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「神」を完全に解明しました!!(SB量子神学)

80横山信幸:2016/06/22(水) 18:51:01
>横山さんの哲学のテーマは何なのでしょうか?

もっとも興味があるのは、自身の生と死の意味です。今現実に世界があって現実に生きている、この生の意味とはどういうものか、この生がなくなり死んでしまうとはどういうことか、その、「僕」の生死って何ものなのかーーです。僕は臆病で死ぬのがとても怖いのです。それを何とか理解してその恐怖を乗り越えたいというのが希望です。

>何か異論は有りませんか?

そうですね。僕にはもうほとんど言えることはないのですが、頑張って質問を一つしてみます。教えてください。

2つのスリットを通過してスクリーンの或る位置に達したことが観測できた1つの光子の、光子銃より放出されてからスクリーンに達するまでの経路は、放出されたという事象sとスクリーンに達したという事象gを繋ぐ経路として4次元時空間に想定され得る、ありとあらゆる経路の重ね合わせですよね。
また、SBさんは、干渉は複数のMとMの間でなされるとおっしゃってましたよね。
でしたら、上の場合の無限の光子の経路の重なりあいにおいて、干渉しあうMとは、次の3者の何れにあたるのでしょうか。

(1)事象sから事象gまでの、光子が分裂している「その時点」に、その無数の光子パターンに対応する無数のMが存在する。その場に、誰かの、実際に存在する心的内容があって、その場で、無数のそれが干渉しあう。
この捉え方をするとき、その誰かというのは誰なのかが疑問になる。

(2)私がその光子の経路を反省して考えるたびに、(そして、それは必ず「今」であるときに、)私の心象としての無数の光子経路が浮かび上がってきて、それが干渉しあう。このとき、すべてのMは私の今の心であることになる。この捉え方をすると、反省的な内容としての世界しか成立しないことになってしまうので、実際にその場で干渉しあう光は存在しないとしてしまうことにするのか、という疑問が残る。

(3)その他。

いかがですか。

81横山信幸:2016/06/22(水) 19:39:54
今月の同好会例会に、プロの量子コンピュータ研究者の方が参加してくださったのですが、そういう方がこのれすにも来てくだされば嬉しいですね。

82SB:2016/06/24(金) 17:44:55
>>80 横山さんへ

>もっとも興味があるのは、自身の生と死の意味です。今現実に世界があって現実に生きている、この生の意味とはどういうものか、この生がなくなり死んでしまうとはどういうことか、その、「僕」の生死って何ものなのかーーです。僕は臆病で死ぬのがとても怖いのです。それを何とか理解してその恐怖を乗り越えたいというのが希望です。

 それもまた大きなテーマですね。ブログに書いてあった説明、共感する部分がたくさん有りました。今日の自分にとって明日の自分は、「自分である」と見なしても良いし、「自分でない」と見なすこともできます。逆に、今地球に居るすべての人間を「自分である」と見なすこともできると思われます。

 SB理論でいくと、「神」にとって人間の「死」は有りません。人間の視点に立つと、時間の流れを感じます。自分が誕生してから死ぬまでの心を、時間の厚みを必要最小限に取って、Ma(誕生)→Mb→Mc→…→Mk(現在)→…→Mx→My→Mz(死亡)と書いてみます。人間の心は、過去の記憶を持ち、未来を推測することにより、MaからMzまでを一直線に順に体験しているかのように実感します。そして、Mz(死亡)の後が無いため、これ以降は存在しなくなるのだろうか?、と死の恐怖を感じます。
 一方「神」は全知全能なので、Ma〜Mzの中の任意の二つをMp、Mqとした場合に、Mp→MqおよびMq→Mpという時間の流れを「実現している」でもあり「実現していない」でもあるはずです。片方だけだと「なぜ?」という謎が残りますから。つまり「神」においては、Ma〜Mzの体験順序という概念自体が無意味であり、これらには発生も消滅も無くて、時間を超越した「神」のコレクションであると見なします。

83SB:2016/06/24(金) 18:02:39
>>80 横山さんへ

>(1)事象sから事象gまでの、光子が分裂している「その時点」に、その無数の光子パターンに対応する無数のMが存在する。その場に、誰かの、実際に存在する心的内容があって、その場で、無数のそれが干渉しあう。
>この捉え方をするとき、その誰かというのは誰なのかが疑問になる。

 事象s以後、事象g以前、光子はあらゆる曲線経路に分岐しつつ進んで行くはずですが、自分は観測していないので、どこを通っているのかを知りません。この時の自分の心をMxとします。光子の経路を仮に全部で1024種類と限定し、それらの中のどれなのかを10ビットの情報で表せるものとすれば、Mxはこの光子の経路について何も情報を持っていないので、その部分は「??????????」で表され、これらは二進法で表した1024種類の状態「0000000000」〜「1111111111」の重ね合わせだと見なせます。Mxが持つ他の情報を「pqr…」で表すと、Mx=「??????????pqr…」といった感じです。これを、1024種類の心Mx0=「0000000000pqr…」〜Mx1023=「1111111111pqr…」の重ね合わせだと見なせば良いのではないでしょうか。

 ただし、もし「pqr…」の部分に、「自分は光子の経路を観測していない」という情報を持っているとすれば、観測していないのに経路が「0000000000」〜「1111111111」のどれなのかを自分が知るのは矛盾である、とも言えそうです。そう考えるのなら、単独のMx0=「0000000000pqr…」〜Mx1023=「1111111111pqr…」の視点には立てないことになります。
 電子のスピンのZ成分が|Z+>または|Z->に確定している時、|Z+>=(1/√2)|X+>+(1/√2)|X->、|Z->=(1/√2)|X+>-(1/√2)|X->の関係にありますら、X成分の方は嫌でも|X+>と|X->の重ね合わせのままです。「Z成分が|Z+>か|Z->かを知らない」という状況だったら、X成分は|X+>または|X->に確定した心の視点に立てますが、「Z成分が|Z+>か|Z->かを知っている」という状況だったら、X成分は嫌でも|X+>と|X->の重ね合わせのままであり、どちらか一方に確定した心の視点に立てないのと同じです。

 そこで少し状況を変え、光子の経路が1024種類のどれなのかを観測する装置を、常に設置するとします。ただし、観測するかしないかは両方が選べるとし、量子乱数を生じさせ、確率1/2で光子の経路を観測しない、確率1/2で光子の経路が1024種類のうちどれかを観測する、に分岐させるとします。さらにその結果だけ、コンピュータの画面に表示するとします。「??????????」が表示される確率は1/2です。「0000000000」〜「1111111111」のどれかが表示される確率は1/2048ずつです。この場合だと、Mx=「??????????pqr…」は1024種類の心Mx0=「0000000000pqr…」〜Mx1023=「1111111111pqr…」の重ね合わせだし、これら1+1024=1025種類の心のどの視点にも立てると思われます。

 うまく説明できたでしょうか? 納得いくまで徹底的に質問して下さい。

84SB:2016/06/24(金) 18:28:22
>>80 横山さんへ

 >>45で、シュレディンガーの猫の「生」「死」を観測していない心をMa=「?bcdefghij」、観測して「生」だと知った心をMb=「0bcdefghij」、観測して「死」だと知った心をMc=「1bcdefghij」としました。そして、Ma=(1/√2)Mb+(1/√2)Mcと見なしました。Ma、Mb、Mcの3つは、第1ビットだけが「?」「0」「1」と異なり、他のb〜jは共通している、としましたが、現実にはこれがすごく難しいようで、他のビットb〜jにもすぐ差異が生じてしまうのです。そしてb〜jに違いが有れば、Ma=(1/√2)Mb+(1/√2)Mcは成立しなくなってしまいます。
 例えば、Maは観測していないので、「猫が入った箱を開けていない」という情報を持ち、MbとMcは観測しているので、「猫が入った箱を開けた」という情報を持っている、としてしまうと、これだけでb〜jに差異が生じます。さらにMbが肉眼で猫を見たとすると、「元気だった」「にゃあと泣いた」などの情報も得てしまいそうだし、Mcの方も「丸くなって死んでいた」「安らかな死に顔だった」などの情報も得てしまうでしょう。b〜jの部分で持つ情報が、Ma、Mb、Mcにおいて三者三様で異なってしまいます。

 そうしないためには、かなり特殊な工夫が必要です。猫が入っている箱そのものに猫の生死を観測する装置を付け、量子乱数を発生させ、猫の生死を確率1/2で観測しない、確率1/2で観測する、に分岐させます。「?」である確率が1/2、「0」または「1」である確率が1/4ずつになります。そして、その結果である「?」「0」「1」だけをコンピュータで表示させ、自分がそれを観測する、などです。これだと、「?」「0」「1」を知る前、自分の心は1つの状態でしたが、3つのうちどれかを知ることで「?」「0」「1」に分岐するだけですから、それ以外の情報は3つの場合で完全に同じ、と見なせるのではないでしょうか。

85SB:2016/06/24(金) 18:33:56
>>81 横山さんへ

>今月の同好会例会に、プロの量子コンピュータ研究者の方が参加してくださったのですが、そういう方がこのれすにも来てくだされば嬉しいですね。

 量子コンピュータが本当に機能しているとは、信じ難いですね。自分は多世界解釈支持者のつもりですが、それでも本当に量子コンピュータがうまく機能したという話を聞いた時には、「ホントに!?」と耳を疑いました。できるとしても、まだまだ100年くらい先の話だろうと思っていたので。AIの方も、囲碁で人間がコンピュータに勝てなくなるなんて、考えてもみませんでした。

86横山信幸:2016/06/25(土) 00:08:13
>>83>事象s以後、事象g以前、光子はあらゆる曲線経路に分岐しつつ進んで行くはずですが、自分は観測していないので、どこを通っているのかを知りません。

僕は、sg間の光の通過経路はあり得べき経路の、実際に、すべてなのであって、「1個の光子がそのすべてを通っている」ということを、以前の干渉縞の実験結果から経験的に知っているとすべきだと考えているのですが、SBさんは、それを「知らない」と解釈すべきだと考えておられるのですが。

87SB:2016/06/25(土) 09:48:52
>>86 横山さんへ

>僕は、sg間の光の通過経路はあり得べき経路の、実際に、すべてなのであって、「1個の光子がそのすべてを通っている」ということを、以前の干渉縞の実験結果から経験的に知っているとすべきだと考えているのですが、

 なるほど、そういう設定ですか。だとしたら、その場合の自分の心Mx=「??????????pqr…」の「pqr…」の部分に「1個の光子がすべての経路を通っている」という情報が含まれていることになります。「??????????」の部分を「0000000000」〜「1111111111」という1024個の重ね合わせだと解釈することはできます。しかし、その部分を1024個に分裂させた個々の心Mx0=「0000000000pqr…」〜Mx1023=「1111111111pqr…」はというと、同じく「pqr…」の部分に「1個の光子がすべての経路を通っている」という情報を持っていながら、しかも実際には1つの経路だけ通っていることを知っているという、矛盾した状態になります。だから、Mxの視点には立てますが、Mx0〜Mx1023の視点には立てないことになります。いかがでしょうか?

88横山信幸:2016/06/25(土) 10:43:51
>Mxの視点には立てますが、Mx0〜Mx1023の視点には立てないことになります

僕には「Mx0〜Mx1023の視点には立てないことになる」のは別に不都合がないように思えます。
だから、Mxに視点に立てればそれで良いのじゃないかという気もしているのですが、でも、
その「Mxの視点には立つ」「Mx0〜Mx1023の視点には立つ」というのが何を意味されているのか具体的にイメージできていません。
なので、よく分からないというのが実感です。
その「Mxの視点には立つ」場合、そのあらゆる経路を通っている1個の光子の分裂同士は干渉できるのですか。
もし、干渉するのであれば、その干渉は、Mの干渉になるのですか。

89SB:2016/06/28(火) 23:41:08
>>88 横山さんへ

>その「Mxの視点には立つ」場合、そのあらゆる経路を通っている1個の光子の分裂同士は干渉できるのですか。
>もし、干渉するのであれば、その干渉は、Mの干渉になるのですか。

 そういうことです。Mx=「??????????pqr…」はMx0=「0000000000pqr…」〜Mx1023=「1111111111pqr…」という1024個の心の重ね合わせであり、これら1024個が干渉を起こすことにより、Mxは干渉が起きた状態になります。
 全部で1024種類の経路だと仮定しましたが、その大部分である1000種類は、運動量保存則から大きく逸脱した経路であり、最短経路に比べ1波長以上遠回りをしていて、これらは互いに打ち消し合い消滅します。残りの24種類はほぼ運動量保存則に従い、遠回りする距離も1波長以内であり、これらが干渉を起こします。「pqr…」の部分に、「スクリーン上の点S1、S3、S5、…では建設的干渉を起こし、点S2、S4、S6、…では破壊的干渉を起こすはずだ」という情報を持っていれば、大きな確率で点S1、S3、S5、…付近に到達します。多数の光子でこれを行うと、点S1、S2、S3、S4、S5、S6、…の位置に、明、暗、明、暗、明、暗、…が並び、Mxは「干渉縞が生じるのを見ている心」になります。

90横山信幸:2016/06/29(水) 00:07:09
確認ですが、

質問1)「Mx0=「0000000000pqr…」〜Mx1023=「1111111111pqr…」」というのはすべて私の心と解釈して良いのですよね。

質問2)>>80の僕の質問への回答は(2)だったと考えて良いのですよね。

それなら、僕が考えているWはすっぽりMに重なります。多世界がWの重なりと考える解釈とも、完全に整合するように思えます。でも今度は、そのようにすべての多世界の重なりあいが完全に「M=W」と還元しきってしまえるようなものなら、わざわざ心を持ち出してくる意味が分からなくなってしまいました。本当に完全に「M=W」であるのなら、わざわざ心の話にしなくてもSBさんが解きたい「謎」は物理的存在の話のままで十分解明されるはずだと思えるのです。Wの話として考えてももちろんOKなんだけど、ただMの話にした方が分かりやすくなるように思えたからそうした、ってだけのことなのでしょうか。(これは質問の体裁を取っていますが、無理に答えていただかなくても結構です。)

