[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
「神」を完全に解明しました!!(SB量子神学)
1
:
SB
:2016/05/06(金) 03:39:29
ぜひ批評して頂きたい「神」の理論が有ります。量子力学の多世界解釈を利用し、全知全能の「神」があらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現していると考えることにより、人間が感じている「なぜ○○○なのか?」という謎はすべてダブル・トートロジーに解消され消滅する、という理論です。
詳しい説明は、Amazon(KDP)による電子書籍『「神」を完全に解明しました!!(SB量子神学)』シリーズの《基礎論》(ASIN:B019FR2XBC)、《詳細論》(ASIN:B019QNGL4K)、《真如論》(ASIN:B01EGRQXC6)、《独在論》(ASIN:B01EJ2URXO)の中にあります。
【 全知全能の「神」の定義】
まず、特定の1つの状態として全知全能の「神」を定義しようとすると、解無しです。「神」を「○○○である」と定義すると、「神」は「○○○でない」を放棄し、全知全能でなくなってしまうからです。「神」が全知全能であるためには、「○○○である」と「○○○でない」の両方を満たさねばなりませんが、これだと矛盾が生じてしまい、「神」とは何かを議論する事自体が無意味になってしまいます。
これを超越する方法が1つ有ります。量子力学の多世界解釈です。「神」は、この世界で「○○○である」を、別の世界で「○○○でない」を実現し、両者は線形の重ね合わせであって互いに相互作用しないので、個々の世界に矛盾は無い、と考えれば良いのです。つまり「神」を、様々な状態の集合として定義することになります。
「全知全能の「神」は、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験しているか?」と尋ねてみます。もちろんYESです。NOだったら全知全能とは言えません。つまり、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験すること」は、全知全能の「神」であるための必要条件です。では、これ以外にも条件が必要でしょうか? それは不要です。仮にこれ以外に「○○○であること」が必要だと仮定してみても、結局これは、「「○○○である」と認識している心を体験すること」になるからです。従って、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験すること」は、全知全能の「神」であるための必要十分条件です。そして全知全能の「神」の定義は、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」になります。
M0が完全な無意識状態の「空」であり、M1、M2、M3、…が特定の有意識状態「色」であり、M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕が成立します。大乗仏教でいう「真如」の超越状態がM0、束縛状態がM1、M2、M3、…です。西田幾多郎のいう「絶対無」がM0、「絶対有」がM1、M2、M3、…であり、「絶対矛盾的自己同一」がM0=M1+M2+M3+…です。
ttps://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%80%8D%E3%82%92%E5%AE%8C%E5%85%A8%E3%81%AB%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F-SB%E9%87%8F%E5%AD%90%E7%A5%9E%E5%AD%A6-%E3%80%8A%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E8%AB%96%E3%80%8B-%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E7%B4%94%E9%9B%84-ebook/dp/B019FR2XBC?ie=UTF8&dpID=51HD4AQtVjL&dpSrc=sims&preST=_AC_UL160_SR100%2C160_&refRID=1AE797ZBXPK1TGRXQ6WZ&ref_=pd_sim_sbs_351_1
131
:
時
:2016/08/06(土) 03:06:25
>>130
こんにちは。横山さんとSBさんの真摯な議論、楽しく拝見しています。今回はロムだけですが、また機会があればお話ししてみたいですね。
SBさんへ メビの方にさわりだけですがご希望の事柄を書いてみましたので、宜しければ覗いてみてください。では、これからもこちらでの議論楽しみにしています。
132
:
横山信幸
:2016/08/06(土) 08:13:05
話の流れが分からなくて。
>>127
の回答として
>>129
を提出してくださったのでしょうか。
僕には、どうも、
>>127
への回答がyesなのかnoなのか読み取れないでいます。僕には定義が改まっても
>>127
の推論はそのまま生きているように思うのですが。
133
:
SB
:2016/08/08(月) 02:53:26
>>132
横山さんへ
申し訳ありません。
>>127
のAとかBとかいうのが何を指しているのか解らず、質問の意味を理解できなかったのです。AとBについて解説して下さい。
それに、
>【「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立する」と前提する】
も、主語が無いので意味不明です。
134
:
横山信幸
:2016/08/08(月) 07:49:04
>>123
からの僕の質問は基本的に同じことを聞いています。
【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません】
というのが、世界に関する経験的事実なのか、世界の状態とは関係なく恒真であるような前提なのか、という問いです。
この問いにたいして、
>>124
で「新たに仮定を導入する必要は有りません。」とお答えいただきましたが、まだ僕の疑問が解消されかなったので、質問を重ねました。そして、
>>126
で、
>>(横山)「「?」は「0」(「○○○である」)と「1」(「○○○でない」)の重ね合わせであり、「空」M0=「??????????…」」ということを前提すると、そこから、必然的に「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立」することになる、と解釈して良いですか。
>(SBさん)はい、それで良いと思います。
との回答をいただきました。
そこで、「(A∧A⇒B)⇔B」という式を持ってきて、
A:「「?」は「0」(「○○○である」)と「1」(「○○○でない」)の重ね合わせであり、「空」M0=「??????????…」」
B:「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立する」
とする。そして、
「A∧A⇒B」の最初の「A」を前提だと解釈し、「A⇒B」を「Aならば必然的にB」と解釈する。すると、
【「「?」は「0」(「○○○である」)と「1」(「○○○でない」)の重ね合わせであり、「空」M0=「??????????…」」ということを前提すると、そこから、必然的に「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立する】という文は【A∧A⇒B】と変換できますので、「(A∧A⇒B)⇔B」を受け入れるなら、これは
A「「?」は「0」(「○○○である」)と「1」(「○○○でない」)の重ね合わせであり、「空」M0=「??????????…」」を「前提」とする。ということは、すなわち、
B「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立する」を「前提」とすることだ、と言えることになるはずです。
以上のことから考えて、
【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません。】
というのが、世界に関する経験的事実ではなく、世界の状態とは関係なく恒真であるような前提として、SB理論に組み込まれているのではないか、ということを確かめたい。
これが、質問の意図です。どうでしょうか。
135
:
SB
:2016/08/08(月) 16:46:14
>>134
横山さんへ
>【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません】
>というのが、世界に関する経験的事実なのか、世界の状態とは関係なく恒真であるような前提なのか、という問いです。
経験的事実を記述するために、【定義1】〜【定義5】を定めた、すると【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません】は真な命題として記述される、です。
>「A∧A⇒B」の最初の「A」を前提だと解釈し、「A⇒B」を「Aならば必然的にB」と解釈する。すると、
「A∧A⇒B」とは、「A∧(A⇒B)」の意味でしたか。てっきり「(A∧A)⇒B」だと解釈してしまい、なぜ(A∧A)が出て来るのだろう?と理解できずにいました。
>【「「?」は「0」(「○○○である」)と「1」(「○○○でない」)の重ね合わせであり、「空」M0=「??????????…」」ということを前提すると、そこから、必然的に「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立する】という文は【A∧A⇒B】と変換できますので、「(A∧A⇒B)⇔B」を受け入れるなら、これは
