したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

鎌倉権五郎景正・オカルトリンク

1カマヤン:2004/01/02(金) 02:09
鎌倉権五郎景正がカマヤンの遠いご先祖さまらしいので、
リンクを集めてみるテスト

4・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/02(金) 02:10
川名御霊神社
http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/manabi/bunzai/muraokan.html
村岡は、歴史的に見ても鎌倉との結びつきが強く、旧鎌倉郡に属し、昭和十六年に藤沢市に
合併されました。古く延長年間(923〜31)、この村岡の地に荘園を開いた村岡五郎平良文は、
天慶三年(940)に平将門を討ち、後に良文とその子・忠光・忠頼らとその子孫が繁栄し
関東八平氏(千葉、上総、三浦、土肥、畠山、大庭、梶原、長尾)となり鎌倉幕府成立に大きな
役割を果たしたといわれています。 このコースでは、秋の終わり頃から初冬にかけてイチョウで
うめつくされて美しい良文ゆかりの御霊神社を中心に、その周辺の寺社や奈良時代の横穴墓などを
訪ねて村岡南部を散策しましょう。
川名御霊神社
天慶四年(941)の創立と伝えられ、早良親王(桓武天皇の同母弟。悲運の末に没し、後に
崇道天皇と追号された人物)と、村岡ゆかりの武将鎌倉権五郎景政(大庭御厨をつくった人物)を
祭神としています。宮前御霊神社の分社で、川名地区の鎮守です。秋の例祭日には、市指定
民族文化財・川名屋台ばやしが演奏され、鎌倉権五郎の人形をのせた山車が出て賑わいます。
境内にある大きな菩提樹は、六〜七月頃に香のよい淡黄色の花をつけます。

5・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/02(金) 02:10
御霊神社
 吾妻鏡にも頻出する神社。
 当初は関東の平家一族の五家(大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉)の祖先を祭る五霊神社であったが、
のち 鎌倉権五郎景政(景正) を祭神にして御霊神社、権五郎さまと呼ぶようになった。
 後三年の役、永保3(1083)年に16歳で戦いに出た権五郎は、敵の矢で右目を射抜かれた。
矢をそのままに敵を倒した後、自陣に戻り、力つきて倒れた。その矢を抜こうと土足で権五郎の顔に
乗った味方の三浦為次に、「弓矢に当たって死ぬのは武士の本望だが、顔を土足で踏まれるのは
武士の恥辱」 と言って切りかかったという豪傑。為次は詫びた上でひざで顔を押さえて、
ささっていた矢を抜いたという (奥州後三年記)。
http://www.j-area2.com/area/kamakura/goryojinjya.html

6・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/02(金) 02:10
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/monogatari_folder/gokuraku_folder/goku01.html
御霊神社と鎌倉権五郎景政
 御霊小路は御霊小路の碑があるところから南に折れ、やがて直ぐに上写真左の鎌倉権五郎神社へ
向かう路地が現れます。鎌倉権五郎神社とは御霊神社のことで、御霊小路とは御霊神社へ
向かう道ということのようですが詳しいことはわかりません。上写真右は左写真の路地を進んだ
神社前付近を撮影したものです。
 鎌倉七口の一つである極楽寺坂に向かう前に、是非一度訪れてみたい神社があり、それが御霊神社です。
鎌倉という土地を語るにあたり、源頼朝による鎌倉幕府が開らかれる以前の鎌倉を説明する時に
忘れてはいけないのがここ御霊神社なのです。
 鎌倉幕府が置かれる以前の鎌倉には鎌倉党と呼ばれる板東平氏の一族が統治していたようなのです。
この御霊神社は元は大庭・長尾・梶原・村岡・鎌倉のこれら五家の祖を祀る五霊神社であったそうです。
それが御霊神社となり武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政(正)を祀る神社となったと伝えます。
鎌倉権五郎景政は鎌倉党の共通の先祖として、更にそれを遡ること源頼光の四天王の一人である
村岡五郎忠通という人がいて、鎌倉党が源頼光以来の源氏の家人であったことが想像されます。
景政の父は鎌倉権守景成で鎌倉に住し、鎌倉党武士団を率いる一方現在の湘南地域一帯を
開拓し開発した領主でもあります。
 鎌倉権五郎景政は言い伝えによると、十六歳のときに奥州後三年の役で源義家に従え初陣しますが、
左目に矢を射た立てられ、それでも矢を立てたままで敵を破る武勇談があります。陣地に帰り
三浦為継が矢を抜いてやろうと足をかけたときに、土足のまま顔に足をかけるとは武士の面目を
汚されたと為継の無礼を刀をかまえて叱咤したといいます。これは実在の話なのかどうかは
わかりませんが、景政の剛気と高い志は歌舞伎にもなっていて武士の鑑として永く仰がれているのです。
 鎌倉権五郎景政の命日が九月十八日で、この日は御霊神社の例祭日で面掛行列という珍しい
行事が行われます。これは技楽や舞楽、田楽などに使われる特異な面を十人衆が付け、古い
いでたちで街の中をねり歩くという県指定無形文化財になっているものだそうです。そしてこの
十一面の中に七福神の「福緑寿」が含まれていて、此にちなんで鎌倉七福神の福緑寿を境内に
祀ってあるということです。
 最近、千葉県我孫子市や茨城県牛久市の鎌倉街道下道と思われる道筋に鎌倉権五郎景政に
かかわる伝承が多く残されているのを発見しました。後三年の役の時には武者達は下総・常陸
ルートを通ったのか?

7・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/02(金) 02:11
関東平氏の五霊を祀った神社
御霊神社(ごりょうじんじゃ)
鎌倉幕府以前からあった古社でもともとは五霊神社といった。五霊とは平安時代末期に関東で
活躍した平氏出身の大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉の5家の祖霊のこと。現在は鎌倉権五郎景正を
祭神とする。毎年9月18日の面掛行列が有名。
http://www.kamakuratoday.com/map/dvisit/goryojinja.html

8・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/02(金) 02:11
http://www.edu.city.yokohama.jp/jhs/nakada/txt/goryoujinja.html
「御霊神社について」  長後街道の中田交番前から広い道をまっすぐ行くと、この地域の鎮守で
ある「御霊神社」がある。 祭神は、鎌倉権五郎景政と日本武尊の二柱である。
御霊神社というと、「怨霊信仰によって祀られた神社」 と百科事典風に解釈してしまうが、
旧鎌倉郡内の御霊神社が鎮座している地域には、京都風の怨霊信仰の形態や習俗は
伝わっていない。 今でも「中田のごりょうさま」「汲沢のごりょうさま」などと呼んでいる。
由緒等について詳しいことはわからないが、旧鎌倉郡内の御霊神社の総本社といわれている、
藤沢市の 御霊神社に伝わる、
仁安二年(1167)記の「御霊宮来由」という古文書に、分社したと書かれている。
建物は、享保11(1726)年に再興されたが、関東大震災で倒壊、現在の本殿は、その主要部分を
生かし、震災翌年の大正13年に再建されたものである。
境内には、境川の支流、村岡川(宇田川)の 象徴的源流である「弁天池」があり、湧き水が
絶えることがない。 
−−「いずみいまむかし−泉区小史−」(泉区地域振興課発行)より引用−−

9・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/02(金) 02:11
宮前御霊神社 (神奈川県藤沢市宮前)
 祭神;崇道天皇(桓武天皇の皇太弟・早良親王)・鎌倉権五郎景政・葛原親王・高見王・高望王。
 天慶三年(940年)、平(村岡・千葉)良文により建立。のちに鎌倉権五郎景政を合祀。
 そののち、北条時頼の命により、葛原親王・高見王・高望王を合祀する。
 一説に、高座郡葛原皇子神社が、村岡良文により分祀、「村岡御霊宮」が建立。
 宮前御霊神社が「村岡御霊宮」であるといわれ、村岡・鎌倉一族が勧請する御霊神社のもとに
なった宮という説あり。
桓武天皇―葛原親王―高見王―平高望―村岡良文―千葉忠頼―忠常―常将

梶原・御霊神社 (神奈川県鎌倉市梶原一丁目)
 祭神;鎌倉権五郎景政(景正)
 天喜元年(1052年)、景政に御霊大権現の神号を奉り、村岡邑に奉斎。後年、鎌倉権太夫景通、
梶原に居を定め、梶原を称す。(←景通は景正の父という説があり、不自然。)
 建久元年(1190年)九月、梶原平蔵(平三)景時により、景政の霊を祀り、御霊社と称す。
 一説に、高座郡葛原皇子神社(皇子大神。旧称葛原ノ宮)を村岡良文が分祀して「村岡御霊宮」
(宮前御霊神社か?)を建立、三浦忠通により、梶原郷に梶原・御霊神社が建立された説あり。
 初めは桓武天皇、葛原親王、高見王を祀っていた説あり。
 また一説に、葛原岡に祀られていた葛原親王のお宮の後身ともいう。
 鎌倉・梶原氏略系図(諸説混乱著しい)
桓武天皇―葛原親王―高見王―平高望―村岡良文―三浦忠光―忠通(忠光の弟とも同一人物とも)
―鎌倉景通―景正(景政)(景正の父は景成である説あり)―景経―梶原景長―景時―景季

