
そして、この女性原理の堕落によって悪神である創造神(デミウルゴス、ヤルダバアト)が生れ、創造神が魂と宇宙を作り、この中に女性原理に由来する霊・神性が入ります。
これは創造神が閉じ込めたとも、女性原理が魂を救うために密かに植え付けたとも言われます。
最も初期の単純なグノーシス派の神話は、まず、「父」なる存在と「母」なる存在があって、「母」が堕落してこれらを「父」が救う、というものだったと想像されています。
ですがやがて、「父」から救済や啓示の役割が「子(息子)」として分かれて、「母」から堕落する存在が「娘」として分かれていきました。
さらに、どんどん複雑化して、30ほどの神的存在(アイオーン)が考えられるようになりました。
多数のアイオーンの中で堕落すると考えられた存在が、「知恵(ソフィア)」や「思考(エンノイア)」なのは、アントロポスの堕落のように地上の人間の霊魂の由来を説明するだけなのに対して、グノーシス主義の場合は宇宙そのものの創造の原因まで問題にしているからでしょう。
そして、この堕落するものがたいてい男性原理よりも女性原理なのは、女性原理の方が物質性と関係が深いことと、内在的な性質が強いからでしょう。
この女性原理が「知恵」や「思考」といった性質であることには、アナーヒター、マアト、イシス、ホクマーなどのオリエントの女神、ギリシャ哲学の「知恵(ソフィア)」からの影響があるのでしょう。
また、その堕落するという性質には、満ち欠けする月神(ダイアナ、セレーネー)、身を隠す豊穣神(イシス、デルメル)、冥界に下る豊穣神(ペルセポネー、イシュタル)などからの影響があるのでしょう。
特に、アイオーンが30ほどで存在するという点には月神との関連が深いと思われます。
女性原理の堕落の原因は、「自らが創造したものに次々捕まって引きずり降ろされた」、「本来の伴侶を無視して一方的に知り(交わり)得ない父を知ろう(交わろう)とした」などです。
キリスト教側からグノーシス主義の創始者であると言われているのは、サマリア出身でアレキサンドリアで魔術を学んだと言われているシモン・マゴスです。
ですが、この説は伝説のようなものです。
ユダヤの北にあるサマリアは、一般にユダヤ(エルサレム)とは別の神殿や宗教を持っていましたが、シモンはサマリアの自分の信者からは神と信じられていました。
シモン自身は自分を父なる「ロゴス」=「ヌース」であり救済者と考え、「第1の思考(エンノイア)」が堕落した地上での姿とされた娼婦ヘレネーを連れていました。
シモンのグノーシス主義のバックボーンには、サマリアの月神セレーネーや娼婦になったとも言われていたイシス神などが考えられます。
洗礼者ヨハネの弟子であると自らが語っている一派にマンダ教があります。
ですが、これは後世の創作かもしれません。
マンダ教は神的な至高の領域を至高神から順に生まれる4段階の神的存在として考えました。
また、グノーシス主義のアレキサンドリアの一派ベルベーロー派は、これを5段階で考えてそれぞれが男女のカップルであるとしました。
グノーシス主義の中でも最も複雑で体系的な世界観を発展させたのはアレキサンドリアのヴァレンティノス派やプトレマイオス派です。
彼らは新プラトン主義の影響を受けたキリスト教系のグノーシス主義者です。
彼らは、世界を3つの階層で捉えました。
それは「アイオーン界(プロレーマ)」と呼ばれる神の世界と、そこから分離された「中間的な世界(恒星天)」、そして、悪神が作った「物質界(地上と7惑星天)」です。
そして、人間の要素に関しても、神の世界に由来する「プネウマ(霊)」と、中間的な「プシュケー(魂)」、そして「肉体」として3元論で捉えました。
プネウマは恒星天や7惑星天のそれぞれに対応する魂や身体性の衣服を何重にも着せられて、地上に囚われます。
そして、プネウマは人間の死後、7惑星天と恒星天の悪い神々に捕まることを避けて服を返しながら、それらを通り抜けて、神の世界にまで帰るのです。
ところで、グノーシス主義のオフィス派は、創世紀の堕落の物語を独自に解釈します。
彼らによると、悪の創造神ヤーヴェがアダムとエヴァをエデンに閉じ込めていたのを、救世主的存在である蛇=霊が知恵の樹の実を食べさせることで解放したのです。
イエスも蛇=救世主の一つの形であって、イエスは人間に生命の樹の実を食べさせるために現われるのです。
この解釈には、認識を重んじるグノーシス主義のアンチ・ユダヤ的性質がよく現われています。
グノーシス主義は特別な霊的認識を求めるので、当然、秘教的な性質を持っていて、公に向かって布教するような運動ではありませんでした。
また、グノーシス主義者はその反宇宙論的な世界観の結果として、現世否定的で、物質的な欲望の一切を否定する禁欲的な傾向を持っていました。
ですが同時に逆説的ですが、地上的な道徳の一切を否定してそれからの自由を主張する傾向がありました。
ローマの法律であれユダヤの律法であれ、地上の秩序を定めたものは悪神である創造神(デミウルゴス)や悪の天使・支配者(アルコーン)だからです。


1770秦野北斗:2013/11/06(水) 23:50:18
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001839M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/漢委奴国王印



1771管理人:2013/11/07(木) 22:47:02
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> > 大漢国、高句麗・扶余周辺ですね。漢氏の故地でしょう。穢の地域で「アヤ」と読ませるわけですが、書紀を記載した集団の記録と好太王碑との間にもっと接点を見いだして行く必要があります。
>
> 穢・・・「アヤ」・・・月・・・
> >大漢国、高句麗・扶余周辺ですね。漢氏の故地でしょう。穢の地域で「アヤ」と読ませるわけですが、書紀を記載した集団の記録と好太王碑との間にもっと接点を見いだして行く必要があります。
>
> 「アヤソフィア」は「聖なる叡智」「聖ソフィア」のギリシャ語「アギオス・ ソフィア」から派生したものです。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1421468004
> ハギア


、"aya"はトルコ語で「月(month) 」という意味でした。 http://blog.livedoor.jp/m231dl/archives/1764263.html
>



確かに「漢」「穢」で「アヤ」と読ませる件は、未だ解明されてませんね。

一説によれば「安邪」から来たので「漢氏」だというわけですが、その場合「安那」「アナ」の発音とも、漢氏は関連性があるかどうかを見いださねばならないわけですね。

「狗邪(韓国)」「狗那(奴)」などとの対比からも、その是非を考えていきたいところです。


確かに「穢」の地は、秦野さんのおっしゃるように北朝鮮方面で、これを「アヤ」と読むならば、南韓の「安邪」との間には距離差があるので、ある時期に南下した集団が「アヤ」を名乗った、百済にも残りの集団がいて、そこから「穢」人が、派遣されたと考えていくとどうなるか?という視点も重要です。


それで元々の「穢」(わい)を、「アヤ」と読ませていたのかどうか?ここが課題で、扶余・穢系は確かに、遊牧民系なわけですから、中国西方まで起源を探して行く必要があります。

ただ、その楽浪・帯方時代、あるいは扶余周辺にて「アヤ」の発音をもった地名や集団が出て来るかどうかも気になるところです。「穴」の件は、以前お話したとおりで、月氏と関係してきます。中国から半島経由で日本へと古墳時代初期あたりに渡って来る、そこと関わるかどうかですね。

1772秦野北斗:2013/11/08(金) 20:18:47
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
管理人さんへのお返事です。

「穢」(わい)は「遊牧民系なわけですから、・・」どこから拾ったのか疑問だな。
『後漢書』に「礼儀や農耕を教え、・・」の文章があるな。農耕民族が正しいな。

『後漢書』

 濊北與高句驪、沃沮、南與辰韓接、東窮大海、西至樂浪。濊及沃沮、句驪、本皆朝鮮之地也。昔武王封箕子於朝鮮、箕子教以禮義田蠶、又制八條之教。其人終不相盜、無門戸之閉。婦人貞信。飲食以籩豆。

 濊、北は高句麗と沃沮、南は辰韓と接し、東は日本海に尽き、西は楽浪郡に到る。
 濊、沃沮、高句麗、元はいずれも朝鮮の領地である。昔、武王が箕子を朝鮮に封じる。箕子は礼儀や農耕を教え、また、八条の教えを制定した。そこの人々は互いに盗むことはなく、門戸を閉じることがない。婦女子は貞節で信用できる。飲食には膳を用いる。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-wai-.htm



> それで元々の「穢」(わい)を、「アヤ」と読ませていたのかどうか?ここが課題で、扶余・穢系は確かに、遊牧民系なわけですから、中国西方まで起源を探して行く必要があります。
>
> ただ、その楽浪・帯方時代、あるいは扶余周辺にて「アヤ」の発音をもった地名や集団が出て来るかどうかも気になるところです。「穴」の件は、以前お話したとおりで、月氏と関係してきます。中国から半島経由で日本へと古墳時代初期あたりに渡って来る、そこと関わるかどうかですね。


1773管理人:2013/11/08(金) 22:41:40
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 「穢」(わい)は「遊牧民系なわけですから、・・」どこから拾ったのか疑問だな。
> 『後漢書』に「礼儀や農耕を教え、・・」の文章があるな。農耕民族が正しいな。
>
> 『後漢書』
>
>  濊北與高句驪、沃沮、南與辰韓接、東窮大海、西至樂浪。濊及沃沮、句驪、本皆朝鮮之地也。昔武王封箕子於朝鮮、箕子教以禮義田蠶、又制八條之教。其人終不相盜、無門戸之閉。婦人貞信。飲食以籩豆。
>
>  濊、北は高句麗と沃沮、南は辰韓と接し、東は日本海に尽き、西は楽浪郡に到る。
>  濊、沃沮、高句麗、元はいずれも朝鮮の領地である。昔、武王が箕子を朝鮮に封じる。箕子は礼儀や農耕を教え、また、八条の教えを制定した。そこの人々は互いに盗むことはなく、門戸を閉じることがない。婦女子は貞節で信用できる。飲食には膳を用いる。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-wai-.htm
>
>
>


「穢」の発音を、ちょっと調べ直すと面白いことがわかりますね。

「穢」 呉音;エ(ゑ、ウェ) 漢音;ワイ

「沃沮」 呉:オクソ  漢:オクショ

「扶余」 呉:ブヨ  漢:フヨ

「倭」 呉;イ(ヰ ウィ)、ワ  漢:イ(ヰ)、ワ



こう見ると、倭と穢に、若干の共通性があるように見えます。
倭の初現は以外と遅く、後漢時代なんですよね。


古くは戦国から秦漢期にかけて成立した『山海経』に、東方の海中に「黒歯国」とその北に扶桑国があると記され、倭人を指すとする説もある。また後漢代の1世紀ころに書かれた『論衡』に「倭」「倭人」についての記述がみられる。しかし、これらがの記載と日本列島住民との関わりは不明である。また『論語』にも「九夷」があり、これを倭人の住む国とする説もある。
倭人についての確実な初出は75年から88年にかけて書かれた『漢書』地理志である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


おそらく、それ以前は、違う名称だった。ところが、後漢初期の楽浪・扶余系つまり穢人たちの南下にしたがって、一部が九州北部に入ってきます。そのときに自分たちのことを、特に楽郎・秦韓系は「ア」と呼ぶ事は以前論議したとおりです。これが「吾(ア・ワ)」「(残)阿」へと変化していきます。百済方面に残ったのは後の「百残」で、秦韓系に移動した集団は「阿」「安邪」「安那」で「ア」音を有します。

それで、そのときに「穢(ワイ)」おそらくは「アイ」に近い発音で、自身を呼ぶ集団が、後漢の使者や役人に「アイ」を伝えて、「倭」と記された可能性はないでしょうか?

元々穢は「wei」なんじゃないですね。「ウエィ」

おそらくは中東遊牧民系の国名や集団名の後に「タイ」音をつけて使用する集団で、ゲッタイ、アオルサイ、サウロマタイ、スキタイ、レンダイ、ヤマタイ・・・。

月氏、は「グェタイ」 で、かなり繋がりはあるだろうと予測していることも先日の会報のとおりです。



1774荊の紀氏:2013/11/11(月) 10:59:05
お歯黒
お歯黒
2012年12月8日 - >扶桑は常陸。大漢国は金印(漢委奴国王印)から(やまと)邪馬台国。 > 漢委奴国王印の 印字を分解すると、漢と委奴国に分ける。漢は漢(韓)国でこの中に委奴国。 > 整理すると 、大漢(韓)国=邪馬台国=大和になる。大和の倭国(わこく)、現在 ... http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/970
、「お歯黒の国」
扶桑国東北説. 台湾の篤学・李学勲(1920〜1998)は『山海経』の解読に生涯を捧げ 、その「海外東経」「大荒東経」にある黒歯国は、「お歯黒の国」すなわち日本の山形県・ 秋田県の羽黒山系のことであると解いた。したがって、その黒歯国に隣接するとされる ... http://www8.ocn.ne.jp/~douji/tohoku.htm
田中勝也氏は中国唐代の『梁書』の扶桑国・女国、『酉陽雑爼』の扶桑州・長鬚国、日本の『伊予三島縁起』の扶桑州はいずれも日本列島の東北部にある国家を指すと思われるとして、それを『日本書紀』にいう蝦夷にあてた。ただし、田中氏は『李朝実録』にある夷千島王の使者(1482年に朝鮮李朝に入朝)の国書に現れる扶桑は日本のこととする。また、14〜15世紀の地図においては、扶桑・女国を日本から離れたところ、具体的には東シベリア・沿海州・樺太・千島とおぼしき中国東北方に置く傾向があるとも指摘する。田中氏は扶桑が日本の雅号としても用いられたことや、情報の混乱から、中国における扶桑の所在の認識にも異動が生じているとするが、それでも、かつて日本の東北方が扶桑と呼ばれていたという痕跡は一貫して見出すことができるという。
 なお、中国の常征氏も『梁書』の扶桑国はすなわち大漢国のことで本州島最北端もしくは北海道にあったとする。常氏は邪馬台国すなわち倭国の中心を九州の宮崎県西都市あたりに求め、魏志倭人伝における邪馬台国までの航路記事を延長することで、文身国を能登半島東北、大漢国=扶桑国を日本列島北端に求めることになったのである。
倭国東方
お歯黒(おはぐろ)とは、明治時代以前の日本や中国南東部・東南アジアの風習で 主として既婚女性、まれに男性などの歯を黒く染める化粧法のこと。 http://ja.wikipedia.org/wiki/お歯黒
歴史[編集]
起源はわかっていないが、初期には草木や果実で染める習慣があり、のちに鉄を使う方法が鉄器文化とともに大陸から伝わったようである。
古墳に埋葬されていた人骨や埴輪にはお歯黒の跡が見られる。
山海経に黒歯国(『三国志 (歴史書)』魏志倭人伝では倭国東方)があると記述がある。
天平勝宝5年(753年)に鑑真が持参した製法が東大寺の正倉院に現存する。
鑑真が中国から伝えた製造法は古来のものより優れていたため徐々に一般に広まっていったが、その製造法は当初は仏教寺院の管理下にあった。このあたりが一般に日本のお歯黒が仏教に由来する習俗と言われる所以かもしれない。
お歯黒に関する言及は『源氏物語』、『堤中納言物語』にもある。平安時代の末期には、第二次性徴に達し元服・裳着を迎えるにあたって女性のみならず男性貴族、平氏などの武士、大規模寺院における稚児も行った。特に皇族や上級貴族は袴着を済ませた少年少女も化粧やお歯黒、引眉を行うようになり、皇室では幕末まで続いた[1]。

皇室では幕末まで続いた http://shade.xxxxxxxx.jp/
1870年2月5日、政府から皇族・貴族に対してお歯黒禁止令が出され、それに伴い民間でも徐々に廃れ(明治以降農村では一時的に普及したが)、大正時代にはほぼ完全に消えた。
中国・東南アジア・等 [編集] 現代においても、以下の少数民族地域において、本式のお歯黒が見られる。主に、年配の女性に限られ、既婚でも若い女性が、お歯黒をすることは稀である。この地域向けに、お歯黒の義歯が作られる。照葉樹林文化圏も参照。 * 中国雲南省 o ミャオ族 o ラフ族 o ヤオ族 * ベトナム(ハノイ、及び中国に接する地域) o ザオテン族 o ルー族 o 黒ザオ族 o ヌン族 * ラオス(現代では付けない場合が多い) o ハニ族 o カトゥ族 o プーノイ族 * タイ(キンマとビンロウを一緒に噛む習慣と関連あり) o アカ族 o リス族


1775荊の紀氏:2013/11/11(月) 11:20:52
濊貊
沃沮と濊貊は朝鮮国に帰属して国家体制を固めていった。 http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus/tungus-4-waihaku.htm
『春秋時代』(紀元前770年−同476年)
 穢王の印璽を持つ扶余族について「体形は大柄で勇猛だが、謹厳実直で略奪をしない」と『三国志魏書』扶余国伝を記しており、この誠実で勇敢な性質が、移住した地域に接する他の民族や部族にも好まれ、定住農耕を伸展させていったと思われる。
 また、南シベリア地方のタガール文化(紀元前700年-前200年)が、オルドス(内蒙古自治区の南部)地方で中国青銅器文化と融合して誕生したオルドス文化(遼寧式青銅器文化)を発展させた原動力ともなったと推察する。
『戦国時代』(紀元前475年−同221年)
 この時代、鉄器文化の発展で農業生産力が一挙に増大した中原諸国では中華統一の機運が生じ、群雄割拠の戦乱期に突入する。穢系部族連合も順調に国力を付けていく。
『史記』匈奴列伝
 百有余年後、趙襄子(趙の先祖、紀元前430年に死去)は匂山を越え、代国も破り、胡族と貉族(後世の注記に、貉とは濊なり)に臨んだ。
 上記から戦国時代初期に、すでに貉(後の高句麗)が勢力を有していたことが窺えるが、徐々に人口が増加し、新たな開拓地が必要となり、穢系連合も各部族が新天地を求めて移住を始める時期がきたのではないだろうか。
 そして、穢王の王統である扶余族は故地(吉林省から黒竜江省)に留まり、その他の部族は新天地を求めて南下。中原諸国の戦乱を横目にしながら、「貉族」は居住領域の重なる「發、高夷」を吸収して「高句麗」、朝鮮半島の東北部(北朝鮮、咸鏡南・北道)に移住した部族は「沃沮」、更に南下して朝鮮半島北部の東岸(北朝鮮、江原道)に移住した部族は「濊」を各々が建国する。

濊。南は辰韓、北は高句麗と沃沮に接し、東は大海(日本海)に尽き、今の朝鮮の東は皆、濊の土地である。戸数は二万。昔、箕子が朝鮮に行き着き、八條の教えを作り、これを教えたので、門戸を閉じずとも民衆は盗むことをしない。
 その後、四十余代の朝鮮侯準は王を僭称。陳勝(と呉広が反乱を)起したことで、天下は秦王朝に叛くと、燕・齊・趙の民は戦乱を避けて朝鮮の地に数万人も逃げ込んだ。
 紀元前205年、秦始皇帝の死去の翌年に、陳勝と呉広が大沢郷で反乱「陳勝呉広の乱」を起した。ここから劉邦と項羽の覇権争いに発展していくが、この動乱から逃れて朝鮮に流入した人々の子孫が辰韓に多数いたことから、後に辰韓は「秦韓」とも称されるようになる。

「穢貊は辰韓の北、高句麗と沃沮の南に在り、東は大海に尽きる」

『契丹古伝』
 紀元前108年、洛兎(楽浪郡と玄菟郡)が設置され、漢に裏切られた濊君南閭峙は憤慨して自害した。このとき玄菟郡に従属することを嫌い、「穢王之印」を抱いて北方の故地へと逃げた穢族の一部が、その地で「扶余」という国を建てた。

楽浪郡には夫祖県、遼東群には扶黎県があった。これらは扶余にりんせつするように 所在し、その呼称の発音からも明らかな通り、扶余人の居住地だったかも。日本の別名 は「扶桑」といって、夫祖と似てるのは、扶余→扶桑(日本)という皇族の ... https://twitter.com/t7a7t0o1/statuses/193975862301962242

中国の地方にも「扶」の字のっく「扶余」という民族がいた。「扶余法」の内容が、 扶桑とは中国の東海の日の出る所にあるという「神木」、またはその地の名称である。 満州、松花江流域の平野地帯を中心に成長した、その先の民族を扶桑と呼んだので ある http://books.google.co.jp/books?id=-xfhYlQfp3QC&amp;pg=PA26&amp;lpg=PA26&amp;dq=扶余 扶桑&source=bl&ots=SrzA5RVDNi&sig=7FYL5zQ-Ng9w3-zb_E2QG9MYqyw#v=onepage&q=扶余 扶桑&f=false

倭族とは
さらに鳥越は、馬韓・辰韓・弁辰などが倭族が築いた国であることを立証するために、 それぞれの国の神話に着目する。 まず、馬韓諸国を統一して建国されたのが、百済で ある。建国者は扶余国の王族の一人である。(扶余族は、もと黒竜江上流域にいた モンゴル ... http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/008_1wajinn_no_syutuji_nituite.html
魏略は、魏志倭人伝の種本であったと考えられており、その本では、より明確に長江下 流域・江南地方の出身であったと記述していたという。

日本民族起源新説
... 恩智遺跡、船橋遺跡、下池田遺跡、兵庫県の玉津田中遺跡、奈良県の唐古遺跡、 岡山県の天瀬遺跡など、近畿地方から瀬戸内海 ... そして長江下流域では、七千年前と 推定される浙江省の河姆渡遺跡に、二羽の鳥が太陽を真ん中に向かい合う象牙の彫刻 が ... 蓋以聖?所致、天使鳥獸報祐之也」とあり、つまり夏王朝を創った禹が亡くなって 会稽山に葬られたとき、天はその聖徳を嘉み ..... も鳥族も蛇族もすべて「苗族たち」 としているが、苗族と信仰も生業も民族も異なる江南の鳥族を視野に納めるべきところで あろう。 http://www.geocities.jp/jiangnankejp03/lunwen/jp_lunwen06.htm
鳳凰信仰の原型である鳥崇拝は、長江各地では異なった様相を呈する。たとえば、長江中流域にある湖南省の高廟遺跡からは、太陽を両羽にかかえる怪鳥の姿が造形されていた七千年前の土器が出土しており、その鳥は立派なトサカを持ち、鶏の面影をとどめている。そして長江下流域では、七千年前と推定される浙江省の河姆渡遺跡に、二羽の鳥が太陽を真ん中に向かい合う象牙の彫刻が発見され、その姿はどうやら水鳥に似ている。時代はくだるが、長江上流域の四川省三星堆遺跡から、青銅製の扶桑木といわれるものが発見され、その枝にとまっている九羽の鳥は、明らかにカラスをモデルにしている。

、「禹葬會稽、鳥為之田。蓋以聖?所致、天使鳥獸報祐之也」とあり、つまり夏王朝を創った禹が亡くなって会稽山に葬られたとき、天はその聖徳を嘉みし、鳥を遣わして田を耕させたという。
中国の文献、たとえば『越絶書』と『論衡』はこの故事をしばしば「鳥田」と約して称しているが、それは「鳥の田」という意味ではなく、「鳥が田を耕す」と理解すべきことは、『墨子』(佚文)の「禹葬於会稽、鳥為之耘」、『呉越春秋』(無余外伝)の「天美禹?、而労其功、使百鳥還為民田」などによっても裏書きされる。
鳥が人力のかわりに田を耕すことは後世の伝承にすぎないが、しかし原始農業のころ、鳥は稲作民によってありがたい存在に違いない。禹が葬られた会稽山は今の紹興にあり、そこに「大禹陵」と呼ばれる墓が現存している。『論衡』はさらに「会稽衆鳥所居」といい、「鳥自食苹」とも伝えている。「苹」は「草」の意味で、『水経注』(四十)は「鳥為之耘、春拔草根、秋啄其穢」と説明している。
 このように、鳥は稲の種を運び、土を柔らかくし、害虫や雑草を除去してくれることで、稲作民から崇拝され、さらに鳳凰信仰と発展し、同じく農耕から生まれた太陽信仰に融合していく。鳳凰信仰と太陽信仰との結合は、南方の稲作民において、独自な宗教世界あるいは宇宙像がついに体系をととのえたことを物語る。鳳凰族の誕生である。
さまざまな鳥を崇拝している民族が淮河より南に散らばっているため、東の青龍、北の玄武、西の白虎に対して、南方を守る四方神に朱雀が選ばれた。朱雀は鳳凰をさらに抽象化したもので、古代天文学では南の七つの星宿を総称する。
この朱雀の影響は日本文化のなかに深く浸透している。今年の四月、キトラ古墳の壁画から躍動感のある朱雀図が発見されて世論を賑わしたが、著者は「このキトラ古墳に描かれた朱雀のルーツは、長江文明の鳳凰にまでたどりつく」(P.68)と指摘し、「その翼を広げ、長い足を大きく開き、するどい目をした精悍なその躍動する姿は、長江文明の最後の華ともいうべき楚の国の鳳凰を思い起こさせるに十分であった」(P.69)とも述べている。
しかしキトラ古墳は八世紀の初頭に建造されたもので、紀元前に滅びた楚の国とは約千年の時間的な隔たりがあり、両者を安易に結びつけることには慎重さを要する。また朱雀は、秦漢帝国の中国統一によって民族融合が進んでいるうちに、漢民族の信仰世界に統合された鳳凰の変形であり、著者のいう「南方の長江文明のにおいを感」じることは、そう容易ではなろう。(P.69)

禹にかかわる伝説の多くが長江下流域に発祥し、禹が各地に課したとされる貢 納品の殆どが長江流域の産物である点や、洪水伝説との時期的な ... http://home.t02.itscom.net/izn/ea/c011.html
西周
 B1023?〜B772
 姫姓。はじめ半農半猟を営んでいたが、近縁の姜姓集団との通婚を保ちつつ、安陽文化期には汾河下流域の豳に移って定住社会に移行した。 古公の代に岐山に遷って勢力を増し、孫の昌の時代には殷から方伯とされ、殷の東方経略に乗じて次第に東進し、昌の子の発が武王を称して殷を滅ぼした。
 関中の鎬京を宗周城として旧領統治と宗廟祭祀の中心とし、洛邑に王城・成周城を造営して東方支配の拠点とし、三監の乱を克服した成王の時代に統治体制がほぼ整い、昭王・穆王の代には漢水・長江中流域に遠征するなど最盛期を現出した。
 西周時代は殷の安陽期に比して文字史料の出土が圧倒的に少なく、王墓が未発見なこともあり、成王を襲いだ康王以降の実態も殆ど判明しておらず、金文や諸史には攜王・休王・夨王などの名も確認されている。 拡大の停止と体制の硬直化で次第に王室が弱体化し、財政強化を図った厲王は法治を強めて国人に追放され、中興と称される宣王も晩年には中央集権化で失敗した。 幽王が失政の末に玁狁に敗死したことで宗周政権は中絶し、関中の攜王と成周の平王がそれぞれ諸侯の支援で並立した。


1776秦野北斗:2013/11/11(月) 15:49:36
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
管理人さんへのお返事です。

濊の意味に接近しましょうかな。

一部に穢と濊を間違えた模様だ。ここは濊ですな。
穢多(えた)は?

濊は「穢」とも書き(草カンムリをつけることもある)「わい」とも「かい」とも読む(「かい」の方がより正しいとの説もある)。「穢(けが)れる、穢(きた)ない」などの意味をもつ文字で書かれたのは、異民族に対する中華王朝の蔑称ともみえるが、音は何らかの自称名を写したものであろう。一説に、前二世紀の中国東北部の「濊」は(かい)、後三世紀の韓国江原道の「濊」は(わい)と読む。

http://uyopedia.a.wiki-site.com/index.php/穢(わい)

和邇国

邇は近いで、意味どう訳すが問題だな。倭国に近いのか、血の繋がりが密接なのか。
もともと、和邇国を倭国とした模様。瑞穂国が俀国になるな。
理解するには俀国を隔て倭国が存在するな。

滋賀県大津市は経緯があり現在に至っているので和邇氏の発祥と勘違いしない様に。

現在の滋賀県大津市の地名、和邇氏の根拠地があった事に由来する。鞍馬・大原方面から山越えで北近江・越前・若狭方面への山越えの中継地点で、京都と外部の境とされていた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/和邇


和邇(わに)は和と邇にわける
邇は「ちか-い」、和は倭国の倭で意味は倭に近い

形容詞
ちかい【近い】
二つの物の間の距離が小さい。
時間的な隔たりが小さい。
人間関係が親しい。血の繋がりが密接。
近眼である。
性質や内容が似ている。

http://ja.wiktionary.org/wiki/ちかい



>
>
> おそらく、それ以前は、違う名称だった。ところが、後漢初期の楽浪・扶余系つまり穢人たちの南下にしたがって、一部が九州北部に入ってきます。そのときに自分たちのことを、特に楽郎・秦韓系は「ア」と呼ぶ事は以前論議したとおりです。これが「吾(ア・ワ)」「(残)阿」へと変化していきます。百済方面に残ったのは後の「百残」で、秦韓系に移動した集団は「阿」「安邪」「安那」で「ア」音を有します。
>
> それで、そのときに「穢(ワイ)」おそらくは「アイ」に近い発音で、自身を呼ぶ集団が、後漢の使者や役人に「アイ」を伝えて、「倭」と記された可能性はないでしょうか?
>
> 元々穢は「wei」なんじゃないですね。「ウエィ」
>
> おそらくは中東遊牧民系の国名や集団名の後に「タイ」音をつけて使用する集団で、ゲッタイ、アオルサイ、サウロマタイ、スキタイ、レンダイ、ヤマタイ・・・。
>
> 月氏、は「グェタイ」 で、かなり繋がりはあるだろうと予測していることも先日の会報のとおりです。
>
>

1777管理人:2013/11/12(火) 22:09:38
Re: お歯黒
荊の紀氏さんへのお返事です。

> お歯黒

>??古墳に埋葬されていた人骨や埴輪にはお歯黒の跡が見られる。
>??山海経に黒歯国(『三国志 (歴史書)』魏志倭人伝では倭国東方)があると記述がある。

中国・東南アジア・等 [編集] 現代においても、以下の少数民族地域において、本式のお歯黒が見られる。主に、年配の女性に限られ、既婚でも若い女性が、お歯黒をすることは稀である。この地域向けに、お歯黒の義歯が作られる。照葉樹林文化圏も参照。 * 中国雲南省 o ミャオ族 o ラフ族 o ヤオ族 * ベトナム(ハノイ、及び中国に接する地域) o ザオテン族 o ルー族 o 黒ザオ族 o ヌン族 * ラオス(現代では付けない場合が多い) o ハニ族 o カトゥ族 o プーノイ族 * タイ(キンマとビンロウを一緒に噛む習慣と関連あり) o アカ族 o リス族
>


お歯黒と黒歯国、そして古墳時代の黒歯人骨、東南アジアとの関わり重要ですね。



1778秦野北斗:2013/11/14(木) 20:32:15
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
管理人さんへのお返事です。

濊の地は衛滿、燕の地の様だな。 濊。南は辰韓、北は高句麗と沃沮に接し、東は
大海(日本海)に尽き、北朝鮮だな。大夫の禮・・。五大夫との関係があるのか?
http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1704

燕の亡名者の衛滿がすべてを奪い取る。東の地(朝鮮の領地)を略奪しようとしたので、朝鮮侯もまた王を自称して、周の宗室を尊んで兵をあげ、燕を迎撃しようとしたが、大夫の禮が諌言したことで止めた。

『三国志魏書』
 濊南與辰韓、北與高句麗、沃沮接、東窮大海、今朝鮮之東皆其地也。戸二萬。昔箕子既適朝鮮、作八條之教以教之、無門戸之閉而民不為盜。其後四十餘世、朝鮮侯淮(準)、僭號稱王。陳勝等起、天下叛秦、燕、齊、趙民避地朝鮮數萬口。
 燕人衛滿,魋結夷服,復來王之。漢武帝伐滅朝鮮,分其地為四郡。自是之後,胡漢稍別。
 濊。南は辰韓、北は高句麗と沃沮に接し、東は大海(日本海)に尽き、今の朝鮮の東は皆、濊の土地である。戸数は二万。昔、箕子が朝鮮に行き着き、八條の教えを作り、これを教えたので、門戸を閉じずとも民衆は盗むことをしない。
 その後、四十余代の朝鮮侯準は王を僭称。陳勝(と呉広が反乱を)起したことで、天下は秦王朝に叛くと、燕・齊・趙の民は戦乱を避けて朝鮮の地に数万人も逃げ込んだ。
 燕人の衛満が魋(まげ)を結い、夷服を着て,何度も往来して、ここの王となる。漢の武帝が朝鮮を討滅。その地を四郡に分けた。これの後、胡と漢は少し別れた。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-wai-.htm

侯準既僭號稱王、為燕亡人衛滿所攻奪?
 注記? 魏略曰:昔箕子之後朝鮮侯、見周衰、燕自尊為王、欲東略地、朝鮮侯亦自稱為王、欲興兵逆撃燕以尊周室。其大夫禮諫之、乃止。使禮西説燕、燕止之、不攻。後子孫稍驕虐、燕乃遣將秦開攻其西方、取地二千餘里、至滿番汗為界、朝鮮遂弱。

 すでに侯準は王を僭称していたが、燕の亡名者の衛滿がすべてを奪い取る。
 注記? 魏略に曰く。昔、箕子の後裔の朝鮮侯は、周朝の衰退を知った燕が自ら王と尊称して、東の地(朝鮮の領地)を略奪しようとしたので、朝鮮侯もまた王を自称して、周の宗室を尊んで兵をあげ、燕を迎撃しようとしたが、大夫の禮が諌言したことで止めた。
 禮を西に遣わして燕を説くと、燕は進撃を止め、攻撃をしなかった。その後、朝鮮侯の子孫がやや驕慢で暴虐だったので、燕は秦開将軍を派遣して、その西方を攻め、二千余里の地を奪い取って、満潘汗を以て国境とした。朝鮮は衰弱した。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm



1779荊の紀氏:2013/11/15(金) 20:32:54
Re: お歯黒
管理人さんへのお返事です。

> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> > お歯黒
>
> >??古墳に埋葬されていた人骨や埴輪にはお歯黒の跡が見られる。
> >??山海経に黒歯国(『三国志 (歴史書)』魏志倭人伝では倭国東方)があると記述がある。
>
>??中国・東南アジア・等 [編集] 現代においても、以下の少数民族地域において、本式のお歯黒が見られる。主に、年配の女性に限られ、既婚でも若い女性が、お歯黒をすることは稀である。この地域向けに、お歯黒の義歯が作られる。照葉樹林文化圏も参照。 * 中国雲南省 o ミャオ族 o ラフ族 o ヤオ族 * ベトナム(ハノイ、及び中国に接する地域) o ザオテン族 o ルー族 o 黒ザオ族 o ヌン族 * ラオス(現代では付けない場合が多い) o ハニ族 o カトゥ族 o プーノイ族 * タイ(キンマとビンロウを一緒に噛む習慣と関連あり) o アカ族 o リス族
> >
>
>
> お歯黒と黒歯国、そして古墳時代の黒歯人骨、東南アジアとの関わり重要ですね。
>
>

お歯黒 ユダヤ教における、聖数 13
お歯黒」の習慣が始まりました。 対馬の塔ノ首 ... 女子の風習だったお歯黒が男子にも 見られるようななりました。 .... 1608年(慶長13年)イエズス会の外科医アルメイダが 創設した洋式の慈恵病院とミゼリコルディア(慈善事業団体)が長崎に開設されたました 。 http://www.nda.or.jp/history/
<弥生時代の歯の事情>
 弥生人は縄文人以上にむし歯に苦しめられていました。「お歯黒」の習慣が始まりました。

13、14歳でお歯黒を真似た儀礼をする地域が分布していた。 http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=402

13という数字は、ユダヤ教における、聖数なのだそうだ、、 http://blog.goo.ne.jp/kidotomoaki/e/a0c03eef6536204afafc33deaf51649f
13歳になると、ユダヤ教では成人式が行われ、神と向き合う年とされるみたいです、、
そして、ユダヤ人の言葉、ヘブライ語で13は「愛」と「ひとつ」を表すらしいです、、
そして、各々の13をたした、26はなんと、宇宙の絶対神ヤハウェを表す数字になるのだそうだ、、

悪しき風習、エジプト13歳の少女が女子割礼で死亡. 東南アジア諸国で行なわれる、 女性の割礼で死亡者がでました。女子割礼は人権問題でよく問題視されていますが、 危険性や死者に触れる事はあまりありません。この機会に紹介します。 http://matome.naver.jp/odai/2137085128581602201

「13」については、聖書学と言うよりも「オカルト」に分類されが ちな「ゲマトリア」という、文字を数字に変換する「技」から見るものである。 http://ameblo.jp/hierophany/entry-11135163420.html
、「13」という数字は「六芒星数」と言って、縁起の良い数字である。「六芒星数」というのは、小さな三角形(あるいは点)を、「ダビデの星」の形に集めるときに現れる数のことである(「ダビデの星」とはイスラエルの国旗に描かれているヒキサグラムのことである)。
数学的に言えば、最小の六芒星数は「1」であるが、図形として成り立つのは「13」からである。ついで、37、73、121、181、253……と続く。ちなみに、n番目の六芒星数を調べる公式は「6n二乗−6n+1」である。
この六芒星数は、「イエス」や「神」のゲマトリアにも見られる、良い数字である。「13」も例外ではない。ユダヤ人の男子は13歳で元服式を行うし、ユダヤ教では神の属性を13数えている(あわれみ深く、赦しに富み、怒るのに遅く、情け深く、親切であり、厳格で、忍耐強く、義なる、正しい、忠実な、恵み深い、まことに富む、良い御方)。
しかし、サタンは神の真似ごとが好きであり、良いものを悪くしようとする。この「13」という、本来は神のために用いられた数字を、自分のために用い始めた。奇しくも、ヘブル語(古代ヘブライ語)の「愛された(アーバー)」と「憎まれた(アーヤブ)」のゲマトリアは「13」である。サタンは、愛された「13」という数字を、憎まれたものに変えてしまったのである。
聖書において、「13」という数字は、「サタン」や「サタンに関する事柄」や「反逆」などと関係した数字として現れる。サタン自身のギリシャ文字のゲマトリアは「559」であり、13の倍数である。ヘブル語のサタンのゲマトリアは「364」であり、やはり13の倍数である。ちなみに、「364」は13に数学的完全数である「28」をかけたものであり、こうした作業は神のゲマトリアに頻繁に見られる。いかにサタンが神の真似ごと好んだかが伺えるだろう。また、ヘブル語の「悪霊たち(シェディン)」も「364」である。
他にも、「ヨハネの黙示録」に登場するサタンの象徴である「竜(ドラコーン)」のゲマトリアは「975」であり、13の倍数である。ちなみに、この竜は『新約聖書』においては「ヨハネの黙示録」だけに現れ、13回使用されている。また、イヴを唆した蛇のゲマトリアは、ヘブル語もギリシャ語も13の倍数である(蛇はヘブル語で「シャラフ」、ギリシャ語で「オフィス」という)。
「あらゆる野の獣のうちで、蛇が最も狡猾であった」(「創世記」第3章1節)、「試みる者(ペイラゾーン)」(「マタイの福音書」第4章3節)、「ベリアル」(「コリント人への手紙 第二」第6章15節)、「人殺し(アンスロポクトノス)」(「ヨハネの福音書」第8章44節)、「ベルゼブルによって(エン ベルゼブル)」(ルカの福音書)第11章15節、「悪魔(ディアポリス)」など、これら全てのゲマトリアは13の倍数となっている。
ちなみに、ラテン語の文字も、一部ではあるが、数字として用いられている。I=1、V=5、X=10、L=50、C=100、D=500といった具合である。さて、堕天使である「ルシファー」のラテン語表記は「LUCIFER」であるが、その元のスペルは「LVCIFER」とされている。これをラテン語でゲマトリアすると、「L=50、V=5、C=100、I=1(F、E、Rは対応する数字がないため0とする)」となる。これを足すと「156」で、13の倍数となる。少々、話がそれるが、I、V、X、L、C、Dの数字を足してみて欲しい。どんな数字が現れるだろうか。……答えは「666」である。もはやお馴染みの数字であろう。
「彼ら(古代バビロンの諸王)は12年間ケドルラオメルに仕えていたが、13年目にそむいた」(「創世記」第14章4節)とあり、裏切りは13年目に起こった。また、「エステル記」には、ペルシャ帝国の時代にユダヤ人虐殺計画があったことが記されているが、アガグ人ハマンは、その計画を第1月の「13日」に立て、実行日を第12月の「13日」に定めたとある(「エステル記」第3章12〜13節)。因みに、「アガグ人ハマン」のゲマトリアも13の倍数である(767)。偶然の産物か、彼の悪妻ゼレシュのゲマトリアも13の倍数である(507)。

明治政府は皇族や貴族に対して「お歯黒禁止令」を出しま した。 http://goodboone.com/izime/education/post-401.html
明治時代になると、明治政府は皇族や貴族に対して「お歯黒禁止令」を出しました。明治政府は、フランスやイギリスを見習って日本を西欧化しようとしていたため、ヨーロッパの人達から「お歯黒」を野蛮な風習のように見られたくなかったためです。ただ、一度の「お歯黒禁止令」だけでは、お歯黒の習慣を一掃することが出来なかったため、3度(1868年・1870年・1873年)もお歯黒禁止令が出されました。そして、次第にお歯黒をする習慣が無くなっていき、現在では「演劇・花柳界・一部の祭り」などで行われるだけとなっています。


1780荊の紀氏:2013/11/15(金) 20:56:04
13等に分かれた官位
高句麗と渤海の歴史
そのためとうぜんながら、高句麗の遺跡は3国にひろがっており、また高句麗系の人びと が日本列島に渡来して残した足跡として指摘できるものも知られて .... 支配層は、王権 の伸長に対応して、王を中心とした一元的な13等に分かれた官位制に組み込まれた。 http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/koglre.html

高句麗の国を建てたツングース系民族で朝鮮人の祖とされる。 ・京族(キン) 九真( ベトナム系)趙嫗ユニーク兵種:象弓騎兵(タフ ... 瑤族と同じく龍神(ジョカ・伏羲)を祀る が、犬ではなく蛇や蝶を神と崇めるのが特徴。

http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1642
境神・塞の神(道【祖】神 地【蔵 】 庚申【塚】 馬【頭】観音・・・・)や巨石・奇岩などや川(人為的な境も存在)にかかる橋 ...... 伏義(フッギ)と女媧(ジョカ) これは度量衡の単位とは直接関係は無いの ですが、実は一昨年の辰年の新年賀詞交換 会で「伏義(フッギ)と女媧(ジョカ)」 の話をし ... http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban16.htm
フギ?ジョカ?・道祖神?・・・・定規にコンパス・・・・石工メイソンも ) http://kamnavi.web.fc2.com/log/yumv0510.htm

直角定規とコンパスは、現代フリーメーソン のシンボルなので、フギとジョカを中国の フリーメーソンの起源という人もいる http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/501
アスターナ古墳. 伏義女禍(ふつぎじょか)図。 左側、コンパスを持つのが女咼(正しくは女偏がつく)、右側の伏義は曲り尺を持っている。 古代の人々は、生物が誕生したとき、雌雄は一体だったと考えていたのかもしれない。
[6732] RE[6730] なにか意味があるのだろうか。  倭亞府?? http://www.venus.dti.ne.jp/~shigerui/uygur/myth01.htm

古代フリーメーソン派の教義の規範は、「プレアデス星系」にあり ... http://mihoh.seesaa.net/article/110327274.html
道祖神とは、猿田毘古神(さるたひこのかみ)さんと、
天宇受売命(あめのうずめのみこと)さんのペアであり、
日本の記紀などの古文書においても伝えられていますように、
「道を示す」神であります。

13という数字は、フリー・メーソンの誕生と密接に関連している。 http://blog.goo.ne.jp/capitarup0123/e/4808cc147459d34a34d19bcbb5dac7b1
米国は、13という数字と密接にかかわっている。
□ 最初の植民地の数は13であった。
□ 独立宣言の署名者は13人であった。
□ 米国国旗のストライプは13本である。
□ 1ドル札のANNUIT COEPTISは13文字。
□ 1ドル札及び米国国璽に記された文字E PLURIBUS UNUMは13文字。
□ 1ドル札の鷲の上にある星の数は13個。
□ 鷲の前にある盾のストライプは13本。
□ 鷲がつかんでいるオリーブの枝の葉は13枚。
□ 13個の果実と、13本の矢。
□ 第二次世界大戦後にGHQに接収された巣鴨拘置所に設置された絞首台の階段は13段。
□ 連邦準備制度が設立されたのが1913年。

十三まいりは3月13日から5月13日までの間、京都嵐山の大堰川にかかる渡月橋を 渡り、嵐山の中腹にある法輪寺(虚空蔵 ... 和銅6年(713)行基菩薩の開基と伝えられ ています、 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/iwatasin/sub42.html
和銅6年(713)行基菩薩の開基と伝えられています、古義真言宗に属す
 もと葛井寺(クズイ)と称したが、弘法大師の高弟の道昌僧正が貞観10年(868)に堂塔をおこして法輪寺と改め、弘法大師の修行の遺跡として有名な境内の井戸に姿を現した虚空蔵菩薩を自ら彫って本尊としたと伝えられる。
 奥州柳井津・伊勢朝熊(アサマ)と共に日本三代虚空蔵といわれ、智福技芸の守護仏として信仰されている
 天慶年間(938〜947)に空也上人が参籠し勧進によって堂塔を修造した
 本尊は幼年期から成長期に移ろうとする人生の転換期を守護されるというので、毎年4月13日に13歳になる男女が参詣する。これを十三まいり という。
 本堂は元冶元年(1864)の兵火にかかって焼失したのを明治になって再建したもので、堂内には本尊の傍らに持国天、多聞天立像2体(重要文化財)を安置する

ユダヤ人は現在でも13歳の男子に、成人を迎える儀式「バル・ミツバ」を行なうことで 有名だが、日本人も昔、13歳の男子に成人を迎える儀式「元服式」を行なっていた。 .....これは京都では「十三参り」と呼び、京都嵐山の法輪時に参拝します。 http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/e627fc6b839741591e0522014e7c9da6

十三参り 生まれた年の干支が、初めて巡ってくる年( 数え年の13歳)に行われるのが十三参りだ。数え年13歳の男女が、 ... http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2937
大乗仏教誕生に決定的な役割を果たしたのはキリスト教であり,大乗仏教には隠れキリスト教という側面があるという仮説は非常に有望なものと思われるので,さらに検討してみることにしたい。

バル・ミツバというのは男の子が13才になったことを祝うユダヤ教の成人式のことです。 ... 正確には式をしなくてもユダヤ人の子供たちは13才になると宗教上では大人になりバル ...
http://www.scarsdalemura-kara.com/barandbatmitzvah.htm
女の子の場合は、バット・ミツバまたはバス・ミツバと呼ばれ、(出身国による発音が少し違うだけでバス、バットはともに娘の意)12才を過ぎればいつでもよいとされていますが、男の子の場合と同様、13才の誕生日の前後の安息日に式を受けることが多いようです。

5歳にして聖書を、十歳にしてミシュナーを学び始め、13歳にして掟(ミツバー)に従う。 ・・・・
 それ(トーラー)に向かいなさい。一切が含まれているそれに向かいなさい。それを見つめつつ年をとり老いなさい。それからわきにそれてはならない。それにまさるものをあなたは持たないからである」。(ミシュナー 父祖の項より)
http://www.makuya.or.jp/teatime/aj_page/h20090401.htm
 日本にも昔は元服式があり、その元服の時は12〜15歳前後でした。特に武士の家庭では、武士の作法として、責任の取り方をきちんと教えて、元服する息子に「切腹の作法」を父親は伝授したといいます。今、その精神が伝えられているのでしょうか。是非とも回復したい日本精神の一つです。

13参り
... 帰り道にある渡月橋を渡る時に授けてもらった. 知恵が戻らないように、渡り終るまで決して. 振り返らないとゆう習慣があります. 13参りを子供から大人へと成長する節目と考え. お祈り、お祝いをするのが、今では全国に広がっています。
http://www.fukayastudio.co.jp/13.html

嵐山-虚空蔵 法輪寺-
智恵や福徳・技芸上達、さらに丑寅年生の守り本尊として知られる「虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)」を祀り、通称「嵯峨の虚空蔵さん(さがのこくぞうさん)」と呼ばれています。 寺伝では和銅6年(713年)、元明天皇の勅願により行基が葛井寺(かどのいでら) ...
http://www.rohm.co.jp/rohm-saijiki/arashiyama/recomend/recomend_07.html
寺伝では和銅6年(713年)、元明天皇の勅願により行基が葛井寺(かどのいでら)を建立したことが起源。
天長6年(829年)には道昌僧正が虚空蔵菩薩像を安置して、法輪寺に改称しました。

虚空蔵尊大祭
数え年13歳の男女が、福徳と智恵と健康を授かるため、親子ともども虚空蔵菩薩にお参りする習わしで「知恵詣り」「知恵貰い」とも言う。 ... 養願寺 正安元年の創建と伝えられ、天台宗明鏡山善光院養願寺と号し、御本尊は虚空蔵菩薩を安置し、丑寅年生れの守本尊。
http://members2.jcom.home.ne.jp/ichikondo/04 kokuuzoumatsuri(juusanmairi).html
十三参り  生まれた年の干支が、初めて巡ってくる年(数え年の13歳)に行われるのが十三参りだ。数え年13歳の男女が、福徳と智恵と健康を授かるため、親子ともども虚空蔵菩薩にお参りする習わしで「知恵詣り」「知恵貰い」とも言う。当日女の子は、本裁ちの晴れ着に踊り華や、かかえ帯を結び、一人前の娘としての装いにする。男子は元服をする年にあたる。親子で参拝し、「知」「美」など、祈願する事柄を本人の自筆で一文字書いたものを供え祈祷してもらう。

虚空蔵菩薩 (こくうぞうぼさつ)、梵名アーカーシャ・ガルバ
http://ja.wikipedia.org/wiki/虚空蔵菩薩
三昧耶形は宝剣、如意宝珠。種子(種字)はタラーク (Trâ?)。真言は「オン バザラ アラタンノウ オンタラク ソワカ」(O? vajraratna, O? trâ? svâhâ)や、記憶力増進を祈念する修法「虚空蔵求聞持法」で用いられる「ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」(Nama? Âkâśagarbhâya, O? arika mari muri svâhâ) などが知られる。
「虚空蔵」はアーカーシャ・ガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。 元々は地蔵菩薩の地蔵と虚空蔵は対になっていたと思われる。しかし虚空の空の要素は他の諸仏にとって変わられた様で、また地蔵菩薩の独自の信仰もあり、対で祀られる事はほぼ無い。
空海が室戸岬の洞窟 御厨人窟に籠もって虚空蔵求聞持法を修したという伝説はよく知られており、日蓮もまた12歳の時、仏道を志すにあたって虚空蔵菩薩に21日間の祈願を行ったという。また、京都嵐山の法輪寺では、13歳になった少年少女が虚空蔵菩薩に智恵を授かりに行く十三詣りという行事が行われている。 胎蔵曼荼羅の虚空蔵院の主尊であり、密教でも重視される。

ΨΨ
五大虚空蔵菩薩 [編集]
五大虚空蔵菩薩は、虚空蔵菩薩のみ5体を群像として表わしたものである。虚空蔵菩薩の五つの智恵を5体の菩薩像で表わしたものとも言い、五智如来の変化身(へんげしん)とも言う。五大虚空蔵菩薩像は、息災・増益などの祈願の本尊にもなっている。五大虚空蔵菩薩の名称、方位、身色は次のとおりである。

法界虚空蔵(中央、白色)
金剛虚空蔵(東方、黄色)
宝光虚空蔵(南方、青色)
蓮華虚空蔵(西方、赤色)
業用(ごうよう)虚空蔵(北方、黒紫色)
五大虚空蔵菩薩の彫像の作例としては、京都・神護寺多宝塔安置の像(平安初期・国宝)が著名である。京都・東寺観智院安置の五大虚空蔵菩薩像(重文)は、空海の孫弟子にあたる恵運が唐から将来した像である。法界、金剛、宝光、蓮華、業用の各像はそれぞれ馬、獅子、象、金翅鳥(こんじちょう)、孔雀の上の蓮華座に乗っている。この観智院像は、もとは山科(京都市山科区)の安祥寺にあったものである。

<論文>漆工職祖神と虚空蔵菩薩 : 秦氏および木地屋との関係を中心にして ...
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/dspace/handle/2241/14312

とんでもニャ〜Mの推測 1−7
「虚空蔵求聞持法」を空海に伝授した「勤操」も秦氏で、「狭山池」で行基と繋がると思われ、「大安寺」で太子や行教とも繋がり、「大安寺」 ... 大和氏著の秦氏関係の本によりますと、「宇佐八幡宮」の神宮寺「弥勒寺」は、「虚空蔵寺」が改名されたお寺だそうです。
http://www.geocities.jp/easyclub_choro/tonde7.htm
、「韃靼」「靺鞨」については前回ご紹介したサイトをご覧いただくことで、ほぼ私の書くことはなくなったわけですが、「弥勒」の「勒」についてがまだ関連がわからない・・・。が、妙な関連が「行基」についてのネット検索で見られまして。
「なんでもアルバム」の「行基編・行基ゆかりの場所」に、新たに見つけたゆかりの場所として
「広島県・権現山 治暦元年(1065)修行僧教道が行基作の毘沙門天を祀ったのが始まり。」
(参照: http://homepage3.nifty.com/ishildsp/kikou/hirosima.htm)
を追加したのですが、「修行僧教道」を早とちりして「行教」と読んでしまった・・・「ん?また宇佐との繋がりが?」と思いつつ、「宇佐八幡宮」に関するサイトを見ていたところ、「宇佐八幡宮神宮寺」が「弥勒寺」であると書かれていた!辛島・宇佐氏は秦氏系ということで、そういうこともあるのかなと思っていたのですが、辛島・宇佐氏系のお寺に「虚空蔵寺」があると、大和氏の秦氏に関する著書にありまして。
これはどういうこと!?と思いつつ、「虚空蔵」で検索したらうちのサイトが。行基ゆかりの寺院の「新潟」のところで、「虚空蔵堂:天平2年(730)民の苦難を救うため、行基により像が刻まれた。」と。

広島の「権現山」での行基のことについて書かれているファイルの下の方に、「大空の虚空を切るように立つ大岩には、虚空蔵菩薩がおられると古代人は空想した。」と、「虚空蔵信仰」について書かれていて、「大岩」といえば、行基建立とされる奈良の「神野寺」の近くにある巨岩「王塚」「八畳岩」「天狗岩」が、「デネブ」「ベガ」「アルタイル」の位置関係と一致するということが、「山添村のホームページ」に書かれていて、位置的に「神野寺」が「北極星」になるんじゃないかと[其の86]で書いてて・・・と、つい行基一色の世界へと。
いつものこととは言え、我ながらどこまで脱線するんだろうかと、上記のことが気になりつつも今度は「虚空蔵信仰」の検索をしていると、
「秋田の星の民俗」さんのサイト( http://ww5.et.tiki.ne.jp/~koremaru/star/index.htm)
「蘇民将来
・・・新潟県では、朝日村に同様のタラの木の小正月のお札があった。中魚沼地方では釜神のお札に型が書かれる。(佐野賢治「虚空蔵信仰」雄山閣出版、1991年、5〜6頁)」
とあり、朝日村には先ほどの「虚空蔵堂」があるので、何か関連があるのだろうか?と読み続けていると
「安倍晴明
・・・岩田慶治「コスモスの思想」(岩波書店1993年、263頁)によると、ラオス、タイ北部では稲の脱穀場に竹竿を立て、その先に放射状の構造の作り物を結びつける。これはムカデを模したものでターレオ(呪標)の一種である。ターレオは脱穀場を悪霊から守るとされる。佐藤貢の指摘によると、五芒星の起源は紀元前500年頃の古代ギリシャのピタゴラス学派の紋章に由来するという。しかし紀元前3000年頃のペルシャの出土品には、すでにこの星形が描かれていた。真珠採取は古代のペルシャ湾に始まり、幾つもの海を経て日本の海女にまで伝えられた。(中西進「キリストと大国主」文藝春秋、1994年)」
と、ありまして。「ムカデ」から、太子ゆかりの「信貴山朝護孫子寺」の額と「五芒星」に、何か関連があることになるのかな?と思い、また、真珠採取の技術は、海上交通に長けた氏族との関連が?と、さらに気になる事柄が増えつつも検索を続けると、「戸田氏ゆかりの稲荷神社」というのがあって、「虚空蔵」とどういう関係があるのかな?と拝見したところ、
「深坂西村にある稲荷神社は明治元年(1868)神仏分離令が施行されてお稲荷さんが本神となるまで、虚空蔵さんが本神でした。氏栄は虚空蔵信仰が篤かったので、稲荷神社には戸田家ゆかりのものがたくさんあります。本殿の扉には戸田家九曜の紋所が残っています。」
(参照: http://www.vill.tanigumi.gifu.jp/htm/sanpo/nanbu4.htm)
とのことで、そりゃあもうビックリ!まず「お稲荷さんが本神となるまで、虚空蔵さんが本神」というのに驚き、「戸田家九曜の紋所」ということで「将門」に繋がる!?と。ひょっとするとさっきの「ムカデ」は、「藤原秀郷」の伝説にも繋がるということになる?「戸田家」とは?お稲荷さんというとやはり秦氏?ということは、秦氏と将門が繋がるということになる?さらに謎が増えつつも、検索を続けていたら、
岐阜県・洞戸村のサイト( http://www.horado.com/)
「高賀山
・・・高賀神社、新宮神社、星宮神社などに残る懸仏の造顕年代や御正体については、鎌倉後期から南北朝時代に虚空蔵菩薩が圧倒的に多くなり、従来の各社独自の信仰を保持していたものから虚空蔵菩薩が高賀山信仰の主流となったことがわかる。この信仰の変化については、白山中居神社(現郡上郡白鳥町)の本地仏が虚空蔵菩薩であり、この信仰をもった白山修験の影響、また伊勢金剛證寺(現三重県伊勢市)の虚空蔵信仰とのかかわりが考えられる。」
ん!?「白山」というと「泰澄」で秦氏、ということは、「石動山」も同様(詳しくは[其の64]を)ということで、前回の「2001うそ発見の億のウソ道」さんのサイトの「イルギ」にも繋がる?
「虚空蔵求聞持法」を空海に伝授した「勤操」も秦氏で、「狭山池」で行基と繋がると思われ、「大安寺」で太子や行教とも繋がり、「大安寺」に行基と仲の良かった(?)「菩提僊那」が「安摩の舞」を伝授したということで、安倍晴明にも繋がる?

神道では、「虚空蔵菩薩」と関係づけられた「三光天子」が「日吉三神」の「本地」とされ、「山王神道」の骨格をなしているとのことですが、御主神は「大山咋神」「大巳貴神」。「大山咋神」は賀茂氏神系で京都の「松尾大社」の御祭神でもあり、最初の方に書いた「三島神社」との繋がりがありそうで。

「大巳貴神」は「三輪山」の御祭神「大物主大神」と同様「大国主神」。


1781秦野北斗:2013/11/17(日) 21:21:29
Re: 13等に分かれた官位
荊の紀氏さんへのお返事です。

田中俊明 (歴史学者) は広開土王碑の碑文と古代の状況を知らずに話しを進めているな。
まあ、勝手に創造すればいい。碑文に応神天皇の姿があるな。きずかないだろう。
官位制13等は聖徳太子の影響ですな。

http://ja.wikipedia.org/wiki/田中俊明_(歴史学者)



> 高句麗と渤海の歴史
> そのためとうぜんながら、高句麗の遺跡は3国にひろがっており、また高句麗系の人びと が日本列島に渡来して残した足跡として指摘できるものも知られて .... 支配層は、王権 の伸長に対応して、王を中心とした一元的な13等に分かれた官位制に組み込まれた。 http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/koglre.html


1782管理人:2013/11/17(日) 23:20:14
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 濊の地は衛滿、燕の地の様だな。 濊。南は辰韓、北は高句麗と沃沮に接し、東は
> 大海(日本海)に尽き、北朝鮮だな。大夫の禮・・。五大夫との関係があるのか?
> http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1704
>
> 燕の亡名者の衛滿がすべてを奪い取る。東の地(朝鮮の領地)を略奪しようとしたので、朝鮮侯もまた王を自称して、周の宗室を尊んで兵をあげ、燕を迎撃しようとしたが、大夫の禮が諌言したことで止めた。
>
> 『三国志魏書』
>  濊南與辰韓、北與高句麗、沃沮接、東窮大海、今朝鮮之東皆其地也。戸二萬。昔箕子既適朝鮮、作八條之教以教之、無門戸之閉而民不為盜。其後四十餘世、朝鮮侯淮(準)、僭號稱王。陳勝等起、天下叛秦、燕、齊、趙民避地朝鮮數萬口。
>  燕人衛滿,魋結夷服,復來王之。漢武帝伐滅朝鮮,分其地為四郡。自是之後,胡漢稍別。
>  濊。南は辰韓、北は高句麗と沃沮に接し、東は大海(日本海)に尽き、今の朝鮮の東は皆、濊の土地である。戸数は二万。昔、箕子が朝鮮に行き着き、八條の教えを作り、これを教えたので、門戸を閉じずとも民衆は盗むことをしない。
>  その後、四十余代の朝鮮侯準は王を僭称。陳勝(と呉広が反乱を)起したことで、天下は秦王朝に叛くと、燕・齊・趙の民は戦乱を避けて朝鮮の地に数万人も逃げ込んだ。
>  燕人の衛満が魋(まげ)を結い、夷服を着て,何度も往来して、ここの王となる。漢の武帝が朝鮮を討滅。その地を四郡に分けた。これの後、胡と漢は少し別れた。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-wai-.htm
>
> 侯準既僭號稱王、為燕亡人衛滿所攻奪?
>  注記? 魏略曰:昔箕子之後朝鮮侯、見周衰、燕自尊為王、欲東略地、朝鮮侯亦自稱為王、欲興兵逆撃燕以尊周室。其大夫禮諫之、乃止。使禮西説燕、燕止之、不攻。後子孫稍驕虐、燕乃遣將秦開攻其西方、取地二千餘里、至滿番汗為界、朝鮮遂弱。
>
>  すでに侯準は王を僭称していたが、燕の亡名者の衛滿がすべてを奪い取る。
>  注記? 魏略に曰く。昔、箕子の後裔の朝鮮侯は、周朝の衰退を知った燕が自ら王と尊称して、東の地(朝鮮の領地)を略奪しようとしたので、朝鮮侯もまた王を自称して、周の宗室を尊んで兵をあげ、燕を迎撃しようとしたが、大夫の禮が諌言したことで止めた。
>  禮を西に遣わして燕を説くと、燕は進撃を止め、攻撃をしなかった。その後、朝鮮侯の子孫がやや驕慢で暴虐だったので、燕は秦開将軍を派遣して、その西方を攻め、二千余里の地を奪い取って、満潘汗を以て国境とした。朝鮮は衰弱した。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm
>




特に、最後の

「後子孫稍驕虐、燕乃遣將秦開攻其西方、取地二千餘里、至滿番汗為界、朝鮮遂弱。」

が重要ですね。

この「滿番汗」との地名には、諸説あるようです。

漢代の遼東郡の番汗県は今の北朝鮮平安北道の博川(博川江西岸)に比定され通説となっており、満潘汗はこの番汗に似ていることから同一地と考えられる。また同じく遼東郡内の文県は今の遼寧省営口市と考えられており「満」はこの「文」ではないかともいわれる。ただ問題は文県と番汗県があまりに離れすぎており、満=文県は遼東郡の西方なので、朝鮮との境界というのにあわない。これをどう考えるかで説がわかれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


それで、なぜ重要かというと、以前論じた、後代の百済・秦韓系の真番衆の「番」にかかわってくるからです。

「至滿番汗為界、朝鮮遂弱。」



その周辺に「真番(郡)衆」がいたわけです。これが中国からの亡命遺民ですね。一部が扶余・ワイ・高句麗・百済方面へと流れ込んで行きます。

それで「番」「汗」の分離です。

「真番」を類似性をもつ華南系に見える「テン・チン番」と解釈する可能性を以前論じたわけですが、ここで「真」「秦」あるいは「満」といった語に関係しそうです。チャン族つまり羌の類で、当時北京北方まで彼らの一派がいたはずです。

「満」は呉音でマンですが、漢音で「バン」

「汗」については、後代「ハン」を「カン」と記すわけですが、これはどういうことかな。

「濊南與辰韓」

ワイの南に辰韓、真韓・つまり真番郡があって、ワイは北朝鮮の遼東半島の北部あたりでしょう。

辰韓は、最初真韓だったのではないかと思います。その後、東南に移動して楽浪からみて辰の方角になったので「辰」と記されたのではないかと思います。

番と韓ですね。番と汗。

韓を名乗り始めるのがいつごろかによりますが、中国の戦国時代の韓の子孫だから、韓と名乗ったのか?、あるいは吾的に「汗」「番」が「韓」にちかかったから「韓」の字をつかったのか?この辺も課題ですが、すこしその辺の通説を調べねばなりませんね。


1783秦野北斗:2013/11/18(月) 21:00:57
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001853M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/燕_(春秋)



1784管理人:2013/11/19(火) 23:00:11
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 古代の韓半島を地図にする。濊は鉅燕だな。
> 朝鮮が蓋国になるな。衛満が朝鮮を奪う事になるな。
> 倭は鉅燕に属す。の文章から衛満は倭だな。
>


なるほど、燕というのは、調べて行くとかなり倭にとっても重要な国ですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/


燕の中に古くから「韓」や「箕」を姓が多い点、燕の領域が北朝鮮東部にまで伸びている点、倭が燕の南にあり燕に属するという記載がある件、これらを総合して考えて行く必要があるでしょう。


確かに燕と穢の地は重なりますね。


穢は先日のように倭と相関性がある。

そうすると燕と倭との間にも従属関係があってもおかしくないかもしれません。


その間に古くからの「韓」「箕氏」が仲介してくる。

非常に合理的に南下の流れが証明できそうな感じがします。

秦の後の始皇帝に殺害を企てたことで、逆に半島へと追い出されるわけですね。

確かにこの時期に半島へと燕人が流れて行く。


「蘇」姓にもちょっと「蘇伐・蘇我」「蘇塗」の関連で注目してみたいところです。


あと、燕王・盧綰の動きがきになりますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


「盧」が、半島各地に国名としてついてくることと関係するか?

新羅の前身とされる斯盧もそのひとつで、また牟盧の地域は、会報で論じたように、百済の臣につぐ外臣の領地で、おそらくは「連(むらじ)」という形で日本に渡来していくわけです。

そうすると逆にいえば、「盧綰」関連の伝承がその子孫によって、日本の中で見いだし売れば、逆証明できるわけですよね。

漢王室の皇帝らに仕えたものの、その後迫害を恐れて匈奴に亡命。匈奴からまた漢をしたって戻ろうと思うものの、途中で客死。

たとえば、似たような神話としては、タジマモリとかヒボコ、あの辺ですね。半島系の集団の伝承で、垂仁天皇をしたって日本に来るも・・。

匈奴方面に走るとすると、半島と匈奴方面(東胡)との間で、それぞれに盧綰の子孫がいたとして、交流関係がそこにあったかどうか?



1785秦野北斗:2013/11/21(木) 21:53:03
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001855M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/毘盧遮那仏



1786管理人:2013/11/21(木) 23:11:17
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>  燕王の盧綰(ロワン)の意味は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)だな。
>

>  朝鮮王滿者、故燕人也。自始全燕時、嘗略屬真番、朝鮮、為置吏、鄣塞。
>  朝鮮王の満とは、昔の燕の国民である。燕は全盛期の初めから真番と朝鮮を服属せしめ、統治官を置いて鄣(楽浪郡有雲鄣)を塞いでいたことがある。
>
>  秦滅燕、屬遼東外徼。漢興、為其遠難守、復修遼東故塞、至?水為界、屬燕。
>  秦が燕を滅ぼし、遼東の外徼(がいげき=異民族)を帰属させた。
>  漢王朝が勃興すると、そこが遠方で守るのが難しいので、遼東の故塞(燕の遼東長城)を修復し、?水(ばいすい)までを国境として、燕に属させた。
>
>  燕王盧綰反、匈奴、滿亡命、聚黨千餘人、魋結蠻夷服而東出塞、渡?水、居秦故空地上下鄣、稍役屬真番、朝鮮蠻夷及故燕、齊亡命者王之、都王險。
>  燕王の盧綰(ロワン)が背き、匈奴に亡命すると、髷(まげ)を結い、蛮夷の衣服を着た満は千余の人々を連れて長城を出て東に逃れ、?水(清川江)を渡り、秦の時代の昔の空地に居を構えて鄣(長城)を出入し、真番に軽く属していた朝鮮蛮夷や、その地に暮らす昔の燕や斉からの亡命者らの王となり、王険城(王倹城とも)を都とした。
>
>


先ほどNHKで仏教関連の番組あったそうですね。

それで、問題は、「真番」ですね。「真蕃」とも記されるわけですが、朝鮮蠻夷や故燕、齊亡命者と区別して記載しているわけです。

「真番衆」が、後に「百残」方面へとつながっていくわけですが、そもそもは秦時代の迫害から逃れたこと以前に、おそらく貿易関連でこの地に入り込んでおり、その後亡命遺民が混じって、衛満によって統括されながら、百済方面へと流れていったのでしょう。

そこから、さらに東南へと向かう流れがあり、それが弁・秦韓の伝承へとつながっていくのですが、ここで「秦」を用い始める理由として、前漢時代に迫害された亡命遺民という形で、まだ残されており、それで「真」が「辰」「秦」へと語的に変化していく過程で、「羌・チャン」→「真・チン」→「秦・シン」へと音も変化していったのかもしれません。

『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。(初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。)」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となったというが、これは3世紀頃、楽浪郡の韓氏による系譜の装飾との説がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


衛氏朝鮮や漢四郡の時代には「韓」とはよばれていなかった(「真番」の諸国(真番衆国)とよばれていたのか「辰国」とよばれていたのか、真番と並んで特に名のない「真番の傍らの諸国(真番旁衆国)」があったのか、真番と辰国が同じものだったのか別々だったのか諸説が入り乱れているが、その頃から「韓」だったわけではないことは確かである)。建武20年(44年)が韓の初出とされるが、『魏略』逸文によればこの時の韓とは後の弁韓と辰韓にあたる地域のようである[2]。この頃の三韓には右渠帥(西方面の首長)なる首長の呼び名が存在し、それがいた廉斯という地は今の忠清南道の西北部にあたる[3]。この廉斯の首長は光武帝から「廉斯邑君」に封じられて後漢と代々藩属関係にあった。この頃はただ「韓」とのみいって三韓という言葉はなかった[4]。
馬韓の初出は建光元年(121年)であり、この頃、遼東郡や玄菟郡にしばしば攻め込んでいた高句麗軍に従う傭兵もしくは同盟軍のような存在として、穢貊とならんで登場する。このように初期の頃の馬韓は高句麗との関係が深かった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/



問題は「韓」の語の起源ですね。後漢時代初期に、楽浪方面から、先の百残の一部が秦韓方面へながれたときから、韓が出て来るわけです。

それまでは真番、辰番とされていますが、どこまで南下していたか?も気になります。ソウルあたりまでか?もっと南か?

やはり燕系の韓氏との関係も重要ではありますが、それが元で韓になったのか?というと、別の起源も考えておいたほうがよいのかどうか・・。


満番汗(マンバンカン)、金官(キンカン)、真番・・・。

やはり「カン」音と「バン」「ハン」音との言語的な境の部分ですね。

「韓」がつくのは、全体的な地域名のほかに「狗邪韓国」の事例があって、これは「韓」をあえて「狗邪」という地域にあることを強調しているわけなんですよね。「韓」の一員であることに、何か意味がある。

血縁、民族的、支配的・・・。



1787秦野北斗:2013/11/22(金) 04:40:14
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
管理人さんへのお返事です。

「衛満によって統括されながら、百済方面へと流れていったのでしょう。・・」
どうも、年代が合わないな。衛満はBCですぞ。百済は300年代で開きが大きすぎるな。

元封三年(前108年)に朝鮮を真蕃、臨屯、楽浪、玄菟の四郡となした。・・・
なんですな。

衛満の時代には百済はない。楽浪郡に残る阿毎が阿残(扶余、高句麗)に成ったと理解できる。

一年遡るか、阿毎が理解できないようだな。阿毎は天で、身近にあるのだ、天の香具山の天なんです。

瑞穂の国の天なんです。民族の流れは日本から韓国ですな。

http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1017

『通典』邊防
 武帝元封三年、遣樓船將軍楊僕從齊浮渤海、兵五萬、左將軍荀彘出遼東、討之。朝鮮人相與殺 王右渠來降。遂以朝鮮為真蕃、臨屯、樂浪、玄菟四郡。今悉為東夷之地。昭帝時罷臨屯、真蕃以并樂浪、玄菟。

 元封三年(前108年)、楼船將軍の楊僕は斉から渤海を渡り、兵は五万。左將軍の荀彘は遼東から出撃し、右渠を討った。朝鮮人は右渠を殺して降伏してきた。朝鮮を真蕃、臨屯、楽浪、玄菟の四郡となした。今はすべて東夷の地。昭帝の時、臨屯と真蕃を廃して、楽浪と玄菟に併合した。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen4-eisichosen.htm


>
> 「真番衆」が、後に「百残」方面へとつながっていくわけですが、そもそもは秦時代の迫害から逃れたこと以前に、おそらく貿易関連でこの地に入り込んでおり、その後亡命遺民が混じって、衛満によって統括されながら、百済方面へと流れていったのでしょう。
>
> そこから、さらに東南へと向かう流れがあり、それが弁・秦韓の伝承へとつながっていくのですが、ここで「秦」を用い始める理由として、前漢時代に迫害された亡命遺民という形で、まだ残されており、それで「真」が「辰」「秦」へと語的に変化していく過程で、「羌・チャン」→「真・チン」→「秦・シン」へと音も変化していったのかもしれません。
>
> 『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。(初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。)」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となったというが、これは3世紀頃、楽浪郡の韓氏による系譜の装飾との説がある。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/


1788秦野北斗:2013/11/22(金) 20:19:30
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001858M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001858_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/毘盧遮那仏



1789管理人:2013/11/22(金) 23:10:11
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 「衛満によって統括されながら、百済方面へと流れていったのでしょう。・・」
> どうも、年代が合わないな。衛満はBCですぞ。百済は300年代で開きが大きすぎるな。
>
> 元封三年(前108年)に朝鮮を真蕃、臨屯、楽浪、玄菟の四郡となした。・・・
> なんですな。
>
> 衛満の時代には百済はない。楽浪郡に残る阿毎が阿残(扶余、高句麗)に成ったと理解できる。
>
> 一年遡るか、阿毎が理解できないようだな。阿毎は天で、身近にあるのだ、天の香具山の天なんです。
>
> 瑞穂の国の天なんです。民族の流れは日本から韓国ですな。
>
> http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1017
>
> 『通典』邊防
>  武帝元封三年、遣樓船將軍楊僕從齊浮渤海、兵五萬、左將軍荀彘出遼東、討之。朝鮮人相與殺 王右渠來降。遂以朝鮮為真蕃、臨屯、樂浪、玄菟四郡。今悉為東夷之地。昭帝時罷臨屯、真蕃以并樂浪、玄菟。
>
>  元封三年(前108年)、楼船將軍の楊僕は斉から渤海を渡り、兵は五万。左將軍の荀彘は遼東から出撃し、右渠を討った。朝鮮人は右渠を殺して降伏してきた。朝鮮を真蕃、臨屯、楽浪、玄菟の四郡となした。今はすべて東夷の地。昭帝の時、臨屯と真蕃を廃して、楽浪と玄菟に併合した。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen4-eisichosen.htm
>
>



もちろん、後代の百済方面という意味ですね。
それで、後漢初期に楽浪方面から流れていった集団の件ですが、これが以前からお話している阿残と阿の関係です。
秦韓方面まで流れていきます。

ところが、その時代におそらく韓はなかったのではないかと考えはじめてます。
そうすると、「秦韓」という名称は後代のもの、もしくはその時期になってはじめてできたとするとどうなるか。

倭人伝の時代になると先の「狗邪韓国」がでてきます。「狗邪」地域の「韓」。これが「狗邪(クヤ)」→「伽耶(カヤ)」へと変化していくのは、もう少し後の時代でしょう。

金官伽耶などもでてきますが、その後「伽耶(カヤ)」がさらに「加羅(カラ)」になるわけです。最後に「韓」とかいて「カラ」とよませるようになる。

ここで「ヤ」→「ラ」の変換が起きて行くのですが、「狗邪」(クヤ)から「狗羅」(クラ)へと変換した可能性も少し考えてみてもよいかもしれません。「クラ」は渡来系に多い。


それで、金官伽耶は、金韓の伽耶とみなすべきか、金韓と伽耶にまたがる地域とみなすべきか?


「狗邪秦」という名称がでてくるのですが、これも「狗邪」地域になる「秦」つまり「真番衆」「羌(チャン)」族の末裔という意味にとれれば、伽耶が出て来る直前の「狗邪」時代の「秦」なんですよね。

もちろん、そこで秦野さんご指摘の「阿毎」と関係してきます。秦韓人たちは自分のことを「阿」と呼びましたし、これは楽浪以来の「吾(ワ・ア)」氏だと考えているのも先にお話したとおりで、これが銅鏡の吾氏という技術職人集団で、間接的に皇族ともかかわっていくでしょう。


それで、もどって「加羅」ですね。これは「伽耶」の発音から、「ラ」音へと変化していく背景には、たとえば高句麗系、「句麗(クリ)」と自称する集団が南下して、類似した意味の「狗邪(クヤ)」を「クラ」と置き換えて発音しはじめたとすると、どうなるか?

ヤ音が、ラ音になる。だいぶ後の時代のような気もしますが、ここに民族南下移動の痕跡あって、それ以前に渡来した集団には、ヤ音、つまり邪馬台国の邪がでてきて、それ以後に来た集団には、「ら」音がついた自称がでてくる、「蔵(くら)」「蔵(くら)」「鞍(くら)」「椋(くら)」、蘇我・漢氏系集団に多く出てくる名称です。


技術者として計算の読み書きをするから「蔵」、馬具をつくるから「鞍」というのが通説ではありますが、クラ・クヤ・カヤ・カラ、この辺もちょっともう少し探りを入れてみたいところですね。


1790秦野北斗:2013/11/23(土) 01:02:15
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001860M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001860_3M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/任那日本府



1791管理人:2013/11/23(土) 23:11:47
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
秦野北斗さんへのお返事です。

漢委奴国王印は南岸の韓倭奴国だな、だが、韓国に大漢門が在るので漢委奴国
> 漢(呉音 漢音 : カン)、韓(呉音 : ガン、漢音 : カン)。本来は韓倭奴国。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/漢委奴国王印
>
> 韓
> 訓読み
> から、いげた
> 名詞
> (から)朝鮮半島南部の古称、加羅とも表記。加耶がなまったものか。のちに、中国本土も意味するようになり、文字も「唐」が当てられるようになった。
> 固有名詞[編集]
> (カン)古代中国の国名。朝鮮半島に存在した国家群を「韓」の一語で呼ぶことはまれ。
> 造語成分
> (カン)「大韓民国」に関する語を造る造語成分。
> 熟語
> 韓藍(からあい)

>
> 韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。凡七十八國、伯濟是其一國焉。大者萬餘戸、小者數千家、各在山海?、地合方四千餘里、東西以海為限、皆古之辰國也。馬韓最大、共立其種為辰王、都目支國、盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。
>
>  韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰という。馬韓は西に在り、五十四カ国、その北に楽浪、南に倭と接する。辰韓は東に在り、十有二国、その北に濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国、その南はまた倭と接する。およそ七十八国、伯済はその一国である。大国は万余戸、小国は数千家、各々に山海の間に在り、土地は合計四千余里、東西は海が限界で、いずれも昔の辰国である。馬韓が最大、その苗裔を辰王として共立し、都は目支国、三韓の地の大王である。そこの諸国王の先祖は皆、馬韓の血族である。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun2-gokanzho.htm
>






「韓」の字に「ガン」の発音があるのは注目ですね。真番・蕃(バン・ハン)との濁音的な関係に留意したいところです。


それで、辰国から、三韓が生じて、それらは馬韓の系統だと言っている訳ですよね。

伯濟に注目しているのは、なぜか?、後の百済になるわけですが、楽浪・残阿集団のことで、元は真番衆。貿易商人で、しばしば中国内陸へ山東半島経由で出入りしていたでしょう。


それで、「地合方四千餘里、東西以海為限、皆古之辰國也」とあり、三韓の地の四方で四千里と記している点です。

そして秦野さんも注目しているであろう、南を海と記してないことですね。その代わりに「倭」と記す。

そこで秦野さん的には倭は韓半島の最南部にあったと考えているわけですよね。

この辺もう少し掘り下げましょうか。




1792秦野北斗:2013/11/24(日) 00:43:39
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001862M.jpg

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-sinkan.htm



1793管理人:2013/11/24(日) 16:56:39
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > それで、辰国から、三韓が生じて、それらは馬韓の系統だと言っている訳ですよね。
>
> ざんねんですな。辰国から・・。は辰国の位置関係を見ればよい。辰国は倭国と近接している。辰国は後の新羅ですぞ。
>
> 辰韓伝、今はこの国の名称を秦韓とする。始めには六国あり、十二国に細分化した。
>
> 文章から秦韓は阿毎ですな。古事記を整理していて「辰韓伝、秦語に相似しているが・・」が理解できる。直読みでは背景が見えませんぞ。
>
> 『三国志魏書』辰韓伝
>  辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、有似秦人、非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿、謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國、稍分為十二國。
>
>  辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している。城柵あり。言語は馬韓と同じではない。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)、皆のことを徒と呼び合い、秦語に相似しているが、燕や斉の名称ではない。楽浪人を阿残と呼ぶ;東方人は自分を阿と言うが、楽浪人は本来、その残余の人だと言われる。今はこの国の名称を秦韓とする。始めには六国あり、十二国に細分化した。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-sinkan.htm
>
>
> 文章の内容から衛満を見ると朝鮮王の満とは、昔の燕の国民である。
> 盧綰が(前漢に)叛き、匈奴に亡命すると、燕人の衛満は胡服を着て亡命。
> 衛満と満は同一だな。
> 衛:常用漢字表外 い、まもる、もり
> 『山海経』海内北経に、「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕。」という一節がある。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/燕_(春秋)
> 衛満は倭人を指す。韓半島は倭国、馬韓、辰韓、弁韓は倭人の領地だな。
> この文章が古事記に海幸と山幸に記録される。後は神武東征になるな。
> http://www15.plala.or.jp/kojiki/umisachi_yamasachi/umisachi_yamasachi_02.html
>
> 元封三年(前108年)に倭国を除き、朝鮮:馬韓、弁韓、辰韓とし、臨津江(イムジン川)を境に
> 真蕃、臨屯、楽浪、玄菟とする。臨津江は現在の38度線ですな。
>
> 楼船將軍の楊僕は斉から渤海を渡り、兵は五万。左將軍の荀彘は遼東から出撃し、右渠を討った。朝鮮人は右渠を殺して降伏してきた。朝鮮を真蕃、臨屯、楽浪、玄菟の四郡となした。今はすべて東夷の地。昭帝の時、臨屯と真蕃を廃して、楽浪と玄菟に併合した。
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen4-eisichosen.htm
>



辰国の件は、ちょっと考えています。おそらく、辰国の辰王が後の三韓地域をすべて治めていたはずです。馬韓・辰韓・弁辰は、会報で論じたように3方位の大まかな区分で、おそらく辰国内で、三つくらいに領域を区分して、そのいわゆる地方レベルでそれぞれまとめて統治させていたのではないでしょうか。

それで、ある時期から「辰」の語をつかわずに「韓」を名乗りはじめる。

中心は月支国のあったおそらくは真番衆のいた近接地域でしょう。

それで、ご指摘の
「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕。」ですが、この「蓋国」が「カイ」の発音を有しています。

音読み
呉音 : カイ(表外)、ゴウ(ガフ)(表外)
漢音 : カイ(表外)、コウ(カフ)(表外)
慣用音 : ガイ
http://ja.wiktionary.org/wiki/

これがもしかすると「韓」の「ガン・カン』と近いかもしれませんね。

「伽耶」「狗邪」(カヤ・クヤ)とも近い音のように感じます。

そうすると、もともと南韓地域では「カイ・ゴウ」と自称していたので、それに近い「韓」を名乗り始めたという線もありそうですね。

あと秦韓ですが、以前論じたように東北部の辰韓とはやや別系統とみています。
「秦」の音は、音読み
呉音 : ジン
漢音 : シン

「辰」は音読み
呉音 : ジン
漢音 : シン

です。音的には同じなのですが、狗邪秦の語に見えるように、「狗邪」地域にあった「秦」集団で、「辰韓」地域にあった秦集団ではないわけです。

おそらくは、蘇塗のあったカヤ領域でも、やや内陸西部百済寄りの地域ですね。

そこで問題の倭国の領域ですが、まず「弁」「辰」 の方角的な相違を理解する必要があります。
「辰」の方角は、楽浪からみて新羅方面、南東です。

「弁」は。それよりは西寄りになる。

「弁辰」はその中間の方角で、カヤ東部方面でしょう。

馬韓の馬は午のことで楽浪からみて南を示します・

それで馬と辰の間の方角は、巳で「ジ・シ」音になるのですが、蛇を充てると「イ・ジャ・タ」がでてくるわけです。
邪馬台国、狗邪韓国の「邪」と関係するでしょうか。

弁韓を、倭面土国王の 面とするとどうなるか?

以前、倭の弁韓・奴国の王と考えたわけですが、楽奴国がちょうど弁韓最南部の地域にあります。ここも「奴」国の領域でしょう。邪と彌と馬の領域はその東部へと広がっているわけですね。

倭の領域を、秦野さんのように半島最南部も設定するとするばらば、おそらくかなり南の海岸線沿いになるのではないでしょうか。狗邪韓国のあたりを含むかどうか?そこも課題ですね。

壱岐・対馬を通じて九州北部の奴・伊都・八女方面まで倭が後漢初期ごろから伸びていったのではないでしょうか。




1794じじ:2013/11/24(日) 20:38:34
講演会のお知らせ
黄 當時教授(仏教大学)講演会
中国語学の専門家の立場から、金印「漢委奴国王」の読みと意味を解く。
1 日時 平成26年3月16日13:30〜
2 場所 名古屋市市政資館 第3会議室
3 主催 古田史学の会・東海
4 会費 500円

http://www.geocities.co.jp/furutashigaku_tokai/index.htm



1795秦野北斗:2013/11/25(月) 11:51:21
Re: 講演会のお知らせ
じじさんへのお返事です。

古田史学の会

古田の古代史には理論上の議論がなく、単なる遊びでしかないな。
めざわりだ。


1796秦野北斗:2013/11/25(月) 13:10:29
Re: 扶桑国、扶桑木、補陀落渡海
管理人さんへのお返事です。

> 辰国の件は、ちょっと考えています。おそらく、辰国の辰王が後の三韓地域をすべて治めていたはずです。馬韓・辰韓・弁辰は、会報で論じたように3方位の大まかな区分で、おそらく辰国内で、三つくらいに領域を区分して、そのいわゆる地方レベルでそれぞれまとめて統治させていたのではないでしょうか。

馬韓は「地合方四千餘里、東西以海為限、皆古之辰國也」とあり、三韓の地の四方で四千里と記している点です。の文章の距離の説明を無視するのですかな。

> 「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕。」ですが、この「蓋国」が「カイ」の発音を有しています。

読み方はどうでもいい、「伽耶」「狗邪」が有ったのですな。「蓋国」も同様ですな。

> あと秦韓ですが、以前論じたように東北部の辰韓とはやや別系統とみています。
>音的には同じなのですが、狗邪秦の語に見えるように、「狗邪」地域にあった「秦」集団で、「辰韓」地域にあった秦集団ではないわけです。

魏志倭人伝の国は信じて「蓋国」を信じない。また、馬韓・辰韓・弁辰の具体的な距離を見ようとしないのは、自己矛盾ですな。

近い内に古代史は一変するでしょうな。最近のモンゴル発掘で匈奴に製鉄技術があったことが分かった。
製鉄技術は匈奴に亡命した衛満が伝えた模様。衛満には大夫が存在する。大夫は始皇帝の五大夫の司馬氏になる。司馬氏と衛満を繋げるのは徐福になる。徐福は司馬氏に瑞穂の国の民に製鉄技術を出雲で伝えた。瑞穂の国の民、中国史籍では阿毎。瑞穂の国の民は神武東征で韓半島に「やまと」を移し統治した模様。管理人さんの「辰韓」地域にあった秦集団。会報の修正には決断が必要だが勇気を持って欲しい。

秦野北斗著書:徐福と邪馬台国、徐福が総てを物語る模様。



1797管理人:2013/11/25(月) 22:47:16
倭・伽耶
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001867M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001867_2M.jpg

秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > 辰国の件は、ちょっと考えています。おそらく、辰国の辰王が後の三韓地域をすべて治めていたはずです。馬韓・辰韓・弁辰は、会報で論じたように3方位の大まかな区分で、おそらく辰国内で、三つくらいに領域を区分して、そのいわゆる地方レベルでそれぞれまとめて統治させていたのではないでしょうか。
>
> 馬韓は「地合方四千餘里、東西以海為限、皆古之辰國也」とあり、三韓の地の四方で四千里と記している点です。の文章の距離の説明を無視するのですかな。
>
>


その「方四千里」の件なのですが、以前お知らせした添付の朝鮮四方区画に見えるように、後代の漢城以南にあたる4×4の方位区画のことだと考えています。

そして、この方位区画の南辺に狗邪韓国・後代のプサンがあったわけですね。

その南部にもしかしたら倭・奴・弁(面)の地域があった可能性を感じます・

楽奴国というのは、その南部の海岸沿いと比定されているようです。
図2参照。





1798秦野北斗:2013/11/26(火) 09:22:11
Re: 倭・伽耶
管理人さんへのお返事です。

距離単位が明確でないのが問題ですな。七千餘里は・・・?

魏志倭人伝
「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」

従郡至倭、循海岸水行、歴韓國 :郡から倭にいたる。海岸を循、水行し歴韓國
乍南乍東、北岸狗邪韓國に到る、歴韓國から北岸狗邪韓國の距離が七千餘里。


文章で注意が必要なのは、「郡から倭にいたる。・・」は水行し歴韓國に至るで、歴韓國
は倭国だな。邪馬台国ではないな。邪馬台国だが秦野の調べでは邪馬台国は狗邪韓國だった。
魏志倭人伝の頃に邪馬台国は奈良に移った模様。

「方四千里」歴史家の文章とは思えないな。議論は夢物語でなく具体性を求めている。

「方四千里に倭・奴・弁(面)の地域があった可能性を感じます・・。」
「楽奴国というのは、その南部の海岸沿いと比定されているようです。」

楽奴国は北朝鮮の開城(ケソン)なんです。

倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。東西五カ月、南北に三カ月の行程が神武の功(効)なんです。

今まで、功(効)と方位とを混同しているので分けなければならないな。
九州の方位は功(効)で、方位は大きさを表す表記法だな。
馬韓は「地合方四千餘里、東西以海為限、皆古之辰國也」は212km四角なんだな。

白村江の戦い頃の地図ですな倭国、越が削除されているな。
出雲の綱引き神話に越(光州)があるが・・ない。地図は参考ですな。

http://ja.wikipedia.org/wiki/白村江の戦い

> その「方四千里」の件なのですが、以前お知らせした添付の朝鮮四方区画に見えるように、後代の漢城以南にあたる4×4の方位区画のことだと考えています。
>
> そして、この方位区画の南辺に狗邪韓国・後代のプサンがあったわけですね。
>
> その南部にもしかしたら倭・奴・弁(面)の地域があった可能性を感じます・
>
> 楽奴国というのは、その南部の海岸沿いと比定されているようです。
> 図2参照。
>
>


1799管理人:2013/11/26(火) 23:06:04
Re: 倭・伽耶
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 距離単位が明確でないのが問題ですな。七千餘里は・・・?
>
> 魏志倭人伝
> 「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」
>
> 従郡至倭、循海岸水行、歴韓國 :郡から倭にいたる。海岸を循、水行し歴韓國
> 乍南乍東、北岸狗邪韓國に到る、歴韓國から北岸狗邪韓國の距離が七千餘里。
>

確かに「七千餘里」をどう見るかが課題です。

先に添付した方位区画図でいけば、1区画を1千里とみなすと、楽浪郡(王険城)から、釜山(狗邪韓国)までの距離とすると明らかに長過ぎます。


ところが、漢城(ソウル南部か)から、狗邪韓国(釜山)とすれば、ちょうど南北に4区画+東西に3区画で、7区画分になり、つまり7千里で正解となるわけです。

この件はすでに去年論じて会報にも掲載してますが、郡治はソウルあたりではなかったかと感じますね。狗邪韓国も釜山周辺。

同様に伊都あたりまでが12区画で、1万2千里ですね。

釜山のラインの南を倭としたかどうか?この辺が課題ですが、楽奴国というのは、明らかに倭の奴国の系統だと感じます。邪と彌と馬の領域ですね。ここが九州北部まで連結していくかどうか?その間に対馬と壱岐が入るのですが、



1800秦野北斗:2013/11/27(水) 10:11:49
Re: 倭・伽耶
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001870M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/神武天皇



1801管理人:2013/11/27(水) 23:09:49
Re: 倭・伽耶
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001871M.png

http://ja.wikipedia.org/wiki/神武天皇



1802秦野北斗:2013/11/28(木) 08:43:08
Re: 倭・伽耶
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001872M.jpg

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm



1803管理人:2013/11/28(木) 23:03:00
Re: 倭・伽耶
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> 管理人さんの区画分では帯方郡と楽浪郡の距離が約4千里は離れているな。
> 中国史籍では、楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里ですな。
> 管理人さんの方位は何か意味はあるので再考が必要だな。図を添付
> 白四角だな。
>
> 一万二千里と一万四千里の位置が特定できないな。重要なのは、京師から一万四千里
>
> 三角縁神獣鏡の銘文に京師があるな。銘文から倭国の大乱、前に卑彌呼が居た所です。
> 倭国の大乱は韓半島での事件ですな。教科書の間違いですな。
>
> 桓霊間倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼。年長不嫁、事神鬼道、能以妖惑衆。於是共立為王。侍婢千人、少有見者。唯有男子一人給飲食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。法俗嚴峻。
>
>  桓帝と霊帝の間(146−189年)、倭国は大乱、互いに攻伐しており、暦年に亘って君主がいなかった。一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。ここにおいて(卑彌呼を)王に共立した。侍婢は千人、会える者は少ない。ただ飲食を給仕し、言葉を伝える一人の男子がいる。暮らしている宮殿、楼観、城柵、いずれも武器を持って守衛する。法俗は峻厳である。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm
>
> > 卑弥呼がみたか?陳寿が軍部から聞いたか?楽浪から聞いたか・・・、どこのだれからでしょうね。
>
> 卑弥呼ですな。景初三年陳是作鏡の陳が陳寿だな。
>
>
>  其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢、東高西下。居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。又云:去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽東、與儋耳相近。俗皆文身、自云太伯之後。
>
>  その国境は東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程、各々が海に至る。その地形は東が高く西が低い。邪摩堆で暮らす、魏志に則れば、言うところの邪馬臺である。また言う、楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、儋耳と相似する。俗は皆が身体に刺青をし、太伯の後裔だと自称する。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun5-hokusi.htm
>
>
>  倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。
>
>  倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。
>  その国、居住地に城郭がなく、木を以て柵とし、草を以て屋根とする。四面の小島、五十余国、皆、これに附属している。その王姓は阿毎氏、一大率を置き、諸国を検察させ、皆はこれを畏怖している。官には十二等級を設けている。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun10-kyutosho.htm
>
>



おそらく、旧唐書の1万4千里は、唐時代の長くなった長里でしょうね。京師・長安からの寄りでしょうか。

それに対して、魏志倭人伝に掲載されたであろう、漢時代の尺度は、いわゆる短里でしょう。長い里の8分の1。
漢城周辺からの距離だと思うのですが、ソウルの南郊、河を渡ったあたりに土城があります。ここが漢代の拠点でしょう。

確かに卑弥呼の周辺にいた集団は、高度な測量技術をもっており、尺里の計算も知り尽くしています。

彼らから距離や地図を聞いたとしても何の不思議もありません。

ご指摘のとおり尺・定規・分度器代わりに三角縁神獣鏡を使っていたわけです。

それで、陳寿が倭人に聞いたのか?というと、その判断は当時倭で使われていた尺度と、魏で新たに採用されていた尺度のどちらで、倭人伝の距離が記載されたか?によって是非がわかります。

確かに漢四郡時代に設定されたであろう四方区画のそれよりちょっと長短があるような気もしないでもないです。

ソウルから釜山まで、先のように7つの四方区画でたどり着くわけですが、ただもし海岸沿いで向かったとすれば、もっと長くなるわけで、8千里を超えていてもおかしくない。

ところが7千余里と記した背景には、漢時代の尺度から魏時代になって、すこし尺度が伸びた件を考慮したかどうか?ここなのですが、ただ距離的には伸びた分は10%にもみたないわけで、余里程度縮まる、そうなるでしょうか。

そうすると、アバウトなまま過去の距離尺を記載した可能性も出て来るわけですね。

それに比して、短里と長里の差は大きいです。短里を使う理由は、1千里区画単位で計算すると、半島や倭が小さすぎるからでしょうね。

唐代になると、それに比してアバウトな日本地理理解になっていきます。日本側の距離尺理解は、実はアバウトにはなっていなかったのですが、機密になって唐代の使者が正確な情報を知りうるところではなかったんですね。

ただ魏の時代には、まだ魏と倭の政権内部における技術者集団間で、技術共有があって、三角縁とかも一緒につくっていたくらいですから、尺度や地図の情報交換も厳密にできたであろうことも予想できます。その後の王朝交替で双方、バラバラになったんでしょうね。

1804秦野北斗:2013/11/29(金) 07:21:27
Re: 倭・伽耶
管理人さんへのお返事です。

> おそらく、旧唐書の1万4千里は、唐時代の長くなった長里でしょうね。京師・長安からの寄りでしょうか。

京師(けいし)とは、東アジアなど漢字文化圏で帝王の都のこと。京都。京城。
都合よく、計りもせず、短里、長里、ぐらい、ですかな。
帝王の都は一つではないな。韓半島に楽浪郡、帯方郡があるように京師も存在したな。

http://ja.wikipedia.org/wiki/京師


> それに比して、短里と長里の差は大きいです。短里を使う理由は、1千里区画単位で計算すると、半島や倭が小さすぎるからでしょうね。

どこの倭を言っている?『隋書』倭国伝に其國境東西五月行、南北三月行、・・。ですな。
どこの倭ですかな?。例ですが日本と日本の対馬があるが、日本の大きさが対馬の大きさになる?。

『隋書』倭国伝

 倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。

 倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。
 その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。その地形は東高西低。都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、儋耳と相似するという。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm


> それに対して、魏志倭人伝に掲載されたであろう、漢時代の尺度は、いわゆる短里でしょう。長い里の8分の1。
> 漢城周辺からの距離だと思うのですが、ソウルの南郊、河を渡ったあたりに土城があります。ここが漢代の拠点でしょう。
>
> 確かに卑弥呼の周辺にいた集団は、高度な測量技術をもっており、尺里の計算も知り尽くしています。
>
> 彼らから距離や地図を聞いたとしても何の不思議もありません。
>
> ご指摘のとおり尺・定規・分度器代わりに三角縁神獣鏡を使っていたわけです。
>
> それで、陳寿が倭人に聞いたのか?というと、その判断は当時倭で使われていた尺度と、魏で新たに採用されていた尺度のどちらで、倭人伝の距離が記載されたか?によって是非がわかります。
>
> 確かに漢四郡時代に設定されたであろう四方区画のそれよりちょっと長短があるような気もしないでもないです。
>
> ソウルから釜山まで、先のように7つの四方区画でたどり着くわけですが、ただもし海岸沿いで向かったとすれば、もっと長くなるわけで、8千里を超えていてもおかしくない。
>
> ところが7千余里と記した背景には、漢時代の尺度から魏時代になって、すこし尺度が伸びた件を考慮したかどうか?ここなのですが、ただ距離的には伸びた分は10%にもみたないわけで、余里程度縮まる、そうなるでしょうか。
>
> そうすると、アバウトなまま過去の距離尺を記載した可能性も出て来るわけですね。
>
> それに比して、短里と長里の差は大きいです。短里を使う理由は、1千里区画単位で計算すると、半島や倭が小さすぎるからでしょうね。
>


1805管理人:2013/11/30(土) 22:25:23
Re: 倭・伽耶
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > おそらく、旧唐書の1万4千里は、唐時代の長くなった長里でしょうね。京師・長安からの寄りでしょうか。
>
> 京師(けいし)とは、東アジアなど漢字文化圏で帝王の都のこと。京都。京城。
> 都合よく、計りもせず、短里、長里、ぐらい、ですかな。
> 帝王の都は一つではないな。韓半島に楽浪郡、帯方郡があるように京師も存在したな。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/京師
>
>
>

京師については、おそらく旧唐書の他の用例で、どこをさしているか?をしらべれば明らかになると思います。

関連していろいろ意見はあるようです、
http://search.yahoo.co.jp/search?p=旧唐書 京師&ei=UTF-8&fr=appsfch2


仮に楽浪・帯方境から1万2千里の記載をもとに、1万4千里と入れ替えたとすると、2千里加わった理由が必要になりますね。

1・2が、1・4になります。7/6=1.17倍で、

そうですね、漢尺=24cm;唐尺=30cm 5/4=1.2倍

おそらく唐代にすでに、秦尺との対比で大尺と小尺の観念がありましたから、その辺で、距離を1.2倍前後までのばして、1万2千里から1万4千里としたという線でいかがでしょう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/

1806秦野北斗:2013/12/10(火) 08:22:28
Re: 倭・伽耶
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001876M.jpg

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nakatta6/tanrisimi.html



1807ねこ:2013/12/11(水) 01:51:32
アフリカに蔓延する日本の「死の商人」
アフリカに蔓延する日本の「死の商人」

http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0203/31/204.html

天皇一族は、混血を作り、赤ちゃんを交換し、

完全に日本人の形跡を消して外国に潜入し、地域の実権を金で握る。

(仮説を含む)

( http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0103/33/224.html

1808管理人:2013/12/12(木) 03:10:00
Re: 倭・伽耶
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>

> 梁書
> 『梁書』によると、僧慧深(けいしん、拼音: Huìshēn ホイシェン)が普通年間 (520年?527年)に扶桑という国から梁へやってきたという。扶桑の所在地については、倭国の東北7000余里に文身国が、その東5000余里に大漢国があり、大漢国の東2万余里に扶桑がある。ただし、倭国・文身国・大漢国までについては地の文で事実として書かれているが、扶桑についてはその位置も含め、慧深の証言という形で書かれている。また、地の文の大漢国と慧深の言う大漢国が同じものかもはっきりしない。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/扶桑
>
>


この「倭国の東北7000余里に文身国が、その東5000余里に大漢国」は短里ではないですかね。

長里の8分の1


つまり8で割るといいんです。

倭の東北900里に文身国、その東800里に大漢国となるでしょうか。扶余・高句麗の南、百済の東、穢のあたりに大漢国があった。だから日本の「漢」氏は、隅田八幡鏡に「穢」人とかかれたという線です。

文身というのは、刺青のことでしょうか。新羅・扶余系で刺青記載がありますね。最後の扶桑は、2万割る8で、その2500里東かな?東扶余とか、その辺どうでしょうかね。


それで、短里が扶余出身であろう僧侶の知識に残った理由ですね。後漢時代の楽浪郡の尺の名残が、まだ扶余・穢方面に残存してうて、その尺度で測っていたという線です。日本に渡来した漢氏の伝承には、帯方・楽浪伝承が残っているんですね。何か後漢時代のそれと関係があるので、「大漢国」なのでしょう。




1809荊の紀氏:2013/12/21(土) 08:11:55
Re: 倭・伽耶
管理人さんへのお返事です。

> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> > 管理人さんへのお返事です。
> >
>
> > 梁書
> > 『梁書』によると、僧慧深(けいしん、拼音: Huìshēn ホイシェン)が普通年間 (520年?527年)に扶桑という国から梁へやってきたという。扶桑の所在地については、倭国の東北7000余里に文身国が、その東5000余里に大漢国があり、大漢国の東2万余里に扶桑がある。ただし、倭国・文身国・大漢国までについては地の文で事実として書かれているが、扶桑についてはその位置も含め、慧深の証言という形で書かれている。また、地の文の大漢国と慧深の言う大漢国が同じものかもはっきりしない。
> >
> > http://ja.wikipedia.org/wiki/扶桑
> >
> >
>
>
> この「倭国の東北7000余里に文身国が、その東5000余里に大漢国」は短里ではないですかね。
>
> 長里の8分の1
>
>
> つまり8で割るといいんです。


八進法では 0 から 7 までの八種類の文字を数字として扱い数を表現するので、 十進法で 8 と書き表される数は、八進法では 10 と表 ... から、5213 = 3 + 2 × 5 + 3 × 5 2 + 1 × 53 + 3 × 54 + 1 × 55 となるので、五進表記では 1313... http://ja.wikipedia.org/wiki/位取り記数法
日常的に最多用されている記数法は十進法である。また、時間は三百六十単位を基本にして、十二単位、三十単位、六十単位の組合わせで表現され、場合によってはこれらの累乗数(十二進法、六十進法。三十進法は今の所使われていない)が用いられる。
日常用いられている、十倍ごとに位をとる数の表記法は十進法と呼ばれ、零から九までの十通りの数値については、それぞれを表す 0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9 というような専用の文字(数字)が用意されている。そして 9 より一だけ大きい十を一文字で表記せず、1 と 0 の二文字を組み合わせて 10 と桁を上げて表記する。
同時に二文字の数字を使えば、00 から 99 まで百通り(十の平方)の数を表現することができる。99 より大きな数を表現するには、更にもう一文字(桁)増やして、100 と表記する(この表記法は 0 が発見されてから可能になった)。
このように、十種類の文字を列べて十通りの数を一桁で表し、百通りの数を二桁で、千通りの数を三桁で、というように十の N 乗通りの数を N 桁で表すのが十進法である。十進表記で記された数を十進数と呼ぶ流儀もある。
ここで、「十」という数を二に変えると二進法に、二十に変えると二十進法になる。例えば、二十進法では普通、0 から 9 までの数字十種類と、A から J までのアルファベット十種類、合わせて二十種類の文字を共に数字として扱い、数を表現する。例えば、十進法では 15 と二桁で表記される数も、二十進法では F と一文字で表記できる。
逆に、八進法では 0 から 7 までの八種類の文字を数字として扱い数を表現するので、十進法で 8 と書き表される数は、八進法では 10 と表され、二桁を必要とする。

16進数の便利さを理解出来ない人は答えないで下さい。 将来、.. - 人力 ...
昔の人(古代メソポタミア)は指の数よりも日常が大体360日周期であること、月が その間に12周期で変わることなどから、12進法を ..... もしも人類が片手8本、両手 合わせて16本の指だったら16進法を人類は普通に使っていたでしょうね。 http://q.hatena.ne.jp/1090732623
あちきは昔16進でハタチ!とか言ってました。
をっと、気が付いたらもうすぐ30だぜ。
あと、片手で31まで、両手で1023まで数えられます。
これは2進ですけどね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/12進数
十二進法 - Wikipedia
 昔の人(古代メソポタミア)は指の数よりも日常が大体360日周期であること、月がその間に12周期で変わることなどから、12進法を採用していました。
 時間が60進法であるのもこのため。
 一時期フランスで全部100を基準に変えるなど試み(革命直後)も行われましたが頓挫しました。
 では、なぜ時計や角度などで直せる部分でも今も残っているか。
 それは12が2でも3でも4でも6でも割り切れる性質を利用されているからです。
例えばビール1ダース入れる入れ物ですが、10本だけ入れる入れ物を長方形にするのは1*10か2*5しかなく構造上壊れやすいし持ちにくいなど弊害が出ますよね。
 っで、密かに10進数の利点は我々が5本指であることしかないという恐るべき事実!
 しかしその利点のなさを通り越して、「0を発見して10個の数字で表現すればいいや!」っと気づいて以降は、その利用範囲があまりにも広大になりすぎ、後戻りができなくなっている、と言う背景もあります。
 ということで人間が一時言葉を全て忘れて又再構成するなど、無茶なことが起こらない限り10進数がマイナーに落ちることは難しいでしょうね。
っと当たり前のことを長々と書かせていただきましたm(_)m
↓余録
http://srd.yahoo.co.jp/PAGE=P/LOC=P/R=1/
Yahoo! JAPAN
*-
http://www.asahi-net.or.jp/~rc4t-ishr/kensiro.html
ケンシロウ進数
 学生の頃、電流に関して流れる流れないの他に少し流れる(?)の第3の状態を作って3進数を基底にする回路を研究している人がいると聞きましたが、そうするとアルファベットとひらがなを動員して81進数が圧縮後でしょうか。27進数?