91SB:2016/07/01(金) 20:53:36
>>90 横山さんへ

>質問1)「Mx0=「0000000000pqr…」〜Mx1023=「1111111111pqr…」」というのはすべて私の心と解釈して良いのですよね。

 はい、これら1024個の心の重ね合わせが自分の心Mx=「??????????pqr…」です。

>質問2)>>80の僕の質問への回答は(2)だったと考えて良いのですよね。
   >>80の(2)より、
>(2)私がその光子の経路を反省して考えるたびに、(そして、それは必ず「今」であるときに、)私の心象としての無数の光子経路が浮かび上がってきて、それが干渉しあう。このとき、すべてのMは私の今の心であることになる。この捉え方をすると、反省的な内容としての世界しか成立しないことになってしまうので、実際にその場で干渉しあう光は存在しないとしてしまうことにするのか、という疑問が残る。

 この意味が今一つ解らなくて、(1)の方で説明してしまいました。
 自分は観念論の立場を採り、「物質世界は心の中に観念として存在するだけであり、心による認識を離れて実在する訳ではない」と見なします。しかし、時間・空間の存在を全面的に否定している訳ではないし、心の中の観念として、時間・空間も立派に存在しています。だから、「実際にその場で干渉しあう光は存在しないとしてしまうことにする」という言い方も変です。正しくは、心の中に存在する観念としての時間・空間内において、「実際にその場で干渉しあう光は存在する」と言うべきではないでしょうか。

>それなら、僕が考えているWはすっぽりMに重なります。多世界がWの重なりと考える解釈とも、完全に整合するように思えます。でも今度は、そのようにすべての多世界の重なりあいが完全に「M=W」と還元しきってしまえるようなものなら、わざわざ心を持ち出してくる意味が分からなくなってしまいました。

 M=Wなのですから、どちらを使っても同じです。要するに、「物質世界は客観的ではないよ」と言いたいだけです。自分の心M1が住む世界W1は、M1が情報を持っている領域だけ物理状態が確定していますが、それ以外はすべて重ね合わせのままです。友人の心M2が住む世界W2は、M2が情報を持っている領域だけ物理状態が確定していますが、それ以外は重ね合わせのままです。M1≠M2なのだから、W1≠W2であり、M1とM2とに共通する客観的物質世界Wなんてものは無い、と言いたいだけです。そして、「自分が住む世界W1や友人が住む世界W2は、何が決めているのですか?、その違いはどこから来るのですか?」という質問に対して、心を持ち出すことにより、「W1はM1が持つ情報で、W2はM2が持つ情報で決まります」と答える訳です。

>本当に完全に「M=W」であるのなら、わざわざ心の話にしなくてもSBさんが解きたい「謎」は物理的存在の話のままで十分解明されるはずだと思えるのです。Wの話として考えてももちろんOKなんだけど、ただMの話にした方が分かりやすくなるように思えたからそうした、ってだけのことなのでしょうか。(これは質問の体裁を取っていますが、無理に答えていただかなくても結構です。)

 「自分が住む世界W1や友人が住む世界W2は、何が決めているのですか?、その違いはどこから来るのですか?」という質問に対して、どう答えますか?

92横山信幸:2016/07/01(金) 23:00:23
>「自分が住む世界W1や友人が住む世界W2は、何が決めているのですか?、その違いはどこから来るのですか?」という質問に対して、どう答えますか?

世界に存在するすべての、某かの対象(それが多重に重なりあっているとするにしても、そうではないとするにしても)が、世界のあらゆるものを構成しているとする。そして、それによって構成された某かの対象が意識を持ち自らの意識について反省する内容を考える。そうすると、その構成された某かの意識が複数あるときには、当然、その構成された意識ごとに異なる反省内容があることになるはずである。だから、私と友人が世界を経験するときにその内容が違うのであれば、それは、その意識の構成内容が違うためだ。

と説明すれば良いと思います。こういうレベルの説明こそが、僕には正当な説明だと思えます。
こういうレベルではないような、別の次元の説明を求めようとするなら、それは必然的にナンセンスな問いにならざるを得ないように思えます。
でも、SBさんの説明は違うのですよね。

93SB:2016/07/03(日) 18:42:34
>>92 横山さんへ

>そうすると、その構成された某かの意識が複数あるときには、当然、その構成された意識ごとに異なる反省内容があることになるはずである。だから、私と友人が世界を経験するときにその内容が違うのであれば、それは、その意識の構成内容が違うためだ。

 自分の心M1と友人の心M2とは「その意識の構成内容が違う」だけであり、「二人が住む世界は共通の客観的物質世界Wで同一である」という意味ですか?

94横山信幸:2016/07/03(日) 20:42:22
>自分の心M1と友人の心M2とは「その意識の構成内容が違う」だけであり、「二人が住む世界は共通の客観的物質世界Wで同一である」という意味ですか?

どうなのでしょうか?「自分が住む世界W1や友人が住む世界W2」は、(私のMが作り出した世界の内部に並立して存在するような可能世界の話として、なら)頑張れば語り得るかもしれません。でも、「自分の心M1と友人の心M2」はどうでしょうか。(私のMが作り出した世界の内部に並立して存在するような可能な心の話として、なら)頑張れば語り得るのでしょうね。そのような「自分の心M1と友人の心M2」はどうでしょうか。私のMが作り出した世界の内部に並立して存在するような可能な心の話としてだという前提の話だとするのなら、ご質問はイエスだと言えると思います。
でも、可能な心の話ではなくて、現実に存在する心の話としてであるのなら、そんな話は無理だと思いますから、ノーと言うべきだと思います。

95SB:2016/07/06(水) 20:15:19
>>94 横山さんへ

 「心Mが先か?、世界Wが先か?」は、これ以上議論しても意味が無さそうですね。それより気になったのは、横山さんが永井均氏と議論されたらしい?という点です。SBの「神」理論も、元となったのは「独在論」の<私>問題に対する反発心でした。永井氏とどんな議論をされたのでしょうか?

96横山信幸:2016/07/06(水) 23:10:26
この議論は終わりですか。残念ながらあまりお力にはなれなかったですね。悪しからずご容赦ください。
終わるのであれば、今の議論の僕の主張を一応最後までしておきますね。
多世界が存在することの経験的な根拠は、(光子一粒がそれ自身に干渉する実験結果のような)多世界との「干渉」にしかないように僕には思われます。あらゆる可能世界Wの可能性は互いに干渉しその結果、起こりやすい可能性大きい世界が多くの場面で観測されることになります。その事によって、複数の世界が干渉しあってこの世界を成立させているという世界像が立ち上げられることになる。ここまでは、了承してもらえますよね。
ここからが、僕が疑っている話になります。このあらゆる可能世界Wが「W=M」とされる場合には、そのMは必ず、私の心としてのMでなければならないのではないか、ということです。私の心であるM1と友人の心であるM2が干渉することはあり得ないのではないか、という疑問があって、その点で、SBさんの理論は、再考の余地があるのではないかという疑問があったのです。
このことを議論のなかで、突っ込もうかなと考えていたのですが、終わりということなので、足早に言いたいことだけ言わせてもらいました。お返事は不要です。

永井氏とは、2015年のお正月に何度かmixyでやり取りしていただきました。永井氏の私的言語肯定論に反論しようとしたのですが、残念ながら、大した議論にはなりませんでした。

97SB:2016/07/09(土) 02:05:38
>>96 横山さんへ

>この議論は終わりですか。

 特に終わる必要も有りません。疑問が残るようでしたら、喜んでお答えします。質問して下さることで、こちらは大いに楽しんでいますので。

>多世界が存在することの経験的な根拠は、(光子一粒がそれ自身に干渉する実験結果のような)多世界との「干渉」にしかないように僕には思われます。あらゆる可能世界Wの可能性は互いに干渉しその結果、起こりやすい可能性大きい世界が多くの場面で観測されることになります。その事によって、複数の世界が干渉しあってこの世界を成立させているという世界像が立ち上げられることになる。ここまでは、了承してもらえますよね。

 はい、それで良いと思います。ただし、世界W1と世界W2とが干渉を起こすのは、自分の住む世界がW1とW2の重ね合わせの状態にある場合だけですよ。つまり、Wx=W1+W2のWxに自分が住んでいる時、W1とW2とが干渉します。しかも、W1≠W2のままでは干渉はしません。時刻t1においてはW1(t1)≠W2(t1)だったけれども、その後の時刻t2にはW1(t2)=W2(t2)となり、時刻t1においてW1(t1)とW2(t1)のどちらだったのかをもはや知ることができなくなった場合に、W1(t2)とW2(t2)とが干渉します。
 自分がW1とW2のどちらに住んでいるのかを観測し、自分の住む世界がW1またはW2に確定している時には、W1とW2とは干渉しませんよ。

>ここからが、僕が疑っている話になります。このあらゆる可能世界Wが「W=M」とされる場合には、そのMは必ず、私の心としてのMでなければならないのではないか、ということです。私の心であるM1と友人の心であるM2が干渉することはあり得ないのではないか、という疑問があって、その点で、SBさんの理論は、再考の余地があるのではないかという疑問があったのです。

 M1の視点に立っている時はM2とは干渉しません。M2の視点に立っている時はM1とは干渉しません。Mx=M1+M2という重ね合わせの視点に立っている場合にだけ、MxにおいてM1とM2とが干渉し得る、です。

98横山信幸:2016/07/09(土) 07:26:30
>Mx=M1+M2という重ね合わせの視点に立っている場合にだけ、MxにおいてM1とM2とが干渉し得る、です。

どのような状況を想定されているのか、具体的な事例を挙げてもらえませんか。

99SB:2016/07/09(土) 23:27:57
>>98 横山さんへ

 例えば>>43で書いた、自分の心Ma=「0?101?1?1?」、友人の心Mb=「0??01?101?」の場合。MaとMbとを比較すると、第3ビットはMaは「1」であるのに対しMbは「?」だし、第8ビットはMaは「?」であるのに対しMbは「0」だし、両者は異なります。
 そこでMaとMbを比較し、同じ情報を持つビットはそのまま、異なっているビットをすべて「?」に置き換えた心を考えると、Mx=「0??01?1?1?」になります。このMxはMaとMbの両方を含んでおり、Mx=Ma+Mb+αと書けますから、MxにおいてMaとMbとが干渉し得ます。Mxは、MaとMbのどちらの可能性も含み、自分がどちらなのか判らなくなった状態ですから、Mxの視点に立つときにMaとMbが干渉できます。
 もっと極端な例を言えば、「空」M0=「??????????」は、3^10種類の心すべての重ね合わせですから、M0の中ではMa、Mb、Mx、を含む3^10種類の心すべてが干渉できます。

100横山信幸:2016/07/10(日) 00:24:26
僕が「干渉」を問題にしたいと考えているのは、世界の分裂の可能性について、干渉がその存在の因果的影響を経験的に確かめられる唯一の方法だと思われるからです。だから、友人の心であるようなMの存在を経験的に確かめられる可能性があるのかと思って、M1とM2の干渉し得る具体的な場面をお聞きしたわけです。
そけで、SBさんの回答は、次のように理解していいのでしょうか。
すなわち、
僕のMと友人のMの重ね合わせと干渉によって得られるものがあるとすればそれは「分からない」という不確定な状態の拡大でしかなく、互いの存在の因果的な影響を経験的に確かめられるような「干渉」をしあうものではない。
という解釈です。いかがですか。

101SB:2016/07/10(日) 22:00:18
>>100 横山さんへ

>僕のMと友人のMの重ね合わせと干渉によって得られるものがあるとすればそれは「分からない」という不確定な状態の拡大でしかなく、互いの存在の因果的な影響を経験的に確かめられるような「干渉」をしあうものではない。
>という解釈です。いかがですか。

 そもそも量子干渉とは、「互いの存在の因果的な影響を経験的に確かめられるような「干渉」」ではないと思います。
 量子干渉とは、「M1(W1)の視点に立っている人がM2(W2)の影響を受けてM2(W2)の存在を推測するもの」でもなければ、「M2(W2)の視点に立っている人がM1(W1)の影響を受けてM1(W1)の存在を推測するもの」でもなく、「Mx=M1+M2(Wx=W1+W2)の視点に立っている人が、M1(W1)とM2(W2)の干渉を観測することで、自分は単独のM1(W1)でもなければ単独のM2(W2)でもなく、M1+M2(W1+W2)という重ね合わせ状態にあるらしいと推測するもの」でしょう?

 M1単独の視点に立ってもM2とは干渉できません。M2単独の視点に立ってもM1とは干渉できません。M1とM2の干渉を知覚・認識するためには、Mx=M1+M2の視点に立つことが必要です。横山さんは、M1単独の視点またはM2単独の視点に立っておきながら、M1とM2の干渉を観測できるかのように考えていませんか?

102横山信幸:2016/07/10(日) 23:05:36
今の議論の質問に答えるための、土台の整備ができていないような気がします。

>そもそも量子干渉とは、「互いの存在の因果的な影響を経験的に確かめられるような「干渉」」ではないと思います。

おっしゃる意味がわかりません。2スリットの格子縞実験は、「(単一の光子が無数の経路を通るときのそれぞれの経路の)互いの存在の因果的な影響を経験的に確かめられるような「干渉」」にはなりますよね。僕はこの議論において、このような、世界の複数性を経験的に確かめられるような証拠になるものというのが「干渉」しかないだろうと考え、それゆえその意味で「干渉」を問題にしています。
だから、SBさんが、世界の複数性を証拠付けたいのであれば、そんなものは量子論における「干渉」ではないとして、別の干渉をお考えだったとしたら、僕の「干渉」という言葉の使い方が一般的なものではなくておかしいのでしょう。
でも、そんな、世界の複数性を証拠づけるものではないような「干渉」が一般的な「干渉」なのであれば、それには僕は興味がありません。

2スリット実験で世界の複数性を証拠づけるような実験結果がでたような複数世界同士での影響が、(それを「干渉」と呼ばないで他の言い方に替えても良いのですが、とにかくそれが、)私のM1と友人のM2では、経験的に確かめられるような因果的な影響として残ることはあり得ないのではないか。だから、友人のM2なんてものの実在を問うことは、唯物論を取るにしても唯心論を取るにしても、できないのではないか。
ということが僕の問いたいことなのです。

そこで、質問し直します、
1)私のM1と友人のM2では、経験的に確かめられるような因果的な影響として残ることはあり得ないのではないですか。
2)Mxなる視点というのが分かりません。M1とM2をMxの内部に存在する対象としてしまうような視点ということですか。つまり、それはその命題の発言者がM1とM2を対象として捉えた視点と考えて良いですか。
3)Mxの視点でM1とM2を捉えるなら、M1とM2は

103横山信幸:2016/07/10(日) 23:07:13
3)Mxの視点でM1とM2を捉えるなら、M1とM2はそれぞれ、経験的に確かめられるような因果的な影響を残すことはあり得ますか。

104横山信幸:2016/07/10(日) 23:40:22
>横山さんは、M1単独の視点またはM2単独の視点に立っておきながら、M1とM2の干渉を観測できるかのように考えていませんか?

