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古代科学史掲示板
487
:
史実探偵: 平 素人
:2020/12/30(水) 04:31:31
Re: 素鵞川
青面金剛さまへのお返事です。
> 机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。
> ※ 出雲市内をバスなどで廻れば、斐伊川や神門川の氾濫を予防する為の「放水路」が各所に引かれていることが分かります。降雨の少ない瀬戸内地方とは正反対に、「雨は適度に」の制雨の願いです。
私は、1700年前の気候がどのようであったか分りませんが、出雲の生活圏の中心は松江にあったと見ています。ここには “雨乞山” の地名が残っていますから雨乞いがなかったとは言い切れません。長い歴史のなかには「八大竜王さまこの雨止めさせ給え」の豪雨災害もあったでしょうが 当時の人達の考えは、雨天・干天を仕切るるのは水神竜であり太陽神ではなかったように思います。それを卑弥呼は大彗星のニアミスを境に竜神は太陽神の従神説を唱えそれまでの銅鐸文化を銅鏡文化にかえたのではと以前のべました。前に申し上げたことがありますが歴史を語り合うときは、どの時代のどの地域で、何について語るかの主題を決めてかかるほうが良いと感じています。
> ※ 瓦投げは、厄除け・厄払いの為に行うもので、「壺背山」の南側には、因佐神社、奉納山の出雲手斧神社、大穴持御子神社 (三歳社)など、出雲大社の境外摂社が多数鎮座していますので、それらの祭神に向かって「厄」を投げるなど有り得ません。
「瓦投げ」の件は、わたしは知りません。瓦と破片土器では微妙にその意が変わります。素人が「それと言った」と遺りますと困りますのでねんのため・・(笑い)
卑弥呼の代までは、列島に「国」の概念はなく、むしろ、その社会形態は「政教分離」であったと見ています。「国」の考えは大陸の考えであり、卑弥呼は大陸の考えに傾斜していったのではと思います。当時出雲の住社会の中心は松江にあり「教」の中心は「大社」であったと見ていますが、わたし素人は大社の設営がなぜ今の位置に?が判っていません。
大社は、素鵞川(そが)と、吉野川の清流に挟まれていたのですね。それらの清流にはゲンジボタル、ヘイケボタル、ヒメボタルと多くのホタルが棲みついているようですが「ヒメ」の名付けが気になります^^!。
大社周辺には色々と摂社があるのですね。私は「なにを奉納したか」と奉納山の名付けに興味があり、そこにある神社名を知りたかったのですが「手斧神社」だったのですね。ありがとう御座いました。この件につきましてはいずれ又・・・、
> 平さんが、この次に給付金を受け取ったら、直ぐ行けば良いだけの事です。
それから、
当方の孫子の代の行く末やら、懐事情まで言及していただいて汗顔のいたりですshanks(^-^!) ^^
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html
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