1810秦野北斗:2013/12/31(火) 02:55:04
Re: 倭・伽耶
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001880M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/徳寿宮



1811管理人:2013/12/03(火) 23:01:41
Re: 倭・伽耶
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 里でなく、kmに換算できないかな。「大漢国」文章からヤケクソですな。
> そうそう、韓国に大漢門があるな。
>
> 大漢門 - 旧名「大安門」現在のものは1907年完成。正門である。王宮守門将交代式(衛兵交代式)が見られる。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/徳寿宮
>


大漢国の件ですが、「漢」を名乗る王朝は、匈奴や遊牧民系にもあったようで、その理由は劉氏との血縁関係を持つ子孫などのケースがあるようです。たとえば、


前趙(ぜんちょう、拼音:Qiánzhào、304年 - 329年)は、中国の五胡十六国時代に存在した国。建国者は劉淵。当初の国号は漢であり、劉曜の時代に趙に改めたため、漢趙国ともいわれる[1]。同時代に石勒が同じ趙を国号とした国を建てているので、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別している。

劉淵(在位:304年 - 308年) - 「漢王」を自称。
高祖光文帝(劉淵、在位:308年 - 310年) - 皇帝と称する。
梁王/帝和(劉和、在位:310年)
烈宗昭武帝(劉聡、在位:310年 - 318年)
少主隠帝(劉粲、在位:318年)
趙主(劉曜、在位:318年 - 329年) - 国号を趙と改める。
末主(劉煕、在位:329年)

http://ja.wikipedia.org/wiki/


以前お話したとおり、後漢王朝の末裔と関係の技術者集団が、山東半島方面にいて、かれらが東晋経由で、半島に渡って、さらに百済経由で日本にきたのが、東漢氏の由来だと考えてます。彼らは後漢末に流民となって半島へ逃げ延びた伝承をもっています。

それで、そのころに大漢国も出現していくわけですが、「大漢」を名乗る理由は、その辺にあるのではないですかね。

後漢時代の遊牧民系の製鉄・金属精錬技術者集団なわけです。それが東晋の配下に入り、さらに4世紀半ば前後に山東半島から、百済へ渡って七枝刀などをつくるわけですね。そして375年〜400年頃に日本へやってくる。タケウチスクネとその後裔集団の時代です。つまり応神朝ですね。


1812秦野北斗:2013/12/04(水) 16:14:01
Re: 倭・伽耶
管理人さんへのお返事です。

匈奴や遊牧民系

劉 豹(りゅう ひょう、生没年不詳)は、中国後漢末期から西晋時代の南匈奴の左賢王。南匈奴の単于於夫羅の子、前趙の劉淵の父。
南匈奴で叛乱が起こったことで於夫羅が漢に留まり、196年に漢地で死ぬと、於夫羅の弟呼廚泉が単于の位を継ぎ、劉豹は左賢王となる。後、曹操によって五部に分けられた匈奴の左部を統括する。
匈奴出身者が漢化した後に劉姓を名乗るのは劉豹からであるが、これは前漢代より匈奴と漢宗室との間に姻戚関係があることに由来する。
195年、董卓の残党による叛乱に際して、蔡文姫を得て側室とする。207年に曹操により身代金が支払われ、蔡文姫が引き取られるまでの間に2子をもうけるが、名は伝わっていない。
嫡子とされる前趙の祖・劉淵は、生年が251年頃であり、であるとすれば相当な長命である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/劉豹_(匈奴)


> 大漢国の件ですが、「漢」を名乗る王朝は、匈奴や遊牧民系にもあったようで、その理由は劉氏との血縁関係を持つ子孫などのケースがあるようです。たとえば、

>
> 前趙(ぜんちょう、拼音:Qiánzhào、304年 - 329年)は、中国の五胡十六国時代に存在した国。建国者は劉淵。当初の国号は漢であり、劉曜の時代に趙に改めたため、漢趙国ともいわれる[1]。同時代に石勒が同じ趙を国号とした国を建てているので、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別している。
>
> 劉淵(在位:304年 - 308年) - 「漢王」を自称。
> 高祖光文帝(劉淵、在位:308年 - 310年) - 皇帝と称する。
> 梁王/帝和(劉和、在位:310年)
> 烈宗昭武帝(劉聡、在位:310年 - 318年)
> 少主隠帝(劉粲、在位:318年)
> 趙主(劉曜、在位:318年 - 329年) - 国号を趙と改める。
> 末主(劉煕、在位:329年)
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>
>
> 以前お話したとおり、後漢王朝の末裔と関係の技術者集団が、山東半島方面にいて、かれらが東晋経由で、半島に渡って、さらに百済経由で日本にきたのが、東漢氏の由来だと考えてます。彼らは後漢末に流民となって半島へ逃げ延びた伝承をもっています。
>
> それで、そのころに大漢国も出現していくわけですが、「大漢」を名乗る理由は、その辺にあるのではないですかね。
>
> 後漢時代の遊牧民系の製鉄・金属精錬技術者集団なわけです。それが東晋の配下に入り、さらに4世紀半ば前後に山東半島から、百済へ渡って七枝刀などをつくるわけですね。そして375年〜400年頃に日本へやってくる。タケウチスクネとその後裔集団の時代です。つまり応神朝ですね。
>


1813荊の紀氏:2013/12/04(水) 17:22:08
Re: 倭・伽耶
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 里でなく、kmに換算できないかな。「大漢国」文章からヤケクソですな。
> そうそう、韓国に大漢門があるな。
>
> 大漢門 - 旧名「大安門」現在のものは1907年完成。正門である。王宮守門将交代式(衛兵交代式)が見られる。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/徳寿宮
>
> 梁書
>
> 『梁書』によると、僧慧深(けいしん、拼音: Huìshēn ホイシェン)が普通年間 (520年?527年)に扶桑という国から梁へやってきたという。扶桑の所在地については、倭国の東北7000余里に文身国が、その東5000余里に大漢国があり、大漢国の東2万余里に扶桑がある。ただし、倭国・文身国・大漢国までについては地の文で事実として書かれているが、扶桑についてはその位置も含め、慧深の証言という形で書かれている。また、地の文の大漢国と慧深の言う大漢国が同じものかもはっきりしない。
>

八進法   河図と八卦 屋居旦鐸(オクタント:八分儀) http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/2549
耜(すき)」の原字、 ひじを曲げた形・・・ム=角度

僧慧深(けいしん、拼音: Huìshēn ホイシェン)が普通年間 (520年?527 年)に扶桑という国から梁へやってきたという。
古代の中国では、九州(九夷)[1]が扶桑の生えるところで「紫庭」としての憧れの地だった面があるという説もある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/扶桑
九州(九夷)
前漢の武帝が紀元前106年に全国に13州を設置したことにより、九州は具体的な9つの州ではなく、中国全土の雅称として使用されるようになった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/九州_(中国)

東夷(とうい、拼音:Dōng yí)は、古代中国東方の異民族の総称で、四夷の一つである。 夷(い)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/東夷
本来は古代中国が東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、秦以降は朝鮮半島、日本列島などに住む異民族を指すようになった。後に日本でも異民族を意味する「エビス」という語と一体化し、朝廷(京)から見て東国や蝦夷の人々のことを「東夷(あずまえびす・とうい)」「夷(い・えびす)」と呼んだ。


1814秦野北斗:2013/12/04(水) 18:19:35
Re: 倭・伽耶
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001884_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/九州



1815管理人:2013/12/04(水) 22:55:34
Re: 倭・伽耶
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 匈奴や遊牧民系
>
> 劉 豹(りゅう ひょう、生没年不詳)は、中国後漢末期から西晋時代の南匈奴の左賢王。南匈奴の単于於夫羅の子、前趙の劉淵の父。
> 南匈奴で叛乱が起こったことで於夫羅が漢に留まり、196年に漢地で死ぬと、於夫羅の弟呼廚泉が単于の位を継ぎ、劉豹は左賢王となる。後、曹操によって五部に分けられた匈奴の左部を統括する。
> 匈奴出身者が漢化した後に劉姓を名乗るのは劉豹からであるが、これは前漢代より匈奴と漢宗室との間に姻戚関係があることに由来する。
> 195年、董卓の残党による叛乱に際して、蔡文姫を得て側室とする。207年に曹操により身代金が支払われ、蔡文姫が引き取られるまでの間に2子をもうけるが、名は伝わっていない。
> 嫡子とされる前趙の祖・劉淵は、生年が251年頃であり、であるとすれば相当な長命である。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/劉豹_(匈奴)
>
>
>

漢王朝の末裔劉氏の件は、以前もお話した通り下記の劉協の子孫が重要です。


報が伝えられると、漢室の後継者として皇帝を称した上で(蜀漢)、献帝に対して独自に孝愍皇帝の諡を贈った。また、揚州を中心に勢力を保っていた孫権も呉王となり、大陸が魏・呉・蜀とで三分される三国時代に突入した。
その後、劉協は山陽公夫人となった曹節と共に暮らし、青龍2年(234年)3月、54歳で死去した。魏は孝献皇帝と諡した。
末裔[編集]

劉協の太子は父に先立って死んでおり、劉協の孫の劉康が青龍2年(234年)に祖父の跡を継いで山陽公となった。魏より禅譲を受けた西晋の時代になっても山陽公はそのまま存続を許された。劉康は太康6年(285年)に死去し、子の劉瑾が跡を継いだ。劉瑾は太康10年(289年)に死去し、子の劉秋が跡を継いだ。
永嘉の乱の真っ最中の永嘉3年(309年)、劉秋は匈奴系の趙漢(前趙)の将軍である汲桑の軍によって家族共々殺害され、爵位は断絶した。こうして後漢王朝の嫡流は途絶えた。後に東晋の時代になって、山陽公の末裔を捜索する詔勅が出されている。
真偽は不明ながら、4世紀から6世紀にかけて日本列島に渡来した渡来人の中には、献帝の子孫を称するものが多く見られる(東漢氏参照)。



ここで先の趙漢(前趙)の将軍がでてくるんですよね。
この前後で漢王朝から趙漢の劉氏へと、たとえば玉璽などが継承されようとしていた、そういうアイデアもないでしょうか。

ただ、この趙漢は304年の時点で漢を名乗っているので、その劉秋が309年に滅ぼされる前にすでに漢なんですよね。

そうすると、あまり劉秋のことは、正統な漢王朝の嫡流とは意識していなかったのか?も調べる必要がありますが、ともあれ、かれらはその後滅ぼされたか、その子孫の一部が東漢氏として、山東、朝鮮方面へと流れて行ったのか?この辺も課題です。

歴史教科書にも乗っているような学会の通説では、秦氏が秦の始皇帝の子孫だと詐称したのに対抗して、漢氏は後漢皇帝の子孫だと名乗ったんだ!というのでして、これが数十年疑われることなく科学的検証のもとにある通説として信じられてきたわけです。

ただ、秦氏の系譜も先の会報のとおり、半島・大陸時代の系譜伝承を多く取り込んでできあがってきたもので、それなりにかれらがそこにルーツを求める根拠があるんですよね。

この辺は、史料批判の際の懐疑的に思考しすぎた際に逆に出てきてしまう論理的欠陥なんです。

結局、後漢時代からの各種劉氏や漢王朝、楽浪・帯方郡から、百済にいたるまでの系譜の流れですね、この辺を細かく検証する作業が必要だということでしょう。その前提の上で日本での系譜伝承の発生にはじめて着手するのが正解ですね。時間がかかります。情報あつめましょう。

1816秦野北斗:2013/12/05(木) 19:59:27
Re: 倭・伽耶
管理人さんへのお返事です。

倭(倭国)と匈奴、フン族の関係が見えてきたな。燕王盧綰反、匈奴、滿亡命、・・。
西方に移動した子孫がフン族・・。

今の所は山海経の蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。の文章が漠然と倭を示す。
魏志倭人伝の行程の解説は秦野北斗が行う著書:徐福と邪馬台国。
倭国、韓半島。金剛山の麓にある「やまと」、クムガンこと錦江(白村江)・・・・・・・。
三角縁神獣鏡の名文でおなじみの京師、三公は後の武内宿禰・・・・・。

卑弥呼が何者かが理解できるな。「劉 豹、蔡文姫の間に2子・・」。魏志倭人伝に卑弥呼は
鬼道を祭祀して人心を惑わし、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。卑弥呼は
姉弟(きょうだい)になるな。劉 豹と蔡文姫の2子の可能性があるな・・。

卑弥呼の歌と思われるのが「釜山港へ帰れ」ですな。

日本語

つばき咲く春なのに あなたは帰らない
たたずむ釜山港(プサンハン)に 涙の雨が降る
あついその胸に 顔うずめて
もういちど幸せ 噛みしめたいのよ
トラワヨ プサンハンへ 逢いたい あなた

行きたくてたまらない あなたのいる町へ
さまよう釜山港は 霧笛が胸を刺す
きっと伝えてよ カモメさん
いまも信じて 耐えてるあたしを
トラワヨ プサンハンへ 逢いたい あなた

韓国語

花咲くトンベク島に春が来たが
兄弟が去っていった釜山港には
オリュッ島を回る連絡線ごとに
喉を枯らして呼んでみても返事の無い兄弟よ
帰って来いよ、釜山港へ、恋しい我が兄弟よ


劉 豹195年、董卓の残党による叛乱に際して、蔡文姫を得て側室とする。207年に曹操により身代金が支払われ、蔡文姫が引き取られるまでの間に2子をもうけるが、名は伝わっていない。

『山海経』
「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)
蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。

http://ja.wikipedia.org/wiki/倭・倭人関連の中国文献

衛氏朝鮮

『史記』朝鮮列伝
 朝鮮王滿者、故燕人也。自始全燕時、嘗略屬真番、朝鮮、為置吏、鄣塞。
 朝鮮王の満とは、昔の燕の国民である。燕は全盛期の初めから真番と朝鮮を服属せしめ、統治官を置いて鄣(楽浪郡有雲鄣)を塞いでいたことがある。

 秦滅燕、屬遼東外徼。漢興、為其遠難守、復修遼東故塞、至?水為界、屬燕。
 秦が燕を滅ぼし、遼東の外徼(がいげき=異民族)を帰属させた。
 漢王朝が勃興すると、そこが遠方で守るのが難しいので、遼東の故塞(燕の遼東長城)を修復し、?水(ばいすい)までを国境として、燕に属させた。

 燕王盧綰反、匈奴、滿亡命、聚黨千餘人、魋結蠻夷服而東出塞、渡?水、居秦故空地上下鄣、稍役屬真番、朝鮮蠻夷及故燕、齊亡命者王之、都王險。
 燕王の盧綰(ロワン)が背き、匈奴に亡命すると、髷(まげ)を結い、蛮夷の衣服を着た満は千余の人々を連れて長城を出て東に逃れ、?水(清川江)を渡り、秦の時代の昔の空地に居を構えて鄣(長城)を出入し、真番に軽く属していた朝鮮蛮夷や、その地に暮らす昔の燕や斉からの亡命者らの王となり、王険城(王倹城とも)を都とした。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen4-eisichosen.htm

匈奴(呉音:くぬ、漢音:きょうど、拼音:Xiōngnú)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/匈奴

南匈奴(みなみきょうど、拼音:Nán Xiōngnú)は、48年に匈奴から分かれた南の勢力。これに対して北に残った勢力を北匈奴という。南匈奴は後漢に服属し、長城の内側に住むことを許され、後漢と共に北匈奴や鮮卑と戦った。以来、西晋までの間、中国王朝に仕えるが、304年に劉淵が漢王を称して西晋から独立したため、五胡十六国時代が始まる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/南匈奴

きょうど 【×匈奴】
前3世紀末から後1世紀末にかけて、モンゴル高原を中心に活躍した遊牧騎馬民族。秦代末の前209年、冒頓(ぼくとつ)が単于(ぜんう)(君主)となり、北アジア最初の遊牧国家を建設。東胡(とうこ)、大月氏を征圧し全盛となり、漢にも侵入したが、漢の武帝の遠征と内紛により、東西に分裂し、後48年さらに南北に分裂。南匈奴は漢に服属し、北匈奴は91年漢に討たれた。人種的にはトルコ系説が有力。西方に移動した子孫がフン族であるといわれる。
http://kotobank.jp/word/匈奴


1817管理人:2013/12/05(木) 23:13:02
Re: 倭・伽耶
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 倭(倭国)と匈奴、フン族の関係が見えてきたな。燕王盧綰反、匈奴、滿亡命、・・。
> 西方に移動した子孫がフン族・・。
>
> 今の所は山海経の蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。の文章が漠然と倭を示す。
> 魏志倭人伝の行程の解説は秦野北斗が行う著書:徐福と邪馬台国。
> 倭国、韓半島。金剛山の麓にある「やまと」、クムガンこと錦江(白村江)・・・・・・・。
> 三角縁神獣鏡の名文でおなじみの京師、三公は後の武内宿禰・・・・・。
>
> > 南匈奴(みなみきょうど、拼音:Nán Xiōngnú)は、48年に匈奴から分かれた南の勢力。これに対して北に残った勢力を北匈奴という。南匈奴は後漢に服属し、長城の内側に住むことを許され、後漢と共に北匈奴や鮮卑と戦った。以来、西晋までの間、中国王朝に仕えるが、304年に劉淵が漢王を称して西晋から独立したため、五胡十六国時代が始まる。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/南匈奴
>
>


確かに狗奴国との関係は面白いですね。
狗邪韓国の位置とあわせて再検討する必要があるでしょう。
三国志[編集]
三国志魏書東夷伝倭人条に「(帯方)郡より倭に至るは海岸にそって水行で南へ行ったり東へ行ったりして韓国を経て海の北岸にある狗邪韓国へ到る。七千余里で始めて海をわたり、千余里で対馬国に至る」とあり[1]、狗邪韓国到着を以て倭国へ到り、玄界灘の北岸と記述している。
また、同じ魏書東夷伝韓条では「韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と接し、四方は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓とは昔の辰国のことで馬韓は西にある」とし[2]、韓と倭は接している(陸続きである)と記述している。
なお弁辰十二国の中には「狗邪」がつく「弁辰狗邪国」[3]が見受けられるが、こちらは「首露王」による建国の「金官駕洛」に比定されることでほぼ収まっている現状である。[4]。
後漢書[編集]
『後漢書』(正史としての順番は三国志より前だが、成立は三国志より遅い)東夷伝倭人条では「倭は韓の東南、大海中の山島によっており、およそ百余国ある。(前漢の)武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼしてから、三十余国が漢に使訳を通じてきた。国では皆が王を称することが代々の伝統である。そこの大倭王は、邪馬臺国に居する。楽浪郡の境界から、その国までは一万二千里、その西北端の拘邪韓国から七千余里。その地はだいたい会稽郡東冶の東にあり、朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じである[5]とあり、狗邪韓国を倭国の西北端と記述している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/



ここで「大倭」との言葉に注目です。

また「西北端」を狗邪韓国とする認識は続いているんですよね。

後漢書の解釈は、かなりアバウトで、楽浪から倭国までは1万2千里、その倭国の西北端から7千里四方の島国と考えているわけです。

ところが、それ以前にできていた魏志倭人伝は7千里は楽浪・帯方から狗邪韓国までの距離、

あれれ、とおもうくらい同じ中国人でも読み方が異なっているんですよね。




1818秦野北斗:2013/12/06(金) 22:05:37
Re: 倭・伽耶
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001888M.jpg

管理人さんへのお返事です。

魏書東夷伝は短文の組合せですな。魏書東夷伝韓条を7つに分けるぞ。

先入観があり理解できない模様ですな。子供の文章にするぞ。

魏書東夷伝韓条は

1. 韓は帯方郡の南にあり、
2. 東西は海を限界とし、
3. 南は倭と接し、
4. 四方は四千里ばかり。
5. 韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。
6. 辰韓とは昔の辰国のことで
7. 馬韓は西にある

地図を添付、里は秦野距離(短里)

秦野距離は秦野北斗著書:徐福と邪馬台国より



1819管理人:2013/12/06(金) 23:12:59
Re: 倭・伽耶
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 魏書東夷伝は短文の組合せですな。魏書東夷伝韓条を7つに分けるぞ。
>
> 先入観があり理解できない模様ですな。子供の文章にするぞ。
>
> 魏書東夷伝韓条は
>
> 1. 韓は帯方郡の南にあり、
> 2. 東西は海を限界とし、
> 3. 南は倭と接し、
> 4. 四方は四千里ばかり。
> 5. 韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。
> 6. 辰韓とは昔の辰国のことで
> 7. 馬韓は西にある
>
>

この文書はもっと深く掘り下げる必要がありますね。

「韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と 接し、四方は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓とは 昔の辰国のことで馬韓は西にある」

辰韓とは 昔の辰国であるとの記載は、気になりますね。辰国がもともとあったものの、東遷したか、もともと東にあったのか?この辺も課題でしょう。


『後漢書』馬韓伝. 韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國、 其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十 有二國、其南亦與倭接。凡七十八國、伯濟是其一國焉。



弁辰在辰韓之南から、辰韓の南に弁辰があり、その南に倭があるわけです。韓の合計は54+12+12=78国

辰韓の北が濊貊。

馬韓は西にあって、楽浪の南にある。

三種というのは、地域だけではなく、習俗・民族のことなっていると認識していたのでしょう。



ううん、平凡な解釈ですね。

十有二國というのは、12国なのでしょうけど、どうしてこういう書き方になるのが気になりますね。


雄略の上表文
「私の先祖は、自ら甲冑を纏い山川を跋渉し戦を 続け、東 は毛人55カ国を、西は衆夷66カ国を征服し、また海北へ渡り95カ国を平定 した。」


海北が、後漢当時の78国じゃないんですよね。95国、もっと北の高句麗・扶余方面までの支配を意識しているようにも見えます。17国多い。

百済・新羅時代なら3国で済むはずなのに95国という。おそらく百済・新羅を、小国の共同国家のように見なしていたのでしょうか?





1820秦野北斗:2013/12/07(土) 15:37:17
Re: 倭・伽耶
管理人さんへのお返事です。

『後漢書』馬韓伝を読み切れてないな。
理解不足ですな。

韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。
馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。
辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。
弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。
凡七十八國、伯濟是其一國焉。

韓は三種あり。一曰く馬韓、二曰く辰韓、三曰く弁辰。
馬韓は西にあり、五十四國で北の樂浪と交わり、南の倭に接し交わる。
辰韓は東に有り、十国の内の二国は、北の濊貊に接し交わる。
弁辰は辰韓の南に有り、また十国の内の二国は、南の倭と接し交わる。
およそ七十八國。その一国が伯濟。

どこにも、54+12+12=78国は言っていないぞ?

それと、韓の歴史は、馬韓、辰韓、弁辰、倭国の時代と。
百済、高句麗、新羅、倭国(越を含む)の時代があったのですな。
注意は弁辰と弁韓は同一としているな。

すでに、認識していると思っていたが・・・?

堀貞雄 古代史探訪館の堀さんの訳にも誤があるが、管理人さんも問題がありますな。

雄略の上表文は倭の五王になりますな、

文章を読むと雄略は第三者で平定したのは倭の五王ですな。

堀貞雄 古代史探訪館より

 韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。凡七十八國、伯濟是其一國焉。大者萬餘戸、小者數千家、各在山海?、地合方四千餘里、東西以海為限、皆古之辰國也。馬韓最大、共立其種為辰王、都目支國、盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。

 韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰という。馬韓は西に在り、五十四カ国、その北に楽浪、南に倭と接する。辰韓は東に在り、十有二国、その北に濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国、その南はまた倭と接する。およそ七十八国、伯済はその一国である。大国は万余戸、小国は数千家、各々に山海の間に在り、土地は合計四千余里、東西は海が限界で、いずれも昔の辰国である。馬韓が最大、その苗裔を辰王として共立し、都は目支国、三韓の地の大王である。そこの諸国王の先祖は皆、馬韓の血族である。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun2-gokanzho.htm

> 弁辰在辰韓之南から、辰韓の南に弁辰があり、その南に倭があるわけです。韓の合計は54+12+12=78国
>
> 辰韓の北が濊貊。
>
> 馬韓は西にあって、楽浪の南にある。
>
> 三種というのは、地域だけではなく、習俗・民族のことなっていると認識していたのでしょう。
>
> ううん、平凡な解釈ですね。
>
> 十有二國というのは、12国なのでしょうけど、どうしてこういう書き方になるのが気になりますね。
>
> 雄略の上表文
> 「私の先祖は、自ら甲冑を纏い山川を跋渉し戦を 続け、東 は毛人55カ国を、西は衆夷66カ国を征服し、また海北へ渡り95カ国を平定 した。」
>
>
> 海北が、後漢当時の78国じゃないんですよね。95国、もっと北の高句麗・扶余方面までの支配を意識しているようにも見えます。17国多い。
>
> 百済・新羅時代なら3国で済むはずなのに95国という。おそらく百済・新羅を、小国の共同国家のように見なしていたのでしょうか?
>
>
>
>


1821荊の紀氏:2013/12/08(日) 12:00:53
Re: 倭・伽耶
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 『後漢書』馬韓伝を読み切れてないな。
> 理解不足ですな。
>
> 韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。
> 馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。
> 辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。
> 弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。
> 凡七十八國、伯濟是其一國焉。
>
> 韓は三種あり。一曰く馬韓、二曰く辰韓、三曰く弁辰。
> 馬韓は西にあり、五十四國で北の樂浪と交わり、南の倭に接し交わる。
> 辰韓は東に有り、十国の内の二国は、北の濊貊に接し交わる。
> 弁辰は辰韓の南に有り、また十国の内の二国は、南の倭と接し交わる。
> およそ七十八國。その一国が伯濟。
>
> どこにも、54+12+12=78国は言っていないぞ?
>
> それと、韓の歴史は、馬韓、辰韓、弁辰、倭国の時代と。
> 百済、高句麗、新羅、倭国(越を含む)の時代があったのですな。
> 注意は弁辰と弁韓は同一としているな。
>
> すでに、認識していると思っていたが・・・?
>
> 堀貞雄 古代史探訪館の堀さんの訳にも誤があるが、管理人さんも問題がありますな。
>
> 雄略の上表文は倭の五王になりますな、
>
> 文章を読むと雄略は第三者で平定したのは倭の五王ですな。
>

「倭人は呉太伯の子孫」ではなく「 倭人は呉王夫差の子孫」といわれねばおかしいはずで、 http://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/6ebda32a6daba4ka4da4a4a4f?comment=33654
「・・揚子江流域と弥生文化の関係に着目して、日本民族の起源にこじつける説も(有力説ではなく一部だが)ある。こっちの場合は、こないだまで弥生時代のはじまりが前三世紀とされていたせいもあって「呉」の始祖である太伯ではなく、呉国が越国(浙江省方面にあった国)に滅ぼされたBC473年にこじつけられることが多い。
・・呉と越はBC496年からBC473年まで激烈な戦争状態にあり「臥薪嘗胆」や「呉越同舟」などの格言を今に伝えている。この時に大量の難民が発生しその一部は日本にも逃れてきたと考えられている。・・・したがって日本列島との経済的・文化的な交流もまたさかんであって不思議はない。
しかしこの時の王は始祖である太伯ではなく、夫差(ふさ)という最後の王(在位BC495〜473年)なのだから、もし倭人と関係があるのなら「倭人は呉太伯の子孫」ではなく「倭人は呉王夫差の子孫」といわれねばおかしいはずで、コジツケ説としてもあまり出来がよくない。・・・
歴代の呉王は、太伯の弟の「仲雍」という人物の子孫なので、呉王自体がすでに太伯の子孫ですらないのである。呉太伯には子孫がいなかったから弟の仲雍が後を継いだのであって、子孫がいたならその人が後を継いだだろう。・・・」

五王・・・呉王?太伯や呉王夫差の後裔のキ氏  木 一定の間隔に配置 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?




1822秦野北斗:2013/12/08(日) 19:31:05
Re: 倭・伽耶
荊の紀氏さんへのお返事です。

太伯・虞仲は、父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。荊蛮の人々は多くこれに従った。

文章の内容は、太伯は呉の王を継承していない。継承したのは夫差で呉の第7代、最後の王。
「自謂太伯之後、」文章に従い訳すと「倭人は呉太伯の子孫」になるな。
太伯が自ら出奔した地の者が「倭人は呉太伯の子孫」になるな。

「倭人は呉王夫差の子孫」は誤釈になる。

誤釈の原因は、呉の地、と太伯が自ら出奔した地を同一とした。軽率に言っているな。

歴史の理解不足ですな。誤釈ですな。


> 五王・・・呉王?太伯や呉王夫差の後裔のキ氏  木 一定の間隔に配置

倭の五王ですな。雄略朝をヤマト王権なぞないぞ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/倭の五王

夫差
夫差(ふさ、? - 紀元前473年)は、中国春秋時代の呉の第7代、最後の王。姓は姫。春秋五覇の一人に数えられる。先代の呉王闔閭の次男。越王勾践によって討たれた父・闔閭の仇を討つため、伍子胥の尽力を得て国力を充実させ、一時は覇者となったが、勾践の反撃により敗北して自決した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/夫差

けいばん 0 【▼荊蛮】
中国、春秋時代から、長江の中流域の原住民への蔑称。南の野蛮人。
http://www.weblio.jp/content/荊蛮

太伯・虞仲
古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。
父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/太伯・虞仲


周(しゅう、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。また、時代の名前にも使い、「周代(西周、英語:Western Zhou)」と言えば、紀元前1046年頃から、遷都して東周となる紀元前771年の間のことを指す。国姓は姫(き)。周代において中国高文明が成立したとみられる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/


『晋書』倭人伝

 倭人在帶方東南大海中、依山島為國。地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七萬。男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後、又言上古使詣中國、皆自稱大夫。

 倭人は帯方郡東南の大海中に在り、山島に拠って国を為す。土地には山林が多く、良田はなく、海産物を食す。旧来は百余の小国が互いに接していたが、魏の時代に至って、三十国が通好してきた。戸数は七万。男子は大小なく、悉く顔と身体に刺青をしている。自ら太伯(呉の始祖。断髪文身をしたと言われる)の後裔だといい、また、上古に使者が中国に詣でると、皆が大夫を自称したという。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun3-sinzho.htm




1823管理人:2013/12/08(日) 23:05:15
Re: 倭・伽耶
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 『後漢書』馬韓伝を読み切れてないな。
> 理解不足ですな。
>
> 韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。
> 馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。
> 辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。
> 弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。
> 凡七十八國、伯濟是其一國焉。
>
>

> 堀貞雄 古代史探訪館より
>
>  韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。凡七十八國、伯濟是其一國焉。大者萬餘戸、小者數千家、各在山海?、地合方四千餘里、東西以海為限、皆古之辰國也。馬韓最大、共立其種為辰王、都目支國、盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。
>
>  韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰という。馬韓は西に在り、五十四カ国、その北に楽浪、南に倭と接する。辰韓は東に在り、十有二国、その北に濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国、その南はまた倭と接する。およそ七十八国、伯済はその一国である。大国は万余戸、小国は数千家、各々に山海の間に在り、土地は合計四千余里、東西は海が限界で、いずれも昔の辰国である。馬韓が最大、その苗裔を辰王として共立し、都は目支国、三韓の地の大王である。そこの諸国王の先祖は皆、馬韓の血族である。
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun2-gokanzho.htm


12国というのは、後にでてきますね。

『三国志魏書』辰韓伝
 辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、有似秦人、非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿、謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國、稍分為十二國。
三国志魏書』弁辰伝

 弁辰亦十二國、又有諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。
 有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁〔辰〕樂奴國、軍彌國(弁軍彌國)、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戸路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國(馬延國)、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-benkan.htm



ただ、注目すべきは「弁辰」と「弁」の差です。おそらく方角の差でしょう。「辰」の方角は東南、「弁」はもっと南ですね。楽奴国が弁とされたのは、その推定位置がかなり「南」であることからもわかります。
「弁辰」はその間の方位として、著者は認識していたはずです。

ちなみに馬韓の「馬=午」は南の方角です。会報で論じたように楽浪から見た方角ですね。

それで、辰韓が1国足りないように見えるんです。弁(辰)は12国。

難彌離彌凍國あたりを2国に分割すると12国になるでしょう。


あと「狗」は犬で、これも北西の方角なのですが、逆にして東南になるところが重要な部分でした。

狗邪韓国、狗奴国、どちらも名前的には「北西」を示すものの、実際のほうがくは「東南」となり、いわば主体ご客体が反対になる方位概念に基づいています。


おそらく、これらの半島の「韓」の諸国の王は、「馬韓の種」とされていて、ある時期に馬韓系の種族が、元々いた辰王国系の種族を支配したのではないでしょうか。

それで、その地方に派遣された官吏が王となった。

半島南部の各方角で地域区分して、さらに12分割したんでしょう。それで合計24国ができあがる。

これが、月支国に都を置く、その馬韓系とされた種族は、そうすると12分割して地域支配をする習俗があったということになるでしょうか。

12国は、日本でいえば九州とか四国とか、そういう数字ですね。

それで雄略の話になって、55国、と66国をひとつの単位としているんです。

11国+α?、この辺の地域統治の概念ですね。

西を5つの区域に区分して、それをさらに11国に分割するんです。
東も同じく6つの区域に区分して、さらに11国に分割。

つまり5+6=11、で11にさらに分割するので、結果として121国になるわけですね。

それで海北95国ですが、これは残念ながら11の倍数ではないので、別観念の数字でしょう。



この辺、キシさんの8進数の話はある意味面白いんです。

その辺から、だんだん渡来系集団の出自もあきらかになっていくでしょう。




1824秦野北斗:2013/12/09(月) 03:38:15
Re: 倭・伽耶
管理人さんへのお返事です。

凡七十八國の訳は、およそ七十八國。なんですな。

『三国志魏書』辰韓伝の国の数は(弁辰には)12国、(辰韓には)11+伯濟=12国になるな。
(馬延国)、(弁軍彌国)、のダブリを考慮して、各十二国だな。
・・始めには六国あり、十二国に細分化した。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-sinkan.htm

韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。
馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。
辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。
弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。
凡七十八國、伯濟是其一國焉。

十有二國が問題だな。総数は十二國の模様
二國は・・・とするのが正しい様だな。前の訳はミスだな。
同様にすると、八有一国もありうるな。
九国有り、一国は・・・・。だな。

韓は三種あり。一曰く馬韓、二曰く辰韓、三曰く弁辰。
馬韓は西にあり、五十四國で北の樂浪と交わり、南の倭に接し交わる。
辰韓は東に十二国有り、二国は北の濊貊に接し交わる。
弁辰は辰韓の南にまた十二国有り、二国は南の倭と接し交わる。
およそ七十八國。その一国が伯濟。

キシさんの8進数は、秦野は疑問があるな。十二支を地支(ちし)に従うな。

十干(じっかん)は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10
http://ja.wikipedia.org/wiki/十干
十二支(じゅうにし)は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の総称 http://ja.wikipedia.org/wiki/十二支

> この辺、キシさんの8進数の話はある意味面白いんです。
> その辺から、だんだん渡来系集団の出自もあきらかになっていくでしょう。

???

弁辰と辰韓の合計二十四国、また諸々の小さな別邑があり、各自に渠帥(首領)がおり、大首領は臣智と言い、その次に險側、次に樊濊、次に殺奚、次に邑借がいる。
(ただし、上記には辰韓は十一国しか記載がなく、難彌離彌凍国は両者に重複する)、

(弁辰には)
1彌離彌凍国、
2接塗国、
3古資彌凍国、
4古淳是国、
5半路国、
6樂奴国、
7彌烏邪馬国、
8甘路国、
9狗邪国、
10走漕馬国、
11安邪国(馬延国)、
12瀆盧国
13諸々の小さな別邑
(辰韓には)
1已柢国、
2不斯国、
3勤耆国、
4難彌離彌凍国、
5冉奚国、
6軍彌国(弁軍彌国)、
7如湛国、
8戸路国、
9州鮮国(馬延国)、
10斯盧国、
11優由国
12伯濟(追加?)?
13諸々の小さな別邑
がある。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-benkan.htm

> 12国というのは、後にでてきますね。
>
> 『三国志魏書』辰韓伝
>  辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、有似秦人、非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿、謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國、稍分為十二國。
> 三国志魏書』弁辰伝
>
>  弁辰亦十二國、又有諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。
>  有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁〔辰〕樂奴國、軍彌國(弁軍彌國)、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戸路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國(馬延國)、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國。
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-benkan.htm


1825荊の紀氏:2013/12/09(月) 12:16:55
Re: 倭・伽耶
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 凡七十八國の訳は、およそ七十八國。なんですな。
>
> 『三国志魏書』辰韓伝の国の数は(弁辰には)12国、(辰韓には)11+伯濟=12国になるな。
> (馬延国)、(弁軍彌国)、のダブリを考慮して、各十二国だな。
> ・・始めには六国あり、十二国に細分化した。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-sinkan.htm
>
> 韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。
> 馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。
> 辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。
> 弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。
> 凡七十八國、伯濟是其一國焉。
>
> 十有二國が問題だな。総数は十二國の模様
> 二國は・・・とするのが正しい様だな。前の訳はミスだな。
> 同様にすると、八有一国もありうるな。
> 九国有り、一国は・・・・。だな。
>
> 韓は三種あり。一曰く馬韓、二曰く辰韓、三曰く弁辰。
> 馬韓は西にあり、五十四國で北の樂浪と交わり、南の倭に接し交わる。
> 辰韓は東に十二国有り、二国は北の濊貊に接し交わる。
> 弁辰は辰韓の南にまた十二国有り、二国は南の倭と接し交わる。
> およそ七十八國。その一国が伯濟。
>
> キシさんの8進数は、秦野は疑問があるな。十二支を地支(ちし)に従うな。
>

8進数 等脚台形 氐に平らか 氐族 -チベット系 羌族・氐族(現在のチャン族) http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?

>
> > この辺、キシさんの8進数の話はある意味面白いんです。
> > その辺から、だんだん渡来系集団の出自もあきらかになっていくでしょう。
>


1826秦野北斗:2013/12/09(月) 13:41:30
Re: 倭・伽耶
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001897M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/籠目



1827管理人:2013/12/09(月) 23:12:22
Re: 倭・伽耶
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 凡七十八國の訳は、およそ七十八國。なんですな。

> 弁辰と辰韓の合計二十四国、また諸々の小さな別邑があり、各自に渠帥(首領)がおり、大首領は臣智と言い、その次に險側、次に樊濊、次に殺奚、次に邑借がいる。
> (ただし、上記には辰韓は十一国しか記載がなく、難彌離彌凍国は両者に重複する)、
>
> (弁辰には)
>
> 13諸々の小さな別邑
> がある。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-benkan.htm
>
> > 12国というのは、後にでてきますね。
> >
> > 『三国志魏書』辰韓伝
> >  辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、有似秦人、非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿、謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國、稍分為十二國。



なるほど、小さな別邑があるとの記載は重要ですね。おそらく僻地にあるんでしょう。

ここで、秦韓の出自が楽浪にあり、楽浪から別れて東南へ向かった経緯が記されています。楽浪人を秦韓人は「阿残」と呼び、自分たちを「阿」つまり「吾」と称してわけですね。

これが後に三角縁神獣鏡を制作した「吾作」集団で、元は中国系、日本に渡来して「阿・吾」を自称とする集団であることを会報で論じたところでした。

それで、秦人の実態ですね。言語的には以前論じたように、音韻法則に特徴があるのですが、それでここで「非但燕、齊之名物也。」と言っていることです。

燕、齊の流民は、すでに漢代までには朝鮮北部に流入していて、扶余・穢との関係する祖先になっていたはずです。

ところが、秦人については、彼らとは異なるとおそらくは現地に精通した中国人が伝えていることです。

現地でも流民の系統がだいたい習俗・言語的な差から把握できていたんでしょう。


それで「謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國、稍分為十二國。」
の部分ですね。

6と12、これが彼らの習俗における重要な数です。12進数の可能性すらあります。


辰韓・弁辰は、この12を使って地域統治していました。


でも考えてみると初め6国だったと言っているわけです。ということは、その6国を比定できれば、後にできた残りの6国は、その最初の6国と類似した名前を持つ可能性がでてきます。


>  弁辰亦十二國、又有諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。
>  有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁〔辰〕樂奴國、軍彌國(弁軍彌國)、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戸路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國(馬延國)、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國。
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-benkan.htm



たとえば、弁辰の安邪國と狗邪國は、同類の名前をもったペアです。安と狗で、意味、おそらくは方角に相違を示して区別した。

同様に
弁辰瀆盧國、斯盧國、「盧」がつくのですが、これらの国は隣接していながらも「斯」と「瀆」で、「盧」という地域を2分割したわけです。片方は後の新羅となる。

方角だとすると「子(シ)」といったあたりを「斯」とした。でも「瀆(ドク・トク)」は、その南にあたるはずですが、別の意味でつけられた可能性がありますね。

弁辰彌離彌凍國の離は、元あった「彌凍國」から分割されたの意味か?

そして古資彌凍国も、「古い」もとももとの「彌凍國」

半路国なども、甘路国、戸路国あたりの半分を分割してできたか?

それなりに合理的に名前がついているはずです。これは倭人伝の国名も同じでしょう。

1828秦野北斗:2013/12/10(火) 13:39:35
Re: 倭・伽耶
管理人さんへのお返事です。

> ところが、秦人については、彼らとは異なるとおそらくは現地に精通した中国人が伝えていることです。

秦は韓半島へは勢力を広げていない。広げたのは漢になるが > ところが、・・は歴史の流れ
に逆らうな。三角縁神獣鏡も同様に成っているな。

今回から細目にまでチェックして行く。今まではザルにしていた・・・。

> これが後に三角縁神獣鏡を制作した「吾作」集団で、元は中国系、日本に渡来して「阿・吾」を自称とする集団であることを会報で論じたところでした。
>
日本に渡来して「阿・吾」を自称とする集団はない。考えられない。

衛氏朝鮮

『通典』邊防
 武帝元封三年、遣樓船將軍楊僕從齊浮渤海、兵五萬、左將軍荀彘出遼東、討之。朝鮮人相與殺 王右渠來降。遂以朝鮮為真蕃、臨屯、樂浪、玄菟四郡。今悉為東夷之地。昭帝時罷臨屯、真蕃以并樂浪、玄菟。

 元封三年(前108年)、楼船將軍の楊僕は斉から渤海を渡り、兵は五万。左將軍の荀彘は遼東から出撃し、右渠を討った。朝鮮人は右渠を殺して降伏してきた。朝鮮を真蕃、臨屯、楽浪、玄菟の四郡となした。今はすべて東夷の地。昭帝の時、臨屯と真蕃を廃して、楽浪と玄菟に併合した。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen4-eisichosen.htm


三角縁神獣鏡を制作した「吾作」集団 どう見ても、卑弥呼の鏡と同様で制作年代は近いと思うが。

吾作明竟
吾作明竟 幽湅三商 統徳序道 配象萬彊 曾年益□(壽) 子孫番昌 (右回り)

陳是作鏡
景初三年 陳是作鏡 自有經述 本是京[阝市] 杜地□(命)出 吏人□□(銘之) 位至三公 母人銘之 保子冝孫 壽如金石兮 (左回り)


> これが後に三角縁神獣鏡を制作した「吾作」集団で、元は中国系、日本に渡来して「阿・吾」を自称とする集団であることを会報で論じたところでした。
>
> それで、秦人の実態ですね。言語的には以前論じたように、音韻法則に特徴があるのですが、それでここで「非但燕、齊之名物也。」と言っていることです。
>
> 燕、齊の流民は、すでに漢代までには朝鮮北部に流入していて、扶余・穢との関係する祖先になっていたはずです。
>
> ところが、秦人については、彼らとは異なるとおそらくは現地に精通した中国人が伝えていることです。
>
> 現地でも流民の系統がだいたい習俗・言語的な差から把握できていたんでしょう。
>
>
> それで「謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國、稍分為十二國。」
> の部分ですね。
>
> 6と12、これが彼らの習俗における重要な数です。12進数の可能性すらあります。
>
>
> 辰韓・弁辰は、この12を使って地域統治していました。
>
>
> でも考えてみると初め6国だったと言っているわけです。ということは、その6国を比定できれば、後にできた残りの6国は、その最初の6国と類似した名前を持つ可能性がでてきます。
>
>
> >  弁辰亦十二國、又有諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。
> >  有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁〔辰〕樂奴國、軍彌國(弁軍彌國)、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戸路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國(馬延國)、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國。
> > http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-benkan.htm
>
>
>
> たとえば、弁辰の安邪國と狗邪國は、同類の名前をもったペアです。安と狗で、意味、おそらくは方角に相違を示して区別した。
>
> 同様に
> 弁辰瀆盧國、斯盧國、「盧」がつくのですが、これらの国は隣接していながらも「斯」と「瀆」で、「盧」という地域を2分割したわけです。片方は後の新羅となる。
>
> 方角だとすると「子(シ)」といったあたりを「斯」とした。でも「瀆(ドク・トク)」は、その南にあたるはずですが、別の意味でつけられた可能性がありますね。
>
> 弁辰彌離彌凍國の離は、元あった「彌凍國」から分割されたの意味か?
>
> そして古資彌凍国も、「古い」もとももとの「彌凍國」
>
> 半路国なども、甘路国、戸路国あたりの半分を分割してできたか?
>
> それなりに合理的に名前がついているはずです。これは倭人伝の国名も同じでしょう。


1829秦野北斗:2013/12/10(火) 21:58:54
三角縁神獣鏡
三角縁神獣鏡の解読ができないのだな。こうなると管理人さんなは理解不能だろうな。

保子(開花天皇)、京師 (州師)、杜(もり)、杜は、鎮守の杜の意味。鏡の内容は、鎮寿が自ら鏡を
作る。卑弥呼は京師こと杜(兵站)の出身で三公を従える。母人(もやの人)で開花天皇の孫になる。
これを金石(金印)で祝う。

母屋で現在残されている。母屋は伊勢神宮の内宮で卑弥呼は日本書紀に天照大御神と記されている。
尚、墓は古代大君、邪馬台国の近くにある。

卑弥呼、母人(もやの人)
王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/卑弥呼

景初三年、陳是作鏡自有経述、本是京師杜地命出、吏人銘之位至三公、母人銘之保子宜孫、
寿如金石兮

http://ja.wikipedia.org/wiki/鎮守の森

三角縁神獣鏡の解読ができないのだな。

3、■始元年 陳是作鏡 自有経述 本自州師 杜地命出 寿如金石 保子■■
「(正)始元年、陳是が鏡を作った。私自身の経歴があるので述べる。元、私は楊州(又は徐州)の鏡師であったが、地を閉ざされ、出ずるを命ぜられた。……」

 その後の二句は、金石の如く長生きし、子孫は繁栄するという意味の吉祥句で、鏡の効能を記したものです。前の句と離れているように感じますが、そういうこともあったが、自分は長生きして、子孫は栄えていると言っているのかもしれません。ここでも述(じゅつ)、出(しゅつ)と韻が踏まれています。
 陳是の是(漢音シ、呉音ジ)は、氏の代わりに使われる文字だといいます。王仲殊氏は州師を楊州の鏡師と解釈していますが、徐州と解することも可能です。1の「吾作明鏡…至海東」の鏡が出土した柏原市、国分茶臼山古墳からは、他にも二面の鏡が出ています。一つは小さな盤竜鏡で、銘文に「胡虜殄滅、天下復」という文字が含まれていて、「胡を全滅させて、天下は元通りになる。」という意味ですから、匈奴に苦しめられた「新(*)」の鏡であると見当がつきます。《*/漢と後漢の間に短期間存在した国》
 あと一面は三角縁神獣鏡で、びっしり銘文が刻まれています。(銘文は「柏原市史」による)

http://www.eonet.ne.jp/~temb/1/wajinden_4.htm

三角縁同向式神獣鏡
景初三年 陳是作鏡 自有經述 本是京[阝市] 杜地□(命)出 吏人□□(銘之) 位至三公 母人銘之 保子冝孫 壽如金石兮 (左回り)

三角縁同向式神獣鏡
正始元年 陳是作鏡 自有經述 本自[くさかんむりに州][阝市](京師) 杜地命出 壽如金石 保子冝孫 (右回り)

三角縁神獣車馬鏡
陳氏作竟甚大好 上有仙人不知老 君冝高官 保子冝孫 壽如金石 (右回り)

三角縁四神四獣鏡
陳是作竟甚大好 上有王父母 左有倉龍右白乕 冝遠道相保 (右回り)

三角縁神獣車馬鏡
陳氏作竟甚大好 上有仙人不知老 君冝高官 保子冝孫 壽如金石 (右回り)


1830管理人:2013/12/10(火) 23:08:31
Re: 三角縁神獣鏡
秦野北斗さんへのお返事です。


> 卑弥呼、母人(もやの人)
> 王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/卑弥呼
>
> 景初三年、陳是作鏡自有経述、本是京師杜地命出、吏人銘之位至三公、母人銘之保子宜孫、
> 寿如金石兮
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/鎮守の森
>
> 三角縁神獣鏡の解読ができないのだな。
>
> 3、■始元年 陳是作鏡 自有経述 本自州師 杜地命出 寿如金石 保子■■

縁同向式神獣鏡
> 景初三年 陳是作鏡 自有經述 本是京[阝市] 杜地□(命)出 吏人□□(銘之) 位至三公 母人銘之 保子冝孫 壽如金石兮 (左回り)
>
> 三角縁同向式神獣鏡
> 正始元年 陳是作鏡 自有經述 本自[くさかんむりに州][阝市](京師) 杜地命出 壽如金石 保子冝孫 (右回り)
>
> 三角縁神獣車馬鏡
> 陳氏作竟甚大好 上有仙人不知老 君冝高官 保子冝孫 壽如金石 (右回り)
>
> 三角縁四神四獣鏡
> 陳是作竟甚大好 上有王父母 左有倉龍右白乕 冝遠道相保 (右回り)
>
> 三角縁神獣車馬鏡
> 陳氏作竟甚大好 上有仙人不知老 君冝高官 保子冝孫 壽如金石 (右回り)
>


ま、この銘文も昨年解読しましたが、母人は、三公を排出した家系のトウ太后だと思うんですね。

景初三年、陳是作鏡自有経述、本是京師杜地命出、吏人銘之位至三公、母人銘之保子宜孫、


その月氏系技術者を配下においていた中国高官のトウ氏の子孫たちが、後漢末期の政治抗争にやぶれて迫害され、半島へと逃げて行く。もともと、半島にはすでに前漢時代から月氏・羌系の商人集団によって開拓された山東・遼東半島を結ぶ海運ルートが構築されていたはずなのですが、その流れで漢鏡が半島や日本へも随時流入していたはずです。

それで、後漢末期に政争に田ぶれたトウ氏らは、山東半島経由で、朝鮮半島へと逃れていったのでしょう。その際に、技術者も一緒に渡海する。そしてその一部が、半島南部の秦韓や、さらに倭へと移住しながら、支配を広げていったのだと感じます。大国主の世界ですね。

その集団のひとつが「吾氏」で、これが楽浪から秦韓にかけて移動した「阿」集団であろうと以前考えました。

彼らは製鉄など金属精錬技術をもっていて、倭とも交流していたはずです。その交流の担い手が、つまり漢鏡ももたらしていったんですね。伊都国あたりには、深いコネクションあったので、しばしばその辺で製鉄遺跡や文字の書かれた弥生土器がでてくるわけです。

それで、「杜地命出」は、おそらく長安の西の「杜地」で、材料が出土したで間違いないとおもうのですが。ただ「海東」に至るのは、つまり半島・倭のこととみて間違いないでしょう。

「吾」氏はすでに、上記のとおり半島・倭に進出していましたが、元は尚方として、官営工房で高級官僚トウ氏の配下で各種の器物・遊牧民系の車馬つまりチャリオットを作成していたはずです。

ところが、その後、地方へ移住するハメになったので、「尚方」と記載するのをやめて、「吾作」と記すようになったはずで、その地方は、トウ氏の配下にあった山東半島付けねのあたりですね。

それでそこに月氏系の遊牧民系の技術者集団が多く移住していて、その中に「陳是」つまり「陳」氏がいたかどうかが課題です。

かれらは、おそらく西域や四川方面とも商業ネットワークをもっていて、しばしば楽浪まで器物や人材を派遣していたはずです。

それで「陳是」が、卑弥呼時代の三角縁を作っている背景には、おそらく彼らも楽浪から秦韓にかけえの「阿」集団と一緒に行動していたので、その鏡が今日本に残っているわけです。

陳の痕跡ですね。確かに秦野さんご指摘の陳寿というのは、どこから出てきた人なのか?なぜ半島や倭に詳しいのか?について考える必要はあると思います。どこまでせまれるかな?

1831秦野北斗:2013/12/11(水) 00:15:00
Re: 三角縁神獣鏡
管理人さんへのお返事です。

陳の痕跡ですね。確かに秦野さんご指摘の陳寿というのは、どこから出てきた人なのか?
なぜ半島や倭に詳しいのか?について考える必要はあると思います。どこまでせまれるかな?

中国史籍の内容と魏志倭人伝の内容は同一になるな。三角縁神獣鏡に陳の文字があるな。

>陳 寿(ちん じゅ、建興11年(233年) - 元康7年(297年))は、三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。字は承祚(しょうそ)。『三国志』の著者である。自身の伝は『晋書』にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/陳寿

> 彼らは製鉄など金属精錬技術をもっていて、

三角縁神獣鏡は銅なのに製鉄の金属精錬技術なのか、遊牧民がなぜ古墳の埋葬品を作る
渡来人がいきなり遊牧民ですかな。

三角縁神獣鏡の材質は、銅とスズの合金である青銅で、鉛も数%は含まれています。スズを20%以上も含むため、たいへん硬くて脆く、そして金色をほのかに帯びた銀灰色をしています。錆びて緑青に覆われた今の姿とはずいぶん印象が違いますね。あらかじめ用意した鋳型に、熔けた青銅を流し込む鋳造技術で作りますから、同じ鋳型から同じ形の鏡を作ることも可能です。三角縁神獣鏡には、いわゆる「同笵鏡」、あるいは「兄弟鏡」と呼ばれる同じ文様を持つグループがいくつもあります。同じ文様を持つ三角縁神獣鏡が実際にどうやって作られたのか、これまた大きな問題なのです。
http://www.kyohaku.go.jp/jp/kankou/haifu/yomimono_data/0063.html

>「吾」氏はすでに、上記のとおり半島・倭に進出していましたが、元は尚方として、官営工房で高級官僚トウ氏の配下で各種の器物・遊牧民系の車馬つまりチャリオットを作成していたはずです。

チャリオットにこだわり過ぎですな。魏志倭人伝は大宝律令の短里で記入されている。
中国史籍の距離が短里になる。実測でのこと。
漢代の尺約23.09 cm 三角縁同向式神獣鏡23.0で一致する。
魏志のころは漢尺で、三角縁神獣鏡は漢尺この点を考慮していないな。
魏志倭人伝には月の単位があるな。漢の距離単位とは異なる。
チャリオット=三角縁神獣鏡は捨てるべき・・。漢尺は使用していない。

チャリオット(Chariot)とは古代の戦争に用いられた戦闘用馬車である。ここでは、中国語で「戦車」(tankではない)と呼ばれるチャリオットを含め、戦闘馬車全般について記す。
http://ja.wikipedia.org/wiki/チャリオット

秦野も短里はふり出しに戻る事情が生じた。

> その月氏系技術者を配下においていた中国高官のトウ氏の子孫たちが、後漢末期の政治抗争にやぶれて迫害され、半島へと逃げて行く。もともと、半島にはすでに前漢時代から月氏・羌系の商人集団によって開拓された山東・遼東半島を結ぶ海運ルートが構築されていたはずなのですが、その流れで漢鏡が半島や日本へも随時流入していたはずです。
>
> それで、後漢末期に政争に田ぶれたトウ氏らは、山東半島経由で、朝鮮半島へと逃れていったのでしょう。その際に、技術者も一緒に渡海する。そしてその一部が、半島南部の秦韓や、さらに倭へと移住しながら、支配を広げていったのだと感じます。大国主の世界ですね。
>
> その集団のひとつが「吾氏」で、これが楽浪から秦韓にかけて移動した「阿」集団であろうと以前考えました。
>
> 彼らは製鉄など金属精錬技術をもっていて、倭とも交流していたはずです。その交流の担い手が、つまり漢鏡ももたらしていったんですね。伊都国あたりには、深いコネクションあったので、しばしばその辺で製鉄遺跡や文字の書かれた弥生土器がでてくるわけです。
>
> それで、「杜地命出」は、おそらく長安の西の「杜地」で、材料が出土したで間違いないとおもうのですが。ただ「海東」に至るのは、つまり半島・倭のこととみて間違いないでしょう。
>
> 「吾」氏はすでに、上記のとおり半島・倭に進出していましたが、元は尚方として、官営工房で高級官僚トウ氏の配下で各種の器物・遊牧民系の車馬つまりチャリオットを作成していたはずです。
>
> ところが、その後、地方へ移住するハメになったので、「尚方」と記載するのをやめて、「吾作」と記すようになったはずで、その地方は、トウ氏の配下にあった山東半島付けねのあたりですね。
>
> それでそこに月氏系の遊牧民系の技術者集団が多く移住していて、その中に「陳是」つまり「陳」氏がいたかどうかが課題です。
>
> かれらは、おそらく西域や四川方面とも商業ネットワークをもっていて、しばしば楽浪まで器物や人材を派遣していたはずです。
>
> それで「陳是」が、卑弥呼時代の三角縁を作っている背景には、おそらく彼らも楽浪から秦韓にかけえの「阿」集団と一緒に行動していたので、その鏡が今日本に残っているわけです。
>
> 陳の痕跡ですね。確かに秦野さんご指摘の陳寿というのは、どこから出てきた人なのか?なぜ半島や倭に詳しいのか?について考える必要はあると思います。どこまでせまれるかな?


1832荊の紀氏:2013/12/11(水) 22:33:22
Re: 倭・伽耶
秦野北斗さんへのお返事です。


> だんだん渡来系集団は、間違いですな。8進数が何を意味するかも不明ですな。


上下・・・氐  二等辺三角形にしてグルグル 回族 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?

台形の上底の長さが知りたいのですが、 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1299108227
台形の中心線を延長して二等辺三角形にしてグルグルしてました。

天と地がひっくりかえっている
(8進法?の)八卦には、数字やアルファベットではなくて、 意味のある漢字 があてられています。 http://www3.ocn.ne.jp/~fukiyo/math-osy/uranai.htm
「地天泰(ちてんたい)」というのは、天と地がひっくりかえっているので、たいへんなことがおきる・・・ということではありません。
 物事は変化するのですから、上にある「地」は下にさがろうとするし、下にある「天」は上にあがろうとするのです。

桁ごとの重みの増え方を「基数」 http://docs.olab.org/XXX/netmemo/base.html

等脚台形のうち、底辺BCとADの長さも等しい場合は長方形となる。したがって長方形は等脚台形の特殊な形である。長方形とは、等脚台形であり、かつ平行四辺形でもある四角形だということができる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/等脚台形
2本の対角線の長さは互いに等しく、対角線の交点Eと上底にある頂点B,Cまでの距離はともに等しい。下底にある頂点A,Dに対しても同様である。 また、三角形EABと三角形EDCは合同な図形となり、対角線の交点Eから台形の脚AB,CDまでの距離は等しい。
等脚台形は円に内接する。つまり4本の辺それぞれの垂直二等分線は一点で交わる。
正六角形を最も長い対角線を境に2つに分割すると4本の辺のうち3本の長さが等しい等脚台形が得られる。

、「平行な2辺が軸(格子の線)に平行or軸と45°の角をなす等脚台形」は、 容易に それが等脚台形であることが分かります。 http://nadamath2012.web.fc2.com/program/kyouen2.html
8角形の8つの頂点から任意に4点をとると、
(1) その4点は「単純等脚台形」をなす
(2) その4点からさらに3点A,B,Cをうまく選ぶと、∠ABC = 90°となる
のどちらか少なくとも一方が必ず成り立ちます。
つまり、8角形は、「単純等脚台形」または「円周角・対角90°」に帰着されるのです。

エケルト図法またはエッケルト図法とは、ドイツの地理学者マックス・エケルト(en:Max Eckert-Greifendorff)によって1906年に考案された6つの地図投影法の総称である。主に世界地図を描くために使用される。 http://ja.wikipedia.org/wiki/エケルト図法
エケルト第2図法[編集]
外形は第1図法と同じであるが、緯線の間隔を調節して正積になるようにしたものである。

符号化パターン及び緯度・経度をそれぞれ8 分割していき64分割した図を十進数(白抜き数字)と八進数(黒数字)で表した図です。 http://geopo.creco.net/intl/ja/developer/
ジオポの符号化方法ですが、こちらで紹介する方法以外にもアルゴリズム(8進数化してビット演算など)はあると思います。ここでは、一番わかりやすいアルゴリズムを紹介します。また、文字ではわかりにくいと思いますので、実際にいろいろな言語で実装したコードは、付録をご覧ください。


1833秦野北斗:2013/12/11(水) 22:44:04
Re: 倭・伽耶
荊の紀氏さんへのお返事です。

ところで、古代史と関係が?疑問だな。

秦野は秦野距離こと大宝律令の里がどこから来たかが問題だな。


> 上下・・・氐  二等辺三角形にしてグルグル 回族 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
>
> 台形の上底の長さが知りたいのですが、 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1299108227
>??台形の中心線を延長して二等辺三角形にしてグルグルしてました。
>
> 天と地がひっくりかえっている
>??(8進法?の)八卦には、数字やアルファベットではなくて、 意味のある漢字 があてられています。 http://www3.ocn.ne.jp/~fukiyo/math-osy/uranai.htm
>??「地天泰(ちてんたい)」というのは、天と地がひっくりかえっているので、たいへんなことがおきる・・・ということではありません。
>?? 物事は変化するのですから、上にある「地」は下にさがろうとするし、下にある「天」は上にあがろうとするのです。
>
> 桁ごとの重みの増え方を「基数」 http://docs.olab.org/XXX/netmemo/base.html
>
> 等脚台形のうち、底辺BCとADの長さも等しい場合は長方形となる。したがって長方形は等脚台形の特殊な形である。長方形とは、等脚台形であり、かつ平行四辺形でもある四角形だということができる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/等脚台形
>??2本の対角線の長さは互いに等しく、対角線の交点Eと上底にある頂点B,Cまでの距離はともに等しい。下底にある頂点A,Dに対しても同様である。 また、三角形EABと三角形EDCは合同な図形となり、対角線の交点Eから台形の脚AB,CDまでの距離は等しい。
>??等脚台形は円に内接する。つまり4本の辺それぞれの垂直二等分線は一点で交わる。
>??正六角形を最も長い対角線を境に2つに分割すると4本の辺のうち3本の長さが等しい等脚台形が得られる。
>
> 、「平行な2辺が軸(格子の線)に平行or軸と45°の角をなす等脚台形」は、 容易に それが等脚台形であることが分かります。 http://nadamath2012.web.fc2.com/program/kyouen2.html
>??8角形の8つの頂点から任意に4点をとると、
>??(1) その4点は「単純等脚台形」をなす
>??(2) その4点からさらに3点A,B,Cをうまく選ぶと、∠ABC = 90°となる
>??のどちらか少なくとも一方が必ず成り立ちます。
>??つまり、8角形は、「単純等脚台形」または「円周角・対角90°」に帰着されるのです。
>
> エケルト図法またはエッケルト図法とは、ドイツの地理学者マックス・エケルト(en:Max Eckert-Greifendorff)によって1906年に考案された6つの地図投影法の総称である。主に世界地図を描くために使用される。 http://ja.wikipedia.org/wiki/エケルト図法
>??エケルト第2図法[編集]
>??外形は第1図法と同じであるが、緯線の間隔を調節して正積になるようにしたものである。
>
> 符号化パターン及び緯度・経度をそれぞれ8 分割していき64分割した図を十進数(白抜き数字)と八進数(黒数字)で表した図です。 http://geopo.creco.net/intl/ja/developer/
>??ジオポの符号化方法ですが、こちらで紹介する方法以外にもアルゴリズム(8進数化してビット演算など)はあると思います。ここでは、一番わかりやすいアルゴリズムを紹介します。また、文字ではわかりにくいと思いますので、実際にいろいろな言語で実装したコードは、付録をご覧ください。
>

1834管理人:2013/12/11(水) 23:12:06
Re: 三角縁神獣鏡
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 陳の痕跡ですね。確かに秦野さんご指摘の陳寿というのは、どこから出てきた人なのか?
> なぜ半島や倭に詳しいのか?について考える必要はあると思います。どこまでせまれるかな?
>
> 中国史籍の内容と魏志倭人伝の内容は同一になるな。三角縁神獣鏡に陳の文字があるな。
>
> >陳 寿(ちん じゅ、建興11年(233年) - 元康7年(297年))は、三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。字は承祚(しょうそ)。『三国志』の著者である。自身の伝は『晋書』にある。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/陳寿
>
>


なるほど、陳寿については、もっと調べる必要がありますね。
蜀・益州方面には住んでいたことがあり、地理感があったのでしょう。ただ、半島や倭については、秦野さんのいうような陳寿の渡来はなかったようにも感じますね。あくまで伝聞記録を彼なりの知識と手段で編纂した。

特に諸葛亮集は彼の著作で、かなり倭人伝を考える上でも重要になってくるかもしれません。

http://www.epochtimes.com/b5/1/8/16/c3361.htm


ちょっと目につくところでは、

聞追豫州,輕騎一日一夜行三百餘里,此所謂‘強駑之末,勢不能穿魯縞’者也。

彼の用いた「里」の長さがわかるかもしれません。

降集氐、羌,興復二郡

の二郡、

故五月渡瀘,深入不毛。今南方已定,兵甲已足,當獎率三軍,北定中原,庶竭駑鈍,攘除奸凶,興復漢室,還于舊都。

特に、ここでは東西南北の方角観念ですね・

爰整六師,無?不征,神武赫然


神武


贈君丞相武?侯印綬,謚君為忠武侯。魂而有靈,嘉茲寵榮。

印綬

蜀破之明年春,厥、建?詣京都,




身高八尺

尺単位




1835荊の紀氏:2013/12/12(木) 14:55:33
Re: 三角縁神獣鏡
管理人さんへのお返事です。

> ちょっと目につくところでは、
>
> 聞追豫州,輕騎一日一夜行三百餘里,此所謂‘強駑之末,勢不能穿魯縞’者也。
>
> 彼の用いた「里」の長さがわかるかもしれません。


1里は1800尺??【里】田・・・(渾儀) ? 日影棒(土)ノーモン http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
『周髀算経』では、夏至の日の正午に、高さ8尺の髀(ノーモン、水ひ平な地面に垂直に立てた棒、図3(b)のHGやLK)の影の長さは1尺6寸(=1.6尺)であったが、そこから南へ千里のところでは影は1尺5寸であり、北へ千里のところでは影は1尺7寸であった、という観測結果から、南方に千里を行くごとに影が1寸ずつ短くなり、ついに南へ1万6千里を行ったところ(T)で影がなくなり、その真上に太陽(S)があるとしている(1里は1800尺)。
そして、そこ(T)から北へ1万6千里のところで、8尺の髀の影が1尺6寸であることから、相似三角形の比例関係(例えば△STMと△KLM)によって、太陽の高さ(TS)は8万里であるとした。
これは、図3(b)のように大地が平らであるなら、幾何学的には成り立つ。
なお、中国では度量衡は時代による変遷があるが、普通は漢の時代には1里は400mあまりとされている。
しかし、実際には千里(400kmあまり)を南北に移動すると、影の長さの変化はもっと大きくなるので、上記のデータは現実には合わない。
上記のデータで想定されている度量衡が違うものだったのかどうかはわからないが、以下では定性的な議論に止めたい。
さて、南北に離れて同時に影を測定したら長さが違うのは、本当は図3(a)のように地球が丸いからであって、古代ギリシャのエラトステネース(紀元前3世紀後半頃)は、このことから地球の大きさを推定したのであった。
しかし、大地が平面であるという前提に立てば、図3(b)のようになるわけである。
ここで、もし数値が正確であったら、図3(b)の天の高さはどの程度になるはずかを考えてみるのも興味深い。

ノーモンの用語解説 http://kotobank.jp/word/ノーモン
【中国天文学】より
…中国の歴史時代は殷王朝から始まったが,前1300年ごろからの甲骨文によると,当時すでに太陰太陽暦が行われていた。地面に垂直に立てた棒(ノーモン,中国では〈髀〉もしくは〈表〉という)が落とす太陽の影の長さを測り,冬至や夏至の日を決定し,1年の長さを知った。しかし当時採用された1年や1月の長さは確かめられていない。…
【天文学】より
…のちには正しい閏月挿入法が考案され,ギリシアの〈メトンMetōn法〉(前5世紀)と同じく,19年間に7回の閏月を挿入することが,西方諸国よりも早く知られたようである。観測器械としては地面に垂直棒を立ててその影を測る簡単な〈ノーモン〉が用いられ,これによって1年の長さが正確に求められるようになった。また若干の星座をみて季節の推移を知ることもできた。…
【時計】より
…太陽の動きにつれて木や岩などの影が長さと方向を変えていくことに気づき,これを時計として利用したものである。このような日時計の利用は前5000年ころのエジプトで始まったらしいが,やがて日影棒(ノーモンgnomon)と呼ばれる棒を地面に垂直に立てて日時計とするようになった。オベリスクの高い尖塔も日影棒として用いられたという説もある。…


1836秦野北斗:2013/12/12(木) 17:21:56
谷本茂氏による一寸千里の法の解法
谷本茂氏による一寸千里の法の解法は大きな間違いをしているな
間違いは、地球の半径を 6,370?として・・。この半径で距離は変化する
「周髀算経」当時の地球の半径を入れる必要がある。

半径が4000km・・48.4〜47.9km
半径が5000km・・60.5〜59.9km
半径が6000km・・72. 6〜71.9km
半径が7000km・・72. 6〜71.9km

谷本茂氏による一寸千里の法の解法

 周の地で棒が影を作る角度      tan-1 16/80=0.1974(rad)=11.3°
  南へ千里の地で棒が影を作る角度  tan-1 15/80=0.1853(rad)=10.6°
  北へ千里の地で棒が影を作る角度  tan-1 17/80=0.2094(rad)=12.0°

  北回帰線は北緯 23〜24°であるので、この計算からは周の地は北緯35°あたりにあることになる。
  古代の地図から、ちょうどこのあたりに周はあったはずなので場所は合っていることが確認できる。
  (それにしても記号の変換が上手く行かない。そのうちPDFにでも変えてやるか)

  ここで、地球の半径を 6,370?として、周の地から南へ千里行ったところまでの距離を求めてみる。
  6,370×(0.1974−0.1853)=77.1  千里=77.1Km
  次に周の地から北へ千里行ったところまでの距離を求めてみる。
  6,370×(0.2094−0.1974)=76.4  千里=76.4Km
 「周髀算経」は、西周の時代(紀元前1050年〜771年)、周の最盛期に成立したと伝えられる天文観測や数学について記された天文算術書。
  その内容は原始的な三角測量や部分的なピタゴラスの定理等が含まれ、

新古代学の扉 インターネット事務局より

従来の説から一寸千里の法をみれば、古代人の愚しさに映るであろうが、その内谷を真面目に検討することにより短里と巡り合うことができたと言えるであろう。私にとってこのささやかな経験は、古田氏が力説される「史料批判の重要性」を実感するに充分であった。

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku14/atogaki.html


1837秦野北斗:2013/12/12(木) 21:52:27
Re: 三角縁神獣鏡
荊の紀氏さんへのお返事です。

大宝律令の里は、呉(春秋)の里になる。1里は1500尺が正しいな。
1里は1500尺で1800尺は間違いですな。

> > ちょっと目につくところでは、
> >
> > 聞追豫州,輕騎一日一夜行三百餘里,此所謂‘強駑之末,勢不能穿魯縞’者也。
> >
> > 彼の用いた「里」の長さがわかるかもしれません。
>
>
> 1里は1800尺??【里】田・・・(渾儀) ? 日影棒(土)ノーモン http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
> 『周髀算経』では、夏至の日の正午に、高さ8尺の髀(ノーモン、水ひ平な地面に垂直に立てた棒、図3(b)のHGやLK)の影の長さは1尺6寸(=1.6尺)であったが、そこから南へ千里のところでは影は1尺5寸であり、北へ千里のところでは影は1尺7寸であった、という観測結果から、南方に千里を行くごとに影が1寸ずつ短くなり、ついに南へ1万6千里を行ったところ(T)で影がなくなり、その真上に太陽(S)があるとしている(1里は1800尺)。


1838荊の紀氏:2013/12/13(金) 16:12:15
Re: 三角縁神獣鏡
秦野北斗さんへのお返事です。

> 彼の用いた「里」の長さ?
・・・大地が平らであるなら


図3(b)のように大地が平らであるなら、幾何学的には成り立つ。
なお、中国では度量衡は時代による変遷があるが、普通は漢の時代には1里は400mあまりとされている。
しかし、実際には千里(400kmあまり)を南北に移動すると、影の長さの変化はもっと大きくなるので、上記のデータは現実には合わない。
上記のデータで想定されている度量衡が違うものだったのかどうかはわからないが、以下では定性的な議論に止めたい。
さて、南北に離れて同時に影を測定したら長さが違うのは、本当は図3(a)のように地球が丸いからであって、古代ギリシャのエラトステネース(紀元前3世紀後半頃)は、このことから地球の大きさを推定したのであった。


当時の1里はおよそ533.5m・・・約600メートル 米升法とものさし
投稿日:2013年12月13日(金)13時07分50秒
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs
古代の条里制の 1条里(本来の1坪) 日本では6が重視
投稿日:2013年12月13日(金)14時08分28秒

> 1里は1800尺??【里】田・・・(渾儀) ? 日影棒(土)ノーモン http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?




1839管理人:2013/12/13(金) 23:31:59
Re: 三角縁神獣鏡
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > ちょっと目につくところでは、
> >
> > 聞追豫州,輕騎一日一夜行三百餘里,此所謂‘強駑之末,勢不能穿魯縞’者也。
> >
> > 彼の用いた「里」の長さがわかるかもしれません。
>
>
> 1里は1800尺??【里】田・・・(渾儀) ? 日影棒(土)ノーモン http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
> 『周髀算経』では、夏至の日の正午に、高さ8尺の髀(ノーモン、水ひ平な地面に垂直に立てた棒、図3(b)のHGやLK)の影の長さは1尺6寸(=1.6尺)であったが、そこから南へ千里のところでは影は1尺5寸であり、北へ千里のところでは影は1尺7寸であった、という観測結果から、南方に千里を行くごとに影が1寸ずつ短くなり、ついに南へ1万6千里を行ったところ(T)で影がなくなり、その真上に太陽(S)があるとしている(1里は1800尺)。
>


先の「諸葛亮集」の「輕騎一日一夜行三百餘里」の記載によれば、馬で1日は走り続けてたどり着く距離範囲内と言えそうですね。

ということは、通常の長里で1000里=410KMとすると、300里=130KM前後でしょうか。

馬の時速が30KMとしても、4時間分、なんとも難しいところですね。馬って130KMも1日で走れるのかな?

汗血馬は500KM走ったらしいですが、下記の回答だと80KM前後がせいぜいのようです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1135358261


短里で考えてさらに8分の1で、15km前後まら、馬なら1日かからないでしょうね。ちょっと短い。

陳寿がこの書物を書いたと確定できれば、おそらく彼は魏志倭人伝にもその尺度を使った可能性があるわけです。ま、この馬の距離計算からいけば、長里の可能性が高いですね。

ただし、倭人や半島人、元楽浪・帯方関連の距離記録を、陳寿がそのまま引用した場合は、短里の可能性もでてきます。

つまり、陳寿は短里計算の尺度記録を、現地人から受け取って、そのまま長里だと思い込んだまま、倭や半島世界を想像したので、台湾方面まで伸びている国だと勘違いした可能性がでてくるわけですね。


1840秦野北斗:2013/12/14(土) 00:43:26
Re: 三角縁神獣鏡
管理人さんへのお返事です。

根本に間違いがあるな。

貝塚茂樹らは尺(cm) ×1800を里(m)としておるな。

度量衡は朝廷が公布するもので、時代とともに変遷する。『角川漢和中辞典』(貝塚茂樹ほか)巻末の度量衡表を引く。

王朝周 秦・漢魏 隋 唐
尺(cm)22.5 23.04 24.12 29.51 31.1
丈(m)2.25 2.304 2.412 2.951 3.11
歩(m)1.35 1.3824 1.4472 1.7706 1.555
里(m)405 414.72 434.16 531.18 559.8

http://www.mctv.ne.jp/~kawai/old/log/note2012/20121130.html

22.5 cm×1800=405 m
23.04 cm×1800=414.72 m
24.12 cm×1800=434.16m
23.04 cm×1800=414.72 m
31.1 cm×1800=559.8m

だが、大宝律令には小尺と大尺があり、また里もあるな

35.6 cm×1500=533.5 m
29.6 cm×1500=444 m

が対応するなら、貝塚茂樹は

29.6 cm(小尺)×1800=533.5 m(大里)
1500×1.2=1800
×1800取り間違い

また、『梁書』倭国伝から周の尺(cm)には2種類あり、22.5(cm)は35.6、29.6(cm)になるな。
貝塚茂樹のほころびですな。推測だが里は約400m、500mになるな。

中国史籍は約500mが一致するな。尚、中国史籍は短里(里の十分の一) 約50mを使用。

三角縁神獣鏡の尺は両者の比に該当しないため、尺のひと回り小さい23(cm)にした。が結論。

周 秦・漢 魏 の里は間違いですな。どうせ、鏡の数値を入れたのだろうな。


『梁書』倭国伝
 倭者、自云太伯之後。俗皆文身。去帶方萬二千餘里、大抵在會稽之東、相去絶遠。

 倭とは、自らは太伯の後裔だという。俗は皆、身体に刺青をする。帯方郡から一万二千余里、おおよそ会稽郡の東に在り、互いに絶海の遠方である。

??秦野訳:秦野著書(徐福と邪馬台国)参照

 倭者は自らは太伯の後裔だという。俗は皆、身体に刺青をする。帯方郡(江華島)から一万二千余里
 (約600km、秦野距離で640km)狗耶韓国(釜山)の遠方、おおよそ会稽郡(上海)の東、絶海の遠方
 日本列島に在り。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun4-ryosho.htm

周(しゅう、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)
呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)

古代中国の周は呉(春秋)を含むので大宝律令の尺は呉(春秋)の尺と思われるな。

大宝律令の尺

約35.6 cm(大尺)
約29.6 cm(小尺)(小尺一尺二寸=大尺一尺)

大宝律令    隋(晋)尺=(小尺)
35.6 cm(大尺)÷1.2=29.6 cm(小尺)
35.6 cm÷1.2=29.6 cm

大宝律令里

533.5 m(大里)÷1.2=444 m(小里)

35.6 cm×1500=533.5 m
29.6 cm×1500=444 m



> 聞追豫州,輕騎一日一夜行三百餘里,此所謂‘強駑之末,勢不能穿魯縞’者也。

三百餘里は短里(里の十分の一) 約50mの15kmですな。

50m×300=15000m=15km


管理人さん15km・・・さすが。ですな。


> > > ちょっと目につくところでは、
> > >
> > > 聞追豫州,輕騎一日一夜行三百餘里,此所謂‘強駑之末,勢不能穿魯縞’者也。
> > >
> > > 彼の用いた「里」の長さがわかるかもしれません。
> >
> >
> > 1里は1800尺??【里】田・・・(渾儀) ? 日影棒(土)ノーモン http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
> > 『周髀算経』では、夏至の日の正午に、高さ8尺の髀(ノーモン、水ひ平な地面に垂直に立てた棒、図3(b)のHGやLK)の影の長さは1尺6寸(=1.6尺)であったが、そこから南へ千里のところでは影は1尺5寸であり、北へ千里のところでは影は1尺7寸であった、という観測結果から、南方に千里を行くごとに影が1寸ずつ短くなり、ついに南へ1万6千里を行ったところ(T)で影がなくなり、その真上に太陽(S)があるとしている(1里は1800尺)。
> >
>
>
> 先の「諸葛亮集」の「輕騎一日一夜行三百餘里」の記載によれば、馬で1日は走り続けてたどり着く距離範囲内と言えそうですね。
>
> ということは、通常の長里で1000里=410KMとすると、300里=130KM前後でしょうか。
>
> 馬の時速が30KMとしても、4時間分、なんとも難しいところですね。馬って130KMも1日で走れるのかな?
>
> 汗血馬は500KM走ったらしいですが、下記の回答だと80KM前後がせいぜいのようです。
> http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1135358261
>
>
> 短里で考えてさらに8分の1で、15km前後まら、馬なら1日かからないでしょうね。ちょっと短い。
>
> 陳寿がこの書物を書いたと確定できれば、おそらく彼は魏志倭人伝にもその尺度を使った可能性があるわけです。ま、この馬の距離計算からいけば、長里の可能性が高いですね。
>
> ただし、倭人や半島人、元楽浪・帯方関連の距離記録を、陳寿がそのまま引用した場合は、短里の可能性もでてきます。
>
> つまり、陳寿は短里計算の尺度記録を、現地人から受け取って、そのまま長里だと思い込んだまま、倭や半島世界を想像したので、台湾方面まで伸びている国だと勘違いした可能性がでてくるわけですね。
>


1841秦野北斗:2013/12/14(土) 21:01:21
Re: 三角縁神獣鏡
荊の紀氏さんへのお返事です。

キュビトはもっと身近なものですぞ。

キュビト
それ以外の多くの西洋の文化も、キュビットは使われた。ペルシャのキュビットは 52〜64 cm、古代ギリシャでは π?χυς(pechys; ペーキュス)と呼ばれ約 47.4 cm、古代ローマでは cubitus と呼ばれて約 44.46 cm、アラブでは arsh と呼ばれて 48〜64 cm であった。ユダヤでは ??????(アマ)と呼ばれて 46〜61 cm であるが、これは今日でもユダヤ教で用いられている。
古代イスラエルでは、第一神殿時代のキュビットは 428 mm であった。第二神殿時代には、一般的には 445 mm のキュビットが使われていたが、宗教的な目的には 437 mm のキュビットが使用されていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/キュビット

エジプトスタディオン157.5
250,000スタディアの地球周長を意味し
250000×157.5=39375000

アッティカスタディオン185
緯度1度が111km:185.185 ×60
185 ×60×60×60 =39960000

アッティカスタディオンとエジプトスタディオンの比
185÷157.5=1.175≒1.2

53.4cm(ペルシャキュビット)÷1.2=445 mm=44.5 cm(一般的キュビット)
????????????????????????????????????????????44.46 cm(古代ローマキュビト)

ペルシャのキュビットは 52〜64 cmから53.4cm(ペルシャキュビット)は妥当。

大宝律令里とキュビットの比は1000:1になるな。
533.5 m(大里)÷1.2=444 m(小里)


> > 彼の用いた「里」の長さ?
> ・・・大地が平らであるなら
>
> 図3(b)のように大地が平らであるなら、幾何学的には成り立つ。
>??なお、中国では度量衡は時代による変遷があるが、普通は漢の時代には1里は400mあまりとされている。
>??しかし、実際には千里(400kmあまり)を南北に移動すると、影の長さの変化はもっと大きくなるので、上記のデータは現実には合わない。
>??上記のデータで想定されている度量衡が違うものだったのかどうかはわからないが、以下では定性的な議論に止めたい。
>??さて、南北に離れて同時に影を測定したら長さが違うのは、本当は図3(a)のように地球が丸いからであって、古代ギリシャのエラトステネース(紀元前3世紀後半頃)は、このことから地球の大きさを推定したのであった。
>
>
> 当時の1里はおよそ533.5m・・・約600メートル 米升法とものさし
>??投稿日:2013年12月13日(金)13時07分50秒
> http://8906.teacup.com/toraijin/bbs
> 古代の条里制の 1条里(本来の1坪) 日本では6が重視
>??投稿日:2013年12月13日(金)14時08分28秒
>
> > 1里は1800尺??【里】田・・・(渾儀) ? 日影棒(土)ノーモン http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
>
>
>


1842管理人:2013/12/14(土) 23:16:39
Re: 三角縁神獣鏡
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>

> だが、大宝律令には小尺と大尺があり、また里もあるな
>
> 35.6 cm×1500=533.5 m
> 29.6 cm×1500=444 m
>
> が対応するなら、貝塚茂樹は
>
> 29.6 cm(小尺)×1800=533.5 m(大里)
> 1500×1.2=1800
> ×1800取り間違い
>

> 周(しゅう、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)
> 呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)
>
> 古代中国の周は呉(春秋)を含むので大宝律令の尺は呉(春秋)の尺と思われるな。
>
> 大宝律令の尺
>
> 約35.6 cm(大尺)
> 約29.6 cm(小尺)(小尺一尺二寸=大尺一尺)
>
> 大宝律令    隋(晋)尺=(小尺)
> 35.6 cm(大尺)÷1.2=29.6 cm(小尺)
> 35.6 cm÷1.2=29.6 cm
>
> 大宝律令里
>
> 533.5 m(大里)÷1.2=444 m(小里)
>
> 35.6 cm×1500=533.5 m
> 29.6 cm×1500=444 m
>


尺が2つある理由という部分が重要ですね。つまり前王朝の時代の尺度が、どうしても過去の大工道具とか、いろいろな物差しで使う必要があって、新しい尺度に変化しきれてない場合に、2つの尺度を同時併用することになったのだろうと思います。

確かに秦野さんのご指摘のとおり、2種の尺度が大宝律令にあることは、そのことと関係するでしょう。
まだ唐が成立して新しい尺度が導入されたものの、過去の古いのを日本でも残す必要があったということですね。

逆に言えば、隋代から日本には里や尺が導入されていたということでしょう。唐人が渡来してきてはじめて新しい尺度が導入された。

つまり高麗尺とかも含めて、いろいろあったわけですね。


それでなぜ日本独自の尺を造ろうとしなかったのか?が課題です。

ひとつは渡来系技術者の問題。つまり祖国の技術・道具をそのまま使用して設計・構築する必要があったのでしょう。

ただ、その前のプレ渡来人の時代に、以前お話したように三角縁神獣鏡の径をもって尺として利用しながら、各種の方位区画を構築して地図測量を行っていた経緯がありました。

その時代の尺度を、渡来人はほとんど切り捨てた、そんなふうに見えるんですね。
2つ併用する時代があったかどうか?ここも課題なのですが、古墳づくりの尺度をみれば、同時併用時期、おそらくあるとすれば、4世紀半ば〜末期、この辺ですね。その辺を調査する必要があります。

方位区画面では、最後の4世紀半ばの鴨津波古墳あたりを結ぶ正方位の三角縁の尺の区画を最後に、11・1km尺に変遷していき、さらに屯倉関連の尺度へ、そしてプレ律令時代のそれへと変遷していくわけですね。


ここで尺併用という概念を用いる必要が出てきそうですが、周尺とその後の尺、呉・南方系と、北方系のそれ、その辺の問題ですね。

それが、魏志倭人伝の短里にも当てはまっていたとするならば、そもそも長里の8分の1の短里を用いたのは誰だったのか?、ここが課題になってきます。

8進数で1繰り上げる概念ですね。8短里で1長里にする。


8進数は人間界にも存在した!

 ところで、8進数はコンピュータ独特のものと思っていたら、WikipediaのOctalの項には、なんとアメリカやメキシコの一部では実際に8進数が使われていると書かれています。しかも、その由来は「指を数える」のではなく「指の股を数える」のだからだそうです。なるほど!(笑)
http://blogs.itmedia.co.jp/pina/2006/06/8_bf7b.html


ヤードが16進数で、2、4、8が関わってきますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

元はダブルキュビト、
http://ja.wikipedia.org/wiki/


キュビット体系がおもしろいですね。523.5〜524 mm
http://ja.wikipedia.org/wiki/

これがつまり長里405〜15の8分1、51〜2と関係してくる。

古代エジプト、ペルシャの尺体系

初期のピラミッドは、イスラエルの技術者と関係しているはずなのですが、その時代のそれなんですよね。以前ご紹介したDNaの流れに対応していきます。エジプト・イスラエル方面から、スキタイ、半島、倭へとながれていくあれです。一部はマヤ方面へと向かう。


それが、ある時期にペルシャやおそらくは遊牧民スキタイなどへと流れて行く。その過程で古代中国や半島方面へとながれていき、各種に器物が方位区画測量をしていった。その名残で、27.5や52の尺度が頻繁に半島や倭の弥生後期のそれに見えて来る、その辺なんとも難しいですがね。



1843秦野北斗:2013/12/15(日) 06:51:14
Re: 三角縁神獣鏡
管理人さんへのお返事です。

>  ところで、8進数はコンピュータ独特のものと思っていたら、WikipediaのOctalの項には、なんとアメリカやメキシコの一部では実際に8進数が使われていると書かれています。しかも、その由来は「指を数える」のではなく「指の股を数える」のだからだそうです。なるほど!(笑)

8進数にこだわるな。8進数であるなら、四則演算も8進数で行うのが必須ですぞ。
四則演算が10進数で表記が8進数、コンピュータ独特と言っているが進数を合わせるのが
数学の基本ですぞ。大丈夫ですかな。

「指の股を数える」ですか、割り算はどうやるのかな。
8進数で表記なら中国史籍の1万2千里は10進数で幾らですかな。

> それが、ある時期にペルシャやおそらくは遊牧民スキタイなどへと流れて行く。その過程で古代中国や半島方面へとながれていき、各種に器物が方位区画測量をしていった。その名残で、27.5や52の尺度が頻繁に半島や倭の弥生後期のそれに見えて来る、その辺なんとも難しいですがね。

先入観
http://ja.wikipedia.org/wiki/先入観

先入観では古代史は読めませんぞ。古代には船があり、交易があった。それが、知られる
一つがアトランテス、また、船の記録もノアの方舟、・・・。海の道ですな。
日本もその一つですな。

アトランテス
http://ja.wikipedia.org/wiki/アトランティス

ノアの方舟
http://ja.wikipedia.org/wiki/ノアの方舟


> ここで尺併用という概念を用いる必要が出てきそうですが、周尺とその後の尺、呉・南方系と、北方系のそれ、その辺の問題ですね。
>
> それが、魏志倭人伝の短里にも当てはまっていたとするならば、そもそも長里の8分の1の短里を用いたのは誰だったのか?、ここが課題になってきます。
>
> 8進数で1繰り上げる概念ですね。8短里で1長里にする。
>
>
> 8進数は人間界にも存在した!
>
>  ところで、8進数はコンピュータ独特のものと思っていたら、WikipediaのOctalの項には、なんとアメリカやメキシコの一部では実際に8進数が使われていると書かれています。しかも、その由来は「指を数える」のではなく「指の股を数える」のだからだそうです。なるほど!(笑)
> http://blogs.itmedia.co.jp/pina/2006/06/8_bf7b.html
>
>
> ヤードが16進数で、2、4、8が関わってきますね。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>
> 元はダブルキュビト、
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>
>
> キュビット体系がおもしろいですね。523.5〜524 mm
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>
> これがつまり長里405〜15の8分1、51〜2と関係してくる。
>
> 古代エジプト、ペルシャの尺体系
>
> 初期のピラミッドは、イスラエルの技術者と関係しているはずなのですが、その時代のそれなんですよね。以前ご紹介したDNaの流れに対応していきます。エジプト・イスラエル方面から、スキタイ、半島、倭へとながれていくあれです。一部はマヤ方面へと向かう。
>
>
> それが、ある時期にペルシャやおそらくは遊牧民スキタイなどへと流れて行く。その過程で古代中国や半島方面へとながれていき、各種に器物が方位区画測量をしていった。その名残で、27.5や52の尺度が頻繁に半島や倭の弥生後期のそれに見えて来る、その辺なんとも難しいですがね。
>
>


1844荊の紀氏:2013/12/15(日) 11:00:35
Re: 三角縁神獣鏡
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> >  ところで、8進数はコンピュータ独特のものと思っていたら、WikipediaのOctalの項には、なんとアメリカやメキシコの一部では実際に8進数が使われていると書かれています。しかも、その由来は「指を数える」のではなく「指の股を数える」のだからだそうです。なるほど!(笑)
>
> 8進数にこだわるな。8進数であるなら、四則演算も8進数で行うのが必須ですぞ。
> 四則演算が10進数で表記が8進数、コンピュータ独特と言っているが進数を合わせるのが
> 数学の基本ですぞ。大丈夫ですかな。
>
> 「指の股を数える」ですか、割り算はどうやるのかな。
> 8進数で表記なら中国史籍の1万2千里は10進数で幾らですかな。
>
> > それが、ある時期にペルシャやおそらくは遊牧民スキタイなどへと流れて行く。その過程で古代中国や半島方面へとながれていき、各種に器物が方位区画測量をしていった。その名残で、27.5や52の尺度が頻繁に半島や倭の弥生後期のそれに見えて来る、その辺なんとも難しいですがね。
>
> 先入観
> http://ja.wikipedia.org/wiki/先入観
>

八咫 鏡 は 円周 8 咫 、 すなわち 径 2 尺
「長:幅:高=30:5:3」の比率は、現在のタンカーなどの大型船を造船する際に、最も安定しているといわれる比率とほぼ同じとなる。

ノア伝説とアホラ・ゴルジェ http://hachi-style.jugem.jp/?eid=64
ノアの方舟が着いた場所はアララト山山頂(現在のトルコ共和国東端の標高5.165mの山)、もしくは山腹。洪水は西暦前2370年(紀元前3000年頃とも)に起こったとされる。方舟のサイズは長さ300キュビト(133.5m)、幅50キュビト(22.2m)、高さ30キュビト(13.3m)とあり(1キュビト=約44.5cmとして換算)この「長:幅:高=30:5:3」の比率は、船が最も安定する「黄金比」とほぼ同比率。一般的に、『聖書』の内容は伝説であると考えられているが『創世記』を伝承した人々は海上での長さ100m以上の船の安定比率を知っていたと思える。
66
、「1/5の7進法展開は如何?」ということが話題になった。 http://www004.upp.so-net.ne.jp/s_honma/p-exp/p-exp.htm
私は、頭の中で、上記のように、1/5=0.2を順次7倍して整数部分をつなげて、
  0.12541254・・・・
を得たが、飯高先生は次のような別解を紹介された。
 1は5で割れないから0がたち、0を補って10(7進数)とする。これは十進法で7で、5で割
ると1がたち2余る。
 20(十進法で14)として5で割ると2がたち4余る。
 40(十進法で28)として5で割ると5がたち3余る。
 30(十進法で21)として5で割ると4がたち1余る。以下、繰り返しとなる。
 従って、1/5の7進法展開は、 0.12541254・・・・
 さらに、飯高先生は、次のような性質も面白いと紹介された。
 1/5の7進法展開の循環節 1254 を2と5の間で2つの数12と54に分け足してみると、
   12+54=66
となる。ここで、6は、6=7−1からくる。十進法展開で、1/7の循環節は、142857 であ
るが、これも、 142+857=999 (9=10−1) となり、同じ現象である。
(→ 参考:「循環小数の不思議」)

111
1、2、・・・・ と並んでいる数列で、数字の「4」、「9」が使われているときは、
 その整数は飛ばして数えるものとする。
  最初から数えて400番目の整数は何だろうか?
 この問題を考えるために、下表のような十進法の数字と8進法の数字の対応を考える。
      十進法の数字 1 2 3 5 6 7 8 0
8進法の数字 1 2 3 4 5 6 7 0
400 を8進法で表せば、620 である。これを上表の対応する数字に置換すると、求める
整数は、720 となる。
(コメント) p 進数の意外というか、真の使い方を知って感動しました。2進法は、十進法の
      数字の 2〜9 を「飛ばしたもの!」という発想がとても新鮮です。
(追記) 平成20年12月31日付け
  0 と 1 のみを使って出来る2進法の整数列
   1 、10 、11 、100 、101 、110 、111 、 ・・・

10進法の111を8進法で表すと
8*2×1+8*1×5+8*0×7となります
つまり157です
普段の10で繰り上げてるのを8で繰り上げるというのだと難しいですが、100の位は64の位、10の位は8の位、といった具合にとらえるとわかりやすいかもしれません、つまり111は、64が1個、出来るだけ桁を使わないように8が5個、1が7個と見る感じです(笑) http://blog.livedoor.jp/jyoso_blogg-1203/archives/32186158.html

七男一女
>牛頭天王
牛頭天王(ごずてんのう)は、日本の神仏習合における神。京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座する神であり、蘇民将来説話の武塔天神と同一視された。インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、祇園神という祇園信仰の神である。陰陽道では天道神と同一視された。神仏習合では薬師如来の垂迹であるとともに、スサノオの本地とされた。現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/牛頭天王
8年  七男一女
龍宮へ赴いた牛頭天王は、沙竭羅の三女の婆利采女を娶り、8年をそこで過ごすあいだに七男一女の王子(八王子)をもうけた。

牛頭天王は武塔神とも称され、スサノオと同一視されたうえで富貴な兄の巨旦将来と貧しい弟蘇民将来の説話を記している。それに対し、『先代旧事本紀』ではオオナムチノミコト(大国主)の荒魂が牛頭天王であると解説する[4]。
また、平安時代末期に成立した『伊呂波字類抄』(色葉字類抄)では、牛頭天王は天竺の北にある「九相国」の王であるとしている[4]。
八坂
八咫 鏡
八尋??8
八神はやて ? 八神ひろき ? 八神庵 ? 八神千歳 ? 八進細分記号 ? 八進数 ? 八 進法 ? 八尋 ? 八尋殿 ? 八寸 ? 八姓 ? 八正道 ? 八聖道 ? 八切 ? 八仙 ? 八仙飯店之人肉 饅頭 ...
日本 の 八咫 鏡 は 円周 8 咫 、 すなわち 径 2 尺 と い う 意味 で あ る 。

八岐の大蛇
8 又 ヤマタ
「指の股を数える」
>  ところで、8進数はコンピュータ独特のものと思っていたら、WikipediaのOctalの項には、なんとアメリカやメキシコの一部では実際に8進数が使われていると書かれています。しかも、その由来は「指を数える」のではなく「指の股を数える」のだからだそうです。なるほど!(笑)
> http://blogs.itmedia.co.jp/pina/2006/06/8_bf7b.html
>




1845秦野北斗:2013/12/15(日) 18:08:02
Re: 三角縁神獣鏡
荊の紀氏さんへのお返事です。


八咫鏡(やたのかがみ)直径2尺(46cm 前後)で尺は23 cm

三角縁同向式神獣鏡(島根県大原郡加茂町 神原神社古墳)が23 cmですな。
景初三年(239年)陳是作鏡と同尺になるのかな。八咫鏡は陳是作鏡ですかな。
それとも、新作明竟・・・銅出徐州。八岐の大蛇は景初三年に居た、創られた?
さあ、アマテラス・・・。アマテラスが古事記の卑弥呼・・?。

http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html

角川漢和中辞典』(貝塚茂樹ほか)巻末の度量衡表を引く。で・・。
確か、時代で尺の大きさが異なるのだな。
王朝 周  秦・漢 魏  隋  唐
では尺23 cmは景初三年になり、八咫鏡(やたのかがみ)は魏のものになる・・。
ノア伝説、「長:幅:高=30:5:3」、8進法はどう関係ある?

八咫鏡
『古事記』では、高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて鍛造させたと記されている。 『日本書紀』には、別の名を真経津鏡(まふつの かがみ)ともいうと記されている。単に神鏡(しんきょう)または宝鏡(ほうきょう)とよばれることも多いが「神鏡」や「宝鏡」という言葉は普通名詞であり、八咫鏡だけをさすとは限らないので注意が必要である。 咫(あた)は円周の単位で、0.8尺である。径1尺の円の円周を4咫としていた。したがって「八咫鏡」は直径2尺(46cm 前後)の円鏡を意味するが、桶代(御神体の入れ物)の大きさから考えてもっと小さいはずであり、「八咫(やた)」は単に「大きい」ということを表しているだけで具体的な数値ではないという説もある。
本来は祭祀に用いる鏡を表す一般名詞であったものが、後に三種の神器の一つである鏡を指す固有名詞になったと考えられている。八咫鏡は伊勢神宮のものと皇居のもの(形代)との2つがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/八咫鏡



1846荊の紀氏:2013/12/15(日) 21:33:41
Re: 三角縁神獣鏡
秦野北斗さんへのお返事です。

> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
>
> 八咫鏡(やたのかがみ)直径2尺(46cm 前後)で尺は23 cm
>
> 三角縁同向式神獣鏡(島根県大原郡加茂町 神原神社古墳)が23 cmですな。
> 景初三年(239年)陳是作鏡と同尺になるのかな。八咫鏡は陳是作鏡ですかな。
> それとも、新作明竟・・・銅出徐州。八岐の大蛇は景初三年に居た、創られた?
> さあ、アマテラス・・・。アマテラスが古事記の卑弥呼・・?。
>
> http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
>
> 角川漢和中辞典』(貝塚茂樹ほか)巻末の度量衡表を引く。で・・。
> 確か、時代で尺の大きさが異なるのだな。
> 王朝 周  秦・漢 魏  隋  唐
> では尺23 cmは景初三年になり、八咫鏡(やたのかがみ)は魏のものになる・・。
> ノア伝説、「長:幅:高=30:5:3」、8進法はどう関係ある?

