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俺が統合失調症を発症した時の話するの続き

764イワシのパテまずい:2015/09/04(金) 04:06:12 ID:AMaSEIP20
こんばんは。はじめまして。たこ助さんに聞いていただきたいお話があるので、本当に勝手ながら書かせて頂こうとおもいます。個人的には純粋な哲学として考えているのですが、もしかするとスピリチュアルだったりエキセントリックだったりする話かもしれないので、そう感じられたら……すみません。
もし読んで頂けるのであれば、これより下の文はすべて「わたしの考えでは」という前置きがあるものとして読んで頂けるとありがたいです。

この世界は四つの性質からなっています。
「可能性(無、混沌、無限)」と「法則(秩序、構造、全体)」と「経験(信念、認識、関係)」「生命(有、現実、現象、自我、個体)」です。これらは、それぞれがお互いそのものであり、一つ欠ければすべてが欠けるというものです。

「可能性」は、発現はしていないが存在はしているものです。あらゆる事象は、「可能性」としては存在していますが、「可能性」それ単体では完全に「無い」のであり、少しでも「有る」ためには、ほかの三つの性質を必要とします。

「法則」は、ある「生命(自我)」が死ぬとなるものです。「生命(自我)」は死んだあと、その世界と一体化し、そのままその世界のあらゆる出来事を自分として経験します。たとえば、人体のひとつひとつの細胞を「生命」とみるとき、これが死ぬと人体という「法則」となります。人体をひとつの「生命」とみると、そこには「生命(自我)」があります。細胞の「生命」が死んで人体の「生命(自我)」となることから類推すれば、われわれ人間が見ている世界というのは、実はそれぞれの人間が死んだ時の姿だということになります。「法則」は、死ぬ以前の「生命」にとっては、ある種の物理法則のような、世界の秩序のようなものに見えます。

「経験」は、「生命」どうしのつながりのことです。ある「生命(自我)」の目の前に、ある事象Xが起こる状態Aと起こらない状態Bとは、すでに別々の「可能性(無)」としては存在していて、Aを「経験」するのかBを「経験」するのかは、その「生命」の「経験(信念、認識)」 によって左右され、Aを「経験」するならば、Aこそがその「生命(自我)」にとっての「生命(有、現実、現象)」であり、Bは「可能性(無)」のままであり、事象Xはその「生命(自我)」の目の前で起こります。Bを「経験」するならば、その逆です。「自我」や「現実」が同じ「生命」という性質であることを考えると、われわれが見ている「現実」は、本来は自分そのものなのですが、その一部分としてそれぞれ「有る」にすぎないことがわかります。

「生命」は、動植物だけでなく、鉱物、気体、天候、音、会議、時間、空間といったあらゆる事象を含み得るものです。「可能性」とほとんど似ていますが、たった一つの違いは、それを「経験」するものがあるかどうかです。「経験」されたとき「可能性(無)」は「生命(有)」として発現します。いま挙げた事象のそれぞれには、それ特有の形で「生命(自我)」があります。「法則(全体)」の一部が「生命(個体)」なのでありますが、「法則」それ自体もまたひとつの「生命」であり、それが死ねばさらに大きな「法則」となり……より大きな「法則」をどんどん辿っていくと、究極的には「可能性(無)」へと辿りつきます。これは、この世界が「可能性(無)」の一部であることを示しています。

以上です。
なぜこんなお話をしたくなったかといいますと、たこ助さんのレスを読んでいて、わたしのこの考えとすごく似ているところがあるなと感じたからです。特に「成りて成る」「有りて有る」「成る」「有る」のあたりは、同じものを別の言葉で言っているだけなのではないかとさえおもえてしまいます。違ったらものすごく恥ずかしいですが……。

もしよろしければ、この考えの四つの概念について、たこ助さんはどう思ったのかを伺いたいです。もし、たこ助さんが今までにスレでもちいられた用語のなかで、近いものがありましたら、それも教えていただけると本当にありがたいです。

長文失礼いたしました。


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