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連投規制で書けなくなった人あつまれー ★7
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前スレ
ttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12252/1399568484/
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ちなみにわたしがそう言ったのは、自然主義というのは、対象をあるがままに見ようとする態度で、それは一つの科学的見方と共通するわけだが
それを突き詰めたら現象学とかになって間接体験すなわち客観性とか排除されたりして「科学の対象は主観的なものでなければならない」という転換があったりするんだが
話がそれた
ともあれ、小説の場合だと「あるがままを見ようとする」のは、「自分の幻想のあるがままを見ようとする」ことになるわけで
そういう意味では自然主義というか現象学的態度というかなあ
文体とかじゃなくて、筆者の態度として妄想してしまうものとして
そんな風に言っておこう
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ttp://www.fujimashion.com/academia/mishimatamago2.htm
こことかかねえ。「規律正しく萬年床を守つてゐた」にある反語性というか。反語を拒否するのが自然主義ではないかと俺は思ってる。
この「卵」自体が反語を積み重ねていく短篇なのではあるが。
寧ろそう言う意味では仮面の告白つまり長編の方が自然主義的だなあと思うもんだ。
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反語というと「ありのままを描くことを拒否する」という含みもあるだろう。
もっとひねくれたように云うなら、「ありのままを描くことを拒否することでありのままを描く」か。
三島のこの短篇では「この座敷は死んだ主人が、象皮病にかかつたので、だんだん大きくなる體にふつうの部屋が合はなくなるのを心配して、建増ししたのだ」とか、
反語的な比喩がそのまま事実になってる。うーむ、こう考えると難しいな。
普通の文学読み(つまりは俺)だとこの一節は自然主義的なものとはかけ離れているというだろう。
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ttp://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN00065309/kbs_41_41.pdf
pdfだが、ここで紹介されてる「仮面の告白」の「裸の女」エピソード、俺のお気に入りの一場面なんだが、読んだときはいかにも虚構っぽいエピソードだなと思ったが、
この論文を読めば分かると通り、日記が元になってるから「ありのまま」事実なんだよな。
「ありのままを描いていないようでありのままを描いてる」一例だ。
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すまん
>「この座敷は死んだ主人が、象皮病にかかつたので、だんだん大きくなる體にふつうの部屋が合はなくなるのを心配して、建増ししたのだ」
これが「反語的な比喩」であることを説明してみてくれ
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反語はある意味妄想を排除するものだったりするんだな
そういう意味では「誇大表現を拒否するのが自然主義」とかは思う
まあわたしが自然主義っぽいとか言ったのはそういう意味ではないが
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現象学なんかは反語的なんだよな
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それこそハイデガーは「存在」を「抹消された存在」の意味で述べてたりする
普通の意味の「存在」は「存在事象」となる
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象皮病で躰がだんだん大きくなるといっても、座敷を建て増しする程ではないだろう。
普通に見れば誇張法(隠喩)だ。隠喩を現実として語ってる的な。
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あーそういうことか
隠喩として読んでなかった
そもそも小説って主観による幻想だからなー
精神分析って夢とか幻想を聞くものだから「この人はそういう幻想あるいは主観を述べているのだろう」という頭になる
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それは全ての小説が幻想文学だ、論的な感じになるぞ。正確には全ての日本文学は幻想文学であるだったと思うが、橋本治はそれに立脚して、その作家の普通は幻想文学とは分類されないような小説を幻想文学だとしてアンソロジーを組んだ。
そういえば二階堂奥歯は幻想文学界隈の人だった。
ミニハン的には幻想文学はどうよ。
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つか小説自体が幻想なんだから幻想小説って重言だよな
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「走るマラソン」的な
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まあわたしの思考があさってだったってことだな
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なんか、三時間たったのに、連投規制フルで弾かれるぞ?
何かの不具合かな?
