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明主様
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(無題)
下記の文章は故・廣野先生の手記であり、無題さんより私に託されたものです。
(以下手記の転載)
世界救世教長生教会強羅支部に、専従者となるべく奉仕生活を始めた昭和37年の冬のことでした。
明主様の高弟であり、天国会会長でもあった故中島一斎先生(昭和25年1月31日帰幽 享年51)の別荘が箱根強羅の日光殿の玄関右手にありました。
別荘の管理人をしていた人が私と同じ郷里だったよしみもあり、そちらを訪問したのでした。
中島先生は3代教主様と藤枝先生との結婚の仲人をしておられ、「その写真があるので見せましょう」といって奥から立派な手文庫を出してきてくれました。
写真を順番に見て行くと、手文庫の一番下から和紙を半分に折りたたんで作ったノート状のものが出てきました。
表紙の中央には「中島先生霊界通信記」の文字が、その左やや下には立会人4人の名前(誰だったかは失念)が、黒々と毛筆で書かれていました。
当時の私は霊や霊界の事柄について関心を持ち始めた頃で、また中島一斎という人物が51歳という若さで突然亡くなったことについては種々噂が絶えず、私もしばし耳にしていたので、その文書には強い興味を覚えました。
しかし、そこには秘密にしておかねばならないことが書かれてあるかもしれない、それを半ば覗き見しようとしているようでもあり、そんな自分が卑しくも思え、それを見ることはためらわれました。
が思い切って管理人のAさんにその旨を話してみると、「そんなものがあったとは私も知らなかった。どうぞご覧なさい」との承諾を得、読むことが出来ました。
明主様の弟子として布教する者ならばぜひ知っておかねばならない重大なことが、そこには記してありました。
それでいて、恐らくは立会人や幹部などごく限られた人間が知っているだけで、教団内でも秘密とされていることでもあったのです。
しかし当時の私は、専従を志していたとはいえ、まだ奉仕として庭掃きやトイレ掃除をする程度の身でした。
そんな私がそのような重大な文書を読んで何の意味があるのだろう、そんな疑問がなかったわけでもありません。
実際、読みすすめてその内容の重大さを知って行くうちに「教団の総長や大幹部が級の人間こそこれを知っていなくいてはならないことじゃないのか」
そんな想いが胸の中で霧のように広がっていきました。
あるいは神が「廣野よ、おまえはしっかり読んでおきなさい」との御心によりそこにその文書を隠しておき、同じ郷里の信者を管理人に置き、今日ここに私を呼んだのではないだろうか…そんな自惚れにも似た思いもちらりと頭をかすめはしました。
しかしどう考えても、私がその文書を与えられたのか得心しないままに「霊界通信記」を読みすすめていたのでした。
中島先生は、ご自分を「国常立尊(くにとこたちのみこと)の生まれ変わりである」と思うに至り、その旨を明主様に申し上げたところ、「そのようなことはないよ」とのご返事を頂いていたのです。
にも関わらず一旦自分でそのように思い込んでしまったことを打ち消すことができず、想念界に「固めて」しまったのです。
主神が万物を創造されるために顕現なされたのが大国常立尊(おおくにとこたちのみこと)であり、その次の時代には国常立尊として至正正直の厳正な神として世を治められていたのが、ある事情により霊界に移り、閻魔大王(えんまだいおう)となられ、弥勒の世にはメシヤとなって顕現されるのである、と明主様は御垂示なされておられます。
その神の生まれ変わりであると過信してしまったことが神々の逆鱗に触れたため、現界に生きること許されず、急遽霊界入りさせられたのであり、霊界にきてから主神様と明主様に平蜘蛛のごとくはいつくばって御詫びした、と「通信記」にはありました。
自分の良心に問うて悪いことだと感じることは想うだけでもいけないことなのです。ましてや想念界に固めてしまうことは命すら危うくすることにもなりかねません。
悪いと思うことが心に浮かんできた場合には素早く消してしまわなければなりません。悪いと思うことが心に浮かんできた場合には素早く消してしまわなければなりません。
しかし中々消えない場合には、ご神前にて御詫びを申し上げ、御浄霊を頂いて消してしまうようにしなければなりません。
(転載終了)
元来、中島先生は大本の信仰者であった訳ですし、その後の立ち振る舞いから察しますと、そのような想いを深く持ち続けていたとしても不思議ではないと思います。
「中島氏帰幽に関する御言葉」
昭和25(1950)年2月、速記録
二十九日の晩、中島から電話がかかり、中島が人事不省に陥っているから御守護お願いしたいと言うのである。変だと思って、様子を聞いてみると、脳溢血の具合である。それで、指図をして二十分くらいすると、また電話がかかったが、どうも脳溢血らしくもないが、さかんに嘔吐をするとのことで、非常に悪いから、よく聞いてみると、よほど重症らしい。それから一回か二回電話があった。ちょうど夜中の三時ごろで、遅いし、運転手の家もちょっとあったが、やっと起して車で行った。見ると脳溢血症状である。そういうのは脳溢血か脳貧血であるが、脳貧血ならそう長くはない。霊憑りとすれば嘔吐をすることはない。やっぱり脳溢血的である。とすれば左か右かだが、手は両方突っ張っている。まれには両方の脳溢血もある。
二、三十分浄霊した。たいていは二、三十分で快くなるが、脳溢血は必ず気のつくものであるから、明日あたりは気づくであろうとひとまず帰った。すると明くる日になって亡くなったという報せで、驚いたとともにハッと思ったことがある。
これは浄化作用ではない。重要な使命を持つ人はこういうことがある。いまは大転換期であるからいままで……すなわち仏は滅し、神様の出る境目である。そして仏界に罪穢がある。それを掃除するのに間に合わぬとき、その型になる人が犠牲になる。そして罪を贖うことになる。
中島さんは、その意味が多分にある。
いままで観音様のときは、善悪無差別的救いであったので、非常に軟らかであった。これからは厳しく罪や穢れは徹底的に清算されなくてはならぬ……という時期となった。それでどうしても今度のようなことがあり得るわけである。
立春の日には組織が変わった。
元旦には、今年からたいへんだと言った。それは世間のことと思ったら、教団自体に大きい変わり事があった。
これからは世の中に変わり事があろうと思う。いまは観音様のお働きはできない。祝詞にも、応身弥勒と化し、メシヤとならせと入れた。観音様はメシヤとならせられ、観音様のお働きはメシヤになる。観音様は東洋的であり、世界的のものではない。
世界人類の救済からゆくと、メシヤ教はよほどキリスト教に近くなる。いずれはそうなるべきだが、ようやく時期が来たのである。
神様はいろいろさせてそれにより神代の罪をいま帳消しになさる。故にその死が重大な意味をもつ。故に、中島氏のやったことなど、いずれはたいへんな良いことをされたわけになる。
一時は犠牲になるが、永遠な見方をしないと結論は出ない。(速記)
そして、この御言葉の意味も、よく分かると思いますし、帰幽から間もなくして世界メシヤ教が誕生した訳ですから深いものがありますね。
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