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教会史
1
:
カトリックの名無しさん
:2015/09/02(水) 13:52:49
教会史について
2
:
カトリックの名無しさん
:2015/09/02(水) 13:53:00
ヨゼフ・ロルツ『教会史』ドン・ボスコ社
序文 第一節 教会史―その意義―その研究の理由
教会はこの地上にキリストの遺業を継続するためキリストによって建てられたもので、それは贖罪の御業を世の終りまでつづけるようにつくられ組織された救世主の神秘体である。キリストの神秘体としての教会、キリストの生命の存続としての教会は、神的なものであり、したがって人間の理解を超えている。しかしながら、信仰に照らされた精神は、教会の本質と活動のうちに深くはいりこんで、正確で科学的な教会の像を示し、その要求を明らかにし、科学的見地からその存立を正当づけることができる。
この目的を達成するのに教会史の知識は大きな助けとなる。なぜなら、教会は神的なものであるとはいえ、それが成長して世界中に広がって行くのをみると、教会には一つの真実の歴史があるということがはっきり分るからである。イエズスが神の御国をやがてそだてば大木になる小さな種子にたとえて語りたもうた侍、キリスト御自ら教会のこの生長を予言したもうたのである。教会はこの世に現に存在している、そしてその身体を構成しているものは変化し発展してゆく人間である。したがって教会史はあらゆる歴史学と関係をもち、批判の同じ法則に服する。しかし、それは本質的に純自然の科学とはちがったものであり、啓示から導き出された固有の原理にしたがう -
要するに教会史は神学なのである。
歴史は生成と発展の意味をふくんでいる。このような生成と発展の概念かなければ歴史の理解はあり得ない。このことは教会についてもい.える。教会の典礼や神学や規律の発展は、単純な形式から次第に豊富な細密な形代へと、また神の真理の直接的含意的な受容から次第に充実した明確な定義へと発展してゆく跡をたどることができる。しかし教会の場合は-..この区別が大切なのであるが一その発展は有機的なものであり、一方において人間の剛性の本性そのものに適合しているが、他方、神の啓示と教会自体の本性にもとづいている。教会の生長は生きているものの生長であり、機械的なものでも、定めなきものでもない。教会の発展はちょうど芥子種のようなもので、不断にまき散らされるがその本質はどこまでも変らない。そしてその上に、この生成発展は聖霊によって支配されている。だから教会は永遠不変に不可謬であり、あやまちを犯さず、しかも現実に常に生成発展して行く。この生命的な関連、永遠不変なものと変化しうつろうものとの『綜合』(第6節参照)が、まさに教会史の栄光なのである。
3
:
カトリックの名無しさん
:2015/09/03(木) 08:58:49
ヨゼフ・ロルツ『教会史』ドン・ボスコ社
2、「教会史研究の理由」
教会史はまた、教会の真の本質と性格を知らしめるのに適当な手段でもある。教会史は教会の現実の存在と活動をありありと描いてみせるので、教会史上におけるいろいろの事件の経過が、この真理のきわめて印象深い解説となるのである。たとえば、救世主が来たり給うたとき、使徒たちは何故主が苦しみを受けて死ななければならないかを理解することができなか。た。そしてその恐れられていたことが現実に起ったとき、使徒たちは主の大いなる目的は失われてしまったものと思コた。イエズス炉聖父の御許に昇天したもうたときも、この最初の改宗君たちは、問もなく主が全人類の最後の審判のためにふたたび来たり給うことを信じた。また教会がペンテコステ(過ぎ越しの祭りの後50日目)の日にはじめて設立された時、多くのひとびとは、教会は聖人たちだけで構成さるべきものであって、その成員の上には罪が勝ち誇ることは決してないのだと信じたのである、しかしこれらすべての場合、のちに起った諸々の事件の歴史は、予期に反して、イエズスの語り給い、なし給うたことがらの充分な意味がつかまれていなかったのだということを示した。即ち、諸々の事件の歴史が、すぐつづいて起った事実だけでも、正しくより深い意味を解き明かしたのである。
