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古代科学史掲示板

440荊の紀氏:2020/04/27(月) 09:25:26
・・・ハプログループBは約4〜5万年前にアジアで分岐…
フェニキア人: セム語系諸族・海の商人…悪と商業が密接に組み合わさっていた…
紀元前1200年前後の「海の民」 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsekainorekisi.com%2Fglossary%2F
全盛期には彼らの活動範囲は地中海を越えて、大西洋やインド洋にまでおよんでいた。政治的には、紀元前7世紀にアッシリアの攻撃に屈したあと、新バビロニア・アケメネス朝と次々に異民族の支配を受けたが、海上における活動は引き続き活発で、ペルシア戦争時にはフェニキア海軍が活躍した。紀元前4世紀後半にティルスがアレクサンドロス3世によって破壊され、東地中海の支配権はギリシア人に奪われたが、西地中海においてはカルタゴの勢力がなお健在であった。フェニキア人の文化史上の功績は、カナーン人の創始したアルファベットの書体が、まだ造形性の強いものであったのを線状文字に改良し、これをギリシア人に伝えて、今日まで伝わる西方系諸文字の源流となった点にある。

古代地中海世界に繁栄をもたらしたフェニキア人の歴史
ヴェネツィアの商人などで知られる地中海の金融や商業活動って、現代でもお手本にされるこが多いですよね。その起源ってどんなものだったか気になりませんか?今回は、商業を発明したといわれるフェニキア(カルタゴ)人ってどんな歴史をもち、どのようにオリエント文明へと繋げていったかを紐解いてみたいと思います。
フェニキア人ってどんな人たち? /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwondertrip.jp%2F96632%2F
フェニキアとは、現在のレバノン近くに紀元前3000年ごろ出来た民族と国家です。
フェニキア人は、一つの民族ではなく、テュロス(現スール)、シドン(現サイダー)、ベリュトス(現レバノンの首都ベイルート)などに移住してきたセム語系の諸族のこと。
彼らは商業に関する能力に秀でていました。
海上交易により、クレタ文明が栄えていたギリシア都市との交流もあったようです。
後に砂漠や海に囲まれ狭い地域にあったフェニキアは、メソポタミア、エジプト、アナトリア半島などとの交易をし、古代オリエントの交通の要所として発展していきます。
…紀元前14〜13世紀には世界中で貿易が盛んになり、フェニキア人の商業基地(植民地)が各地に建設されました。
特に、チュニジア共和国の世界遺産「カルタゴの遺跡」で知られるカルタゴは、この時大都市へと発展しています。
紀元前814年にカルタゴは、建国されたのではないかと推測されています。
フェニキア人たちは争いを好まない人々で、先住民に土地代を払うなどをして平和的な関係が築かれていたようです。
…チュニジア共和国のカルタゴだけでなく、15世紀頃に栄えたウガリット、スペインのカディスやバルセロナもフェニキア人が築いたものといわれています。
彼らが、交易を容易にできた理由の一つに、地形的なものもあったのではと思います。
海岸線は複雑で多島だったということから容易に航行することができ、イベリア半島東南部からシチリア島までの西地中海貿易を支配していたからです。
しかし、紀元前13世紀ごろから、東地中海一帯を征服しようとするやからが登場します。
それは、海の民という集団です。
彼らが、幅を利かせるようになると、当時大国だったヒッタイトは滅亡、エジプトの勢力が衰退していきました。
フェニキア人、アラム人、ヘブライ人は彼らが襲った土地に入り込み、様々なところに植民地(交易の場)を獲得していったのではとも言われているんです。
悪と商業が密接に組み合わさっていたと考えられます。

YAP(+)(Y染色体ハプログループE)
日本とは何ぞや?japanese-origin.hatenablog.com/entry/2016/12/17/180302
【E*】
DE*集団からの移動・・72,500〜50,000年前
E*への変異・・・・・・・・・・55,000〜50,000年前
サブクレード・・・E1-P147,E2-M75
主なSNP・・・M96,M40/SRY4064
