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明主様
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アメリカの印象
大学をほとんど退学してしまう感じで、4年の時アメリカに飛び出していったのですが、全く愚かで、もし、学友が休学の手続きとかしてくれなかったら、本当に退学で終わった。
驚いたことにはその学友も休学し、自転車で日本一周をやって、結果私と同じ時に卒業をした。
ロサンゼルスについて、空港でウロウロしなければならず、たまたまそこにいた日本人が助けてくれて、バスに乗って空港を出ることができた。
空港で教会に電話をかける。アンバサダーホテルまでリムジンで来なさいと対応してくださったのは、安食教師で、ホテルまで迎えに来てくれた。
で、あんた何者?
日本からの連絡は何もなかったそうだ。県本部、国際局が、一介の信者がアメリカに行くってことで段取りをしてくださっていること信じていたけれど、皆無で、貧しい学生信徒はとりあえず教会の宿泊施設に泊めていただけることとなった。
それから半年・・・の間お世話になる・・・。皆目見当のつかないことで、また私にも皆目見当がついてなかったけれど、できたことは終日浄霊していたということと、すぐに学生・青年会の活動に入れていただいたこと。
とにかく貧しい。目的も無し。
ただ浄霊することだけ。
幸運にも熱心な先生の子(高校生)が、浄霊の折々に引っ張ってくれたので、その手助けに乗ることができた。それがなければ、アメリカの活動に全く入ることができなかっただろう。
少し、アメリカになれる。11月の雨の日、Tシャツのラテン系の若者が、傘もなしに歩いている。
ちょっと信じられない光景で、さすが貧しいと言っても日本ではもう少し厚着をするし、雨の時は傘をさすでしょう・・・という日本の常識が見事に崩れ去る。
日本で貧しいからと引け目を感じていた自分は何だったのだろう?・・・縛られないということ?
そんな日本との違いを見せつけられたことはそれからの人生に大きな影響を与えた。
実際私がアメリカに来るきっかけは義理の兄の勧めであって、のちにその子供達はオーストラリアを始め、アジアでとんでもない経験をしていくわけで、可愛い子を崖から突き落とす虎の穴のような、発想を持っている人だった。子供の頃、東京を外国と信じ込んでいた私には、アメリカでの情報は乾いたスポンジが水を吸うごときものだった。
1983年のロサンゼルスセンターは、学生、青年等によっても活動に溢れていた。
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