M2が唯心論が説く我が心の外部の「他者の心」なのであれば、どの視点にたっても、M1とM2が、経験的に確かめられるような因果的な影響を残すことはあり得ないと考えています。そして、もし逆に、M1とM2が経験的に確かめられるような因果的な影響を残すものだと捉えるのであれば、それらは世界の内部に存在する物理的実在でしかないと捉えねばならないと考えています。

105横山信幸:2016/07/10(日) 23:53:19
そして、M1とM2が経験的に確かめられるような因果的な影響を残すことがないものなのであれば、その両方が実在するとするような世界モデルは、現実の世界のモデルではあり得ず、単なるおとぎ話でしかないのじゃないか、という議論を問いたいと考えているのです。

106SB:2016/07/11(月) 22:27:03
>>102,103 横山さんへ

 SB理論における量子干渉と、標準的な量子力学における量子干渉は全く同じものです。M=Wを使い、WをMに置き換えただけです。だから、ここで説明している量子干渉は、SB理論における量子干渉であると同時に、標準的な量子干渉の説明でもあると思います。

>1)私のM1と友人のM2では、経験的に確かめられるような因果的な影響として残ることはあり得ないのではないですか。

 まず「干渉」と「相互作用」とは異なります。M1とM2とは線形の重ね合わせなので、両者の間に「相互作用」は一切有りません。従って、一方から他方へと影響を及ぼすことはできないし、一方から相手の存否を知ることもできません。
 しかし、Mx=M1+M2という重ね合わせの視点に立つと、M1とM2とが「干渉」するのを知覚・認識できます。M1単独でもM2単独でも「干渉」は生じないのに、Mx=M1+M2の視点に立つと「干渉」が発生する、という訳です。これによってMxは、自分がM1単独でもなければM2単独でもなく、M1+M2という重ね合わせの状態にあるらしい、と推測することができます。これが量子干渉です。

>2)Mxなる視点というのが分かりません。M1とM2をMxの内部に存在する対象としてしまうような視点ということですか。つまり、それはその命題の発言者がM1とM2を対象として捉えた視点と考えて良いですか。

 自分Mxが、M1とM2のどちらである可能性も持っているので、どちらなのかを識別できていないという視点です。

>3)Mxの視点でM1とM2を捉えるなら、M1とM2はそれぞれ、経験的に確かめられるような因果的な影響を残すことはあり得ますか。

 Mx=M1+M2は、M1とM2の「干渉」を観測できるので、単独のM1でもなければ単独のM2でもない状態です。しかしそれは、M1、M2、Mx、という3種類の異なる心が存在し得るという意味であり、「MxがM1とM2を加工してMxにしたので、M1とM2は無くなった」という意味ではないと思われます。

>>105 横山さんへ

>そして、M1とM2が経験的に確かめられるような因果的な影響を残すことがないものなのであれば、その両方が実在するとするような世界モデルは、現実の世界のモデルではあり得ず、単なるおとぎ話でしかないのじゃないか、という議論を問いたいと考えているのです。

 M1とM2は線形の重ね合わせであって、確かに「経験的に確かめられるような因果的な影響を残すことがない」です。しかし、Mx=M1+M2は自分がM1とM2の重ね合わせらしいと知ることができるので、自分がどちらなのかを観測していないときはM1+M2という重ね合わせになっているらしいと考えるのは、合理的です。
 さらに、MxとMyも線形の重ね合わせなので、互いに影響は及ぼせませんが、Mz=Mx+Myの視点に立てばMxとMyの「干渉」を観測でき、両者が存在するらしいと推測できます。…。これを遡っていくと、最後は「空」M0に達し、M0の視点に立てばその中にあらゆる心が存在し「干渉」し合っているらしい、と推測できます。

107横山信幸:2016/07/12(火) 13:39:47
>最後は「空」M0に達し、M0の視点に立てばその中にあらゆる心が存在し「干渉」し合っているらしい、と推測できます。

そのように考えたときに、MxやM0にあたるものは、M1やM2を互いに他者性をもつ他者としては捉えることはできないように思います。言うなれば、すべてのMは私の心による解釈でしかないと。
そこで、

疑問1)SBさんのおっしゃるMはすべて誰かが解釈した対象でしかないものであって、そこに超越的な他者性はないとしてよろしいでしょうか。(ここで言う「超越的な他者性」とは、自己の意識や能力には還元できないような超越的な外部性のことで、私の分析能力では原理的に分析できないものだと考えてください。)

1´)つまり、仮に或るMが超越的な他者性持つとする場合に、そのMは私の判断で分析できないものだとする定義によって、M1+M2という重ね合わせになっているらしいとかんがえることがより合理的だと判断できるような状況にはなり得ない、と思われます。この点認めていただけますか。



そして、すべてのMが互いに超越的な他者性を持たないのであれば、その場合の友人のM2なるものはそのときの判断者が判断分析し得る対象であるはずですから、「私のM1と友人のM2が重ね合わさっている」という発言について、次のように考えられることになります。
M2がM1との関係において「M1+M2という重ね合わせになっているらしいとかんがえることがより合理的だと判断できるような状況」になった場合には、それは結局、「「その発言者がその心的内容として捉えている 」とその発言者が判断した対象と、「その友人がその心的内容として捉えている」とその発言者が判断した対象との重ね合わせ」としての合理性でしかあり得ないということです。
しかし、この場合、「「その発言者がその心的内容として捉えている」とその発言者が判断した対象と、「その友人がその心的内容として捉えている」とその発言者が判断した対象との重ね合わせ」という世界解釈の表現をA記述とし、「その発言者が世界の対象として判断した内容1とその発言者が世界の対象として判断した内容2との重ね合わせ」という世界解釈の表現をB記述とするとするときに、僕には、B記述の内容が合理的だと判断できることはあっても、A記述の内容が合理的だと判断される状況があるとは思えないのです。
そこで、それをふまえて、
疑問2)「「私がその心的内容として捉えている」と私が判断した対象と、「その友人がその心的内容として捉えている」と私が判断した対象との重ね合わせの状況が実際に存在する」というような記述が合理的な世界解釈だと判断できるような状況があるとお考えであれば、その具体的な詳細を教えてください。
或いは、
「私の心的内容と友人の心的内容が実際に重なりあって世界を構成している」というような記述が合理的な世界解釈だと判断できるような状況があるとお考えであれば、その具体的な詳細を教えてください。


どうも、こねくり回した表現になってしまって、これでは伝わらないかもしれませんね。面倒な話になってしまったので、無理して返答していただかなくても結構です。

108SB:2016/07/14(木) 05:44:40
>>107 横山さんへ

>そのように考えたときに、MxやM0にあたるものは、M1やM2を互いに他者性をもつ他者としては捉えることはできないように思います。言うなれば、すべてのMは私の心による解釈でしかないと。
>疑問1)SBさんのおっしゃるMはすべて誰かが解釈した対象でしかないものであって、そこに超越的な他者性はないとしてよろしいでしょうか。(ここで言う「超越的な他者性」とは、自己の意識や能力には還元できないような超越的な外部性のことで、私の分析能力では原理的に分析できないものだと考えてください。)
>1´)つまり、仮に或るMが超越的な他者性持つとする場合に、そのMは私の判断で分析できないものだとする定義によって、M1+M2という重ね合わせになっているらしいとかんがえることがより合理的だと判断できるような状況にはなり得ない、と思われます。この点認めていただけますか。

 M1にとってM2は他者だし、M2にとってM1は他者ですから、互いに相手の存否も状態も知り得ないし、線形の重ね合わせであるため、互いに影響を及ぼすことさえできません(「超越的な他者性」?)。
 一方、Mx=M1+M2やM0=M1+M2+M3+…にとってはM1もM2も自分の一部なのですから、M1+M2という重ね合わせであることを認識できて当然ではないでしょうか?

>そして、すべてのMが互いに超越的な他者性を持たないのであれば、その場合の友人のM2なるものはそのときの判断者が判断分析し得る対象であるはずですから、「私のM1と友人のM2が重ね合わさっている」という発言について、次のように考えられることになります。
>M2がM1との関係において「M1+M2という重ね合わせになっているらしいとかんがえることがより合理的だと判断できるような状況」になった場合には、それは結局、「「その発言者がその心的内容として捉えている 」とその発言者が判断した対象と、「その友人がその心的内容として捉えている」とその発言者が判断した対象との重ね合わせ」としての合理性でしかあり得ないということです。
>しかし、この場合、「「その発言者がその心的内容として捉えている」とその発言者が判断した対象と、「その友人がその心的内容として捉えている」とその発言者が判断した対象との重ね合わせ」という世界解釈の表現をA記述とし、「その発言者が世界の対象として判断した内容1とその発言者が世界の対象として判断した内容2との重ね合わせ」という世界解釈の表現をB記述とするとするときに、僕には、B記述の内容が合理的だと判断できることはあっても、A記述の内容が合理的だと判断される状況があるとは思えないのです。

 Mx=M1+M2の視点に立てば、M1もM2も自分の一部なのですから、B記述で良いと思われます。A記述は、M1だけが自分、M2は他者、と考えてしまっていて不自然です。

>疑問2)「「私がその心的内容として捉えている」と私が判断した対象と、「その友人がその心的内容として捉えている」と私が判断した対象との重ね合わせの状況が実際に存在する」というような記述が合理的な世界解釈だと判断できるような状況があるとお考えであれば、その具体的な詳細を教えてください。
>或いは、「私の心的内容と友人の心的内容が実際に重なりあって世界を構成している」というような記述が合理的な世界解釈だと判断できるような状況があるとお考えであれば、その具体的な詳細を教えてください。

 それはA記述の方でしょう? Mx=M1+M2にとってM1もM2も自分の一部なのですから、B記述の方が適切です。つまり、「その発言者が世界の対象として判断した内容1とその発言者が世界の対象として判断した内容2との重ね合わせ」と見なすべきです。

109横山信幸:2016/07/15(金) 20:19:52
ずいぶん勘違いをしていました。
SBさんは、>>1で「「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験すること」」とおっしゃっていたそれぞれのMは、B記述としての捉え方をされたものと考えてよろしいですか。
確認のため、既出のAB記述のほかにC記述を付け加えています。ご確認お願いします。
A記述:「「その発言者がその心的内容として捉えている」とその発言者が判断した対象と、「その友人がその心的内容として捉えている」とその発言者が判断した対象との重ね合わせ」という世界解釈の表現。
B記述:「その発言者が世界の対象として判断した内容1とその発言者が世界の対象として判断した内容2との重ね合わせ」という世界解釈の表現。
C記述:「「その発言者がその心的内容として捉えている」とその発言者が判断した対象と、「その友人がその心的内容として捉えている」とその友人が判断した対象との重ね合わせ」という世界解釈の表現。

110SB:2016/07/17(日) 02:38:13
>>109 横山さんへ

>SBさんは、>>1で「「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験すること」」とおっしゃっていたそれぞれのMは、B記述としての捉え方をされたものと考えてよろしいですか。

 意味不明です。どういう視点に立つかで様々なのですから。M1単独の視点またはM2単独の視点に立つのであれば、互いに相手は状態も存在も知り得ない他者です(超越的な他者性?)。Mx=M1+M2という重ね合わせの視点に立つのであれば、M1もM2も自分の一部なので、どちらも自分のこととして認識できます(B記述?)。M1もまた、M1=M1a+M1bと表現できる部分M1aとM1bを持っているとすれば、M1にとってM1aとM1bとはどちらも自分の一部として認識できます(B記述?)。

 どの心の視点に立っても、
  (1) 自分の心は、他者の心の状態も存在も知り得ない。
  (2) 自分の心は、自分の心を構成している複数の部分を自分のこととして
    認識できる。
という、極めて当たり前の事です。

111横山信幸:2016/07/17(日) 11:57:44
>(1) 自分の心は、他者の心の状態も存在も知り得ない。(2) 自分の心は、自分の心を構成している複数の部分を自分のこととして認識できる。

のであるならば、そのことゆえに、
或る発言者が経験的事実としての世界解釈を複数の世界の重ね合わせとして語るときに、C記述(「「その発言者がその心的内容として捉えている」とその発言者が判断した対象と、「その友人がその心的内容として捉えている」とその友人が判断した対象との重ね合わせ」という世界解釈の表現)を用いることはできない。
(という点では、まず僕の理解は正しいですよね。)


また、
>Mx=M1+M2にとって(A記述を用いるよりも)B記述の方が適切である
とするならば、
或る発言者が経験的事実としての世界解釈を複数の世界の重ね合わせとして語るには、「「その発言者がその心的内容として捉えている」とその発言者が判断した対象と、「その友人がその心的内容として捉えている」とその発言者が判断した対象との重ね合わせ」という世界解釈の表現よりも、(「その発言者が世界の対象として判断した内容1とその発言者が世界の対象として判断した内容2との重ね合わせ」という世界解釈の表現の方が適切であり、B記述を用いるべきだということになるはずです。

そして、そうであれば、
>>1での「「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験すること」は、全知全能の「神」であるための必要条件」について、
「存在」が単なる空想ではなく根拠のある世界解釈としての存在であるならば、その「M」というものは誰かの心的内容ではなくて、発言者(或いは神)が世界の対象として判断した内容を指すものと解釈するのが適切だ、ということになると思います。

