したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

alpha-archive-10

3同人α編集部:2014/03/05(水) 19:45:49
読書へのいざない
.

           読書へのいざない 2002/5/28〜





読書会への勧誘    2002/5/28  落書き帳

 南方熊楠は伝説の大読書家で、和漢の膨大な書籍の読破はおろか、次々にものしためぼ
しい外国語でも読み進め、明治大正のあの当時それはエチオピア語にも及んだそうです。
 立花隆も大の読書家です。学生時代に既に、世界文学の読破は自分の右に出る者はなか
ろう、と豪語しています。
彼は、学生を終えるころ不忍池近くの根津に住んでいました。アパートを訪れると、おび
ただしい書籍がミカン箱に
入っています。
自分の例にならって「三分の一ぐらいは読んでる?」ときくと、「全部読んでるよ」と不
快げな答えが返ってきました。
 世の中は不思議がいっぱい詰まっています。宇宙論は現在多宇宙まで論じられています。
相対性理論と量子力学は統一されようとしています。科学の知見は産業革命以来といわれ
る未曾有の変革をもたらそうとしています。外国人から見た日本の文化は、海の文化・木
の文化と映るそうですが、我々はこれらについてどこまで知っているでしょうか。逆に外
国へ目を転ずると、我々が「イスラム」に関していかに無知であるか、あの昨秋の同時多
発テロ以来、明らかになりました。同人の一人田村道子さんは、大学で教えている関係で、
ジェンダーに興味を持っています。
古賀和彦君は、河野多恵子はじめ黙々と純文学関係の本を読んでいます。世の中知りたい
ことがいっぱいです。

 この度、我々同窓生の間で、「読書同好会」を持つ運びとなりました。同人の北島浩之
君は、種々雑多月々五六冊は読み上げている本好きです。古賀恵義君は、もっぱら専門書
読破の生涯であり、時間のできたこれからは一般書を読んでみたい、とのことです。中島
勝彦君も専門の鳥に厚味を持たせたいもののようで、意欲を見せています。
 読書会の進め方はいろいろあって、この本を読もう、というよくあるしばり方も一つで
すが、テーマしばりもその一つかな、ということで、今回第一回は上記「イスラム」でい
こう、ということになりました。「イスラム」関係の本を、新書、文庫など薄い物でもい
いですから、一冊は読んで月に一回(または二月に一回)程度の会に持ち寄り、これが面
白かった、「イスラム」とはこういうことだって、と茶菓をつまみながら(一杯やりなが
ら)、わいわい述べあうことになると思います。テーマは誰が提案してもよく、面白そう
だとそれが次のテーマになります。
 六十を過ぎるとやにわに「人生の秋」感、「人生の黄昏(たそがれ)感」が強くなりま
した。いいじゃありませんか。秋から冬にかけ、また夕方から夜にかけ、時間はたっぷり
あります。読書会であなたも人生をさらに豊かにしてはいかがでしょうか。




「震災文学」と古典 ??????2011/8 α28号テーマ前書きより抜粋

▼東日本大地震に思うこと
 ?『方丈記』をひもといた。大地震の記述を求めてであったが、「海はかたぶき、陸
をひたし」など好ましい国語表記に触れて良い経験になった。彼我の社会の厚みに違いが
あることは新鮮な発見であった。『方丈記』には大地震にあって、人が人を助けたという
記述はほとんどない。京に屍累々と万を数えるが放っておかれる。人々はとまどうばかり
だ。これに対して今回の震災にあっては、人が人を助け、人が人に譲り、村落共同体はま
とまって助け合い、自治体は村から町から市から県、国までこぞって行動を起こして助け
ようとし、企業も大小にかかわらず人助けに参加した。そうして『方丈記』の時代にはな
かった国際社会まで救援に乗り出した。彼我を見るとこちらは断然社会の厚みが増してい
るのだ。そこに人間・人類の進歩が見られると思った。

 ?「震災文学」というのが日本で成立していい。ドストエフスキーは、死刑台に立っ
て「止めい」の一声で死を免れるという滅多にない恐ろしい経験をした。この体験が彼の
文学の原点になっていると思われる。今回の震災でこの経験を共有する人は日本にはごま
んと生まれたことだろう。ドストエフスキーは人が人を殺して神が関わる世界を描いたが、
震災の体験は人の世というよりも、自然が人間を殺す世界が人の生の根幹であることを教
えた。ドストエフスキーよりも深い世界観・人間観を持った文学が生まれるだろう。また、