「九字」は禹歩(うほ) 二進法の 3 桁を八進法の 1 桁
秦氏はゲマトリア的手法によって、8を多くの神社名や神名につけていった
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
67を2進法であらわした数78を5進法であらわした数3852を8進法で ...
shiritaioshietai2012さん. 5進数は、1桁目が5^0=1、2桁目が5^1=5、3桁目が5^2= 25、4桁目が・・・、の倍数を表します。 ですから、十進数を25や5や1・・・で割り込んで商 と余りを算出します。商が0の時は、その桁が0になります。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1297316442
5進数は、1桁目が5^0=1、2桁目が5^1=5、3桁目が5^2=25、4桁目が・・・、の倍数を表します。
ですから、十進数を25や5や1・・・で割り込んで商と余りを算出します。商が0の時は、その桁が0になります。
78の場合は、
25で割ると、3余り3。
余りの3を5で割ると、0余り3。
余りの3を1で割ると、3余り0。
なので、「3」「0」「3」となります。
(4桁目は、5^3=125で割る事になるので、0です。)

4 o 4 10 14 20 24 30 34
6 0 6 14 22 30 36 44 52

八進記数法とは、8 を底とする位取り記数法である。慣用に従い、通常のアラビア数字は十進数とし、八進記数法の表記は括弧および下付の 8 で表す。八進記数法で表された数を八進数と呼ぶ。
例えば十進法の 100 は、
100 = 1×82 + 4×81 + 4×80 = (144)8
となり、逆に
(100)8 = 1×82 + 0×81 + 0×80 = 64
となる。 二進法の 3 桁を八進法の 1 桁で表現できるため二進数を人間に分かりやすく記述するのに適している。しかし初期の一部のコンピュータを除いて 1 バイトは 8 ビットであり、 8n 桁 (n は整数、例えば 32 桁や 64 桁) の二進数を扱うことが多いため、二進数の 4 桁を 1 桁で表す十六進数のほうが表記が分かりやすく、頻繁に使われる。C や Perl などでは、数の前に 0 を付けると八進数と見なされる。例えば 011 は 11 ではなく (11)8 すなわち 9 である。
9
9=11(8) 9^2=121(8) 243(8)=2*121+1=201(9) // 1001011(2)=113(8)=10*11+3=83 (9) http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10117191575

9進法 では 9 で桁上がりするので上記の数は、右端から 13= 9 + 4、 11 = 9 + 2、 13 = 9 + 4 で、 桁上げは、9 が 各々 1 として桁上する(上位に ... 九の位は繰り上がってくる1 も加えて、4+7+1=13で、八十一の位に1繰り上がります。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1032615335
9
九星・気学(きゅうせい・きがく)とは、生れた年月日の九星と干支、五行を組合わせた占 術。方位の吉凶を知るために使われることが多い。九星術を元に明治42年に園田 真次郎が気学としてまとめたものと、それ以前の九星術と合わせて九星・気学と総称 される。 http://ja.wikipedia.org/wiki/九星気学
九星の循環[編集]
日時の九星の九星の循環には幾つかの異説があるが、年月の九星についてはその循環のさせ方がほぼ固まっている。年については180年を一つの周期としている。180年の最初の干支は甲子で、干支の周期である60年を一つのくくりとして、上元、中元、下元に分けられている。最も近い上元は1864年から始まっており、2008年現在は下元であり、一白の年である。上元の甲子年を一白として、九紫、八白と星についている数字が減るように循環させて行く。この数が減る循環のさせ方を陰遁とよんでいる。
月の九星の循環のさせ方は、年でいう上元甲子年の九星術における正月である丙寅月を八白として陰遁させる。
1年は12ヶ月であり、12と9の最小公倍数が36であるので、月の九星の循環は3年を一つの周期としている。

5,8,13を それぞれ単数化 ... 金星の13公転 225X13=2920(+5)日 地球の5公転 365X8= 2920(+2)日 2星の8会合 584X5=2920 日 月の99朔望日 ... http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1005
ゲマトリア(ユダヤ起源の数秘術)、5,8,13をそれぞれ単数化すると5,8,(1+3=)4となり、この3数から584という数を得ることができる。
金星と地球の会合周期は584日だ。
5,6,7のバリエーションの5,8,13という数が、地球と金星と太陽との間の関係において、明白に現れているのは誰の目にも明らかだろう。
なおこの間に月は99回朔望する。
つまり初日が満月だったら、地上から私たちは100回の満月を見る期間であるということなのだ。
金星の13公転 225X13=2920(+5)日
地球の5公転 365X8=2920(+2)日
2星の8会合 584X5=2920 日
月の99朔望日 29.5X99=2929(+0.5)日

10進法の30を2進法に変換したら何になりますか? ... http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1412331124
30から求める時は、元の数を2で割って商が0になるまで繰り返した時の余りから出します。
30/2=15...0
15/2=7...1
7/2=3...1
3/2=1...1
1/2=0...1

4/8というような表記はせずに約分して1/2と書くが、読みは4分(よんぶ)と8進法。 1分 は1/8 ... 単位とする4進法。 ここまでの例で考えると、ヤード・ポンド制は4を基本数 として、公差4の8、12、16、20と位取り法が展開しているように思える。 http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/49267/48442/61846108

、「周尺の八寸を咫とし、十寸を尺とする」とある。この「周」とは円周のことであり、咫とは円周の単位であった。円周率は約 3.14 であるが、これを 3.2 で近似すると、径 1 尺の円の円周は 3.2 尺となり、これを 4 咫とした[1]。従って 1 咫は 0.8 尺である。
日本の八咫鏡は円周 8 咫、すなわち径 2 尺という意味である。後漢の尺は 23.04cm であるから、直径 46cm 前後の円鏡を指し、現在 4 枚の出土例がある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/

「アタ」に は「来る」の意味 http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=171
回り来る!



1847管理人:2013/12/15(日) 23:02:55
Re: 三角縁神獣鏡
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> > 荊の紀氏さんへのお返事です。
> >
> >
> > 八咫鏡(やたのかがみ)直径2尺(46cm 前後)で尺は23 cm
> >


八咫鏡の件は、もう少し掘り下げてみたいですね。

「神鏡」や「宝鏡」という言葉は普通名詞であり、八咫鏡だけをさすとは限らないので注意が必要である。 咫(あた)は円周の単位で、0.8尺である。径1尺の円の円周を4咫としていた。したがって「八咫鏡」は直径2尺(46cm 前後)の円鏡を意味する[2]が、桶代(御神体の入れ物)の大きさから考えてもっと小さいはずであり、「八咫(やた)」は単に「大きい」ということを表しているだけで具体的な数値ではないという説もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


しかし、なぜ46cm鏡を2尺鏡と言わなかったんでしょうね。わざわざ八咫鏡という表現を使う理由がわかりません。

ただ、その解決案としては、円周部分を利用していたということです。

つまり銅鏡の円周をひとつの定規単位としていたので、咫が重要視されたということでしょう。

昨年論議したように、銅鏡の円周を数回回転させることで、一定の長さの尺単位を造り出していたんですね。
秦野さん曰くロードメーター、そういう類いでしょう。

銅鏡の用途が、そもそも定規と分度器と尺単位の提供にあったので、そういう八咫の名が残ったと考えるのが筋ですね。

八咫と四咫鏡では、電車の車輪が2倍違うようなもので、より大きな距離を造り出す、測量するのに八咫鏡が特注されたとかんがえるとどうなるか?

この銅鏡の径は古墳の径とも対応している事も会報で論じたとおりなのですが、2倍尺の定規をつかえば、同じ設計図でも2倍の大きさの古墳ができるのかもしれません。1・5倍なら、1・5倍の定規を使う・・。



1848荊の紀氏:2013/12/16(月) 08:03:15
Re: 三角縁神獣鏡
管理人さんへのお返事です。

御世話様になって居ります
申し訳御座いませんが これから 加齢のため入院します、
帰りましたら、考えさせていただきます。
4〜5日 休みます ヨロシク。

1849管理人:2013/12/16(月) 08:34:32
Re: 三角縁神獣鏡
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 御世話様になって居ります
> 申し訳御座いませんが これから 加齢のため入院します、
> 帰りましたら、考えさせていただきます。
> 4〜5日 休みます ヨロシク。

キシさん、こんにちは。了解しました。ご回復をお祈りいたします。

1850秦野北斗:2013/12/16(月) 21:45:10
Re: 三角縁神獣鏡
管理人さんへのお返事です。

三角縁神獣鏡、等の古代の鏡を羅列し、後漢の尺は 23.04cmを基準に「咫」を計算すると
「咫」2.16から4.50までであり、何の共通性も見出せないな。だが、8 咫は異常だなあ。
後漢の尺(23.04cm)は鏡・・。

秦野は鏡の尺と通常の尺は異なるのでは・・・。
古代里を約500mとすると
尺は500m(大里)÷1500=33.3cm(大尺)
33.3÷1.2=27.7 cm(小尺)、27.7×1500=415m(小里)
27.7÷1.2=23.1 cm(鏡尺)

説文解字の「咫」に、「周尺の八寸を咫とし、十寸を尺とする」とある。この「周」とは円周のことであり、咫とは円周の単位であった。円周率は約 3.14 であるが、これを 3.2 で近似すると、径 1 尺の円の円周は 3.2 尺となり、これを 4 咫とした。従って 1 咫は 0.8 尺である。
日本の八咫鏡は円周 8 咫、すなわち径 2 尺という意味である。後漢の尺は 23.04cm であるから、直径 46cm 前後の円鏡を指し、現在 4 枚の出土例がある。

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:http://ja.wikipedia.org/wiki/咫&strip=0

1咫は18.4 cm
直径  咫
12.42 2.16
14.85 2.58
15.91 2.77
16.1  2.8
16.5  2.87
16.97 2.95
(17.4) 3.02
17.7  3.08
18.1  3.14
20.3  3.53
21.0  3.65
21.9 3.81
22.1  3.84
22.2 3.86
22.3  3.88
22.4  3.89
22.5  3.91
22.7  3.95
22.73  3.95
(23.0)  4.00
23.18  4.03
23.94 4.16
25.5  4.43
25.9  4.50
25.91 4.50

http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html



1851管理人:2013/12/16(月) 23:11:26
Re: 三角縁神獣鏡
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 三角縁神獣鏡、等の古代の鏡を羅列し、後漢の尺は 23.04cmを基準に「咫」を計算すると
> 「咫」2.16から4.50までであり、何の共通性も見出せないな。だが、8 咫は異常だなあ。
> 後漢の尺(23.04cm)は鏡・・。
>
> 秦野は鏡の尺と通常の尺は異なるのでは・・・。
> 古代里を約500mとすると
> 尺は500m(大里)÷1500=33.3cm(大尺)
> 33.3÷1.2=27.7 cm(小尺)、27.7×1500=415m(小里)
> 27.7÷1.2=23.1 cm(鏡尺)
>
> 説文解字の「咫」に、「周尺の八寸を咫とし、十寸を尺とする」とある。この「周」とは円周のことであり、咫とは円周の単位であった。円周率は約 3.14 であるが、これを 3.2 で近似すると、径 1 尺の円の円周は 3.2 尺となり、これを 4 咫とした。従って 1 咫は 0.8 尺である。
> 日本の八咫鏡は円周 8 咫、すなわち径 2 尺という意味である。後漢の尺は 23.04cm であるから、直径 46cm 前後の円鏡を指し、現在 4 枚の出土例がある。
>
> http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:http://ja.wikipedia.org/wiki/咫&strip=0
>
> 1咫は18.4 cm
> 直径  咫
> 12.42 2.16
> 14.85 2.58
> 15.91 2.77
> 16.1  2.8
> 16.5  2.87
> 16.97 2.95
> (17.4) 3.02
> 17.7  3.08
> 18.1  3.14
> 20.3  3.53
> 21.0  3.65
> 21.9 3.81
> 22.1  3.84
> 22.2 3.86
> 22.3  3.88
> 22.4  3.89
> 22.5  3.91
> 22.7  3.95
> 22.73  3.95
> (23.0)  4.00
> 23.18  4.03
> 23.94 4.16
> 25.5  4.43
> 25.9  4.50
> 25.91 4.50
>
> http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
>
>


特に鏡の径を考える上では、分布曲線が重要です。
たとえば三角縁神獣鏡だと、21.7~22.1cmが最も多いようです。

これは23.0の前漢尺、23.3cmの後漢尺、さらには魏の24.2cm前後より短くなります。

この理由をどこに求めるかは以前お話したとおりですが、その可能性のひとつとしてあげたのが、緯度差とノーモン長(影の長さの差)による尺誤差の関係、あるいは戦国時代末期の22cm代の尺度を用いた集団が、楽浪方面へ移住して、その楽浪から、さらに秦韓方面へと移住する。その秦韓人は、自分たちの言葉で「国」ことを「邦」と記すように、前漢皇帝劉邦の諱を割けることを知らない集団なんですね。だから、かれらはおそらく戦国末期の秦とか燕とかの遺民で、それを自分たち独自の尺度として、神殿尺のキュビットのごとくして神聖視して使い続けていた可能性となるでしぃうか。

その一方で、魏の年号銘鏡や盤龍鏡は24.5 cm前後で、魏さらには晋尺にちかいんですね。また呉系の画像鏡は21cm代で、呉尺にちかい。

おそらくは、楽浪・魏・呉など複数の渡来技術者の系統があって、その神聖視した尺度がことなるので、バラバラな鏡の径の分布となったのでしょう。でもその分布はあきらかに、それらのどれかに対応して偏たった分布となるわけです。

それで、戦国・楽浪・秦韓系と魏系、呉系、3種のうちのどれを、どの氏族集団が取り入れていたかが重要で、それは古墳分布や、その古墳を結んででてくる方位区画のkM単位の距離差で明らかになっていたこともありました。

その辺を、もっと追求したいですね。秦野さんご紹介のような多くのデータが必要です。そしてその鏡の出土地、さらには分布と方位ラインの関係、古墳のサイズ、この辺をパソコンつかって一度グラフに落としたいですね。ちょっと時間がないかなー。人手も必要。


1852秦野北斗:2013/12/18(水) 00:13:20
Re: 三角縁神獣鏡
管理人さんへのお返事です。

> おそらくは、楽浪・魏・呉など複数の渡来技術者の系統があって、その神聖視した尺度がことなるので、バラバラな鏡の径の分布となったのでしょう。でもその分布はあきらかに、それらのどれかに対応して偏たった分布となるわけです。

渡来技術者とは何者なのか、八咫鏡(やたのかがみ)直径2尺(46cm 前後)で尺は23 cm
は尺から魏鏡を基準に日本で製作した物だろうな。
どうも、渡来技術者で終わっているな。
古墳は渡来技術者・・・。
鏡は渡来技術者・・・。
どこかの、古代史研究者だな。


> 特に鏡の径を考える上では、分布曲線が重要です。
> たとえば三角縁神獣鏡だと、21.7~22.1cmが最も多いようです。
>
> これは23.0の前漢尺、23.3cmの後漢尺、さらには魏の24.2cm前後より短くなります。
>
> この理由をどこに求めるかは以前お話したとおりですが、その可能性のひとつとしてあげたのが、緯度差とノーモン長(影の長さの差)による尺誤差の関係、あるいは戦国時代末期の22cm代の尺度を用いた集団が、楽浪方面へ移住して、その楽浪から、さらに秦韓方面へと移住する。その秦韓人は、自分たちの言葉で「国」ことを「邦」と記すように、前漢皇帝劉邦の諱を割けることを知らない集団なんですね。だから、かれらはおそらく戦国末期の秦とか燕とかの遺民で、それを自分たち独自の尺度として、神殿尺のキュビットのごとくして神聖視して使い続けていた可能性となるでしぃうか。
>
> その一方で、魏の年号銘鏡や盤龍鏡は24.5 cm前後で、魏さらには晋尺にちかいんですね。また呉系の画像鏡は21cm代で、呉尺にちかい。
>
> おそらくは、楽浪・魏・呉など複数の渡来技術者の系統があって、その神聖視した尺度がことなるので、バラバラな鏡の径の分布となったのでしょう。でもその分布はあきらかに、それらのどれかに対応して偏たった分布となるわけです。
>
> それで、戦国・楽浪・秦韓系と魏系、呉系、3種のうちのどれを、どの氏族集団が取り入れていたかが重要で、それは古墳分布や、その古墳を結んででてくる方位区画のkM単位の距離差で明らかになっていたこともありました。
>
> その辺を、もっと追求したいですね。秦野さんご紹介のような多くのデータが必要です。そしてその鏡の出土地、さらには分布と方位ラインの関係、古墳のサイズ、この辺をパソコンつかって一度グラフに落としたいですね。ちょっと時間がないかなー。人手も必要。
>


1853秦野北斗:2013/12/18(水) 22:37:16
渡来人(とらいじん)
秦野の対象は紀元前1700年からになるが渡来人(とらいじん)の認識が大きく異なるな
卑弥呼も240年、古墳もこの頃からですな。渡来人の認識を変える必要があるな。
蘇我が4世紀から7世紀頃になるが・・・?

渡来人(とらいじん)とは、広義には、海外から日本に渡って来た人々を意味するが、歴史用語としては、4世紀から7世紀頃に、中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々を指すことが多い。帰化人との違いについては下記節を参照。
渡来は一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられている。また、そのルーツに関しても、黄河流域〜山東半島、揚子江流域、満洲〜朝鮮半島など様々である。渡来の規模は過去に議論の対象となったが近年は人口動態には僅かな影響しか与えていないとする向きが多い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/渡来人


1854管理人:2013/12/18(水) 23:09:44
Re: 渡来人(とらいじん)
秦野北斗さんへのお返事です。

> 秦野の対象は紀元前1700年からになるが渡来人(とらいじん)の認識が大きく異なるな
> 卑弥呼も240年、古墳もこの頃からですな。渡来人の認識を変える必要があるな。
> 蘇我が4世紀から7世紀頃になるが・・・?
>
> 渡来人(とらいじん)とは、広義には、海外から日本に渡って来た人々を意味するが、歴史用語としては、4世紀から7世紀頃に、中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々を指すことが多い。帰化人との違いについては下記節を参照。
> 渡来は一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられている。また、そのルーツに関しても、黄河流域〜山東半島、揚子江流域、満洲〜朝鮮半島など様々である。渡来の規模は過去に議論の対象となったが近年は人口動態には僅かな影響しか与えていないとする向きが多い。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/渡来人
>


確かに「渡来人」の定義は、ちょっと考え直す必要がありますね。

渡来人の定義の研究史についてはこちら参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

http://ksfj.jp/wp-content/uploads/2012721.pdf


帰化は、(日本の)王朝を慕ってくること、投化は半島などから逃亡してくること。

渡来は「参渡来」の略で、参るに、帰化に近い意味があるものの、ただ天日矛他、かならずしも狭義の5〜7世紀の渡来人を示すとは限らない用語。


渡来には海を渡るの意味があり、いわゆる対馬海峡や奄美諸島等を渡ってきたとの意味で考えるのが妥当。

ただ、渡来をもっと広義にとらえて、弥生人など、あるいは江戸時代に至るまでの流民も含めて、「海峡を超えて日本に渡ってきた人」と定義しなおすか?その辺も課題ですね。

実際論議してきたように、4世紀後半にタケウチシュクネの伝承に関わる渡来集団がすでに来ており、さらにそれ以前に
同様な史書には「明確に」されず曖昧にされてきた渡来集団がいたことは、先の会報で明らかにしたとおりです。

その地域も半島だけでなく、中国、中東を含めた遊牧民・商人・宗教者・・、南洋諸島など遺伝子的にみれば非常に広い。


問題は史書でいう「帰化_渡来」人と、現実的に渡ってきた渡来集団との概念分離ですね。


後者は史書にはあらわれてないものの、実に膨大。天皇家の子孫された氏族集団にも多数いるわけです。

だから「帰化人」の用語はあくまで、史書上での特定の限定された氏族集団のみに使用すべきであって、それ咿啞害には適用すべではない。

というのも渡来の目的が、帰化のほか、逃亡、支配・・・と多種多用だからで、それも3〜7世紀までに至る訳ですから、そうすると、問題が起こるでしょう。


渡来の用語をさらに、上記の史書的で限定された活用法と、広義な活用法とにも分類して使用する必要がでてくるわけです。


渡来を2種にわけると混乱が生じるという場合は、さらに別の概念を後者に対して定義しなおす件も考慮すべきかもしれません。

たとえば、渡人、渡人集団、渡海人、海渡集団・・・・・・・。

過去の用例から当てはめようとすると、実際問題で逆に限定されたり、矛盾が生じたりする可能性もでてきますね。

秦野さんはその辺どうおもわれますか?


1855秦野北斗:2013/12/19(木) 00:04:42
サイラすし
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001926M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/寿司



1856荊の紀氏:2013/12/19(木) 10:23:34
加齢S(カレーズ)から帰還しました。
歩(ぶ、拼音: Bù プー)は、尺貫法の長さと面積の単位である。長さとしての1歩は本来は6尺で、面積としての1歩はその平方である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/歩_(尺貫法)
長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺で、約 1.35 m(面積は 1.822 m2)だった。
漢代に尺と関連づけられて、6尺と換算されるようになった。当時の尺は約23cmであり、1歩は約1.38m(面積は 1.38 m2)となった[1]。その後、尺の長さが伸びるのに比例し従い歩の長さも伸び、隋代には約 1.77 m(面積は 3.14 m2)となった[1]。
唐代には5尺、つまり約 1.56 m(面積は 2.42 m2)となった(唐書食貨志)[1]。ただしこれは、歩の長さ・面積が変わったというよりは、尺が伸びたことに対し歩を変えないようにした結果だとする説もある[2]。その後(尺と共に)若干変化し、中華民国時代の1929年からの市制では 5?3 = 約 1.67 m(面積は 25?9 = 約 2.778 m2)である。。

1フィート = 30.48 センチメートル http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-snvaio&amp;p=フィート&ei=UTF-8
パッスス[編集]
歩幅を長さの単位にすることは世界各地で行われており、英語圏ではペース(pace, 約76cm)、ドイツではシュリット(Schritt, 71〜75cm)という単位が使われていた。古代ローマにはパッスス(passus)という単位があり、この1000倍のミレパッスム(mille passuum)がマイル(mile)の由来とされている。
1フィート=30.48?(12インチ)1尺=30.3?(10寸)ですから、フィートと尺の寸法はそっくりですね。でも決定的に異なるのは、フィートは12進、尺は10進。

>4対3・・・フィートは12進?

3次メッシュ
基準メッシュ(3次メッシュ)から緯度経度(南端、西端) http://ikasumiwt.hatenadiary.jp/entry/2012/06/25/041013
総務省のによると
3次メッシュコードは8桁からなっていて
1次メッシュ4桁(?)+2次メッシュ2桁(?)+3次メッシュ2桁(?)
になってる。
上2桁=緯度×1.5という変換なので、上2桁/1.5をすると緯度が算出できる。
下2桁は経度-100で算出されているので下2桁+100で算出できる。

歩 禹歩 9歩ずつ反閇を繰り返し・・・9進法? http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?



命の動脈・カレーズ http://kazetokodou.web.fc2.com/CCP002.html
15   50  3000  10000・・・3 5?
トルファンには約1500本のカレーズが掘られていて、総てを繋げると、約5000kに及ぶといわれている。井戸の最も深いところで67mあり、井戸間の長さはふつう3kだが、長い部分では10kあるという。
まさに人間の血管と同じで、カレーズが詰まったら、村は死んでしまう。まさに、命の動脈でもある。


1857秦野北斗:2013/12/19(木) 18:58:04
Re: 加齢S(カレーズ)から帰還しました。
荊の紀氏さんへのお返事です。

ややこしい事になったな。里=5町=300歩の条件で
漢代1歩は6尺、里=1800尺
唐代1歩は5尺、里=1500尺


貝塚茂樹らは尺(cm) ×1800を里(m)としておるな。

度量衡は朝廷が公布するもので、時代とともに変遷する。『角川漢和中辞典』(貝塚茂樹ほか)巻末の度量衡表を引く。

王朝 周  秦・漢 魏  隋  唐
尺(cm) 22.5  23.04  24.12  29.51  31.1
丈(m) 2.25  2.304  2.412  2.951  3.11
歩(m) 1.35  1.3824  1.4472  1.7706  1.555
里(m) 405  414.72  434.16 531.18  559.8

http://www.mctv.ne.jp/~kawai/old/log/note2012/20121130.html

22.5 cm×1800=405 m
23.04 cm×1800=414.72 m
24.12 cm×1800=434.16m
23.04 cm×1800=414.72 m
31.1 cm×1800=559.8m

歩 (尺貫法)
歩(ぶ、拼音: Bù プー)は、尺貫法の長さと面積の単位である。長さとしての1歩は本来は6尺で、面積としての1歩はその平方である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/歩_(尺貫法)

漢代1歩は6尺
里=5町=300歩、里=1800尺、町=60歩=360尺、

漢代に尺と関連づけられて、6尺と換算されるようになった。当時の尺は約23cmであり、1歩は約1.38m(面積は 1.38 m2)となった。その後、尺の長さが伸びるのに比例し従い歩の長さも伸び、隋代には約 1.77 m(面積は 3.14 m2)となった。

唐代1歩は5尺
里=5町=300歩、里=1500尺、町=60歩=300尺、
唐代1歩は約1.56m
唐代には5尺、つまり約 1.56 m(面積は 2.42 m2)となった(唐書食貨志)。ただしこれは、歩の長さ・面積が変わったというよりは、尺が伸びたことに対し歩を変えないようにした結果だとする説もある。その後(尺と共に)若干変化し、中華民国時代の1929年からの市制では 5?3 = 約 1.67 m(面積は 25?9 = 約 2.778 m2)である。

大宝律令で「里=5町=300歩」と規定されている。当時の1里はおよそ533.5mであったと推定されている
http://ja.wikipedia.org/wiki/
里=5町=300歩
歩=533.3÷300m=1.78m

漢代1歩は約1.38m、里=414m、尺=23.0cm
唐代1歩は約1.56m、里=468m、尺=31.2cm

大宝律令1歩は約1.78m、里=534m、尺=35.6、29.6 cm
35.6 cm×1500?=533.5 m
29.6 cm×1800?=532.8m



1858秦野北斗:2013/12/19(木) 22:02:02
圓丘方丘を并(ナラ)べ、
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001929M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001929_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001929_3M.jpg

http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1399



1859管理人:2013/12/19(木) 22:54:24
Re: 加齢S(カレーズ)から帰還しました。
荊の紀氏さんへのお返事です。


> 長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺で、約 1.35 m(面積は 1.822 m2)だった。
> 漢代に尺と関連づけられて、6尺と換算されるようになった。当時の尺は約23cmであり、1歩は約1.38m(面積は 1.38 m2)となった[1]。その後、尺の長さが伸びるのに比例し従い歩の長さも伸び、隋代には約 1.77 m(面積は 3.14 m2)となった[1]。
> 唐代には5尺、つまり約 1.56 m(面積は 2.42 m2)となった(唐書食貨志)[1]。ただしこれは、歩の長さ・面積が変わったというよりは、尺が伸びたことに対し歩を変えないようにした結果だとする説もある[2]。その後(尺と共に)若干変化し、中華民国時代の1929年からの市制では 5?3 = 約 1.67 m(面積は 25?9 = 約 2.778 m2)である。。
>
> 1フィート = 30.48 センチメートル http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-snvaio&amp;p=フィート&ei=UTF-8
> パッスス[編集]
> 歩幅を長さの単位にすることは世界各地で行われており、英語圏ではペース(pace, 約76cm)、ドイツではシュリット(Schritt, 71〜75cm)という単位が使われていた。古代ローマにはパッスス(passus)という単位があり、この1000倍のミレパッスム(mille passuum)がマイル(mile)の由来とされている。
> 1フィート=30.48?(12インチ)1尺=30.3?(10寸)ですから、フィートと尺の寸法はそっくりですね。でも決定的に異なるのは、フィートは12進、尺は10進。
>


キシさん、お帰りなさい!思ったより早く退院なされたようでなによりです。

さて、フィートと尺は、あまりにも近似しすぎているように感じます。

30cmは唐尺ですよね。

ヘンリー1世がそのサイズに定めたとすると1100年前後。


唐は907年までですから、少しタイムラグがありますが、しかし唐尺は正確には29cm台で、もう少し後の時代になって30cm代に入ったとすると時代的にあってくるんですよね。

ヘンリー1世時代の人の足が30cmもあったはずもなく、これは明らかに別の尺度体系から持ってきたものでしょう。

尺がだんだん伸びて行くわけですよね。しかも新井さんが示したように比例直線で伸びて行く。

何か天文的な単位、たとえば北斗七星と北極星の距離云々とか、ノーモン長と年代との関係で云々といった尺度で、時代とともに比例的に伸びて行った長さをもとに、尺度にしていたのではないでしょうか。この件は昨年も論議しましたが、まだ未解明でしたね。

遊牧民や商人を通して、その尺度が東西に同時に伝えられていた。イングランドまで行く訳ですよね。もっと追求してみたいところです。




1860荊の紀氏:2013/12/20(金) 11:57:16
Re: 加齢S(カレーズ)から帰還しました。
管理人さんへのお返事です。


> 尺がだんだん伸びて行くわけですよね。しかも新井さんが示したように比例直線で伸びて行く。
>
> 何か天文的な単位、たとえば北斗七星と北極星の距離云々とか、ノーモン長と年代との関係で云々といった尺度で、時代とともに比例的に伸びて行った長さをもとに、尺度にしていたのではないでしょうか。この件は昨年も論議しましたが、まだ未解明でしたね。
>
> 遊牧民や商人を通して、その尺度が東西に同時に伝えられていた。イングランドまで行く訳ですよね。もっと追求してみたいところです。
>
>

寸縮んで1尺伸びる。 天の北極へ最も近づいた後、次第に天の北極から離れて いきます。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?

歳差運動とよばれる地球の自転軸の首振り運動の ため、北極星は2103年に天の北極へ最も近づいた後、次第に天の北極から離れて いきます。 http://homepage2.nifty.com/turupura/season/summer/umi.htm

>

1861管理人:2013/12/20(金) 23:17:01
Re: 加齢S(カレーズ)から帰還しました。
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。

> >
>
>??寸縮んで1尺伸びる。 天の北極へ最も近づいた後、次第に天の北極から離れて いきます。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
>
> 歳差運動とよばれる地球の自転軸の首振り運動の ため、北極星は2103年に天の北極へ最も近づいた後、次第に天の北極から離れて いきます。 http://homepage2.nifty.com/turupura/season/summer/umi.htm
>
> >


ちょっと尺の算出起源についてさらに考えを進めてみましょう。


尺は年々長くなっていくもので、それは周の時代から中世に至るまでずっと伸び続けていったことでしょう。

それで、いろいろ年々伸び続けるものについて考えてみたのですが、昨年論じ合ったキシさんご指摘の北極星と店長との距離の問題もそうですね。

また、たとえば年輪なども、1000年単位の大木なら、長期間にわたり太くなり続ける要素があります。

あるいは、地層もそうですね。毎年すこしづつ積み重なって行き、100年で数十cmも積み重なって行きます。

洛陽とか長安の井戸の深さなんかも、毎年だんだん地下水脈からの距離が地層が厚くなるにつれて伸びるので、20mだったものが30mになったりするかもしれません。たとえば、その10分の1を尺(杓)にしたとかいう感じですね。


あるいは、唐の小尺と大尺がともに535mの里を基礎単位としていて、それらを1500に分割するか、1800に分割するかで、尺単位に差をつけました。

ということは535mの距離が基礎となっていて、その長さが年代とともにながくなるので、尺も伸びて行った、そんな経緯もあるかもしれません。1800分割というのは、何か意味がある。

535mは、洛陽の宮殿からたとえばどこかの河までの距離で、その河がだんだん蛇行して南にむかったので、年代ととともに距離が伸びて行って、それを基準にしていた尺も伸びて行った、そういうことも一例としてあげられるでしょう。

あとは山の高さが400mから535mまで、膨張して高くなっていたとか、あるとき噴火でさらに高くなったとか


自然現象でそのようにして、年代とともに比例的に伸びて行くもの、その辺に注目してみたいところです。

1862荊の紀氏:2013/12/21(土) 07:06:19
Re: 加齢S(カレーズ)から帰還しました。
管理人さんへのお返事です。

> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> > 管理人さんへのお返事です。
>
> > >
> >
> >??寸縮んで1尺伸びる。 天の北極へ最も近づいた後、次第に天の北極から離れて いきます。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
> >
> > 歳差運動とよばれる地球の自転軸の首振り運動の ため、北極星は2103年に天の北極へ最も近づいた後、次第に天の北極から離れて いきます。 http://homepage2.nifty.com/turupura/season/summer/umi.htm
> >
> > >
>
>
> ちょっと尺の算出起源についてさらに考えを進めてみましょう。
>
>
> 尺は年々長くなっていくもので、それは周の時代から中世に至るまでずっと伸び続けていったことでしょう。
>
> それで、いろいろ年々伸び続けるものについて考えてみたのですが、昨年論じ合ったキシさんご指摘の北極星と店長との距離の問題もそうですね。
>
> また、たとえば年輪なども、1000年単位の大木なら、長期間にわたり太くなり続ける要素があります。
>
> あるいは、地層もそうですね。毎年すこしづつ積み重なって行き、100年で数十cmも積み重なって行きます。
>
> 洛陽とか長安の井戸の深さなんかも、毎年だんだん地下水脈からの距離が地層が厚くなるにつれて伸びるので、20mだったものが30mになったりするかもしれません。たとえば、その10分の1を尺(杓)にしたとかいう感じですね。
>
>
> あるいは、唐の小尺と大尺がともに535mの里を基礎単位としていて、それらを1500に分割するか、1800に分割するかで、尺単位に差をつけました。
>
> ということは535mの距離が基礎となっていて、その長さが年代とともにながくなるので、尺も伸びて行った、そんな経緯もあるかもしれません。1800分割というのは、何か意味がある。
>
> 535mは、洛陽の宮殿からたとえばどこかの河までの距離で、その河がだんだん蛇行して南にむかったので、年代ととともに距離が伸びて行って、それを基準にしていた尺も伸びて行った、そういうことも一例としてあげられるでしょう。
>
> あとは山の高さが400mから535mまで、膨張して高くなっていたとか、あるとき噴火でさらに高くなったとか
>
>
> 自然現象でそのようにして、年代とともに比例的に伸びて行くもの、その辺に注目してみたいところです。

1800分割・・・÷5=360

535m・・・÷9=5.999999・・・・

71番目の素数は535 3+5+3=11    http://blogs.yahoo.co.jp/macrobioticstudio/archive/2012/6/10
五芒星2個で10 10番目の素数は29 2+9=11
分析をしているときに「17」が頻繁にでてきたので、6/17も注意ですね。
なんといっても、死と再生の儀式を行う救世主の誕生日ですから。(たんぽぽ日記さん参照のこと)
http://gigazine.net/news/20081211_jesus_born_on_june_17th/

71番目の素数は353. 72番目の素数は359. 73番目の素数は367. 74番目の素数は 373. 75番目の素数は379. 76番目の素数は383. 77番目の素数は389. 78番目の素数 は397. 79番目の素数は401. 80番目の素数は409. 81番目の素数は419. http://cage1729.web.fc2.com/text/lab/sosu2.htm

尺(cm) 22.5  23.04  24.12  29.51  31.1

22.5 cm×1800=405 m・・・・・・48番目〜49番目?
23.04 cm×1800=414.72 m・・51番目〜52番目
24.12 cm×1800=434.16m・・・53番目〜
31.1 cm×1800=559.8m・・・・・64番目の素数は311・・・64?  46番目の素数は199?

99.05085朔望周期⇒地球の8年( 2922日)。 □991(=191+193+197+199+211)⇒素数、5つの連続した素数の和。 http://homepage3.nifty.com/enoch/fo-number2/num99.htm
999999999⇒。12345679を9倍すると111111111となり、これをさらに9倍した値。
999999999=9×9×12345679。
9999999909⇒=9×9×123456789。

48番目の素数は223
49番目の素数は227
50番目の素数は229
51番目の素数は233
52番目の素数は239
53番目の素数は241
54番目の素数は251
55番目の素数は257
56番目の素数は263
57番目の素数は269
58番目の素数は271
59番目の素数は277
60番目の素数は281
61番目の素数は283
62番目の素数は293
63番目の素数は307
64番目の素数は311
素数の表 http://cage1729.web.fc2.com/text/lab/sosu2.htm

最新の研究によるとキリストの生誕は12月25日ではなく、実は6月17日ではないかという説が出てきました。キリストが生まれたときに輝いたという「ベツレヘムの星」が大きなカギとなったようです。 http://gigazine.net/news/20081211_jesus_born_on_june_17th/
詳細は以下
Astronomer Dave Reneke believes he has solved the Star of Bethlehem mystery | Christmas | News.com.au
キリストが生まれた時に現れた「ベツレヘムの星」の正体は恐らく木星と金星が重なったもので紀元前2年にはこの二つの星が接近し、一つの大きな星として見えたそうです。「キリストが生まれた時、明るく輝く星が現れ人々の知るところとなった」と聖書にあるのですが、おそらくこのことなのだろうとDave Renekeは考えているそうです。


1863秦野北斗:2013/12/21(土) 12:54:41
Re: 加齢S(カレーズ)から帰還しました。
荊の紀氏さんへのお返事です。

古代人は地球の円周を知っていた模様。円周が元なら、距離は世界共通の可能性があるな。

里、尺は地球の円周をもとに3 、4、 5をランダムに組合わせると
3 、4、 5はピタゴラス数

地球の円周4万km
千里533.5km(大宝律令の里:533.5m)
40000km÷533.5km≒75

1500÷3=500
1500÷5=300

75÷3=25
75÷5=15

(3×4=12)÷10=1.2

(3×5=15)×100=1500

(75×2=150)×10=1500

大宝律令533.5mを基準に鏡尺を推測
尺は533.5m(大里)÷1500=35.5cm(大尺)
35.5÷1.2=29.6 cm(小尺)、29.6×1500=444.5m(小里)
29.6÷1.2=24.7 cm(鏡尺)

古代里の魏は約500mとすると
尺は500m(大里)÷1500=33.3cm(大尺)
33.3÷1.2=27.7 cm(小尺)、27.7×1500=415m(小里)
27.7÷1.2=23.1 cm(鏡尺)


1864荊の紀氏:2013/12/22(日) 11:23:36
Re: 加齢S(カレーズ)から帰還しました。
秦野北斗さんへのお返事です。

公孫氏による創設 西700m、南北600m

長さ約4.5km、幅約600m、
吉野ケ里遺跡は、背振山南麓から佐賀平野に向かって細長く伸びた段丘上にあります。 この段丘は、長さ約4.5km、幅約600m、 http://www.vesta.dti.ne.jp/~yagi413/yosinogari.html
標高およそ7〜20mで、この尾根線上を佐賀県神埼町、三田川町、東背振村の三町村の境界線が走っています。
 この遺跡は、昭和61年からの工業団地開発に伴う埋蔵文化財発掘調査の成果などから、弥生時代(紀元前3世妃から紀元3世紀ごろ)の約600年という長い期間を通して小さなムラが大陸の文化を取り入れ、やがて国の中心集落へと発展する過程を教えてくれる極めて学術的価値の高い遺跡であることがわかりました。なかでも弥生時代後期の環壕集落跡は我が国でも最大規模のものであり、中国の史書「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の様子を彷彿とさせるものとして、全国的に注目を集め、平成3年5月には国の特別史跡に指定されています。
三町村の境界線・・・疆(境)

西700m、南北600m
土塁で囲まれた東西700m、南北600mの 遺構に、当時のさまざまな遺物のほか、官印「楽浪太守章」の封泥(封印の跡... http://ja.wikipedia.org/wiki/帯方郡
帯方郡(たいほうぐん)は、204年から313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点(植民地との見方も存在する[1][2][3][4][5])。楽浪郡の南半を裂いた数県(晋代では7県〈『晋書地理志』〉)と、東の濊、南の韓、南端の倭(半島南端)がこれに属す。後漢から魏、西晋の時代にかけ、郡の経営や羈縻支配を通じて韓・倭という東夷地域へ中国の文化や技術を持ち込んだほか、直轄となった魏朝以降には華北の中国文化の窓口としても重要な役割を果たした。郡の長が太守であり、その配下の官吏と軍団の在する郡役所が郡治である。帯方郡治は、楽浪郡治(平壌)の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある(後述)。
公孫氏による創設[編集]
後漢の末、中平6年(189年)に中国東北部の遼東太守となった公孫度は、勢力を拡大して自立を強め、後漢の放棄した朝鮮半島へ進出、現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置いた[6]。その後を継いだ嫡子・公孫康は、建安9年(204年)楽浪郡18城の南半、屯有県(現・黄海北道黄州か)以南を割くとともに南方の土着勢力韓・濊族を討ち、併せて帯方郡として「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」[7]という朝鮮半島南半の統治体制を築く。郡治とは、その周囲の数十県(城)の軍事・政治・経済を束ねる一大機構であり、個々の県治よりもひときわ大きな城塞都市であった。公孫康はほどなく魏の曹操に恭順し、その推薦によって後漢の献帝から左将軍・襄平侯に任ぜられ、帯方郡も後漢の郡として追認された。

帯方郡治の比定地については決め手がなく、現代の38度線を挟んで諸説ある(東潮「古代朝鮮との交易と文物交流」『日本の古代3』1986年)。『魏志倭人伝』では、帯方郡が邪馬台国への旅の出発点であるだけに、かの邪馬台国論争からの関心も厚い(安本美典「魏志倭人伝を読む その3」邪馬台国の会・第232回講演記録)。

古代里の魏は約600mとすると
尺は600m(大里)÷1500=40cm(大尺)
40÷1.2=3.3333cm(小尺)、3.3333×1500=499.999m(小里)
3.3333÷1.2=277.77 7cm(鏡尺)

帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を 経て南へ、東へ、7000余里 http://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝
邪馬台国までの国と行程[編集]
国名や官名には諸説がある。
1.帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する(「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」)。
2.始めて海を1000余里渡ると対馬国に至る(「始度一海千餘里、至對馬國」)。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
3.また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る(「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」)。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000の家族が住める。田畑はあるが足りず、市へいく。
4.また海を1000余里渡ると末廬国に至る(「又渡一海千餘里、至末盧國」)。4000余戸が有る。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚や、アワビ[要出典]を捕るのを好み、皆が潜る。
5.東南へ500里陸行すると伊都国に到着する(「東南陸行五百里、到伊都國」)。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。

眉山にあるゴルフ場、ここに前方後円墳があるんです。

眉山は徳島市のシンボル。
万環玄亀 ? 4_徳島県 謎解き散歩
古代神話では、淡路島とかさなって、難波とつながりあって、日本の発祥ともいわれた 徳島・阿波国。 ... 奈良時代天平期の734年、聖武天皇と難波宮に出向いた天武天皇の 皇子の子、船王は、徳島県の眉山を春三月、「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山」と歌に??... http://www.tabizuru.jp/mankan_genki/万環百話/4_徳島県-謎解き散歩/
、「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山」と歌に詠む。これが山の名の由来。徳島市内、眉山の山頂までは、ロープウェイで6分で到着する。紀伊水道を一望できる。こぐ船の泊も知らずと終わる船王の歌の海である。大化の改新までの北の粟国と大和朝廷は、水運を使いつながりあっていた。そこには仏教思想もかさなり、眉山の穏やかなる山姿に、仏心を見る。

古墳や古代遺跡、海外なら ピラミッドやストーンヘンジ が挙げられるように、大昔からパワースポットは存在します。 http://web-fron.sakura.ne.jp/p/tokushima/bizanten/index.html
潮音寺(当神社の北方50m、徳島市西山手町に位置)

出雲 岡山 徳島県剣山
本貝塚遺跡は縄文前期から後・晩期・弥生・古墳時代まで4,000年以上もの間、人々の 生活拠点として存続していた。 .... また諏訪神社もそこにみえることは、同じく諏訪大社 鹿嶋神宮の東西同緯度レイラインとの関連も気に留めておくべきかと ... http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2388
渡来人研究会 ご意見総覧10
... ソウル平壌間の緯度差にあるとすると、レイライン ... 阜県位山、徳島県剣山、奈良県三輪山など)。 レイライン 完結近し ... 「出雲系ライン」 ・主に海上から陸上の目印を定め測量 (北極星を北の基準としたらしく北が約33度 東にずれる。 ...
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban10.htm

歴史 | 徳島県
原始・古代. 徳島に人々が住み始めたのは、約2万年前頃からだと考えられています。 ... 米づくりが本格的に始まった弥生時代には、青銅器や鉄器といった金属器の使用も始まりました。
http://www.pref.tokushima.jp/kids/history-culture/
徳島は銅鐸の多い地域で、全国で発見されている銅鐸の約1割、50個近くが発見されています。稲作が発達するとむらの有力者の中から地域の首長が生まれ、その埋葬のために古墳がつくられるようになりました。県内最大の前方後円墳は徳島市の渋野丸山古墳です。

大化の改新(645年)のあと、次第に律令(りつりょう)制度が整えられ、国府などの役所が置かれました。徳島市国府町はその名前の示すとおり古代に国府の置かれていた地域です。

方位盤(コンパスローズ」から多数の方位線が複雑に交差し、網状に描かれて、 ... 濃尾平野では35キロ内陸に縄文貝塚が分布し、当時の海岸線はこの付近だったことを物語っている。 貝塚の貝殻の年代測定によれば、 ...
http://ameblo.jp/hustler/day-20080816.html
31.大航海時代を可能にしたのは「ポルトシ」「ピサ図」と呼称された地図の製作からで、この地図では、方位盤(コンパスローズ」から多数の方位線が複雑に交差し、網状に描かれて、使いにくい面があったが、16世紀後半以降に世に出た「メルカトル図法」のおかげで、現代でも航海者にとってGPS(衛星を使った技術)以外にも有用な地図となっている。
 (現在、世界地図上不明な部分は僅かだが、かつては自国の沿岸を測量されることは軍事的利害に直結していたため、他国による沿岸測量は容易にできなかった。そういうなかにあって、日本の間宮林蔵がサハリンを北上、アムール川沿いに大陸に渡った実績は、「間宮海峡」という名前とともに世界地図に残り、日本人が誇っていいことだが、サハリンを領土化しようとの意思を持たなかった平和主義の江戸幕府の心底は不可解というしかない。江戸幕府と異なり、早くから琉球王国に侵入し、奄美大島から南へと順に徴税対象にしていった薩摩藩の領土欲、金銭欲に比べ、徳川政権の穏やかな平和主義が結局は薩摩、長州になす術なくやられ、日本の軍隊の創設から支配にまで及んだこと、やがては太平洋戦争にまではまり込む結果を招いたのだと、私は思っている。当時、サハリンにロシア人の姿はなかったという事実もあり、領土化することは簡単だった)。

地図の話. 現存する最古の地図は、 バビロニア人が、BC2500年前頃に粘土板に描かいた ものだ。 ... 経緯度を決めた世界最初の地図帳を 作成した。 ... 原図が残っているもの地図 ということでは、これが最古。 伊能忠敬(1745〜1818)は
http://www.bekkoame.ne.jp/~prtybell/kyoukai/tizunoha.htm

前方後円墳がなんと徳島や香川などの東四国から発祥したのではないかという新たな説が今、持ち上がっています。 http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/2001/0920.htm
「東四国起源説」北條先生がその根拠としてあげているのは主にこの4つです。
?徳島や香川の古墳のつくられた年代が古いこと。
?徳島・香川の古墳の構造が複雑であるということ。
?古墳のサイズが小さいこと。
?徳島の青石が近畿地方の古墳に使われていということ。
この4つです。

「萩原墳丘墓(はぎわらふんきゅうぼ)」箸墓古墳から遡ることおよそ50 年、西暦200 年前後につくられたと考えられています。
日本最古の前方後円墳です。

古墳時代のはじめ、3世紀から4世紀につくられたと考えられる年代の古い古墳が東四国にはこれだけあるんです。
香川県が58 基、徳島が12基、これ非常に多い数なんです。

8    60 メートル   18 メートル
「八人塚古墳」8人の武将を葬っていることからこの名前が付いています。
全長およそ60 メートルの前方後円墳です。
さらに棺を納めていた「石郭」の構造も東四国起源説を大きく裏付けるといいます。
次に訪れたのは石井町で現在発掘調査中の「前山古墳」。3世紀の後半につくられたと考えられる全長18 メートルの小さな前方後円墳です。

香川県の鶴尾神社4号墳は36メートル
石井の前山古墳はわずか18 メートル

横山は東西約1,200メートル、南北400メートル〜600メートルの独立丘陵で、西端近く で南に延びる小山が接しています。この横山の南斜面のほぼ中央部に位置します。 直径約20メートル、高さ7メートルの円墳で、南に開口する横穴式複室墳である。
直径約20メートル、高さ7メートルの円墳で、南に開口する横穴式複室墳である。玄室の奥壁から羨道端までの全長9.6メートル。玄室の奥行3.58メートル、幅2.67メートル、床面より天井までの高さ3.77メートル。奥壁と両側壁に石屋形を構築している。
側壁は床面より1.76メートルまで一枚の凝灰岩を用い、その上は持ち送り式に積みあげ、一枚の巨石をのせて天井としている。奥壁は全面に丹塗が施されていたと推察されるが、媒が付着していて、図形化されたものかどうか不明である。遺物には古墳の副葬品と考えられるものと後世の遺物がある。近くに塚園古墳群、池上古墳、南原古墳などがある。
鬼のいわや古墳 http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?type=A&amp;id=210

玄室の奥行3.58メートル、
「358」とゲマトリア聖書の中の「シロ(=平和、平和を もたらすもの)が来る」「メシア」「(青銅の)蛇」がいずれも358になるらしい。 http://mandalanb.exblog.jp/11456992

玄室の幅2.67メートル
「ゼブルンの門」の位置づけ
テーマ:聖書のゲマトリア
「鈎」・・・勹  「若犬」は「山羊」
#ここで実は、【KLBA OLYMA】(若犬、267)は、【QLYDA】(鍵、267)や、(※「鈎」にも作る)
#【NQDA】(sheep-master、267)や、【OYNA B・LLYA】(夜の目、267)や、
#【DQNA】(顎鬚、267)と等価だ。【QLYDA】(鍵、267)は「Makara」を表すし、
#且つ【DQNA】(顎鬚、267)と言えば、「山羊」である。「若犬」は「山羊」である。
#例えばシュメール語の「ur」は、「犬」(dog)もしくは「獣」(beast)という点に注意。

床面より天井までの高さ3.77メートル
0, 1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, 34, 55, 89, 144, 233, 377, 610, 987, … << で>> フィボナッチ数列の隣り合う 2 項の比は黄金比に収束する。 http://yu-moa.seesaa.net/article/115051633.html
旧約聖書の原文のほとんどはヘブライ語だ。そのヘブライ語でメシアのことを「????〔māšîa?〕[マーシーアハ]」っていうんだけど、このことばの数が「358」になる。
ヘブライ文字は、ギリシャ文字みたいに数字としてもつかわれるから、「????」のつづりを数字としてよむと(ヘブライ語は右から左にむかってかく)、「?(m)」は 40、「?(š)」は 300、「?(y)」は 10、「?(?)」は 8 で、これを全部たしあわせると 40+300+10+8=358 だから、メシアの数は「358」ってことになる。

側壁は床面より1.76メートル
聖書のゲマトリア ( 176 ) ?
大バビロン; 1408:(8×176)、
8はイエスの数 http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/104seisho.htm
 「8」は、イエス・キリストに深く関連した数字なのである。なぜなら、「イエス」というギリシャ語のゲマトリアは888である。
イエス Ιησουs(イエスース)
10+8+200+70+400+200=888
 ちなみに、888も3で割り切れる数であるから、先ほどの作業を施せば、153に帰結する。

「ソロモン王が主のために建設した神殿は、長さ60キュビト、幅20キュビト、高さ30キュビトであった」(?列王6・2)。
 したがって、その総容積は、
60×20×30=36,000
=  36   ×10の3乗
=(1の3乗+2の3乗+3の3乗)×10の3乗
 となる。これは、御子・御父・御霊を表す1、2、3のそれぞれを3乗した数の合計である「36」と、幕屋の至聖所の容積――「10の3乗」とを、かけ合わせたものとなっている。
 36は三位一体の数、一方、10の3乗は至聖所の立方体に見られる神的な数である。
 そしてこの3万6000立方キュビトという総容積も、3で割り切れる数であるから、各桁の数字の3乗をたすというあの作業を繰り返せば、やはり153に帰結するのである。

聖数36の意味
 36の意味を、もう少し詳しく見てみよう。
 聖書は、キリスト再臨の後、千年王国があり、そののち古い天地は過ぎ去って新天新地が創造されると、記している。この新天新地の中心は、神の住む「新エルサレム」である。
 新エルサレムは、幕屋や神殿にあった至聖所と同じく、立方体の形をしている。ただし、巨大な立方体である。
 「都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を計ると、1万2000スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである」(黙示21・16)。
 新エルサレムは「長さも幅も高さも同じ」であり、1万2000スタディオンずつの立方体なのである。その容積を計算してみると、それはやはり36の倍数である。
12000×12000×12000
=1,728,000,000,000
=36×48×1,000,000,000
 ここに出てきた1728という数字は、36×48であり、36の倍数である。48は8の倍数である。
 つまりこの都は、三位一体の神の神性によって貫かれ、そこにはイエスの救いに入った人々が住んでいることがわかる。
 新エルサレムは、神が聖徒たちと共に住んで下さる都である。そこで「エルサレムの聖徒たち」というギリシャ語のゲマトリアを調べてみると、それもやはり36の倍数であり、同時に8の倍数である。


Re: 三角縁神獣鏡 | 古代史掲示板 -
2013年12月15日 - 九字」は禹歩(うほ) 二進法の 3 桁を八進法の 1 桁秦氏はゲマトリア的手法によって、8 を多くの神社名や神名につけていった http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1917http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?


> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> 古代人は地球の円周を知っていた模様。円周が元なら、距離は世界共通の可能性があるな。
>
> 里、尺は地球の円周をもとに3 、4、 5をランダムに組合わせると
> 3 、4、 5はピタゴラス数
>
> 地球の円周4万km
> 千里533.5km(大宝律令の里:533.5m)
> 40000km÷533.5km≒75
>
> 1500÷3=500
> 1500÷5=300
>
> 75÷3=25
> 75÷5=15
>
> (3×4=12)÷10=1.2
>
> (3×5=15)×100=1500
>
> (75×2=150)×10=1500
>
> 大宝律令533.5mを基準に鏡尺を推測
> 尺は533.5m(大里)÷1500=35.5cm(大尺)
> 35.5÷1.2=29.6 cm(小尺)、29.6×1500=444.5m(小里)
> 29.6÷1.2=24.7 cm(鏡尺)
>
> 古代里の魏は約500mとすると
> 尺は500m(大里)÷1500=33.3cm(大尺)
> 33.3÷1.2=27.7 cm(小尺)、27.7×1500=415m(小里)
> 27.7÷1.2=23.1 cm(鏡尺)
>

1865荊の紀氏:2013/12/22(日) 11:51:58
Re: 加齢S(カレーズ)から帰還しました。
>5.東南へ500里陸行すると伊都国に到着する(「東南陸行五百里、到伊都國」)。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。

弥・彌
爾(じ)は柄公用印の姿を描いた象形文字
彌は「弓+(音符)爾」で、弭(び)(弓+耳)nい代用したもの。弭は、弓のA端からB端に弦を張ってひっかける耳(かぎ型の金具)のこと。弭・彌は、末端まで届く意を含み、端までわたる、とおくに及ぶなどの意となった。→弭(び、み)は、端に届いて止まる、の意に用いられる。 http://homepage3.nifty.com/giboshi/kaijitbl012.htm
彌勒(みろく)

A端からB端
阿?卑斯山 = アルプス・・・高山(ヤーマは冥府の神)・・・卑彌呼
2013年6月12日 - 爾(じ)は柄公用印の姿を描いた象形文字。彌は「弓+(音符)爾」で、弭(び)(弓+耳) n い代用したもの。弭は、弓のA端からB端に弦を張ってひっかける耳(かぎ型の金具)http ://homepage3.nifty.com/giboshi/kaijitbl012.htm 阿弥(あみ)、 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1968
弥卑
卑彌呼 http://ja.wikipedia.org/wiki/卑弥呼

姜 羌  阿?卑
中国史において羌族は氐族とともに最も古くみえる部族の一つである。しかしながら『漢書』に氐羌の列伝は設けられておらず、西域伝に?羌などが記されているのみであった。そして『三国志』で引用されている魚豢(ぎょかん)の『魏略』においてようやく氐羌についての記述が現れ、『後漢書』において羌族について詳細に記された「西羌伝」が設けられた。
『後漢書』西羌伝では「羌の源流は三苗、姜氏[1]の別種」とあり、とても古い時代から中国の人に知られていたようである。紀元前5世紀に戎族出身の無弋爰剣(むよくえんけん)という者が現れ、彼の一族に率いられた者たちが羌族を形成していくこととなる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/
後漢末に黄巾の乱が起きると(184年)、羌族は再び勢いを盛り返し、漢人の韓遂や馬超といった軍閥と組んで独自の勢力を築いた。三国時代(220年 - 280年)においては、魏と蜀の国境地帯において勢力を保ち、その趨勢に応じて魏や蜀に附いて戦った。
五胡十六国時代に入ると、南安赤亭羌の酋長である姚萇が前秦から独立して後秦を建国した(384年)。後秦は417年に東晋の劉裕(後の宋武帝)によって滅ぼされる。

彌彌は役職になる?。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1627
彌彌は「投馬国」の官名です。
>彌彌は役職になる?。奈良の耳成山が気になる。彌彌=耳
オシホミミ命とは、「投馬国」=「元祖大和」の官名です。

応神天皇は、騎馬民族の大王であると同時に秦氏(イスラエル10 支族にしてユダヤ人キリスト教徒)だったのである。応神天皇が朝鮮半島から渡来してき た4世紀の畿内には邪馬台国と投馬国が平和的な併合を果たした ... http://ameblo.jp/cpa-togo/page-14.html

官の彌彌の「ミミ」と言えば、パッと頭にひらめくのは、「オシホミミ命」の「ミミ」でしょう。
オシホミミ命と言えば、英彦山に祀られ、3尺6寸の八角形の水晶の台座がご神体、と言われています。

また、遠賀川上流の岩石山に、天下ったとも言われます。 http://www.geocities.jp/oden1947/196.html
筑豊地方は、オシホミミ命の別名「吾勝命」に由来する、「吾勝野」と古代呼ばれていました。
吾勝野=アカツ野=アシハラナカツ国であり、逆に言えばアシハラナカツ国を省略して、「アカツの国」と言っていたと考えた方が正解でしょう。図2参照。

彌勒とは?歴史民俗用語。 〔梵 Maitreya「慈氏」とも訳す〕 (1)「弥勒菩薩」に同じ。 (2) インドの大乗仏教の一派唯識派の開祖。三世紀中頃から四世紀中頃の人といわれる。 のちに弥勒菩薩と混同されることがある。 >>『三... http://www.weblio.jp/content/彌勒

大和三山(香具山、畝傍山、耳成山) - 旅行のクチコミサイト フォートラベル
香具山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき 畝傍山を巡って、香具山と耳成山が争ったという三角関係の 歌です。 天香具山 (天香久山) 標高が150m程の香具山は、談山神社のある多武峰( ... http://4travel.jp/domestic/area/kinki/nara/kashihara/kashihara/nature/10010950-tips/?page=2&amp;sort=time
耳成山
標高が140m程の耳成山は、綺麗な円錐形をした山。火山岩が侵食されて出来たものだそうで、万葉集では青菅山とと呼ばれていました。
地図で見ると一番北に在り、三山を結ぶ三角形の頂点となって、このトライアングルスペースに藤原京が造られました。

耳成山, 青菅山 あおすがやま, 神々しくそびえ立つ山. 影面 かげとも http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/yamatosanzan.htm


1866荊の紀氏:2013/12/22(日) 11:58:30
Re: 加齢S(カレーズ)から帰還しました。
吾輩が阿波の国の出身だから徳島の古代歴史を強調するわけではない
日本は世界のひな型=地球のヘソ としてグランドデザインされている
剣山を有する徳島は獅子に刻まれている
この獅子を囲むように3つの国=生き物が配置されている(ヨハネの黙示録)
大和三山の秘密 - ライブドアブログ - Livedoor
2013年8月24日 - 大和三山の秘密. 〜三種の神器〜 004 ... この獅子を囲むように3つの国=生き物が 配置されている(ヨハネの黙示録) 飛ぶ鷲=土佐=高知 こ ... 奈良の橿原には大和三山 畝傍山 耳成山 香具山 の三種の神器がある これまでこの三種の ...

大和三山の配置の秘密 - 全ては古事記の中に http://kojiki.imawamukashi.


1867荊の紀氏:2013/12/22(日) 12:19:02
Re: 加齢S(カレーズ)から帰還しました。
大和三山とは、奈良県橿原市にある畝傍山、耳成山、天香久山の総称で、万葉集など の歌の中に登場することでも有名な山です。 ... なお、これら三つの山が二等辺三角形を 形成していることは一般によく指摘されるところであり、また、人工説などもあります。

> 吾輩が阿波の国の出身だから徳島の古代歴史を強調するわけではない
> 日本は世界のひな型=地球のヘソ としてグランドデザインされている
> 剣山を有する徳島は獅子に刻まれている
> この獅子を囲むように3つの国=生き物が配置されている(ヨハネの黙示録)
> 大和三山の秘密 - ライブドアブログ - Livedoor
> 2013年8月24日 - 大和三山の秘密. 〜三種の神器〜 004 ... この獅子を囲むように3つの国=生き物が 配置されている(ヨハネの黙示録) 飛ぶ鷲=土佐=高知 こ ... 奈良の橿原には大和三山 畝傍山 耳成山 香具山 の三種の神器がある これまでこの三種の ...
>
> 大和三山の配置の秘密 - 全ては古事記の中に http://kojiki.imawamukashi.
>

1868荊の紀氏:2013/12/22(日) 18:41:48
ネロをギリシア語ゲマトリアで変換すると 1332=666+666
180
天香語山が弓で矢を放つと、矢は加佐郡矢原(やぶ)山に落ちた。天香語山が南東に到ると荒水があり、そこに神籬を建て大神を遷し祭った。さらにそこから百八十軍神を率いて由良之水門に率いて退いたとき、父の彦火明命と再会し、神宝を授けられ速やかに国土を造り修めんと詔りがあり、余社郡久志備之浜に到ると、御祖多岐津姫命がこの地は伊射奈岐命が天降りますいと清き地であり、来るのを待っていたという。そこでさっそく天香語山は天津磐境を起てて神宝を斎い奉り、豊受大神を遷し祭ると、分霊を矢原山に祭った。ここに国が成ったが、そのとき霊泉が湧き、天村雲命が天真名井の水を汲んでそそぎ、その水をもって神饌の料(みず)とした。 http://www012.upp.so-net.ne.jp/houi/tango.htm

180日と30時間で 144:1であると言われている。10進法ホロンを見ていけば、4直角は1440度だし、1日 は1440分である。また上で見たように52・42・32・22・12は14400 ... http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1100

108m
大川神社は標高約108mの徹光(てっこう)山之東山腹にあるが、もともとは山頂にあったともいう。地図上ではその正確な山頂を確定できないが、大川神社から百ないし二百メートルのところのどこかということはいえるので、大川神社をめぐる方位線はその場合も成立するであろう。大川神社の社伝によれば、顕宗天皇の元年三月に、由良川域の漁師野々四郎が漁を営んでいたところに、『金色の鮭に乗り、右手に五穀の種、左手に蚕を携えた神』が川下から現れて、野々四郎に「当地に鎮座したいので社殿を造営せよ」と託宣したのが大川神社の起こりなのだというが、この「金色の鮭に乗り、右手に五穀の種、左手に蚕を携えた神」 は、冠島より海を渡り、川を上ってやってきたのであり、冠島から金色の鮭に乗ってやってきた神の伝承は由良川流域に多いという。
  大川神社―磯砂山(W0.276km、0.69度)―兜山熊野神社(E0.237km、0.37度)の西北30度線
  大川神社―中津神グリ(W0.193km、0.34度)―冠島▲168.8m(E0.032km、0.06度)の東北60度線

108と144の比は3:4である。麻雀 は4人でやり、牌も4枚ずつある。ツォルキン260は44+4=260と表すこともできる。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1100

500
五百箇御統之瓊を濯いで御子をお生みになったというような神話があったであろうことは、伊去奈子嶽の北麓、藤神社から遠からぬところに、天照大神がお生まれになった処と云い伝えて、今に同大神をお祭りしているというところがあることによって考えられ、伊去奈子嶽の上代の信仰は伊佐奈岐大神及び天照大神をお祭りすることにあったと考えられるという。

ゲマトリア」とは - ○数値等価法。「A=1、B=2、K=20、語尾K=500」と、ヘブライ語 聖書は端から端まで全て数値に置換できるようになっている。○ http://d.hatena.ne.jp/keyword/??????

360
大枝山についてホームページを検索してみると、標高568mの大暑山のこと、標高470mの山、西山団地の西の山とするものや、老ノ坂近くの標高3〜400mの山並みの総称と記すものなど、様々である。大枝山として方位線的に注目される山のひとつは首塚のすぐ南の標高360mの山である。出雲大神宮と愛宕山が東西線をつくるが、この山と愛宕山が南北線をつくり、出雲大神宮とも西北60度線をつくるからである。標高568mの大暑山も出雲大神宮と西北60度線が成り立つ。また、出雲大神宮の西北60度線は真名井神社とも結びつくのであるから、真名井神社に注目すると真名井神社と西北45度線をつくる貴船神社とも東北60度線をつくる。出雲大神宮との方位線三角形としては、愛宕山の代りに、やはり出雲大神宮と東西線をつくる上賀茂神社あるいは片岡山と東北45度線をつくる。また、平安京との関係でいえば、平安京大極殿と東北30度線をつくる。
  出雲大神宮(S0.025km、0.28度)―愛宕山―上賀茂神社(N0.100km、0.53度)―片岡山(N0.150km、0.77度)の東西線
  ▲360m山―愛宕山(E0.024km、0.16度)の南北線

QSR = 360. NRWN + QSR = 306 + 360 = 666 666は獣の数字となる。666 またローマ皇帝 ネロをギリシア語ゲマトリアで変換すると 1332=666+666. http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/75944/74549/15974914

  ▲380m山―出雲大神宮(E0.047km、0.27度)の西北60度線
380m山

これ は【KLBA RBA】(大犬、380)だけに、【XWYA】(蛇、38)を指し示す。

36は三位一体の数、一方、10の3乗は至聖所の立方体に見られる神的な数である。
 そしてこの3万6000立方キュビトという総容積も、3で割り切れる数であるから、各桁の数字の3乗をたすというあの作業を繰り返せば、やはり153に帰結するのである。

45m
標高45mの丘が三鬼の砦があった場所なのであろう。また、立熊山はその東の標高217mの山ということになるのだろうか。もしそだとすれば、土熊を祀る祠が竹野神社の東北60度線、立熊山が西北60度線上にあったという可能性も出てくる。また、砦は大江山の南北線上に位置し、また久次岳の東北60度線にも位置している。また、真名井神社からの西北60度線に対しても、竹野神社よりは近いし、出雲大神宮とは西北60度線をつくる。出雲大神宮と兜山の西北45度線上に大江山があるのであるから、願興寺の丘の砦と出雲大神宮の方位線も無視できないであろう。また、出雲大神宮と真名井神社は西北60度線をつくっていたのであるから、真名井神社の西北60度線上に願興寺の丘の砦があるといってもいいのかもしれない。出雲大神宮と西北60度線をつくるということは、大枝山と願興寺の土熊の砦が西北60度線をつくるということである。大枝山と大江山には願興寺の土熊の砦からの方位線上に位置しているという共通項があることになる。

45×10000 ここに45という数字が出てきたが、これは アダムに深く関係した数値である。「アダム」というヘブル語のゲマトリアは、45なので ある。 http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/104seisho.htm

1万5000 1万2000
菟狹族が大江山で発祥したのが菟狹族が大江山で発祥したのが1万5000年前のことで、1万2000年ほど前に貴船山に根拠地を移したという。年前のことで、1万2000年ほど前に貴船山に根拠地を移したという。

霊界・精神世界等 (150) http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/cat_49586.html
120:(三角数かつ5!の特殊数)、 http://blog.trinity-in.com/article/246415009.html
「120」も三角数である。

9000 8500
狹族は貴船山からさらに稲荷山に9000年ほど前に根拠地を移したが、裏日本沿いに移動してきて鞍馬山に住んでいたシベリア種族の猿田族が勢力を伸ばしてきて、8500年ほど前に稲荷山を追われ、各地に分散して行ったという。

サンプシィも、今のギリシャ語アルファベットにはないが、古い時代に900を表す数字として用いられた。
サンプシィ(サンピ)と言った古代に使われ ていたギリシア文字(ギリシャ語アルファベット)があります。 http://occult-weblog.cosmic-egg.com/magic/greek-alphabet.html
ギリシャ文字(ギリシャ語アルファベット)はヘブライ文字(ヘブル語アルファベット)の様にそれぞれに固有の数の値を持っています。ゲマトリアによって数字に変換される事もあります。

6000  4000
宇佐公康氏の本ではただ、6000年以上前の出来事と推測できる記述がある。ただそうすると、吉田大洋『謎の出雲帝国』によれば富氏の伝承に「この世界が、一夜にして氷の山になった。大祖先であるクナトノ大神は、その難を避けるため、一族をひき連れて移動を始めた。東の彼方から氷の山を越え、海ぞいに歩いた。そうして何代もかかって、ようやくたどりついたのが出雲の地であった。(今から4000年も前のことである)」とあり、それからすると出雲神族が出雲にきたのはどんなに古くても4000年前ということになり、宇佐氏の伝承と少なくとも2000年以上食い違うことになる。宇佐氏が大江山から九州の宇佐へ移動していったのは、もっと後の時代、それもかなり後の時代の可能性もあるのではないだろうか。

600:世界; 611:(13×47)、 http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/human/post_99.html
Tは、tau=400にしてるけど、tauはThと、書いてる。 http://hontoka.ina-ka.com/666
tau=400にしてるけど、tauはThと、書いてる。TはTeth=9ではないのか?。とか。右の、ギリシャ語のほう(だよね、多分、、)、 MAITREYAを、数字にするとこで、Tを、tauと、thetaの、両方の、数字を、使ってるのは、何故か、最後に付いたSは、なにか、とか、考えると、あやしすぎる。ギリシャ語で、マイトレーヤを、どう、書くのが正しいのか、わからんが。(正しい、ゆうても、元がサンクスリット語で、ギリシャと、関係ないから、それで何が正しい、ゆうのも、ない、思うが、、))(それと、シュタイナーが、ゲマトリア使って、666はSWRTで、ソラトゆう悪魔だと、言ってたけど、マイトレーヤと、言ってた記憶がないが、それとの関係は、どうなのか。わからん。) ただ、このHPのTags:のところに、benjamin creme messiahあるから、このビデオ作った人は反シェアなのは、分かる。外人で、Maitreyaと666の関係を言う人で、反シェア(反ベンジャミンクレーム)な人以外いるか不明。(Maitreya is the Beast 666)とか(Anti-Christ Index: Hard Truth)も、英語系の反マイトレーヤのHPだけど、このどっちも、「マイトレーヤ」はベンジャミンクレームのマイトレーヤ、はっきり言うと右の写真みたいなマイトレーヤをイメージして書いてるっぽい。(ただし、ロードマイトレーヤの名誉?のため、言っておくと、この写真は、人相が悪く、写りすぎてる。他の写真を見ると、きっと、もうちょっと、ましな印象を、持つ、思う。とにかく、この写真は、あんまりだ。)この、シェアが言ってるマイトレーヤが、僕らが知ってる、弥勒菩薩、と、同じ、ゆわれても、ぶっちゃけ僕らも、困るんすけど、でも、それよりも、とくに、あの、9.11の、テロの後、普通のアメリカ人が、メシア言われて、この写真見せられたら、どう思うか 考えると、普通『有り得ねえ』、ゆう風に、思いそうだし、だから、そう言う、第一印象で、「反キリストに間違いない」、ゆう確信される、可能性、大である。

マイトレーヤ 36 666 弥勒菩薩
弥勒菩薩(みろくぼさつ)、梵名マイトレーヤ(Skt.??????? [maitreya])、パーリ名 メッテーヤ (Pali. metteyya ?????????)は仏教の菩薩の一尊である。一部の大乗 経典では字(あざな)が阿逸多 Aji...http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E8%8F%A9%E8%96%A9
獣の数字
>QSR = 360. NRWN + QSR = 306 + 360 = 666 666は獣の数字となる。666 またローマ皇帝 ネロをギリシア語ゲマトリアで変換すると 1332=666+666. http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/75944/74549/15974914

秦氏はなんで太秦に弥勒菩薩を祀る仏教の寺である広隆寺を建てたんでしょうね。景教 の教会を建てるべきではないですか? http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1051637255
華僑然り、イスラエル然り、在日朝鮮人然りです。
アイルランドとイングランドのように対立を選ばず、あくまで同化・融和を選らんだ彼らが「和を以って尊しとなす」の聖徳太子を崇拝したのも当然でしょうね。

太秦の弥勒菩薩はキリスト像だという説があります。
秦河勝は聖徳太子に気を遣い、仏教寺院に見立てたのではないでしょうか?

秦氏は俗に「景教徒」と言われますが、実際には景教(ネストリウス派)より古い、十二使徒直系のユダヤ系原始キリスト教徒であったと考えられます。一方、日本に伝わった仏教は、仏教の体裁こそしているものの、実際には景教でした。原始キリスト教徒であった秦氏は、仏教が、流派は違えど同じキリスト教であることを見抜き、積極的に導入しようとしたのかも知れません。
ところが更に裏があり、その景教も既に本来のキリスト教ではなく、ミトラ教と習合していたようです。ほかでもない、弥勒とはマイトレーヤー=ミトラなのです。つまり、秦氏が信望した仏教とは、「ミトラ教化したキリスト教」若しくはその逆だったわけです。
後年、空海と最澄が唐より密教を持ち帰り、秦氏の主導によって造営されたばかりの平安京を舞台に活躍しますが、ふたりとも秦氏とは深い関係にありました。空海の母方の出自は秦氏だったと言われます。ふたりが入唐した際の遣唐使団の長・藤原葛野麿は、秦氏を母親に持ち、実質的に秦氏の人間でした。空海は帰朝後、伏見稲荷に接近し真言宗の守護神としましたが、伏見稲荷は秦氏の氏神です。一方最澄は比叡山の日吉神社を守護神としましたが、こちらも秦氏ゆかりの神社です。更に最澄は、マタラ神を念仏の守護神としましたが、これはその名のとおりミトラ神でしょう。現在の日本仏教のほとんどは空海・最澄の門下から出ています。日本仏教には、浄土宗の開祖法然が秦氏の出だとか、浄土真宗とキリスト教の教理の類似とか(本願寺には漢訳のマタイ福音書が秘蔵されてるとの噂あり)、キリスト教との類似が少なからず見られます。一方、密教呪術等はキリスト教とは異質であり、ミトラ教由来とも考えられます。

中間地点に、現在の京都御所がある。 城南宮の参道. 城南宮の参道の 延長線上に広隆寺あり。 レイライン. 夏至の日の出のライン 松尾大社ー蚕の社ー下鴨 神社ー比叡山. 夏至の夕日のライン. 愛宕ー蚕ノ社ー伏見稲荷. 貴船ー元真幡寸ライン. https://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;oe=UTF8&amp;msa=0&amp;msid=201593315152463110257.0004a79014a4fea93d27a

【聖方位】 http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1771072.html
http://221110sw.qj.shopserve.jp/hpgen/HPB/entries/19.html
シリウスが人類のふるさとであり、古代メソポタミア時代からシリウス信仰があったと 前述しましたが、その証拠が現在でも残されています。それは「聖方位」といわれる もので、古代の神殿、神社仏閣は、冬至の夜に位置するシリウス星に向かって、総て 建造されているということです。日本では聖徳太子が建立したとされる法隆寺、中宮 寺、法起寺、さらに広隆寺、四天王寺などの寺院がそうですし、斑鳩京(いかるが きょう)、平安京の都そのものも、その「聖方位」に従って建設されたといわれています。
 古代では、シュメールのジグラッド神殿、バビロンの神殿、そしてメキシコのテオ ティワカンの太陽の神殿といわれるジグラッドも、この「聖方位」に向かって建造さ れています。ギザのピラミッドも実はそうなのです。ピラミッドにある通気孔と呼ば れる通り道が、ピッタリとシリウスを目ざしているのです。
 そして古代の都市も、その中心となる神殿から「聖方位」に向いてのびる大通りを 中心に建造されました。バビロニアのバビロンを始めとして、ローマのポンペイ、メ ソポタミア、ペルシャ、そして中国西域にある西安、洛陽の都市がこれに当てはまり ます。
【聖方位】
 聖方位とは、日本の著名な研究家で古代史家の【渡辺豊和教授】
(京都造形芸術大学)が最初にペルセポリスと日本の巨大前方後円墳
および主要神社、仏閣に共通する不思議な方位として発見し研究されたもので、真北から20度西に振った特別な北を持つ方位のことだ。
言うなれば、北が20度西に振れている角度である。
これを私は「聖方位」と名づけ、日本を中心にペルセポリス、バビロンなど多くの実例とその関係を研究したのが『シリウスの都 飛鳥』(たちばな出版 二〇〇五年)だ。(るいネット記事より抜粋)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&amp;c=400&amp;m=216602


1869秦野北斗:2013/12/22(日) 19:30:31
Re: ネロをギリシア語ゲマトリアで変換すると 1332=666+666
荊の紀氏さんへのお返事です。

秦野です。荊の紀氏さんの思考を疑う文章ばかりですな。
論理性がない、出鱈目の羅列ですな。価値を見出せないな。

> 180
> 天香語山が弓で矢を放つと、矢は加佐郡矢原(やぶ)山に落ちた。天香語山が南東に到ると荒水があり、そこに神籬を建て大神を遷し祭った。さらにそこから百八十軍神を率いて由良之水門に率いて退いたとき、父の彦火明命と再会し、神宝を授けられ速やかに国土を造り修めんと詔りがあり、余社郡久志備之浜に到ると、御祖多岐津姫命がこの地は伊射奈岐命が天降りますいと清き地であり、来るのを待っていたという。そこでさっそく天香語山は天津磐境を起てて神宝を斎い奉り、豊受大神を遷し祭ると、分霊を矢原山に祭った。ここに国が成ったが、そのとき霊泉が湧き、天村雲命が天真名井の水を汲んでそそぎ、その水をもって神饌の料(みず)とした。 http://www012.upp.so-net.ne.jp/houi/tango.htm
>


1870荊の紀氏:2013/12/23(月) 01:09:44
Re: ネロをギリシア語ゲマトリアで変換すると 1332=666+666
秦野北斗さんへのお返事です。(T)・・・ノーモン? 8尺の髀の影が1尺6寸・・・?大地が平らであるなら
中国では,古くは「 天円地方説」 と. て ん え ん ち ほ う せ つ. いう、正方形の大地の上を丸い(お. そらく半球形の)天が 覆っている、. という考え方が普通であったが、漢. の時代(ほぼ紀元前2世紀から紀元後 . http://historyofscience.jp/wp-content/uploads/38-2.pdf#search='渾天'
南へ1万6千里を行ったところ(T)で影がなくなり、その真上に太陽(S)があるとしている(1里は1800尺)。
そして、そこ(T)から北へ1万6千里のところで、8尺の髀の影が1尺6寸であることから、相似三角形の比例関係(例えば△STMと△KLM)によって、太陽の高さ(TS)は8万里であるとした。
これは、図3(b)のように大地が平らであるなら、幾何学的には成り立つ。

蓋天説では、昼夜が生ずる原因は、太陽の光が一定範囲にしか届かないとして説明するのであるが、明らかに日出・日没の実際の様子と相違するので、結局、後漢ころからは図2のような渾天説が主流となった。
これは、天は球形であるとするもので、現代天文学での天球の概念と同様に、経度・緯度に相当する球面座標を設定することができる。
これが、後漢からの中国天文学の発展に大きな役割を果たすことになる。
渾天説についての最も重要な文献は、後漢の張衡(AD 78~139)の『渾天儀』である3)。
張衡の『渾天儀』には、天の一周は365度と4分の1であること、天の北極は地平線の真北から36度の高度のところにあることなどが書かれている

天球儀〈(渾天新図)/(銅製)〉 てんきゅうぎ〈(こんてんしんず)/(どうせい)〉 ... 天球儀 は、天に散りばめられた星々、黄道や赤道などの位置を球面上に表わした器具である。 http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=187722
太陽の南中高度を測定し、一太陽年を求めることが出来る観測機器、「圭表」
圭表
【影】より
…太陽の影は季節によって異なるから,垂直棒を立て,その影の位置,長さを観測することによって東西南北の方位や太陽高度,あるいは時刻を知ることができる。古代の天文観測器のノーモンがこれで,中国では圭表あるいは晷儀(きぎ)と呼んでいた。
圭表」の構造と機能
?? 「圭表」は、中国文明(黄河文明)最古の天文観測機器であるが、その構造は極めて簡単である。
まず、垂直に8尺の棒を立てる。これが「表」である。
この「表」で太陽の影の長さを測るのであるが、その物差しが「圭」である。
後世には、正確に測定するために、水準器も付属した「圭」もある。

??「表」が8尺であるのは、正確に垂直に立てるためと考えられる。
つまり、最も簡単な整数比の直角三角形は3:4:5なので、このような比率で作った定規のようなものを二つ組み合わせれば、容易に垂直が決まるからである。また、天を意味する「表」が身長より低いというのは不都合であるし、弦を区切りのよい1丈(10尺)にするために、6尺:8尺:10尺としたと考えれば、「表」が8尺であることは容易に理解できよう。
午前中の任意の時間に影の長さを測り、この点をaとする。
a点を通り、「表」oを中心とした円を描く。
次に、午後に影の先がこの円と一致した点をa'とする。
aとa'を結べば、正確に東西が決まるというものである。

蓋天論と呼ばれるもので、『周髀算経』にあるように、夏至の影の長さが1尺6寸となる地点(緯度)を世界の中心、「地中(註7)」と考えている。
そして、南に1000里行くと影の長さが1寸短くなるので、1万6000里南が太陽直下になると計算し、さらに、比例計算から太陽高度が8万里と計算している。
しかし、これらは地球が平面であり、しかも、三角関数が一次式になるという仮定での計算であり、直観的な宇宙論と言えよう。

1?? 高さが10尺であること
2?? 「圭」の北端に直立した「小表」があることの2点で異なっている

(1744年)に「表」高10尺(清尺)に改造したのである。従来の「表」の上に継ぎ足した形跡が、現在でも確認できる。
「圭」の方は改造した形跡はなく、長さ16尺5寸(清尺)であるから、明代に製造した時は15尺(明尺)として設計されたようである(註9)。そして、この「圭」の北端に「小表」3尺5寸(清尺)が立っている。
?? まず、この「小表」から考えてゆこう。これは、冬季に影が伸びたとき、「圭」に収まりきれなる場合がある。
そこで、「圭」の北端を立てて、影の高さを読み取り、これを換算して測定するというものである。
尚、観測記録には、「小表」に影が達したときでも「圭」に換算した数値を記録している。

南京で、最も影が長くなる冬至での長さは、3)式で、「表」の高さb=8尺、南京の緯度φ= 32.05°、当時の赤黄交角ε= 23.47°、冬至x= 270°であるから、

、「表」を10尺にしたことを考えてみたい。このことは、8尺の「表」で構築された蓋天論を顧みなくなったということであり、伝統的な宇宙論を捨て去ってまで10尺にした理由は何だったのだろう。

、「表」は清尺の10尺であり、「圭」は明尺の15尺である。そのため、今述べたような機能はこの「圭表」にはない。
もしも、この仮説のように天文家が考えたとしても、明尺と清尺を混同するという失敗をしたことになる。
「表」と「圭」が分離可能であったので、現場でその失敗に気が付かなかったのかも知れない。

8尺以外の「表」には、『准南子・天文訓』にあるような実在したかどうか不明であるが、10尺のものの記載がある。
???? また、梁代の大同10年(544年) には、「地中」より南にある荊州(現在の湖北省江陵県)で、「地中」と影長を合わせようとして9尺の「表」を試みたことがある。
???? 元代には、相対誤差を少なくするために、8尺を5倍にした40尺の「表」が作られた(前出、『中国天文学史』、p.177 〜178 )。

??9??明の1尺は 31.10cm、清の1尺は 32.00cmである(呉承洛、『中国度量衡史』、商務印書館、1937年、p.66)。
?? 10??前出、『中国天文学史』、p. 177。
?? 11??直径1丈2尺の椀状の機器。中心にピンホールがあり、太陽の像が「仰儀」の球面 に投影される仕組みになっており、太陽の位置を観測する。

圭は「土+土」で、土を 盛ることを示す。 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2466
【圭】
《意味》
・{名}天子が領土を与えたしるしとして、諸侯に与える玉器。▽正式の場では手に持って貴族のしるしとする。〈同義語〉・珪ケイ。「玉圭ギョクケイ」「執圭=圭ヲ執ル」〔・論語〕
・{形}かど。きちんとかど目がたっているさま。転じて、すっきりしたさま。〈類義語〉・佳カ。「圭角ケイカク」
・{単位}ますの容量の単位。一圭は、一升の十万分の一。
《解字》
会意。圭は「土+土」で、土を盛ることを示す。土地を授けるとき、その土地の土を三角の形に盛り、その上にたって神に領有を告げた。その形をかたちどったのが圭という玉器で、土地領有のしるしとなり、転じて、諸侯や貴族の手に持つ礼器となった。その形はまた、日影をはかる土圭ドケイ (日時計の柱) の形ともなった。

「土圭」は中国周代の方角や日 影を測る磁針のことで、平安時代以前に日本に伝えられ、機械時計の無かった時代は、 「日時計」の意味として「土圭」が用いられていた。


> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> 秦野です。荊の紀氏さんの思考を疑う文章ばかりですな。
> 論理性がない、出鱈目の羅列ですな。価値を見出せないな。


1871秦野北斗:2013/12/23(月) 09:29:47
Re: ネロをギリシア語ゲマトリアで変換すると 1332=666+666
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001942M.jpg

http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page010.html



1872荊の紀氏:2013/12/23(月) 15:32:08
Re: ネロをギリシア語ゲマトリアで変換すると 1332=666+666
秦野北斗さんへのお返事です。

1400年間に約8度南に移動
長い年月のうちには星も位置を変え「恒星」ではなくなり,北極星も「北極星」ではなくなる。その原因は恒星自身の個々の運動(固有運動)によるものと,観測点すなわち地球の運動によるものがある。前者は数万年のタイムスケールでは重要だが,数千年間では圧倒的に後者の責任の方が重い。地球の自転軸は北極と南極を結ぷ線であるが,その軸は空間に常に固定されているのではない。物体の自転運動をもっと身近な例で見てみよう。このごろ正月の遊びとしてあまり見かけなくなったが,こまを回してみよう。いつまで勢い良く回っているだろうか。いや,こまは回転方向と同じ方向に首振り運動を始めるだろう。初めはゆっくりだが,こまの心棒の傾きが大きくなるにつれ次第に激しくなっていく。こまの重心に働く重力は回転軸を倒そうとするが,回転軸はそれと直角に傾き首振りが起こる。この運動は「歳差運動」と呼ばれる。地球の自転においても同じような首振り運動が起こる。こまの心棒が時々刻々向きを変えるように,地球の自転軸も年々歳々その方向を変える。地球の歳差運動を起こす外力は他の天体(主として太陽)による万有引力である。地球は実は球ではなく赤道方向に膨らみを持つ回転楕円体で(赤道半径は極半径より約20?大きい),また自転輪は公転軸に対し約23度4分の傾斜角をもっている。そのため地球の太陽に近い半球と他の半球では太陽からの引力差が出てきて,この傾斜角を小さくしようとする作用を起こす。その結果,地球は自転方向と逆方向に首振り運動を起こすというわけだ。
地球の自転軸が向きを変えるため天球の座標原点,すなわち春分点は1年間に約50秒(視力1.2の眼で分解できる限界角度)の速さで西へ西へと移動していき,約26000年で黄道を一周して元に戻る。ギリシア時代におひつじ座にあった春分点は今うお座にある。2000年間で黄道一二宮の一星座分移動したというわけだ。春分点移動そのものはすでにBC150年頃ギリシアのヒッパルコスが発見している。時計も望遠鏡もない時代にどうしてこの事実が発見できたのだろう? 歳差運動を起こす外力は太陽からだけでなく月からも,さらに僅かではあるが惑星からももたらされる。地球は太陽の周りに楕円軌道を描いているので太陽・地球の距離は一定ではなく,同じ理由で地球・月の距離もやはり一定ではない。そのため万有引力は絶えず変化し,地球の首振りも僅かながら常に変動している。したがって全ての天体はたとえ自分自身は不動であっても時々刻々天球上の座標値を変える。その変化を表す公式は数十年程度の短期間であれば時間の一次式で与えられるが,一般には非常に複雑な三角関数となる。
天の北極が移動するに伴って北極星はどうなっていくのだろう。私達が「北極星」と呼んでいる星の正式名称はこぐま座α星(2.0等星)であり,今たまたま地球の自転輪の延長上近くに見えるに過ぎない。現在天の北極はこの星に接近中で2100年頃最も近づく。北極星の候補はたくさんありその席には様々な星が座る。事実BC1000年頃中国で「帝星」という名で呼ばれていた当時の北極星はこぐま座β星(2.1等星)であったし,BC3000年頃エジプトで北極星とされていた星はりゅう座α星(3.6等星)であったという。こぐま座α星の次に「北極星」と呼べる明るい星はケフェウス座α星(2.4等星)だがそれはまだ6000年も後のことだ。天の北極は今から約8000年後に,はくちょう座のデネブ(1.3等星)の近くに,12000年後には,こと座のベガ(0.0等星)の近くにやって来る。しかしその離角は数度もあるので私達の子孫は(もし生き長らえていたとして)これら明るい星を「北極星」とは呼ばないだろう。

天の北極が移動するのだから当然全ての星の見え方も変わる。現在私達が日本から眺められる星座も将来見えなくなることもあるし,またその逆もある。南十字星は,現在わが国では沖縄(那覇で北緯26度2分)でしか見ることができないが,1400年前には近畿地方でも見えたはずだ。その様子を筆者の天文シミュレーションソフト「ASTRON」で再現してみよう。図1は今年の5月15日20時の飛鳥(北緯34度5分)の夜空で4等星までが表示されている。中心は天頂を,大きい円は地平線を表す。南十字星は「春の大曲線」の延長上,南の地平線の東南(左下円の外)に描かれている4個の星であり,その一番北の星,みなみじゅうじ座γ星でさえ南中高度はマイナスである。一方,図2は600年の同日同時刻の同地点における夜空で,南の地平線ぎりぎりに一番南の星,みなみじゅうじ座α星が見え,南十字星全体が確かに認められる。1992年と600年の両星の赤経・赤緯および飛鳥における南中高度を計算して表にまとめた。南十字星はこの1400年間に約8度南に移動したこととなる。飛鳥は南に吉野の山々を控えているので南の低空は見えにくいが,小高い山に登れば十分見えたであろう。頃は聖徳太子が隋より優れた文化を輸入し始めた飛鳥時代である。仏教美術・四書五経等のほかに暦学・天文学の知識も導入されたであろう。聖徳太子のブレーンの中には天文の専門家もいただろうし,太子自身,生駒山頂からあるいは難波の浦から南十字星を観たかも知れない。ひょっとして法隆寺のどこかに,あるいは御陵の中のどこかに,十字の星の画が秘蔵されているのではないだろうか。

星の航海術 http://contest.japias.jp/tqj2004/70542/koukai.html
北極星が見られない南半球では南十字星が使われました 。
「南十字星の十の字のかたちの上の星と下の星をむすんで下へ4倍半のばしたあたりが天の南極です。」
(北極星は天の北極にデンといすわっていてくれているので、説明がラクだ)でも、北極星より南十字星の方にロマンを感じるのはどうしてだろう。
 16世紀、ヨーロッパの探検家が南方開拓に出る途上、この星を見て、新しい世界にキリスト教布教を 神が助けているしるしだと感じて、礼賛したからだと言われています。
この星が重んじられている
 もうひとつの理由は方向指針になっているからです。日本にはポルトガル人によって航海術と共に南十字星の名前が伝わりました。

緯度は北極星や太陽,南十字星などの高度から知ることができますが,経度は簡単に は計測できません。 ... これは簡単そうですが,時計が正確でないと誤差が大きくなり ます。 http://socyo.high.hokudai.ac.jp/More_HTML/Hosokawa/essa/essay128.html
手近な天体を測定して,正確な時間と合わせることにより推定する方法です。これは簡単そうですが,時計が正確でないと誤差が大きくなります。1秒の正確さがどれくらいの距離の誤差になるか,赤道上で試算してみましょう。赤道の長さ4万キロを24時間で割れば1時間の誤差が,さらに3600で割れば秒の誤差が計算できます。答えはおよそ500メートルです。誤差が10秒あると5キロメートルの誤差になりますから,精度の高い海図を使うには不適です。1761年に世界で初めて開発された正確な時計クロノメーターは年間誤差30秒,測定誤差2キロ以内という優れものでした。ちなみに,正確な時計と太陽の正中高度から経度を割り出す表は大正時代の日本人の手によるもので,米村表と呼ばれ,現在でも愛用されているそうです。カーナビが位置を割り出すのも原理的に同じですが,天体の代わりに人工衛星からの信号を使っています。

中国はついに緯度経度の入った 海図を創ることはなかったが、10C頃の天球図は円筒投影法を用いている http://skasuga.talktank.net/works/GThesis/N-chap1.html

古代中国の天文学において太陽が真上を通るとされる地点を天球 図で表現する際に赤い線を用いたことが由来である。 赤道の全周長は約40,075 km。 http://ja.wikipedia.org/wiki/赤道
「赤道」という言葉は、古代中国の天文学において太陽が真上を通るとされる地点を天球図で表現する際に赤い線を用いたことが由来である。
赤道の全周長は約40,075 km。春分と秋分の年2回、太陽が真上にくる。
赤道は世界で唯一、太陽が天頂から天底までまっすぐに沈む場所である。そしてそのような場所は理論上、昼の長さと夜の長さが、共に一年を通じて12時間である。しかし実際は大気が太陽光を屈折させるので、2、3分のずれが出る。

2、3分のずれ?

古代中国に一里580mで古代の地球の円周4万6250kmを 割った数=582.49 582.49で4万6250kmを割った数=79.400 79.4・・・・・79.4km・・・・??... http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban10.htm
古代の地球の円周4万6250km

>赤道の全周長は約40,075 km。

地球の子午線周長は約40 008kmである。
すなわち、平均的には
緯度1度の長さ 約111 km
緯度1分の長さ 約1.85 km
緯度1秒の長さ 約30.9 m
と求められるが、実際には地球は回転楕円体に近い形をしているため、緯度によって僅かながら緯度1秒の長さに違いがある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/緯度


> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> 一寸千里の法.は地球の半径6357kmを仮定しているな。
> http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page010.html
>
> 言えることは、短里があったと言えるだけで、一里:76〜77mとは断言できないな。
> 仮定が地球の半径6357kmは大きすぎるぞ。
> http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1907
>
> 結論は簡単で魏志倭人伝の対馬国から一大国(壱岐)までの距離1000余里を実測すれば。
> 対馬国(厳原)から一大国(壱岐:勝本港)の距離が約53km
>
> 短里=約53m、になるな。
>
> 2.始めて海を1000余里渡ると対馬国に至る(「始度一海千餘里、至對馬國」)。大官は卑狗
> (ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山
> は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の
> 市へいく。
> 3.また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る(「又南渡一海千餘里、名曰
> 瀚海、至一大國」)。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000
> の家族が住める。田畑はあるが足りず、市へいく
>
> 文章に気をとられ、現場をみない悪い癖だな。古田も同様だな。
> 理論家は現実を目の前にするのが怖い、理由は正誤の審判が降りる、また、次の課題が
> 生じるため。
>
> > 秦野北斗さんへのお返事です。(T)・・・ノーモン? 8尺の髀の影が1尺6寸・・・?大地が平らであるなら
> >??中国では,古くは「 天円地方説」 と. て ん え ん ち ほ う せ つ. いう、正方形の大地の上を丸い(お. そらく半球形の)天が 覆っている、. という考え方が普通であったが、漢. の時代(ほぼ紀元前2世紀から紀元後 . http://historyofscience.jp/wp-content/uploads/38-2.pdf#search='渾天'
> >??南へ1万6千里を行ったところ(T)で影がなくなり、その真上に太陽(S)があるとしている(1里は1800尺)。
> >??そして、そこ(T)から北へ1万6千里のところで、8尺の髀の影が1尺6寸であることから、相似三角形の比例関係(例えば△STMと△KLM)によって、太陽の高さ(TS)は8万里であるとした。
> >??これは、図3(b)のように大地が平らであるなら、幾何学的には成り立つ。
> >
>

1873荊の紀氏:2013/12/23(月) 15:45:32
Re: ネロをギリシア語ゲマトリアで変換すると 1332=666+666
一里=580m(600mに近いです!) 2005年10月14日 11:15:40 いばらの紀氏古代 中国に一里580mで古代の地球の円周4万6250kmを割った数=582.49 582.49で4万 6250kmを割った数=79.400 79.4・・・・・79.4km・・・・ビンゴでしょうか ... http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban10.htm
中国の地図史
漢代の地理学
領土を広げた漢(202B.C.〜220A.D.)の時代になると地理学は大きく進歩します。天文学者の張衡(2世紀ころ)は、中国地図の特色である“方格図”の創始者とされています。これは100里(58キロ)間隔の直交する縦横線で区切られた地図ですが、中国では西洋科学がもたらされるまで、大地が平らであると考えられていたため、投影法が考案されることはありませんでした
http://homepage1.nifty.com/ptolemy/history/history.htm
参考HP
天文学年表
http://wwwsoc.nii.ac.jp/icic/08_MUSEUM/03_HISTRY_ROOM/ERASTO/ERA.html
エラトステネスはこうやって地球の大きさを測った      4万6250kmと計算した
エラトステネスは実際には「ノーモン」という円柱で太陽高度を測りました。また7.2°は円周の50分の1ですから50×5000スタジア=25万スタジア=4万6250kmと計算したともいわれます。

古代中国に一里580mで古代の地球の円周4万6250kmを割った数=582.49  582.49で4万6250kmを割った数=79.400
79.4・・・・・79.4km・・・・ビンゴでしょうか?偶然でしょうか?
「奈良→伊勢間の距離が80キロであり、伊勢→白山仲居社までは80*2の160キロの単位である。三春→一関も160キロであり、三春は旧百済のソウルに、一関は旧高句麗・平壌と同緯度である。80キロの尺単位が、ソウル→平壌間の緯度差にあるとすると、レイラインの基礎単位が大陸起源の可能性もあるだろう。」・・・・・・・
・・レイラインの基礎単位が大陸起源  でした?
--------------------------------------------------------------------------------
訂正です。
2005年10月14日 11:35:02 いばらの紀氏
一里580mで古代の地球の円周4万6250kmを割った数=582.49 では無く
「80キロの尺単位が、ソウル→平壌間の緯度差」の80キロの尺単位
80キロ=(79.4)の「79.4キロで地球の円周4万6250kmを割った数=582.49  です




1874秦野北斗:2013/12/23(月) 20:43:43
Re: ネロをギリシア語ゲマトリアで変換すると 1332=666+666
荊の紀氏さんへのお返事です。

議論は実測になっているが、結論から言えば、大宝律令の里:約533mですな、短里:約53mは
十分の一になる。

エジプトスタディオンとアッティカスタディオンは測定方法が異なるな。
結構、過去に苦しめられたな。

エジプトスタディオン157.5
250,000スタディアの地球周長を意味し
250000×157.5=39375000
http://astrohouse.fc2web.com/hate606.htm

アッティカスタディオン185
緯度1度が111km:185.185 ×60
185 ×60×60×60 =39960000
http://9019.teacup.com/qametarou/bbs/671

過去のログには間違いが多いな。難しいものだな。
http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1365

短里を元に魏志倭人伝を読むと卑弥呼が生きた当時の韓半島が現れる。

秦野著書:徐福と邪馬台国

> 一里=580m(600mに近いです!) 2005年10月14日 11:15:40 いばらの紀氏古代 中国に一里580mで古代の地球の円周4万6250kmを割った数=582.49 582.49で4万 6250kmを割った数=79.400 79.4・・・・・79.4km・・・・ビンゴでしょうか ... http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban10.htm


1875管理人:2013/12/23(月) 23:16:09
Re: ネロをギリシア語ゲマトリアで変換すると 1332=666+666
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 秦野北斗さんへのお返事です。
>

> 地球の子午線周長は約40 008kmである。
> すなわち、平均的には
>??緯度1度の長さ 約111 km
>??緯度1分の長さ 約1.85 km
>??緯度1秒の長さ 約30.9 m
> と求められるが、実際には地球は回転楕円体に近い形をしているため、緯度によって僅かながら緯度1秒の長さに違いがある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/緯度
>
>


ちょっと込み入った話になってきてますが、昨年論議したように、111kmの10分の11,1kmの尺度で、6世紀ごろの渡来系技術集団が測量していたことがありました。

それ以前の尺は若干それより短い10.5km、 10.8kmを用いていて、それは各時代の尺単位の伸びに対応していました。

昨年は、先に定規である尺(鏡の直径)があって、その延長線上に、上記の距離があるとの考え方がメインで、地球の円周から分割して、上記の尺度を出し、さらに23~30cmの尺を等分して算出したという視点はサブだったように感じます。

ただ、こう論議をお聞きしていくと、サブがメインだった可能性もでてくるわけですね。


しかし、そうすると、111kmは1度分ですから、地球の円周に対して、90度(180分割)という概念がまず成立していなければなりません。

1周を360分割する概念は、360日に由来して、ギリシャにありますが、おそらくはもっと古代の各文明にあった概念でしょう。

関連して、360分割するか、365分割するかで、パーセンテージが少し異なります。


111kmは、109kmまで短くなりますね。

この数値がどうして比例的に時代とともに長くなっていったのか?
が課題です。何か北斗七星と北極製などの2星を基準としていて、地球の周回距離を算出していて、その星と星の間の距離が長くなったので、必要以上に長く計算された。その長くなった原因は以前から論議にあるご指摘の地軸の傾きでしょうか。


官位的な計算法があったはずです。それが古代中国の文献や測量技術などにも痕跡がみられるかどうか?

1876荊の紀氏:2013/12/24(火) 00:17:53
Re: ネロをギリシア語ゲマトリアで変換すると 1332=666+666
管理人さんへのお返事です。

霧島連山にある高千穂峰もまた、高千穂町と同じくニニギノミコト天孫降臨伝説の残る地 。 ... この剣は、イザナキとイザナミの「天の沼矛(あめのぬぼこ)」であるとか、ニニギ ノミコトが雲の上から地上に降り立つ場所をさぐるために使った後、山頂にさかさに立て た ... http://www.kanko-miyazaki.jp/kaido/animation/index05.html
頂上に座する天の逆鉾は、三叉(みつまた)の剣で鉄あるいは銅製、長さ138cm、周囲26cmの大きさとなっており、
4尺6寸(138cm),
26cm(8寸) ・・・3.25cm

1寸=0.1尺 = 約3.03センチ
>天戟の寸法 長さ 8寸+4寸=12寸 「月牙」(刃)弧の直径6寸 2寸
12寸=3.9メートル

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鑑(かがみ)凹面鏡   ?母(倭の偉大な人) 我・・・戈(かが)・・・ノーモン? http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
皿に水を張って水鏡としてそれを上から覗く
監とは (カンとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
意味: 鏡、鑑みる(鑑と通じる)、上から下を見る、見張る、取り締まる、お目付け役、政治 を代行する、役人、宦官、監獄、という意味がある。
字形諸説ある。〔説文〕は、臥に従い?の省略を声符とする形声としている。ほかに、臥+皿の会意で、皿に水を張って水鏡としてそれを上から覗くという字であるという説、臨声で皿に従う形声説、臨声で血に従う形声説などがある。音訓音読みは、カン(漢音)、ケン(呉音)、訓読みは、かがみ、みる。名のりに、あき・あきら・かね・ただ・てる、などがある。
臥す、うつぶせる、休む、眠りにつく、倒れる、横になる、捨てる、隠れる、寝室、という意味がある。〔説文解字・巻八〕に「休するなり」とある。段注本では、休を伏の誤りとして「伏するなり」としている。字形人+臣の会意。〔説文〕に「人臣に從ふは、其の伏するを取るなり」とあり、臣下が伏せる意としている。ほかに机に伏す意味があるので、臣+几の会意説もある(几は机の象形)。しかし臣は甲骨文・金文では目の象形であるので、下を覗き見る意とする説がある。音訓音読みは、ガ(漢音、呉音)、訓読みは、ふす。 http://dic.nicovideo.jp/a/

反射望遠鏡ってなに?|キヤノンサイエンスラボ・キッズ
レンズだけを組み合わせたくっ折望遠鏡に対して、反射鏡を利用した望遠鏡が反射 望遠鏡です。くっ折望遠鏡では、とつレンズの持つ「光を集める」「像をつくる」という はたらきを利用していますが、おう面鏡も、これと同じはたらきを持っているのです
反射望遠鏡ではこの部分におう面鏡を使います(対物鏡と呼びます)。つまり反射望遠鏡では、対物鏡の作った像を、接眼レンズで観察するわけです。ただし、反射鏡ですので、天体からの光はやってきた方向にはね返って像をつくります。この像をのぞくと頭がじゃまになるので、反射望遠鏡ではいろいろな方法で光を筒(つつ)の外に導き出し、観察するような工夫がされています。 http://web.canon.jp/technology/kids/mystery/m_02_07.html

中国鏡の日本への渡来は弥生時代中期から確認される(日本での金属鏡の 始まりは前2世紀前後)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/
最初の鏡は、水溜りの水面に自らの姿形などを映す水鏡であったと考えられる。その後、石や金属を磨いて鏡として使用していたことが遺跡発掘などから分かっている。現存する金属鏡で最も古いものは、エジプトの第6王朝(紀元前2800年)のもの。以来、銅・錫およびそれらの合金を磨いたもの、および水銀が鏡として用いられる。


> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> > 秦野北斗さんへのお返事です。
> >
>
> > 地球の子午線周長は約40 008kmである。
> > すなわち、平均的には
> >??緯度1度の長さ 約111 km
> >??緯度1分の長さ 約1.85 km
> >??緯度1秒の長さ 約30.9 m
> > と求められるが、実際には地球は回転楕円体に近い形をしているため、緯度によって僅かながら緯度1秒の長さに違いがある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/緯度
> >
> >
>
>
> ちょっと込み入った話になってきてますが、昨年論議したように、111kmの10分の11,1kmの尺度で、6世紀ごろの渡来系技術集団が測量していたことがありました。
>
> それ以前の尺は若干それより短い10.5km、 10.8kmを用いていて、それは各時代の尺単位の伸びに対応していました。
>
> 昨年は、先に定規である尺(鏡の直径)があって、その延長線上に、上記の距離があるとの考え方がメインで、地球の円周から分割して、上記の尺度を出し、さらに23~30cmの尺を等分して算出したという視点はサブだったように感じます。
>
> ただ、こう論議をお聞きしていくと、サブがメインだった可能性もでてくるわけですね。
>
>
> しかし、そうすると、111kmは1度分ですから、地球の円周に対して、90度(180分割)という概念がまず成立していなければなりません。
>
> 1周を360分割する概念は、360日に由来して、ギリシャにありますが、おそらくはもっと古代の各文明にあった概念でしょう。
>
> 関連して、360分割するか、365分割するかで、パーセンテージが少し異なります。
>
>
> 111kmは、109kmまで短くなりますね。
>
> この数値がどうして比例的に時代とともに長くなっていったのか?
> が課題です。何か北斗七星と北極製などの2星を基準としていて、地球の周回距離を算出していて、その星と星の間の距離が長くなったので、必要以上に長く計算された。その長くなった原因は以前から論議にあるご指摘の地軸の傾きでしょうか。
>
>
> 官位的な計算法があったはずです。それが古代中国の文献や測量技術などにも痕跡がみられるかどうか?

