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明主様
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当時の事
抜粋 、 「その時、御神体をそうしないと言ったのは、管長と松井と二代様だ。
三人集まって、お写真をご神体にするとおっしゃったお言葉を、覆(くっが)えした。
(中略)(御帰天後)
「一体自然農法というのはいいのだろうか?と、この頃言った管長、ある人が管長の家に行ったら、「明主様が主神でないという事は、元から思ったよ」と、こう言うそうです。
「だけど事実、御神体様に向かってお願いして どうにも治らんのが 、明主様をお念じした時に治るとか、遠方からご守護をお願いした時、その時間にきちんと治る じゃないか。」と言うと、「それは君、そう思うからだよ。」と、これでは何をかいわんやんだ。
今までは明主様がおられて、お使いになっているのだからと考えた。
お使いになっているのを云々するのは、大変申し訳ないと思ったのです。
それで初めは何が分かるかと思って、本部は無視しておったのですが、講演会なども開いたのです。
やった時、来たのが、松井と鈴木正吾(顧問)。
その時、夜中の1時2時までかかって、信仰の問題を話した時に、私からフナフナ( 厳しく指導)言われた。
(御在世中)
それで松井は、こういう人を九州に置いておく事は、怪(け)しからんと思って、明主様に申し上げた。
その時、私が上京するのをは 排撃(はいげき)したのは、管長に阿部(執事)。 なんだ、かんだと言って阻止しようとしたが、 明主様がよろしいとおっしゃったので、仕方なかったのです。
実に変なところで、変な人間が来て、変な手柄をするという、神様はうまい事やられる。
松井がそういう働きをしたかと思うと、また出てくる働きをやった。
彼らは、私を横暴だと言うのです。」(中略)
「渋井文書」(渋井氏の息子が書かれた本)
には 木原当時理事長が、明主様信仰を曲げたように書いてあります 、しかし、ここには当時教団幹部と木原氏の対立があった。
だから後に、木原氏は離脱をされた。
これは御尊影をお祀りするか、しないかと、あったと書いてあります。
( 昭和30年3月21日 、「教長様お導き集 」第一集から)
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