前の質問は、そのような捉え方でSBさんの意図に合致しているかということを聞きたくてしたものでした。ちょっと質問の表現を変えて問い直しますね。

上のように考えた上で、「「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験すること」は、全知全能の「神」であるための必要条件」というのは、「「その発言者が、存在し得るすべての対象を存在するものとして知り得て判断し得ること」が、全知全能の「神」であるための必要条件」ということを指すものに過ぎないと捉え直しても正しいですか。
つまり、「M」という表現を用いることによって語られているのは、「W」という表現によって語られ得る内容以上のものを表しているものではない、と理解して良いですか、というのが問いたいことです。

112SB:2016/07/20(水) 02:24:52
>>111 横山さんへ

>上のように考えた上で、「「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験すること」は、全知全能の「神」であるための必要条件」というのは、「「その発言者が、存在し得るすべての対象を存在するものとして知り得て判断し得ること」が、全知全能の「神」であるための必要条件」ということを指すものに過ぎないと捉え直しても正しいですか。

 個々の心が持てる情報の量をNビットとし、個々のビットが独立して「0」「1」「?」3つの状態を取り得るとすると、全部で3^N種類の心になります(N→∞)。全知全能の「神」であるための必要(かつ十分)条件は、それらすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験すること、です。
 M0、M1、M2、M3、…と書くと、個々の心は独立しているように見えますが、M7=M2+M3だったり、M135=M22+M45+M79だったり、という関係も有り得ます。M7はM2とM3の両方を認識していますし、M135はM22とM45とM79の3つを自分の内容として認識しています。M0、M1、M2、M3、…の2つ以上を鳥瞰している心も、M0、M1、M2、M3、…の中に含まれます。

>つまり、「M」という表現を用いることによって語られているのは、「W」という表現によって語られ得る内容以上のものを表しているものではない、と理解して良いですか、というのが問いたいことです。

 はい、それで良いと思います。3^N種類の要素M0、M1、M2、M3、…を持つ集合{M}でも良いし、3^N種類の要素W0、W1、W2、W3、…を持つ集合{W}でも同じことです。普通は「気分」のようなものは、心Mには含めても世界Wには含めないと思われますが、M=Wの場合には「気分」も世界Wに含まれます。

113横山信幸:2016/07/20(水) 07:21:33
そういうことでしたら、「私のMと友人のMの干渉」という表現は単に「或るWと別のWの干渉」という表現以上のものは保有していないことになると思います。だから、「友人の」という表現はオッカムの剃刀によって否定されるべきだと思われます。いかがでしょう。

114SB:2016/07/21(木) 05:22:22
>>113 横山さんへ

 その通りです。「自分の心M1と友人の心M2の干渉」と表現している時は、M1の視点に立っている訳ですが、この場合にはM1とM2とは干渉しません。M1とM2の干渉を知覚・認識できるのはMx=M1+M2の視点に立っている時ですが、この時は「自分Mxの中の2つの部分M1とM2の干渉」になりますから、「自分の心M1と友人の心M2の干渉」という表現が適切ではなくなってしまいます。

 自分の心M1と友人の心M2とでは説明しにくいので、二重スリット実験で1個の光子を左右のスリットに確率1/2ずつで通した場合の話です。光子はスリットを通り過ぎましたが、まだスクリーンには達していないとします。この時、Mx=「左右どちらのスリットを通ったか知らない心」、M1=「左のスリットを通ったと知っている心」、M2=「右のスリットを通ったと知っている心」とすれば、Mx=M1+M2の関係にあります。
 このまま光子がスクリーンに到達して干渉するのを観測すると、自分はMxであって単独のM1や単独のM2ではないことが確定します。スクリーンに到達する前に、左右どちらのスリットを通って来たかを観測すると、自分は単独のM1または単独のM2のどちらか一方であってMxではないことが確定します。Mx=M1+M2というのは、Mx、M1、M2のどれにもなり得る可能性を持った状態です。

115横山信幸:2016/07/21(木) 13:55:39
了解しました。これで、MとWの関係についての僕の質問は終わりです。
質問しているうちに、SB理論に対する次の疑問がわいてきたのですが、続けて良いですか。
M0=M1+M2+・・・が成立する条件に関する疑問なのですが、ここらで、いったん休憩しましょうか。

116SB:2016/07/23(土) 08:43:34
>>115 横山さんへ

>了解しました。これで、MとWの関係についての僕の質問は終わりです。

 説明の方、的確でない場合もあってすみません。納得がいかない時は、どこまでもしつこく質問し続けて下さい。いろんな別表現で説明を試みます。

>質問しているうちに、SB理論に対する次の疑問がわいてきたのですが、続けて良いですか。M0=M1+M2+・・・が成立する条件に関する疑問なのですが、ここらで、いったん休憩しましょうか。

 そちらさえ宜しければ、続けて下さい。こうして質問して頂けることを大変感謝していますし、大いに楽しんでいますので。

117横山信幸:2016/07/24(日) 09:47:35
では、続けさせてもらいます。

次の疑問は、神の視点において、「M0=M1+M2+・・・」の「・・・」がどんなものであれば、この等式が成立するのか、という疑問です。
たかだか人間の策定できる程度の、有限の、認知や分析の形式のパターンでもって分析しただけの内容しかないとするのなら、課題の等式は成り立たないのではないかと疑っているのですが、SBさんは、右辺がどんなものであれば成り立つ式として想定されていますか。

118SB:2016/07/25(月) 21:24:58
>>117 横山さんへ

 M0=「??????????…」(「?」がN個並ぶ、N→∞)において、「?」=「0」+「1」により、個々の「?」が、「?」でもあれば、単独の「0」でもあれば、単独の「1」でもあり得る、と考えると、全部で3^N種類の心になります。M0=M1+M2+M3+…の右辺には、M0を除く3^N-1(=kとする)個の心が並ぶと考えると、こうなります。
   M0=M1+M2+M3+ … +Mk
 M0は完全な無意識状態であり、数でいう0と同じなので、右辺にもM0を含め、
   M0=M0+M1+M2+M3+ … +Mk
と書くこともできます。
 さらに右辺は線形の重ね合わせなので、無数の解釈が可能です。M0、M1、M2、M3、…、Mkに任意の重みa0、a1、a2、a3、…、akを付けて線形結合させた、
   Mx=a0・M0+a1・M1+a2・M2+a3・M3+ … +ak・Mk
で表されるすべてのMxがM0に含まれている、と解釈できます。いかがでしょうか。

119横山信幸:2016/07/25(月) 22:06:59
ずいぶん難しそうな話になってきましたね。
ひとつ確認させてください。

僕がお聞きしたかったのは、課題の式の右辺の項Nの個数が有限でもいいのか、もっと言うと1個や2個でも良いのか、ということでした。
でも、

>M0=「??????????…」(「?」がN個並ぶ、N→∞)において、

ということですから、Nは無限じゃないとダメだってことですか。
僕は1個でも良さそうな気もしていますし、無限じゃないとダメなような気もしています。

120SB:2016/07/28(木) 08:01:57
>>119 横山さんへ

>M0=「??????????…」(「?」がN個並ぶ、N→∞)において、
>ということですから、Nは無限じゃないとダメだってことですか。

 いえ、これはNが最大∞まで拡張できる、という意味ですから、有限でもOKです。例えば、M0の第1ビットを「?」=「0」+「1」で分解すると、
   M0=「0?????????…」+「1?????????…」
となり、2個だけにもなります。第1ビットと第2ビットを「?」=「0」+「1」で分解すると、4個にもなります。
   M0=「00????????…」+「01????????…」+「10????????…」+「11????????…」
「?」=「?」+「0」+「1」を用いてM0の第1ビット〜第Nビットを分解すれば、右辺は3^N個になります。

 さらに
   M0=M1+M2+M3+…
において、
   Ma=M1+M6+M11+M16+…
   Mb=M2+M7+M12+M17+…
   Mc=M3+M8+M13+M18+…
   Md=M4+M9+M14+M19+…
   Me=M5+M10+M15+M20+…
とおけば、
   M0=Ma+Mb+Mc+Md+Me
と5つにもなります。

 もちろん、右辺が1個の場合は、
   M0=M0
です。

121横山信幸:2016/07/28(木) 18:06:14
>例えば、M0の第1ビットを「?」=「0」+「1」で分解すると、M0=「0?????????…」+「1?????????…」となり、

の部分は、「M0=「0」+「1」」と表しても大丈夫ですか。

何をお聞きしたいのかと言うと、
この全知全能のM0ってのは、「任意の真なる命題に対してそれを偽とする可能的世界が多重化されて現実にあると想定することにより、その命題が真である世界も偽である世界も実在することにした、その世界」だとしていまって良いのじゃないか、ってことです。ポイントは、「任意」です。どんな命題であるかを選ばず、どんな命題でもその真も偽も両方を叶えてしまう、そういう装置がM0なのではないか、ってことです。そして、あらゆる命題の真偽の両方を叶えるのだから、そのM0は現実の世界については何も語ってないのじゃないか、ってことです。
ここで言う「現実」とは、経験的にその正当性合理性が確かめられる世界という意味です。多重世界であっても、干渉縞実験などでそこに多重性があるとすることを正当化できる経験的確かめの方法もありますし、そのような確かめがないなら現実の世界の話にはなり得ないと思って、僕はしつこく干渉にこだわっていたのです。
でも、SBさんは、そのような確かめ可能な世界の話はしていなかったと理解した方が良いのでしょうか、ってことです。

122SB:2016/07/30(土) 12:21:40
>>121 横山さんへ

>例えば、M0の第1ビットを「?」=「0」+「1」で分解すると、M0=「0?????????…」+「1?????????…」となり、
>の部分は、「M0=「0」+「1」」と表しても大丈夫ですか。

 はい、OKです。M0を、たった1ビットだけの情報を持つすべての心の状態に分解して見せたのが、このM0(=「?」)=「0」+「1」ですね。「?」は「??????????…」の省略形、「0」は「0?????????…」の省略形、「1」は「1?????????…」の省略形と見なせます。

>何をお聞きしたいのかと言うと、
>この全知全能のM0ってのは、「任意の真なる命題に対してそれを偽とする可能的世界が多重化されて現実にあると想定することにより、その命題が真である世界も偽である世界も実在することにした、その世界」だとしていまって良いのじゃないか、ってことです。

 まさにその通りです。正しく理解して頂けているようです。

>ポイントは、「任意」です。どんな命題であるかを選ばず、どんな命題でもその真も偽も両方を叶えてしまう、そういう装置がM0なのではないか、ってことです。そして、あらゆる命題の真偽の両方を叶えるのだから、そのM0は現実の世界については何も語ってないのじゃないか、ってことです。

 というか、「空」M0にとっての現実の世界W0は、あらゆる○○○について「○○○である」でもあれば「○○○でない」でもある世界、です。完全矛盾状態にあります。

>ここで言う「現実」とは、経験的にその正当性合理性が確かめられる世界という意味です。多重世界であっても、干渉縞実験などでそこに多重性があるとすることを正当化できる経験的確かめの方法もありますし、そのような確かめがないなら現実の世界の話にはなり得ないと思って、僕はしつこく干渉にこだわっていたのです。
>でも、SBさんは、そのような確かめ可能な世界の話はしていなかったと理解した方が良いのでしょうか、ってことです。

 「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません。
 一方、人間の心は「色」M1、M2、M3、…のどれかであり、何万ビット、何億ビットという情報を持っています。仮に現在の自分の心をM1=「01??1??00?11?…」だとすると、第1ビットは「0」に確定していますから、「0」が真、「1」は偽です。第2ビットは「1」に確定してしますから、「1」が真、「0」は偽です。これが「確かめ可能な世界」での話です。
 M1が認識できるのはM1だけであり、独我論や独今論さえ反証できず、ついつい自分だけが選ばれているかのように錯覚してしまい、「なぜ第1ビットは「1」ではなく「0」なのだろう?」という謎が存在するかのように実感してしまいます。しかしM0の視点に立てば、第1ビットは「?」であり、「0」でも「1」でもあります。どちらか一方を認識するためには、そちらを選ぶことが必要です。「「0」を選べば「0」が選ばれる」、「「1」を選べば「1」が選ばれる」というダブル・トートロジーが成立しているだけであって、謎は何も無くなる、という意味です。

123横山信幸:2016/07/30(土) 14:24:39
確認させてください。
「「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません」
という文は、確かめ可能な世界に関する記述ではなく、定義(あるいは証明のための前提)だと考えて良いのですよね。
つまり 「「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません。・・・とすることにする」
という意味だと考えて良いのですよね。

124SB:2016/08/01(月) 19:30:52
>>123 横山さんへ

>>「「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません」
>という文は、確かめ可能な世界に関する記述ではなく、定義(あるいは証明のための前提)だと考えて良いのですよね。

 「色」M1、M2、M3、…の場合には、確かめ可能な情報が0ではなく正の数だけ存在するのに対し、「空」M0の方は、確かめ可能な情報が0だということです。

 「色」の方は、「0」または「1」に確定しているビットに関しては真偽が確定しており、「?」の部分は「0」と「1」とが重ね合わせのままで真偽が確定していないことを、自力で確かめ可能です。だから、自分がどんな状態のMi(i=1、2、3、…)なのかを自力で認識し、自己の状態を確定させることが可能です。
 一方「空」M0の方は、すべてのビットが「?」であり「0」と「1」の重ね合わせのままですが、それゆえに完全な無意識状態であり、自分が完全な無意識状態であること自体を認識できません。だからM0は、自分を完全な無意識状態に確定させることさえできず、M0、M1、M2、M3、…のどれでも有り得ます。それがM0=M0+M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕です。

>つまり 「「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません。・・・とすることにする」
という意味だと考えて良いのですよね。

 「?」は「0」(「○○○である」)と「1」(「○○○でない」)の重ね合わせであり、「空」M0=「??????????…」なのですから、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定してないのは必然です。新たに仮定を導入する必要は有りません。

125横山信幸:2016/08/01(月) 22:12:22
>「?」は「0」(「○○○である」)と「1」(「○○○でない」)の重ね合わせであり、「空」M0=「??????????…」なのですから、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定してないのは必然です。新たに仮定を導入する必要は有りません。

ごめんなさいね。どうもはっきりしないので、重ねて確認させてください。上のようにおっしゃるのは、
「「?」は「0」(「○○○である」)と「1」(「○○○でない」)の重ね合わせであり、「空」M0=「??????????…」」
ということを前提すると、そこから、必然的に
「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立」することになる、
と解釈して良いですか。
それとも、何の前提もなしに必然的に「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立」する、
と言えるということですか。

