レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。
明主様
-
中橋会長の講話
御用させていただくあるいはお参りをさしていただくのが楽しいという、お参りに来なくなければいけないというと、来なくなっちゃう、そういう義務ではないですから、教会に来るのが喜びでないといけない、そうでないとこなくなっちゃう、
教会に来るのが楽しみにならないと、神様のお光いただいて幸せになるこんないいことは他にないんですよ、お参りさせていただいてお光をいただくことがいかに楽しいことかそれが分かればね、それが分からないとね。義務だけで格好だけでやっている。そんなものは神様に通じてないよ。芯を本当にわかるということですね。
やはり愛情というか、 神を愛する 神から愛される、どちらかというと神を愛するということですね。神様を離れては一刻もおれない、いつも神様と一緒いるそして幸せだという、安心立命だと 、いつも奇跡が起きてくる、そういうことばかりおきてくる、浄化はおこるけれどその後はもっとよくなる、そういう体験を積んでいけば、神様とずっと一緒にいるという体験につながるんですね。
今までの夜の時代は戒律で縛られて、お参りしないといけないとか、このしなきゃいけないというこれがいけないんだ。これは ほんとうは神様に通じないんですね、たとえば救世教が変なことをやってるからいっぱい来るんですよ、来てこまるくらいたくさん来る、それが信者じゃなくて教師がくるんですね、その人達は20年も30年も信仰しているわけですよ、その人達が皆貧乏なんだ、こちらはどうか知らないけれどおそらく同じだと思う、貧乏で病気でけんかばかりだ、病貧争が家の中で渦巻いているんだ、おかしいですね20年信仰して、20年徳を積んだら絶対恵まれますよ、貧乏なんかするわけがない、金なんか余ってきてしょうがないはずだ、その20年30年御用してきたんだよね、だけどやはりしなければいけないからしてきたんだ、神様に通じてないんですよ陰徳じゃないんですよ、陽徳なんですよ神様にぜんぜん行ってないんですよ、もっと厳しくいえば20年30年何もしていなかったと一緒ですね、むしろ借金ばかりですね、神様を食っていたそうおもいます、そんなばかなことはないです、1年やってみなさいどれだけ良くなるか、本当に変わってくるよ。それだけ変わらなければだめですね、その徳はやはり陰徳でないとだめですね。
例えば向うだと誰かがご守護いただいて献金するでしょう、たとえば家を売って売れた分を教会にもってくるでしょう、その時点で皆知っているんですよ、また教師はそれを宣伝するんですよ。「あの信者さんは家を売って全部献金したって言うんです。」だからその人はご守護いただけないんです、皆知ってしまっていますから、陰徳ではないんだ、またその中には随分嘘があるんだ、それを言ってさせようという魂胆があるんですよ、そうして言っているほうも神様を信じていないわけです、もっと言えば神様と人間が商談しているわけですね、自分はこれだけやるからこれだけ欲しい、神様とやっているわけですね、それは絶対に通用しないね、人間どうしならいいけれど、神様の世界ではだめだ、やるときは無条件でなければ、そうでなければ神様は受け取らないんだ、よくみていると全部がそうですね、あの信者さんはものすごい献金をしたよて言うんだそうしたらもうだめですね、今度は極端に悪くなってくる、皆に知られているから、だから知って欲しいためにしてるということもあるんですね、神様を信仰しているんではなくて、人間信仰なんです、教会の中でいい子になりたいから、威張りたいからしてるだけ、体主霊従ですね、ひっくりかえってますね、そういう時はうまくいかない、その辺は相当厳しいよ、それは間違いないですね、本当にやっている人は嘘じゃないかと思うほどのご守護をいただいていますね、びっくりするくらいよくなっていますよ、言っても信じないぐらい良くなっている、そういう人は何も言わない、誰も知らない。誰にも言わない、もちろん教会でも誰がいくらしたか知らないんですよ、やっている人もいわないんですよ、言えば差別するんですよ、あの人はよくやっているから浄霊の時間を長くするとか、あまりしない人は簡単にするとか、人間は差別するんですよ、知らなければ平等にやるから、だから知らないほうがいい、献金をしてようとしていまいが関係ない、だからそれが霊主体従ですね、そうでないと悪循環してくる、どんどん悪くなてくる、良くはならない、どこかでひっくりかえさないとね、反対に廻さないといけない、最近はそういうことを感じますね、