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三時間ぐらいじゃ解消されないと思うよ
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融合というかローマ帝国はある意味古代ギリシャ哲学を基本に文明化させたものであるゆえ
古代ギリシャ哲学とキリスト教の関係は、ローマ帝国とキリスト教の関係でもあるゆえ、
その歴史がもっとも「実際的な」「古代ギリシャ哲学とキリスト教との関係」と言えよう
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↑雑談スレへのレスでした
れんとーきせー
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まああくまで本というならば、アウグスティヌスかな
生きた時代がそのままローマ帝国におけるキリスト教国教化の時代だし
カント−ヘーゲル系列の源泉を考えるならアウグスティヌスって気がするあくまで大雑把なくくりだが
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れんとーきせー雑談スレへ
>>733
何言ってるのかよくわからんが、プラトンはキリスト教が出来る前の人だから
「キリスト教との融合」なんてありえるわけねえじゃん
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記憶へ
まあ一応知ってるかもしれんが
ソクラテスプラトンアリストテレスはキリスト教が生まれる前の時代の人
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雑談スレのつづき
キリスト教でキリストが人間の原罪を背負って死んでいった、というのと同じ発想でダライ・ラマという存在があるんじゃないだろうか、と
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ああ、見てなかった。
>>918
いや、ショーペンハウアーが「西洋哲学はすべてプラトンへの註釈である」といったらしいから、
その具体的内容をしりたかったんだよ。
今のところ、まったくわからない。
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>721 名前:記憶喪失した男[] 投稿日:2014/08/16(土) 17:38:54.87
>最近、プラトンを読んだんで、ギリシャ哲学とキリスト教の融合の話が気になるわ。
>
>どんな感じなの?
>
>なんか、代表的な本とかある?
このレスを
>いや、ショーペンハウアーが「西洋哲学はすべてプラトンへの註釈である」といったらしいから、
>その具体的内容をしりたかったんだよ。
という意味で読むことはできなかった
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記憶は他人に質問するときはもう少し「自分は何を聞きたいのか」ちゃんと考えから質問するとよい
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「シニフィアンの恣意性」について話しているとき、現象学の人から「ハイデガーはシニフィエがシニフィアンを規定するというようなことを言っていた」と指摘されたことがある
これについて当時のわたしは答えられなかったんだが
小笠原理論でも、シニフィエの座にあるφbarreがシニフィアンの座の仮象に穴をうがつとしているんだな
これは、ラカンにおいては、ソシュールの「シニフィアンの恣意性」は、シニフィアンの場における穴によって、実存的なシニフィエと結びつく、と理解されなければならない、ということか
「シニフィアンの恣意性」は、言葉がイメージを規定するということであって、それは間違いではない
しかしここで実存という場を仮説したら、言葉とイメージは同じ仮象となる。その仮象の中で「言葉はイメージを規定する」ということがあるわけだが、
実存は言葉+イメージである仮象に穴をうがつことによって、実存と仮象を結びつけている、あるいは実存から仮象を分離させている、となる
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雑談スレの流れだが
イスラム国の人 「日本人スパイを処刑した」
よくわからん人 「お前たちは神に処刑されるだろう」
イスラム国の人 「お前たちの神にか? 我々の神にか? くそったれ」
よくわからん人 「もちろんお前たちの神にだ」
イスラム国の人 「神に感謝するわ くそったれ」
という流れに興味持った
こことかこのイスラム国の人に「父に打たれる」幻想の第二幻想「私は父に打たれる、ゆえに私は父に愛されている」がある気がする
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あと記憶や
881 名前:記憶喪失した男[] 投稿日:2014/08/18(月) 17:28:24.36
おれの読書感想文におすすめな短くて面白い二十冊が、YAHOO知恵袋でナイスされる。
やっぱ、参考になってるだ。
生きていてよかった。
これ記憶の承認欲求が満たされたってことじゃないかね
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雑談スレのつづき
ちなみに
言語とイメージの繋がりが「意味」である(ボロメオの輪ではそうなっている)
であれば、「語りえないもの」「想像しえないもの」を語ってよい場が精神分析」であるならば、「意味でとらえきれないものを語るのが精神分析」となる
ある分析家は、こういった精神分析の場が、学問(という症状)の原初的な動機(病理)だと規定している
よって
880 名前:吾輩は名無しである[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 17:23:20.77
>>867
その「無意味な詮索」こそが学問である
となるわけだ
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マグナよゆうあったら↑コピペしといて
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雑スレ
>>940
ミスティシズムなんかじゃないよ
精神疾患者のイミフな言動がそういうものであるだけ
そういった意味では最初から「いかがわしいもの」として「「語りえないもの」「想像しえないもの」を語ってよい場である精神分析」はある
これもこぴぺよろ
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まあ最初から「いかがわしいもの」としてあるのだから「いかがわしさを恐れない」というのはあるなw
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自分ではった
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誤解が生じそうなので書きなおしておく
ある分析家は、こういった精神分析の場における「意味でとらえきれないものを語ろうとする心理」が、学問(という症状)の原初的な動機(病理)だと規定している
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>>926
そうだねえ。ぼくは承認欲求が満たされてとても満足だよ。
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承認欲求を満たされたくて人は見栄を張るわけだから
見栄を張るのと同じ心理だとなるよな
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あと>>830と書いているが、記憶の「役に立つ」ことは記憶の承認欲求を満たすことということでよいかね
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>>934
見栄にこだわるね。別にミニハンがブランドもの買っててもおかしいとか思わないよ。
>>935
よくないよ。
昨日も、ロゴスはことばというギリシャ語で、
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたものでこの方によらずに造られたものはひとつもない」
という聖書のヨハネの福音のことばは、イエスを示すということを宗教板で議論してきたけど、
なんでも、「キリスト ロゴス」でググると少しわかるってことで落ち着いたけど、
認識とか、ことばだけで、世界ができているわけないでしょ。
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>>926
>別にミニハンがブランドもの買っててもおかしいとか思わないよ。
なんでそんな話になるんだろう
承認欲求があるから見栄を張る
記憶は自分に承認欲求がある
ではなぜ見栄を認めないのか、という話なんだが
勝手に妄想で話を進めてないでくれるか
ロゴスうんぬんはまったく会話になっていないのでスルーしますね
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「役に立つ」とはそういう認識なので、認識の世界の話だろ、って話なんだがなあ
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役に立つことが認識の世界の話だとは思わないよ。
実際に、物理的に役に立つことだろう?
