したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

悟朗

11編集部:2015/01/02(金) 09:04:28
巨星墜つ、ン?
.

             巨星墜つ、ン?



????????この「巨星」なる人は、同じ斜光8号で数名の寄稿者がとりあげています。
    よほど印象に残る方だったのでしょう。それぞれの人のそれぞれの印象が
    あるようですが、共通した人物像も浮き上がってきます。それぞれの記憶
    の中でこの人物が生きているようです。(α編集部)





(一)
 狭いエレベーターを出てコの字型に歩いた処に病室はあった。六人部崖である。左の一
番手前でリクライニングベッドを少し起こして、誰何するが如く此方を見ている患者が居
る。患者なのだろうが少し頬が膨らんで不逞々々しい感じがする。右手前の人は痩せ型で
体型は似ているが少し背が高そうだ。奥の四人もどうも本人では無さそうだ。
 そうすると?…。前回彼の入院、大手術に丸一日立ち会い、以降三日と明けずに見舞い
し続けた近藤君が云っていた。このところムクミが出て顔も腫れて別人のごたっよ、矢張
り最初の男が彼だった。手術の影響で既に声を失い、手書きの文字板を指で示して会話す
る。カイシャノカエリカ、うん、可成り端折ったばってん、こがん時間になったとよ。彼
はせわしなくカナ文字を追い、指で突く。そして、もどかしくなったのか、文字を探す気
力が続かないのか、中空に文字を書く。観察力の無い私にはそれが読みとれない。済まん
なあ。余り楽では無さそうなので、何度も聞き返す事が憚られ、私は会話を中断した。そ
して己の読解力の無さを恥じた。闘病とはこんな繰り返しなのだと実感した。
 二日後、彼、高柳増男君は喪くなった。巨星?虚勢落つの間違いではないのかとの声が
聞こえる。確かに彼は、背丈も含めて身体的弱みを見せまいとするのか、はったりも多か
った。しかし彼はベルギーの勲章を貰っているのである。そして全国紙に記事として死亡
が報道された。勝てんなあ、多少権威主義的思考回路の残っている私は、素直に感心する
のである。同期生、多士済々といえども、死亡記事を獲得する者が何人居るだろうか。晩
年はともかく、クラシック音楽という文化事業に何等かの足跡を残した証拠では無いだろ
うか。

(二)
 城南中二年の時だったか、市町村合併により郡部の北川副中の連中が編入されてきた。
その中に彼はいた訳だが、中高を通じて同じクラスになった事は一度も無い。多分、英語
の籾井塾辺りで話をするようになったのだと思うが、長い付き合いとなった。私は幼時に
死ぬかと思うような熱病に冒されたらしく、その所為で時間のネジが狂ってしまったと信
じているが、割とパンクチュアルな彼に随分と助けられて来た。佐賀高校北校舎通学の頃
は、我が家が通り道だったので毎朝立ち寄って声を掛けて呉れた。非道い時は、その声で
目がさめ、飯を掻込む間、待って貰うという始末であった。そう、彼は私との付合いのキ
ーワードは「待たされる」と思っていたかも知れない。彼の結婚式のスピーチの種にして
今も後悔しているが、彼は折角大学にストレートで入ったのに、一浪の私を途中で待って
呉れて卒業は同じとなったのである。
 進取の気性というか、新しい事に挑戦し、かぶれるのも早かった。東京に出て来て最初
のアパートは佐賀県人会学生寮松涛学舎のすぐ裏で、三軒長家みたいな平屋にN、F両先
輩と住んでいた。左にフェンスがあって、その向うの芝生も進駐軍(単なる外人だったか
も知れない)の家庭の男の子二人が犬と遊んでいるのを横目に見て、路地を入った突き当
たりだった。訪ねて見ると、彼は縁側で悠然とキセルをふかして居た。壁には派手なアロ
ハ姿の赤木圭一郎のポスター、受験浪人中で一年間は坊主頭で頑張る心算の私には、東京
に毒された堕落の臭いがしたものだった。麻雀の積み込み、そしてずっと後の事だがイン
ベーダーゲーム、何でも取り組むのが早かった。麻雀と云えば他の三人の点棒の推移を克
明に暗算しているのも驚異だった。手練れとなれば当たり前の事かも知れないが、私はA
からBに千九百点入って、そのBがCに八千点払って等と足し算、引き算をしている内に
次の結果が重なりわからなくなってしまうのである。ボーリングをやればマイボールを持
つまで打ち込む。あの勢いでクラシック音楽も研究したのだろうか。それにしても感性や
耳は研究によって身に付くものだろうか。カラオケと云え「夜霧のブルース」や「ホテル」
を下手に歌う、到底クラシックのセンスは窺えない、謎である。
 又、生活力が旺盛だった。多少お世辞も混えて「原爆戦争となっても生き残る最後の一
人」と讃辞を贈ったら、痛く気に人つて呉れたが、まず第一に飯炊き、料理の手際が良か
った。比較的長く住んで居だ荏原中延のアパートで、多宿多飯のお世話になった者は3K
を始め、大勢いるようだ。豪農の実家から送られて来た米、野菜が常時ふんだんにあった
ようだが、私白身は間もなく親が東京に出て来て飯の心配は無かったので、この恩義には
余り浴していない。にも拘わらず、彼はし十把一絡げで面倒見たと錯角していて、後々ま
で養ったよがしに世間に喧伝していた。実際の処は世話好きで、自分で招待するケ−スも
間々あったようだ。そして時々自分はこんなお人好しで良いのだろうかと反省するらしく、
ある‐突然、部屋に貼り紙をするのである。一泊百円、朝食八十円申し受けます。しかし、
大体五日位でこの決心は崩れるのであった。要するに寂しがり屋であったのだろう。