10・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/02(金) 02:11
http://k-kazu.cool.ne.jp/03HASE/
鎌倉駅から長谷駅は2ツ目。長谷駅で下車。
 御霊神社(鎌倉権五郎神社)は、当初は関東の平家一族の五家(大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉)の
祖先を祭る五霊神社であった。のち鎌倉権五郎景政を祭神にして御霊神社、権五郎さまと呼ぶ
ようになった。景政は剛勇で知られた武将で、後三年の役(永保3(1083)年)には16歳で出陣し、
源八幡太郎義家( 頼朝の父義朝の曾祖父)に従って活躍したという。
御霊神社(鎌倉権五郎神社)は、源頼朝の鎌倉入り以前から存在していたという。
例祭は9月18日で釜に煮立てた湯の中に笹をいれ、湯玉を散らす湯花神楽も行われ、神輿の渡御もある。
この行列の中には県の無形文化財に指定されている「面掛行列」が含まれる。総勢10人は
前の8人が同じ衣装で爺、鬼、異形、鼻長、烏天狗、翁、火吹男、福禄寿の面をつけ、その後に
黒紋付の裾模様におかめの面をつけて産婆が続く。
この行列の由来は、源頼朝の寵愛を受けた村娘が子をもうけたので娘の一族は頼朝の側に仕え、
外出の際にお面をつけて守護したものといわれている。 弓立ての松。鎌倉・湘南地域を平安時代後期に
開拓した領主・鎌倉権五郎景政が領地を見回るとき弓を立てかけたという松の古木。
御霊神社(鎌倉権五郎神社)は、鎌倉始祖の鎌倉権五郎景政を祀っている。 鎌倉権五郎景政は、
後三年の役(永保3(1083)年)で左眼を射抜かれ、三浦為継が顔を足で踏みつけ矢を抜こうとした
ことに激怒し謝らせたという伝説があり、やがてこの社は眼病に効験があるといわれるようになったという。
http://k-kazu.cool.ne.jp/02GW02/

11・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/02(金) 02:12
http://www.kcn-net.org/oldnew/furuki13.html
―長谷・坂ノ下の辺り3―
 写真は坂ノ下の御霊神社(ごりょうじんじゃ)です。
 源義家(1039〜1106?)の従者として後三年の役(1083〜1087)に勇名を轟かせた鎌倉権五郎
景政(ごんごろうかげまさ・生没年未詳)を祀った神社で、俗に「権五郎さん」とも称され、社伝に
よれば源頼朝入府以前の創建といいます。
 現在の本殿は大正年間の建立で、この写真の正面に見える旧本殿の位置よりさらに奥まった
一段高い所に鎮座します。また、写真の旧本殿は神輿蔵(みこしぐら)として現存しますが、現在の
屋根は銅板ぶきになっています。
 ところで、神社の境内には、明治時代の代表的な小説家で詩人であった国木田独歩(くにきだどっぽ
・1871〜1908)が一時居住しました。独歩は明治35年(1902)2月8日、それまで住んでいた神田駿河台の
西園寺公望(さいおんじきんもち)邸を出て、斎藤弔花(ちょうか・1877〜1950。新聞記者、小説家、
随筆家)を誘って来鎌、ここの一棟を借りて自由気ままな生活をしたそうです。彼の作品「鎌倉日記」の
同年2月9日の項には、入居したばかりの「小庵」の情景と、当時の鎌倉の印象が描かれています。
 さらに、弔花の『独歩と武蔵野』(昭和17年 晃文社)によれば、 「鎌倉権五郎神社の脇に新建の家がある。
家賃は八円。三畳、四畳半、八畳。その界隈は空地で、家主は権五郎神社の神主さん。(中略)鎌倉も
場末で、星月夜、古井戸の傍を腰越の方へ細い道が通うてゐる」 と、その家のことがよくわかります。
また、古老の話によれば、独歩が居たこの家には「湘南詩社」と記された看板が掛っていたということです。
 独歩が住み、彼が間近に観た御霊神社の本殿は、おそらくこの写真のやしろだったかも知れません。

12・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/02(金) 02:12
御霊神社
目の前を江の島電鉄が走る“御霊神社は”甘縄神社同様、鎌倉幕府が開かれる以前からある
坂の下の氏神です。創建は平安末期といわれ、昔は極楽寺に属していました。。元は関東平氏五家で
あった、大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉の祖先を祀っていたため“五霊神”と呼ばれていましたが、
武勇の誉れ高い鎌倉権五郎景政が有名になり、地元では“権五郎神社”と呼ばれています。
景政の命日である9月18日には、毎年“面掛行列”が行われます。境内には、“景政の力石”や
樹齢350年以上のたぶの木があります。
http://www.mapda.net/kamakura/kamanavi_sights/sights/ss006.htm
http://homepage.broba.ws/shonan21/goryojin.html

御霊神社
後三年の役に活躍した、鎌倉権五郎景政をまつるので、地元では権五郎神社とも。
鎌倉権五郎景政、この名前を聞いたことはあるでしょうか。
そう、歌舞伎十八番の内の「暫(しばらく)」の主人公です。
「暫」とは、大概の人が、歌舞伎と言えばあの顔!と思い出す隈取りバリバリの人が
出てくるお芝居です。
権五郎は勇壮なのに、この神社はちょっとさみしい感じ。
江ノ電が社前をゴトゴト走っています。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/7474/syuin/kamakura14.html

http://www.kamakura-burabura.com/haikukamakurahitifukujin.htm
鎌倉七福神めぐりコース
コース概要 ・JR北鎌倉駅から浄智寺のほてい様をお参りし、鶴岡八幡宮の弁天様をお参りし、
宝戒寺のびしゃもんてん様、 妙隆寺のじゅろうじん様、本覚寺のえびす様、長谷寺のだいこく様、
御霊神社のふくろくじゅ様を経て江ノ電長谷駅までの徒歩約5kmの七福神をめぐる御利益が
得られると言うコースです

13・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/02(金) 02:12
http://www.kamakura-burabura.com/gyoujisyousai1.htm
坂ノ下の御霊神社は、この周辺の領主であった平安時代の武将・鎌倉権五郎景正を
祭神とする古社で源頼朝の鎌倉入り以前から存在していた。例祭は9月18日で釜に
煮立てた湯の中に笹をいれ、湯玉を散らす湯花神楽も行われ、神輿の渡御もある。
この行列の中には県の無形文化財に指定されている「面掛行列」が含まれる。
総勢10人は前の8人が同じ衣装で爺、鬼、異形、鼻長、烏天狗、翁、火吹男、福禄寿の
面をつけ、その後に黒紋付の裾模様におかめの面をつけて産婆が続く。この行列の由来は
源頼朝の寵愛を受けた村娘が子をもうけたので娘の一族は頼朝の側に仕え、外出の際に
お面をつけて守護した為と言われている。

http://chiba504.hp.infoseek.co.jp/takamochi/takamochi.htm
宮前御霊神社  神奈川県藤沢市宮前
祭神;崇道天皇(桓武天皇の皇太弟・早良親王)・鎌倉権五郎景政・葛原親王・高見王・高望王。
天慶三年(940)、平(村岡・千葉)良文(高望王の子)により建立。のちに鎌倉権五郎景政を合祀。
そののち、北条時頼(高望王の末裔にあたる)の命により、葛原親王・高見王・高望王を合祀する。
一説に、高座郡葛原皇子神社が、村岡良文により分祀、「村岡御霊宮」が建立。宮前御霊神社が
「村岡御霊宮」であるといわれ、村岡・鎌倉一族が勧請する御霊神社のもとになった宮という説あり。

14・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/02(金) 02:13
http://www.poepoe.com/essay/essay05.html
鎌倉近辺には、大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という平家の五氏がおり、これらを祀る
神社として「五霊神社」が建てられたようです。しかし、いつしか「御霊神社」に変わり、
武勇で名高い、鎌倉権五郎景政の霊だけが祀られるようになったようです。
そしてこの権五郎の命日にあたる、9月18日は御霊神社の祭礼日で、面掛行列が
行われます。この行列は、県指定無形民俗文化財で、爺(ひょっとこ)・福禄寿・
阿亀(おかめ)・鬼・異形・鼻長・鳥天狗・翁・女(とりあげ)などの仮面をつけて、
街の中を練り歩く行事です。
この行列には、おかめの面をつけて、美しい着物を着た女性がいます。しかしなんと
この女性、お腹をふくらませ妊婦の恰好をして、その後ろには冠をつけた女性(産婆)が
扇子であおぎながらついていき、この状況を「腹みっともない」というところから、
「腹みっと行列」と呼ばれることもあるそうです。

御霊ごりょう神社  問合せ : 0467-22-3251御霊神社
http://www.ayu.ne.jp/user/kawagoka/kamakura/kousokuji/kousokuji.htm

鎌倉紫陽花散歩
http://home.att.ne.jp/sun/osum/kamakura3.html

<鎌倉散策 その1>
http://www.fgarden.com/4/dekakemasennka-12.htm
 成就院から2分ほど歩き左手江ノ電の線路の先に、御霊神社が見えてきます。地元では
権五郎神社とよばれ親しまれています。
 祭神はこの、鎌倉権五郎影正という剣術に優れた武士です。16歳の時に奥州後三年の役
(1083〜1087)に初陣し左眼に矢を受その矢を抜こおと、顔に足を掛けた三浦平太を一喝した話は
有名です。
 権五郎の命日の9月18日にはユニークなお面を被り練り歩く面掛行列が催されます。
お面はこのお堂の中に安置されていなす。撮影禁止のためお見せ出来ないのが残念。

15・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/02(金) 02:13
http://www.asahi-net.or.jp/~uy7m-ssk/kamakura_7fuku.htm
御霊神社(鎌倉権五郎神社)(福禄寿)
 長谷駅から徒歩5分。長谷寺から,江ノ電長谷駅に戻る道から右手に入ると御霊神社の
境内にはいれます。 途中,うどんすきで有名な久霧があります。 力餅屋でまんじゅうを買うも好し。
 福禄寿さんは,右の写真の宝物館のなかです。希望者は拝観できます(有料)。

http://www.fsinet.or.jp/~kam_love/table/l_goryo_jin.htm
平安時代末期から存在する 「 権 五 郎 神 社 」(第13回−2)
「権五郎神社」(ごんごろうじんじゃ)です。
正式名は御霊神社(ごりょうじんじゃ)といいますが、御三年の役(1083〜87)で、左目を
射られながらもその矢を抜かずに敵を討ち取り武名を轟かせた鎌倉権五郎景政(ごんごろうかげまさ)を
祀っているので、権五郎神社と呼ばれています。彼は関東武士の誉れといわれた剛勇でした。
創建は明らかではありませんが、鎌倉幕府以前からあった五霊社が始まりと言われています。
五霊社は、平安時代の末期、関東で活躍した平氏出身の5つの家の祖霊を祀っていました。
弓立ての松
http://www.sannpo.com/bangai/enoden100/yumitate.htm
権五郎景政が弓を立てて休憩したと伝わる弓立ての松である。
この他にも境内には、いかにも重そうな丸い石がある。袂石(たもといし) といって景政の袂に
まるで袂くずのように入っていた石とか。力持ちの景政を讃える伝説としては面白い話です。
http://www.sannpo.com/bangai/enoden100/enoden.htm