神様は見えないけれど見えたつもりでするんですね、想像するんですね、ご神前に行ったら神様がいらっしゃると想像して、で恭しくお参りするという、そのうちだんだんわかってくるよ、気持ちがよくなってくるから、
最近夜寝て、目がさめることがあるんですよ、2時とか3時とかね、目がさめると寝苦しいんですね、寝苦しくて目が覚める、今までは寝苦しくても無理して眠ろうとしていた、寝なければいけないと思ってまた寝たんですね、無理してねそれでも眠れる事は眠れる、それは少しおかしいなと思ってね、今度は目がさめたら明主様の前にいって、私のところには明主様のお写真とご浄霊していらっしゃるお姿があって、その前ですわっているんですよ、そうすると大体10分くらいでよくなるね、あくびが出たりして、すっきりするんですね、軽くなるんですね、軽くなってねるとぐっすり寝るんですね、あ これだなと思ったんですが、その辺が横着なんですね、それと苦しくても我慢するという変な我慢するんですね、我慢してはいけないんですね、我慢しているとどんどん落ちていくんですね、朝ぱっと目が覚めないんですよ、本当はすかっと目がさめなくてはいけないんですが、ぼやーとしている、それはなにかと観察しているんですが、その人は眠った時に地獄に行っているんだ、地獄から帰ってくるから暇がかかってしまうんです、顔見ればわかります、この人地獄に行っていたんだな、朝起きてきたけれど大分遠かったから、暇がかかっているなと、自分でも分かりますから、地獄に毎晩行ったらひどいよ、それが癖になる、平気になってそういうものだと思う、人間は面白いそういう世界になれてくるから、なんとも思わないんだ。
前にも話したかしれませんが。 祖霊舎があるんですが、信者さんは皆名前をいれているんですが、ある家族のひとで娘さんにお婆さんの霊がかかってきて、名前を取ってくれというんです、どうしてかと聞くと、自分の住んでいるのはカデルナといって真っ暗な洞穴のような場所に住んでいる、そこで家族みんなくらしているんだ、お前たちがお参りするから光が降りてきてみんな焼けてしまう、体が火傷するというんですね、ひどいことをお前たちはやるというんですね、だから取ってくれというんですね、ということは明主様がおっしゃっているように、地獄の霊を天国に連れて行ったら地獄にもどしてくれという、天国は大変なところなんだ、地獄のほうが余程楽しいんだ、楽しいことがいっぱいあるんですね、お酒のんだりいっぱい食べたり楽しいことがあるんですね、地獄にいる霊を天国に無理して連れて行ったらもういいというんですね、いやだという、いやだというから地獄があるんだ、神様が造ったわけではない人間が作っちゃった。
いま救世教がやっているように自分の先祖が変なところにいるから、供養してお参りして上げるというでしょう、あれはだめだね、あがりたくないという霊はどうするんですかね、文句が出ますね。おれは楽しくやっているのにあんな苦しいところはいやだ。
私は天国は大変なところだと思う、行くのに考えなければいけないよ、教会にいればそう思います、よほどでないといけない、朝早くおきて、掃除して、一週間休みなしで、夜は8時9時まで人がいる、それで翌朝また早く起きなければならない、それはもたないですね、それが天国ですね、それが楽しいんですね、だから天国なんですね、ご用することが楽しいんだね、神様といることが楽しいんだ、それ以上の楽しみはないんだ。
