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Japanese Medieval History and Literature

23筆綾丸:2007/06/08(金) 20:07:23
落雷・突風・雹・・・
小太郎さん
関東地方の明日の天気は、大気が不安定で、落雷・突風・雹となるそうです。

成り行き任せの気随気儘な勉強で、一貫性は微塵もありません。
『中世の裁判を読み解く 網野善彦×笠松宏至』(学生社)に、こんな箇所があります。
 笠松 ふつう関東下知状は、「仰せによって」とやるか、「鎌倉殿の仰せに依り」の
   どちらかですが、これも一つ問題があります。佐藤進一先生の『古文書学入門』
   に書いてありますが、宗尊親王将軍在職期間だけが「将軍家の仰せにより」です。
   それがなぜかという点は注目されると書かれているのですが、これは本当に知り
   たい点ですね。前後が鎌倉殿で、あそこだけなぜ将軍家なのか。あれはだれの意向
   なんでしょう。ずっと鎌倉殿できたのに、あの期間だけ将軍としたのは。
何故なのか、ほんとに知りたいところですね。
後嵯峨の第一皇子が鎌倉殿ではまずい、将軍家でなければ、というような後嵯峨への配慮
なのか。では、なぜ一代だけなのか。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/125201.html
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miyama-susumu-munetakashinno.htm
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kikuchi-hiroki-munetakashinno-01.htm
親王は、建長4年(1252)1月8日の元服時に、宗尊となったはずですが、尊は後鳥羽
(尊成)に拠るとして、宗の根拠は何なのか。この諱を倩々景迹するに、非常に不自然な
印象を受けます。得宗の宗が尊成の尊の上に在るとは、後鳥羽の血統に対する重石であっ
て、この漢字の組合せには、未必の故意のような、政治の必然のような、つまりは、執権
時頼の意思のようなものが感ぜられる。
『吾妻鏡』をみると、宗尊は三品親王として4月1日に鎌倉に来て、同日付で征夷大将軍
になっていますが、これは、頼嗣と将軍職が重複しないための形式的なもので、なぜ将軍
家なのかという根拠にはならないでしょうね。
(蛇足)
1月12日の唐突な隠岐院の記述に、何かありそうな感じもしますね。




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