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明主様

1014匿名X:2021/02/24(水) 23:51:51
(無題)
《小川栄太郎先生》

「 明主様と先達の人々」「景仰」より

小川は、大正二年新潟県で生まれ、成人して上京、病院の助手となり、後、鍼灸を習い、東京で開業していた。浄化療法(浄 霊)の話を知人から聞き、興味を持ち、昭和19年5月に蒲田の坂井多賀男の治療所を訪ねた。当時、「手から一種の神秘光 線が出る」と言われていたが、小川が「どうして…… 」と尋ねても、いつも「今は言えない。深い意味がある。あとで分かる 」の3つであった。そこでさっそく受講し、一週間座ったが、ほとんど無言の行のような講習会であったという。小川は、納得いったわけではなかったが、新潟へ帰り、手始めに、長女かよ子(当時2歳)の癲癇を治療するうち、15、16年前水死した叔母が、そのままになっていることがわかり、早速慰霊をしたところ、その日から発作が軽くなり、2カ月で全治するという 奇蹟を体験した。そこで、いろいろな人に取り次ぐこととなった。外来患者は次第に増え、毎日50人から百人の人、朝の5時 から夜中の12時ごろまで続き、門前市をなす有様となった。この盛況はかえって医師会の反感を招き、新聞は悪宣伝を載せ、 刑事は毎日のように来て、治療を受けた人々を調べ、やがて営業停止や勾留などと、弾圧が続いたので、ついに一人も来なくな った時もあった。「一時は天を仰いで長嘆息しましたが、もしあれがなかったら、私は有頂天になり、大きな誤りを仕出かしたに違 いないと思い、後になってからは、心から感謝するばかりです」当時を述懐している。昭和20年8月5日、群馬県前橋市に出張講習に行っ た時のこと、第1日目が終わった夜9時頃、米軍のB 29が120機来襲した。小川はすぐ教祖が書いた『光明』 の書に礼拝してから屋根にのぼり、上空に向かって手をかざした。『空襲の時には、飛行機を浄霊せよ』と、その頃教祖が言っていたからである。油脂焼夷弾が雨のように落ち、前橋市の大半が被災し、3日間にわたって燃え続けたのであった。周囲はすべて焼けたが、講習会場 の家1軒だけが焼け残った。翌日から罹災者が30人位、治療を受けに来たが、その場で死ぬ人もあり、悲惨の極 みであった。昭和21年5月、小川が箱根のご参拝に行って倒れて動けなくなった時、明主様は『鳥の家(箱根参拝時の信者休憩所)に泊めてやれ』とおっしゃり、そこで静養す ることになった。その時の病は、以前に医者から手を切られた時の症状と同じで、あまりにひどいので、お側の人が教祖に聞いた。?あの人はどうでしょうか?と。教祖は、『あれは本当はだめだ。しかし、神様の口元の御用をしているから死なせられない。あれが用をしていた。その誠のご奉仕をお取上げになったのです。その翌日、『浄霊をしてやるから来い』と、教祖からお声がかかったが、とても苦しく?伺えないような状態だ?とお伝えしたところ、『逼ってでも来い。来なければしてやらん』というお言葉でした。小川は、?よし、明主様が、来ればしてやるとおっしゃ るんだったら行くんだ?と、2、3歩あるいては立ち止まり、2、3歩あるいては立ち止まりして行き、ようや くご浄霊を頂くことができた。その時、『苦しい時はいつでも来い』と、教祖は伝えた。その夜中の2時すぎ、どうしても苦しくなり、介抱の人に頼んで、お願いに行っていただくと、教祖より『すぐ来い』とのお返事。小川が伺うと御神体をお書きになってた手を止め、すぐにご浄霊を取りつがれた。また、このようなことが続く中、教祖は、食事の中か ら、一品ずつ抜いては小川にと届けさせた。その時のことを「いただいた数々のご慈悲のありがたさは、生涯忘れられません」と小川は語っている。その後、約半月程で回復し、教祖の許可を得て、新潟に帰った。ある晩小川に、喘息の方の主人から連絡があり、御浄 霊に行くことになった。息も絶え絶えのご婦人に取り次 ぐ。いつもだったら30分もすると楽になるが、その時 はなかなか良くならない。小川にとって随分御浄霊の経験を積んでいるのだが、どうも思うように良くなってい かない。 その時にはっと気づいた。それは、?自分が明主様と 同じ気持ちで取り次いでいるのか?ということだった。明日は朝早くから出かけることがあるので、そのことが 気になり?早く良くなってくれないと困る?と思っていた。そこでご主人に御浄霊のお取次ぎを頼み、小川は御神前でお詫びをした。「明主様、俺は自分のことしか考えていなかった。お許しください。」そして、お取次ぎするとすぐに良くなった。小川は気づいた。「浄霊は、明主様の代理なんだから、明主様と同じ気持ちでないとだめだ。?どんな時でも、 苦しい時はいつでも来い。私が手を差し延べてやる?と仰ってくださる明主様なのだから」小川の明主様を求める姿勢と、明主様に倣う誠のご奉仕は、その後も続けられ、新潟を中心に多くの人を救い、光陽教会を許され、後には教団の要職にも就いた。

「道」NO.32(令和3年 1月15日)
先達の姿に気づきを求めて(3)より 抜粋




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