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明主様
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「いづのめ誌」 明主様を想う、から
「私の実家が明主様にご縁をいただいたのは、昭和19年のことでした。2番目の姉の子供が風邪をひいたとき深川の市場の青果物店のご主人 、(渡辺勝市相談役の弟)が治療(浄霊)( 当時は宗教活動が認められなかったため、渋井式指圧浄化療法の名のもとに、活動していた)をしてくださった。( 中略) 私は1月23日身の回りのものを 携えて、宝山荘へご奉仕に上がりました 。
まもなく、明主様のご面会に上がる渋井先生のお供を、させていただきました。 私はご面会の次の部屋に控えていたのですが、初めて明主様のお姿を拝することが出来ました。
場所は熱海の東山莊です。お目にかかる前は一宗の教祖なんだから、白い着物に、髭をはやし、髪を長くしていらっしゃるのかなと思っていました。
明主様は普通の着流しで、総絞りの兵児帯(へこおび)をちょこんと横に結んで、足早に出てこられました。
そのお姿は微塵(みじん)の俗っぽさもなく、粋(いき)なダンディで言うに言われぬ魅力を感じました。
ご面会の時間は30分ほどでした。私は明主様のお姿を一目配しただけで、このお方が教祖様なら一緒について行こうと思いました。
明主様の御印象は私のそれまでの不信心を一変させるほど強烈だったのです。
(中略)
渋井先生が軽い脳梗塞のような浄化を頂いた時 。
明主様が特別に浄霊して下さり、私はお側で明主様のお姿を何度も拝する機会がありました。 真剣に浄霊される明主様のお姿から、慈愛の御心が にじみ出て、それが私の全身に、直接伝わってくるように感じられ感動しました。
(中略 )当時は食料事情が悪く、小豆(あずき)がいっぱい入ったご飯を1日に2食、昼抜きでしたので、忙しく働いている奉仕者は皆ものすごくスリムでした。
(中略 )渋井先生は私たち奉仕者には、み教えの難しい話はされませんでしたが、明主様のお話をガリ版刷りにして説明してくださいました 。
特に「霊界が夜から昼に変わる、何れ世界の大浄化時代が来る。滅びる人々が続出する。浄霊を徹底することによって、浄化に耐えうる心身にならなければいけない。だから信者は浄霊のお取次ぎで、ますます忙しくなる」と強調されていました。
昭和24年 3月17日私は沢田秀雄と結婚式を挙げました。当日私どもは熱海の清水町別院 へ渋井先生に連れられ午後1時、明主様にご挨拶申し上げることになっておりましたが、準備に手間取り、 理髪師が入念にしてくださったので、約束の時間に?1分遅れ?てしまいました。
取次の方が奥に入っていった後、時間を守らなかったことを大変ご立腹になって『もう会わん』ということを、おっしゃっているご様子でした。
しかしまもなく応接間でおめ通りがかない、私どもはきついお叱りを覚悟していたのですが、入ってこられた明主様は『おめでとう。今日からは両輪だね。』と温かくおっしゃってくださったのです。
私どもはぼーっとするほど嬉しくて、思わず涙ぐみ、 ?今日からふたりで御用だね?という優しい明主様の御心ありがたく噛み締めました。
今も耳に残っている明主様のお言葉がもう一つあります 。二女の三弥子様のご結婚のご披露の、お手伝いにあがりました折り、 花嫁のお召し物は大変 質素だったように記憶しておりますが、 明主様は『 本当はもっと立派なお嫁入りの支度をしてあげたいんだよ。やろうと思えばできるんだけれども、今は神様の方でいくらお金があっても、足りないくらいだから、できないんだよ。』とおっしゃっているのを耳にしました。
そのお言葉には父親としての限りない優しさと、教祖としての御神業にかける、固い決意がにじみ出ていました。」
(世界救世教参事、沢田美紀子さん)
時間にとても厳しいというのが書いてありますね。 床屋が念入りにしてくれた、その心に絆(ほだ)されて遅れてしまった。
『会わん』とおっしゃっていた。しかし沢田さんの 誠の心が 伝わったのか 、それが一転しますね。 本当に心から反省しているのが 伝わってきます。
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