[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
掲示板が新しくなりました。
160
:
nishiyan
:2025/06/18(水) 21:21:57
1.人間は動植物と同じく自然に日々を生きるという、生の無意識性のようなものを持っているのではないかと思っています。
2.動植物と大きく違うのは、突き詰めて、内省する、頭で考える―感じ考え判断するようなことは動植物にもありそうに思いますが―ことばの人であるということだと思います。
3.人の大事なものは、心臓辺りにあった歴史の段階から、近代以降現在では脳に中心があるようになってきています。こうした状況は避けられないものだと考えています。もちろん、脳中心、脳化社会はさらに高度化していくと思いますが、脳と心との折り合いや調和の問題は、人類が生き延びている限り、人類史的な課題として何度か俎上にのるはずです。そうして、軌道修正などしながら進むだろうと考えています。そのことは、人間以前の大変動の経験とも連続性を持っているような気がします。
最初の吉本さんの言葉に戻ると、吉本さんの「人間とは、そういうものなんだよ、」や「つまり役に立たんことを、あるいは本当の意味で誰が聞いてくれるわけでもないし、誰がそれを信じてくれるわけでもないし、どこに同志がいるわけでもないし、だけど死ぬまでは一歩でも先へすすんでという、・・・・・・ものすごく人間は悲しいねえーという感じがぼくはしますね。人間とは、そういう存在じゃないんでしょうか。そういう存在じゃないんだろうかということが、親鸞に「唯信鈔文意」とか「自力他力事」とかを書き写しちゃ弟子たちに送るみたいなことをさせたモチーフじゃないでしょうか。それがぼくの理解です。」の言葉は、この世界での人間の有り様に深く触れているような気がします。つまり、わたしたちがそれぞれどう思いどう考えどう振る舞おうと自由だけど、それを超えたところでいわば〈関係の絶対性〉のようにわたしたち人間存在を深く規定しているものとして、人間はそうできている、という吉本さんの言葉はあるように思います。
もちろん、一方には人間がこの世界で生きる意味や目的というものを考えるような言葉も存在してきたし今も存在しているわけですが、それらはほんとうの有り様からすれば作り物めいているように思います。人はどんな考えを思いつくのも自由だし、実際そんな自由さからの考えや言葉も世の中にありふれています。しかし、人間本質の有り様を潜り抜けた言葉じゃないと、人類史レベルでのほんとうに生きている言葉にはなれないのじゃないかと思っています。
ぼくがよくわかっていない部分もあって、すっきりとしたわかりやすい文章になっていないと思いますが、取りあえずぼくの方からのひとつの締めくくりとしたいと思い書いてみました。
佐藤さんの更新と近況の「2025年6月12日」の最後の二段落は上に引用した吉本さんの言葉とも響き合うのではないかと思います。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板