>A「「?」は「0」(「○○○である」)と「1」(「○○○でない」)の重ね合わせであり、「空」M0=「??????????…」」を「前提」とする。ということは、すなわち、
>B「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立する」を「前提」とすることだ、と言えることになるはずです。
そうでしょうか? 例えば、a=「無理数とは、整数÷整数という形で表現できない実数のことである。√2とは、平方すると2になる正の実数である。」という定義から、b=「√2は無理数である」が言えます。横山さんは、aから言えるのはb=「√2は無理数である」ではなく「b=「√2は無理数である」と「前提」する」だと主張されているのでしょうか? こちらの説明は、「aを定義すればb=「√2は無理数である」は断定できるのであって、新たにbという仮定を導入する必要は無い」です。
136
:
横山信幸
:2016/08/08(月) 18:09:57
僕の記述が良くありませんでした。「A∧A⇒B」では確かに「(A∧A)⇒B」になってしまいますね。「A∧(A⇒B)」と書かなくてはなりませんでしたね。紛らわしい書き様をしてしまいました。ごめんなさい。
「前提」についても、「前提Aから必然的にBが導出される場合、Bが前提されたに等しいので『Bは前提である』という表現も許される」と考えたのですが、それが、誰にでも通じる表現だとは限らないと言われれば、その通りだと思います。
ですので、僕の下手くそな書き方を少し直して、再度質問してみます。これで質問の意図が通じれば良いのですが。
問い、【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません。】
というのが、世界に関する経験的事実ではなく、世界の状態とは関係なく恒真であるような記述として、SB理論に組み込まれていると理解して良いですか。
137
:
SB
:2016/08/11(木) 05:10:39
>>136
横山さんへ
>問い、【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません。】
>というのが、世界に関する経験的事実ではなく、世界の状態とは関係なく恒真であるような記述として、SB理論に組み込まれていると理解して良いですか。
まず、経験的事実を説明できないような理論を作っても意味が無いので、経験的事実を正しく記述できるような理論体系を作るために導入したのが【定義1】〜【定義5】でした。そして理論体系ができ上れば、一々現実世界と比較して正しいかどうかをチェックしなくても、理論内部だけで演繹的証明が可能になります。つまり、経験的事実を説明するために作った理論でも、完成した時には、現実世界を無視して、理論内部だけで命題の真偽を確定できるようになります。
例えば物理学では、現在の時刻taにおける我々の宇宙W(ta)の物理状態をかなり詳しく解明しており、かつ、我々の宇宙がどんな物理法則に従っているかも、かなり詳しく解明しています。従って、任意の時刻tにおけるW(t)の物理状態を理論だけで計算できます。特に過去へと遡り、時刻t=0つまり、我々の宇宙が発生した最初の状態W(0)とはどんなものだったのか、といった推測も可能であり、ビッグ・バン仮説ではW(0)は1個の点だったらしい、といった事も判って来ています。もちろんW(0)を体験する事は不可能ですが、理論が完成すれば、演繹的に推測可能ということですね。
心も同じです。「色」M1、M2、M3、…の方は、自分で自分の状態を自己認識できるのに対し、「空」M0の方は自分の状態を自己認識することさえできません。つまり「空」M0は、経験すること自体が不可能です。従って、まずは「色」M1、M2、M3、…の視点に立って「0」「1」「?」を用いた記述を完成させ、その上で自分が持つ情報を少しずつ消滅させていき、完全に情報が消滅した極限の状態として想像しているのが「空」M0だということになります。
138
:
横山信幸
:2016/08/11(木) 11:32:10
申し訳ありませんが、もう僕にはこの議論についていけないかもしれません。
必然的に恒真であるような命題で世界の偶然的な状態を記述することが可能だ、とSBさんが言われているようにしか思えないのですが、そう言うことを仰っているのでしょうか。もしそうなら、僕には理解不能です。
139
:
SB
:2016/08/13(土) 03:13:16
>>138
横山さんへ
>必然的に恒真であるような命題で世界の偶然的な状態を記述することが可能だ、とSBさんが言われているようにしか思えないのですが、そう言うことを仰っているのでしょうか。もしそうなら、僕には理解不能です。
我々の経験世界を正しく記述できるように配慮して理論体系を作っている訳ですから、その配慮が正しければ、理論が経験世界と一致するのは当然です。もし一致しない例が見付かれば、配慮が不十分だったこととなり、理論を修正すべきことになります。
複雑な物理法則ならば、今後修正される可能性は有り得ると思います。しかし、数学でいう「長方形の面積は、タテ×ヨコである」のような単純な定式が間違っている可能性は、殆ど無いのではないでしょうか。
心の話も同じです。【定義1】〜【定義5】を定めている(仮定している)以上、【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません。】は必然だと思いますが、反証できますか? あるいは【定義1】〜【定義5】の中に、適切でないものが含まれているかもしれません。不適切なものが有りますか?
140
:
SB
:2016/08/13(土) 05:55:42
>>138
横山さんへ
>必然的に恒真であるような命題で世界の偶然的な状態を記述することが可能だ、とSBさんが言われているようにしか思えないのですが、そう言うことを仰っているのでしょうか。
>もしそうなら、僕には理解不能です。
>>1
と
>>2
の説明についてなら、まさにその通りの事を主張しています。現在の自分の心M1は、何万ビット、何億ビットという情報を持っています。そして自分を1人の人間だと考えると、≪状態選択の謎≫=「なぜ自分の心は、他のM2、M3、M4、…ではなくこのM1なのか?」、≪存在選択の謎≫=「なぜ自分の心M1は、「存在しない」ではなく「存在する」の方なのか?」といった謎の存在を感じてしまいます。つまり、自分がM1であること、そして、自分が「存在しない」ではなく「存在する」であることが偶然に思え、その必然性が解らず、謎だと感じてしまう訳です。
そこで、真の自分は「神」なのであり、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…について「存在する」と「存在しない」の両方を平等に体験していると考えます。すると、「M1が存在する」は無条件に成立するものではなくなり、「「神」の全体験の中から「M1が存在する」を選び出すと」という条件付きで初めて成立することになります。つまり、こうです。「「神」の全体験の中から「M1が存在する」を選び出すと、「神」の全体験の中から「M1が存在する」が選び出される」。ただのトートロジーであったことが解ります。
こうして≪状態選択の謎≫と≪存在選択の謎≫は、自分を1人の人間だと思い込むことによって生じていた錯覚に過ぎず、本当はただのトートロジーが成立しているだけで、謎など何も無かったと言えます。いかがでしょう? どこが理解不可能でしょうか。
141
:
横山信幸
:2016/08/13(土) 10:06:06
「論理哲学論考4.461トートロジーは無条件に真であり、それゆえ真理条件を持たない。トートロジーは無意味である。(たとえば、いま雨が降っているか降っていないかのどちらかだということを知っているとしても、それで私が何事かを知っていることにはならない。)」
恒真命題が世界の偶然的な状態を記述することは不可能である、ということは明らかに思われます。
>もし一致しない例が見付かれば、配慮が不十分だったこととなり、理論を修正すべきことになります。
ということが実際に可能であるなら、その理論は世界の偶然的状態との検証に裏打ちされることになるので、その場合にはそれは恒真だとは言わないとします。
でも、
>真の自分は「神」なのであり、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…について「存在する」と「存在しない」の両方を平等に体験していると考えます。すると、「M1が存在する」は無条件に成立するものではなくなり、「「神」の全体験の中から「M1が存在する」を選び出すと」という条件付きで初めて成立することになります。
というものは仰るように完全な恒真で、世界が一致しない例が起こることはあり得ません。
その命題は、世界がそうなってはいなかった可能性もあるけれど、たまたまそうなっているという偶然的な状況を示すような命題をすべて、必然的でたまたまが入る余地の無い命題にしてしまう文だからです。
だからこそ、その命題は世界の偶然的な状況を記述することはあり得ないように思えます。
142
:
SB
:2016/08/13(土) 17:57:59
>>141
横山さんへ
>恒真命題が世界の偶然的な状態を記述することは不可能である、ということは明らかに思われます。
横山さんは、「世界には偶然的なものが有る」を暗黙の前提にしておられます。SB理論は、「世界に偶然的なものは無い、すべてが必然的だ」と主張しているのです。しかもその説明はすでに
>>140
に書いた通りです。反論するのであれば、「世界に偶然的なものが有る」を証明して下さい。具体例を1つ挙げてもらえれば十分です。挙げられますか?