1877一大率:2013/12/26(木) 10:53:12
(無題)
> それ以前の尺は若干それより短い10.5km、 10.8kmを用いていて、それは各時代の尺単位の伸びに対応していました。

1度が108km、故に4度で432km。 432kmが千里、故に1里は432m。

魏志倭人伝は記述されている。

狗邪韓國

對海【馬】國

一大國

末廬國 は、
緯度的に4度差つまり1000里=432kmで記述している。


邪馬壹【臺】國は畿内です。

1878荊の紀氏:2013/12/26(木) 12:16:09
Re: (無題)
一大率さんへのお返事です。
案山子さんへのお返事です。

魏志倭人伝は単里になる。『四百里』を一辺『四百里』の正方形は里と考えます。
中国史籍は単里になっている。

案山子さんの一里=1800尺×24cm=432mで計算すると
方四百里は一辺:400×432m=172800=172.8km
九州:162km×240km

古田の単里=77m
方四百里は一辺:400×77m=30800=30.8km
対馬(厳原):24km×25km

伯爵で九州の領地は、これは1つの国ですな。伯爵の領地としては対馬(厳原):24km×25kmぐらいが妥当でしょう。中国史籍に従い単里に訂正です。注、古田の単里=77mは間違っていますので注意してください。実際もっと小さい。


尚、領域を円で示されてますが、魏志倭人伝の文書には四方、方位+直線距離で記されている。円はありません。



> > それ以前の尺は若干それより短い10.5km、 10.8kmを用いていて、それは各時代の尺単位の伸びに対応していました。
>
> 1度が108km、故に4度で432km。 432kmが千里、故に1里は432m。
> で
> 魏志倭人伝は記述されている。
>
> 狗邪韓國
> ↓
> 對海【馬】國
> ↓
> 一大國
> ↓
> 末廬國 は、
> 緯度的に4度差つまり1000里=432kmで記述している。
>
>
> 邪馬壹【臺】國は畿内です。

1879荊の紀氏:2013/12/26(木) 12:30:47
Re: (無題)
> 一大率さんへのお返事です。
> 案山子さんへのお返事です。
>

「一里=約七六〜七メートル」だった。これはわたしがかつて『「邪馬台国」はなかった』でしめした魏晋(西晋)朝短里(一里=約七五メートル。精しくは「七五〜九〇メートル」の間で、七五メートルに近い、とした)と驚くべき一致をしめしたのである。氏はこの両者の一致を「単なる偶然の一致」としてすませることは出来ない」と結ばれた。
 思えば、わたしにとって氏との邂逅(かいこう)は、楽しき思い出にみたされている。当時京大の工学部の学生であった氏は、わたしに一葉の書便をもたらされた。その中で、わたしの本に着目したのは、一に「学問としての方法」にあることを、懇切にのべておられたのである。
 爾来、氏はわたしの家にしばしば訪れられ、わたしもこの若き探究者に最近の発見を告げることを楽しみとするようになった。そのある目(一九七五年)、氏は“『周髀算経』が「短里」で書かれている”という、自己の発見を告げられたのであった。わたしの家の夕食の席でしめされた一片の計算用紙、それが今もわたしの手もとになつかしく保存されている。
魏志倭人伝と短里 『周髀算経しゆうひさんけい』の里単位 http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku14/atogaki.html
倭人伝の「一万二千余里」(帯方郡治→女王国)が「短里」という実定値で書かれている、とすれば、あの「邪馬台国」近畿説がもはや成り立ちえないことは、自明だ。なぜなら従来の近畿説は、この里程記事を誇張として「無視」ないし「軽視」するところに成り立っていたからである。
 さらに、「誇張」等の名に乗じて、「部分里程」の総和が「全里程」(一万二千余里)にならぬまま放置して、その上に立論してきた、従来のすべての「邪馬台国」論者も、今や鼎(かなえ)の軽重を問われるに至ったのである。
 その第三は、卑弥呼の墓だ。「径百余歩」と書かれた、その長さは、「一里=三百歩」(『周髀算経』等)であるから、「三〇〜三五メートル」の円冢(=塚)となる。従って「一五〇〜二〇〇メートル」の前方後円墳(たとえば箸墓)などにあててきた、従来の知見は当然否定されざるをえない。
 このように、「短里」問題を契機として、邪馬一国研究史は画期をむかえた。後代、忘るべからざる必須文献となるであろう、この谷本論文を、氏の御快諾をえてここに収載させていただくことを喜びとする。現代の若き探究者が独創的に、未来の広大な研究の基礎を築いた、これこそその明らかな証跡となるものであろうから。

『周髀算経』という中国古代の天文算術書の中に現われる「一里」は約七十六ないし七十七メートル程度である(拙著「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」『数理科学』一九七八年三月号)。
 有名な「魏志倭人伝」の中の里は、通常の里単位認識では到底理解できない。これを、誇大値の類とせず、従来知られていた里とは異る「短い里」として理解されたのが、安本美典氏、野津清氏、古田武彦氏などであった。特に、古田氏は、『「邪馬台国」はなかった』その他の著作で「魏晋(西晋)朝短里」という概念を提出された。それによれば、一(短)里は約七十五ないし九十メートルであり、しかも七十五メートルに近い数値であるという。『周髀算経』の里と古田氏の提示された短里とは、数値がきわめて近く、単なる偶然の一致とみなすことはできないであろう。

 『周髀算経』は周の時代(西周はBC一〇五〇年〜BC七七一年)に行なわれた天文観測の方法を記載する中国最古の天文算術書であるといわれている。
 中国の古代の算術書は、いわゆる算経十書として版本が伝わっており、その中でも、『周髀算経』『九章算術』『海島算経』などは漢から三国時代(二〜三世紀)にかけて整理され、教科書として使用されていた模様であるから、中国古代の算術知識を知る上で興味深いと言えよう。
 『周髀算経』という書物の成立時期は、だいたい三世紀初め頃と思われる。初めて注釈した趙君卿(ちょうくんけい)という人が、「漢」の趙君卿と記しており、その注に引用されている書物のなかで後漢の劉洪(りゅうこう)の作といわれる『乾象歴けんしょうれき』(二〇六年頃)が最も新しいことから、趙君卿が注釈整理したのは、二〇六年から二二〇年(後漢末)の間の時期ということが分かる。『漢書』芸文志には『周髀算経』の名は見られないので、前漢以前には現存のような形では知られていなかったようである。

 『周髀算経』は、周公(周の武王の弟)と商高(当時の賢大夫)の問答から始まる。ここでは天文観測の方法の基礎が、勾股弦(こうこげん)の法、用矩(ようく)の法として述べられており、内容的には原始的な三角測量の原理と簡単なピタゴラスの定理の応用である。
 直角三角形の直角を挾む二辺を勾(句とも記す)、股といい、斜辺を弦と呼ぶ。三対四対五の率は、「自然の率」として非常に古くから知られていたようである。なお、本書では、二辺が既知の場合に他の一辺を開平により求める一般的なピタゴラスの定理の応用も見られる。用矩の法とは、直角三角形の相似関係により、距離・高さ・深さなどを求める方法で、原始的な三角測量法ということができよう。「矩」とは、その正確な形状は分からないが、さしがねの様な形をした測量具である

南北に各々千里離れた三地点で夏至の日の影の長さが分かっているのであるから、三角法の簡単な計算により(図3参照)、観測地点は北緯約三十五度であり、一里は約七十六ないし七十七メートルと知ることができる。勿論観測の誤差などを考えれば、有効数字としては慎重に処理しなければならないにしても、従来知られていた約四百〜五百メートルの里とは明らかに異る里単位である点を確認することが重要である。

1880秦野北斗:2013/12/26(木) 13:17:55
Re: (無題)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001951M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝



1881管理人:2013/12/26(木) 23:05:08
Re: (無題)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001952M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝



1882荊の紀氏:2013/12/27(金) 01:47:38
Re: (無題)
管理人さんへのお返事です。
呼邑国
「qaw」に充てたもので「測り縄」の意味です。呼邑国は所有者の土地、畑の面積を測り、管理する測量府でしょう。所有者の土地登記は各郡国の役所で行なわれたことでしょう。(4.12.)


副官は卑奴母離、ヒナモリとされていますが、これは、hdblの 子音に充てたものとして捉え、その直訳は「その記録人」という意味 ... http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage46.htm
対馬国ー卑狗、卑奴母離
別項で、ツァバに充てた漢字で、その意味は「軍務」「兵役」であるとしました。それが後のヘブライ一掃で、「つしま」と読まれるようになったのであります。

一支国ー卑狗、卑奴母離
魏志には、一大とも記されたこともありましたが、後にそれは誤りであるとされ、今の「壱岐」の前身であろうと考えられるようになりました。筆者も一大は、伊都と混同されたものと考えます。
一支は、yqに充てた漢字で、「間節がはずれる」「遠ざかる」という意味で、この動詞の変化形には、「つるす」「さらし者にする」「刺し殺す」という強い意味が込められたものもあります。密入国者は、ここでこってり油をしぼられたものと考えられます。ここは、いわば出入国者の検問所であり、管理のための記録が取られていたのでありましょう。(12.15.)

伊都国(王都)―爾支、泄謨觚、柄渠觚
伊都王亡き後も、その郡国が魏に知らされたものです。
「イト」は「入り口」を意味する「イトン」を充てたもので、「伊都国」は「入口の国」の意味です。
九州の北端にあって、文字通り大倭列島への入り口の役割りを果たした郡国といえるでしょう。(修正更新3.26.)
爾支は、「ネキ」に充てられたもので、「私のネコ(軍兵)」を意味しているので、王直属の軍兵を指すと見られます。
泄謨觚は、'bqの子音に充てられたもので、意味は王の「護衛官」でありましょう。
'は、無子音で、ここに母音が充てられます。
母音を充ててオベクとしますと、直訳は「格闘する者」「組打ちする者」で、護衛の意味に充てたものであります。
柄渠觚は、hqqに充てたもので、直訳は法を「制定する者」の他に「書き込む者」の意味があるので、「書記官」としました。
各府で記録されたものがここに集められ主要なものが記録される、言わば最高書記官でありましょう。
これらの官は、王の遷都に伴って一緒に移動したことでしょう。

奴国―シ馬觚、卑奴母離
「奴」はヘブライ語のダンに充てた「裁く者」の意味です。
「刑務管理府」で、「紀(斉明天皇の項)」に載っている、後の「刑部省」でありましょう。
シ馬觚は、セバカに充てたもので、直訳は「格子窓」で、監獄や今日の刑務所を意味しています。
「シ馬觚」は監獄管理の長官であります。「卑奴母離」によって、その記録も行われ管理されていました。

不弥国―多模、卑奴母離
不弥は、hmに充てたもので、不弥国とは「声明を発する国」という意味です。
「多模」は、子音t´mに充てたもの、直訳は「布告」で、お触れを出す者、広報官のことであります。
その記録も取られ残されたのであります。
タアムには、「判断」の意味も込められています。(2.14.)

投馬国(教育府)―弥弥、弥弥那利
エドムは、後のヘブライ一掃で「出雲」となったことは別述しました。そして、投馬国はエドムにありました。
出雲の国、島根県の隠岐島には、都万村(つまむら)という名の村がありますが、この都万は、投馬から取ったものでありましょう。投馬は、ヘブライ一掃後は、「つま」と読まれることになったのです。
エドムからは、エトマも生まれました。エトマという地名が生まれる陰には、この投馬をトマと読んだこともあるでしょう。
筆者は以前には、投馬はエドムに充てたものと見ておりましたが、「投」はトウであってd音には充てない、この「馬」はどう見てもb音に充てたものである。従って、「投馬」は純粋にtb音に充てたものであると考えるようになりました。
その結果、投馬はトーブに充てた音と理解しました。倭人の発音が魏の書記者には、トーバと聞こえたかも知れませんが、それはどちらでもよいことです。
「トーブ」とは、宮沢賢治の童話に出て来るイーハトーブのトーブです。ヘブライ語で、「良い」「幸せ」「慈愛」「美しい」「立派な」の意味のこもった言葉です。イーハトーブをヘブライ語であると仮定しますと、その意味は「貴方の島は美しい」という意味になります。勿論、宮沢賢治がそのように意識して造語したかどうかまでは判りません。
つまり、大ユダでは、教育府をエドムに置くことになり、その新しい命名が、「トーブ」であったのです。エドムは、トーブとも呼ばれるようになったのです。
官職、「弥弥」はm'mnに充てたもの、直訳は「教育させる者」「育成させる者」の意味になり、教育官のことです。
副官「弥弥那利」の「那利」は、nlyに充てたもの、直訳は、「完遂した人」「終えた人」の意味で、教育官を終えた人、即ち、名誉職のことであります。大学教授を退官して名誉教授になる、と考えると判り易いのです。
nly「ナリ」は、後の日本語の「成り」になったことでしょう。
大ユダの民の中で志の高い人々が、この「慈愛の国」に集まって高い教育を受けたのであります。(12.18.)

邪馬台国(司法府)―伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳ダイ
大ユダの頃のユダの当て字は「倭奴」でありました。
志賀島で発見された金印に記された「漢委奴国王」はその頃のものです。後漢書には、「倭奴」の表記があります。国内で作られたともいわれていましたが、この金印が国内で作られたものであるのなら、「奴」の文字は使わなかったでしょう。
卑弥呼の時代にはユダは「倭」一文字で記されています。「魏志倭人伝」には大ユダは「大倭」と表記されたのであります。
「日本書紀」には、魏志倭人伝に関する記載は、よそ事のようにしか載っていません。ところが実際には、この古文書は大ユダでは、大いに研究されたのであります。それは地名を改めるに際して大いに役立ちました。魏志が未来の国民に読まれるであろうことは充分想定されていたのであります。
「後漢書」からしますと、ヘブライ人の国は百余国あったのでありますが、卑弥呼が女王になって、魏に知らされたのが、魏志倭人伝に記載された三十国であったのです。大ユダの権力基盤が九州から近畿地方にまたがって集中していたので、この三十国で大方のまとまりが付いたのであります。
この頃には、飛脚が毎日のように飛ばされ、情報交換が繁茂に行われたことでしょう。その官名からして、邪馬台国は大ユダの司法府でありました。
伊支馬は、'qbに充てたもの、直訳は「足跡」「追跡者」の意味で、「捜査官」のことであります。恐らくこの頃から、「強いて晒す者(自白させる者)=オカッピキ」と「曲がった者(容疑者)とする者=メアカシュ」が活躍していたと考えられます。
その頃から「しきりにせがんで争いを仕掛ける者=ゴロツキ」と「震え慄かれる刺し殺す者=ヤクズア」が存在していたからであります。
ヘブライ一掃後、伊支馬の官名は無くなりましたが、オカッピキとメアカシュの名は、江戸時代には「岡引き」「目明し」と当て字されて、残ったのであります。この二つは魏志には記されなかったからです。
次に、弥馬升ですが、mbshに充てたもので、直訳は「恥をかかせる者」「恥を見させる者」です。裁判官にクロと判決を下されることで被疑者は恥をかかさせることになり、犯行の証拠を見せられることで、恥を見させられることになります。即ち、「恥をかかせる者」とは「裁判官」のことであります。大きな裁判に至っては、卑弥呼が裁判長となったことでしょう。
弥馬獲支は、mbqshに充てたもの、直訳は「求めさせる者」「捜させる者」「追求させる者」で、証拠を捜し求めさせる者、取り調べて明らかにするために追求させる者としても、「検察官」のことであります。
奴佳ダイは、dnkdynに充てたもの、直訳は「弁護としての裁く者」で、「弁護官」となります。(2.14)

狗奴国―狗古智卑狗
「魏志倭人伝」には、「その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。女王に属せず」「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず」とあります。
狗奴は、gd、ガドに充てたもので、「攻撃する」の意味で「軍事実動府」。「末盧国」とされた兵の駐屯地と密接に繋がっていたと見られます。
狗奴国の男王は、「卑弥弓呼」と呼ばれていて、「狗古智卑狗」は、大ユダにおける官職名です。
「卑弥弓呼」は当時、既に蔑称であり、hmqqに充てたものなら、「入墨の騒ぐ者」となり、hmnqqでは、「入墨の反逆者」「入墨の狂暴者」という意味になります。これは「新羅本記」記載の「葛那子」のことです。
狗奴の男王(軍事府の司令官)は、卑弥呼が大ユダの女王となっても、それを受け入れようとしなかったのであります。
「狗古智卑狗」の「卑狗」は、対馬国と一支国のホゲと同じもので、衛兵、兵士のことです。「古智」は「葛」と同じものカツィンに充てたもので、「指揮官」「首領」の意味になります。残りの「狗」g音は、「高官」を示す「高い」という意味の語でありましょう。
「狗古智」は「最高司令官」、即ち、狗奴国の男王は、大ユダ軍事府の組織マトゥラの最高司令官であったのです。この司令官「那古」が女王卑弥呼に対して叛乱を起こしたことにより、大ユダを二分する大きな戦闘となったのであります。
『万葉集巻1の6、ヘブライ語修復訳』にある、入墨の男とは、この最高司令官のことを言っているのです。(修正6.12.)

伊都国の一大率
魏志には、「尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。租賦を収む、邸閣あり、国国市あり。有無を交易し、大倭[大ユダ]をしてこれを監せしむ。」とあるように、大ユダが税としての貢(租賦)を受け、各郡国の人々の市場における物と物、労働と物、といった交易を、統括管理していたのです。
「女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。国中において刺史の如きあり。」
意味の判り難いのがこの「一大率」ですが、これが、yts−dy−shytに充てたものとしますと、「出て行く(来る)者の度毎に置く」という意味になります。その郡国から出て行く者が出る度毎に、そこに検察を置いて調べるということでしょうか。
理由なくそこを出て行く者が出るからには、その国には何か問題があると捉えられたのでしょう。諸国はこれを非常に畏れた。
「刺史」とは、各国の長の政績を報告する官のことです。常に伊都国に治すとあるのは、伊都国の王の所には各国のことが定期的に報告されていたのであります。女王国より以北の七十余国に関しては、その報告により、おおよそのことは王都には把握されていたことでしょう。
卑弥呼が女王となったことによって、その報告は邪馬台国の卑弥呼の所にもいくことになります。その報告から、狗奴の男王が服さないことが知らされたわけです。
それまでは、それほど置かれることも少なかった一大率も、卑弥呼が女王となってからは、繁茂に置かれるようになったことで、各郡国の国民もそれを恐れたのであります。
帰郷していた兵士の中には、入墨の最高司令官那古の強い影響下にあった者もあって、各郡国の内部には争いも生じ、所によっては厳戒体制が敷かれたことでしょう。(2.14.)

n音の脱落
恐らく読者はお感じになったであろうと思われますが、魏の書記者は、発音を正確に記録することにそれほど熱心ではなかったこと。「ン」に該当する「n」を表記から省略してしまったこと。等が挙げられると思います。
通訳を介したとしても、魏の記録者は、聴き取れた子音のみを漢字に充てたこと。
官名にしても、官名そのものよりも、官名の説明の方を官名として充てた可能性も少なくないと考えられます。例えば、「裁く者」は、ダンでありますが、裁判官をダンとした場合、奴国のダンと混同することになります。
そこで倭人が、ダンとは「恥をかかせる者」と説明を加える。魏の使いは、その説明の方の「メバシュ」を官名として、「弥馬升」とした、とも考えられるからです。
「一大率」にしても、その当て字は巧みでしたが、説明としてはわかり難いものともなりました。(2.14.)

統一大ユダ(大倭)と郡国ユダ(倭奴国)
「魏志倭人伝」「後漢書倭伝」には、「皆倭種なり」とあります。これは、どの郡国もみな古代イスラエル十二部族に繋がる血筋で同じ種族という意味です。
郡国のユダとは分ける意味で、統合のユダを大ユダ(大倭)としたのであります。(2.14.)

聖徳太子の大委国
「委」は今日でこそ、おくり仮名をつけて「委(ゆだ)ねる」と読まれていますが、まだ大和言葉や、日本語の文法も充分発達していない頃は、「委」一文字で「ユダ」と読まれたこともあったのです。
文法が統一されていない時期にはこうした書き方がしばしば行われたことは、『君が代』の項を読まれればお分かり頂けると思います。
聖徳太子が注釈を加えたとされている『法華義疏』の注釈には「大委国」とあり、この「委」はこの一文字で、ユダと読まれたのであります。
要するに太子は、かつて「大委国」と記したことがあったのです。
ただ、太子が著したとされる書物の殆どが後世の人が覚書を基にして書き著したもので、太子直筆の書き物というのは焼却され残されていないでしょう。
もう一つは、ヘブライ語を用いていた大ユダ時代には、「大倭」「大委」の文字を使用した国名は一度も使われたことがなく、「大委国」とは「大ユダ」を表現する一つの試みとして造語されたものとも思えます。
ただこの試案の使用は後に否定されたのです。それ故「大委国」の表記は「記紀」には使用されませんでした。「大倭」が専ら用いられるようになったのです。(2.14.)

国名としての官府
「魏志倭人伝」に録された倭国三十国各々の国名は、官府としての名称がその殆どを占めているようです。これと考えられるものを挙げていくことにします。
魏に対して、倭人は主に大ユダ直轄のそれぞれの官府を紹介したのです。というよりも大ユダの行政機構そのものを説明したのです。
その行政組織そのものが「魏志倭人伝」では倭国三十国として記載されたのであります。

新たに判明したこと
これは何を意味するのかと申しますと、邪馬台国の遣使が魏に行った際に、大ユダの行政組織やら事情やらの総てを説明したのです。
魏ではその倭人の説明通りに記録したのであります。恐らくはその説明者は難升米(実は難斗米の誤記)だろうと思われますが、その故もあって卑弥呼は魏から絶大な信頼を得たのです。
倭国三十国で固有名詞と考えられるものは邪馬台国と伊都国のみで、その他は皆一般名詞化したものばかりです。どういうことかと申しますと、東京国、大阪国、神奈川国といった記し方をした固有名詞は邪馬台国と伊都国のみで、他は皆、文部科学国、農林水産国、総理官邸国といった表記の仕方をしているということです。
解読して判明したことですが、狗奴も奴も烏奴も既に一般名詞としての記録です。
躬臣国、巴利国、好古都国と国名として並んでいますと、誰もが吉備国、播磨国、薩摩国というように地方の固有名詞が並んでいるのだろうと思います。ですが現実は下記のように、今で言う官庁や省庁の役所を意味する言葉に国を付けて表わしたに過ぎなかったということです。
ヘブライ語の子音は比較的しっかりと表記されているのは、記録者が倭人の発音から直に聴き取ったものであるからでしょう。
晋の陳寿はその魏の記録を元にして「三国志」に「魏志倭人伝」として残したものの、「難斗米」から「難升米」への誤記はその時に生じたものと考えられます。
水行何十日といった表記で場所の特定が不明瞭なのは、書記者が倭国に行ったことがあるわけでもなく、言葉もよく通じないのと当人もよく理解しないまま、倭人の言ったことをそのまま記したので、不正確になったのは当然と言えば言えるかも知れません。(4.15.)

弥奴国(貢納府)
弥奴は「md」「ミッダ」に充てたものでしょう。その意味は「貢納義務」ですから、国民の税としての貢納を管理していた官府、今の国税庁に似たものといえましょうか。取り敢えず「貢納府」とでもしておきましょう。

鬼国(軍事防衛府)
漢音は「キ」ですが、これは「qyn」に充てたもので意味は「槍」。勿論、倭人が魏の使いに武器庫を案内したわけではなく、ここは軍事に関する官府でしょう。武器や軍事に関する事の管理、「軍事防衛府」としておきます。
「マトゥラ」はあくまで衛兵や軍兵の駐屯地で、軍事作戦に基づく指令はここから出されていたのではないでしょうか。

蘇奴国(監獄管理府)
蘇奴は「sad」「サド」に充てたもの。意味は足枷(あしかせ)の「枷」、監獄管理でありましょう。
蘇奴を小豆島に比定する学者もおられますが、監獄そのものは島かも知れません。島流しの刑は早くから行なわれていたのでしょう。この監獄管理の官府は島の対岸にあったのかも知れません。囚人を隔離する場として島は利用し易かったからです。[監獄管理府]としておきます。

姐奴国(衣料府)
姐奴も蘇奴も、どちらも子音は「sd」ですが、こちらは女性に関わりが深い、或いは官職は女性が多かったかしたので、女扁の「姐」をs音に充てたのでしょう。「sdyn」のサディンに充てたもので、意味は「亜麻布の着物」。
この役所は衣料全般に亘る管理をしていたのでありましょう。各郡国の衣料、織物技術、布団、服飾、装身具に関する職業訓練(織物製作所)の指導、管理。官使の為の制服のデザイン、製作、等。「衣料府」。

躬臣国(薬事府)
クジ、またはコジと読まれている躬臣は、「qtsy'」「ケジア」に充てたものと思われます。ケジアはヨブの二女の名前でもありますが、この場合の「ケジア」は、「桂皮、肉桂」の意味です。
桂皮は、その薬効としての発汗、解熱、鎮痛、興奮に作用する生薬として、漢方薬に多く用いられています。
薬剤師は治療師と兼ねていたでしょうから、主に薬草、薬物の手配と管理。即ち、躬臣国は薬事に関する管理の「薬事府」としておきます。

巴利国(医療府)
ハリ国の「ハリ、hly」は「病人」の意味ですので、「医療府」としておきましょうか。病人の治療に当たる治療師の手配、各郡国内の優秀な治療師の把握、治療所の管理。場合によって入院病棟の管理?官使が非常設看護師となる?常駐治療師が看護師代わり?非常事態に際しては「薬事府」「医療府」総動員?

好古都国(庶務管理府)
コカタ国と読まれていますが、古都は「qtn、カトン」に充てたもの、「好」は「qw、コヱ」に充てたものと捉え、その意味は「身分の低い者の集まる所」と思われます。
住民登録は各々郡国内の役所で行なっていたでしょうから、ここは大ユダ国と一般庶民の折衝する場、国からの窓口、が主目的だったのではないでしょうか。庶民の全国規模に亘る職業安定所の役割と庶民の相談窓口。全国の職業技能者の把握。「庶務管理府」としておきましょうか。(4.6.)

斯馬国
「shb'」に充てたもので「豊作、豊富、満腹」の意味があります。
他に食物、食糧を意味する言葉があるにも関わらず、「シャバ」が選ばれたのはやはり「豊作」がベストのネーミングであったからでありましょう。多分、米、麦に限らず、穀物全般と野菜、果物、酢、塩、酒、魚貝、海藻も含む食物全般を含む管理の府と思われます。
「斯馬」をsobe'に充てたと考えると「上等の酒」という意味になりますが、やはり「豊作(shaba')」に充てたと考えるほうが妥当でしょう。一応、穀物管理府、食物管理府、食糧府と色々に表現出来ます。
「記紀」に出て来る「アヒラ」「タラシ」はこの食糧府の官職の中の一部門を表現したものでありましょう。

伊邪国
「yeza」に充てたもので意味は「汗(あせ)」です。ここは言わば労働省で、土木、建設、林業、採石、採鉱、漁業、農業、農園、労働全般に関しての管理府でしょう。「労働府」としておきます。

邪馬国
「zab」に当てたもの。「流れるもの、漏出る、衰え」を意味していて、河川敷、堤防の決壊、通行道の破損、橋の破損、それらの修繕、修復。言わば国土交通省で、河川敷や通行道全般に関する管理の府でありましょう。
自然災害の多い島国では大いに重用されたのであります。国土府。

対蘇国
「対」は「tsoa」に当てたもので、「汚物、排泄物、糞尿」を意味する言葉です。「蘇」は「sohe」で「一掃」の意味なので、汚物処理に関する管理と指導の府と言ったらよいでしょうか。
各郡国には保健所のような役割を持った部署があって、そこへの指導府のようなものでしょう。

呼邑国
「qaw」に充てたもので「測り縄」の意味です。呼邑国は所有者の土地、畑の面積を測り、管理する測量府でしょう。所有者の土地登記は各郡国の役所で行なわれたことでしょう。(4.12.)

華奴蘇奴国
華奴は「qado」に充てたもので、「火をつける、燃やす」という意味です。蘇奴は「shade」で「野、畑、地」のことです。つまり華奴蘇奴とは「野焼き、焼畑」のことを言っているのです。
農地を拡大していくのに野焼きをして、畑を増やしていったのです。各郡国の役所に届け出された焼畑を全国的に管理していた府と考えられましょうか。焼畑管理府としておきます。
華奴蘇奴国に関する以前の解釈は誤りでした。

鬼奴国
「kidda」に充てたと考えられます。この意味は「桂皮、桂枝」。桂枝は、漢方薬、柴胡桂枝湯で使われる生薬、つまり薬事府です。
ケジア躬臣国がやはり同じ意味を持っていましたが、この場合の当て字は鬼の奴隷です。「鬼」は軍事府でした。つまり、キッダは軍事府直属の薬事府でありましょう。
負傷兵の為の薬事局であったり、戦時には、救急医療斑の設置なども行なわれたのではないでしょうか。
平時には兵士の健康管理にあたる。軍事薬事府としておきます。

狗奴国
「gad,gud」は「攻撃する」という意味なので、狗奴国は軍事訓練をする実動部隊の宿舎のあった府ではなかったでしょうか。軍事実動府としておきます。

奴国
「dan」は「裁く」の意味であることと、官名がシ馬觚(刑務管理官)であることから、刑務管理府としておきましょう。
古代ヘブライ語では他に、「裁く、弁護する」の意味を持つ語として「shaphet」がありますが、何故か「dan」が用いられたのです。これは元北イスラエルのダンと懸けた言葉と、筆者は見ているのであります。
他に「懲らしめ」の意味である「shepheq」がありますが、日本語の「ショッピク」はここから出た言葉ではないかと見ます。(4.13.)

烏奴国
「'wd」に充てた国名としますと、そこには「警告する、注意する、諭す、戒める、取り巻く、囲む、証言する」等の意味が込められています。つまり、ここは大倭の警邏府でありましょう。今の警察庁のような存在。
三国史記の中の、将軍于道朱君(うどうしゅくん)とはこの烏奴、警邏府の兵の長でありましょう。(『上古天皇の加増在位年について』神武天皇の項参照)神武天皇が派遣したのは軍隊ではなく、警邏兵であったのです。

支惟国
「qwy」に充てたと考えられますが、その意味は「人が集る」。恐らくは大集会場、全国から人が集って、大集会が行なわれる為の宿泊施設などが整備されていた府ではないかと推察します。
大集会は野外や楼閣を用いて行なわれたか、部門別は小さな家屋で、どれかの府が主催する研修会や講習会、講演会などが全国規模のものとして開かれていたと推察します。大王のする話は誰もが聴きたがったのではないでしょうか。
今日的な宿泊施設というのが無いので、それ相応の努力を払って、大勢の人々を招き易いようにしていたと思われます。地方の人は年にそう何回も来られないので、集会の計画も綿密に立てられ、滞在期間なども考えられたことでしょう。全国集会管理府としておきましょうか。

都支国
「twokh」に充てたとしますと意味は「中央、真中」で、大倭の行政組織の中心ということになりましょうか。
各府を統括管理しているのがこの「中央府」であり、大王直属の府でありましょう。

巳百支国
「巳」は呉音の「ジ」ですが、これは「多種類」という意味の「zan」が充てられたのです。
「百支(ハクキ)」は「hqq」が充てられ、合わせた意味は「多種類の法制定」です。つまり、巳百支国は、国会のように議会の置かれた立法府でありましょう。
郡国の王達や立法官が議会を開いて、法の制定を行なう場で、予算配分などもここで決められたことでしょう。(4.14.)

為吾国
「yaga」に充てたと見られますが、意味は「苦労して得たもの、稼ぎ」で、貨幣が用いられていない時代ですから、この場合の稼ぎは物の蓄えを意味するでしょう。
物は主に食糧などの備蓄、在庫を管理する府であると考えられます。備蓄管理府。
魏の書記者は「為吾国」では「g」音に「狗」ではなく「吾」を充てています。恐らく「為吾」は司馬遷の「史記」の中にある「呉太伯世家の夷吾」に引っ懸けた言葉ではないかと見ます。
勿論、この場合の為吾は夷吾とは何の関わりもないのですが、それは、「魏略」や「晋書倭人伝」には旧聞として「自謂太伯之後」とあるからです。「倭人は自ら自分達は太伯の後裔であると謂う」という意味ですが、さらには「昔夏后小康之子、封於会稽」とあります。
「史記」によれば、夏の后「小康」は太伯より時代が古い夏の人です。「太伯(たいはく)」は、三国時代の呉が興る以前の「呉」の始祖とされている人で、その子孫の系譜に「夷吾」の名があるのです。
この太伯と小康は、共に古代ではヘブライの流れを汲んでいた民と見ます。
太伯の父は「古公亶父(ここうたんぽ)」という人で、途中からそれまでの様式から離れて中国の様式に従って生活するようになった人とされています。
そして、古公亶父の先祖が「周」の始祖とされている神話的人物「弃(き)」であります。この弃という人の母は姜原(きょうげん)といって、巨人の足跡を踏んで妊娠し、弃を生んだと「史記」に書かれています。
要するに、弃の父親は神であったのです。このように出生、出自がはっきりしない伝説に包まれた人というのは、歴史的にも神の霊によって導かれた人が多いのです。(4.16.)

狗邪韓国
「gwz」に充てたと考えられますが、意味は「過ぎ去る、運んで来る」です。
いわば、渡し場、韓国にある船着場といった意味でしかないかも知れません。恐らくは定まった固有名詞の地名としては存在していなかったでしょう。ただ倭人が朝鮮半島の南端を「グズ、或いはグザ」と自分たちの間でそう呼んでいただけかも知れないのです。
当時倭人はそれほど制約を受けずに朝鮮半島に出入り出来たのです。それは同じ血族のヘブライ人が南端にまだ住んでいたからに他なりません。
大雑把な推論ですが、B.C.1150年前後頃、エドム一族が日本列島に移住してきた際に、一族は列島と朝鮮半島にまたがって居住し、列島への移住者の出入国管理を既にしていました。
だんだん数を増やしていった或る日、B.C.700から660年頃、イザヤの三人の子らが率いるユダの民が移住してきます。後に数を増やしたこのユダがエドムに替わって列島の統治権を握ることになったのです。
これが「倭奴」「倭」即ち、ユダ王国の始まりです。ユダが列島における支配権を握ったことは朝鮮半島に住むエドムとの間に或る種の溝を生むことになるのです。
列島においても朝鮮半島においてもエドムとユダの混血は相当に進んでいました。にも関わらず、倭に対して線引きするようになっていきました。エドムから後の箕子朝鮮や高句麗、三韓が生れ、数が増えていって力を増していくごとに、次第に朝鮮半島のユダ、倭人は南端へと押しやられる格好となっていったのです。
これが次第に両者の間に愛憎半ばする近親憎悪的な、丁度、後の新羅と倭のような関係になっていったのです。
早い時代から少しずつ自分達の文化を形成させていたことでしょう。ですが卑弥呼の時代にはまだ、昔の近所付き合いのよしみでといった関係がまだあったのであります。言葉も通じていました。
ヘブライ語の父は「アブ」母は「エム」ですが、朝鮮語の父は「アバジー」母は「オモジー」でヘブライ語の名残りがあります。同じヘブライ人ではあっても、日本民族とは異なる経緯を持って朝鮮民族となったのです。

何故、このような結果か?
知られている語彙がそう多くない古代ヘブライ語の辞典から、倭国三十国のそれぞれは探し当てたものです。
充てられた漢字の音は漢音か呉音と捉え、その子音から該当すると考えられる語彙を探すという作業でした。
こうでなくてはならないと考えられる単語に焦点を当てていくと、分厚いヘブライ語辞典でも該当単語は一つに絞られます。それで仕上がったのが上記の結果です。
ですから、誰が作業しても大体同じような結果が出るだろうと思います。
以上のような結果を見て、読者の中にはこのようであったかも知れないなと思う読者と、卑弥呼の時代にこんな行政組織などがある筈がないと思う読者とがあることでしょう。しかし、これらはあって当然と考えるのが妥当な考えです。
何故、そう言えるのでしょうか?共同体が形成される前には、まず人々による話し合いが行なわれます。
そこでは最初にリーダー、即ち王が決められるでしょう。次には各自が何をするか、役割り分担が決められるでしょう。
つまり、その役割り分担が大きくなり組織化される、その役割り分担の延長上にあるのが行政組織なのです。
ですから、どんな小国であれ、これらの行政組織があるのは当然なのです。
最初、役割りは自分の仕事、例えば農業などをしながら奉仕としてすることになります。ところが共同体の中で人の数が増えてきますと、片手間でそれらの役割りをこなすことは難しくなります。そうしますと、他の人々が貢物をしてその役割りを維持してもらうことになります。
王や役割りにある人は自分の仕事から離れ、役割りに徹し、貢を受けて務めを維持していくことになります。ここから貢納が始まります。
共同体が大きくなると貢納を管理しなければならなくなります。そこで貢納府が誕生することになります。
人が増えてくると様々なことで揉め事が生じやすくなります。その為に生活していく為の様々な規則が作られなければならなくなります。そこで規則が決められる話し合いの場が出来る、それが大きくなって立法府となる。一番最初の話し合いは立法府の始まりです。
王の住居が今日的な目で見て、掘っ立て小屋のようなものであったとしても、それは立派な王宮だったのです。それが貢納府であっても立法府であっても同様です。(4.18.)

使訳は使駅の誤り
倭国三十国が行政機関の役所としますと、いろいろなことが分ってきます。
「後漢書」には、「凡そ百余国。使駅漢に通ずる者、三十許国」とあって、これが「魏志倭人伝」では「旧百余国。使訳通ずる所三十国」となっており、通常「使駅」は「使訳」の誤りとされています。ですが、実際は「使駅」が正しいということになります。
駅といえば、私達が思い出すのは、東京駅や上野駅といった電車の駅ですが、古代における駅とは、中継所、宿場の意味を持っていました。
「日本書紀」神功皇后の項には「多沙城を足し賜わって、往還の道の駅とされた」とありますが、つまり「後漢書」の場合の駅とは、中継所でもある役所を言ったものです。漢の使者が行く際に役所として通じるのが三十国、という意味であります。
駅は馬扁ですが、現代の駐車場のように、馬で行き来する役人のために馬を留めておく場所が用意されていて、宿をも兼ねたものであったのかも知れません。電話もファックスも無い時代、役所は互いに徒歩で、或いは馬を使って行き来し情報交換していたのでしょう。我が国でも、郵便局のことを古くは駅逓局といっていました。
「使訳」は通常、「使者と通訳」と解されていますが、そうしますと三十国は通訳が通じるが、残りは通じないのかということになって、意味がまったく分らなくなります。
范曄は、陳寿が「魏志」で犯した誤りを「後漢書」で訂正したのであります。

皆、王を称する
さらに「後漢書」の倭伝には「国は、みな王を称する」とあります。
これは要するに、倭国ではその役所の長であっても皆、王を称するという意味です。
固有名詞の国の長も王、労働府や衣料府のような役所の長も王を称するということであります。
「魏志倭人伝」記載中の「狗奴国の男王」という表記がそれを端的に物語っています。これは軍事実動府の長に過ぎないわけですが、その長は王を称していたことから、このような表記になったのであります。(6.14.)(修正更新’05.3.26.)

訓読みの「いわ」に続き 、音読みや中国語の読みが混在しますが、ヘブライ語の発音に漢字があてられた際に、 そのルーツがあからさまにならないように、異なる読み方になるように工夫されているの??... http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=173

魏志』倭人伝[12]では、「対馬国」は倭の一国として登場する。帯方郡から邪馬台国への経路の途上、「狗邪韓国」(韓国慶尚南道金海)の記述につづいて「一海を渡ること一千余里」の南に位置するとしており、邪馬台国に服属した30余国のなかの一国であった。そこには、対馬は、居る処は絶島で、土地は山が険しく、深林が多く、道は獣の径(みち)のようであり、千余戸の家はあるものの、良田がないので海産物を採集して自活し、船による南北の交易によって生活していたと記されている。また、他の倭の諸国にもみられる「卑狗」(ヒコ)という大官と、「卑奴母離」(ヒナモリ)という副官による統治がなされていたとする。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14117022264
http://ja.wikipedia.org/wiki/対馬
魏志「倭人伝」の中に倭国の島として対馬が登場
満州族、朝鮮民族、ベトナム民族等のO2B*と、弥生人のO2B1は、約7870年前に完全に別れ、その後、何ら接触がなかったという事です。もちろん、弥生人は朝鮮半島を経由したのかもしれませんし、あるいは中国から直接来たのかもしれません。しかし、現在のところ、(経由でも痕跡くらいは残っているはずですが)中国東北部から「O2B1」が検出されない為、弥生人は中国本土から直接渡来した可能性があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮民族#....
「Y染色体ハプロタイプ」から「日本民族」の系統を、おおよそでまとめてみると、以下の通りとなります。
★日本人と「チベット民族、そして中東、地中海沿岸民族」とは近縁であるというのは、こういった経緯があるからです。そして、日本列島では、しばらくの間(1万年〜2万6千年間)、縄文人(D2)だけの世界が続きます。
「wikipedia」を参照して下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログ%E...
http://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログ%E...
http://ja.wikipedia.org/wiki/チベット%E...
【DE系統E亜型E1b1b】
http://www.eupedia.com/europe/Haplogroup_E1b1b_Y-DNA.shtml

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さて次に、やはり6万年前にアフリカを出て東へ向かった、別の系統「CF系統F」です。「CF系統CF」から「CF系統F」が誕生し、中央アジア(インド付近)に留まります。その後、幾たびかの変遷を経て、東アジアで一般的な「NO系統O」の民族が誕生します。2万年〜2万5千年前に「O3」が誕生し、今の中国人(漢民族)となります。また「O2B」も誕生しますが、こちらは今から約7870年前に、2つに分かれ、その一方は、満州族、韓国人(韓民族)の「O2B*」、もう一方は「弥生人」の「O2B1」となります。 「O2B1」に「O3」も加わって、有史以前の、今から3千年〜4千年前に日本列島に渡来しました(有史以降の渡来は少数です)。日本列島へ「弥生人(02B1とO3)」が渡来した後、「縄文人(D2)」との混血として今の日本人(大和民族)と琉球民族が誕生します。しかし、アイヌ民族は、弥生人と混血する事はありませんでした。
http://www.soken.ac.jp/news_all/2719.html

JAPAN DNA Project
http://www.familytreedna.com/public/japan/default.x?section=yresult...

ISOGG(遺伝的系譜国際学会)
http://www.isogg.org/tree/
http://www.isogg.org/tree/ISOGG_HapgrpD.html
http://www.isogg.org/tree/ISOGG_HapgrpO.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/Y染色体ハ%...


> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> > 一大率さんへのお返事です。
> >
> > > 邪馬壹【臺】國は畿内です。
> >
> > 一大率さんのおっしゃるとおり、邪馬壹は畿内の奈良ですな。
> > 秦野の魏志倭人伝、等から、卑弥呼の墓、邪馬台国の建築物が現在でも残っています。
> >
> > > 1度が108km、故に4度で432km。 432kmが千里、故に1里は432m。
> >
> > 1里は実測で約53mになるな。今までの研究家は、ろくに文章を読まず文章では・・。
> > 無責任ですな。短里は存在しますが、古田の単里=77mは精度がわるい。
> >
> > 対馬国
> >
> > 絶島で400余里四方の広さ。400余里×約53m≒21km
> > 21km四角になるな。対馬島(上島、下島)かは不明。図添付
> >
> > 2.始めて海を1000余里渡ると対馬国に至る(「始度一海千餘里、至對馬國」)。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
> >
> > http://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝
> >
>
>
> やはり邪馬台国の位置と領域を考える上では、その境界までの距離と、境界から都までの距離とを別にして考える必要がありそうですね。
>
> その境界を守っていたのが、ヒナモリと考えるべきでしょうか。下記参照。
>
>
>
> 邪馬台国時代の軍事的長[編集]
>
> 『魏志倭人伝』は、邪馬台国に属する北九州の対馬国、一支国、奴国、および不弥国の副官に「卑奴母離」(ヒナモリ)がいたことを伝えている。これらの国々は邪馬台国の外国交易ルートに位置し、外敵や賊に対する守りを固めるために置かれた男子の軍事的長の称号と考えられる[1]。
> 魏志倭人伝の卑奴母離は、奈良時代以後の夷守と同じ言葉と見られるが、上代特殊仮名遣で夷守の「も」は甲類であるのに対し、卑奴母離の「母」は乙類であり発音が少し違う。可能性としては、卑奴母離の方が魏志倭人伝の誤記であるとか、或いは夷守の「も」が弥生時代は乙類の発音で、奈良時代までに甲類の発音に変化した事も考えられる。卑奴母離と夷守が別の意味の言葉である可能性も残る。「も」の甲類と乙類の区別は古事記には残っているが、日本書紀では使い分けはなくなっている(乙類の発音はある)。「も」乙類は奈良時代でも既に消滅しかけていた。
> 地名・施設名のヒナモリ[編集]
>
> 奴国が位置した筑前国には、糟屋郡(現在の福岡市)に「夷守(ひなもり)駅」(『和名抄』)があり、現在は日守(ひもり)神社が建っており、卑奴母離が駐在したところと考えられる。『延喜兵部式』(延長元年、923年)には日向国諸県郡に夷守(ひなもり)駅を記し、『日本書紀』、『景行天皇紀』に登場する兄夷守・弟夷守が所在した所であり、現在は「宮崎県小林市細野夷守」となっている。近くの霧島岑神社は夷守(ひなもり)神社とも称されている。3 - 4世紀頃、熊襲や隼人に対する守備隊が駐屯した所と考えられる。『和名抄』は越後国頸城郡に「夷守郷」を収め、現在は新潟県妙高市に「美守(ひだもり)」があり、新潟県上越市にはかつて美守村が存在した。3 - 4世紀頃、北陸道の守備隊が駐屯した所と考えられている。『延喜式神名帳』には、美濃国厚見郡(現在の岐阜県岐阜市茜部本郷)に比奈守(ひなもり)神社を収めている。3 - 4世紀頃、飛騨(ひだ)人に対する守備隊が駐屯した所と考えられる[2]。
> ヒナモリに見る邪馬台国の範囲[編集]
>
> 日向国、美濃国、越後国に残るヒナモリの名前は、そこに邪馬台国の軍事的長がいたことを意味し、そこまで邪馬台国の勢力が及んでいたことを示唆している、とする考えもある。しかし日向国以外のヒナモリと卑奴母離については、その関連は不明である。また日向国のヒナモリは地名・神社名であり、卑奴母離は役職名と考えられることに注意。 http://ja.wikipedia.org/wiki/
>
>
>
>
> 確かに境界にヒナモリが配置されていた可能性は高そうです。
>
> 「ヒナ」が後に「日」になる。「日守」は神道系ですね。「日」信仰の出現と、「ヒナ」の意味とが重複してくるとまた興味深いところです。
>
> 長官の「ヒコ」も同様な意味をもっていたとするとどうなるか。「ヒコ」は中国系の美男を現す「彦」に由来していて、後代「日子」になる。
>
> ある時期から「日」が自分たちを示す言葉になっていったのでしょうか。
>
> なお「卑+難」の組み合わせは、魏志韓伝の半島東南部の地域名に多く見えるんですね。おそらく、馬韓や邪馬台国にあったであろう鬼神信仰、江南系の稲作関連習俗などとかかわっていて、それが乙の時代かに、倭へともたらされていったときに、「ヒナ」「ヒコ」の呼称ももたらされていったのでしょうか。
>
> 「卑弥呼」「日巫女」・・。
>
> そもそも、彼らの文化圏で、巫女はどこにいたのか?も課題ですね。
> 武人はヒナ守のように、境界付近にいたでしょうけど、巫女、女王は、かならずしも境界に板とは限りません。
>
> 卑難の領域については、会報に掲載した下図参照。

1883秦野北斗:2013/12/27(金) 16:26:50
Re: (無題)
管理人さんへのお返事です。

 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

 また、南に一海を渡ること千余里、名を瀚海という、一大国に至る。官もまた卑狗、副は卑奴母離という。四方は三百里ほど。竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、また南北に物々交換に出かける。

上記の文章を忠実に訳すと次になる。文法、思考上の問題ですな。

また、南に一海を渡ること千余里、名は瀚海(瀚海国:玄海国)。一大国官の卑狗、副は卑奴母離に至る。四方は三百里ほど。竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、また南北に物々交換に出かける。

現在の壱岐ですが、当時は瀚海国でそこに駐屯する一大國官、邪馬台国官の名前が卑狗、
副の卑奴母離。になる。Wikiに糟屋郡(現在の福岡市)に「夷守(ひなもり)駅」、
『和名抄』は越後国頸城郡に「夷守郷」に分布するのは、魏志倭人伝からも読み取れる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ヒナモリ

一大國とは、一大率國と思われる。一大率は邪馬台国が,北方の国々を検察するために派遣した官で伊都国に
駐留していたことから、邪馬台国と理解できる。
http://kotobank.jp/word/一大率

一支国(いきこく、一支國)
一支國は一大に支(つか)える 国、
http://ja.wikipedia.org/wiki/一支国

邪馬台国の支配のもと、「一大國」が存在したと記されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/壱岐島


呉音: シ
漢音: シ
訓読み
常用漢字表内
ささ-える
表外
つか-える、か-う


 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、
また、南に一海を渡ること千余里、名を瀚海という、
瀚海(ガンカイ)は、南に一海を渡ること千余里で距離から瀚海は国名で瀚海国になる。

至一大國官、亦曰卑狗、副曰卑奴母離。
一大國官の卑狗、副の卑奴母離。瀚海国の一大國官の卑狗、副の卑奴母離。

方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、
亦南北市糴。
四方は三百里ほど。竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、また南北に物々交換に出かける。



音読み
呉音 : ガン
漢音 : カン
訓読み
ひろ-い、なみ



音読み
呉音、漢音??: カイ、唐音 : ハイ
慣用音 : ハイ(現代音;上海)
訓読み : うみ



奴国が位置した筑前国には?

距離から筑前国には奴国はないな。

http://ja.wikipedia.org/wiki/筑前国

1884秦野北斗:2013/12/27(金) 19:50:56
厳島神社(伊都岐島神社)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001955M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/厳島神社



1885秦野北斗:2013/12/28(土) 11:54:26
卑奴母離 母離=杜(守) 卑奴守
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001956M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/扶桑



1886管理人:2013/12/28(土) 23:28:12
Re: (無題)
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>  又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
>
>  また、南に一海を渡ること千余里、名を瀚海という、一大国に至る。官もまた卑狗、副は卑奴母離という。四方は三百里ほど。竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、また南北に物々交換に出かける。
>



やはり、瀚海の「ガン」を使った意図ですね。
瀚は、広い、波の意味。

中国系の知識人が、広くて、波が高い海に対してつけた名でしょう。

竹木の密林が多いという特殊事情を記してます。

南北に向かうというのは、島の南北に向かうとのことで、半島と九州を行き来しながら生活していたわけですね。

市が双方にあった。かなり半島と倭との間で市場間交換があったであろうことも予想できます。


1887秦野北斗:2013/12/29(日) 12:58:35
Re: (無題)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001958M.jpg

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm



1888管理人:2013/12/29(日) 23:13:25
Re: (無題)
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 南北に物々交換に出かけ・・。もしや、地酒、蜂蜜生産、若田硯を穀物に物々交換か??
>
> 『三国志魏書』倭人伝(通称:魏志倭人伝)
>
> 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
>
>  また、南に一海を渡ること千余里、名を瀚海という、一大国に至る。官もまた卑狗、副は卑奴母離という。四方は三百里ほど。竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、また南北に物々交換に出かける。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm
>
> 官卑狗、副は卑奴母離には給与が支給さえていた、はず。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/給料
>


バーター交換経済の件は、もっと興味もってもよいかもしれませんね。

確かにご指摘のとおり、島で採れる特産物なりがないと、双方購入しないでしょうし、そうすると生きて行けないわけです。

思うに単に半島と九州北部の市に出かけて地元の特産物をもっていくだけではなく、半島のそれと倭のそれとを仲介する仲介交易もしていたのではないでしょうか。

半島の鉄と、倭の塩とか・・・。上手くやれば結構儲かったかもしれないのですが、それを行うには高度な文書管理能力をもった地元有力者が必要で、そこで中国系の漢字知識をもった人も出てくるかもしれない。

秦野さんのおっしゃるとおり、給与を官僚なり兵士に出すのは、国としては確かに当然ですね。
そうすると、その官職自体が官僚的な色彩をもった名称だった可能性もでてきます。
「ヒコ」「ヒナモリ」。確かに「守」でしょう。


当時の弁辰では、鉄製の貨幣らしきものが使われていた記載があります。
その貨幣が、この対馬・壱岐からも出て来るかどうか?、出土すると、すくなくとも対馬・壱岐人は、半島側とは鉄貨幣をもって交易していた可能性もでてくるわけです。

壱岐に古墳群がありますね。中はどうだったかな?

九州側の玄関は、おそらく福岡の西新町遺跡とか鉄製品や文字遺物がでている、その辺でしょう。

そこから壱岐まで船で向かうわけですね。



1889秦野北斗:2013/12/30(月) 11:39:52
Re: (無題)
管理人さんへのお返事です。

辰韓は『後漢書』辰韓伝では、秦の逃亡者で、・・。ですが、実の所は倭人なんですな。
古事記の八岐大蛇退治、オオクニヌシの神話がつながるな。

中国系の漢字知識は必要ない。倭人どうしの交易になるな。小さな歴史の落とし穴ですな。
研究家は、どうも、時間軸が引けないようですな。

八岐大蛇退治はBC200年ぐらいですな。

『後漢書』辰韓伝の古老は秦の逃亡者で、・・。この部分の逃亡者ですが、創作になる。


> 半島の鉄と、倭の塩とか・・・。上手くやれば結構儲かったかもしれないのですが、それを行うには高度な文書管理能力をもった地元有力者が必要で、そこで中国系の漢字知識をもった人も出てくるかもしれない。
>
> 秦野さんのおっしゃるとおり、給与を官僚なり兵士に出すのは、国としては確かに当然ですね。
> そうすると、その官職自体が官僚的な色彩をもった名称だった可能性もでてきます。
> 「ヒコ」「ヒナモリ」。確かに「守」でしょう。
>
>
> 当時の弁辰では、鉄製の貨幣らしきものが使われていた記載があります。
> その貨幣が、この対馬・壱岐からも出て来るかどうか?、出土すると、すくなくとも対馬・壱岐人は、半島側とは鉄貨幣をもって交易していた可能性もでてくるわけです。
>
> 壱岐に古墳群がありますね。中はどうだったかな?
>
> 九州側の玄関は、おそらく福岡の西新町遺跡とか鉄製品や文字遺物がでている、その辺でしょう。
>
> そこから壱岐まで船で向かうわけですね。
>

『後漢書』辰韓伝

 辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。有城柵屋室。諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、次有儉側、次有樊秖、次有殺奚、次有邑借。土地肥美、宜五穀。知蠶桑、作縑布。乘駕牛馬。嫁娶以禮。行者讓路。國出鐵、濊、倭、馬韓並從?之。凡諸(貨)〔貿〕易、皆以鐵為貨。俗喜歌舞飲酒鼓瑟。兒生欲令其頭扁、皆押之以石。

 辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。
 城柵、家屋、宮室がある。諸々の小邑落には各自に渠帥がおり、大長は臣智、次に儉側、次に樊秖、次に殺奚、次に邑借がいる。土地は肥沃、五穀の栽培に適している。養蚕を知っており、縑布を作る。牛馬の車に乗る。嫁は婚礼をして娶る。道で行き合えば道を譲る。
 国内で鉄を産出し、濊、倭、馬韓などが、これを求めに来る。おおよそ諸々の交易では皆、鉄を以て通貨とする。習俗は歌舞、飲酒、鼓を打ち瑟(しつ=弦が25本か16本の琴)を弾くことを好む。幼児はその頭を扁平にするため、皆でこれを石に押し付ける。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-sinkan.htm


1890管理人:2013/12/30(月) 23:15:06
Re: (無題)
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 辰韓は『後漢書』辰韓伝では、秦の逃亡者で、・・。ですが、実の所は倭人なんですな。
> 古事記の八岐大蛇退治、オオクニヌシの神話がつながるな。
>

> 『後漢書』辰韓伝の古老は秦の逃亡者で、・・。この部分の逃亡者ですが、創作になる。
>
>
> 『後漢書』辰韓伝
>
>  辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。有城柵屋室。諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、次有儉側、次有樊秖、次有殺奚、次有邑借。土地肥美、宜五穀。知蠶桑、作縑布。乘駕牛馬。嫁娶以禮。行者讓路。國出鐵、濊、倭、馬韓並從?之。凡諸(貨)〔貿〕易、皆以鐵為貨。俗喜歌舞飲酒鼓瑟。兒生欲令其頭扁、皆押之以石。
>
>  辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。
>  城柵、家屋、宮室がある。諸々の小邑落には各自に渠帥がおり、大長は臣智、次に儉側、次に樊秖、次に殺奚、次に邑借がいる。土地は肥沃、五穀の栽培に適している。養蚕を知っており、縑布を作る。牛馬の車に乗る。嫁は婚礼をして娶る。道で行き合えば道を譲る。
>  国内で鉄を産出し、濊、倭、馬韓などが、これを求めに来る。おおよそ諸々の交易では皆、鉄を以て通貨とする。習俗は歌舞、飲酒、鼓を打ち瑟(しつ=弦が25本か16本の琴)を弾くことを好む。幼児はその頭を扁平にするため、皆でこれを石に押し付ける。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-sinkan.htm
>


ご紹介の「国内で鉄を産出し、濊、倭、馬韓などが、これを求めに来る。おおよそ諸々の交易では皆、鉄を以て通貨とする。習俗」の部分が重要ですね。

そすうると、やはり倭との交易でも鉄の貨幣を仲介していたとなるでしょうか。

鉄テイそのものが貨幣代わりだったのかな?

対馬・壱岐にまず船で鉄を運び、さらに倭に向かうわけですね。

対馬・壱岐人に対して、何か彼らにとって利益になりそうなものを、港や市で支払ったのでしょう。鉄テイは彼ら自身は必要としていなかったかもしれませんが、貨幣代わりに保持していたでしょうか。
保持していたなら、鉄テイが対馬・壱岐から出土してもおかしくないのですが、ただ貨幣の類いは役所や市場から出土しても、王の墓から出るとは限らない訳ですね。金印が王墓から出ないのと同じ論理です。

彼らが主に船を運搬していた可能性もあります。

当然バイリンガルで、半島・中国・倭の言葉をはなせたことでしょう。

そして、鉄テイなどを文字を用いて計算する能力も持ち合わせていた。

さらに、盗賊から荷物を守るだけの武力もあって、それで交易していたはずです。

後代の安曇族の世界ですね、倭奴国の金印が出たところに役所があった。

ヒナモリの守は、おそらくそれらの交易拠点を守る軍の意味ですね。

これが壱岐、対馬、そして北九州に見えるわけです。

ここで、問題となるのは、邪馬台国の一つの軍事組織としてのヒナモリという通説から脱却する必要があるかもしれないことです。

つまり、壱岐・対馬・奴国・不弥国のヒナモリは、邪馬台国とは別の独立した海人系の集団による組織によったのではないかと感じます。かなり独立した地位を得ていて、自由貿易都市集団のような感じだったはずです。

半島側からも倭側からも独立した地位をもっていたであろうことは、昨年いろいろ論議したところですが、邪馬台国の同様な軍事組織は「一大率」で、また市場を管理していた官吏は「大倭」でした。

ヒナ守ではない。そうすると伊都国のあった領域と、上記の奴国、不弥国、壱岐、対馬の領域とでは、境界線があり、やや異なっていた、そういうふうにも捉えうるかもしれません。

その差ですね。せめぎあっていて、ある時期にヒナ守集団が、日向方面や、越後方面まで進出していった、そういう可能性もあるでしょうか。宮廷関連の祭祀で、壱岐方面のそれが、かなり力があった時代があります。

1891荊の紀氏:2013/12/31(火) 08:05:19
Re: (無題)
管理人さんへのお返事です。

副官は卑奴母離(ひなもり)という。・・・教育係・・・壬生?
伊都国に絡む難解語句のルーツを徹底検証 | 日本とユダヤのハーモニー http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=159

モリ、モレ, モリ/moreh/先生, moreh, 先生. モリッ、モリッシュ .... http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1785939.html

雌鳥が大きな翼を広げてひなをおおい隠す イメージです。 http://blogs.yahoo.co.jp/squawk_roko/folder/1488410.html?m=lc&amp;p=3
「わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。」                                (マタイ23:37)
 「翼」(カナフ)は、詩篇でも明らかに主のご自身の臨在を指して使われています。
「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。」(詩篇91:4)
 翼の下とは、いと高き方の隠れ場であり、全能者の陰です。
 神の子達が安心して身を避けることの出来る唯一の場所です。
そこでは敵に襲われる恐れもなく、脅かされる心配もない。そこは平安と信頼の場所であり、そこにはいやしが約束されているのです。「その翼には、癒しがある。」(マラキ4;2)

壬生(みぶ)は養育
朱鳥元年9月9日に天武天皇が崩御し、同月11日から殯(もがり)が行われたが、9月27日にはその儀礼の1つとして、幾人もの官人が次々に誄(しのびごと)を述べ、その最初の人が大海宿禰蒭蒲で、「壬生のこと」を誄している。壬生(みぶ)は養育のことで、具体的には天皇の幼時の有様を語ったものとされるが[2]、この場合直接養育にあたった者としてではなく、大海人皇子と一緒に育った乳兄弟か、あるいは一族の代表として述べたものと思われる[3]。
大宝元年3月15日には、陸奥国に金を冶すために遣されたが、続報はなく、ずっと後の天平21年(749年)に初めて陸奥国が金を献じたことが大事件とされたので、この麁鎌の冶金は成功しなかったのであろう。
麁鎌の生年は不明だが、天武天皇と同年代と仮定すると、大宝元年には70才ぐらいであったことになり、その年齢で陸奥に派遣されたとは思えず、従って天武天皇より少なくとも1世代は降る人物であると思われている。本人が直接大海人皇子の養育にあたったと考えにくい理由である。

麁鎌と壬生と冶金[編集]
谷川健一は、記紀神話において伊弉冉尊が火の神軻遇突智を産むに際して女陰(ほと)を焼かれて死んだとある叙述が、「火処(ほど)」とも呼ばれたたたら炉から溶解した金属を取り出す光景を髣髴とさせること、鍛冶屋の母や妻が産婆の役割を担っていたこと、南西諸島では新生児に対し金属のように丈夫に育つようにとの呪詞を発っしたり(奄美大島)、新生児を抱きかかえて火がもたらされたと伝わる竹富島を見せる産育習俗があったり(八重山諸島)、全般に「カネ」や「カマ」、「カマド」といった金属や火に関する名前をつける風習があること、といった点に着目し、女胎から取り上げた子供を丈夫に育てることが、たたら炉から溶け出た金属を鍛えるという作業に重ねられ、そこから皇子や貴人の子供には丈夫に育つようにとの願いを込めて鍛冶や冶金に長けた氏族が壬生(養育係)として選ばれる習いがあったのではいかと推測し、更に、凡海氏と同族とされる阿曇氏には祖神を宇都志日金柝命(うつしひかなさくのみこと)とする伝えがあり(『古事記』)、その神名に見える「金柝」が金属に因むもので[4]、その阿曇氏が各地の開墾や岩盤の開鑿伝承に現われることから、同氏が海部の伴造という海洋氏族であるとともに朝鮮半島との交易を通じて金属器に深くなじんだ氏族でもあった可能性を指摘、同様に凡海氏も冶金技術に優れた氏族で、そのために天武天皇の壬生に選ばれたのではないか、少なくとも麁「鎌」という名前や冶金のために陸奥国に派遣されたことから、麁鎌が鉱山採掘や金属精錬に詳しい人物であったと思われる、とする[5]。



>
> ご紹介の「国内で鉄を産出し、濊、倭、馬韓などが、これを求めに来る。おおよそ諸々の交易では皆、鉄を以て通貨とする。習俗」の部分が重要ですね。
>
> そすうると、やはり倭との交易でも鉄の貨幣を仲介していたとなるでしょうか。
>
> 鉄テイそのものが貨幣代わりだったのかな?
>
> 対馬・壱岐にまず船で鉄を運び、さらに倭に向かうわけですね。
>
> 対馬・壱岐人に対して、何か彼らにとって利益になりそうなものを、港や市で支払ったのでしょう。鉄テイは彼ら自身は必要としていなかったかもしれませんが、貨幣代わりに保持していたでしょうか。
> 保持していたなら、鉄テイが対馬・壱岐から出土してもおかしくないのですが、ただ貨幣の類いは役所や市場から出土しても、王の墓から出るとは限らない訳ですね。金印が王墓から出ないのと同じ論理です。
>
> 彼らが主に船を運搬していた可能性もあります。
>
> 当然バイリンガルで、半島・中国・倭の言葉をはなせたことでしょう。
>
> そして、鉄テイなどを文字を用いて計算する能力も持ち合わせていた。
>
> さらに、盗賊から荷物を守るだけの武力もあって、それで交易していたはずです。
>
> 後代の安曇族の世界ですね、倭奴国の金印が出たところに役所があった。
>
> ヒナモリの守は、おそらくそれらの交易拠点を守る軍の意味ですね。
>
> これが壱岐、対馬、そして北九州に見えるわけです。
>
> ここで、問題となるのは、邪馬台国の一つの軍事組織としてのヒナモリという通説から脱却する必要があるかもしれないことです。
>
> つまり、壱岐・対馬・奴国・不弥国のヒナモリは、邪馬台国とは別の独立した海人系の集団による組織によったのではないかと感じます。かなり独立した地位を得ていて、自由貿易都市集団のような感じだったはずです。
>
> 半島側からも倭側からも独立した地位をもっていたであろうことは、昨年いろいろ論議したところですが、邪馬台国の同様な軍事組織は「一大率」で、また市場を管理していた官吏は「大倭」でした。
>
> ヒナ守ではない。そうすると伊都国のあった領域と、上記の奴国、不弥国、壱岐、対馬の領域とでは、境界線があり、やや異なっていた、そういうふうにも捉えうるかもしれません。
>
> その差ですね。せめぎあっていて、ある時期にヒナ守集団が、日向方面や、越後方面まで進出していった、そういう可能性もあるでしょうか。宮廷関連の祭祀で、壱岐方面のそれが、かなり力があった時代があります。

1892秦野北斗:2013/12/31(火) 14:30:07
Re: (無題)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001965M.jpg

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun12-tokaiyo.htm



1893秦野北斗:2013/12/31(火) 21:55:45
?風伊勢國
お正月、新年のプレゼントですな。


日本書記の垂仁天皇に廿五年春二月丁巳朔甲子、・・。
この文章の志懷沖退(志しを抱き、おき(韓半島)を退く)の内容になる。卑弥呼が奈良、
邪馬台国に来て、天照大?として、?風伊勢國に祭られる内容が記録されている。
暦から243年に?風伊勢國。

活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇

廿五年春二月丁巳朔甲子、詔阿倍臣遠?武渟川別・和珥臣遠?彦國葺・中臣連遠?大鹿嶋・物部連遠?十千根・大伴連遠?武日、五大夫曰、我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇、惟叡作聖。欽明聰達。深執謙損、志懷沖退。綢繆機衡、禮祭?祇。剋己勤躬、日愼一日。是以人民富足、天下太平也。今當朕世、祭祀?祇、豈得有怠乎。三月丁亥朔丙申、離天照大?於豐耜入?命、託于倭?命。爰倭?命求鎭坐大?之處、而詣菟田筱幡。筱、此云佐佐。更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。時天照大?誨倭?命曰、是?風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也。傍國可怜國也。欲居是國。故隨大?教。其祠立於伊勢國。因興齋宮于五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大?始自天降之處也。

http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_06.html

よいおとしを・・。

1894管理人:2013/12/31(火) 23:20:06
Re: (無題)
秦野北斗さんへのお返事です。

> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> >名前や冶金のために陸奥国・・・。
>
> ところで、『唐会要』倭国・日本国伝に、倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した・・。
> 理解できますかな。陸奥国は日辺に在り。濊、倭、馬韓時代は瑞穂(俀国)ですな。日本は百済、新羅時代で白村江、
> 以後が日本ですぞ。天武天皇の時代は日本ですな。
>
> 谷川健一、森浩一さんは時代認識がないな、どうみても、麁鎌と壬生と冶金、は800年の時間の流れがあるな。
> この世の人でないから・・。
>
> 『唐会要』倭国・日本国伝
>
> 日本。倭國之別種。以其國在日邊。故以日本國為名。或以倭國自惡其名不雅。改為日本。或云日本舊小國。呑併倭國之地。其人入朝者。多自矜大。不以實對。故中國疑焉。
>
>  日本。倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て名と為した。あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun12-tokaiyo.htm
>
>


皆さん、今年もお疲れさまでした。


ヒナモリの件ですが、ヒナには、雛でひよこの他に、ひな人形のような平安時代にまで遡る王夫妻?を現す人形に対して「ヒナ」の語が用いられていたことに注目すべきかもしれません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/

おそらく、「ヒコ」に対しての「ヒナ」で、地域に派遣された皇族などの副としての意味、なにかその辺のそれと関係して出来上がっていたことばではないでしょうか。

確かにご指摘の壬生のような王族子弟を養い守る意味なら、ヒナモリの語も相当ですが、それだけではなんとも言えないところですね。

ただ、奴国領域には、倭人伝に見えるように複数の「奴」国の連合が見えます。

それで、その奴国連合の諸国王はもしかすると、倭奴国王の親戚だったかもしれません。

奴国、不弥国、壱岐、対馬の官職には、ヒコとヒナモリがいたわけですね。

そのヒコは、王族の子孫とすると、ヒナモリは、その王族子弟を守る役目、そういうふうに考えて行くと面白いかもしれませんね。

狗奴国のククチヒコもヒコの一種ですが、会報にも掲載したように、奴国連合のやや南あたりの古い都と推定した好古都國、ようするに菊池郡あたりに、これらの連合国家のヒコがいた可能性もなくはないわけです。

それでヒコというのが、やはり王族の呼称で、中国系の彦に由来していた可能性が高いと思うんですね。

雛については、下記のとおり。

雛(ひな)
ひな、ひよこ。
ちいさい、かわいらしいという意味。

http://ja.wiktionary.org/wiki/

中国語では、ス、とかジュと発音されていたものが、日本的にヒナと呼ばれる。

それがさらに日守になり、ある時期に全国各地へと展開していくわけです。

日向も、ヒナ守があるとすると、もとはヒナ+向かう・・・、などの意味もあったでしょうか。

日辺国ですね。

壱岐氏は、白鳳時代に勢力を伸ばしてきます。

おそらくは、一大国時代からの流れを汲んでいて、かなり古い伝承を独自に伝承していた可能性があるでしょう。しばしば孤島には古い歴史が残存してます。

壱岐については、こちら。
http://komatsu0513.heteml.jp/iki.html


次に隠伎の三つ子の島を生みき。またの名を天之忍許呂別
あめのおしころわけ
、次に筑紫島を生みき。
この島もまた身ひとつにして面
おも
四つあり。面毎に名あり。中略.........
次に伊伎島
いきのしま
を生みき。またの名を天之比登都柱
あめのひとつばしら
という。次に津島を生みき...中略
次に佐渡島を生みき。次に大倭豊秋津島
おおやまととよあきつしま
を生みき。またの名は天御虚空豊秋津根別
あめのみそらとよあきつねわけ
という。故この八島を先に生めるによりて、大八島国
おおやしまぐに
といふ。
http://komatsu0513.heteml.jp/iki.html

壱岐のことを、天之比登都柱というのがおもしろいですね。

柱は、梯子などと同様に、半島と倭を橋渡しするの意味でしょうか。

天がどこだったのか?その辺も課題です。

1895荊の紀氏:2014/01/20(月) 02:14:04
Re: (無題)
管理人さんへのお返事です。

 今年もお世話になります 宜しくお願いいたします。


> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> > 荊の紀氏さんへのお返事です。
> >
> > >名前や冶金のために陸奥国・・・。
> >
> > ところで、『唐会要』倭国・日本国伝に、倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した・・。
> > 理解できますかな。陸奥国は日辺に在り。濊、倭、馬韓時代は瑞穂(俀国)ですな。日本は百済、新羅時代で白村江、
> > 以後が日本ですぞ。天武天皇の時代は日本ですな。
> >
> > 谷川健一、森浩一さんは時代認識がないな、どうみても、麁鎌と壬生と冶金、は800年の時間の流れがあるな。

入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵 運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏... http://ja.wikipedia.org/wiki/円仁
空海は讃岐の佐伯直氏出身であり、安芸国の佐伯直氏は後に厳島神社の神主家となっ た。
天皇は征夷大将軍・近衛権中将・陸奥出羽按察使・従四位上・陸奥守・鎮守将軍の坂上大宿禰田村麻呂(さかのうえのおおすくねたむらまろ)を諸国に派遣して、移住した蝦夷の監督をさせることにしました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/佐伯直
佐伯直(さえきのあたい)は古代日本の氏族で、佐伯連の下、伴造として諸国の佐伯部を率いた。
佐伯部として設定・編成したのは事実のようで、「佐伯直」や「佐伯造」といった在地の豪族が伴造としてこれを管掌し、これら地方豪族が更に畿内の中央豪族佐伯連(後に宿祢に改賜姓された)に管掌されたため、佐伯部は間接的に中央佐伯氏の部民とされ、その中からは宮廷警衛の任務に上番させられた者もいたと見られている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/佐伯部

円仁44才の頃、天台の教義の勉学のために当時の中国の唐に入る。以後9年間、一心に学んだのであったが、この円仁の入唐の理由は、空海(774?835)がもたらした密教の教義が日本国内で急速に広まる機運を見せるなかで、日本に天台宗の教義の深化をするための命がけの旅であったと推測される。 http://www.st.rim.or.jp/~success/ennin_ye.html
円仁・円珍(空海の親類ということもあり)などが真言密教を取り入れ比叡山を謗法化(正しい法を信じずそしること)したものだと批判している。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1482107029

慈覚派と智証派の対立により天台宗は 動揺。智証派は延暦寺を降り園城寺を創設。 http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/tendaisyunonaifun.html
園城寺
園城寺(三井寺)は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧 円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安 ... 俗名は和気広雄、母方 の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/園城寺
開基は園城寺(三井寺)の僧快賢
壬生寺(みぶでら)は、京都市中京区壬生にある律宗大本山の 寺院である。本尊は地蔵菩薩、開基は園城寺(三井寺)の僧快賢である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/壬生寺

、「新羅訓村には近江の園城寺(三井寺)の宗祖「円珍」の祖と同族の佐伯氏の祖を 祀る「佐伯神社」がある。赤穂市には秦氏の族長の一人「秦河勝」(大避大明神(おおさけ だいみょうじん))を祀る大避神社がある。 http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/159.htm
銅鐸の耳が出土しており、弥生時代後期 のものと言われている
白髭は新羅ということであるので、この社は新羅神社であった。白の着く神や神社、また、白髭をたくわえた翁の神を鍛冶翁といっているが、これらの神々は新羅系の神が大半である。
新羅
拝殿の奥の梁に扁額が二つあり、右側の縦長の額には、中央に猿田彦大神、右に武内宿禰命、左には葛城襲津彦命の名が書かれていた。その左側に、横長の額があり、十六柱の神名が記載されている。祭神・猿田彦命、武内宿禰、葛城襲津彦命、誉田別命、須佐男命、市杵島姫命、大山祇命、金山彦命、天萬栲幡千々比売命(たくはたちぢひめのみこと)、菅原道真、火魂日命、大日?貴命など。葛城襲津彦は「古事記」の孝元天皇の条にて、武内宿禰の子とされる。河内の志紀長吉神社に祀られている。
葛城襲津彦
役行者が生まれ育った葛木山周辺の豪族の祖は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)。 http://www.oh-kouhei.org/kobo/kobosan1208.html

日下部、山部、海部、隼人
葛城襲津彦の娘の磐之媛は仁徳天皇の皇后となって、履中、反正、允恭など、のちの 天皇となる御子たちを生んでいる。 .... 稲員氏の出自を同氏系図でみると高良大明神の 神裔を称し、延暦二十一年(八〇二)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在は 北野 ... http://www.sysken.or.jp/Ushijima/voyage8.htm

稲員氏の出自を同氏系図でみると高良大明神の神裔を称し、延暦二十一年(八〇二) 草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在は北野町)に居住したことにより稲員(稲数 )を姓としたという。 http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou26/koga26.html
四世紀から六世紀にかけて九州王朝の都が筑後地方(三瀦久留米市)にあり、筑後国一宮の高良大社祭神玉 垂命こそその時代の歴代倭王であったことを論証してきたが、今回は玉垂命の末裔、稲員家と高良大社の伝承について報告する。 http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou26/koga26.html
(四〇二)、新羅も倭国に王子(未斯欣)を人質に出していることを考えると、東アジアの軍事バランスが倭国優位 となっていたのであろうが、倭の五王が中国への上表文にて、たびたび朝鮮半島(百済など)の支配権を認めることを要請しているのも、こうした力関係を背景にしていたのではあるまいか。

三井家の家伝によると、藤原道長の六男長家の五代孫藤原右馬之介信生が近江国に土着し、武士になったのが三井家の始まりとされるが、史料の裏付けはない http://ja.wikipedia.org/wiki/三井家

三井家も三井寺・ 長等山園城寺(ながらさんお んじょうじ)と新羅神社の関係、三囲神社 の三角鳥居 から三井家と園城寺は全て秦氏として捉えることでつ http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1028
一ノ宮方位線は【秦氏】が作り上げたと考えるべきですが様々な神社を建立する秦氏と鉱山労働から被差別部落の民に落とし込められる落差は何なのでしょうか。
それは朝鮮の古代史を調べることで理解できます。
朝鮮半島では【白丁】と呼ばれた奴隷制が存在していたのです。
新羅から渡来した秦氏も王族や貴族・祭祀集団そして技能集団と分化しており民を支配した王族と大多数の【奴隷集団】だったと判断することで理解できるでしょう。
奴隷
卑奴
卑奴母離」(鄙守、夷守、ヒナモリ)などの役職名や固有名詞の語彙が見られる。日本人 が記したものとしては471年銘の稲荷山古墳鉄剣に「獲加多支鹵」(ワカタケル)などの 固有名詞や役職名がある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/上代日本語

鄙守
邪馬台国30国〜魏志倭人伝記載の倭国国名現代地名対照表 - nifty
リンク. 神話のなかの地名 ... 2, 一支, −, 壱岐, 卑狗, 彦・日子, 卑奴母離, 鄙守, 三千戸. 3, 末盧, − ... 国名, 比定候補1, 候補2, 候補3, 候補4, 近畿説. 9, 斯馬 ... それぞれの国 の個別の位置は、地名から語呂合わせ・ダジャレなどを駆使してあてはめてみてね。

夷守
夷 俘
エミシとその時代 6 延暦16年(797)〜弘仁2年(811) - kominato ...
天皇は勅を下します。 「相模・武蔵・常陸・上野・下野・出雲等の国に居住する帰服した夷 俘は、朝廷の恩沢により生活している。彼らに望郷の念を起こさせないようにするため、 絶えず慈しみを加えるべきである。帰服した夷俘には毎年、季節ごとの服、禄物を支給 ... http://kominato-kataumi.jimdo.com/エミシとその時代-6-延暦16年-797-弘仁2年-811/
蝦夷

佐伯 今毛人が勤務評定で今蝦夷(正確には夷の字に虫偏がつく)と書かれた例が http://ja.wikipedia.org/wiki/蝦夷
蘇我蝦夷は『日本書紀』では蝦夷だが、『上宮聖徳法王帝説』では蘇我豊浦毛人と書かれている。毛人の毛が何を指しているかについても諸説あるが、一つは体毛が多いことをいったのだとして、後のアイヌとの関連性をみる説である。また、中国の地理書『山海経』に出てくる毛民国を意識して、中華の辺境を表すように字を選んだという説もある[8]。

土蜘蛛(つちぐも)
東国のいなかの中に、日高見(ひたかみ)国があり、その国の人は蝦夷(えみし)と呼ば れ、男も女も髪を椎(つち)のような形に結って、 ... 常陸の国造(クニノミヤツコ)には、筑波 国造の壬生連・那珂国造の壬生直・上野国造の壬生公と、壬生(にゅう)氏が三名もいる が、 ... http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-1-3.htm
『日本書紀』には各地の土蜘蛛が登場するが、蜘蛛のことではない。先住の縄文人とする説もあるが、鉱山の坑道で働く人々を「土蜘蛛」や「穴居民」と蔑称したもので、国栖(くす)・国樔(くず)・佐伯(さへき)・八束脛(やつかはぎ)・隼人(はやと)、いずれも土蜘蛛であり穴居民を意味しており、土蜘蛛の分布地と丹生(ニュウ)・砂金・砂鉄など鉱山資源の産地が合致する。というより、合致するからこそ冷酷に駆逐されたのである。

高尾張邑(タカオワリムラ)に土蜘蛛(つちくも)がいた。その人態は、身丈が低く、手足が長かった。磐余彦尊(いわれひこ=後の神武天皇)の軍は葛(桂)の網を作り、罠をはって捕らえ、これを殺した。そこで邑の名を変えて葛城とした。
邑の名を変えて葛城

『常陸国風土記』の編纂は、養老年間(717−723年)に常陸国守の藤原宇合(うまかい)によってされたが、大和朝廷で権勢を誇る藤原氏四家の一人である藤原宇合が国守として派遣されるほど、常陸国は重要視されていたことがわかる。
常陸国の辰砂(左の写真)・砂金・砂鉄の確保、これは大和朝廷にとっては死活問題だったのである。常陸の国造(クニノミヤツコ)には、筑波国造の壬生連・那珂国造の壬生直・上野国造の壬生公と、壬生(にゅう)氏が三名もいるが、壬生とは丹生(にゅう=辰砂・水銀)のことである。 これが潮来の伝承を裏付けているのではないだろうか。
 ちなみに、壬生氏は壬生古志の一族で、『新選姓氏録』には「吉志、難波忌寸と同祖、大彦命之後也」となっている。要するに安倍貞任と同族の安倍氏である。
常陸の国造(クニノミヤツコ)には、筑波国造の壬生連・那珂国造の壬生直・上野国造の壬生公と、壬生(にゅう)氏

> 天がどこだったのか?その辺も課題です。

1896秦野北斗:2014/01/31(金) 02:27:54
Re: (無題)
管理人さんへのお返事です。

ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、夷守)
http://ja.wikipedia.org/wiki/ヒナモリ

雛とは理解できないな。ひな人形:ちいさい、かわいらしい人形が適切ですな。

東夷とよばれた民族

夫餘国,高句麗,東沃沮,北沃沮,肅慎氏(挹婁),濊,韓(三韓),倭人(倭国),百済国,加羅国,勿吉国(靺鞨),失韋国(室韋),豆莫婁国,地豆于国,庫莫奚国(奚),契丹国,烏洛侯国,裨離国,養雲国,寇莫汗国,一群国,新羅,琉求国(流求国),日本国,流鬼
http://ja.wikipedia.org/wiki/東夷

韓半島に倭国があり、邪馬台国(やまと)が在ったのですが、理解できないようだな。
ヒナモリも卑弥呼が奈良に来て、九州の国境に派遣した東夷の杜:駐屯地をヒナモリ(卑
奴母離、比奈毛里、夷守)と言った様だな。

ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、夷守)の夷だが歴史が古いんだな。

始皇帝の時代にも夷洲があるな、年代特定は徐福になる。BC200年

夷(い、えびす)
http://ja.wikipedia.org/wiki/


會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。

『後漢書』倭人伝 注)翻訳の一部に間違いがあるな。

 會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。

 会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm



>
> ヒナモリの件ですが、ヒナには、雛でひよこの他に、ひな人形のような平安時代にまで遡る王夫妻?を現す人形に対して「ヒナ」の語が用いられていたことに注目すべきかもしれません。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>
> おそらく、「ヒコ」に対しての「ヒナ」で、地域に派遣された皇族などの副としての意味、なにかその辺のそれと関係して出来上がっていたことばではないでしょうか。
>
> 確かにご指摘の壬生のような王族子弟を養い守る意味なら、ヒナモリの語も相当ですが、それだけではなんとも言えないところですね。
>
> ただ、奴国領域には、倭人伝に見えるように複数の「奴」国の連合が見えます。
>
> それで、その奴国連合の諸国王はもしかすると、倭奴国王の親戚だったかもしれません。
>
> 奴国、不弥国、壱岐、対馬の官職には、ヒコとヒナモリがいたわけですね。
>
> そのヒコは、王族の子孫とすると、ヒナモリは、その王族子弟を守る役目、そういうふうに考えて行くと面白いかもしれませんね。
>
> 狗奴国のククチヒコもヒコの一種ですが、会報にも掲載したように、奴国連合のやや南あたりの古い都と推定した好古都國、ようするに菊池郡あたりに、これらの連合国家のヒコがいた可能性もなくはないわけです。
>
> それでヒコというのが、やはり王族の呼称で、中国系の彦に由来していた可能性が高いと思うんですね。
>
> 雛については、下記のとおり。
>
> 雛(ひな)
> ひな、ひよこ。
> ちいさい、かわいらしいという意味。
>
> http://ja.wiktionary.org/wiki/
>
> 中国語では、ス、とかジュと発音されていたものが、日本的にヒナと呼ばれる。
>
> それがさらに日守になり、ある時期に全国各地へと展開していくわけです。
>
> 日向も、ヒナ守があるとすると、もとはヒナ+向かう・・・、などの意味もあったでしょうか。
>
> 日辺国ですね。
>
> 壱岐氏は、白鳳時代に勢力を伸ばしてきます。
>
> おそらくは、一大国時代からの流れを汲んでいて、かなり古い伝承を独自に伝承していた可能性があるでしょう。しばしば孤島には古い歴史が残存してます。
>
> 壱岐については、こちら。
> http://komatsu0513.heteml.jp/iki.html
>


1897管理人:2014/01/03(金) 23:07:55
Re: (無題)
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、夷守)
> http://ja.wikipedia.org/wiki/ヒナモリ
>
> 雛とは理解できないな。ひな人形:ちいさい、かわいらしい人形が適切ですな。
>
> 東夷とよばれた民族
>
> 夫餘国,高句麗,東沃沮,北沃沮,肅慎氏(挹婁),濊,韓(三韓),倭人(倭国),百済国,加羅国,勿吉国(靺

> ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、夷守)の夷だが歴史が古いんだな。
>
> 始皇帝の時代にも夷洲があるな、年代特定は徐福になる。BC200年
>
> 夷(い、えびす)
> http://ja.wikipedia.org/wiki/
>
>
> 會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。
>
> 『後漢書』倭人伝 注)翻訳の一部に間違いがあるな。
>
>  會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。
>
>  会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm
>
>
>


秦野さん、今年も宜しくお願いします。

確かに「夷」の字は重要ですね。

昨年も論議したように夷洲は、九州から壱岐・対馬方面と考えていたことがあり、奇しくもヒナモリ・夷守のそれと一致してきます。

隋使あたりまでは、まだ夷洲の語を、秦王国以西の地域につかっているんですよね。

夷守の当て字も、そのころに形成されたとすると、確かに「夷」をもってヒナと呼ばせるようにした可能性も出て来るでしょうか。

エビス・エミシ・蝦夷・エヒシ=ヒス・ヒシ・、ヒナ・ヒコ。蝦日子・・・。





1898秦野北斗:2014/01/04(土) 11:55:45
Re: (無題)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001972_2M.jpg

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm



1899管理人:2014/01/04(土) 23:00:32
Re: (無題)
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> やっと、『隋書』倭国伝、(身冉は、耼の俗字)耼羅(たんら)国で南望○羅國が読めたな。
> 耼羅dān、耽牟羅、屯羅などとも表記される。いずれも"島国"を意味する。
>
> 『隋書』倭国伝
>
>  大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不?、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
>
> (原文身冉は、耼の俗字)耼羅(たんら)国
> http://glyphwiki.org/wiki/u803c-ue0100
>
> 『 隋書 』 俀國伝
> 【 度百濟 行至竹島 南望?羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲 疑不能明也 又經十餘國 達於海岸 自竹斯國以東 皆附庸於俀 】
>
> 南望耼羅國:タン羅国
>
> http://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/bcygobf9qoc0aha4ac9a5a4ada4jbfmbd8a4dea4la1aa?comment=186168
>
> 南に耼羅国(タン羅国)を望み、都斯麻国(対馬)を経て、遙か大海中に在り。
> 地図からタン羅国は秦王国で俀國になる。
>
>
>



なるほど、壱岐のことを、隋書では「一支国」と記してある訳ですね。
やはり、倭人伝の「一大国」はこの「一支国」と同じ壱岐島を現すわけですから、誤写の可能性もあるのでしょう。

でも「一大率」が別に邪馬台国の軍事官職として見えるわけですから、これもそうすると「一支率」だった可能性もでてるわけですね。何か漢字で「一」の地名なりが伝承されていた可能性もある。

そもそも大宰府の「大」はどこからくるのかな。

それで、ご紹介の「南望耼羅國:タン羅国」ですが、羅がつくのは、かなり後代で、加羅とか新羅とかの「羅」の時代のそれですね。元は「伽耶」とかの「ヤ」あるいは、任那などの「ナ」音でしょう。

だから、タムヤ、タムナ、タンヤ・・・あたりが、元々の名称で、その後「羅」と発音する人々が移住してきたので、タムラになった。

丹、丹治、多治比・・。

対馬は、「經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國」とあるように、今の発音とかわらないのですhが、壱岐がその東になってますね。本来は対馬の南としるすべきところを東と記す。

ちょっと方向感覚がずれてますね。そのままの論理だと、畿内方面も東じゃなくて南になる、倭人伝の方位認識に近い。

やはり、以前会報2か3号で論じたように、対馬で方向がズレてるんですね。

どうしてズレたかというと、対馬が予想以上に南北にながいので、北の島からみると、壱岐はその南、南の島からみると、東にあたるんです。

それで北の島と、南の島の方角認識を取り違えて推理したので、結果として、日本列島は、対馬の南にあることになってしまった、それで台湾方面なで伸びると勘違いしたのかもしれません。


対馬にいくとわかるんですが、ともかく南北に長い島なんです。まったく北の港からみる風景と南の港からのそれとはことなり、列島や半島との方角、距離も異なります。

それで、対馬を、2つの島と認識できずに、1つの小さな島と認識したので、その間の千里が抜けているんじゃないかと推測したのですが、この辺、隋の時代においてもまだ解消されずに、壱岐は対馬の東にあると言っているわけですから驚きですね。遣唐使時代になれば、それも解消されていったのだと思うのですが。

ただ、さらにこの論理でいくと、「自竹斯國以東 皆附庸於俀」も、筑紫の東が倭だというのは、今と同じで正解なんですね。

だから、対馬と壱岐との方向認識だけ間違っていたのでしょう。倭人伝時代から間違っていた。

1900秦野北斗:2014/01/05(日) 08:18:00
Re: (無題)
管理人さんへのお返事です。

> だから、対馬と壱岐との方向認識だけ間違っていたのでしょう。倭人伝時代から間違っていた。

 明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。

 翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済(帯方郡から倭国までの海上を沿い)を渡り、竹島(筑島:済州島)に行き着き、南に耼羅国(タン羅国)を望み、都斯麻国(対馬)を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国(壱岐)に至り、また竹斯国(筑紫)に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国(筑紫)より以東は、いずれも倭に附庸している。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm

?竹島(筑島:済州島)に行き着き
?南に耼羅国(タン羅国)を望み、
?都斯麻国(対馬)を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国(壱岐)に至り、また竹斯国(筑
紫)に至り、また東に秦王国に至る。

文章から裴世清の位置

裴世清の船は?竹島(筑島:済州島)と?耼羅国(タン羅国) の北、?都斯麻国(対馬)の西の位置ですな。三角法で位置は定まるな。

秦王国は?竹島(筑島:済州島)で教えて貰う、聞いたと思われるな。

> それで、対馬を、2つの島と認識できずに、・・・。

裴世清の位置から?都斯麻国(対馬)は2つの島には見えないな。

> どうしてズレたかというと、対馬が予想以上に南北にながいので、北の島からみると、壱岐はその南、南の島からみると、東にあたるんです。

裴世清は船を基準に記録したのであって、島を基準に書いていない。
過去から島の名前も理解できず解読する努力をしたが、総てが漢字表記の理解不足・・。
訂正ですな、何の恥じらいはいらない。古田、安田はもっとひどいな、詐欺師になるな。


>
> 丹、丹治、多治比・・。
>
> 対馬は、「經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國」とあるように、今の発音とかわらないのですhが、壱岐がその東になってますね。本来は対馬の南としるすべきところを東と記す。
>
> ちょっと方向感覚がずれてますね。そのままの論理だと、畿内方面も東じゃなくて南になる、倭人伝の方位認識に近い。
>
> やはり、以前会報2か3号で論じたように、対馬で方向がズレてるんですね。
>
> どうしてズレたかというと、対馬が予想以上に南北にながいので、北の島からみると、壱岐はその南、南の島からみると、東にあたるんです。
>
> それで北の島と、南の島の方角認識を取り違えて推理したので、結果として、日本列島は、対馬の南にあることになってしまった、それで台湾方面なで伸びると勘違いしたのかもしれません。
>
>
> 対馬にいくとわかるんですが、ともかく南北に長い島なんです。まったく北の港からみる風景と南の港からのそれとはことなり、列島や半島との方角、距離も異なります。
>
> それで、対馬を、2つの島と認識できずに、1つの小さな島と認識したので、その間の千里が抜けているんじゃないかと推測したのですが、この辺、隋の時代においてもまだ解消されずに、壱岐は対馬の東にあると言っているわけですから驚きですね。遣唐使時代になれば、それも解消されていったのだと思うのですが。
>
> ただ、さらにこの論理でいくと、「自竹斯國以東 皆附庸於俀」も、筑紫の東が倭だというのは、今と同じで正解なんですね。
>
> だから、対馬と壱岐との方向認識だけ間違っていたのでしょう。倭人伝時代から間違っていた。
ていた。

1901秦野北斗:2014/01/05(日) 14:12:15
Re: (無題)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0001975_3M.jpg

管理人さんへのお返事です。

> それで、ご紹介の「南望耼羅國:タン羅国」ですが、羅がつくのは、かなり後代で、加羅とか新羅とかの「羅」の時代のそれですね。元は「伽耶」とかの「ヤ」あるいは、任那などの「ナ」音でしょう。

まあ、地図にしましょうか。

?耼羅國は五島列島になるな。韓半島の名前が当て嵌まらないな。
?対馬ですが地図の方向から見て島は2つに見えないな。
?筑紫の東が倭だというのは、今と同じで正解なんですね。・・。
残念ですが俀国:秦国(タイ国)です。倭国は韓半島にある、説明済みですぞ。
秦国は、馬韓、辰韓、弁韓の頃で中国史籍に辰韓:秦韓の字を目にしたと思うが。
それまでは瑞穂が正しいな。

整理しますと、瑞穂→俀国:秦国(タイ国)→倭国→日本になるな。


> それで北の島と、南の島の方角認識を取り違えて推理したので、結果として、日本列島は、対馬の南にあることになってしまった、それで台湾方面なで伸びると勘違いしたのかもしれません。
>
>
> 対馬にいくとわかるんですが、ともかく南北に長い島なんです。まったく北の港からみる風景と南の港からのそれとはことなり、列島や半島との方角、距離も異なります。
>
> それで、対馬を、2つの島と認識できずに、1つの小さな島と認識したので、その間の千里が抜けているんじゃないかと推測したのですが、この辺、隋の時代においてもまだ解消されずに、壱岐は対馬の東にあると言っているわけですから驚きですね。遣唐使時代になれば、それも解消されていったのだと思うのですが。
>
> ただ、さらにこの論理でいくと、「自竹斯國以東 皆附庸於俀」も、筑紫の東が倭だというのは、今と同じで正解なんですね。
>
> だから、対馬と壱岐との方向認識だけ間違っていたのでしょう。倭人伝時代から間違っていた




1902管理人:2014/01/05(日) 23:16:41
Re: (無題)
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > それで、ご紹介の「南望耼羅國:タン羅国」ですが、羅がつくのは、かなり後代で、加羅とか新羅とかの「羅」の時代のそれですね。元は「伽耶」とかの「ヤ」あるいは、任那などの「ナ」音でしょう。
>
> まあ、地図にしましょうか。
>
> ?耼羅國は五島列島になるな。韓半島の名前が当て嵌まらないな。
> ?対馬ですが地図の方向から見て島は2つに見えないな。
> ?筑紫の東が倭だというのは、今と同じで正解なんですね。・・。
> 残念ですが俀国:秦国(タイ国)です。倭国は韓半島にある、説明済みですぞ。
> 秦国は、馬韓、辰韓、弁韓の頃で中国史籍に辰韓:秦韓の字を目にしたと思うが。
> それまでは瑞穂が正しいな。
>
> 整理しますと、瑞穂→俀国:秦国(タイ国)→倭国→日本になるな。
>
>
>

秦野さんの地図に見える五島列島って古代になんて言われていたんでしょうね。

これだけ大きな島だと古代史書とかにも確かに記載されていてもおかしくはないのですが。

古事記の国産みにおいて、イザナギ・イザナミが大八州を生んだ後、更に「児島」「小豆島」「大島」「女島」「知訶島(ちかのしま)」「両児島(ふたごのしま)」を生むが、この中の知訶島が五島列島である。古くは福江島を「おおぢか(大知訶、大値嘉)」と呼び、上五島の島を「こぢか」と呼んでおり、現在行政区画上ではたまたま五島列島に入れられていないものの五島列島の一部としてその北に位置する小値賀島(おぢかじま)がその呼称の名残である。また、イザナギ・イザナミが生んだ最後の「両児島(ふたごのしま)」は、五島の南西に離れて浮かぶ男女群島のことであるとするのが通説である。五島列島に比してかなり小さい男女群島は現在の行政区画では五島市 に入るが、この島も女島灯台が設置されるなど近年に至るまで重要な島であった。これらのことからも、古代において五島列島や周辺の島々が中央にもよく知られていたことが分かる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/


いわゆる対馬の南北にながいのに対して、五島列島は東西に長い島、双子のイメージがあったようですね。

「知訶島(ちかのしま)」「両児島(ふたごのしま)

なんで「チカ」というんでしょうね。


『かく言ひ竟へて御合して、生める子は、淡道の穂の狭別島。 次に伊予の二名島を生みき。この島は、身一つにして面四つ あり。面毎に名あり。故、伊予国は愛比売(えひめ)と謂ひ、 讃岐国は飯依比古(いひよりひこ)と謂ひ、粟国は大宜都比 売(おほげつひめ)と謂ひ、土左国は建依別(たけよりわけ) と謂ふ。次に隠岐の三子島を生みき。亦の名は天之忍許呂 別(あめのおしころわけ)。次に筑紫島を生みき。この島も また、身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、筑紫国は 白日別(しらひわけ)と謂ひ、豊国は豊日別(とよひわけ) と謂ひ、肥国は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよく じひねわけ)と謂ひ、熊曾国は建日別(たけひわけ)と謂ふ。 次に伊伎島を生みき。亦の名は天比登都柱(あめひとつばし ら)と謂ふ。次に津島を生みき。亦の名は天之狭手依比売 (あめのさでよりひめ)と謂ふ。次に佐渡島を生みき。次に に大倭豊秋津島を生みき。亦の名は天御虚空豊秋津根別 (あまつみそらとよあきづねわけ)と謂ふ。故、この八島を 先に生めるによりて、大八島国と謂ふ。然ありて後、還りま す時、吉備児島を生みき。亦の名は建日方別(たけひかた わけ)と謂ふ。次に小豆(あづき)島を生みき。亦の名は大野手比売 と謂ふ。攻に大島を生みき。亦の名は大多麻流別(おほたま るわけ)と謂ふ。次に女(ひめ)島を生みき。亦の名は天一根(あめ のひとつね)と謂ふ。次に知訶島を生みき。亦の名は天之 忍男(あめのおしを)と謂ふ。次に両児島を生みき。亦の 名は天両屋(あめふたや)と謂ふ。』
http://www3.kitanet.ne.jp/~nihirata/20070511.html

天之 忍男は、九州・四国の物部関連に近い名前が見えますよね。




1903秦野北斗:2014/01/06(月) 14:01:21
Re: (無題)
管理人さんへのお返事です。

> 秦野さんの地図に見える五島列島って古代になんて言われていたんでしょうね。

五島列島(耼羅國)は夜冥不知著岸、遙視火光(灯台)になるな。
竹島(筑島:済州島)から、南に耼羅国(タン羅国) の灯台を望み、都斯麻国(対馬)を経て、東に一支国(壱岐)、竹斯国(筑紫)に至る。東に秦王国に至る。

耼羅國は火國(灯台)の火國。阿蘇國は阿蘇山の火國

五島列島(耼羅國)
五月壬辰朔、從葦北發船到火國。於是、日沒也。夜冥不知著岸。遙視火光。天皇詔挾杪者曰、直指火處。因指火往之。?得著岸。天皇問其火光之處曰、何謂邑也。國人對曰、是八代縣豐村。亦尋其火、是誰人之火也。然不得主。茲知、非人火。故名其國曰火國也。

阿蘇國
六月辛酉朔癸亥、自高來縣、渡玉杵名邑。時殺其處之土蜘蛛津頰焉。丙子、到阿蘇國。其國也郊原曠遠、不見人居。天皇曰、是國有人乎。時有二?。曰阿蘇都彦・阿蘇都媛。忽化人以遊詣之曰、吾二人在。何無人耶。故號其國曰阿蘇。
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_07.html

済州島:竹島(筑島)
済州島ですが、最近まで4郡で古事記の4別と一致するな。
白日別、豊日別、建日向日豊久士比泥別、建日別。

1914年4月1日 - 郡面併合により、済州郡・旌義郡・大静郡および莞島郡の一部(楸子面)が合併し、済州郡が発足。済州郡に以下の面が成立。(13面)
http://ja.wikipedia.org/wiki/済州特別自治道

『古事記』・国産み神話においては、隠岐の次、壱岐の前に生まれた筑紫島(九州)の四面のひとつとして語られ、別名を「建日向日豊久士比泥別(タケヒムカヒトヨクジヒネワケ)」といったとされる。
次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。
http://ja.wikipedia.org/wiki/火国

秦野は国産みを読み解いています。現在の場所は多くは出鱈目だな。まともなのは小豆島だけ。

五島列島
古事記の国産みにおいて、イザナギ・イザナミが大八州を生んだ後、更に「児島」「小豆島」「大島」「女島」「知訶島(ちかのしま)」「両児島(ふたごのしま)」を生むが、この中の知訶島が五島列島である。古くは福江島を「おおぢか(大知訶、大値嘉)」と呼び、上五島の島を「こぢか」と呼んでおり、現在行政区画上ではたまたま五島列島に入れられていないものの五島列島の一部としてその北に位置する小値賀島(おぢかじま)がその呼称の名残である。また、イザナギ・イザナミが生んだ最後の「両児島(ふたごのしま)」は、五島の南西に離れて浮かぶ男女群島のことであるとするのが通説である。五島列島に比してかなり小さい男女群島は現在の行政区画では五島市 に入るが、・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/五島列島

国産み(大八州)
吉備児島(きびのこじま):児島半島 岡山県南部
別名は建日方別(たけひかたわけ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/児島半島

小豆島(あづきじま):小豆島 香川県小豆郡
別名は大野手比売(おほのでひめ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/小豆島

大島(おほしま):周防大島 、山口県大島郡周防大島町
別名は大多麻流別(おほたまるわけ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/周防大島

女島(ひめじま):姫島 大分県北東部
別名は天一根(あめひとつね)
http://ja.wikipedia.org/wiki/姫島_(大分県)

知訶島(ちかのしま):五島列島 長崎県
別名は天之忍男(あめのおしを)
http://ja.wikipedia.org/wiki/五島列島

両児島(ふたごのしま):男女群島 長崎県五島市
別名は天両屋(あめふたや)
http://ja.wikipedia.org/wiki/男女群島

http://ja.wikipedia.org/wiki/国産み




1904管理人:2014/01/06(月) 23:09:54
Re: (無題)
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > 秦野さんの地図に見える五島列島って古代になんて言われていたんでしょうね。
>
> 五島列島(耼羅國)は夜冥不知著岸、遙視火光(灯台)になるな。
> 竹島(筑島:済州島)から、南に耼羅国(タン羅国) の灯台を望み、都斯麻国(対馬)を経て、東に一支国(壱岐)、竹斯国(筑紫)に至る。東に秦王国に至る。
>
> 耼羅國は火國(灯台)の火國。阿蘇國は阿蘇山の火國
>
> 五島列島(耼羅國)
> 五月壬辰朔、從葦北發船到火國。於是、日沒也。夜冥不知著岸。遙視火光。天皇詔挾杪者曰、直指火處。因指火往之。?得著岸。天皇問其火光之處曰、何謂邑也。國人對曰、是八代縣豐村。亦尋其火、是誰人之火也。然不得主。茲知、非人火。故名其國曰火國也。
>
> 阿蘇國
> 六月辛酉朔癸亥、自高來縣、渡玉杵名邑。時殺其處之土蜘蛛津頰焉。丙子、到阿蘇國。其國也郊原曠遠、不見人居。天皇曰、是國有人乎。時有二神。曰阿蘇都彦・阿蘇都媛。忽化人以遊詣之曰、吾二人在。何無人耶。故號其國曰阿蘇。
> http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_07.html
>
>
> 『古事記』・国産み神話においては、隠岐の次、壱岐の前に生まれた筑紫島(九州)の四面のひとつとして語られ、別名を「建日向日豊久士比泥別(タケヒムカヒトヨクジヒネワケ)」といったとされる。
> 次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/火国
>
> 秦野は国産みを読み解いています。現在の場所は多くは出鱈目だな。まともなのは小豆島だけ。
>
> 五島列島
> 古事記の国産みにおいて、イザナギ・イザナミが大八州を生んだ後、更に「児島」「小豆島」「大島」「女島」「知訶島(ちかのしま)」「両児島(ふたごのしま)」を生むが、この中の知訶島が五島列島である。古くは福江島を「おおぢか(大知訶、大値嘉)」と呼び、上五島の島を「こぢか」と呼んでおり、現在行政区画上ではたまたま五島列島に入れられていないものの五島列島の一部としてその北に位置する小値賀島(おぢかじま)がその呼称の名残である。また、イザナギ・イザナミが生んだ最後の「両児島(ふたごのしま)」は、五島の南西に離れて浮かぶ男女群島のことであるとするのが通説である。五島列島に比してかなり小さい男女群島は現在の行政区画では五島市 に入るが、・・。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/五島列島
>
> 国産み(大八州)

> 知訶島(ちかのしま):五島列島 長崎県
> 別名は天之忍男(あめのおしを)
> http://ja.wikipedia.org/wiki/五島列島
>
> 両児島(ふたごのしま):男女群島 長崎県五島市
> 別名は天両屋(あめふたや)
> http://ja.wikipedia.org/wiki/男女群島


昨年も議論しましたが、この「竹島」はつまり竹斯島のことで、筑紫=九州のことでしょう。

半島から九州=竹島に至るまでのルート説明文なんです。

「竹」=「ツキ」=倭人伝の「都支国」ですね。

奇しくも九州の形が、三日月に似ているのはちょっと留意してもよいかもしれません。


それで、先の五島列島=知訶島の件ですが、となりの男女列島= 両児島(ふたごのしま)とあわせて、「鹿+児島」となったのではないでしょうか。

つまり「知訶」=「シカ」という考えです。その福江島に今でも五島特有の鹿が多数いるらしいです。

それで、そのあたりから、ある時期に今の鹿児島北部方面へ、渡ってきた人たちがいて、その人たちがそこを鹿児島と名付けたので、鹿児島の地名だけのこったのではないでしょうか。

だから、今でも「知訶島」 の別名の「天忍男」が、鹿児島周辺でも類似した神名で祀られているという線です。
航海民でしょうか。


ある意味かなり早い時点、弥生末から古墳時代ころには、その五島と鹿児島方面での行き来あったかもしれませんね。だから類似した神名の神社が残る。やはり物部・穂積系とも関わりますね。

天押穂耳尊


『古事記』では、アマテラスとスサノオとの誓約の際、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男(『日本書紀』の一書では次男)で、勾玉の持ち主であるアマテラスの子としている[1][2]。高木神の娘であるヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間にアメノホアカリとニニギをもうけた[1][2]。
葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう[1]。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)[1][2]。
名前の「マサカツアカツ(正勝吾勝)」は「正しく勝った、私が勝った」の意、「カチハヤヒ(勝速日)」は「勝つこと日の昇るが如く速い」または「素早い勝利の神霊」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられる[1][2]。「オシホミミ(忍穂耳)」は威力(生命力)に満ちた稲穂の神の意である[1]。 合気道開祖植芝盛平は正勝を「敵に屈せず、正しいことを行なって勝つ」、吾勝を「たゆまず修行し、己に勝つ」、勝速日を「相手と対峙した時にすでに勝っている」と解釈し、合気道の理念を表す用語とした。
稲穂の神、農業神として信仰されており[2]、富田八幡宮(勝日神社、島根県安来市)、太郎坊宮(滋賀県東近江市)[2]、英彦山神宮(福岡県田川郡添田町)[1]、西寒多神社(大分県大分市)[2]、木幡神社(京都府宇治市)[1]、天日神社(兵庫県伊丹市) 二宮神社(兵庫県神戸市)、天忍穂別神社(高知県香南市)[1]などに祀られている。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=天忍穂耳命&ei=UTF-8&fr=appsfch2



1905荊の紀氏:2014/01/07(火) 01:54:36
Re: (無題)
管理人さんへのお返事です。

>「知訶島(ちかのしま)」

血鹿(ちか:五島列島の古称)
亀山勝氏による「海から見た日本列島」では、中国春秋時代の呉の末裔である安曇族 という海人による東シナ海航路が指摘されています。日本と中国大陸を結ぶ五島は まさに高天原に相応しい地勢と考えられます。 http://blogs.yahoo.co.jp/haiku_square/54170483.html?from=relatedCat

日中往来と五島列島 - 瀬戸音信 http://wkmseton.d.dooo.jp/seoto/sot04.html
古代の例を挙げれば、「磐井の反乱」(『日本書紀』巻第十七「継体天皇」21年<527>の条)として知られている筑紫国造磐井の勢力が、中国との交易のため有明海から「血鹿(ちか:五島列島の古称)」、
『日本書紀』巻第二十「敏達天皇」12年(583)の条に、「(百済へ行くために)血鹿に向けて発進した」という記載がある。

五島列島に牛を連れた新たな海人の集団が到着したようです。 http://www.mekong.ne.jp/column/eguchi/eguchi25.html
「神武東征」のような大規模な軍事行動は、列島内(とりわけ九州・瀬戸内・近畿)の狭い領域から自発したものとは考えられず、280年の三国の呉の滅亡の余波を受けたものではないかと考えられるからです。呉は扶南と通交し朝鮮半島に一万の兵を送るほどの海軍力を持っていたが、晋の軍勢が呉の都に進軍するやたちまち土崩瓦解し、孫皓は降伏しました。このときかなりの海軍が列島に逃れてきたのではなかったでしょうか。また神武の祖父(ヒコホホデミ)は海の彼方の海神の宮殿を訪れていますが、これは呉の海軍の一将領の邸宅だったのではないでしょうか。さらに言えばヒコホホデミはこのとき海神よりタイ系の水族の儀礼で迎えられていますが、水族によって構成される海軍の船隊もあったのではないでしょうか。呉は滅んだ国でありそのことのハンディに加えて、大陸中心の中国の史官の眼からすれば、海上の出来事はほとんど視野の外だったと思われます。この場合、海人に伝わる伝説が下敷きとなったと思われる『古事記』のはじめの部分は、中国の史官には窺い知ることのできない海を通じた世界の消息を伝えているように思われます。

鹿(カ)
軍門にたてる標木の字 鹿(カ) 禾 (カ) 夏(カ)・・・禹(わたくし) http://8906.teacup.com/toraijin/bbs

ひょうぼく【標木】とは。意味や解説。目印にする木。 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/188096/m0u/

ツクシはも と標木の義であったものが、転じて広く境のしるしを意味するに至ったものとしている。 古くは標木を立てて境の目印にする風が盛んであったという。 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2517
「澪みをつくし標」だが、これは万葉集にも歌われている語で「航路の目印として立てた標識」と解されている。
しかし、ミヲは水ミ緒ヲ、ツクシは境だとすれば、山の稜線を表す語とも解され、むしろこれが本来の意味ではないかと思う

対馬五島の大円寺川畔の水神社は、消防の神として昔から有名で、河童を祀っており、同川の深淵には河童 ... 単立神社、創建は紀元前90年(崇神天皇7年)で、奈良時代に行基が蔵王権現を祀ったのが始まりと伝えられ、御祭神は櫛真智命(クシマチ) ...
http://members3.jcom.home.ne.jp/narui-tadao/subpage06.html
 白山社は、石神社と並んで古来から歯の神様として有名で、歯痛の治療法のなかった時代には神様に頼るほかなかったのであろう?
歯(ハ・シ)
歯の神様・・・
むし歯の神さま
「むし歯」の神さまは全国的に散在しているが、白山神社の系列で、この社もその一つなのかもしれない。 なぜ白山神社は「むし歯」の痛みにきくのか不明であるが、「むし歯」−>「はくさ」−>「白山」という語呂合わせ説もあるらしい。 ...
http://www.izcc.tohoku-gakuin.ac.jp/kyoyoblog/log/eid576.html

禹貢」をうちたてる。 ... 水神信仰で降雨の能力があります。 ... また九頭龍さんの頭は戸隠、妙高山の麓、関山神社が胴体で、尾が能生の白山神社という伝承もあります。 これもおなじような話が大和にあります!
http://kamnavi.jp/log/ktba0610.htm


1906管理人:2014/01/07(火) 23:13:06
Re: (無題)
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> >「知訶島(ちかのしま)」
>
> 血鹿(ちか:五島列島の古称)
> 亀山勝氏による「海から見た日本列島」では、中国春秋時代の呉の末裔である安曇族 という海人による東シナ海航路が指摘されています。日本と中国大陸を結ぶ五島は まさに高天原に相応しい地勢と考えられます。 http://blogs.yahoo.co.jp/haiku_square/54170483.html?from=relatedCat
>
> 日中往来と五島列島 - 瀬戸音信 http://wkmseton.d.dooo.jp/seoto/sot04.html
> 古代の例を挙げれば、「磐井の反乱」(『日本書紀』巻第十七「継体天皇」21年<527>の条)として知られている筑紫国造磐井の勢力が、中国との交易のため有明海から「血鹿(ちか:五島列島の古称)」、
> 『日本書紀』巻第二十「敏達天皇」12年(583)の条に、「(百済へ行くために)血鹿に向けて発進した」という記載がある。
>
> 五島列島に牛を連れた新たな海人の集団が到着したようです。 http://www.mekong.ne.jp/column/eguchi/eguchi25.html



情報ありがとうございます。

やはりそうすると「知訶島(ちかのしま)の語源が、鹿になるようですね。

そして、当初は 血(チ)もしくは知(チ)音が加わっていたわけですね。雄略時代までは、そのチ音があったのですが、後にカ音だけが残ったのでしょう。


先の国産みの古事記の伝承も、そうすると、継体・敏達時代のそれの成立に近い時期のものを含んでいるということになるでしょうか。


五島列島から中国へ直通するルートは、しかしまた磐井の時代には知られていたわけですね。百済に行くために五島を経由するという敏達の記事も考えてみると不思議です。

新羅との対立関係にあったからでしょうけど、五島からすると済州島つまり先のタムラ島経由で百済南岸に向かうのかな?