今回あれだけ人間くさい多様なドラマが繰り広げられたのだもの。シェークスピアよりも
広い人間世界の物語が展開されることも期待される。「震災文学」は固有の日本文学とな
り、世界でも輝き続けるだろう。日本は「震災列島」だから。




造次顚沛/存在論   2012/8 α32号テーマ前書きより抜粋

 一瞬は一瞬ごとに始まりがあり終わりがある。始まりがあるのだからその一瞬において
天地が開闢する。人は一瞬ごとに森羅万象に立ち会っている。その生起と消滅とにである。

 この存在論をまた人生論から見れば、こうなる。
存在するものが、存在の根拠がなくて存在しているということは、考えてみると驚き以外
のなにものでもない。存在するものは、なくてあたりまえ、ないことが本来の姿、在るこ
とこそ異様だ、ということである。つまり存在するものが在るということは稀なことで、
神秘ですらある。「在る」こと、このことだけで人は幸せだ。
 私、あなた、そして、森羅万象が、一瞬ごとに出合っているということは、またもう一
つの驚きである。このお互いに稀なものどうしがたまたま巡り合っているということは、
またもう一つの神秘ではなかろうか。
 これらの神秘へ、直線時間で疲れた目をやろう。もう明日のことは思い煩わなくてよい。
昨日のことは忘れろ。あくせくするな。今・ここ、生命の息吹を生きよう。一瞬一瞬湧き
出てくる時間があることへ目をとめれば、人は存在神秘の歓喜に包まれるはずだ。生きて
いる! 生きている! 人はあまりにも目的から目的へ、用から用へまっしぐらに渡り歩
きすぎているのではないか?

 こうしてハイデッガー=古東流の存在論をここに受け売りしたが、当方、理解不足の生
兵法披露の謗りを免れ得まい。古東哲明氏の著書を挙げるので、皆さん自ら繙かれ、あた
られたい。
 『〈在る〉ことの不思議』(勁草書房)。これは本格的な理論書である。
 『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書)。右の書に似ている。
 『瞬間を生きる哲学』(筑摩選書)。啓蒙書で易しく感情移入できる感がある。
 『他界からのまなざし─臨生の思想』(講談社選書メチエ)。今・ここを豊かにする生
  き方の実例。




古典への視座  2013/11 α36号テーマ前書きより抜粋

 古典を見る自分の目は、先の東北大震災によって変わった。大震災からひと月ばかり経
た頃、《そういえば『方丈記』に地震の記述があった》と思い出し、かくて久しぶりの何
十年ぶりかでこの本をひもといた。
(略)
 僕はいつの間にか、彼我の社会を比較する視点で文を追っていた。この飢饉、今の時
代だったらどうだろう。この度の大震災を念頭に置くと、もしいったん起これば、人々は
直ちに救援の手を伸べる。人々ばかりでなく、各自治体、村から町、市から県、国まで手
を差し伸べて、手厚いだろう。さらに国内ばかりでなく海外からもこれでもかこれでもか
と援助の手が伸びるだろう。
 『方丈記』の時代は、この手の援助が見られない。人々は被災しても放置されたままだ。
彼これを比べると、社会の「密度」が違うことが感じられる。社会は間違いなく「進化し
ている」のだ。予防措置が講じられることも考え合わせると尚更のことだ。人が社会を作
ったのも、相互扶助のためだと考えられるが、その実が得られたとの思いである。
 ここに至って自分の古典の読み方が今までと違っていることに気付いた。若い時からず
っとこの方古典は「お習い申し上げる」という態度で接していた。自分の人生を照らす展
望、役に立つ教訓などを得ようとしていたのだ。いま、自己観照してみると、『方丈記』
には、社会の彼我比較という姿勢で接しているではないか!

 『方丈記』の読書から二年ほど経ったこのほど、『更級日記』に目を通した時もそうだ。
やはり「お習い申し上げる」的態度ではなく、やはり彼我の比較という視点で読んでいた。
今回、「実存空間」が、その彼我の比較の視野に入っていた。
 『更級日記』は、著者である少女が今の千葉県から京都へ旅するところから始まる生涯
の日記であるが、その記述に「恐ろしい」「心細い」という内容が幾つもあった。
(略)
 かくて今と比べて、『更級日記』を読んで、《かの時代(およそ今から一千年前)、「恐
ろしくも心細い」実存空間だったのだな》と思った次第。

 僕の余生も残り少なくなったせいもあろうか、古典の読み方が「お習い申し上げる」か
ら変化していることを感じるのである。諸君におかれてはいかがだろう。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板