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福島県の一部の城跡についての情報
8
:
いちご
:2024/08/29(木) 18:45:18
>>7
お久しぶりです。
私、あの後に三城目地区に行くことができ、地区の方に矢吹町が発行元?みたいな遺跡についての地図を見せていただきました。
その地図ではやはり小鳥遊舘と別に本城舘が存在していて、本城舘は小鳥遊舘とあぶくま高原道路に挟まれたあたりに存在している旨の記載がありました。
そこで確認をしに行くつもりでしたが、現地は熊が出没しているようで、小鳥遊舘付近でも目撃情報があるようで地区住民に止められました。
なので実際のところは確認できませんでした。
また古舘と呼ばれる舘跡はやはり遊水地に沈む可能性があるそうで、地区の方に陣ヶ丘舘も沈む可能性を指摘されました。
また陣ヶ丘舘跡付近には旧石器時代の遺跡もあるようですが、こちらも熊が出没する上に採石をしていたようで落石とかの危険もあり近づける場所ではなかったです。
高御城についてはちょっと伝手があり、溝井氏が行き着いた経緯などは知ることができたのですが、溝井氏が住み始めたのは豊臣秀吉の奥州仕置きで溝井氏先祖が三芦城内で石川氏を仙台に逃して、その責任をとり城内で切腹し、その子孫を福島県石川町、玉川村小高字東耕地、須賀川市雨田に帰農して住まわせたことに始まるようです。
高御城は玉川村小高字東耕地が住所地ではあるようなので、そこに溝井姓の人間がたまたま住んでいても、はたまた先祖代々住んでいてもおかしくないようです。
高御城の奥に溝井さんというお宅があり、その先に少し遺構?があるようです。
ただ小高地区にはたくさん溝井姓の方がいらっしゃって、私はたまたま知り合った方が(高)御城の分家の方で教えていただきましたが、地区の方でも、さらに溝井姓の方でも本当にそこが城跡とは知らない方がほとんどでした。
ただ小高地区には畷(なわて)門が由来の住所があったり、地名は城があったことには矛盾しませんでした。
小鳥遊舘にしても高御城にしても石川氏関連のものであるということ以外は大して成果らしい成果はなかったですが、この夏に久しぶりに現地に行ってきたので、書きこみをさせていただきます
9
:
いちご
:2024/08/29(木) 18:45:38
>>7
お久しぶりです。
私、あの後に三城目地区に行くことができ、地区の方に矢吹町が発行元?みたいな遺跡についての地図を見せていただきました。
その地図ではやはり小鳥遊舘と別に本城舘が存在していて、本城舘は小鳥遊舘とあぶくま高原道路に挟まれたあたりに存在している旨の記載がありました。
そこで確認をしに行くつもりでしたが、現地は熊が出没しているようで、小鳥遊舘付近でも目撃情報があるようで地区住民に止められました。
なので実際のところは確認できませんでした。
また古舘と呼ばれる舘跡はやはり遊水地に沈む可能性があるそうで、地区の方に陣ヶ丘舘も沈む可能性を指摘されました。
また陣ヶ丘舘跡付近には旧石器時代の遺跡もあるようですが、こちらも熊が出没する上に採石をしていたようで落石とかの危険もあり近づける場所ではなかったです。
高御城についてはちょっと伝手があり、溝井氏が行き着いた経緯などは知ることができたのですが、溝井氏が住み始めたのは豊臣秀吉の奥州仕置きで溝井氏先祖が三芦城内で石川氏を仙台に逃して、その責任をとり城内で切腹し、その子孫を福島県石川町、玉川村小高字東耕地、須賀川市雨田に帰農して住まわせたことに始まるようです。
高御城は玉川村小高字東耕地が住所地ではあるようなので、そこに溝井姓の人間がたまたま住んでいても、はたまた先祖代々住んでいてもおかしくないようです。
高御城の奥に溝井さんというお宅があり、その先に少し遺構?があるようです。
ただ小高地区にはたくさん溝井姓の方がいらっしゃって、私はたまたま知り合った方が(高)御城の分家の方で教えていただきましたが、地区の方でも、さらに溝井姓の方でも本当にそこが城跡とは知らない方がほとんどでした。
ただ小高地区には畷(なわて)門が由来の住所があったり、地名は城があったことには矛盾しませんでした。
小鳥遊舘にしても高御城にしても石川氏関連のものであるということ以外は大して成果らしい成果はなかったですが、この夏に久しぶりに現地に行ってきたので、書きこみをさせていただきます
10
:
いちご
:2024/08/29(木) 19:26:10
>>9
すみません、先ほど二重の投稿になってしまいました。
ここまで書いて、私がこの地区を何度も再訪している理由を書いていないことに気がつき、不審者と誤解されないためにも書き加えようと思います。
私の先祖は戊辰戦争で矢吹町三城目地区に来たのではないか?と言われているためで、一時的な滞在しかしていないはずですが、この地区に私の先祖の足跡を探してきています。
先祖自体は幕府側の身分の低い武士ですが、ネットで名前が検索すると出てくるような有名な隊にいました。
先祖の足跡を辿り埼玉県行田市忍城から始まり福島県白河市小峰城、福島県棚倉町棚倉城周辺へとこの足跡巡りは始まりました。
三城目地区は元々宿場町であり、棚倉藩に馬を売っていた地区のようでなんとなく足跡が見つかるかもしれないと三城目地区のお寺などを含めて見学させていただいています。
私の先祖の足跡はたぶん見つからない気がしますが、なんとなく遺跡を巡るのが楽しくなってついつい再訪してしまいます。
三城目地区は結城氏家臣団だった方が戊辰戦争に応援に行った記録が残されていたり、かなりおもしろい地区なのです。
私はいわゆる歴史関係の大学とか卒業しているわけでなく、今は病院で奴隷のように働いている人間で福島県とは縁もゆかりないので趣味でこの再訪を繰り返しています。
また実は今、病気をしていていつまでこの再訪ができるかわからないというのも事実です。
私の先祖は戊辰戦争の傷が原因で早くに亡くなったと聞いていて、なんだか親近感がわいたのです。
まぁまだ死ぬ気はないですが、AYA世代のガン闘病はとても辛いです。
矢吹町の果てだし、福島県石川郡玉川村とのつながり大きく、何かと行政に捨てられる地区だと三城目地区の方に聞きました。
なんかそんな話を聞くたびに三城目地区に行きたくなります。
ガン闘病で荒れた心を鎮めてくれるかのようです。
なんか地元の方は優しく穏やかで、私もああいう歳の取り方をしたいと思ってしまいます。
これが私があの地区に何度も行ってしまう理由な気はします。
11
:
余湖
:2024/09/01(日) 03:59:25
詳しい解説、ありがとうございます。
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