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とまってるな。
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>>939
認識の外の世界の話なら「役に立つ」とは認識できないだろう
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ちなみに物理学だって認識の世界の話だぞ
観測問題なんてのはそういう話だ
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でも、ぼくは背景となる物自体の存在を信じているよ。
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「信じる」も認識だからなあ
記憶の思う物自体は物自体じゃないと思うよ
それは物自体ではなく記憶の想像の産物でしかない
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雑談スレのつづき
なんつかこう、「構造主義」つってもいろいろあるからなー
ソシュールやレヴィがどういう仕事をしたのかを知らずにイメージだけで「構造主義」という言葉を使ってる人がいるので困る
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歴史的背景をエポケーする、というのが構造主義と考えてもらってよいよ
なので歴史学を構造主義するのが矛盾なんじゃねえのかなあ
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あっちで構造主義語っている人たちのそれはイメージだけのそれなので無視していいかと
ジャネとかはちゃんとわかってそうだけど
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歴史を物語として見ることが構造主義なわけじゃないんだよ
物語だって時系列つまり通時的要素が大事だったりするだろ、起承転結とか
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あれだ、もともと学術用語だった「コンプレックス」が一般語化して元々の意味とは違った意味になってるのと同じ
学術的な単語としての「構造主義」と一般語としての印象論的な単語の「構造主義」があると思うのだ
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れんとーきせー
雑談スレこぴぺよろ
>>585
まあ実際にソシュール言語学を学んでいたロマン・ヤコブソンの研究もぱっと見ソシュール言語学と関係ないしなw
たとえば構造分析のキモは二項対立化だったりするんだが、これこそがソシュール言語学の「差異のみによって分析する」というやり方を踏襲していると言える
構造主義ってえのは、ソシュールからレヴィが受け継いだ分析手法のことで、分析手法に目を向けなければ、そもそも研究対象が言語と文化で違うのだから
全然別の研究だとは言えるんだな
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余談だがアルチュセールとかはラカンと懇意だったりしたんだよな
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じぶんではった
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うをむかつく
はっといて
>>591
ちょっと何言ってるのかわかんないです
人間主体と論理で描く矛盾は関係している
なぜなら論理は人間主体が作るのだから
人間主体と論理だけではなく方程式も公文式も関係している
なぜなら論理も方程式も公文式も人間主体が作るのだから
おk?
