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古代科学史掲示板
599
:
史実探偵: 平 素人
:2022/02/12(土) 23:06:11
Re: 伎比佐の大岩(斐川町阿宮)
引続いて「仮想;出雲に卑弥呼が住んでいたとする」場所について考えています。
金印の埋め場所として卑弥呼の銅鏡説がある雲南市神原古墳を考えていたが、神原神社の千木が男神であったことから、そのセンは薄れた。加茂岩倉に大量の銅鐸出土。荒神谷に大量の銅剣類の出土。これは、(拙論)卑弥呼が魏から得た銅鏡にかえて封印したとしている(別紙)。(卑弥呼=櫛稲田姫が、仮想;備中倉敷市 船穂町 里木から出雲の素戔嗚尊に嫁いだ←里木神社の立て看板)
当時は “一夫多妻” があったと思われる。平安時代の和歌やら、桃山・江戸時代の側室とか、近時でも〇号さんとか、別宅とか本宅とかの話には聞く。赤川から下流の斐川町に<阿宮>がある。「阿」は、あいうえおの「あ」や、あ子様にも通じることから、一番目の婦人<一ノ宮>とした。そして、他ではあるが<三ノ宮>の地名ものこっている。
卑弥呼は、魏から得た残りの銅鏡をたずさえ、総社市岩屋→姫路→神戸桜ヶ丘(いわや)→野洲大岩山へ、それまで使用していた銅鐸や銅剣類を封印するべく、大勢のお供をつれ輿に乗って出張った。キーワードは<姫路>である。野洲町での封印を終え帰路についたが長旅の疲れから<箸墓>で没したと仮想した。
当時の列島では印鑑のシキタリは無くて金印は無用の長物とした。卑弥呼は、その「親魏倭王」の金印を出張りに持ち歩いたか否かが問題である。どちらにしても粗末に扱う分けにはいかないから、卑弥呼の斬髪とともに、お供した従者が出雲のどこかに埋めたと仮想した。神原古墳の銅鏡に刻まれている制作年代が卑弥呼が魏へ献上した年代に合うことから神原神社を思ったが、そこは男神を祀っていた。その男神が卑弥呼の従者でその者が保管していたかも知れない?? 同じ敷地内に?ある写真の小さい社にしては、灯篭が不釣り合いなほど立派すぎるのはなぜか~~! そして、印鑑をおす紙はなくても木簡はあると仰っていたが、今でも木製お札に御朱印がありますからそのセンも捨てがたい。しかし、印鑑は卑弥呼個人のものだからやたら目ったら押すわけにはいかない~~!
もし、印鑑を埋めたのならば、目印や盗掘を避けるための重石は置きたい??
阿宮には<伎比佐の大岩>があるのですか・・・、つぎへうつります~~!
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-72.html
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