126SB:2016/08/03(水) 21:32:27
>>125 横山さんへ

>「「?」は「0」(「○○○である」)と「1」(「○○○でない」)の重ね合わせであり、「空」M0=「??????????…」」
>ということを前提すると、そこから、必然的に
>「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立」することになる、
>と解釈して良いですか。

 はい、それで良いと思います。要するに、「空」と「色」との関係を、「0」、「1」、「?」(=「0」+「1」)を用いて統一的に記述しているだけです。すべてのビットが「?」なのが「空」M0、少なくとも1ビットは「0」か「1」かに確定しているのが「色」M1、M2、M3、…です。「0」、「1」、「?」で表現することにより、M0=M1+M2+M3+…という数式の意味が理解できる、という説明です。

127横山信幸:2016/08/03(水) 23:02:08
回答ありがとうございます。そこで一方、「A∧A⇒B」と「B」は同値ですよね。だから

【「「?」は「0」(「○○○である」)と「1」(「○○○でない」)の重ね合わせであり、「空」M0=「??????????…」」ということを前提すると、そこから、必然的に「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立」する】は、【「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立する」と前提する】と同値になりますよね。なので、

【「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立する」と前提する】

だと考えて良いということを言ってらっしゃると理解したのですが、間違っていますか。

128名無しさん:2016/08/04(木) 00:06:09
通りすがりですが、>>1の主張はすごく面白かったです。
推移を見守ります。

129SB:2016/08/06(土) 02:29:30
>>127 横山さんへ

 もう一度初めから説明し直します。記号を用いた言語による記述なのですから、記号の定義などもはっきりさせておくべきですね。

 まず「0」とは、「「0」であって「1」ではない」という意識(情報)を持った状態を表しています(【定義1】)。「1」とは、「「1」であって「0」ではない」という意識(情報)を持った状態を表しています(【定義2】)。具体例を挙げるなら、シュレディンガーの猫の生死を観測し、「生」だと意識している状態が「0」、「死」だと意識している状態が「1」です。あるいは、二重スリット干渉実験で、1個の光子が左右どちらのスリットを通ったかを観測し、「左」だと意識している状態が「0」、「右」だと意識している状態が「1」です。もちろん「0」と「1」は、逆に定めても構いません。
 さらに、「0」か「1」かを知らず、どちらであるとも意識していない状態を「?」で表します。この「?」は、「0」や「1」とどういう関係にあるでしょうか? 量子力学によると、「?」の状態では「0」か「1」かに定まってさえおらず、どちらなのかを観測する時に「?」が「0」と「1」に分裂するようです。ということは、「?」は「0」と「1」とをa、bという重み付きで重ね合わせた「?」=a「0」+b「1」であると見なせばぴったり行きそうです(【定義3】)。ただし、規格化のためのaとbの計算は難しい場合も有るので、定性的な議論をする時は敢えてaやbという重みは付けず、抽象的に「?」=「0」+「1」と表現します。
 次に「色」M1、M2、M3、…とは、我々人間の心のように、特定の意識を持った状態であり、「?」も含んでて良いですが、少なくとも1ビットは「0」または「1」に確定している状態だとします(【定義4】)。M1=「01??1?011?…」のように表せます。
 最後に「空」とは、完全な無意識状態を意味し、すべてのビットが「?」になっている心の状態だとします(【定義5】)。M0=「??????????…」と表現されます。

 以上がおよその定義です。これらを踏まえると、M0=「??????????…」は、第1ビットが「0」=「○○○である」と「1」=「○○○でない」の重ね合わせ「?」、第2ビットが「0」=「□□□である」と「1」=「□□□でない」の重ね合わせ「?」、第3ビットが「0」=「△△△である」と「1」=「△△△でない」の重ね合わせ「?」、…であり、すべてのビットが「0」と「1」の重ね合わせのまま「?」になっている状態だ、と見なせます。いかがでしょうか。

130SB:2016/08/06(土) 02:39:17
>>128 名無しさんへ

>通りすがりですが、>>1の主張はすごく面白かったです。
>推移を見守ります。

 有難うございます。読んで下さっている方がおられるというのは、大変うれしい事です。感謝、感謝です。もし宜しかったら、ぜひご意見もお聞かせ下さい。こちらへの質問でしたら、喜んでお答えします。横山さんの質問に対して、私SBがマヌケな返答をしている時は、「的が外れてますよ」と指摘して下さい。また、私SBがモタモタしている間に横山さんと二人で話が一気に進み、私SBが「仲間外れにしないでくれ〜」と慌てて追い付く、なんてことも有って良いと思います。
 ご意見を聞かせて下さる方は、どなたでも大歓迎です。相手を不愉快にしてしまう書き込みだけはしないように注意して、お互いに「楽しい」「得るものが有った」と思えるような議論をしたいと思っております。今後ともよろしくお願い致します。

131:2016/08/06(土) 03:06:25
>>130
こんにちは。横山さんとSBさんの真摯な議論、楽しく拝見しています。今回はロムだけですが、また機会があればお話ししてみたいですね。

SBさんへ メビの方にさわりだけですがご希望の事柄を書いてみましたので、宜しければ覗いてみてください。では、これからもこちらでの議論楽しみにしています。

132横山信幸:2016/08/06(土) 08:13:05
話の流れが分からなくて。
>>127の回答として>>129を提出してくださったのでしょうか。
僕には、どうも、>>127への回答がyesなのかnoなのか読み取れないでいます。僕には定義が改まっても>>127の推論はそのまま生きているように思うのですが。

133SB:2016/08/08(月) 02:53:26
>>132 横山さんへ

 申し訳ありません。>>127のAとかBとかいうのが何を指しているのか解らず、質問の意味を理解できなかったのです。AとBについて解説して下さい。
 それに、
>【「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立する」と前提する】
も、主語が無いので意味不明です。

134横山信幸:2016/08/08(月) 07:49:04
>>123からの僕の質問は基本的に同じことを聞いています。
【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません】
というのが、世界に関する経験的事実なのか、世界の状態とは関係なく恒真であるような前提なのか、という問いです。
この問いにたいして、>>124で「新たに仮定を導入する必要は有りません。」とお答えいただきましたが、まだ僕の疑問が解消されかなったので、質問を重ねました。そして、>>126で、
>>(横山)「「?」は「0」(「○○○である」)と「1」(「○○○でない」)の重ね合わせであり、「空」M0=「??????????…」」ということを前提すると、そこから、必然的に「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立」することになる、と解釈して良いですか。
>(SBさん)はい、それで良いと思います。

との回答をいただきました。
そこで、「(A∧A⇒B)⇔B」という式を持ってきて、
A:「「?」は「0」(「○○○である」)と「1」(「○○○でない」)の重ね合わせであり、「空」M0=「??????????…」」
B:「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立する」
とする。そして、
「A∧A⇒B」の最初の「A」を前提だと解釈し、「A⇒B」を「Aならば必然的にB」と解釈する。すると、
【「「?」は「0」(「○○○である」)と「1」(「○○○でない」)の重ね合わせであり、「空」M0=「??????????…」」ということを前提すると、そこから、必然的に「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立する】という文は【A∧A⇒B】と変換できますので、「(A∧A⇒B)⇔B」を受け入れるなら、これは
A「「?」は「0」(「○○○である」)と「1」(「○○○でない」)の重ね合わせであり、「空」M0=「??????????…」」を「前提」とする。ということは、すなわち、
B「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立する」を「前提」とすることだ、と言えることになるはずです。

以上のことから考えて、
【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません。】
というのが、世界に関する経験的事実ではなく、世界の状態とは関係なく恒真であるような前提として、SB理論に組み込まれているのではないか、ということを確かめたい。
これが、質問の意図です。どうでしょうか。

135SB:2016/08/08(月) 16:46:14
>>134 横山さんへ

>【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません】
>というのが、世界に関する経験的事実なのか、世界の状態とは関係なく恒真であるような前提なのか、という問いです。

 経験的事実を記述するために、【定義1】〜【定義5】を定めた、すると【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません】は真な命題として記述される、です。

>「A∧A⇒B」の最初の「A」を前提だと解釈し、「A⇒B」を「Aならば必然的にB」と解釈する。すると、

 「A∧A⇒B」とは、「A∧(A⇒B)」の意味でしたか。てっきり「(A∧A)⇒B」だと解釈してしまい、なぜ(A∧A)が出て来るのだろう?と理解できずにいました。

>【「「?」は「0」(「○○○である」)と「1」(「○○○でない」)の重ね合わせであり、「空」M0=「??????????…」」ということを前提すると、そこから、必然的に「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立する】という文は【A∧A⇒B】と変換できますので、「(A∧A⇒B)⇔B」を受け入れるなら、これは
>A「「?」は「0」(「○○○である」)と「1」(「○○○でない」)の重ね合わせであり、「空」M0=「??????????…」」を「前提」とする。ということは、すなわち、
>B「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立する」を「前提」とすることだ、と言えることになるはずです。

 そうでしょうか? 例えば、a=「無理数とは、整数÷整数という形で表現できない実数のことである。√2とは、平方すると2になる正の実数である。」という定義から、b=「√2は無理数である」が言えます。横山さんは、aから言えるのはb=「√2は無理数である」ではなく「b=「√2は無理数である」と「前提」する」だと主張されているのでしょうか?  こちらの説明は、「aを定義すればb=「√2は無理数である」は断定できるのであって、新たにbという仮定を導入する必要は無い」です。

136横山信幸:2016/08/08(月) 18:09:57
僕の記述が良くありませんでした。「A∧A⇒B」では確かに「(A∧A)⇒B」になってしまいますね。「A∧(A⇒B)」と書かなくてはなりませんでしたね。紛らわしい書き様をしてしまいました。ごめんなさい。
「前提」についても、「前提Aから必然的にBが導出される場合、Bが前提されたに等しいので『Bは前提である』という表現も許される」と考えたのですが、それが、誰にでも通じる表現だとは限らないと言われれば、その通りだと思います。
ですので、僕の下手くそな書き方を少し直して、再度質問してみます。これで質問の意図が通じれば良いのですが。

問い、【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません。】
というのが、世界に関する経験的事実ではなく、世界の状態とは関係なく恒真であるような記述として、SB理論に組み込まれていると理解して良いですか。

137SB:2016/08/11(木) 05:10:39
>>136 横山さんへ

>問い、【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません。】
>というのが、世界に関する経験的事実ではなく、世界の状態とは関係なく恒真であるような記述として、SB理論に組み込まれていると理解して良いですか。

 まず、経験的事実を説明できないような理論を作っても意味が無いので、経験的事実を正しく記述できるような理論体系を作るために導入したのが【定義1】〜【定義5】でした。そして理論体系ができ上れば、一々現実世界と比較して正しいかどうかをチェックしなくても、理論内部だけで演繹的証明が可能になります。つまり、経験的事実を説明するために作った理論でも、完成した時には、現実世界を無視して、理論内部だけで命題の真偽を確定できるようになります。

 例えば物理学では、現在の時刻taにおける我々の宇宙W(ta)の物理状態をかなり詳しく解明しており、かつ、我々の宇宙がどんな物理法則に従っているかも、かなり詳しく解明しています。従って、任意の時刻tにおけるW(t)の物理状態を理論だけで計算できます。特に過去へと遡り、時刻t=0つまり、我々の宇宙が発生した最初の状態W(0)とはどんなものだったのか、といった推測も可能であり、ビッグ・バン仮説ではW(0)は1個の点だったらしい、といった事も判って来ています。もちろんW(0)を体験する事は不可能ですが、理論が完成すれば、演繹的に推測可能ということですね。

 心も同じです。「色」M1、M2、M3、…の方は、自分で自分の状態を自己認識できるのに対し、「空」M0の方は自分の状態を自己認識することさえできません。つまり「空」M0は、経験すること自体が不可能です。従って、まずは「色」M1、M2、M3、…の視点に立って「0」「1」「?」を用いた記述を完成させ、その上で自分が持つ情報を少しずつ消滅させていき、完全に情報が消滅した極限の状態として想像しているのが「空」M0だということになります。

138横山信幸:2016/08/11(木) 11:32:10
申し訳ありませんが、もう僕にはこの議論についていけないかもしれません。

必然的に恒真であるような命題で世界の偶然的な状態を記述することが可能だ、とSBさんが言われているようにしか思えないのですが、そう言うことを仰っているのでしょうか。もしそうなら、僕には理解不能です。

139SB:2016/08/13(土) 03:13:16
>>138 横山さんへ

>必然的に恒真であるような命題で世界の偶然的な状態を記述することが可能だ、とSBさんが言われているようにしか思えないのですが、そう言うことを仰っているのでしょうか。もしそうなら、僕には理解不能です。

 我々の経験世界を正しく記述できるように配慮して理論体系を作っている訳ですから、その配慮が正しければ、理論が経験世界と一致するのは当然です。もし一致しない例が見付かれば、配慮が不十分だったこととなり、理論を修正すべきことになります。

 複雑な物理法則ならば、今後修正される可能性は有り得ると思います。しかし、数学でいう「長方形の面積は、タテ×ヨコである」のような単純な定式が間違っている可能性は、殆ど無いのではないでしょうか。

 心の話も同じです。【定義1】〜【定義5】を定めている(仮定している)以上、【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立しており、何一つ状態が確定しません。】は必然だと思いますが、反証できますか? あるいは【定義1】〜【定義5】の中に、適切でないものが含まれているかもしれません。不適切なものが有りますか?

