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2245長岡曉生:2012/06/27(水) 16:11:59
肥と筑 第二十一回 評へのお答えの1
◆万理さん(評の1)
★遊びと歌
実は、α31号の題[遊び]を聞いて最初に思い浮かんだのが、冊子前書きにも紹介された平安末期の「梁塵秘抄」の今様でした。この今様が持つ[七五・七五・七五・七五]という繰り返しが、その後の日本の歌謡の基本型と成っています。
例えば明治期に作られた文部省唱歌を聴いてみると、その殆どが今様の基本型を踏襲しています。

★遊びと文化
生き物の中で遊びの習慣を持っているのはヒトだけでしょう。一見無駄とも見える遊びこそヒトだけが持つ文化・文明を豊かに実らせてきたのだと思います。

★遊びも一つの作法なのか
人の集団が生み出す遊びは、最初は習慣的な物を基に先例がない独自型が生み出され、その普及に伴って人の無意識中で定型化していくもの、と考えられます。これは確かに、長い目で見ると守破離の繰り返しだと思います。

◆碇さん
★山南姓の由来について
佐賀の[天遊山高徳寺]とこの寺を守る住職の[山南]姓は、フィクションです。
それゆえ、歴史愛好家さんが言われる通り[山南]姓は佐賀とは無関係です。
ただし、住職の山南順照と孫の山南響子には、それぞれにモデルに擬した人物がいます。
私が[山南]姓を選んだ理由は、二つあります。
一つ目は、平成16年のNHK大河ドラマ[新撰組]で山南敬助の役を演じた個性派俳優、堺雅人に興味を持ったこと。
二つ目は、大きなお寺では山門が南側に位置するという構成を連想させること。
この二つが[山南]姓を選んだごく単純な理由です。
なお、山南敬助には[山南]とは異なる本姓が有ったようですが、それが何という姓だったかは解っていません。

★自作農と小作農
律令制度発足当時、全国の農地は全て国有地が立て前でした。農民一人一人は、規定面積の土地を貸与された自作農でした。この土地制度の基盤として全国版の戸籍も作られました。
最初の戸籍は天智天皇九年(西暦六七〇年)作成の庚午年籍(こうごねんじゃく)ですが、現存する最古の戸籍は大宝二年(西暦七〇二)年のものです。
後に律令制度の崩壊により、本来国有地であった筈の土地は豪族の私有地と化し、自作農は小作農へと変っていきます。平安時代末期には、在地豪族として自ら開墾した土地をも所有する大地主が出現します。その典型例が関東平野を開墾した源氏・平氏の武士団です。
このような在地豪族は、国司の干渉を排除するために、自分の所有地を皇族・公家・大きな寺社などに寄進し、その庇護を受ける形態を取りました。
この当時の農民は、地主一族以外は、殆どが小作農だったと思います。

★櫛田宮の社領について
櫛田宮の社領は、名目的には皇室の荘園だったようです。最盛期には三千町もあった領域は神埼郡に限らず、三養基郡さらに佐賀郡の一部にまで広がっていたことでしょう。これらの三郡に小城郡をも加えた肥沃な筑紫平野は、奈良時代の律令制度の条里制により区分され、最終的には驚くほど整然と区画化・開墾されていました。
添付図は、この佐賀県の条里跡の分布と坪割図を示すもので、城島・杉谷著[佐賀県の歴史(山川出版社)]から引用したものです。
通常、条の番号は北から南に向って打つ南北の識別番号ですが
この図では、条の番号は東から西へ向って打たれています。

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