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3019長岡曉生 :2013/12/26(木) 04:25:05
肥と筑 第二十七回:評のお礼とお答えの2
◆万理さんの評の3について
★最初にルビ訂正のお願い
α37号冊子のp42、p43の3箇所で[建葉槌命]のルビが[たてはつちのみこと]と
なっていますが、正しくは[たけはづちのみこと]です。
赤松さん、原ファイルの訂正をお願いします。

★出雲系海人族の足跡を太平洋側和歌山熊野に始まり、関東、東北にまで探し
紀伊半島の熊野が徐福伝説の地であり、また出雲[イヅモ]族の土地であったことは良く知
られていますが、伊豆[イヅ]の国や伊豆[イヅ]諸島、さらには相模・武蔵・常陸・陸奥
などの太平洋沿岸にも出雲[イヅモ]族の足跡が残っています。
もちろん日本海側については、言うにや及ぶ、です。
このように、出雲族の足跡は、それこそ日本の至る所つまり[津々浦々]に及んでいますが
この言葉[津々浦々]は、古代文化の指導者だった出雲族にとって基本的に興味ある土地が
[各地の港々]だった、即ち出雲族は海人族だったという何よりの証しだと思います。

★もとからあった言葉(訓読み)に伝来した漢字を当てていく
これが可能だったのは、裏を返せば元々日本語には漢語に一対一で対応する概念があったと
言うことです。だからこそ、平安時代には[かなもじ]女流文学の花が開いたのです。

★そのもととは、どんな表記だったのか
古代表記の代表たる万葉集中の二例について、原文・読み・注をご覧下さい。
仮名表記法が未定で、異議の訓も有り、活用も省略され、結構難しい読みですね。
【より容易な例:四巻−五○六番】
  吾背子波  物莫念??????事之有者  火尓毛水尓毛 吾莫七國
  我が背子は 物な思ひそ 事しあらば 火にも水にも 我がなけなくに
注:莫念(なおもひそ)は返り点的な読み
  事は訓読  火と水は訓読  莫(なけ)は訓読  七國(なくに)は異議の訓
【より難解な例:十一巻−二五七八番】
  朝宿髪  吾者不梳  愛     君之手枕 触義之鬼尾
  あす寝髪 我は梳らじ うるはしき 君が手枕 触れてしものを
注:愛(うるはしき)は難読  君之は、キミガ  触義(ふれて)は難読
  鬼(もの)は、物の怪の類から来た異議の訓  尾(を)は、異議の訓

★徐福船団は関門海峡・瀬戸内海を通り、紀伊半島を回って東側熊野に到着したのか
瀬戸内海を通ったのか、否かについは、今となっては確かめようがありませんが、多数の船
からなる船団だったので、天候次第で離ればなれになった可能性が高いと思います。
もう一つ忘れては成らないのは、徐福船団は最低二回は出航していたことで、最低二度の船
団の分枝に対する到着可能地がさらに広がります。

★建葉槌命(天孫系) X 天香香背男(出雲系)を引き出し、天香香背男を祭神とする出雲
系神社を各地で発見する
これは偶然の所産です。なぜなら、私が研究所の移転に伴って東京から千葉県を経て引っ越
した先の茨城県には、天香香背男を破った建葉槌命を祀る神社として、瓜連町に常陸国二宮
の静神社、日立市に大甕神社があったのです。この大甕神社は、昔は鹿島神宮・香取神宮と
並ぶ東国の三神宮で、大甕倭文神宮とも呼ばれていました。建葉槌命に敗れた天香香背男は
日立の神社の奥殿の礎石中に封じられたと言います。そのせいか、茨城県では天の星である
天香香背男を祀る星宮神社の数は少ないのですが、隣の栃木県には、星宮神社が184社も
残っていると言われています。

◆万理さんの補遺について
★大きな船には小型ボートとして籠を積んでいた。浦島太郎も桃太郎も籠に乗って竜宮城、
鬼ヶ島に行った
なるほど。これは、万理さんの独特の推理ですね。そういえば、佐賀市の諸富町に残る浮盃
伝説の浮盃とは、大きな船が座礁せずに進める水脈を発見するため徐福が有明海に浮かべた
小型船らしいのですが、この浮盃が籠だったとしたら非常に面白いですね。
具体的な船の話は残っていないけれども、桃太郎も籠に乗って鬼ヶ島に行ったのかな?

★西欧の大航海時代を境にアジア・アフリカ圏に白人世界が乗り込んできた
その通りだと思います。しかし、当時の西欧の技術はイスラーム圏から来ているのです。
例えば、ヴァスコ・ダ・ガマの印度航路発見について考えて見ましょう。彼は、ポルトガル
王の命令により、1498年、アフリカ喜望峰回りのインド航路を発見したと言いますが、
本当に彼がこの航路を発見したのでしょうか。
高校世界史では教わらなかったことですが、喜望峰回りのインド航路にはアラビア人の水先
案内人がいたと言います。
どうして、そう言えるのでしょうか。
そもそも、西欧の大航海時代の後援者であるスペイン・ポルトガル両王国が占めるイベリア
半島は、8世紀から15世紀にかけて非常に高度な文明を持つイスラーム系王国が存在して
いましたし、その王国の覇権が衰えイベリア半島から撤退した後も、対岸のアフリカ北部は
イスラーム圏に止まりました。当時のポルトガルやスペインが代表する西欧世界は、武力で
は勝っても、文明的にはイスラーム圏の教えを仰ぐ立場に有りました。
それでは、当時の西欧世界はイスラーム圏からどんなことを教わったのでしょうか。
その端的な例が、喜望峰回りのインド航路だったと思います。
実は、西欧の大航海時代よりも70年ほども前から、アジアでは明の鄭和が指揮する大航海
が実行されていた記録が残っています。この鄭和は、巨大船団による七次に渡る大航海で、
東南アジア・インド・アラビア湾のホルムズ海峡・アラビア半島・東アフリカにまでも到達
していますが、鄭和自身はアラビア人の子孫であり、イスラーム教徒でした。
この鄭和船団が到達したマラッカやジャワの北部には、イスラーム教が浸透し始めていたの
ですが、それはアラビアの商人がもたらしたものでした。外来の宗教が土地に浸透するには、
長い時間を要しますから、アラビア商人のマラッカやジャワの北部への進出は、鄭和の航海
よりも早くに起きていた筈です。つまり、アラビア人は鄭和に先立ってインド洋を航海して
いたのです。これから見て、鄭和船団の造船術と航海術は、同族・同宗教のアラビア人から
伝えられたものでしょう。
当時のアラビアにおけるイスラーム文明は、それほど高い文明だったのです。
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