 就職の際も彼の生活適応力は発揮された。学生アルバイトで読売新聞社文化事業部で各
種イベントの下働きをし、労を厭わず走り回り重宝な存在となってしまった。そして嘱託
とは云え、そのまま入社してしまったのである。この頃はカウント・べーシー他貴重な演
奏に招待してくれた。そして「ヒーコー」とか「ゲーセン」とか外国語(業界用語)を使
って私を辟易させたものである しかし自分を失っては居なかった。嘱託という身分の危
うさを自覚していて、いつ頃から準備を始めたかは分からないが、「呼び屋」のノウハウ
を蓄積して独立したのである。多分、クラシックの方がプロダクション等の絡みが少なく、
アーティストとの関係が永続できるとの計算から、クラシック、主としてピアノに絞った
のでは無かろうか。いずれにしても事業を興し、業界で注目される存在にまでなったのだ
から立派なものである

 色々と思い出は尽きない。例えばあの中延のアパートは駅のすぐ横にあったが、電車が
到着して看客が乗降し、発車して走り去るまで駅の側の踏切りの警報機がカンカン鳴って
いるのが聞こえていた。彼はそのカンカンが鳴りだしか時にトイレに入り、鳴り終える前
に用を足して出て来る。早○自慢であったこと。
 又、例えば自分の業界仲問で麻雀をやる事になり、一人足りないので友人G君を引っ張
り出した。
 そのG君が珍しく大勝し、大敗したMさんが借りという事になって、数日後Mさんは彼
に預けたらしいが、永久にG君の手許には行かなかった、猫糞事件のこと。大企業で当時
課長のK君に電話した際に、出て来た女性に「ラッキョは居るか」と渾名を吹聴したこと。
等々。
 しかしそれも今や詮無い事のように思える。彼は確かに骨となり、我々はそれに立ち会
ったのである。

(三)
 思えば徳重、金丸、そして高柳と交流浅からぬ友人達に先立たれてしまったが、形は違
うにしても皆、一様に人生を駆け抜けて行ったような気がする。詰まる処、多少の差は
あっても人間一生に経験出来る事は決まっていて、早目々々に経験した人は早目に双六の
上がりに到達するのでは無いだろうか。だとすれば、気力、体力の衰えない内にやり遂げ
た方が充実しているのでは無かろうか。このような考えは生き残っている者の不遜なのだ
ろうか。
 いずれにしても最早彼は居ない。三途の川辺りで私を待っている事だろう。先発した金
丸君ともう一人、麻雀のメンバーを揃えて待って居てくれるかも知れない。「勿の論よお」
彼の口癖も聞こえて来る。そのうちに待ち兼ねた彼が迎えに来るかも知れない。「何ばし
よっとネ、早よ来んネ」。
 所が私は彼の死によって今目が覚めたがごとく、そろそろ余命の心配を始めたのである。
これから飯を掻込むがごとくに会社の事や諸々ケリをつけねばいけない事があるっもう少
し待たす事になりそうだ。
                 (完)

斜光8号 2003




新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板