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古代科学史掲示板

93管理人:2018/08/14(火) 14:54:15
東北・北海道の縄文遺跡の方位ライン 2
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平さん、さっそくお返事ありがとうございます!周堤墓・ストーンサークルから、隕石落下を考える・・・、平さん独自のご発想だといつもながら感じますね!

昨日は、知人の車で、小樽の手宮洞窟、余市のフゴッペ洞窟、忍路環状列石をみてきました。

あらためて、両洞窟の線刻画を見てきたのですが、やはり、続縄文時代(弥生時代にあたる)の作というよりは、縄文後期(紀元前2500〜)の洞窟が出来上がったころの制作ではないかと感じました。

以前も紹介した原エラム文字の人型形象(図1)、これがその洞窟の線刻画そっくりです。図2の手宮洞窟の線刻(イメージ)を参照。

原エラム文字・インダス文字が、ヒエログリフやセム系のアルファベットへと変化する一方で、東アジアへと縄文後期後半に、これらの線刻文字が伝搬していったように感じるんですね。

そのフゴッペ洞窟のすぐ近くの西崎山環状列石とは、やはり明らかな地理的な相関性があって、双方同じ縄文後期につくられたと考えるのが筋でしょう。

それで図3は、フゴッペ洞窟と手宮洞窟を結ぶ東西ラインですが、そのライン上に先の忍路環状列石が載ることがわかります。

正確には、忍路環状列石とその西方の地鎮山環状列石を結ぶラインの中間点あたりを、上記のラインが通過することになるので、もしかするとその中間点付近にも知られていない環状列石があるかもしれません。

これらのことから、この地域の洞窟に描かれた線刻画と、環状列石が同時代に作成されたことが明らかになり、その時代は、環状列石(ストーンサークル)が東北・北海道(世界各地)に広がった縄文時代後期後半(前2500年〜)と考えうるわけです。

そうすると、その洞窟の線刻画(文字か?)の内容を解析することによって、縄文時代後期後半の生活・習俗といったものから、平さんご推測の前2000年前後に落下したであろう隕石落下・災害の痕跡を見いだすことができるかもしれない点で、重要な史料と言えそうです!






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