>>もし一致しない例が見付かれば、配慮が不十分だったこととなり、理論を修正すべきことになります。
>ということが実際に可能であるなら、その理論は世界の偶然的状態との検証に裏打ちされることになるので、その場合にはそれは恒真だとは言わないとします。
世界に偶然的なものは有りません。ただ、人間が世界を記述するとき、自分の世界を正しく捉えているとは限らないので、理論は仮説の域を超えず、修正される可能性が有るだけです。正しく捉えている場合と正しく捉えていない場合の両方が、必ず起きているのです。そして、「正しく捉えている」と認識する視点に立てば「正しく捉えている」と認識する、「正しく捉えていない」と認識する視点に立てば「正しく捉えていない」と認識する、のダブル・トートロジーが成立しているだけです。偶然的なものは何も有りません。すべてが必然的です。
多世界解釈と同じです。1つの世界だけを見ていると、その時間発展は確率に支配され、どう変わって行くかは偶然的であるように見えます。しかし、すべての世界を総合的に見ると、全体としては決定論的に時間発展しているのであって、偶然が入り込む余地は有りません。
横山さんが、世界の中で「偶然的」と考えておられる具体例を挙げて見せて下さい。それが実はすべて「必然的」であることを説明しますので。もちろん、「真の自分は「神」であり、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…について「存在する」と「存在しない」の両方を体験している」という仮定の上での説明になります。
143
:
横山信幸
:2016/08/13(土) 20:26:27
少し誤解を生む言い方をしてしまったかも知れません。
僕は、SB理論で説明できない偶然的な事象があると言いたいわけではありません。反対です。SB理論は論理的に導出される情報以外の情報を何も与えてくれないのではないか、と疑っているのです。
144
:
SB
:2016/08/13(土) 22:48:13
>>143
横山さんへ
>僕は、SB理論で説明できない偶然的な事象があると言いたいわけではありません。反対です。SB理論は論理的に導出される情報以外の情報を何も与えてくれないのではないか、と疑っているのです。
かなり的確に理解されています。さすが横山さん。
まず「神」には何も情報が有りません。「情報」というのは、ある○○○について「○○○である」と「○○○でない」に分別し、片方だけに限定する時に生じるものです。つまり、全体の中から一部を選び出す時に「情報」が発生するのであり、全体そのものの中には「情報」は有りません。「神」は全体であり、あらゆる○○○について「○○○である」にも「○○○でない」にも限定されず(それが「?」)、「限定されない」にも限定されないため限定されることも有り(それが「0」や「1」)、両方でもあれば片方でもあります(つまり「?」、「0」、「1」のどれでも有り得る)。
情報を与えてしまうと、「神」は限定されてしまい、全知全能でなくなってしまいます。人間の心がそれです。1人の人間である現在の自分の心M1は、何万ビット、何億ビットという情報を持っていますが、それは「神」の全体験の中から、そういう情報を持ったM1を選んでそれに注目しているからです。「M1である」と認識する視点に立てば「M1である」と認識する、「M1でない」と認識する視点に立てば「M1でない」と認識する、…これもまたダブル・トートロジーですから、謎は何も有りません。
SB理論では、「偶然なものは無く、すべてがダブル・トートロジー的必然であるから、謎なんて本当は何も無いのだ」と主張しています。ですから、謎を説明するための情報を与える事自体が不要です。
145
:
横山信幸
:2016/08/13(土) 23:39:17
「神の御心は我等一人一人の心の内に有る」
「死んだ母さんはお星さまになって僕らを見守ってくださるのよ」
「我等には全く作用をせず、我等には決して知り得ないパラレルワールドがこの世界と重なりあってあるんだよ」
「実はこの世は培養脳が見ている夢なんだ」
例えば、これらの文は、信仰であったり形而上学であったり単なる思い込みであったりするもので、経験的な事実を記述するものではないと思われます。僕は形而上学を否定はしませんし、色々な役に立つと思います。しかし、それで現実の経験的世界がどんなものであるかを記述することはできないと考えています。
SBさんは、
>>137
で
>経験的事実を説明できないような理論を作っても意味が無いので、経験的事実を正しく記述できるような理論体系を作るために
と仰っていましたが、それは、どんな経験的な事実も起こり得るという可能性の話として「説明できる」という意味で言われただけなのですよね。
どんな経験的事態ならば起こり得て、どんな事態ならば起こり得ないか、とか、どんな事実が起こったのか、とか、眼前の事実からはじめて分かる世界をありのままに記述する、などということはできないと考えていいですね。
146
:
横山信幸
:2016/08/13(土) 23:44:29
あ、すみません。上の書き込みは、もちろん、
「『M0について言えば、』どんな経験的事態ならば起こり得て、どんな事態ならば起こり得ないか、とか、どんな事実が起こったのか、とか、眼前の事実からはじめて分かる世界をありのままに記述する、などということとは関係ないと考えていいですね。」ということです。
147
:
SB
:2016/08/17(水) 06:49:15
>>145
横山さんへ
>「神の御心は我等一人一人の心の内に有る」
>「死んだ母さんはお星さまになって僕らを見守ってくださるのよ」
>「我等には全く作用をせず、我等には決して知り得ないパラレルワールドがこの世界と重なりあってあるんだよ」
>「実はこの世は培養脳が見ている夢なんだ」
>例えば、これらの文は、信仰であったり形而上学であったり単なる思い込みであったりするもので、経験的な事実を記述するものではないと思われます。僕は形而上学を否定はしませんし、色々な役に立つと思います。しかし、それで現実の経験的世界がどんなものであるかを記述することはできないと考えています。
現在の自分の心をM1とすると、M1が本当に知り得るのはM1の存在と状態だけであり(M1の独我論・独今論)、他の心M0、M2、M3、…の存否は実証も反証もできません。M1にとっての「現実の経験的世界」とはM1だけであり、他の心M0、M2、M3、…の実在も、客観的物質世界の実在も、過去や未来の実在も、すべて実証も反証もできない形而上学なのではないでしょうか?