16・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/02(金) 02:13
http://www.mononokekanko.com/eye/0109/01.html
9月18日 神奈川県鎌倉市、御霊神社 ごんごろうさまと呼ばれる鎌倉の御霊神社は、
桓武天皇の末裔、鎌倉権五郎景政を祀っている。彼の命日の9月18日の祭礼には、
異形の面を掛けた十人の氏子が町をねり歩く。
面は一番面「爺」、二番面「鬼」、三番面「異形」、四番面「鼻長」、五番面「烏天狗」、
六番面「翁」、七番面「火吹男」、八番面「福禄寿」、九番面「阿亀」、十番面「女」と
表情も呼び名も様々である。元は鶴岡八幡宮でも行われていたらしいが、現在は
御霊神社に残るのみである。

http://www1.odn.ne.jp/~cab07310/edasanpo/s&amp;t/seikouji/yakushi12.htm
 三番正福寺は,新吉田杉山神社の旧御神体であった不動像や鎌倉権五郎景正の
守護仏という近くの御霊谷御霊堂の十一面観音(子年開帳)を祀っています。
 正福寺には不動像が二体あって、一度拝ませてもらったことがあります。大きいほうの像が
そうだといわれて拝んできましたが、後で『風土記稿』をよく見ると小さいほうの三尊に
なっているほうが御神体の不動像であったようです。
ほかにも新吉田町内の神社のご神体であったという仏像が何体かあるそうです。
 権五郎という人物は平安時代の鎌倉あたりの武士で、八幡太郎義家に従って後三年の役に
参加した際流れ矢が目に刺さってしまいました。倒れた権五郎を従兄弟の三浦為継が顔に
足を掛けて矢を引き抜こうとすると、権五郎は「顔を踏まれるとは武士の恥」と起こり、
為継に斬り付けたといいます。為継は非礼を詫びて今度は膝を掛けて矢を抜いたといいます。
この逸話が武士道精神の鏡だといわれて関東各地に祭られているといいます。
(くわしくは司馬遼太郎の「街道を行く・三浦半島記」をお読みください…)
 正福寺や御霊堂のある御霊谷では、お正月に怪我をした権五郎がこの地を通ったため、
村人たちは看病に走り回ったため、正月の準備ができず、今でも谷の家々では正月飾りを
一般では忌まれる一夜飾りとすることになっているといいます。民俗学では実在の人物で
政治的弾圧や左遷などで恨みを呑んで死んだ人を「御霊」と呼んでいて、たたりの激しい神と
されています。権五郎もその一種であろうということです。江戸時代に農民を助けるために
一揆を起こした佐倉總五郎も千葉県の御霊神社に祀られています。

17・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/02(金) 02:14
庚申塔めぐり
http://www.kcn-net.org/senior/tsushin/tkoshin/goto0310/koshinsum.htm

http://www.kekos.net/kamakura/No6gokurakujizaka/photo6-6.htm
「鎌倉ものがたり」を歩く No.6−6 御霊神社(権五郎神社)
鎌倉権五郎景正(権五郎は「ごんごろう」と読む)は後三年の役(1083-1087)に16才で
源義家に従い、左目に矢を射立てられてもくっせず相手を射返し、帰陣、その矢を抜こうと
顔に足をかけた者の無礼を刀を抜いて叱咤したという武勇の持ち主を祀る。
境内には権五郎が手玉に取り袂に入れたといわれる手玉石(60kg)と袂石(105kg)や
休息の時弓を立てかけたといわれる弓立ての松がある。また境内の大きなタブの木は
神奈川の銘木100選に選ばれている。

ちいさな旅
 御霊神社の創建は平安時代の末期といわれている。かつては関東平氏の祖霊を
祀っていたらしい。そして「後三年の役」で活躍した鎌倉権五郎景政を祀るようになり、
権五郎神社と呼ばれ、地元の人々に親しまれている。境内には力持ちの権五郎が
持ち上げたという、伝説の石も置かれている。
 面掛行列は、豊作・豊漁を祈る祭りで、昔、鶴ヶ丘八幡宮でも行われていたが、
18世紀中頃から行われなくなり、御霊神社だけに残されたという。御輿を担いだ
子どもたちの後を、奇妙な面を付けた十人が通りを練り歩く様はなんとも不思議な光景である。
 面は奈良時代に仏教布教のために上演された伎楽の面をもとにしている。面の呼び名は
一番面が「爺」、二番面が「鬼」、三番「異形」、四番「鼻長」、五番「烏天狗」、六番「翁」、
七番「火吹き男」、八番「福禄」、九番「阿亀」、そして十番が「女(とりあげ)」。
ちなみに阿亀(おかめ)は大きな腹を抱えた妊婦で、赤ん坊を取り上げる女が続く、というもの。
http://kit.tele.co.jp/kita/aoba/weekly/rensai_tiisanatabi_11.html

18・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/02(金) 02:14

大阪の御霊神社
http://www.goryoujinjya.com/index.htm
http://www.goryoujinjya.com/yuisyo.htm
【御祭神・御神徳】
* 天照大神荒魂 (瀬織津比売神) * 津布良彦神 (旧攝津国津村郷の産土神)
* 津布良媛神 (旧攝津国津村郷の産土神) * 応神天皇 (広幡八幡大神)
* 源正霊神 (鎌倉権五郎景政公霊)
以上 五柱
http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/goryou.html

19・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/02(金) 02:15
http://www.diana.dti.ne.jp/~bsy31-32/info/shoukai/omiya/omiya.html
中田地域の鎮守である御霊神社
 祭神は、旧鎌倉郡内御霊神社共通の主神である鎌倉権五郎景政<ごんごろうかげまさ>と
日本武尊<やまとたけるのみこと>の二柱である。
由緒等について詳しい事は分からないが、旧鎌倉郡内の御霊神社の総本社といわれている
藤沢市宮前の御霊神社に伝わる仁安二年(1167)記の「御霊宮来由<ごりょうぐうらいゆ>」という
古文書に、中田の古名と思われる「葛乃<くずの>」が記され、分社したと書かれている。
このことから新編相模風土記稿に記されている「天正年中勸請<かんじょう>」よりも、分社の
時期が 幾分さかのぼると思われる。何れにしてもこの地域の開発とその時を一にすることはいうまでもない。
 御霊神社というと「怨霊信仰によって祀られた神社」と百科事典風に解釈してしまうが、旧鎌倉郡内の
御霊神社が鎮座している地域には、京都風の怨霊信仰の形態や習俗は伝わっていない。ごく単純に
「権五郎<ごんごろう>さま」が「ごりょうさま」になり、やがて表記する段階で御霊神社となった、
とする説の方が最近では多いようである。
 明治六年(1873)に、その当時の鎌倉郡中田村の村社となり、さらに大正十年(1921)からは、
中和田地域唯一の 「指定村社」となった。指定村社とは、国家神道時代に入り、国家が神様へお供え
する供物代の一部や、 弊帛<へいはく>料(御進物料)を負担する地域代表の神社に指定したという
意味である。
 この「指定村社」の制度は、終戦の昭和二十年まで続いた。またこのような国家機関の神社への
関与が、 昔から地域住民によって護持運営されてきた全国の小さな神社にまで行われたのは、
時代の重要な 国策の一つだったからである。
 御霊神社の建物は、享保十一年(1726)に再興されたが関東大震災で倒壊した。現在の本殿は柱、
桁<けた>、 梁<はり>などの主要部分を活かして、震災翌年の大正十三年九月に再建された
ものである。また拝殿、 弊殿<へいでん>、渡り殿は、昭和七年二月に新築された。

20・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/02(金) 02:15
http://www.diana.dti.ne.jp/~bsy31-32/info/shoukai/omiya/omiya.html
 神社の敷地は、山林まで含めると約7260㎡(二千二百余坪)あり、泉区内では広い境内地と
社有山林をもつ 神社である。
 特に社有山林は、明治四十二年以来、神奈川県の風致保安林に指定され、楠<くす>や椎<しい>
等の照葉樹林が 保存されている。戦前までは参道にも老松老杉が繁り、鳥居をくぐると夏でも
ひんやりとする程だったが、 終戦直後、進駐軍とともに入ってきたといわれる松喰虫や、その後の
排気ガス公害などで、これらの老木が 参道 次々に枯死したために、むかしに比べると境内が
明るくなった。しかし山林内には、檜<ひのき>や椹<さわら>に 混じって、自然に生え、繁茂した
藪ニッケイ、楠、タブ、椎、樫<かし>が育っている。
 社殿の右うしろにある神楽殿は、昭和二十二年にその枯死用材を利用して新築したもので、
正面間口五間の幕吊りは、 樹齢280年余りの神木の松を用いたものである。皇国地誌に、
社地中に老松が二株あって四百年余のもの、と記されているが、 神社周辺の松は昔から
「宮台<みやんでえ>の松」として知られ、質も良く引手数多<ひきてあまた>であった。
 また社殿右側にある瓦葺きの小さな建物は、終戦時まで中和田小学校の奉安殿<ほうあんでん>で
あったものを、 木造建造物部分のみを移築保存したものである。大正十五年六月に現在の
中和田小学校校地に建てられて以来十九年間、 天皇皇后両陛下の御真影<ごしんえい>(写真)を
納めて置く建物であった。泉区内の各小学校校舎が建替えられた現在、 学校建築物としては
この地域で最古のものとなった。現在はお神輿<みこし>をしまって置く「神輿庫<みこしこ>」に
なっている。
 境内には、区内でも最も古い寛文<かんぶん>六年建立の笠付角柱<かさつきかくちゅう>庚申塔や、
古式消防器具保存庫、 宮本湊先生頌徳碑、村岡川(宇田川)の象徴的源流である弁天池がある。
〜「いずみ いまむかし」より〜