140SB:2016/08/13(土) 05:55:42
>>138 横山さんへ

>必然的に恒真であるような命題で世界の偶然的な状態を記述することが可能だ、とSBさんが言われているようにしか思えないのですが、そう言うことを仰っているのでしょうか。
>もしそうなら、僕には理解不能です。

 >>1>>2の説明についてなら、まさにその通りの事を主張しています。現在の自分の心M1は、何万ビット、何億ビットという情報を持っています。そして自分を1人の人間だと考えると、≪状態選択の謎≫=「なぜ自分の心は、他のM2、M3、M4、…ではなくこのM1なのか?」、≪存在選択の謎≫=「なぜ自分の心M1は、「存在しない」ではなく「存在する」の方なのか?」といった謎の存在を感じてしまいます。つまり、自分がM1であること、そして、自分が「存在しない」ではなく「存在する」であることが偶然に思え、その必然性が解らず、謎だと感じてしまう訳です。

 そこで、真の自分は「神」なのであり、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…について「存在する」と「存在しない」の両方を平等に体験していると考えます。すると、「M1が存在する」は無条件に成立するものではなくなり、「「神」の全体験の中から「M1が存在する」を選び出すと」という条件付きで初めて成立することになります。つまり、こうです。「「神」の全体験の中から「M1が存在する」を選び出すと、「神」の全体験の中から「M1が存在する」が選び出される」。ただのトートロジーであったことが解ります。

 こうして≪状態選択の謎≫と≪存在選択の謎≫は、自分を1人の人間だと思い込むことによって生じていた錯覚に過ぎず、本当はただのトートロジーが成立しているだけで、謎など何も無かったと言えます。いかがでしょう? どこが理解不可能でしょうか。

141横山信幸:2016/08/13(土) 10:06:06
「論理哲学論考4.461トートロジーは無条件に真であり、それゆえ真理条件を持たない。トートロジーは無意味である。(たとえば、いま雨が降っているか降っていないかのどちらかだということを知っているとしても、それで私が何事かを知っていることにはならない。)」
恒真命題が世界の偶然的な状態を記述することは不可能である、ということは明らかに思われます。

>もし一致しない例が見付かれば、配慮が不十分だったこととなり、理論を修正すべきことになります。
ということが実際に可能であるなら、その理論は世界の偶然的状態との検証に裏打ちされることになるので、その場合にはそれは恒真だとは言わないとします。
でも、
>真の自分は「神」なのであり、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…について「存在する」と「存在しない」の両方を平等に体験していると考えます。すると、「M1が存在する」は無条件に成立するものではなくなり、「「神」の全体験の中から「M1が存在する」を選び出すと」という条件付きで初めて成立することになります。

というものは仰るように完全な恒真で、世界が一致しない例が起こることはあり得ません。
その命題は、世界がそうなってはいなかった可能性もあるけれど、たまたまそうなっているという偶然的な状況を示すような命題をすべて、必然的でたまたまが入る余地の無い命題にしてしまう文だからです。
だからこそ、その命題は世界の偶然的な状況を記述することはあり得ないように思えます。

142SB:2016/08/13(土) 17:57:59
>>141 横山さんへ

>恒真命題が世界の偶然的な状態を記述することは不可能である、ということは明らかに思われます。

 横山さんは、「世界には偶然的なものが有る」を暗黙の前提にしておられます。SB理論は、「世界に偶然的なものは無い、すべてが必然的だ」と主張しているのです。しかもその説明はすでに>>140に書いた通りです。反論するのであれば、「世界に偶然的なものが有る」を証明して下さい。具体例を1つ挙げてもらえれば十分です。挙げられますか?

>>もし一致しない例が見付かれば、配慮が不十分だったこととなり、理論を修正すべきことになります。
>ということが実際に可能であるなら、その理論は世界の偶然的状態との検証に裏打ちされることになるので、その場合にはそれは恒真だとは言わないとします。

 世界に偶然的なものは有りません。ただ、人間が世界を記述するとき、自分の世界を正しく捉えているとは限らないので、理論は仮説の域を超えず、修正される可能性が有るだけです。正しく捉えている場合と正しく捉えていない場合の両方が、必ず起きているのです。そして、「正しく捉えている」と認識する視点に立てば「正しく捉えている」と認識する、「正しく捉えていない」と認識する視点に立てば「正しく捉えていない」と認識する、のダブル・トートロジーが成立しているだけです。偶然的なものは何も有りません。すべてが必然的です。
 多世界解釈と同じです。1つの世界だけを見ていると、その時間発展は確率に支配され、どう変わって行くかは偶然的であるように見えます。しかし、すべての世界を総合的に見ると、全体としては決定論的に時間発展しているのであって、偶然が入り込む余地は有りません。

 横山さんが、世界の中で「偶然的」と考えておられる具体例を挙げて見せて下さい。それが実はすべて「必然的」であることを説明しますので。もちろん、「真の自分は「神」であり、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…について「存在する」と「存在しない」の両方を体験している」という仮定の上での説明になります。

143横山信幸:2016/08/13(土) 20:26:27
少し誤解を生む言い方をしてしまったかも知れません。
僕は、SB理論で説明できない偶然的な事象があると言いたいわけではありません。反対です。SB理論は論理的に導出される情報以外の情報を何も与えてくれないのではないか、と疑っているのです。

144SB:2016/08/13(土) 22:48:13
>>143 横山さんへ

>僕は、SB理論で説明できない偶然的な事象があると言いたいわけではありません。反対です。SB理論は論理的に導出される情報以外の情報を何も与えてくれないのではないか、と疑っているのです。

 かなり的確に理解されています。さすが横山さん。

 まず「神」には何も情報が有りません。「情報」というのは、ある○○○について「○○○である」と「○○○でない」に分別し、片方だけに限定する時に生じるものです。つまり、全体の中から一部を選び出す時に「情報」が発生するのであり、全体そのものの中には「情報」は有りません。「神」は全体であり、あらゆる○○○について「○○○である」にも「○○○でない」にも限定されず(それが「?」)、「限定されない」にも限定されないため限定されることも有り(それが「0」や「1」)、両方でもあれば片方でもあります(つまり「?」、「0」、「1」のどれでも有り得る)。

 情報を与えてしまうと、「神」は限定されてしまい、全知全能でなくなってしまいます。人間の心がそれです。1人の人間である現在の自分の心M1は、何万ビット、何億ビットという情報を持っていますが、それは「神」の全体験の中から、そういう情報を持ったM1を選んでそれに注目しているからです。「M1である」と認識する視点に立てば「M1である」と認識する、「M1でない」と認識する視点に立てば「M1でない」と認識する、…これもまたダブル・トートロジーですから、謎は何も有りません。

 SB理論では、「偶然なものは無く、すべてがダブル・トートロジー的必然であるから、謎なんて本当は何も無いのだ」と主張しています。ですから、謎を説明するための情報を与える事自体が不要です。

145横山信幸:2016/08/13(土) 23:39:17
「神の御心は我等一人一人の心の内に有る」
「死んだ母さんはお星さまになって僕らを見守ってくださるのよ」
「我等には全く作用をせず、我等には決して知り得ないパラレルワールドがこの世界と重なりあってあるんだよ」
「実はこの世は培養脳が見ている夢なんだ」
例えば、これらの文は、信仰であったり形而上学であったり単なる思い込みであったりするもので、経験的な事実を記述するものではないと思われます。僕は形而上学を否定はしませんし、色々な役に立つと思います。しかし、それで現実の経験的世界がどんなものであるかを記述することはできないと考えています。
SBさんは、>>137

>経験的事実を説明できないような理論を作っても意味が無いので、経験的事実を正しく記述できるような理論体系を作るために

と仰っていましたが、それは、どんな経験的な事実も起こり得るという可能性の話として「説明できる」という意味で言われただけなのですよね。
どんな経験的事態ならば起こり得て、どんな事態ならば起こり得ないか、とか、どんな事実が起こったのか、とか、眼前の事実からはじめて分かる世界をありのままに記述する、などということはできないと考えていいですね。

146横山信幸:2016/08/13(土) 23:44:29
あ、すみません。上の書き込みは、もちろん、
「『M0について言えば、』どんな経験的事態ならば起こり得て、どんな事態ならば起こり得ないか、とか、どんな事実が起こったのか、とか、眼前の事実からはじめて分かる世界をありのままに記述する、などということとは関係ないと考えていいですね。」ということです。

147SB:2016/08/17(水) 06:49:15
>>145 横山さんへ

>「神の御心は我等一人一人の心の内に有る」
>「死んだ母さんはお星さまになって僕らを見守ってくださるのよ」
>「我等には全く作用をせず、我等には決して知り得ないパラレルワールドがこの世界と重なりあってあるんだよ」
>「実はこの世は培養脳が見ている夢なんだ」
>例えば、これらの文は、信仰であったり形而上学であったり単なる思い込みであったりするもので、経験的な事実を記述するものではないと思われます。僕は形而上学を否定はしませんし、色々な役に立つと思います。しかし、それで現実の経験的世界がどんなものであるかを記述することはできないと考えています。

 現在の自分の心をM1とすると、M1が本当に知り得るのはM1の存在と状態だけであり(M1の独我論・独今論)、他の心M0、M2、M3、…の存否は実証も反証もできません。M1にとっての「現実の経験的世界」とはM1だけであり、他の心M0、M2、M3、…の実在も、客観的物質世界の実在も、過去や未来の実在も、すべて実証も反証もできない形而上学なのではないでしょうか?

>>経験的事実を説明できないような理論を作っても意味が無いので、経験的事実を正しく記述できるような理論体系を作るために

>と仰っていましたが、それは、どんな経験的な事実も起こり得るという可能性の話として「説明できる」という意味で言われただけなのですよね。

 どの心Mi(i=1、2、3、…)にとっても、経験的事実はMiの存在と状態だけです。

>どんな経験的事態ならば起こり得て、どんな事態ならば起こり得ないか、とか、どんな事実が起こったのか、とか、眼前の事実からはじめて分かる世界をありのままに記述する、などということはできないと考えていいですね。

 「どんな経験的事態ならば起こり得て、どんな事態ならば起こり得ないか、とか、どんな事実が起こったのか、とか、眼前の事実からはじめて分かる世界をありのままに記述する」は、Mi(i=1、2、3、…)の中の観念として認識している内容を記述しているのであり、記述できるのはそれだけです。

>>146

>「『M0について言えば、』どんな経験的事態ならば起こり得て、どんな事態ならば起こり得ないか、とか、どんな事実が起こったのか、とか、眼前の事実からはじめて分かる世界をありのままに記述する、などということとは関係ないと考えていいですね。」ということです。

 M0は完全な無意識状態ですから、何も認識できず、何も記述できません。

148横山信幸:2016/08/17(水) 09:23:04
>M1にとっての「現実の経験的世界」とはM1だけであり、他の心M0、M2、M3、…の実在も、客観的物質世界の実在も、過去や未来の実在も、すべて実証も反証もできない形而上学なのではないでしょうか?

そう仰るときの「客観的世界」というのは、「「私」の認識から離れて「本当にある」ような、先験的に正しい世界の存在」とでも言うような世界を想定されているのではないでしょうか。
例えば、カントは、世界を統覚するべき「コギト」が、時間空間やカテゴリーというような形式によって(神の視点に頼らないで)、世界のデータを分別し、分解合成し、何かしら意味あるものとして理解できるようになるとしました。そして、その世界観を超越論的観念論であり、経験的実在論でもあると言っています。その超越論的観念論から取得される経験的実在論が本来の実在を語るべき言葉であるとして、その超越論的観念論とは無関係な「本当の世界」を想定する「先験的実在論」を退けています。
このカントの超越論的な観点において、経験的実在こそが正当な実在だとする立場をとるなら、「客観的物質世界の実在も、過去や未来の実在も」、その検証が可能であり正当性をもって問い得るものだと思われます。しかし、この立場にたってもM0は検証も正当性をもって問うことも不可能ではないかと、僕はそういう点を疑っています。
ウィトゲンシュタインは「論考」で、真理値のある命題のうち、恒真命題と矛盾命題を除いた残りを「有意味」だとしましたが、その意味で、「物質世界の実在も、過去や未来の実在も」それを問うことは有意味だけM0を問うことは無意味じゃないかと考えています。
そういう理解で良いですか。

149SB:2016/08/21(日) 18:42:31
>>148 横山さんへ

>このカントの超越論的な観点において、経験的実在こそが正当な実在だとする立場をとるなら、「客観的物質世界の実在も、過去や未来の実在も」、その検証が可能であり正当性をもって問い得るものだと思われます。

 どう答えたものか、大変難しいのですが…。

 例えば科学の場合。科学実在論というか、素朴実在論というか、科学を成立させるために、世界の実在性を、恐らく過去も未来も含めて、暗黙の前提にしている部分が有ります。そういった枠組みの中でなら、「ニュートン力学よりも相対性理論の方が正しいことは、すでに十分検証されている」と言えるでしょう。それはそれで、正しい判断だと思います。科学の議論をしている時に、「物質世界の実在性も、過去や未来の実在性も、ニュートン力学も相対性理論も、何一つ実証も反証もできない」と言ってしまうと、逆に混乱してしまいます。

 にも拘らず、哲学的に厳密な事を言えば、相変わらずこうも言えます。…「現在の自分の心M1にとって、本当に確かなのはM1の存在と状態だけであり、他の心M0、M2、M3、…の存在も、心による認識を離れた物質世界の実在性も、過去や未来の実在性も、実証も反証もできない」。SB理論は、こちらの捉え方をします。

 自分の心M1が、M1=「いかにも心による認識とは無関係に実在していると実感する物質世界に住み、確かに過去や未来が実在すると思い込んでそれを前提として生活をしており、ニュートン力学よりも相対性理論の方が正しいことは十分検証済みだと理解している心」であることは認めます。それでいて、これらの意識内容はあくまでM1の中の観念に過ぎず、相変わらず「M1の独我論・独今論」は実証も反証もできないと考えます。なぜなら全知全能の「神」は、「M1の独我論・独今論」が真である世界と偽である世界の両方を実現している、と考えるからです。

>しかし、この立場にたってもM0は検証も正当性をもって問うことも不可能ではないかと、僕はそういう点を疑っています。

 M0は検証不可能だと思います。でも、理論上はきちんと定義できていて、どういう性質を持つかを推論できるので、考えてみることは無意味ではないと思います。

150横山信幸:2016/08/21(日) 22:15:22
よく分からないので同様の質問を重ねてしまいますが、お許しください。

1.【「僕の眼前にスマホがある」という文の真理値は経験的に確認できる、ところが、「M0がある」の真理値は経験的に確認できない。それゆえ、「M0がある」は、「真理値があり、かつ、恒真でも恒偽でもない」ではない。だから、「真理値があり、かつ、恒真でも恒偽でもない」ことを「有意味」とする意味において、「いま僕の眼前にスマホがある」は「有意味」だけど、「M0がある」は「有意味」ではない、と言える。】
この点は認めてもらえたと考えて良いのでしょうか。お答えのそのあたりがどうも微妙で分からなかったので、教えて下さい。