>>経験的事実を説明できないような理論を作っても意味が無いので、経験的事実を正しく記述できるような理論体系を作るために
>と仰っていましたが、それは、どんな経験的な事実も起こり得るという可能性の話として「説明できる」という意味で言われただけなのですよね。
どの心Mi(i=1、2、3、…)にとっても、経験的事実はMiの存在と状態だけです。
>どんな経験的事態ならば起こり得て、どんな事態ならば起こり得ないか、とか、どんな事実が起こったのか、とか、眼前の事実からはじめて分かる世界をありのままに記述する、などということはできないと考えていいですね。
「どんな経験的事態ならば起こり得て、どんな事態ならば起こり得ないか、とか、どんな事実が起こったのか、とか、眼前の事実からはじめて分かる世界をありのままに記述する」は、Mi(i=1、2、3、…)の中の観念として認識している内容を記述しているのであり、記述できるのはそれだけです。
>>146
>「『M0について言えば、』どんな経験的事態ならば起こり得て、どんな事態ならば起こり得ないか、とか、どんな事実が起こったのか、とか、眼前の事実からはじめて分かる世界をありのままに記述する、などということとは関係ないと考えていいですね。」ということです。
M0は完全な無意識状態ですから、何も認識できず、何も記述できません。
148
:
横山信幸
:2016/08/17(水) 09:23:04
>M1にとっての「現実の経験的世界」とはM1だけであり、他の心M0、M2、M3、…の実在も、客観的物質世界の実在も、過去や未来の実在も、すべて実証も反証もできない形而上学なのではないでしょうか?
そう仰るときの「客観的世界」というのは、「「私」の認識から離れて「本当にある」ような、先験的に正しい世界の存在」とでも言うような世界を想定されているのではないでしょうか。
例えば、カントは、世界を統覚するべき「コギト」が、時間空間やカテゴリーというような形式によって(神の視点に頼らないで)、世界のデータを分別し、分解合成し、何かしら意味あるものとして理解できるようになるとしました。そして、その世界観を超越論的観念論であり、経験的実在論でもあると言っています。その超越論的観念論から取得される経験的実在論が本来の実在を語るべき言葉であるとして、その超越論的観念論とは無関係な「本当の世界」を想定する「先験的実在論」を退けています。
このカントの超越論的な観点において、経験的実在こそが正当な実在だとする立場をとるなら、「客観的物質世界の実在も、過去や未来の実在も」、その検証が可能であり正当性をもって問い得るものだと思われます。しかし、この立場にたってもM0は検証も正当性をもって問うことも不可能ではないかと、僕はそういう点を疑っています。
ウィトゲンシュタインは「論考」で、真理値のある命題のうち、恒真命題と矛盾命題を除いた残りを「有意味」だとしましたが、その意味で、「物質世界の実在も、過去や未来の実在も」それを問うことは有意味だけM0を問うことは無意味じゃないかと考えています。
そういう理解で良いですか。
149
:
SB
:2016/08/21(日) 18:42:31
>>148
横山さんへ
>このカントの超越論的な観点において、経験的実在こそが正当な実在だとする立場をとるなら、「客観的物質世界の実在も、過去や未来の実在も」、その検証が可能であり正当性をもって問い得るものだと思われます。
どう答えたものか、大変難しいのですが…。
例えば科学の場合。科学実在論というか、素朴実在論というか、科学を成立させるために、世界の実在性を、恐らく過去も未来も含めて、暗黙の前提にしている部分が有ります。そういった枠組みの中でなら、「ニュートン力学よりも相対性理論の方が正しいことは、すでに十分検証されている」と言えるでしょう。それはそれで、正しい判断だと思います。科学の議論をしている時に、「物質世界の実在性も、過去や未来の実在性も、ニュートン力学も相対性理論も、何一つ実証も反証もできない」と言ってしまうと、逆に混乱してしまいます。
にも拘らず、哲学的に厳密な事を言えば、相変わらずこうも言えます。…「現在の自分の心M1にとって、本当に確かなのはM1の存在と状態だけであり、他の心M0、M2、M3、…の存在も、心による認識を離れた物質世界の実在性も、過去や未来の実在性も、実証も反証もできない」。SB理論は、こちらの捉え方をします。
自分の心M1が、M1=「いかにも心による認識とは無関係に実在していると実感する物質世界に住み、確かに過去や未来が実在すると思い込んでそれを前提として生活をしており、ニュートン力学よりも相対性理論の方が正しいことは十分検証済みだと理解している心」であることは認めます。それでいて、これらの意識内容はあくまでM1の中の観念に過ぎず、相変わらず「M1の独我論・独今論」は実証も反証もできないと考えます。なぜなら全知全能の「神」は、「M1の独我論・独今論」が真である世界と偽である世界の両方を実現している、と考えるからです。
>しかし、この立場にたってもM0は検証も正当性をもって問うことも不可能ではないかと、僕はそういう点を疑っています。
M0は検証不可能だと思います。でも、理論上はきちんと定義できていて、どういう性質を持つかを推論できるので、考えてみることは無意味ではないと思います。
150
:
横山信幸
:2016/08/21(日) 22:15:22
よく分からないので同様の質問を重ねてしまいますが、お許しください。
1.【「僕の眼前にスマホがある」という文の真理値は経験的に確認できる、ところが、「M0がある」の真理値は経験的に確認できない。それゆえ、「M0がある」は、「真理値があり、かつ、恒真でも恒偽でもない」ではない。だから、「真理値があり、かつ、恒真でも恒偽でもない」ことを「有意味」とする意味において、「いま僕の眼前にスマホがある」は「有意味」だけど、「M0がある」は「有意味」ではない、と言える。】
この点は認めてもらえたと考えて良いのでしょうか。お答えのそのあたりがどうも微妙で分からなかったので、教えて下さい。
2.【しかし、普通の日常的な言葉遣いでは、「役に立つこと」や「因果的な影響力があること」などが「有意味」だと言われる。「天国がある」という文はある人の人生を豊かにし、実際に天国を信じているがゆえに善行を為さしめる。そして、その人自身にとっては、天国を信じているから善行を為すのではなく、天国があるから善行をなすのであって、天国が直接善行の原因になっているとも言える。だから、その意味においては、「天国がある」は「真理値があり、かつ、恒真でも恒偽でもない」の意味では「有意味」ではないけど、「役に立つこと」や「因果的な影響力があること」という意味では「有意味」である、と言える。】
>「M0は検証不可能だと思います。でも、理論上はきちんと定義できていて、どういう性質を持つかを推論できるので、考えてみることは無意味ではないと思います。」