21・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/03(土) 03:49
暫(しばらく) あらすじ
お家再興の祈願のため、鎌倉鶴岡八幡宮にやってきた義綱と許婚の
桂の前は、清原武衡(たけひら)の一党に言い掛りをつけられてしまいます。
義綱たちがあぶなく殺されそうになった時、「しばらーく」と大音声とともに
鎌倉権五郎影政が現れます。
打ってかかる家来達をものともせず、紛失していた国主の印や名剣雷丸を
見事に取り戻し、影政はゆうゆうと去っていきました。
http://www.asahi-net.or.jp/~tj8t-itu/kyara2.html

 舞台は鎌倉鶴岡八幡宮の社頭。大福帳を社へ奉納した加茂義綱一行は天下を狙う
悪人,清原武衛に言いがかりをつけられる。武衛の家来に殺されそうになった瞬間、
花道の揚幕から「しばらく」の声がして鎌倉権五郎景政が登場。権五郎は悪を懲らしめ、
加茂義綱らを救った後、悠々と去って行く。せりふが題名になったユニークな出し物。
http://www.washi-kogei.com/10001syokai.htm

22・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/03(土) 03:49
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/geinohsi1.htm
3)「暫」と「不動」
 鎌倉権五郎は後三年の役で十六歳で出陣し矢で片目を射られながら奮戦した剛の者として
知られました。権五郎の「五郎」は「御霊(ごりょう)」に通じ、また額を射ぬかれて死んだ平将門の
イメージと重なり合うことから御霊信仰の対象とされたのです。
 ちなみに将門を祭る神田明神の「神田」は片目という意味の「カンチ」に由来します。言うまでもなく
将門は関東武士の首領として京都の中央集権に反抗した反体制の象徴であり、江戸町民の
自立精神をあおる存在でありました。
 それだけに江戸幕府は神田明神の扱いには細心の注意を払ってきました。まず江戸幕府は
「神田祭り」を江戸庶民の祭礼化することで町民を取り込み、体制への懐柔を図りました。
「神田祭り」を、山王権現の祭礼と並ぶ天下祭りと位置付け、神輿が江戸城内に繰り込むことを
特別に許したのです。
 次に江戸幕府が行なったことは将門の霊を押さえるための神(仏)を育てることでした。山王権現は
もともとは比叡山延暦寺の守護神、比叡山の地主の神であり家康が招致したものですが、それは
家康の江戸入府以前からの土着の神である神田明神に対抗させるのが目的であったことは言う
までもありません。
 成田不動尊もまた江戸幕府から神田明神に対抗させることを期待された神仏なのです。団十郎は
以前から熱心に成田不動尊を信仰していましたが、江戸幕府から見ると団十郎が江戸町民に
成田山信仰をあおることは好都合だったわけです。
 さらに演じる側の団十郎の心理を考察してみましょう。「暫」において団十郎は本来は反体制的な
要素をはらむ御霊を演じるように見せながら、じつは体制鎮護の芝居を演じたの かも知れません。
「暫」での権五郎は江戸町民のヒーローの姿をとりつつも、実は体制存続を脅かす人間を退治する
警察官なのです。
 さらに「兵根元曽我」で演じられる「不動」では、団十郎は自ら不動を演じ江戸町民をひざまずかせ
賽銭を投げさせ拝ませるという行動に出ました。これは団十郎が身分差別の屈辱を江戸町民に
ぶつける形で不満解消をしているとしか思えません。ここに団十郎の屈折した心理と憤懣を
読むことができるでしょう。

23・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/03(土) 03:50
『暫』http://www003.upp.so-net.ne.jp/sei0720/kabuki/shibaraku.html
★あらすじ
鹿島神社の社頭。清原武衡(通称ウケ)は、自ら皇位につこうとしています。
自分に反対する加茂義綱(太刀下)はじめ大勢の男女を捕らえ、成田五郎たち家臣(腹出し)に
命じ首をはねようとします。そこへ鎌倉権五郎景政(暫)が、「しばらく」と声をかけて現れます。
鹿島入道震斎(なまず)や照葉(女なまず)が権五郎が引き立てようとしますが、
きかぬ権五郎は、弁舌と武力を持って武衡を脅かし、加茂義綱はじめ、大勢の人々を助けて帰ります。

★みどころ
江戸時代の歌舞伎界は十一月を正月として、役者の入れ替えを行いました。
これは中国古代の周の国の正月が十一月に当たることから由来していると言われています。
ということで、現在でも十一月の興行は「顔見世」と言われています。
この十一月の顔見世興行で必ず演じられたのが『暫』です。
その年々で趣向を変えて上演するのが江戸中期以降幕末まで、一世紀あまり歌舞伎の習慣でありました。
したがって毎年の役名に異動があり、人々はその役柄を、姿、動作、役柄から通称で呼ぶようになりました。
すなわち
ウケ=暫を受けて立つ敵役だから
腹出し=赤っ面で腹が出ているから
太刀下=あわや太刀の下で首が飛ぶから
暫=しばらくと声をかけて出てくるから
なまず=その姿が鯰
女なまず=鯰にくっついている女
というわけです。
このように『暫』は記号化された祝祭劇といえます。

24・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/03(土) 03:50
http://www.lunadfuego.com/Otowa_D/otowa00_05.html
 ギリシャ演劇や日本の古典芸能の原点である「祝祭」は農業の収穫を祝い、感謝を捧げる行為であり、
「農業」とデウス・マキーナという作劇手法との因果関係には、それが発生し観衆に支持される必然が
あると考えるのです。それを解くキーワードは、「平和」、「Peace」にあると考えます。
 日本語の「平和」、これは日本に限らずアジアの農業に適した地帯に共通することですが、「平和である
状態」を指す時に使われます。「ああ、平和だなぁ」などと言いますね。
 一方、アングロサクソンの言葉から発生した(ギリシャは決してこの中に含まれませんが)「Peace」という
言葉は、厳密には「平和であれ」という意味です。それは祈りでもあり、「平和な状態を作ろう」「平和にしよう」
という希望、意思でもあります。
 このデウス・マキーナ。日本の演劇においては、ヒーローものにその特徴と、アメリカ産のヒーローもの
との根本的差異を見て取れます。
 日本のヒーローものはまず、何と言っても、歌舞伎十八番のうち「暫」でしょう。
 悪者達が悪行の限りを尽くしている。そこへ唐突に、被害に遭っている人達とは縁もゆかりもない
鎌倉権五郎景政が「暫く暫く」と言いながら出てきては、ポンポンと悪者達の首を刎ねて、おしまい。
 農業社会において作物が順調に育ち収穫できるのがノーマルであり平和でありますから「平和を乱す」
ものは自然災害であり他方からの侵略など、「外部から来るもの」であります。
 その最も端的なものが、日本のヒーローとしてはあまりにも日本らしさの溢れた「ウルトラマン」でしょう。
 そしてもう一つの大きな特徴。
 鎌倉権五郎景政もウルトラマンも大魔神も月光仮面も、「決して自ら正義を語らない」という点です。
 ここがアメリカ産ヒーロー、自ら朗々と正義を説きながら暴力の限りをつくすヒーローと日本産ヒーロー
との決定的な違いと言えましょう。
 正義は既に人々の心にある。ヒーローはその味方をするだけ。既にある人々の心の中の正義を脅かす
脅威を取り除けば、ヒーローは何も語らずに去っていく。外部から来て、外部へ去る。あとには、ノーマルな
状態に戻った平和がそこにあり、平和と正義は、人々の心の中に既にある。
 これが日本列島のある東アジア農作地帯から生まれた、祝祭を発祥とする演劇の、デウス・マキーナ的
ヒーローの必然なのでしょう。
 ならば、と、先日、効果音制作作業の休憩中に、仲間達と、ウルトラマンのビデオを音声を消して見ながら、
登場のシーンに「越天楽」を流してみたり、闘いのシーンに大江戸助六太鼓の乱打を流してみたりして
遊んでみました。うおぉ、カッコイイ。

25安倍晋三との因縁:2004/01/05(月) 06:43
◆ 「そういえば、内閣官房副長官の安倍晋三さんは、安倍宗任の末裔という 説があります」
阿部文右衛門さんは、突然ポツリと言って遠くをみる目をした。
◆ 東北の安倍宗任と山口県の安倍晋三さんのつながりは、唐突のように思われて、私の頭の中では
むすびつかなかった。同じ安倍姓だけで関連付けし てしまうのは、かなり乱暴な話である。
◆ 阿部文右衛門さんが帰って、しばらくすると約束通り「原姓安倍氏・豊間根家の栞」という
石至下史談会の資料が送られてきた。パラパラと拾い読みしていると前九年役で敗れた
安倍一族について「三男宗任、五男正任は 朝廷軍に降り、肥前国松浦と伊予国桑村へ流罪、
宗任は後に宗像郡大島で 生涯を閉じ、地元の安昌院に眠る。享年七十七歳」とあった。さらに
「宗任の末裔は今は亡き安倍晋太郎氏で、子息の晋三氏は父の跡を継ぎ衆院議員として奔走」と
記されてある。
http://www.azaban.com/kajika/furusawa/010818_1.htm

26・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/05(月) 06:43
 今から1000年もの昔、前九年の役(1051年)奥州の豪族、安倍頼時、安倍貞任・宗任が源軍と
一進一退の激戦を交わし、また文治の役、奥州征伐(1185年)では藤原秀衡が鎌倉軍28万の軍勢と
激しい攻防戦を繰り広げた伝説の地として、今に伝えているのです。
 特に、前九年の役〔正しくは後三年の役〕では鎌倉軍の「鎌倉権五郎景政」と安倍方の
「鳥海弥三郎友景」の両武将の対決は、それは見事なものと今でも語り継がれている。
http://www3.ocn.ne.jp/~sumityan/hitirigoto/uzenkaido/uzen.html