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あ、むかつくってのはれんとーきせーね
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どうでもいいが星矢ブラゲをやってるのだが
オリジナル(アニメ版?)ストーリーを忠実に再現していたりして
おそらくアニメで実際に言ったセリフをゲーム内でキャラが言ったりするのだが
それでな
こう、ミスティってシルバー聖闘士がいて、「私は美しい」とか言うキャラなんだが
それに対して星矢が
「一つ教えてやろう、男のからだに傷一つないのは自慢にならん!」
ってセリフを言うのだね
これって去勢っつうかΦ(Φは去勢じゃないという小笠原理論で揺れているので)なんじゃねえかなあ、とか思ったり
Φってのはシニフィエは−φであって「切断されたペニス」であり「傷跡」なんだよなあ、と
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じぶんではった
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れんとーきせー解除長くなってね
超越論って単語が問題なんだよな
超越論って形而上学と同じ意味だよな
構造の外にあるものが、「超越した何か」「形而上の何か」か、精神分析が扱っている精神疾患などと言った形而下のものか、という違いがあると
ここで勝手に補注しておきたい
ラカンの「構造からこぼれ落ちたもの」は「超越的な何か」「形而上の何か」ではないんだよな
それは症状として表れるもので、つまり形而下学からのアプローチであるのが精神分析
>>612
>ようするに、シンボル形式の類いを成り立たしめるのが「価値」という考え方が非常に嫌なんじゃないか、
>と思うものだ。
>ニーチェに関しても、「存在を価値とすることで、ニーチェは形而上学に逆行した」
これ重要だなあ
このニーチェの「存在を価値とすること」というのは「仮象であることをわかって仮象を生きること」「力への意志」
という意味だと解釈していいのだろうか
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連続投稿規制の期間があまりにも長いのでしばらく引退。
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雑談スレの続き
記憶の言う「物自体」も自我理想的な何かだと思うのよな
自我理想とは誤解をおそれずあくまで平たく言えば(なので正確ではないが)、自分が憧れている他人なんかそうなんだな
人ってのは自分が憧れている誰かに「役に立ちたい」と思うものだろう
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>>959
いや、物自体を特別視してはいない。存在の根幹が存在すると信じているだけだ。
もし、存在しないなら、唯心論や独我論が正しいことになるが、それは支持しない。
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>>960
物自体とは存在するのでもないし存在しないのでもない
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わたしは、記憶の「物自体は存在する」とする立場も支持しないし、「物自体は存在しない」という立場も支持しない
○○でもないし、○○じゃないのでもない、という考え方は仏教の「八不」という概念で言われてることなんだな
なのでわたしは「存在するのでもないし存在しないのでもない」という意味で「不存在」という単語を用いたりする
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>>961
それは仏教だ。カント哲学ではない。
カント支持者は、存在の根幹として物自体が存在すると信じている。
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>>963
わたしはカント支持者だがそう考えておるよ
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記憶というカント支持者の一人が「存在の根幹として物自体が存在する」と信じているわけだな
それはそれでいいよ
わたしというカント支持者はそうじゃないってだけ
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>>964
流派がちがうな。記憶派ではない。
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うむ、>>965ということでよいよw
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記憶という個人と、わたしという個人の、「物自体」の解釈が違うだけだ
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>>967
物自体が存在しないというのがカント哲学になるのかな?
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つかカントの物自体といのはある種の独我論なんだがな
「物自体は認識できない」とはそういうことだ
人は自分が認識できるものしか認識できない、というのが独我論
物自体という概念が独我論と相反するという考え方が物自体を理解できてないと思うよ
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>>969
君は何を言っているんだ
わたし個人は、「物自体」という概念について、「存在するものでもないし存在しないものでもない」と解釈している
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>>970
いや、それはおかしい。
ちなみに、例として阿頼耶識をあげるが、
認識できない世界の存在も独我論では阿頼耶識という感覚によって認識し存在することになる。
それなら、仏教だが、
おれの読んだ純粋理性批判には、そのようには書いてなかった。中山元訳だ。
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>>972
阿頼耶識って仏教の概念だろう
何言ってるんだ君は
仏教において認識できない世界は存在するものでもないし存在しないものでもないわけだから、
「存在しないのではない」という部分の話なんじゃね
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わたしの読んだ純粋理性批判には「独我論は支持しない」とは書いてなかったと思うが
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まず記憶は自分の頭を整理してくれ
仏教の話
独我論の話
物自体の話
わたしはこれらの話は同じ話だと考えてるんだな
空即是色であり、一切は空であるというのが独我論で、「認識できない物自体」とは空の外部を意味しており、涅槃みたいな意味だと
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カント「純粋理性批判」1巻92ページには、
053 物自体は認識できない
(前略)人間の感性が思い描く像に真の意味で対応するのは物自体であるが、
これは空間という形式によってはまったく認識されず、認識されえないものである。
とあり、感性が思い描く像に真の意味で対応するものだとしている。
これは独我論を意味しない。
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別に記憶の考え方とカントの考え方が異なってもいいものであろうに(なぜなら記憶とカントは別人だから)、
なぜ記憶は自分の考え方をカントの考え方だと主張したがるのかね
これが記憶がカントを自我理想にしているってことだと思うんだよね
よって、記憶の自我理想としてのカントの言う「物自体」は本来の意味とは異なっていると
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>>976
その「感性」が何かによるな
認識されはしないが、人間は物自体と死の欲動によって関係しあっているとはわたしは思う
記憶の「感性」は物自体と対応してないと思うよ
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「想像したこと」も「認識」に含むか含まないかという話になるのか
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ん? おれはカント支持者といっているが、カントがとはいっていない。
それと、おれの自我理想だというのはミニハンの妄想である。
それぞれの思う物自体観があっていいといっておきながら、結局、おれの物自体の意味が本来と異なっているとするのは、
いかがなものか?
