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3016長岡曉生 :2013/12/25(水) 00:38:37
肥と筑 第二十七回:評のお礼とお答え
万理さんに丁寧な評を戴きました。大分遅れましたが、思いつく範囲で疑問にお答えします。

◆万理さんの評の1について
★渡った先が圧倒的に多かったのは九州なのだろう
 山東半島の港町、琅邪から出発したとして、直接または済州島・朝鮮半島を経て、最初に
たどり着いたのはとうぜん九州でしょうね。

★出雲や若狭あたりにも北方系・南方系も直接着いたケースも多くあったのではないか
北方系は、出雲や若狭あたりには、もちろん直接着いた場合が多いでしょう。
南方系も、対馬海峡・朝鮮海峡を通る黒潮に乗れば日本海側に抜けられるので、直接到達が
可能ですが、出雲や若狭への途中で上陸して水や食べ物を補給したことでしょうね。

★ 海人族は、稲作はもちろん様々の知識を備え持った技術集団でもあった
実は、縄文時代の日本にも稲作と製鉄技術は有ったそうですが、場所が限られ、その規模も
小さかったようです。

◆万理さんの評の2について
★山幸彦はタタラの神である木花咲耶姫の子、豊玉姫は海神/綿津見神の娘。山彦が海の姫
といっしょになるのも面白い
これは、山に依っていた遊牧騎馬民族と水上交通に頼っていた江南の水人族の間の対婚制度
が徐福船団によって伝えられた結果と見ることが出来ます。すなわち、海幸彦は海人族の、
山幸彦はタタラ製鉄民族の、代々の族長に付けられた象徴的名称だったのでしょう。
というのも、船団長の徐福の徐姓は呉王の余姓と通じ、トルコ族の姓でもあったからです。
実際、江南の呉を建国し、日本人の始祖とも見られている呉太伯とその弟の虞仲(ぐちゅう)
とは赤狄のトルコ族が建てた周王室の一族であって、この二人は長江下流域の水人族である
越族の領域に移住してきて呉を建てたのですが、虞仲(ぐちゅう)の結婚相手は、後に呉人
と呼ばれるようになる越人の同族でした。(呉太伯は、祭祀長として独身を通しました。)
徐福船団は、このような[山]のトルコ族と[海]の越族(呉族)との対婚の習慣を日本に
持ち込みました。その名残が瀬戸内海の大三島に残る海人族の神社[大山祇(おおやまつみ)]
神社に見て取れます。ここは海中の神社なのに、祭神名の[おおやまつみ]は山の神である
こと、つまりトルコ系であることを示しています。それだけでなく、[おおやまつみ]の娘
である木花咲耶(このはなさくや)姫は、明らかにトルコ族の特技であるタタラ製鉄の女神
なのです。

★海部氏の祖神「椎根津彦」(珍彦)が古事記や日本書紀によれば、浦島太郎らしい
そうですね。飯豊皇女が創始し椎根津彦を祀る青海神社は、若狭国大飯郡の高浜に鎮座し、
若狭・丹後に渡る一帯の総鎮守の宮でした。日本書紀によれば、飯豊皇女と浦島太郎とは、
雄略天皇時代に生きていた同時代人でした。このころ浦島太郎が住んでいた丹波国ヨサ郡の
菅川(つつかわ)は、青海神社の支配下にある海人族の土地だったのです。
ただし椎根津彦は初代?武天皇時代の人、浦島太郎は第二十一代雄略天皇の人とされており
時代は離れているので、二人が同一人物であるとは言えません。
しかし、二人とも青海神社に係わりのある同系の海人族であった、とは言えそうです。

★豊玉姫と同郷の飯豊皇女(〔青〕海皇女)が「私を無視しするな」と言って二月堂修二会
に「〔青〕衣の女人」となってしゃしゃり出た
いや、飯豊皇女は、ただ純粋に自分も供養の対象に加えて欲しかったんだと思いますよ。
この謎多き飯豊皇女は、大伯皇女と同じように何故か心惹かれる存在の女性です。

★【丹後の籠神社】は、今年20年ぶりのお引っ越しをしたアマテラスの伊勢神宮の前身
実は、古事記・日本書紀を見る限り、現在伊勢神宮に祀られているアマテラスが宮中を出て
伊勢に落ち着くまでに滞在した土地の中には、丹後の籠神社は含まれていません。
しかし、籠神社に残る伝承は見過ごすことが出来ず、今回のように最初の滞在地に籠神社を
当てました。あるいは、宮中で祀られる以前の鎮座地が籠神社だったのかも知れません。
いずれにしても、この問題は謎が多く再検討の要があります。
因みに、丹後の籠神社の宮司の海部(あまべ)氏には、現存する日本最古とされる家系図が
残っており国宝に指定されています。
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