27・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/05(月) 06:44
<源義家と後三年の役>
http://www.shokokai-kagawa.or.jp/nio/hassaku/2002/h5.htm
 平安後期の武将。河内源氏の嫡流(正統の血筋)で頼義の長子。
 七才の春、岩清水八幡宮の宝前(神仏の前)で元服し、(武家の男子が成人したことを示す儀式)
「八幡太郎」と号しました。
 前九年の役に、父頼義に従って出陣し、安部の頼時・貞任父子と戦い、1062年(康平5)貞任を
衣川関(岩手県)で破り、ついでくりや厨川柵で滅ぼし、その功によって従五位下出羽守に任ぜられました。
 義家は、真衡を援助してこの内紛(うちわもめ)に介入し、真衡の死後、家衡と清衡が対立すると、
1086年(応徳3)藤原清衡を助けて、自から数千騎を率いて家衡を攻撃しました。
 寛治元年(1087)秋、義家は、数千騎をもって金沢柵に攻撃をかけました。
 進軍中に、りつばこう立馬郊にさしかかると、雁がにわかに列を乱したので、馬を立ててじっと
見ていた義家は、かって大江匡房から習った兵方を思い出し「伏兵があるにちがいない」と兵を
出してさがさせたところ、果たして西沼の付近から30数騎の敵兵を発見し、これを全滅させることが
出来ました。
 かくて清原氏対、源氏の総力戦を展開し、兵糧攻めが功を奏し11月14日、金沢柵は落城しました。
「剛臆の座」の逸話、乱れ雁もそうですが、16歳の若武者、鎌倉権五郎景政の奮戦譚など、
いくつもの物語に綴られた、古代史上有名な合戦でありました。
 実際に戦闘のあったのは3年間であり、前9年の役の尾を引いた形の争乱なので、これが世に言う、
後3年の役と称されました。

28・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/05(月) 06:45
前九年後三年の役
http://www.asahi-net.or.jp/~dr4i-snn/miura-r-1.html

 千葉県野田市目吹
 鎌倉の住人平景正(通称・鎌倉権五郎)は、「後三年の役」(1083〜87)で清原武衡の部下の
鳥海弥三郎に眼を射られましたが、豪勇にも自らその矢を抜いて戦い、そのあと知行地であった
「めぶき」に立ち寄って傷を治したといわれており、それ以来「目吹」の地名が生じたという説話もあります。
 また、「目吹」の地名は大化改新(645)以降、大宝律令(700)が施行される中で、牛馬を飼育する
土地(牧場)を国が管理していますが、この地方一帯には馬牧であった「長洲牧」が置かれ、
「馬夫給庁」という役所があったと記録にあることから、「めぶき」の地名が生じたという説もあります。
 現在でも、雑木林の中にひっそりと、池は水をたたえています。
http://www.city.noda.chiba.jp/syoukai/kankou/gongoro.html

■目玉清水観世音-岩手県岩手郡滝沢村
 平安の昔、前九年の役(1062年)〔正しくは後三年の役?〕で厨川の柵をめざして兵を進める源義家は、
御仮屋山に陣取った安倍の大将鳥海弥三郎の陣に攻め込みました。
 源義家の家臣、鎌倉権五郎景正は、鳥海弥三郎に弓矢で左眼を射られ倒れてしまいました。
権五郎は泉の湧く井戸で傷ついた眼を洗い清め再び御仮屋山の安倍勢力に切り込み見事になぎ倒し、
この活躍で源義家が勝ったと伝えられています。のちにこの泉の湧く井戸を「玉水さん」と呼んで
毎月16日を祭日と定めています。
http://www2.u-netsurf.ne.jp/~onsen/roman/roman-special01/roman-aterui05.htm

1062前九年の役〔正しくは後三年の役?〕で厨川を目指していた義家が、御仮屋山に陣を構えていた
安倍の大将鳥海弥三郎と交戦。義家部下の鎌倉権五郎景正が弥三郎の矢で左目を射られる。
泉の沸く井戸で目を清め結局勝利する。この井戸を玉水さんと呼ぶ。目玉清水観音の由来
(滝沢伝承)
http://homepage1.nifty.com/tomori/museum/2/201takiz.htm

29・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/05(月) 06:45
http://www.genbu.net/data/dewa/oomono_title.htm
 社殿内正面には「鳥海山大物忌神社」の額が掛かり、右手には、「鳥海山大権現」の額。
当社は、鳥海修験としての歴史が長く、往時には三十三坊を有していた。
 『和漢三才図会』によると、鳥海山は慈覚大師が始めて登山したとあり、
麓の社は鳥海弥三郎の霊祠とする。

http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/kyoukasyo/sub-book10.html
 清原氏は陸奥の騒乱に勲功を樹て、新に奥六郡の地を領して、安倍氏に代わりて勢力を奥羽地方に
張れり。然るにその後清原氏一族の間に紛争興りて、その地再び乱れたりし折、たまたま源義家
陸奥守として任に赴き、秀郷の後裔たる藤原清衡とともに討ちてこれを鎮定せり。(後三年の役)時に
堀河天皇の御代にして、これより清衡また清原氏に代わり館を平泉に構へて東北地方に雄視するに
至れり。この役義家が一たび敵城金沢柵を攻むるに当りて、鎌倉権五郎景正は剛胆無双の誉を揚げ、
義家の弟新羅三郎義光は遙かに京都よりて下向し、兄を援けて大いに敵を破れり。されど城堅くして
容易に抜けず、義家殊兵を率いて三度これを囲むや、飛雁俄に列を乱せるを見て、嘗て節を屈して
大江匡房に学びたる兵書の知識を活用して、やうやく危難を免れ、また日毎に剛臆の座を定めて
士気を励まし、遂にこれを陥れたり。義家は陣中ねんごろに部下の将士をいたはりうへに、朝廷この役を
私闘として恩賞を下さざるに際し、義家私財を抛ちて部下をねぎらひたりしかば、東国の武士は
いよいよその恩威に服し、心を傾けてこれに臣従するに至りぬ。

30・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/05(月) 06:45
前太平記の世界
(須永朝彦氏「歌舞伎ワンダーランド」より)
 「前太平記」は全四十巻、平将門と藤原純友の反乱、源頼光と四天王の活躍(茨木・土蜘蛛・
酒呑童子退治)、源頼義・義家の武功(前九年・後三年の役)がハイライトである。この三件が
「将門純友」「四天王」「奥州攻」という呼称で浄瑠璃・歌舞伎の<世界>となり三つを総称して
[前太平記の世界]とも括るのだが、「世界綱目」などは個別に搭載している。
 後冷泉天皇の世(1054〜68)に陸奥の俘囚安倍頼時・貞任父子が反乱を起こし、陸奥守
源頼義がこれを平定したのが前九年の役、白河帝の世(1073〜86)に出羽の清原氏の内紛を
陸奥守源義家(八幡太郎)が鎮めたのが後三年の役で、この二つの変事を背景とする世界が
「奥州攻」である。
  「奥州攻」の世界に則る狂言で今日に残ったのは、近松半二・他の浄瑠璃(宝暦十二年・1762)を
原作とする「奥州安達原」のみで、それも通称を「袖萩祭文(そではぎさいもん)」とか「安達三(あださん)」
とか呼ぶ原作の三段目「環宮明御殿(たまきのみやあきごてん)の場」の切だけの上演が常である。
二段目には謡曲の「善知鳥(うとう)」が、四段目には安達原の鬼女伝説が織り込まれ、然も稀に見る
大ドンデン返しが設定されている。八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光という役(女姿もいつしかに
引替りたる変生男子)が鍵と言えるだろう。
 「安達原」の谷底の場には鎌倉権五郎景政という荒武者が登場する。義家の家臣で「奥州攻」の
世界で活躍する人物である。この景政は現行の「暫(しばらく)」では勇壮な若衆と変じて主人公を
演ずる。「暫」は顔見世狂言には必ず仕組まれたので、本来は世界を選ばないのだが、歌舞伎十八番の
「暫」はウケ(大抵は公家悪の謀叛人)を清原武衡、暫くを景政にするのが常のようであるから、
現行の「暫」は「奥州攻」の世界に拠る狂言ということになる。
http://www.furugosho.com/profile/zen_taiheiki.htm

31・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/05(月) 14:18
鎌倉権五郎(カマクラゴンゴロウ)
http://www.mic.atr.co.jp/~ebihara/kabuki/1.html

32カマヤン:2004/01/05(月) 14:57
http://www.town.yashima.akita.jp/kinenkan/chokainamae01.htm
> 鳥海の山名がどういう関係でつけられたかは、この山の変遷をたどる上で、
>見のがすことができない。鳥海という山名が記録の上に現れたのは、和論語の
>中に鳥海山大明神とあることに始まるとされている。
> 後世長く呼ばれた鳥海の山名は、どうしてできたのであろうか。結論からすると、
>安倍氏の全盛時代【安倍宗任(むねとう)】の所領がこの方面にあったことによるものと
>するのである。なぜかといえば【安倍宗任】を【鳥海弥三郎宗任】と称したことである。
>そのわけを調べると、宮城県亘理郡に鳥海の浦という所があって、ここが宗任の
>誕生地であるところから、その生地にちなんで【鳥海弥三郎】と称したと推定される。
> 今一つは、【酒田】方面と【宗任】との関係である。かの有名な藤原秀衡の母は宗任の
>息女で徳尼公と呼ばれた人である。その人は藤原氏滅亡の際、十六人衆と呼ばれる
>家来と共に【酒田】に逃れてきたと伝えている。現に酒田市の泉竜寺に徳尼公廟があり、
>また十六人衆の中の何軒かは今に残っているとのことである。

