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俺が統合失調症を発症した時の話するの続き
659
:
たこ助
◆6KctQgwHqc
:2015/07/11(土) 19:03:36 ID:UiBli1GU0
>>658
おそらく、
>>654-656
が言いたかったことは、
統合失調症になったから、悟りに達したかのような表現は、
先人に失礼であり、そうした考え方に基づいたスピリチュアルに対する警鐘なのだと思います。
例えば仏陀が統合失調症だったかも知れないと考えることは、
2つの解釈を生み出します。
1つは、統合失調症を肯定することです。
1つは、先人が切り拓いた教えを病的なものから派生したという認識です。
これらの解釈は、あたかも有頂天に達するために、
精神病という道具が優位に作用するかのように見えてしまいます。
そうした解釈は、
>>656
の言葉を引用すると、
>ヒトが総合失調症にかからないように祈るべきではないのか?
と言う「手段の取り違えに対する警告」を生みます。
けれども、「正しい修行」とは往々にして仏教の言葉である「外道」を
否定するかのような振る舞いとなってしまうことは確かです。
しかし、俺の個人的な思考では「自分が考えるものが本物だ」と主張することは重要ではないのかも知れません。
自分が知っているものは、それ自体が本当であるからです。
もし、自分が苦しみを知っていれば、苦しんでいる人に対して、同じ苦しみを抱えた姿となって、
自分を表すことが出来るものです。
「精神病」と「悟り」を直接的に結びつけることは、
この病気と悟りを「知っている」と思い込み、軽んじているように見えてしまうのです。
精神病は「環境」であり、その結果として出会った出来事は「体験」であるのに対し、
悟りとは「気づき」言い換えれば「ひらめき」です。
このような、様々な考え方が浮き沈みし、多くの人々と共有している状態を、
俺は過去に「多様性の海」と呼びました。
この多様性の海の中では、事実に対して自分の不整合を正すために、
本来想定すべきではない変数を与えてしまうことがあります。
精神病を罹患した結果として「悟り」を得たとする主張も、
あるいは修行によって「悟り」を得たとする主張も、
それぞれ本質や環境は異なりますが、そもそも「悟り」は重要なものではないのです。
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