E*(xE1,E2)とはっきりわかっているのは、2015年に判明したアフリカ東部の男性3人。E*(xE1,E2)がはっきりわかったことにより、E全体の再分類がこないだやっと一段落した。なお、DE(xD-M174)でアルタイ山脈南部のベシュペリチルで1/43=2.3%観測されている。
また、3,352〜3,161年前のE1b(E1b1b1b2a1a-FGC18319/Y5413)の遺骨(ArmeniaMBA)が、アルメニアのゲガルクニク地方にあるセヴァン湖の南西端の湖畔の村、南西にはノアの方舟で有名なアララト山の山系を一望出来るコーカサス地方のNerquin Getashenの遺跡で見つかった。
…遺跡には、はっきりしないがE1b1b1b2a1a-L788と推測される、3,593〜3,395年前の遺骨(ArmeniaMBA)とともに、R1b(R1b1a2)の3,856〜3,648年前の遺骨(ArmeniaMBA)が見つかっている。
DE*のいるチベットではE1b1b1b2a1aは発見されていない。脱アフリカしてチベットに行くDEから途上で脱落したものなのか、アフリカでEに進化して後世行ったものなのか、注目される。
なお、2010年4月27日、アララト山の山頂付近で方舟の木片を発見。遺骨と同様に炭素年代測定を行ったところ、大洪水が起こったとされる4800年前と同時期の木片であること、その木片はこの地方に繁殖していないことがわかった。別の調査では方舟らしき構造物がアララト山にあることも、大洪水はあったが局地的なものであったこともわかっている。
個人的には、大洪水以前の創世記では、遠くノドの地に離れたカインと遊牧民・演奏家・鍛冶屋の祖先となった息子ヤバル・ユバル・トバルカイン、アダムの後継者となって300年間神とともに歩み死なずに失踪したエノク、あとネピリムとは遺伝子的に何者かが気になる。
【E】
Eの分布図。ISOGGの下位サブクレードを見る限り、Eのアフリカ脱出ルートは主に4つ。1つ目はジブチ・エチオピア=イエメンルート(アフリカの角とも言う)、2つ目はチュニジア=(シチリア島又はサルデーニャ島経由)イタリアルート、3つ目はエジプトルート、4つ目はモロッコ=スペインルート。ギリシャが多いのは2つ目と3つ目が合流したからではないだろうか。
そしてアフリカ西部南端にいたEが大西洋沿いに真北に増えていたところ、Eの一部は突如北東に向かう。おそらくエレナ山の噴火の火山灰で気になって進路を変えた可能性が考えられる。なお、自説では、この移動に先立って後にDとなるDEがこの4つのうちいずれかのルートを開発してアフリカを脱出したと考えている。
E1b
・E1b1-PN2
東部アフリカ36/43=83.72%、アフリカのガンビア人33/48=68.75%・サハラ以南のアフリカに分布するバントゥー系民族73/108=67.59%(東部30/55西部43/53)、アフリカの小人ピグミー19/38=50%・エジプト人17/36=47.22%、ギリシャ人14/42=33.33%、アフリカ南部のカポイド(コイサンとも呼ばれる)21/75=28%・中央メキシコ原住民のサポテコ族2/15=13.33%、イタリア人5/39=12.82%*12、Baloch people(パキスタン)2/25=8%*13、ドイツ人2/32=6.25%*14、Makrani caste1/20=5%(パキスタン)*15、アメリカのインディアンの1つシャイアン族2/44=4.55%、南米大陸の北端に住むWayuu people1/26=3.85%、ロシア人1/30=3.33%、イングランド人1/32=3.13%*16。
日本人0/141=0%*17。*18
アフリカの小人ピグミー19/38=50%…

原ピグミー語
ハヅァ人はY染色体ハプログループB系統が58%[2]の高頻度で観察される。この型はピグミーによく見られるタイプであり、現在は固有言語を喪失したピグミーであるが、「原ピグミー語」はハヅァ語に近縁であった可能性がある。…
ピグミーの起源 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ピグミーは様々な民族名を持ち、それぞれ異なる言語を話す。しかし、その一方で、ひとまとまりの存在だと見なされてきた。その理由は、一つに小柄という身体的な特徴であり、もう ひとつは文化的な共通性。しかし、一部の研究者は様々な根拠から、異なる起源を持つ集団ではないかと、異論を提出している。彼らは共通祖先の形質を継承したからではなく、熱帯雨林における狩猟採集生活という環境が、自然選択として働いた結果、似たような身体に収斂したとする。もし、そうだとすると、ピグミーという言葉で複数の集団をまとめる事に、問題点が生じる事になる[1]。
