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2256万理久利:2012/06/29(金) 12:51:05
著者のお答えを読んで【子孫の力・先祖の力】
嵯峨天皇の子孫、嵯峨源氏は地方に広がっていったようです。光源氏のモデル“とおる君”源融の子孫もまた地方文化、経済を担っていったようです。
その代表が摂津(大阪)の渡辺氏であり、そこからまた瀬戸内の水軍の棟梁氏族になったとあります。

渡辺氏の子孫は肥前国松浦郡の宇野御厨の荘官となり松浦久と名のり、松浦郡の地頭の松浦氏は肥前国の水軍松浦党の棟梁氏族に、一方京から源満末が肥前国神埼郡の鳥羽院領神埼庄の荘官となり、その子源久直が筑後国三潴郡の地頭となる。なんという広がりでしょう。嵯峨天皇も源融も文化人色が濃かったようです。肥前、筑後にきた子孫たちはそこに文化を植え付けたのだと想像します。
(以上頭の整理がつかず誤認識があるかもしれません)

以前、同人の神野嵯峨江さんは、掲示板で先祖の数の大きさについてふれていましたが、子孫の数も大したものです。佐賀で生まれ育った神野さん、やはり源とおる君の血を濃く受け継いでいる可能性があります。学生時代映画に没頭していた櫛田宮の牟田さんもまた大いに可能性を感じます。

嵯峨天皇と佐賀とのつながりを細かく例を挙げて説明してくれましたが、もう一つ佐賀に上陸した徐福、秦が佐賀を基点に全国に広がったこともこれまで何度も触れてきています。
地名、建物名、祭事名、それひとつとって丹念に調べていくと繋がりが判るともいっています。
世界の文明も同じように人によって広がったのだと思いますが、四方を海に囲まれた狭いこの日本でも時間をかけて文化が広がり、その地で文化に組み込まれ固有の文化となり、そしてその文化もまた外へと逆流していったのでしょう。

子々孫々の力、それを生み育てた代々のご先祖様たち、歴史の主役は「人」だとつくづく思いました。






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