と仰るのは、そのような、「役に立つこと」や「因果的な影響力があること」という意味での「有意味」なのでしょうか。それとも、もっと違う意味での有意味なのでしょうか。
151
:
SB
:2016/08/23(火) 18:08:04
>>150
横山さんへ
>よく分からないので同様の質問を重ねてしまいますが、お許しください。
はい、徹底的にどうぞ。納得してもらえるまで、どこまでも説明し続けるつもりです。議論が深まれば深まるほど、こちらも今までに考えていなかった問題に気付き、得るものが多くなりますので、大歓迎です。
>1.【「僕の眼前にスマホがある」という文の真理値は経験的に確認できる、ところが、「M0がある」の真理値は経験的に確認できない。それゆえ、「M0がある」は、「真理値があり、かつ、恒真でも恒偽でもない」ではない。だから、「真理値があり、かつ、恒真でも恒偽でもない」ことを「有意味」とする意味において、「いま僕の眼前にスマホがある」は「有意味」だけど、「M0がある」は「有意味」ではない、と言える。】
>この点は認めてもらえたと考えて良いのでしょうか。お答えのそのあたりがどうも微妙で分からなかったので、教えて下さい。
現在の自分の心をM1とし、「M1にとって」という視点から見れば、<M1|M0>の値(M1から見たM0の存在確率の平方根)は「0より大、1より小」ですから、「M0は存在する」にも「M0は存在しない」にも確定しておらず、a「M0は存在する」+b「M0は存在しない」(a≠0、b≠0)という重ね合わせのままです。これは言わば「排中律」を捨て、「真」、「偽」、a「真」+b「偽」の3値で、つまり「0」、「1」、「?」の3値で考えることと同じです。だから、真理値は立派に存在すると言えます。
>2.【しかし、普通の日常的な言葉遣いでは、「役に立つこと」や「因果的な影響力があること」などが「有意味」だと言われる。「天国がある」という文はある人の人生を豊かにし、実際に天国を信じているがゆえに善行を為さしめる。そして、その人自身にとっては、天国を信じているから善行を為すのではなく、天国があるから善行をなすのであって、天国が直接善行の原因になっているとも言える。だから、その意味においては、「天国がある」は「真理値があり、かつ、恒真でも恒偽でもない」の意味では「有意味」ではないけど、「役に立つこと」や「因果的な影響力があること」という意味では「有意味」である、と言える。】
横山さんは、自分が住んでいる世界だけに話を限定されているように感じます。そうでない心も有り得ます。例えば、Ma=「死んでみたら天国が存在し、すでに天国で10年以上生活していると認識している心」、Mb=「死んでみたら天国も地獄も存在しないことを教えられ、慌てて生まれ変わる準備をしていると認識している心」なども、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…の中には含まれるはずです。Maにとって「天国は存在する」は立派に検証済みの経験的事実です。Mbにとっては「天国は存在しない」が検証済みの経験的事実です。横山さんの視点では、真偽を検証できていないので、c「天国は存在する」+d「天国は存在しない」(c≠0、d≠0)という重ね合わせのままです。
152
:
SB
:2016/08/23(火) 18:16:30
>>150
横山さんへ
>>「M0は検証不可能だと思います。でも、理論上はきちんと定義できていて、どういう性質を持つかを推論できるので、考えてみることは無意味ではないと思います。」
>と仰るのは、そのような、「役に立つこと」や「因果的な影響力があること」という意味での「有意味」なのでしょうか。それとも、もっと違う意味での有意味なのでしょうか。
理論上の問題です。
もし存在するのが、特定の意識(情報)を持つ「色」M1、M2、M3、…だけだとしたら、「なぜ、「特定の意識を持つ状態」だけが存在し、「特定の意識を持たない状態」は存在しないのか?」という謎が生じてしまいます。特定の意識を持たない「空」M0も存在すると考えれば、この謎は消滅します。もちろん「空」M0は完全無意識状態ですから、数の0と同様に「存在する」=「存在しない」(0(無意識)×1(存在する)=0(無意識)×0(存在しない))であり、どちらにも解釈可能という意味になります。
人間の心のような「色」M1、M2、M3、…は、無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則に縛られています。もし存在するのが「色」M1、M2、M3、…だけだとしたら、「なぜ無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則に、「縛られない」ではなく「縛られる」の方だけが実現しているのか?」という謎が生じてしまいます。そこで、「縛られない」の方も実現しており、それが「空」M0なのだと考えれば、この謎も消滅します。
「世界の初めXは何だったのか?」と尋ねられた時、「それは「空」M0だった」と答えるのが唯一の合理的な答です。こう答えれば、謎は何も残りません。逆にXが、ある○○○に対してすでに「○○○である」または「○○○でない」の片方に確定していたと答えると、「なぜ?」という謎が残り、「そんなの知るもんか。なぜかそうだったからそうなのさ。」としか答えられなくなります。世界の成り立ちを考える時も、「空」M0は絶対に必要な概念です。ビッグ・バン仮説でも、宇宙の初めは「1個の点」だったと言う場合、本当は10^(-43)秒以後の話であり、それ以前は量子力学的不確定性のため何とも言えない状態だった、と言われています。この部分がまさに「空」です。
153
:
横山信幸
:2016/08/23(火) 21:10:17
「「論考」で使われている「有意味」の意味ではM0は「有意味」か」という質問に対して、「「論考」とは別の意味で「有意味」だ」というお答え。
「AかnotAか」という質問に「B」と答えられた気がしています。
「「論考」で使われている「有意味」の意味ではM0は「有意味」だと理解していいのか」という質問に答えていただくことは諦めた方が良いですか。
154
:
SB
:2016/08/27(土) 07:18:19
>>153
横山さんへ
「論考」は量子力学以前の古典です。逆に質問します。「論考」の「AかnotAか」という2値論理で、シュレディンガーの猫の「生」と「死」とを重ね合わせにしたx「生」+y「死」(x≠0、y≠0)という状態は「有意味」に記述できるでしょうか?
もしそれが「有意味」であるなら、M0も同じ意味で「有意味」です。もしそれが「無意味」であるのなら、M0も同じ意味で「無意味」です。量子力学の話をしている時に、なぜ量子力学以前の古典である「論考」の話が出て来るのでしょう?
