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明主様
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(無題)
昨日仕事帰りの暗い夜道で、地べたに座っているおっちゃんを発見。
聞くと、半年前に脳梗塞になり、体調が不安定だとのこと。
近くの腰掛スペースまで肩を貸しました。
さて、このタイミングで浄霊を試みる信者さんも多いでしょう。
僕も試みました。
結果として5分ほど許され、おっちゃんは
(本人的には楽な姿勢で座っていたから)楽になった、
と言って立ち上がり帰って行きました。
久しぶりに未信者浄霊が許されて嬉しかったのと同時に、かなりのもやもやが残りました。
「気功を勉強中ですが、受けてみますか?」という自分のお勧め方法に対してです。
しんどそうな相手には、是非浄霊をしてあげたい。
しかし、間違った表現をしてまて、受け入れられやすさを優先するのはどうなのか。
相手が元気な人なら、もっとちゃんと言える。
かなりしんどそうな人に対して、してあげたいが故に曲げる事は、どこまで問題ないのか。
まあ、今のところの考えですが、
ぶっちゃけその時点で真剣に思って取った行動なら、何でもOK。
もやもやが残ったら、次はこうしようと修正していけばいい。
同じようなケースで次は、「気功」じゃなくて「手かざし」と言うつもり。
これなら間違いではない。宗教色はギリギリ出さない事で、相手にも一定の受け入れられやすさも有る。
かなりしんどそうな知り合いでない人に対して宗教色のある言動は、
我が強いかな、と思うから。僕は。
どんな人に対しても、明主様を高く掲げて接する先輩も知っていますが、もちろんそれはそれで全く問題ないと思う。
この掲示板で「嫌われる勇気」について学んだ直後の出来事。
「拒否される勇気」が必要なのか、
「相手に受け入れやすい試み」が必要なのか。
多分一律的な答えはなく、その時点の刹那の我で対応していくことになると思っています。
・・・実は別の観点
「浄霊をしたいという執着」
「地上天国を実現したいという執着」
という(自分的)発見もあったのですが、
まあまた今度にします。長いし(苦笑)。
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