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織田と豊臣の戦について

1名無しさん:2014/06/13(金) 13:05:17 ID:hQJSA5zk
>>秀吉は平地で行われる野戦では常に相手より多い兵力を持って勝利

・熊見川合戦→単なる上月城の防衛戦にもかかわらず大友や宇喜多に負けてばかりの雑魚毛利軍相手に3000人戦死の大敗
・美作攻防戦→宇喜多と連携しての攻防で捕井田清に見事駆逐される
・馬野山の対陣→わずか6000の吉川元春にビビッてへたれ退却する
・鴨城攻防戦→毛利方の冷泉に敗北し、備中から備前まで一挙に敗走する
・山崎の合戦→ 兵力比2.5倍で光秀方は山崎を捨てる形での不利な布陣を強いていたにもかかわらず
被害は秀吉軍のが多い秀吉の戦べたが露見した戦(ランチェスターの法則でいえば兵力差2.6倍なら被害差は6.25倍じゃないとおかしい)
・しずヶ岳の合戦→ 勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけのただの防衛戦。
秀吉方は長大な塹壕を築き、柴田方は6分の1の寡兵で秀吉方塹壕を破壊し押しまくる。秀吉と兄弟の契り結ぶ程関係が親密だった中川清秀戦死。
秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら 逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末
不和や前田などが撤退した棚ぼたにたまたま秀吉は救われる。
二重堀合戦→わずか1000そこそこで奇襲しにきた信雄に大敗し、二重堀から敗走、伊勢や退却する。

>>三倍の兵力を持ちながら家康に敗れた経歴

小牧長久手の合戦は雑魚信雄と秀吉の主力決戦だが
信雄方は3月に尾張美濃伊勢伊賀信濃と離反連鎖で崩壊状態で家康と合計しても16000〜7000前後しか動員できてない。
それに対して秀吉方は領内の兵力総動員して135000の大軍(3月下旬に尾張へ転進したのは100000だが、そのあと到着した秀長24000と美濃の秀勝勢らがいる)

>>その城攻めの巧妙さは誰もが認めるところ。


・三好長慶などが瞬殺した平城の三木城に信忠らの援軍支援を何回か得た状況で2年近くもたつき、その間に谷ら重臣を失う
・毛利の支援なし・信忠らの支援受けまくりの状態で播磨攻略に2年以上費やしてる。
・吉川や尼子残党軍などが3回くらい瞬殺した鳥取城(城内は兵糧欠乏状態)で4ヶ月もたつく
・備中鴨城・冠山城攻防戦で、毛利方の補井田・冷泉に撃退される
・わずか1000貫そこそこの雑魚松ノ木城の吉村や、同じく1000貫前後の東駒野の高木に撃退される
・自身が縄張り熟知している河波城も攻略失敗する。
・300しか城兵がいない戸木城で撃退される。
・小田原合戦で、わずか1000そこそこしかいない小田原城に手も足も出ず
忍城では石田の進言無視して水攻めに及び、見事に失敗する。
・わずか500程度の韮山城でも苦戦しまくる。
・総勢34500で、和戦で割れており、寝返りをボロボロ出してた結束力0の北条に対し、
240000の大軍で攻め込み、一柳・堀尾嫡男・前田重臣平岩弟・依田を戦死させ、氏家行継を負傷させる。

2名無しさん:2014/06/13(金) 13:05:41 ID:hQJSA5zk
>>ちなみに妙に評価の低い信長や 秀吉の野戦能力についてフォローをしておけば、

なぜフォローする必要があるのか意味不明

>>彼らが直接指揮した戦闘は九割近くが勝利


基本的に信長や秀吉は戦えば必ず家臣を殺されまくったり、1000貫そこそこの雑魚領主に苦戦するゴミのような指揮采配能力なので
毎回圧倒的大軍で敵の反抗を諦めさせてるだけ。位攻めというのは敵の反抗を諦めさせる規格外の大軍と、
敵の諸城の周辺に完全な攻囲のための砦や根城などを築く技術と、長期戦に耐えうる物資さえあれば誰でも可能で
最も指揮能力や采配能力が問われない楽な戦いだからね。でもそんな超絶ヌルゲーですら秀吉は失敗して家臣を多く殺されたりしてる。

例えば小田原合戦の時も享禄以来年代記によれば29万、那須記や榊原書状によれば50万といわれる圧倒的な大軍だった。

しかしわずか34500しかいない北条とまともに戦いだすと半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
秀吉軍は兵站ギリギリのところまで追い込まれてたのは事実
これはフロイスの日本史に書いてある。
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない



指揮能力や采配能力が劣っていようが数でごり押しすれば勝てるのが戦
秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったので
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ

兵を率いる武将の指揮能力や采配能力が欠如してるのが信長秀吉を初めとする織田軍の特徴
基本的に織田軍は、攻城能力が低すぎるから苦戦しただけ。
三木城にも2年、鳥取城には4ヶ月
岐阜城にも8年、岩村城にも半年かかっても自力では落せず。
大河内城戦では配下を殺されまくる。
伊勢長島侵攻戦では、餓死寸前の一揆勢数百を数万の大軍で騙し討ちにして一門10人以上殺されてる。
滋賀の陣前後でも、織田方は城攻めや城の防衛で森や坂井親子や織田信治・青地を初め、大量の家臣を殺されてるし。

織田ってのは戦下手な部将の集合体だったから
それを資金活用した土木工事とか塹壕をほっての築城とか技術と
長期戦に耐えられる物量の調達でうまくカバーしようとする集団だった。
これならいくら戦べたな連中でも、敵の周辺を砦や根城の築城により
補給を断ち、兵糧攻めなどにすれば、そうそう負けないし。

3名無しさん:2014/06/13(金) 13:06:00 ID:hQJSA5zk
>>敗北は彼らが戦場にいない時が多いという、

むしろ逆で彼らが戦場にいないときの方が強いのが織田軍や豊臣軍。
例えば美濃攻めや長島攻め、浅井・朝倉あたりとの攻防は信長が指揮を取ったため散々だったが信長があまり指揮を執らなくなる
天正あたりから織田の戦は大分苦戦が減っていく
豊臣の場合でも九州征伐四国征伐朝鮮出兵など秀吉が指揮を執らない戦はまずますだったが
天正12年の信雄との攻防主力決戦・毛利との攻防の熊見川合戦・鴨城攻防戦・美作攻防戦・馬野山対陣・小田原合戦の山中・韮山・小田原・忍城攻防戦
山崎合戦・滝川攻略戦・しずヶ岳など秀吉が命令直接出して指揮を執ると馬鹿みたいに苦戦が多くなり、戦死者だらけになるというのが織田豊臣軍の特徴
家臣はまずまずの能力があったが、大将の指揮能力や采配能力が欠如しすぎているので、苦戦が増えるのは当たり前。

>> 大勢力の長であり全てを自分で指揮できないという事情

その通り。信長や秀吉が直接指揮を執ると大変弱いので、家臣に委任したりする事が時々あったが、そういうときは中々強かったのが織田豊臣軍

>>ヨーロッパの大英雄であるナポレオンも同様の傾向があり、彼も部下の敗北を考えないと生涯勝率はかなり高いです。

ナポレオンみたいな天才と信長秀吉みたいな棚ボタ過大武将を比較するのはあまりに失礼。
また、ナポレオンの方が管轄・支配範囲が比較にならないほど広いので、到底日本のショボイ国土の戦争と一緒くたにはできない。


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