したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

雑談スレッド

128カマヤン:2003/07/20(日) 03:40
解説[1]上杉慎吉 1878-1929
明治後期にヨーロッパに留学。帰国後、穂積八束の唱える天皇主権説に転向。海外で劣等感抱えて
右翼思想に回帰することはよくあることだ。
明治四十四年、文部省主催夏季講習会での憲法の美濃部の立憲主義天皇機関説憲法学講義に
君権主義天皇主権説憲法学で論難を挑み、敗北(天皇機関説論争)。
進歩派の学生の組織する「新人会」に対抗して、「七生社」を育成。ここから赤尾敏が育つ。
晩年は軍部と結び、右翼団体の有力な保護者となった。
学界では上杉の学説は重んじられなかった。学説をつぐものは出なかった。岸信介は上杉の愛弟子だった。

解説[2]美濃部達吉 1873-1948
学界や知識層の世界では、美濃部学説が広く支持を受け、また高等文官試験委員として、官界にも
影響力をもった。東大法学部長、貴族院勅選議員。天皇機関説の主張、議員内閣制の支持、
治安維持法、特に田中義一内閣の緊急勅令による改正の批判などによって、自由主義的憲法学の
代表者とみなされ、昭和五年、ロンドン海軍軍縮条約批准について、浜口雄幸首相より諮問を受けた際、
批准を支持した。
昭和十年二月、貴族院において上杉慎吉の政治的盟友菊池武夫(陸軍中将、男爵、貴族院議員)より
非難を受けた。美濃部は、議場で答弁の演説を行った。
それが一層「国体明徴運動」を激化させた。政府は二度にわたって「国体明徴声明」を発して天皇機関説を
明言で否定した。美濃部の著書『(逐条)憲法精義』(昭和二年)、『憲法撮要』(大正十二年)、
『日本憲法の基本主義』(昭和九年)は発売禁止処分を受け、美濃部は不敬罪の告訴を受けて貴族院議員、
高等文官試験委員を辞任した。翌十一年二月には暴漢の襲撃を受けて負傷。
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=1274&KEY=1052923324&START=25&END=26


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板