155
:
横山信幸
:2016/08/27(土) 10:35:58
>もしそれが「有意味」であるなら、M0も同じ意味で「有意味」です。
本当にそうでしょうか。「箱の中の猫が生死の重ねあわせ状態にある」というのは有意味だけど、M0は無意味だ、と僕には思われてなりませんので、これについて反論します。(以下、特に指定していなければ「有意味・無意味」は「論考」のそれだと思ってください。)
様々な命題に有意味性の濃淡があったとしてもM0は有意味にならない、ということをしめしたいと思います。
「眼前にスマホがある」という文の真偽をどう確かめるか。見て触れて使ってみてそれがスマホのとしての見た目や重さや触感や機能が有ることを確かめれば良いですよね。経験的データにそれが有れば真であり、なければ偽です。
「1つぶの光子がスクリーンに達するまでにスリットAとBの両方を通過する」という文の真偽は、十分に多数の実験で、1つぶの光子でさえ干渉縞を作る部分に到達しやすいかどうかを確かめる、ということを判断基準にすることができます。実験データが統計的な有意差を示せば真で、示さなかったら偽だという具合です。
実験でそのような干渉作用が観察できれば、電子の位置や運動量が重ね合わせ状態であることや、原子の分裂が重ね合わせ状態であることなども有意味に言えることになると思います。また、実際にはそのような実験データが得られていなくっても、どのような状況下でどのように調べられたらそれを真とできるか偽とできるかが決められるのなら、その文は有意味でしょうし、決められなかったら無意味だと言えると思います。
原子分裂に関して、量子論はどのような根拠をもって、未観察の原子が重ねあわせ状態であるとしているのかよく知りませんので、「シュレディンガーの猫の生死が重ねあわせである」という文が件の意味で有意味と言えるのかどうかは、僕には分かりません。でも、それが何らかの経験を根拠に真偽を確かめかれる可能性があるのなら、有意味だと言えるということは言えます。
しかし、M0は「あらゆる二項対立の重ねあわせ」をうたっているでしょう。その「あらゆる」ってものを相手にしたところで他の物理仮説との絶対的な断絶があって、原理的に確かめようの無いものになってしまったのではないか、と疑っているわけです。
いかがでしょうか。「論考」で使われている「有意味」の意味でM0は「無意味」だと理解していいでしょうか。
156
:
SB
:2016/08/31(水) 19:47:23
>>155
横山さんへ
>原子分裂に関して、量子論はどのような根拠をもって、未観察の原子が重ねあわせ状態であるとしているのかよく知りませんので、「シュレディンガーの猫の生死が重ねあわせである」という文が件の意味で有意味と言えるのかどうかは、僕には分かりません。でも、それが何らかの経験を根拠に真偽を確かめかれる可能性があるのなら、有意味だと言えるということは言えます。
もし「有意味」であるのなら、「0」=「生に確定している状態」と「1」=「死に確定している状態」との重ね合わせ「?」=「0」+「1」という状態を記述できることになります。それに、個々の心が持つ情報をMi=「01?1?0??10…」のように表せるという定式を認めるなら、M0はすべてのビットが「?」になったM0=「??????????…」であると、きちんと記号で定義もできます。M0は直接体験はできないけれど、Miの持つ情報がすべて消滅している状態であるとして、理論上は定式できる訳です。定義さえできないというのなら「無意味」でしょうが、きちんと定義できている以上、立派に「有意味」だと考えます。
>しかし、M0は「あらゆる二項対立の重ねあわせ」をうたっているでしょう。その「あらゆる」ってものを相手にしたところで他の物理仮説との絶対的な断絶があって、原理的に確かめようの無いものになってしまったのではないか、と疑っているわけです。
理論上の話なので、確かめる必要は特に無いのではないでしょうか。前にも説明したように、ビッグ・バンは誰も体験していないし、確かめることもできませんが、理論上合理的なモデルを構成できるので、十分「有意味」であると思います。
157
:
横山信幸
:2016/08/31(水) 20:55:28
>定義さえできないというのなら「無意味」でしょうが
ここで使用しているかっこ付きの「有意味・無意味」はそのような、定義できれば有意味になるという意味ではないことは、SBさんならご理解していただけると思っていましたが、僕の表現力では分かってもらうことは難しいようです。
「1+1=2」は定義できますが、ここでいう「有意味・無意味」では、「無意味」です。
158
:
横山信幸
:2016/08/31(水) 21:55:26
問いかたを変えますね。
問い)「全知全能の「神」があらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」とするような言語設定をするならば、「全知全能の「神」は、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験し、あらゆる○○○に対し、「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方を実現する」という命題は、実在世界がいかなるものであっても真だ、というだけでなく、可能世界がいかなるものであっても真だ言える、と考えて良いですね。
159
:
SB
:2016/09/04(日) 21:20:02
>>158
横山さんへ
>問い)「全知全能の「神」があらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」とするような言語設定をするならば、「全知全能の「神」は、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験し、あらゆる○○○に対し、「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方を実現する」という命題は、実在世界がいかなるものであっても真だ、というだけでなく、可能世界がいかなるものであっても真だ言える、と考えて良いですね。
「実在世界」とか「可能世界」というのは、何を指しているのでしょうか? 「心」=「世界」なのだから、「全知全能の「神」は、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験し、あらゆる○○○に対し、「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方を実現する」だけで十分であり、それが「実在世界」や「可能世界」の中で真、という意味が解りません。
160
:
横山信幸
:2016/09/04(日) 21:56:03
「「全知全能の「神」は、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験し、あらゆる○○○に対し、「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方を実現する」
という命題Sについて、
あり得るすべての可能性としての【「心」=「世界」】において、命題Sは必ず真になりますか。
ということです。
161
:
横山信幸
:2016/09/04(日) 22:22:14
でも、この話は全然前に進めませんね。まだ、質問したい論点は有るのですが、そちらに移りましょうか。それとも、この議論自体もこの辺で終わりにしましょうか。
162
:
SB
:2016/09/06(火) 18:12:41
>>160
横山さんへ
>「「全知全能の「神」は、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験し、あらゆる○○○に対し、「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方を実現する」という命題Sについて、
>あり得るすべての可能性としての【「心」=「世界」】において、命題Sは必ず真になりますか。
>ということです。
なるほど、意味が解りました。どの心Mi(i=0、1、2、3、…)にとっても、任意の心Mj(j=0、1、2、3、…)の存在確率は<Mi|Mj>^2で与えられます(i=jの場合も、i≠jの場合も)。a=<Mi|Mj>とおくと、MiにとってMjは、確率a^2で「存在する」、確率b^2=1-a^2で「存在しない」です。つまり、MiにとってMjは、a「存在する」+b「存在しない」になります。「Miにとって命題「Mjは存在する」の真偽は?」と尋ねられたなら、a「真」+b「偽」です。
つまり、個々のMi(i=0、1、2、3、…)にとって命題Sは、必ずしも真とは言えません。個々のMi(i=0、1、2、3、…)にとって命題「Mjは存在する」の真偽は、個々のMj(j=0、1、2、3、…)について異なり、a「真」+b「偽」、ただし、a=<Mi|Mj>、b^2=1-a^2、と答えることになります。
>>161
横山さんへ
>でも、この話は全然前に進めませんね。まだ、質問したい論点は有るのですが、そちらに移りましょうか。それとも、この議論自体もこの辺で終わりにしましょうか。
こちらは大いに楽しめていますけど、続けるかどうかは横山さんの判断にお任せします。鋭い質問なので、速答できず、考え込んでいるのですよ。
163
:
横山信幸
:2016/09/06(火) 19:14:46