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記憶の「感性」は、カントという自我理想としての認識と対応しているのであって、その一部として「物自体」を理解しているゆえ、
それは物自体ではない
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>>980
>カントがとはいっていない。
言ってるじゃんwww
>>976とかは「カントがそう言ってる」ってことだろ
お前何言ってるんだよ
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>>980
>それぞれの思う物自体観があっていいといっておきながら、結局、おれの物自体の意味が本来と異なっているとするのは、
>いかがなものか?
なんで?
「物自体の意味が本来と異なっている」「記憶の思う物自体観」があっていいと思うよ
それは記憶の自我理想の産物としてあるとわたしは解釈(妄想でよいが)しているわけで
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>>981
カントがどんな人物か知らないし、おれの知るカントは純粋理性批判の著者であるカントであるから、
なぜ、自我理想と決めつけるのか?
おれの自我理想は世界の支配者だと思うのだけど。
カントの一部としてではなく、純粋理性批判の一部として理解しているであるな。
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>>983
ミニハンの想像する記憶の物自体観は、物自体と記憶の感性に対応していない。
ただし、ミニハンの想像する記憶の物自体観は、ミニハンの感性と物自体と対応している。
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>おれの知るカント
自我理想とは「おれがこう認識している他人」であるよwww
だから自我理想とは認識の中の世界であり、形而内の話だと言っている
>おれの自我理想は世界の支配者だと思うのだけど
別にそれでもいいよw
自我理想は特定の誰かである必要はないからな
その人のそういう認識の仕方すなわち精神のあり方だから
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>>985
「誰かの感性」という話ではないよ
死の欲動は誰にでもある
死の欲動による感性は誰にでもありうる
しかし、人は死の欲動ではない感性がある
記憶の自我理想という感性によって理解されている物自体はカントの言うそれは異なるとわたしは考えている
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物自体とは何かについて検証し意見をすり合わせるのであるならよいが、
ミニハンの妄想する記憶の物自体についての話に付き合うというのは、
ちょっと気分を切り替える必要があるので、そういうつもりならそういってくれ。
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で、わたしが考えるように、記憶が自分の考える「物自体」がカントの考える「物自体」と異なっているのを認められないのだろ
それがカントを自我理想としているあるいはカントと鏡像関係にある(カントと同一化している)ということだと思うんだよなー
鏡像関係の一つのあり方が自我理想ね
自我理想以外の鏡像関係のあり方もある
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物自体の話ではなく、自我理想の話に変えていいかな?
自我理想とは誰の提唱したどういう概念なのかいってくれ。
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>ミニハンの妄想する記憶の物自体についての話に付き合うというのは、
わたしの気持ち理解できたか
わたしはいつも「記憶が妄想するミニハンの話に付き合わされて」いる
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>>990
元はフロイト
ただしフロイトは自我理想と理想自我という二つの単語を曖昧に使っているんだな
これを厳密に区別したのがラカン
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おれはカントより残忍な思想をもっていると思うし、
カントより慈愛に満ちた政策提言をしていると思う。
カントは最も自分の思想と近い哲学者ではあるが、おれの理想ではない。
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>物自体とは何かについて検証し
そもそも認識できないのだから検証もできないだろ
>意見をすり合わせるのであるならよいが、
なぜ「意見をすり合わせる」必要があるのだ?
認識できないものならそも意見がすり合うもすり合わないもないだろう
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>>993
>カントは最も自分の思想と近い哲学者ではあるが
それが記憶の精神において「自分とカントが鏡像関係にある」ということだよ
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>>994
0は存在しないし認識できないが、意見をすり合わせ検証することはできる。
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ああそうそう、物自体は0ではないよw
「無」や「0」とはそういう概念(つまり認識のうちの一つのあり方)でしかない
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>>997
次スレ立てれる?
ヒッグス粒子が宇宙にひしめき合っているらしいが、
無が存在し、0が存在すると信じる人たちがいる。実際に便利な概念だ。
物自体は認識できないが、物自体という概念を認識することはできる。便利な概念だ。
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