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明主様
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渋井文書から、15
??????????( 追記 )
「要職者の死という題で、各管長、総長 歴任者の状況を書いた 本来この事に関して、詳しいコメントは 差し控えたつもりであったが 、書きすぎかもしれない 。
ご家族の方々に失礼があれば お詫び致したい。
さて 蛇足 とも思える追記としたのは、読まれた方が、
その死の状況が分かっても、なぜ書いたのかが、ハッキリ分からないのではないかと思ったからである。
また時代が変わり、中島氏から藤枝氏(三代様の夫)の間は、昭和23年頃 (1948)から??52、3年頃、約30年に及ぶ 昔のことであるから 当時の 状況を知る方が少なくなってきているので 、前述の 何故と思う事をあくまで、 私見として述べたい。
その前に初代管長は私の父(渋井総斎)である。 父の死が (教団史)記載されないのは、 片手落ち の類である が 父の死については 別項の「法難後の父」というテーマで 書いている。( 中略) 今まで神様、明主様 を一途に信仰 してきた 父を抹殺 除外 されるのか、
同じ教団の職員になり、自分の 不甲斐なきを含めて 残念でたまらなかったが、 この記を書きながら宗教家として 、 一番大事な死において書くも、 違いがはっきりした事に 神の存在を今回 ひしひしと感じたのである。
??中島氏の死については、明主様のお言葉があったので、その意味がよく分かったはずである。
しかし大草氏(管長)藤枝氏(三代様夫)に至っては、直接関係ない。 どうして前述のような死なのか 、 何故なのかと思った時、ハッとした。
そして明主様 のお言葉が浮かんだ、
『 私と渋井さんを 亡き者にしようと思った ので、神様から天罰が下った。』
この事である 。この事は中島氏だけの問題ではないのである。
昭和25年(1950)の法難後 、一応新教団組織になり 、新しく 出発 したように見られていたが、実際は、
その後の教団の教え中には、明主様は前日の理由により 、おられるはずはないと思うのである
中島氏の思想のすべてを受け継いだ※木原氏は前述の通り、五六七会を解散に追い込み、 教団 全体を支配して いったのである。 その結果新しく組織した教団は
明主様を亡き者にしてしまった教団になっていたのである。
この事件のはるか以前に、中島氏の人間性が分かる事実がある。 それは昭和14年頃の御神業の記録の中に記載されている。
これは「岡庭日記」と称され、明主様にお使いしていた側近者の手記である。
岡庭日記、昭和14年6月5日、中島氏、子息、三六(みろく)を、逆さにつるし、頭を殴った為に 、 内出血において 危うしと、〇〇氏より知らせあり。
何ともお気の毒ながら、彼(中島氏)の事は何とも、測り難き事をしでかすので、お気の毒ながらも 親の因果にて、致し方なき事なり。
今少し人間らしくなってもらいたし。
昭和14年6月8日、中島 三六、ついに死したる為、家内を葬式に 行かしむ。(後略)」
◆
上の 文章の中段に 木原氏が 中島氏の意思を受け継ぎ、教団全体を支配していったと書いてあります。
私はここが大きなポイントだと考えています。
それは お前は新健康協会の 人間であるからだと言われるかもしれませんが、
これは前も書きましたが、 木原先生は 離脱されるんですね 。そして渋井 先生の息子さんは 、木原先生が 明主様の後を継ぐ 教主の座の争いに、 負けて離脱した。と書いてありましたので、
これを離脱の理由であると 捉えている訳です。
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