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明主様
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渋井文書から、12
私は渋井文書を 全ぶ読んでないので、あまり言えませんが 、中島氏を書いた、ここは確信的な一つではないかとまた、元専従さんや、高天原 誠さんも 投稿されました。
今の体制と、木原氏への 指摘があると思いました。 あれほど岡田研究を書いている高天原氏。
しかし別のサイトで、宮田のハンドルネームでは、「おひかりはいらない」と書き、途中から、いや、「おひかりは絶対に必要だ」と変わる処がありました。
これは新健康協会の木原氏を、初めは 認めた、しかし後にこの「渋井文書」を読んでから 、いやこれは違う、木原氏は誤っていると、 判断を変えたのではと私は思っています。また高天原氏が、掲示板に晩年の投稿で、 天国会一派は悪の働きをしたと ありましたので。
それだけ、この 「渋井文書」に 影響受けたのだと思いました。
今まで、この渋井文書は表に出なかった、隠されていた。それが
昼の世界の今日、明るみに出る時期が来たと思いました。
・( これは 写真メールからですので、読みにくい処は、手を加えまた 省略してます)
◆(渋井文書)
(前略)「 私は教団の幹部の立場にあった人達(総長、管長)の 亡くなり方の状態をよく知っている。 その方々の亡くなり方がある意味共通している。 死者に鞭打つような事になるかもしれないが、 これに対しては予め、お詫び申し上げたい 。そして勿論 客観的に事実を書くまでである 。
教団組織が法的に出来たのは 、 戦後である。 日本浄化療法普及会 はじめ、 教団の組織が 名称だけで 昭和22年宗教法人、日本観音教団 を初めて 発足 、そして 父は観音教団 の 初代 管長に 就任 、その経緯について 、その後 翌23年 父は、観音教から 五六七教会 を分離独立、 観音教管長を辞任し、五六七会の会主に、観音教は父が就任したので、本来なら当然 中島氏が管長に就任するはずであったが、渋井に先を越されたので 、 自分は管長を超える存在であるからとして 、信者の中から志望沢 武氏を管長に選び承認された。
だが 同氏が、1年未満で帰幽 、結局中島氏が後を引き継がざるを得なかった。 その中島氏も??25年1月に 帰幽、同氏の死に、色々な事を言われたが、 生前の言動は一般に知られていない部分が多く、
また気性の大変激しい方であった、 特に後半生は 父を目の敵にして、 渋井をやっつけて、 五六七会を潰(つぶ)すまでは、死ないという事まで言われ、 明主様に対しても当初より露骨に 反抗されていた。
その為その死は、色々噂されまた 。明主様からも、 御面会の 席上、厳しいお言葉があった。
中島氏の 死の 直後について 金子氏から、 直接聞いた話では 明主様は一度 中島氏の御浄霊に行かれ、後 同氏へ 危篤の 報告があり 、すぐに 明主様は中島宅へ、 御浄霊に自動車で お出かけされようとした所、亡くなられたと連絡が入った 。明主様は
『神罰だと仰せられ』 部屋に引き返された。と同氏は語り、
同氏だけ 中島宅へ 伺った所、 顔は 苦悶の表情で「ブドウ色」で 亡くなっていたと話していた。
その他に、ご面会席上、明主様はしば々
中島氏の死について、お言葉があった。
これは多くの人が聞いている。
『今 中島は天罰を受けて、地獄にいる。』
また、
『地獄で修行中である。』と、 天国会の御面会で、 あれほど立派な先生がなぜ 、あのような死に方をされたのかという質問に、
『あれは 神罰である。』 とお言葉があった 。
また 最近古い専従者を取材した時に、昭和25年 2月から 4月までの 御面会の時に聞いた時の お言葉として、
『中島は 、私 (明主様 )と渋井さんを亡き者にしようとしたので 神様から天罰を受けた。』
と話され、 内容が内容なので驚嘆した。
今でも絶体忘れませんと話していた。 この話を思い出した昭和25年 御面会の時、
明主様は しば 々、中島氏の死についてお話され、特に前述の内容のお言葉は、私も記憶にあった。
その他にも 『スターリン(共産主義の独裁者 最低地獄に落ちている)の型をした』との お言葉もある。 当時スターリンは本教では 悪の代名詞として使用していた。 しかしその後、中島氏の死に関するお言葉と、その関係記録は、教団が 抹消したと聞いているが、真偽の程は定かじゃない。」
◆ 中島 一斎氏は 教団の経(たて)の型であり 、今の世界救世教、 東方の光教団を 作られた 川合輝明氏の師に当たります。 今 世界救世教から離脱した、 世界メシア教??陽一教主の母方の祖父にあたります。(一番)
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