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明主様
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言霊と、想念
神慈秀明会の 体験発表を見ていたら、 入信 参拝はお許しを頂いたと、必ず言っています 。他の教団はそこまで言っていません 。
行かせて頂いたというのが多いですね 。
そこに信仰が現れていると思います。
(み教え)
『お蔭ですが 、前に私が大本教にいた時に ある人は献金を頼んだんです。 するとその人は 綾部に行く途中で芸者買いをして、使ってしまったのです。
それは「霊は行っているので、体だけが使われているのだから、何でもない。
上げるというのを、持って行く途中で使っても同じだ。」と言うので私は なるほどと思いました。
上げたいという※想念です。
それが一番分かるのは死んで間もない霊が、「喉(のど)が枯れれてしょうがない」と言うので、遺族が 「水を上げたのでしょう 」と言うと、「そうではあるが、その想念が悪いから飲めない 」と言うのです。
「上げたいという心で上げると、飲めるが、女中に任せたり、お役でやっていると、その想念が間違っているから、飲んでもうまくないし、また飲めない」と言うのです。
霊的な事は「想念が肝心」です。(言霊)
霊主体従で霊が主なのですから、「これだけ お上げする」という気持ちで上げると、途中で失くしても、そんな事は関係ありません。』
( 天聖真美会、「研鑽の導き」から)
これでいくと、「お許し頂だいた」と言うと、神様がそこに 存在されている。
「参拝させて頂だいた。」というのは、自分が主になっている。想念がそこで違ってきますね 。
それだけ、その「団体」に 信仰があるというのが分かります。
頂くお蔭も違うのかも知れません。
これは小山会主様からのご 指導の徹底というんでしょうか。
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