敏達系の皇族に田村皇子というのがいますね。タムラ。このころには、加羅などの「羅」音が半島南部の地名につきはじめているはずで、耼羅国(タン羅国)だったのでしょう。

耼羅国(タン羅国)の皇族が、百済と日本との間を取り持っていて、その関係でその王族の娘をもらうとかすれば、その息子の皇子は、母方の出身地のそれに影響されるので、耼羅皇子とかいう皇子名がでてきてもおかしくはないでしょうね。

似たような事例は、欽明と秦氏との間でもあったようですし、百済や伽耶諸国の王族との間でも、同様に娘を差し出していて、その名が逆に残ったままである可能性もありそうです。

1907荊の紀氏:2014/01/11(土) 19:12:44
(無題)
以前「富士信仰」の稿で久能山・世良田・日光3東照宮がNE27°のペンタラインで一直線に並ぶことを示し、また筑波―富士ペンタラインNE54°が富士山頂・西北峰に当たることを指摘しましたが(図?)、ここが山頂第二峰の「白山岳」で曼荼羅図の薬師如来座と重なります。
★もういちど関東のペンタラインを見てみましょう(図?)。
★各東照宮の「本地仏」は総て「薬師如来」です(注・久能山薬師堂は明治時代に日枝神社にすり替えられた)。
★また秩父神社に南接する慈眼寺は、秩父観音霊場のひとつなのに何故か薬師如来が本尊で、「あめ薬師」として知られています。
★そして久能山東照宮の本殿もペンタラインに沿って造られています。
☆関東支配での縄文・弥生時代の主軸は<筑波―富士ライン>で、古墳時代からの主軸は<鎌倉―筑波ライン>ですが、江戸期に至って徳川幕府は新たに「特定秘密結界」として<東照宮―富士ライン>を<鎌倉―筑波ライン>と平行して設定しました。これは徳川家の大参謀「天海」の知恵でしょう。

【新春コラム】:「余と朕」・「将軍家と天皇家」

★「余の顔を見忘れたか!」暴れん坊将軍・徳川吉宗のセリフです。
★実は「余」と自称した一族が古代にもありました。蓋鹵王・余慶や武寧王・余隆などを輩出した百済王家で、騎馬民族「扶余」の血脈であることを中国側に伝える柵封姓として使われました。
★対して「朕」は中国天子の自称で、これを日本天皇が取り入れています。
★さて百済王家は中国の臣下・将軍として仕えており、これも日本と同じです。
★これは武家の棟梁が騎馬民族・扶余氏の血脈を受け継ぐものかどうかは解りませんが、少なくとも「半島騎馬文化を受け継ぐ列島武家文化」の色彩が濃厚です。
※ところで「倭の五王」が登場する宋書を日本側が読んでいないはずはないのですが、記紀には書かれていません。近畿天皇家には該当者がいなかったか、または書くと都合の悪いことだったのか(中国の家来になった将軍なので)。私は五王のうち安東大将軍・倭済を紀小弓だと推定していますが、書紀におもしろい記事があります。「半島征伐に向かう紀小弓を天皇が大将軍に任命した」というもの。「始めに任命したのは俺の方だ」との主張でしょうか。いずれにしても倭の五王は天皇家の人物ではありませんね。

革命的な利水文化を齎した周濠古墳&土師集団の輝蹟 http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/

★古墳を立地別に分類すると?山稜?山麓?平原の3種に分類できそうです。
★この巨大事業ですが、単に「墓」機能のみということでは、やはり人民の疲弊・人心乖離を招くでしょう。
★で、山稜古墳では「昇天」という宗教的価値と共に、外敵監視や通信機能といった実利の付加が考えられます。
★対して今編では「周濠を伴う巨大古墳」が当初山麓に次に平原に造成されたことで指摘した「制水」機能。それが豊かで広大な農耕を約束することで人心掌握のみならず多大な農民流入をもたらしたこと、容易にうかがえます。
★その端緒が巻向・箸墓(図?)、正円と五芒星一つでのシンプルな設計が可能です。弥生末期に突然出現した「周濠を伴う巨大古墳」で、巻向川の水利を掌握しました。結果この地の発展は、皆さんよく知るところです。
★次いで登場するのがその北方山麓に築かれた伝崇神陵・伝景行陵(図?)で、段々周濠での用水ダム機能がうかがわれます。
★で、これらの前期大古墳はいずれも「一ツ星」が設計基準であることが想定されます。
★ところが5世紀、突然異次元の設計思想が席巻
します、中期ダブルペンタ設計(図?)。
★これは直接地面に描け、しかも黄金比に従っていくらでも大設計が可能な技法で、主に河内平原の少雨量荒地に築造されました。周濠は多量の灌漑用水を提供し、豊かな農耕を保証します。
★彼らは九州からの紀氏系豪族@応神G(竹内宿祢一族)、古墳には故地から阿蘇凝灰岩製石棺を持ち込んでいました。
★で、何故か応神陵と称される誉田御廟山古墳
(図?)がこの後に登場します。
★不思議なことにここでまた「一ツ星」設計に戻
ります。ここは山塊上に造られた起伏立地で、どうしても外囲いが必要だったのでしょう。
★そして中期古墳が列島中を席巻した後登場するのが後期型古墳、一ツ星が基本です(図?)。
★規模は前・中期の巨大古墳に劣りますが、やはり満々と水を湛えた周濠が寄り添っています。
★ここでまた「一ツ星」に戻ったのは、周濠も一体化した設計への進化かも知れません。
★こうして国土がほぼ開発された後の古墳は小規模の墓機能のみ、終末期へと向かいます。
★ここで改めて大和・河内の「大古墳の変遷」を俯瞰してみましょう(図?)。
★当初大和東部の巻向で箸墓を端緒に展開したのが山辺古墳群で、それが北部の佐紀盾列へと移り西部の馬見へと展開します。
★それが5世紀ごろ、一山越えた西の河内へと飛び火、古市古墳群です。更に西の大阪湾を望む百舌鳥丘陵へと進み、この地域の「改造」主体が完成します。
★これを地図で見てみましょう(図?)。
★<山辺→馬見→古市→百舌鳥>と東西軸に見事に連鎖した構造には何か強い「意図」が感じられます。また地域の主墳<崇神陵―巣山古墳―応神陵―仁徳陵>も直列、不思議です。
※この「大和・河内ダブル円」、実は箸墓のラインとソックリで、ちょうど前方底部中心に「土師町」が当たります。「箸墓は土師墓ではないか」との説が有力で、この両地域の開発ランドプランは「巻向発」であることがうかがわれます。
★さて後期型古墳ですが、特に古市古墳群南部に
集中しているのが目立ちます(図?)。
しかもこのエリアは5世紀後半に造られたという「古市大溝」の西側、水原地帯。一体なんで?。
★古市大溝は灌漑用水とも水運路とも言われていますが、後期型4古墳を連結することによる「何か今までにない新機能」を付加したことがうかがわれます。で、図を広く見ると東部の先行する中期古墳群とは分離された形で築かれており、多分新開地だったのでしょう。
★話はまた箸墓に戻ります(図?)。この墓の北部には周濠に直結して巻向三塚・中心部に一直線に伸びる水路があったことが確認されており(巻向運河)、開発は単なる古墳築造だけではない「総合的な利水事業」、その先駆が箸墓だったことが解ります。
☆巻向には西日本各地からの土器が頻出します。邪馬台国巻向論者はこれを「卑弥呼支配の証拠」としていますが、江戸時代の参勤交代のようなことがあったとでもいうのでしょうか?。
☆もうお解りかと思いますが、これは「巻向地域の画期的な開発事業により、豊かさを求める民が集結した」と考えるべきでしょう。
☆戦闘の絶えない九州の地に嫌気がさした連中には格好の新天地、記紀に登場する「神武集団」にとっては、まさに「垂涎の地」だったことでしょう。
★最後に、巻向は天皇家にとっては「目の上のタンコブ」出雲系土師氏が開発した所で、神さまも建物も五芒星結界もみんな「出雲製」です。天皇家は崇神の代に至ってようやくスリ寄れた程度です。
【追1.3】ハシハカ物語
★箸墓は、記紀では崇神代に「倭迹迹日百襲姫命が箸で陰部を突いて死んだ墓」としており、別名「大市墓」は彼女とは関係ないので「地名」だとしています。
★ところが「大市」は、実は櫛田姫の姉でスサノオの妻となる「神大市比売」に附された名で、こうなると巻向の神々は総て「出雲系」となります。
★崇神期と箸墓築造期は合いません。「土師墓と大市比売」がピッタリですね。
★それにしても「土師土木集団」は古代列島改造の立役者です。巻向・土師墓に始まり古市・土師里や百舌鳥・土師町など、代々転々と現場に住み着いた技術集団。私は密かに彼らを「日本のフリーメーソン」と呼んでいます、「五芒星の秘密」をしっかりと秘匿して。



1908荊の紀氏:2014/01/12(日) 12:13:34
「神の泉」  (エン)は輪ワ・・・倭人?
「エンヤー」という甲高い歌声で親しまれ ている囃子詞も、実はヘブライ語にルーツがあるようです。 (エン)はヘブライ語で「泉」を 意味します。「ヤ」は神の呼び名です。つまり「エンヤー」は「神の泉」を意味します。 http://www.naritacity.com/journal/japan/journal_japan_061015.asp

「ウバイド文化」、「エリドゥ」、および「車輪」を参照. http://ja.wikipedia.org/wiki/シュメール
シュメール人自身は自らを「ウンサンギガ」(シュメール語: ???? - ùĝ saĝ gíg-ga (発音:uŋ saŋ giga)、「混ざり合わされた者」の意)と呼び、その土地を「キエンギ」(シュメール語: ??? - ki-en-ĝir15、「君主たちの地」の意)と呼んでいた。
「シュメール」という用語はアッカド人により用いられた異称で、このことはアッカドやその北東のスバル人(英語版)へと知覚された関係を示す。アッカド語の「シュメール」はおそらくこの名前を方言で表したものであろう。彼らが「キエンガ」(「カンガ」とも)と自称する言語学的グループの異称のままであった。[要説明]シュメールとはたんに言語学的な概念であり、シュメール語についてのみ適用され、民族集団としてのシュメール人を分離して示すことはできないともいわれ、その場合、シュメール人は正確には「ウンサンギガ」あるいは「キエンギ人」ないし「言語学的シュメール人」と呼ばれる。スバル人による異称は、メソポタミアやレバントにおけるセム語を話すさまざまな言語グループと結びついていて、シュメール語の言語的基盤とは関係がなかった。そのほかシュメール語と、エラム語やドラヴィダ語との言語学的結びつきを指摘する学者もいるが、言語学においてより一般的に受け入れられている説では、シュメール語は孤立した言語であり、たとえばアッカド語がセム語族に属するような形での近縁関係にある言語をもっていない。
シュメールの言語、文化、また、おそらくは外見も周囲のセム系の民族とは異なっていた。しかしシュメールの男子像を見る限り、大きく彫りの深い目、高い鼻、巻き毛で髭が多いなどセム系と変わりないような容貌した像もあり、民族系統は未だ謎である。シュメール人は広範に征服民か移住民であると信じられている。しかしそのような移住がいつ行われたのか、またシュメール人の地理的な起源がどこなのかを正確に決定することは難しい。一部の考古学者はシュメール人が実際にはメソポタミア平原に出自を持つとの観点にいたっている。

小規模の農業をもつ組織化され紀元前5500年頃に始まったウバイド文化は、この地域において現在確認されている最古の文化層である。ウバイドは、ウル市から西6キロメートルに位置する遺跡名である。ウバイド文化は、ザグロス高原北西部付近(Jarmoなど)に文化的根拠地をもち、ウバイドが主体[2]となった。[3]
当初は天水農耕に頼っていた彼らであったが、ウバイド2期(ウバイド文化中期、紀元前4800年-紀元前4500年)には灌漑農法を考案し、これまでの天水農法とは比較にならないほどの農業能率と農業収益を実現し、年間降水量200mmの限界線を超えて周辺地帯にまで農耕文化は拡大、穀物の収穫は大幅に増加した。これによって、ウバイド文化は他の文化を圧倒し、西アジア全域に影響を与えた。
ウバイド期は紀元前3800年頃に短期間のうちに終焉を迎えたと考えられている。アラビア半島東部やオマーンでの考古学調査から、この時期が湖水面の低下、砂丘の活動開始などの直後[出典 1]であることが明らかになり[4]、乾燥の広がりによって耕作活動が不可能になった。エリドゥからウルクへ移住したという神話[5]が残されている。

キンダットゥに占領されたシュメールのウルは、アムル人のイシュビ・エッラに奪還され、イシン第1王朝が成立した。リピト・イシュタル法典が知られている。紀元前2000年頃、アムル人が南部を支配する間に、アルメニアのフルリ人がミタンニ帝国を打ち立てた。両者とも、古代エジプトとヒッタイトに対抗して自らを守った。ヒッタイトはミタンニを破ったが、バビロニア人によって撃退された。紀元前1757年頃、バビロン第1王朝のハンムラビがシュメール及びアッカドを統一し、イシン・ラルサ時代が終わった。

シュメール人は、地母神であるナンム(英語版)、愛の女神であるイナンナまたはイシュタル、風神であるエンリル、雷神であるマルドゥクなどを崇拝した。シュメール人が崇拝する神々(? - DINGIR - ディンギル)は、それぞれ異なる都市からの関連を持っていた。神々の信仰的重要性は、関連する諸都市の政治的権力に伴って、しばしば増大したり減少したりした。言い伝えによれば、ディンギル(神)たちは、彼らに奉仕させる目的で、粘土から人間を創造した。ディンギルたちは、しばしば彼らの怒りや欲求不満を地震によって表現した。シュメール人の宗教の要点が強調しているのは、人間性のすべては神々のなすがままにあるということである。

シュメール人は戦車を発明し、オナガー(ロバの一種)を牽引に利用した。初期の戦車は後世の物に比べて、戦闘時においてあまり有効に機能せず、搭乗員は戦斧や槍を運び、戦車はおもに輸送手段として役だったとされる。戦車は、二人の搭乗員が乗り込んだ四輪の装置で、4頭のオナガーを牽引に利用していた。台車は、一つの織られた籠と頑丈な三片設計の車輪から構成されていた。

仲小路は、上代において日本を根軸とする「スメラ太平洋圏」があり、進行中の太平洋戦争を「上代スメラ太平洋圏復興への皇御軍(すめらみいくさ)」と考えていた[出典 7]。しかし、坂倉の義父である西村伊作は、「(坂倉らが関係しているスメラという団体は)人類の根本の人種であるスメル人が日本にも移り住み、それが日本の天皇のすめら命になったと言っているが、一種の誇大妄想狂だ。坂倉はこの戦争に勝ってオーストラリアを全部取ったら別荘を作って遊びに行ったり、飛行機でパリに買物に飛んで行く、というようなことを空想していた。」と書き残している[出

ジャップ Jewish 「倭」 神まと・・・ヤマト   http://8906.teacup.com/toraijin/bbs


1909管理人:2014/01/12(日) 23:16:34
Re: 「神の泉」  (エン)は輪ワ・・・倭人?
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 「エンヤー」という甲高い歌声で親しまれ ている囃子詞も、実はヘブライ語にルーツがあるようです。 (エン)はヘブライ語で「泉」を 意味します。「ヤ」は神の呼び名です。つまり「エンヤー」は「神の泉」を意味します。 http://www.naritacity.com/journal/japan/journal_japan_061015.asp
>
> 「ウバイド文化」、「エリドゥ」、および「車輪」を参照. http://ja.wikipedia.org/wiki/シュメール


アイヌ語でしょうか。
記紀には、原住民の言葉を、そのまま音を拾って記したものがわずかながらあるようですね。
ただ、下記のは意味だけなのか、音もそうなのか? どうしてこの名前をつけたんでしょうね。

後方羊蹄山(しりべしやま)


『日本書紀』で阿倍比羅夫が後方羊蹄に政庁を置いた事例を引き合いに出した。そして、この山を後方羊蹄山(シリベシ山 )
http://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=105
http://www.viajar.jp/pc/special/grand_top/driveplan_view/tokushu5_dt01.html



尻別の地名が今でもあります。羊蹄山を廻り、後志管内を貫流して日本海に注ぐ大河。内陸深くから来る川の意で、アイヌ語ではシリ・ペッ(Shir-pet 山の・川)と呼ぶ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/




1910荊の紀氏:2014/01/14(火) 11:21:01
Re: 「神の泉」  (エン)は輪ワ・・・倭人?
管理人さんへのお返事です。

際・・・端(境)・・・尻・・・シリウス?
>アイヌ語でしょうか。
> 記紀には、原住民の言葉を、そのまま音を拾って記したものがわずかながらあるようですね。
> ただ、下記のは意味だけなのか、音もそうなのか? どうしてこの名前をつけたんでしょうね。

>後方羊蹄山(しりべしやま)
シリベシ(水際の険しい川)山 http://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=105

尸(しりの意)と、意符の毛とからなる。 尻にある毛、「お」の意 「尿」 字義:にょう. 解字:会意。 ... する鳥=>決まった季節にくるもの=>季節労務者=> やとう左右に分かれたたくさんの木=>観音開きの戸=>とびら 戸=境 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2666
結界(けっかい、Skt:Siimaabandha)とは、聖なる領域と俗なる領域を分け、秩序を維持するために区域を限ること。本来は仏教用語であるが、古神道や神道における神社なども、同様の概念があることから、言葉として用いられているが、大和語としては端境やたんに境ともいう。

奥」は後出の「羽山津見の神」の「端」に対する。 火神(火之 ... 道」は現し国と黄泉国との 境の道。 伊耶那岐命 .... (ギリシャ神話における)風の父の名前であるとともに、「嵐、 台風」 ... http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2519
『台』は、四方を見渡すための物見台

立見・・・竟と通じる
境とは、物と物との区切りを指す言葉。境界、境目のこと。 ... 意味: さかい、領域の端、 場所、地方、領土、状況、状態、段階、という意味がある。竟と通じる。
「疆(さかい)なり」「經典にて竟と通用す」とある。
音読みは、ケイ(漢音)、キョウ(呉音)。訓読みは、さかい。

ケイ・・・景  キョウ・・・京・教(景教?)

數は「婁(じゅずつなぎ)+攴(動詞の記号)」で、一連の順序につないでかぞえること。
一連の順序
一連の列島が本州に突き当たる所に、淡路島 を ... http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=204
一連の巨石は、六甲山最高峰の周辺に集中していることから、列島周辺の聖地と紐づけ られれていることを意識した磐座を含む ... http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=199
一連の作業によって過去の自分の思考を 振り返り、どうして自分がレイラインに魅かれたのかを客観的に見つめる ... http://e4.gofield.com/culture/archives/000373.php

シリ(山) シリア(北の地) 尻 亜細亜・・・端 亞・・・ハ(あ)ジア? http://8906.teacup.com/toraijin/bbs
アジア(亜細亜、Asia、羅音は「アシア」、英音は「エイジャ」、日本語では「アジア」[2]と音訳されている)は、アッシリア語で東を意味する「アス」に語源をもつ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/アジア
東を意味する「アス」
紀元前8世紀から紀元前7世紀にかけての頃、古代メソポタミアのアッシリア人がエーゲ海の東を「アス」 asu (「東」「日の出」の意)、西を「エレブ」 ereb (「西」「日没」の意)と呼称したことにはじまるといわれ、のちに「アス」にラテン語の接尾辞「イア」 ia がついて Asia の語が生まれたといわれる[3]。

アジアという言葉が同一の文化・文明あるいは人種・民族を基盤として定義された概念ではなく、そもそもの由来がヨーロッパ以外の(東方)地域全部という意味であったため、結果的に異なる文明が分立する地域を一つの言葉で定義してしまった事に由来すると考えられる。サミュエル・P・ハンティントンの著書『文明の衝突』によれば、アジアには日本文明・中華文明・ヒンドゥー文明・イスラム文明が存在するとされている。

アスカ・・・東の カ(夏・華・鹿・ 蝦
「あすか」の語源については外来語由来説、地形名称由来説などがあるがはっきりとしたことはわかっていない。

外来語由来とする説は、アソカ(ムユウジュ)、アショーカなどのサンスクリッド語とする説。

「角を持つ神」神の元型の一つだった
神農 禹
牛頭天王、神農黄帝、素盞嗚尊 工師 九(禹)氏 狗士 矩氏 紅(丹・赤) オベリスク 「串」 =〔甲骨文字の【 □□ 】+【 | 】(甲骨文字の10・十 ジュウ 縦・獣)〕 「オベリスコス」が それです。これは現在、古代エジプトの建造物のオベリスクを意味します . http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1895

漂白の民 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1895
牛頭天王、神農黄帝、素盞嗚尊   工師 九(禹)氏 狗士 矩氏 紅(丹・赤)

オベリスク 「串」=〔甲骨文字の【 □□ 】+【 | 】(甲骨文字の10・十 ジュウ 縦・獣)〕
「オベリスコス」がそれです。これは現在、古代エジプトの建造物のオベリスクを意味しますが、同時にギリシャ語の「串」という意味があります。

「串」=オベリスク
何らかのものを串に刺した状態を表す象形文字。 ...
http://mei2jikai.blog113.fc2.com/blog-entry-28.html
つらぬく(≒貫く)。

V字は角(つの )の部分
コラム 「おうし座とすばる」
おうし座 : 上図の中心付近で、横向きのV字の形をもつ星座がおうし座。 V字は角(つの )の部分。右上が、すばる(プレアデス星団) (上図の左下は、オリオン座). かに星雲: すばる(プレアデス星団):. 晩秋の夜空を見上げると、東の空におうし座が輝いている。 http://members3.jcom.home.ne.jp/tshiba111/colum11.html

角宿(かくしゅく)
二十八宿の起点は秋分点に近い「角宿(かくしゅく),おとめ座中央部」にあります??. http://www.ne.jp/asahi/stellar/scenes/china28/..
北極星は「天帝」の座とされ,そのすぐそばをめぐる星たちには宮殿の庭園や官庁,役人といった,高貴な事物をあてはめました。
東方七宿・青竜 (せいりゅう)・・・現在のさそり座のS字カーブと,それに続くてんびん座,おとめ座の領域を巨大な竜の姿に当てはめて,星宿名がつけられています。
竜の姿

二本の角のついた頭は安食( あじき)に、腹は本埜(もとの)に、尾は大寺(おおでら)に落ちていたの ... http://www.city.sosa.lg.jp/index.cfm/16,6917,247,488,html

天球上を3区画に分けた三垣

尻・・・尾
尾宿(びしゅく)、和名で足垂れ星(あしたれぼし)は、二十八宿の一つで東方青龍七宿の 第六宿。距星はさそり座μ1星。 星官[編集]. 星官(星座)としての尾は、さそり座のμ、ε、ζ 、η、θ、ι、χ、λ、νの9つの星によって構成される。 http://ja.wikipedia.org/wiki/尾宿

天市垣(てんしえん)とは、古代中国天文学において天球上を3区画に分けた三垣の下垣 。房宿・心宿・尾宿・箕宿・斗宿より北の区域。あるいはその主体となった星官(星座)の ことを指す場合もある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/天市垣
星官[編集]
星官としての天市垣は、天における市場を囲う藩垣(城壁)の形を象っており、その中枢には帝座が位置する。
帝座 - ヘルクレス座α1・α2星(ラス・アルゲティ)。
東藩11星(宋・南海・燕・東海・徐・呉越・斉・中山・九河・趙・魏) - へびつかい座η星、へび座ξ星、へびつかい座ν星、へび座η・θ星、わし座ζ星、ヘルクレス座112番・ο・μ・λ・δ星。
西藩11星(韓・楚・梁・巴・蜀・秦・周・鄭・晋・河間・河中) - へびつかい座ζ・ε・δ星、へび座ε・α・δ・β・γ星、ヘルクレス座κ・γ・β星。
東藩を「左垣墻」、西藩を「右垣墻」ともいう。

冬の星で一番美しいマイナス六等星のシリウス。大犬座の尾の先で青白く燃える冷たい 炎。

小熊座も小さなヒシャクの形です。柄の先端が尾の先っぽに相当します。これが小熊座 α星で、北極星(ポラリス)になります。ちょうど「額」とは反対方向になります。これも語感 優先でしょうか。あるいは賢治の小熊絵は北極星を仰いでいるのかもしれません http://pliocena.com/trek/frame_hoshi.html

四神舎 http://www.4jinsha.com/
西洋の星座では北極星がこぐま座のしっぽの先端の星であり、おおぐま座の北斗七星 のひしゃくの2つの星の距離を5倍したあたり、ということも ... そしてその四方にきらめく 星座を皇帝を鎮護する動物、東の青龍、西の白虎、北の玄武、南の朱雀としたのです。
中国の星座の歴史も大変に長く、約3000年前といわれています。
西洋の星座では北極星がこぐま座のしっぽの先端の星であり、おおぐま座の北斗七星のひしゃくの2つの星の距離を5倍したあたり、ということもよく知られていますが、古代中国人は北極星を皇帝に、そして天帝の集まる周辺を宮殿を囲う城壁に見立て、紫微垣(しびえん)と称しました。そしてその四方にきらめく星座を皇帝を鎮護する動物、東の青龍、西の白虎、北の玄武、南の朱雀としたのです。

尾の九星そろふて明かなれば国富なり うつり動けば国のうれひありて大洪水の難あり
四神の思想はその後、地上における都造りにも影響されました。

東に青龍を表す流水を、西に大道あるを白虎、南に窪地あるを朱雀、そして北に丘陵あるを玄武としたのです。
唐の都長安は四神相応の地とされました。

天子は北に住むため、都に入る門は南に設けられ、朱雀門となずけられていました。その手法は朝鮮から日本にも伝わり藤原京を経て、中国風の都・平安京に至って、完全な四神相応の地となりました。.
また相撲の土俵の天蓋の四隅の房の色も四神をあらわしています。.


> 尻別の地名が今でもあります。羊蹄山を廻り、後志管内を貫流して日本海に注ぐ大河。内陸深くから来る川の意で、アイヌ語ではシリ・ペッ(Shir-pet 山の・川)と呼ぶ。


1911管理人:2014/01/15(水) 22:54:24
Re: 「神の泉」  (エン)は輪ワ・・・倭人?
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 際・・・端(境)・・・尻・・・シリウス?
> >アイヌ語でしょうか。
> > 記紀には、原住民の言葉を、そのまま音を拾って記したものがわずかながらあるようですね。
> > ただ、下記のは意味だけなのか、音もそうなのか? どうしてこの名前をつけたんでしょうね。
>
> >後方羊蹄山(しりべしやま)
> シリベシ(水際の険しい川)山 http://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=105
>
>

先の「後方羊蹄」の件ですが、羊の爪というのは、蹄に近いようですが、下記の動画でみると、二つに別れた爪がみえますね。

http://www.youtube.com/watch?v=1KZXUsssg74


それで、後方というのは「あとへ」と読むそうで、後ろの意味がある。


思うに、青森県の2又に別れた半島の形、もしくは北海道の函館周辺の2又に別れた半島の形、これらを、羊の蹄にたとえて、前者を前方、後者を後方と言ったのではないでしょうか。

だから、津軽とは別に記載されているところをみると、やはり北海道の函館周辺、そのあたりの可能性が高いように感じますね。しっかり彼らは測量しているんです。地図も持っていたので、正確な位置に当時から前方後円墳を北海道にも造営していったわけですね。

その測量地図情報が7世紀半当時の飛鳥にも届いていたわけです。

当時、おそらく羊がいたんですね。しばしば記紀には羊の記載があります。後に群馬の羊大夫の伝承なども出てくるのですが、彼らは羊の爪の形を知っているんです。

斉明5年(659年)に阿倍比羅夫がここに郡領を置いたわけですが、阿倍氏はオオヒコ系で航海民族の末裔ですから、船で東北方面までしばしば向かっていたのでしょう。その配下に吉士集団などの渡来系もいて、昨年論議したように、東北・北海道方面の古墳から、渡来系遺物が出て来ることと関係あるのだろうと思いますが、阿倍氏が親玉だった可能性もありそうですね。

確かに7世紀代も阿倍氏の影響力はかなり朝廷でも強かったですし、内部の測量知識、つまり軍事機密を把握していた可能性あると思うんですね。それらの軍事地図をみながら、蝦夷に向かって遠征して攻撃をしかけていったわけで、これらは白村江のときも同様な作戦で半島へ向かったことでしょう。

だから彼らはアバウトな航路地図で向かったわけではなく、かなり詳細に測量された地図にのっとって作戦を建てていた、そう考えるべきでしょう。

それで、もうひとつ面白いのは、地名の名付け方ですね。動物の姿を地図の形にたとえて名付けています。キシさんご指摘の飛鳥もそうですが、これは元は別の音があって、それに鳥の姿を重ねて地名にしてます。

動物を地名につけるのはどういう意味でしょうね。先の五島列島の「知訶島(ちかのしま)」つまり 血鹿(ちか)、両児島のケースもそうでしたね。鹿です。これらも航海民族系がかかわっていました。

オオヒコ系は九州にも基盤があり、もとは日向方面から畿内に4世紀前半に流れ込んできた勢力だろうと考えてます。畿内の古墳から航海民族系のそれがでてくる時期ですね。彼らはなにか動物と関係する名付け方をしたのでしょうか。そういえば、鹿島神宮も鹿嶋も鹿ですね。奈良の鹿・・。


1912荊の紀氏:2014/01/16(木) 21:56:28
Re: 「神の泉」  (エン)は輪ワ・・・倭人?
管理人さんへのお返事です。

パーン 番 幡
パーンは羊飼いと羊の群れを監視する神で、サテュロスと同じく四足獣のような臀部と脚部、山羊のような角をもつ(→獣人)。何者がパーンの親かは諸説がある。父親はゼウスともヘルメースともいわれ、母親はニュムペーであるといわれている。
実際には古形「パオーン、Παων、Paon」(「牧夫」の意、現代英語のpastureと同じ接頭辞)から名付けられたものだが、ギリシア語の「パン」(「全ての」の意)としばしば誤って同一視された結果、パーン神は性格と名前が誘惑的なものと思われるようになった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/パーン_(ギリシア神話)

ハンは返ヘン・ハン・ホン(むきを 変える)に通じ、巾(ぬの)がむきを変えてはためく幡(はた)。 http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/2ded27cd152bace2a6ded0346009de2f
音符 「番バン」 <動物の足あと>
番 バン  田部

解字 動物の足跡を描いた象形。また動物の足のひらを表す。釆ハンは獣の指の別れている形で、田は足のひら(掌)である。大きな動物が通ったあとは、はっきりと順々に足あとが地上に残っている。そこで、足あとの象形は、順序よくの意となり、当番・順番の意味となる。
意味  (1)順序。順位。「番号バンゴウ」「一番イチバン」 (2)かわるがわる。「輪番リンバン」「当番トウバン」 (3)見張り。「番人バンニン」

イメージ   動物の足跡の形が「順々に」(番・播)、「はっきりと」(審)、
        「同音代替(ハン・バン・ホン)」(藩・幡・蟠・蕃・翻)
音の変化  バン:番・蟠・蕃  ハン:藩・幡   ハ:播  ホン:翻  シン:審

順々に
播 ハ・バン・まく  てへん部
解字 「てへん(手)+番(順々に)」 の形声。手で種を順々にまくこと。
意味 (1)まく(播く)。種をまく。「播種ハシュ」「播植ハショク」(種子をまき、苗を植える)(2)まきちらす。ひろく及ぼす。「伝播デンパ」 (3)播磨(はりま)の国の略。現在の兵庫県南西部。「播州バンシュウ」

はっきりと
審 シン・つまびらか  宀部
解字 「宀(やね)+番(はっきりする)」 の会意。物事をくわしく調べ明らかにすること。建物のなかで関係者が集まって行なわれる。
意味 (1)つまびらか(審らか)。あきらか。「審問シンモン」(くわしく問いただす)「不審フシン」(疑わしい) (2)つまびらかにする。あきらかにする。「審議シンギ」(くわしく討議する)「審査シンサ」(よく調べて適否を決める)

同音代替(ハン・バン・ホン)
藩 ハン  艸部
解字 「艸(草木)+潘(ハン)」 の形声。ハンは棥ハン(まがき)で、「木+爻(まじわる)+木」からなり、木を交差させて作った「まがき」の意。藩は草木の生垣のこと。転じて、王室を守る垣根の役をする諸侯の意。
意味 (1)まがき。かきね。かこい。「藩塀ハンペイ」(防ぎ守るための垣根や塀) (2)はん(藩)。江戸時代の大名の領地。「藩主ハンシュ」「親藩シンパン」(徳川家の近親が封ぜられた藩)
覚え方  くさ(?)や、みず(氵)の番する、もと藩主 <明治維新後>
幡 ハン・ホン・マン  巾部
解字 「巾(ぬの)+番(ハン)」 の形声。ハンは返ヘン・ハン・ホン(むきを変える)に通じ、巾(ぬの)がむきを変えてはためく幡(はた)。
意味 (1)はた(幡)。のぼり(幟)。「幡旗ハンキ」(はたやのぼり) (2)ひるがえる。「幡然ハンゼン・ホンゼン」(旗のひるがえるさま) (3)「八幡はちまん」とは、八幡宮の略で、武道の神として信仰される八幡神をまつる神社。
翻 ホン・ハン・ひるがえる・ひるがえす  羽部
解字 「羽+番(ホン)」 の形声。ホンは返ヘン・ハン・ホン(むきを変える)に通じ、鳥の羽がむきを変えてひらひらとひるがえること。
意味 (1)ひるがえる(翻る)。ひるがえす(翻す)。「翻意ホンイ」(決心や意志をひるがえす)「翻弄ホンロウ」(もてあそぶ) (2)写し替える。「翻案ホンアン」(原作を生かして改作する)「翻訳ホンヤク」(ある国の文章を他の国の言葉に直す)「翻刻ホンコク」(写本などをそのままの内容で製版・印刷して出版する)
蟠 バン・ハン・わだかまる  虫部
解字 「虫(へび)+番(バン・ハン)」の形声。バン・ハンは、盤バン・ハン(まるい・わだかまる)に通じ、蛇がとぐろをまくこと。
意味 わだかまる(蟠る)。とぐろをまく。まがりくねる。「蟠踞バンキョ」(領地を占領して勢力を振う=盤踞バンキョ)「蟠屈バンクツ」(めぐり曲がる。気が晴れない)
蕃 バン・ハン・しげる  艸部
解字 「艸(くさ)+番(バン・ハン)」 の形声。バン・ハンは繁ハン・バン(しげる)に通じ草が生いしげること。また、藩ハンに通じ「かきね」の意、蛮バンに通じ野蛮の意もある。
意味 (1)しげる(蕃る)。ふえる。 (2)まがき。かきね。「蕃屏ハンベイ」(まがき・囲い。帝を守護すること) (3)草が生い茂る所に住む人。未開人。外国人。「蕃人バンジン」(原住民。外国人)「蕃書バンショ」(洋書。特にオランダの書物)

田は足のひら(掌)である。大きな動物が通ったあとは、はっきりと順々に足あとが地上に残っている

日本:ぐうのあし(音がグウである禺の 脚であることから); 韓国:???(jagwi yu bu、獣の 足跡の禸部); 英米:Radical track ... http://ja.wikipedia.org/wiki/ジ?

躳は身体という意味の字。 音訓: 音読みはキュウ(漢音)、グ、 グウ(呉音)、訓読みは、きわまる、きわめる。 http://dic.nicovideo.jp/a/
グウ(呉音)
ぐうのあし(音がグウである禺の脚である、「九」 .... 禹」 解字:形声。意符の「ノ+虫 」( 大きな蛇の形。水の神の意)と、音符の九(=冂。まがりくねる意)とから成る。虫の名 。 http://shoukei.blog65.fc2.com/blog-entry-40.html
鬘という漢字は、 まず長い という字に似た文字を書きます。 ただしこの赤い部分がカタカナの「ム」になっているので 注意 ...
ム」が獣の足が地面 を踏んだものの象形、「九」が声符であるとする。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ジュウ部
ぐうのあし(音がグウである禺の脚である
、「九」
.... 禹」 解字:形声。意符の「ノ+虫 」(大きな蛇の形。水の神の意)と、音符の九(=冂。まがりくねる意)とから成る。虫の名 。 http://shoukei.blog65.fc2.com/blog-entry-40.html
台(われ):大鳥 鳥鳳凰・・・ム(私)=禹台(われ) 己(おのれ) 「九」 「風」 鳥:(後に虫に 変わった)凡:(おおきい意) 禹・竜・雲 - 一枝堂雑録「禹」は「虫+九」です。 虫(き)がオス の竜、九がメスの竜です。 ... 「禹」の字の「冂」の部分は、「九」です。 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2359
Y形の竜
今回の漢字はアルファベットの「 Y ( ワイ ) 」にとても似ていますね。 意味1の「 総角 ( あげまき ) 」とは、古代の少年の髪の結い方で“頭髪を左右に分けて頭上に巻きあげ、角 状に両輪をつくったもの” http://www21.tok2.com/home/toshinopage/kanji/1ji31.html
解字:象形。木の先の分かれた形。
Υ, υ(希: ύψιλον / ? ψιλόν、英: ypsilon、ユプシロン、イプシロン、ウプシロン)は ギリシア文字の一つで、伝統的な配列では、その 20 番目に置かれる。文字の名前は「 単なるユ」を意味する。元の発音は「ウ」だったが、古典期には「ユ」に変化した http://ja.wikipedia.org/wiki/Υ
占星術での牡牛座の記号のよう(?)に書かれることがある。


>
> 当時、おそらく羊がいたんですね。しばしば記紀には羊の記載があります。後に群馬の羊大夫の伝承なども出てくるのですが、彼らは羊の爪の形を知っているんです。
>


1913管理人:2014/01/16(木) 22:51:50
Re: 「神の泉」  (エン)は輪ワ・・・倭人?
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> パーン 番 幡
> パーンは羊飼いと羊の群れを監視する神で、サテュロスと同じく四足獣のような臀部と脚部、山羊のような角をもつ(→獣人)。何者がパーンの親かは諸説がある。父親はゼウスともヘルメースともいわれ、母親はニュムペーであるといわれている。
> 実際には古形「パオーン、Παων、Paon」(「牧夫」の意、現代英語のpastureと同じ接頭辞)から名付けられたものだが、ギリシア語の「パン」(「全ての」の意)としばしば誤って同一視された結果、パーン神は性格と名前が誘惑的なものと思われるようになった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/パーン_(ギリシア神話)
>
> ハンは返ヘン・ハン・ホン(むきを 変える)に通じ、巾(ぬの)がむきを変えてはためく幡(はた)。 http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/2ded27cd152bace2a6ded0346009de2f
> 音符 「番バン」 <動物の足あと>
> 番 バン  田部
>
> 解字 動物の足跡を描いた象形。また動物の足のひらを表す。釆ハンは獣の指の別れている形で、田は足のひら(掌)である。大きな動物が通ったあとは、はっきりと順々に足あとが地上に残っている。そこで、足あとの象形は、順序よくの意となり、当番・順番の意味となる。
>??意味  (1)順序。順位。「番号バンゴウ」「一番イチバン」 (2)かわるがわる。「輪番リンバン」「当番トウバン」 (3)見張り。「番人バンニン」
>
> イメージ   動物の足跡の形が「順々に」(番・播)、「はっきりと」(審)、
>??        「同音代替(ハン・バン・ホン)」(藩・幡・蟠・蕃・翻)
>??音の変化  バン:番・蟠・蕃  ハン:藩・幡   ハ:播  ホン:翻  シン:審
>
> 順々に
>??播 ハ・バン・まく  てへん部
>??解字 「てへん(手)+番(順々に)」 の形声。手で種を順々にまくこと。
>??意味 (1)まく(播く)。種をまく。「播種ハシュ」「播植ハショク」(種子をまき、苗を植える)(2)まきちらす。ひろく及ぼす。「伝播デンパ」 (3)播磨(はりま)の国の略。現在の兵庫県南西部。「播州バンシュウ」
>
> はっきりと
>??審 シン・つまびら


それで、先の羊蹄の件で、その「羊」の字なのですが、この字の形が、どこか青森の下北半島の形に似ているように感じます。つまり2つの点がつまり羊の角なわけですが、また先のとおり足の2又に別れた蹄にも似ていると思うんですね。

もともと津軽の下北半島あたりを、前方の羊蹄と記して、函館周辺つまり渡島半島南部の2又の部分を後方の羊蹄と呼んでいたのではないでしょうか。

都加留(津刈)が一番北で、その南に麁蝦夷、その南が熟 蝦夷となるわけです。
麁は荒いの意味で、鹿が三つ重なった字ですね。ス音。ここで先の鹿がまた出てきます。

熟はジュク音で、うれるの意味。

それで津軽の発音は、ツガリに近いのではないかと思います。以前論議したスガルとスガリの関係と類似しますね。


つがり【▽連り/▽鎖り/×縋り】
《つながる意の動詞「つがる」の連用形から。「つかり」とも》
1 くさり。
「鉄(くろかね)の―」〈仁徳紀〉
2 糸でからげてつないだもの。すがり。
「今朝はまた誰きて見よと藤袴(ふぢばかま)玉貫(ぬ)く露の―しつらん」〈新撰六帖・六〉
3 袋の口をひもを通して引き締めるようにしたもの。また、その部分。すがり。
「袋の口あくるを遅しと―を引き切り」〈伽・三人法師〉
提供元:「デジタル大辞泉」凡例
「つがり【▽連り/▽鎖り/×縋り】」の前の言葉
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/146650/m0u/

おそらく、半島が2つ連なった様子、それで連りになり、さらにそれが津軽になった。

もともと、アイヌ語ではなく、中国語に関係した和語ではないでしょうか。
おそらく7世紀代までに前方後円墳を残した集団が津軽まで測量してますから、その関係でツガルの地名がすでにあって、その後、意味が忘れられて津の意味に変化して、津軽になったという線です。

そうすると、もっと以前、古墳時代中期あたりの渡来人が、もってきた中国語なり、外来習俗、以前お話した新漢人たちの東北移住でしょうか。そのあたりで、一度、羊とか蹄とか、後方、前方の概念が、その測量とともに地名をつける際に用いられていて、それで津軽とか後方羊蹄という名称が、地図に書き込まれたのかもしれません。

新漢人と、吉士集団、どちらも6世紀〜7世紀代に阿倍とか東漢氏、蘇我の配下で、全国各地に航海をしながら移動していくわけですが、特に前者については、もとはかなりの中国系の知識をもっていて、漢字にも精通していたので、書紀の遣唐使はほとんど彼らの力によっていて、天智あたりも重宝していたわけです。

それで、彼らの漢字知識、地名の名付け方に、羊とか鹿とか、動物を用いていたとすると、その漢字の意味を理解しながら、あえて名付けていたと考えるべきかもしれません。津軽(都加留・津刈)も、都牟刈之(ツムガリ)の太刀みたいに、古墳時代の彼らの概念が影響して出来ていた可能性があるでしょう。新羅・スサノオ神話とも関係するでしょうか。

スガルの太刀も同様。この時期で、おそらくは新羅・半島系の東欧系の系譜につななる黄金はめ込みのケルト剣を造っていた職人集団ですね、これが新漢人たちの祖先で、元は北燕遺民。

それで、尾張から鹿嶋、東北へと移動していった製鉄集団のそれともかかわりながら、最後に津軽、渡島まで向かうわけです。

それで、津軽とか、羊蹄にその古墳時代後期にすでに郡を置いたんですね。日高見国。
群馬などもその一つの例でしょう。発音は「車」なのですが、あえて羊と馬を入れるわけです。どちらかというと遊牧民的な思想ですね。

ただ、その間に挟まっていた蝦夷つまり毛人集団の勢力がしばしば強くなったり弱まったりしていて、あるいは逆に倭側の勢力の盛衰ですね、それでいろいろ入れ替えあって、再度大彦系阿倍が7世紀代になって、斉明の指示で遠征する。

斉明は天智同様に、新漢人とかに強く血縁があって、それで関東・東北にも縁があったので、何かその辺も関係しながら、津軽・羊蹄まで遠征しなおした、そういう感じがしますね。

1914荊の紀氏:2014/01/18(土) 16:05:02
Re: 「神の泉」  (エン)は輪ワ・・・倭人?
管理人さんへのお返事です。

日本ではウラルアルタイ語が、基本文法になってしまったのではないでしょうか。
ウラルアルタイ語
スキタイは鉄器文化を取り入れて馬具をつくった。それを遊牧型鉄器文化 として成熟させたのが、アルタイ族。日本語はウラル・アルタイ語族の末裔なんだよ。 http://www.isis.ne.jp/tanalogue/020619_3.html
大陸の遊牧民の動向だね。黒海の北側に騎馬民族が発生する。スキタイ文化というんだ。彼らは黒海を通じてギリシアと交易して、ギリシア型の青銅剣(十字型青銅剣)を使う。これがステップロードを介して、黄河中流域のオルドスに伝わった。そこでは、初期は中国から青銅器を輸入して、それを溶かしてギリシア風の十字剣をつくっている。これをスキト・シベリア文化と呼ぶのだけれど、その飛沫は日本にも伝わって、初期の弥生型の漂着民の集落に必ずある北九州の支石墓には、ギリシア・スキタイ型の十字剣が王権の象徴として埋葬されているね。
アルタイとは“金属の山”という意味なんだ。アルタイ族が独自に鉱山を開発し、冶金術を発見していったんだね。その鉄器生産の中心にいたのがアシナ氏族で、トルコ族の古い祖先の鉄王なんだ。これが砂漠を越えるのに高い鉄の車輪の馬車を使ったことから高車族といわれ、漠北(ばくほく)から南下して、鉄器を武器にして西に進み、イスラム帝国を包括して大トルコ帝国に発展させることになったんだ。

ソロモン王は,ファラオの娘と共に多くの異国の妻たち,すなわちモアブ人,アンモン人, エドム人,シドン人,[および]ヒッタイト人の女を愛した。・・ http://blogs.yahoo.co.jp/littleyohane/4297434.html
メソポタミアの歴史を追求していくと、日ユ同祖 論者も、シュメール人やヒッタイト人の存在を無視できなくなってしまうよう ...

10進法、12進法、60進法を用い、1日を12時間×2の24時間とし、1時間を60分、1週間を7日間、角度を360度として1年(約360日)とラップさせたのはシュメールであった。
これらの現代の基準はシュメール文明の名残りである http://ameblo.jp/hex-6/entry-10730045504.html
シュメールとユダヤに関連する点を追記すれば、度量衡がある
旧約聖書でも、契約の箱の記述でキュビトという単位が出てくる。2キュビトでほぼ1mであり、実はシュメールが使った長さの単位である
また、ユダヤも使うシュメールの重さの単位でシュケル・ミナがあるが、1シュケル=8.36g、1ミナ=60シュケル≒1kgである
六芒星もシュメールの遺跡で「命の水」と呼ばれるものと一緒にレリーフされて見つかっている
その遺物は、シリウスから神が降りたことを伝えるもので、シリウスはA星とB星(伴星)があり公転周期は50年である。このことから、最も単純な文様三角形を上下に2つ重ねて六芒星とした説がある
ユダヤ(ヘブライ)がいかにシュメール色が強いか示す事例であり、ユダヤがシュメールの後継者といわれる由縁でもある。
シュメールの神話の伝播とシンボル
気を取り直して神話とシンボルの件に戻れば...........
シュメール神話の太陽神アンは、16弁菊花紋を象徴とし、天皇家と同じである

ミトラ多神教が成立した、ミタンニ王国は、当時エジプト、バビロン(シュメール・アッカドの地を支配)と並ぶ3大勢力
他の2国も、エン・リル神の影響を受けミトラ神(後のバール神、牛頭天王)系信仰の影響を受け、菊紋の遺跡を数多く残す。
ユダヤの菊紋が天皇家と一致し、同祖の傍証とされる場合もあるが、一般に天皇家の菊紋は、エル(アン)とエン・リル(ミトラ神・バール神)由来のバビロンの16弁菊花紋が元とされる。
オリエントに起こった各帝国では、シュメールの文明が絶大な影響力を持っており、ミトラ神(バール神)由来の16弁菊花紋を持つ王家が幾つも存在する
ユダヤのダビデ王もそれであり、シュメールと連携していたアッカドのナラム・シン王の紋も16弁菊花紋である
この地域では、16弁菊花紋自体が神紋で重視されていたのである。エジプト、イスラム、インドでにもその影響は及び16弁菊花紋が見られる。
また、六角の亀甲紋をそのバリエーションとし、六芒星(六角星・ヘキサグラム)が生まれ、ユダヤで信奉されたバール神の神紋は、16弁菊花紋と六芒星である。
その為、ダビデの星として六芒星は知られ、ユダヤのシンボルマークである

バール神は仏教に取り込まれ、牛頭天王をなり、朝鮮半島にも数多くの痕跡を残す
日本では神仏混交の時代、スサノオミコトと同一とされ、祇園社や牛頭天王社に祀られた
スサノオミコトを祀る神社は多くが16弁菊花紋を神紋としており、エンリル(ミトラ神・バール神)信仰との関連が強く伺われる

ヒッタイトは、日本人であると唱えた。骨格も似ていて「髪は神武天皇時代の人を絵に見るように、弁髪を束ねていた」という

イスラエルの流れを汲む大陸人出雲ユダヤ人種と、ヒッタイトの流れを汲む海人族弥生 アラブ人 ... http://thebeginning.sblo.jp/
ヒッタイト民族は、小アジア、トルコから大移動しながらアラブ圏を形成し、その後ヒマラヤを中心にアッサム、ビルマ、バングラディッシュに定住し、騎馬民族から農耕民族へと体質を変えていきます。

八重垣 「ヤエ(ヤヘー)」は「立ち上がる」(そして嘆いた) http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
万民の主 エホバ(軍神)、


>
> それで、先の羊蹄の件で、その「羊」の字なのですが、この字の形が、どこか青森の下北半島の形に似ているように感じます。つまり2つの点がつまり羊の角なわけですが、また先のとおり足の2又に別れた蹄にも似ていると思うんですね。
>
> もともと津軽の下北半島あたりを、前方の羊蹄と記して、函館周辺つまり渡島半島南部の2又の部分を後方の羊蹄と呼んでいたのではないでしょうか。
>
> 都加留(津刈)が一番北で、その南に麁蝦夷、その南が熟 蝦夷となるわけです。
> 麁は荒いの意味で、鹿が三つ重なった字ですね。ス音。ここで先の鹿がまた出てきます。
>
> 熟はジュク音で、うれるの意味。
>
> それで津軽の発音は、ツガリに近いのではないかと思います。以前論議したスガルとスガリの関係と類似しますね。
>
>
> つがり【▽連り/▽鎖り/×縋り】
> 《つながる意の動詞「つがる」の連用形から。「つかり」とも》
> 1 くさり。
> 「鉄(くろかね)の―」〈仁徳紀〉
> 2 糸でからげてつないだもの。すがり。
> 「今朝はまた誰きて見よと藤袴(ふぢばかま)玉貫(ぬ)く露の―しつらん」〈新撰六帖・六〉
> 3 袋の口をひもを通して引き締めるようにしたもの。また、その部分。すがり。
> 「袋の口あくるを遅しと―を引き切り」〈伽・三人法師〉
> 提供元:「デジタル大辞泉」凡例
> 「つがり【▽連り/▽鎖り/×縋り】」の前の言葉
> http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/146650/m0u/
>
> おそらく、半島が2つ連なった様子、それで連りになり、さらにそれが津軽になった。
>
> もともと、アイヌ語ではなく、中国語に関係した和語ではないでしょうか。
> おそらく7世紀代までに前方後円墳を残した集団が津軽まで測量してますから、その関係でツガルの地名がすでにあって、その後、意味が忘れられて津の意味に変化して、津軽になったという線です。
>
> そうすると、もっと以前、古墳時代中期あたりの渡来人が、もってきた中国語なり、外来習俗、以前お話した新漢人たちの東北移住でしょうか。そのあたりで、一度、羊とか蹄とか、後方、前方の概念が、その測量とともに地名をつける際に用いられていて、それで津軽とか後方羊蹄という名称が、地図に書き込まれたのかもしれません。
>
> 新漢人と、吉士集団、どちらも6世紀〜7世紀代に阿倍とか東漢氏、蘇我の配下で、全国各地に航海をしながら移動していくわけですが、特に前者については、もとはかなりの中国系の知識をもっていて、漢字にも精通していたので、書紀の遣唐使はほとんど彼らの力によっていて、天智あたりも重宝していたわけです。
>
> それで、彼らの漢字知識、地名の名付け方に、羊とか鹿とか、動物を用いていたとすると、その漢字の意味を理解しながら、あえて名付けていたと考えるべきかもしれません。津軽(都加留・津刈)も、都牟刈之(ツムガリ)の太刀みたいに、古墳時代の彼らの概念が影響して出来ていた可能性があるでしょう。新羅・スサノオ神話とも関係するでしょうか。
>
> スガルの太刀も同様。この時期で、おそらくは新羅・半島系の東欧系の系譜につななる黄金はめ込みのケルト剣を造っていた職人集団ですね、これが新漢人たちの祖先で、元は北燕遺民。
>
> それで、尾張から鹿嶋、東北へと移動していった製鉄集団のそれともかかわりながら、最後に津軽、渡島まで向かうわけです。
>
> それで、津軽とか、羊蹄にその古墳時代後期にすでに郡を置いたんですね。日高見国。
> 群馬などもその一つの例でしょう。発音は「車」なのですが、あえて羊と馬を入れるわけです。どちらかというと遊牧民的な思想ですね。
>
> ただ、その間に挟まっていた蝦夷つまり毛人集団の勢力がしばしば強くなったり弱まったりしていて、あるいは逆に倭側の勢力の盛衰ですね、それでいろいろ入れ替えあって、再度大彦系阿倍が7世紀代になって、斉明の指示で遠征する。
>
> 斉明は天智同様に、新漢人とかに強く血縁があって、それで関東・東北にも縁があったので、何かその辺も関係しながら、津軽・羊蹄まで遠征しなおした、そういう感じがしますね。

1915ねこ:2014/01/21(火) 08:18:25
ヒトラーとナポレオンは日本の暦でつながる
ヒトラーとナポレオンは日本の暦でつながる

http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0203/32/209.html

結局、両者とも日本の送り込んだヨーロッパ破壊者だった。

日本の破壊者は、必ず英雄となり多くの人を殺し、最後は自分も消える。

(仮説を含む)

( http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0103/38/268.html

1916管理人:2014/01/21(火) 17:02:05
Re: 「神の泉」  (エン)は輪ワ・・・倭人?
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 日本ではウラルアルタイ語が、基本文法になってしまったのではないでしょうか。
> ウラルアルタイ語
> スキタイは鉄器文化を取り入れて馬具をつくった。それを遊牧型鉄器文化 として成熟させたのが、アルタイ族。日本語はウラル・アルタイ語族の末裔なんだよ。 http://www.isis.ne.jp/tanalogue/020619_3.html



先日の「後方羊蹄」の件ですが、この「後方」というのは、先にお話したように「前方」の対立語だと思うんですね。

それで似たような事例として、舞楽に「左方」「右方」というのがあります。
高麗楽と関係するようです。

楽器のみによる合奏である「管絃」に対して、舞を伴うものを「舞楽」と呼びます。「管絃」のページで説明したように、「舞楽」には唐楽と高麗楽の2種類があります。唐楽による「舞楽」を左方(さほう)、高麗楽による「舞楽」を右方(うほう)と呼びます。また舞そのものをそれぞれ左舞(さまい)・右舞(うまい)とも呼んだりします。
 舞楽の場合には曲のテンポなども管絃と比べてリズミカルに演奏され、管絃と同じ曲であっても舞楽の場合には拍子が違ったりします。
 また、雅楽の舞は型の美しさを楽しむものが多く、ストーリー性のある舞はごく一部です。
http://www.gagaku.net/Gagaku/bugaku.html



東北方面の横穴墓から、舞楽の法器が出土するのですが、吉士集団や、新漢人等の渡来系集団の動きとかかわってきます。

先にお話したケルト剣などもそうですね。

それで、吉士集団というのが、大陸系舞楽に強く関係していて、阿倍氏の配下にいました。

阿倍氏というのが、先のとおり蝦夷遠征をした主だったわけで、彼らの船を漕いでいたのが吉士だったわけです。


そこで問題となるのが、吉士集団の地名の名付け方ですね、これに左方、右方、前方、四方、五方といった要素がくわわってくるかどうか。

四方観念というのが、7世紀頃になってくると、いわゆる四夷のそれと関係してきて、蝦夷の名付け方もその辺にあるとおもうのですが、蝦夷の蝦はエビの意味です。


蝦夷の夷もえびす、えびしと読ませますね。

熟蝦夷、麁蝦夷として、熟と麁でまた対立語を用いて、名付けているわけですが、舞楽の用語で、「熟」という概念があるようです。



伽棚の思想があり、 東=青龍、 南=熟徴、 西=白虎、 北=刻蹄となっている。 大太鼓の左方 (東) の龍は・・
http://wrs.search.yahoo.co.jp/FOR=ZY9FvHRV3igi0yQ78IDJUio0fs9PVgTRBaUhF1nohXDKcNX1wN25RWT0.8XrlPGsEI7LQVk3g8.DvCTwv3f195GUYeC_vlfy5y3qvB.MzCJg0Ick_0A1UaASdSgLeAXTWR1.dfLg1Q0h0BgHypiMDZg_nAHblbON8DhUkA1qBYYGROY.mA_xb_Wc46OGXxnDN4UhK2ypo8boRH7ILlKi8ogsnaUC3UJBVmogFdeSDuqFrvYdbaGYIpndP4wG_N60NbgC1LPORPYrezFMdW5uVmnPtiAZvFKsFN7cp_8t_TLK94SrV6q2nFVrqvhEma0V2lULcRzEJvRPCGB1_rKY0lAwVKGZFczXT1NEhafQgWvsLqG8qcqx3xUf2bNsD3Ods8raG5bloSXW0TBd2wpUog_ulaQPOJ3U3pI1TK24XqrHyW4CggMimP9EMT_q5uGVfblUr8t4bCF0PFw-/_ylt=A3xT6KiZJt5STUUBEm6DTwx.;_ylu=X3oDMTBtdTY1Z3BjBHBvcwMyBHNlYwNzcgRzbGsDdGl0bGU-/SIG=16tqhbpju/EXP=1390391385/**https://sapporo-u.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_action_common_download&amp;item_id=3963&amp;item_no=1&amp;attribute_id=18&amp;file_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=17





つまり、ここで北=「刻蹄」の概念がすでにみえていて、これがつまり「後方羊蹄」の「蹄」と一致してきます。

そして左方、右方の概念、つまり中心に高御座=天子のいる場所、それを地名をとおして、表現していたわけです。

そして、南側の蝦夷を、南=熟徴として「熟」の語をあてたわけですね。



そうすると、「後方羊蹄:の「羊」とは何か?ということになるのですが、これはもう少し調べてみる必要があるでしょう。先のように半島の形を意味していたのか、あるいは方角で羊=未=南西を意味していたのですね。


前方を津軽方面、後方を北海道全体と意味するならば、その南西を未とすれば、渡島半島方面にかけてが推定できそうです。

ともあれ、そういう地名の付け方をする集団というのが、渡来系であり、舞楽などにもちいられていた四方観念に詳しい集団であったことは確かだと思います。


1917荊の紀氏:2014/01/21(火) 23:53:45
「後方羊蹄国(後志国)」
海神とは聖ミカエルのことです。

同年、阿倍比羅夫臣が、「肉入籠(ししりこ)」(イッサカルの領域?)に至ると、「問兔(という)」(後の豊浦町?)の蝦夷二人、「胆鹿嶋(いかしま)」「兔穂名(うほな)」が「後方羊蹄(しりべし)」を政庁(郡家)としたいと願い入れたので、阿倍臣は郡家を設けて帰ったと、その年の条にあります。この時に「後方羊蹄国(後志国)」の運びに至ったと見られます。

五番目の移住「秦氏」 http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage79.htm

ツガルには「カル」の二文字を入れ 、ナンブには「ナフ」の二文字を入れ、氏(うじ)の名前は構成されたと考えられます。 http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage79.htm
「ハタ」は、ヘブライ語で「かき集めた者」を意味しますから、秦氏とは、大陸のヘブライ人をかき集めた人々の総称でしょう。当然、自らもヘブライ人であったのです。
かき集めた人々の指導者は「弓月君(ゆつきのきみ

前400年を少し過ぎた時期に、メソポタミヤに居住していた元北イスラエルの一部の民達が移住して来ており、彼らは、まとまって大倭の軍事防衛面を、部族ぐるみで担当することになっていたのです。
北イスラエルは、主に九州の北部から西部にかけて住み付き、子孫を増やしていました。そして、主に北西海上の監視に当たっていたところへ、徐市らの船団がやって来て、移民は拒否されたのです。徐市らがやって来る度毎に、大倭の側も衛兵の船の数を増やしていったことでしょう。やって来ても、蹴散らされる。その間、何が起ったかは判りませんが、徐市は、一度帰国して、大鮫に苦しめられるので、弓の名手が欲しいと始皇帝に要請するのです。弓で鮫を射止めるためにと。
しかし、大倭の衛兵船団との交戦となったら、移民は絶望的。弓は何が目的だったのでしょうか。
当時の大倭の王は、後の日向に居住していたユダ(倭奴)王で、この秦からの移民は受け入れなかったのです。王が、正式に認可しなかったということが、後の「古事記」や「日本書紀」に記載されなかった理由でしょう。

三柱鳥居=三方向鳥居
京都の「蚕の社(かいこのやしろ)神社」では、三柱鳥居(みはしらとりい)が珍しい鳥居として知られていて、前出の佐伯博士がこれに注目し、この鳥居の三本柱は景教の三位一体を表したものと主張したと云われています。
通常、鳥居は門のようなものなので、柱よりも、柱と柱の間を重んじるべきと考えた場合、三柱鳥居は三方向鳥居とも捉えられます。
この鳥居は、池の中に建てられていて、真上から見ると、正三角形をしており、真中には、小石がうずたかく積まれていて、ちょうど小島を模った恰好になっています。つまり、小島を三方向から眺めるような形になっているのです。
これは、『史記』にある「蓬莱・方丈・瀛洲」が日本列島のことであることを、三柱鳥居で表現したものと筆者は考えます。
「蓬莱・方丈・瀛洲」とは、日本列島を三つの視点から捉えたもので、池の中の小島は、海の中の日本列島を表し、三方向鳥居は、三方向からそれを眺めたもの。日本列島を三視点の方向から眺めると「蓬莱・方丈・瀛洲」となる、それを神社の神官達は説明しようとしたのではなかったでしょうか。

羊氏の移住
群馬県多野郡(旧多胡郡)吉井町には、「羊太夫」に纏わる伝承が残されていて、この羊太夫は渡来人で、秦氏であるといわれています。多胡郡には、「和銅四年(711)」に刻まれた石碑が残されていて、そこには「給羊」と漢字がしっかりと刻まれています。
羊太夫は、多胡郡の統治を任された人で、さまざまな功績のあった人らしく、石碑はそれを記念したものです。(詳細は、久保有政著『日本の中のユダヤ文化』参照)
羊太夫の墓は、江戸時代後期に発掘されたらしく、同時代の大名であり、学者でもあった松浦静山(まつらせいざん、1760〜1841)が自著『甲子夜話』に記したところによると、十字架と「J(I)NRI」のローマ字の刻まれた古銅券が、石碑の傍にあった石槨から見つかった。

羊氏の移住
群馬県多野郡(旧多胡郡)吉井町には、「羊太夫」に纏わる伝承が残されていて、この羊太夫は渡来人で、秦氏であるといわれています。多胡郡には、「和銅四年(711)」に刻まれた石碑が残されていて、そこには「給羊」と漢字がしっかりと刻まれています。
羊太夫は、多胡郡の統治を任された人で、さまざまな功績のあった人らしく、石碑はそれを記念したものです。(詳細は、久保有政著『日本の中のユダヤ文化』参照)
羊太夫の墓は、江戸時代後期に発掘されたらしく、同時代の大名であり、学者でもあった松浦静山(まつらせいざん、1760〜1841)が自著『甲子夜話』に記したところによると、十字架と「J(I)NRI」のローマ字の刻まれた古銅券が、石碑の傍にあった石槨から見つかった。

研究者の間では、日本とユダヤとの習慣の類似性やら、聖書との比較研究が盛んに行われ、試行錯誤を繰り返していたらしい。その類似性を指摘するあまりに、語呂合わせや、こじつけと思われるような事柄も稀ではなく、荒唐無稽な話と、識者からは顔を背けられる一面も多々あったようです。言語的な側面から入って行こうとすると、どうしても、語呂合わせ的な面が出て来ます。ただの語呂合わせで終らせない為には、どうしてそうかという明確な根拠が求められなければなりませんし、資料が充分でない以上は止むを得なかったといえます。

蘇民将来とは語義通り捉えれば「将来蘇える民」の意味です。未来に蘇える民とはどのような民を指すのでしょうか。
それは言うまでもなく、割礼の習慣があった民、それも南北に分断される前のユダヤ教の国、即ち、ダビデ王、ソロモン王時代の古代イスラエルを指すでしょう。
つまり、蘇民将来とは、古代イスラエルがこの日本列島に蘇えるという預言の言葉です。
例えば、「来るべき日、民はよみがえるであろう。('m yhyh ywm bw')」という神による預言の言葉があったとします。これを漢文に置きかえたところ、蘇民将来となったのであります。

、「ソムロ」の第一音節が母音化された形、「オムロ」から「御室(おむろ)」(山城国)が生まれました。
エフライムは、新たな移住場所に岐阜県周辺を選んだと見られ、岐阜市と美濃市に「御手洗(みたらい)」と呼ぶ地名が見られますが、ミタライの「ライ」は、エフライムのライを入れた造名と見られます。御手洗氏はエフライム出の氏族ではなかったでしょうか。
また、その近くには「室」の付く地名、室町、室原、室村町、室津町など、七ヵ所ほど見られます。
さらにエフライムは群馬県榛名(はるな)山周辺にも、住み着いたと見られます。
ハルは、エフライムから抜いた「フラ」の母音「ウア」を「アウ」に替え、「ハル」とし、ナを加えて「榛名(はるな)」としたものと思われます。
群馬県榛名町には、上室田、中室田、下室田と、室の付く地名が見られます。
岐阜から群馬にかけては、列島全体から見たエフライムのほぼ定位置と見る事が出来ます。
ユダやビンヤミンの民が自分達の住んでいる所をシオンと呼んだように、エフライムもまた自分達の住む小さな都を、ソムロンと呼んでいたのではなかったでしょうか。(12.1)

台東区浅草には浅草神社がありますが、祭神には「真名知(まなし)」があり、これはマナセの母音を少し変えた形です。神社の紋章は「三立網紋」ですが、これはヘブライ一掃によって、ガドの三立天幕の紋章が三立網紋に変えられた、と見ることが出来ます。即ち、浅草神社は、「ガド」と「マナセ」を祭った神殿に由来することが判ります。これは二つの氏族が共同で建てた神殿と思われますが、ガドとマナセの共同神殿と思われる神社が福岡にもあります。宗像(むなかた)神社がそれです。「ムナ」はマナセ、「カタ」はガドの清音化された形で、マナセとガドの間ではある種の協定が結ばれ、共同で住み着くようになったのではないでしょうか。
ガド、マナセが共同で住み着いたと考えられる例として、埼玉県の行田(ぎょうだ)市があります。
行田市には真名板(まないた)と呼ばれる地名がありますが、「ギョウダ」はガドのヴァリエイションであり、真名板の真名は、マナセから取ったことがわかります。「俎(まないた)」はどうやら、マナセから造語されたようです。
まず、最初にガドはどこから始めたでしょうか。ガドは移住後、防衛の為の衛兵に多くの力を割くことになり、沿岸警備の関係上、列島中の沿岸を探索するようになったのです。関東一体を定位置と見定めると、房総半島の突端の館山市にまず拠点を置いたのではなかったでしょうか。

マナシから、第一音節を母音化した地名が埼玉県美里町の阿那志(あなし)です。
読者が悩むのが、何故「イナバ」が「マナセ」なのか、でしょう。
阿那志の例のように、マナセのマをヤに変えた表記が「ヤナセ」です。実在の地名として、埼玉県長瀞町に「矢那瀬(やなせ)」、群馬県安中市に「簗瀬(やなせ)」、栃木県宇都宮市に「簗瀬(やなぜ)」があります。
ヤナセから、「稲瀬(いなせ)」(岩手)が出来ることになります。

茨城県鉾田(ほこた)町青柳の「ホコタ」のコタはガドを清音化したヴァリエイションです。
カトの母音を入れ替えるとコタとなることが判ります。ホコタは、ハカタ(博多)と同じ系列のヴァリエイションです。
造名では、三音節のマナセを二音節にしたり、二音節のガドを三音節にするといった工夫が凝らされたようです。三音節のガドとして、m音が冠頭音に加えられ「ミカド」、n音が「ナガト」、s音が「サカド」、h音が「ハカタ」「ホコタ」、といったように。
マナセと組んでいないガドの住み着いた地名は「青木(あおき)」というように「青柳」とは区別していると見られます。
また、ガドとマナセが組んだ地名「青柳」とは別のヴァリエイションで「青梨(あおなし)」があります。
「ナシ」をマナシから取って梨を充てる、青い梨に引っ懸けた名でしょう。
「青梨」は群馬県万場町と前橋市(青梨子町)にあり、前橋には青柳もあります。

イッサカルから「桜」という名詞が生まれたのだとしも、筆者は驚きません。何故なら、イッサカル、ナフタリ、ユダ、ガドといった十二支族の始祖たちは、子孫からは半ば神格化され畏敬されていたからです。
前述したイッサカルのヴァリエイションとして、長野県の「軽井沢(かるいざわ)」は、別荘地としてよく知られ最も有名ですが、同じ地名「軽井沢」は秋田県にも二ヶ所、大館市と羽後町に存在します。
前出、青森の砂子瀬についてですが、これは当初イッサカルのイサを込めて、イサゴゼと読まれたものが、スナゴゼに読み直されたと推測します。その読み直しは造名者自身によって行なわれたと捉えることが出来ます。
例えば、石川県能登半島には「富来(とぎ)町」という地名があります。これは、エフライムの「フライ」に、漢字「富来」を充て、「トギ」と読み直したと見ることが出来るわけです。これを筆者は、「読み直し命名」と呼んでいますが、この命名法は数多くの地名で行なわれています。

前700年頃、移住して来たユダとベンヤミンは、既に先住者となっていたエドムと交わって行き、積極的に混血を繰り返していました。日本神話で、スサノヲの尊が出雲(エドム)の稲田姫を娶ったように、双方の支族が互いに配偶者を娶り合ったのです。
このエドムとユダ、ベンヤミンの混血氏族は、北九州の筑紫平野の辺りに住んでおり、その氏族の国はヘブライ一掃時、「筑紫(つくし)国」と命名されることになったのです。ここから「筑前(ちくぜん)国」「筑後(ちくご)国」が生れました。地名のヴァリとしては「筑波(つくば)」。「月読(つくよみ)尊」の「ツク」から採った音と見えます。
筆者はこの支族を「筑氏族」と呼ぶことにしました。
つまり、都岐沙羅柵とは、北海道の「筑氏」対策の為の柵(き)であったと捉えられるわけです。


1918管理人:2014/01/22(水) 23:18:29
Re: 「後方羊蹄国(後志国)」
荊の紀氏さんへのお返事です。


> 同年、阿倍比羅夫臣が、「肉入籠(ししりこ)」(イッサカルの領域?)に至ると、「問兔(という)」(後の豊浦町?)の蝦夷二人、「胆鹿嶋(いかしま)」「兔穂名(うほな)」が「後方羊蹄(しりべし)」を政庁(郡家)としたいと願い入れたので、阿倍臣は郡家を設けて帰ったと、その年の条にあります。この時に「後方羊蹄国(後志国)」の運びに至ったと見られます。
>
>


この辺、先の名付け方において、重要ですね。

兔のウ音を使うわけですよね。

それでまた別にある地名の「鹿嶋」をそのまま使う。

「肉」はジク・ニク音で、訓読みで しし

確かに「問兔」は、「豊浦」に近い発音ですね。

原文はこちら。


 (3月)是の月に、阿倍臣、名を闕せり。を遣して、船師一百八十艘を率て、蝦夷國を討つ。阿倍 臣、飽田・渟代、二郡の蝦夷二百四十一人、其の虜三十一人、津輕郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、膽振鉏の蝦夷二十人を一所に簡び集めて、大きに饗たまひ 祿賜う。膽振鉏、此をば伊浮梨娑陛と云ふ。即ち船一隻と五色の綵帛とを以て、彼の地の神を祭る。肉入籠に至る。時に、問菟 の蝦夷膽鹿嶋・菟穂名、二人進みて曰く、「後方羊蹄を以て、政所とすべし」といふ。肉入籠、此をば之之梨姑と云ふ。問菟、此をば塗?宇 と云ふ。菟穂名、此をば宇保那と云ふ。後方羊蹄、此をば斯梨蔽之と云ふ。政所は蓋し蝦夷の郡か。膽鹿嶋等が語に隨ひて、遂に郡領を置きて 歸る。道奥と越との國司に位二階、郡領と主政とに各一階授く。或本に云はく、阿倍引田臣比羅夫、肅愼と戦ひて歸れり。虜四十九人獻るとい ふ。
【6年】
 三月に、阿倍臣、名を闕せり。を遣して、船師二百艘を率て、肅愼國を伐たしむ。阿倍臣、陸奥の蝦 夷を以て己が船に乘せて、大河の側に到る。是に、渡嶋の蝦夷一千餘、海の畔に屯聚みて、河に向かひて營す。營の中の二人、進みて急に叫びて曰はく、「肅愼 の船師多に來りて、我等を殺さむとするが故に、願ふ、河を濟りて仕官へまつらむと欲ふ」といふ。阿倍臣、船を遣して、両箇の蝦夷を喚し至らしめて、賊の隱 所と船數とを問う。両箇の蝦夷、便ち隱所を指して曰はく、「船二十餘艘なり」といふ。即ち使を遣して喚す。而るを來肯へず。阿倍臣、乃ち綵帛・兵・鐵等を 海の畔に積みて、貪め嗜ましむ。肅愼、乃ち船師を陳ねて、羽を木に繋けて、擧げて旗とせり。棹を齊めて近つき來て、淺き處に停りぬ。一船の裏より、二の老 翁を出して、廻り行かしめて、熟積む所の綵帛等の物を視しむ。便ち單衫に換へ着て、各布一端を提げて、船に乘りて還去りぬ。俄ありて老翁更來て、換衫を脱 き置き、并て提げたる布を置きて、船に乘りて退りぬ。阿倍臣、數船を遣して喚さしむ。來肯へずして、弊賂辨嶋に復りぬ。食頃ありて和はむと乞す。遂に聽し 肯へず。弊賂辨は、渡嶋の別なり。己が柵に據りて戰ふ。時に能登臣馬身龍、敵の爲に殺されぬ。猶戰ひて倦まざる間に、賊破 れて己が妻子を殺す。
 (日本古典文学大系『日本書紀』による。なお、以下で取り上げるその他の史料については、諸論文等か らの孫引きである。漢字については、MS−IMEの文字セットの制約があり、同一の字形を表示できなかったものもある。)

http://www5e.biglobe.ne.jp/~menme/mmj04.html



なるほど、、秋田から胆振方面へ向かったわけですね。

胆振というのは、この辺、うちの実家の別荘あるあたりですね。去年も行きました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

ただ、これも明治の推定なんですよね。本当に北海道まで彼らは遠征しに行ったのかな?


『日本書紀』によると、蝦夷征討が盛んであった飛鳥時代の斉明天皇のころ、阿倍比羅夫による遠征がしばしば行われ、北海道や樺太に分布するヒグマを献上したとあることから、渡島国域にも訪れたとの説が有力である。このころにはすでに本州と北海道との間に交流があったと見られているが、後に渡島半島を中心とする地域では擦文文化と本州
http://ja.wikipedia.org/wiki/


確かにヒグマの件を考えると、渡島は北海道の可能性が高くなるわけですよね。


これたぶん、先の蝦夷国征伐は、陸奥つまり東北方面なんですよ。おそらく、それでその翌年の粛慎国征伐が、渡島のある北海道方面で、その際には前年に征伐した陸奥つまり東北の蝦夷を今度は軍隊として利用しているんです。

だから、後方羊蹄は、青森とかその辺の可能性がでてきますね。

あと、
「政所は蓋し蝦夷の郡か」ということは、記紀撰者はよく理解できてないんですよね。この「後方羊蹄」の起源が。先のとおり渡来系が名付けた件です。

もうすこし掘り下げてみましょう。


そういえば、秦野さんはみかけませんね。加齢Sにでも入られたのかな?

1919荊の紀氏:2014/01/24(金) 10:48:36
Re: 「後方羊蹄国(後志国)」
管理人さんへのお返事です。

> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
>
> > 同年、阿倍比羅夫臣が、「肉入籠(ししりこ)」(イッサカルの領域?)に至ると、「問兔(という)」(後の豊浦町?)の蝦夷二人、「胆鹿嶋(いかしま)」「兔穂名(うほな)」が「後方羊蹄(しりべし)」を政庁(郡家)としたいと願い入れたので、阿倍臣は郡家を設けて帰ったと、その年の条にあります。この時に「後方羊蹄国(後志国)」の運びに至ったと見られます。
> >
> >
>
>
> この辺、先の名付け方において、重要ですね。
>
> 兔のウ音を使うわけですよね。
>
> それでまた別にある地名の「鹿嶋」をそのまま使う。
>
> 「肉」はジク・ニク音で、訓読みで しし
>
> 確かに「問兔」は、「豊浦」に近い発音ですね。
>
> 原文はこちら。
>
>


ウ 于夷(倭人)
「ゲマトリア」「土地の測量」 ギリシャ語の「GEOMETRIA」(Γεομετρια)
ヘブライ語で蛇という単語「ナホッシュ」(NChSh)が救世主という単語「マシアハー」(MShYCh)と数値的に一致 http://kodai.navi100.com/
「ゲマトリア」という用語は、「土地の測量」を意味するギリシャ語の「GEOMETRIA」(Γεομετρια)という言葉からつくられたとされています。
つまり、英語でいう「幾何学」(ジオメトリー)と同じルーツというわけです。まさに「言葉の幾何学」であるゲマトリアこそは、言語魔術の代表的な特性だといえるでしょう。
カバラにおける伝統的なゲマトリアは、本来はヘブライ文字で行うべきものでした。しかし、数秘術としてのゲマトリアは、占いの歴史の中で徐々に英語のアルファベットに数値を付したものに代わっていったのです。
これは、ヘブライ語が基本的に子音文字で構成される言語であることなど、ヨーロッパやアメリカの人にはもともと馴染みにくい言語体系であったことも要因にあるのでしょう。

日本人のルーツ汙国(わこく) http://www.wakoku.net/
後漢書』鮮卑せんぴ伝の「倭(ua)国」(=『三国志』鮮卑伝の「汙(ua)国」)は『漢書』地理志の泗水しすい国「于う」(江蘇省北部)。

江蘇省北部発掘の春秋時代の古人骨は、日本の古人骨のDNAと一致。
前一〇世紀の青銅器に残された倭人の王「于方うほう雷らい」の記録。
『論語』憲問篇・『礼記らいき』檀だん弓ぐう下篇によると、孔子の幼なじみの原壌げんじょうは于夷(倭人)。
『三国志』の最古の刊本(南宋の紹興しょうこう刊本)目次の「僂る韓」は韓伝の「倭韓」。
(お詫び:最古の「写本」は最古の「刊本」に訂正しました)

>  (3月)是の月に、阿倍臣、名を闕せり。を遣して、船師一百八十艘を率て、蝦夷國を討つ。阿倍 臣、飽田・渟代、二郡の蝦夷二百四十一人、其の虜三十一人、津輕郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、膽振鉏の蝦夷二十人を一所に簡び集めて、大きに饗たまひ 祿賜う。膽振鉏、此をば伊浮梨娑陛と云ふ。即ち船一隻と五色の綵帛とを以て、彼の地の神を祭る。肉入籠に至る。時に、問菟 の蝦夷膽鹿嶋・菟穂名、二人進みて曰く、「後方羊蹄を以て、政所とすべし」といふ。肉入籠、此をば之之梨姑と云ふ。問菟、此をば塗?宇 と云ふ。菟穂名、此をば宇保那と云ふ。後方羊蹄、此をば斯梨蔽之と云ふ。政所は蓋し蝦夷の郡か。膽鹿嶋等が語に隨ひて、遂に郡領を置きて 歸る。道奥と越との國司に位二階、郡領と主政とに各一階授く。或本に云はく、阿倍引田臣比羅夫、肅愼と戦ひて歸れり。虜四十九人獻るとい ふ。
> 【6年】
>  三月に、阿倍臣、名を闕せり。を遣して、船師二百艘を率て、肅愼國を伐たしむ。阿倍臣、陸奥の蝦 夷を以て己が船に乘せて、大河の側に到る。是に、渡嶋の蝦夷一千餘、海の畔に屯聚みて、河に向かひて營す。營の中の二人、進みて急に叫びて曰はく、「肅愼 の船師多に來りて、我等を殺さむとするが故に、願ふ、河を濟りて仕官へまつらむと欲ふ」といふ。阿倍臣、船を遣して、両箇の蝦夷を喚し至らしめて、賊の隱 所と船數とを問う。両箇の蝦夷、便ち隱所を指して曰はく、「船二十餘艘なり」といふ。即ち使を遣して喚す。而るを來肯へず。阿倍臣、乃ち綵帛・兵・鐵等を 海の畔に積みて、貪め嗜ましむ。肅愼、乃ち船師を陳ねて、羽を木に繋けて、擧げて旗とせり。棹を齊めて近つき來て、淺き處に停りぬ。一船の裏より、二の老 翁を出して、廻り行かしめて、熟積む所の綵帛等の物を視しむ。便ち單衫に換へ着て、各布一端を提げて、船に乘りて還去りぬ。俄ありて老翁更來て、換衫を脱 き置き、并て提げたる布を置きて、船に乘りて退りぬ。阿倍臣、數船を遣して喚さしむ。來肯へずして、弊賂辨嶋に復りぬ。食頃ありて和はむと乞す。遂に聽し 肯へず。弊賂辨は、渡嶋の別なり。己が柵に據りて戰ふ。時に能登臣馬身龍、敵の爲に殺されぬ。猶戰ひて倦まざる間に、賊破 れて己が妻子を殺す。


1920荊の紀氏:2014/01/24(金) 11:35:58
Re: 「後方羊蹄国(後志国)」
> > 荊の紀氏さんへのお返事です。
> >
> >
> > > 同年、阿倍比羅夫臣が、「肉入籠(ししりこ)」(イッサカルの領域?)に至ると、「問兔(という)」(後の豊浦町?)の蝦夷二人、「胆鹿嶋(いかしま)」「兔穂名(うほな)」が「後方羊蹄(しりべし)」を政庁(郡家)としたいと願い入れたので、阿倍臣は郡家を設けて帰ったと、その年の条にあります。この時に「後方羊蹄国(後志国)」の運びに至ったと見られます。
> > >
> > >

蝦夷

レビ族(レヴィ)・・・海老・・蝦・・・えびす・・・夷(羌・胡)
レヴィまたはレーヴィ (Levi, Lévy, Levy etc.) は、ヘブライ語系の男性名・姓。ヘブライ語で「結びついた」を意味し、姓としては祭司階級レヴィ族の家系であることを示す。

英語の読みはリーヴァイ・リーヴィ(一般名詞の levy はレヴィ)だが、日本ではしばしばレヴィとされる。
名のみ レビ - 旧約聖書の人物。ヤコブの子でレヴィ族の祖。
レビ - 新約聖書で言及される人物。イエスの高祖父。
収税人レビ - 新約聖書の人物。おそらくマタイと同一。

レヴィ族(レヴィ支族・レヴィ氏族・レヴィ人) (Levite) - イスラエル12氏族の1つの祭司階級。
徴兵・徴用 (levy)。

番韓・北扶余後期王朝(濊族)のエビス系濊王(実はガド族族長) http://dy712.tripod.com/shrinestaff/links.htm
物部氏
中臣氏とともに神道派。物部氏は仏教を信奉してやまない蘇我氏によって討ち滅ぼされた(587 AD)。(因みに、日本の歴史にとって残念なことに、645??AD、同じく蘇我氏によって古代日本の重要書物が焼かれてしまい、日本人はルーツを知らない民族になってしまいました。)
ルーツはレビ族、目は茶色。杖刀人(刀を杖のように用いていた士師族・武士)の一族。中国→大隅・薩摩→奈良。
扶余族の神官? 新羅系。
物部氏の祖神 ニギハヤヒ……扶余族の王族、(孝昭系)北夫餘(後期王朝)王 饒速日命(にぎはやひ の みこと)、神武に敗れる。別説……祖王は西蔵(チベット)ホータン月氏の王 月読命(ツキヨミノミコト)。番韓・北扶余後期王朝(濊族)のエビス系濊王(実はガド族族長)。高句麗王子 発岐(涓奴部水軍)に攻撃され、白丁軍団を率いて「天の鳥船」に乗り日本海寄りに移動南下して九州に至り、同族 陜父(義兄弟の王)の了解を得て熊本の多婆羅国に合流した。そして球磨川をさかのぼり人吉盆地の相良郡に居を構えた(のちに朝廷の傭兵となった白丁隼人の起こり)。
Urartu人……フェニキア人とヒッタイト人の混血人種。Urartu王国崩壊後、シルクロードを流浪するウガヤ王朝となる。オリエントから東遷して華北に趙国(大夫餘)を建てる。その末裔は扶余人=百済人へつながる。
倭人……ナーガ族(シュメール人の王族)。殷人(シュメール人)は「夷」すなわちエビス/エブスと呼ばれた。
東表国……国東半島重藤の製鉄基地が発展して、殷人(シュメール人)が日本列島にやってきて豊前(福岡県)京都郡・宇佐八幡(バハン)を都とする東表国(豊日国)を打ち建てた(前8世紀)。神武以前の先王朝、天の王朝。豊前宇佐を中心とする南倭人のクニ。
ヒッタイト人……国東半島重藤に製鉄基地を築いた。末裔は蘇我氏、上田氏、真田氏、青山氏?
弥生人……苗族
縄文人……港川人、オロッコ人

実際に派遣されたのだとしたら、その役割は、後にレビ族が担当させられたよう な、イスラエルの内部で民たちに常に「主」の現存在を強く意識させる、所謂「祭祀」の 役割にならざるを得なかったことだろうとも感じるからなのです。
旧約聖書の中では、レビの性格について、これとは全く逆のことが記述されているのです。このレビはシメオンと共謀して、近隣のある部族全員を騙して惨殺したことがある、非常に残虐で暴力的な人間だったと書かれているのです。確かに、その部族の若者の内のひとりが彼等の妹の純血を汚したからという尤もらしい理由はありました。とは言えその若者は、レビとシメオンに求められるがままに自分を含む一族の男子全員に割礼を受けさせるなど、彼等の妹に対する自分の愛情の深さを十分に証明しつつ、彼等に赦しを懇願していたのでした。それなのにレビとシメオンは、彼の部族全員を騙して惨殺してしまったというのです。そのことによって近隣諸部族の非難をイスラエル族に集め、イスラエル族を窮地に追い込むことにもなったと言って、ヤコブに激しく呪われもします。つまりはレビ自身に、行き倒れの奴隷の子で誰の子だかも分からなかったのに、まるで自分の子であるかのような愛着を示してしまうほどの気立ての良さなどなかったということになる訳です。しかも、「兄弟達の僕の僕となれ」という内容の過酷な呪いの言葉をノアからかつて情け容赦なく浴びせかけられた、かの悪名高きハムの子孫たる黒人だった。このことも考え合わせると尚更、不思議な話と言わざるを得ないのではないでしょうか?
行き倒れの黒人奴隷女性が産んだ、誰の子だか分からないレビをヤコブが、特筆すべき美点もないのに自分の子として育てた。そればかりか、卑怯で残虐な、一族の安全への配慮にも欠けたとんでもない事件を彼とシメオンが引き起こした際に、彼等を自ら激しく罵り、呪っているにも拘わらず、その呪いの言葉ですら何と「兄弟達の間に散らされる」といった比較的寛容な内容に留めて、即座に追放などといったことも一切行なわなかった。その代わりに、その後も引き続きイスラエルの重要な一員として遇し続けた。これにはやはり何か、重要な理由があったと言わざるを得ないのではないでしょうか?
ひとつには、聖書の記述通り、レビがヤコブの実子だったからと考え直す途もあり得ます。しかしながら、レビが示した残虐性は、たとえ実子であっても追放の憂き目に遭わせられかねないような類のものであり、ノアがかつて実子であったハムを呪う際に一族からの除外という過酷な処置を行った事例も実際に存在することを考えると、その可能性は極めて少ないと判断する方が妥当かもしれません。

日韓中朝全ての指導層を現時点で一括して牛耳りつつ、ヤコブの直系、INRIの国の民に対する韓中朝の民の呪いを、何らかの目的で演出し、扇動している者たちがいて、彼らの出自がカナン人かあるいはエソウ族であることが問題の最も奥の淵源にあるのだという主張をしているのです。この場合に、悪の根源は韓国だとか、中国だ、朝鮮だとか主張するのは、何でも日本のせいにして韓中朝それぞれで騒ぎ立てている職業的反日扇動家達と全く同じレベルの、近代の国家観に思考を縛られて真実が全く見えなくなった人達による愚行だと断定しています。韓国人とか中国人とか、朝鮮人とか日本人とか、一括りにして語られる集団などこの世に実在しないのは明らかなのに、それには全く気づいていないが故の愚行なのでしょう。

エビスと読むこの字こそ羌キリスト教へと導くのであり 羊の元=羌 七福神のうちの唯一 日本の神エビス これが レビっす・・>>エビっす>>羌=エビスさま こうして聖書に記述 された かのイスラエルである 神の 祭司 の任務をさずかった レビ族 ...
イスラム のラムは羊 IS RUM
シュメール やシュメール語はシュシャSUSAの民の言葉

日本の神さまは7人のうち エビス 戎 モーセの十戒
あまりに類似している

エビスと読むこの字こそ羌キリスト教へと導くのであり 羊の元=羌 七福神のうちの唯一日本の神エビス
これが レビっす・・>>エビっす>>羌=エビスさま
こうして聖書に記述された かのイスラエルである

レビ族は 実は エビスの神日本とめでたく・・継承と敬称において一致をみたのである

ヤマ(双子)戸 ユダ族 レビ族 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/2102
周」も「秦」も、西方の遊牧民族(戎)であった。戎はジュと読み、周と同じ読みだ。 つまり、ユダのことだ。 3.易姓革命の始まり 五帝に関しては、自分の息子ではないが、 血縁関係にある者、すなわち才能と徳のある者に、王位を禅譲してきました。 http://bewithgods.com/hope/doc10/10-11.html

回族
夏回族自治区にいた遊牧民族で、白犬(または白狼)を崇拝。それをトーテム としていたことから、古代羌族の部族(西羌族)だとされるが、犬戎や古代匈奴も トーテムは犬であり、後には、高車、鮮卑、突厥、契丹なども犬のトーテムを崇拝して いる ...
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kozoku/kozoku6-touko.htm
犬戎(けんじゅう)、

回族自治区. に相当する地域で最も有力だったのは、戎. じゅう. 、允. いん. 戎. じゅう. 、 姜. きょう. 戎. じゅう. (羌と同一か?)、犬戎などで. ある。玁狁 (獫. けん. 狁 .... ヴェーダ ではヤミーがヤマ(ヤマは「双子」を意味する)にセックスを迫. るが、ヤマは拒絶する。

イスラエルの祭祀族レビ族 と言われている鴨氏と縁の深い上賀茂、下鴨神社・ http://ameblo.jp/tsukioto2011/entry-11660330686.html

ユダ族・レビ族・ダン族の関係 ユダ族とレビ族とダン族は、ペトロとヤコブとヨハネの 三角形の関係と同じ役割を持っています。 http://ameblo.jp/biblehhs/entry-11237086707.html

ユダヤ人の祭司職(コーヘン、レビ族、アロンの子孫)については、その特徴あるDNA 配列がY染色体上にあることが、1997年 ... しかしながら、北イスラエル10部族のDNA については、レビ族の大部分が南ユダと北イスラエルの分裂の時、ヤロブアムから職を 解 ... http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/000000sekaiidennsi2.htm
普通のユダヤ人(ユダ族+ベニヤミン族の一部)の間ではそれほど一般的でなく、ユダヤ人でない集団の間では稀であるという調査結果だった。(アシュケナージ系コーヘンで45%、スファラディー系コーヘンで56%、一般のユダヤ人では全体の3〜5%) したがって、アシュケナージ系コーヘンもスファラディー系コーヘンとほとんど同じように、約半分はこの男系遺伝のDNA群を保っていることになる。

  このユダヤ人コーヘンの変異個所は、外見上全く異なるアフリカのグループに発見された。
  アフリカ南部、ジンバブエのレンバ族は、外見上完全な黒人であり、割礼と安息日を守り、豚肉とカバの肉を食べないなどの風習を持ち、イスラエルからセンナという所を経て南アフリカに移住してきたという伝承が代々伝えられている。また、彼らの祭司職のグループは”ブバ族”と呼ばれ、彼らによるとブバ族はイスラエルの12部族の一つであるとされている。
  このレンバ族についてのDNA調査結果では、レンバ族全体の男の 9%、”ブバ族”では 53%が、コーヘンに特徴的なDNA変異を持っていることが分かった。これは、イスラエルやアメリカのユダヤ人と全く変わらない割合である。(by.ニューヨークタイムズより)

  また、エチオピアのユダヤ人(ベト・イスラエル)のグループは、イスラエル王国が分裂した時、自ら捕囚として国を脱出し、エジプトからナイル川沿いに移動したダン族の末裔であり、(口伝トーラーではなく)成文化されたトーラーだけを守って暮らしている。これらの証言や証拠により、イスラエルは彼らを受け入れ、すでに8万人がイスラエルに帰還している。

  しかしながら、北イスラエル10部族のDNAについては、レビ族の大部分が南ユダと北イスラエルの分裂の時、ヤロブアムから職を解かれ、南ユダへ移動したので(?歴11:13−15)、今のところ、このDNA配列によっては、イスラエル10部族の手がかりを知ることはできない。新たに特徴あるDNA変異を見つけなければならない。ユダ族などが混じっていれば、その中にレビ族のDNA変異が発見されるかもしれない。
日本へのDNAの移動は、D2系統の縄文人が先行し、その後 O系統の弥生人、百済からの移民などが大陸から移動してきた。
  では、D2系統の人々はどこから移動してきたのだろうか? チベットには、日本と同様 D系統が約半分存在するが、D系統の亜型の D1と D2が混じったものである。日本が D2系統のみであり、華南やインドシナ半島に D1系統がわずかに存在することから、チベット方面から華北・朝鮮半島を通って日本にやって来たと考えられる。
  D系統の祖型である D* は、ベンガル湾東部のアンダマン諸島に、部落ごとに集中して存在している。(オンゲ集団(23人)、ジャワラ集団(4人)は100%D* (xD1D2)) モンゴルのハルハ集団では D*は0.5%(2人/422人)であり、こちらのほうにも一部分散したようである。
  さらに、D系統 と E系統が分岐する前の、DE*(DE祖型)は、アフリカのナイジェリアで5例見つかったと報告されているので、このあたりが日本人の先住民である縄文人のルーツであると考えられる。

  したがって、現在アイヌ人にも残っている日本古来のアニミズム(精霊信仰)は、アフリカが発祥であると考えられる。そうすると、日本のピラミッド伝説や海底遺跡などの古代文明の説明がつく。(* これは、カナンのアシェラ崇拝、ユダヤ教とは異なる)
  奈良・平安時代にその名で呼ばれていた エミシ、ツチグモ、クマソは、C3、D2系統がその構成員だったと考えられる。

  O系統のうち、日本で見られるのは、大陸で北に偏った分布をしている O2b(朝鮮半島、日本)、O3(華北の漢民族)であり、朝鮮半島から渡ってきたことを物語る。台湾や南方からの O1、O2a は、沖縄も含めて非常に少ない。
  北方アジア系(アルタイ語族、シベリア、モンゴル)の C3系統は数%〜10数%で日本に広く分布している。日本列島における南方系C1系統の影響はごくわずかである。琉球から南九州にかけての貝文文化は、大規模な火山噴火で滅亡する前はC1系統がその担い手であったと思われる。C*(C祖型)は南インド(一部オセアニア)に局在している。

日本の青森や戸来村に来ていても不思議ではない。




1921荊の紀氏:2014/01/24(金) 20:14:32
胆振(イブリ・・・ヘブライ人) ヘプル語では「ヘブル」を「イブリ」といいます
北海道胆振支庁の「胆振」は「イブリ」と読みます。
四国愛媛県の西海岸には、日振島があり、日振は「ヒブリ」と読みます。
そして、山口県の南海岸には、目立たない幣振島があって、これは「ヘブリ」と発音するのです。ヒブリ、ヘブリ、共に、冠詞のh音が付いた形で、つまり、「イブリ」「ヒブリ」「ヘブリ」と日本での呼び名が、ここには全て出揃っているのです。
そしてこの「イブリ」「イブル」から、「燻(いぶ)る」「燻(いぶ)す」という動詞が生まれたと考えられます。
さらに「ヒブリ」のブの母音を替えて、バとして「ヒバリ」として漢字の雲雀を充て「雲雀(ひばり)」としたのでしょう。
ヘブライ人とは、日本列島へ飛来した雲雀であったのです。(11.19.)

