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悟り全般に関すること

521慧空:2015/01/12(月) 21:27:48
宗さん

>悟りとはその出来事に方向無く不可分に全てが溶け込んだ状態と

解脱の悟りのことをそのように捉えられたのでしたら、それは違うのです。
大悟や天界の悟り(小悟)なら、何らかの言葉や概念を使って理解したり、捉えることも可能なのですが、
解脱の悟りについては、そうはいかないのです。
敢えて表現すると、何も考えを掴まなくなることです。
何も考えを掴まなくなることですから、考えを使って表現することができないのです。

それに、「悟りとはその出来事に方向無く不可分に全てが溶け込んだ状態」という表現だと、
解脱の悟りを得なくとても、天界の悟りを得た方の中にも、これに近い心境になっておられる方はおられるだろうと思います。
ですから、状態で悟りの深さを判別することもなかなか困難なのです。

>お聞きしたいのですが何故、カルマが生じるのかまたそれに終わりが来るのかは
>あずかり知らぬもの・・・知る理由の無いものということでしょうか?
>何かが生じていることがカルマなのでしょうか?

念のため申し上げておきますと、カルマも考えであり、私という存在を理解するための方便に過ぎないということです。
「カルマ」という何か絶対的な実体がある訳ではないのです。
カルマという考えを使って私という存在を解釈すると、理解しやすい側面があるというだけのことなのです。

カルマに関する私の解釈(理解)はこうです。
私という存在は、断続的かつ連鎖的に起こってくる考え(意識)であり、
カルマとは、その私という存在(意識)を誘起させる種である。
また、少し違った角度からの解釈だとこうなります。
カルマとは、私という自我が握り締めた考え(執着)である。

私という存在は、既に形成されたカルマ(種)によって連鎖的に引き起こされて考えなのです。
そして、古いカルマを消費しながら、誘起された考えによって新たな執着(カルマ)をつくり出しているのです。
私という存在は、延々と続く自転車操業の繰り返しなのです。

おそらく、私という存在(意識)の最初は、私という意識とその種である最初のカルマが同時に生成されたのです。
その最初の意識(考え)やカルマがどんなものであったのか、正直なところ、私にもよく分からないのですが、
ひょっとしたら、「あっ!」という感じの軽い衝撃を伴った何らかの気づきのようなものだったんじゃないかと思っています。
どうしてなのか自分でもよく分からないのですが、何となく、そんな気がするんです。

しかしまあ、これだけは断言できます。
なぜ私という存在が生じたのかについては、誰であっても絶対に分からないことです。
それと、私という存在が終わった後どうなるかについても誰も分からないことです。
私が生じる前のことや、私が終わった後のことについて、誰かの話を聞くことは不可能ですから。

私になんとなく分かるのは、私という存在には、どうやら始まりと終わりがあるようだということくらいです。
それと、私という存在が終わったときは、一切の考えが起こってこない涅槃に入るのだろうなと何となく思うことくらいです。


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