…かつて存在したオリジナル・ピグミー語は遺伝子からハザ語に近縁であるとの説もある。
人種的特徴
ピグミーを総称した人種概念をネグリロ (Negrillo) と呼び、次のような特徴的な形質を有するとされる。
平均身長が150cmに満たない。他の黒人ほど肌の色は濃色ではない場合がある。体は筋肉質で胴は長くて太く、腕は長く足は短い。頭部が大きい。 髪質は細くちぢれていて体毛は毛深い。また、ブッシュマンやホッテントットといったカポイドにも見られる「脂臀」といわれる特殊な形質が女性にあらわれる事がある。
ネグロイドの下位区分とされるが、その特徴的な形質からさらに独立した人種とされたり、カポイドの集団と近縁ともされることもあるが、カポイドは突顎が弱く長頭が多いなどいろいろ異なる点が多い。
かつては東南アジアの小さな体をもつ狩猟採集民(フィリピンのアグタ族 (Agta) とバタク族 (Batak)、マレー半島のセマン人 (Semang)、アンダマン諸島の先住民など)と含め「ネグリト」と呼ばれ、フランスの人類学者カトルファジュは、両者を南インドを起源とする一つの人種であると捉えたが、東南アジアのネグリトは皮膚の色がより濃く、体毛が薄く、突顎が著しくないという違いがあり、少なくとも1960年代後半にはすでに別系統説が強くなっていた[9]。現在は遺伝学的に近縁でない事がわかっており、東南アジアのネグリトはオーストラロイドに属するとされる。
遺伝学より
言語学は文化的なオリジンを探求する方法であるが、生物学的な側面については遺伝学を利用することで理解することができる。
ピグミーにはY染色体ハプログループB系統が高頻度で見られる[10][11]。このグループは大地溝帯から森林地帯へ西進した系統である。
ミトコンドリアDNAの分析によって、例えば西のピグミー(アカやバカなど)と東のピグミー(トゥワやムブティなど)の間の遺伝的な類似性よりも、それぞれの近隣農耕民との方が遺伝的に近いという結果が得られている。しかしこれによって、ピグミーの同一起源が否定されたわけではない。実際にはピグミーの女性は近隣の農耕民に娶られるという一方的な通婚があり、ピグミーの女性の遺伝子が農耕民に供給されてきたからである[12]。mtDNAの集団内多様性や核DNAの研究から、実際にはピグミーと他の人々は6-7万年前に分岐し[13]、2万年前に東と西にピグミーが分岐した[14]という結果が得られ、ピグミーは同一起源であるというのが有力である。しかしながらピグミーの特徴である低身長については、ピグミーが西と東に分かれて以降、それぞれの集団が独自に環境に適応した結果であるという説もある[15]。
実際にはピグミーと他の人々は6-7万年前に分岐し[13]、2万年前に東と西にピグミーが分岐した[14]という結果が得られ、ピグミーは同一起源であるというのが有力である。…
東南アジアの小さな体をもつ狩猟採集民(フィリピンのアグタ族 (Agta) とバタク族 (Batak)、マレー半島のセマン人 (Semang)、アンダマン諸島の先住民など…)
アンダマン諸島の先住民など…
私達黄色人種も、元々は黒人。アンダマン諸島先住民族のお話。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fancientjapan.hatenablog.com%2Fentry%2F2014%2F05%2F11%2F214059
アンダマン諸島の先住民は、人種的にはオーストラロイドに属するネグリトであるとされていますが、実際にはネグロイドとの明確な区別は無いようです。
つまりは、アンダマン諸島の先住民は、東南アジアまで進出していながら、新しく現れたモンゴロイド形質の人達と混血する事なく、進出当時の形質を現在まで保持し続けている可能性が高い訳ですね。
彼らの中にも、ネアンデルタール人の血が混じっているのかどうか、非常に気になるところですが、見た目からは、全然混じらないまま、この地まで来た様にも思えます。
ちなみに、Y染色体で調べてみると、彼らは日本の縄文タイプの人やチベット人と同じハプログループDに属しています。
アイヌ民族、チベット人、アンダマン先住民、それぞれ全く違う風貌ですね。
