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ミシェル・フーコー参考文章
1
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灰人@スキゾキッズ
:2015/12/03(木) 08:27:46 ID:bvhtS/9Q
監視を行う行政の諸技術と規格化を行う規律の諸技術とを結び合わせるのが、試験である。それは規格化の視線であり、資格付与と分類と処罰とを可能にする監視である。ある可能性をとおして個々人が差異をつけられ、また制裁を加えられるのだが、試験はそうした可視性を個々人にたいして設定するのである。それゆえ、規律・訓練のすべての装置のなかでは試験が高度に儀式化されるわけである。権力の儀式と実験の形式とが、また力の誇示と真実の確立とが、試験のなかに集まって結びつく。規律・訓練の諸方式の中心で、試験は客体として知覚される人々の服従強制を、また服従を強制される人々の客体化を表す。権力上の関係と知の関連との重ね合いが、試験において明白な輝きをおびるのだ。やはりその点も、学問の歴史の研究者たちが闇のなかに放置してきた、古典主義時代における改新の一つである。
試験は、権力の行使にあたって可視性という策を転倒する。伝統的には権力とは、見られるもの、自分を見せるもの、自分を誇示するものであり、権力が自分の力を発揮するさいの動きに、逆説的にだが、その力の本源を見出すのである。
規律・訓練的な権力の方は、自分を不可視にすることで、自らを行使するのであって、しかも反対に、自分が服従させる当の相手の者には、可視性の義務の原則を強制する。規律・訓練では、見られるべきものは、こうした当の相手(sujet 部下であり、受験生である)のほうである。彼らに行使される権力の支配は、彼らを明るみに出すことで確保される。規律・訓練における個人を服従強制(臣民化、主体化でもある)の状態に保つのは、実は、たえず見られているという事態、つねに見られる可能性があるという事態である。しかも試験とは、権力が自らの強さの表徴を明らかにするかわりに、また自らの標識を当の相手(=主体)に押しつけるかわりに、ある客体化の機制のなかで当の相手をつかまえる場合の、そうした技術である。規律・訓練的な権力は、自らが支配する空間のなかでは、客体を計画配置することで、根本的に自らの勢力を明示する。試験はいわば、こうした客体化の儀式に相当するわけである。
規律・訓練には、それ独自な儀式の型があるのである。それは勝利の姿ではなく、検閲・閲兵であり、試験-検査の豪華壮麗な形式たる<観兵式>である。そこでは<部下>(主体である)は、もっぱら自分の視線によってしか姿を現さない権力の観察にたいして、いわば<客体>として提示されるのである。
今や、際限のない試験ならびに強制的な客体化の時代に入っているわけである。
試験は個々人を、監視の分野の対象に加える一方では、書記行為の網目のなかでとらえもするわけである。個々人を<客体>へと定着させる分厚い記録文書のなかに入るわけだ。
<書記行為にふくまれる権力>が、規律・訓練の歯車装置における本質的な一部品として組み立てられる。多くの点でその権力は、行政上の記録作成の伝統的方法を模範にしてはいても、しかし独特な技術と重要な改新を導入する。
2
:
灰人@スキゾキッズ
:2015/12/03(木) 08:28:31 ID:bvhtS/9Q
長らくの間、なんらかの個人性は―特別な取り柄のない一般市民など―、記述の対象の水準以下にとどまってきた。注目され、観察され、詳しく物語られ、絶え間のない書記行為によって毎日跡づけられるということは、一つの特権的事態であった。ある人間の年代記、その生涯の物語、その生存の流れにそって書かれる歴史記述は、その強権をほめたたえる儀式の一部になっていた。ところが規律・訓練のさまざまな方式は、こうした関係をあべこべにし、記述可能な個性の水準を下へおろして、この個人性の記述を一つの取締手段、一つの支配方法に化すのである。
実在のさまざまの生存をこのように書きものにする作業は、もはや英雄化の一方式なのではない。客体化(対象化でもある)および服従強制の方式として機能するのである。精神病者もしくは犯罪者たちに関する、綿密な比較照合にもとづく生活記述は、国王の年代記や通俗的な大盗賊の冒険物語がそうであるのと同様に、書記行為がもつ或る種類の政治的機能に属するが、ただし、まったく別種の権力技術にもとづいて、である。
試験は、個人を権力の成果および客体として、知の成果および客体として構成する上述の諸方式の中心に位置している。試験こそが、行政の監視と、規格化を行う規律とを結びつけることで、配分や分類や力および時間の最大限の抽出や段階的形式による連続的な累積や適性の最もふさわしい組み立てなどの、大がかりな規律・訓練的な機能を確保する。
権力がいっそう匿名的でいっそう機能的になるにつれて、権力が、行使される当の相手の方は、いっそう明確に個人化される傾向をおびる。しかもその事態は、儀式によってよりも監視によってであり、記念のための物語によってよりも監察によってであり、さらには、<規格>を関連枠としてもつ比較の尺度によってであって、先祖が誰であるかを目印にする家系図によってではなく、また、勲功によってよりも<逸脱>のいかんによってなのだ。規律・訓練の体系のなかでは、スキゾキッズのほうがパラノ型人間よりもいっそう個人化され、病者が健康人以上に、狂人および犯罪非行者が普通人(つまり、規格に合致した人)および非犯罪非行者よりも、いっそう個人化される。いずれにしてもそれぞれの前者の方向へ、近代社会では個人化のすべての機制が向けられているのである。
権力は、締め出す、排除する、抑制する、抑圧する、取り締まる、隠蔽するなどの、否定・消極的な関連でつねに権力の効果を述べるやり方は中止しなければならない。
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