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☆☆☆☆☆ 同 人 α ☆☆☆☆☆ - ニューロン・カフェ

2242万理久利:2012/06/26(火) 15:39:06
「肥と筑 第二十一回」評の3(完)
コーヒーブレイクの後は、いよいよ紐解きが繰り広げられます。
嵯峨天皇と嵯峨源氏、嵯峨源氏と佐賀(櫛田宮・神崎御荘)、水軍松浦党、秦、徐福…
その繋がりを、順序だてて説明していきます。ここまで組み立てるまでには過去の読書
量と、疑問を追求していく忍耐強さともに並々ならぬものがあるように思えました。
後半は自慢の?後藤家長男、和昭の独壇場です。

★源平の由来
平が「平安京」、源が中国魏からの「源賀」、歴史の教科書には載っていたか忘れまし
た。源氏物語と平家物語はあっても、源家物語と平氏物語はない、この部分はふいをつ
かれた感じです。平家と平氏の使い分けも初耳でした。

★嵯峨天皇と嵯峨源氏
嵯峨天皇の諱が神野であることもなにやら佐賀との関係を臭わせています。
この天皇から嵯峨源氏がでてきてその中からあの光源氏のモデル“源融”が出たそうで、
それもまた想像をかきたてられます。

★嵯峨源氏と水軍
光源氏の子孫から瀬戸水軍渡辺党、そこからまた松浦党へと繋がって行きます。不思議
なことに壇ノ浦においてはそれぞれ源氏側、平家側についたそうです。それぞれ色々な
関係があったのでしょう。話は次ぎにうまくつながっていきます。

★嵯峨源氏と佐賀の関係
1115年に伴兼直と本告道影が櫛田宮別当に、1168年光源氏の子孫“源末”が神崎荘の
荘官に、このあたりから繋がりがぐっと出てきます。不思議なことは、当時勢力を振る
っていた平清盛との関係です。神崎一帯は源氏色が強かったようです。併存できたのが
不思議。

★嵯峨野と秦氏
嵯峨野を愛した嵯峨天皇、その嵯峨野は渡来氏族秦氏の根拠地、こうくると、秦、徐福
佐賀上陸と繋がってきます。

★嵯峨天皇の諱(いみな)と謚(おくりな)
「死後に嵯峨天皇と呼ばれた本当の理由は、幼時から神野(かみの)親王として用いられ
た諱(いみな)の神野(かみの)の神に因んでいます」
「以前、佐賀(佐嘉)のサカは八坂神社のサカに通じ、その意味は神であると言う話が
出たね。2)嵯峨天皇の謚(おくりな)[嵯峨]は佐賀(佐嘉)同様サカと読め、その意
味は神だから、諱(いみな)の神野(かみの)の神に通じる。このサカは秦帝国時代に斉州
から蚩尤神を奉じて渡来した徐福船団の一行、つまり出雲族の言葉なんだ。」
この部分は著者が一番言いたかったことだと思いました。
サカ 嵯峨 佐賀 坂 八 秦、読みと漢字から地方への繋がりを感じさせました。

おわりに
*ペンネーム「神野佐嘉江」さん、「神野嵯峨江」さん?はあの光源氏と関係があるの
か。佐賀の男子と光源氏とはどうも結びつきません。
*誤読、誤理解が多くあるかと思います。どうか間違いがありましたら率直にご指摘く
ださい。

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