先祖さんにいろいろなものお供えするでしょう、本当はそんなものは必要ないと思います、あれを食べる人というのは中幽界以下だね、そんないところにはいないですね、お光が食べ物だから、中幽界以下にいる人もあるからお供えもいいですが、はやくそういう霊界から上がって神様のお光をいただいて、それで十分だという、食べ物はいらないという、それが本当の栄養だから、だけど生きていたときの執着があるんですよ、食べ物を食べたいという、だから来るんですね、その辺が難しいと思うね。祖霊さんを救わなければならないという、その祖霊さんがどの辺にいるかが問題ですね、だいたい私は中幽界から下だと思う、中幽界から地獄だと思う、残念ながらみんな先祖がそこにいるんですよ、で。そういう霊をみんなお参りするでしょう、呼ぶんですね名前を書いて、そうするとみんな来るんですよ、そんな霊がいっぱい来たら、たいへんですそんな家には住めないですよ、夜は眠れないし大変なことだ、それはやってはいけないね、死んだ人がいっぱいその辺にいるんだから大変なことだ、みんな言うんです、夜だれかが歩いたり、ドアたたいたりね、寝れなくなっちゃう、本当からいえば呼んでもいけれども返さなければいけない、返し方を知らないから、放っておくから家の中にいる、どうせそういう霊は行く所がないんだから、光だていただきたくないんだから。
ですから本当の道は神様を信じて神さまに救っていただくという、お任せするんですね、自分は自分のことをやっていくという、ですからあまり祖霊さんのことはあまり思わないほうがいいですね、私はそう思う、もちろんやらなければいけないけれど。祖霊さんに救ってもらうというでしょう、とんでもないことだと思う、祖霊さんには救う力はない、向こうは救われたい、あるいはいるところで満足している、暗い汚いところにいるんだ、そこにいればいいんだ、無理して引っ張り出さなくても、そういうところのほうが気持ちがいいんですよ、ぐちゃぐちゃしたところがあまり家の中をきちんとしていると住みにくくなるんですよ、その辺のことですね、むずかしい問題だ。 その点はカトリックのほうがまだあっていますね。祖霊さんはぜんぜん言わないから、ただ神様だけだから、すっきりしていると思う、日本はそれが大変です、アフリカもみんな先祖だっていいますね、先祖と一緒に食べたり飲んだりしています、そういう霊界にひっぱられていきますね、その点について明主様がおしゃっているのは西洋と東洋は違うから、べつに仏壇とか置かなくていいとおっしゃっている。霊界が違うからね、向こうはすっきりしているんだ、日本はややこしいんだ、教会に行ったら苦しくなるという人がたくさんいます、それでおかしくなってこちらの教会に来るんです。おかしくなると家の中で皆けんかするんです、仲が悪くなるんですよ、いろいろな霊がいるから気持ちが悪いんですね、おたがいが喧嘩する、人間がするんではなくておたがいに霊がかかっているんですね、だから頭がかっかするんですね、仕事はうまくいかないし、貧乏になるし、ひどいもんですよ、こちらの良くみれば同じだと思うんですよ。霊界の事は幽世の大神さまにお任せしているんだから、むこうでやってもらうということですね、霊界の世話まで現界でできないですよ、世界がちがうんだから、霊界は霊界でやってもらえばいいんですよ、現界だけでも大変なんだから、死んだ人まできたら大変なことになる、だから祖霊祭りのあとはいつも元の御位に戻ってもらう、はっきりいったほうがいい、祖霊祭はお光をいただいてみ教えを聞いて理解していただいて、一段でも上に上ってお帰りいただく、来たときよりは上になって帰っていただくということですね、
日本はあまりそういうことはないけれどブラジルは食べ物をお供えするでしよう、食べに来るんですよ、いっぱい、霊に礼儀がないんです、泥棒といっしょですね、入ってくるのもどこからでも入ってくる、普通入ってくるのは玄関からですが、入ってもいいか聞いて入ってくるんですが、しかし下級の霊はむちゃくちゃなんですね、そういう礼儀を知らないだから下なんですね。食べ物をあげたら食べに来るんですよ、いっぱいくるんですよ、日本はそれはないと思うけれど、だけど気をつけなければいけない。お腹がすいている餓鬼の霊というのはいっぱいいるんですよ、生きている時に食べられなくて死んでいるから、それが続いているんですね、それはいくら食べてもだめなんです。行くらて食べてもお腹がすいている、そういう霊には食べさせないほうがいいと思う、たかってくるしね