ヘブライ"とは原語で"イブリ"といい、"川の向こうから来た者"という意味で、他の民族が 当時の彼らの呼称として使用し、彼らは自称" ...
http://www.kobemantoman.jp/sub/45.htm
もともとシリアやパレスチナ地方を中心とする地中海東岸地方には、セム系の先住民カナーン人がいた(B.C.1500。"カナーン"はパレスチナの古名)。カナーン人はエジプトの象形文字をもとに、原カナーン文字を発明し、シナイ半島にも南伝して原シナイ文字と呼ばれた。原カナーン文字は後に発展してアルファベットになっていく。前2千年紀前半はこのカナーン人が活躍するのだが、B.C.13世紀末からB.C.12世紀にかけては、東地中海一帯を、バルカン南部やエーゲ海域など、あらゆる海路で侵入し、国や都市を混乱に陥れた混成移民集団が現れた。この諸民族は"海の民"と呼ばれ、彼らの侵入で当時の鉄器大国ヒッタイト(B.C.18C建国)は、海の民によってアナトリア高原西部を荒らされ、滅亡に至った(B.C.1190頃)。またシリアの重要繁栄都市ウガリットやエマルなども侵入を受けて滅び、エジプトもB.C.1175年、パレスチナに植民した海の民の一派ペリシテ人("パレスチナ"の名はこの民族の名に由来)との抗戦には辛うじて成功するものの、その後勢力は弱体化した。
 こうしてヒッタイトとエジプトの二大国家形勢が崩れ、かわって独自の活動を行う民族が、シリア・パレスチナ地方で活躍するのである。アラム人・フェニキア人・ヘブライ人のセム系の3民族である。

 フェニキア人は冒頭のカナーン人の一派が、現在のレバノン海岸に居住した民族で、ビブロス・シドン・ティルスといった海港都市国家を築いていった。B.C.12世紀以降、地中海貿易を独占する海商民として、やがて地中海・黒海・紅海沿岸に植民市を建設していく。なかでもB.C.814年頃、ティルス市がアフリカ北岸に建設した植民市カルタゴは重要地で、その後カルタゴは地中海域覇権をめぐって、世紀にわたるポエニ戦争(一次:B.C.264-B.C.241,二次:B.C.218-B.C.201,三次:B.C.149-B.C.146)で共和政ローマと戦うことになる。"ポエニ"はラテン語で"フェニキア"を表す。
 フェニキア人による地中海貿易は、アラム人同様、貿易品だけでなくあらゆる文化を伝播した。中でも最も重要なのが、フェニキア文字の流布である。フェニキア文字は、アルファベットの祖型である原カナーン文字から発展したもので、まだエジプト象形文字に近い、絵文字の特性があった原カナーン文字を、線状文字に改良し、アルファベットの原形となる文字を、22の子音字として成り立った。B.C.9〜B.C.8世紀にはギリシアに伝播し、ギリシアでは母音字が加わって24文字となった(ギリシア文字)。西方のギリシア文字と同じく、東方でも、前述のアラム文字に派生していく。

神武天皇の称号はヘブル語? (2008年4月30日発行) | 今日もイエス様 ... http://melma.com/backnumber_151486_4080561/
しかし、ヘプル語では「ヘブル」を「イブリ」といいます(ヘブル語創世記14:13)。また古代 イスラエル人はアラム語も話したのですが、アラム語で「ヘブル」は「イワラー」といいまし た。「イワレ」は、これらの語の訛ったものと想像されます。

イブリ(ヘブル人)とアピル、あるいはハビルの間に何らかの関係があったとするなら ば、イブリも、また、元来、社会階層を指した語であったことが明らかとなる。 http://michi01.com/tendoh/363isl26720701.html
、「得体の知れないよそ者」として常に警戒され、時には実際に、強盗殺戮を働いたのがカナン定着後のイスラエルだった。
 この否定的なニュアンスを多分にもつ一般語を自らの人種的な意味合いを込めた民族名としてイスラエルが受け容れたということこそ、驚くべき画期的なことだと言わなければならない。どのような民族にとっても、その民族名は神話伝説に基づく輝かしい栄光に満ちたものであるはずである。にもかかわらず、卑しむべき「お里」が知れることを承知しながら、あえてイブリ=ヘブライ人と名乗ることを選択したユダヤ伝承編纂者たちの屈折した心理にこそ思いを致すべきなのであろう。ユダヤ人の伝承に憎悪と咒詛が渦巻いているのも故なしとしない。
 もっとも、その胸奥深くには、ユダ(イェフダ)という誇り高き名前と、イスラエル(その他雑多な人々)というやや誇らしくない名前とが秘められていたのではあるが……。
 イスラエルとペリシテ人との戦いは、したがって初期には山岳丘陵地帯からやって来る強盗集団に対するエジプト正規軍の防衛戦という様相をもっていた。
アピル
阿比留文字(あびるもじ)は、神代文字の一種である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/阿比留文字
阿比留文字は表音文字であるハングルの基になったという見解を持つ人々もいる[1]が、学問的には認められていない。その理由の一つとして、開音節と閉音節が存在する朝鮮語の音韻においてハングルのような文字が作られるのは自然であるが、開音節しか存在しない日本語の音韻体系において阿比留文字のような文字が作られるのは不自然である(例えば、「カ」という音は子音のkと母音のaの組み合わせであるが、日本人は「カ」のみで一音と認識し、子音と母音が組み合わさっている音だとは意識しない)という指摘がある[要出典]。朝鮮との交流によって朝鮮語に親しんで事から子音と母音を意識していたのだという説明もある(後世において悉曇学により日本人も子音と母音を意識し、五十音表が作られたのは歴史的事実である)が、仮にそうだとしても当の朝鮮より先行して日本でこのような文字が作られるのは不自然である。
しかしハングルが作られたとされる1443年以前に阿比留文字が存在していたとする資料もある。卜部兼方(1280年位の人物)は「釈日本紀」の中に「大蔵省の御書の中に、肥人の字六、七枚許有り云々」という記述があり、この「肥人の字」を肥人書の異称をもつ阿比留文字のことをさすとする説である。阿比留文字は古代の鏡等[誰?]に掘られており[要出典]、これらも1443年よりも前に阿比留文字があった物的証拠とされる。そして太古から日本と朝鮮半島には交流があった事から、ハングルとは何らかの関係があるのだろうとしている。[2]

阿比留文字とハングルは形が似ており、何らかの関係があると考えられている。但しハングルと違い、母音字母は必ず子音字母の右に置かれる(全て下に置くものもある。竹内文書では縦文字をアメコアヒルモジという)。 日本語のエ段音を表すために朝鮮語で /?/(現代の発音では[?]、アとオの中間音、ただしかつてはeと発音されていた。)を表す字母が使用されていたり、ラ行を表すために朝鮮語で /d/ を表す字母を左右反転させた形が(あるいは朝鮮語で /r/ を表す字母の上半分の形ともいえる)使われている。朝鮮語ではヤ行 /j/ を表す子音字母はなく、/ja/、/ju/、/jo/ 全体を母音字母として表記するが、阿比留文字ではヤ行を表す子音字母が新設されている。 ヂ・ヅはダ・デ・ドと同様、朝鮮語で/d/を表す字母で綴られている。

神社の神体等に記されていることが多く、全国で見られる。 また、阿比留文字による銘文が刻まれた石碑が宮崎県の円野神社や安曇野市の道祖神として見つかっている。

氾濫(イブリ)
見よ 日の ヤハウエ 彼が来る(or来ている) 酷い そして氾濫(イブリ) そして燃える怒りの 鼻の穴 に位置させる事の その地 に浪費 そして罪ら彼女 彼が根絶させる から出て来る彼女ら
10 ・ その時 星らの その空ら そしてケシール(=オリオン=つまらない)ら彼ら 無い 彼らが輝かさせる  http://blogs.yahoo.co.jp/ailandlife/7097306.html
イザヤ書13章 ヘブル語原典 直 訳

ウルクの神官・王がテラであり、神官の一族をイブリ(ヘブルの語源)と呼んでいた。この テラの一族が、イスラエルの十二支族へと繋がってゆきます。加えて、シナイ半島は月 神・日神の支配地域であり、シンの発音と重なる。 http://bewithgods.com/hope/doc10/10-20.html

、「イブリ」「ヒブリ」「ヘブリ」と日本での呼び名が、ここには全て 出揃って ... http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage79.htm
「瀛洲」の「瀛」とは、「贏氏」の「贏」と同じ意味であり、「ヤーウェ」という意味です。
「瀛洲」は「ヤーウェ神洲」という意味です。
前400年を少し過ぎた時期に、メソポタミヤに居住していた元北イスラエルの一部の民達が移住して来ており、彼らは、まとまって大倭の軍事防衛面を、部族ぐるみで担当することになっていたのです。
東てい人のヘブライ語
では、このヘブライ語で自分達をトーテーと称した東てい人とは何者でしょうか?
徐福らより、200年前に移住してきた北イスラエル諸支族でありましょう。彼らは。倭奴王国にやってくると、主に列島の防衛面を担当することになったからです。
東てい人、即ち、列島移住の北イスラエルによって、200年の間に、二十余国が出来た。その内の一つが、前出の「軍事防衛府」の「鬼国」でありましょう。
一掃する者、衛兵にとって、武器の管理は重要事のひとつです。つまり、徐福らは、この東てい人によって、鬼国へ誘導されたのです。
「鬼国」はヘブライ一掃後の日本国では、紀伊(きい)の国と命名され、そう呼ばれるようになりました。現在の和歌山県です。(2010.7.12.)(7.13.)(修正8.8.)
「イスラエル」から「忘れる」へ
ヘブライ一掃とは、正確にはヘブライ隠蔽一掃ですが、大和朝廷による厳しい施行に際して、表現はその理念に抵触しない範囲で許されたのでした。
例えば、太秦広隆寺境内には幾つもあったと云われる「イサライの井戸」。日ユ同祖論では、これは「イスラエルの井戸」と呼ばれていたとされています。
「いさらい」の漢字文表記は「伊佐羅井」「伊佐良井」ですが、和文は「井浚ひ」です。井戸を定期的に浚って、ごみを取り、きれいな水を保つよう戒める言葉に変わっています。
羊氏の移住
群馬県多野郡(旧多胡郡)吉井町には、「羊太夫」に纏わる伝承が残されていて、この羊太夫は渡来人で、秦氏であるといわれています。多胡郡には、「和銅四年(711)」に刻まれた石碑が残されていて、そこには「給羊」と漢字がしっかりと刻まれています。
羊太夫は、多胡郡の統治を任された人で、さまざまな功績のあった人らしく、石碑はそれを記念したものです。(詳細は、久保有政著『日本の中のユダヤ文化』参照)
羊太夫の墓は、江戸時代後期に発掘されたらしく、同時代の大名であり、学者でもあった松浦静山(まつらせいざん、1760〜1841)が自著『甲子夜話』に記したところによると、十字架と「J(I)NRI」のローマ字の刻まれた古銅券が、石碑の傍にあった石槨から見つかった。
物はもう失われたらしいのですが、要はその銅板に刻まれたローマ字です。
このローマ字は、「ユダヤ人の王ナザレのイエス」のラテン語表記の頭文字を記したものであり、羊太夫はキリスト教徒であったことを、『日本の中のユダヤ文化』の著者久保氏は指摘しています。この表記は三カ国語で、イエス磔刑の時に、頭上に掲げられていたものでした。
景教と栗枝渡神社
景教徒移住について、もう一例。
徳島県三好郡旧東祖谷(いや)村(現三好市)には「栗枝渡(くりしと)神社」という名前の八幡神社があることを最近知りました。(詳細は『日本ユダヤ超文明』参照)
1185年に、栗枝渡神社と名前を改める以前は、栗須戸(くりすと)であったというのです。
社殿には鳥居がなく、キリスト教会でも通常鳥居は置かないものですが、神社には、切支丹を思わせるようなものは一切ないらしい。現在も、残されているのは栗枝渡という地名だけです。
戸来村のキリストの墓
青森県戸来村(現新郷村)には、キリストの墓と呼ばれる十来塚があって、戸来(へらい)村はかつて、古くはヘブライ村と呼ばれていたといわれています。
昭和10年に「竹内文書」で知られた神社の神主竹内巨麿が、戸来村にやって来て、一つの土まんじゅうを指して、これはキリストの墓であると定めた時からキリストの墓、十来塚と呼ばれるようになったらしい。
ユダヤ教秦氏と蘇民将来
これまでの秦氏について纏めますと、百済系、新羅系、高句麗系、漢系、呉系に分けられた秦氏は、ヘブライ人の区分として、南ユダ系秦氏、北イスラエル系秦氏、北イスラエル景教徒系秦氏となりました。さらに、新羅系北イスラエル秦氏、新羅系南ユダ秦氏、百済系北イスラエル秦氏というように細分化され得るわけですが、景教徒秦氏は北イスラエル系のみであろうと思われます。

日江田(ひえだ)…「ユダ」。ヒは冠詞のh音を充てた。地名としては「稗田」があります。

牛頭天王=畢星王=モーセ
京都今宮神社の祭りは、夜須禮祭りといわれており、祭りでは、人々が神社を巡りながら「やすらい花よ」と囃したてる、夜須禮は「やすらい」と読むのです。
三村氏は、この「やすらい祭り」を「イスラエル祭り」であると断定しました。
この「やすらい」も、「いさらいの井戸」同様の基準で、改名されたとみられます。
「(ヤ)スラ(イ)」も「イ(サ)ラ(イ)」も、共に五音節目の「ル」を省き、二文字母音を変えた点で、共通していることが分かります。(( )内が変えられた母音の文字)
今宮神社の祭神は牛頭天王ですが、祇園祭りの八坂神社も同様牛頭天王でした。
牛頭天王は、スサノヲの尊と混同されたようですが、別の存在です。
この「牛頭天王」とは一体誰のことか、と以前読者からよく質問を受けましたが、当時は答えることが出来ませんでした。今はズバリ、モーセのことであると言えます。

北海道胆振支庁の「胆振」は「イブリ」と読みます。
四国愛媛県の西海岸には、日振島があり、日振は「ヒブリ」と読みます。
そして、山口県の南海岸には、目立たない幣振島があって、これは「ヘブリ」と発音するのです。ヒブリ、ヘブリ、共に、冠詞のh音が付いた形で、つまり、「イブリ」「ヒブリ」「ヘブリ」と日本での呼び名が、ここには全て出揃っているのです。
そしてこの「イブリ」「イブル」から、「燻(いぶ)る」「燻(いぶ)す」という動詞が生まれたと考えられます。
さらに「ヒブリ」のブの母音を替えて、バとして「ヒバリ」として漢字の雲雀を充て「雲雀(ひばり)」としたのでしょう。
ヘブライ人とは、日本列島へ飛来した雲雀であったのです。(11.19.)


1922荊の紀氏:2014/01/24(金) 20:34:15
Re: 胆振(イブリ・・・ヘブライ人) ヘプル語では「ヘブル」を「イブリ」といいます
胆振・・・辰 北極星  旦(あらわれる) 時
胆振(イブリ・・・ヘブライ人)
【旦】 5画 日(1) 準1級 ... 【旦日】たんじつ. あくる日。あした。また、明朝。 夜明けの太陽 。 【旦夕】たんせき. 明け方と夕方。朝も晩も。始終。旦暮。 今日の夜か明日の朝かという ほどに事態が切迫していること ... 金文の字形によると、雲上に日が半ばあらわれる形。 http://www.geocities.jp/growth_dic/honbun/zoukan-4336.html
日の出る頃。夜明け。明け方。
カム 神?
カム、クム, カム/kum/立ち上がる、現れる, kum, 立ち上がる、現れる. http://www.historyjp.com/dictionary.asp

空海と法相宗のリーダーである善珠が、阿刀氏という家系の絆で結びついているだけでなく、平安京の造営を陰で支えた有力者である秦氏とも同じイスラエルのルーツで繋がっている可能性があることを、これまで解説してきました。 さて、その秦氏の絶大なる支援によって794年に平安京への遷都が実現しましたが、あらゆる怨霊対策がとられたにも関わらず、問題は解決することはなく依然として桓武天皇を悩まし続けていました。そして朝廷の周辺に不幸と災難が連続して起きている矢先の797年、空海は歴史の記録から忽然と消えてしまったのです http://www.naritacity.com/journal/main/journal_main_091015.asphttp://www.naritacity.com/journal/main/journal_main_091015.asp
また、空海の母方である阿刀氏のルーツを遡っていくと、単に秦氏らと共にイスラエルの起源で繋がっているだけでなく、神宝とも深い関わりのある歴史が存在していたことがわかります。つまり、空海が阿刀氏の家系に属する者として、イスラエルの神宝についての知識を事前に得ていた可能性が高いのです。そして空海は、神宝問題を解決する為の第一人者として朝廷より召されたのです。この仮説の信憑性を裏付けるのが聖書の記述です。

旧約聖書の「アテル氏」とアイヌの「アテルイ」も関連性が? https://twitter.com/shimazuyashichi/status/371603663770247168

胆沢
八世紀の胆沢地方は、大墓公(たものきみ)アテルイという優れた指導者を得て、高度の 政治軍事組織を作り上げていた。 第五十代 ... その先鋒は二手に分かれ、前軍三千は 村落に火を放ちつつ北上川の西岸を北上し、現在の水沢市跡呂井(あとるい)付近に 到達、 .... http://joshua007.digi2.jp/mizusawaterui.htm
アテルイとモレの日高見国(ひたかみのくに)英雄伝は悲劇で幕を閉じる
 坂上田村麻呂を征夷大将軍とした朝廷軍に、アテルイはこれ以上の悲惨な戦いを止めようと降伏し 民衆の身代わりとなって朝廷軍に投降した
 田村麻呂は彼ら族長の赦免を願ったが叶わず、アテルイとモレは今の大阪の地で斬首される京の都で鬼と呼ばれ恐れられた男、坂上田村麻呂大将軍が惚れた男、アテルイの遺志は、安倍一族、藤原清衡、基衡、秀衡…と受け継がれていくこととなる

、「アテルイ」とは、列島イスラエルを閉じようとしなかった勢力のことでしょう。

胆振
辰 シン・たつ 辰部 解字 二枚貝がカラから足をだしている形の象形。蜃シン(大ハマグリ )の原字。二枚貝は足を出して小刻みに動いて移動することから「うごく」イメージを持つ。 しかし、辰はもとの意味に関わりなく十二支の「たつ」に仮借カシャ http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/abbebdc990c84610c17b6467bd79f6f4
、星の動きの中心にいる北極星にも仮借カシャされたことから、日・月・星を含む天体、とき等の意味をもつ。


> 北海道胆振支庁の「胆振」は「イブリ」と読みます。
> 四国愛媛県の西海岸には、日振島があり、日振は「ヒブリ」と読みます。
> そして、山口県の南海岸には、目立たない幣振島があって、これは「ヘブリ」と発音するのです。ヒブリ、ヘブリ、共に、冠詞のh音が付いた形で、つまり、「イブリ」「ヒブリ」「ヘブリ」と日本での呼び名が、ここには全て出揃っているのです。
> そしてこの「イブリ」「イブル」から、「燻(いぶ)る」「燻(いぶ)す」という動詞が生まれたと考えられます。
> さらに「ヒブリ」のブの母音を替えて、バとして「ヒバリ」として漢字の雲雀を充て「雲雀(ひばり)」としたのでしょう。
> ヘブライ人とは、日本列島へ飛来した雲雀であったのです。(11.19.)
>
> ヘブライ"とは原語で"イブリ"といい、"川の向こうから来た者"という意味で、他の民族が 当時の彼らの呼称として使用し、彼らは自称" ...
> http://www.kobemantoman.jp/sub/45.htm
> もともとシリアやパレスチナ地方を中心とする地中海東岸地方には、セム系の先住民カナーン人がいた(B.C.1500。"カナーン"はパレスチナの古名)。カナーン人はエジプトの象形文字をもとに、原カナーン文字を発明し、シナイ半島にも南伝して原シナイ文字と呼ばれた。原カナーン文字は後に発展してアルファベットになっていく。前2千年紀前半はこのカナーン人が活躍するのだが、B.C.13世紀末からB.C.12世紀にかけては、東地中海一帯を、バルカン南部やエーゲ海域など、あらゆる海路で侵入し、国や都市を混乱に陥れた混成移民集団が現れた。この諸民族は"海の民"と呼ばれ、彼らの侵入で当時の鉄器大国ヒッタイト(B.C.18C建国)は、海の民によってアナトリア高原西部を荒らされ、滅亡に至った(B.C.1190頃)。またシリアの重要繁栄都市ウガリットやエマルなども侵入を受けて滅び、エジプトもB.C.1175年、パレスチナに植民した海の民の一派ペリシテ人("パレスチナ"の名はこの民族の名に由来)との抗戦には辛うじて成功するものの、その後勢力は弱体化した。
>  こうしてヒッタイトとエジプトの二大国家形勢が崩れ、かわって独自の活動を行う民族が、シリア・パレスチナ地方で活躍するのである。アラム人・フェニキア人・ヘブライ人のセム系の3民族である。
>
>  フェニキア人は冒頭のカナーン人の一派が、現在のレバノン海岸に居住した民族で、ビブロス・シドン・ティルスといった海港都市国家を築いていった。B.C.12世紀以降、地中海貿易を独占する海商民として、やがて地中海・黒海・紅海沿岸に植民市を建設していく。なかでもB.C.814年頃、ティルス市がアフリカ北岸に建設した植民市カルタゴは重要地で、その後カルタゴは地中海域覇権をめぐって、世紀にわたるポエニ戦争(一次:B.C.264-B.C.241,二次:B.C.218-B.C.201,三次:B.C.149-B.C.146)で共和政ローマと戦うことになる。"ポエニ"はラテン語で"フェニキア"を表す。
>  フェニキア人による地中海貿易は、アラム人同様、貿易品だけでなくあらゆる文化を伝播した。中でも最も重要なのが、フェニキア文字の流布である。フェニキア文字は、アルファベットの祖型である原カナーン文字から発展したもので、まだエジプト象形文字に近い、絵文字の特性があった原カナーン文字を、線状文字に改良し、アルファベットの原形となる文字を、22の子音字として成り立った。B.C.9〜B.C.8世紀にはギリシアに伝播し、ギリシアでは母音字が加わって24文字となった(ギリシア文字)。西方のギリシア文字と同じく、東方でも、前述のアラム文字に派生していく。
>
> 神武天皇の称号はヘブル語? (2008年4月30日発行) | 今日もイエス様 ... http://melma.com/backnumber_151486_4080561/
> しかし、ヘプル語では「ヘブル」を「イブリ」といいます(ヘブル語創世記14:13)。また古代 イスラエル人はアラム語も話したのですが、アラム語で「ヘブル」は「イワラー」といいまし た。「イワレ」は、これらの語の訛ったものと想像されます。
>
> イブリ(ヘブル人)とアピル、あるいはハビルの間に何らかの関係があったとするなら ば、イブリも、また、元来、社会階層を指した語であったことが明らかとなる。 http://michi01.com/tendoh/363isl26720701.html
> 、「得体の知れないよそ者」として常に警戒され、時には実際に、強盗殺戮を働いたのがカナン定着後のイスラエルだった。
>  この否定的なニュアンスを多分にもつ一般語を自らの人種的な意味合いを込めた民族名としてイスラエルが受け容れたということこそ、驚くべき画期的なことだと言わなければならない。どのような民族にとっても、その民族名は神話伝説に基づく輝かしい栄光に満ちたものであるはずである。にもかかわらず、卑しむべき「お里」が知れることを承知しながら、あえてイブリ=ヘブライ人と名乗ることを選択したユダヤ伝承編纂者たちの屈折した心理にこそ思いを致すべきなのであろう。ユダヤ人の伝承に憎悪と咒詛が渦巻いているのも故なしとしない。
>  もっとも、その胸奥深くには、ユダ(イェフダ)という誇り高き名前と、イスラエル(その他雑多な人々)というやや誇らしくない名前とが秘められていたのではあるが……。
>  イスラエルとペリシテ人との戦いは、したがって初期には山岳丘陵地帯からやって来る強盗集団に対するエジプト正規軍の防衛戦という様相をもっていた。
> アピル
> 阿比留文字(あびるもじ)は、神代文字の一種である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/阿比留文字
> 阿比留文字は表音文字であるハングルの基になったという見解を持つ人々もいる[1]が、学問的には認められていない。その理由の一つとして、開音節と閉音節が存在する朝鮮語の音韻においてハングルのような文字が作られるのは自然であるが、開音節しか存在しない日本語の音韻体系において阿比留文字のような文字が作られるのは不自然である(例えば、「カ」という音は子音のkと母音のaの組み合わせであるが、日本人は「カ」のみで一音と認識し、子音と母音が組み合わさっている音だとは意識しない)という指摘がある[要出典]。朝鮮との交流によって朝鮮語に親しんで事から子音と母音を意識していたのだという説明もある(後世において悉曇学により日本人も子音と母音を意識し、五十音表が作られたのは歴史的事実である)が、仮にそうだとしても当の朝鮮より先行して日本でこのような文字が作られるのは不自然である。
> しかしハングルが作られたとされる1443年以前に阿比留文字が存在していたとする資料もある。卜部兼方(1280年位の人物)は「釈日本紀」の中に「大蔵省の御書の中に、肥人の字六、七枚許有り云々」という記述があり、この「肥人の字」を肥人書の異称をもつ阿比留文字のことをさすとする説である。阿比留文字は古代の鏡等[誰?]に掘られており[要出典]、これらも1443年よりも前に阿比留文字があった物的証拠とされる。そして太古から日本と朝鮮半島には交流があった事から、ハングルとは何らかの関係があるのだろうとしている。[2]
>
> 阿比留文字とハングルは形が似ており、何らかの関係があると考えられている。但しハングルと違い、母音字母は必ず子音字母の右に置かれる(全て下に置くものもある。竹内文書では縦文字をアメコアヒルモジという)。 日本語のエ段音を表すために朝鮮語で /?/(現代の発音では[?]、アとオの中間音、ただしかつてはeと発音されていた。)を表す字母が使用されていたり、ラ行を表すために朝鮮語で /d/ を表す字母を左右反転させた形が(あるいは朝鮮語で /r/ を表す字母の上半分の形ともいえる)使われている。朝鮮語ではヤ行 /j/ を表す子音字母はなく、/ja/、/ju/、/jo/ 全体を母音字母として表記するが、阿比留文字ではヤ行を表す子音字母が新設されている。 ヂ・ヅはダ・デ・ドと同様、朝鮮語で/d/を表す字母で綴られている。
>
> 神社の神体等に記されていることが多く、全国で見られる。 また、阿比留文字による銘文が刻まれた石碑が宮崎県の円野神社や安曇野市の道祖神として見つかっている。
>
> 氾濫(イブリ)
> 見よ 日の ヤハウエ 彼が来る(or来ている) 酷い そして氾濫(イブリ) そして燃える怒りの 鼻の穴 に位置させる事の その地 に浪費 そして罪ら彼女 彼が根絶させる から出て来る彼女ら
> 10 ・ その時 星らの その空ら そしてケシール(=オリオン=つまらない)ら彼ら 無い 彼らが輝かさせる  http://blogs.yahoo.co.jp/ailandlife/7097306.html
> イザヤ書13章 ヘブル語原典 直 訳
>
> ウルクの神官・王がテラであり、神官の一族をイブリ(ヘブルの語源)と呼んでいた。この テラの一族が、イスラエルの十二支族へと繋がってゆきます。加えて、シナイ半島は月 神・日神の支配地域であり、シンの発音と重なる。 http://bewithgods.com/hope/doc10/10-20.html
>
> 、「イブリ」「ヒブリ」「ヘブリ」と日本での呼び名が、ここには全て 出揃って ... http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage79.htm
> 「瀛洲」の「瀛」とは、「贏氏」の「贏」と同じ意味であり、「ヤーウェ」という意味です。
> 「瀛洲」は「ヤーウェ神洲」という意味です。
> 前400年を少し過ぎた時期に、メソポタミヤに居住していた元北イスラエルの一部の民達が移住して来ており、彼らは、まとまって大倭の軍事防衛面を、部族ぐるみで担当することになっていたのです。
> 東てい人のヘブライ語
> では、このヘブライ語で自分達をトーテーと称した東てい人とは何者でしょうか?
> 徐福らより、200年前に移住してきた北イスラエル諸支族でありましょう。彼らは。倭奴王国にやってくると、主に列島の防衛面を担当することになったからです。
> 東てい人、即ち、列島移住の北イスラエルによって、200年の間に、二十余国が出来た。その内の一つが、前出の「軍事防衛府」の「鬼国」でありましょう。
> 一掃する者、衛兵にとって、武器の管理は重要事のひとつです。つまり、徐福らは、この東てい人によって、鬼国へ誘導されたのです。
> 「鬼国」はヘブライ一掃後の日本国では、紀伊(きい)の国と命名され、そう呼ばれるようになりました。現在の和歌山県です。(2010.7.12.)(7.13.)(修正8.8.)
> 「イスラエル」から「忘れる」へ
> ヘブライ一掃とは、正確にはヘブライ隠蔽一掃ですが、大和朝廷による厳しい施行に際して、表現はその理念に抵触しない範囲で許されたのでした。
> 例えば、太秦広隆寺境内には幾つもあったと云われる「イサライの井戸」。日ユ同祖論では、これは「イスラエルの井戸」と呼ばれていたとされています。
> 「いさらい」の漢字文表記は「伊佐羅井」「伊佐良井」ですが、和文は「井浚ひ」です。井戸を定期的に浚って、ごみを取り、きれいな水を保つよう戒める言葉に変わっています。
> 羊氏の移住
> 群馬県多野郡(旧多胡郡)吉井町には、「羊太夫」に纏わる伝承が残されていて、この羊太夫は渡来人で、秦氏であるといわれています。多胡郡には、「和銅四年(711)」に刻まれた石碑が残されていて、そこには「給羊」と漢字がしっかりと刻まれています。
> 羊太夫は、多胡郡の統治を任された人で、さまざまな功績のあった人らしく、石碑はそれを記念したものです。(詳細は、久保有政著『日本の中のユダヤ文化』参照)
> 羊太夫の墓は、江戸時代後期に発掘されたらしく、同時代の大名であり、学者でもあった松浦静山(まつらせいざん、1760〜1841)が自著『甲子夜話』に記したところによると、十字架と「J(I)NRI」のローマ字の刻まれた古銅券が、石碑の傍にあった石槨から見つかった。
> 物はもう失われたらしいのですが、要はその銅板に刻まれたローマ字です。
> このローマ字は、「ユダヤ人の王ナザレのイエス」のラテン語表記の頭文字を記したものであり、羊太夫はキリスト教徒であったことを、『日本の中のユダヤ文化』の著者久保氏は指摘しています。この表記は三カ国語で、イエス磔刑の時に、頭上に掲げられていたものでした。
> 景教と栗枝渡神社
> 景教徒移住について、もう一例。
> 徳島県三好郡旧東祖谷(いや)村(現三好市)には「栗枝渡(くりしと)神社」という名前の八幡神社があることを最近知りました。(詳細は『日本ユダヤ超文明』参照)
> 1185年に、栗枝渡神社と名前を改める以前は、栗須戸(くりすと)であったというのです。
> 社殿には鳥居がなく、キリスト教会でも通常鳥居は置かないものですが、神社には、切支丹を思わせるようなものは一切ないらしい。現在も、残されているのは栗枝渡という地名だけです。
> 戸来村のキリストの墓
> 青森県戸来村(現新郷村)には、キリストの墓と呼ばれる十来塚があって、戸来(へらい)村はかつて、古くはヘブライ村と呼ばれていたといわれています。
> 昭和10年に「竹内文書」で知られた神社の神主竹内巨麿が、戸来村にやって来て、一つの土まんじゅうを指して、これはキリストの墓であると定めた時からキリストの墓、十来塚と呼ばれるようになったらしい。
> ユダヤ教秦氏と蘇民将来
> これまでの秦氏について纏めますと、百済系、新羅系、高句麗系、漢系、呉系に分けられた秦氏は、ヘブライ人の区分として、南ユダ系秦氏、北イスラエル系秦氏、北イスラエル景教徒系秦氏となりました。さらに、新羅系北イスラエル秦氏、新羅系南ユダ秦氏、百済系北イスラエル秦氏というように細分化され得るわけですが、景教徒秦氏は北イスラエル系のみであろうと思われます。
>
> 日江田(ひえだ)…「ユダ」。ヒは冠詞のh音を充てた。地名としては「稗田」があります。
>
> 牛頭天王=畢星王=モーセ
> 京都今宮神社の祭りは、夜須禮祭りといわれており、祭りでは、人々が神社を巡りながら「やすらい花よ」と囃したてる、夜須禮は「やすらい」と読むのです。
> 三村氏は、この「やすらい祭り」を「イスラエル祭り」であると断定しました。
> この「やすらい」も、「いさらいの井戸」同様の基準で、改名されたとみられます。
> 「(ヤ)スラ(イ)」も「イ(サ)ラ(イ)」も、共に五音節目の「ル」を省き、二文字母音を変えた点で、共通していることが分かります。(( )内が変えられた母音の文字)
> 今宮神社の祭神は牛頭天王ですが、祇園祭りの八坂神社も同様牛頭天王でした。
> 牛頭天王は、スサノヲの尊と混同されたようですが、別の存在です。
> この「牛頭天王」とは一体誰のことか、と以前読者からよく質問を受けましたが、当時は答えることが出来ませんでした。今はズバリ、モーセのことであると言えます。
>
> 北海道胆振支庁の「胆振」は「イブリ」と読みます。
> 四国愛媛県の西海岸には、日振島があり、日振は「ヒブリ」と読みます。
> そして、山口県の南海岸には、目立たない幣振島があって、これは「ヘブリ」と発音するのです。ヒブリ、ヘブリ、共に、冠詞のh音が付いた形で、つまり、「イブリ」「ヒブリ」「ヘブリ」と日本での呼び名が、ここには全て出揃っているのです。
> そしてこの「イブリ」「イブル」から、「燻(いぶ)る」「燻(いぶ)す」という動詞が生まれたと考えられます。
> さらに「ヒブリ」のブの母音を替えて、バとして「ヒバリ」として漢字の雲雀を充て「雲雀(ひばり)」としたのでしょう。
> ヘブライ人とは、日本列島へ飛来した雲雀であったのです。(11.19.)
>

1923管理人:2014/01/24(金) 22:44:23
Re: 「後方羊蹄国(後志国)」
荊の紀氏さんへのお返事です。

> > > 荊の紀氏さんへのお返事です。

> > > > 同年、阿倍比羅夫臣が、「肉入籠(ししりこ)」(イッサカルの領域?)に至ると、「問兔(という)」(後の豊浦町?)の蝦夷二人、「胆鹿嶋(いかしま)」「兔穂名(うほな)」が「後方羊蹄(しりべし)」を政庁(郡家)としたいと願い入れたので、阿倍臣は郡家を設けて帰ったと、その年の条にあります。この時に「後方羊蹄国(後志国)」の運びに至ったと見られます。
> > > >
> > > >
>
> 蝦夷
>

先日の蝦夷国と粛慎国を、それぞれ東北と北海道に別けて考える件ですが、どうも大陸の粛慎が持つ竪穴式の住居や樹樹皮を用いる習俗と、北海道アイヌに伝わる古代からの竪穴住居、同じく樹皮をもちいるところが共通するようです。



おそらく、大陸の粛慎は、樺太経由で、北海道にまで影響力を及ぼしていたのではないでしょうか。
ツングース系で、後の満州とかとも関わって行きますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/

粛慎の習俗は、後継のユウ婁に見て取れます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
こちらアイヌの習俗
http://ja.wikipedia.org/wiki/

粛慎自体は周代の記録にもあるそうですが、それらの記録を元に、日本側で最北の民族を粛慎と名付けたというよりは、やはり彼ら自身は大陸の粛慎の一族であることを伝えたのではないでしょうか。

彼らは7世紀代にすでに大陸との交易ルートを持っていた可能性があります。

だから、後に唐人とともに粛慎2人が同じ位階を受けるわけです。
唐人と同じくらい、粛慎集団は、海外交易で重要な役割を果たしていたのでしょう。

持統8年(694年)1月23日務広肆(む こうし、後の従七位下に相当)等の位を唐人7人と粛慎2人に与えた。

粛慎の記載を追って行くと、「越」と関係して出てきます。この越というのが、どうも日本海側から、はるか北海道渡島方面までさしていた可能性があるんですね。


持統10年(696年)3月12日[編集]
賜越度嶋蝦夷伊奈理武志與肅愼志良守叡草、錦袍袴・緋紺絁・斧等。
越(こし)の度嶋(わたりしま、渡島に同じ)の蝦夷の伊奈理武志(いなりむし)と粛慎の志良守叡草(しらすえそう)に錦でできた袍(上着)と袴・赤い太絹・斧などを下賜した。

それで粛慎の関係でオロチョン族というのがいるのですが、これが越のヤマタオノオロチとどこか関係してくるのではないでしょうか。

それで、粛慎と新羅使がまた深いつながりをもっていて、新羅はつまり粛慎と隣国なわけです。

この新羅・粛慎ルートが、樺太・北海道経由で、越を経由しながら交易してくるわけですね。

それで、新羅と粛慎がセットになって、そこで新羅系のスサノオ神話やオロチの話が、どこかで結びつく、そんなことも考えてみてもよいのかもしれません。

東北北部の蝦夷と、北海道の粛慎、かなり習俗的に異なっていたのではないでしょうか。

毛が濃いなどはアイヌ系のそれとも関係しそうですが、粛慎の場合は、さらにその表現がオーバーなくらいですね。

それで、やはり大陸の粛慎とその辺も類似してくる。竪穴住居、樹皮、弓矢関連の習俗もそうです。

以前論議したDNAでも、縄文人に2種、東北北海道方面にいたことを論じたのですが、その2種の相違が、蝦夷、粛慎の相違なのではないでしょうか。

片方はシベリア方面などと関係し、もう片方は半島経由で中東方面からやってきているわけです。紀元前5〜1世紀くらいですね。

後者が蝦夷か粛慎かはちょっと今の時点では判断できませんが、粛慎自体は周代より古く、そうすると前者の可能性あgでてくるわけです。竪穴関連とかは、ツングース・オーストロネシア言語と関係しながら、縄文人と関係するでしょうか。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn5/005_04nihonngo_ha_konngougenngo.html
そうすると東北の蝦夷って、どこから来たのか?も課題になりますが、紀元前5世紀〜1世紀前後に、なんらかの半島で半島経由で東北にやってきた集団、先日論語した東扶余とか扶余のはるか東の女国とか、キシさんご指摘の阿弖流為関連でしょうか。

東北の北部、その辺の古代を探る必要がありそうですね。

1924荊の紀氏:2014/01/25(土) 11:14:49
八角形の洗礼堂 薔薇は「復活」を象徴 棘は「罪」の象徴
八角形の洗礼堂??薔薇は「復活」を象徴??棘は「罪」の象徴
朿 シ・セキ 木部 解字 標識として立てた木の象形。木に袖木をつけ下で左右から支えた もので、聖所を表示する意味をもつ http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/df74303e34fb8b240fa82446c8d26dee
のぎ(芒)。??五芒星
芒(のぎ、「ぼう」とも)は、コメ、ムギなどイネ科の植物の小穂を構成する鱗片(穎)の 先端にある棘状の突起のこと。
漢字の偏の一。「私」「秒」などの「禾」の 部分。 http://kotobank.jp/word/ノ木偏・禾偏

「黍は禾の属にして黏(ねば)る者なり」と記載されており、アワとの違いは その粘り気に注目されていた(このため「黍」字を糯粟や糯米の意と解すること ... 叶」=「 口」+「十」:=くち+おとこ=>おとこを口にする=>(欲望が)かなう=>かなう . http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2512
カノウ カナウ カナン?
「乳と蜜の流れる場所」
約束した土地 http://ja.wikipedia.org/wiki/カナン

「叶」 解字:形声。 意符の口(意見)と、音符の十(あつまる意=集)とから成る。
『命』は「令」(いいつける)と「口」(くち)の合わせ字であり、集まってきてひざまずいている人に、大声で命令している形です。
大声で命令

ヤーウェの語りかけ
ヨブ記38章3節〜6節
わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、 告げてみよ。あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上 に張ったかを。その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか ... http://homepage3.nifty.com/sanbieikou/zuisou2011801.htm

聖書は、現代人からすると幼稚とも思えるような表現が多く含まれている。それは、今日、私たちにとっては当たり前と思われるような科学的な知識が、聖書の書かれた時代の人々にはなかったからである。したがって、ともすれば、聖書のことばを原始的なものとして、拒絶することにもなる。そこが、現代人にとっての一つの大きな落とし穴である。ヨブが自分の身に起きた災いに関して友人らと論じたあと、神様は彼と語り、次のように言われた。 http://davarkg.com/Japanese/BibleStudy/Jeremiah05_07.html
知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。...
わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。
あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、
だれが測りなわをその上に張ったかを。
その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか (ヨブ38:2−6)。
あたかも何かを知っているかのように思っていたヨブに、神様は、創造の話しをされた。ヨブは何も言えなくなった。どうも、上に述べたような現代人の高ぶりは、今に始まったことではなかったようだ。
科学は、自然の世界における神の働きを、神から引き離し、単なる自然の法則か、何かの非人格的な力によるものだと説明する。そこには、神ご自身のご意志、みこころが消えてしまって、宇宙があたかも、神を離れて、自分で動いているかのように思わせる。天地創造の神を信じるクリスチャンであっても、創造のあと、神様はもうこの世界に働いて関与されることはなく、私たち人間が自分で維持し、自分の必要を満たし、災いを恐れながら生きるしかないと考える。それは本当だろうか。

その大きさを定め
測りなわをその上に張ったかを
台座は何の上にはめ込まれたか
隅の石はだれが据えたか

主イエスの御衣のすその四隅(原語では「隅 =カナフ」) http://blogs.yahoo.co.jp/squawk_roko/folder/1488410.html?m=lc&amp;p=3
ヘブル語「カナフ」は、その動詞形に「隠す、隠れる」の意味があります。
「翼」(カナフ)

着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行なうため」
                                 (民数15:38−39)
一説では、ヘブル人は祭司の着物のふさに結ばれた「青いひも」をいやしの約束と見なしていたと言われています。
ここで着物の「端」と訳されているヘブル語も「ツィツィト:ふさ」です。
翼の下にいやしを見出した。

カノは基礎・台 の意味、 ..... ただあなたに届くように(翼のある太陽の上に乗る? )
わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある 。」 (マラキ4:2) 「その翼には、癒しがある。」 「翼」と訳されているヘブル語「カナフ」は、 その動詞形に「隠す、隠れる」の意味があります。 雌鳥が大きな... http://blogs.yahoo.co.jp/squawk_roko/31367065.html
「翼」(カナフ)
「カノ」は基礎、台の意味を持つ言葉です。 http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=171

正教会の教会法(カノン・基本的な規定) http://www.orthodox-jp.com/nagoya/nandemo28.htm

教会法の下では、祭壇・聖書朗読台は、同じ重みで尊厳を与えられなければならない。 http://www.geocities.jp/fujisawa_church/shiryo/Abe-tenrei-com01.htm
藤沢教会の現在の聖堂配置――祭壇が聖堂入り口手前に、聖書朗読台が聖堂奥に、遠く分離されて配置され、信徒席がその周囲を三百六十度ぐるりと取り囲む方式――は、この聖ベネディクト会三位一体修道院聖堂をひとつのひな形として始められています。

大聖堂は東に至聖所、西に正面玄関をもつ(キリスト教において東はイエス・キリストを 象徴する方角であり、教会の祭壇は東に正対しておかれるのが基本形であった)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
全長153m、最大幅90m、高さ107m。八角形の大クーポラの内径は43m。聖堂の大きさとしては世界で4番目に大きい[要出典]。

建物の主軸はほぼ東西に通り、西に八角形の洗礼堂、東にラテン十字の平面をもつ大 聖堂がならび、両者の正面玄関が正対する。 .... http://ja.wikipedia.org/wiki/サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

八角 円堂の基壇石、三尊磚仏、蓮華文や唐草文の軒瓦など、創建時の仏堂の様相を示す 品々が出土し、白鳳時代の建立を示している。 ... http://www.tsubosaka1300.or.jp/treasure.html

八角の天上に8つの 祝福の言葉が掲げられており、3人の牧師が祈りを捧げていられました。 .... http://www.a-shiina.co.jp/asano/book-seisyonohonbun.html
イスラエルの冬の終りには、アメンドウの花が咲くという、日本の梅と桜をひとつにしたような花、2千年のイスラエルの冬の終りを告げ、春が近いことの祝福を告げる花、アメンドウ。
 昔からカナンの地に栽培されていて、ヤコブはエジプトの宰相ヨセフへのみやげ物にアメンドウ(アーモンド)を入れたという。その淡い桜色の花をつけるアメンドウの花をみたいと、私は2月のイスラエルへと旅立ちました。
道は山を廻るように進み、カシオペアを上にみながら進むと思うと、次は月を右後ろに小熊座の北極星を向いに見ながら進んでいました。

アメンドウをヘブライ語では、シャケド とう。「目覚める者」「見張る者」という意味である。 http://www.makuya.or.jp/hikari/hana/amendo.htm

アメンドウの花は、救いの光を待ち望んだ聖書の中の女性たちの祈りに似ていると言 われています。 また、ボトル11番はエッセネ派 .... も演じられるという事ですよね。

バラ科ですよね〜、桜やリンゴなどに似た花です・・・。 http://nabe-sho.cocolog-tnc.com/fujieda_/2010/03/blo-7f8e-12.html

バラ科リンゴ属の落葉高木樹。 http://ja.wikipedia.org/wiki/リンゴ
トルコで紀元前6000年頃の炭化したリンゴが発見されている。スイスでは遺跡から紀元前2000年頃のリンゴの化石が見つかっており、その時点で既にリンゴは栽培されていたとする研究がある。
聖書におけるリンゴ 旧約聖書に登場するアダムとイヴが、蛇にそそのかされて食べた「善悪を知る果実」(禁断の果実)はリンゴだとされる。あわてて飲み込もうとしたアダムが善悪を知る果実をのどにつかえさせ、これがのどぼとけの始まりであるとの故事から、男性ののどぼとけは「アダムのリンゴ」ともいわれる。なお、食べたのがリンゴというのは後の時代に創作された俗説で、当時旧約聖書の舞台となったメソポタミア地方にはリンゴは分布せず、またその時代のリンゴは食用に適していなかった。

薔薇で弔う】薔薇にまつわる伝説・神話は数多くありますが、愛の象徴を語り継ぐ諸説 が多い中、実は「弔いの花」としての薔薇の話も少なくないことをご存知でしょうか。... https://www.facebook.com/171143942926774/posts/417116284996204
キリスト教において薔薇の花は「神の愛・赦し・殉教・勝利・慈悲」棘は「罪」の象徴。殉教者の墓に薔薇の花が掘られた場合は、薔薇は「復活」を象徴するのだそうです。
薔薇は忠実な恋人たちの墓から咲き出したという伝説もあり、これに類似した別の伝説もいくつかありますが、いずれも薔薇がはなつ芳香と輝く色が、古代より人々の悲嘆や沈鬱を和らげたことは間違いないでしょう。


1925荊の紀氏:2014/01/25(土) 11:37:13
美人と粛慎(ミセハシ)の謎
秋田美人と粛慎(ミセハシ)の謎に関わり、有史以前に日本列島に到達していた粛慎( ミセハシ)と呼ぶ部族、実は欧州系の白人種(ロシア人)だったのかも知れない。 http://jiyodan.exblog.jp/16553654
粛慎(ミセハシ)とされた渡来部族は白人種ではあるが「ヘブライ(ユダヤ)人の血流が濃い人種で在ったのではないか」と推測される痕跡が、奥州(東北地区)各地に存在する。
その指摘をされたのが岩手県出身の神学者・川守田英二博士で、長期に渡ってサンフランシスコで邦人キリスト教会の牧師をしながら「古代ヘブライ(ユダヤ)語を研究した」と伝えられている。
川守田英二氏が着目したのは青森県下北から南部地方に伝わる民謡「ナニャドヤラ」で、「ナニャドヤラは古代ヘブライ(ユダヤ)語である」と言うのだ。
青森県の新郷村と言う所には、伝・「キリストの墓」がある。
新郷村は古くは「戸来村」と言われていて、ヘブライに漢字を当てると‘戸無来’となり、無は無いから取ると戸来村となる。
新郷村に入ると「ようこそキリスト村へ」と言うアーケードが迎え、案内に沿って山を登ると十字架が二つ立っている。
その十字架はキリストと、キリストの双子の弟の墓だと伝えられている。
案内板には「ゴルゴダで処刑されたのはキリストの双子の弟イスキリの方で、兄は生きてこの地まで逃げ、この地で生涯を全うしたそうだ。
まぁ信仰絡みの伝説には、信者の希望を未来に伝える傾向もある事からキリスト本人が渡来して来たのか、信者が「キリストは我等と伴にあり」と信じての創作なのかは定かではない。
この新郷村の民は、「キリストの墓」の周りに円を描いて「ナニャドヤラ」の盆踊りを歌い踊る。
つまり新郷村にはイスラエルの風習と思われるものが残っており、その代表的なものが「ナニャドラヤ盆踊り」と言われている。
地元の年寄りでも意味は分からないかったが、氏は「ナニャドヤラ」の歌詞を古代ヘブライ語の進軍歌と訳した。
ナーニャード・ヤラヨウ(御前に聖名をほめ讃えん)、ナーナャード・ナアサアレ・ダハアデ・サーエ(御前に毛人を討伐して)、ナーニャード・ヤラヨ(御前に聖名をほめ讃えん)と言う意味であると発表したのだ。
川守田英二氏の説に拠ると青森県から岩手県にかけて散在する地名の一戸(いちのへ)から九戸(くのへ)、そして十和田は、失われた渡来ユダヤ十支族に関係あるとしている。
「ナニャドヤラ」の歌詞は全部の歌詞が意味不明のまま伝えられており、神学学者・川守田英二博士はその意味をヘブライ語とすれば解読出来るとしている。
つまり、ナニャドラヤー(お前に聖名を誉め讃えん)、ナニャドナサレノ(お前に毛人を掃討し)、ナニャドラヤー(お前に聖名を誉め讃えん)と訳せるそうだ。
紀元前六百八十六年頃に流浪の民となって世界に散らばったヘブライ(ユダヤ)人が、「古代この地に来た」と言う事は否定できない。
日本列島から遠く離れたヘブライ(ユダヤ)発祥の地(現イスライル)を思えば、この話しはにわかに信じ難いかも知れない。
だが、流浪の民がユーラシア大陸を東方へ伝い彷徨(さまよ)い、渡海して日本列島に渡って来ても不思議は無い。
何故ならその痕跡はこの新郷村に止まらないからで、事実「ナニャドヤラ」の踊りは下北半島でも踊られている。

紀元前の日本古代史の中に渡来ヘブライ(ユダヤ)人の失われた歴史が在り、日本の古代信仰にその影響を残したのではないだろうか?

粛慎系の靺鞨や勿吉とともに夫余もツングース系であるとされ ており[4]、日本では比較的 .... 勿論、ユダ族に限定する必要はなく、ユダ族とベニヤミン 族で構成される「イスラエル2支族」のユダヤ人だと言えるだろう。
神が主であるのなら主に従え、バアルが神ならバアルについて行け」。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/2350

粛慎(みしはせ)の容貌は「なまはげ」そのもの である。 ツングース族の粛慎は .... ペルシャ人に似ていて、そうではない民族とは、 ローマによって滅ぼされたユダヤ人もいたのかも。 古代中国人は、四方の ...
「天孫族の東国制覇はクナトノ神の先導によってなされた。」
とも照らし合わせて考えてみますと、『蝦夷征伐』とは即ち、「蝦夷人」とされていた「旧渤海国辺りから渡来した民族=シウカラ族の末裔」を「富氏のご先祖様である、出雲神族系」の人達が「討伐した」って事になるのですが…(OO;)
…もう、頭の中は「何がなんやら」状態ですわ…orzhttp://tsukioto2011.blog65.fc2.com/
『岩手県の由来』
盛岡市三ツ割の東顕寺に注連縄が張られた三つの大石がある。岩手山が噴火した時に飛んできた石で、「三ツ石様」と呼ばれて人々の信仰を集めていた。
「岩手」の地名が文献に現われた最古のものとしては、11世紀前後の奥州安倍氏の治世下、その勢力圏であった、現在の岩手県奥州市から盛岡市に掛けての地域、胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の「奥六郡(おくろくぐん)」の統治権を朝廷から公認されて、「六箇郡の司」に任じられた時代に遡るようである。

いわ)(Rock). ヘブライ語で書き記された聖書では,岩もしくは1個の大きな岩(ツール) と大岩(セラ)は区別されています。聖書の中ではこれらの語は両方共,字義通りの意味 でも,比喩的な意味でも使われています。 http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200003751
イザヤ 8章14節では,キリスト・イエスのことが「イスラエルの二つの家」がつまずいた「岩」として暗に示されています。―マタ 21:42‐44と比較。

「岩が 屏風(ビョウブ)」と始まりますが、まず、この言葉にユダヤルーツを見出すことができます 。ヘブライ語には「一緒」を意味する、ビャッ(ド) (be-yakhad)という言葉があります。 http://www.naritacity.com/journal/japan/journal_japan_071115.asp
イスラエル人にとって、「岩」は、神の救いの象徴です。聖書には「救いの岩」と言う表現が使われている通り、特に後世のキリスト信仰者にとっても「岩」は、神の救いのシンボルです。そこで大陸では全く別の発音を持つ「岩」という漢字がなぜ、日本では「イワ」と発音するようになったのか、考察してみました。まず、ヘブライ系ユダヤ人のことをアラム語では「イワラ」(iwaraa)、またヘブライ語ではydwhy(yehoodee、イフディ)、または「イワデ」と呼び、原語には「神の民」という意味が込められていることに注目です。これらの呼び名の共通点は「イワ」という発音です、岩との関連性があるのではないでしょうか。そしてヘブライ語では「イワ」という言葉の語源が「神」なのです。
神は、人間が呼び名で語れない程神聖なお方であるということから、ヘブライ語では発音することができない4文字の子音、hwhy (yhwh)から成り立っています。しかし発音できないと不便なことから、イスラエル人はあえて、YHWHにアとエの母音をつけて、当て字ながらも「ヤーウェー」と神の名を呼ぶ様になりました。同様に、日本でもYHWHという神を意味する言葉を日本流に発音するため、イとアの母音を足して、「イーワー」としたのではないでしょうか。そして神の象徴は「岩」ですから、その漢字の発音が「iwa」となったのです。つまり「イワ」とは、人間が発音できないヘブライ語の「神」、YHWH を語源とした、「神」の呼び名だったのです。


1926荊の紀氏:2014/01/25(土) 18:28:08
日本中央」と刻んだ石文 蝦夷
「シオン修道会の総長ジャック・ソニエールをはじめ3人の参事が命をかけて守り通した秘密とは一体何でしょうか。 http://electronic-journal.seesaa.net/article/21525263.html
シオン修道会の4人の幹部が死ぬ間際に口を揃えていったことば――「サン・シュルピス教会のローズラインにある」を確かめるためです。
ローズライン――北極と南極を結ぶ想像上の線のことで、子午線あるいは経線のことです。これは無数に引くことができるのですが、昔の航海者はそれらの線のどれを真のローズライン、つまり、経度ゼロの線とするかを決める必要があったのです。
 現在、その線は英国のグリニッジにあり、世界共通になっています。
しかし、それまでは、フランスの子午線が世界初であり、多くの国がそれを使っていたのです。
パリの街路などには135個の青銅のメタルが埋め込まれており、これを結ぶと世界初の子午線――フランスの本初子午線になるのですが、それはサン・シュルピス教会を通っているのです。
シラスは、ローズラインの端にある巨大なオベリスクの下の床の部分を鉄棒で壊します。
そうすると、下は空洞になっていて、そこには古い石板があり、その石板の表面には次の文字が刻まれていたのです。

ヨブ記38章11節」とは何か『ここまで来てもよい、越えてはならぬ、/おまえの高波は ここにとどまるのだ』。

「これ以上の詮索はやめなさい。
  必要以上に知りたいと思う心を自制しなさい」と自分を諭したように思えたので屈辱と絶望と怒りから、突発的にシスターを殺してしまったのである。

サン・シュルピス教会の中にある 日時計(ローズライン)に秘密を解く鍵が隠されていると記されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ダ・ヴィンチ・コード
フィクションであるにもかかわらず、冒頭に実在の組織名を挙げ、「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」と述べているために、扱われている内容の真偽について議論が起きた。例えば、冒頭に登場するオプス・デイは実在する組織であるが、「秘密結社」のシオン修道会やその「秘密儀式」は想像上のものである[3]。とりわけキリスト教、とくにカトリック教会の教義に深く関わる部分は大きな反響を巻き起こし、2006年3月には米国カトリック司教会議(USCCB)が、教義について反論するウェブサイト[4]を開設している。作品内でドラクロワの壁画で知られるカトリックの教会、サン・シュルピス教会の中にある日時計(ローズライン)に秘密を解く鍵が隠されていると記されている。これを鵜呑みにしたメディアが押し寄せた為、教会側は入り口に「日時計はローズラインと呼ばれた事もなければ、異教徒の陣の名残でもない」という張り紙を張った。サン・シュルピス教会は観光名所ということもあり、書かれている文字は何ヶ国語かに訳されている[5]。

シオン修道会は、1099年に設立されたヨーロッパの秘密結社であり、実在する組織である。1975年、パリの国立図書館が『秘密文書』として知られる資料を発見し、シオン修道会の会員多数の名が明らかになった。そこには、サー・アイザック・ニュートン、ボッティチェルリ、ヴィクトル・ユゴー、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチらの名前が含まれている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/シオン修道会

第一次十字軍(1096年〜1099年)に従軍した騎士たちが、聖地エルサレムに残る古代ユダヤの宗教遺跡・ソロモン王の神殿(テンプル)内にて秘宝を発見し、それをヨーロッパに持ち帰って“テンプル騎士団”を結成した、ということになっている。
 実際には、ソロモン王のテンプルは十字軍よりはるか一千年も昔の帝政ローマ時代にローマ軍によって破壊されている。テンプルの“跡地”に騎士たちが屯所を置いたので「テンプル騎士団」の名が付いたにすぎない。 http://www.thecinema.jp/treasure/words/
 また、劇中では、(やがて弾圧を受け滅んでいく)騎士団の残党が後に「フリーメイソン」を結成した、ともされているが、これらは本作オリジナルの設定ではなく、昔から存在する伝説に基づいている。

東京タワーの下にある「東京メソニック協会」は、フリーメイソンを母体とした公益法人である。

東京タワーから見下ろせる芝公園の中に、5世紀後半築造と考え られている前方後円墳「丸山古墳」があ る。

その30kmの長さに達するラインを底辺として、北は三内丸山遺跡を頂点とする 直角三角形が現われ、南は岩手県の姫神山を頂点とする相似形の三角形が ... 東北の 太古に遡る歴史を秘めたこのレイラインには、いったい何が秘められているのか?
東北各地には、 縄文時代の祭祀遺跡とされるストーンサークル(環状列石)や人工のピラミッドさ噂される山が数多くある。その中でも有名な秋田県鹿角の大湯環状列石から近くに聳える黒又山を結び、そのラインを延長すると、青森県新郷村の大石神ピラミッドに突き当たる。 http://www.ley-line.net/tohoku_ooyu/ooyu_top.html

黒又山をとりまくもの、十和田神社の秘密  http://www.ley-line.net/tohoku_ooyu/ooyu_04.html
9世紀初頭に桓武天皇から蝦夷征伐を命じられた坂上田村麻呂は、北へと侵攻しながら、東北各地に拠点を築いていく。十和田神社はその一つで、ここで最終的な戦勝を祈願したという。桓武天皇といえば、「伊勢・元伊勢ライン」でも触れたように、風水や陰陽道についての造詣が深く、平安京に代表されるように、風水や呪術を駆使して都市計画や戦略を立てる人物だった。その桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂も風水や陰陽道の専門家と考えても不自然ではない。
十和田湖は、大湯ストーンサークル−黒又山−大石神ピラミッド−三内丸山遺跡という縄文に遡る遺跡を結んだ直角三角形のちょうど真中に位置している。さらにその要ともいえる部分に、坂上田村麻呂は戦勝祈願の神社を創建した。それは、土地を守る結界であった太古のレイラインに楔を打ち込むことで無力化してしまったようにも見える。ちなみに、今年の東北は、坂上田村麻呂に最後まで対抗した東北蝦夷の指導者「アテルイ」没後1200年を記念する催しがあちこちで行われていた。案外、アテルイが破れた最大の原因は、坂上田村麻呂との呪術合戦に破れたところにあるのかもしれない。

三内丸山遺跡を起点に大規模なスートンサークルを繋いで南西に大湯 ストーンサークルまで辿り、大湯から北東へ黒又山、 上大石神ピラミッドを結ぶラインを 辿った。さらに、上大石神から三内丸山へラインを引いてみる。 http://obtweb.typepad.jp/obt/2010/02/leyline.html
東北における巨石信仰の源流とは何だろう。
縄文から続く原始信仰が蝦夷に伝わり、蝦夷は民族神としてアラハバキを信仰した。アラハバキ神は巨石に降臨する。鉱山の神、 産鉄神でもあり、それは後に出雲の信仰にも通じていく。ストーンサークルや大石神ピラミッドに見られる巨石遺構などは、 そんなアラハバキ信仰の源流ともいえるだろう。
アラハバキ神が巨石に降り立つイメージは、そのまま神道にも取り入れられて今に続いている。神が降り立つ特別な岩、それを神道では 「磐座(いわくら)」と呼び、磐座そのものが御神体とされているケースも多い。

方位角50度を示すこのラインを万座ストーンサークルの西側に立って、その中心にある立石と黒又山の頂上が並ぶように仰ぎ見る。 するとその先、遙か彼方にかすんだ山並みが描くスカイラインが重なっているのがわかる。このスカイラインの一角が、 まさに上大石神ピラミッドなのだ。これは、この仰角のついた直線の先に位置する星座を指すのではないだろうか。
エジプトのギザピラミッド群を研究したグラハム・ハンコックは、 ピラミッド群の配置が紀元前1万500年前のオリオン座の形を映すもので、 そのときの春分の日の夜明けにオリオン座が正確に南中することを確かめた。同様に、黒又山とこれを軸にしたレイラインは、 ある時代の特定の星座を指し示しているのかもしれない。

オーストラリアのアボリジナルは、聖地を結んで全土に網の目のように広がる「ソングライン」 という精神的ネットワークをイメージしていた。聖地と聖地を結ぶ一本のラインには、それぞれ固有の歌があてはまる。 歌にはライン上の地形や土地の資源などが織り込まれていて、初めて訪ねた土地でも、その歌さえ知っていれば、無事に旅を続けられた。 このソングラインが道路や鉄道の建設によって寸断されてしまうと、聖地は力を失い、土地そのものが死んでしまう。アボリジナルは、 長年受け継がれてきた精神遺産であるソングラインをずたずたにされて、まさに生きる屍となってしまった。
アボリジナルと同様に、蝦夷たちも聖地を結ぶネットワークを持っていた。それが、三内丸山をハブとするレイラインであり、 大湯-黒又山-上大石神ラインだったのだろう。蝦夷が東北に築き上げたソングライン同様のネットワークがうまく機能していれば、 大地は健康であり、大地と不可分である自分たちも健康であり続けられる。蝦夷は、そんな風に考えていたのかもしれない。
田村麻呂はそんな蝦夷の精神世界を逆手に取った。

坂上田村麻呂はただちに武力攻撃でアテルイ軍を攻略せよという朝廷の命令を当初無視して、まったく異なる方法をとる。それが、 蝦夷最大の聖地に対する霊的攻撃ともいえる十和田神社の創建だった。
大湯ストーンサークルから十和田神社は方位角22度45分の方向になる。このラインを十和田神社を超えてそのまま伸ばしていくと、 下北半島のつけ根で「石文」という地名の場所に行き当たる。ここでは「日本中央の碑」が出土している。
「日本中央の碑」は「壺の碑(つぼのいしぶみ)」として古くから和歌に詠まれてきたもので、 長く伝説上の架空の存在であると信じられてきた。

石文とは、今でも北東北に残る風習で、小石あるいは大型の置石に自分の意志や願いを込め、それを神殿や道祖神、 あるいは祭壇に当たる場所に置くというものだ。坂上田村麻呂がこの場所まで進軍したという記録はないが、 坂上田村麻呂に代わる者がこの石を置いたとすれば、ここに記された「日本中央」の文字は、「日本中央=朝廷がこの地の支配者である」 というメッセージであり、蝦夷の聖地に対する呪いであっただろう。
長い間、壺の碑は、千人の人間が引いて東北町にある千曳神社の地下に埋めたとされ、明治9年に明治天皇が北東北を巡幸した際に、 千曳神社の境内の発掘を命じたが、結局、発見されなかった。

千曳神社の場所も大湯と十和田湖という蝦夷の一大聖地を結んだライン上にあるという点に注目したい。
坂上田村麻呂は、まずは北東北の聖地の中でももっとも重要だった十和田湖に十和田神社という楔を打ち込んだ。 さらに蝦夷の領域の奥深く、十和田神社とも関係するラインの末端に「日本中央碑」という楔を打ち込んだ。

蝦夷のしたたかさは、太古から縄文そして中世へと脈々と受け継がれてきた巨石信仰=アラハバキ信仰に由来するのかもしれない。 巨石信仰と結びつくアラハバキは天空神であり漂泊神である。天の力と大地の力の両方に通じた神であり、巨石遺構の場所に降臨し、 レイラインを伝わって移動していく。そして、アテルイにアラハバキが憑依して絶大な指導力と運を手にしたように、 ある瞬間にその場にいる人間にとてつもない力をもたらす。たしかに坂上田村麻呂によって一つの重要なレイラインは封じられたが、 北東北の巨石信仰レイラインのチャンネルはそれだけではなかった。

大石神ピラミッドと三内丸山を結ぶレイラインをそのまま北西へ伸ばしていくと、まさに「外東日流外三郡誌」 に登場する聖地や大規模な巨石遺構がそこに並んでいるのが見て取れる。これは、坂上田村麻呂が封じたレイラインのまだその先に、 もしかしたら大陸につながっていく、さらに強力なレイラインが存在し、 それが後の藤原王朝の繁栄をもたらしたことを物語っているのではないだろうか。

押し寄せた潮が一気に引くように、忽然と姿をくらましてしまうかのように見える蝦夷。じつは、 彼らにとって北東北は自らの文明の中心ではなく、南に伸びた前衛の一部で、その本拠は遠く大陸に存在するのかもしれない。だとしたら、 世界のほかの地域の巨石文明ともその先で繋がっていたに違いない。

アテルイ= あたる人 (ヤマトに立ち向かった人)= アバと呼ばれた人=ユダヤ人の子孫 。 .

七つ森は出羽三山の子供たちで、支配星の北斗七星に言われるままに韓国の白頭山にエネルギーを与えていましたが、イシキは大元に帰っていなくなりました。 http://sorakaranojyouhou.at.webry.info/201301/article_16.html


1927荊の紀氏:2014/01/25(土) 18:44:58
Re: 日本中央」と刻んだ石文 蝦夷
楔が打ち込まれている。
兵主神社のイメージとして、 荒神谷遺跡と南西の加茂岩倉遺跡との真ん中に天日槍集団の楔が打ち込まれている。
荒神谷遺跡周辺の建御名方を祀る神社配置 http://kamnavi.jp/log/koujinvry.htm
この事は大国主系の銅剣や銅鐸を祭器とする機能は停止させられた「事件の現場」の一つとなろう、と書かれています。
 また、大和の三輪の大神神社と大和神社との間に二つの兵主神社が鎮座し、一つは大兵主神社を冠している所から、天日槍集団に始まる天的宗儀が定着した記憶すべき場所であったためによるものと思われる。神社配置からこのような問題意識を提起されています。
 氏は建御名方を祀る神社の点在については触れていませんが、それにしても、実に触発される次第です。

十和田湖に十和田神社という楔を打ち込んだ。 http://obtweb.typepad.jp/obt/2010/02/leyline.html


> 「シオン修道会の総長ジャック・ソニエールをはじめ3人の参事が命をかけて守り通した秘密とは一体何でしょうか。 http://electronic-journal.seesaa.net/article/21525263.html
> シオン修道会の4人の幹部が死ぬ間際に口を揃えていったことば――「サン・シュルピス教会のローズラインにある」を確かめるためです。
> ローズライン――北極と南極を結ぶ想像上の線のことで、子午線あるいは経線のことです。これは無数に引くことができるのですが、昔の航海者はそれらの線のどれを真のローズライン、つまり、経度ゼロの線とするかを決める必要があったのです。
>  現在、その線は英国のグリニッジにあり、世界共通になっています。
> しかし、それまでは、フランスの子午線が世界初であり、多くの国がそれを使っていたのです。
> パリの街路などには135個の青銅のメタルが埋め込まれており、これを結ぶと世界初の子午線――フランスの本初子午線になるのですが、それはサン・シュルピス教会を通っているのです。
> シラスは、ローズラインの端にある巨大なオベリスクの下の床の部分を鉄棒で壊します。
> そうすると、下は空洞になっていて、そこには古い石板があり、その石板の表面には次の文字が刻まれていたのです。
>
> ヨブ記38章11節」とは何か『ここまで来てもよい、越えてはならぬ、/おまえの高波は ここにとどまるのだ』。
>
> 「これ以上の詮索はやめなさい。
>   必要以上に知りたいと思う心を自制しなさい」と自分を諭したように思えたので屈辱と絶望と怒りから、突発的にシスターを殺してしまったのである。
>
> サン・シュルピス教会の中にある 日時計(ローズライン)に秘密を解く鍵が隠されていると記されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ダ・ヴィンチ・コード
> フィクションであるにもかかわらず、冒頭に実在の組織名を挙げ、「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」と述べているために、扱われている内容の真偽について議論が起きた。例えば、冒頭に登場するオプス・デイは実在する組織であるが、「秘密結社」のシオン修道会やその「秘密儀式」は想像上のものである[3]。とりわけキリスト教、とくにカトリック教会の教義に深く関わる部分は大きな反響を巻き起こし、2006年3月には米国カトリック司教会議(USCCB)が、教義について反論するウェブサイト[4]を開設している。作品内でドラクロワの壁画で知られるカトリックの教会、サン・シュルピス教会の中にある日時計(ローズライン)に秘密を解く鍵が隠されていると記されている。これを鵜呑みにしたメディアが押し寄せた為、教会側は入り口に「日時計はローズラインと呼ばれた事もなければ、異教徒の陣の名残でもない」という張り紙を張った。サン・シュルピス教会は観光名所ということもあり、書かれている文字は何ヶ国語かに訳されている[5]。
>
> シオン修道会は、1099年に設立されたヨーロッパの秘密結社であり、実在する組織である。1975年、パリの国立図書館が『秘密文書』として知られる資料を発見し、シオン修道会の会員多数の名が明らかになった。そこには、サー・アイザック・ニュートン、ボッティチェルリ、ヴィクトル・ユゴー、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチらの名前が含まれている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/シオン修道会
>
> 第一次十字軍(1096年〜1099年)に従軍した騎士たちが、聖地エルサレムに残る古代ユダヤの宗教遺跡・ソロモン王の神殿(テンプル)内にて秘宝を発見し、それをヨーロッパに持ち帰って“テンプル騎士団”を結成した、ということになっている。
>  実際には、ソロモン王のテンプルは十字軍よりはるか一千年も昔の帝政ローマ時代にローマ軍によって破壊されている。テンプルの“跡地”に騎士たちが屯所を置いたので「テンプル騎士団」の名が付いたにすぎない。 http://www.thecinema.jp/treasure/words/
>  また、劇中では、(やがて弾圧を受け滅んでいく)騎士団の残党が後に「フリーメイソン」を結成した、ともされているが、これらは本作オリジナルの設定ではなく、昔から存在する伝説に基づいている。
>
> 東京タワーの下にある「東京メソニック協会」は、フリーメイソンを母体とした公益法人である。
>
> 東京タワーから見下ろせる芝公園の中に、5世紀後半築造と考え られている前方後円墳「丸山古墳」があ る。
>
> その30kmの長さに達するラインを底辺として、北は三内丸山遺跡を頂点とする 直角三角形が現われ、南は岩手県の姫神山を頂点とする相似形の三角形が ... 東北の 太古に遡る歴史を秘めたこのレイラインには、いったい何が秘められているのか?
> 東北各地には、 縄文時代の祭祀遺跡とされるストーンサークル(環状列石)や人工のピラミッドさ噂される山が数多くある。その中でも有名な秋田県鹿角の大湯環状列石から近くに聳える黒又山を結び、そのラインを延長すると、青森県新郷村の大石神ピラミッドに突き当たる。 http://www.ley-line.net/tohoku_ooyu/ooyu_top.html
>
> 黒又山をとりまくもの、十和田神社の秘密  http://www.ley-line.net/tohoku_ooyu/ooyu_04.html
> 9世紀初頭に桓武天皇から蝦夷征伐を命じられた坂上田村麻呂は、北へと侵攻しながら、東北各地に拠点を築いていく。十和田神社はその一つで、ここで最終的な戦勝を祈願したという。桓武天皇といえば、「伊勢・元伊勢ライン」でも触れたように、風水や陰陽道についての造詣が深く、平安京に代表されるように、風水や呪術を駆使して都市計画や戦略を立てる人物だった。その桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂も風水や陰陽道の専門家と考えても不自然ではない。
> 十和田湖は、大湯ストーンサークル−黒又山−大石神ピラミッド−三内丸山遺跡という縄文に遡る遺跡を結んだ直角三角形のちょうど真中に位置している。さらにその要ともいえる部分に、坂上田村麻呂は戦勝祈願の神社を創建した。それは、土地を守る結界であった太古のレイラインに楔を打ち込むことで無力化してしまったようにも見える。ちなみに、今年の東北は、坂上田村麻呂に最後まで対抗した東北蝦夷の指導者「アテルイ」没後1200年を記念する催しがあちこちで行われていた。案外、アテルイが破れた最大の原因は、坂上田村麻呂との呪術合戦に破れたところにあるのかもしれない。
>
> 三内丸山遺跡を起点に大規模なスートンサークルを繋いで南西に大湯 ストーンサークルまで辿り、大湯から北東へ黒又山、 上大石神ピラミッドを結ぶラインを 辿った。さらに、上大石神から三内丸山へラインを引いてみる。 http://obtweb.typepad.jp/obt/2010/02/leyline.html
> 東北における巨石信仰の源流とは何だろう。
> 縄文から続く原始信仰が蝦夷に伝わり、蝦夷は民族神としてアラハバキを信仰した。アラハバキ神は巨石に降臨する。鉱山の神、 産鉄神でもあり、それは後に出雲の信仰にも通じていく。ストーンサークルや大石神ピラミッドに見られる巨石遺構などは、 そんなアラハバキ信仰の源流ともいえるだろう。
> アラハバキ神が巨石に降り立つイメージは、そのまま神道にも取り入れられて今に続いている。神が降り立つ特別な岩、それを神道では 「磐座(いわくら)」と呼び、磐座そのものが御神体とされているケースも多い。
>
> 方位角50度を示すこのラインを万座ストーンサークルの西側に立って、その中心にある立石と黒又山の頂上が並ぶように仰ぎ見る。 するとその先、遙か彼方にかすんだ山並みが描くスカイラインが重なっているのがわかる。このスカイラインの一角が、 まさに上大石神ピラミッドなのだ。これは、この仰角のついた直線の先に位置する星座を指すのではないだろうか。
> エジプトのギザピラミッド群を研究したグラハム・ハンコックは、 ピラミッド群の配置が紀元前1万500年前のオリオン座の形を映すもので、 そのときの春分の日の夜明けにオリオン座が正確に南中することを確かめた。同様に、黒又山とこれを軸にしたレイラインは、 ある時代の特定の星座を指し示しているのかもしれない。
>
> オーストラリアのアボリジナルは、聖地を結んで全土に網の目のように広がる「ソングライン」 という精神的ネットワークをイメージしていた。聖地と聖地を結ぶ一本のラインには、それぞれ固有の歌があてはまる。 歌にはライン上の地形や土地の資源などが織り込まれていて、初めて訪ねた土地でも、その歌さえ知っていれば、無事に旅を続けられた。 このソングラインが道路や鉄道の建設によって寸断されてしまうと、聖地は力を失い、土地そのものが死んでしまう。アボリジナルは、 長年受け継がれてきた精神遺産であるソングラインをずたずたにされて、まさに生きる屍となってしまった。
> アボリジナルと同様に、蝦夷たちも聖地を結ぶネットワークを持っていた。それが、三内丸山をハブとするレイラインであり、 大湯-黒又山-上大石神ラインだったのだろう。蝦夷が東北に築き上げたソングライン同様のネットワークがうまく機能していれば、 大地は健康であり、大地と不可分である自分たちも健康であり続けられる。蝦夷は、そんな風に考えていたのかもしれない。
> 田村麻呂はそんな蝦夷の精神世界を逆手に取った。
>
> 坂上田村麻呂はただちに武力攻撃でアテルイ軍を攻略せよという朝廷の命令を当初無視して、まったく異なる方法をとる。それが、 蝦夷最大の聖地に対する霊的攻撃ともいえる十和田神社の創建だった。
> 大湯ストーンサークルから十和田神社は方位角22度45分の方向になる。このラインを十和田神社を超えてそのまま伸ばしていくと、 下北半島のつけ根で「石文」という地名の場所に行き当たる。ここでは「日本中央の碑」が出土している。
> 「日本中央の碑」は「壺の碑(つぼのいしぶみ)」として古くから和歌に詠まれてきたもので、 長く伝説上の架空の存在であると信じられてきた。
>
> 石文とは、今でも北東北に残る風習で、小石あるいは大型の置石に自分の意志や願いを込め、それを神殿や道祖神、 あるいは祭壇に当たる場所に置くというものだ。坂上田村麻呂がこの場所まで進軍したという記録はないが、 坂上田村麻呂に代わる者がこの石を置いたとすれば、ここに記された「日本中央」の文字は、「日本中央=朝廷がこの地の支配者である」 というメッセージであり、蝦夷の聖地に対する呪いであっただろう。
> 長い間、壺の碑は、千人の人間が引いて東北町にある千曳神社の地下に埋めたとされ、明治9年に明治天皇が北東北を巡幸した際に、 千曳神社の境内の発掘を命じたが、結局、発見されなかった。
>
> 千曳神社の場所も大湯と十和田湖という蝦夷の一大聖地を結んだライン上にあるという点に注目したい。
> 坂上田村麻呂は、まずは北東北の聖地の中でももっとも重要だった十和田湖に十和田神社という楔を打ち込んだ。 さらに蝦夷の領域の奥深く、十和田神社とも関係するラインの末端に「日本中央碑」という楔を打ち込んだ。
>
> 蝦夷のしたたかさは、太古から縄文そして中世へと脈々と受け継がれてきた巨石信仰=アラハバキ信仰に由来するのかもしれない。 巨石信仰と結びつくアラハバキは天空神であり漂泊神である。天の力と大地の力の両方に通じた神であり、巨石遺構の場所に降臨し、 レイラインを伝わって移動していく。そして、アテルイにアラハバキが憑依して絶大な指導力と運を手にしたように、 ある瞬間にその場にいる人間にとてつもない力をもたらす。たしかに坂上田村麻呂によって一つの重要なレイラインは封じられたが、 北東北の巨石信仰レイラインのチャンネルはそれだけではなかった。
>
> 大石神ピラミッドと三内丸山を結ぶレイラインをそのまま北西へ伸ばしていくと、まさに「外東日流外三郡誌」 に登場する聖地や大規模な巨石遺構がそこに並んでいるのが見て取れる。これは、坂上田村麻呂が封じたレイラインのまだその先に、 もしかしたら大陸につながっていく、さらに強力なレイラインが存在し、 それが後の藤原王朝の繁栄をもたらしたことを物語っているのではないだろうか。
>
> 押し寄せた潮が一気に引くように、忽然と姿をくらましてしまうかのように見える蝦夷。じつは、 彼らにとって北東北は自らの文明の中心ではなく、南に伸びた前衛の一部で、その本拠は遠く大陸に存在するのかもしれない。だとしたら、 世界のほかの地域の巨石文明ともその先で繋がっていたに違いない。
>
> アテルイ= あたる人 (ヤマトに立ち向かった人)= アバと呼ばれた人=ユダヤ人の子孫 。 .
>
> 七つ森は出羽三山の子供たちで、支配星の北斗七星に言われるままに韓国の白頭山にエネルギーを与えていましたが、イシキは大元に帰っていなくなりました。 http://sorakaranojyouhou.at.webry.info/201301/article_16.html
>

1928荊の紀氏:2014/01/25(土) 20:21:51
碧骨堤 羊太夫 秦氏 アモン人?
羊太夫にゆかりのある神保氏や惟宗氏は、まぎれもない秦氏であることが歴史学 的に証明されている。 もっといえば、太夫 ..... 菅原道真も、怨霊と化したとき、清涼殿に 雷を落としたことがきっかけで、天神様と呼ばれるようになったのだ。 http://www.shundaichi.com/2003-3785739173etc.html
 ユダヤ人はユダヤ暦でいう年越しと新年にかけて「過ぎ越しの祭り」を行う。このとき、彼らはマツォを食べるのだ。これは
三宅氏の祖先で、ルーツを辿ると古代朝鮮の新羅の王子、天之日矛に遡る。
天之日矛を秦氏集団の象徴だと主張した。つまり、タジマモリは秦氏であり、ユダヤ人原始キリスト教徒 の末裔なのだ。彼がカッバーラを知っていた可能性は高い。

大規模貯水池だった史蹟 11号碧骨堤は 1千500余年の前にあっ たと記録されている”
碧骨堤(ピョッコルチェ)は韓国最大かつ最古の貯水池で、330年(百済11代比流王27年)に建設されました。碧骨堤のある全羅北道(チョルラプット)金堤市(キムジェシ)は韓国で最も広い万頃平野(マンギョンピョンヤ)を抱えており、古代から現代にいたるまで穀倉地帯で知られた土地です。 http://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=4263
330年(百済11代比流王27年)に高さ3〜4メートル、全長約3キロの堤防を築き作られた貯水池、碧骨堤の歴史や構造を紹介しています。農耕社会において治水が何よりも重要であり、国家を維持する基盤と言っても過言ではなく、堤防を積み上げるのに32万人が動員されたと言われています。その後も790年(統一新羅)、1415年(朝鮮時代)にも大規模な修築が行われています。その規模の大きさは、朝鮮時代の修築の際、全国から集められた人夫が碧骨堤に到着し、草鞋についた土をはらった場所が山となったところが、現在の草鞋山(チョヘサン)であるという言い伝えから伺い知ることができます。碧骨堤の維持・修築がどれほど巨大な国家規模の事業であったかを推し量ることができます。1420年に暴風のため流失、1925年の日本支配期には灌漑用水路として改造したため破損、現在に至っています。
世界遺産登録を目指す金堤第一の史跡
金堤という地名は黄金色に染まる田を表す「金」と農業用の貯水池を意味する「堤」つまり、碧骨堤に由来しているそうです。その金堤を代表する史跡「碧骨堤」は、世界遺産登録を目指して、現在、工法に共通点があり、築造年代も近い大阪府狭山市にある狭山池と共同で活動中です。そのため日本の研究者も頻繁に訪れているとのこと。日本とのつながりも深い「碧骨堤」、韓国の穀倉地帯を支えた先人の業績を振り返ってみてはいかがでしょうか。 http://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=4263

狭山池(さやまいけ)とは、大阪府大阪狭山市大字岩室にある日本最古のダム式ため池 である。 7世紀前半に築造されたとされ、『古事記』・『日本書紀』にもその名が記されて いる。 http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-snvaio&amp;p=狭山池&ei=UTF-8

狭山池は、長い歴史の中で幾度も改修が繰り返されてきました。奈良時代の行基( ぎょうき)や鎌倉時代の重源(ちょうげん)、安土桃山時代の片桐且元(かたぎり・かつも と)など、歴史上著名な人物が数多く池の改修にかかわってきました http://www.city.osakasayama.osaka.jp/10,602,31,235.html
東樋では時代の異なる遺構が上下2層から見つかりました。下層から見つかったものは狭山池が築造された当初に設置された古代の樋で、使われている木材の年代測定の結果、西暦616年ごろに伐採されたものであることもわかりました。それは狭山池が築造された時期を示すもので、それまで狭山池がつくられた時代はなぞだっただけに、池の歴史を解き明かす大発見になりました。

狭山池の築造− 狭山池とは、大阪の南部、現在の大阪狭山市( おおさかさやまし)の中央北寄りにある、古代 ..... 筑紫国造が成立したのは6世紀の後半 ともみられているが、5世紀後半にはすでに肥・豊(肥前・肥後・豊前・豊後) にまたがる 一 ...
さやま
『毒』を意味する“sam”
サマエルは聖書偽典「ギリシア語バルク黙示録」などで言及される天使で、その名は ヘブライ語で『毒』を意味する“sam”が語源とされる。 ... 彼女はサマンの原型を「アーリア 人の死の神サマナ(サーマ)」としているが、この神についての一次出典は不明。 http://dic.pixiv.net/a/サマエル

サマエルについて. ヘブライ語の「毒(sam)」に由来するサマエルは、ユダヤ教において サタンと同一視されている天使。 アジアの恐怖の神、サマナがその前身であるとも考え られています。 http://tokag.com/std/sama.html
ユダヤ教の伝承では蛇と密接に結びついた敵対者、誘惑者として描かれ、イヴを直接誘惑 するのではなく、そうするように蛇を唆したとも言われています。
大洪水が地上を一掃した後、大地再生に着手したノアは、エデンから投げ捨てられていた葡萄の蔓を見つけ、 天使サラエルを通して神の許可を得、地上に植える。葡萄の苦さは葡萄酒となることで、甘さに変わり、 呪いは祝福と変わった。
 ローマ・カトリック教会と東方キリスト教会において、葡萄酒はイエス・キリストの血そのものと考えられています。 しかし、『バルク黙示録』ではサマエルとアダムの罪から生じたもので、これを通して善いものを打ち立てる ことはできないと強調されているので、これは執筆当時における飲酒の習慣に対する著者の警告だといいます。
カバラの秘儀において、魂を形成する三つのパーツ、 ネシャマー、ルアク、ネフェシュは組み合わせ次第で善なる天使ミカエルにも、悪の理念を体現するサマエルにもなる。 人間は善の業(カルマ)と悪の業を併せ持った存在です。
蛇を唆した
イブを唆した蛇とは何か. こ世界を、地球を作ったのは、おそらくは 神であろう。神とは詰まる所、簡単に言うと宇宙人であろう。 現世のことを取り扱うことを 主としている http://haetarou.web.fc2.com/Heisei25/Reptalian/Kaisetu1.html
良い宇宙人がエデンの園を作り、そこにアダムとイブに与えた。そこはこの世の楽園であった。食べ物にも飲み物にも不自由しない。と聖書にはある(上の絵)。
一方で悪い宇宙人もいた。その良い宇宙人に敵対する勢力である。
 彼らは、爬虫類のような形状をしているのかもしれない。

魚と蛇 - 阿修羅 http://www.asyura2.com/sora/bd19992/msg/153.html
中国において、庖犠と女カの2人は絡み合う2人の蛇身像として画かれているが、同じ画 柄が古代エジプトでナルメル王のパレット、インドでナーガ神として伝わっている。 ... ( 中略)この言葉は、ヘブライ語の鉱物の銅を表すネボシェットと同じ語源から派生して いる。 http://www.asyura2.com/sora/bd19992/msg/153.html
ペリシテ人の崇拝する魚神として登場している。
ダゴンは魚神であるが、農耕を司る神として信仰を集めていた。
現存する『バビロニア史』の原典に、ペリシテ人の信仰に関する記述はないが、歴史家アポロドロスが保存していた『ベロッソス』の断章には「魚と人間が合体した姿のオダコン(ODACON)がエリュトラ海(現在の紅海・ペルシア湾・インド洋の総称)から現れた」という記述が見える。
恐らく、聖書のダゴン(DAGON)は「オダコン」から転訛したものであろう。
…魚の尻尾を持つオアンネスの図(古代バビロニア期)。右図の星と目は「オシリス」を表すエジプトの象形文字である。(P263 図I)
 カズキョイのイシス像。下の写真では、イシスは夫のセラピス(後にオシリスとなった)と魚の尾を絡み合わせている。(口絵写真24)
…祭神エンキには魚が奉納された。(『中国神話ルーツの謎』p34 7-1 エリドゥ神殿の平面図)
 テイ人国は建木の西にあり、その人となり、人面で魚の身、足がない 『山海経』(同書冒頭)

中国において、庖犠と女カの2人は絡み合う2人の蛇身像として画かれているが、同じ画柄が古代エジプトでナルメル王のパレット、インドでナーガ神として伝わっている。
 ところが(1)(2)(3)と同じ神話がバビロンに“魚人オアンネス”として伝わっているのである。(中略)

 伏羲は「天の梯子」によって天と地を自由に行き来していたというが、これは正に伏羲が「天より地に降りきたるもの(アヌンナキ)」である事を示しているのではないか。(中略)
高名な生物学者としてのエンキの紋章は、絡み合 っている蛇である。(
中略)シュメールでの別名ブズルには、2つの意味がある。1つは「秘密を明かす神」、もう1つは「鉱山の神」という意味である。
鉱山学の知識は、地球の秘密、その深部の秘密だと考えられていた。
 エデンの園のアダムとイブの物語では、2回目の巧妙な遺伝子操作が行われ、彼らが「知恵」(聖書では性的子孫づくりの事をぼかしてこう呼ぶ)を得る為の引き金になったのは、蛇だった。
ヘブライ語で、蛇はナハシュと言う。
そして面白い事に、これが預言者、つまり「秘密を明かす人」も意味している。(中略)この言葉は、ヘブライ語の鉱物の銅を表すネボシェットと同じ語源から派生している。
また、モーゼが「出エジプト」の際に疫病を止める為に作って掲げていた、ナハシュ・ネホシェットとは、銅の蛇の事だった。
この蛇の印は、正しくエンキの紋章である。
人々がネフシュタン(蛇−銅−秘密の解決−の3つの意味をかけた言葉遊び)と呼んでいたこの銅の蛇は、エルサレムのヤハウェの神殿に、ほぼ7世紀に亘り、ヒゼキア王の時代まで奉示されていたと、聖書の列王記下18章4節に記されている。(『神々との遭遇 下』p235-236)

ナハシュ. (Nahash)[蛇]. 1. サウルが治めはじめたころの,アンモン人の王。 http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200003167

アモン人は聖書ではモアブ人の兄弟民族であり、先祖がロトであることからアブラハム の子孫であるイスラエルとは従兄弟に当たる民族とされている。ヨルダン川東岸の ギレアデ地方に国家を築いており、イスラエルとは敵対的関係にあった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/アモン人
ヨルダン川東岸のギレアデ地方に国家を築いており、イスラエルとは敵対的関係にあった。後にダビデ王に依り征服されイスラエルの属国となり、ユダヤ人に吸収される。その首都はラバ(Rabbah)と呼ばれた。後にヘブライ語でラバト・アンモーン(Rabbath Ammon)と呼ばれ、現在はヨルダンの首都アンマンとなっている。

アメン神 はギリシャ、ローマではアンモンと呼ばれていました。そう、アンモニアやアンモナイトの 語源になっているのです。なぜかと言うと、アメン神はしばしば羊の姿で描かれます。 http://www.m-matsu.com/egypt/study/gods.html
その角の形がアンモナイトの巻き方に似ているためだそうです。また、アンモニアは羊の糞から作られていました。なんとなくこじ付けのような気もしますが…。因みにアメンヘテプとは、「アメン神は満足する」という意味で、ツタンカーメンは「アメン神の生ける姿」、アメンエムハトは「支配者アメン神」という意味です。

海馬(アンモン角)は脳の中でも詳しく研究されている部位の一つである。名前の由来は 海神ポセイドンがまたがる海獣(海馬)のしっぽの形に似ているから、また雄羊の角の形 に似ているのでアンモン角とも呼ばれる。(アンモンはエジプトの聖牛). https://twitter.com/chary176/status/26525214507

わたしは都ラバを、らくだが草をはむ所とし、アンモンの地を羊の憩う所とする。その とき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。 http://seishonikka.org/201307/3713.html
アンモン人に言いなさい。主なる神の言葉を聞け、主なる神はこう言われる。お前はわたしの聖所が汚され、イスラエルの地が荒らされ、ユダの家が捕囚となって行ったことを、あはは、と言って嘲った。 4 それゆえ、わたしはお前を東の人々に渡して彼らに所有させる。彼らはお前の中に陣営を張り、住まいを定める。彼らはお前の果実を食べ、お前の乳を飲む。 5 わたしは都ラバを、らくだが草をはむ所とし、アンモンの地を羊の憩う所とする。そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。 6 主なる神はこう言われる。お前は手を打ち、足を踏み鳴らし、イスラエルの地に対する嘲りの思いに満ちて喜んだ。 7 それゆえ、わたしはお前に向かって手を伸ばし、お前を国々の略奪にゆだね、諸国民の中から断ち、諸国から一掃して滅ぼし尽くす。そのとき、お前はわたしが主であることを知るようになる。」 8 主なる神はこう言われる。「モアブとセイルは、『ユダの家も他のすべての国のようになった』と言った。 9 それゆえ、わたしはモアブの脇腹を引き裂き、この国の町々をすべて、その誇りであるベト・エシモト、バアル・メオン、キルヤタイムをはじめひとつ残らず滅ぼし尽くす。 10 わたしは、アンモン人と共にモアブを東の人々に渡して所有させる。アンモン人が諸国民の間で思い起こされることはない。 11 わたしはモアブに裁きを行う。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」 12 主なる神はこう言われる。「エドムはユダの家に復讐をした。彼らはその復讐によって、大いに罪を犯した。 13 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしはエドムに向かって手を伸ばし、その中から人と獣を断って荒れ地とする。彼らはテマンからデダンにいたるまで剣で倒れる。 14 わたしは、わが民イスラエルによってエドムに復讐する。彼らは、わたしの怒りと憤りのままにエドムに対して行う。そのとき、彼らはわたしの復讐を知るようになる」と主なる神は言われる。 15 主なる神はこう言われる。「ペリシテ人は復讐し、嘲りの思いをもって大いに仇を報い、昔からの憎しみにかられて滅ぼそうとした。 16 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしは手をペリシテ人に向かって伸ばし、クレタ人を断ち、海辺に残っている者を一掃する。 17 わたしは、彼らを憤りをもって懲らしめ、大いに復讐する。わたしが彼らに仇を報いるとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」

アンモナイトという化石動物 中国語での説明菊石叫做菊石的化石?物 http://cjjc.weblio.jp/content/アンモン貝
菊石姫
伝説の湖にふさわしい「菊石姫と蛇の目玉石」と呼ばれる大岩が現れる。 .... ていたこの地に、古の志賀の都や湖東平野と同様、古代朝鮮半島、特に新羅からの 渡来人が大きな足跡を残している地であることが良く分かった。 http://yagiken.cocolog-nifty.com/yagiken_web_site/2007/01/post_a4b5.html
余呉湖のある滋賀県伊香郡余呉町は滋賀県の最北端に位置し、北は福井県に、東は岐阜県に接している県境の町である。古墳時代から開かれた地域であり、新羅からの渡来人も住みついた歴史のある地域である。また余呉湖の神秘性が日本最古の天女の羽衣伝説や、菅原道真誕生伝説を生んだところである。
仁明天皇の頃、領主桐畑太夫の娘の菊石姫が干ばつ時に余呉湖に身を投げ、蛇身となって雨をふらせ、母に疫病の薬にと蛇の目玉を抜き取って湖中から投げたところ、石に目玉が落ちて跡が残ったので、以来この石を「蛇の目玉石」という、とある。仁明天皇は在位833-850であるから平安時代初期の伝説である。
<新羅崎神社跡>
蛇の目玉石と道路を挟んで山側に、新羅崎(しらぎざき)の森壕という案内板がある。昼なお暗き場所で樹木が湖中に浮き出るほど生い茂っていたので、賤ケ岳合戦では伏兵の絶好の隠れ場所であったと書いてある。矢印に従って山道を少し登ると、新羅崎神社舊跡と彫られた石碑があった。
朴鐘鳴編の「滋賀の中の朝鮮」にはこの神社のことが記されており、新羅からの渡来人である天日槍(あめのひぼこ)関連の神社で、明治末期の神社統合のおりに廃止され、近隣の北野神社に合祀されたとある。祭神の新羅大明神にちなんで、明治までは白木神社と書きこの一帯の森は白木の森と呼ばれたとのこと。とにかく今は1柱の石碑が残るのみである。
天女の衣掛柳の案内板の反対側に、北野神社舊跡と彫られた石碑が建っている。すなわちこの柳の傍に、かっては菅原道真ゆかりの北野神社があったが、明治初年の台風で倒壊し川並地区に移転しているとのことである。なお、この柳の向かいの田園の中に天女の銅像が建っている。
案内板には、伊香刀美という男が舞い降りた天女の衣を隠し、帰れなくなった天女を妻とし、その子孫が伊香郡開拓の祖となったという伝説と、菊石姫伝説にも出てきた桐畑太夫の妻となった天女が一男を産んだが衣を見つけて天に帰り、残された幼児の泣き声を法華経のように聞いた菅山寺の僧が養育し、菅原是清が養子として引き取り京都で成人して菅原道真になったという伝説が紹介されている。
<鉛練比古(えれひこ)神社>
やはり「滋賀の中の朝鮮」によると、近江伊香郡志には「天日槍(あめのひぼこ)新羅より来り、中之郷に止り、坂口郷の山を切り、余呉湖の水を排して湖面を四分の一とし、田畑を開拓し余呉之庄と名づけし、という伝説あり」と出ているらしい。余呉町中之郷には、古くは天日槍を主神とした鉛練比古(えれひこ)神社がある。
天日槍本人が余呉を開拓したとは思えないが、「鉛練」という名前から、新羅の王子である天日槍に従って日本へ渡ってきた高度な金属加工技術をもった渡来人集団がこの地に移住して、地域開発にあたったことが容易に想像される。草津穴村の安羅神社や竜王町の鏡神社と同様、彼らは天日槍をここに祀り祖神としたのであろう。
渡来人遺跡の項には、「中之郷の鉛練比古神社は今では大山咋命を主神としていますが、古くは天日槍が主神でありました。近くには古墳日槍塚や日槍屋敷といわれている所があります。また余呉湖畔には新羅崎神社があり、余呉は渡来人の通過した所でした。」とあり、この地が天日槍ゆかりの地であったことを述べられている。

アメノヒボコ(天之日矛、 天日槍)説話のある地域は秦氏の居住地域と一致するという... http://ja.wikipedia.org/wiki/秦氏

新羅崎神社縁起に「菊石姫伝説」が??... http://www.ne.jp/asahi/folk/collage/YogonoTennyo.htm
余呉湖近くにある乎弥(おみ)神社の祭神は臣知人命と梨迹臣命で、この二神は天女伝説のなかの意美志留、那志等美です。また、伊香郡高月町雨森の雨川命神社には三神、伊香刀美・臣知人命・梨迹臣命、伊香郡木之本町木之本の意冨布良神社には梨迹臣命が祀られ、天女伝説がこの地方に広く流布していたことが知られます。伊香郡木之本町杉野の本宮横山神社には伊香津臣命が合祀されています。このように天女伝説の中の人物が伊香郡の神社に祭られていることから、伊香郡に大きな勢力を持っていたのでしょう。もしかすると、大和朝廷に匹敵するほどの力を持っていたのではないでしょうか。だからこそ、後ほど述べる、菅原道真伝説も生まれたのではないでしょうか。

川並集落は余呉湖に面してあるただ一つの集落です。山がせまる湖との狭隘な土地を利用して人々が開拓し、天女伝説に登場する桐畑太夫の住んでいたところと言い伝えられています。今は川並の北野神社に合祀されている新羅崎(しらぎ)神社は、天日槍(あめのひぼこ)を祭神とし、新羅崎神社縁起に「菊石姫伝説」があります。天日槍は記紀の中に出てくる新羅の皇子で、古代に日本へ渡来してきたと伝えられています。日本の各地に天日槍は足跡を残していますが、ここ余呉町中之郷にも日槍塚という古墳があり、多くの渡来人が住みつき、農耕などの優れた技術をもたらした、といわれています。この地方に盛んだった養蚕の技術も渡来人がもたらしたものでしょう。

旱魃の時、娘が水に身を投げて雨を降らせる伝説は、全国の池や沼に伝わり、菊石姫の伝説もその系統に属するものです。川並では昭和初期まで旱魃の年には湖畔にある菊石姫に縁のある、蛇の枕石を新羅崎神社境内にあげ、これを菊石姫として雨乞いをしていました。
川並の桐畑家には『桐畠太夫縁起』が代々伝わっており、この中にも「菊石姫伝説」が語られていますが、先の『新羅崎神社縁起』とは内容を異にしています。
「桐畑家に生まれた菊石姫は徐々に蛇体となり、このままでは太夫の家において置けなく、屋敷から一丁余り東北の屋賀原に仮屋を建て、そこへ捨て置いた。姫を守していた下女は深く哀れみ、自らの食物を分け与えて養育した。姫が十八になったとき、姫は湖水へと入っていった。龍となった姫はこの時、長く養育してもらった下女にお礼として、自らの片目を与えた。不思議な力を持った龍の目の話しが、お上にまで聞こえ、両目を差し出せとの命が下った。片目しか持たない下女は、菊石姫を湖より呼び、もう片方の目を貰った。が、両目ともなくした龍には、時刻を知ることが出来ないため、鐘を撞く事を約し、もう片方の目を、湖の辺にあった石に投げつけた。このときの跡が石に残っている。この石を「目玉石」と呼び、新羅崎神社跡近くの湖岸に祀られている。」(『桐畠太夫縁起』から)
 化身した龍の両目を差し出すところなどは、大津市三井寺にちなんだ「三井の晩鐘」を彷彿とさせます。

、日本三石碑に数えられる多胡碑には、「羊」という名前の人物が記されている。地元では、羊は有名で、もっぱら羊太夫という名称で呼ばれている。
 そこで、注目したいのは、この羊太夫の正体である。伝承により、羊太夫の子孫だと称する人々がいる。羊太夫を祀る小波多神社を守る小幡氏も、そのひとつ。見ておわかりのように、波多、幡という名称がある。ハタは、これ秦氏である。

秦氏のルーツはユダヤ人原始キリスト教徒であり、その思想の根幹にはユダヤ教神秘主義カッバーラがある。カッバーラにおいて、数字を扱う神秘思想をゲマトリアという。
 ゲマトリアにおいて、8とはいかなる数字か。基本は、絶対三神の3である。ゲマトリアで3を秘数とする場合、いくつか方法があるのだが、そのひとつに乗数がある。つまり、同じ数字を3回かけるのだ。
 そこで、絶対三神、すなわち御父と御子と聖霊の順位をそれぞれ1、2、3とし、これを3乗する。すると、1、8、27という数字が現れる。おわかりのように、1は御父、8は御子、27は聖霊の秘数となる。
 つまり、8は御子イエス・キリストの数字であることがわかる。このあたりの詳しいことについては、牧師であられる久保有政氏の最新刊『ゲマトリア数秘術』を参照してほしい。
 さて、8はイエス・キリストの秘数だったということは、だ。当然ながら、神社や神名にある「八」もまた、イエス・キリストの秘数を示していることになる。
 さらに、「八」は「ヤ」「ヤー」とも読む。ヤーとは、ヘブライ語で神を意味する。正確にいえば、ヤハウェの短縮形だ。カッバーラにおいて、ヤハウェはイ エス・キリストと同一神である。よって、「八」の読み方においても、イエス・キリストの意味が込められていることがわかるだろう。
 そして、もうひとつ。「八」という漢字はカタカナの「ハ」のもとになったといわれる。が、このカタカナの「ハ」という文字は、興味深いことにヘブライ語 の「ヘー(H)」という文字に似ている。とくに、筆記体の形に、そっくりである。イスラエルへ行って、カタカナの「ハ」を書けば、そのままヘブライ語の 「ヘー」として立派に通用する。

菅原道真は土師氏出身。直接、秦氏との関係はない。学者によっては、土師、すなわち須恵器は朝鮮半島から伝来したゆえ、土師氏もまた渡来人に違いないと いう。かつて土師氏は葬祭に関わる祭祀集団だったらしい。その祭祀が神道的な呪術にちなむものであれば、確かに、秦氏と関わってくるかもしれない。
 しかし、気になるのは「天神」という名前だ。もともと天神とは、天の神。記紀の冒頭に記された造化三神及び、イザナギ命・イザナミ命に至る神代七代を天神と呼ぶ。
イザナギ命とイザナミ命
中国神話におけるフッキとジョカが、契りを結ぶにあたって、大木 の周りをそれぞれ反対方向にまわっ ... ここまでの話をまとめると、直角定規とコンパス( イザナギ命とイザナミ命)によって描かれた日の丸(天照大神)という ...

