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167長岡曉生:2010/04/13(火) 23:20:46
「肥と筑」第十二回をよんで-その2へのお答え
◆中臣氏の東遷経路
★直接日本の常陸あたりに着いた可能性
船に乗った集団が黒潮に乗り、常陸周辺にたどり着いた確かな例と
しては、紀州から銚子へ漁に出かけて来ていた紀州の漁民が有り、
彼らが伝えた魚醤が、銚子の醤油の元になっています。
ずっと古い例では、上野(群馬)・下野(栃木)を開いたとされる
豊城入彦(崇神天皇第一皇子)が、霞ヶ浦・恋瀬川を遡って筑波山
東麓の柿岡に上陸した伝説とその古墳という遺跡が残っています。
この場合は、豊城入彦の[豊]が豊前豊後にゆかりの名であること
から、出発地は九州だったと思われます。
なお、佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社は、江戸の初期の貞享4年
(西暦1687年)に京都の伏見稲荷を勧請した神社なので、神社の
創建自体は、豊城入彦よりもずっと後代です。しかし、鹿島を含む
有明海沿岸に綿津見神社別名海童神社が数多く分布していることは
徐福船団を代表例とする多数の海人族が、この周辺に到達したこと
を示唆しています。
なお、大陸との行き来を考えてみると遣唐使の舟が出入りした寧波
港に近い舟山列島から黒潮に乗ると、通常は北九州に到達するよう
なので、大陸から太平洋側の常陸に直接到達したとは、余程の暴風
に遭わぬ限り、考えにくい状況だと思います。
★筑前経由でタタラ技術者が常陸に東遷したらしい傍証
部族の東遷に伴なう地名の拡散と地域の拡大の典型例としては
 九州の筑間川(筑後川)沿いの耳納・日田周辺から
 中部の筑摩郡に沿う美濃・飛騨への移住
  及び
 関東の筑波周辺と奥地の日高見への移住
が有ります。
九州の筑間川(筑後川)は、下流で耳納、上流で日田で接します。
中部の飛騨は、もと美濃の一部でしたし、旧称が西筑摩郡であった
木曾地方も、もとは美濃の一部だったので、チクマ・ミノ・ヒダは
九州・中部・関東において、互いに直ぐそばに有る地名です。
私は、中部・関東に移住した部族は海人族だと見ていますが
地名の発音で書くと、九州の[チク]周辺の[ミノ・ヒダ]から
中部或いは関東の[チク]周辺の[ミノ・ヒダ]への移住です。
但し、九州では該当地名の規模が郡程度であるのに対して
九州から遠く離れるほど、その規模が国程度に広がっているように
見えます。これは、移住に伴なう部族民の人口増加の結果だと見て
良いでしょう。
★鹿島神宮は、常陸周辺ではむしろ遅れて建った神社である
常陸国風土記香島郡(後の鹿島郡)の項に、その証拠があります。
これによると
 大化5年(西暦649年)中臣○子(○は欠字)が、高向の大夫
 に願って下総の海上から一里と那賀の五里を割いて神社領とし、
 そこにある天の大神と坂戸の社沼尾の社を合わせて、香島(香島)
 の天の大神ととなえた。
と有ります。これは、前述の豊城入彦の常陸入国に較べて明らかに
後代の話です。
一方、利根川を挟む対岸側の香取神宮については「常陸国風土記」
によると、肥後国造の一族だった多氏が上総国に上陸し、開拓を行
いながら常陸国に勢力を伸ばした際に、出雲国の拓殖氏族によって
農耕神として祀られたと言います。ところで肥後国造の一族だった
多氏とは、神武天皇の子の神八井耳の命の子孫とされている伝説が
有りますが、出雲族が勢力を保っていた頃なので、いずれにしても
香取神宮は鹿島神宮よりは古い、つまり鹿島神宮はこの辺一体では
遅れて建った神社であると見て間違いないでしょう。




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