今のみ教えにあるように、1953年から昼の時代に変わっているんですね、私は思うんですが、明主様がいらっしゃったときはすごく光があったんですよ、教会も信者さんもみんな光輝いていたんですよ。明主様がご昇天されて現界が暗くなちゃった、夜の時代になったんではないんですね、私は明主様が神界にいかれて雲がかっかったんではと思う、中幽界に雲がかかった、光が遮られて下に降りてこない、だから人間の世界が暗くなっちゃった、そういう時代が続いてきたと思う、中幽界というのが幽界なんですね、雲の上に行けば太陽は輝いているんですが、光があるんですが、雲の下は真っ暗なんですね、その雲が遠のくんですね、いつもいるんではない、天気の日もあるし曇りの日もあるんだから、一年中曇りというわけではないんだ、でも曇りの日は暗いんですよ。暗い時は雲を通りぬけなければいけない。それは神様を思うということですね。そうしないと光が降りてこない、信仰のある人は神様を信じてるから上まで行っちゃうんです、雲を通り越しますから光を感じるんだけれど、この辺でうろうろしてるとだめなんですね、通り越すということですね、昼の時代ですが雲が厚いと夜のようになりますから、だけど夜じゃない昼なんですね、3千年夜の時代が続き、今度は3千年昼の時代が続くわけですね。
このあいだも言ったんですが、東光西輝という教えがある、東方の光が西洋で輝くという、言葉ですね、日本から光が出たんだけれども、灯台基は真っ暗がりというのがあるんですね、西洋に行って輝いてそして帰ってくるんですね、帰って来たときは出たときよりも強くなっているんですね。外国で育つんですね、強くなるんですね、そして日本に帰って来る、そして日本が救われる、そう思います、ブラジルにいるとそう思います、向こうの方が光があるなと思います日本よりは。そんなことはないはずなんですが。
西洋というのは悪が強いという面もある、向こうに行って悪がつよいから強くなければやられちゃうだから強くなって帰ってくる、育って帰るというかね、ご讃歌に「メシヤは栄光の雲より降る」というのがありますが、栄光の雲というのはなにか分からなかったんですが、何を象徴しているのだろうかと、考えて見ますと栄光の雲 雲というのは科学ですね、水ですね、発達した科学を使ってメシヤが降りてくるということですね、ですから何が起こるかといますと、インターネットとかそういうものが発達して世界中に広がる、最後は神に祈るより仕方のない時代になれば、がんじがらめの世界になれば、そういうときに本当のものを流してやれば、インターネット上で明主様から浄霊をいただいてよくなる、それが栄光の雲だと思う、それから光が降りてくるのですから、やはり最後の最後ですね。み教にあるように 坂から転げ落ちる人は落ちるまで待っていたほうがいい、途中で止めたら怪我する、いま人類は坂から転げ落ちているんですね、転がりおちて最後に行って止まるんです、そしたらメシヤが降りてくるそうでないと降りてこない。
神様が来ても誰も信じない、どうしょうもなくなってですね、その時期が近づいている、医学の面では明主様のおしゃったようになってきている、医者のなり手がない、それははっきりと40年50年前におっしゃっている、医者が注射をするのが怖くなる、したらころっと死んじゃう、そういう時代が来るそうしたら分かってくる、医者になって間違いがあれば罰せられる、それが今までは治療すれば治っていた、固まっていたんですね、今度は固まらないからころっと逝っちゃう、そういう時代になってきた、いまは若い人も頭がおかしくなってきた年寄りだけじゃない、年とは関係ないですね、毎年少しずつ悪くなってきている、そのうちに医者はどうしょうもなくなるね、そうしなければわからない、それが石が下まで落ちて止まるということでしょうね、そうしたら浄霊をいただこうということになるんですね、もうしょうがないから、ほかに方法がないから、また浄霊をいただいたら良くなるんですね、
ブラジルの信者さんで結構年のいった人で、膝の軟骨がなくなちゃったんだ、それで痛いんだよ、骨がすれるから、それで医者に行ったらこれはだめだから手術しなければいけない、歩けなくて痛いんですよ、それで浄霊したんです、1週間したら痛みがなくなった、そして医者に行ってレントゲンを写したら、なんともなくて元に帰っているんだ、医者がびっくりして何をしたのかと、元に帰ってしまっていくら歩いても平気になた、1週間ですよ。
先日は乳癌の人が来たんですが、だいたい1週間ですね、1週間か10日で消える完全に消える、手術の必要はないですね。