2.【しかし、普通の日常的な言葉遣いでは、「役に立つこと」や「因果的な影響力があること」などが「有意味」だと言われる。「天国がある」という文はある人の人生を豊かにし、実際に天国を信じているがゆえに善行を為さしめる。そして、その人自身にとっては、天国を信じているから善行を為すのではなく、天国があるから善行をなすのであって、天国が直接善行の原因になっているとも言える。だから、その意味においては、「天国がある」は「真理値があり、かつ、恒真でも恒偽でもない」の意味では「有意味」ではないけど、「役に立つこと」や「因果的な影響力があること」という意味では「有意味」である、と言える。】

>「M0は検証不可能だと思います。でも、理論上はきちんと定義できていて、どういう性質を持つかを推論できるので、考えてみることは無意味ではないと思います。」
と仰るのは、そのような、「役に立つこと」や「因果的な影響力があること」という意味での「有意味」なのでしょうか。それとも、もっと違う意味での有意味なのでしょうか。

151SB:2016/08/23(火) 18:08:04
>>150 横山さんへ

>よく分からないので同様の質問を重ねてしまいますが、お許しください。

 はい、徹底的にどうぞ。納得してもらえるまで、どこまでも説明し続けるつもりです。議論が深まれば深まるほど、こちらも今までに考えていなかった問題に気付き、得るものが多くなりますので、大歓迎です。

>1.【「僕の眼前にスマホがある」という文の真理値は経験的に確認できる、ところが、「M0がある」の真理値は経験的に確認できない。それゆえ、「M0がある」は、「真理値があり、かつ、恒真でも恒偽でもない」ではない。だから、「真理値があり、かつ、恒真でも恒偽でもない」ことを「有意味」とする意味において、「いま僕の眼前にスマホがある」は「有意味」だけど、「M0がある」は「有意味」ではない、と言える。】
>この点は認めてもらえたと考えて良いのでしょうか。お答えのそのあたりがどうも微妙で分からなかったので、教えて下さい。

 現在の自分の心をM1とし、「M1にとって」という視点から見れば、<M1|M0>の値(M1から見たM0の存在確率の平方根)は「0より大、1より小」ですから、「M0は存在する」にも「M0は存在しない」にも確定しておらず、a「M0は存在する」+b「M0は存在しない」(a≠0、b≠0)という重ね合わせのままです。これは言わば「排中律」を捨て、「真」、「偽」、a「真」+b「偽」の3値で、つまり「0」、「1」、「?」の3値で考えることと同じです。だから、真理値は立派に存在すると言えます。

>2.【しかし、普通の日常的な言葉遣いでは、「役に立つこと」や「因果的な影響力があること」などが「有意味」だと言われる。「天国がある」という文はある人の人生を豊かにし、実際に天国を信じているがゆえに善行を為さしめる。そして、その人自身にとっては、天国を信じているから善行を為すのではなく、天国があるから善行をなすのであって、天国が直接善行の原因になっているとも言える。だから、その意味においては、「天国がある」は「真理値があり、かつ、恒真でも恒偽でもない」の意味では「有意味」ではないけど、「役に立つこと」や「因果的な影響力があること」という意味では「有意味」である、と言える。】

 横山さんは、自分が住んでいる世界だけに話を限定されているように感じます。そうでない心も有り得ます。例えば、Ma=「死んでみたら天国が存在し、すでに天国で10年以上生活していると認識している心」、Mb=「死んでみたら天国も地獄も存在しないことを教えられ、慌てて生まれ変わる準備をしていると認識している心」なども、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…の中には含まれるはずです。Maにとって「天国は存在する」は立派に検証済みの経験的事実です。Mbにとっては「天国は存在しない」が検証済みの経験的事実です。横山さんの視点では、真偽を検証できていないので、c「天国は存在する」+d「天国は存在しない」(c≠0、d≠0)という重ね合わせのままです。

152SB:2016/08/23(火) 18:16:30
>>150 横山さんへ

>>「M0は検証不可能だと思います。でも、理論上はきちんと定義できていて、どういう性質を持つかを推論できるので、考えてみることは無意味ではないと思います。」
>と仰るのは、そのような、「役に立つこと」や「因果的な影響力があること」という意味での「有意味」なのでしょうか。それとも、もっと違う意味での有意味なのでしょうか。

 理論上の問題です。

 もし存在するのが、特定の意識(情報)を持つ「色」M1、M2、M3、…だけだとしたら、「なぜ、「特定の意識を持つ状態」だけが存在し、「特定の意識を持たない状態」は存在しないのか?」という謎が生じてしまいます。特定の意識を持たない「空」M0も存在すると考えれば、この謎は消滅します。もちろん「空」M0は完全無意識状態ですから、数の0と同様に「存在する」=「存在しない」(0(無意識)×1(存在する)=0(無意識)×0(存在しない))であり、どちらにも解釈可能という意味になります。

 人間の心のような「色」M1、M2、M3、…は、無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則に縛られています。もし存在するのが「色」M1、M2、M3、…だけだとしたら、「なぜ無矛盾な論理法則・物理法則・心理法則に、「縛られない」ではなく「縛られる」の方だけが実現しているのか?」という謎が生じてしまいます。そこで、「縛られない」の方も実現しており、それが「空」M0なのだと考えれば、この謎も消滅します。

 「世界の初めXは何だったのか?」と尋ねられた時、「それは「空」M0だった」と答えるのが唯一の合理的な答です。こう答えれば、謎は何も残りません。逆にXが、ある○○○に対してすでに「○○○である」または「○○○でない」の片方に確定していたと答えると、「なぜ?」という謎が残り、「そんなの知るもんか。なぜかそうだったからそうなのさ。」としか答えられなくなります。世界の成り立ちを考える時も、「空」M0は絶対に必要な概念です。ビッグ・バン仮説でも、宇宙の初めは「1個の点」だったと言う場合、本当は10^(-43)秒以後の話であり、それ以前は量子力学的不確定性のため何とも言えない状態だった、と言われています。この部分がまさに「空」です。

153横山信幸:2016/08/23(火) 21:10:17
「「論考」で使われている「有意味」の意味ではM0は「有意味」か」という質問に対して、「「論考」とは別の意味で「有意味」だ」というお答え。
「AかnotAか」という質問に「B」と答えられた気がしています。

「「論考」で使われている「有意味」の意味ではM0は「有意味」だと理解していいのか」という質問に答えていただくことは諦めた方が良いですか。

154SB:2016/08/27(土) 07:18:19
>>153 横山さんへ

 「論考」は量子力学以前の古典です。逆に質問します。「論考」の「AかnotAか」という2値論理で、シュレディンガーの猫の「生」と「死」とを重ね合わせにしたx「生」+y「死」(x≠0、y≠0)という状態は「有意味」に記述できるでしょうか?
 もしそれが「有意味」であるなら、M0も同じ意味で「有意味」です。もしそれが「無意味」であるのなら、M0も同じ意味で「無意味」です。量子力学の話をしている時に、なぜ量子力学以前の古典である「論考」の話が出て来るのでしょう?

155横山信幸:2016/08/27(土) 10:35:58
>もしそれが「有意味」であるなら、M0も同じ意味で「有意味」です。

本当にそうでしょうか。「箱の中の猫が生死の重ねあわせ状態にある」というのは有意味だけど、M0は無意味だ、と僕には思われてなりませんので、これについて反論します。(以下、特に指定していなければ「有意味・無意味」は「論考」のそれだと思ってください。)

様々な命題に有意味性の濃淡があったとしてもM0は有意味にならない、ということをしめしたいと思います。
「眼前にスマホがある」という文の真偽をどう確かめるか。見て触れて使ってみてそれがスマホのとしての見た目や重さや触感や機能が有ることを確かめれば良いですよね。経験的データにそれが有れば真であり、なければ偽です。
「1つぶの光子がスクリーンに達するまでにスリットAとBの両方を通過する」という文の真偽は、十分に多数の実験で、1つぶの光子でさえ干渉縞を作る部分に到達しやすいかどうかを確かめる、ということを判断基準にすることができます。実験データが統計的な有意差を示せば真で、示さなかったら偽だという具合です。

実験でそのような干渉作用が観察できれば、電子の位置や運動量が重ね合わせ状態であることや、原子の分裂が重ね合わせ状態であることなども有意味に言えることになると思います。また、実際にはそのような実験データが得られていなくっても、どのような状況下でどのように調べられたらそれを真とできるか偽とできるかが決められるのなら、その文は有意味でしょうし、決められなかったら無意味だと言えると思います。

原子分裂に関して、量子論はどのような根拠をもって、未観察の原子が重ねあわせ状態であるとしているのかよく知りませんので、「シュレディンガーの猫の生死が重ねあわせである」という文が件の意味で有意味と言えるのかどうかは、僕には分かりません。でも、それが何らかの経験を根拠に真偽を確かめかれる可能性があるのなら、有意味だと言えるということは言えます。

しかし、M0は「あらゆる二項対立の重ねあわせ」をうたっているでしょう。その「あらゆる」ってものを相手にしたところで他の物理仮説との絶対的な断絶があって、原理的に確かめようの無いものになってしまったのではないか、と疑っているわけです。

いかがでしょうか。「論考」で使われている「有意味」の意味でM0は「無意味」だと理解していいでしょうか。

156SB:2016/08/31(水) 19:47:23
>>155 横山さんへ

>原子分裂に関して、量子論はどのような根拠をもって、未観察の原子が重ねあわせ状態であるとしているのかよく知りませんので、「シュレディンガーの猫の生死が重ねあわせである」という文が件の意味で有意味と言えるのかどうかは、僕には分かりません。でも、それが何らかの経験を根拠に真偽を確かめかれる可能性があるのなら、有意味だと言えるということは言えます。

 もし「有意味」であるのなら、「0」=「生に確定している状態」と「1」=「死に確定している状態」との重ね合わせ「?」=「0」+「1」という状態を記述できることになります。それに、個々の心が持つ情報をMi=「01?1?0??10…」のように表せるという定式を認めるなら、M0はすべてのビットが「?」になったM0=「??????????…」であると、きちんと記号で定義もできます。M0は直接体験はできないけれど、Miの持つ情報がすべて消滅している状態であるとして、理論上は定式できる訳です。定義さえできないというのなら「無意味」でしょうが、きちんと定義できている以上、立派に「有意味」だと考えます。

>しかし、M0は「あらゆる二項対立の重ねあわせ」をうたっているでしょう。その「あらゆる」ってものを相手にしたところで他の物理仮説との絶対的な断絶があって、原理的に確かめようの無いものになってしまったのではないか、と疑っているわけです。

 理論上の話なので、確かめる必要は特に無いのではないでしょうか。前にも説明したように、ビッグ・バンは誰も体験していないし、確かめることもできませんが、理論上合理的なモデルを構成できるので、十分「有意味」であると思います。

157横山信幸:2016/08/31(水) 20:55:28
>定義さえできないというのなら「無意味」でしょうが

ここで使用しているかっこ付きの「有意味・無意味」はそのような、定義できれば有意味になるという意味ではないことは、SBさんならご理解していただけると思っていましたが、僕の表現力では分かってもらうことは難しいようです。
「1+1=2」は定義できますが、ここでいう「有意味・無意味」では、「無意味」です。

158横山信幸:2016/08/31(水) 21:55:26
問いかたを変えますね。

問い)「全知全能の「神」があらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」とするような言語設定をするならば、「全知全能の「神」は、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験し、あらゆる○○○に対し、「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方を実現する」という命題は、実在世界がいかなるものであっても真だ、というだけでなく、可能世界がいかなるものであっても真だ言える、と考えて良いですね。

159SB:2016/09/04(日) 21:20:02
>>158 横山さんへ

>問い)「全知全能の「神」があらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方を実現している」とするような言語設定をするならば、「全知全能の「神」は、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験し、あらゆる○○○に対し、「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方を実現する」という命題は、実在世界がいかなるものであっても真だ、というだけでなく、可能世界がいかなるものであっても真だ言える、と考えて良いですね。

 「実在世界」とか「可能世界」というのは、何を指しているのでしょうか? 「心」=「世界」なのだから、「全知全能の「神」は、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験し、あらゆる○○○に対し、「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方を実現する」だけで十分であり、それが「実在世界」や「可能世界」の中で真、という意味が解りません。

160横山信幸:2016/09/04(日) 21:56:03
「「全知全能の「神」は、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験し、あらゆる○○○に対し、「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方を実現する」
という命題Sについて、
あり得るすべての可能性としての【「心」=「世界」】において、命題Sは必ず真になりますか。
ということです。

161横山信幸:2016/09/04(日) 22:22:14
でも、この話は全然前に進めませんね。まだ、質問したい論点は有るのですが、そちらに移りましょうか。それとも、この議論自体もこの辺で終わりにしましょうか。

162SB:2016/09/06(火) 18:12:41
>>160 横山さんへ

>「「全知全能の「神」は、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験し、あらゆる○○○に対し、「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方を実現する」という命題Sについて、
>あり得るすべての可能性としての【「心」=「世界」】において、命題Sは必ず真になりますか。
>ということです。

 なるほど、意味が解りました。どの心Mi(i=0、1、2、3、…)にとっても、任意の心Mj(j=0、1、2、3、…)の存在確率は<Mi|Mj>^2で与えられます(i=jの場合も、i≠jの場合も)。a=<Mi|Mj>とおくと、MiにとってMjは、確率a^2で「存在する」、確率b^2=1-a^2で「存在しない」です。つまり、MiにとってMjは、a「存在する」+b「存在しない」になります。「Miにとって命題「Mjは存在する」の真偽は?」と尋ねられたなら、a「真」+b「偽」です。

 つまり、個々のMi(i=0、1、2、3、…)にとって命題Sは、必ずしも真とは言えません。個々のMi(i=0、1、2、3、…)にとって命題「Mjは存在する」の真偽は、個々のMj(j=0、1、2、3、…)について異なり、a「真」+b「偽」、ただし、a=<Mi|Mj>、b^2=1-a^2、と答えることになります。

