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織田と豊臣の戦について
2
:
名無しさん
:2014/06/13(金) 13:05:41 ID:hQJSA5zk
>>ちなみに妙に評価の低い信長や 秀吉の野戦能力についてフォローをしておけば、
なぜフォローする必要があるのか意味不明
>>彼らが直接指揮した戦闘は九割近くが勝利
基本的に信長や秀吉は戦えば必ず家臣を殺されまくったり、1000貫そこそこの雑魚領主に苦戦するゴミのような指揮采配能力なので
毎回圧倒的大軍で敵の反抗を諦めさせてるだけ。位攻めというのは敵の反抗を諦めさせる規格外の大軍と、
敵の諸城の周辺に完全な攻囲のための砦や根城などを築く技術と、長期戦に耐えうる物資さえあれば誰でも可能で
最も指揮能力や采配能力が問われない楽な戦いだからね。でもそんな超絶ヌルゲーですら秀吉は失敗して家臣を多く殺されたりしてる。
例えば小田原合戦の時も享禄以来年代記によれば29万、那須記や榊原書状によれば50万といわれる圧倒的な大軍だった。
しかしわずか34500しかいない北条とまともに戦いだすと半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
秀吉軍は兵站ギリギリのところまで追い込まれてたのは事実
これはフロイスの日本史に書いてある。
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
指揮能力や采配能力が劣っていようが数でごり押しすれば勝てるのが戦
秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったので
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ
兵を率いる武将の指揮能力や采配能力が欠如してるのが信長秀吉を初めとする織田軍の特徴
基本的に織田軍は、攻城能力が低すぎるから苦戦しただけ。
三木城にも2年、鳥取城には4ヶ月
岐阜城にも8年、岩村城にも半年かかっても自力では落せず。
大河内城戦では配下を殺されまくる。
伊勢長島侵攻戦では、餓死寸前の一揆勢数百を数万の大軍で騙し討ちにして一門10人以上殺されてる。
滋賀の陣前後でも、織田方は城攻めや城の防衛で森や坂井親子や織田信治・青地を初め、大量の家臣を殺されてるし。
織田ってのは戦下手な部将の集合体だったから
それを資金活用した土木工事とか塹壕をほっての築城とか技術と
長期戦に耐えられる物量の調達でうまくカバーしようとする集団だった。
これならいくら戦べたな連中でも、敵の周辺を砦や根城の築城により
補給を断ち、兵糧攻めなどにすれば、そうそう負けないし。
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