信者の人で 乳がんが痛くてしょうがない、大きくなっちゃって、教会で1日ご奉仕して、帰ってみたら消えてなくなっていた、なんともなくなって、どこかに行っちゃった、ですからお光りもものすごく強くなった、昔はこういうことはなかったね。
まず浄霊はしなくてはいけないね。救世教から来る人は風邪でも薬を使っていた、それが大分かわってきた、みんな病院に行っていた、お腹が痛いすぐに病院に行っていた、それが最近大分分かってきた、うちの教会では誰も病院に連れて行かない、苦しんでいてもほったらかしている、だれも相手にしない、ただ浄霊はしますが、なにもおこらないというのが分かっていますから、心配しない、浄霊しているほうが心配するからだめなんですよ、どこか悪くて教会に行くでしょう、先生が出てきて浄霊するでしょう、先生が心配そうな顔したらだめだと思いますね、その先生が5分でも10分でも浄霊して後は知らん顔していれば大丈夫だと思いますからね。
このような奇跡は毎日のようにある、ますますそれは顕著になってきたね、夜の終わりですね、この何年間で勝負ですね、そんなに長くはないよ、4.5年だね、それまでにしっかりした信者さんがいるかどうかですね、そうでないと救えませんからね、ですからそれまでに体験を積まなければならない、いっぱい体験を積んで、自分の後ろには明主様がいらっしゃるんだという、明主様と一体だというそういう 信仰までいけばね、もうしめたものですね。お参りに来るときは一人で来るんですが。帰るときは明主様と一緒に帰っていくんですよ、その自覚がないとだめだな、来たときも一人帰るときも一人じゃ駄目だな、帰るときは明主様と一緒だと、そうすると物事がかわってくるんですね、そのしっかりとした実感ですね、嘘でもなんでもない本当なんです、いま信者さんでご神体とご尊影をおまつりするひとが随分多いですが、当時のみ教えを読むと、観音様が大光明如来様になって応神みろくでメシアだから、大光明如来さまは明主様の代理神なんですね、明主様の代理をしているんだ、ご神体をいただくと大光明如来様がその家にいくわけですね、その家に行ってその家を守るんですね、もとはひとつなんですが分身するわけですね、孫悟空のようなものでいっぱい分身するわけですね、その分身した如来に一体一体すべて個性があるんですよ、お宅にいったのと他に行ったのはぜんぜん違う、それがすごいところなんです、そしてそこで働かれるんですね、たとえばテレビだと同じチャネルに合わせればみんな同じものを見ているんですが、神様のチャンネルるは家によって写ることが違うんですよ、隣の人の写っているものとその人の移っているものは違うんです、その人に合ったものを放送しているんだ、そこがすごいんだ、だから頂いたご神体は大事にしなければいけないこれは守り神だから、形だけしているのはだんだん影が薄くなるから、力がなくなるから、やはり真剣にお参りする、何でも頼んでいく、そうしたらだんだん力ついてくる、神様でも人間が拝まないとだめなんですよ、祀っておいてほったらかしていたらぜんぜんだめなんです、やはり人間次第なんですね、だからその家によって観音様の力が違うんですね、観音様がやせているのと太っているのとあるんですよ、その家の信仰がだいじですね、力はなくなりはしないけれど、ですから目に見えないそういう世界ですね、
事務所を持っている人で、地上天国の御文字があるんですね、ご真筆ではなく複製ですが、その部屋が暖かくなってきた、入ってくる人みんながそう言うんです、暖かいね暖かいねと、すごいお光ですね、暖かいというのは神様の愛とか光とかに満たされているから、行った人が気持ちよくなる、物事がスムーズにいく、暖かいということは大事です、それはひとつの体験ですね、ご書体も紙に書いただけのものと思えば物質的だしそれで終わってしましますが、すごいお光りがでていることがわかればすごいことになる、むこうでも大分いただく人が増えてきました「地上天国」と「大建設」。
そういうことです、自分たちの運命を変えていかないとね、一段でもいいから上に行くというか、大変なことなんだ、天国は大変なところなんです。
|
|
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板