【補足説明19】
元首;もともとは、国家を生命体になぞらえた19世紀ドイツの国家有機体説でつかわれた用語。統治権を総攬(そうらん)し行政権の首長であり対外的に国家を代表する君主を、国家の頭になぞらえて元首とよんだものである。
出典:"元首" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.
[2]ランケ Leopold von Ranke 1795-1886
ドイツの歴史家。史料批判、時代の個性認識をめざす客観的歴史叙述、ゼミナール方式による教育などを組み合わせて、ドイツ近代歴史学の創始者となった。自由主義に批判的で、プロイセン政府に近い保守主義の立場から、評論活動もおこない、1841年にはプロイセンの史学官となり、のちに貴族に叙せられた。ランケは、歴史を普遍的観念の発展形態と見る啓蒙思想やヘーゲルなどの歴史観を「ある時代を後続する時代への運搬者」とするものとして退け、「それぞれの時代は神に直接結びついている」と語って、時代や民族の個性を重視する古典的歴史主義を説いた。その際個性は、史料批判によって確証された記録にもとづいて、歴史家の主観を排した直観的把握によって理解されるものとされた。彼は、歴史をもっぱら政治史の次元でとらえ、もっとも有力な国家にその時代の本質をみて、「それがいかにあったか」を叙述することを歴史学の課題とした。
ランケ史学は、1887年、東京帝国大学史学科設立に外国人教師として招かれたリースによって日本に紹介され、史実確定に重きを置くその実証主義的方法は、大学を中心とする戦前の日本の正統派歴史学の基調となり、大きな影響を与えた。
出典:『岩波 哲学・思想事典』(岩波書店、1998年)1663頁。
[3]イェリネック Georg Jellinek 1851〜1911
近代ドイツの公法学を集大成したドイツの法学者。ユダヤの出自のために曲折はあったが、ハイデルベルク大学教授となった。そこで哲学者ウィンデルバント、社会学者ウェーバーらと交際し、新カント学派哲学の二元論や社会学的思考方法の影響をうけたといわれる。
彼の「両面説」は、事実と規範の区別を前提に国家学を国家社会学と国法学に二分し、国家を事実と規範の両面からとらえることを説く。また「事実の規範力説」をとなえ、法の効力を国民の確信という社会心理学的事実から説明して、一面的な従来の国法学を批判した。彼によると、法規範の面からみた国家の本性は、法的権利義務の主体つまり法人である(国家法人説)。国家は事実上の社会団体として法をつくりだし、みずからその法に服することにより、法人となる(国家の自己拘束説)。君主は国家という法人の機関以上でも以下でもない。
このような彼の議論は立憲君主制という当時のドイツの現実に合致するものであったが、美濃部達吉ら日本の学者にも大きな影響をあたえ、その天皇機関説へとつながった。さらに国民と国家の関係に関する「四区分説」はその後のドイツの人権理論の基本的枠組みとなった。主著は「一般国家学」(1900)。
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