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☆☆☆☆☆ 同 人 α ☆☆☆☆☆ - ニューロン・カフェ

1507:2011/07/04(月) 13:45:51
合評御礼
同人α皆様
念願の『同人α』の一本化になり
昨年末から竹内一郎様、田辺悟朗様の入会戴きありがとうございます。
『同人α』は益々の盛会になることは必至です、確信します。
『同人α第27号』の拙い作品をお読み戴き、誠にありがとうございました。
今回の合評について

古賀和彦様  的確な評価を戴き恐縮します。作品集等新らしい画面を開発頂き
       この画面はとても便利です。『万華鏡』及び『言の輪』や『遥かなる木霊』
       同人の皆様も喜んで重用されると思います。

古賀由子様  度々の合評頂きありがとうございます。
       鳩山和夫とジョン万次郎の小粋な話のサイトを知らせ頂き楽しく読みました。
       『同人α』発行の度、ホームページに宣伝ありがとうございます。

長岡暁生様  勝手ながら、小生の作品に1870年以降に『万次郎、和夫と寿太郎の師弟』
       について、資料をお願い頂き恐縮してます。作品の未完成に痛感しました。
       資料の調査のため、参考なる本3冊を購入と図書館を取り寄せ頂き、
       貴重なお時間を費やし恐縮至極です。
       1870年02月  万次郎、開成学校の中博士(教授)となる
       1870年10月  万次郎、普仏戦争視察団とし欧州へ派遣され旅の途中
                 のロンドンでリュウマチに患ったために、11月に
                 視察団員と分かれ米国経由(育ての親ホイットフイー
                 ルド船長に面会のため)で翌年3月帰国した。帰国後
                 疲れの為なのか脳溢血に倒れ、不自由しないほどに恢復するが静かに暮                 らし隠居に近い生活をした。
       1870年10月  寿太郎と和夫は大学南校に入学
       1871年03月  万次郎、東京大学退官
長岡様の御調査では、『万次郎、和夫と寿太郎の師弟』関係と接点では、和夫と寿太郎が
1870年03月万次郎が米国経由で帰国後1871年03月万次郎の東京大学を退官の間
わずかに5月間でしょうしかも帰国後療養のため、師弟関係も面会もあり得ないでしょう。
万次郎が東京大学に就任の為には1860年、幕府は日米修好通商条約批准書交換のため使節団をアメリカに派遣することになった。万次郎は、通訳として「咸臨丸」に乗りアメリカに向かったが「咸臨丸」の船長は勝海舟だったが、海舟は航海に経験が少ないため苦労したが、米国の大学での首席で卒業優れた1860年、幕府は日米修好通商条約批准書交換のため使節団をアメリカに派遣することになった。
ジョン万次郎は、通訳として「咸臨丸」に乗りアメリカに向かった。「咸臨丸」の船長は勝海舟だったが、海舟は航海に経験が少ないため苦労した。を認識した。当時日本で航海学と測量学や捕鯨術の技量もなしので主に航海学を教授したと思われます。
拙い作品にお時間を費やし感謝します。謝! 謝! 謝!ありがとうございます。

??    あした天気になーれ




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