ナーガ(1) −蛇神ナーガと日本− http://chaichai.campur.com/indozatugaku/naga02.html
イザナギとイザナミのモデルがナーガとナーギィであったとするなら、日本もまた、かつては蛇に支配されていた時代があったのかもしれない。ただし、それがインドからいつ頃伝承したものか、といったことはいまだ不明である。

縄文時代の土偶にも、蛇を頭に戴いた女神像があるが、同じように、沖縄のユタがハブを頭に戴くこともあったらしい。沖縄ではナギは虹を意味するが、アボリジニの世界でも虹は蛇と同一視されている。人頭と蛇の関係で言えば、遠く地中海のメデューサの髪の毛はあきらかに蛇の曲がりくねった形状を真似ている。メデューサはやはりモンスターであったが、その起源は、すべてを生み出す永遠の女神であったかもしれない。

裏天皇の正体1〜大和朝廷成立前夜、倭人の葛城ネットワークと韓人の秦氏 ネットワークが並存(09/11); 【情報戦】0 情報戦のこれまでとこれからを考える 〜“情報” のパラダイム転換〜(09/10) ... また、モアブ人やアモン人も同じ一族である。 http://blog.nihon-syakai.net/blog/2008/07/000755.html
つまりアラブ人も広い意味ではヘブル人に含まれるわけだ。だから、アブラハムはユダヤ教・キリスト教のみならずアラブ人やイスラム教徒の間でも父祖として尊敬されている。また、モアブ人やアモン人も同じ一族である。その後、聖書の中では「ヘブル人」は他の民族がイスラエル人を侮蔑して呼ぶ場合、逆にイスラエル人が他民族と自分たちを区別して語る場合に使われているようだ。現在ではユダヤ人の言語を「ヘブル(ヘブライ)語」と呼ぶように、イスラエル人・ユダヤ人と同義語として使われている。
ユダヤ資本はこのようなダマシ思想を根底にもっているため、現在の金融構造のようなすさまじいダマシの構造を考え付いたのだと思います。そしてダマシ能力が優れているため歴史の表舞台にもほとんどでてこないと考えているのですがみなさんはどう思いますか


1929管理人:2014/01/25(土) 22:51:36
Re: 碧骨堤 羊太夫 秦氏 アモン人?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0002006M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0002006_2M.jpg

http://www.shundaichi.com/2003-3785739173etc.html



1930荊の紀氏:2014/01/27(月) 00:34:38
「蝦夷」=カナン先住民のエブス人・・・フェニキア人
カナン人は、フェニキア人に符合
カナンのエブス人が住んだ町 http://ja.wikipedia.org/wiki/サレム
サレム(英語:Salem)は旧約聖書に登場する地名で、エルサレムを指す古称の一つである。「平和」「平安」を意味するシャーレームが語源であるという説や、この場所で礼拝された異教の神にちなんでいるという説もある[1]。
本来、カナンのエブス人が住んだ町で、南東丘をさす「シオン」とも呼ばれた。創世記に登場する王と祭司を兼務したメルキゼデクは、その町の代表者として、アブラハムに戦勝の祝福の言葉を述べた。新約聖書のヘブル人への手紙でもメルキゼデクは「サレムの王、すなわち平和の王」と言及されている ダビデが先住民のエブス人を追放してから、イスラエル人が住むことになり、エルサレムと呼ばれるようになった。

カナン、あるいはカナアン(ヘブライ語: ????? K?nā‘an クナーアン、英語:Canaan)とは、地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯の古代の地名である。聖書で「乳と蜜の流れる場所」と描写され、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地であることから、約束の地とも呼ばれる。現代のカナンに関する知識の多くは、1928年に再発見された都市ウガリットの発掘調査によってもたらされた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/カナン
カナンという名称の起源は不明であるが、文献への登場は紀元前3千年紀とたいへん古い。シュメール人の都市マリの紀元前18世紀の残骸で発見された文書では、政治的な共同体として明瞭に見いだされる[1]。
紀元前2千年紀には古代エジプト王朝の州の名称として使われた。その領域は、地中海を西の境界とし、北は南レバノンのハマトを経由し、東はヨルダン渓谷を、そして南は死海からガザまでを含む[2]。
カナンはイスラエル人到来前には民族的に多様な土地であり、「申命記」によれば、カナン人とはイスラエル人に追い払われる7つの民の1つであった[3]。また「民数記」では、カナン人は地中海沿岸付近に居住していたに過ぎないともされる[4]。この文脈における「カナン人」という用語は、まさに「フェニキア人」に符合する。

カナン人は実際にはイスラエル人と混住し通婚した。ヘブライ語はカナン人から学んだものである(イスラエル王国を参照)。
カナン人は近東の広範な地域において、商人としての評判を獲得していた。メソポタミアの都市ヌジで発見された銘板では、赤あるいは紫の染料の同義語として "Kinahnu" の用語が使われ、どうやら有名なカナン人の輸出商品を指すらしい。これもまた、「ツロの紫」で知られるフェニキア人と関連付けることが可能である。染料は大抵の場合、その出身地にちなんだ名を付けられた(シャンパンのように)。同様に、旧約聖書に時折例示されるように、「カナン人」は商人の同義語として用いられ、カナン人を熟知した者によってその容貌が示唆されたものと思われる。

約3500年前、フェニキア人・エブス人・ヒッタイト人らが、タルシシ船で渡来し国東半島へ 製鉄基地を築いて「殷文化圏」に鉄製品を供給し始め、それを呼び水にして水田稲作 文化をもったシュメール人と苗族が日本列島に上陸し始めました。 http://plaza.rakuten.co.jp/phoenix3/diary/200706160000/http://plaza.rakuten.co.jp/phoenix3/diary/200706160000/
長い縄文時代の後、弥生文化の新時代が到来し、人口も急激に増加しました。
続いて3100年前、エブス人・ヒッタイト人及び殷人らが豊ノ国(東表国・都は宇佐八幡宮)を打ち建てました。
これが私達の国第一王朝の始まりでありました。
そして、その金属文化を伴う水田稲作農業文化は、王国の拡大とともに急速に日本列島全体へ普及していきました。
縄文時代から弥生時代にかけての幾時代にも渡る、このような新しい民族の渡来ごとに新渡来人は、先住民である港川人・オロッコ人・ツングース(アイヌ人)・アエタ族らの縄文人を戦闘で打ち負かし、すべて捕虜にしました。
この捕虜達は、不必要に殺されず、できるだけ生かして、新文化の建設に活用されていきました。
日本人の先祖は、殷の時代から「南倭人」とも呼ばれ、南方からフェニキア人の船に乗り鉄文化と弥生農業を携えて渡来した夷人であり、「夷」をエミシとよんでいたのは、夷とはカナ−ンのエブス人のことであり、昔から親しまれてきたエビスさまのことでした。
実は、宇佐八幡では東表国の建国史を伝える秘儀が放生会として3000年以上も連綿と現在も続けられています。日本最古の儀礼です。
人形浄瑠璃などは、古代インドから渡来したクシャトリアの漂白民で男性は狩猟女性は遊女を業として、かたわら人形を舞わす芸を演じていたものが発展したものです。
またタタラ製鉄文化は、七福神を祭る「戎神社」や海洋民が崇拝する「金毘羅信仰」なども、その名残です。
エブス人・ユダヤ人などの弥生人である商人たちは、海岸縁に居を構え、縄文人のテリトリーを決して侵すようなことをしませんでしたから、港川人・オロッコ人・アイヌ人アエタ族などの多くの農民に親しまれ、「村の鍛冶屋」への各種の鍛鉄製品(農器具)を運びました。
その由来は、「エビスさま(エブス人)・大黒(アブラハム→ダビデ→ソロモン)さまとして現在でも日本の各家庭に祭られています。
弥生文化を先住民が受け入れ、各地の気候や風土に合うように改良されて普及するまでには1000年もの年月がかかったようです。
そしてこの千年が天の王朝として神武以前の歴史が日本に存在したのでした。


1931荊の紀氏:2014/01/27(月) 12:05:31
突き刺すいばら ソロ人
約十年万年前、スンダ大陸の旧人である ソロ人が移動して、黄河流域周辺で非定住の狩猟採取生活を営むように ... http://blog.yoshiokamanabu.com/?eid=1314
一万二千年前のビュルム氷河期終焉の大洪水 スンダ大陸文明海没〜
現在のインドネシアの島々が形成され、シュメール人が率いる人々がエブス人の舟によって脱出し、東南アジア・メコン河の中・下流域に移動定住する・・
ソロ人
20〜15万年前に「ソロ人」 と呼ばれる旧人が住んでいたことが知られています http://www1.tcat.ne.jp/eden/Hst/indonesia/jawa_genjin_no_kokyou.html
ルーシー (アウストラロピテクス) http://ja.wikipedia.org/wiki/ルーシー_(アウストラロピテクス)
エチオピアの現地語ではディンキネシュ

『Lucifer』はラテン語の『lux(光)』と『fero(運ぶ、もたらす)』が語源のようです。 時代も語 派も異なる事から ... ルーシーの起源は、シラキユーズ(シラクサ)でディオクレチアンに 迫害されて清い身で亡くなったセント・ルチア ルシフェルはリーダーズ ... http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1413781699
ルーシーの起源は、シラキユーズ(シラクサ)でディオクレチアンに迫害されて清い身で亡くなったセント・ルチア

シラクサのルチア (イタリア語:Santa Lucia, 英語:Saint Lucy 伝承による生没年:283 年-304年)は、聖ルチアの名で知られるキリスト教の殉教者。
聖殿巫女というのは、聖殿を訪れた信者と床を共にしてお告げをする巫女兼娼婦といった職業です。
聖ルチアは民間伝承では天の光を運ぶ聖女とされ、また暗闇に光を与える女神、火を産み出す女神ともされています。
天の光を運ぶ聖女
「光の運び手」としても言及される。これらの述語は、ルシファーと同義 である。 「金星が二つの体を有すると信じて、古代ギリシャ人は、朝の ... http://satehate.exblog.jp/17352515/
「金星が二つの体を有すると信じて、古代ギリシャ人は、朝の星をΦωσφόρος、フォスフォロス[Phosphoros](ラテン語でPhosphorus)、『光の運び手』あるいはエオスフォロス[Eosphoros](ラテン語でEosphorus)、『夜明けの運び手』と呼んだ。夜の星は、ヘスペロス[Hesperos](ラテン語でHesperus)(?σπερος、『宵の明星』)と呼んだ。 ヘレニズム時代までには、古代のヘスペロスは、ラテン語でヴェスパー[Vesper]として、そしてフォスフォロスは、後に天国から追放された堕天使と言及される詩的な術語ルシファー[Lucifer](『光の運び手』)として翻訳されるだろう。」-

「ピタゴラスの弟子たちはまた、金星を大いに崇拝した。なぜなら、それが影を投げかけるに十分明るい唯一の惑星だったからである。明けの明星として、金星は、夜明け前に可視であり、そして宵の明星として、それは日没直後真っ先に輝く。これらの特質のゆえに、それに対して多数の名前が古代人たちによって与えられてきた。日没時に空に見えるので、それはヴェスパーとよばれた。そして、それは太陽より先に昇るので、それは、偽の光、明けの明星、あるいは光の運び手を意味するルシファーと呼ばれた。」 - Manly P. Hall, The Secret Teachings of All Ages
フォスファーとヘスパーは、同じ実体、旋回の異なった段階で、オカルト的にルシファーと関連づけられている天体である金星を意味する二つの言葉である。
フォスファーを表している人物は、モーゼス、ゾロアスター、そしてブッダのような東洋の哲学者たちの名前を擁しており、他方ヘスパーは、ソクラテス、フランシス・ベーコン、イマニュエル・カントなどの西洋の思想家の名前を擁している。
これらの歴史上の人物たちは、ランダムに選択されてはいない:彼らはみな、神秘学校の教えにおいて重要な役割を果たしている。実際、フランシス・ベーコン、ルネ・デカルト、そしてイマニュエル・カントは、西洋文明における現代薔薇十字主義とフリーメイソン団の復活の中心的人物たちである。

その地球は、黄道十二宮の星座を含む一つの環に囲まれており、そして48のライトで照らされている。その環は、天井の日差しにつながる鎖に取り付けられている。すでに見たように、日差しは神性を表す古代のシンボルである。この意匠は、神の72の名を表すカバラ的版画を彷彿とさせる。
72
魚座時代が2000年続いた。南十字星は見えなくなった歳差運動によって地球の傾きが 起こったのだ。 天体観測による説明が目視できなくなった。魚座時代の橋渡し役でも あったグノーシスは キリスト教にバトンタッチして消滅した。 http://shizu.0000.jp/read.php/cult/1236441159/338-437

金星南極の渦は歳差運動型循環を明らかにする」の情報です http://www.sciencemag.org/content/332/6029/577.abstract
ガリレオが、地動説を証明した糸口は、金星の満ち欠けを観察していて、不思議なことを 発見したことであると伝わっている。 http://www.gem.hi-ho.ne.jp/sogenji/hitokuchihouwa/chidousetu-zakkan.htm

金星の会合周期を地球との関係で結ぶと5芒星に、水星の会合周期を地球との関係で 結ぶと6芒星になる。 http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-19/between03.htm
364.24=116×π(3.14)。つまり水星の会合周期に円周率を掛けるとほぼ364日になる。 金星の会合周期を地球との関係で結ぶと5芒星に、水星の会合周期を地球との関係で結ぶと6芒星になる。

商業の神、旅人の守護神
アフロディテ( 金星)とヘルメス(水星) http://www14.ocn.ne.jp/~ant/Stars/labo/solarSys/name.html
ゼウス、神様のくせになかなかスキモノで奥さん以外の女性との間に次々と子供をこしらえてしまう。

ルーシー(アファール猿人)ファー
君主ツロ(ルシフェル)
ツロは旧約聖書の預言の中で何度も言及されています。
例; イザヤ書23章1〜8節、エレミヤ書25章22節、27章3節、47章4節、ホセア書9章13節、ヨエル書3章4節、アモス1章9〜10節、ゼカリヤ書9章2〜4節。

1. 君主に擬人化されたツロの商業都市国家
ツロの王の破局の真の原因が28章において記されています。バビロン、エジプト、ペルシャなど、国の王の名前は聖書の中に記されていますが、不思議なことに、ツロの君主の名前が記されていません。ツロという繁栄した商業都市の魂の化身として、その誇りを「ツロの君主」と擬人化しながら、「私は神だ」(「エール・アーニー」??? ?????)と比喩的に表現しているのかもしれません。擬人化された「ツロの君主」だとしても、その知恵と政治的能力は、ツロを並々ならぬ繁栄に導きました。商売上の抜け目なさにより、ツロの君主は莫大な財宝と富を築き上げました。君主の心はその財宝と富によって高ぶったのです。

2. イザヤ書14章との比較
ツロの君主とイザヤ書14章12〜20節にある「明けの明星」(ルシファー)との関連で、両者とも神の敵であるサタンを表わすものであるという見解があります。とすれば、これらの箇所はサタンの起源と堕落についての啓示となります。いずれも共通している点は「高ぶり」です。最終的なさばきはまだ先の事ですが、その運命はすでに

イスラエルの回復の預言
28:24 イスラエルの家にとって、突き刺すいばらも、その回りから彼らに痛みを与え、侮るとげもなくなるとき、彼らは、わたしが神、主であることを知ろう http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?ツロの王に対する哀歌

ユダヤ・キリスト教の象徴体系において、「あざみ」「アカンサス」「茨」をはじめとする棘のある植物(註1)は、罪の呪い、すなわち罪ゆえに神の祝福を受けることができない状態を象徴します。 http://antiquesanastasia.com/art/reference/symbols/plantes/herbes/chardon/general_info.html
「創世記」 3章には人祖アダムとその妻エヴァが「善悪を知る木」の実を食べ、楽園を追放される物語が書かれていますが、このとき神がアダムに語り給うた言葉に、新共同訳で「茨」「あざみ」と訳されている植物名がでてきます。

ヘブル語の植物名は、七十人訳のギリシア語では「アカントス」(引用文中では複数対格形アカンタス ?κ?νθας)となっています。アカントス (?κανθος) すなわちアカンサスという名称はギリシア語で「棘のある花」という意味で、「アカンタ」(?κανθα 「棘」)と「アントス」(?νθο? 「花」)に由来します。筆者(広川)の手許にあるリデル・スコット希英辞典第9版によると、「アカントス」はアカンサス (Acanthus mollis)、アラビアアカシア (Acacia arabica)、ハリエニシダの近縁種 (Genista acanthoclada) を指します。これらの植物は分類学上は互いに大きな隔たりがあり、また茨(バラ)もこれらのいずれとも大きく異なる植物種ですが、いずれも棘を有するという共通点があります。

gorseの意味や和訳。 【名詞】【不可算名詞】【植物, 植物学】 ハリエニシダ. http://ejje.weblio.jp/content/gorse
逆たつ、いら立つことを表す。 1.植物(gh%rzd-) 大麦(orgeat,orzo)。2.怒りっぽい人、ハリネズミ(urchin)。3.ロケット、急上昇する(erucic acidw)。4.毛深い。5.痛む、厄介な(hispid)。6.身震いする(horrible,horrid)。7.干し土地(chersonese)。
gorse
雄馬は horse,
horseとは。意味や和訳。[名]1(1) 馬. ⇒HARNESS(図)horse and cart荷馬車(▽× cart and horseとは言わない)work like a horseがむしゃらに働くeat like a horse もりもり食べるbe (as) strong as a horseものすごく力が強いride [mount... - goo辞書 は ...
4 ((集合的))騎兵;騎兵隊
6 ((通例複合語))(物を載せたり支えたりする)脚つきの枠[台];のこひき台, きゃたつ, (皮の)なめし台
7 ((主におどけて))人, やつ.
8 ((米俗))とらの巻.
9 ((略式))《チェス》ナイト.

gorse horse
子音字だけ
ヘブライ語も、元々は、古代エジプト語と同様に、母音 字というものはなく、旧約聖書も、書かれた時は子音字だけで書かれ ...

ゼベダイ(邪馬台)親族移住後の大ユダ キリスト 処刑後の移住/何故、移住は許可されたか/ゼベダイ定住後の大ユダ/記紀に見る伊都 ...

ゼベダイ(邪馬台)親族移住後の大ユダ. キリスト処刑後の移住 何故、定住は許可されたか ゼベダイ定住後の大ユダ 記紀に見る 伊都国王. 王と接見したゼベダイ「角がある人」. 垂仁天皇二十五年. 角がある人、饒速 日 ... http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/newpage17.htm
キリスト処刑後の移住
何故、定住は許可されたか
ゼベダイ定住後の大ユダ
記紀に見る伊都国王

王と接見したゼベダイ「角がある人」・・・ツヌガアラシト

都怒我阿羅斯等 (ツヌガアラシト)と言い、天日槍(紀)[天之日矛(記)] の別名で あるといいます。すなわち気比大神=天日槍(天日矛)であるといわれています。 http://whalesongs.web.fc2.com/iwato/tunuga.html
ツヌガ阿羅斯等「都怒我阿羅斯等」は意富加羅(おほから)の王子  と『日本書紀』にはあります。「都怒我阿羅斯等」のまたの名は、于斯岐阿利叱智干岐ウシキアリシチカンキで"ウシ"の字が見えています。 天之日矛や、都怒我阿羅斯等(日本書紀)の説話にも、牛の話がありました。牛頭天王とはスサノヲのことですが、牛頭や角のある人とは、三日月型の兜をかぶった人が渡来したと読む人もいるようです。スサノヲが新羅で天降ったところが「曽戸茂梨」であり、ソシモリは牛の頭の意であるそうです。新羅といえば。天之日矛は新羅の王子でした。

佐賀県の「天衝舞」という大きな三日月型の被り物をかぶって舞うお祭りがあります。 角状の冠物は高さ3メートル以上にも及び冠の中央には、太陽・三日月・宝珠が描かれているといいます。異様な出で立ちではありますが、いずれも由来は北方系(サカ族、スキタイ、ペルシャ、アラブ)にあるといわれているそうです。

敦賀ツルガとは、 気比の角鹿神社(祭神、都怒我阿羅斯等命)の「ツヌガ」であり、越前国ニの宮にあたる 劔神社(祭神 都留伎日古命)があるように、角ガアラシトは、つまり 「剣ツルギのある人」、 すなわち天之日矛であります。(天之日矛と都怒我阿羅斯等は同神。)  そして矛を持つ神ともなれば、また、八千矛の神という多くの矛を持った神となり、 鉄器と深いかかわりを持ちタタラ師であったのであり、渡来してきた神、民族であり、 なぜかいつもわき出る雲に覆われ、その痕跡は闇夜に雲隠れとなられたのでありましょうか。 その偉大なるその神の名は、天の太陽を表し、 あまねくその光をふりそそぐ剣を持つものだという結論にいたるわけなのですが、この神は世界共通であり、ここかしこに現れており、 その名も偉大な光を表すものだったといわなければならないようです。

ゼベダイ(邪馬台)親族移住後の大ユダ. キリスト処刑後の移住インマヌエル・イエス様 処刑後、残ったユダヤ教徒は、エルサレムのマサダの砦で、ローマ兵に包囲されたまま 自害して果て、他の或る人々は散りました。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/2065
ゼベダイのアラム語形は「ザブダイ」ですので、「魏志倭人伝」ではこれに「邪馬台」と当て字したと考えられます。(12.23.)

イーシェを慕う「角がある人」は、自分達はエルサレムから来たと、伊都国の王に告げたのです。
王はゼベダイらに「自分が大ユダの王であり、他に王は居ない、だから他へ行くな」と云う。
引用文の中に「必ず王に非じといふことを知りぬ」とあるので通常、王ではないと解されていますが、「伊都都比古」とは伊都の王のことですから、その本来の意味は、王であるにも関わらず王にあるまじき行為をする王、という意味であったであろうと筆者は解します。大ユダ内部では、これはとても王とは言えない、というような評価であったと考えられるのです。
ゼベダイらは帰化、即ち定住の許可を得た後、王からは離れて日本海を沿岸に沿って船を北上させていき、現在の福井県敦賀市の辺りに上陸するのです。そして山を越えて琵琶湖にそって南下し、最終的には奈良周辺に住み着いたであろうと推理するのであります。

マルコ伝のゼベダイ
それらのことを聴き知って事情を理解したゼベダイの親族たちは、極東の列島のユダへ移住しようと決意したわけです。


1932荊の紀氏:2014/01/28(火) 00:17:28
Re: 突き刺すいばら ソロ人
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 約十年万年前、スンダ大陸の旧人である ソロ人が移動して、黄河流域周辺で非定住の狩猟採取生活を営むように ... http://blog.yoshiokamanabu.com/?eid=1314
> 一万二千年前のビュルム氷河期終焉の大洪水 スンダ大陸文明海没〜
> 現在のインドネシアの島々が形成され、シュメール人が率いる人々がエブス人の舟によって脱出し、東南アジア・メコン河の中・下流域に移動定住する・・
> ソロ人
> 20〜15万年前に「ソロ人」 と呼ばれる旧人が住んでいたことが知られています http://www1.tcat.ne.jp/eden/Hst/indonesia/jawa_genjin_no_kokyou.html
> ルーシー (アウストラロピテクス) http://ja.wikipedia.org/wiki/ルーシー_(アウストラロピテクス)
> エチオピアの現地語ではディンキネシュ
>
> 『Lucifer』はラテン語の『lux(光)』と『fero(運ぶ、もたらす)』が語源のようです。 時代も語 派も異なる事から ... ルーシーの起源は、シラキユーズ(シラクサ)でディオクレチアンに 迫害されて清い身で亡くなったセント・ルチア ルシフェルはリーダーズ ... http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1413781699
> ルーシーの起源は、シラキユーズ(シラクサ)でディオクレチアンに迫害されて清い身で亡くなったセント・ルチア
>

ルーシ人は、ラテン語で「ルテニア人」
漢=カンの語源は、カナンもしくはカイン http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
ゴート族はルーシ人は、ラテン語で「ルテニア人」



1933管理人:2014/01/28(火) 21:49:48
お休み
キシさんお疲れさまです。秦野さんもお休みなようですし、私もちょっと多忙につきしばらく書き込みを中止します。また再開の時期になりましたら、連絡します。

管理人

1934荊の紀氏:2014/01/29(水) 11:41:42
Re: (無題)
>整理しますと、瑞穂→俀国:秦国(タイ国)→倭国→日本になるな。

秦国(タイ国) ・・・アルタイ スキタイ ・・・放浪する・・・回族?

「アブー・ターイ」 は “クンヤふう” ですが、「放浪する 父親、さまよえる先祖」 という “部族名” なのです。
「アブー・ターイフ」 は、「 ターイフの父親の」 という意味ではないのです。この 「ターイフ」 の正体は、 http://ameblo.jp/nirenoya/day-20090120.html...
[ ' ターイフ ] 「さまよう、道に 迷った、放浪する」


東方のサカは西方のスキタイより活動時期が長く、現在のアフガニスタンやパキスタンに も侵入する ..... 19:04:37. 東アジアでクルガン(>61)の作り方を初期に教えて貰ったのは 、アルタイ系の人達ですか? ...... ウズベキスタンや雲南の回族なんかにF1がそこそこ いる。 mt-FやBと ...... >794 ヒッピーとかジプシーとか20世紀後半まで放浪してたろ
26
世界@名無史さん[sage]?? 投稿日:2010/10/02 20:52:48 http://desktop2ch.tv/whis/1284527245/

スキタイ、サカとサルマタイ、アランはともにイラン系騎馬遊牧民であるが
前者の軍事形態は軽装騎乗弓兵であり、後者は重装突撃騎兵
民族出自と宗教が似通っているが、他はあまり関連性がない

西方のスキタイは黒海沿岸のステップからサルマタイにBC2C頃駆逐され
遊牧ができないクリミア半島に閉じ込められ定住化した
その後、クリミアに閉じ込められたスキタイはAD3C頃フンが到来する以前に消滅する

東方のサカは西方のスキタイより活動時期が長く、現在のアフガニスタンやパキスタンにも侵入する
もともとギリシャ語のスキタイはサカの転訛した言葉といわれる

藤原氏は「扶余国を開いたペルシャ系のスキタイ・サカ族(塞族)である」 という指摘がある。 ペルシャではスキタイのことをサカと呼んでいた。中国ではサカ ...スキタイ・サカ族は中臣氏、秦氏から藤原氏に合流したとも考えられる。 http://aoisekai487.blog7.fc2.com/?tag=???????????????
古代から現在に至るまで、公家や貴族として日本の支配層を占めてきたとされる藤原氏は、新羅系とも、伽耶系とも唐系とも言われる。
さらに遡れば、藤原氏は「扶余国を開いたペルシャ系のスキタイ・サカ族(塞族)である」という指摘がある。
ペルシャではスキタイのことをサカと呼んでいた。中国ではサカを音訳して塞(サク)と呼んだ。
また、藤原氏は古代イスラエルのタルシン船でやって来て、九州に邪馬台国系の国を建国したイッサカル族ではないかという説もある。
スキタイ・サカ族は中臣氏、秦氏から藤原氏に合流したとも考えられる。

エーと、それじゃ スキタイ・サカ族 て何?

 インド・ヨーロッパ語族に属するスキタイ族は、黒海の北部に居住する平和的な遊牧民であったが、金属の武器と馬具で武装した強力な騎馬軍団を組織して、黒海の北部からアッシリア、イラン高原を席巻し、紀元前6世紀には南ロシア、コーカサスを領域とする広大な騎馬民族国家を形成した。
彼らは武力による略奪だけでなく、ギリシャ植民地との交易、すなわち、毛皮、家畜、食糧などを輸出し、貴金属、陶器、ワインなどを輸入して大きな利益を獲得した。

スキタイ・サカ族が好戦的な征服王朝を建国する過程で、イスラエル支配勢力、即ちイスラエル亡命貴族、イスラエル商人、イスラエル人の介在があったと考えられる。
交易と財力と技術力と権謀術数に任せて、イスラエル人はスキタイ族の国に取り入って行った。
スキタイ・サカ族は「黄金の道」と言われたステップシルクロードを騎馬部隊によって席巻し、遠距離地域と交易や農耕民からの略奪を繰り返した。

 イスラエル支配勢力とスキタイ騎馬民族の連合体は、スキタイ・サカ族としてシルクロード各地で植民・建国活動を行う。パルティア王国、クシャン王国等がそれである。
 その後もスキタイ文化の影響は中央アジアからモンゴル、華北にまで拡大し、タタール、突厥、匈奴等の遊牧騎馬民族国家が発生する。
この影響は朝鮮半島や日本列島にも達した。

後半3つの引用はこちらから
「シルクロード渡来人が建国した日本」 久慈力

ちなみにタタールは中国名は韃靼(だったん)。
浅田次郎の小説「蒼窮の昴」の中で、清朝の皇族は女真ではなく韃靼と称していた。
「韃靼の女」とか・・・
清朝はスキタイ・サカ族の末裔ってことになるのでしょうか?
そうだとすると日本の皇統とは藤原氏を通じて御親戚。
傀儡政権、清王朝の設立もうなづけますね。

おっと話がそれてしまいました。
大化の改新に戻りましょう。

秦氏のルーツは古代イスラエル王国にまでさかのぼりますから、
秦氏はスキタイ・サカ族に近寄って利用しながら、途中いくつかの王国を創りながら、朝鮮半島、日本にまでやってきた。
大化の改新のときも、秦氏が藤原氏をかついで蘇我氏の勢力をそいだということになりますね。
対立する勢力のの裏に潜んで操作していたということ。

蘇我氏はもともとカッシート人だが、バビロニアを滅ぼすときにヒッタイトと手を組んで、呼応してことを起こしたらしい。

イスラエル王国のソロモン王の母はヒッタイト人で彼はユダヤ人とヒッタイトの混血。

何が何だか分からなくなりなりそうですが、一言で言えば「内ゲバ」ということでしょう。
メソポタミアや中央アジアからやってきた渡来人たちがはるか東方にやってきて権力争いをした。
(きっと先住の縄文人たちは奴隷になったり、兵士になったりしていたのでしょう。)
そうして、最終的に主権をとったのが、藤原氏を前面に出した秦氏。

秦氏は先に書いたように聖徳太子をバックアップしていたが、その時に蘇我氏が物部氏を討伐している。
聖徳太子もその討伐に自ら馬に乗って出陣している。

蘇我氏はその討伐により、物部一族の莫大な財産を手にした。
それとシルクロードで築いた財産が蘇我氏の繁栄の源になった。

蘇我氏はその財宝で屯倉を各地に造り、イネや穀物による貢納体制を築いた。
中央集権国家の基礎・税制=律令制を築き、戸籍制度の確立させた。

その体制が出来上がった頃、蘇我入鹿・蝦夷を葬った。
つまり、労せず、おいしいところは頂いた。

藤原氏(=秦氏)は日本書紀を作り、自分たちの都合のよいように歴史を書き、
蘇我氏のやった業績を聖徳太子一人のものとして、聖徳太子を神格化した・・・・

1935管理人:2014/01/29(水) 21:38:04
魔鏡
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0002012M.jpg

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140129/wlf14012917170013-n1.htm



1936荊の紀氏:2014/02/05(水) 15:35:29
Re: 魔鏡
管理人さんへのお返事です。

> ちょっと書き込み休もうとおもっていたら、面白いニュースが入ってきました。三角縁神獣鏡の表面が魔鏡の構造で、光を反射すると、紋様が浮かびあがるそうです。
>
> 下記の記事参照。どうも、絵柄からみて、四方に放射線がでており、裏面同様に、方位測量に使ったのでしょう。裏面の方位を示す四獣紋様を、北斗七星や北極星位置とあわせながら方位を換算する測量方法を昨年は論議して会報に掲載したとおりですが、表面も同様に測量に使えるとなると、かなり方位測量が楽になるはずです。
>
> つまり、上記のようにして裏面で方位をある程度確定して、さらにそれを今度は太陽光や火の光反射をつかって、表面に反射させて、測量の目的としたい地面、つまり古墳や測量したい土地のマウンドに反射させると、一気に方位を示す紋様がそのマウンドに投影されて、すぐに方位確定ができるわけです。そういう用い方をしたのではないでしょうか。
>
> 相当な技術者集団ですね。官営工房でもトップレベルの技術者でないと、こういうものは造れないはずです。当時中国の官営工房に入り込んでいた、キシさんの投稿にもあるスキタイ・サカ・月氏系の技術者かもしれません。
>

>相当な技術者集団



伊能忠敬出生地 秦氏と被差別民 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs
後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王は偽装死去した後、鎌倉極楽寺を経て大和国西大寺に入り、ここを拠点とした西大寺ネットワークを築いた。
古代の土師君に始まり、加茂役君小角(役行者)がはじめた非人救済事業を受け継いだ行基の流れを汲む西大寺は、非人救済事業の実績を数世紀にわたり積んできた真言律宗(西大寺流律宗)の本山である。
古代の役民および中世の非人とは律令制度外の非農業民のことである。その大宗は古代に朝鮮半島から渡来したツングース系の非定着民の子孫で、律令制度下の公領から逃散した百姓たちも混じっていた。
奈良時代から平安・鎌倉時代にかけて、朝鮮半島から陸続として渡来し、畿内諸国に住みついた雑民労務者の子孫は時を経て増加し、畿内人口の大きな部分を占めるに至ったが、多くは無籍のままだった。
大和朝廷で無籍民「役民」に対する社会政策を担当していた姓が賀茂氏支流の「加茂の役君」で、その頭領の加茂役君小角は役行者と称し、山岳信仰を究めて修験道の元祖となった。
それを引き継いだのが仏僧行基である。初めは律令制の攪乱要因と観られていた行基の民衆仏教が、律令制の制度的欠陥たる無籍民対策をカバーしてくれたことから、行基大菩薩と讃えられる。
これ以来、渡来系都市雑民の社会政策を、律令国家が行基の流れを汲む宗教勢力(律宗本山西大寺)に委託したかのような形になる。
西大寺は土木建設事業を始め、労務者の福利厚生・療養介護・環境衛生・埋葬・道路港湾など、戦前の内務省が行っていた建設・運輸・厚生・労働など広範囲にわたる行政を自主的に運営した。
これら無籍の役民(非農業民)は、傀儡のように拠点を定めず、散所と呼ばれた集落に集まり、運輸・駅逓事業や葬礼・埋葬・芸能・らい病看護・製薬行商など、様々な雑事に従事して事業収入を得ていた。その一部が彼らを管掌した西大寺に貢納されて西大寺基金として積まれた。
大塔宮の王子が北朝の光厳天皇の皇子にすりかわり北朝崇光天皇となり、その皇子の栄仁親王が伏見殿の初代となる。つまり、伏見殿は大塔宮護良親王の直系子孫であり、西大寺と伏見殿は、護良親王を父とする双子のような関係にある。
西大寺に迎えられた護良親王は、西大寺律宗の首領として全国に極楽寺のネットワークをつくり、非農業民たちの製薬・行商・救らい病事業の拠点とする。西大寺の事業は貨幣経済の浸透で莫大な収益を上げる。



1937荊の紀氏:2014/02/19(水) 12:29:06
舟塚山古墳群 測量台説 公認なるか?☆(9度のズレ) ⇒
??投稿者:荊の紀氏??投稿日:2014年 2月19日(水)12時25分37秒
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
 昨日 ある学芸員の方に 舟塚山古墳(石岡)6号墳 11号墳 21号墳 の描く 三角形や 円墳の大きさによる角度が五芒星(ゴボウセイ)型測量と関係すると電話で伝えましたが、調べて連絡するとの事でした。
舟塚山古墳から離れた周辺の前方後円墳間の描く角度が126度 108度 72度 54度 36度 18度 ピタリ一致しているのです。

五芒星
108度 72度 54度 36度 18度 の 魔星陣 五芒 星 ペンタグラム 星形5角形の内角 108度 です。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/245
約9度。 ☆(9度のズレ) ⇒そのときの様子は「 邪馬台国時代の北天の星空 」の 4枚目の作図。にあります。( http://blog.goo.ne.jp/himejiitikawa/e/eed21d5be5bf4ab1991f0ae387afb175
・星空の回転の中心(天の北極)の近くに二つの星(コカブとポラリス)
        ・北斗七星もズレる。全天ずれる。
・1400年前。聖徳太子の時代。
   半径、約7度。
      このころ、天の北極が(コカブ)付近から(ポラリス)の方に移動。
                   天帝・太極⇒⇒⇒天皇大帝・北辰?


1938荊の紀氏:2014/03/04(火) 09:47:21
謎のキリスト教
 管理人さん

はやし 浩司 氏が  まとめて 下さいました。








665J+636 靖国神社は日本の拠点だった【ナスカ理論による証明】 http://www.youtube.com/watch?v=EnRpf4FyJxw
はやし 浩司
647B+631+630 神々の謎、謎の神々(大日如来、天照大神、キリスト http://www.youtube.com/watch?v=XH7LSsohU8o

世論形成。



1939荊の紀氏:2014/03/05(水) 19:58:27
紀氏日記 2014年3月5日(水)
今日は霞ケ浦市 の学芸員さんのアドバイスで筑波大中央図書館に行きました。
朝から あいにくの雨、筑波大は38年ぶり、友達の看護婦の弟さんが医学部の寮に・・・
キャンパスが広いので、折りたたみ自転車を息子の愛車シルビア15の後部座席に、
近所のローソンで傘525円を購入、
筑波大学入口です守衛さんがいます。 ・・・とても親切な方でした。
筑波大学附属図書館
中央図書館カウンターサービスガイド http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/portal/chuo.php


1940荊の紀氏:2014/03/07(金) 14:23:40
パ. リサイ派
新約聖書の時代、イスラエルには旧約聖書. の解釈や考え方の違いから、いくつかの 宗教. グループが存在していました。その一つがパ. リサイ派です。彼らは、旧約聖書に 書かれて. いる律法を文字通りに守ることを強調しま. す http://chuo-e.com/Christ_Church/2012nian_files/2012.10.21.pdf#search='パ リサイ派'
パリサイ人、律法学者、祭司長。いずれも聖書の知識や実践においては専門家、プロと呼ばれる人たちです。
そんな人たちが、イエスを十字架に追いやります。
聖書知っているから大丈夫。
祈っているから間違うことはない。
もちろん、聖書の知識や祈りは大切です。
でも、それは私たちがパリサイ人のようにならないという保障にはならない。
牧師も教会も同じことをしでかす危険は十分にあります。

神話 シオン賢者の議定書(プロトコル) http://8906.teacup.com/toraijin/bbs


1941荊の紀氏:2014/03/22(土) 06:42:09
古墳 兼 測量台説・・・完結近し !
『常陸国風土記』を読み解いていて、『常陸国風土記』と『古事記』の記述から、舟塚山古墳の被葬者が誰なのかおおよその見当がついてきていたので、それではその被葬者の宮はどこにあって祖廟はどこに造られていたのだろうか?と考えていました。祖廟は被葬者の生前の宮のあった場所に造られていたはずだし、墓(古墳)は支配地を見渡すような場所に造られたはずだけれど、それはどこなのだろうか?と。tbasil2007/40690417.html
手子后神社が舟塚山古墳の近くにあるのであれば、もしかするとこの神社が祖廟なのかもしれない、と考えたので地図を探してみたのです。地図にはなかったので、場所を知りたくて調べているうちに意外なことが分かって来て、またズルズルと歴史の因果が繋がってきました(^o^)。
この被葬者は天津族ではなく国津神だったのですが、東征軍に加わって東国に来たのです。波崎・水戸・石岡という手子后神社の分布を見ると、タケミカヅチの軍の将軍としてタケミカヅチと共に行動していたようです。タケミカヅチは鹿嶋に上陸し、「三笠神」を祖廟に祀っていた鹿嶋の王(後の中臣氏の祖)に国譲りをさせて、鹿嶋を本拠地としましたから、その頃この被葬者は鹿嶋に近い波崎を本拠にしてここに祖廟を造ったのではないでしょうか。
その後、東征軍は北へと攻め上がり、大串付近に上陸して(以前pcat2sさまから折居神社のコメントを戴きましたよね)水戸へ行っています。この付近には鹿島神社・香取神社が数多く分布しており、水戸市内にはワケイカヅチを祀る「別雷神社」もあります。水戸の手子后神社はその頃に造られたものなのでしょう。
そして東征完了後にタケミカヅチは那珂国(なかのくに・当時「常陸国」という区分はなかった)の王となり、死後は水戸市の愛宕山古墳に葬られたのです。その後、その子孫は那珂国造となり、祖廟・大井神社にタケミカヅチを祀っています。
東征軍が水戸にいる間は、東征軍と笠間の石井・常北町の石塚(現・城里町)の甕星香香背男(みかほしのかかせお)の残存勢力との間で激しい戦いが続いていたようです。石塚での戦いでは東征軍が敗走し、タケミカヅチが命からがら草懸神社に隠れたことを、これも以前pcat2sさまのコメントで教えていただきましたね(^o^)。
http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/38931190.html?type=folderlist
http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/38956216.html?type=folderlist
この城里町上圷(旧桂村)にも手子后神社があるのです。舟塚山古墳の被葬者は、この戦でもタケミカヅチと共に甕星香香背男と戦ったようです。この神社は、元は「手子崎神社」だったのを徳川光圀が現在の社名に変えたのだそうです。常陸の歴史を探っていると、行く先々で光圀の足跡に遭遇するのですが、光圀はこれらのことを知ったため、「手子崎」を本来の「手子后」に戻したということなのではないでしょうか。光圀はタケミカヅチを祀る大井神社にも、草懸神社にも足を運んでいたことが両神社の由緒に記されていました(^o^)。
石岡の手子后神社の場所は「石岡市中津川字上ノ宮」で、地図では素鵞嗚神社・梨ノ木稲荷と表示されている所のようです。この地名と位置から見て、この被葬者は東征完了後に茨城国(うばらきのくに・石岡辺り)の王になって「中津川字上ノ宮」に宮を置いて祖先を手子后神社に祀り、死後は宮近くに造られた舟塚山古墳に葬られたのでしょう。愛宕山古墳と舟塚山古墳を比較してみると、よく似ていることが分かります。
http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/40690417.html

測量台説・・・ あとは どなたに公認・理解を求めるかが課題です。
    アドバイス よろしく御願い致します。
        棘の紀氏    デ華シタ。


1942秦野北斗:2014/03/23(日) 00:05:45
久々ですな。卑弥呼
信じたくないだろうな。古代の歴史が変わるな。

三角縁神獣鏡に保子の文字がある。保子は開花天皇になるが今回、保子の謎が解けたな。

陳寿は檀石槐(鮮卑)の誕生の言われを知っていた様だな。

桓帝(在位:146年 - 167年)の時代、父の投鹿侯が南匈奴に三年間従軍している間に、彼の妻は男子を産んだ。従軍から帰ってきた投鹿侯は自分が留守の間に妻が別の男と交わって産んだ子ではないかと疑い、その子を殺そうとした。そこで妻が「ある時の日中、外を歩いていると雷鳴が聞こえ、天を見上げると、雹が私の口に入ったので、飲み込んだところ、身重になり、10か月で子供が産まれました。この子はきっと非凡な力をもつにちがいありません」と助命をしたが、彼はそれを信じず、妻と離別した。妻はその男子を実家の部族で養育することにした。・・・天を見上げると、雹が私の口に入ったので・・・。雹の子=雹子=保子になる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/檀石槐

開花天皇は檀石槐になる。卑弥呼は檀石槐の孫。卑弥呼は鮮卑の皇女になる。

秦野著書;徐福と邪馬台国に京師の位置を記入してある。当時、遼東半島は檀石槐の勢力域になる。檀石槐は自らの領有する土地を東・中・西の三部に分けた。右北平から東方は遼東の夫余や濊貊(わいはく)と接するあたりまでの20余邑を東部、右北平から西の上谷に至るまでの10余邑を中部、上谷から西方の敦煌,烏孫に至るまでの20余邑を西部とし、各大人を置いて統領させた。この各大人の一人が卑弥呼になる。

卑弥呼の出生は匈奴になる。

三角縁神獣鏡(卑弥呼の鏡)

鏡の銘文を誰も正確に読んでいないので、秦野が鏡の銘文を読みます。説明のため(言+名)を銘と記している。

景初三年陳是作鏡自有経述本是京師杜地命出吏人銘之位至三公母人銘之保子宜孫寿如金石兮
景初三年、陳が自ら経述した鏡を作る。もとは京師(杜)の出、銘は位至三公の吏人、銘は母人(おものひと)、保子(開花天皇)の孫(卑弥呼)、金印(親魏倭王)をもって祝う。

陳:銘文の文脈から魏の明帝、または陳?
孫:宜孫、宜しい孫を約し孫
母:母屋(おもや)の母(おも)
杜地命出:杜(もり)、地命(地名):地名は杜、杜の出
(鎮守の杜:今は神社の杜になっている。本来は京師の杜駐屯地)
京師:韓半島(開城)の楽浪郡から西に2000里にある。駐屯地
金石:金印(親魏倭王)



1943管理人:2014/03/23(日) 06:28:03
Re: 古墳 兼 測量台説・・・完結近し !
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 『常陸国風土記』を読み解いていて、『常陸国風土記』と『古事記』の記述から、舟塚山古墳の被葬者が誰なのかお
> 測量台説・・・ あとは どなたに公認・理解を求めるかが課題です。
>     アドバイス よろしく御願い致します。
>         棘の紀氏    デ華シタ。
>

みなさん、おひさしぶりです。

そう、古墳=測量台説は、キシさんの著作が最初ではないですかね。
10年以上前でしょうか。その後、研究会報にても紹介・進展させた経緯があります。
測量道具としての銅鏡の使用、方位ラインの件も、会報で論じてきたとおりです。

もっとも古墳軸と方位ラインの件は、方位線研究でも以前からありましたからね。

ただ、どうも考古学会で、最近古墳と測量・方位の件を考慮することが、かなり浸透しつつあるんじゃないでしょうか?
なんとなくそんな気がしてます。さらに発展させて古墳=測量台という見方をさせていくならば、そうすると、まず彼らはキシさんの著作を引用しないで、無視してその研究を進めると、行く着くところはいわゆるオボカタさん問題になるわけですよね。キシさんが告訴する権利を持っているわけです。

そろそろキシさんの御著作が世に認められる時期も近いとおもいますよ・・・。


1944管理人:2014/03/23(日) 20:44:32
Re: 久々ですな。卑弥呼
秦野北斗さんへのお返事です。

> 信じたくないだろうな。古代の歴史が変わるな。
>
> 三角縁神獣鏡に保子の文字がある。保子は開花天皇になるが今回、保子の謎が解けたな。
>
> 陳寿は檀石槐(鮮卑)の誕生の言われを知っていた様だな。
>
> 桓帝(在位:146年 - 167年)の時代、父の投鹿侯が南匈奴に三年間従軍している間に、彼の妻は男子を産んだ。従軍から帰ってきた投鹿侯は自分が留守の間に妻が別の男と交わって産んだ子ではないかと疑い、その子を殺そうとした。そこで妻が「ある時の日中、外を歩いていると雷鳴が聞こえ、天を見上げると、雹が私の口に入ったので、飲み込んだところ、身重になり、10か月で子供が産まれました。この子はきっと非凡な力をもつにちがいありません」と助命をしたが、彼はそれを信じず、妻と離別した。妻はその男子を実家の部族で養育することにした。・・・天を見上げると、雹が私の口に入ったので・・・。雹の子=雹子=保子になる。
> http://ja.wikipedia.org/wiki/檀石槐
>


こんにちは。この文章はおもしろいですね。いわゆる処女懐胎です。
後に仏教説話で、聖徳太子の誕生の際にも、口から僧侶が入って妊娠する話がでてきます。
処女懐胎は、メソポタミア系、アッティス ー アドーニス ー オリシス神話とか、その辺の影響ではないでしょうか。

それがどうして朝鮮の神話に見えるかですね。




1945秦野北斗:2014/03/23(日) 23:33:55
Re: 久々ですな。卑弥呼
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0002025M.jpg

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun11-sintosho.htm



1946荊の紀氏:2014/03/25(火) 05:11:57
(無題)
>三角縁神獣鏡の測量用途については、分度器と定規代わりになるという点までは、実証できる自信があったのですが、その上に方位磁針の要素が加わるかどうかは、正直なところ、アイデアとしては出したものの、結果がでなくて、取り下げようかと思っていたところでした。

RE 管理人さん お世話になっております、分度器と定規代わりになる 3か所の前方後円墳を見つけました。(この遺跡地図は10年前の入手。)
分度器と定規代わりになっている古墳群?
昨日 GPSにて位置を計測してきました。
古墳を用いての測量手段、今回の第5号に・・・まにあえば?
この古墳 遺跡地図上では完璧な二等辺三角形 しかも この3地点しか 近隣に前方後円墳は有りません。
さらに 90度の角が  東西180度の角度のラインの対し東45度 西45度なのです。
偶然では無いとおもうのですが?
いかがでしょうか?


1947管理人:2014/03/25(火) 23:02:09
Re: 久々ですな。卑弥呼
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> 仲哀死、以開化曾孫女神功為王。次應神、次仁?、次履中、次反正、次允恭、次安康、次雄略、次清寧、次顯宗、次仁賢、次武烈、次繼體、次安閑、次宣化、次欽明。
>
>  仲哀が死に、開化の曾孫娘の神功を王とした。次は應神、次は仁?、次は履中、次は反正、次は允恭、次は安康、次は雄略、次は清寧、次は顕宗、次は仁賢、次は武烈、次は継体、次は安閑、次は宣化、次は欽明。
>
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun11-sintosho.htm
>


確かにキリスト教のマリア処女懐胎伝承も影響しているでしょうね。
話題のウクライナのちょっと東あたりの伝承が、ある時期にダイレクトに半島へと影響していきます。

それで、神功皇后、と応神の関係、これも同じ聖母子の同じモチーフなのですが、斉明と天智のそれとも関係していきます。

開化天皇の系譜に連ねているのが特徴で、いわゆる摂政・崇神とイヨの関係の系譜なのは、以前会報にも記したとおりです。イヨが神功のモデルなのですが、ここで、あれこれ系譜を整える必要があったわけですね。

彦坐王(日子坐命)と息長水依比売の子に、丹波道主王(たにわのみちぬしのみこ、旦波比古多多須美知能宇斯王)つまりタジマモリと、その娘・日葉酢媛命をもってきます。

タジマモリは、半島系の系譜ですね。これは、応神・仁徳の古い半島系のいわゆる河内王朝です。

ところが、それとは別に「袁祁都比売命(おけつひめのみこと、彦姥津命の妹)」
をこの系譜に植え付けるんですよね。

「袁祁」これが、継体王朝につらなる「オヲ・ヲケ」といった称号をもつ集団の系譜の祖です。

そして、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)を産むのですが、
ここで山代の地名が出てきます。

周囲は、尾張、近江、播磨方面なのに、彼だけ山代へと内陸へ進出していくようにみえます。

かれが神功皇后の曽祖父・但馬国造の祖というので、どうして但馬まで戻るのかが課題になるのですが、

山代は、石川にもあるんですよね。

ただ京都にもあって、筒城宮 (京都府京田辺市) - 第26代継体天皇
となるわけです。

この「ツヅキ」が、つまり皇子の名前なのですが、

ともあれ継体系ということです。

結局、継体を擁立したのは、北燕遺民で東欧系の金属集団を率いていた新漢人で、聖徳太子や天智まで影響をおよぼします。


開化の率川宮周辺は南方海人族の進出地で、元はオオヒコ系だったのですが、その後ある時期から、新漢人系の中臣氏らが関わってきて、春日云々となっていく経緯があります。

この辺の領地分割の経緯ですね。もっと整理しないといけないのですが、
其の中から、アマテラス・スサノオ・ツキヨミの典型的な東欧神話のモチーフとキリスト教教義とがくっついたものとが宮中に入り込んでいって、処女懐胎伝承へとつながっていったんでしょう。一部仏教化して太子関連のそれとむすびつくんじゃないかな?

上宮帝説。 http://ja.wikipedia.org/wiki/

法隆寺、天寿国繡帳、中東系。

山代大兄ですね。聖徳太子、穴ホベ間人、


宣化・敏達・橘(タジマモリ関連)で、ツヅキの領地を継承しているのかもしれませんね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/

押坂彦人大兄皇子が、また上記の系統。

1948管理人:2014/03/25(火) 23:05:06
Re: (無題)
荊の紀氏さんへのお返事です。


> RE 管理人さん お世話になっております、分度器と定規代わりになる 3か所の前方後円墳を見つけました。(この遺跡地図は10年前の入手。)
> 分度器と定規代わりになっている古墳群?
> 昨日 GPSにて位置を計測してきました。
> 古墳を用いての測量手段、今回の第5号に・・・まにあえば?
> この古墳 遺跡地図上では完璧な二等辺三角形 しかも この3地点しか 近隣に前方後円墳は有りません。
> さらに 90度の角が  東西180度の角度のラインの対し東45度 西45度なのです。
> 偶然では無いとおもうのですが?
> いかがでしょうか?
>

了解です。原稿たのしみにお待ちしてます。

1949秦野北斗:2014/03/26(水) 09:08:49
Re: 久々ですな。卑弥呼
管理人さんへのお返事です。

どうも、話しが堂々巡りするな。

管理人さんは歴史の流れ、時間軸の感覚が無いのでは。

童話にも当時の社会背景があるが・・。疑う。



1950荊の紀氏:2014/03/30(日) 13:57:59
改竄されています。
>三角縁神獣鏡の測量用途については、分度器と定規代わりになるという点までは、実証できる自信があったのですが、その上に方位磁針の要素が加わるかどうかは、正直なところ、アイデアとしては出したものの、結果がでなくて、取り下げようかと思っていたところでした。

↑・・・書き込みしていません。・・・ウイルス?・・・観視されています。

管理人えのメール

RE 管理人さん お世話になっております、分度器と定規代わりになる 3か所の前方後円墳を見つけました。(この遺跡地図は10年前の入手。)
分度器と定規代わりになっている古墳群?
昨日 GPSにて位置を計測してきました。
古墳を用いての測量手段、今回の第5号に・・・まにあえば?
この古墳 遺跡地図上では完璧な二等辺三角形 しかも この3地点しか 近隣に前方後円墳は有りません。
さらに 90度の角が  東西180度の角度のラインの対し東45度 西45度なのです。
偶然では無いとおもうのですが?
いかがでしょうか?

>三角縁神獣鏡の測量用途については、分度器と定規代わりになるという点までは、実証できる自信があったのですが、その上に方位磁針の要素が加わるかどうかは、正直なところ、アイデアとしては出したものの、結果がでなくて、取り下げようかと思っていたところでした。

 ↑ 私の書き込みでは 有りません。
   

1951荊の紀氏:2014/03/30(日) 14:04:34
管理人さんへのメール
>三角縁神獣鏡の測量用途については、分度器と定規代わりになるという点までは、実証できる自信があったのですが、その上に方位磁針の要素が加わるかどうかは、正直なところ、アイデアとしては出したものの、結果がでなくて、取り下げようかと思っていたところでした。

RE 管理人さん お世話になっております、分度器と定規代わりになる 3か所の前方後円墳を見つけました。(この遺跡地図は10年前の入手。)
分度器と定規代わりになっている古墳群?
昨日 GPSにて位置を計測してきました。
古墳を用いての測量手段、今回の第5号に・・・まにあえば?
この古墳 遺跡地図上では完璧な二等辺三角形 しかも この3地点しか 近隣に前方後円墳は有りません。
さらに 90度の角が  東西180度の角度のラインの対し東45度 西45度なのです。
偶然では無いとおもうのですが?
いかがでしょうか?


1952荊の紀氏:2014/03/30(日) 17:51:51
アドバイス 願います。
管理人さん こんばんは お世話になって居ります。
渡来人5号の原稿ですが、「古墳(兼)測量台説」のサンプルを常陸の国の国府にすることにしました。
石岡市北根本694番街地 愛宕塚古墳(前方後円墳)6世紀ごろ
   同じく       舟塚山古墳(前方後円墳)5世紀ごろ
石岡市中津川639    手子后神社(前方後円墳) 不明

舟塚山古墳(円・中心)を起点として北西に45度手子后神社
                 北東に45度(円・頭頂部)愛宕塚古墳
舟塚山古墳(円・中心)部が東西45度の挟まれた90度(直角)で愛宕塚古墳から西北西(60度)に手子后神社の直角二等辺三角形を成しています。
さらに
舟塚山古墳の方墳部(西側)― 愛宕塚山古墳の方墳部(西側)に舟塚山古墳―手子后神社ラインと交差(内角108度)
愛宕塚山の(円・北)部―手子后神社ライン 内角54度
手子后神社ー愛宕塚山の(円・北)部ラインと
手子后神社ー舟塚山古墳(円・中心)ラインの内角36°
 五芒星の角度と五芒星の角度を共有してるのです。
さらに 旧石岡市取り囲む近隣市町村との境に有る 前方後円墳(古墳群)と規則的なのです。
 図面を送りますので アドバイス 願います。


1953管理人:2014/03/30(日) 21:03:37
Re: アドバイス 願います。
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さん こんばんは お世話になって居ります。
> 渡来人5号の原稿ですが、「古墳(兼)測量台説」のサンプルを常陸の国の国府にすることにしました。
> 石岡市北根本694番街地 愛宕塚古墳(前方後円墳)6世紀ごろ
>    同じく       舟塚山古墳(前方後円墳)5世紀ごろ
> 石岡市中津川639    手子后神社(前方後円墳) 不明
> さらに 旧石岡市取り囲む近隣市町村との境に有る 前方後円墳(古墳群)と規則的なのです。
>  図面を送りますので アドバイス 願います。
>

キシさん、こんにちは。ちょっと図にしてみるといいですよ。掲示板のほうにその図をアップしてくだされば、その精度や是非について、アドバイスできるかと思います。


1954荊の紀氏:2014/03/31(月) 08:33:32
Re: アドバイス 願います。
管理人さんへのお返事です。

> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> > 管理人さん こんばんは お世話になって居ります。
> > 渡来人5号の原稿ですが、「古墳(兼)測量台説」のサンプルを常陸の国の国府にすることにしました。
> > 石岡市北根本694番街地 愛宕塚古墳(前方後円墳)6世紀ごろ
> >    同じく       舟塚山古墳(前方後円墳)5世紀ごろ
> > 石岡市中津川639    手子后神社(前方後円墳) 不明
> > さらに 旧石岡市取り囲む近隣市町村との境に有る 前方後円墳(古墳群)と規則的なのです。
> >  図面を送りますので アドバイス 願います。
> >
>
> キシさん、こんにちは。ちょっと図にしてみるといいですよ。掲示板のほうにその図をアップしてくだされば、その精度や是非について、アドバイスできるかと思います。
>

谺。縺ョ繝輔ぃ繧、繝ォ縺セ縺溘・繝ェ繝ウ繧ッ繧呈キサ莉倥@縺ヲ縲√Γ繝・そ繝シ繧ク繧帝?∽ソ。縺吶k貅門y縺後〒縺阪∪縺励◆:

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1955荊の紀氏:2014/03/31(月) 08:46:54
Re: アドバイス 願います。
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > 荊の紀氏さんへのお返事です。
> >
> > > 管理人さん こんばんは お世話になって居ります。
> > > 渡来人5号の原稿ですが、「古墳(兼)測量台説」のサンプルを常陸の国の国府にすることにしました。
> > > 石岡市北根本694番街地 愛宕塚古墳(前方後円墳)6世紀ごろ
> > >    同じく       舟塚山古墳(前方後円墳)5世紀ごろ
> > > 石岡市中津川639    手子后神社(前方後円墳) 不明
> > > さらに 旧石岡市取り囲む近隣市町村との境に有る 前方後円墳(古墳群)と規則的なのです。
> > >  図面を送りますので アドバイス 願います。
> > >
> >
> > キシさん、こんにちは。ちょっと図にしてみるといいですよ。掲示板のほうにその図をアップしてくだされば、その精度や是非について、アドバイスできるかと思います。
> >
>
> 谺。縺ョ繝輔ぃ繧、繝ォ縺セ縺溘・繝ェ繝ウ繧ッ繧呈キサ莉倥@縺ヲ縲√Γ繝・そ繝シ繧ク繧帝?∽ソ。縺吶k貅門y縺後〒縺阪∪縺励◆:
>
> IMG_20140329_0002
>
IMG_20140329_0002

1956荊の紀氏:2014/03/31(月) 09:41:34
画像


1957管理人:2014/04/12(土) 01:07:35
Re: 画像
荊の紀氏さんへのお返事です。

>

うまく画像がアップされてないようですが・・・。アップ可能なのは1mbまでです。

1958荊の紀氏:2014/04/21(月) 00:24:40
Re: 画像
管理人さんへのお返事です。

> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> >
>
> うまく画像がアップされてないようですが・・・。アップ可能なのは1mbまでです。



167KB でした・・・とほほ!

1959通りすがり:2014/04/22(火) 00:47:17
Re: 画像
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > 荊の紀氏さんへのお返事です。
> >
> > >
> >
> > うまく画像がアップされてないようですが・・・。アップ可能なのは1mbまでです。
>
>
>
> 167KB でした・・・とほほ!


・・画像はファイル形式をgifなどに変換し小さくするとアップできるでしょう。

でも、1mb>167KBなら可能なはずですが?

1960管理人:2014/04/22(火) 03:56:01
Re: 画像
アップロード可能な形式(各4MB以内):
画像(gif,png,jpg,bmp) 音楽(mmf,mld) 動画(amc,3gp,3g2)


だそうです。



荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> > 管理人さんへのお返事です。
> >
> > > 荊の紀氏さんへのお返事です。
> > >
> > > >
> > >
> > > うまく画像がアップされてないようですが・・・。アップ可能なのは1mbまでです。
> >
> >
> >
> > 167KB でした・・・とほほ!
>
>
> ・・画像はファイル形式をgifなどに変換し小さくするとアップできるでしょう。
>
> でも、1mb>167KBなら可能なはずですが?

1961荊の紀氏:2014/04/30(水) 09:35:28
Re: 画像
管理人さんへのお返事です。

> アップロード可能な形式(各4MB以内):
> 画像(gif,png,jpg,bmp) 音楽(mmf,mld) 動画(amc,3gp,3g2)
>
>
> だそうです。
>
>
>
>??荊の紀氏さんへのお返事です。
> >
> > > 管理人さんへのお返事です。
> > >
> > > > 荊の紀氏さんへのお返事です。
> > > >
> > > > >
> > > >
> > > > うまく画像がアップされてないようですが・・・。アップ可能なのは1mbまでです。
> > >

C:\Users\保田篤也\Documents\IMG_20140329_0002.zip
うまくいきますように。

> > >
> > >
> > > 167KB でした・・・とほほ!
> >
> >
> > ・・画像はファイル形式をgifなどに変換し小さくするとアップできるでしょう。
> >
> > でも、1mb>167KBなら可能なはずですが?

1962荊の紀氏:2014/05/01(木) 05:50:55
4000年前の中国の「世界地図」が発見
4000年前の中国の「世界地図」が発見された!?:
http://quasimoto.exblog.jp/18947799/
古代研究者のシャーロット・ハリス・リースは、父親が集めていた古地図コレクションから、古いアジア製の地図を見つけた。この地図は中国のものと思われ、そこには4000年前の世界が描かれており、アメリカ大陸の海岸線がはっきり描かれている。

じゅんしゅ【巡狩 xún shòu】
中国で天子が天下をめぐり,地方の政治や民の生活状態を視察すること。巡守とも書く。《書経》舜典によると,舜は5年に1度天下をめぐり,諸国の君主に政治のやり方を奏上させ,舜は調べて功績があれば車馬や衣服を与えたといわれる。歴史上,大規模な巡狩を行ったのは秦の始皇帝で,天下を統一すると文武百官をしたがえて毎年のように各地を巡幸した。これは新しく征服した諸国の民衆に対して,巡狩に名を借りた示威行動であった。
《書経》の〈禹貢〉は伝承上の天子禹が,治水のために全国を巡行した記録とされるが,中原の漢民族の文化が,さまざまの旅行者によって各地へ広められ,国土が統一されていく過程を示したものであろう。…
http://kotobank.jp/word/巡狩

禹(う、紀元前2070年頃)は中国古代の伝説的な帝で、夏朝 の創始者。名は、文命(ぶんめい)、大禹、夏禹、戎禹ともいい、姓は姒(じ)、夏王朝創始 後、氏を夏后とした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

紀元前2100年 - 中国最古の王朝である夏を禹が建国したか(紀元前2070年説もある)。
紀元前2100年頃 - 現存する最古の法典「ウル・ナンム法典」が編纂される。 ウル第3王朝のウル・ナンム在位中(紀元前2115年頃 - 紀元前2095年頃)の頃とされる。

紀元前2100-2050年頃 - ウル遺跡のジッグラト「エ・テメン・ニグル」が建設された。
紀元前2091年 - アブラハム、イサク、ヤコブによる家父長時代が始まった。
紀元前2080年 - エジプト第9王朝で戦争が始まった。
紀元前2071年 - アイルランド神話に記録された最初の戦争であるMagh Itheが始まった。
紀元前2070年 - 中国最古の王朝である夏を禹が建国したか(紀元前2100年説もある)。
紀元前2064-1986年 - エジプトのネンネス(ヘラクレオポリス)政権(第10王朝)とテーベ政権(第11王朝)の間で抗争が続いた。
紀元前2060年頃 - テーベ政権のメンチュヘテプ2世が即位。
紀元前2049年 - シーヘンジのオークの木が倒れた。
紀元前2040年頃 - メリカラーの死によりエジプト第10王朝が衰退。
紀元前2040年頃 - テーベ政権のメンチュヘテプ2世のエジプトの再統一。 第11王朝メンチュヘテプ2世の全エジプト支配により、第一中間期は終わり中王国時代が始まる。

紀元前2034-2004年 - ウルとアムルの間で戦争が起こった。
紀元前2017年頃 - アムル人イシュビ・エッラがウルから独立しイシン第1王朝を成立させる。
紀元前2009-1997年頃 - メンチュヘテプ3世の墓が建設された。
紀元前2004年頃 - エラムがウルを破壊した。ウル第3王朝の滅亡。『ウル市滅亡哀歌』はこの事件によって書かれた記録。 ウル滅亡後にエラムを追い払いイシン第一王朝がこの地を征服。イシン・ラルサ時代が始まる。

紀元前2004年頃 - メンチュヘテプ2世が死去した。

主な人物[編集]
ウル・ナンム - ウル第3王朝の王
シュルギ - ウル第3王朝の王
アブラハム - ユダヤ教、キリスト教、イスラム教で最初の預言者。(紀元前19世紀、紀元前17世紀、紀元前16世紀、紀元前15世紀との説も)
ラーマ - ヴィシュヌの7つ目のアヴァターラ

誕生[編集]
シラ(紀元前2067年-紀元前1634年) - アルパクサデの息子
エベル(紀元前2037年-紀元前1573年) - シラの息子
ペレグ(紀元前2003年-紀元前1764年) - エベルの息子

発明・発見[編集]
法律 - 紀元前2100年、メソポタミアのウル・ナンムの下で最初の法律ができた。
茶 - 紀元前2037年、古代中国の皇帝神農は生の葉を茹でて茶を作った。


1963管理人:2014/04/03(木) 22:39:56
Re: 4000年前の中国の「世界地図」が発見
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 4000年前の中国の「世界地図」が発見された!?:
> http://quasimoto.exblog.jp/18947799/
> 古代研究者のシャーロット・ハリス・リースは、父親が集めていた古地図コレクションから、古いアジア製の地図を見つけた。この地図は中国のものと思われ、そこには4000年前の世界が描かれており、アメリカ大陸の海岸線がはっきり描かれている。
>


興味深い地図ですね。明朝の1500年代初頭の地図のようです。
日本については、まだほとんど知られてない状態なので、かなりアバウトな描き方になってますが、九州が大きいですね。本州はそれに比して小さい。

その他、南と東の離れたところに別の島があります。伝承上の島でしょう。
女王国とか黒歯國とか、いろいろですね。

あとzipファイルはアップロードできないので、解凍してアップしてください。

1964荊の紀氏:2014/04/04(金) 14:20:30
Re: 4000年前の中国の「世界地図」が発見
管理人さんへのお返事です。

> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> > 4000年前の中国の「世界地図」が発見された!?:
> > http://quasimoto.exblog.jp/18947799/
> > 古代研究者のシャーロット・ハリス・リースは、父親が集めていた古地図コレクションから、古いアジア製の地図を見つけた。この地図は中国のものと思われ、そこには4000年前の世界が描かれており、アメリカ大陸の海岸線がはっきり描かれている。
> >
>
>
> 興味深い地図ですね。明朝の1500年代初頭の地図のようです。
> 日本については、まだほとんど知られてない状態なので、かなりアバウトな描き方になってますが、九州が大きいですね。本州はそれに比して小さい。
>
> その他、南と東の離れたところに別の島があります。伝承上の島でしょう。
> 女王国とか黒歯國とか、いろいろですね。
>
> あとzipファイルはアップロードできないので、解凍してアップしてください。


解凍してアップですが、ソフトのダウンロードが恐怖でして・・・

↓ の方法では?

  無知なる挑戦の結果 ↓。
手子后神社
茨城県石岡市中津川639
座標系番号
9
X座標
19147.9
Y座標
40748.9
緯度
36.171725
経度
140.286304

愛宕山古墳
石岡市北根本694番外地
N36°10、04−1200
E140°17,23.09970
   ↑
300m離れているそうです。
   ↓

石岡市北根本694番外地
N36°10‘8967‘‘
E140°17‘393064

経緯度目盛の読み方 http://www.aokids.jp/others/keiido.html

距離と方位角の計算 http://surveycalc.gsi.go.jp/sokuchi/surveycalc/bl2stf.html
【緯度・経度の値の入力例(度分秒)】
 緯度 36° 6′13.5892″ →  360613.5892
 経度 140° 5′16.2781″ →??1400516.2781
    ddd mm ss.s ?? →??dddmmss.s

計算結果

入力値
?? 楕円体 GRS80
出発点 緯度 北緯 36°10′04.1200″
経度 東経 140°17′23.0997″
到着点 緯度 北緯 36°10′00.8967″
経度 東経 140°17′29.3064″

出力値
測地線長 184.209(m)
方位角 出発点→到着点 122°38′17.21″
到着点→出発点 302°38′20.88″

愛宕山古墳

入力値
?? 楕円体 GRS80
出発点 緯度 北緯 36°10′04.1200″
経度 東経 140°17′23.0997″
到着点 緯度 北緯 0°36′17.1725″
経度 東経 1°40′28.6304″

出力値
測地線長 14,114,323.450(m)
方位角 出発点→到着点 304°31′30.31″
到着点→出発点 41°45′11.64″

舟塚山古墳から手子后神社
計算結果

入力値
?? 楕円体 GRS80
出発点 緯度 北緯 0°36′10.8967″
経度 東経 140°17′23.0997″
到着点 緯度 北緯 0°36′17.1725″
経度 東経 1°40′17.2931″

出力値
測地線長 15,429,036.336(m)
方位角 出発点→到着点 271°36′47.78″
到着点→出発点 88°23′14.55″

 ↑の結果  入力ミスと思います
管理人さん宜しくお願い致します。

    トホホの紀氏デシタ。


1965荊の紀氏:2014/04/04(金) 15:03:20
地図では素鵞嗚神社

石岡の手子后神社の場所は「石岡市中津川字上ノ宮」で、地図では素鵞嗚神社・梨ノ木 稲荷と表示されている所のようです。 http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/40690417.html
この被葬者は天津族ではなく国津神だったのですが、東征軍に加わって東国に来たのです。波崎・水戸・石岡という手子后神社の分布を見ると、タケミカヅチの軍の将軍としてタケミカヅチと共に行動していたようです。タケミカヅチは鹿嶋に上陸し、「三笠神」を祖廟に祀っていた鹿嶋の王(後の中臣氏の祖)に国譲りをさせて、鹿嶋を本拠地としましたから、その頃この被葬者は鹿嶋に近い波崎を本拠にしてここに祖廟を造ったのではないでしょうか。
その後、東征軍は北へと攻め上がり、大串付近に上陸して(以前pcat2sさまから折居神社のコメントを戴きましたよね)水戸へ行っています。この付近には鹿島神社・香取神社が数多く分布しており、水戸市内にはワケイカヅチを祀る「別雷神社」もあります。水戸の手子后神社はその頃に造られたものなのでしょう。
そして東征完了後にタケミカヅチは那珂国(なかのくに・当時「常陸国」という区分はなかった)の王となり、死後は水戸市の愛宕山古墳に葬られたのです。その後、その子孫は那珂国造となり、祖廟・大井神社にタケミカヅチを祀っています。
東征軍が水戸にいる間は、東征軍と笠間の石井・常北町の石塚(現・城里町)の甕星香香背男(みかほしのかかせお)の残存勢力との間で激しい戦いが続いていたようです。石塚での戦いでは東征軍が敗走し、タケミカヅチが命からがら草懸神社に隠れたことを、これも以前pcat2sさまのコメントで教えていただきましたね(^o^)。
http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/38931190.html?type=folderlist
http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/38956216.html?type=folderlist
この城里町上圷(旧桂村)にも手子后神社があるのです。舟塚山古墳の被葬者は、この戦でもタケミカヅチと共に甕星香香背男と戦ったようです。この神社は、元は「手子崎神社」だったのを徳川光圀が現在の社名に変えたのだそうです。常陸の歴史を探っていると、行く先々で光圀の足跡に遭遇するのですが、光圀はこれらのことを知ったため、「手子崎」を本来の「手子后」に戻したということなのではないでしょうか。光圀はタケミカヅチを祀る大井神社にも、草懸神社にも足を運んでいたことが両神社の由緒に記されていました(^o^)。


府中愛宕山古墳  地図 http://www.city.ishioka.lg.jp/page/page000881.html
府中愛宕山古墳は、舟塚山古墳の北方約300mの距離にある全長約100mの前方後円墳です。5世紀の終わり頃から6世紀の初め頃、今から1500年程前に造られたと考えられています。
明治30年頃、坪井正五郎博士によって発掘されましたが、主体部や副葬品は見当らず、土師器7個が出土しただけと伝えられています。
水運で栄えた高浜の地にある古墳らしく、霞ヶ浦に舟を乗り出す形なので、出舟ともいわれています。


1966荊の紀氏:2014/04/05(土) 08:32:41
エゴマ(荏胡麻)
縄文時代中期の住居跡から出土したエゴマの炭化種子
ごま【ゴマ】 《栄養と働き》 ゴマの原産地はインド、エジプトといわれています。わが国へ は奈良時代に仏教とともに伝えられ、禅僧の精進料理として、とうふとともに利用され ていたといいます。平安時代にはゴマから油を絞っていたという記録があります。 http://kotobank.jp/word/ゴマ
奈良時代に仏教とともに伝えられ、禅僧の精進料理として、とうふとともに利用されていたといいます。

荒神山遺跡 湖南・大熊
 縄文時代から中・近世にわたり断続的に集落が営まれてきた、典型的な「複合遺跡」です。中央自動車道建設工事に先立ち発掘調査が行われ、数多くの遺構と遺物が見つかりました。なかでも特に、縄文時代中期の住居跡から出土したエゴマの炭化種子は当時すでに植物栽培が行われていた可能性を示すものとして注目を集めました。

エゴマ(荏胡麻、学名:Perilla frutescens var. frutescens)はシソ科の一年草。シソ(青紫蘇)とは同種の変種。東南アジア原産とされる。地方名に「ジュウネン」(食べると十年長生きできる、という謂れから)などがある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/エゴマ
日本ではインド原産のゴマよりも古くから利用されている。考古学においてはエゴマをはじめとするシソ属種実の検出が縄文時代早期から確認されており、エゴマ種実は縄文中期の長野県荒神山遺跡で検出されている[1]。また、クッキー状炭化物からも検出されていることから食用加工されていたと考えられており、栽培植物としての観点から縄文農耕論においても注目されている。中世から鎌倉時代ごろまで、搾油用に広く栽培され、荏原など、地名に「荏」が付く場所の多くは栽培地であったことに由来する。

穴場遺跡(縄文時代中期)からガラス小玉が出土したのがとにかく目を引きました。(写真2・一番下)
中国大陸からの輸入品だとしたら、縄文人の交易範囲が日本列島の外に広がっていた物証になりますね。
弥生人のほうがある意味内向的だったのか??

もう一つ目を引いたのは福松砥沢遺跡、村外れに集積されていた黒曜石原石3Kg。(写真2・下から2番目)
貨幣的価値があるものを備蓄しておく習慣がこのころに始まっていることを示している遺構になります。

宮坂光昭氏がなくなったいま、藤森栄一氏の築いた諏訪考古学を誰が引き継ぐことになるのか、
「霧の子孫たち」の動向は眺めていて飽きませんね。
それではまた・・・ http://6215.teacup.com/aokusa/bbs/


1967荊の紀氏:2014/04/05(土) 21:05:47
淡路島には古墳が存在しない
今日 水戸歴史館の学芸員んじょかたとお話しました、そこで淡路島には古墳が存在しないとのことでした。

列島の中心点を貫く淡路島のレイライン | 日本とユダヤのハーモニー
古代、島々を旅する民が日本列島を廻った際、列島の中心として注目されたのが淡路島 と推定されます。琉球地域から大海原を南西諸島が並ぶ方向に沿って北東に航海すれ ば、四国、瀬戸内海へと繋がる一連の列島が本州に突き当たる所に、淡路島を見出す ... http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=204


1968管理人:2014/04/05(土) 23:03:16
Re: 淡路島には古墳が存在しない
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 今日 水戸歴史館の学芸員んじょかたとお話しました、そこで淡路島には古墳が存在しないとのことでした。
>

なるほどですね。あそこは屯倉制の時代になると測量拠点として神社とともに出てきますが、それ以前はもしかすると、あまり測量的な意味のない地点だったのかもしれませんね。もっとも南方海人族の世界だから、円墳とかなら出て来る可能性はあるとおもいますが・・。

1969荊の紀氏:2014/04/07(月) 07:49:58
レイライン 縄文 参考HP
「日本とユダヤのハーモニー」は地域新聞/成田シティジャーナル(現・日本シティジャーナル」に2002年以来連載されてきている同題のコラム内容を、再編纂し改訂を加え、その最新版を掲載するスペシャルWEBサイトです。古代史を散策しながら、数々の謎の真相に一歩でも近づくための新しい手掛かりを、様々な史料や遺跡から見出し、歴史の流れを再検証することを目指しています。私たちの愛するこの国日本の根底に流れる、未来へ希望をもたらす新たな心のメロディとの“ハーモニー”をお楽しみください。
日本シティジャーナル http://www.historyjp.com/all_index.asp
イスラエル神宝と三種の神器

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2.応神天皇と八幡神社2012/07/02

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1.弘法大師が「いろは歌」の作者か2012/05/25
2.暗号文としての「いろは歌」2012/05/25
3.「さくらさくら」は神隠し2012/05/26

古代史の謎を説き明かす歌最終更新日

「さくらさくら」は神隠し
1.八重桜の秘密とは パート12002/07/15
2.八重桜の秘密とは パート22002/08/15

「君が代」に秘められたユダヤルーツ
3.君が代の成り立ち2012/05/28
4.「君が代」に潜むイスラエルの影2012/05/28
5.ヘブライ語で読む「君が代」2012/05/28
6.言葉遊びの視点から「君が代」を解明2012/05/28

「かごめかごめ」の真相にせまる最終更新日
1.「かごめかごめ」の真相にせまる2012/07/09

空海の想い最終更新日

宗教界のマスターマインド空海
1.平安京を支えた空海の働き2012/07/18
2.四国剣山にも関連する平安京の位置づけ2012/07/18
3.若き日の空海の苦悩と信念2012/07/18
4.平安初期を賑わす怨霊の大問題2012/07/18
5.怨霊退治と神宝の処遇を任せられた空海2012/07/18
6.空海の知られざる七年間の意味2012/07/18
7.渡来人が大活躍する古代社会2012/07/18
8.阿刀氏が優れた宗教家である理由2012/07/18
9.旧約聖書が証する阿刀氏の出自2012/07/18

剣山への空海の想い
10.剣山への空海の想い2012/07/24
11.剣山を囲む四国八十八ヶ所の意味2012/07/24
12.秘宝が埋蔵された状況証拠2012/07/24
13.剣山の水に潜む救いのメッセージ2012/07/24
14.2つの吉野川の秘密とは2012/07/24

日本の唱に秘められたイスラエルの知恵最終更新日

日本語のルーツ
1.「弥生」に込められた意味とは!2012/05/21
2.Yahoo!に潜むユダヤのメッセージ2012/05/21
3.よいしょ!どっこいしょ!はヘブライ語の祈り2012/05/21

囃子詞謎はヘブライ語で理解できる!
4.囃子詞のルーツはヘブライ語だ!2012/05/21
5.ソーラン節はヘブライ語の行進賛歌だった!2012/05/21
6.東北民謡のルーツもヘブライ語か!2012/05/21
7.囃子詞に潜むメシアへの叫びとは2012/05/21
8.歴史に名を残す著名な民謡の証とは2012/05/21

神楽歌に秘められたヘブライルーツ
9.神座と神楽の謎2008/05/15
10.最古の和歌に込められた祈りとは2008/06/15
11.神楽歌と「出エジプト記」の不思議な関係2008/07/15

付録・詞に秘められた謎
12.秋田音頭に響き渡るヘブライ語の掛け声!2006/06/15
13.秋田民謡に潜むヘブライ語の数々2006/07/15
14.ヘブライ語が解明するさんさ時雨のメインテーマ2006/08/15
15.さんさ時雨の歌詞をヘブライ語で検証する!2006/09/15
16.ヘブライ語で解明できる囃子詞の数々2006/10/15
17.『大魚唄い込み』のヘブライ語とは2006/11/15
18.『大魚祝唄』の囃子詞に秘められた新天地への想い2006/12/15
19.驚くべきメッセージ「庄内おばこ」に2007/01/15
20.昭和の民謡に息吹くヘブライ語の囃子詞2007/02/15
21.福島県民謡に潜むユダヤの告白とは2007/03/15
22.関東民謡にも潜むヘブライ語の影2007/04/15
23.甲信越地方の山々に響くヘブライ語民謡2007/05/15
24.続・甲信越地方の山々に響くヘブライ語民謡2007/06/15
25.こきりこ節に秘められたユダヤ民族の史実2007/07/15
26.富山民謡の響きに込められた思いとは2007/08/15
27.能登民謡で叫ばれた励ましのヘブライ語2007/09/15
28.囃子詞に秘められたヒュールリーの秘密2007/10/15
29.三国節に潜む岩の真実とは!2007/11/15
30.囃子詞に秘められたユダヤの影2007/12/15

平仮名と片仮名の起源最終更新日

片仮名の起源に潜むヘブライ文化
1.古ヘブライ文字とアラム文字をルーツに片仮名は草案されたか!2012/08/13

日本語表記の移り変わり
2.平仮名がヘブライ・パルミラ文字から創作された経緯と根拠2012/09/14

イスラエル神宝と三種の神器最終更新日
1.神の平安が宿る新しいエルサレムとは? 2005/04/15
2.聖書が証する神宝持出しの真実2012/07/06
3.聖地を結ぶ不思議な一致は偶然か?2009/06/15
4.空海の存在とカゴメ印の不思議に迫る2009/07/15


1970荊の紀氏:2014/04/07(月) 14:10:23
中津川・北根本 の地図です。
地理院地図(電子国土Web))
中心緯度経度:
36.169171,140.290104
http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/index.html#zoom=17&lat=36.16917&lon=140.2901&layers=BTTT

舟塚山古墳の北東道路を越える   愛宕山古墳のシルエットな見えますよね?

   宜しくお願い致します。

 追伸・・・パクラレ? 「 畿内の意向配置にみる古代の土木技術 」
    都市計画基本線の存在    建設技術研究所 正会員 須股孝信 論文

(その4) http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1993/13-0397.pdf#search='畿内の意向配置にみる古代の土木技術'
Page 1 ... (そのー) ~ (その3) ー)では、 古代の畿内に東西・ 南北の直交座標軸と都市 計画基本線 (仮称). が置かれたことを提唱 し、 ... これらの大土木事業を可能にした 当時の国 ... は問ー ー7以降にも共通して見られ、 長距離間の測定・位置設定等 .... ー) 彡真股孝信 「畿内の遺構配置にみる古代の土木技術 (その ー ~その3) 」 ・ 土木学会日 .


1971荊の紀氏:2014/04/07(月) 14:16:56
Re: 中津川・北根本 の地図です。
1990年・・・無年(念)デス。
第10回土木史研究発表会
日時
1990年6月29日〜30日
会場
日本大学理工学部
畿内の遺構配置にみる古代の土木技術(その1) -都市計画基本線の存在-
須股孝信(?建設技術研究所)
古代、測量、都市計画


> 地理院地図(電子国土Web))
> 中心緯度経度:
> 36.169171,140.290104
> http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/index.html#zoom=17&lat=36.16917&lon=140.2901&layers=BTTT
>
> 舟塚山古墳の北東道路を越える   愛宕山古墳のシルエットな見えますよね?
>
>    宜しくお願い致します。
>
>  追伸・・・パクラレ? 「 畿内の意向配置にみる古代の土木技術 」
>     都市計画基本線の存在    建設技術研究所 正会員 須股孝信 論文
>
> (その4) http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1993/13-0397.pdf#search='畿内の意向配置にみる古代の土木技術'
> Page 1 ... (そのー) ~ (その3) ー)では、 古代の畿内に東西・ 南北の直交座標軸と都市 計画基本線 (仮称). が置かれたことを提唱 し、 ... これらの大土木事業を可能にした 当時の国 ... は問ー ー7以降にも共通して見られ、 長距離間の測定・位置設定等 .... ー) 彡真股孝信 「畿内の遺構配置にみる古代の土木技術 (その ー ~その3) 」 ・ 土木学会日 .
>


1972秦野北斗:2014/04/07(月) 20:21:44
サクラ(咲く羅)
サクラを古代史から創作すると・・。

羅国の花になるな。ヒマラヤ・・以下

サクラ(咲く羅)

生態
ソメイヨシノの紅葉
サクラのおおもとの原産地はヒマラヤ近郊と考えられており、北半球の温帯に広範囲に分布している。日本では、ほぼ全土で何らかの種類が生育可能である。さまざまな自然環境に合わせて多様な種類が生まれており、日本においてもいくつかの固有種が見られる。たとえばソメイヨシノの片親であるオオシマザクラは伊豆大島など、南部暖帯に自生する固有種とされる。日本では少なくとも数百万年前から自生しているとされ、鮮新世の地層とされる三朝層群からムカシヤマザクラの葉の化石が見つかっている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/サクラ



1973荊の紀氏:2014/04/08(火) 17:26:21
Re: 中津川・北根本 の地図です。
古墳と古墳を結ぶ直線の官道が
起点:茨城県石岡市国府(国道355号交点) 終点:茨城県土浦市手野町(国道354号交点)
地理院地図(電子国土Web)から http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/index.html#zoom=17&lat=36.16917&lon=140.2901&layers=BTTT
舟塚山古墳ー愛宕山古墳ー手子后神社の三ヶ所の前方後円墳の角度の誤差は2度でした。
この古墳兼測量台は五芒星型の測量を行っていたようです。
一筆書きでの星形 ☆ 測量していたようです。

五芒星(ごぼうせい、英: pentagram)または五芒星形・五角星形・五線星型・星型五角形・正5/2角形は、互いに交差する、長さの等しい5本の線分から構成される図形で星型正多角形の一種である。正五角形に内接し、対称的である。一筆書きが可能。 http://ja.wikipedia.org/wiki/五芒星

角度の誤差は2度というのは、まず最初に この測量台は東西のラインが東南に2度傾いているのです。

この誤差は1年が太陽暦で計算されているから?
太陽年(たいようねん、solar year, tropical year)とは太陽が黄道上の分点(春分・秋分)と至点(夏至・冬至)から出て再び各点に戻ってくるまでの周期のことである。回帰年ともいう。各回帰年はそれぞれ違うのでこれを平均したものを平均回帰年という。回帰年は歳差運動のため、恒星年より短い。春分での回帰年は春分回帰年といい、およそ365.2424日である。

2度の誤差の修正は手子后神社からの 舟塚山古墳の方墳の端から愛宕山古墳の円頭頂部の角度が50度なのです。
50度
これは、360度÷50度=72度
正5角形の内角は108度外角72度
ここからこの古墳兼測量台は五芒星型の測量を行っていた事がわかります。

舟塚山古墳ー愛宕山古墳の間には茨城県道118号石岡田伏土浦線・・・古代の古代の官道   勅使
古墳と古墳を結ぶ直線の官道が舟塚山古墳ー愛宕山古墳の間 2箇所折れ 1度の差の直線に戻っている。・・・誤差2度の影響か?

茨城県 最大の前方後円墳。国指定史跡。 県道118号石岡田伏土浦線を常磐線・高浜駅から 西へ600メートルほどのところ、道路南側に、この古墳の見学者用駐車場がある。 http://precious.road.jp/ibaraki/ishioka.htm

茨城県道118号石岡田伏土浦線(いばらきけんどう118ごう いしおかたぶせつちうらせん)は、茨城県石岡市から土浦市までを結ぶ一般県道である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/茨城県道118号石岡田伏土浦線
距離:41.403km
起点:茨城県石岡市国府(国道355号交点)[1]
終点:茨城県土浦市手野町(国道354号交点)
土浦市王塚古墳
手野町薬王寺背後の霞ヶ浦に面する丘陵先端にあります36.10018056,140.2304306 (古墳)
后塚古墳と呼ばれ茨城県土浦市手野町后塚 http://www.jpn-hayashi.com/cgi-bin/pjdetail.cgi?mode=&amp;title0=?@??Õ?&choice0=k1101390&printer=&photoview=54&index=1084&browser=99&colum=24&font=20&screen=240&life=
古墳時代の中期にあたる4世紀終末〜5世紀前半ごろと推定されています。

周辺
舟塚山古墳
牛塚古墳(茨城県かすみがうら市牛渡1-41) http://www.jpn-hayashi.com/cgi-bin/pjdetail.cgi?mode=&amp;title0=???n????Õ?&choice0=k1102150&printer=&photoview=11&index=2756&browser=99&colum=24&font=20&screen=240&life=

古代の官道の跡が残っている。 勅使塚古墳
牛渡銚子塚古墳  奈良平安の昔常陸の国府に下向した勅使が この地で亡くなって埋葬した前方後円墳です。 http://www.jpn-hayashi.com/cgi-bin/pjdetail.cgi?mode=&amp;title0=???n???q??Õ?&choice0=k1102170&printer=?u?b?N&phoview=26&index=1148&browser=99&colum=24&font=20&screen=240&life=
墳形から中期(5世紀)築造と推定されている

参考
杵隈(かしわい)と双子塚古墳を結ぶ直線(官道ルートの想定)の3D表示 http://hanamigawa2011.blogspot.jp/2013/08/blog-post_16.html
双子塚古墳と高台南古墳を結ぶ官道が真直線であることから、杵隈(かしわい)と双子塚古墳を結ぶ官道も直線と考えます。



> > Page 1 ... (そのー) ~ (その3) ー)では、 古代の畿内に東西・ 南北の直交座標軸と都市 計画基本線 (仮称). が置かれたことを提唱 し、 ... これらの大土木事業を可能にした 当時の国 ... は問ー ー7以降にも共通して見られ、 長距離間の測定・位置設定等 .... ー) 彡真股孝信 「畿内の遺構配置にみる古代の土木技術 (その ー ~その3) 」 ・ 土木学会日 .
> >
>

1974荊の紀氏:2014/04/08(火) 17:47:08
Re: 中津川・北根本 の地図です。
土浦市王塚古墳ー舟塚山古墳
??楕円体 GRS80
出発点 緯度 北緯 36°10′01.8056″
経度 東経 140°23′04.3060″
到着点 緯度 北緯 0°36′10.1631″
経度 東経 140°10′04.1200″

出力値
測地線長 3,937,498.721(m)
方位角 出発点→到着点 180°22′28.16″
到着点→出発点 0°18′09.70″
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 古墳と古墳を結ぶ直線の官道が
> 起点:茨城県石岡市国府(国道355号交点) 終点:茨城県土浦市手野町(国道354号交点)
> >

1975秦野北斗:2014/04/09(水) 06:58:48
Re: 中津川・北根本 の地図です。
荊の紀氏さんへのお返事です。

愛宕山古墳、舟塚山古墳には荊の紀氏の説は当てはまらないな。
人生を無駄にしてますな。別の仮説を立てるが良いのでは・・。

愛宕山古墳だが広範囲になる。どう考えるのかな。

愛宕山古墳(あたごやまこふん)は、日本の古墳の名称。各地に同名の古墳がある。
愛宕山古墳 (村田町)は、宮城県村田町にある前方後円墳。
愛宕山古墳 (水戸市)は、茨城県水戸市にある前方後円墳。
愛宕山古墳 (美浦村)は、茨城県稲敷郡美浦村にある前方後円墳。
愛宕山古墳 (八千代町)は、茨城県結城郡八千代町にある前方後円墳。
愛宕山古墳 (高崎市)は、群馬県高崎市にある円墳。
愛宕山古墳 (行田市)は、埼玉県行田市にある前方後円墳。
愛宕山古墳 (川越市)は、埼玉県川越市にある古墳。
愛宕山古墳 (千葉市)は、千葉県千葉市にある方墳。
愛宕山古墳 (三木市)は、兵庫県三木市にある前方後円墳。
愛宕山横穴墓群の別称。

http://ja.wikipedia.org/wiki/愛宕山古墳


1976荊の紀氏:2014/04/09(水) 12:38:07
Re: 中津川・北根本 の地図です。
秦野北斗さんへのお返事です。
 秦野北斗さん ご心配有難うございます。
>人生を無駄にしてますな。別の仮説を立てるが良いのでは・・。
 無駄にならないよう精進しているところです。
ネオツトで検索しましたら ↓ 私説と同様な論文をまとめていらっしゃいます。

畿内の遺構配置にみる古代の土木技術 (その1) 都市計画基本線の存在 ...
http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200902040235092720&amp;q=須股孝信&t=0
著者:須股孝信 (建設技術研)
資料名:土木史研究 号:10 ページ:307-318
発行年:1990年06月

(その2) http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1991/11-0269.pdf#search='須股孝信'

(その4) http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1993/13-0397.pdf#search='畿内の意向配置にみる古代の土木技術'

>愛宕山古墳、舟塚山古墳。手子后(さき)神社(前方後円墳)には荊の紀氏の説では18度54度 108度 の五芒星 ☆型測量です。

☆型測量

当ブログでご紹介する事柄はこれまでの歴史書には全く書かれていない「新事実」です。   ★律令支配下で創られた官製歴史に囚われている人には、「隠された五芒星」はまず見えてこないでしょう。(古事記・書紀の編纂以来1300年間のマインド-コントロール、なかなか解けるものではありませんが)          ★私自身「法隆寺五芒星構造」を発見するまでは全く知見できませんでした。     http://pentacross.seesaa.net/
ペンタクロス解説
ミネルヴァ書房『ゼロからの古代史事典』2012年より http://pentacross.seesaa.net/archives/200312-1.html

筑波山と結合した関東結界文化の核心地「縄文氷川」 http://pentacross.seesaa.net/category/22375739-1.html
筑波山から富士山に向かって線を引くと東北36度の線分上に「武蔵一ノ宮」大宮・氷川神社が乗ってきます。ちなみにこの線分と筑波子午線を二等分するのが<鎌倉―筑波線>です。
★で、この黄線と直角に筑波山から線を引くと日光東照宮に行き着き、ポイントが確定します。また日本橋からこの線と平行に線引きすると、世良田東照宮に達します。
★まとめますと、関東を走る主要結界線は<筑波―富士線>を基準に古代から江戸時代にかけて営々と築かれたものだと言えそうです。

★ところで氷川神社の真のご祭神は「アラハバキ」だと言われています。弥生人が東日本に流入する前に住んでいた縄文人の象徴です(冒頭図「武装した遮光器土偶」参照)。彼らにとって大宮は関東の「楽天地」だったことでしょう。
★ところで氷川社から富士山を望む方向の荒川畔に「二ツ宮」という不思議な神社があります。文字通り二つお宮が並んでいて、その間を<筑波―富士線>が走ります。
★最後に氷川神社、<筑波―富士ライン>上で古見沼岸の高台にありますが、向きは日本橋方向です。実はラインと直角の方向は浅草でここは江戸発祥地とされており、ひょっとしたらかつてはこの向きだったのを徳川時代に向き変えしたのかも知れませんね。

在地の古社「杉山神社」が語る縄文期・生活結界の記憶

十和田湖を取り巻く「縄文五芒星文化」の残照

★「戸来(ヘライ)」が「ヘブライ」に通じそうなことや、村の風習や言語がイスラエルとよくにている、ということから生まれた伝説ですが、その中に「ダビデの星(またはソロモンの星)」とされる五芒星形の家紋を持った、キリストの子孫といわれている旧家「沢口家」が登場します。(?図)
★周辺には古代ピラミッド?巨石信仰の「大石神」や超古代文字?が頻出する「ドコノ森」などがあり、ミステリック古代観光地になっています。(資料)
★さてキリスト伝説の根拠のひとつとされる五芒星ですが、これが原始キリスト教の「専売特許」ではないことは既に当ブログ紹介済みで、この日本でその最も古いものがお隣りの「大湯環状列石」。ソロモンの王国は三千年前ですが大湯は四千年前で、先輩です。

63.大湯環状列石の謎?地形と列石
★「地形」図と「列石」図の比較です。
★周辺の山塊・川筋での相似性がよくうかがえます。
★直線状配石列と黒又山−大円寺との関係がおもしろい。「秘湯」なのでしょうか。
★ここも「メソポタミア」(挟河地)になっています。弥生期では前原遺跡がそうです。

世界最古級の天文台?大湯・五本柱建物

世界最古級の地図?大湯・万座環状列石

縄文・大湯村の営みから「環状列石」を推理する

・・・・・・・ハテ・・・





1977管理人:2014/04/09(水) 22:29:28
Re: 中津川・北根本 の地図です。
荊の紀氏さんへのお返事です。

> 秦野北斗さんへのお返事です。
>  秦野北斗さん ご心配有難うございます。

> 畿内の遺構配置にみる古代の土木技術 (その1) 都市計画基本線の存在 ...
> http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200902040235092720&amp;q=須股孝信&t=0
> 著者:須股孝信 (建設技術研)
>??資料名:土木史研究 号:10 ページ:307-318
>??発行年:1990年06月
>


> ☆型測量
>
> 当ブログでご紹介する事柄はこれまでの歴史書には全く書かれていない「新事実」です。   ★律令支配下で創られた官製歴史に囚われている人には、「隠された五芒星」はまず見えてこないでしょう。(古事記・書紀の編纂以来1300年間のマインド-コントロール、なかなか解けるものではありませんが)          ★私自身「法隆寺五芒星構造」を発見するまでは全く知見できませんでした。     http://pentacross.seesaa.net/
> ペンタクロス解説
> ミネルヴァ書房『ゼロからの古代史事典』2012年より<A HREF="http://8220.teacup.com/toraijin/bbs?



キシさん、秦野さん、こんばんは。

いろいろ情報ありがとうございます。

ま、ともあれ、過去にも方位線研究は無数にありますし、私も引用紹介してきたところです。

藤原京、平城京・・・の南北ラインとか、応神・仁徳ライン・・・と、いろいろ指摘されてきたところですが、問題は過去の通説との相違、発見を主張できるかどうかですね。

6〜7世紀だと南北に偏角なしですが、それ以前になると、時代毎の偏角を考慮しないと、大部分の古墳のそれには整合性がつかないでしょう。

またペンタクロスとか、三角測量の形は、部分的にあっているのですが、おそらくは地図の四方区画のメッシュの1部を見ているのではないかと思います。

そして尺単位もそうですね。中国尺起源なのですが、具体的には測量道具としての三角縁神獣鏡の直径尺なのです。
だから微妙に長短が生じてくるし、測量に必要な具体的な手段や道具が明らかにならないと、どうやってあそこまで正確な精度をもって測量できたのかが明らかにならないでしょう。

さらにここ数年の電子地図の精度ですね。これを使うことではじめて、10M単位での誤差の是非が視覚的・直感的に明らかにされます。それなしでは、数値的な誤差をいくらみても文系の学者さんには理解できないと思います。

ともあれ、そういうことで、キシさんや秦野さんも、過去に似たような研究があったとしても、独自の主張部分がどこに有るのか?について、ピックアップしながら、論をすすめていただきたいものです。キシさんの地図上でのゆがみの理論は、電子地図を使い始めると、それが非常に大きな問題となってくることが明らかになる体験をするはずです。
そしてキシさんの古墳測量台説ですね。これも測量台がないと、うまく測量できない地域が多いのです。通説の山立てだけではまだ説明不足でしょう。

秦野さんの古墳の名称とか、その由来を探る件も重要ですよ。だれも、あまり重視してないないはずですが、何か逆にでてくれば、新しい発見でしょう。

これからは電子地図とかGPS測量とか海進地図、DNA解析の時代です。




1978荊の紀氏:2014/04/10(木) 16:00:42
Re: 中津川・北根本 の地図です。
秦野北斗さんへのお返事です。

> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> 愛宕山古墳、舟塚山古墳には荊の紀氏の説は当てはまらないな。
> 人生を無駄にしてますな。別の仮説を立てるが良いのでは・・。
>
> 愛宕山古墳だが広範囲になる。どう考えるのかな。
>
> 愛宕山古墳(あたごやまこふん)は、日本の古墳の名称。各地に同名の古墳がある。
> 愛宕山古墳 (村田町)は、宮城県村田町にある前方後円墳。
> 愛宕山古墳 (水戸市)は、茨城県水戸市にある前方後円墳。
> 愛宕山古墳 (美浦村)は、茨城県稲敷郡美浦村にある前方後円墳。
> 愛宕山古墳 (八千代町)は、茨城県結城郡八千代町にある前方後円墳。
> 愛宕山古墳 (高崎市)は、群馬県高崎市にある円墳。
> 愛宕山古墳 (行田市)は、埼玉県行田市にある前方後円墳。
> 愛宕山古墳 (川越市)は、埼玉県川越市にある古墳。
> 愛宕山古墳 (千葉市)は、千葉県千葉市にある方墳。
> 愛宕山古墳 (三木市)は、兵庫県三木市にある前方後円墳。
> 愛宕山横穴墓群の別称。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/愛宕山古墳
>


愛宕山の山岳信仰と修験道 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?