 オカルト因縁がマジカルウォーズ的に繋がってきた ヽ(´ー`)ノ 
 酒田は、斎藤淳元議員の出生地&所在地。
http://www.saitojun.com/shokai.html
http://www.town.yashima.akita.jp/syoukou/mt.chokai-sandou.htm
 まあ、こういうこじつけはなんぼでも可能なんだけどね。
 鳥海弥三郎を倒すのは、鎌倉権五郎です ヽ(´ー`)ノ
http://www4.synapse.ne.jp/kanme_syun/yurai.htm

33 [,@∇@]ノ@カマヤン:2004/01/05(月) 16:17
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/news/535/1033812940/560-562
の、続き。
鶴岡八幡宮の祭神は、神功皇后のようだ。
http://www3.justnet.ne.jp/~ikeyoko/ARE-ZINZYA.HTM
なるほど、カマヤンが頭をたれるのは妥当ではない。

八幡神自体は、新羅からの外来神らしい。
http://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/mjf-51.html
あれ、でも応神天皇とも同一視されてんのか。
http://www.ffortune.net/social/history/nihon-nara/usa769.htm
http://www.ten-f.com/usajingu.html
まあ、秦氏だから習合はするわな…

そういえば、宇佐八幡の三種の神器を守ることが太平洋戦争の
日本政府の最終防衛ラインだったな…アホな話や。

わりとどうでもいい話だけど、カマヤンの生地の近くには、弓削道鏡と
称徳天皇がハネムーンしたと伝えられる温泉地がある。

34・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/05(月) 19:24
 #権五郎神社には、庚申塔がえらいたくさんあった。

  庚申信仰と三猿(さんえん)
 庚申塔には三猿が欠かせないものになっていますが、もとはまったく別のものでした。
 三猿は古代インドで生まれ、東南アジア・中国に広まり、やがて日本に入って、鎌倉時代以降
には絵画や彫刻の題材になったとのことです。
 三猿が庚申信仰や庚申塔に結びつくのはあとのことです。そもそも室町時代に、山王(日吉神社)
信仰と庚申信仰の対象として共に北斗七星があったところから両者が結びついたとする説があります。
 やがて室町時代の末期に山王の使者(化神とも)である猿が庚申信仰に取り入れたというのです。
したがって、初期の庚申塔にあらわれた猿は三猿ではなく、一匹や二匹で、目・耳・口をふさいだもの
ではなかったそうです。
 そして江戸時代、17世紀中ごろに庚申塔に三猿が現れました。庚申の夜に天の神(天帝)に悪事を
告げるといわれる三尸(さんし)との兼ね合いで「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿が結びついたと
いうものです。
http://www.kcn-net.org/senior/tsushin/tkoshin/goto0202/san_en.htm

「庚申(こうしん)信仰」
 中国の道教で説く三尸(さんし)説を母体としている。
 「庚申=かのえさる」の夜、人の体内に住む「三尸(さんし)」という虫が、その人が熟睡している間に、
天に上って、閻魔さまの眷属である「司命」(閻魔大王の眷属参照)に善悪の報告をするそうである。
大きな罪は300日、小さな罪は3日いのちが奪われる、とされる。
 庚申の日ごとに常に徹夜をしていれば、三尸は天に上って司命に人の罪過を告げることができない。
だから庚申の晩に身をつつしんで夜明かしをすれば、早死にを免れて長生きをすることができる。
 このような思想を「庚申信仰」と呼ぶ。
 平安から室町時代までは、徹夜の時間つぶしに詩歌管弦をはじめとする種々の遊びをしたが、
室町中期より、青面金剛など崇拝対象の前で勤行をするように変わった。このような行事を行うことを
「庚申待(こうしんまち)」という。
 行事の主体が16世紀には、農民や町衆などにひろがっており、やがてこうした行事を行うグループが
「庚申講」と呼ばれるようになる。
 江戸時代に入ると、庚申講は各地で結ばれるようになり、60日に一度の庚申待を、年6回で3年
連続して18回実施すると、供養のために、庚申塔や庚申塚を築くことが一般に行われるようになった。
http://www.town.nandan.hyogo.jp/library/furusato/b_kasyu.htm
http://plaza.across.or.jp/~horinh/k-sinkou.html

35カマヤン@ [,@∇@]ノ:2004/01/05(月) 19:51
安倍晋三とのマジカルウォーズ >>25-26
カマヤンの祖霊は、安倍晋三の祖霊と戦ったことがある >>28-29
もちろんカマヤンの祖霊が勝った。霊的にはこちらが優位 >>32

36カマヤン@ [,@∇@]ノ:2004/01/07(水) 16:54
 こんなの見つけた↓ 菅直人も怨霊の子孫なのね…
==================
 江田治三氏から、「エイズ問題に対して立派な対応をされた厚生大臣の菅直人さんは岡山県の
人だよ」とお聞きしました。また、作州菅家一統の宗家筋に当たる勝田郡奈義町高円の有元家の
ご子孫から、「江戸時代、下神目の菅家の人、つまり菅直人さんの先祖が作州菅一族を代表して
ルーツを確かめるために上京しました」という話もお聞きしていました。
 「菅(かん)」は菅原の「菅」、ご先祖様は藤原氏の陰謀で太宰府に流された菅原道真、作州の
菅家一統の一派です。
 国道53号線を北に走り、「下神目」という小さな地名標を目印に右折すると小集落があります。
ここには菅姓を名乗る何軒かの家があり、それらの家の土蔵には梅鉢紋が入っています。みんな
同じ株家のようで、山の手の奥まった処に菅直人氏のご先祖が暮らされていたという屋敷跡が
あります。この裏山に上がると、菅一族の墓地がいっぱい並んでいて、一番上に直人氏の家の
墓地があります。この村の庄屋を勤められていたようで、この辺りの菅一族の本家筋になるようです。
http://www.kct.ne.jp/~kshimizu/kan.htm

37カマヤン@ [,@∇@]ノ:2004/01/15(木) 05:22
>>33
あれ? オレ、何錯覚してんだろ、三種の神器のうち、鏡は伊勢神宮、
草薙剣は熱田神宮だ… 勾玉は宮中。

…八束剣はどの神社だったかな…

38・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/20(火) 22:28
熱田神宮 
 名古屋市熱田区にある神社。三種の神器のひとつ草薙剣を神体とする熱田大神をまつり、相殿(あいどの)にヤマトタケルノミコト(日本武尊)など、神剣に関係する5柱をまつる。ヤマトタケルノミコトが東征の際、伊勢神宮にあった神剣をヤマトヒメノミコト(倭姫命)からさずけられた。ヤマトタケルノミコトは東征の帰途、尾張の国造の娘ミヤズヒメノミコト(宮簀媛命)を妃にし、ヒメに剣をあずけて伊吹山の賊を退治にむかい、そのまま病死する。そこで、ミヤズヒメノミコトが社殿をたてて草薙剣をまつったのが起源という。
もとは尾張氏が神職を世襲していたが、平安末期からは藤原氏が大宮司をつとめる。源頼朝の母は、熱田大宮司の藤原季範の娘であった。創建以来、古代〜中世を通じて朝廷や幕府の崇敬があつく、織田信長、徳川家康なども社殿の修復をおこなっているが、江戸時代には尾張藩が修復にあたった。1893年(明治26)の社殿改造の際、それまでの尾張造という様式から、伊勢神宮と同じ神明造にあらためられた。
"熱田神宮" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

39・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/20(火) 22:28
伊勢神宮 
三重県伊勢市にある神社。五十鈴(いすず)川の川上にある皇大神宮、山田原にある豊受大神宮、両宮に付属する別宮、摂社、末社、所管社などの総称。正式名称は神宮。全国の伊勢信仰の中心で、古来最高の特別格の神社とされてきた。
皇大神宮は内宮ともいい、天皇の祖神でもある天照大神をまつり、三種の神器のひとつ八咫鏡を神体とする。「日本書紀」によれば、第10代の崇神天皇のとき、宮殿にまつっていた神体を皇女の豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑にうつし、第11代垂仁天皇のとき、皇女の倭姫命が各地をめぐったうえで、伊勢国を鎮座の場所としたのが始まりという。
豊受大神宮は外宮といい、御饌都神をまつる。804年(延暦23)の「止由気宮儀式帳」によれば、もとは丹波国にまつられていたが、雄略天皇のとき、アマテラスオオミカミに御饌をすすめるためにうつされたという。
伊勢神宮には社格や神階がないが、これは朝廷・国家の最高の神をまつり、他の神社より超越することをあらわす。天皇以外の奉幣・参詣を禁止する私幣禁断や、天皇の皇女を斎宮として奉仕させるかつての制度からも、伊勢神宮が皇室にとって特別な存在であったことがわかる。
神宮の職員である祢宜として、内宮には荒木田氏、外宮には度会氏があたり、大神宮司がそれらを統括していた。ほかに大中臣氏の五位以上の神祇官が祭主に任じられ、勅使として朝廷との間を往復していた。祭主の職は、大中臣氏一族の藤波氏が世襲するようになった。1871年(明治4)の神宮改革でこれらの神職の世襲は廃止され、祭主は皇族だけにかぎられた。
明治期になると、神社は国家の宗祀とされ、伊勢神宮はその第1として国家から特別な扱いをうけた。戦後、政教分離の原則にもとづき、1946年(昭和21)に宗教法人となったが、現在でも全国の神社の中心的な存在で、神社本庁の本宗とされている。
"伊勢神宮" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

40カマヤン:2004/08/14(土) 20:46
盂蘭盆なので、関東最大の怨霊、平将門公の首塚へお参りに行く。

大手町駅を出ると、ゴオオオン、と、重い、風の吹くような音が響いていたけど、
音の正体は分からず。

首塚の前で手を合わせると、爽やかな風がそこだけ吹いていた。
私の祖先が鎌倉権五郎だとすると、平将門と祖先を同じくする。
http://www.ne.jp/asahi/iidabasi/sanpo/utibori/kubituka2.gif
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011532/Masakado.jpg
首塚には綺麗な花が盛大に備えられていた。

