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☆☆☆☆☆ 同 人 α ☆☆☆☆☆ - ニューロン・カフェ

577長岡曉生:2010/09/04(土) 01:29:35
三島の一遍上人を読んで へのお答え
★読書量
 読書量と言えば、私こそ赤松さんの蔵書に圧倒された記憶が有ります。
平成17年の夏、α12号のゲラの校正で同人仲間が河口湖の別荘に一泊させて貰った時に、壁面を埋め
尽くす数多くの分冊から成る国語辞典の一組を見て、本当に驚嘆しました。
赤松さんが作品中の語句を選び抜いて書かれている理由は、ここに有ったのだ、と納得できます。
仏文科卒の神野さんも同じ一組をお持ちだとか。やはり、αの基礎を作った方々は違うと思いましたね。

★新興宗教は神道系が多いのはどうしてだろう
 いや、その他の宗教からも、けっこう新興宗教は出ていますよ。
現在、良く知られた所では、○○○の証人や世界△▽教会が有ります。
プロテスタントにしても、その出現当時、ローマンカソリック側からは、教義を逸脱した新興宗教としか
見えなかったでしょう。そもそも、イェシュアの教え自体が、ユダヤ教からは、とんでもない異端の新興
宗教に見えたはずです。

★海人族の平時の効用
 海人族の役割は、造船技術・操船技術の維持・航路の安全確保でした。
織田信長の世界最初の鉄甲船は、九鬼水軍の造船技術で作られ、毛利水軍の600隻を打ち破っています。
瀬戸内海の航路の安全は、河野水軍、後には村上水軍などによって、保たれていました。今で言う海上保
安庁の役割ですね。その見返りは、航路を通る船からの通行税でした。つまり海人族は、必要経費を自分
たちで徴収していたわけです。
瀬戸内海の海人族の操船技術が高かったことは、幕末に初めて訪米した咸臨丸の水夫50名のうち7割の
35名が、瀬戸内海東部の塩飽(しわく)諸島出身だったことで解ります。

★一遍上人の教えには人を引きつける、説得する言葉があるはずだ
 確かに、この作品中では、具体的な説明が不足でした。しかし、その教えの眼目は熊野の本宮証誠殿に
おける開悟体験の中で示した心算です。
ただし、遊行先の人々が、一遍上人に引きつけられた大きな理由の一つは、上人の周りで起きた数多くの
奇瑞の存在が大きく関わっているようです。
付け加えておくと、上人自身は、このような奇瑞を誇ることは一切無かったようです。

★一遍上人の教義
 佛教は、佛陀の滅度後、その直説を説く阿含経と戒律とそれに対する論による上座佛教となりました。
後にその中から、大衆の教化を重視する大衆部が出ます。更に、この中から緩やかな戒律と新しい経典に
よる大乗佛教が出ます。このうち、上座佛教は、シュリランカ、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア
に広まり、大乗佛教は、これ以外の土地に広まりました。
 大乗仏教中の阿弥陀信仰は、西北インドから中央アジアを経由して中国に伝わりました。
この阿弥陀信仰には、修行法として観無量壽経に基づき無量壽佛(阿弥陀佛)を対象とする観想を行う本来
の念佛行がありました。この念佛行では、観想対象の名を唱える称名は、単に観想法の補助手段に過ぎず
観想行の中心では無かったのです。
しかし、この本来の念佛は、厳しい修行を前提に初めて達成できる難行でした。つまり、在家信者が実行
できる修行法では無かったのです。
 これに対し、唐の善導が阿弥陀佛の称名を中心に据え、本来の観想行を省くという易行(いぎょう)を、
称名念佛として始めました。この善導の易行は、大無量壽経の誓願第十八の解釈に基づく他力本願です。
この念佛は、渡唐した天台宗の最澄他の僧によって日本に伝えられ、そののち源信を経て、法然の浄土宗
となって開花しました。法然自身は、全ての大乗経典を諳んじていたという伝説が有る程の大学者だった
のですが、自力の修行を捨て、念佛による救いを選択しました。
この法然の直弟子には、一遍の法系上の祖父に当たる証空と、浄土真宗の開祖親鸞とがいました。

一遍上人の教義は、基本的に浄土真宗の親鸞の教義と同じで
  衆生は本来佛性を持っており、彼等が済度されることは、阿弥陀佛の誓願によって定まっているから
  それを信じて称名するだけで良い。
と言うことです。
 なお、親鸞には「善人猶もて往生を遂ぐ。いわんや、悪人をや」という悪人正機の説さえあります。
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