僕の質問のしかたがダメなのでしょう。残念ながら質問の意味が通じていないかもしれません。僕が知りたいことは答えてもらえていません。真偽を求めたい対象は命題Sだったはずですが、SBさんの回答では違うものの真偽を検討されてしまっているように思います。
ずうーっと前からひたすら同じ質問をしているのですが、再度、問いかたを変えて同じ質問をします。
問い、【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】という命題は状況によって、真になったり偽になったりしますか。
これで、通じるでしょうか。この質問はもう諦めた方が良いかもしれませんね。
164
:
SB
:2016/09/08(木) 18:12:40
>>163
横山さんへ
>問い、【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】という命題は状況によって、真になったり偽になったりしますか。
これなら解るような気がします。個々の「色」M1、M2、M3、…は無矛盾な論理法則に縛られているので、これらの視点に立っているとき、上の命題は「真」に確定しています。
「空」M0の視点に立てば、完全矛盾状態なので、上の命題は「真」になったり「偽」になったりします。「□□□」=「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している」とおいた時も、「□□□である」と「□□□でない」の両方が成立しているので、「□□□である」ならば上の命題は「真」、「□□□でない」ならば上の命題は「偽」になります。そして「偽」になったとき、「空」M0はもはや「空」M0ではなくなり、「色」M1、M2、M3、…に化けることになます。
165
:
横山信幸
:2016/09/08(木) 20:35:14
難しくて分からないのですが、
>「□□□である」ならば上の命題は「真」、「□□□でない」ならば上の命題は「偽」になります。
と仰るのは、世界の状況として「□□□である」というときと、「□□□でない」というときがあるということですか。
166
:
横山信幸
:2016/09/08(木) 20:45:59
それとも、その真偽は世界の状況によって変わるのではなく、言葉の設定を「□□□である」とするときと「□□□でない」とするときがあるから変わるということですか。
167
:
SB
:2016/09/12(月) 03:58:11
>>165
、
>>166
横山さんへ
>>「□□□である」ならば上の命題は「真」、「□□□でない」ならば上の命題は「偽」になります。
>と仰るのは、世界の状況として「□□□である」というときと、「□□□でない」というときがあるということですか。
>それとも、その真偽は世界の状況によって変わるのではなく、言葉の設定を「□□□である」とするときと「□□□でない」とするときがあるから変わるということですか。
「空」M0は、確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たす、という意味です。両者は排他的とは言えないので、PとQの和は1とは限りません。M0の視点に立っている時、M0の視点に立っている確率は<M0|M0>^2=1であると同時に、確率<M0|M1>^2≠0でM1の視点にも立ち、確率<M0|M2>^2≠0でM2の視点にも立ち、確率<M0|M3>^2≠0でM3の視点にも立ち、…が言えます。つまり、M0の視点に立つと、自ずとM1、M2、M3、…の視点にも0でない確率で立つことになります。これがM0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕です。
168
:
横山信幸
:2016/09/12(月) 14:10:52
同様の質問が続いてしまいますが、僕の知りたい焦点ですので、同様の質問にならざるを得ません。お許しください。
>「空」M0は、確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たす、という意味です
と仰るのは、【世界の状況として】『確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たしている」ということが分かるのですか。
それとも、その真偽は世界の状況によって変わるのではなく、【言葉の意味の設定として】『確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たす」とすることができるということですか。
169
:
SB
:2016/09/15(木) 05:15:07
>>168
横山さんへ
>>「空」M0は、確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たす、という意味です
>と仰るのは、【世界の状況として】『確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たしている」ということが分かるのですか。
>それとも、その真偽は世界の状況によって変わるのではなく、【言葉の意味の設定として】『確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たす」とすることができるということですか。
どちらと答えて良いのかはっきり判りませんが、「空」M0の定義だということですね。それを経験できて分かるという意味ではありません。後者の方が近いかも?
170
:
横山信幸
:2016/09/15(木) 07:49:48
膠着しかけていた議論が少し動きましたかね。
>>169
ということは、
問い1)
>>163
の質問に対する答えについても、
「【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】という命題は、世界の状況によって真になったり偽になったりするものではなく、言葉の設定として常に決定したものとして定義される」となると考えて良いですか。
また、
問い2)「【言葉の意味の設定として】『確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たす」とすることができる」というものが定義なのでしたら、
「(1)PQの値が定義者の匙加減によって決定される」とするか、「(2)PQの値は誰も知ることができない」とするか、ということも結局は定義者の匙加減によって決められる、けれども「(3)PQの値が実験の測定結果によって決定される」とすることはできない、と理解して良いですか。
そして、
問い3)「【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】という命題の正しさは、測定や経験を根拠にして語られることはあり得ないですね。
つまり、たとえば、加減算を許す数体系は、定義のみによってその体系が保証されます。このとき、質量保存則や力の合成分解則がその数体系と適合しているということはできますが、実験によって質量保存則や力の合成分解則の間違いが発見されたとしてもそれは質量保存則や力の合成分解則が間違っていたと言われるだけで、加減算を許す数体系が間違っていたとは結論付けられることはありません。
そのような意味で、「【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】という命題が定義として正しいとされるのであれば、その正しさは世界に対する測定や経験を根拠にして語られることはあり得ない、と考えて良いですか。
171
:
SB
:2016/09/17(土) 20:17:06
>>170
横山さんへ
>問い1)
>>163
の質問に対する答えについても、
>「【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】という命題は、世界の状況によって真になったり偽になったりするものではなく、言葉の設定として常に決定したものとして定義される」となると考えて良いですか。
いや、世界の状況によって変わります。上の命題は、無矛盾な「色」の視点に立っているときは「真」に確定していますが、有矛盾な「空」の視点に立つと真になったり偽になったりします。
まず、我々人間の心は「色」に属し、無矛盾な論理法則に縛られています。「□□□」=「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している」とおくと、「□□□である」と「□□□でない」とは、はっきり区別され、同時に成立することは有りません。「□□□である」を満たしているのが「空」M0です。「□□□でない」を満たしているのが「色」M1、M2、M3、…です。つまり、「色」の視点に立てば、「「空」M0は□□□である」は真に確定しており、「「空」M0は□□□でない」は偽に確定しています。
一方「空」は矛盾が生じた世界ですから、あらゆる命題の肯定も否定も証明されてしまいます。つまり、「「空」M0は□□□である」も真と偽の両方になり得るし、「「空」M0は□□□でない」も真と偽の両方になり得ます。「「空」M0は□□□である」は「「空」M0は「空」M0である」を意味し、「「空」M0は□□□でない」は「「空」M0は「色」M1、M2、M3、…である」を意味します。つまり「空」M0の視点に立つと、自分は「空」M0であるとともに「空」M0でないし、「色」M1、M2、M3、…であるとともに「色」M1、M2、M3、…でない、です。