しかし、人類がアフリカを出た頃に、突然変異によってY染色体ハプログループD系統の男性が現れ、現在の世界中のこのD系統の男性達は皆、この突然変異の男性の遺伝情報を受け継いでいると言う事なんですね。
Y染色体ハプログループD系統は人類が出アフリカを果たした頃の系統で、元々非常に古い系統なので、新しく現れた他の系統の集団から長期間隔絶された地域でしか、その勢力を保ってはいません。
つまり日本のY染色体ハプログループD系統のグループも、列島が海に囲まれ、長らく他の系統との混血が順調には進まなかった事によって、その勢力を温存されたと言う事になりますね。
ちなみに、このY染色体ハプログループD系統の男性は、アイヌの人達や南西諸島の人達に多い事はもちろんなのですが、それ以外の地域でも、今だにかなりの勢力を保っており、日本の男性全体の内の、実に約四割(約39%)が、このハプログループD系統のY染色体を持っていると言う事だそうです。
ただ、男性のY染色体や女性のミトコンドリアDNAの分布を調べる事で、人類が辿って来た道が大まかに見えて来ると言う事はあるのですが、Y染色体やミトコンドリアDNAの遺伝情報と言うのは、混血を重ねた人類の、膨大な遺伝情報の結果のごくごく一部でしかなく、それによって、人の形質までが判断出来ると言う訳ではないので、D系統のY染色体を持っている男性が、あべこべに非常に弥生的であったり、それ以外の人に非常に縄文的な人がいたりと言う事は十分起こりうると言う事なんですね。

小型のヒト属…
ホモ・フローレシエンシス(フローレス人 Homo floresiensis)は、インドネシアのフローレス島で発見された、小型のヒト属と広く考えられている絶滅種。[1][2] 身長は1mあまりで、それに比例して脳も小さいが、火や精巧な石器を使っていたと考えられる。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
発見された骨は脳の異常な小ささから、小人症やピグミーのように矮小化した、あるいはクレチン症やラロン症候群といった発育上の障害をもった、ホモ・サピエンス・サピエンスの骨だと主張する研究者も多い。これに対しニューヨーク州立大学ストーニーブルック校のウィリアム・ユンゲルスや、ロンドン自然史博物館のエレノア・ウェストン、エイドリアン・リスターなどは、新たな研究からやはり新種人類であるという説を唱えている。ペンシルベニア州立大学のロバート・エックハルは、新種人類説は以前の論文と矛盾し場当たり的だと批判している。ハーバード大学のダニエル・リーベルマンは、新種人類かを判定するにはさらなる化石が必要だと述べており、専門家の間でも評価は定まっていない。
ホモ・フローレシエンシス /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
このヒト属は、当初は12,000年前まで生存していたと考えられていたが、より幅広い研究の結果、最も近年の生存証明は、50,000年前まで押し上げられた。[5] 2016年現在では、フローレス人の骨は10万〜6万年前のもの、石器は19万〜5万年前前後のものであるとみなされている。[2]
50,000年前…
ハプログループBは数々の島を渡ってきた日本最初の移住民 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fu-gene.jp%2Fcolumn%2Fhaplogroup-b%2F
ミトコンドリア・ハプログループBは約4万年前に東南アジアで誕生したグループです。アジアではハプログループDに次いで2番目に大きい集団です。
海を渡って最初に日本へやってきた移住民と考えられており、日本人の約15%がこのグループに属しています。
ハプログループBは約4〜5万年前にアジアで分岐し、東南アジアやポリネシアといった南方に広まっていきました。
分布としてはイラン、イラク、華南(中国南部)、チベット、ベトナム、マレーシア、インドネシア、タイ、日本、台湾、フィリピン、ポリネシア、マダガスカル、メラネシア、ミクロネシア、ハワイなどで、アメリカ先住民からも検出されます。
とくにハワイの先住民であるポリネシア人にはグループBが多く、9割がこのグループに属しています。



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