このような、また別の例においても、教会史はキリストの福音とキリストの教会のもっている本質と意味の中に含まれているいきいきとした教訓を教えるものである。このようにして教会史は、われわれが教会に関する正しい観念をつくれるように扶けてくれるものである。つまり教会史は、教会の正確な理念に欠くべからざる特徴をこわしてしまうような極端に心霊主義的な教会概念に陥らない上うに防いでくれるという点でその目的に寄与している。教会史は、いわゆる『理想の』教会と『現実の』教会というような誤った分離とはおよそちがって、教会は唯一つ、神が設立したまい歴史的に発展して行った唯一にして同じなるキリストの教会があるのみであると明示することによって、教会が一つの身体をもち、目に見えるものであるということをわれわれに教えている。そしてその上に教会史は、教会の神聖さについてわれわれ茄誤った見解をもたないように気をくばってくれる。この教会の神聖さというのは客観的なものであって(第二節参照)、教会の成員や指導者たちのもっている罪深さを排除しはしないし、またこのような人聞的な弱さによって教会の権威が多少なりとも失われるということもないものである。こうして教会史は、それなしには歴史の広くゆたかな意義をあらわすことのできない成る一つの概念、すなわち神の御計画に仕えるように配済されているものとしての罪の概念-『さいわいなる罪』(felix culpa)という概念-に特別の注意を向けるようにしてくれる。だから、あやまちや罪は無意味などころか、道に神の救済計画において深い意味を花つものである。事実、あやまちや罪は原罪以来きわめて広汎にわたる意味をもっている。そのような概念は歴史のうちに生ける神を見るということを前提として、『すべて時間をもつものは神のものである』(quae temporis,Dei sunt)というアウグスチヌスの考えに合致ずる。教会史は摂理のキリスト教的理念を真剣にとり扱う。あやまちはやはりあやまちだし、毒麦は毒麦、罪はどこまでも罪である。そして罪は神の命令に全く背き反対するものとしてひとしく非難さるべきものではあるが、神の救いの摂理はなおこの世を高く超えて、人の罪やあやまちをすらその尊き御旨を行うのに使いたもうのである。
4
:
カトリックの名無しさん
:2015/09/03(木) 09:21:52
ヨゼフ・ロルツ『教会史』ドン・ボスコ社
2、「教会史研究の理由」
教会史はまた、教会の真の本質と性格を知らしめるのに適当な手段でもある。教会史は教会の現実の存在と活動をありありと描いてみせるので、教会史上におけるいろいろの事件の経過が、この真理のきわめて印象深い解説となるのである。たとえば、救世主が来たり給うたとき、使徒たちは何故主が苦しみを受けて死ななければならないかを理解することができなか。た。そしてその恐れられていたことが現実に起ったとき、使徒たちは主の大いなる目的は失われてしまったものと思った。イエズスが聖父の御許に昇天したもうたときも、この最初の改宗君たちは、問もなく主が全人類の最後の審判のためにふたたび来たり給うことを信じた。また教会がペンテコステ(過ぎ越しの祭りの後50日目)の日にはじめて設立された時、多くのひとびとは、教会は聖人たちだけで構成さるべきものであって、その成員の上には罪が勝ち誇ることは決してないのだと信じたのである、しかしこれらすべての場合、のちに起った諸々の事件の歴史は、予期に反して、イエズスの語り給い、なし給うたことがらの充分な意味がつかまれていなかったのだということを示した。即ち、諸々の事件の歴史が、すぐつづいて起った事実だけでも、正しくより深い意味を解き明かしたのである。このような、また別の例においても、教会史はキリストの福音とキリストの教会のもっている本質と意味の中に含まれているいきいきとした教訓を教えるものである。
このようにして教会史は、われわれが教会に関する正しい観念をつくれるように扶けてくれるものである。つまり教会史は、教会の正確な理念に欠くべからざる特徴をこわしてしまうような極端に心霊主義的な教会概念に陥らない上うに防いでくれるという点でその目的に寄与している。教会史は、いわゆる『理想の』教会と『現実の』教会というような誤った分離とはおよそちがって、教会は唯一つ、神が設立したまい歴史的に発展して行った唯一にして同じなるキリストの教会があるのみであると明示することによって、教会が一つの身体をもち、目に見えるものであるということをわれわれに教えている。そしてその上に教会史は、教会の神聖さについてわれわれが誤った見解をもたないように気をくばってくれる。