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明主様
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大乗と小乗
之も慢心 『栄光』121号、昭和26(1951)年9月12日発行
『よく信仰に熱心の余り自分の属している教会の会長始め、役員等のやり方が面白くないとか何とか非難して、それを改革しようと忠告したりしても、それが容れられない場合、非常に気を揉む人も時々あるようだから、これについてかいてみよう。
右のような考え方は、全く誠から出たのであるから、悪いとはいわないが、大いに考慮を要する点がある、というのはその考え方は小乗信仰であるからである、本教はいつもいう通り大乗信仰であるから、世間並の考えとは大変違っている。その点が認識出来ないと、神様の思召に適わない事になる、何よりもあの人は善人だとか、悪だとかいうのは、すでに慢心である、何となれば人間の善悪は神様でなくては判らないはずで、以前もかいた事があったが、大いに慎まなくてはならない。
もし間違ったり、悪人であれば、神様がチャンとお裁きになられるから少しも心配はないのである、だから人間が心配や取越苦労などするのは、神様の御力を信じていないからという事になるではないか』
自分を知るということは、自分の主観と客観を知り自分を全体的に見るということだと思います。他人の評価は必要ですが、客観と云っても他人の主観ではありません。それぞれの個性でありその人の想いでやったことです。それが第3者が迷惑を被ったならば日本の司法制度があるわけですが、私は信仰者として大乗と小乗の両面から考えてみたいと思います。
楳木氏とは良い思い出しかないので事実だとしたら残念です。従って当事者様の感想と受け止めさせていただきます。
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