お茶の水の神田明神まで歩き、神田明神にお参りして帰る。
学生時代、この近くの学校に通っていたが、首塚にも神田明神にも
参ったことなかったなあ、とか思う。

41・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/08/22(日) 03:56
http://www.tabiken.com/history/doc/R/R174C100.HTM
松浦党 まつらとう
 平安時代以来肥前に栄えた一族。鎌倉・室町時代には肥前松浦4郡にわたって武士団の連合組織として
割拠した。松浦党においては源氏姓で一字名を名乗ることが特徴としてあげられる。松浦党の系図は
30種ほどもあり,その始祖については不明な点が残る。1019年(寛仁3)刀伊の来寇のときには松浦の
前肥前介源知(さきのひぜんのすけみなもとのしる)が活躍したことが知られている。その後は宇野厨を
本拠とし松浦源氏を中心に異姓の諸氏をも擬制的同族組織のなかに組み入れ,室町時代にいたっては
党内の規約も定めて党の団結を固めた。南北朝時代以来,上松浦を中心に居住する上松浦党と,
下松浦を中心に居住する下松浦党とに大別された。戦国時代をへて松浦党は,没落したり他領主の
被官になったりしたが,下松浦党峯氏の披(ひらく)の系統である平戸松浦氏は戦国大名として成長し,
1600年(慶長5)関ケ原の戦い以降旧領を安堵されて外様大名として平戸島・北松浦郡・東彼杵(そのき)郡
の一部・壱岐の6万3,000石を領した。

http://www.sagatokimeki.ne.jp/genkai/seminar/kiso/kiso-04/kiso1-1.html
 松浦党は、肥前松浦地方に割拠した中世の中小領主・武士団で、広く玄海・東シナ海を活動の場とした。
嵯峨源氏の渡辺綱(つな)また久(ひさし)を祖と考え、直(なおす)・持(たもつ)・勝(まさる)など一字名乗りを
使う、擬制的同族集団である。
武士団としての松浦党
 彼らの活躍は、古くは平安末期の保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)、壇の浦の合戦(1185年)に
見える。また、元寇の時、文永の役(1274年)では『八幡愚童訓』に「松浦党いさ(勇)みたりし故に、
おほ(多)く打れぬ」とあり、博多湾岸の百道原などで多数の戦死者を出している。殊に佐志房(ふさし)親子
の活躍は著名である(「有浦文書」)。同じく、弘安の役(1281年)では、壱岐や博多湾の海上、あるいは
元軍が占拠した鷹島において、舟原・大島・津吉氏等が戦功を挙げている。

44・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/11/06(土) 01:19
メモ。
今度、染井霊園にある宮武外骨のお墓のお参りに行って来よう。
http://wwwamy.hi-ho.ne.jp/k-komatsu/someireien.htm
http://www.fusoseiki.co.jp/kagomachi/someireien.html
http://www.fusoseiki.co.jp/kagomachi/kagomachimap.html
http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/eigyou/toden/ensen/200404/sansaku_furukawa.html

46・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/02/09(水) 04:52:43
http://chiba504.hp.infoseek.co.jp/kajiwara/kajiwara.htm
○宮前御霊神社
 (神奈川県藤沢市宮前)
 祭神;崇道天皇(桓武天皇の皇太弟・早良親王)・鎌倉権五郎景政・葛原親王・高見王・高望王。
 天慶三年(940年)、平(村岡・千葉)良文により建立。
 のちに鎌倉権五郎景政を合祀。
 そののち、北条時頼の命により、葛原親王・高見王・高望王を合祀する。
 一説に、高座郡葛原皇子神社が、村岡良文により分祀、「村岡御霊宮」が建立。
 宮前御霊神社が「村岡御霊宮」であるといわれ、村岡・鎌倉一族が勧請する御霊神社のもとになった宮という説あり。
桓武天皇―葛原親王―高見王―平高望―村岡良文―千葉忠頼―忠常―常将
 
○梶原・御霊神社
 (神奈川県鎌倉市梶原一丁目)
 祭神;鎌倉権五郎景政(景正)
 天喜元年(1052年)、景政に御霊大権現の神号を奉り、村岡邑に奉斎。
 後年、鎌倉権太夫景通、梶原に居を定め、梶原を称す。(←景通は景正の父という説があり、不自然。)
 建久元年(1190年)九月、梶原平蔵(平三)景時により、景政の霊を祀り、御霊社と称す。
 一説に、高座郡葛原皇子神社(皇子大神。旧称葛原ノ宮)を村岡良文が分祀して「村岡御霊宮」(宮前御霊神社か?)を建立、三浦忠通により、梶原郷に梶原・御霊神社が建立された説あり。
 初めは桓武天皇、葛原親王、高見王を祀っていた説あり。
 また一説に、葛原岡に祀られていた葛原親王のお宮の後身ともいう。

 鎌倉・梶原氏略系図(諸説混乱著しい)
桓武天皇―葛原親王―高見王―平高望―村岡良文―三浦忠光―忠通(忠光の弟とも同一人物とも)―鎌倉景通―景正(景政)(景正の父は景成である説あり)―景経―梶原景長―景時―景季

47・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/02/09(水) 04:54:05

村岡南部・御霊神社コース
http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/manabi/bunzai/muraokan.html

宮前御霊神社
http://www.josui.org/~tanaken/history/easthei/miyamaegorei.html

【桓武平氏良文流】
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116.htm 

鎌倉党 http://www56.tok2.com/home/bamen/kamakura.htm

48・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/02/09(水) 04:54:30
大庭(おおば)神社http://www003.upp.so-net.ne.jp/kodaisi/engi5.htm
鎮座地:藤沢市稲荷997
祭  神:神皇産霊尊(かみむすひのみこと)       配祀神:大庭三郎景親 ・菅原道真     由 緒
 創建年代不祥。配祀神についての勧請の時期および発願者の名前は大庭三郎景親・菅原道真の両祭神それぞれに明かである。
 大庭郷の相当の地域が鎌倉権五郎景正※の所領であった時、伊勢神宮の御厨として寄進(1117)された。以後、この地域は大庭御厨として知られた。平景正はその後も庄司として実権を有したが、実際に住んだのは孫の大庭太郎景忠からで、その子の三郎景親は石橋山合戦で平家方を指揮し、のち斬られた。
 鎌倉幕府樹立後領土を安堵された大庭景義も和田の乱で敗戦し、所領もバラバラとなった。
 熊野神社(藤沢市大庭1846)として次に載せた地が、大庭神社の旧跡とみられ、両社の距離は引地川をはさんで500㍍ほどである。近年までこの流れを利用して水田が営まれていたことから、当社も川と深いつながりがあり、この地を拓いた豪族を祀ったのが創建ということになるのであろう。
※大庭権五郎景正
 平安時代後期、鎌倉西北部から湘南にかけて広い地域を開拓した領主。
 奥州後三年の役の時、16歳で初陣を果たした権五郎は敵に眼を射られたその矢を抜こうともせず、そのまま答えの矢を放って敵を倒した。見方の将が顔に足をかけて引き抜こうとすると、権五郎は下から刀で斬りつけ「矢に当って死ぬのは本望だが、顔に足をかけられるのは武士として最大の恥辱」と怒ったため、見方の将は無礼を謝し、鄭重にひざまずいて矢を抜いたという。こうした武勇から誇りある武士として鎌倉時代には深く尊崇された。
 また、後世には「目の神様」「ごんごろうさま」として親しまれた。

訪問記
 県道藤沢厚木線からさらに引地川を越えた細道の奥にひっそりと鎮まっている。延喜式内社の一つであることは案内板にも載っている。そこには当地が往古よりの旧地となっていた。
 小さいながらも郷社の石碑も建っていた。石段も石灯篭も随分と時代を感じさせるが社殿もしっかりとしたものである。節分の豆まきの跡が見られるのも楽しいことだ。
 社名額にもきちんと大庭神社の名があった。忘れられかけた神社なお健在、といった印象であった。