この教会の神聖さというのは客観的なものであって(第二節参照)、教会の成員や指導者たちのもっている罪深さを排除しはしないし、またこのような人聞的な弱さによって教会の権威が多少なりとも失われるということもないものである。こうして教会史は、それなしには歴史の広くゆたかな意義をあらわすことのできない成る一つの概念、すなわち神の御計画に仕えるように配済されているものとしての罪の概念-『さいわいなる罪』(felix culpa)という概念-に特別の注意を向けるようにしてくれる。だから、あやまちや罪は無意味などころか、道に神の救済計画において深い意味を持つものである。事実、あやまちや罪は原罪以来きわめて広汎にわたる意味をもっている。そのような概念は歴史のうちに生ける神を見るということを前提として、『すべて時間をもつものは神のものである』(quae temporis,Dei sunt)というアウグスチヌスの考えに合致する。教会史は摂理のキリスト教的理念を真剣にとり扱う。あやまちはやはりあやまちだし、毒麦は毒麦、罪はどこまでも罪である。そして罪は神の命令に全く背き反対するものとしてひとしく非難さるべきものではあるが、神の救いの摂理はなおこの世を高く超えて、人の罪やあやまちをすらその尊き御旨を行うのに使いたもうのである。
5
:
カトリックの名無しさん
:2015/09/04(金) 02:26:35
ヨゼフ・ロルツ『教会史』ドン・ボスコ社
3、「教会史研究の理由」(2)
さらにまた教会史は、世界中の知力優れた人々を多く惹きつけ、その人たちの深い熱望に応えてきたカトリック信仰のもつ崇高な性格と、その無尽蔵の富に関する知識を蔵している真の鉱山である。最高の智者、古今東西を通じてあらゆる人物が教会で親しんできた。教会の歴史は、あらゆる分野の高い生活において披ら茄比類のない成果をあげるのに、信仰によってどれほどはげまされてきたかを示している。
カトリック教徒は、教会の一員として、自分が属しているあの超自然的な家族の偉活のことを当然知ろうとする必要を感じなくてはならない ― それは教養ある人々には当然の義赫のように思えるのだが。近代人としても彼は同じ必要を痛司に感じるであろう。なぜなら近代文化の中で最も優れたものは、それがたとえどれほど教会に敵意をもつものであろうと、キリスト教に基くものであり、その多くは教会の直接の所産だからである。教会史はヨーロッパ精神・西洋精神に特別の関心を有する権利をもっている。なぜなら、現代の東洋文明も西洋文明もその根を中世にもっているからである。中世というのは、教会の指導の下に、西洋の諸部族・諸民族が発展した時代だった。つまりヨーロッパ人と、ヨーロッパ人が植民した国々が、教会の活動の主目的であり、それが教会史において主役を演じてきたのである。
そして近代に入っても、これと同じ国々、同じ人々か、教会の進歩と歴史的発展に重要な役割を演じている。この役割は次の二つの理由からこんにち極めて重大な意義をもっている。第一に、今や、教会が過去の政法的領土的支配権を失ったということを解決するための未来の決定的な問題が、これほど恨借なく追ってきているところは何処にもない(第109、116節参照)。このような状態の由って来たるところを教えその重大性を理解させるのは・教会史の研究を措いて他にない。このような事態を収拾し、それを教会と国民の双方に有利に転回させるには、精神の内面的自由と錯綜した諸結果の大局的な把握が必要である。このような理解は、教会の運命の栄枯盛衰を研究し、その地位のうつろい滅ぶべきものと、侵すべからざる永遠のものとを比かく研究することによってのみ可能である。第二の理由は、教会がこれら諸国民の興隆にどれほど多くのカを与え、かれらの善への能力をみんな目覚めさせ発展させるのにどれほど役立ったかを教会史が示しているということである。
6
:
カトリックの名無しさん
:2015/09/04(金) 02:37:57
ヨゼフ・ロルツ『教会史』ドン・ボスコ社
3、「教会史研究の理由」(2)
さらにまた教会史は、世界中の知力優れた人々を多く惹きつけ、その人たちの深い熱望に応えてきたカトリック信仰のもつ崇高な性格と、その無尽蔵の富に関する知識を蔵している真の鉱山である。最高の智者、古今東西を通じてあらゆる人物が教会で親しんできた。教会の歴史は、あらゆる分野の高い生活において彼らが比類のない成果をあげるのに、信仰によってどれほどはげまされてきたかを示している。
カトリック教徒は、教会の一員として、自分が属しているあの超自然的な家族の生活のことを当然知ろうとする必要を感じなくてはならない