、巴族が、「龍蛇をトーテムとした伏羲族と、三峡にいて白虎をトーテムとした 廩君族とを統合して生じた部族」という説を生んでいるらしい(松岡正剛が ... しかし、巴人 の末裔とされる土家(トゥチャ)族の言語はチベット・ビルマ系と考えられている。 http://heartland.geocities.jp/zae06141/hakoku.html
 古代の四川省は、三星堆遺跡で有名だが、最近は金沙遺跡や成都商業街船棺遺跡が発見されるなど、西周から戦国期の蜀王国にも注目が集まっている(こちらに鶴間和幸氏の紹介記事が掲載されている)。しかし西周から戦国期の四川省では、蜀国よりも、巴国の方が強い勢力を持っていた可能性がありそう。右図は推定される、最盛期の巴国と、滅亡期の巴、秦、楚国の領域地図。

秦の巴闘支配の経験がその後の秦漢帝国の支配体制にどのように影を与え たかを検証する. ものである。 そのさい、 ... 以上の研究によって、 ト範祭祷習俗を通じて みた楚の地域文化の形成過程、 秦の統一過程における巴. 闘支配の実態等を検証 ... http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/33378/1/Kudo_15520434.pdf#search='巴、秦、楚 秦氏'

新人類 陰陽2元性の終焉 隠された歴史の真実 秘密結社八咫烏秦氏 獣の数字666と 三つ巴紋の謎-三つ巴神から、また過去記事、復習しとりました ... でも・・・神社紋に使 われているのは左巴紋であって、666である右巴紋じゃないんでしょう?
三つ巴協力神がなぜこのヒミの地(倭国〜大和〜日本)の津々浦々にヤシロ形式で祀られてきたのか。 http://ameblo.jp/z777x888/entry-11659658947.html

実は、八幡神社や八坂神社などの神社紋として、用いられています。
(八幡=ヤーウェ、八坂=弥栄・・・ですから、原始キリスト教の痕跡ですね。)

さらに、伊勢神宮よりも古い歴史を誇り、「神道の神」と「聖書の神」の接点と言われる日本最古の神社、真名井神社(京都府)の社紋も、この左三つ巴紋だそうです。
「五芒星」をシンボル
ヒッタイト(五芒星)とハッタイト(六芒星)からの流れであり、そして現在の日本の皇室に続いている南北朝の覇権争いにも繋がっています。南朝は六芒星であり北朝は五芒星となります。

 私は 古代 ヒッタイトが海洋商人・資源探査として日本に渡来していたと思っています。


1979秦野北斗:2014/04/11(金) 05:24:49
Re: 中津川・北根本 の地図です。
荊の紀氏さんへのお返事です。

秦野の調べでは卑弥呼に由来するが、理解できず創造の世界に成っているな。
(倭国〜大和〜日本)の場所、名前の意味も知らず・・。
古代 ヒッタイトが海洋商人も創造の世界ですな。


> 新人類 陰陽2元性の終焉 隠された歴史の真実 秘密結社八咫烏秦氏 獣の数字666と 三つ巴紋の謎-三つ巴神から、また過去記事、復習しとりました ... でも・・・神社紋に使 われているのは左巴紋であって、666である右巴紋じゃないんでしょう?
> 三つ巴協力神がなぜこのヒミの地(倭国〜大和〜日本)の津々浦々にヤシロ形式で祀られてきたのか。 http://ameblo.jp/z777x888/entry-11659658947.html
>
> 実は、八幡神社や八坂神社などの神社紋として、用いられています。
>??(八幡=ヤーウェ、八坂=弥栄・・・ですから、原始キリスト教の痕跡ですね。)
>
> さらに、伊勢神宮よりも古い歴史を誇り、「神道の神」と「聖書の神」の接点と言われる日本最古の神社、真名井神社(京都府)の社紋も、この左三つ巴紋だそうです。
> 「五芒星」をシンボル
> ヒッタイト(五芒星)とハッタイト(六芒星)からの流れであり、そして現在の日本の皇室に続いている南北朝の覇権争いにも繋がっています。南朝は六芒星であり北朝は五芒星となります。
>
>  私は 古代 ヒッタイトが海洋商人・資源探査として日本に渡来していたと思っています。
>


1980荊の紀氏:2014/04/11(金) 17:32:48
Re: 中津川・北根本 の地図です。
秦野北斗さんへのお返事です。

私はヒッタイトがフェニキア人達に九種され日本に渡来したとかんがえています。
古墳内に騎馬民族の馬具 や 装飾品が有る事からです。
なぜかヒッタイトもエジプトも撃退され、平和が訪れます。そしてここには前1200年頃からセム系のフェニキア人達が活躍を始めるのです。
全く正体不明の謎の民「海の民」と呼ばれる民族によって、なぜかヒッタイトも エジプトも撃退され、平和が訪れます。そしてここには前1200年頃からセム系の フェニキア人達が活躍を始めるのです。本拠地は、シドンやティルスと言った都市です。 http://www.uraken.net/rekishi/reki-westasia07.html
紀元前11世紀末、サウルが王国を建国。彼は戦死しますが、ついでソロモン王・ダヴィデ王の下で、王都イェルサレムを中心に、周辺に勢力を拡大していきました。このとき、ソロモン王はフェニキア人と手を組んで、贅沢な暮らしをします。が、その下で庶民は困窮しました。

海の民の物語(3)フェニキア人の活動(1) フェニキア人は元はカナン人といい、系統的に はアラビア人・ヘブライ人・ エチオピア人などと同祖のセム族に分類されます。聖書では 「ノアの箱船」 のノアの長男がセムで、彼らはこの子孫であるとされています。 ( http://www.ffortune.net/symbol/aquatic/seas/sea003.htm


> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> 秦野の調べでは卑弥呼に由来するが、理解できず創造の世界に成っているな。
> (倭国〜大和〜日本)の場所、名前の意味も知らず・・。
> 古代 ヒッタイトが海洋商人も創造の世界ですな。
>
>私はヒッタイトがフェニキア人達に九種され日本に渡来したとかんがえています。
古墳内に騎馬民族の馬具 や 装飾品が有る事からです。
なぜかヒッタイトもエジプトも撃退され、平和が訪れます。そしてここには前1200年頃からセム系のフェニキア人達が活躍を始めるのです。
全く正体不明の謎の民「海の民」と呼ばれる民族によって、なぜかヒッタイトも エジプトも撃退され、平和が訪れます。そしてここには前1200年頃からセム系の フェニキア人達が活躍を始めるのです。本拠地は、シドンやティルスと言った都市です。 http://www.uraken.net/rekishi/reki-westasia07.html
紀元前11世紀末、サウルが王国を建国。彼は戦死しますが、ついでソロモン王・ダヴィデ王の下で、王都イェルサレムを中心に、周辺に勢力を拡大していきました。このとき、ソロモン王はフェニキア人と手を組んで、贅沢な暮らしをします。が、その下で庶民は困窮しました。

海の民の物語(3)フェニキア人の活動(1) フェニキア人は元はカナン人といい、系統的に はアラビア人・ヘブライ人・ エチオピア人などと同祖のセム族に分類されます。聖書では 「ノアの箱船」 のノアの長男がセムで、彼らはこの子孫であるとされています。 ( http://www.ffortune.net/symbol/aquatic/seas/sea003.htm
> >  私は 古代 ヒッタイトが海洋商人・資源探査として日本に渡来していたと思っています。
> >
>

1981秦野北斗:2014/04/11(金) 19:35:14
Re: 中津川・北根本 の地図です。
荊の紀氏さんへのお返事です。

古墳内の馬具は匈奴の物ですな。十二神将がフェニキア系だろうな。

> 私はヒッタイトがフェニキア人達に九種され日本に渡来したとかんがえています。
> 古墳内に騎馬民族の馬具 や 装飾品が有る事からです。
> なぜかヒッタイトもエジプトも撃退され、平和が訪れます。そしてここには前1200年頃からセム系のフェニキア人達が活躍を始めるのです。
> 全く正体不明の謎の民「海の民」と呼ばれる民族によって、なぜかヒッタイトも エジプトも撃退され、平和が訪れます。そしてここには前1200年頃からセム系の フェニキア人達が活躍を始めるのです。本拠地は、シドンやティルスと言った都市です。 http://www.uraken.net/rekishi/reki-westasia07.html


1982荊の紀氏:2014/04/11(金) 22:22:37
Re: 中津川・北根本 の地図です。
秦野北斗さんへのお返事です。
私はヒッタイトがフェニキア人達に九種され日本に渡来したとかんがえています。
古墳内に騎馬民族の馬具 や 装飾品が有る事からです。
なぜかヒッタイトもエジプトも撃退され、平和が訪れます。そしてここには前1200年頃からセム系のフェニキア人達が活躍を始めるのです。
全く正体不明の謎の民「海の民」と呼ばれる民族によって、なぜかヒッタイトも エジプトも撃退され、平和が訪れます。そしてここには前1200年頃からセム系の フェニキア人達が活躍を始めるのです。本拠地は、シドンやティルスと言った都市です。 http://www.uraken.net/rekishi/reki-westasia07.html
紀元前11世紀末、サウルが王国を建国。彼は戦死しますが、ついでソロモン王・ダヴィデ王の下で、王都イェルサレムを中心に、周辺に勢力を拡大していきました。このとき、ソロモン王はフェニキア人と手を組んで、贅沢な暮らしをします。が、その下で庶民は困窮しました。

海の民の物語(3)フェニキア人の活動(1) フェニキア人は元はカナン人といい、系統的に はアラビア人・ヘブライ人・ エチオピア人などと同祖のセム族に分類されます。聖書では 「ノアの箱船」 のノアの長男がセムで、彼らはこの子孫であるとされています。 ( http://www.ffortune.net/symbol/aquatic/seas/sea003.htm


>秦氏との関連は検索では見いだせなかったけど、やはり気になりますね。 http://www.geocities.jp/easyclub_choro/kankei.htm
常盤御前
永久不変のこと(「常盤」とも書く):じょうばん;常陸( ひたち)国と磐城(いわき)国の併称「常盤」:ときわ;常盤御前の略称. http://okwave.jp/qa/q1091096.html

常盤御前 日本ではじめてのミスコンで第一位となり、源氏の棟梁 ・源義朝の妾となります。 3人の息子を産み、幸せに暮らしますが、「平治の乱」によって 平家に追われることに。 捕らえられた常盤は平清盛の前に連れてこられます。 http://hagakurecafe.gozaru.jp/8 tokiwa.htm

東国の武士達は「ムカツク目代をやっつけて、平氏の政権を辞めさせたい。武士の国を作りたい」と心の中で思っていても、自分達にそれだけの「カリスマ」がないこともわかっていたのです。 http://hagakurecafe.gozaru.jp/heian4.htm

ここで、平氏・・・海の民(フェニキア人)
     源氏・・・陸の民(ヒッタイト)

コマ」とは「シュ・マフ」の音変化 ○シュメール語の「シュ・マフ」は「コマ」と訛り当て字され た シュ・マフ→ク・マフ→コ・マフ→コ・マ 狛 結論を言うと「コマ犬」とはシュメール語の双 獅子=シュ・マフが語源。 ○その他の訛りと当て字 シュマフ→カマ= 鎌・釜 →クマ= ... http://esales.co.jp/kikisara/sub3.html
古代日本は、メソポタミアのギルガメッシュにおける「獅子トーテム信仰」が伝わっており、その性格は物部=「軍事・武士」であり、現代でも狛犬の置いてある神社に祀られているということになる。
シュシュ→種子→タネ
シュシュ
主(すめらみこ)
スメラミコトの用語解説 - 日本国憲法に定める日本国および 日本国民統合の象徴。〔天皇の歴史〕【前近代の天皇】[オオキミとスメラミコト] 〈天皇〉 は〈オオキミ〉とも〈スメラミコト〉とも呼ばれた。 http://kotobank.jp/word/スメラミコト
右大臣
源実朝は、平清盛がなれなかった右大臣になりました。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12120569342
官位打ちは"官打ち"とも言い、相手の位階をドンドン上げて行き、相手側が其れに耐えられ無く成って躓いた時にガツンと叩くと言う、公家社会特有の陰険な遣り口の事を言い、実朝将軍は明らかに後鳥羽院の官位打ちに遭って居たと言う事に成ります。
以上の事柄を考え合わせれば、実朝将軍の右大臣昇進は評価とは全く別次元の話である事は自明かと思います。
案の定とは言う可きが、右大臣拝賀に際して甥の公暁阿闍梨の凶刃に実朝将軍は倒れる事に成り、後鳥羽院に依る官位打ちはマンマと成功したと言う事に成るかと思われます。

源氏が失脚して須磨に退去した際には右大臣の専横に抗議して公職を退いた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/左大臣_(源氏物語)

古系図においては歴代の天皇や光源氏を初めとする宮家・源氏を全てまとめて記述する皇室の系図を除くとこの左大臣(古系図では「摂政太政大臣」と標記されることが多い。) http://ja.wikipedia.org/wiki/左大臣_(源氏物語)

農工商(しのうこうしょう)
農工商士
士農工商」から「農工商士」へ. 小学だか、中学校だか。 徳川幕府の「士農工商」を習っ た時、「なぜ武士の次に偉いのが農業なの?」と聞いたことがある。 http://idoido.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_2acb.html
「国=武士のためのもの」であり、実際の身分は「士商工農」だったのである。

実際には、「士」のポジションがトップであることへの異論はあまり出なかった。
 「士」は実質的には、「中央集権国家+優秀といわれた官僚組織+自民党一党独裁+土木勢力」の連合軍だったからである。

 「農」「工」あっての「商」であり、生活であり日本である。にもかかわらず、これまでは教育にせよ人材配置にせよ、国策的な軽視が過ぎた。皆に皆、役所や3・4次産業に就くことを奨励し、1億2千万人の国が成り立つはずがない。

 また、「国は官僚・政治家・公務員のためのものではなく、彼らはあくまで農・工・商などなどへの奉仕者」であることも、今更ながら明らかにしておかなければいけない。

地方分権や政権交代問題もあることだから、この際、新しい日本のキャッチフレーズを「農工商士」あるいは「工農商士」とでもすればどうか。
 地球環境や「食べられてなんぼ」の徳川精神を重視するなら前者。「モノづくり」を第1に、農業もそれに準じて大事にしようとするなら後者である。
 が、「商」「士」はいずれにせよ、この位置。
 「農」「工」あっての「商」であり、生活であり日本である。にもかかわらず、これまでは教育にせよ人材配置にせよ、国策的な軽視が過ぎた。皆に皆、役所や3・4次産業に就くことを奨励し、1億2千万人の国が成り立つはずがない。
 また、「国は官僚・政治家・公務員のためのものではなく、彼らはあくまで農・工・商などなどへの奉仕者」であることも、今更ながら明らかにしておかなければいけない。
 ちなみに、このキャッチフレーズの隠し味は「地方や現場を大事にした国づくり」を目指すことである。
 で、あまりにもありきたりに見えるその部分こそが、400年来続いたものからの、大転換を意味する。

孔子の儒学の最大の弱点は、士=君子を重んじ、農工商を下に置く思想 ... http://blog.goo.ne.jp/toyama0811/e/9e2f6254989df0fb5e89376653053e67
人口が減少する状態が続くと、国は衰退する。それで、自然増と移民の受け入れによる流入増とが考えられる。古代中国の都市国家では、人民は政治の良い都市国家へと流動する。評判が悪いと、人民は逃げる。それで、衛の国は、すでに人口増のサイクルに入っているから、生活を富ませる経済政策が必要で、それが達成されたら民衆教育に力を注ぐというのである、と。
このように、孔子は都市国家の政策を整理するが、その目的は、強兵である。他国から侵略されない国造りとして、家族を整えさせ、正義を明らかにして、国を守る人材を育成することだと考えている。軍備の根本は、民衆の意識である。都市国家は、士農工商がすべて一つの城郭で囲まれた生活空間で過ごすから、そのなかの郷や里の単位での教育により、国を守る文と武の教育が、最終的には国力となる。この人の教育を以て根本とする思想は、中華文明の生命線であり、数百年に一度の民族の危機も、数百年の根気ある人材形成により達成することができる。
問題は、優秀な人材を官僚として育てることを第一義とする。そのため、士農工商のうち、農・工・商を軽く見る思想が、常に体制の原理となる。士は、文官と武官に分かれ、文官が武官に対し優位の原則はあるが、武官が政治の実権を握りやすい条件は残されている。とはいえ、弱点は農・工・商にあり、それが世界の最先端であった時代は、およそ明時代かと思われている。現在は、農・工・商は、世界の二流、三流の域にある。そのため、国内総生産の総量では日本を追い越し、世界第2位にあるが、人口1人あたりの国民総生産額は、ブラジル、ロシア、インドと同じ程度である。つまり、労働の生産性という面では、実業教育が成功していないわけである。
 ある弟子が、農業の技術を学びたいと孔子に願い出ると、孔子は老農民には及ばないと退け、その弟子を「小人だ」と決めつけた。これは、子路篇の第4章にでてくる話である。礼節の政治哲学を重んじた結果、生産・流通を学問に高めることを孔子は軽んじた。それを抜きに民を富ましめるというのは、政府の租税政策や、農業支援策という行政からの奨励策で農民をコントロールする思想である。日本が、江戸時代に豪農を生んだ時の武士の儒学知識は、農・工・商に及んでいる。この差異が、いまだに中国の弱点となっている。逆に、日本にとり優位の差を保障してくれている。日本人は、分に応じ道をめざす。士の階級だけの意識ではない。とはいえ、日本では急速な崩落がおきている。
左大臣・・・源氏・・・ヒッタイト?
葵の上を春宮(のちの朱雀帝)の妃に」という、弘徽殿の女御からの申し出を断り、娘の 葵の上を光源氏の元服の添い臥しにたたせ、 自ら光源氏の後見役となった左大臣 http://www.asakiyumemisi.com/003sa/sa004.html

右大臣 ・・・パトロン・・・商人・・・海の民(フェニキア人)
右大臣 として平家の中核を担った。 http://meigennooukoku.net/blog-entry-459.html


> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> 古墳内の馬具は匈奴の物ですな。十二神将がフェニキア系だろうな。
>
> > 私はヒッタイトがフェニキア人達に九種され日本に渡来したとかんがえています。
> > 古墳内に騎馬民族の馬具 や 装飾品が有る事からです。
> > なぜかヒッタイトもエジプトも撃退され、平和が訪れます。そしてここには前1200年頃からセム系のフェニキア人達が活躍を始めるのです。
> > 全く正体不明の謎の民「海の民」と呼ばれる民族によって、なぜかヒッタイトも エジプトも撃退され、平和が訪れます。そしてここには前1200年頃からセム系の フェニキア人達が活躍を始めるのです。本拠地は、シドンやティルスと言った都市です。 http://www.uraken.net/rekishi/reki-westasia07.html
>

1983荊の紀氏:2014/04/11(金) 22:56:19
シュメールとヒッタイトを繋いだ「フルリ人

出雲族のルーツと神道の起源: 神仙組外典【新世紀創造理念】天の岩戸 ...
このシュメールとヒッタイトを繋いだ「フルリ人」が、インド・ヨーロッパ語族のアーリア人で 、シュメールのウル第3王朝で大きな勢力を誇っていた事が ..... モンゴル族の前身とされ る「匈奴」もスキタイ族の一派だと考えられているが、飛鳥氏は次のように述べている。 http://shinsengumi3.seesaa.net/category/8212294-1.html
新世紀創造の為に…■日本人のルーツを徹底検証 ■封印された日本の古代史を暴く ■神の戦車「メルカバー」によって偽りの歴史を轢死させる ■天皇家と秦氏の欺瞞を世界初暴露 ■「天照大神=イエス・キリスト」の真相を始めとし、多次元同時存在の法則の暴論を斬る ■龍馬を殺したのは新撰組ではない!第二の龍馬「平成新撰組」としてヤタガラスの呪いを恐れず命懸けで公開 ■天の岩戸開き(天照大神の再臨)とニギハヤヒの復活 ■神仙組が過去と未来を変えてアカシックを修復する!
詳述するとキリがないので、要所のみを確認していきたい。
ヒッタイト人は、シュメール起源の12神を崇拝していた。
このシュメールとヒッタイトを繋いだ「フルリ人」が、インド・ヨーロッパ語族のアーリア人で、シュメールのウル第3王朝で大きな勢力を誇っていた事が確認されている。
また、インド・ヨーロッパ言語で書かれたインドの「ヴェーダ聖典」と、ギリシア神話の類似性が指摘されている。
これは、ギリシア神話がインドに伝わったものだと考えられているが、そうではない。

シュメールのアーリア人一派がアナトリアに移動し、原住民ハッティ(ヒッタイト)と融合したが、もう一派、もしくは後のヒッタイト人が、紀元前2000年頃に北イランに移動し、更にインドに南下してヴェーダをもたらし、バラモン教を生み出したようだ。
だがそれは、単なるシュメール神話やヒッタイト神話ではなく、ゾロアスター教だった。
後に、スキタイ族から誕生したバラモン教徒の釈迦が、形骸化したバラモン教を否定して仏教を説いたが、この話は後に回そう。

エジプトもシュメールの神話と文明を継承したことが、ゼカリア・シッチンによって証明されている。
そして紀元前1285年頃、ラムセス2世の時代、ヒッタイト人がエジプトに侵攻。
古代エジプトの太陽神アメン(アモン)は、元々は豊饒神だったが太陽神ラーと一体化し、「アメン・ラー」としてエジプトの主神とされていた。
そして、アレクサンドロスはエジプト遠征の際、「アモンの息子」と称した。

エジプトの太陽神は3柱存在し、朝日は「ケプリ」、中天は「ラー」、夕日は「アンク」と呼ばれ、それぞれ異なる姿で描かれている。
アンクは「アテン」の新王国時代の呼び名、つまり「アンク=アテン」で、アメンヘテプ4世は、「アメン」に対抗する神「アテン」を立て、アクエンアテンと改名した。
そうすると不可解な事がある。
ツタンカーメンは「トゥト・アンク・アメン」だが、「アテン」と「アメン」を名前に採り入れている事になる。

アメンは「隠されたもの」を意味し、本当の名と姿は明らかにされず、冥界の奥深くに眠っているとされる。
本当の名前が明らかにされていないというのは、『旧約聖書』の主神ヤハウェと符合する。
そして、太陽神であるのに隠されて見えないとは、「天照大神の岩戸隠れ」に符合する。
もう1つの太陽神であるアンクは「再生復活」を意味し、それは岩戸から出てきた天照大神と一致する。
この神話は、後の「イエス・キリスト」や「卑弥呼」が体現している。

このアテン(アンク)信仰が一神教(ユダヤ教)の始まりだと考えられており、アモン (アメン)は後に悪魔とされるようになった。
忘れてはならないのが、イスラエル民族を生んだアブラハムも、シュメールのウル出身という事である。
シュメール神話はアブラハム族にも継承されていたはずで、アブラハムから生まれたイスラエル民族は、元々は牡牛をトーテムとする多神教だったが、エジプトで「アテン信仰」の影響を大きく受けたようだ。
エジプトには「ピラミッド」という人工山の神殿があり、太陽信仰が盛んだった。
太陽には黄金が豊富に存在することから、「太陽=黄金」であり、エジプト文明は黄金を神聖視したことで知られている。

イスラエル民族の出エジプトを率いたモーゼは、シナイ山で絶対神ヤハウェから十戒を授かった。
この「ヤハウェ」なる神は「アテン」だと考えられている。
その後、ソロモン王は、エジプトのファラオとヒッタイト王の娘を妻として迎えた。
イスラエル10支族は「黄金の子牛」を崇拝したが、これはシュメール及びヒッタイトの「牡牛信仰」を守り、エジプトの黄金文明の影響を受けたものだろう。
イスラエル「12支族」も、ヒッタイトの「12神」に因んでいるのかも知れない。

また、エジプトを脱出してカナンの地に辿り着いたイスラエル民族は、エジプト人の親戚であるカナン人と密接な関係を築いた。
カナン神話の最高神「エル」は、聖書の「ミカエル」「ガブリエル」などの天使名に採用されているが、エルのアダ名が牡牛を意味する「トル」であった。
そして、エルの主要な息子が「主」を意味する「バアル」で、嵐の神・雷と稲妻の雷であり、ザフォン山に住んでいたとされている。
ちなみに、ユダヤ教は一神教で、キリスト教が三位一体教である事は周知の事実だが、天使や悪魔の数は無数に存在する。
聖書は「神」と「天使」を区別しているが、それは実際には多神教と同じ事である。

さて、カナン人は、エジプト人と同じ神々を共有したように、イスラエル民族も同じ神々を共有していた。
そして、カナン神話とギリシア神話の類似性についても、よく指摘されている。
当然ながら、ギリシア神話はエジプト神話にも類似しており、アテンとアテナも同一神である可能性も否めない。
それ故に、ギリシア神話のルーツはエジプト神話にあるという説もあるが、真相は……。
加治木氏は、卑弥呼の鬼道に、ギリシアの宗教の要素が色濃く反映している事を指摘しているが、そのルーツが「カナン神話」や「旧約聖書」にある可能性が出てきた。

シッチンは次のように述べている。

「ギリシャの学者たちは、確かにエジプトを訪れたことを記述している。
しかし、彼らが言う古代の知識の源は、もっとほかの所にあったのだ。
エーゲ海の前ギリシャ文明(クレタ島のミノア文明とギリシャ本土のミケーネ文明)は、エジプトではなく、近東の文化を受け継いだ証拠を残している。
古代の文明は、エジプトではなく、シリアとアナトリアというメインストリートを通って、ギリシャへ渡ったのである」
(人類を創成した宇宙人)

ちなみに、ギリシア神話の最高神ゼウスが「バアル」という事になり、ギリシアでも「オリンパス山」と「12神」と「黄金」が崇拝されていた。
世界の神話はシュメールを起源として、相互に関連していたように、ヘレニズムとヘブライズムは元々密接に影響を与えていたことが分かる。
そして時を経て、アレクサンドロスの東征によって、ギリシア神話が中近東に逆輸入されることになる。
オリエント諸国の歴史に通じ、漢文を駆使した、始皇帝の宮廷にいた特殊技能者「儒」の正体は、鹿島説によれば、ペルシアに仕えたバビロンの虜囚の子孫か、アレクサンドロスの軍に加わったユダヤ人だとしているが、彼らから「儒教」が生まれたようだ。

紀元前213年、始皇帝(ディオドトス)による焚書坑儒事件が起こされた時、対象にされた儒学者はイスラエル10支族の「ガド族」で、2支族の「シメオン族」だったディオドトスと敵対したとも言われる。
いずれにしても、ギリシア神話のルーツがカナン神話にあり、それがヘレニズム化され、アレクサンドロスによって中近東に逆輸入されたというのが真相に近いと思われる。

当時、ポリス同士が争っていたギリシアを支配していたのがペルシア王だったという説があるが、そのギリシアとペルシアをアレクサンドロスが統一したのである。
それは、ギリシア・マゲドニア・ペルシアルシア、そしてイスラエル民族などの融合を意味する。
そして、アレクサンドロスの軍は、中国とインド西部までを支配した。
そこから生まれた「アショカ仏教」は、もはや単なるギリシア系と呼べない。

鬼道の山岳信仰のルーツは、アショカ仏教の「スメラ山信仰」にあった。
そして、スメラの語源が「シュメール」で、山を神体とする信仰から生まれたジッグラト(Ziggurat)が建設されていた。
また、北イスラエル王朝の首都サマリアも「スメラ」が語源だと言われている。
そして、ギリシア的要素を多分に持っていたスキタイ族も、黄金の工芸品・装飾品を多く残したことで知られているが、インドから東南アジア、日本に至る仏教の仏像が金色なのは、ズバリ、天孫族がスキタイ族だった証ではないだろうか。

それは、ギリシア系ともイスラエル系とも呼べるが、ヴェーダを原典とするヒンドゥー教や仏教を含めて、広義の意味での「ペルシア文化」と呼んでも良いかも知れない。
ペルシアの宗教はゾロアスター教であり、ヒンドゥー教の根幹もゾロアスター教にある。
また、仏教のベースもゾロアスターという事になる。
そこに、ヒッタイト神話やギリシア神話、カナン神話、エジプト神話、旧約聖書などのオリエント神話、及びヘブライズムが混合している事は疑念の余地がない。
それを編纂したのが「アショカ王」である。

京都の祇園祭は、旧約聖書と関連する祭りだが、インドから東南アジアの仏教圏でも共通して行われている事を紹介したが、それだけではない。
同じく京都で有名な「大文字焼き」は、盂欄盆会(うらぼんえ)の終わりに行われるが、盂欄盆の原語はペルシア語で、古代ペルシアの祭りを起源としているそうだ。
これも「山岳信仰」とゾロアスター教の「拝火」に繋がる。
ここでは割愛するが、日本には多くのペルシア文化が見られるらしい。
それは、 「天孫族=騎馬系弥生人=スキタイ・イスラエス系アショカ仏教徒」によって、もたらされたものであろう。


「イスラエル10支族」は、ギリシアやペルシアの文化を持つ「スキタイ族」と同化したことは間違いないだろう。
モンゴル族の前身とされる「匈奴」もスキタイ族の一派だと考えられているが、飛鳥氏は次のように述べている。
「紀元前3世紀ごろ北アジアに生まれた匈奴は、まさにユーラシア大陸を縦横無尽に駆けめぐる。

西は朝鮮半島、中国の中原にまで侵入し、東はヨーロッパ全土を駆け抜け、ゲルマン人の大移動を誘発、西ローマ帝国を滅亡に追いやったかと思うと、さらに、スカンジナビア半島にまで至る。
西洋では匈奴を『フン族』と呼ぶ。
北欧のフィンランドとは、何を隠そう『フン・ランド』であり、東欧のハンガリーは『フン・ガリア』なのだ!!
そのため、騎馬民族の侵入のあったハンガリーの『ハンガリー語』、そしてフィンランドの『フィンランド語』も騎馬民族の言語と同じ語順である。」

では次に、一方のユダヤ人の歴史を見てみよう。

【紀元前586年】南ユダ王国がバビロニアに滅ぼされ、バビロンの捕虜となった。
【紀元前538年】アケメネス朝ペルシアがバビロニアを滅ぼしてユダヤ人を解放し、多くのユダヤ人がペルシアに仕えた。
【紀元前334年】マゲドニアのアレクサンドロスがペルシアを征服し、 「ペルシアの王位継承者=スサの王」を名乗った。
両者共にギリシア系でヒッタイト系騎馬民族の末裔だが、この時に「アレクサンドロス軍」と「スキタイ族」が合体したと考えて良いだろう。
忘れてはならないのが、その中に「ユダヤ人」が含まれている事である。

そして、秦始皇帝の正体がギリシア人「ディオドトス」だったという説を紹介したが、水上涼氏は「日本人とユダヤ人の秘密」で、次のような説を紹介している。

「始皇帝の宮廷にいた、漢文を駆使することができ、オリエント諸国の歴史にも通じていた特殊技能者は[儒]と呼ばれていたが、それはジュウを意味すると鹿島氏はいう。
彼らこそ東洋における史書偽造のプロであった。
彼らの身元は、ペルシアに解放されたが、そのままペルシアに仕えたバビロンの虜囚の子孫か、またはアレクサンドロスの軍に加わったユダヤ人のどちらかである……
鹿島氏は、始皇帝の正体はグレコ・バクトリアの知事だったディオドトスだというのだが、のちに日本に来た子孫たちから判断するとユダヤ人だったらしい。
始皇帝がしきりに山へ行って犠牲を捧げるところは、ユダ族よりイッサカル族を連想させるのだが、彼については奇妙な伝承が伝わっている……」

ユダ族かイッサカル族かは別として、ディオドトスがユダヤ人だった可能性と、山岳信仰を示している。
ペルシアを征服したアレクサンドロス軍は、バクトリアからシルクロードを経て長安に至り、洛陽を建設した後、紀元前328年、更にインド西部までをも征服した。
アレクサンドロスの死後、オリエント一帯の広大な大帝国は、アケドニア、エジプト、ペルシアに分裂し、セレウコスがペルシアを引き継いだのだが、水上涼氏は次のように述べている。

「セレウコス朝ペルシアの領土は、ティグリス河、黒海、インドに接し、東方はバクトリアまでの領土と従来は考えられていたが、いまでは、アレクサンドロスの遺産として、中国という大きな植民地を継承していたとみなさなければならない。
おそらくその中国、いやシナイとのかかわりを合わせてシナと呼ぼう――は、ベトナムやマレー半島まで含まれていたのであろう。
今日でもマレーシアやインドネシアにはイスカンダル(アレクサンドロス)という名前の人はいるのだ」
(日本人とユダヤ人の秘密)


現在のイスラエル共和国の国民は基本的に「ユダヤ人」だが、「イスラエル人=ユダヤ人」ではない。
「ユダヤ人」の定義は、血統関係なく、ユダヤ教で結ばれた民族であり、もしあなたがユダヤ教徒になれば、あなたは即「ユダヤ人」という事になる。
また、母親がユダヤ教徒であれば、本人はユダヤ教徒ではなくても「ユダヤ人」とされる。

「日ユ同祖論」でいうユダヤ人は、通常「失われたイスラエル10支族」を指すが、これは間違っている。
古代イスラエル王国で10支族と2支族が分裂し、両者をイスラエル民族というが、「ユダヤ人」とは後者の2支族のみを指す。
2支族は「ユダ族」と「ベニヤミン族」から成るが、狭義の意味ではユダ族を「ユダヤ人」と呼ぶ。
尚、「ユダヤ教」とは、南ユダ王国の2支族が成立した一神教であり、北イスラエル王朝の10支族の信仰とは異なる。

一般的に「ユダヤ人」というと白人のユダヤ教徒、いわゆる「アシュケナジー・ユダヤ人」と呼ばれている。
少し詳しく説明すると、現在のユダヤ人は大別して、スペイン系の「スファラディー・ユダヤ人」と、東欧やドイツに現れた「アシュケナジー・ユダヤ人」が存在する。
現在のイスラエルには、スファラディーとアシュケナジーが共存しているが、少数のアシュケナジーに支配される形でスファラディーが存在している。

問題は、ユダヤ人陰謀説などで、スファラディーは血統的ユダヤ人で、アシュケナジーは偽ユダヤ人だとされている点である。
何故なら、イスラエルが位置する中東は、セム族で占められるアジアであり、白人のアシュケナジーはユダヤ教に改宗しただけのユダヤ教徒に過ぎない、という理由からである。
同様に、アシュケナジー・ユダヤ人は、古代イスラエル民族の血統ではないと考えられている。

もっとも、それにはそれなりの根拠と理由がある。
アシュケナジー・ユダヤ人のルーツは、ロシアのコーカサス地方からカスピ海にかけて繁栄したハザール汗国にあり、8世紀頃に国教がユダヤ教となった。
ユダヤ教に改宗したハザール人は、聖書を熱心に研究し、世界初のヘブライ語の辞書を編纂したりしたが、自分たちのルーツがイスラエル民族ではないとの自覚から、ノアの子孫の「アシュケナジー」を民族名としたのである。

だが、そうとは言い切れない。
確かに、ハザール人はトルコ系の白人だったと言われており、「アシュケナジー」は白人の祖となったノアの息子ヤフェトの孫である。
トルコ人は元来、モンゴロイドだとされているが、話はここからである。

ヤフェトの子、つまりアシュケナジーの父親の名をゴメルというが、紀元前6世紀頃、スキタイ族が中央アジアから黒海の北部に進出し、キンメル人(ゴメルの子孫)を追い出したという。
夢蛇説では、スキタイはヒッタイト→ギリシア系騎馬民族である。
彼らはモンゴル高原からコーカサス地方、黒海、カスピ海、そして中央アジアからインド亜大陸まで、ユーラシア大陸全域を凌駕していた。
サカ族やフン族もスキタイ族の末裔だが、スキタイ族は各部族ごとに各地に分散し、現地に浸透していったと考えられ、大別して「モンゴル系」と「トルコ系」に分かれたと言われている。

各民族の人種については諸説あるが、例えば「スキタイ」はアーリア人種だと言っても、様々な人種で構成されていたようで、また、古今東西、混血が重ねられてきた以上、肌の色を含めて明確に人種を区別することは出来ない。
それでも敢えて推測すれば、イスラエル民族の中でもユダ族は特にヒッタイト人と同化しており、コーカソイドの特徴を多分に持っていた可能性がある。
その「スキタイ」が、ヒッタイト人の末裔であることを否定する材料はない。

コーカサスからカスピ海にかけて繁栄したハザール汗国は、かつてスキタイ族が闊歩していた地域である。
トルコ系民族のハザール人は「勇猛果敢な戦士」だったとされているが、その正体はスキタイ族の末裔なのではないだろうか。
それが事実であれば、アシュケナジーの子孫であるキンメル人を追い出したスキタイ族の末裔が、後世にハザール汗国を建国した可能性が高い。
とすれば、ハザール人はアシュケナジーの子孫ではなく、スキタイ族の末裔ということになる。
勿論、スキタイ族の中にはアシュケナジーの子孫も含まれていた可能性もあるが、スキタイ族とイスラエル人との民族融合があった事を忘れてはならない。


「日本人」と「アシュケナジー・ユダヤ人」が、同じ祖先を持っている事になるからだ。
それは、「日本トルコ同祖論」と通じるものがある。
では何故、肌の色、人種が異なるのか。
それは、日本列島とコーカサス地方の原住民の人種が異なっていたからに他ならない。
勿論、仮説に過ぎないが、原住民との混血によって人種に差が生まれたのである。


世界各地に「失われたイスラエル10支族」の血を引く民族が発見されているという事だが、なぜ日本人の血液に対してはそのように発表されないのか。
また、誰がどのようにして、失われた古代民族の血液の特徴を知り得たのか。
もっとも、「血を引く」というのは特徴や風習などの一表現で、血液検査によるものではない可能性はあるが……。

しかし、イスラエル10支族の末裔とされるアルザル人の染色体「YAP(−)因子」が、東アジアでは日本人にしか見られないというのは非常に考え辛い。
これは徳島大医学部教授らの研究チームの発表で、不規則な分布をしていることは明らかとなっているが、普通に考えて、イスラエル10支族の血を引く人々は、韓国・朝鮮・モンゴル・中国・台湾等にも、無数に存在するはずである。
また、YAP(−)因子が、「失われた10支族」の遺伝子の特徴だと断定できる根拠は何だろうか。

実は、イスラエルの「アミシャーブ」という特殊機関の調査により、イラン・インド・アフガニスタン・中国・ミャンマー・南アフリカなど、世界中でイスラエル10支族の末裔が見つかり、その証拠が発見されているという。
彼らの遺伝子から、イスラエル10支族の特徴を掴んだのだろうか。
しかし、冷静に考えれば、共に「ヤコブ」を祖とする同民族「イスラエル12支族」に、血液やDNAに大きな違いがあるはずがない。
また、イスラエル民族は多民族との混血が少なくなく、それによるDNAの変化はあったにしても、「2支族」と「10支族」に二分化されるようなDNAパターンの変化は考えられない。


「日ユ同祖論の根底には、ハルマゲドン・コンプレックスとでもいうべきものが横たわっていることを忘れてはならない。
明治以来の日本の日ユ同祖論者たちが狂気に陥ってしまったのは、キリスト教に接触したからでもあった」

「それは、はじめから深い狂気にとりつかれていたのだ。
歴史学上の問題からまったく逸脱して、日本人とユダヤ人はどちらが正統かという主導権争いめいた論議になったり、日本人とユダヤ人とは、世界を救う大使命を担っているのだという誇大妄想狂的な心情になったりする。
それは、日ユ同祖論者たちが歴史学者ではなく、いわば牧師だったからだ。
小谷部全一郎、酒井勝軍、川守田英二氏らは、みなアメリカに留学してキリスト教の牧師になることを志した人たちであった」


「日ユ同祖論を考える上で念頭に置かなければならないことがある。
それは、中東からユダヤ人だけが抜け出して日本にやって来たというわけではない、ということだ。
古代文明はシュメールで始まり、エジプトやインドに影響を与え、ここから東への貿易は盛んに行われていた。
したがって、その他の重要な民族も日本に来たわけであり、それらから日本民族が起こったと論じる者もいる」

「エルサレムの先住民族で、富を誇っていたエブス人は、関西地方でエベス様を信仰し、えびす市をたてたりしている人たちの祖先である。
イスラエル十二部族はヤコブから分かれたのだが、そのヤコブの双子の兄弟とされたエドムは、日本では出雲神族となっている。
そこで私はエジプトからカナンにかけて、イスラエル民族活躍の舞台として聖書に描かれた地『バイブル・ランド』全体に日本人の一源流を求めた。
事実、ここにいた民族の多数が、やはり日本に来ていたのであった。
したがって日本は第二のバイブル・ランドであり、我々は選民思想臭のつきまとうイスラエル十二部族の裔というよりも、バイブル・ランドの民といったほうがよりふさわしい」


「日ユ同祖論を考える上で念頭に置かなければならないことがある。
それは、中東からユダヤ人だけが抜け出して日本にやって来たというわけではない、ということだ。
古代文明はシュメールで始まり、エジプトやインドに影響を与え、ここから東への貿易は盛んに行われていた。
したがって、その他の重要な民族も日本に来たわけであり、それらから日本民族が起こったと論じる者もいる」

「エルサレムの先住民族で、富を誇っていたエブス人は、関西地方でエベス様を信仰し、えびす市をたてたりしている人たちの祖先である。
イスラエル十二部族はヤコブから分かれたのだが、そのヤコブの双子の兄弟とされたエドムは、日本では出雲神族となっている。
そこで私はエジプトからカナンにかけて、イスラエル民族活躍の舞台として聖書に描かれた地『バイブル・ランド』全体に日本人の一源流を求めた。
事実、ここにいた民族の多数が、やはり日本に来ていたのであった。
したがって日本は第二のバイブル・ランドであり、我々は選民思想臭のつきまとうイスラエル十二部族の裔というよりも、バイブル・ランドの民といったほうがよりふさわしい」


イザナミの出身地とされるアフガニスタンやインドにも、イスラエル10支族の子孫が実在している事は注目に価する。
また、インドと中国を結ぶルートにパミール高原と天山があるが、天山を隔てた西のカザフスタン人のDNAは、日本人のそれと90%同じである。

紀元前2000〜1500年、今日のカザフスタン付近に、鉄器文化を持ったインド・ヨーロッパ語族が進出してきた。
彼らは「アーリア人=高貴な人」を名乗り、年代的に見ても「ヒッタイト人」である事は間違いない。
アフガニスタン北部のバクトリアは元々、アッシリアが分裂して出来た4王国の1つであるメディア王国の一部で、ゾロアスター生誕の地でもある。

その後、紀元前518年、アケメネス朝ペルシアに制服され、ペルシア帝国の一部となった。
メディアの部族のいくつかはスキタイの部族名とも一致し、北イスラエル王朝滅亡後、失われた10支族とスキタイが合流した経緯も納得できる。
尚、ペルシア神話(ゾロアスター教)はインド神話に大きな影響を与え、ゾロアスター教の善神アフラ・マヅダの正体は「アリオン」だという。


「タタール人=ヒッタイト人」だとすれば、扶余族は「ヒッタイト+イスラエル10支族」のハイブリッド民族である可能性が濃厚となる。

卑弥呼は牛(ツルカルナイン=角がある人)であると同時に、蛇(ヤマタノオロチ)でもあった。

モーゼは牛神「バアル」を崇拝し、黄金の子牛を祀っていた。
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂のモーゼ像に角が生えており、ギュスターヴ・ドレの聖画でもモーゼの頭に角が描かれている。
モーゼが「牡牛族」だったことは疑う余地がないが、蛇に変身する魔法の杖や、旗竿に絡む青銅の蛇を持っていた。

これは、2匹の蛇が絡み付くヘルメスの杖と符合するだけではなく、ギリシア神話の太陽神アポローンの息子アスクレピオスが持っている杖にも蛇が巻き付いている。
その他、ローマ神話のアイスクラピウス、フェニキアやカルタゴで信仰されたエシュムーンも、蛇が巻き付いた杖を持っている。
それらの原型は、シュメール及びバビロニア神話の冥府の神ニンギッジドゥが持つ杖で、やはり蛇が巻き付いている。
そしてニンギッジドゥは、「角のある蛇」を従えている。

?シュメールでは「山」を崇拝する伝統からジグラット=巨塔を神体とした。
この宗教をバビロンの滅亡後、日本列島へもちこんだのが「カリエン」人たちで、彼等が神と、その継承者を「シュメール=スメラ」「王=キ」=「スメラギ」と呼び、バビロンのアキツゥの祭り(正月)が「秋津島」の語源になって、神話の古代国名を生んだのである。

?シュメールがスメラになったのは、それが日本へくる前にインドに入って「ヒマラヤ」を「スメラ山」と呼んだからであるが、そこでスメラはさらに多くの方言によって、「スベラ」から「スバラ=素晴らしいの語源」「スバ・スワ・シバ・ジマ・ジャマ・ヤマ」などと訛り、その主神を「シバ・ヤマ」神とするシンドゥ教の一派「シバ派」になった。


「アレクサンドロスと秦始皇帝の謎」で詳述したが、バクトリア王国は仏典で「大秦」と記され、秦(ハタ)は「幡」に通じ、神功皇后の子「八幡」に繋がる。
中国の「秦」は大秦(バクトリア王国)の植民地で、金髪碧眼だったという伝説を持つ秦始皇帝の正体が「ディオドトス」だった可能性が高い事は既に述べた通りである。
そして、始皇帝陵から出土した「兵馬俑」は「ペルシア軍=スキタイ」で、殉死の生贄を埴輪で代用している


「アマテラス」と「スサノオ」の祖先は、ギリシア人だったのだ。


インドのデリー郊外に、1500年間錆びない鉄柱があり、オーパーツとして知られているが、一説ではアショカ王の建造物とされ、「アショカ・ピラー」と呼ばれている。
高度な製鉄技術を持つ民族と言えば、真っ先にヒッタイト人が思い浮かぶ。
そして、ソナカ率いる「出雲族」も製鉄民だった。
アショカ王とは、一体何者なのだろうか……。
そう言えば、釈迦も「サカ族=スキタイ」で、夢蛇鬼説では「ヒッタイト+イスラエル10支族」の末裔である。


――「鬼道」がどんなものか大体分かったが、まだ疑問が残っている。
それは仏教とも神道とも、どうも様子が変わり過ぎていることだ。
それはインド発生か、それともヒミコの人種構成に見るように中東起源のものだろうか。
ひとつ日本以外の痕跡を調べてみよう。
先に倭と同じ「エンブダイ」からきたらしい名にだまされた「ジャワ・邪馬台説」を見たが、あそこはなにか教えてはくれないだろうか?
魏の次の晋が末期に余命を保った東晋王朝の時代、三九九年にインドへ旅してマカダ国へも行き、 『仏国記』をのこした中国の僧法顕は、仏教史上では最も有名な人物の一人だが、その『仏国記』の中にも、彼がその旅で実際に見た「ヤバダイコク=耶婆提国」が登場する。
これは名は邪馬臺国に似ているが、彼が記録した旅程と、その位置関係からみて、それが例の「ジャワ・邪馬台説」のヒントになった当時のジャバ国、現在のインドネシアのジャワ島のことだと、はっきり確認できる国である。
その国は、その当時「シンドゥ教国」で、仏教徒も少しはいたが、それはごくわずかだったと書いている。
これは前にお話したよう


『出雲風土記』の「因幡の白兎」の物語は、マレー半島の「鹿とワニの民話」をルーツとしているが、「ワニ」とは海人族の「倭人」のことではないだろうか。
因みに、インドにはワニを神聖な生物として飼育する寺院があり、船の守護神である海神の「金毘羅」は、ヒンドゥー教のガンジス川の神「クンビーラ」をルーツとしているが、それはガンジス川に棲むワニを神格化したものである。
また、パプア・ニューギニア、インドネシアなどに、ワニをトーテムとする部族がいる。

では、「倭」は何を意味するのか。
加治木氏によると、福建語で「倭」の上古音は「ウワイ」で、これは鹿児島の「上井」姓や中国の「優婆夷」と同じ発音で、インド語の「ウパシカ=女性仏教徒」の当て字だという。
「倭国」とは、女性仏教徒の国という意味だったのだ……。


「琉球」の語源は「リュキア(古代ギリシア領)」で、その中核が、バビロンから来た「カリエン=和人=高麗人」だった。
・永良部島の名を残した「エラム人」は、ペルシアの前身で「スサ」を首都とした。
・インド系の住民から「ヨーナ」と呼ばれたギリシア人は与那国島の名を残し、「アテナ」出身者は嘉手納、「チラナ」出身者は知覧の名を残した。
・ヒッタイト人は沖縄の「波照間島」(沖縄語でハティマ=ハティ国)の名を残し、朝鮮半島を納めた「アカハチ」や中国の清帝国の祖・金王「ヌルハチ」も、ハティ(ヒッタイト)との繋がりを示している。
・ハティ語はシリア特有の象形文字として見付かっており、ヒッタイトの「ハットウシル三世大王」の印章が発見された「ヨナ国島」とも、切っても切れない関係にある。
・紀元前14世紀のヒッタイト王の名は「ムーワタリ」だが、鹿児島には「馬渡(マワタリ)」という姓があり、九州北部の「日田(ヒタ)」も「日田人」と書けば「ヒッタイト」の当て字である。
・三種の神器の1つである神剣も、日本の鉄器時代の初めのものだけに、ヒッタイト人の物であり象徴である。
・カッシート人は「香椎人」で、その王称「アグム」は『記紀』の天皇を指す言葉「吾君」と酷似している。
・カッシート人は、紀元前1595年、バビロン第1王朝がヒッタイトの侵攻を受けて壊滅した後、バビロニアで勢力を拡大した民族で、カリエン人と同族か、それに近い関係だと思われる。
・その人たちは全部、船に乗って渡海したが、日本語の「フネ」と古代ギリシアの海軍の主力「フェニキア」と切り離して考えられず、沖縄語では「フ二チ国」になり、本土語では「フナキ」で船木姓に一致し、フニチ国は「船津国」と当て字できる。
・ギリシャ神話の「ヘラ」を沖縄語で発音した「ヒラ」に、 「ヒ=日・ラ=国」と当て字されて「日本」が誕生した。
・天照大神は本来、「ヘリオス」と「ヘラ」のことで、そのため性別が決まらない。


、「卑弥呼の血統には、アテネ人の血と知性と技術と思想と信仰が重なり合っている」とし、仏像はギリシア人によって、ギリシアの神像をモデルに造られ始め、アテネの守護神「アテナ」の像が、十一面観音や馬頭観音になったらしい。
そして卑弥呼は、天照(ゼウス)大神に使えるピュティア(稗田阿礼)として天に送られ、天孫(アマゾン)の指導者として「アテナ」の地位にあったという。
加治木氏は、「卑弥呼」と「稗田阿礼」が同一人物だと言っているのだろうか……。


カリエン人の出身地であるバビロンは、シュメールがアッカドの支配を受けて出来たバビロニアの首都で、牡牛神マルドゥクを主神としていた。
そして、バビロン崩壊と共に東へ逃れた集団が、南インド経由で沖縄から日本列島と朝鮮半島へ広がった。
彼らは世界最大の宝貝産地だった沖縄を拠点に、中国の殷にそれを供給して中国を統一し、高句麗や蒙古はその販売支社だった。
彼らは「カウリー・高離人・カリエン・カレン・高麗」と呼ばれ、 「コーリア」の語源となり、今のインドや英語で宝貝を「カウリー」「コウリー」と発音する。

前漢が滅んだ後に政権を握った王莽と、聖徳太子の手紙を見て怒った隋の皇帝・煬帝が、高句麗人に江南地方で水田を開発させ、その子孫が西に広がって、ミャンマーのカレン、カレンニの2州を作ったという。
福岡県の香椎宮の祭神は「仲哀天皇」と「神功皇后=卑弥呼」で、同じく福岡県の若椙山でオオヒルメ(卑弥呼)は「香椎聖母大明神」として信仰されている。

また、卑弥呼はカリエン人の女王であった。
だとすれは、やはりカリエン人とカッシート人は、共にバビロニアを出自とする以上、同系統の民族だったのだろう。
だが、卑弥呼の血族は、カリエン人でもカッシート人でもない。
あくまでも卑弥呼(日向族)は、先住民である彼らと共存しただけである。

マクモニーグルには、その違いが解らなかったようだ。
彼らは縄文時代から日本列島にいた人々で、その後に入ってきた倭人(天孫族)とは区別する必要がある。
だが、それを前期倭人と見るなら、その勢力圏は日本から江南、ミャンマーまでの広大な地域に拡がっている。
しかし、少し複雑な話になるが、加治木説によれば、鹿児島では貝を「ケ」と発音し、「貝人」と当て字された。
本土では貝は「カイ」であり、『日本書紀』では「蝦夷」と当て字しているが「エミシ」と読む。
また、「毛人」も「エミシ」で「ケ人=カイ人」という事になる。

「カリエン人=貝人=蝦夷=毛人=アイヌ人」

だが、卑弥呼の部族、つまり「日向族」はカリエン人ではなかったが、「貝の国」を治めていた事は事実である。
「霧島」の語源が「ギリシャ山」だった事は前に紹介したが、以下、 『黄金の女王・卑弥呼』から原文を抜粋したい。

――中国の正史『旧唐書』では倭国と日本国は別で、その日本の条件は鹿児島に合うが、東と北は大山があって国境になっており、その向こうは「毛人の国」だと書いてある。


加治木氏も述べているが、ユダヤ人は人種ではなく「ユダヤ教」によって結ばれた民族であるのと同じく、倭人は「鬼道」によって結ばれた民族だったのだ。


倭国は、慈悲を重んじる卑弥呼の仏教政権により、 「完全円満全権統治」による共存共栄が実現していたが、 『魏志倭人伝』によると、ヒンドゥー教特有の「階級制度=カースト」があった事が記されている。
「鬼道」の真相を究明する為には、もう1つの天孫族、即ち卑弥呼(神功皇后)の夫・スサノオ(仲哀天皇)の部族である「出雲族」について調べる必要がありそうだ。
そして、「ユダヤ人」「失われた10支族」との関係は……。


1984荊の紀氏:2014/04/11(金) 23:19:25
藤原京ライン
ショッキング!聖なる藤原京ライン上の古墳被葬者を特定する。高松塚=石上麻呂・・・ http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56223844.html
武の死は707年、石上麻呂の死は717年である。
したがって北極星=太極を中尾山とした場合、高松塚は当然北斗七(八)星となり、八人官女もまた八であるので、文武直属の側近となりそれは左右大臣だった麻呂か不比等しかおるまい。和銅元年(708年)1月11日、従二位石上朝臣麻呂は藤原不比等とともに正二位。文武初期までは最高位にある。
しかしその心は、やはり天智・大友にあったのかも知れない。守屋以降、大和物部氏はこれ以上落ち目になるわけにいかなかった。それで寝返って、物部の名にを恥じると考え石上に変えたのだろう。


1985秦野北斗:2014/04/12(土) 07:37:27
Re: 藤原京ライン
荊の紀氏さんへのお返事です。

藤原京ラインですか、難波宮に推古の大道がある。このラインは南北77km、東西3.7km間隔で10本ある。
藤原京ラインは10本の内の1本になるな。重大ですかな。各ラインに名前をつけますかな。

> ショッキング!聖なる藤原京ライン上の古墳被葬者を特定する。高松塚=石上麻呂・・・ http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56223844.html
> 武の死は707年、石上麻呂の死は717年である。
>??したがって北極星=太極を中尾山とした場合、高松塚は当然北斗七(八)星となり、八人官女もまた八であるので、文武直属の側近となりそれは左右大臣だった麻呂か不比等しかおるまい。和銅元年(708年)1月11日、従二位石上朝臣麻呂は藤原不比等とともに正二位。文武初期までは最高位にある。
> しかしその心は、やはり天智・大友にあったのかも知れない。守屋以降、大和物部氏はこれ以上落ち目になるわけにいかなかった。それで寝返って、物部の名にを恥じると考え石上に変えたのだろう。
>


1986荊の紀氏:2014/04/13(日) 13:19:26
Re: 藤原京ライン
秦野北斗さんへのお返事です。

国府と高浜湊を結ぶ道路遺構
(想定古代道) http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
中津川遺跡●国府と高浜湊を結ぶ道路遺構(想定古代道)が、長さ180mにわたって発掘された。
遺跡名 中津川遺跡 http://www.ibaraki-maibun.org/07hokoku/338.htm
遺跡所在地かな いばらきけんいしおかしおおあざなかつがわあざしみずくぼだい123ばんちの1ほか
遺跡所在地 茨城県石岡市大字中津川字清水久保台123番地の1ほか
遺跡北緯度 36度10分16秒
遺跡東経度 140度17分28秒
遺跡標高 21〜24m
時代 縄文/弥生/古墳/奈良/平安/中世・近世/不明
調査期間 20081201〜20090331/20090501〜20091031
当遺跡は,縄文時代から平安時代にかけて集落が断続的に営まれ,中世・近世には墓域として利用されていたことが判明した。また,道路跡は県道石岡・田伏・土浦線に沿って約187 m確認でき,路面は3 回の作り替えが認められた。古くから石岡市街と高浜を結ぶ主要な道であったと考えられる。

手子后神社は舟塚山古墳の近くにあると 情報を戴いた時、その位置の見当がつかなかったのですが、「石岡市中津川字上ノ宮」 という ....
県内最大で、東日本全体でも群馬県の太田天神山古墳に次いで第二位の巨大古墳の近くなのですから、古墳の被葬者と関連するものに違いないとは思いました。そのまま忘れていたのですが、pcat2sさまの情報から、舟塚山古墳の近くに造られ「石岡市中津川字上ノ宮」にあるという手子后神社は、舟塚山古墳の被葬者の茨城国造の祖廟で、「上ノ宮」は茨城国造の宮があった場所なのではないかと考え、もしや、と思って地図を確かめると、私の見た発掘現場の住所は「中津川」でした(^o^)。
国造の宮と祖廟と墓(古墳)があり、その東側にこの遺構が広がっているのですから、これは、5世紀に中津川字上ノ宮に宮を置いていた茨城国造の都なのではないでしょうか。
そこで、この遺跡についての情報を探してみるとありました!「田崎遺跡」で「筑波山と恋瀬川のよく見える台地の斜面にあります。今回の調査では掘立柱建物跡2棟、住居跡33軒、土坑126基、溝跡4条などが確認され、古墳時代前期(約1600年前)の遺構が多く確認されました。」だそうです(^o^)。

>石岡の手子后神社の場所は「石岡市中津川字上ノ宮」で、地図では素鵞嗚神社・梨ノ木 稲荷と表示されている所のようです。 http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/40690417.html
この被葬者は天津族ではなく国津神だったのですが、東征軍に加わって東国に来たのです。波崎・水戸・石岡という手子后神社の分布を見ると、タケミカヅチの軍の将軍としてタケミカヅチと共に行動していたようです。タケミカヅチは鹿嶋に上陸し、「三笠神」を祖廟に祀っていた鹿嶋の王(後の中臣氏の祖)に国譲りをさせて、鹿嶋を本拠地としましたから、その頃この被葬者は鹿嶋に近い波崎を本拠にしてここに祖廟を造ったのではないでしょうか。

> 地理院地図(電子国土Web))
> 中心緯度経度:
> 36.169171,140.290104
> http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/index.html#zoom=17&lat=36.16917&lon=140.2901&layers=BTTT
>
> 舟塚山古墳の北東道路を越える   愛宕山古墳のシルエットな見えますよね?

??  地理院地図(電子国土Web)での解説をいたしますので 宜しくお願い致します。

1・ 手子后神社の鳥居柱(最下部)間に 地点A
2・ 愛宕山古墳の後円の中心を 地点B
3・ 舟塚山古墳 後円部の頂上に 地点C

  手子后神社 地点A ー 愛宕山古墳 地点B ライン
  手子后神社 地点A − 舟塚山古墳 地点Cライン の角度=36°(12度×3)

4・ 愛宕山古墳の後円部の頂上に 地点D
5・ 舟塚山古墳の方墳下部を 地点E

  手子后神社 地点A ー 愛宕山古墳 地点D ライン
  手子后神社 地点A − 舟塚山古墳 地点Eライン の角度=50度=(360°÷ 72°( ☆ 型 測量))

  ※ 舟塚山古墳 − 愛宕山古墳 間に 県道 118号 (国府と高浜湊を結ぶ道路 古代東海道・鹿嶋路?)

 県道 118号 の折れ曲がりに注目下さい。

6・ 愛宕山古墳の後円の中心 地点B -県道 118号 の折れ曲がり(略 南北)のライン を ラインF
7・ 手子后神社 地点A − 舟塚山古墳 地点Cライン の角度=36°( ☆ 型 測量)(12度×3)の上から24°ラインをライン G

8・  ライン G線上から 愛宕山古墳の後円の中心 − ライン G線上 90°なす位置のライン H
9・  ライン G線上から 愛宕山古墳の後円の中心 − ライン G線上 90°なす位置のライン Hの延長  県道118号の道路左端から − 愛宕山古墳の後円部の右端(方墳左端)を結ぶラインを ライン I

   位置のライン H 延長と ライン I の交わる 角度 30°・・・G線上 90°と 県道118号の道路左端から − 愛宕山古墳の後円部の右端(方墳左端)を結ぶラインを ライン I の角度 60°。

  >手子后神社 地点A − 舟塚山古墳 地点Cライン の角度=36°( ☆ 型 測量)(12度×3)=(18°×2 )・・・18°
  18°
  >舟塚山古墳から離れた周辺の前方後円墳間の描く角度が126度 108度 72度 54度 36 度 18度 ピタリ一致しているのです。 五芒星 108度 72度 54度 36度 18度 の 魔星陣 五 芒 星 ペンタグラム 星形5角形の内角 108度 です。( ☆ 型 測量)
  投稿日:2014年 2月19日(水)12時29分6秒   http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/2016

10・ 舟塚山古墳 方墳部上端 − 愛宕山古墳の後円の中心 ラインを ライン J
11・ 舟塚山古墳 後円部の下部端に 地点 K
12・ 愛宕山古墳の後円の中心を 地点B ー 舟塚山古墳 後円部の下部端に 地点 K  ラインを ラインL
13・ 愛宕山古墳の後円の中心を 地点B ー 舟塚山古墳 方墳部上端 結ぶラインを  ラインM
14・ 舟塚山古墳 方墳部下端 − 愛宕山古墳の後円部 を結ぶラインを  ライン S

    ライン M と  ライン S の交差角=18°( ☆ 型 測量)から 舟塚山古墳 方墳部上端 及び 舟塚山古墳 後円部の下部端 を結ぶ。
   ※ ライン M と  ライン S の交差角=18° 交差点は県道 118号線上?。

15・ 愛宕山古墳の後円の中心 地点B ー 舟塚山古墳 方墳部下端 結ぶラインを ライン O
16・ 舟塚山古墳 方墳部 中心? − 後円の中心 − 延長線 ライン P
17・ 愛宕山古墳の後円の中心 − 愛宕山古墳の方墳部下 左角ー延長ライン Q と 舟塚山古墳 方墳部 中心? − 後円の中心 − 延長線 ライン P の交わる 角度 90 °
    > 位置のライン H 延長と ライン I の交わる 角度 30°・・・G線上 90°と 県道118号の道路左端から − 愛宕山古墳の後円部の右端(方墳左端)を結ぶラインを ライン I の角度 60°。

    >4・ 愛宕山古墳の後円部の頂上に 地点D
    手子后神社 地点A ー 愛宕山古墳 地点D ライン と 愛宕山古墳の後円の中心 − 愛宕山古墳の方墳部下 左角ー延長ライン Q の 角度 108°
    延長ライン Q の 角度 108( ☆ 型 測量)°のさらに延長線 と 舟塚山古墳 方墳部 中心? − 後円の中心 − 延長線 ライン P の 交点 90°

    手子后神社 地点A − 舟塚山古墳 地点Cライン の角度=36°(12度×3)の上から24°ラインをライン G と 延長線 ライン P の 交点 90°
18・ 舟塚山古墳 後円部の下部端・欠損部に 地点 Q
    手子后神社 地点A ー 愛宕山古墳 地点D ライン から 舟塚山古墳 後円部の下部端・欠損部に 地点 Q への角度 108°( ☆ 型 測量)
19・ 手子后神社 地点A − 舟塚山古墳 後円の中心地点ライン  R

    舟塚山古墳 方墳部 中心? − 後円の中心 − 延長線 ライン P との 交点 から90°↑ に 手子后神社 地点A
    舟塚山古墳 方墳部 中心? − 後円の中心 − 延長線 ライン P と - 県道 118号 の折れ曲がり(略 南北)のライン を ラインF の交点の角度 108°( ☆ 型 測量)

・・・・結論として 国府造営の準備として 手子后神社 地点A (小型の前方後円墳)が作られ
   手子后神社から 日ノ出の方向に 18°角内に 舟塚山古墳 後円の中心 − 18°角内に愛宕山古墳造営
   手子后神社 地点A (小型の前方後円墳)から 7〜8°角内 (手子后神社 地点A ー 愛宕山古墳 地点D ラインの中間地点から 約 18°デス。

※ 角内・・・紀氏の造語?
その内側
このストーンサークルが造られた目的は依然として謎のまま。ケルト民族によるドルイド教の祭祀場説に始まって、天文台説、王の墳墓説、果てはUFOの発着場説まで諸説あります。現在では、ヒールストーンと呼ばれる石が夏至の日の出の方向と一致していることから、太陽崇拝に関係するという説、あるいは埋葬場所という説が有力となっています。 http://www.hankyu-travel.com/heritage/uk/stonehenge.php
紀元前3000〜前1500年頃、3つの年代を経て造営されたと考えられるストーンヘンジ。最大で50トンにもなるサーセンストーン(珪質砂岩)は、約30km離れたマールバラ・ダウンズからコロとテコを使って運び出されたもの。立石と横石はほぞ穴に突起をかませる方法で固定され、横石同士は溝で繋ぎ合わされています。その内側の同心円状に並べられた82個あったと見られるブルーストーン(玄武岩)はさらに古く、サウスウェールズのプレセリの丘からはるばる運ばれたと考えられています。

   皆様 宜しくお願い致します。(記載ミスが心配で差。)

(想定古代道) http://8906.teacup.com/toraijin/bbs


> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> 藤原京ラインですか、難波宮に推古の大道がある。このラインは南北77km、東西3.7km間隔で10本ある。
> 藤原京ラインは10本の内の1本になるな。重大ですかな。各ラインに名前をつけますかな。
>
> > ショッキング!聖なる藤原京ライン上の古墳被葬者を特定する。高松塚=石上麻呂・・・ http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56223844.html
> > 武の死は707年、石上麻呂の死は717年である。
> >??したがって北極星=太極を中尾山とした場合、高松塚は当然北斗七(八)星となり、八人官女もまた八であるので、文武直属の側近となりそれは左右大臣だった麻呂か不比等しかおるまい。和銅元年(708年)1月11日、従二位石上朝臣麻呂は藤原不比等とともに正二位。文武初期までは最高位にある。
> > しかしその心は、やはり天智・大友にあったのかも知れない。守屋以降、大和物部氏はこれ以上落ち目になるわけにいかなかった。それで寝返って、物部の名にを恥じると考え石上に変えたのだろう。
> >
>

1987秦野北斗:2014/04/13(日) 19:47:34
Re: 藤原京ライン
荊の紀氏さんへのお返事です。

理解できんな。地図にしてくれ


>
> 国府と高浜湊を結ぶ道路遺構
> (想定古代道) http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
> 中津川遺跡●国府と高浜湊を結ぶ道路遺構(想定古代道)が、長さ180mにわたって発掘された。
> 遺跡名 中津川遺跡 http://www.ibaraki-maibun.org/07hokoku/338.htm
> 遺跡所在地かな いばらきけんいしおかしおおあざなかつがわあざしみずくぼだい123ばんちの1ほか
> 遺跡所在地 茨城県石岡市大字中津川字清水久保台123番地の1ほか
> 遺跡北緯度 36度10分16秒
> 遺跡東経度 140度17分28秒
> 遺跡標高 21〜24m
> 時代 縄文/弥生/古墳/奈良/平安/中世・近世/不明
> 調査期間 20081201〜20090331/20090501〜20091031
> 当遺跡は,縄文時代から平安時代にかけて集落が断続的に営まれ,中世・近世には墓域として利用されていたことが判明した。また,道路跡は県道石岡・田伏・土浦線に沿って約187 m確認でき,路面は3 回の作り替えが認められた。古くから石岡市街と高浜を結ぶ主要な道であったと考えられる。
>


1988山田:2014/04/14(月) 10:27:07
Re: 藤原京ライン
秦野北斗さんへのお返事です。

> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> 藤原京ラインですか、難波宮に推古の大道がある。このラインは南北77km、東西3.7km間隔で10本ある。
> 藤原京ラインは10本の内の1本になるな。重大ですかな。各ラインに名前をつけますかな。
>
> > ショッキング!聖なる藤原京ライン上の古墳被葬者を特定する。高松塚=石上麻呂・・・ http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56223844.html
> > 武の死は707年、石上麻呂の死は717年である。
> >??したがって北極星=太極を中尾山とした場合、高松塚は当然北斗七(八)星となり、八人官女もまた八であるので、文武直属の側近となりそれは左右大臣だった麻呂か不比等しかおるまい。和銅元年(708年)1月11日、従二位石上朝臣麻呂は藤原不比等とともに正二位。文武初期までは最高位にある。
> > しかしその心は、やはり天智・大友にあったのかも知れない。守屋以降、大和物部氏はこれ以上落ち目になるわけにいかなかった。それで寝返って、物部の名にを恥じると考え石上に変えたのだろう。
> >
>

・・おはようございます。古代史は素人です。

・・「推古の大道」に平行した道が10本もあるのですか? これを図にしてあるサイトはございませんでしょうか? いろいろと、どんな関連があるのか知りたいところです。

・・それぞれ名前がつくなら、ぜひそれも。

1989秦野北斗:2014/04/14(月) 12:47:37
Re: 藤原京ライン
山田さんへのお返事です。

荊の紀氏さんへの質問ですが、藤原京ラインと難波宮からの推古の大道。

ところで、山田さんは方位が在ると思いますか。ただのヒヤカシですかな。



> > 藤原京ラインですか、難波宮に推古の大道がある。このラインは南北77km、東西3.7km間隔で10本ある。
> > 藤原京ラインは10本の内の1本になるな。重大ですかな。各ラインに名前をつけますかな。

> ・・おはようございます。古代史は素人です。
>
> ・・「推古の大道」に平行した道が10本もあるのですか? これを図にしてあるサイトはございませんでしょうか? いろいろと、どんな関連があるのか知りたいところです。
>
> ・・それぞれ名前がつくなら、ぜひそれも。


1990山田:2014/04/14(月) 14:09:58
Re: 藤原京ライン
秦野北斗さんへのお返事です。

・・横レスですみません。

・・古代都市、遺跡に、方位は存在すると思います。ここのサイトの関心はそこに尽きます。
・・稠密な方法と根気が自分には欠けていて、ここの方たちには感服しております。

 ところで、「難波津から推古女帝の皇居だった飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)までを結ぶ」大道の図を発見しました。

 当時、難波は海路の枢要地でしたから飛鳥への道も立派に整備されていたと思われます。

http://www.bell.jp/pancho/k_diary-8/images/0615-10.jpg

> 山田さんへのお返事です。
>
> 荊の紀氏さんへの質問ですが、藤原京ラインと難波宮からの推古の大道。
>
> ところで、山田さんは方位が在ると思いますか。ただのヒヤカシですかな。
>
>
>
> > > 藤原京ラインですか、難波宮に推古の大道がある。このラインは南北77km、東西3.7km間隔で10本ある。
> > > 藤原京ラインは10本の内の1本になるな。重大ですかな。各ラインに名前をつけますかな。
>
> > ・・おはようございます。古代史は素人です。
> >
> > ・・「推古の大道」に平行した道が10本もあるのですか? これを図にしてあるサイトはございませんでしょうか? いろいろと、どんな関連があるのか知りたいところです。
> >
> > ・・それぞれ名前がつくなら、ぜひそれも。
>

1991秦野北斗:2014/04/14(月) 15:49:37
Re: 藤原京ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0002072_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/神武天皇



1992荊の紀氏:2014/04/14(月) 17:55:34
地理院地図(電子国土Web)での確認 宜しくお願い致します。
>・・「推古の大道」に平行した道が10本もあるのですか?
平行・・・コウ  交?勾?・・・工!

>266年に壱與が引いた郊だな。
>この文章の郊(功)を説明している。郊の端が郊野になるな。円丘・方丘は古墳になる。
> 円丘は円墳、方丘が前方後円墳になる。

!・・・上が柄、下が刃先・・・V(角度?) H(平行?)  Y(?)・・・YHVH?

工 コウ・ク・たくみ 工部 解字 工具の形の象形。甲骨文はノミの形とされる。上が柄、下 が刃先となる。いずれも工作のことを表わす字である。工は部首になるとともに音符にも なる。工を音符に含む字は、「工具」のほか、「つらぬく」イメージを持つ ... http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/87934ae2a5e011abb32739eaade73fb6
甲骨文はノミの形とされる。上が柄、下が刃先となる

功 コウ・ク・いさお  力部
解字 「力(ちから)+工(工具を用いる)」 の会意形声。力を込めて工具を用いて仕事し、その結果が認められること。人の働き全般に及ぼして用いる。

つらぬく

工凡(とんとんと打つ)」
筑 チク  竹部  http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/000858f16f9daae92c68f6bc5fd73237
解字 「竹(たけ)+工凡(とんとんと打つ)」の会意形声。この字で、音符は竹チクになるが参考のため重出した。竹でとんとんとたたいて鳴らす楽器のこと。
意味 (1)中国の古代楽器。筝(琴)に似た形で、弦を竹の細棒で打って鳴らす。(2)筑紫国(つくしのくに)の略。「筑前チクゼン」(旧国名。今の福岡県の北西部)「筑後チクゴ」(旧国名。今の福岡県南部)
築 チク・きずく  竹部
解字 「木(き)+筑チク(=工凡。とんとんと打つ)」 の会意形声。木の棒を手に持ち、まんべんなく土をたたき固めて土台工事をすること。
意味 (1)つく。つきかためる。「築地ついジ」(土を突き固め瓦屋根を葺いた土塀)「築地つきジ」(海や沼を埋め立てて築いた土地)「築山つきやま」(庭園などに土を突き固めてつくる山)「版築ハンチク」(板で枠を作り、土を入れて杵で搗き固めること。この層を何層も重ねて城壁や土壇を造る)(2)きずく(築く)。建物をつくる。「建築ケンチク」「構築コウチク」「築城チクジョウ」

大凡( おおよそ)

工(小さい橋の意=杠)とから成る。 ... 解字:形声。意符の鳥 (とり。のち、虫に変わった)と、音符の凡(大きい意=磐)とから成る。大きいとり、鳳凰の 意。 ... 観察者」のなす角度が51〜53度となる位置に見られる。 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2917
音符の凡(大きい意=磐)とから成る。大きいとり、鳳凰の意。借りて、「かぜ」の意に用いる。

ストーンヘンジのある場所は、夏至と冬至の方角がほぼ直交する特殊な緯度にあるようです
ストーンヘンジの緯度では、月が地平線のすぐ上を水平に移動するということはない。

>骨文はノミの形とされる。上が柄、下が刃先となる
>夏至と冬至の方角がほぼ直交する特殊な緯度にあるようです

> 地理院地図(電子国土Web))
> 中心緯度経度:
> 36.169171,140.290104
> http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/index.html#zoom=17&lat=36.16917&lon=140.2901&layers=BTTT
>
> 舟塚山古墳の北東道路を越える   愛宕山古墳のシルエットな見えますよね?



>・・・結論として 国府造営の準備として 手子后神社 地点A (小型の前方後円墳)が作られ
>   手子后神社から 日ノ出の方向に 18°角内に 舟塚山古墳 後円の中心 − 18°角内に愛宕山古墳造営
>    手子后神社 地点A (小型の前方後円墳)から 7〜8°角内 (手子后神社 地点A ー 愛宕山古墳 地点D ラインの中間地点から 約 18°デス。

>※ 角内・・・紀氏の造語?

角=Vの内・・・古墳!

  手子后神社 地点A <18(角内°)= 舟塚山古墳

  舟塚山古墳 後円部 <18(角内°)=愛宕山古墳

手子后神社 地点A Y(<)18(角内°)=愛宕山古墳
    ※ Y=(−<」
手子后神社 から ー中核地点?ー<18(角内°) 愛宕山古墳

 以上↑・・・・
五芒星 108度 72度 54度 36度 18度 の 魔星陣 五 芒 星 ペンタグラム 星形5角形の内角 108度 です。( ☆ 型 測量)
  投稿日:2014年 2月19日(水)12時29分6秒   http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/2016

 地理院地図(電子国土Web)での確認 宜しくお願い致します。
> http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/index.html#zoom=17&lat=36.16917&lon=140.2901&layers=BTTT


1993荊の紀氏:2014/04/15(火) 09:29:37
東海道は常陸国(国府:今の茨城県 石岡市)まで続いていた。
東海道は伊賀国(国府:今の伊賀上野市坂ノ下国町)より常陸国(国府:今の茨城県 石岡市)まで続いていた。
古東海道の終点の都市 : 石岡 http://www.rekishinosato.com/toukaidou.htm
古東海道は東京湾を舟で渡った
 東京湾アクアラインが開通したとき旧東海道の再現との話題があったが、昔の東海道は横須賀の走水(観音岬)より千葉県の富津岬へ舟で渡っていたという。神奈川側では鎌倉から葉山へ行き、そこから三浦半島を横断して衣笠を通って横須賀川へ歩いた。当時江戸はまだそれ程開発されていない地域であり、現在の東海道からはかなりズレていた。千葉県に入ると上総(かずさ)国=国府は市原-下総(しもうさ)国=国府は市川-常陸(ひたち)国=国府は府中(現石岡)と続いていた。江戸を中心に考えると下総の方が東京に近いが、当時の東海道で考えれば、五畿内(関西)に近い上総が上手である。

 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征(2世紀頃?)

古道東海道の終点、常陸国府中(現石岡市)に都より国司、常陸介が赴任すると、国府の浜(現高浜)より舟で霞ヶ浦を渡り、鹿島神宮のお参りに行くのが習わしであった。しかし、波が荒い日は、浜に青葦で仮神社をたてお参りした。こらが始まりとなり、青屋神社が建てられ、高浜神社が建てられた。 http://www.tsukubapress.com/ishioka.html
国府の浜(現高浜)
高浜神社拝殿
 石岡市高浜865。高浜神社の地図 http://www.mapfan.com/m.cgi?MAP=E140.18.11.8N36.9.32.7&amp;ZM=11
・・・舟塚山古墳の近所です。

茨城県・守谷市は、富士山からおよそ130km離れている。守谷市は、ダイアモンド富士が観られる北限の線上に位置している。冬至の前後数週間は、市内の小高いところのどこからかでも富士に落ちる夕陽が楽しめる。
には、地図ナビゲータ(カシミール3D)を使用して、観測地点の位置(緯度・経度)と富士山剣が峰との直距離・俯角を求め値を付記している。( )内は、ダイアモンド富士が見られる月日を参考までに付記した。 http://sky.geocities.jp/kkhoashi/Diamond_Fuji_Ibaraki/Diamond-Fuji-jp.html

天気が良ければ 富士山が見えます。だから、「富士見塚古墳」と呼ばれているので しょう。 http://ameblo.jp/2465789/day-20120621.html

富士見塚の高台からは 見当をつけて向こう岸に目を凝らすと 対岸の三昧塚が見えまし た。 ...
出船・入船 愛宕山古墳と舟塚山古墳 http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/34731070.html
古墳の位置や方向は 何を基準に決めていたのだろう?

すると 古代には 入り江を挟んで お互いが はっきりと見えていたはずです。 それでは お互いに 自分の力を誇示するために 自分の方が大きく見えるようにと競い合って 海に横腹を向けるように位置と方向を決めて造っていたのだろうか?(^^)
ところが 愛宕山古墳だけが 舟塚山とは直交するような方向に造られており 説明板にも 前方部を霞ヶ浦に向けているので「出船」と呼ばれている。 これに対し 舟塚山は「入船」と呼ばれる と書いてあるのです。
この古墳の存在で 全部に共通した特徴が無くなってしまいました(-_-;) でも この説明 私には納得できなかったんですよね。 出船・入船と呼ぶなら その前方部は 反対方向を向いているはず と思いませんか? でも この二つの古墳は180度ではなく 90度ずれているのです。 このことに ずっと違和感を持っていました。

富士見駐在所 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?


1994荊の紀氏:2014/04/15(火) 09:55:56
180°の 1%程度誤差・・・1.8°(約 2°)デス!
 180°の 1%程度誤差・・・1.8°(約 2°)デス!

通常の正五芒星だと36度ですが、第1半径と第2半径はそれぞれ いくつに設定すれば鋭角が正確な74度になりますでしょうか。 illustrator、.. ... 74度の 場合よりも、ちょっと鋭いので、72度のときよりも少しだけ長くなるはず。 http://q.hatena.ne.jp/1378187073

180°の0.1%は0.18度だった。途中からまちがえてたみたいです。すみません。

2度の誤差凹み・・・V(角度) が2度 平行に誤差

??>県道 118号 の折れ曲がりに注目下さい。

   2度 平行に誤差?


1995荊の紀氏:2014/04/15(火) 10:16:22
対岸には三昧塚古墳があるはず ...
富士見塚の高台からは 見当をつけて向こう岸に目を凝らすと 対岸の三昧塚が見えまし た。 ...
さんまいづかこふん【三昧塚古墳】
茨城県行方郡玉造町沖洲に所在し,古墳時代の5世紀末に属する三段築成の前方後円墳。霞ヶ浦北岸の園部川が開析した沖積地に位置し,全長85m,後円部直径48m, http://kotobank.jp/word/三昧塚古墳

三昧塚古墳(市指定史跡) | 行方市公式ホームページ http://www.city.namegata.ibaraki.jp/index.php?code=1918

三昧塚古墳は、行方郡玉造町沖洲にある。沖洲集落の北西方、小川町(現 小美玉市)に接する地点に 近く、沖積低地が霞ヶ浦に接する部分に築造されている。沖洲集落付近に存在する諸 古墳は、すべて台地上にあって、沖積地に占地するのは本古墳のみである

三昧塚古墳(さんまいずかこふん)  茨城県行方市沖洲467-1 http://www.rekishinosato.com/sanmaizuka.htm
副葬品としては、金銅製冠、金銅垂飾付耳飾、平縁変形四神四獣鏡等があり、ほかにも短甲、鉄鏃(やじり)そして円筒・形象(人物・動物)埴輪など遺物が出土している。

富士見塚古墳. 前方部から見る富士見塚2号墳. 富士見塚 古墳から見る霞ヶ浦. 墳頂から望む霞ヶ浦. 対岸には三昧塚古墳があるはず ...


1996秦野北斗:2014/04/15(火) 11:58:39
Re: 対岸には三昧塚古墳があるはず ...
荊の紀氏さんへのお返事です。

舟塚山古墳、三昧塚古墳、・・・。

これらの古墳は墓で御神体は神社、神宮、に祭れれて居る。

舟塚山古墳は主石神社になるな。

秦野の調べでは古墳の指し示す方向にある。

1997荊の紀氏:2014/04/15(火) 12:50:40
Re: 対岸には三昧塚古墳があるはず ...
秦野北斗さんへのお返事です。

主石神社
ぬしいしじんじゃ http://www.genbu.net/data/hitati/nusiisi_title.htm
[茨城旅行] 茨城県鉾田市大和田字明神山1028−1

三代実録には「鴨大神御子神主玉神」へ従五位上が授けられたと記され、
これを、鴨大神御子神と主玉神に2神への授与とし、
主玉神=主石神(当社)と見るか、
鴨大神御子神主玉神を、岩瀬の鴨大神御子神主玉神社一社と見るかの違い。
鴨大神
常陸國新治郡 鴨大神御子神主玉神社 旧郷社 御祭神 主玉神 配祀 太田田 根子 別 ... の御子神といわれる、主玉神を主祭神とする。 当鴨神社が、大和の鴨社から の勧請か、山城の賀茂社からの勧請かによって祭神のとらえ方が異なってくるようだが 。 http://www.genbu.net/data/hitati/kamoookami_title.htm

御祭神
主玉神
配祀 太田田根子 別雷神
茨城県桜川市(旧岩瀬町)加茂部

役氏(役君)は三輪氏族に属する地祇系氏族 で、加茂氏(賀茂氏)から出た氏族であることから、... http://ja.wikipedia.org/wiki/役小角
舒明天皇6年(634年)に大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。父は、出雲から入り婿した大角、母は白専女[3]。 生誕の地とされる場所には、吉祥草寺が建立されている。
17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城山(葛木山。現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。兵庫県西宮市甲山、六甲山系目神山で弁財天を感得したことと関連して、役行者は奈良の天河の洞川(どろかわ)に住む近縁者、四鬼氏に命じて、唐櫃に移住させ、吉祥院多聞寺奥の院とされる心経岩、六甲比命神社、雲が岩一帯を守護させた。(以後、四鬼氏は六甲修験の総元締めとして、六甲山西部を管理していた。) 20代の頃、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。また、高弟にのちに国家の医療・呪禁を司る典薬寮の長官である典薬頭に任ぜられた韓国広足(からくに の ひろたり)がいる。

寛政11年(1799年)には、聖護院宮盈仁親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表した。同年、正月25日に光格天皇は、烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わして神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡を贈った。
勅書は全文、光格天皇の御真筆による。聖護院に寺宝として残されている。

続日本紀[編集]
小角の生涯は伝承によるところが大きいが、史料としては『続日本紀』巻第一文武天皇三年五月丁丑条の記述がある。日本の公式な歴史書にある唯一のものであるが、執筆の時期は役小角が亡くなってから約100年も後の頃と考えられる。

賀茂建角身神 かもたけつぬみのかみ 天八咫烏,
屈み鑑    三昧石の社 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs

主石神社  鉾田市大和田・・・和田(倭地?) 久保(窪・救母?) 川内(夏・カ倭地・禹ウ地)?・・・などの地名 ダジャレ?
言語的な近さ
シュメール→スメル→スメラミコト(天皇)など、ダジャレ程度ですが言語的な近さも指摘 されました。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1053529665

シュメール語は日本語と同じように膠着語であり、単独では使われない接頭語・接尾語がついてくるのだそうだが、これらの音素がなんらかの記号により表象されることで、「完全な文字」が生み出されたのだ。
非常に興味深いことは、同音異義語を利用しながら判読することにより文字の働きが発展した、と考えられていることだ。 http://blue.ap.teacup.com/qmss/2676.html
「文字」が「固定」されてゆくのが「掛詞=ダジャレ」であったことは大変に示唆に富んでいる。現在でも、あらゆる文明、言語において「掛詞=ダシャレ」を楽しむのは、人間が文字を獲得していった一つの大きな原動力を示しているといわなければならないだろう。


> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> 舟塚山古墳、三昧塚古墳、・・・。
>
> これらの古墳は墓で御神体は神社、神宮、に祭れれて居る。
>
> 舟塚山古墳は主石神社になるな。
>
> 秦野の調べでは古墳の指し示す方向にある。

1998荊の紀氏:2014/04/15(火) 16:32:46
YHVH
YHVH
YHVHhttp://dic.nicovideo.jp/a/y%E3%83%BBh%E3%83%BBv%E3%83%BBh%E3%83%BB
y・h・v・h・とは、ユダヤ教、およびそこから派生した宗教における唯一神のことである。
ユダヤ教における唯一神の名を現すヘブライ語「????」の4文字を、「?(ユッド)」をY、「?(ヘイ)」をH、「?(ワーウ)」をVとしてラテンアルファベットに転訳したものである(ヘブライ語は右から左に書く)。ただし「?(ワーウ)」は古くは V で転写されることが多かったが、近年では古代ヘブライ語ではVよりWに近い発音をされていたと推測されており、国際的にはWと転訳してYHWHと記載される場合の方が多いが、日本ではこの記事のタイトルのように古風なYHVHの方が根強い。
以上の転訳のように、全て子音で成り立っており、発音の基本となる母音が含まれていない。この事からもわかるように、「ヤハウェ」という呼称も仮のものであり、この名前の本来の正確な読み方は失伝してしまっている。
ユダヤ教の聖書「タナハ(キリスト教でも旧約聖書として少しの変更とともに取り入れられている)」に、この神について記載されている。また、ユダヤ教から派生した宗教(アブラハムの宗教)であるキリスト教、イスラム教においても、その唯一神は教義上ユダヤ教の神と同一とされる。
よって、キリスト教の聖書「新約聖書」、イスラム教の聖典「クルアーン」などにおける神に関する記述についても、この神について述べているとも言える。
なお、この4つの文字は「神聖四文字(テトラグラマトン 、ギリシャ語で『四つの文字』の意)」と呼ばれる。特にキリスト教においては、固有名称としては訳されず、「主」として書かれる事が多い。
近年、本来は神聖視される神や天使の固有名詞を安易に使われるケースが増えたと憂慮され、バチカンの教皇庁から、「ヤハウェ」や「エホバ」といった名指しを避け、「主」としての名称を使う(訳す)よう、見解・指示が出された。そのため、その傾向は今後強くなっていくと思われる。
読み方
先述のように、本来の読み方は不明である。Yahweh(ヤーウェ、ヤーウェー、ヤーウェイ、ヤハウェ、ヤハウェー、ヤハウェイ)、Yahveh(ヤーヴェ、ヤーヴェー、ヤーヴェイ、ヤハヴェ、ヤハヴェー、ヤハヴェイ)、Yehovah(エホバ、イェホバ、エホヴァ、イェホヴァ、イェホーヴァ、イェホーヴァー)、Jehovah(ジェホバ、ジェホヴァ、ジェホーヴァ)など、多彩な表記や読み方をされる。
「????」は4つの基本となる文字(字母)のみであって、見ただけで詳細な発音が判る文字ではない。また、預言者「モーゼ」が「????」から授かったとして、ユダヤ教の聖書中に記載されている「十戒」には、「主の名をみだりに唱えるなかれ」という戒律があった。そのため、「????」の名を口に出す必要がある際には「アドーナーイ(我が主)」や「エローヒーム(神)」と読み替える習慣が生じ、その結果、元々の発音が不明となってしまっている。
ヘブライ語では、特に発音を表記する必要がある場合には字母に対して注釈的な発音記号も付けられるのだが、現存する最古のヘブライ語聖書完全写本(レニングラード写本)においてすら、場所によって「????」の発音記号が異なっているのである。しかもその発音記号は単に読み替えのために「アドーナーイ」「エローヒーム」の発音記号を付けているだけであり、本来の「????」の発音を示すものではないと考えられる。
ちなみにアドーナーイ(????)は「?(アレフ)」「?(ダーレス)」「?(ヌン)」「?(ユッド)」から成り、仮にラテンアルファベット転訳するとADNYとなる。 一方エローヒーム(?????、または??????)は「?(アレフ)」「?(ラーメド)」(「?(ワーウ)」)「?(ヘイ)」「?(ユッド)」「?(メーム)」から成り、仮にラテンアルファベット転訳するとAL(W)HYMとなる。そしてそれらの母音をYHWHにあてはめればイェホーワーあるいはイェホーウィー YeHoWaH/YeHoWih 、つまりエホバとなるわけだ。
(ヘブライ文字の Y, W, H 等には半母音の他に二重母音・長母音などを表す記号的な用法があり、単純にそのままヤ行、ワ行、ハ行等で発音できない場合も多い。また無アクセントの短いAは曖昧化しアともエとも表記し得る)。
現在ではヤーウェーと読んでいたのではないかという説が有力であり、聖書の他の記述から「存在させる(者)」という意味とされている。他にはキリスト教プロテスタントの第七日安息日再臨派(SDA=Seventh-Day Adventist)が別の記述を根拠にイェフーダー(ヤコブ(イスラエル)の子ユダのヘブライ語読み)と関連づけて Yahuwah(ヤフーワー)と呼んでいる。

>イェフーダー(ヤコブ(イスラエル)の子ユダのヘブライ語読み)と関連づけて Yahuwah(ヤフーワー)と呼んでいる。

相撲の起源は旧約聖書にさかのぼります。 天使と相撲をとったヤコブの記録です。 「 ある人(天使)が夜明けまで彼(ヤコブ)と格闘した。 ・・・するとその人は言った。 『わたし を去らせよ。夜が明けるから。』 しかし、ヤコブは答えた。 『私はあなたを去らせません。 http://yaplog.jp/latterrain/archive/808
「相撲」という言葉自体、ヘブライ語から来ているという説があります。
ヘブライ語のSheMoというのがそれです。
上記の聖句にある「彼(ヤコブ)の名を」という部分がそれに当たります。
そしてヤコブはこの天使との相撲をきっかけに、
「イスラエル」と呼ばれるようになりました。

「ハッケヨイ! ノコッタ!」もヘブライ語です。

「ハッケ」は「投げつけよ」、
「ヨイ」は「やっつけよ」、
「ノコッタノコッタ」は「投げたぞ! やったぞ!」
という意味になります!


1999秦野北斗:2014/04/15(火) 17:24:08
Re: YHVH
荊の紀氏さんへのお返事です。

日本書記、垂仁天皇

卑弥呼は天照大?(卑弥呼はヤーウェー、八幡)。是?風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、

三月丁亥朔丙申、離天照大?於豐耜入?命、託于倭?命。爰倭?命、求鎭坐大?之處而詣菟田筱幡筱、此云佐佐、更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。時、天照大?誨倭?命曰「是?風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、傍國可怜國也。欲居是國。」故、隨大?教、其祠立於伊勢國。因興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照大?始自天降之處也。

現実は創作の総てを葬る。卑弥呼は・・・の孫。

三角縁神獣鏡(卑弥呼の鏡)

景初三年陳是作鏡自有経述本是京師杜地命出吏人銘之位至三公母人銘之保子宜孫寿如金石兮

景初三年、陳が自ら経述した鏡を作る。もとは京師(杜)の出、銘は位至三公の吏人、銘は母人(おものひと)、保子(開花天皇)の孫(卑弥呼)、金印(親魏倭王)をもって祝う。

保子(開花天皇)は特定ずみ。



2000荊の紀氏:2014/04/16(水) 04:49:54
Re: YHVH
秦野北斗さんへのお返事です。

五斗米道  台与(臺與)
秦野北斗の古代史 http://homepage2.nifty.com/watcher/hatano17.htm
五斗米道

斗米駅(とまいえき)は、岩手県二戸市米沢字沢内にある
縄文時代後期から古代縄文後期の環状配石遺構(ストーンサークル)や土師器時代の竪穴式住居、古墳群が発掘された遺跡で、現在は近隣公園になっています。 http://ninohe-kanko.com/sightseeing.php?itemid=8
岩手県 二戸市 米沢??... 地図. 緯度: 40.26901532978894 経度:141.2555228891325.

五・・・台形?
霊台(臺) http://tenkyo.net/kaiho/pdf/2009_07/2009-07-01.pdf#search='五 台 星座 古代'
五車、 一一一台、 北斗 (以上中宮星)、 杵 (外官星)、 および甘氏星の二座、 すなわち八穀と天街 (外官星) がある。
木・火、土、金、水などの5つの惑星 http://vv.81study.com/archives/56767/


斗 とます http://www.k3.dion.ne.jp/~masatono/every/kanzi/syousai4.htm
 意味;ひしゃく。
 解字;象形。柄のたったひしゃくを描いたもの。柄がまっすぐたつさまに着目した。豆(トウ) (つきたつたかつき)、頭(トウ) (まっすぐにたつあたま)などと同系とみてよい。
 例;料、斜(ひしゃくを傾けて中の液体を横に伸ばし流す)。
豆(トウ)・・・壹・・・壹(=壱)
頭(トウ)・・・頭に「北」をつければ、なぜか七星全体を現す意味となっていたようです。
「ひしゃく」形のますの部分「斗」の四星(「魁」ともいう)と柄の部分「柄」の三星(「杓」ともいう)をあわせた言葉です。 http://business4.plala.or.jp/kodomo/kodai3.html

枡の部分の第一星を魁星カイセイと呼んだことから、さきがけの意となった。さきがけは先頭に立つ意であり、かしら・首領、すぐれる意となる。 http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/5fd52ae6f8ea7991bcb291046c1f65b9

「鯀(コン)」の魂〔伝える 鬼


料 リョウ・はかる  斗部


道タオ 禹歩(道・タオ:田尾=甩シュツ・・・電いなずま:ジグザグ・・・出 エジプト)
陰陽道   http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/2260
升 が意味する容器
大きな柄杓のことを「斗」という。「斗(北斗七星)」は星座が柄杓の形をしている。)
合!合!合! 合(合龠為合)の3連発!(三合為升)。 まとめて 「六龠為升」といえる。
 ただし、この字は、1升(=3合、=6龠)の6分の1に引き下がって、1龠を表しています。

「申」の字を辞書で確かめると、この字も独立した象形文字です。
「申」 字義:のびる、さる
    解字:象形。稲光の様にかたどる。電の原字。

禹為除道 http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1260
、「帝公」の「公」に当たる文字は判読が難しく、「禹」「正」「台」「久」等諸説あるが、今回は別の近世の反閇資料を参照し「公」としておいた。
「帝公」の「公」=「禹」「正」「台」「久」等諸説ある
「台」

台与(臺與)
「台(臺)」物を載せるための基盤や平たいもの。
台村(うてな-むら) http://ja.wikipedia.org/wiki/
熊本県菊池市にある地名。旧菊池郡七城町大字台。
邪馬台国関係で比較的語られることの多い北部だけでなく、中部や南部にも触れてみたいと思います。熊本からは、弥生時代の鉄器が非常に多く出土しています。しかし、中国製の銅鏡の出土の少ないのが特徴です。 http://www7.ocn.ne.jp/~sui-yama/kumamoto.htm
「巴形銅器」とは青銅製の装飾具の1種であり、弥生時代から古墳時代にかけて出土し、西日本に多く分布しますが、茨城県内ではいまだ2例しか出土していません。 https://www.city.ishioka.lg.jp/page/page000878.html
クニ(狗奴国)
与(あたえ、よ) http://dic.dev.nicovideo.jp/a/
壹與(壱与)
壱 ヒ 眞・・・位置!起点! 「始」に連なるもう一つの意味の流れが?
壹(=壱)は、つぼの中にいっぱいに酒が充実下さま。懿は、もと「欠(人がかがんだ姿、かける)+心+(音符)壹」で、欠けめなく充実した性格のこと http://homepage3.nifty.com/giboshi/kaijitbl026.htm
酒つぼ
棺台(葬式のひつぎの台)・・・高杯?
私 的に【甘】 カンは、禹の父【鯀】コンの甕棺(酒甕に逆さに生贄・・・甘い香りがした。 .... こん せいしゅ)⇒ リキュール魂 (こん )⇒ 霊魂 Soul (Navy) ⇒ soul ? http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/3015
「|」は「坤(こん)」といい「天地をつなぐ軸」であり、「天と地の神(皇)に、ある地域(国)を与えられた者」すなわち「王」を示します。
坤(こん)
神(眞しん)
賁とは飾るという意。夕陽が山裾を照らしている様子
真」は康煕字典では「眞」の俗字となっており、両者は意味が近いため途中で混同したと 考えられます。 ... 意符の目(貝または鼎の省略形)と、意符と音符を兼ねる収(両手で 支える意)とから成る。 ...
【鯀】コンの甕 棺【】は、【占う】〔口+ト(ヒ)〕など【霊】 精霊・・・・「口寄せ」の元祖? ...
巡狩し、行りて鯀の水を治むるに無状なるを視、すなわち鯀を 羽山に亟し以て死なしむ」とあります。 鯀は死後三年経っても腐らず、 ... http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2758
沖縄の陶器で「壺」を「甕(カーミ)」とよぶこともある
「口」は鼎=鯀=起点 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/2430
臺?「亜」とも「豆」とも違う不思議な字体になる。
鯀(コン)凵 困 壼
思う壺
図星(ずぼし=思う壺)、急所、勘所などを「つぼ」といい ます。矢を射るときの狙いどころ ...
狙いどころ
臺(皇帝の居場所)

解字1:ナシ(旧字「臺」の解説) http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/3029
    解字2:形声。意符の口(くち)と、音符のム(おのれの意=自)とから成る。一人称代名詞で、「おれ」という意。古くは台が臺と同音であることから、借用された。
 「ム」(第14回を参照)のすでに獲得した意味で「台」を追ってみます。
「台」=「ム」+「口」=>ない+口=>口のないもの=>あなのないもの=>?=>だい
 「だい」の意味には繋がりませんが、不思議なことに「口のないもの」で解読すると、「台」を持つ字の展開がうまく進みます。
初期の時代は「山:=火山」で「台:=非火山=>やま」だったのです(第33回「火山でない山」の回答)。
「台」はさらに辞書に示された「始」に連なるもう一つの意味の流れが読み取れます。

吾=私=台(臺・・・【室=口】の上の【士=ム】) 吉:神に祈る 意 - teacup.http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1923
もと. 意味. うてな。 高い土台や物を載せる台。 また、見晴らしのきく高い台。 解字. 臺は 「土+高の略体+至」で、土を高く積んで人の来るのを見る見晴らし台をあらわす。
、「台(臺)」といえば、天子のことだ。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku15/saraba1.html
臺倭国=大和国が解体する600年代まで続きました。
http://www.geocities.jp/ojyaru_24/saisin.html

棺台(葬式のひつぎの台)や担架を表す「ナーシュ」という名称で呼ばれていることと関連付けて、旧約聖書の天体名「アーシュ」の場所を特定したのです。現在、旧約聖書の邦訳はこの説に基づいて、アーシュを「北斗」と訳しています。(アーシュは北斗七星全体でないことに注意)
なお、現在のアラビアでは北斗七星を葬式でひつぎを押す3姉妹としています。すなわち「ナーシュ」の部分がひつぎで、北斗の柄の部分の3星を3姉妹としているのです。古代のユダヤの人たちもこの3星をひつぎに横たわる故人の子供とみていたことが、下記の引用からもわかります。ちなみに旧約聖書の中のヨブ記は紀元前5世紀に書かれたといわれています

5次元の「共同超意識」の中
「契約の箱」は、「契約の柩」とも呼ばれていているように、「柩」とは死者を 入れる「お棺」だ。 つまり、ユダヤの「契約の箱」の奥義とは、相対的な二元性をもって、 この二元性を超えることにある。要するに、箱の上蓋に安置されている二体のケルビム は、 ... http://phenix2772.exblog.jp/i49/
つまり、ユダヤの「契約の箱」の奥義とは、相対的な二元性をもって、この二元性を超えることにある。要するに、箱の上蓋に安置されている二体のケルビムは、二元世界を象徴しているが、「死」を通過することで、宇宙の一元世界に辿りつくことができる。今まで、個体意識を生かしていた「内部マトリックス」の時代から、宇宙意識を生かす「外部マトリックス」の時代に移行しつつある。

無限の世界に同調するための 「鍵」 は、自我を(外す=死)ことが条件となる。それにより、「外部マトリックス」への移行が可能になるが、その後、新生「内部マトリックス」に移行する。そこでの同調は、覚醒された宇宙の集合意識である5次元の「共同超意識」の中で住まうことができる


> 荊の紀氏さんへのお返事です。
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> 日本書記、垂仁天皇
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> 卑弥呼は天照大?(卑弥呼はヤーウェー、八幡)。是?風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、
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> 三月丁亥朔丙申、離天照大?於豐耜入?命、託于倭?命。爰倭?命、求鎭坐大?之處而詣菟田筱幡筱、此云佐佐、更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。時、天照大?誨倭?命曰「是?風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、傍國可怜國也。欲居是國。」故、隨大?教、其祠立於伊勢國。因興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照大?始自天降之處也。
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> 現実は創作の総てを葬る。卑弥呼は・・・の孫。
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> 三角縁神獣鏡(卑弥呼の鏡)
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> 景初三年陳是作鏡自有経述本是京師杜地命出吏人銘之位至三公母人銘之保子宜孫寿如金石兮
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> 景初三年、陳が自ら経述した鏡を作る。もとは京師(杜)の出、銘は位至三公の吏人、銘は母人(おものひと)、保子(開花天皇)の孫(卑弥呼)、金印(親魏倭王)をもって祝う。
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> 保子(開花天皇)は特定ずみ。
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