49・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/02/09(水) 04:55:13
http://www56.tok2.com/home/bamen/kamakura.htm
鎌倉景正(1069〜????)
 鎌倉氏3代当主。鎌倉権守景成の五男とも平忠通の五男とも。通称は権五郎(権守の五男の意)。ただ、鎌倉党の系譜はかなり錯綜しており、実際のところ父親など不明。
 応徳2(1085)年に勃発した奥州清原氏の内乱(後三年の役)では、15歳の若さで源義家に随って出陣した。翌応徳3(1086)年の出羽国金沢柵の戦いで奮戦中、右目に敵の矢を受け、その矢を射立てたまま相手を射殺。そのまま帰陣して力尽きて倒れた。これを見た三浦為継(平太郎)は、彼の矢を抜くため、草履を履いたまま顔面を踏みつけたところ、景正は「生きているうちに面体を土足で踏まれるのは末代までの恥辱」と怒り、刀を抜いて下から彼を突き殺そうとしたため、為継は無礼をわびて、膝をかがめて彼の矢を引き抜いた。
 長治年中(1104〜1106)、景正は所領・相模国鵠沼郷一帯を先祖伝来の地として、多数の浮浪人を集めて開発を始め、それを伊勢神宮に寄進しようと国衙にその旨を申請して、永久5(1117)年10月23日にその承認を得て「大庭御厨」を成立させた。そして景正はその下司職に任じられ、「供祭上分米」を伊勢神宮に備進して子孫に下司職を相伝する権限を手にした。「大庭御厨」は13郷で成立しており、庄域は「東:鎌倉郡玉輪庄、西:神郷、南:海、北:大牧粼」、面積は久安元(1145)年年当時で95町あった。
 景正はこれ以降、伊勢神宮との関わりを強め、大庭御厨内俣野郷(横浜市戸塚区〜藤沢市境川周辺)に大日堂を建立して、伊勢神宮の式年遷宮で交換され、下賜される心柱を用いて大日如来を刻んで奉納した。この大日堂は景正の末裔・俣野景久(五郎)が管理をしていたが、景久は兄・景親とともに平家に属し、「反逆の者」とされたため管理するものもなく、同宇は壊れ、景正寄進の仏像も雨ざらしになってしまった。これに景久の後家尼が嘆いていることを三浦介義澄が伝え聞き、頼朝に伝えると建久6(1195)年11月11日、頼朝は「景久反逆の者たりといへども、景政は源家の忠士たるなり…」と大日堂の復興を命じた。11月19日、頼朝は大日堂に「仏聖灯油料」として田畠を寄進。さらに承元3(1209)年11月5日、執権・北条義時は大日如来の彩色修理を命じた。
 景正がいつ亡くなったかはわかっていない。しかし景正の死後、彼は武神「御霊大明神」として崇められ、その屋敷があったと思われる相模国鎌倉郷村岡に御霊社が建立された。景正は鎌倉党にとっては武勇のあこがれであり、大庭御厨を中心に御霊社が多数勧進された。鎌倉坂ノ下に勧進された「御霊大明神社」は俗に「権五郎神社」とよばれ、眼病に御利益があるとされている。この「権五郎神社」は頼朝の厚い帰依を受けていて、文治元(1185)年8月27日、神社が地震のように鳴動したため、末裔で管理人の大庭景義がこれを頼朝に報告。さっそく参詣した頼朝は、宝殿の扉が破れているのを見つけ、願書を奉納してこれを謝し、巫女に神楽を舞わせて帰館した。
 12月28日、北条政子に伺候する女房・下野局の夢枕に「景正」と号する老人が現れ、「讃岐院(故・崇徳上皇)、天下に祟りを為されておられるので制止申し上げたが叶わなかった。若宮の別当にこのことを申せ」と言ったところで夢から覚めたと翌朝訴えたので、頼朝は国土無為の祈祷をするよう、若宮別当に申しつけ、さらに藤原邦通に命じて小袖・長絹を供僧らに与えた。
 建久5(1194)年1月4日、頼朝は鎌倉甘縄の御霊社奉幣などを行っている。頼朝ほか関東の御家人にとって、景正の存在が大きかったことがわかる。

50・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2006/02/10(金) 05:30:53
http://www.geocities.jp/kawanayataibayashi/tairanokagemasa.html
        鎌倉権五郎平景政  
 藤沢各地に御霊神社があるが、川名・宮前の御霊神社は、早良親王(崇道天皇)を主神とし、後に鎌倉権五郎景政を合祀しています。早良親王は桓武天皇の弟で、皇太子として天皇治政の実務をこなし功績を残しています。景政は、桓武天皇−葛原親王−高見王−高望王−村岡五郎良文−村岡忠通−鎌倉景成−権五郎景政と続く系統で、桓武天皇直系の7代の孫で、相模南部に勢威を張り事実上の領主であった。
【出生】 1067年(治暦3年)村岡良文の曾孫として村岡城内で生まれ、城内の三日月の井で産湯を使う。幼時は、祖父相模大椽、村岡平太夫忠通の隠居所の村岡固館の屋形で送り成長する。
【初陣】 1083年(永保3年)16才で奥州・後3年の役に出陣。鎮守府将軍八幡太郎義家に従い、奥州の清原氏の反乱(後3年の役)の平定に出陣。清原氏追討で、秋田の堅墨金沢の柵に立て篭もる敵を、先陣として奮迅に攻め勇猛果敢に奮戦し、敵から目に矢を受けたが怯まず敵を殪し(たおし)た。景政手負いたりと陣に帰り、従兄の三浦為次に抜いてもらったが土足で面を踏まれ烈火の如く怒ったという。熾烈な戦闘で清原氏を滅ぼしたが、敵の亡骸を集め塚を造り手厚く葬ったという。
   今でも《景政の功名塚》と銘記され、金沢の柵の一郭に残されている。そのように、勇壮の中に情があり、遍く(あまねく)天下に名声を轟かした。
【帰館】 戦後、村岡の館に帰り、義家を逗留させ由比八幡宮の修復に全面的支援をする。
【上洛】 義家と共にか?京都に上り出仕して六条半官となり政治に関与した記録もあり、広く活躍した。
【城館】 凱旋した景政は、京は郷の勇者に合わず、官を辞し領内鎌倉の坂ノ下に本拠の館を構えた。山際に村岡御霊宮を祀り、由比・甘縄等を開拓する。鎌倉は狭い土地で、痩地のため、生産性が低いので西方に転出する。館の跡地は御霊社の境内地となり、広大であったが次第に狭められ現在の狭い境内地となる。
【分社】 1094年(嘉保元年)三浦・梶原・大庭・長尾に村岡御霊宮を分社創建する。
  ※ 御霊宮(神社)は、宮前に940年に勧請され、翌年川名に。この2社を中核として相模各地に広く分社された。三浦三崎から藤野町佐野川まで、二十数社が鎮座されている。
    御霊神社は、創建以来“千数十年”川名の鎮守として住民の安寧・幸福を呼び無病息災・事業繁栄・悪霊.疫病退散の神として、先人がその由緒の伝承を伝え崇敬・護持してきた。

51・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2006/02/10(金) 05:31:55
http://www.geocities.jp/kawanayataibayashi/tairanokagemasa.html
【開拓】 先祖が手がけた大庭のの開拓に入り、開発領主として領分を広げ、懐島や北方に広げた。1117年(永久元年)大場御厨(伊勢神宮領)として申請し開発を容易にし侵奪を防ぐ。1134年(長承3年)大庭御厨として朝廷より裁許、荘司として管理、権益を確保する。
【城塞】 鎌倉坂ノ下から転出し、大庭に居城した。場所が不明だが、御厨の中心の最高地点の相模灘を航行する船の目標として重筥山と呼ばれた台谷神明宮(だいやとしんめいぐう)を総本宮とし字築山に村岡御霊宮(熊野権現社は元御霊社)を分社し、台谷戸稲荷の境内を馬繋ぎ場としたという伝承から城塞は神明宮の下で稲荷付近に馬を繋ぎ入場したのである。
【神明宮】 台谷神明宮を本宮とし、城・小糸・赤羽根・円蔵・西俣野・松尾などに分社した。
   以上のように相模南部に勢力を張り大豪族として君臨したが、各地に御霊宮や神明宮を分社して土地の鎮守とし領内の平安と民心の安寧に尽くした。
   後の時代に 後3年の役の勇壮な働きと、相模に君臨し民心を安めた偉大な英雄として1190年(建久年間)梶原・長尾氏などにより、各地の御霊宮に祀られ神奈川県内二十数社の祭神となっている。
   又、 歌舞伎一八番の内、「暫く」にも 主役として登場し江戸時代にも勇名を轟かせた。
   今から900年前に確実な史実の人物は稀であり、この偉人を喧伝し顕彰すべきである。
    水戸黄門光圀の鎌倉暦覧の鎌倉日記に、
   “景政が、塔由比ガ浜の北に 小さなる塔あり 目疾を患う者是に祈りて験あり” と書かれている。景政は、隻眼でも勇壮であり 眼病の神であった。
   江戸時代の鎌倉絵図の材木座に‘五輪の塔’図示されているが 今は、何処かに消えて跡形も無い。

52・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2006/09/01(金) 09:01:55
371 名前:名無しさん@3周年 投稿日:2006/08/30(水) 00:43:36 PLQ8EXLt
安倍が神武天皇に滅ぼされた長脛彦の兄、安日彦の子孫だっつって、信じる人ってどのくらいいる?
史実じゃなくて、あくまで系図上の話のことなんだが・・・。

372 名前:名無しさん@3周年 投稿日:2006/08/30(水) 12:43:32 BzqsFV1Z
んな妄想を信じるヤツァいねぇ。

382 名前:名無しさん@3周年 投稿日:2006/08/30(水) 19:52:23 PLQ8EXLt
わはは、やっぱりそうか。
ただ妄想したのは俺じゃなくて、晋三んちのご先祖さんなんだ。
実は安倍家の家系図がそうなってんだよ。

53・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2006/09/01(金) 09:02:14
384 名前:名無しさん@3周年 投稿日:2006/08/30(水) 22:31:37 DzjQPOrQ
安日彦は邪馬台国の王様だったとする偽書の類もあるからねぇ。
一種の誇大妄想だね。
そもそも津軽の安倍氏は前九年の役で滅亡してるし。

394 名前:名無しさん@3周年 投稿日:2006/08/31(木) 19:21:35 9g2Hxe/E
おいおい、困ったこと言うなよ。津軽の安倍氏って何だい?
奥州安倍氏の拠点は現在岩手県の北上平野だ。
安倍氏が津軽に進出したのは、前九年の役で安倍頼良・貞任父子の勢力が滅んだ後、
貞任の子の高星丸が津軽に亡命してからだ。
安倍氏を語るなら「陸奥話記」や「藤崎系図」を読んでくれ。すげー面白いぞ。
前九年の役で頼良・貞任父子が滅んだ後、貞任の弟たちはそれぞれの流罪先で再び勢力を
盛り返して復活している。津軽安東氏と安藤氏、後の秋田氏、福島県岩城の平氏、
九州の松浦党、白鳥氏、一方井氏などがそうだ。また、貞任の妹が藤原経清の妻となり、
安倍氏の地位と血脈は奥州藤原氏に引き継がれ、東北の全盛期をつくった。
安倍氏は滅亡したどころか、東北を中心に全国に展開し、明治維新までその人気と
権威は衰えることがなかった。明治憲法下の華族にも奥州安倍氏の一族はいっぺーいたんだぞ。
安倍氏の血脈が荒唐無稽なのは、前九年の役の後のことじゃなくて、それ以前のものだよ。
なんつったって、アビヒコだかんな、すごすぎるぜ。w
そんなわけで昨日(8月30日)晋三の弟の岸信夫が岩手に来て、大先祖の奥州安倍氏の
墓参りをしていった。
安倍晋三の安倍家は、蝦夷の大酋長の家系だってことをわかってくれたか?


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板