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明主様
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神を目指す
>そこに神倣って行くという生き方もあっていいのではないですか。
と言うよりも、参拝という基礎。基本業(型)を通じて「信じ仰ぐ」を繰り返して来た
理由も、だんだん中身(心)にそれが育まれていく為の「信仰」だと言えるでしょう。
それが救われる為の条件だと言いきって大丈夫だと思います。もちろん審判に際しての
合格点か否か(判定)も、その進み具合によるもの(相応)と思います。
心にそれさえ根付けば、偶像崇拝は勿論の事、先祖供養すら(体的な目に見える型は全て)
必要なくなって来ますからね。基本の型に囚われなくなる段階(=型破り)
一の問題は想念、つまり【心の在り方、使い方】それこそが一切を左右するのですから、
体的な物や行動(目に見える物理的な部分)は、どちらも(二の問題)という事を覚る深さ
に応じて、見た目に振られる体主の自分も越えて行ける。
よく1番さんは、両方ですね。と言われますが、少し勘違いされているようで。
体的な目に見える善悪・陰陽(つまり自分の外側)は両方どちらでもOKですが、肝心な
中身、心の方、自分の視点(つまり自分の内側)が二つのまま(どっちつかず)では
精神分裂(精神が二つ)なので、目に映る問題が絶える事は無いと思います。
中身(視点)が一つに定まるから、外側の問題が解決する(問題じゃなくなる)んです。
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