>問い2)「【言葉の意味の設定として】『確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たす」とすることができる」というものが定義なのでしたら、
>「(1)PQの値が定義者の匙加減によって決定される」とするか、「(2)PQの値は誰も知ることができない」とするか、ということも結局は定義者の匙加減によって決められる、けれども「(3)PQの値が実験の測定結果によって決定される」とすることはできない、と理解して良いですか。
PとQの値は、M0とM1、M2、M3、…の状態が定まれば、理論的に確定します。例えば3ビットの心の場合、M0=「???」であり、M1=「?1?」だったら<M0|M1>=1/√2だし、M2=「10?」だったら<M0|M2>=1/√4だし、M3=「001」だったら<M0|M3>=1/√8です。Miがnビットの情報を持つ心ならば、<M0|Mi>=(1/√2)^nになります。
M0の視点に立つことは、確率<M0|M0>^2=1でM0の視点に立つと同時に、確率<M0|M1>^2=1/2でM1の視点にも立ち、確率<M0|M2>^2=1/4でM2の視点にも立ち、確率<M0|M3>^2=1/8でM3の視点にも立ち、…を意味します。
>問い3)「【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】という命題の正しさは、測定や経験を根拠にして語られることはあり得ないですね。
これはその通りだと思います。あくまで理論上の話になります。
172
:
横山信幸
:2016/09/18(日) 00:03:07
>>問い3)「【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】という命題の正しさは、測定や経験を根拠にして語られることはあり得ないですね。>これはその通りだと思います。あくまで理論上の話になります。
僕が疑っているのは、【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】が、ポパーの言う反証可能性を持たない「疑似科学」に相当するものではないかということです。この点、確認できたと思って良いですか。
173
:
SB
:2016/09/18(日) 01:52:28
>>172
横山さんへ
>僕が疑っているのは、【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】が、ポパーの言う反証可能性を持たない「疑似科学」に相当するものではないかということです。この点、確認できたと思って良いですか。
「SB量子神学」自体がトートロジーなので、もちろん反証可能性は有りませんし、証明の必要も無く、恒真です。
174
:
SB
:2016/09/18(日) 05:19:33
>> 横山さんへ
まず〔α〕=「世界の初めは「空」M0である」ですが、これは証明不要です。そもそも証明というのは、ある○○○について「○○○である」と「○○○でない」とを分別し、「「○○○である」が真であり「○○○でない」は偽である」というふうに真理を限定する場合に必要なものです。ところが「空」M0は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方なので、〔α〕は真理の限定を、つまり「仮定」を、何一つ含んでいません。だから〔α〕は証明不要のまま恒真です。
いや、「空」M0は、「□□□」=「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方」だと主張しているのだから、「□□□である」と「□□□でない」とに分別し、「「□□□である」が真であり「□□□でない」は偽である」と真理を限定しているではないか?、という反論が考えられますが、これも違います。「空」M0の中では矛盾が生じており、「□□□である」と「□□□でない」の両方が起きています。だから、ここにも真理の限定は有りません。「空」M0は、「□□□である」のとき「空」M0のままですが、「□□□でない」のとき「色」M1、M2、M3、…に化けます。
そこで次に〔β〕=「「空」M0は存在し得るすべての「色」M1、M2、M3、…に化ける」ですが、これもまた、真理の限定を含んでいません。「化ける」というのは確率的なものであり、本当は確率P(≠0)で「化けない」と確率Q(≠0)で「化ける」の両方を実現しているからです。「化ける」でもあり「化けない」でもあるのです。片方でもあり、両方でもあります。「「化ける」が真であり「化けない」は偽である」とか「「化ける」が偽であり「化けない」は真である」といった真理の限定が何も含まれていないので、〔β〕は証明不要のまま恒真です。
〔α〕と〔β〕とを併せると、〔ω〕=「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…が「半存在」し、e「存在する」+f「存在しない」(0≦e≦1、0≦f≦1)である」と表現できます。これもまた、個々の心M0、M1、M2、M3、…が「存在する」のか「存在しない」のかについて、すべての可能性を網羅しており、真理の限定を何一つ含んでいません。つまり〔ω〕は、偽になることは有り得ないという意味で恒真です。M0、M1、M2、M3、…の中には、あらゆる○○○について「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方が含まれます。そして、「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する、が成立しているだけです。これもまたダブル・トートロジーに過ぎないので、証明の必要はなく恒真です。
→ttp://mb2.jp/_tetsugaku/824.html-650,651,652,653,654,662,663,664
175
:
横山信幸
:2016/09/18(日) 08:09:28
>「SB量子神学」自体がトートロジーなので、もちろん反証可能性は有りませんし、証明の必要も無く、恒真です。
すでに言いましたが、「1+1=2」は証明の必要はなく恒真です。だからこそ、それは反証可能性がなく、「科学法則」ではあり得ません。同様に「SB量子神学」も科学法則ではないことを確認してよろしいですか。
176
:
SB
:2016/09/18(日) 11:16:26
>>175
横山さんへ
>すでに言いましたが、「1+1=2」は証明の必要はなく恒真です。だからこそ、それは反証可能性がなく、「科学法則」ではあり得ません。同様に「SB量子神学」も科学法則ではないことを確認してよろしいですか。
「科学法則」という言葉をそのように定義するのなら、つまり、実験・観察によってはじめて真偽が判断され、偽になる可能性が必ず有るものを「科学法則」と呼ぶ、と定義するのなら、「SB量子神学」は「科学法則」ではないと思います。
しかし、実験・観察によって真偽を判断する経験科学以外にも、理論科学と呼ばれる分野が有ります。例えば、ニュートン力学からケプラーの3法則が導けます。ニュートン力学さえ正しいと前提すれば、ケプラーの3法則が正しいのは当たり前なので、ケプラーの3法則に反証可能性など有り得ませんが、これも立派に「法則」と呼ばれます。「科学法則」の定義も、多義的なのではないでしょうか。
177
:
横山信幸
:2016/09/18(日) 12:02:27
ニュートン力学が正しいことを前提すればケプラー第三法則は必須でしょう。仮に、そのような絶対に真なる体系を作るならば、実験観察の結果と照合するとした場合に、実験結果がどうであろうと「ケプラー第三法則は正しい」と決めつけられるような言語設定を設定をすることは可能なのかもしれません。
しかし、ふつうは、そんなものはケプラー第三法則とは言いません。
けれ
178
:
横山信幸
:2016/09/18(日) 12:06:01
そんな言語設定において「ケプラー第三法則」が示す天体の運動予測は現実を示すものにはなり得ず、それゆえ、それは、天体の運動を何一つ語らないものでしかないからです。
179
:
横山信幸
:2016/09/18(日) 12:48:59
F=maであろうとそれが恒真だと決めつけてしまって、実験結果がどうであろうとそれを真だとするのであれば、それは現実の物理事象の像ではあり得ないものでしかなく、それは「疑似科学」でしかないものでしょう。F=maでさえ反証可能性がなければ、それは科学法則ではないはずです。そのような意味で、同様に「SB量子神学」も科学法則ではないことを確認できると思ったのですが、よろしいですか。
180
:
横山信幸
:2016/09/22(木) 11:26:46
観念論の立場をとって「世界が私の世界だ」とするときでも、一般的な観念論では、その世界モデルを「センスデータ」や「現れ」や「印象」等と言われるものと照合することで真なる世界像であるか否かを確かめられるものとして考えられるとされるのではないでしょうか。
それに対して、SB理論はその「センスデータ」や「現れ」や「印象」等と言われるものに対する反証可能性がなく、だから、その意味で科学法則ではないような、絶対的に正しい記述として設定された世界モデルだ、と確認してよいか。
というのが聞きたいことです。
これで伝わるでしょうか。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板