― それは教養ある人々には当然の義務のように思えるのだが。近代人としても彼は同じ必要を痛切に感じるであろう。なぜなら近代文化の中で最も優れたものは、それがたとえどれほど教会に敵意をもつものであろうと、キリスト教に基くものであり、その多くは教会の直接の所産だからである。教会史はヨーロッパ精神・西洋精神に特別の関心を有する権利をもっている。なぜなら、現代の東洋文明も西洋文明もその根を中世にもっているからである。中世というのは、教会の指導の下に、西洋の諸部族・諸民族が発展した時代だった。つまりヨーロッパ人と、ヨーロッパ人が植民した国々が、教会の活動の主目的であり、それが教会史において主役を演じてきたのである。
そして近代に入っても、これと同じ国々、同じ人々か、教会の進歩と歴史的発展に重要な役割を演じている。この役割は次の二つの理由からこんにち極めて重大な意義をもっている。第一に、今や、教会が過去の政治的領土的支配権を失ったということを解決するための未来の決定的な問題が、これほど仮借なく追ってきているところは何処にもない(第109、116節参照)。このような状態の由って来たるところを教えその重大性を理解させるのは・教会史の研究を措いて他にない。このような事態を収拾し、それを教会と国民の双方に有利に転回させるには、精神の内面的自由と錯綜した諸結果の大局的な把握が必要である。このような理解は、教会の運命の栄枯盛衰を研究し、その地位のうつろい滅ぶべきものと、侵すべからざる永遠のものとを比かく研究することによってのみ可能である。第二の理由は、教会がこれら諸国民の興隆にどれほど多くのカを与え、かれらの善への能力をみんな目覚めさせ発展させるのにどれほど役立ったかを教会史が示しているということである。
7
:
カトリックの名無しさん
:2015/09/04(金) 04:02:39
ヨゼフ・ロルツ『教会史』ドン・ボスコ社
3、「教会史研究の理由」(2)
さらにまた教会史は、世界中の知力優れた人々を多く惹きつけ、その人たちの深い熱望に応えてきたカトリック信仰のもつ崇高な性格と、その無尽蔵の富に関する知識を蔵している真の鉱山である。最高の智者、古今東西を通じてあらゆる人物が教会で親しんできた。教会の歴史は、あらゆる分野の高い生活において彼らが比類のない成果をあげるのに、信仰によってどれほどはげまされてきたかを示している。
カトリック教徒は、教会の一員として、自分が属しているあの超自然的な家族の生活のことを当然知ろうとする必要を感じなくてはならない
― それは教養ある人々には当然の義務のように思えるのだが。近代人としても彼は同じ必要を痛切に感じるであろう。なぜなら近代文化の中で最も優れたものは、それがたとえどれほど教会に敵意をもつものであろうと、キリスト教に基くものであり、その多くは教会の直接の所産だからである。教会史はヨーロッパ精神・西洋精神に特別の関心を有する権利をもっている。なぜなら、現代の東洋文明も西洋文明もその根を中世にもっているからである。中世というのは、教会の指導の下に、西洋の諸部族・諸民族が発展した時代だった。つまりヨーロッパ人と、ヨーロッパ人が植民した国々が、教会の活動の主目的であり、それが教会史において主役を演じてきたのである。
そして近代に入っても、これと同じ国々、同じ人々か、教会の進歩と歴史的発展に重要な役割を演じている。この役割は次の二つの理由からこんにち極めて重大な意義をもっている。第一に、今や、教会が過去の政治的領土的支配権を失ったということを解決するための未来の決定的な問題が、これほど仮借なく追ってきているところは何処にもない(第109、116節参照)。このような状態の由って来たるところを教えその重大性を理解させるのは、教会史の研究を置いて他にない。このような事態を収拾し、それを教会と国民の双方に有利に転回させるには、精神の内面的自由と錯綜した諸結果の大局的な把握が必要である。このような理解は、教会の運命の栄枯盛衰を研究し、その地位のうつろい滅ぶべきものと、侵すべからざる永遠のものとを比かく研究することによってのみ可能である。第二の理由は、教会がこれら諸国民の興隆にどれほど多くのカを与え、かれらの善への能力をみんな目覚めさせ発展させるのにどれほど役立ったかを教会史が示しているということである。
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