>>161 横山さんへ

>でも、この話は全然前に進めませんね。まだ、質問したい論点は有るのですが、そちらに移りましょうか。それとも、この議論自体もこの辺で終わりにしましょうか。

 こちらは大いに楽しめていますけど、続けるかどうかは横山さんの判断にお任せします。鋭い質問なので、速答できず、考え込んでいるのですよ。

163横山信幸:2016/09/06(火) 19:14:46
僕の質問のしかたがダメなのでしょう。残念ながら質問の意味が通じていないかもしれません。僕が知りたいことは答えてもらえていません。真偽を求めたい対象は命題Sだったはずですが、SBさんの回答では違うものの真偽を検討されてしまっているように思います。

ずうーっと前からひたすら同じ質問をしているのですが、再度、問いかたを変えて同じ質問をします。

問い、【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】という命題は状況によって、真になったり偽になったりしますか。

これで、通じるでしょうか。この質問はもう諦めた方が良いかもしれませんね。

164SB:2016/09/08(木) 18:12:40
>>163 横山さんへ

>問い、【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】という命題は状況によって、真になったり偽になったりしますか。

 これなら解るような気がします。個々の「色」M1、M2、M3、…は無矛盾な論理法則に縛られているので、これらの視点に立っているとき、上の命題は「真」に確定しています。

 「空」M0の視点に立てば、完全矛盾状態なので、上の命題は「真」になったり「偽」になったりします。「□□□」=「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している」とおいた時も、「□□□である」と「□□□でない」の両方が成立しているので、「□□□である」ならば上の命題は「真」、「□□□でない」ならば上の命題は「偽」になります。そして「偽」になったとき、「空」M0はもはや「空」M0ではなくなり、「色」M1、M2、M3、…に化けることになます。

165横山信幸:2016/09/08(木) 20:35:14
難しくて分からないのですが、

>「□□□である」ならば上の命題は「真」、「□□□でない」ならば上の命題は「偽」になります。

と仰るのは、世界の状況として「□□□である」というときと、「□□□でない」というときがあるということですか。

166横山信幸:2016/09/08(木) 20:45:59
それとも、その真偽は世界の状況によって変わるのではなく、言葉の設定を「□□□である」とするときと「□□□でない」とするときがあるから変わるということですか。

167SB:2016/09/12(月) 03:58:11
>>165>>166 横山さんへ

>>「□□□である」ならば上の命題は「真」、「□□□でない」ならば上の命題は「偽」になります。
>と仰るのは、世界の状況として「□□□である」というときと、「□□□でない」というときがあるということですか。
>それとも、その真偽は世界の状況によって変わるのではなく、言葉の設定を「□□□である」とするときと「□□□でない」とするときがあるから変わるということですか。

 「空」M0は、確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たす、という意味です。両者は排他的とは言えないので、PとQの和は1とは限りません。M0の視点に立っている時、M0の視点に立っている確率は<M0|M0>^2=1であると同時に、確率<M0|M1>^2≠0でM1の視点にも立ち、確率<M0|M2>^2≠0でM2の視点にも立ち、確率<M0|M3>^2≠0でM3の視点にも立ち、…が言えます。つまり、M0の視点に立つと、自ずとM1、M2、M3、…の視点にも0でない確率で立つことになります。これがM0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕です。

168横山信幸:2016/09/12(月) 14:10:52
同様の質問が続いてしまいますが、僕の知りたい焦点ですので、同様の質問にならざるを得ません。お許しください。


>「空」M0は、確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たす、という意味です

と仰るのは、【世界の状況として】『確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たしている」ということが分かるのですか。

それとも、その真偽は世界の状況によって変わるのではなく、【言葉の意味の設定として】『確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たす」とすることができるということですか。

169SB:2016/09/15(木) 05:15:07
>>168 横山さんへ

>>「空」M0は、確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たす、という意味です
>と仰るのは、【世界の状況として】『確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たしている」ということが分かるのですか。
>それとも、その真偽は世界の状況によって変わるのではなく、【言葉の意味の設定として】『確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たす」とすることができるということですか。

 どちらと答えて良いのかはっきり判りませんが、「空」M0の定義だということですね。それを経験できて分かるという意味ではありません。後者の方が近いかも?

170横山信幸:2016/09/15(木) 07:49:48
膠着しかけていた議論が少し動きましたかね。

>>169ということは、
問い1) >>163の質問に対する答えについても、
「【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】という命題は、世界の状況によって真になったり偽になったりするものではなく、言葉の設定として常に決定したものとして定義される」となると考えて良いですか。

また、
問い2)「【言葉の意味の設定として】『確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たす」とすることができる」というものが定義なのでしたら、
「(1)PQの値が定義者の匙加減によって決定される」とするか、「(2)PQの値は誰も知ることができない」とするか、ということも結局は定義者の匙加減によって決められる、けれども「(3)PQの値が実験の測定結果によって決定される」とすることはできない、と理解して良いですか。

そして、
問い3)「【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】という命題の正しさは、測定や経験を根拠にして語られることはあり得ないですね。
つまり、たとえば、加減算を許す数体系は、定義のみによってその体系が保証されます。このとき、質量保存則や力の合成分解則がその数体系と適合しているということはできますが、実験によって質量保存則や力の合成分解則の間違いが発見されたとしてもそれは質量保存則や力の合成分解則が間違っていたと言われるだけで、加減算を許す数体系が間違っていたとは結論付けられることはありません。
そのような意味で、「【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】という命題が定義として正しいとされるのであれば、その正しさは世界に対する測定や経験を根拠にして語られることはあり得ない、と考えて良いですか。

171SB:2016/09/17(土) 20:17:06
>>170 横山さんへ

>問い1)>>163の質問に対する答えについても、
>「【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】という命題は、世界の状況によって真になったり偽になったりするものではなく、言葉の設定として常に決定したものとして定義される」となると考えて良いですか。

 いや、世界の状況によって変わります。上の命題は、無矛盾な「色」の視点に立っているときは「真」に確定していますが、有矛盾な「空」の視点に立つと真になったり偽になったりします。

 まず、我々人間の心は「色」に属し、無矛盾な論理法則に縛られています。「□□□」=「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している」とおくと、「□□□である」と「□□□でない」とは、はっきり区別され、同時に成立することは有りません。「□□□である」を満たしているのが「空」M0です。「□□□でない」を満たしているのが「色」M1、M2、M3、…です。つまり、「色」の視点に立てば、「「空」M0は□□□である」は真に確定しており、「「空」M0は□□□でない」は偽に確定しています。

 一方「空」は矛盾が生じた世界ですから、あらゆる命題の肯定も否定も証明されてしまいます。つまり、「「空」M0は□□□である」も真と偽の両方になり得るし、「「空」M0は□□□でない」も真と偽の両方になり得ます。「「空」M0は□□□である」は「「空」M0は「空」M0である」を意味し、「「空」M0は□□□でない」は「「空」M0は「色」M1、M2、M3、…である」を意味します。つまり「空」M0の視点に立つと、自分は「空」M0であるとともに「空」M0でないし、「色」M1、M2、M3、…であるとともに「色」M1、M2、M3、…でない、です。

>問い2)「【言葉の意味の設定として】『確率P(≠0)で「□□□である」を満たし、かつ、確率Q(≠0)で「□□□でない」も満たす」とすることができる」というものが定義なのでしたら、
>「(1)PQの値が定義者の匙加減によって決定される」とするか、「(2)PQの値は誰も知ることができない」とするか、ということも結局は定義者の匙加減によって決められる、けれども「(3)PQの値が実験の測定結果によって決定される」とすることはできない、と理解して良いですか。

 PとQの値は、M0とM1、M2、M3、…の状態が定まれば、理論的に確定します。例えば3ビットの心の場合、M0=「???」であり、M1=「?1?」だったら<M0|M1>=1/√2だし、M2=「10?」だったら<M0|M2>=1/√4だし、M3=「001」だったら<M0|M3>=1/√8です。Miがnビットの情報を持つ心ならば、<M0|Mi>=(1/√2)^nになります。
 M0の視点に立つことは、確率<M0|M0>^2=1でM0の視点に立つと同時に、確率<M0|M1>^2=1/2でM1の視点にも立ち、確率<M0|M2>^2=1/4でM2の視点にも立ち、確率<M0|M3>^2=1/8でM3の視点にも立ち、…を意味します。

>問い3)「【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】という命題の正しさは、測定や経験を根拠にして語られることはあり得ないですね。

 これはその通りだと思います。あくまで理論上の話になります。

172横山信幸:2016/09/18(日) 00:03:07
>>問い3)「【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】という命題の正しさは、測定や経験を根拠にして語られることはあり得ないですね。>これはその通りだと思います。あくまで理論上の話になります。

僕が疑っているのは、【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】が、ポパーの言う反証可能性を持たない「疑似科学」に相当するものではないかということです。この点、確認できたと思って良いですか。

173SB:2016/09/18(日) 01:52:28
>>172 横山さんへ

>僕が疑っているのは、【「空」M0が住む世界は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方が成立している】が、ポパーの言う反証可能性を持たない「疑似科学」に相当するものではないかということです。この点、確認できたと思って良いですか。

 「SB量子神学」自体がトートロジーなので、もちろん反証可能性は有りませんし、証明の必要も無く、恒真です。

174SB:2016/09/18(日) 05:19:33
>> 横山さんへ

 まず〔α〕=「世界の初めは「空」M0である」ですが、これは証明不要です。そもそも証明というのは、ある○○○について「○○○である」と「○○○でない」とを分別し、「「○○○である」が真であり「○○○でない」は偽である」というふうに真理を限定する場合に必要なものです。ところが「空」M0は、あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方なので、〔α〕は真理の限定を、つまり「仮定」を、何一つ含んでいません。だから〔α〕は証明不要のまま恒真です。

 いや、「空」M0は、「□□□」=「あらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の両方」だと主張しているのだから、「□□□である」と「□□□でない」とに分別し、「「□□□である」が真であり「□□□でない」は偽である」と真理を限定しているではないか?、という反論が考えられますが、これも違います。「空」M0の中では矛盾が生じており、「□□□である」と「□□□でない」の両方が起きています。だから、ここにも真理の限定は有りません。「空」M0は、「□□□である」のとき「空」M0のままですが、「□□□でない」のとき「色」M1、M2、M3、…に化けます。

 そこで次に〔β〕=「「空」M0は存在し得るすべての「色」M1、M2、M3、…に化ける」ですが、これもまた、真理の限定を含んでいません。「化ける」というのは確率的なものであり、本当は確率P(≠0)で「化けない」と確率Q(≠0)で「化ける」の両方を実現しているからです。「化ける」でもあり「化けない」でもあるのです。片方でもあり、両方でもあります。「「化ける」が真であり「化けない」は偽である」とか「「化ける」が偽であり「化けない」は真である」といった真理の限定が何も含まれていないので、〔β〕は証明不要のまま恒真です。

 〔α〕と〔β〕とを併せると、〔ω〕=「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…が「半存在」し、e「存在する」+f「存在しない」(0≦e≦1、0≦f≦1)である」と表現できます。これもまた、個々の心M0、M1、M2、M3、…が「存在する」のか「存在しない」のかについて、すべての可能性を網羅しており、真理の限定を何一つ含んでいません。つまり〔ω〕は、偽になることは有り得ないという意味で恒真です。M0、M1、M2、M3、…の中には、あらゆる○○○について「○○○である」と認識する心と「○○○でない」と認識する心の両方が含まれます。そして、「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」と認識する、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」と認識する、が成立しているだけです。これもまたダブル・トートロジーに過ぎないので、証明の必要はなく恒真です。

→ttp://mb2.jp/_tetsugaku/824.html-650,651,652,653,654,662,663,664

175横山信幸:2016/09/18(日) 08:09:28
>「SB量子神学」自体がトートロジーなので、もちろん反証可能性は有りませんし、証明の必要も無く、恒真です。

すでに言いましたが、「1+1=2」は証明の必要はなく恒真です。だからこそ、それは反証可能性がなく、「科学法則」ではあり得ません。同様に「SB量子神学」も科学法則ではないことを確認してよろしいですか。

176SB:2016/09/18(日) 11:16:26
>>175 横山さんへ

>すでに言いましたが、「1+1=2」は証明の必要はなく恒真です。だからこそ、それは反証可能性がなく、「科学法則」ではあり得ません。同様に「SB量子神学」も科学法則ではないことを確認してよろしいですか。

 「科学法則」という言葉をそのように定義するのなら、つまり、実験・観察によってはじめて真偽が判断され、偽になる可能性が必ず有るものを「科学法則」と呼ぶ、と定義するのなら、「SB量子神学」は「科学法則」ではないと思います。
 しかし、実験・観察によって真偽を判断する経験科学以外にも、理論科学と呼ばれる分野が有ります。例えば、ニュートン力学からケプラーの3法則が導けます。ニュートン力学さえ正しいと前提すれば、ケプラーの3法則が正しいのは当たり前なので、ケプラーの3法則に反証可能性など有り得ませんが、これも立派に「法則」と呼ばれます。「科学法則」の定義も、多義的なのではないでしょうか。

177横山信幸:2016/09/18(日) 12:02:27
ニュートン力学が正しいことを前提すればケプラー第三法則は必須でしょう。仮に、そのような絶対に真なる体系を作るならば、実験観察の結果と照合するとした場合に、実験結果がどうであろうと「ケプラー第三法則は正しい」と決めつけられるような言語設定を設定をすることは可能なのかもしれません。
しかし、ふつうは、そんなものはケプラー第三法則とは言いません。

けれ

178横山信幸:2016/09/18(日) 12:06:01
そんな言語設定において「ケプラー第三法則」が示す天体の運動予測は現実を示すものにはなり得ず、それゆえ、それは、天体の運動を何一つ語らないものでしかないからです。

179横山信幸:2016/09/18(日) 12:48:59
F=maであろうとそれが恒真だと決めつけてしまって、実験結果がどうであろうとそれを真だとするのであれば、それは現実の物理事象の像ではあり得ないものでしかなく、それは「疑似科学」でしかないものでしょう。F=maでさえ反証可能性がなければ、それは科学法則ではないはずです。そのような意味で、同様に「SB量子神学」も科学法則ではないことを確認できると思ったのですが、よろしいですか。


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